大阪 近鉄 バファローズ
Osaka Kintetsu Buffaloes | |
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1949 | |
2004 | |
ロゴデザイン | |
パシフィック・リーグ | |
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36,477 | |
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概要 [編集 ]
フランチャイズ
1999
2004
オリックスの
1944
球団 の歴史 [編集 ]
近鉄 パールス時代 [編集 ]
- 1949
年 近畿日本鉄道 をスポンサーとする近鉄 パールス(設立 時 は近鉄 本社 、後 にグループ会社 の近鉄 野球 株式会社 (初代 、のちの近鉄 興業 株式会社 [2])が経営 を担当 。移管 時期 は不明 )が佐伯 勇 の鶴 の一声 で結成 。「パール(真珠 )」は賞金 5万 円 の公募 によって決 められ、近鉄 沿線 の伊勢 志摩 地方 で真珠 養殖 が盛 んなこともあって命名 された[3]。近鉄 にとっては、南海 鉄道 合併 当時 の1944年 - 1947年 (近畿 日本 軍 → グレートリング、現 :福岡 ソフトバンクホークス)以来 の球団 運営 である[4]。近鉄 は大阪 電気 軌道 (大 軌)時代 よりラグビー部 (現 :花園 近鉄 ライナーズ)を有 していたが、後 の佐伯 の述懐 によれば「ラグビーでは儲 からないから」と当時 隆盛 を極 めていた野球 経営 に食指 を動 かしたという。11月26日 に発足 した太平洋 野球 連盟 (パシフィック・リーグ)に加盟 し、12月1日 をもって正式 に球団 創設 となった。2リーグ制 構想 を最初 に打 ち出 した正力 松太郎 は、大阪 地区 で4チームが同一 のリーグに入 ることは好 ましくないと考 え、片方 のリーグに近鉄 と阪神 、もう一 つのリーグに阪急 と南海 を入 れる考 えを持 っていたといわれる[5]。しかし、毎日新聞 側 で電鉄 系 球団 が結束 した後 に阪神 が離脱 するという経過 により、この正力 の考 えは実現 しなかった(経過 についてはプロ野球 再編 問題 (1949年 )を参照 )。加盟 申請 は早 かったものの、チーム編成 が遅 れたため、他 球団 と未 契約 の東京 六 大学 出身 者 (監督 藤田 省三 始 め、関根 潤 三 など法政大学 勢 が多 かったため、チーム内 に近鉄 法 友 会 という懇親 組織 が存在 した)を中心 に編成 したが、プロ野球 経験 者 は黒尾 重明 (東急 フライヤーズ)、森下 重好 、田川 豊 (いずれも太陽 ロビンス)ら数 えるほどで、選手 層 が薄 く、設立 より4年 連続 最下位 となる。- 1950
年 開幕 直前 に藤田 省三 が高熱 でダウン、藤田 は球場 には来 たが加藤 春雄 が実質 指揮 を取 る中 で3月 12日 、藤井寺 球場 での対 毎日 オリオンズ戦 が球団 としての初 めての公式 戦 となるが、初回 四 番 森下 重好 のタイムリーで先制 するものの、失策 で自滅 し、2対 6で敗戦 [6]。翌 13日 の対 南海 ホークス戦 で沢藤 光郎 が粘 投 し、4対 3でチーム初 勝利 を収 める。チームは連敗 、連勝 、連敗 を続 け、この年 は森下 が30本塁打 、沢藤 が18勝 を挙 げる活躍 を見 せるが、最終 的 には首位 の毎日 から37.5ゲーム離 された最下位 に終 わる。投打 共 に駒 不足 を露呈 した[4]。球団 本社 からの強化 費用 が予想 以上 に出 ず、新人 2選手 が加入 しただけで終 わる[4](その2選手 も翌年 には退団 )[6]。- 1951
年 - この
年 もシーズン終盤 まで低迷 、9月に14勝 8敗 1分 と追 い上 げるも6位 の東急 と0.5ゲーム差 で2年 連続 最下位 に終 わる。この年 のオフ、大下 弘 の獲得 に乗 り出 すが失敗 に終 わる。 - 1952
年 - 5月から6
月 にかけて13連敗 を喫 し、シーズン通 して首位 の南海 に4勝 14敗 、2位 の毎日 には3勝 15敗 と大 きく負 け越 し、最終 的 に30勝 78敗 、3割 に満 たない勝率 [7]で3年 連続 最下位 に終 わる[8]。シーズン終了 後 、藤田 省三 が監督 を辞任 し、芥田 武夫 が就任 。小玉 明利 、鈴木 武 ら後 に中心 となる新人 補強 に加 え[4]、独特 の練習 スタイルで結果 を出 す[4]。 - 1953
年 開幕 直後 には9連勝 するなど、5月8日 に一時期 ながら首位 に立 つ[4]が、夏場 以降 は失速 し、首位 南海 と22ゲーム差 の最下位 となる。勝率 は初 めて4割 を超 える[4]。- 1954
年 - 8
月 7日 に新人 の山下 登 が対 高橋 ユニオンズ戦 で球団 史上 初 のノーヒットノーランを達成 している。74勝 63敗 5分 で、創立 以来 初 となる最下位 脱出 の4位 、勝率 5割 を越 えてのAクラスとなった。近鉄 選手 初 のタイトルとして田中 文雄 が最多 勝 、鈴木 武 が盗塁 王 を獲得 しており[9]、チーム盗塁 数 223は当時 の日本 プロ野球 歴代 5位 であった[10]。 - 1955
年 序盤 から投手 陣 が大 不振 [11]。6月19日 には武智 文雄 (田中 から改姓 )が対 大映 スターズ戦 (大阪 )でパ・リーグ初 となる完全 試合 を達成 する。この年 連敗 することが多 く、60勝 80敗 2分 の5位 に終 わる[4]。- 1956
年 - 4
月 後半 の10連勝 で勢 いをつけたが[4]、終盤 に失速 し5位 [4]。この頃 は万 年 最下位 とは呼 ばれなくなったが、優勝 争 いをしている西鉄 、南海 とは地力 の差 があった[11]。 - 1957
年 - この
年 パ・リーグは高橋 ユニオンズと大映 スターズが合併 したことで8球団 から7球団 となり、日程 が組 みにくくなったことから最下位 の球団 は消滅 させようという動 きがあり、関根 潤 三 は「大映 オーナーの永田 雅一 による近鉄 潰 しだ」と述 べている[9]。6月22日 、芥田 がシーズン途中 で休養 。加藤 春雄 が代行 を務 めるが8月 を終 わっても最下位 で、消滅 の危機 となったが、最終 的 には6位 に終 わっている[注 6]。加藤 春雄 はオフに監督 就任 [注 7]。 - 1958
年 開幕 から不振 が続 き、6戦 目 で最下位 になると、そのまま浮上 することなく、首位 の西鉄 に3勝 22敗 1分 、2位 南海 に4勝 22敗 1分 と大 きく負 け越 し、この年 の近鉄 のシーズン29勝 は最多 勝 投手 の稲尾 和久 の33勝 を下回 り[12]、球団 史上 最低 記録 となる勝率 .238でシーズンを終 える[4]。シーズン終了 後 、加藤 が監督 辞任 、現役 時代 「猛 牛 」と呼 ばれた千葉 茂 を監督 に招聘 し、チーム名 を近鉄 バファローに改名 [注 8]。岡本 太郎 による球団 マーク(通称 、猛 牛 マーク)が制作 される。なお、同年 はパ・リーグの他 球団 から名古屋 への進出 を持 ちかけられたがこれを拒否 している[14]。
近鉄 バファロー時代 [編集 ]
- 1959
年 - 5月に
最下位 になるとそのまま浮上 できずにシーズンを終 える。チーム39勝 は、最多 勝 の南海 の杉浦 忠 の38勝 より1勝 多 いだけであった[15]。前年 と合 わせ8人 の選手 が読売 ジャイアンツから移籍 するなど、チームの大幅 な入 れ替 えを図 る。なおシーズン途中 の6月 20日 に千葉 茂 が途中 休養 、代行 監督 に林 義一 が就任 するが、オフに千葉 が監督 復帰 する。 - 1960
年 - 43
勝 87敗 1分 で首位 の大毎 と39ゲーム差 の最下位 。 - 1961
年 日本 プロ野球 シーズン最多 記録 となる103敗 を記録 。首位 南海 とは51.5、5位 阪急 とも18.5ゲーム差 をつけられ、チームの勝 ち星 は1958年 に続 き、稲尾 和久 の42勝 に届 かぬ36勝 に終 わった[16]。新人 の徳久 利明 が15勝 を挙 げ[注 9]球団 初 の新人 王 を獲得 する。1958年 から4年 連続 でチームは160失策 以上 を記録 し[注 10][17]、チーム38盗塁 は2リーグ制 以降 、当時 の最少 記録 となっている[10]。シーズン終了 後 、千葉 茂 が監督 を更迭 [18]、別当 薫 が就任 。後年 、この当時 の事情 を千葉 茂 はなかなか語 ろうとしなかったが、1997年 ごろに語 ったところによれば「巨 人 で20年 やってきたことがすべてひっくり返 った」と述 べ、「選手 もプロ意識 は低 かったが、親会社 の体質 にも問題 があった」とし、当時 三 等 車 だった列車 での移動 を西鉄 並 の二 等 車 にしてほしいと頼 めば、球団 に「15人 だけにしてほしい」と言 われたとされる[19]。一方 の選手 は西鉄 の稲尾 和久 や南海 の杉浦 忠 などが登板 することが分 かると、高熱 や腹痛 などの仮病 を使 って試合 を欠場 したとも述 べている[20]。
近鉄 バファローズ時代 [編集 ]
「
別当 監督 時代 [編集 ]
- 1962
年 - チーム
名 を近鉄 バファローズに改名 。ジャック・ブルームフィールドが.374の高 打率 で首位 打者 を、28勝 を挙 げた久保 征 弘 が最多 勝 を獲得 するも、チーム全体 ではわずか57勝 (久保 はほぼ半分 の勝 ち星 を1人 で稼 いだ)で5年 連続 最下位 。土井 正博 が18歳 で四 番 に抜擢 される。 - 1963
年 - 5
月 以降 チームは勝率 5割 を保 ち、東映 との3位 争 いをするものの、1ゲーム差 [注 11]の4位 に終 わる。この年 のオールスターには7人 が選 ばれた。長打 力 には乏 しいものの単打 や二塁打 を重 ねて得点 をあげる攻撃 に「ピストル打線 」のあだ名 がつく。 - 1964
年 - この
年 4人 の10勝 投手 が出 るも、2年 ぶりの最下位 。1958年 よりこの年 まで7年 連続 で失策 数 はリーグワースト[17]。シーズン終了 後 、別当 薫 が監督 を辞任 。後任 には岩本 義行 が就任 。球団 結成 時 から在籍 している関根 潤 三 に対 して球団 の中 には「監督 をやれ」と言 う人 もいたが、関根 にそのつもりはなく、近鉄 を退団 し、巨人 に移籍 した[21]。
岩本 (義 )監督 時代 [編集 ]
- 1965
年 優勝 した南海 と42.5ゲーム差 で2年 連続 の最下位 。この年 第 1回 プロ野球 ドラフト会議 が行 われ、2位 指名 で鈴木 啓示 が入団 している。- 1966
年 - 48
勝 82敗 で3年 連続 最下位 。シーズン終了 後 、岩本 義行 が監督 を辞任 、後任 には当時 31歳 の小玉 明利 が選手 を兼任 のまま監督 就任 。
小玉 監督 時代 [編集 ]
- 1967
年 - 4
月 1日 、球団 運営 のための会社 法人 として近鉄 野球 株式会社 (2代目 )を設立 し、近鉄 興業 (同年 3月 に近鉄 野球 株式会社 =初代 を商号 変更 )から経営 を移管 [22]。チームは開幕 ダッシュもあり5月 半 ばまで首位 だったが、主力 選手 の相次 ぐ故障 もあり4年 連続 の最下位 に終 わる。シーズン終了 後 、小玉 明利 が監督 を辞任 し、選手 として阪神 に移籍 した。後任 には三原 脩 が就任 した。
三原 監督 時代 [編集 ]
- 1968
年 [23] 西鉄 との開幕 戦 で3連勝 後 、4月 を14勝 4敗 として6月 まで首位 だったが、夏場 以降 は失速 し、首位 の阪急 と23ゲーム差 の4位 に終 わる。しかし、監督 の三原 によって選手 に自信 をつけさせたとされる。三原 は家族 の問題 から退任 を申 し入 れるも、慰留 され続投 。- 1969
年 [23] - 5
