太平洋戦争 たいへいようせんそう (たいへいようせんそう、英語 えいご : Pacific War )は、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )から1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )まで行 おこな われた戦争 せんそう であり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の局面 きょくめん の一 ひと つである。
日本 にっぽん などの枢軸 すうじく 国 こく とアメリカ 、イギリス 、中国 ちゅうごく などの連合 れんごう 国 こく の間 あいだ で行 おこな われた戦争 せんそう であった。実際 じっさい には以前 いぜん から日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )が続 つづ いており、その継続 けいぞく としての側面 そくめん もある[15] [16] 。日本 にっぽん は1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち に連合 れんごう 国 こく に対 たい して降伏 ごうぶく し、国民 こくみん にも終戦 しゅうせん が伝 つた えられた。その後 ご 9月2日 にち に日本 にっぽん 政府 せいふ が降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい し、戦争 せんそう は正式 せいしき に終結 しゅうけつ した。なお、これ以降 いこう もソ連 それん 軍 ぐん による日本 にっぽん 侵攻 しんこう など戦争 せんそう 状態 じょうたい は一部 いちぶ で継続 けいぞく した。
その後 ご 、日本 にっぽん は連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ)により占領 せんりょう され、戦後 せんご 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ へ移行 いこう 、連合 れんごう 国 こく による日本 にっぽん 占領 せんりょう は7年 ねん にわたり続 つづ いた。
名称 めいしょう ・期間 きかん [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく やイギリス、オーストラリア などの連合 れんごう 国 こく においては、主戦 しゅせん 場 じょう が太平洋 たいへいよう 地域 ちいき であったことから「Pacific Theater (太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき )」が使用 しよう され[17] 、「the War in the Pacific (Theater)」「WW II-Pacific Theater」「the Pacific Theater in the Second World War」など第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の戦線 せんせん ・戦域 せんいき 名 な が用 もち いられた。これは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん としての意味 いみ である。戦時 せんじ 中 ちゅう は「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」という名称 めいしょう が使 つか われたことはなく[17] 、対 たい 日 にち 戦争 せんそう (War against Japan )と呼 よ ばれた。また、中国 ちゅうごく 戦線 せんせん やインド・ビルマ戦線 せんせん は、太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき とは区別 くべつ されていた。
なお、英語 えいご 圏 けん やスペイン語 ご 圏 けん では、南米 なんべい における1865年 ねん のチリ やペルー とスペイン の戦争 せんそう 、1879年 ねん - 1884年 ねん のチリとボリビア およびペルーとの「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」は The War of the Pacific と呼 よ ぶ。対 たい 日 にち 戦争 せんそう は The Pacific War と表記 ひょうき され区別 くべつ されている。日本 にっぽん でも両 りょう 戦争 せんそう を「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」と表記 ひょうき するため、国際 こくさい 的 てき に「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」呼称 こしょう は誤解 ごかい を招 まね くという指摘 してき がある。
「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」と「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」呼称 こしょう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん では1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )の日米 にちべい 未来 みらい 戦記 せんき などで「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」が使用 しよう されたが、1941年 ねん の開戦 かいせん 直後 ちょくご に「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」が閣議 かくぎ 決定 けってい された[20] (「亜 あ 」は「亜細亜 あじあ 」すなわちアジア の略語 りゃくご )。「アジアの欧米 おうべい 植民 しょくみん 地 ち を解放 かいほう し、大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん を設立 せつりつ してアジアの自立 じりつ を目指 めざ す」という理念 りねん を掲 かか げた。植民 しょくみん 地 ち 宗主 そうしゅ 国 こく を中心 ちゅうしん に構成 こうせい された連合 れんごう 国 こく 側 がわ にとっては都合 つごう が悪 わる かったため、[要 よう 出典 しゅってん ] 戦後 せんご 、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ)の占領 せんりょう 政策 せいさく で「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」は「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」へ強制 きょうせい 的 てき に変更 へんこう させられた[21] 。
GHQはプレス・コード など[22] で「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の使用 しよう を新聞 しんぶん で避 さ けるように指令 しれい し、1945年 ねん 12月8日 にち (開戦 かいせん 4周年 しゅうねん )以降 いこう 、新聞 しんぶん 各紙 かくし でGHQ民間 みんかん 情報 じょうほう 教育 きょういく 局 きょく 作成 さくせい の『太平洋戰爭 たいへいようせんそう 史 し −真実 しんじつ なき軍国 ぐんこく 日本 にっぽん の崩壊 ほうかい 』の掲載 けいさい を開始 かいし 。この満 まん 洲 しゅう 事変 じへん から太平洋戦争 たいへいようせんそう までを連続 れんぞく させ日本 にっぽん の侵略 しんりゃく と残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を詳細 しょうさい に叙述 じょじゅつ した戦史 せんし の単行本 たんこうぼん 10万 まん 部 ぶ は完売 かんばい 、GHQ指導 しどう で学校 がっこう 教育 きょういく でも奨励 しょうれい され、定着 ていちゃく した。12月15日 にち の神道 しんとう 指令 しれい [24] では軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ ・国家 こっか 主義 しゅぎ を連想 れんそう させるとして「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」呼称 こしょう の使用 しよう を公文書 こうぶんしょ において禁止 きんし した(のち失効 しっこう [26] )。