月 までに9連敗 を記録 するなど低迷 、しかしその後 18勝 1敗 2分 けと一気 に追 い上 げ、球団 初 の首位 争 いを阪急 と展開 する。互 いに直接 対決 4試合 のみを残 した10月17日 の時点 で2厘 差 で首位 を保 ち、阪急 よりも優位 であった[注 12]。しかし、10月18日 からの対 阪急 4連戦 に初戦 から3連敗 で阪急 の逆転 優勝 を許 し、2位 に終 わる。球団 創立 以来 シーズンの対戦 成績 で勝 ち越 したことがなかった南海 に対 し17勝 9敗 と初 めて勝 ち越 し、また15シーズン連続 で負 け越 していた西鉄 にも15勝 11敗 で勝 ち越 した。ドラフト会議 では、高校 野球 で甲子園 のアイドルと呼 ばれた太田 幸司 を獲得 。 - 1970
年 - 5月14
日 に黒 い霧 事件 に関連 し、球団 職員 だった山崎 晃 が外部 の人間 より八百長 (野球 協約 上 の敗退 行為 )を強要 され、監督 や選手 に敗退 行為 の依頼 を行 ったことが報道 された。山崎 は1967年 に当時 選手 兼 監督 だった小玉 明利 を始 め、木原 義隆 、吉沢 岳男 、高木 喬 の4名 に八百長 を依頼 したとされる。捜査 の結果 、依頼 された4人 については金銭 の授受 はなく試合 で敗退 行為 を行 った確証 も得 られなかったため、プロ野球 機構 からの処分 は厳重 戒告 に留 まったが、山崎 については八百長 工作 を行 っていたことが確実 になったため、6月15日 に野球 賭博 への関与 を理由 とした永久 追放 処分 が下 された。10月6日 、対 南海 戦 で佐々木 宏 一郎 が完全 試合 を達成 。シーズン終了 後 、三原 が監督 を辞任 し、後任 を鶴岡 一人 に一本 化 するが招聘 に失敗 し、コーチの岩本 尭 が監督 に昇格 した[24]。
岩本 (尭 )監督 時代 [編集 ]
- 1971
年 鈴木 啓示 、清 俊彦 、佐々木 宏 一郎 、神部 年男 の投手 4本 柱 が防御 率 7位 以内 に入 る安定 感 を見 せ、3位 を確保 。- 1972
年 序盤 に首位 に立 った南海 相手 に7連勝 (1分 )するなど、4月 29日 に同率 首位 にもなったが[25]、総合 では首位 とは14ゲーム差 の2位 に終 わる。この頃 は鈴木 啓示 が5年 連続 20勝 を挙 げ、また太田 幸司 人気 もあってテレビ中継 も増 えている[26]。- 1973
年 - パ・リーグは
前 後期 2シーズン制 を導入 。投手 力 のある近鉄 が優勝 候補 にも挙 げられたが[27]、その投手 陣 が相次 ぐ故障 などから崩壊 し防御 率 3.83はリーグ5位 で10勝 以上 あげたのが鈴木 啓示 のみ、打線 も土井 が唯一 打率 ベスト10入 り(3位 )しただけでチーム打率 はリーグ最下位 の.237、本塁打 113本 は南海 と同数 の5位 、盗塁 、得点 はリーグ最少 、失点 、失策 はリーグ最多 で、8月 末 に岩本 は休養 し、島田 光 二 が代理 監督 を務 めるが、前 後期 とも最下位 の6年 ぶりの最下位 に終 わっている[28]。二 軍 がウエスタン・リーグを初 制覇 している。シーズン終了 後 、前 阪急 監督 の西本 幸雄 が監督 就任 。
西本 監督 時代 [編集 ]
- 1974
年 監督 に就任 した西本 は羽田 耕一 、栗橋 茂 、佐々木 恭介 、平野 光 泰 、梨 田 昌 崇 ら若手 選手 を鍛 えてチーム力 の強化 を図 ったが1年 目 は5位 に終 わり、オフにチームの主砲 であった土井 正博 を太平洋 クラブライオンズにトレードで放出 する。- 1975
年 初 めて「優勝 」(ペナント2期 制度 での後期 優勝 )を果 たすが、プレーオフで前期 優勝 の阪急 に1勝 3敗 で敗 れる。なお通期 での貯金 は「21」(71勝 50敗 9分 )であり、優勝 の阪急 の貯金 「5」を大 きく上回 っていた。(+8ゲーム差 相当 )- 1977
年 - 4
月 26日 、対 ロッテ戦 で鈴木 啓示 が球団 初 の通算 200勝 を達成 、近鉄 入団 の生 え抜 き選手 としては唯一 の名球会 入 り選手 となった。南海 と日本 ハムファイターズに勝 ち越 し、ロッテ、クラウンライターライオンズに10勝 以上 あげているが、首位 の阪急 に6勝 18敗 2分 と大 きく負 け越 し前期 は3位 としたものの、後期 は最下位 でシーズン通 しては4位 に終 わる。チーム盗塁 数 120はリーグトップだったが、チーム打率 は5位 、チーム本塁打 92本 はリーグ最下位 に終 わっている[28]。 - 1978
年 前期 は阪急 に次 いで2位 、後期 は8月 まで阪急 が首位 を独走 していたものの、9月に近鉄 が猛追 し一 時 は首位 に立 つなど両 チームのマッチレースとなり、後期 最終 戦 となる9月23日 に阪急 との後期 優勝 をかけた直接 対決 を迎 えた。近鉄 は勝 てば後期 優勝 、阪急 はこの試合 に勝 ち、さらに残 り2試合 中 1試合 を引 き分 け以上 が優勝 の条件 だった。近鉄 はこの年 25勝 で最多 勝 の鈴木 啓示 を先発 に立 てたが、山田 久志 とのエース対決 に敗 れ、逆転 で首位 に立 った阪急 が次 の試合 にも勝 って前期 に続 き優勝 を決 め、近鉄 は2位 に終 わっている。この年 近鉄 は全 球団 に勝 ち越 したものの、阪急 は近鉄 以外 の4球団 に大 きく勝 ち越 していたのが差 となった[28]。- 1979
年 前期 は5月 までに2位 阪急 に5ゲーム差 をつけ独走 していたが、6月9日 の対 ロッテ戦 でチャーリー・マニエルがアゴに死球 を受 け、戦線 離脱 、阪急 の追 い上 げもあり、一時 は阪急 にマジックが点灯 する[注 1]が、最終 戦 の対 南海 戦 に引 き分 け前期 優勝 を決 めた[30]。後期 は2位 となり、後期 優勝 の阪急 とのプレーオフとなるが、この年 防御 率 1位 の山口 哲治 の3連投 の活躍 で3連勝 し、球団 創設 30年 目 にして初 のリーグ優勝 を遂 げる。当時 の12球団 最後 の初 リーグ優勝 として近鉄 初 のリーグ優勝 で当時 の12球団 において1度 はリーグ優勝 を経験 することとなった。74勝 45敗 11分 、勝率 .622は球 団 記録 。広島東洋 カープとの日本 シリーズでは第 7戦 の9回 裏 1点 ビハインドの場面 で、無死 満塁 の一打 逆転 サヨナラの好機 をつかむが、江夏 豊 の前 に阻 まれ、3勝 4敗 で敗退 (江夏 の21球 参照 )。- 1980
年 反発 力 を高 めた飛 ぶボールの効果 もあり、この年 本塁打 ・打点 の二 冠 のマニエルをはじめチームから二 桁 本塁打 10人 を出 す日本 プロ野球 新 記録 のシーズンチーム本塁打 239本 [注 14]し、前年 5月 19日 から9月29日 まで日本 プロ野球 記録 を更新 する215試合 連続 で得点 を記録 する[31]。チームは前期 2位 、後期 は残 り3節 の時点 で5位 と追 い込 まれるがそこから巻 き返 し、10月7日 には後楽園 球場 で、マジック1で引 き分 けでも優勝 決定 という日本 ハムとの直接 対決 を6-5で勝利 し、続 く8日 、11日 の対 西武 ライオンズ2連戦 にも勝利 し逆転 で後期 優勝 、ロッテオリオンズとのプレーオフも3勝 0敗 で制 し2年 連続 でリーグ優勝 を果 たすが、日本 シリーズではまたしても広島 に3勝 4敗 で敗退 。オフにマニエルが契約 更改 で球団 と決裂 し、退団 。
10.7決戦 [編集 ]
1980
- 1981
年 - マニエルの
抜 けた穴 はあまりにも大 きく、前年 4人 いた3割 打者 が1人 も出 ず、本塁打 もビクター・ハリスの22本 がチーム最高 であるなど打線 が低下 [33]。また鈴木 啓示 も5勝 しかできず負 け越 すなど投手 陣 が振 るわず前期 6位 、後期 4位 の最下位 に終 わる。シーズン終了 後 、西本 幸雄 が監督 辞任 、後任 に関口 清治 が就任 。
関口 、岡本 監督 時代 [編集 ]
- 1982
年 序盤 は首位 になり前 後期 とも勝 ち越 し3位 となるが、首位 の日本 ハムからは大 きく離 されての結果 となった。- 1983
年 - 4
月 末 に7連敗 すると5月 まで最下位 、持 ち直 すものの、以降 は一 度 も5割 にならないままこの年 は4位 、シーズン終了 後 、関口 清治 が監督 を辞任 、後任 は岡本 伊 三美 。広島 から加藤 英司 がトレードで加入 。 - 1984
年 - このシーズンでは、
藤井寺 球場 のナイター設備 が完成 し、4月 6日 にナイター開 きが行 われた。5月5日 には鈴木 啓示 が通算 300勝 を達成 するが、新 外国 人 選手 だったドン・マネーが待遇 面 をめぐって4月 末 に退団 するなどもあり、4位 となるが、3位 の対 西武 戦 を9勝 17敗 と大 きく負 け越 している。 - 1985
年 - 7
月 10日 に鈴木 啓示 が現役 引退 を表明 、背番号 1は球 団 唯一 の永久 欠番 となる。本塁打 はリーグ最多 の212本 だが、防御 率 はリーグワーストの5.10で、この年 は4位 の阪急 と勝率 1毛 差 の3位 であったが、首位 西武 とは15ゲーム差 をつけられ、二 桁 勝利 投手 もストッパーの石本 貴昭 だけであったが、この時期 は1979年 、1980年 の優勝 メンバーと、後 の1989年 優勝 メンバーの世代 交代 の時期 だったとされ、打者 では大石 大二郎 、投手 では石本 の他 に小野 和義 、吉井 理 人 、佐々木 修 、山崎 慎太郎 などの獲得 や台頭 が見 られる[34]。オフに有田 、加藤 英 が巨人 ・淡 口 憲治 らとトレード成立 。 - 1986
年 後半 戦 は西武 との熾烈 な優勝 争 いとなり、互 いにマジックが点灯 と消滅 を繰 り返 す展開 となる。9月終了 時 で西武 と1ゲーム差 の2位 だが、残 り試合 の関係 でマジック10が点灯 していた。10月5日 のロッテ戦 で9回 裏 に2点 差 を追 い付 き、引 き分 けで同率 首位 に並 ぶと、翌日 はロッテに勝 って単独 首位 に立 つ。両 チーム残 り3試合 の時点 でマジック3としたが、10月8日 から阪急 に3連敗 。ロッテにホームで連勝 し逆転 優勝 を果 たした西武 と2.5ゲーム差 の2位 に終 わる。記録 の残 る1952年 以降 としては初 めて観客 動員 が100万 人 を突破 している[35]。- 1987
年 移籍 2年 目 の新井 宏昌 が首位 打者 、ルーキー阿 波野 秀幸 が15勝 を挙 げ新人 王 を獲得 する活躍 をみせるもののチーム内 の不協和音 もあり[34]5位 のロッテとは1.5ゲーム差 で、4球団 には11勝 以上 したものの残 る西武 には5勝 19敗 3分 と大 きく負 け越 したこともあり[36]、最下位 となる。シーズン終了 後 、岡本 伊 三美 が監督 を辞任 、コーチだった仰木 彬 が就任 、権藤 博 が投手 コーチ。
仰木 監督 時代 [編集 ]
- 1988
年 [37] 終盤 に前年 までリーグ3連覇 中 の西武 と熾烈 な優勝 争 いを繰 り広 げることとなった。開幕 から西武 が独走 、6月 に入 ると貯金 20で2位 近鉄 は8ゲームをつけられ、7日 には主砲 のリチャード・デービスが大麻 不法 所持 で逮捕 され解雇 というアクシデントに見舞 われ、同月 28日 に急遽 中日 ドラゴンズから金銭 トレードでラルフ・ブライアントを獲得 した。ブライアントはこの後 、74試合 の出場 ながら34本塁打 を記録 するなど大 活躍 をした。9月に入 っても西武 が独走 状態 は続 き、15日 の時点 では西武 に6ゲーム差 をつけられるが西武 が一時 後退 して29日 の時点 では1.5ゲーム差 、10月に入 り5日 にはゲーム差 無 しで一 時 近鉄 が首位 に立 つなど、以降 シーズン終了 まで、首位 の西武 と近鉄 がともに譲 らずハイペースで勝 ち続 けるという展開 となり、10月16日 に西武 が全 日程 を終了 した時点 では、近鉄 は残 り4試合 のうち3勝 すれば優勝 だったが、17日 の対 阪急 戦 に敗 れ、残 り3戦 を3勝 が優勝 の絶対 条件 となり、川崎球場 へ移動 しての18日 の対 ロッテ戦 に勝利 し、10月19日 のロッテとのダブルヘッダーでは第 1試合 を9回 に逆転 勝利 するが、第 2試合 延長 10回 時間切 れで4対 4の引 き分 け[注 15]に終 わり、130試合 目 にして優勝 を逃 す結果 となった(詳細 は10.19を参照 )[注 16]。この試合 でも活躍 の梨 田 、吹石 が引退 。- 1989
年 開幕 前 は西武 と近鉄 が優勝 争 いになると見 られたが、ペナントに入 ると開幕 戦 で近鉄 に大勝 したオリックス・ブレーブスが開幕 から8連勝 と抜 け出 し、近鉄 や西武 は勝率 5割 前後 と出遅 れる。近鉄 はエースの阿波 野 秀幸 が開幕 から6連勝 や、いてまえ打線 の復調 もあり、7月 から8月 にかけて2度 の4連勝 などで8月 に一時 首位 に立 つが、9月に入 ると連敗 を重 ねて9月 25日 の時点 で3位 に後退 していた。近鉄 に後 がない状況 で迎 えた10月12日 、対 西武 戦 (西武 球場 )ダブルヘッダーにおいて、ラルフ・ブライアントがこの日 4打数 連続 本塁打 [注 17]が出 て西武 に連勝 。近鉄 がマジック2を点灯 させる(詳細 は10.19#1989年 10月 12日 のダブルヘッダーと近鉄 1年 越 しの優勝 を参照 )。10月14日 、藤井寺 球場 での対 福岡 ダイエーホークス戦 に勝利 し、129試合 目 で9年 ぶり3度目 の優勝 達成 となった[38]。これが近鉄 にとって初 の1シーズン制度 上 での初 優勝 となり、当時 のパ・リーグ全 球団 が本拠地 でリーグ優勝 を果 たした[注 18]。初 めての本拠地 球場 での日本 シリーズ開催 となったが[注 19]、初戦 から巨人 に3連勝 するものの、加藤 哲郎 の「巨人 はロッテより弱 い」発言 問題 もあり[注 20]その後 4連敗 を喫 し、巨人 に敗 れる。栗橋 、淡 口 、羽田 が引退 し、村田 が移籍 、権藤 コーチが退団 した。ドラフトにおいて、8球団 競合 [注 21]による抽選 の上 、新日鉄 堺 の野茂 英雄 の交渉 権 を獲得 し、入団 している。- 1990
年 野茂 英雄 が最多 勝 、防御 率 など主 な先発 投手 タイトルを獲得 する活躍 で新人 王 &MVPとなり、沢村 賞 も獲得 。また同 じく新人 の石井 浩 郎 も6月 以降 にレギュラーに定着 し規定 打席 不足 ながら打率 .300、22本塁打 と活躍 。しかしチームは開幕 2戦 目 から9連敗 を喫 し大 きく出遅 れ、阿波 野 の不振 や小野 の故障 など野茂 以外 の投手 陣 が軒並 み成績 を落 としたこともあり、西武 との大差 を縮 められず3位 に終 わる。オフには中西 太 ヘッドコーチが退団 した。- 1991
年 西武 が開幕 から抜 け出 すが、前半 戦 最後 の西武 との直接 対決 で勝 って首位 で折 り返 すものの、9月に西武 との直接 対決 で3連敗 し、逆転 優勝 される。この年 の77勝 は当時 の球団 最多 勝利 記録 だった。野茂 は2年 連続 最多 勝 、トレーバーは打点 王 獲得 も退団 した。ブライアントの故障 、長期 離脱 も響 いた。- 1992
年 前年 とは逆 に近鉄 が序盤 は首位 を走 るが、6月 になると西武 に逆転 され、その後 は西武 の独走 を許 し2位 に終 わる。赤堀 元之 が最優秀 救援 とともに防御 率 1.80を記録 し最優秀 防御 率 を獲得 したが、規定 投球 回数 達成 者 としては球団 唯一 の防御 率 1点 台 投手 となった[33]。野茂 は入団 から3年 連続 最多 勝 、高村 祐 は新人 王 。シーズン終了 後 、仰木 彬 が監督 辞任 。後任 には小玉 明利 以来 26年 ぶりとなる生 え抜 きの鈴木 啓示 が監督 に就任 する。
鈴木 、佐々木 監督 時代 [編集 ]
- 1993
年 監督 の鈴木 啓示 と野茂 英雄 や吉井 理 人 といった主力 選手 との確執 が続 いた。野茂 は4年 連続 で最多 勝 を挙 げるが四球 や自責 点 もリーグ最多 で安定 感 に欠 き、野茂 以外 に10勝 以上 投手 が出 なかったものの、抑 えの赤堀 元之 と、石井 浩 郎 、ブライアントなどのいてまえ打線 が好調 で、開幕 から好 スタートの直後 に連敗 が続 き、最下位 に転落 するも、最終 的 には首位 の西武 と7ゲーム差 の4位 に終 わる[39]。- 1994
年 開幕 の対 西武 戦 で赤堀 元之 が伊東 勤 に開幕 戦 史上 初 の逆転 サヨナラ満塁 本塁打 を浴 びる波瀾 のスタートとなり、序盤 からチームは低迷 。6月17日 には首位 西武 に16ゲーム差 の最下位 に沈 む。しかし、いてまえ打線 の爆発 により、夏場 から調子 を上 げ、7月 26日 から8月 10日 にかけて球団 新 記録 となる13連勝 を記録 し、一時 は首位 に立 つなど、約 1カ月 半 で32勝 6敗 、勝率 .842の驚異 的 な成績 を残 す。しかし、野茂 が離脱 した8月 以降 は後退 、最終 的 に首位 西武 と7.5ゲーム差 の2位 に終 わる[39]。シーズン終了 後 、野茂 が契約 のこじれから退団 、メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍 [注 22]。金村 義明 がFA権 を行使 し、中日 に移籍 。阿波 野 が香田 勲男 との交換 トレードで巨 人 へ移籍 。- 1995
年 開幕 直前 、吉井 が西村 龍次 との1対 1の交換 トレードによりヤクルトに移籍 。開幕 から2年 目 のリー・スティーブンスが13試合 で10本塁打 と打 ちまくるが、ブライアント、石井 浩 郎 の故障 離脱 があり投手 陣 も高村 が怪我 で離脱 、ストッパー赤堀 が絶 不調 もあってチームは低迷 。8月8日 夜 、鈴木 は遠征 先 を訪 ねてきた球団 社長 に「これ以上 、あなたの顔 に泥 を塗 れない」、3季 目 途中 の解任 通告 、退任 会見 もせず、ひっそりグラウンドを去 った[40]。8年 ぶりの最下位 になる。シーズン終了 後 、佐々木 恭介 が監督 に就任 する。ドラフトでは高校生 としては史上 最多 7球団 が1位 指名 したPL学園 の福留 孝介 の交渉 権 を獲得 するが、福留 は入団 拒否 。ダイエーを自由 契約 となった山本 和範 が15年 ぶりに復帰 。- 1996
年 - テスト
入団 の山本 が開幕 から活躍 しオールスターにも選 ばれたが、投手 陣 の調子 の波 が激 しく勝率 5割 付近 を行 き来 する展開 となる。翌年 から本拠地 が新 たに大阪 ドーム[注 1]に移転 するため、Aクラス入 りし、開幕 カードを新 本拠地 で迎 えたかったが、終盤 戦 Aクラス入 りをかけた対 西武 2連戦 に破 れ、4位 でシーズンを終 える。オフ、大幅 減俸 提示 を拒否 した石井 が巨 人 に移籍 。
大阪 ドーム時代 [編集 ]
佐々木 監督 時代 [編集 ]
- 1997
年 開幕 カードのグリ ーンスタジアム神戸 での対 オリックス2連戦 がともに雨 で中止 となったため、4月 8日 の大阪 ドーム[注 1]での対 千葉 ロッテマリーンズ戦 が開幕 試合 となり、大阪 ドームでの初 試合 を4対 2で勝利 している[41]。借金 が最大 14になるなど、夏場 までロッテと5位 を争 う状況 だったが、8月 24日 の対 ロッテ戦 (大阪 ドーム)でパ・リーグ史上 初 (プロ野球 通算 3度目 )の10点 差 逆転 勝利 (延長 12回 )を機 にチームは浮上 。最終 的 には3位 でシーズンを終 える。この年 の観客 動員 は186万 6千 人 に達 し、球団 の年間 最多 観客 動員 記録 となった[42]。この年 限 りで大石 大二郎 が引退 。- 1998
年 - 8
月 半 ばまで日本 ハムと優勝 争 いを繰 り広 げ、日本 ハムの失速 もあり一 時 0.5ゲーム差 まで詰 め寄 るが、直後 に連敗 し、西武 、ダイエーを含 めた4チームの混戦 となる。先発 投手 陣 が安定 せず1952年 以来 となる2桁 勝利 投手 が出 ず、ロブ・マットソンの9勝 がチーム最高 の勝 ち星 となった[注 24][33]。最終 的 には借金 1の5位 に終 わる。
大阪 近鉄 バファローズ時代 [編集 ]
- 1999
年 - 4
月 に地元 企業 との提携 と地元 密着 を目指 してチーム名 を大阪 近鉄 バファローズに改称 し、9月に従来 の近鉄 野球 株式会社 に代 わる新 会社 「株式会社 大阪 近鉄 バファローズ」を設立 。4月は首位 で折 り返 すが、前年 以上 に先発 投手 陣 が安定 せず(2年 連続 して2桁 勝利 投手 が皆無 だった)、途中 プロ野球 新 記録 となる5試合 連続 2桁 失点 のワースト記録 を樹立 するなど、低迷 して4年 ぶりに最下位 に終 わる。シーズン終了 後 に佐々木 恭介 が監督 を辞任 、後任 は近鉄 最後 の監督 となる梨 田 昌孝 。
梨 田 監督 時代 [編集 ]
- 2000
年 就任 した梨 田 に「選手 層 が薄 いが、ケガ人 さえいなければ」と言 われた状況 において、オープン戦 で吉岡 雄二 が骨折 こそ免 れたものの手首 に重傷 のけが[43]、シーズンに入 って礒 部 公一 が顔面 死球 で、フィル・クラークが手首 骨折 で次々 に離脱 する状況 で[44]、中村 紀洋 が本塁打 王 と打点 王 の二 冠 を獲得 するが、チームは33年 ぶりの2年 連続 最下位 に終 わる。投手 陣 では3年 連続 二 桁 勝利 投手 は現 れず、野手 陣 でも規定 打席 到達 で3割 を超 えたのは武藤 孝司 だけであった。- 2001
年 開幕 戦 の3月24日 の対 日本 ハム戦 は一時 は1対 6で5点 差 をつけられるものの、両 軍 合 わせて8本塁打 の打 ちあいとなり最後 は10対 9で逆転 勝利 する。その後 も4月 に2試合 連続 サヨナラ勝 ちを収 めるなど、逆転 勝利 が多 く(78勝 のうち41勝 が逆転 勝 ち)、7月 17日 の対 ロッテ戦 も9回 5点 差 から8得点 を挙 げ逆転 勝 ち、前半 戦 終了 時 には、5位 のロッテとは5ゲーム、最下位 の日本 ハム以外 が勝率 5割 以上 という状況 ながら、10年 ぶりに首位 で折 り返 す。この年 からロサンゼルス・ドジャースと業務 提携 を結 び、シーズン途中 にドジャース元 監督 のトミー・ラソーダの紹介 でショーン・バーグマンとジェレミー・パウエルの2投手 、ショーン・ギルバート内野 手 を獲得 。この補強 も功 を奏 した。終盤 9月3日 から5連敗 し、9月5日 の段階 でもダイエーと同率 首位 、1厘 差 で西武 が追 い、5位 まで6.5ゲーム差 という混戦 となるが、9月9日 からの11試合 を10勝 1敗 とした[45]。9月24日 の対 西武 戦 ではタフィ・ローズが当時 の本塁打 シーズン日本 プロ野球 タイ記録 となる55号 本塁打 を達成 し、試合 も9回 裏 松坂 大輔 から中村 紀洋 のサヨナラ2ラン本塁打 で勝利 し、優勝 マジックを1とした。9月26日 、対 オリックス戦 (大阪 ドーム[注 1])で2対 5とリードされた9回 裏 、無死 満塁 から代打 北川 博敏 が日本 プロ野球 初 となる『代打 逆転 サヨナラ満塁 優勝 決定 本塁打 』で12年 ぶり4度目 のパ・リーグ優勝 を決 めている。同 一 監督 での前年 最下位 からの優勝 は1976年 の巨 人 の長嶋 茂雄 に次 いで2人 目 で、パ・リーグでは初 。ロッテには20勝 8敗 と大 きく勝 ち越 したが[注 25]、防御 率 リーグ最下位 (4.98)での優勝 と2位 チームへの2桁 負 け越 し(ダイエーに9勝 19敗 )での優勝 はともに史上 初 だった。日本 シリーズではヤクルトスワローズに自慢 のいてまえ打線 を封 じ込 まれ、1勝 4敗 で敗退 。これが近鉄 にとって最後 のリーグ優勝 ・日本 シリーズとなった。シーズン78勝 は球団 記録 。オフに球団 初 (唯一 )のFA移籍 で加藤 伸一 を獲得 。- 2002