翌 よく 1946年 ねん 、法律 ほうりつ や勅 みことのり 令 れい の文言 もんごん は「今次 こんじ ノ戦争 せんそう 」と改 あらた められた[27] 。1960年 ねん 頃 ごろ から一 いち 種 しゅ のタブー扱 あつか いとされ「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」はメディアでの使用 しよう は控 ひか えられており、日本 にっぽん 政府 せいふ はGHQの政策 せいさく 以降 いこう 、現在 げんざい まで公的 こうてき には「今次 こんじ 戦争 せんそう 」「先 さき の大戦 たいせん 」「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 」などを用 もち いている。ただし2006年 ねん (平成 へいせい 18年 ねん )の政府 せいふ 見解 けんかい では「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の定義 ていぎ を定 さだ める法令 ほうれい はないとされた[28] 。
2007年 ねん (平成 へいせい 19年 ねん )の政府 せいふ 見解 けんかい では「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の定義 ていぎ については、当時 とうじ の閣議 かくぎ 決定 けってい において「「今次 こんじ ノ対 たい 米 べい 英 えい 戦争 せんそう 及今後 こんご 情勢 じょうせい ノ推移 すいい ニ伴 とも ヒ生起 せいき スルコトアルヘキ戦争 せんそう ハ支 ささえ 那 な 事変 じへん ヲモ含メ大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう ト呼称 こしょう ス」とされている」とした一方 いっぽう 、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の定義 ていぎ については「政府 せいふ として定義 ていぎ して用 もち いている用語 ようご ではない」とした[29] 。また、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう と太平洋戦争 たいへいようせんそう は同一 どういつ の戦争 せんそう か」という質問 しつもん に対 たい し、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」を定義 ていぎ していない関係 かんけい 上 じょう 、答 こた えることは困難 こんなん であるとした。
2024年 ねん (令 れい 和 わ 6年 ねん )、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 第 だい 32普通 ふつう 科 か 連隊 れんたい が公式 こうしき X で「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を含 ふく む投稿 とうこう [30] をし、波紋 はもん を呼 よ んだ[31] 。
「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の呼称 こしょう に関 かん する論争 ろんそう 等 とう [ 編集 へんしゅう ]
主 おも にアメリカや戦後 せんご のマスコミにより広 ひろ められたため、民間 みんかん でも「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」呼称 こしょう が定着 ていちゃく した[33] が、それ以外 いがい の戦争 せんそう 呼称 こしょう についても歴史 れきし 学 がく 、歴史 れきし 認識 にんしき 問題 もんだい などで議論 ぎろん が多数 たすう なされた。
たとえば林 はやし 房雄 ふさお は薩英戦争 せんそう や馬 うま 関 せき 戦争 せんそう [35] 、ペリー来航 らいこう 以来 いらい の西欧 せいおう 列強 れっきょう のアジア侵略 しんりゃく に対抗 たいこう して日本 にっぽん がアジア解放 かいほう を目的 もくてき とした「大 だい 東亜 とうあ 百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう 」の集大成 しゅうたいせい として「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」をみなし、そのほか、十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう 、アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう 、昭和 しょうわ 戦争 せんそう [39] などの呼称 こしょう が提唱 ていしょう された。アメリカの歴史 れきし 家 か ジョン・ステファンは呼称 こしょう として第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん は広範囲 こうはんい で、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」は「あまりに狭 せま すぎる」ので不適切 ふてきせつ であり「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」という呼称 こしょう が「日本 にっぽん がインド洋 いんどよう や太平洋 たいへいよう 、東 ひがし アジアおよび東南 とうなん アジアで繰 く り広 ひろ げようとした戦争 せんそう を最 もっと も正確 せいかく に表現 ひょうげん している」と指摘 してき している。
またイギリスの歴史 れきし 家 か C・ソーン はアメリカはイギリスとの関係 かんけい から対 たい 日 にち 戦争 せんそう に至 いた った経緯 けいい から「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」は不適切 ふてきせつ で、極東 きょくとう 戦争 せんそう を提唱 ていしょう したが、ソーンの他 ほか A・J・P・テイラー らは日本 にっぽん がアジアでの英国 えいこく 勢力 せいりょく を駆逐 くちく するために開戦 かいせん し、結果 けっか としてイギリスは植民 しょくみん 地 ち を失 うしな い「敗北 はいぼく 」したことを考 かんが えれば「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」呼称 こしょう は妥当 だとう とした。ジョン・プリチャードらは「十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう 」は曖昧 あいまい で「極東 きょくとう 戦争 せんそう 」は地理 ちり 的 てき にヨーロッパ中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ 、「War with Japan(対 たい 日 にち 戦争 せんそう )」も一方 いっぽう 的 てき なので「大 だい 東亜 とうあ ・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」という呼称 こしょう を提案 ていあん した[43] 。
また小中学校 しょうちゅうがっこう 等 とう の教科書 きょうかしょ では太平洋 たいへいよう 以外 いがい にもアジア地域 ちいき で戦 たたか ったことから「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」と明記 めいき されている教科書 きょうかしょ もある。また、「・」なしで「アジア太平洋戦争 たいへいようせんそう 」とする場合 ばあい もある。
平成 へいせい 13年度 ねんど の教科書 きょうかしょ 検定 けんてい では「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう というい方 いかた も、一般 いっぱん 的 てき になっている。」と書 か いた教科書 きょうかしょ に「「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」という用語 ようご は、現在 げんざい 一般 いっぱん 的 てき とは言 い い難 がた い」という検定 けんてい 意見 いけん が付 つ いた。