年 - 5月28
日 から6月 15日 にかけて8年 ぶりの10連勝 を記録 し、首位 西武 に一時 2ゲーム差 に詰 め寄 る。しかし、その後 は西武 の独走 を許 すと、8月 16日 の直接 対決 で9点 差 を逆転 負 けし、西武 に優勝 マジック34が点灯 [46]。最終 的 に優勝 した西武 から16.5ゲーム差 の2位 に終 わる。オフに古久保 健二 が現役 を引退 した。シーズン終了 後 に中村 がFA宣言 するが、メジャーリーグを含 めて1カ月 余 りの交渉 の末 、近鉄 と推定 4年 20億 円 プラス出来高 払 いの契約 を結 び、残留 した。大塚 晶 文 はメジャーリーグへのポスティングシステムによる移籍 を希望 するが、入札 球団 が現 れず、中日 に金銭 トレードされる。打撃 陣 では中村 とローズが本塁打 を量産 したものの、規定 打席 到達 で3割 を超 えた選手 が一人 もいなかった。 - 2003
年 - 1
月 に会社 の商号 を株式会社 大阪 バファローズに変更 。開幕 5連勝 と好調 な滑 り出 しを見 せ、首位 ダイエーと1.5ゲーム差 の2位 で前半 戦 を終 える。しかし、後半 戦 に入 ると、大塚 の移籍 に伴 う抑 え投手 の不在 や4番 中村 の負傷 ・不振 が響 き、3位 に後退 、そのままシーズンを終 える。シーズン終了 後 、長年 主砲 として活躍 し、この年 も本塁打 王 を獲得 しているローズを年俸 高騰 から自由 契約 とする(巨人 が獲得 )。
2004年 プロ野球 再編 問題 [編集 ]
- 2004
年 [47] - この
年 が近鉄 球団 としての最後 の年 となった。 - 1
月 31日 、ネーミングライツの構想 [注 26]を表明 するも、巨人 が猛 反対 したことで、他 球団 も多 くがこれに追随 し、結局 失敗 に終 わる。6月13日 、日本経済新聞 が1面 で「近畿日本鉄道 がプロ野球 球団 『大阪 近鉄 バファローズ』をオリックスに譲渡 する方向 で交渉 を進 めている」というスクープ記事 を掲載 したことで、世間 が大騒 ぎとなる。のち球団 側 もこれを認 め、オリックス・ブルーウェーブと球団 合併 する方向 で準備 を進 めていることを発表 する。6月30日 にライブドアが球団 を買収 する動 きを見 せたものの、近鉄 は買収 には応 じず(ライブドアの動 きについてはこちらも参照 )[48]、8月 10日 に合併 に関 する基本 合意 書 への調印 が行 われ、9月8日 のオーナー会議 でこの合併 が正式 に認 められた。9月18日 から19日 にかけて、この問題 に反発 するプロ野球 選手 会 による日本 プロ野球 初 となるストライキが行 われ、12球団 全 ての試合 が中止 となった[注 27]。 - オープン
戦 で吉岡 雄二 がアキレス腱 断 裂 で離脱 。ローズに代 わる主砲 と期待 されたラリー・バーンズが開幕 3戦 目 で離脱 、同 じくストッパーとして期待 されたヘクター・カラスコも、4月 に4連敗 で防御 率 20.00となり登録 抹消 。4月7日 に4位 となって以降 このシーズンはAクラスになることはなく、4月 は最下位 で終 える。岩隈 久志 が開幕 から球団 記録 となる12連勝 もあり、一時 は4位 となるが、6月13日 の球団 合併 発表 の翌 試合 から4連敗 するなど、5位 となり、7月 は4位 で終 わるものの、アテネオリンピックで岩隈 、中村 が抜 けた8月 7日 から7連敗 で、以降 は5位 となる。梨 田 は合併 発表 時 の時点 では「借金 4で手 ごたえはあった」としているが、7月 7日 のオーナー会議 の時点 では選手 は放心 し、最後 は立 ち上 がれなかったとも述 べている[44]。9月24日 、大阪 ドーム[注 1]での最終 戦 となる対 西武 戦 が行 われ、この年 ここまで出場 のなかった吉岡 が代打 で出場 、この試合 が引退 登板 となった赤堀 元之 や加藤 伸一 などが登板 した。試合 は延長 11回 裏 、1死 二塁 で星野 おさむの右翼 線 へのサヨナラ安打 で3対 2で勝利 、これが球団 公式 戦 最後 の勝利 となった[49]。9月27日 のYahoo! BBスタジアムの対 オリックス戦 が共 に合併 する球団 同士 の公式 戦 最終 戦 となったが、2対 7で敗 れた[50]。チームは61勝 70敗 で4年 ぶりのBクラスの5位 で終 え、消滅 後 の2007年 から始 まったクライマックスシリーズを含 む13球団 で唯一 同年 以降 の現行 のプレーオフシーズンに参戦 せずに消滅 した。岩隈 は15勝 を挙 げ、最多 勝 を獲得 するなど計算 できた投手 陣 に比 べ、打撃 陣 はローズが抜 けたことや吉岡 などの故障 もあり、前年 より本塁打 、得点 が激減 した。二 軍 は前期 優勝 で、9月30日 、藤井寺 球場 で最後 の二 軍 公式 戦 、ウエスタンリーグ優勝 決定 戦 が行 われたが、後期 優勝 の中日 に敗 れている。 - 11月8
日 、オリックスと楽天 の間 で選手 分配 ドラフトが行 われ、近鉄 の選手 はオリックスと楽天 に振 り分 けられることになった。大村 直之 がソフトバンクにFA移籍 。中村 紀洋 がポスティングシステムでロサンゼルス・ドジャースに移籍 。 以上 の合併 への動 きは選手 会 との労使 交渉 や球界 再編 問題 にまで発展 し、球団 合併 反対 運動 では選手 も署名 活動 に参加 するなど[44]、ファンを含 む球界 内外 からの強 い反発 が起 こるなど大 きな波紋 を呼 んだ。そして、11月30日 をもってプロ野球 チームとしての大阪 近鉄 バファローズは55年 の歴史 に幕 を降 ろした[51]。
2005年 以降 [編集 ]
2005
2013
2022
球団 愛称 [編集 ]
創設 時 の愛称 ・パールス(Pearls)は、近鉄 沿線 の伊勢 志摩 の特産 品 である真珠 にちなんだものである[注 30]。
なお、日本 野球 機構 に登録 された球団 名 は『パールス』だが、社 史 など近鉄 側 が制作 した書類 や出版 物 では一貫 して『パールズ』が用 いられていたため[注 31]、球団 名 登録 の際 の手違 いなどがあったと推定 されている。また、当時 の新聞 ・雑誌 などのメディアでは双方 が混用 されていた。- 1958
年 オフに千葉 茂 が監督 に就任 すると同時 に、パールスに代 わる新 しい球団 愛称 を公募 したところ、1番 多 かったのが現役 時代 「猛 牛 」と呼 ばれた千葉 にちなんだバッファローズだった。ところが当時 の球団 幹部 が「『バッファローズ』では表記 が長 すぎる」と言 ったため、2文字 減 らしてバファロー(Buffalo)になった。千葉 辞任 後 の1962年 に「これからは監督 だけが猛 牛 になるのではなく、チーム全員 が猛 牛 にならなければならない」という意味 を込 めて複数 形 のバファローズ(Buffaloes)と変更 された[53]。
在籍 選手 [編集 ]
タイトル獲得 選手 [編集 ]
総合 [編集 ]
最優秀 選手 -
- チャーリー・マニエル(1979)
- ラルフ・ブライアント(1989)
野茂 英雄 (1990)- タフィ・ローズ(2001)
最優秀 新人
打撃 部門 [編集 ]
首位 打者 本塁打 王 -
- クラレンス・ジョーンズ(1974、1976)
- チャーリー・マニエル(1979-1980)
- ラルフ・ブライアント(1989、1993 - 1994)
- タフィ・ローズ(1999、2001、2003)
中村 紀洋 (2000)
打点 王 盗塁 王 最多 安打 - タイトル
制定 (1994年 )以後 の該当 者 無 し。タイトル制定 以前 のリーグ最多 安打 打者 は以下 の通 り。土井 正博 (1964、1967)永淵 洋三 (1969)新井 宏昌 (1987)- ジム・トレーバー(1990)
石井 浩 郎 (1993)
最高 出塁 率 最多 勝利 打点 - ※ 1981
年 制定 、1989年 から廃止 - リチャード・デービス(1985)
投手 部門 [編集 ]
最多 勝利 最優秀 防御 率 -
久保 征 弘 (1963)清 俊彦 (1972)鈴木 啓示 (1978)山口 哲治 (1979)野茂 英雄 (1990)赤堀 元之 (1992)
最多 奪 三振
タイトル
阿 波野 秀幸 (1989)野茂 英雄 (1990 - 1993)- ジェレミー・パウエル(2002)
タイトル
鈴木 啓示 (1967 - 1972、1974、1978)阿 波野 秀幸 (1987)
最優秀 勝率 - ※ 2001
年 で廃止 され、翌年 からは最優秀 投手 となった。 最優秀 投手 -
- ジェレミー・パウエル(2002)
岩隈 久志 (2004)
最優秀 救援 投手 - ※1974
年 に最多 セーブとして制定 、1977年 よりセーブポイントで表彰 する最優秀 救援 投手 に変更 。球団 消滅 後 の2005年 より最多 セーブ投手 に。 - なお、
表彰 タイトルではなかったので参考 だが1974年 以降 リーグ最多 セーブ投手 になったのは以下 の選手 。鈴木 康二 朗 (1984 - 1985)石本 貴昭 (1986)赤堀 元之 (1992-1994)大塚 晶 文 (1998)
沢村 賞 -
野茂 英雄 (1990)
ベストナイン[編集 ]
小玉 明利 (三塁手 :1960、1962 - 1965)- ジャック・ブルーム(
二塁手 :1962 - 1963) 高木 喬 (一塁 手 :1965)土井 正博 (外野 手 :1967 - 1968)鈴木 啓示 (投手 :1969、1975、1978)永淵 洋三 (外野 手 :1969)- クラレンス・ジョーンズ(
一塁 手 :1974) 佐々木 恭介 (外野 手 :1975、1978)石渡 茂 (遊撃手 :1977、1979)梨 田 昌孝 (捕手 :1979 - 1981)栗橋 茂 (外野 手 :1979 - 1980、1982)- チャーリー・マニエル(
指名 打者 :1979 - 1980) 大石 大二郎 (二塁手 :1983 - 1984、1990)- リチャード・デービス(
一塁 手 :1985) 新井 宏昌 (外野 手 :1986 - 1987)阿 波野 秀幸 (投手 :1989)山下 和彦 (捕手 :1989)- ラルフ・ブライアント(
外野 手 :1989、指名 打者 :1993 - 1994) 野茂 英雄 (投手 :1990)- ジム・トレーバー(
一塁 手 :1991) 石井 浩 郎 (一塁 手 :1993-1994)中村 紀洋 (三塁手 :1996、1999 - 2002)- フィル・クラーク(
一塁 手 :1997 - 1998、指名 打者 :1999) - タフィ・ローズ(
外野 手 :1997、1999、2001 - 2003) 大村 直之 (外野 手 :1998)礒 部 公一 (外野 手 :2001)- ジェレミー・パウエル(
投手 :2002) 岩隈 久志 (投手 :2004)
ゴールデングラブ賞 [編集 ]
有田 修三 (捕手 :1975 - 1976)梨 田 昌孝 (捕手 :1979 - 1981、1983)平野 光 泰 (外野 手 :1979 - 1980)小川 亨 (一塁 手 :1980)羽田 耕一 (三塁手 :1980)大石 大二郎 (二塁手 :1982 - 1984)新井 宏昌 (外野 手 :1987)阿 波野 秀幸 (投手 :1989)- ジム・トレーバー(
一塁 手 :1991) 大村 直之 (外野 手 :1998、2003)中村 紀洋 (三塁手 :1999 - 2002、2004)
正力 松太郎 賞 [編集 ]
西本 幸雄 (1979)
選手 記録 [編集 ]
完全 試合 - ノーヒットノーラン
- サイクル
安打 通算 2000安打 通算 200勝
通算 最多 記録 [編集 ]
試合 出場 - 1908小川 亨
投手 打者
その他 のチーム記録 [編集 ]
初 試合 1950年 3月12日 ・藤井寺 球場 (対 毎日 、2-6)初 勝利 1950年 3月13日 ・藤井寺 球場 (対 南海 、4-3)- リーグ
優勝 4回 - (1979
年 - 1980年 、1989年 、2001年 )
- (1979
日本一 0回 前期 優勝 1回 - (1979
年 )
- (1979
後期 優勝 1回 - (1975
年 、1980年 )
- (1975
- Aクラス 22
回 - (1954
年 、1969年 - 1972年 、1975年 、1978年 - 1980年 、1982年 、1985年 - 1986年 、1988年 - 1992年 、1994年 、1997年 、2001年 - 2003年 )
- (1954
- Bクラス 33
回 - (1950
年 - 1953年 、1955年 - 1968年 、1973年 - 1974年 、1976年 - 1977年 、1981年 、1983年 - 1984年 、1987年 、1993年 、1995年 - 1996年 、1998年 - 2000年 、2004年 )
- (1950
最下位 19回 - (1950
年 - 1953年 、1958年 - 1962年 、1964年 - 1967年 、1973年 、1981年 、1987年 、1995年 、1999年 - 2000年 )
- (1950
連続 Aクラス入 り最長 記録 5年 (1988年 - 1992年 )連続 Bクラス最長 記録 14年 (1955年 - 1968年 )- シーズン
最多 勝利 78(2001年 ) - シーズン
最少 敗戦 45(1979年 ) - シーズン
最高 勝率 .622(1979年 ) - シーズン
最少 勝利 29(1958年 ) - シーズン
最多 敗戦 103(1961年 )※プロ野球 記録 、2023年 シーズン終了 時点 で唯一 シーズン100敗 を記録 - シーズン
最低 勝率 .238(1958年 、当時 は引 き分 けを0.5勝 0.5敗 で計算 していたため、現在 の勝率 に換算 すると.230) - シーズン
最高 打率 .290(1980年 ) - シーズン
最多 得点 791(1980年 ) - シーズン
最多 安打 1332(2001年 ) - シーズン
最多 二塁打 249(2002年 ) - シーズン
最多 三塁打 40(1953年 、1954年 ) - シーズン
最多 本塁打 239(1980年 )※当時 日本 新 記録 。現在 はパ・リーグ記録 - シーズン
最多 四球 581(2001年 )※日本 記録 ) - シーズン
最多 四死球 644(2001年 )※日本 記録 - シーズン
最多 盗塁 223(1954年 ) - シーズン
最多 犠飛 52(1978年 )※日本 記録 - シーズン
最高 防御 率 2.66(1954年 ) - シーズン
最低 防御 率 5.10(1985年 ) - シーズン
本塁打 数 200本 以上 3回 (1980年 、1985年 、2001年 )※日本 記録 最大 連勝 13(1994年 7月 26日 ・対 ロッテ - 8月 10日 ・対 ロッテ)最大 連敗 13(1952年 5月25日 ・対 毎日 第 1試合 - 6月15日 ・対 西鉄 第 1試合 )- 1
試合 最多 得点 21(1980年 6月 30日 ・対 ロッテ第 1試合 、2000年 9月 5日 ・対 オリックス) - 1
試合 最多 失点 25(1985年 9月 18日 ・対 南海 ) - 1
試合 最多 安打 26(2003年 8月 18日 ・対 日本 ハム) - 1
試合 最多 二塁打 8(1963年 6月 19日 ・対 東映 、1963年 10月 3日 ・対 阪急 ) - 1
試合 最多 三塁打 3(1984年 5月 24日 ・対 南海 他 4度 ) - 1
試合 最多 本塁打 8(2003年 7月 12日 ・対 日本 ハム) - 1
試合 最多 犠打 7(1987年 ・対 南海 )※日本 記録 - 1
試合 最多 盗塁 9(1954年 7月 27日 ・対 毎日 )
歴代 監督 [編集 ]
- 1950
年 - 1952年 :藤田 省三 [※ 1] - 1953
年 - 1957年 :芥田 武夫 [※ 2] - 1958
年 :加藤 久幸 - 1959
年 - 1961年 :千葉 茂 [※ 3] [※ 4] - 1962
年 - 1964年 :別当 薫 [※ 5] - 1965
年 - 1966年 :岩本 義行 - 1967
年 :小玉 明利 - 1968
年 - 1970年 :三原 脩 - 1971
年 - 1973年 :岩本 堯 [※ 6] - 1974
年 - 1981年 :西本 幸雄 - 1982
年 - 1983年 :関口 清治 - 1984
年 - 1987年 :岡本 伊 三美 - 1988
年 - 1992年 :仰木 彬 - 1993
年 - 1995年 :鈴木 啓示 [※ 7] - 1996
年 - 1999年 :佐々木 恭介 [※ 8] - 2000
年 - 2004年 :梨 田 昌孝 [※ 9]
歴代 オーナー[編集 ]
- 1950
年 - 1989年 佐伯 勇 [55] - 1989
年 - 1998年 上山 善 紀 (1981年 より1989年 までオーナー代行 ) - 1998
年 - 2002年 金森 茂一郎 - 2002
年 - 2004年 田代 和
歴代 本拠地 [編集 ]
- 1950
年 藤井寺 球場 - 1950
年 9月 以後 - 1957年 大阪 球場 - 1958
年 - 1983年 日本生命 球場 - 1984
年 - 1996年 藤井寺 球場 - 1997
年 - 2004年 大阪 ドーム[注 1]
なお、この
名古屋 地区 ナゴヤ球場 [注 32]( - 1996年 )、長良川 球場 (1991年 - 1996年 )、ナゴヤドーム(1997年 - 1999年 )で3 - 10試合 程度 。オープン戦 では本来 本拠地 とする中日 とのビジターゲームもあった。京都 地区 西京極 球場 (1965年 - 1973年 :1968年 は非 開催 )で5 - 10試合 程度 。これとは別 に同様 に準 本拠地 としていた阪急 主催 での対 近鉄 戦 もあった。- また、1989
年 と1990年 は大阪 球場 で10試合 前後 の主催 試合 を行 った。
本拠地 についての備考 日生 球場 ・大阪 球場
永久 欠番 [編集 ]
- #1
鈴木 啓示 - 2004
年 当時 はパ・リーグ唯一 の永久 欠番 だったが、吸収 合併 先 のオリックスでは当時 1番 をつけていた後藤 光尊 が引 き続 き着用 を希望 したため、引 き継 がれず消滅 (オリックスも永久 欠番 の継承 を検討 して鈴木 本人 に確認 したが、「自分 の永久 欠番 はあくまで近鉄 での記録 によるもの」とし、後藤 の継続 着用 を承諾 した)。その後 、2007・2008年 は監督 のテリー・コリンズが着用 し(後藤 は24番 に変更 )、コリンズが退任 した2009年 から後藤 が再 び着用 したが、楽天 に移籍 した2014年 は空 き番 となり、2015年 シーズンより、米国 から帰国 した中島 裕之 に割 り当 てられた。ユニフォーム復刻 試合 ではオリックスの通常 の背番号 で近鉄 ユニフォームが作成 されるため、2013・15年 に着用 された1999~2004年 のユニフォームには、実際 の近鉄 時代 にはなかった「背番号 1」(2013年 ホーム用 で後藤 、2015年 ビジター用 紺 で中島 )が登場 した。 - また、
近鉄 として最後 の監督 である梨 田 昌孝 によって、以下 のような言葉 が残 されている。 - 「みんな
胸 を張 ってプレーしろ。お前 たちが付 けている背番号 は、すべて近鉄 バファローズの永久 欠番 だ」[56]
沢村 栄治 賞 受賞 者 [編集 ]
野茂 英雄 :1回 (1990年 )
三冠王 (投手 ・打者 )[編集 ]
投手 三冠王 [編集 ]
打者 三冠王 [編集 ]
最優秀 選手 受賞 者 (複 数 回 )[編集 ]
投手 の複 数 回 受賞 者 [編集 ]
打者 の複 数 回 受賞 者 [編集 ]
チームの特徴 [編集 ]
- 1990
年代 以前 は外様 監督 が多 く、仰木 彬 以前 の生 え抜 き監督 はプロ経験 のない藤田 省三 と芥田 武夫 を除 くと、加藤 久幸 と小玉 明利 の2人 しかいなかった。仰木 以降 は鈴木 啓示 ・佐々木 恭介 ・梨 田 昌孝 と生 え抜 き監督 が続 いたが、球団 消滅 により梨 田 が近鉄 最後 の監督 となった。監督 は「基本 的 に若手 中心 で」(補強 はしない)というのを毎年 命 じられていた。 打線 は「いてまえ打線 」(大阪 弁 。「やってしまえ」の意 )と呼 ばれ、特 にリーグ優勝 した2001年 にはチーム防御 率 4.98とリーグ最下位 ながらチーム打率 .280、チーム本塁打 数 211と他 チームを圧 倒 し優勝 をさらった。この年 は3番 のタフィ・ローズと4番 の中村 紀洋 だけで101本 、3番 - 7番 では実 に165本 もの本塁打 を叩 き出 し話題 となった。ローズが本塁打 王 (55本 )、中村 が打点 王 (132打点 )、主 に5番 に入 ることが多 かった礒 部 公一 は得点 圏 打率 1位 (.417)の成績 を残 している。この年 阪神 監督 の野村 克也 が自 チームの貧打 線 に対 し「(バックに)いてまえ打線 があったら(グレッグ・ハンセルは)20勝 している」というコメントを残 したのも有名 。1980年 には前述 のようにシーズン239本塁打 の日本 記録 を打 ち出 すなど、本塁打 の魅力 をどこよりも認識 させた球団 だった。詳細 はいてまえ打線 を参照 。野茂 英雄 、吉井 理 人 、大塚 晶 則 、中村 紀洋 、岩隈 久志 など、多 くのメジャーリーガーを輩出 している。- リーグ
優勝 する年 は、必 ずと言 って良 いほど助 っ人 外国 人 選手 が本塁打 を量産 する傾向 がある。実際 に、球団 設立 から消滅 までの55年 でリーグ優勝 は4回 あるが、この間 にチャーリー・マニエル(1979年 に37本 、1980年 に48本 )、ラルフ・ブライアント(1989年 に49本 )、ローズ(2001年 に55本 )がそれぞれ、本塁打 王 を獲得 している。 - 1970
年 前後 に日生 球場 のナイター使用 がプロ野球 機構 で問題 になり、近鉄 沿線 の三重 県 や愛知 県 へのフランチャイズ移転 も検討 されたが、愛知 県 は中日 ドラゴンズの保護 地域 であるため許可 を得 られず断念 した(ただし名古屋 での公式 戦 は地方 開催 扱 いで1999年 まで行 われていた。これは近鉄 の営業 圏内 であったことと、中京 にパ球団 を持 たないリーグ事情 も勘案 されていた)。1973年 に藤井寺 球場 のナイター工事 が着手 されたが、地元 の反対 で完成 は11年 後 の1984年 にずれこんだ。 日本一 を経験 していない球団 では、最長 の期間 存続 した。身売 りの多 いパ・リーグ球団 としては、唯一 親会社 が変 わらないまま歴史 に幕 を閉 じた。- 2004
年 9月、北海道 で行 われた世界 ラリー選手権 (WRC)、ラリージャパンに「チームバファローズ コットンファクトリー」としてプジョー・206で参戦 したが、リタイヤした。当時 の監督 の梨 田 がプジョーを愛車 としていたことが縁 だった。 最下位 になったことが非常 に多 いチームであり、1950年 の2リーグ分立 以降 では19回 。2010年 に横浜 ベイスターズが最下位 20回 を更新 するまでは消滅 したチームも含 めて両 リーグワーストだった。- シーズン90