戦争 せんそう の期間 きかん はマレー作戦 さくせん 開始 かいし および開戦 かいせん の詔 みことのり が出 だ された1941年 ねん 12月8日 にち から大日本帝国 だいにっぽんていこく 政府 せいふ が降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に調印 ちょういん した1945年 ねん 9月2日 にち とするのが一般 いっぱん 的 てき である[44] が、様々 さまざま な戦争 せんそう 呼称 こしょう によって起点 きてん は異 こと なる。中華民国 ちゅうかみんこく および中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく では「抗日 こうにち 戦争 せんそう 」として8年間 ねんかん ないし満 まん 洲 しゅう 事変 じへん (柳 やなぎ 条 じょう 湖 みずうみ 事件 じけん )以降 いこう の14年間 ねんかん [45] とされる。
関与 かんよ した国家 こっか ・勢力 せいりょく [ 編集 へんしゅう ]
※は途中 とちゅう で陣営 じんえい 替 が えを行 おこな った国 くに ・勢力 せいりょく
1939年 ねん におけるアジア太平洋 たいへいよう 地域 ちいき の政治 せいじ 地図 ちず
戦争 せんそう の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けた中立 ちゅうりつ 国 こく [ 編集 へんしゅう ]
ポルトガル - アジアにおける植民 しょくみん 地 ち (マカオ およびポルトガル領 りょう ティモール )が枢軸 すうじく 国 こく と連合 れんごう 国 こく によって占領 せんりょう された。
戦争 せんそう の原因 げんいん と開戦 かいせん までの経緯 けいい [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん と中国 ちゅうごく の対立 たいりつ と、それによる満 まん 洲 しゅう をめぐる国境 こっきょう 紛争 ふんそう により発生 はっせい した日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )は予想 よそう 外 がい の総 そう 力戦 りきせん となった。結果 けっか 、泥沼 どろぬま 化 か し、解決 かいけつ のめどが立 た たなくなっていた。日本 にっぽん は南進 なんしん を行 おこな い、中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう への物資 ぶっし の補給 ほきゅう 路 ろ を断 た ち、石油 せきゆ などの戦略 せんりゃく 物資 ぶっし を入手 にゅうしゅ することで日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の解決 かいけつ を図 はか った。日 にち 蘭 らん 会商 かいしょう により、オランダ領 りょう 東 ひがし インド (蘭 らん 印 しるし )から石油 せきゆ を入手 にゅうしゅ することはできていたが、日本 にっぽん 軍 ぐん の南進 なんしん による南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう をきっかけにオランダ領 りょう 東 ひがし インドは日本 にっぽん との経済 けいざい 協定 きょうてい や石油 せきゆ 協定 きょうてい を破棄 はき し日本 にっぽん に石油 せきゆ を与 あた えなくなった。ヴィシーフランス から許可 きょか を貰 もら って進駐 しんちゅう したものの南進 なんしん が欧米 おうべい の反発 はんぱつ を買 か うことは必至 ひっし であったが、欧州 おうしゅう 諸国 しょこく はナチス・ドイツ の台頭 たいとう と1939年 ねん 9月 がつ に始 はじ まった第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん により東 ひがし アジアに関与 かんよ する余裕 よゆう が乏 とぼ しくなっており、アメリカへの対策 たいさく が問題 もんだい となった。日本 にっぽん は日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい や日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく によりアメリカを牽制 けんせい しようとしたが、アメリカはこれに強 つよ く反発 はんぱつ して南進 なんしん を認 みと めなかった。他 た にABCD包囲 ほうい 網 もう を展開 てんかい し日本 にっぽん を牽制 けんせい すると共 とも に全面 ぜんめん 的 てき に禁輸 きんゆ を行 おこな った。日本 にっぽん は日米 にちべい 交渉 こうしょう にて甲 かぶと 案 あん と乙 おつ 案 あん を提示 ていじ したがアメリカはこれを飲 の まず代 か わりに、ハルノート を提示 ていじ した。日本 にっぽん は同意 どうい せずマレー作戦 さくせん や真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき を行 おこな い開戦 かいせん した。
日米 にちべい の国力 こくりょく 差 さ [ 編集 へんしゅう ]
開戦 かいせん 前 まえ の時点 じてん での日本 にっぽん とアメリカの国力 こくりょく 差 さ は、アメリカは日本 にっぽん に対 たい して国民総生産 こくみんそうせいさん (GNP) で10倍 ばい - 20倍 ばい 、石油 せきゆ 生産 せいさん 量 りょう で700倍 ばい に及 およ んだ[47] [48] 。1941年 ねん に総 そう 力戦 りきせん 研究所 けんきゅうじょ が行 おこな った日米 にちべい 戦争 せんそう の予測 よそく では、長期 ちょうき 戦 せん となるため国力 こくりょく 差 さ により日本 にっぽん 側 がわ の敗北 はいぼく という結果 けっか が出 だ された[49] 。また予想 よそう された戦局 せんきょく の推移 すいい も原爆 げんばく 投下 とうか を除 のぞ き実際 じっさい の推移 すいい と概 おおむ ね合致 がっち していた。
軍事 ぐんじ 面 めん においてもチェスター・ニミッツ は、アメリカの対 たい 日 にち 戦 せん は海軍兵学校 かいぐんへいがっこう で学 まな んだ兵 へい 棋演習 えんしゅう の再演 さいえん であり、予期 よき できなかったのは神風 かみかぜ 攻撃 こうげき のみだったと語 かた っている[50] 。
石油 せきゆ に関連 かんれん した日米 にちべい 比 ひ (1941年 ねん 時点 じてん )[48]
日本 にっぽん (万 まん バレル /日 にち )
米国 べいこく (万 まん バレル/日 にち )
米国 べいこく ÷日本 にっぽん
1日 にち あたりの原油 げんゆ 生産 せいさん 量 りょう
0.52
383.60
738
1日 にち あたりの人造 じんぞう 石油 せきゆ 生産 せいさん 量 りょう
0.33
—
—
1日 にち あたりの石油 せきゆ 精製 せいせい 量 りょう
9.04
465.8
52
1日 にち あたりの原油 げんゆ 処理 しょり 量 りょう
4.93
389
79
1日 にち あたりの液体 えきたい 燃料 ねんりょう 在庫 ざいこ 量 りょう
4,300
33,500
7.8
1日 にち あたりの製油 せいゆ 所 しょ 1日 にち 1人 ひとり あたり精製 せいせい 量 りょう
4
53
13
日 にち 英 えい 米 べい 蘭 らん の開戦 かいせん までの国策 こくさく [ 編集 へんしゅう ]
アメリカの太平洋 たいへいよう 戦略 せんりゃく
アメリカはアメリカ・メキシコ戦争 せんそう に勝利 しょうり してカリフォルニア州 しゅう を獲得 かくとく して太平洋 たいへいよう に面 めん する広大 こうだい な領土 りょうど を手 て に入 い れ、ロシア からはアラスカ を購入 こうにゅう した。太平洋 たいへいよう ではハワイ王国 おうこく 併合 へいごう に続 つづ き、米 べい 西 にし 戦争 せんそう (アメリカ・スペイン戦争 せんそう )勝利 しょうり によりフィリピン 、グアム などを手 て に入 い れると、アメリカ・フィリピン戦争 せんそう を経 へ てフィリピンを植民 しょくみん 地 ち 化 か することにより太平洋 たいへいよう への覇権 はけん を確立 かくりつ した[52] 。
日本 にっぽん は戦勝 せんしょう 国 こく となった第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、国際 こくさい 連盟 れんめい からドイツ帝国 ていこく 領 りょう であったパラオ やサイパン などの太平洋 たいへいよう の島々 しまじま の委任 いにん 統治 とうち を委 ゆだ ねられるようになり(南洋 なんよう 諸島 しょとう )、アメリカの勢力 せいりょく 圏 けん と接 せっ するようになった。アメリカの呼 よ びかけで行 おこな われたシベリア出兵 しゅっぺい では、日本 にっぽん はアメリカ軍 ぐん の撤兵 てっぺい 後 ご も駐留 ちゅうりゅう を継続 けいぞく するなどアメリカの利害 りがい とずれが生 しょう じるようになっていた。とはいえ、1920年代 ねんだい は日米 にちべい ともに東 ひがし アジア・太平洋 たいへいよう 地域 ちいき における平和 へいわ 的 てき な国際 こくさい 体制 たいせい であるワシントン体制 たいせい 下 した で協調 きょうちょう 外交 がいこう を行 おこな っていた。1921年 ねん に結 むす ばれた四 よん ヵ国 かこく 条約 じょうやく では太平洋 たいへいよう における日 にち 英 えい 米 べい 仏 ふつ の利益 りえき を相互 そうご に認 みと め、現状 げんじょう 維持 いじ を確認 かくにん し、この条約 じょうやく の中 なか に日 にち 英 えい 同盟 どうめい は発展 はってん 的 てき 解消 かいしょう を遂 と げた[53] 。1922年 ねん にはワシントン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく が結 むす ばれ、列強 れっきょう 間 あいだ の建 けん 艦 かん 競争 きょうそう に歯止 はど めをかけた。
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご 、アメリカは対 たい 日 にち 戦略 せんりゃく を明確 めいかく 化 か し、1906年 ねん に対 たい 日 にち 戦争 せんそう 計画 けいかく 「オレンジ計画 けいかく 」を作成 さくせい 、1938年 ねん には「新 しん オレンジ作戦 さくせん 」を策定 さくてい した[47] 。新 しん オレンジ作戦 さくせん では、開戦 かいせん した場合 ばあい 日本 にっぽん はまずフィリピン攻撃 こうげき を行 おこな うと予想 よそう 、これに対 たい しアメリカ海軍 かいぐん 主力 しゅりょく 艦隊 かんたい は太平洋 たいへいよう を西進 せいしん し、同時 どうじ に対 たい 日 にち 海上 かいじょう 封鎖 ふうさ を実施 じっし 、日本 にっぽん 経済 けいざい を枯渇 こかつ させ太平洋 たいへいよう 制海権 せいかいけん を掌握 しょうあく した上 うえ で日本 にっぽん 海軍 かいぐん と艦隊 かんたい 決戦 けっせん するという戦略 せんりゃく が構想 こうそう された[47] 。また1941年 ねん 3月 がつ のレインボー5号 ごう 作戦 さくせん では欧州 おうしゅう 戦線 せんせん の優先 ゆうせん 、太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん 防御 ぼうぎょ 、日本 にっぽん の経済 けいざい 的 てき 弱体 じゃくたい 化 か 、太平洋 たいへいよう 海域 かいいき の海上 かいじょう 交通 こうつう 線 せん の封鎖 ふうさ ・破壊 はかい 、日本 にっぽん の南洋 なんよう 諸島 しょとう 占領 せんりょう が主軸 しゅじく となった[47] 。
満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 、華北 かほく 分離 ぶんり 工作 こうさく 、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )7月 がつ 支 ささえ 那 な 駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん 配置 はいち 図 ず [54]
1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )に満 まん 洲 しゅう 事変 じへん が起 お こり、関東軍 かんとうぐん の後押 あとお しによる満 まん 洲 しゅう 国 こく が成立 せいりつ すると国際 こくさい 社会 しゃかい の中 なか で日本 にっぽん は大 おお きく非難 ひなん されることとなる。その後 ご も関東軍 かんとうぐん は、華北 かほく を中華民国 ちゅうかみんこく から引 ひ き離 はな すため傀儡 かいらい 自治 じち 政権 せいけん を作 つく る華北 かほく 分離 ぶんり 工作 こうさく を行 おこな った。中華民国 ちゅうかみんこく は日本 にっぽん 軍 ぐん に対抗 たいこう する軍事 ぐんじ 力 りょく を蓄 たくわ えていく。
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )に勃発 ぼっぱつ した日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう において、大日本帝国 だいにっぽんていこく 政府 せいふ と軍部 ぐんぶ は当初 とうしょ 、現地 げんち 解決 かいけつ や不拡大 ふかくだい 方針 ほうしん によって事態 じたい の収拾 しゅうしゅう を試 こころ みた。しかし、大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう の規定 きてい である統帥 とうすい 権 けん の独立 どくりつ 問題 もんだい や、五 ご ・一 いち 五 ご 事件 じけん 、二・二六事件 ににろくじけん 以後 いご から行 おこな われるようになった軍部 ぐんぶ による政治 せいじ 干渉 かんしょう により軍部 ぐんぶ の統御 とうぎょ は難 むずか しくなっていた。加 くわ えて中国 ちゅうごく 大陸 たいりく で、大 だい 紅 べに 門 もん 事件 じけん 、盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん とそれに呼応 こおう して起 お きた郎 ろう 坊 ぼう 事件 じけん 、広安 ひろやす 門 もん 事件 じけん 、通 とおり 州 しゅう 事件 じけん 、第 だい 二 に 次 じ 上海 しゃんはい 事変 じへん など在留 ざいりゅう 日本人 にっぽんじん が中国 ちゅうごく 軍 ぐん や中国人 ちゅうごくじん に虐殺 ぎゃくさつ される事件 じけん が頻発 ひんぱつ すると、日本 にっぽん 世論 せろん は中国 ちゅうごく を徹底的 てっていてき に叩 たた くべきという方向 ほうこう に傾 かたむ く(暴支膺懲 ようちょう )。この結果 けっか 、政府 せいふ は軍事 ぐんじ 行動 こうどう を主張 しゅちょう する陸軍 りくぐん ・海軍 かいぐん を抑 おさ えきることがさらに難 むずか しくなり、情勢 じょうせい は日 にち 中 ちゅう 両 りょう 軍 ぐん による大 だい 規模 きぼ な全面 ぜんめん 衝突 しょうとつ に発展 はってん する。日本 にっぽん 軍 ぐん は北京 ぺきん や上海 しゃんはい など主要 しゅよう 都市 とし を占領 せんりょう 、続 つづ いて中華民国 ちゅうかみんこく の首都 しゅと 南京 なんきん を陥落 かんらく させた(南京 なんきん 戦 せん )。1937年 ねん 8月 がつ 26日 にち に、日本 にっぽん 海軍 かいぐん によるものとされる英国 えいこく 大使 たいし 襲撃 しゅうげき 事件 じけん であるヒューゲッセン遭難 そうなん 事件 じけん が起 お きると、英国 えいこく 新聞 しんぶん は日本 にっぽん に対 たい する怒 いか りを顕 あらわ わにした[55] 。1937年 ねん 10月 がつ 、国際 こくさい 連盟 れんめい は日本 にっぽん を九 きゅう 国 こく 条約 じょうやく 及 およ び不戦 ふせん 条約 じょうやく の侵犯 しんぱん であると決議 けつぎ した[56] 。同年 どうねん 11月 がつ 3日 にち にはブリュッセル で九 きゅう 国 こく 条約 じょうやく 会議 かいぎ が開 ひら かれ、英国 えいこく は自身 じしん が首唱 しゅしょう し指導 しどう した国際 こくさい 議定 ぎてい によって、それまでソ連 それん により行 おこな われていた第 だい 二 に 次 じ 国共 こっきょう 合作 がっさく 中 なか の蔣介石 せき への支援 しえん に参加 さんか した[57] 。1937年 ねん 12月には、パナイ号 ごう 事件 じけん とレディバード号 ごう 事件 じけん も起 お きた。