敗 以上 を5シーズンで記録 している。2010年 に横浜 ベイスターズが6シーズンで90敗 以上 を更新 するまでワースト記録 だった。 選手 (特 に、外国 人 選手 )の複数 年 契約 は、原則 、球団 側 に認 められていなかった。このことが原因 で、2003年 シーズンオフにチームの主力 であったタフィー・ローズが交渉 決裂 し、読売 ジャイアンツへと移籍 している。それ以前 にも、近鉄 初 優勝 の立役者 であったチャーリー・マニエルの代理人 が1980年 シーズンオフに球団 に対 して法外 な要求 をしたため、契約 交渉 が決裂 したこともあった[注 34][注 35][60]。北海道 日本 ハムファイターズが2004年 に本拠地 を東京 ドームから札幌 ドームに移転 してからは日本 ハム以外 のパ・リーグ球団 も東京 ドームで主催 試合 を開催 するケースが増 えたが、近鉄 は球団 最終 年 となる2004年 は日本 ハムとの東京 ドームでの試合 はあったもののビジター開催 だったため、21世紀 以降 に現存 したパ・リーグ球団 では唯一 東京 ドームでの主催 試合 が組 まれなかった[注 36]。- プロ
野球 に理解 のないフロントの体質 に関 して不満 を持 つ選手 も多 かった。野茂 英雄 は先発 日 に藤井寺 球場 の駐車 場 に車 を止 めたところ、近鉄 本社 の人間 が来 るので車 を動 かすことを要求 されたり、契約 更改 の席 で「熾烈 な優勝 争 いをして2位 に終 わるのが一番 」(理由 については野茂 の項 を参照 )と言 われたこともある。佐々木 恭介 は入団 後 初 めてグランドに集 まった際 、フロントの訓示 で「お前 達 野球 クラブの選手 は」と言 われ、頭 に血 が上 ったと述懐 している。- 「ドン・マネー
事件 」での外国 人 選手 に対 する待遇 のみならず、監督 に三原 脩 が就任 する以前 、近鉄 選手 の移動 は列車 では当時 の三 等 車 (後 の普通 車 )のみ(西鉄 ライオンズなどは二 等 車 、後 のグリーン車 を既 に利用 していた)だったことからも、選手 に対 する待遇 の悪 さは伝統 的 なことであったといえる。 金村 義明 も著書 『在日 魂 』の中 で1989年 のパリーグ優勝 旅行 はハワイ4泊 6日 の旅 だったが、飛行機 は往復 ともエコノミークラス(金村 は球団 側 に「ビジネスクラスにして欲 しい」と要望 していたが、球団 側 が「ビジネスクラスは満員 でチケットが取 れない」と拒否 )であったり、選手 の子 どもの飛行機 代 は選手 の自腹 だった。後年 金村 は西武 でも優勝 旅行 を経験 したが、近鉄 と西武 の優勝 旅行 は同 じハワイでも雲泥 の差 だったとしている[61]。
ユニフォームの変遷 [編集 ]
- 1950
年 - 1952年 球団 創設 期 はホーム用 が胸 に「Pearls」が入 ったもの、ビジター用 は水色 を基調 としたユニフォームで胸 にゴシック体 で「KINTETU」のロゴが入 った(1952年 限 り)。ゴシック体 の「KINTETU」は1957年 まで使用 される。帽子 は「K」「P」など数種類 が存在 。 - 1953
年 左 胸 に「Pearls」と書 かれた、サンフランシスコ・シールズを参考 にしたユニフォームが登場 。同時 に縦縞 となり、球団 名 がバファローとなった1959年 まで使用 。 - 1954
年 - 1958年 左 胸 に「P」1文字 の、フィラデルフィア・フィリーズを参考 にしたデザイン。1958年 には帽子 のツバ、アンダーシャツ、ストッキングが赤 くなる(途中 から従来 の物 も使用 )。1958年 からビジター用 ロゴが飾 り文字 に変更 。 - 1959
年 千葉 監督 就任 と同時 に球団 名 をバファローに変更 。ホーム用 は黒 の帽子 ・アンダーシャツ・縦 じま・袖 ラインが採用 され、赤 い「Buffalo」の胸 マークが入 ったデザインに変更 された。ビジター用 は背番号 の書体 を変更 。帽子 の前面 には、金糸 で猛 牛 マークが入 った。 - 1960
年 - 1961年 縦縞 を廃止 。チームカラーを黒 と黄色 に変更 。ビジター用 の左 袖 が近鉄 の社 章 から猛 牛 マークに変更 される。 - 1962
年 - 1965年 球団 名 がバファローズとなり、胸 ロゴが「BUFFALOES」に変更 。袖 番号 が付 けられる。帽子 マークは「K」と「B」を組 み合 わせたものに。1965年 からラインを黒 に変更 し、番号 が胸 に移動 。 - 1966
年 - 1973年 ロサンゼルス・ドジャースを参考 にしたユニフォームに変更 。同時 にロゴも筆記 体 の「Buffaloes」に変更 。ストッキングは上部 が濃紺 に3本 の白線 、下部 が赤色 となる。 - 1974
年 - 1996年 西本 幸雄 監督 就任 時 より、ニット式 のベルトレスユニフォームが登場 。袖 部分 のラグランスリーブが赤 となり、首 と袖 に白線 が入 り、丸首 プルオーバースタイルとなる。左 袖 には、炎 と猛 牛 を組 み合 わせたマークが入 る。ユニフォームデザインはアトランタ・ブレーブスのものを参考 にしている。帽子 ・ヘルメットは、紺色 地 に赤 の「B」マーク(デザイン自体 は1966年 より使用 しているものと同 じでボストン・レッドソックスと同 じ書体 )・ツバが赤 。その後 、ヘルメットのみ猛 牛 マーク(赤色 のツノ・紺色 の目 を白 縁 でデザイン)に変更 されたデザインが使 われるようになる(採用 時期 不 詳 )。- 1977
年 より左 袖 のマークが猛 牛 マークになり、デサント社 が開発 した快適 性 、軽量 化 を図 ったメッシュ素材 の上着 を、野球 のユニフォームとしては世界 で初 めて採用 する。 - 1978
年 より背番号 の上 に選手 名 (英字 表記 )が入 り、ベルトレスからインナーベルト式 になる。 - 1978
年 後期 より、帽子 の地色 が赤 、前面 が白 、白 部分 のサイドに紺 のラインが入 り、紺色 の「KINTETSU BUFFALOES」のロゴ(アーチ型 )、猛 牛 マークが入 る三 色 帽 に変 わる。三 色 帽 はモントリオール・エクスポズが採用 していたものを参考 にデザイン。
- 1997
年 - 2004年 大阪 ドーム[注 1]移転 を機 にフルモデルチェンジ。デザインはコシノヒロコが手掛 ける。同時 に球団 カラーを「バファローズホワイト」、「バファローズオレンジ」、「バファローズネイビー」、「バファローズレッド」の4色 と設定 。デザインはそれに基 づかれた。帽子 ・アンダーシャツ・線 は紺 。- 1999
年 より、球団 名 が大阪 近鉄 バファローズとなり、ビジター用 が「Kintetsu」から「Osaka」に変更 。これが近鉄 最後 のユニフォームとなった。また左 袖 には50周年 記念 のバフィーワッペンが入 る(翌年 以降 、元 のバフィーワッペンに戻 す)。- ビジター
用 上着 のデザインは当初 は赤 のみだった[注 37][注 38]。しかし、いざユニフォームが完成 してみると、当時 の佐々木 監督 や選手 たちから「東芝 のユニフォームみたい」「プロが着 るユニフォームじゃない」などと異論 が続出 し、選手 たちがユニフォーム変更 を拒絶 しかける事態 となり[注 39]、事態 の沈静 化 を図 るため急遽 紺 が追加 された。その後 もファン感謝 デーでこのユニフォームが初 お披露目 された際 、ファンから「台湾 プロ野球 (のユニフォーム)だ」などと酷評 され、優勝 するまではこのユニフォームの評判 は良 くなかった。 - ビジター
用 はユニフォームは金曜日 から月曜日 は紺 、火曜日 から木曜日 では赤 と使 い分 けられていたが、2000年 以降 は紺 のみとなった(使 い分 けに関 しては当初 「ナイトゲームは赤 、デーゲームは紺 」とされたが、使用 頻度 の偏 りを避 けるために上記 のようになった)。このため、結果 的 に、「Osaka」ロゴの赤 は1999年 のみの使用 となった。
- ビジター
後身 のオリックス・バファローズの2011年 以降 の旧 ユニフォーム復刻 イベントで以下 の時代 のものが再現 された。
球団 旗 の変遷 [編集 ]
- 1949:「
近鉄 パールス」時代 のもの。紺地 にパール=真珠 を模 した白丸 をちりばめる。左上 には、真珠貝 を模 した白丸 の上 に「KP」の組 文字 。 - 1950 - 1958:KPマークを
真珠貝 ではなく、円 が囲 む形 となった。 - 1959 - 1981:
球団 ニックネームがバファローとなり、岡本 太郎 デザインの猛 牛 マークが登場 。水色 地 に赤 で猛 牛 マーク、両目 は紺 。 - 1982 - 1996:ユニフォームのカラーリングにあわせて、
球団 旗 の配色 も赤 ・紺 ・白 のトリコロールとなる。赤地 に白 の猛 牛 マーク(両目 の色 が白 であるものと紺 であるものの2種類 存在 した)、その下 に紺地 に白 文字 で「Buffaloes」。 - 1997 - 2004:
本拠地 の大阪 ドーム[注 1]移転 を機 に、球団 旗 もリニューアル。紺 と赤 を波 型 で分 け、中央 に白 の猛 牛 マーク、左上 には赤 文字 で「Buffaloes」。
シンボルマーク・マスコット[編集 ]
2013 | |
| |
ポジション | マスコット |
プロ |
1997 |
| |
この
|
- シンボルマーク
-
千葉 茂 が監督 に就任 した1959年 に、「バファロー」の新 チーム名称 に合 わせて千葉 の親友 だった岡本 太郎 がデザイン。「猛 牛 マーク」の通称 があったが、球団 広報 物 では「ツノマーク」と表記 していた。千葉 の述懐 に依 ると銀座 のバーで、デザイン料 10万 円 で依頼 したという。以降 球団 が解散 する2004年 まで、球団 旗 やユニフォームなどで使 われ続 けた。日本一 に輝 いた時 に姿 を公開 することとなっていた「猛 牛 マーク」を横 から見 たような「サブマーク」が有 ったが、公開 されず球団 と共 に消 えた。しかし、2008年 頃 にその幻 のマークの原画 が発見 され、2010年 に岡本 太郎 記念 館 で公開 された。従来 の猛 牛 マークが牛 の顔 のみであるのに対 してこちらは牛 の全身 を横 から捉 えた図 で岡本 曰 く「ふとっちょの猛 牛 が目 をむいて突 っ込 んでる愉快 なやつ」[64]。西武 ライオンズのシンボルマークやイメージカラーを積極 的 に用 いた西武 グループとは異 なり、グループのバスやタクシーなどに猛 牛 マークを入 れる例 は少 なく、運送 会社 である近鉄物流 (現 :近 物 レックス)の車両 や伝票 に見 られた程度 であった。近鉄物流 も球団 解散 の直前 にグループを離 れ、同社 のトラックに猛 牛 マークは残 っていたが、現在 はKBRに変更 されている。
- バッファくん
-
- 1976
年 から大阪 ドーム[注 1]移転 前 の1996年 に用 いられた[65]、白川 吉男 デザインによるユニフォームを着 た少年 をモチーフとしたマスコットキャラクター。近鉄 の野球 帽 ・ユニフォームを着用 しアシックスのスパイクを履 き、バットとグラブを持 ち片足 を上 げた少年 のデザインとして[66]、顔 のみのデザインも含 めたペットマークとして登場 。初期 のデザインではバットを握 った右手 の指 本数 が1本 足 りなかったが、後 に改作 された。着 ぐるみも作 られ、ファン感謝 デーなどでも登場 していた。このマスコットに似 ているということで、中村 紀洋 の愛称 になったこともある。2011年 8月 に開催 されたオリックス・バファローズの「LEGEND OF Bs2011〜蘇 る黄金 の70's〜」でスタメン発表 時 にバッファくんのイラストが使 われた。なお、バッファくん登場 前 には鼻息 をふかして突進 する姿 の猛 牛 のマスコットを使 っており、1975年 後期 優勝 の近鉄 電車 の記念 乗車 券 券面 には西本 幸雄 監督 の顔 と伴 に印刷 されている。 白川 が勤務 していたデザイン事務所 が近鉄 グループと取引 関係 があった縁 から、当初 は近鉄 沿線 の子供 向 けの少年 野球 の募集 用 ポスターのイラストとして依頼 されて製作 したのが、知 らない間 に球団 のマスコットとして起用 されたという。合併 後 、権利 を引 き継 いだオリックス球団 でもユニフォーム復刻 に合 わせてグッズが発売 されたが、別途 白川 も近鉄 本社 からグッズ製作 の許諾 を受 けたため、デザインを一部 修正 した上 でグッズを製作 ・販売 している[67]。