1937年 ねん 11月から翌 よく 1938年 ねん 1月 がつ にかけて、中 ちゅう 独 どく 合作 がっさく により中華民国 ちゅうかみんこく と友好 ゆうこう 関係 かんけい にあったナチス・ドイツ を仲介 ちゅうかい 者 しゃ とするトラウトマン和平 わへい 工作 こうさく が日 にち 中 ちゅう 間 あいだ によって行 おこな われたが、12月の南京 なんきん 陥落 かんらく によって日本 にっぽん 側 がわ では対 たい 中 ちゅう 強硬 きょうこう 論 ろん が政府 せいふ (内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 近衛 このえ 文麿 ふみまろ 、外務 がいむ 大臣 だいじん 広田 ひろた 弘毅 こうき )と海軍 かいぐん (海軍 かいぐん 大臣 だいじん 米内 よない 光政 みつまさ )にて台頭 たいとう 。一方 いっぽう 、陸軍 りくぐん では陸軍 りくぐん 省 しょう (陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 杉山 すぎやま 元 はじめ )こそ政府 せいふ ・海軍 かいぐん と同 おな じく強硬 きょうこう 派 は であったが、多田 ただ 駿 しゅん 陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう を筆頭 ひっとう とする参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は日 にち 中 ちゅう 和平 わへい 交渉 こうしょう の継続 けいぞく を終始 しゅうし 強 つよ く主張 しゅちょう 。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ の要請 ようせい によって日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 以来 いらい の御前 ごぜん 会議 かいぎ が開 ひら かれるなどしたが、政府 せいふ ・海軍 かいぐん および陸軍 りくぐん 省 しょう の圧力 あつりょく を受 う け、1月 がつ 15日 にち に政府 せいふ は最終 さいしゅう 的 てき に交渉 こうしょう の打 う ち切 き りを決定 けってい 。翌日 よくじつ 16日 にち に近衛 このえ 内閣 ないかく は「帝国 ていこく 政府 せいふ は爾後 じご 国民 こくみん 政府 せいふ を対 たい 手 て とせず。真 しん に提携 ていけい するに足 た りる新興 しんこう 支 ささえ 那 な 政権 せいけん に期待 きたい し、これと国交 こっこう を調整 ちょうせい して更生 こうせい 支 ささえ 那 な の建設 けんせつ に協力 きょうりょく せんとす」との声明 せいめい を発 はっ し(第 だい 一 いち 次 じ 近衛 このえ 声明 せいめい )、トラウトマン和平 わへい 工作 こうさく は頓挫 とんざ した。
蔣介石 せき 総統 そうとう 率 ひき いる中国 ちゅうごく の国民 こくみん 政府 せいふ は、首都 しゅと を西部 せいぶ 奥地 おくち の重慶 たーちん に移 うつ して抗戦 こうせん を続 つづ けた。中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん はアメリカやイギリス、ソ連 それん から軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし や人的 じんてき 援助 えんじょ を受 う け(援蔣ルート )、地 ち の利 り を活 い かし各地 かくち で抵抗 ていこう 、徐 じょ 州 しゅう 会戦 かいせん や武漢 ぶかん 会戦 かいせん が発生 はっせい した。また正規 せいき 戦法 せんぽう 以外 いがい に督戦 とくせん 隊 たい 戦法 せんぽう やゲリラ戦術 せんじゅつ 、清野 きよの 戦術 せんじゅつ などの戦術 せんじゅつ を用 もち い日本 にっぽん 軍 ぐん を攪乱 かくらん した。一方 いっぽう 、西安 しーあん 事件 じけん を通 つう じて成立 せいりつ した国共 こっきょう 合作 がっさく に基 もと づき、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 軍 ぐん も北西 ほくせい 部 ぶ 奥地 おくち の延 のべ 安 やす を拠点 きょてん に朱 しゅ 徳 いさお 率 ひき いる八 はち 路 ろ 軍 ぐん や新 しん 四 よん 軍 ぐん が日本 にっぽん 軍 ぐん にゲリラ戦 せん を仕掛 しか け、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう は長期 ちょうき 戦 せん に陥 おちい っていた。
こうして国共 こっきょう 合作 がっさく および国民 こくみん 政府 せいふ の抗戦 こうせん の続行 ぞっこう により軍事 ぐんじ 的 てき 解決 かいけつ に失敗 しっぱい し、傀儡 かいらい 政権 せいけん 樹立 じゅりつ (汪 ひろし 兆 ちょう 銘 めい 政権 せいけん )による政治 せいじ 的 てき 解決 かいけつ にも失敗 しっぱい [58] 。日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう は収拾 しゅうしゅう のめどがつかなくなり、日本 にっぽん は援蔣ルート の遮断 しゃだん を企図 きと する。
日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい の締結 ていけつ [ 編集 へんしゅう ]
同盟 どうめい 締結 ていけつ を記念 きねん してベルリンの日本 にっぽん 大使館 たいしかん に掲 かか げられた三 さん 国 こく の国旗 こっき (1940年 ねん 9月 がつ )
1939年 ねん 9月、ドイツ軍 ぐん がポーランドに侵攻 しんこう したことにより、欧州 おうしゅう では第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ した。翌 よく 1940年 ねん 6月 がつ にはフランスが短期間 たんきかん で休戦 きゅうせん に追 お い込 こ まれ 、西欧 せいおう と北欧 ほくおう の多 おお くがその占領 せんりょう 下 か となり、ドーバー海峡 かいきょう を挟 はさ んだイギリスが連合 れんごう 国 こく 最後 さいご の砦 とりで として苦 くる しい抵抗 ていこう を続 つづ けていた。これを受 う け、日本 にっぽん の政府 せいふ ・軍部 ぐんぶ には、独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく の締結 ていけつ 以来 いらい 沈滞 ちんたい していたドイツとの関係 かんけい を強化 きょうか し、英 えい 米 べい と対抗 たいこう するべきという勢力 せいりょく が再 ふたた び盛 も り上 あ がりを見 み せるようになってきた。
日本 にっぽん は重慶 たーちん 中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ への軍事 ぐんじ 物資 ぶっし の補給 ほきゅう ルートを遮断 しゃだん するため、6月19日 にち にフランス領 りょう インドシナ (仏 ふつ 印 しるし )政府 せいふ に圧力 あつりょく をかけ、「援蔣仏 ふつ 印 しるし ルート」の遮断 しゃだん を要求 ようきゅう した。ナチス・ドイツへの敗北 はいぼく 後 ご にフランス本国 ほんごく で成立 せいりつ したヴィシー政権 せいけん との間 あいだ で9月 がつ に協定 きょうてい が結 むす ばれ、紅 べに 河 かわ 以北 いほく のインドシナに進駐 しんちゅう 、中華民国 ちゅうかみんこく 支配 しはい 地域 ちいき への攻撃 こうげき に利用 りよう した。これにより日本 にっぽん の対 たい 米 べい 英 えい 関係 かんけい は緊張 きんちょう した[48] 。その後 ご 、新 あら たにビルマ を経由 けいゆ する「援蔣ビルマルート」が作 つく られた。1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )7月 がつ 19日 にち の荻窪 おぎくぼ 会談 かいだん では、盟主 めいしゅ である英国 えいこく が不在 ふざい の東南 とうなん アジア植民 しょくみん 地 ち に向 む かう南進 なんしん 論 ろん の方針 ほうしん が確認 かくにん され、戦争 せんそう 相手 あいて は英国 えいこく のみに局限 きょくげん するが、対 たい 米 べい 戦 せん も準備 じゅんび する必要 ひつよう があるとされた[48] 。7月26日 にち には基本 きほん 国策 こくさく 要綱 ようこう が閣議 かくぎ 決定 けってい された[48] 。
近衛 このえ 文麿 ふみまろ 、大政 たいせい 翼賛 よくさん 会 かい 総裁 そうさい (初代 しょだい )などを歴任 れきにん した。
7月 がつ 22日 にち 、第 だい 2次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく が成立 せいりつ 、7月 がつ 26日 にち には「皇国 こうこく ヲ核心 かくしん トシ日 ひ 満 みつる 支 ささえ ノ強固 きょうこ ナル結合 けつごう ヲ根幹 こんかん トスル大 だい 東亜 とうあ ノ新 しん 秩序 ちつじょ ヲ建設 けんせつ スル」という[注 ちゅう 11] 、『基本 きほん 国策 こくさく 要綱 ようこう 』を閣議 かくぎ 決定 けってい した。翌 よく 27日 にち には「世界 せかい 情勢 じょうせい の推移 すいい に伴 ともなえ ふ時局 じきょく 処理 しょり 要綱 ようこう 」を決定 けってい した。8月1日 にち には松岡 まつおか 洋右 ようすけ 外相 がいしょう が談話 だんわ で「大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん 」という用語 ようご を初 はじ めて用 もち い、その範囲 はんい は、日本 にっぽん ・満 まん 洲 しゅう ・中国 ちゅうごく 、仏 ふつ 印 しるし 、オランダ領 りょう 東 ひがし インド も含 ふく めるとした。
当初 とうしょ は日 にち 独 どく 提携 ていけい に懐疑 かいぎ 的 てき であった松岡 まつおか 洋右 ようすけ 外相 がいしょう も次第 しだい に三 さん 国 こく 同盟 どうめい 締結 ていけつ 派 は に接近 せっきん 。9月27日 にち にドイツおよびイタリアとの間 あいだ で三 さん 国 こく 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい が成立 せいりつ した。松岡 まつおか らはこの同盟 どうめい 政策 せいさく を発展 はってん させ、日 にち 独 どく 伊 い 、そしてソ連 それん を加 くわ えたユーラシア ブロックによって米 べい 英 えい を牽制 けんせい しようとしたが[60] 、却 かえ って英 えい 米 べい の日本 にっぽん に対 たい する不信 ふしん 感 かん は一層 いっそう 増 ま すこととなった。アメリカは10月12日 にち に三 さん 国 こく 条約 じょうやく に対 たい する対抗 たいこう 措置 そち を採 と ると表明 ひょうめい 、10月16日 にち に屑鉄 くずてつ の対 たい 日 にち 禁輸 きんゆ を決定 けってい した。制裁 せいさい 措置 そち は翌年 よくねん にはさらに強化 きょうか され、イギリスも追随 ついずい した。
これを受 う け日米 にちべい 開戦 かいせん が論 ろん じられるが、政府 せいふ と軍部 ぐんぶ の一部 いちぶ には慎重 しんちょう 論 ろん も強 つよ かった。日本 にっぽん 軍 ぐん は中国 ちゅうごく 戦線 せんせん と対 たい ソ連 それん 警戒 けいかい に兵力 へいりょく を集中 しゅうちゅう させ身動 みうご きできない状況 じょうきょう にあったため、米国 べいこく は日本 にっぽん に対 たい し強硬 きょうこう 姿勢 しせい を示 しめ すようになる。
フランクリン・ルーズベルト大統領 だいとうりょう
12月29日 にち 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう フランクリン・ルーズベルト は炉辺 ろへん 談話 だんわ において「アメリカは民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の兵器廠 へいきしょう (工場 こうじょう )になる」(en:Arsenal of Democracy ) と語 かた り、イギリスへの援助 えんじょ を公然 こうぜん と表明 ひょうめい した[61] 。翌年 よくねん にはイギリスへの武器 ぶき 貸与 たいよ 法 ほう (レンドリース法 ほう )を成立 せいりつ させた。1941年 ねん 3月 がつ に開催 かいさい された米 べい 英 えい の軍 ぐん による協議 きょうぎ (通称 つうしょう 「ABC会議 かいぎ 」)ではまずドイツとイタリアを打倒 だとう することを優先 ゆうせん し、日本 にっぽん への対処 たいしょ はその次 つぎ に行 おこな うことが合意 ごうい された[62] 。
1940年 ねん 11月23日 にち 、タイ王国 おうこく はフランスに占領 せんりょう されていた旧 きゅう タイ領 りょう 回復 かいふく のためフランス領 りょう 南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし に進軍 しんぐん し、タイ・フランス領 りょう インドシナ紛争 ふんそう が勃発 ぼっぱつ 。1941年 ねん 5月8日 にち に日本 にっぽん の仲介 ちゅうかい によりタイ王国 おうこく が失地 しっち を回復 かいふく する形 かたち でタイ王国 おうこく とフランスの間 あいだ で東京 とうきょう 条約 じょうやく が締結 ていけつ される。
日米 にちべい 交渉 こうしょう の本格 ほんかく 化 か [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん 、駐米 ちゅうべい 大使 たいし 野村 のむら 吉三郎 きちさぶろう の下 した に陸軍 りくぐん 省 しょう 軍事 ぐんじ 課長 かちょう であった岩畔 いわぐろ 豪雄 ひでお が渡米 とべい 、民間 みんかん 人 じん の井川 いかわ 忠雄 ただお らとともに、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国務 こくむ 長官 ちょうかん コーデル・ハル を交 まじ えて秘密 ひみつ 交渉 こうしょう による日米 にちべい 関係 かんけい 改善 かいぜん が模索 もさく された。日米 にちべい の軍人 ぐんじん と民間 みんかん 人 じん によって策定 さくてい された「日米 にちべい 諒解 りょうかい 案 あん 」では、日本 にっぽん 軍 ぐん の中国 ちゅうごく 撤退 てったい 、アメリカは満 まん 洲 しゅう 国 こく を承認 しょうにん すること、汪 ひろし 兆 ちょう 銘 めい 政権 せいけん を中国 ちゅうごく 政府 せいふ として認定 にんてい すること、ホノルル における日米 にちべい 首脳 しゅのう 会談 かいだん 実現 じつげん などが示唆 しさ されていたが、ハルはその内容 ないよう があまりにも日本 にっぽん に有利 ゆうり であることに反発 はんぱつ 。諒解 りょうかい 案 あん を基礎 きそ に交渉 こうしょう する前提 ぜんてい として四 よん 原則 げんそく (「全 すべ ての国家 こっか の領土 りょうど 保全 ほぜん と主権 しゅけん 尊重 そんちょう 」「他国 たこく に対 たい する内政 ないせい 不干渉 ふかんしょう 」「通商 つうしょう 上 じょう の機会 きかい 均等 きんとう を含 ふく む平等 びょうどう 原則 げんそく 」「平和 へいわ 的 てき 手段 しゅだん により変更 へんこう される場合 ばあい を除 のぞ き太平洋 たいへいよう の現状 げんじょう 維持 いじ 」)を日本 にっぽん が受 う け入 い れることを求 もと めた。しかし野村 のむら 大使 たいし は四 よん 原則 げんそく を日本 にっぽん 政府 せいふ に伝達 でんたつ せず、日本 にっぽん 側 がわ は諒解 りょうかい 案 あん だけをアメリカの公式 こうしき 提案 ていあん と誤認 ごにん してしまう。6月22日 にち に独 どく ソが開戦 かいせん すると、三 さん 国 こく 同盟 どうめい の対 たい 米 べい 圧力 あつりょく が減少 げんしょう しアメリカはさらなる譲歩 じょうほ を求 もと めるようになる。
日 にち 蘭 らん 会商 かいしょう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん は、蘭 らん 印 しるし からの石油 せきゆ の輸入 ゆにゅう 量 りょう について、蘭 らん 印 しるし と200万 まん トンで合意 ごうい した[63] 。この量 りょう は、当初 とうしょ の希望 きぼう 量 りょう の2倍 ばい であった[63] 。
しかし1941年 ねん 6月17日 にち 、日 にち 蘭 らん 会商 かいしょう の芳澤 よしざわ 団長 だんちょう は蘭 らん 印 しるし 側 がわ へ交渉 こうしょう の打 う ち切 き りを通告 つうこく した[63] 。日本 にっぽん からの使節 しせつ 団 だん は蘭 らん 印 しるし 側 がわ と最後 さいご の交渉 こうしょう を行 おこな い、経済 けいざい 協定 きょうてい や石油 せきゆ 協定 きょうてい は維持 いじ したが、7月 がつ 28日 にち の日本 にっぽん 軍 ぐん による南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう をきっかけに蘭 らん 印 しるし 側 がわ は日本 にっぽん との経済 けいざい 協定 きょうてい や石油 せきゆ 協定 きょうてい を破棄 はき した[63] 。
開戦 かいせん を決意 けつい (四 よん 回 かい の御前 ごぜん 会議 かいぎ )[ 編集 へんしゅう ]
7月 がつ 2日 にち 第 だい 五 ご 回 かい 御前 ごぜん 会議 かいぎ