- 1976
- バフィリード
-
大阪 ドーム[注 1]への本拠地 移転 後 、1997年 シーズンより「トムとジェリー」「原始 家族 フリントストーン」などを手掛 けたアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションがキャラクターデザインを担当 した「バフィリード」を中心 としたマスコットキャラクター群 が登場 している[68]。夢 と冒険 のファンタジーワールド「バファローバレイ」に住 む愉快 な仲間 達 として以下 の4体 が制定 され中世 ヨーロッパ調 の私服 デザインとバフィリードのみユニフォーム姿 のデザインが設定 されたが[68]、その後 「カペロット」「バルバロック」は2000年 シーズンをもって登場 が打 ち切 られた[65]。- キャラクター
着 ぐるみ作成 及 び担当 は明石家 まんまや朝 おき太 等 を手 がけた株式会社 リップ。- バフィリード(Buffie-Lead、バフィ) -
背番号 100、主人公 。打 ってよし・走 ってよし・守 ってよしのスーパープレイヤーで明 るくユーモラスで親 しみやすい性格 、また困難 が起 こるとリーダーシップを発揮 する。名称 は一般 公募 で決定 [68]。 - ファルルリーナ(Falulu-Rena、ファルル) -
背番号 200、女 の子 のキャラクター。気取 った感 じはなく嫌味 なく物事 を言 う性格 [68]。2000年 以降 ユニフォーム姿 (ワンピースにベルト)に変更 。 - バルバロック(BALBAROCK、バル) -
大柄 な男性 のキャラクター。力持 ちでボスのような性格 、騎士 道 精神 に富 んだ正義 の男 [68]。 - カペロット(CAPELOT、カペロ) -
子 どものキャラクター。お人好 しでのんびり屋 、愛嬌 をふりまく人気 者 な性格 [68]。 球団 合併 により、各 キャラクターも引退 したが、バフィリードだけはオリックス本社 に商標 権 が譲渡 され[69]、2013年 に復刻 イベントに初 めて登場 し、2019年 にも同様 に復刻 イベントで登場 した。他 キャラに就 いては近鉄 本社 が更新 期限 まで所有 する状態 となっている。合併 球団 「オリックス・バファローズ」発足 後 、2010年 シーズンまで球団 マスコットはオリックス球団 のネッピー・リプシーが続投 されたが、2011年 1月 ユニフォームとともにマスコットが一新 され「牛 のマスコット」が6年 ぶりに復活 。のちに公募 で男 の子 が「バファローブル」(BuffaloBULL)、女 の子 が「バファローベル」(BuffaloBELL)と命名 された。バフィリードとは2013年 6月 のユニフォーム復刻 イベントで復活 した際 に共演 を果 たしている。背番号 はネッピー・リプシーのものを引 き継 ぎ111・222。詳細 は球団 の項目 を参照 。
- バフィリード(Buffie-Lead、バフィ) -
応援 スタイル[編集 ]
打者 に対 する基本 的 な応援 コールは「かっとばせー、○○(選手 名 )!××(対戦 相手 チーム)倒 せー、オー!」だった。このスタイルは1980年代 までは近鉄 のみならず大半 のチームで採 り入 れられていたが、1990年代 以降 は年々 少 なくなっていき、遂 には近鉄 でしか使 われなくなった。一方 で、近鉄 は球団 解散 時 までこのスタイルを通 した(ちなみに、現在 この応援 コールを使 っているのは北海道 日本 ハムファイターズと福岡 ソフトバンクホークスで、読売 ジャイアンツ主催 試合 のみである)。応援 歌 を流 す前 のコールは98年 の途中 までが「〜〜○○(驚 弾 炸裂 紀洋 、鋭 撃 巧 打 礒 部 、俊敏 華麗 に武藤 など)」×3を1回 もしくは2回 のあと「○○!(○○!)○○!(○○!)○○(○○!)」から選手 別 応援 歌 、98年 の途中 からは「〜〜○○」×3からすぐに応援 歌 の演奏 に変更 した。球団 解散 時 には『暴 れん坊 将軍 』のオープニングテーマを原曲 とするI(1995年 - )、タオルマフラーを持 って踊 るII(2000年 - )、2種類 の歌詞 があるIII(2001年 - )、ビハインドの場面 で使 われるIV(2002年 - )、ビッグイニングの時 に使 われるV(2003年 - )と5種類 のチャンステーマが存在 。III以降 は「踊 る牛 」「笑 う牛 」(以上 III)「紅 の丑 」(IV)「パニ牛 」(V)とタイトルもついていた(代打 のテーマにも「働 く牛 」というタイトルがついている)。前述 の『暴 れん坊 将軍 』のテーマはジェシー・リード(1991年 - 1992年 在籍 )の応援 歌 としても歌 われた。- ラルフ・ブライアント(1988
年 途中 から1995年 に在籍 )の応援 歌 は『仮面 ライダーV3』が原曲 。 - チャンス
時 のテーマ、三 三 七 に長 らく『8時 だョ!全員 集合 』のオープニングテーマを使 っていた。ドームに移転 してからこの曲 は安打 以外 での出塁 テーマとなり、安打 の場合 の三 三 七 はハロウィンの「Guardians」を使 った。 - ジェット
風船 はチームカラーの赤色 に統一 していた。 藤井寺 球場 は住宅 地 と隣接 していたため、鳴 り物入 りの応援 が禁止 されており、メガホンと声 だけの応援 スタイルを取 った[注 40]。- 1985
年 の日本 シリーズ(阪神 対 西武 )では、甲子園 球場 での西武 側 の応援 団 が少 ないだろうということで近鉄 の応援 団 が協力 を申 し出 て共 に応援 を行 った。
主 な球団 歌 ・応援 歌 [編集 ]
大阪 近鉄 バファローズの歌 (旧 題 :近鉄 バファローズの歌 )(作詞 :竹中 郁 、作曲 :米山 正夫 、歌 :クールボナール)炎 えろ!近鉄 バファローズ(作詞 :西沢 爽、作曲 :城 賀 イサム)- ドリーム&パワー(
作詞 ・作曲 :岡田 誠司 、歌 :イエスマン・ブギー・バンド フィーチャリング JUN) - レッドdeハッスル(
作詞 :キユサマ☆ワカルフ、作曲 :パパダイスケ、歌 :大西 ユカリと新 世界 )
エピソード[編集 ]
三軍 構想 [編集 ]
1967
しかし、
ミケンズルール[編集 ]
「巨人 はロッテより弱 い」[編集 ]
ネーミングライツ問題 [編集 ]
2004
ネーミングライツ
過去 の合併 計画 [編集 ]
2004
近鉄 と広島 が合併 本拠地 を広島 県 広島 市 に置 き、セ・リーグ所属 とする球団 事務所 ・フロントや首脳 陣 は両 オーナー相談 の上 で決定 し、新 しい首脳 陣 が選手 50人 を人選 資本 は近畿日本鉄道 と広島 球団 の出資 者 (東洋工業 と同社 創業 家 の松田 家 関係 者 や球団 役員 などの個人 株主 他 )[注 43]で半々 球団 愛称 は公募 する
と
幻 の移転 計画 [編集 ]
- 1960
年代 には近鉄 の路線 網 の東 端 である名古屋 への移転 を計画 したが、愛知 県 を保護 地域 としている中日 ドラゴンズの反対 で実現 しなかった。ナゴヤ球場 及 びナゴヤドームでは1990年代 後半 まで年数 試合 の主催 試合 を開催 していたが、ナゴヤドーム移転 後 は観客 動員 が極端 に落 ち込 んだため1999年 限 りで撤退 した。 - 1970
年代 に西本 幸雄 が佐伯 勇 オーナーに、近鉄 沿線 の花園 ラグビー場 周辺 を整備 して野球 場 を建設 し、本拠地 を移転 することを進言 したところ、「(お金 が)幾 らかかると思 っているんだ」と近鉄 グループ単独 による建設 が困難 であることを伝 えられたという。その後 、1980年代 初頭 の藤井寺 ナイター問題 時 には、ラグビー場 の所在地 である東大阪 市 が受 け入 れと球場 の建設 費用 出資 に名乗 りを上 げたことが新聞 報道 されたが、藤井寺 のナイター設備 設置 計画 がまとまったことで立 ち消 えとなった。なお、この花園 ラグビー場 周辺 はその後 東大阪 市営 の花園 中央 公園 として整備 され、野球 場 「花園 セントラルスタジアム」も建設 された。2013年 にはオリックス2軍 が主管 試合 を開 いている。
また、
放送 [編集 ]
テレビ放送 [編集 ]
- NHKプロ
野球 (NHK大阪 放送 局 ) - THE BASEBALL
野球 烈 闘 (MBSテレビ) - スーパーベースボール(
朝日放送 テレビ) 熱 チュー!プロ野球 2004(関西 テレビ、関西 ローカル時 は『プロ野球 中継 2004』)- 1
球 の緊張 感 THE LIVE 2004(読売 テレビ) 藤井寺 バファローズアワー(テレビ大阪 )近鉄 エキサイトアワー(KBS京都 )- サテライトスタジアム(スカイA。
自社 制作 ・朝日放送 テレビ制作 ・KBS京都 制作 が混在 )
ラジオ放送 [編集 ]
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『
大阪 ドーム』は現在 も正式 名称 。現在 呼称 されている『京 セラドーム大阪 』は大阪 近鉄 バファローズが消滅 した後 の2006年 から大阪 ドームのネーミングライツ売却 により使用 されているもので、大阪 近鉄 バファローズとしては『京 セラドーム大阪 』は一 度 も使用 していない。 - ^
毎日 オリオンズと合併 して毎日 大映 (大毎 )オリオンズとなり、球団 組織 ・法人 格 と各種 記録 は毎日 側 の存続 としたが、この合併 は表面 上 は対等 合併 形式 で、組織 の実態 は大映 側 が毎日 側 を吸収 してが経営 の主導 権 を握 る実質 的 な逆 さ合併 だったため、名実 ともに吸収 合併 形式 で尚 且 つ経営 権 もオリックス側 に完全 譲渡 された本 球団 の事例 とは実態 が全 く異 なっている。 - ^ 1938
年 、南海 軍 として設立 。1947年 5月 に旧 南海 が近鉄 から分離 したことにより、球団 の運営 も南海 となる。 - ^
二 軍 でもウエスタン・リーグを1995年 に1回 だけ優勝 するも、二 軍 の日本一 は達成 できなかった。なお、楽天 が2013年 に日本 シリーズで優勝 したため、同年 の時点 で現存 する12球団 全 てが日本一 を経験 していることになる。このほか、日本 シリーズに進出 した経験 がありながら日本一 になれなった消滅 球団 としては1950年 の松竹 ロビンス(1953年 に大洋 ホエールズと対等 合併 して「大洋 松竹 ロビンス」に改称 するが、大洋 が存続 球団 として扱 われ、その翌年 に松竹 が球団 経営 から撤退 したことに伴 い、大洋 漁業 による単独 経営 に変更 されたため、それ以降 は消滅 球団 として扱 われている)がある。 - ^ ただし、
阪神 は合併 後 の2023年 に合併 球団 であるオリックス・バファローズと日本 シリーズで対戦 している。一方 、中日 ・横浜 (DeNA) は合併 相手 である阪急 →オリックス(ブレーブス・ブルーウェーブ)や合併 球団 のオリックス・バファローズを含 め、2023年 までに日本 シリーズで対戦 したことは一 度 もない。 - ^
最下位 は大映 で、この年 のオフに毎日 と合併 している。 - ^
監督 就任 と同時 に登録 名 を「加藤 久幸 」に変更 した。 - ^
公募 も行 い、最 も票 の集 まったのがバファローだったという情報 もある[13]。 - ^ チーム
最多 勝 、26敗 はリーグ最多 敗戦 。 - ^ いずれの
年 もリーグワースト。 - ^ 『プロ
野球 記録 大鑑 』のには1ゲーム差 と書 かれているが、実際 は2ゲーム差 である[17]。 - ^ この