その後 ご も日本 にっぽん 政府 せいふ は関係 かんけい 改善 かいぜん を目指 めざ してワシントンD.C. でアメリカと交渉 こうしょう を続 つづ けたが、日本 にっぽん 軍 ぐん は7月 がつ 2日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ における『情勢 じょうせい ノ推移 すいい ニ伴 とも フ帝国 ていこく 国策 こくさく 要綱 ようこう 』[注 ちゅう 12] (対 たい ソ戦 せん 準備 じゅんび ・南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう )の決定 けってい に従 したが い、7月 がつ 7日 にち からは[満 まん 洲 しゅう での関東軍 かんとうぐん 特種 とくしゅ 演習 えんしゅう に向 む けて内地 ないち から兵員 へいいん 動員 どういん が開始 かいし される。当時 とうじ 、欧州 おうしゅう ではナチス・ドイツのソ連 それん 侵攻 しんこう (バルバロッサ作戦 さくせん )が順調 じゅんちょう に進展 しんてん していた。
南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう
7月 がつ 28日 にち には日本 にっぽん がフランス領 りょう インドシナ南部 なんぶ への進駐 しんちゅう を実施 じっし した(南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう )が、イギリスとアメリカは事前 じぜん に南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう 反対 はんたい の意志 いし を表明 ひょうめい していたため、両 りょう 政府 せいふ 内 ない の対 たい 日 にち 感情 かんじょう は一挙 いっきょ に悪化 あっか した[65] 。8月 がつ 1日 にち には「すべての侵略 しんりゃく 国 こく 」への石油 せきゆ 輸出 ゆしゅつ 禁止 きんし の方針 ほうしん を決定 けってい し、日本 にっぽん に対 たい しても石油 せきゆ 輸出 ゆしゅつ の全面 ぜんめん 禁止 きんし という厳 きび しい経済 けいざい 制裁 せいさい を発令 はつれい し、イギリスとオランダもただちに同調 どうちょう した。この制裁 せいさい は1940年 ねん の日米 にちべい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく の破棄 はき から始 はじ まり、最初 さいしょ は航空 こうくう 用 よう 燃料 ねんりょう の禁輸 きんゆ 、北部 ほくぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう に伴 ともな う鉄 てつ 類 るい の禁輸 きんゆ が実施 じっし された。また1940年 ねん から41年 ねん にかけて民間 みんかん 会社 かいしゃ を通 つう じ必要 ひつよう 物資 ぶっし の開拓 かいたく を進 すす めたが、アメリカ政府 せいふ の干渉 かんしょう によって契約 けいやく までこぎ着 つ けない上 じょう 、仏 ふつ 印 いん への進駐 しんちゅう および満 まん 洲 しゅう 増派 ぞうは に伴 ともな う制裁 せいさい が実施 じっし され、物資 ぶっし の供給 きょうきゅう が完全 かんぜん に絶 た たれることとなった。当時 とうじ の日本 にっぽん は事実 じじつ 上 じょう アメリカから物資 ぶっし を購入 こうにゅう しながら大陸 たいりく にあった日本 にっぽん の権益 けんえき を蔣介石 せき 軍 ぐん から守 まも っていた。たとえば日米 にちべい 開戦 かいせん 時 じ の国内 こくない における石油 せきゆ の備蓄 びちく は民事 みんじ ・軍事 ぐんじ を合 あ わせても2年 ねん 分 ぶん しかなく、禁輸 きんゆ 措置 そち は日本 にっぽん 経済 けいざい に対 たい し破滅 はめつ 的 てき な影響 えいきょう を与 あた える恐 おそ れがあった。
9月6日 にち 第 だい 六 ろく 回 かい 御前 ごぜん 会議 かいぎ
1941年 ねん 10月18日 にち 、総理 そうり 大臣 だいじん 官邸 かんてい での初 はつ 閣議 かくぎ を終 お えた東條 とうじょう 内閣 ないかく の閣僚 かくりょう ら。
陸海 りくかい 軍 ぐん は石油 せきゆ 禁輸 きんゆ について全 まった く想定 そうてい しておらず[66] 、蘭 らん 印 しるし 当局 とうきょく との日 にち 蘭 らん 会商 かいしょう も再開 さいかい の見通 みとお しが立 た たなくなった。9月3日 にち 、日本 にっぽん では大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ [注 ちゅう 13] において『帝国 ていこく 国策 こくさく 遂行 すいこう 要領 ようりょう 』が審議 しんぎ され、9月6日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ で「外交 がいこう 交渉 こうしょう に依 よ り十 じゅう 月 がつ 上旬 じょうじゅん 頃 ごろ に至 いた るも尚 なお 我 わが 要求 ようきゅう を貫徹 かんてつ し得 え る目途 もくと なき場合 ばあい に於 おい ては直 ただ ちに対 たい 米 べい (英 えい 蘭 らん )開戦 かいせん を決意 けつい す」と決定 けってい された。近衛 このえ は日米 にちべい 首脳 しゅのう 会談 かいだん による事態 じたい の解決 かいけつ を決意 けつい して駐 ちゅう 日 にち アメリカ大使 たいし ジョセフ・グルー と極秘 ごくひ 会談 かいだん し、日米 にちべい 首脳 しゅのう 会談 かいだん の早期 そうき 実現 じつげん を強 つよ く訴 うった えたが、10月2日 にち 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国務省 こくむしょう は日米 にちべい 首脳 しゅのう 会談 かいだん を事実 じじつ 上 じょう 拒否 きょひ する回答 かいとう を日本 にっぽん 側 がわ に示 しめ した。
9月21日 にち 、英 えい 米 べい ソにより第 だい 1回 かい モスクワ会談 かいだん が開 ひら かれた[67] 。アメリカはソ連 それん への援助 えんじょ を発言 はつげん し、10月21日 にち には「大量 たいりょう の軍備 ぐんび 品 ひん を月末 げつまつ までにソ連 それん に発送 はっそう する」旨 むね の公式 こうしき 声明 せいめい を発表 はっぴょう した[67] 。また、アメリカは「極東 きょくとう の安全 あんぜん は英 えい 米 べい が守 まも るのでソ連 それん 極東 きょくとう 軍 ぐん を西部 せいぶ のドイツ戦線 せんせん に移動 いどう すべし」とも主張 しゅちょう していた[67] 。
戦争 せんそう の決断 けつだん を迫 せま られた近衛 このえ は対 たい 中 ちゅう 撤兵 てっぺい による交渉 こうしょう に道 みち を求 もと めたが、これに反対 はんたい する東條 とうじょう 英機 ひでき 陸相 りくしょう は、総 そう 辞職 じしょく か国策 こくさく 要綱 ようこう に基 もと づく開戦 かいせん を要求 ようきゅう したため、10月16日 にち に近衛 このえ 内 ない 閣 かく は総 そう 辞職 じしょく する。後継 こうけい の東條 とうじょう 内閣 ないかく は18日 にち に成立 せいりつ した。
11月5日 にち 第 だい 七 なな 回 かい 御前 ごぜん 会議 かいぎ
11月1日 にち の大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ では「帝国 ていこく は現下 げんか の危局 ききょく を打開 だかい して自存 じそん 自衛 じえい を完 かん (まつと)うし大 だい 東亜 とうあ の新 しん 秩序 ちつじょ を建設 けんせつ するため、此 こ の際 さい 、英 えい 米 べい 蘭 らん 戦 せん を決意 けつい し」「武力 ぶりょく 発動 はつどう の時期 じき を12月初頭 しょとう と定 さだ め、陸海 りくかい 軍 ぐん は作戦 さくせん 準備 じゅんび を完 かん 整 せい す」という内容 ないよう の『帝国 ていこく 国策 こくさく 遂行 すいこう 要領 ようりょう 』が改 あらた めて決定 けってい した。その後 ご 11月5日 にち 御前 ごぜん 会議 かいぎ [注 ちゅう 14] で承認 しょうにん された。以降 いこう 、陸海 りくかい 軍 ぐん は12月8日 にち を開戦 かいせん 予定 よてい 日 び として対 たい 米 べい 英 えい 蘭 らん 戦争 せんそう の準備 じゅんび を本格 ほんかく 化 か させた。