時点 での成績 は、近鉄 が72勝 48敗 6分 (勝率 .600)、阪急 が73勝 49敗 4分 (勝率 .598)で、近鉄 は2勝 で優勝 となるのに対 し、阪急 は2勝 1分 以上 が条件 だった(当時 の新聞 縮刷 版 による)。 - ^
仰木 就任 以前 の近鉄 は西武 に対 しては西武 創設 初年度 の1979年 に勝 ち越 して以降 、仰木 就任 初年度 の1988年 に勝 ち越 すまで1986年 のタイを除 いて、全 て負 け越 すなど相性 は良 くなかった。 - ^
被 本塁打 も251本 で、こちらも日本 プロ野球 新 記録 。 - ^
当時 は試合 時間 が4時 間 を越 えると新 しいイニングに入 らないというルールがあった。 - ^ この
日 は後 に近鉄 と球団 合併 することになるオリエント・リース(現 :オリックス)が阪急 を買収 することを発表 した日 でもあった。 - ^
第 1試合 全 打点 をたたき出 す3打席 連続 本塁打 と、第 2試合 敬遠 四球 を挟 んでの4打数 連続 - ^ 1980
年 プレーオフでの近鉄 の主催 試合 はナイター設備 が未 整備 により、藤井寺 球場 ではなく大阪 球場 で行 われたため「'本拠地 球場 でのリーグ優勝 」ではない。 - ^ 1979
年 、1980年 はプレーオフと同様 の理由 により、大阪 球場 で開催 している。 - ^
加藤 のこの発言 に対 し、巨人 の選手 が怒 って奮起 し4連勝 した、とされるもの。詳細 はこちらを参照 。 - ^ この
時 競合 したのはダイエー、阪神 、オリックス、大洋 、ロッテ、日本 ハム、ヤクルト - ^
詳 しい経緯 は「野茂 英雄 の近鉄 退団 」を参照 。 - ^
近鉄 の管轄 駅 で大阪 ドームに最 も近 いのは大阪 難波 駅 (球団 消滅 時点 の名称 は「近鉄 難波 駅 」)である。ただし、大阪 ドームの最寄駅 の一 つには大阪 市 交通 局 (大阪 市営 地下鉄 、現在 の大阪 市 高速 電気 軌道 (Osaka Metro))中央 線 の九条 駅 があり、近鉄 球団 消滅 前 から近鉄 東大阪 線 (現在 の近鉄 けいはんな線 )の列車 が相互 直通 運転 で乗 り入 れている。近鉄 球団 消滅 後 の2009年 3月 20日 には阪神 なんば線 の延伸 開業 に伴 いドーム前 駅 が新設 され、近鉄難波 線 ・奈良 線 の列車 も相互 直通 運転 で同 駅 に乗 り入 れるようになった。 - ^ 2001
年 に前川 勝彦 が12勝 するまで、近鉄 は二 桁 勝利 投手 が出 なかった。 - ^ ロッテ
相手 には翌年 から球団 消滅 を迎 える2004年 まで負 け越 した。 - ^
球団 運営 は従来 通 り近鉄 が担 うものの、スポンサーを募 り球団 名 を「●●(ネーミングライツ購入 企業 )バファローズ」とするもの。かつての太平洋 クラブライオンズ ⇒ クラウンライターライオンズ(球団 運営 は福岡 野球 )もこれに該当 した。 - ^ この
中止 の代替 開催 は行 われなかった。 - ^ 2016
年 は不 開催 。 - ^ なお、
同 じく2013年 に行 われたパ・リーグ全体 の「レジェンド・シリーズ」(8/30-9/5)でのオリックスはブルーウェーブの1991年 ~2000年 シーズンの復刻 ユニフォームを使用 した。http://special.pacificleague.jp/legend2013/ - ^
厳密 に言 えば、球団 創設 当時 親会社 の路線 は宇治山田 止 まりで志摩 方面 まで延 びておらず、同 地域 を走 っていた私鉄 線 は鳥羽 と賢島 を結 ぶグループ企業 の三重交通 志摩線 (現 ・近鉄 志摩線 )だけであった。命名 の理由 は将来 の近鉄 阪 伊 ・名 伊 特急 の賢 島 への延伸 計画 を見越 してのものとも捉 えられるが、三重 交通 から鉄道 部門 を1964年 に分社 した三重 電気 鉄道 が1965年 に近鉄 に合併 されたことで志摩 地区 が名実 ともに近鉄 沿線 となり、鳥羽線 の全線 開通 で志摩 地区 が他 の近鉄 線 と接続 し、各 特急 の賢島 直通 が実現 した1970年 には球団 愛称 が既 に「バファローズ」に変 わっていた。 - ^
近鉄 特急 でも1970年 から1976年 頃 まで「阪 伊 甲 特急 」と「名 伊 甲 特急 」に「パールズ」の愛称 名 が付 けられていた。 - ^
開場 から1975年 までの名称 は「中日 スタヂアム」。 - ^ NPBの
球団 で本拠地 が「市 」ではなかったケースは、阪神 タイガース(当時 の名称 は「大阪 タイガース」)が1951年 3月 31日 までは兵庫 県 武庫 郡 鳴尾 村 に本拠地 を構 えていたというケースがある。 - ^
結局 マニエルは、監督 が放出 を決 めた広岡 達朗 から武 上 四郎 に変 わっていたこともあり、翌 1981年 にヤクルトに復帰 したが、急速 な衰 えを見 せたことから同年 限 りで現役 を引退 した。 - ^
外国 人 選手 の場合 、基本 的 に代理人 に交渉 を一任 する例 が大半 のため、法外 な要求 は代理人 サイドによるものが多 い。 - ^
一方 でビジター扱 いで前述 したように2004年 には対 日本 ハム戦 を開催 した他 、対 ダイエーとの試合 も開催 された。また、東京 ドーム開場 を記念 して1988年 の開幕 前 に行 われた「サッポロビール・プロ野球 トーナメント大会 」では、近鉄 を含 めた全 球団 がホーム用 のユニフォームを着用 していた他 、オールスターゲームでパ・リーグ(東京 ドームでは日本 ハム)がホーム扱 いで開催 する試合 や、日米 野球 (1990年代 や2000年代 などの日米 野球 の日本 代表 は現在 の侍 ジャパンのような国際 化 した試合 ではなく、各 球団 のユニフォームを着 るオールスターゲームのような試合 )でホーム扱 いの試合 ではホーム用 のユニフォームを着 る姿 が見 られた。 - ^ これはデザインを
担当 したコシノが、事前 にバファローズのイメージカラーを調査 したところ、「赤 」という意見 が大半 を占 めたため[62]。 - ^ コシノはデザインを
手掛 けるにあたり、照明 等 で色彩 が大 きく変 わる為 、赤 のビジター用 ユニフォームが苦労 したとの事 [63]。 - ^ これと
前後 して『週刊 ベースボール』誌 がコシノにインタビューした際 、コシノが「あたしが作 ったユニフォームなんだから誰 が着 たって似合 うに決 まってるわよ」と放言 した記事 が載 り、これが異論 の火 に油 を注 ぐ格好 となった。 - ^ 1999
年 の最終 戦 で試合 の終盤 にトランペットを使用 するなど、いくつかの例外 もある。 - ^
中村 長 芳 オーナー率 いる福岡 野球 が経営 母体 。 - ^
企業 としてのアコムは、対 青少年 も含 めた社会 福祉 活動 や、文化 ・芸術 支援 活動 、大学 での金銭 教育 などの金融 啓発 活動 にも積極 的 に取 り組 んでいた。 - ^
当時 広島 球団 には、広島電鉄 ・中国新聞社 など県内 の主要 企業 も出資 していたが、これらが合併 球団 への出資 も行 う方向 だったかは不明 。
出典 [編集 ]
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近鉄 バファローズのマスコットが“復活 ”生 みの親 がグッズ制作 意外 な誕生 秘話 -神戸 新聞 NEXT(神戸新聞社 )、2018年 10月 18日 、5時 30分 配信 。 - ^ a b c d e f '97
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商標 出願 ・登録 情報 登録 4165094 BUFFIE-LEAD バフィリード - J-PlatPat - ^
三軍 にも歴史 があるああだこうだと好 き放題 書 くブログ。2015年 1月 16日 記事 。 - ^
青木 一三 『『ダイエー/オリックス球団 買収 の真相 』ブックマン社 、1989年 、107-108頁 。ISBN 4893081055。
参考 文献 [編集 ]
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近鉄 バファローズ』日刊スポ ーツ出版社 〈日刊 スポーツグラフ〉、2004年 。ISBN 4817252413。 宮本 又郎 (監修 )著 、近畿日本鉄道 秘書 広報 部 (社 史 編纂 チーム)編 『近畿日本鉄道 100年 のあゆみ 1910 - 2010』近畿日本鉄道 、2010年 。- 『
近鉄 バファローズ球団 史 1950‐2004』ベ ースボ ール・マガジン社 〈M.M.BOOK〉、2012年 。ISBN 9784583618692。
関連 項目 [編集 ]
- プロ
野球 チーム一覧 大阪 近鉄 バファローズの主催 試合 の地方 球場 一覧 近鉄 バファローズナイター(ラジオ大阪 )近鉄 バファローズアワー(ABCラジオ)近鉄百貨店 - パ・リーグ優勝 時 に全店 で優勝 記念 セールを行 っていた(日本一 達成 時 も記念 セールを行 うはずだったが、出場 した日本 シリーズ全 回 で敗 れたため「ご声援 感謝 セール」として実施 )。- OSAKAクラシック
大阪 紅 牛 會 東北 楽天 ゴールデンイーグルス花園 近鉄 ライナーズ -近鉄 が野球 と共 に力 を入 れているシンボルスポーツ部 で、近鉄 の沿線 地域 にある東大阪 市 花園 ラグビー場 を本拠地 に使用 するJAPAN RUGBY LEAGUE ONE加盟 のラグビーチーム。発足 の当初 は「バファローズ」を名乗 っていて、2003年度 のジャパンラグビートップリーグ加盟 を機 に「ライナーズ」へ改称 。花園 中央 公園 -東大阪 市 花園 ラグビー場 に隣接 している公園 で、近鉄 の本拠地 に使用 する目的 で野球 場 を整備 する計画 があった。- クラブオックス
川崎 AFC -前身 の名称 が「近鉄 バッファローズ」であった(近鉄 エクスプレスのアメリカンフットボール部 )。ただし、野球 の近鉄 バファローズとの交流 は特 になかった。沿革 も参照 。 佐野 正幸 - パ・リーグファンの視点 で、近鉄 に関 する著作 を多々 発表 していたスポーツライター。西本 幸雄 とは阪急 の監督 時代 から交流 があって、西本 が近鉄 の監督 へ転身 したことを機 に、1977年 から1998年 まで近鉄 応援 団 の団長 を務 めていた。堀江 貴文 -元 ライブドア代表 取締役 。合併 発表 時 、買収 をはかる。三木 谷 浩史 -楽天 グループ代表 取締役 。堀江 同様 合併 発表 時 、買収 をはかる。- 06BULLS -
関西 独立 リーグ(初代 および2代目 )に所属 する球団 。チーム名 の「BULLS」(雄 牛 )は、創設 者 で初代 監督 の村上 隆行 が近鉄 OBであったことに由来 している(参考 外部 リンク:06BULLS村上 隆行 総 監督 単独 ロングインタビュー -東大阪 バーチャルシティ(2011年 10月 27日 取材 )) 横浜 フリューゲルス - 1993年 から1998年 までJリーグに加盟 していたプロサッカークラブ。横浜 マリノスへの吸収 合併 を機 に消滅 したが、クラブの存続 を願 うサポーターなどが1999年 に横浜 FCを設立 した。舞 いあがれ! - 2022年 度 下半期 にNHKで放送 された連続 テレビ小説 (BK制作 )。ヒロインの実家 の隣 でお好 み焼 き店 を営 む梅津 勝 (演 :山口 智 充 )が近鉄 バファローズのキャップとT シャツ(岡本 太郎 デザインのホームゲーム仕様 )姿 で店先 に立 つシーンや、近鉄 バファローズが2004年 限 りで消滅 することに触 れた描写 が含 まれている。- アトムの
童 - 2022年 10月 期 にTBSテレビ系列 「日曜 劇場 」枠 で放送 された連続 ドラマ。登場 人物 である各務 英次 (演 :塚地 武 雅 )が近鉄 バファローズのキャップを被 っている描写 が多 くある。 - バファローズ (
曖昧 さ回避 )