11月6日 にち 、南方 みなかた 作戦 さくせん を担当 たんとう する各 かく 軍 ぐん の司令 しれい 部 ぶ の編制 へんせい が発令 はつれい され、南方 なんぽう 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん に寺内 てらうち 寿一 ひさいち 大将 たいしょう 、第 だい 14軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に本間 ほんま 雅晴 まさはる 中将 ちゅうじょう 、第 だい 15軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に飯田 いいだ 祥二郎 しょうじろう 中将 ちゅうじょう 、第 だい 16軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に今村 いまむら 均 ひとし 中将 ちゅうじょう 、第 だい 25軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に山下 やました 奉文 ともゆき 中将 ちゅうじょう が親 しん 補 ほ された。同日 どうじつ 、大本営 だいほんえい は南方 なんぽう 軍 ぐん 、第 だい 14軍 ぐん 、第 だい 15軍 ぐん 、第 だい 16軍 ぐん 、第 だい 25軍 ぐん 、南海 なんかい 支隊 したい の戦闘 せんとう 序列 じょれつ を発 はっ し、各 かく 軍 ぐん および支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん に対 たい し南方 みなかた 作戦 さくせん の作戦 さくせん 準備 じゅんび を下 した 令 れい した。海軍 かいぐん は、11月26日 にち に真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき 部隊 ぶたい をハワイへ向 む けて出港 しゅっこう させた。
軍部 ぐんぶ が中心 ちゅうしん となって作成 さくせい し1941年 ねん 11月15日 にち に大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ が決定 けってい した、太平洋戦争 たいへいようせんそう 全般 ぜんぱん にわたる基本 きほん 方針 ほうしん となる日本 にっぽん の戦争 せんそう 計画 けいかく 書 しょ 『対 たい 英 えい 米 べい 蘭 らん 蔣戦争 そう 終末 しゅうまつ 促進 そくしん に関 かん する腹案 ふくあん 』では、「東南 とうなん アジア南太平洋 みなみたいへいよう における米 べい 英 えい 蘭 らん の根拠 こんきょ を覆滅 ふくめつ し、戦略 せんりゃく 上 じょう 優位 ゆうい の態勢 たいせい を確立 かくりつ すると共 とも に、重要 じゅうよう 資源 しげん 地域 ちいき ならびに主要 しゅよう 交通 こうつう 線 せん を確保 かくほ して、長期 ちょうき 自給自足 じきゅうじそく の態勢 たいせい を整 ととの う」とし、戦争 せんそう の終 お わらせ方 かた については「独 どく 伊 い と提携 ていけい して先 ま ず英 えい の屈服 くっぷく を図 はか り、米 べい の継 つぎ 戦 せん 意志 いし を喪失 そうしつ せしむるに勉 つとむ む」としていた。
ハル・ノートの提示 ていじ
コーデル・ハル
11月20日 にち 、日本 にっぽん はアメリカに対 たい する交渉 こうしょう 最終 さいしゅう 案 あん を甲乙 こうおつ 二 ふた つ用意 ようい し、来栖 くるす 三郎 さぶろう 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし および野村 のむら 大使 たいし の手 て によりハル国務 こくむ 長官 ちょうかん に提示 ていじ して交渉 こうしょう に当 あ たった。11月26日 にち 朝 あさ 、ハル国務 こくむ 長官 ちょうかん は両 りょう 案 あん を拒否 きょひ し、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく ・インドシナからの軍 ぐん ・警察 けいさつ 力 りょく の撤退 てったい 、日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい の否定 ひてい などの条件 じょうけん を含 ふく む交渉 こうしょう 案 あん 、いわゆるハル・ノート を来栖 くるす 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし 、野村 のむら 大使 たいし に提示 ていじ した。ここでいう中国 ちゅうごく 大陸 たいりく が満 まん 洲 しゅう を含 ふく むかどうかについても議論 ぎろん がある。
日本 にっぽん 政府 せいふ はこのハル・ノートを受 う け取 と り、開戦 かいせん を最終 さいしゅう 的 てき に決断 けつだん することになる。のちの極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん (東京 とうきょう 裁判 さいばん )で弁護人 べんごにん を務 つと めたベン・ブルース・ブレイクニー は「もし、ハル・ノートのようなものを突 つ きつけられたら、ルクセンブルク のような小国 しょうこく も武器 ぶき を取 と り、アメリカと戦 たたか っただろう」と評 ひょう しており、英 えい 領 りょう インド出身 しゅっしん の判事 はんじ ラダ・ビノード・パール ものちに引用 いんよう している[69] 。アメリカ海軍 かいぐん は同 どう 11月 がつ 26日 にち 中 ちゅう にアジアの潜水 せんすい 艦 かん 部隊 ぶたい に対 たい して、日米 にちべい 開戦 かいせん の場合 ばあい は非 ひ 武装 ぶそう の商船 しょうせん でも無 む 警告 けいこく で攻撃 こうげき してもよいとする無 む 制限 せいげん 潜水 せんすい 艦 かん 作戦 さくせん を発令 はつれい した。ただしハル・ノートには「極秘 ごくひ 、暫定 ざんてい かつ拘束 こうそく 力 りょく がない」と明記 めいき されており、回答 かいとう 期限 きげん も設定 せってい されていない。アメリカ側 がわ がハル・ノート受諾 じゅだく に関 かん する問 と い合 あ わせをしたことはなく、その後 ご も交渉 こうしょう 継続 けいぞく を行 おこな う意志 いし を見 み せている。
12月1日 にち 第 だい 八 はち 回 かい 御前 ごぜん 会議 かいぎ
日米 にちべい 交渉 こうしょう 決裂 けつれつ の結果 けっか 、東條 とうじょう 内閣 ないかく は12月1日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ において、日本 にっぽん 時間 じかん 12月8日 にち の開戦 かいせん を最終 さいしゅう 決定 けってい した。
開戦 かいせん 後 ご の経過 けいか [ 編集 へんしゅう ]
宣戦 せんせん 布告 ふこく 前 まえ の奇襲 きしゅう [ 編集 へんしゅう ]
クアラルンプール に突入 とつにゅう する日本 にっぽん 陸軍 りくぐん
最初 さいしょ に、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の上陸 じょうりく 部隊 ぶたい を載 の せた船団 せんだん が日本 にっぽん 時間 じかん 12月 がつ 8日 にち 未明 みめい にイギリス領 りょう マレ まれ ー半島 はんとう 東北 とうほく 端 はし のコタ・バル に接近 せっきん 、日本 にっぽん 時間 じかん 午前 ごぜん 2時 じ 15分 ふん (現地 げんち 時間 じかん 午前 ごぜん 1時 じ 30分 ふん )に上陸 じょうりく し、海岸 かいがん 線 せん で英 えい 印 しるし 軍 ぐん と交戦 こうせん 。イギリス政府 せいふ に対 たい する宣戦 せんせん 布告 ふこく 前 まえ の奇襲 きしゅう によって太平洋戦争 たいへいようせんそう の戦端 せんたん が開 ひら かれた。日本 にっぽん 軍 ぐん はほぼ同時 どうじ にタイにも上陸 じょうりく し、タイ側 がわ と戦闘 せんとう を行 おこな っている(→日本 にっぽん 軍 ぐん のタイ進駐 しんちゅう )。また近衛 このえ 師団 しだん も8日 にち 仏 ふつ 印 しるし から陸路 りくろ タイに侵入 しんにゅう した。日本 にっぽん 軍 ぐん を迎撃 げいげき しようとしたイギリス海軍 かいぐん の戦艦 せんかん 「プリンス・オブ・ウェールズ」 と巡 めぐ 洋 よう 戦艦 せんかん 「レパルス」 は、仏 ふつ 印 しるし から発進 はっしん した日本 にっぽん 海軍 かいぐん 陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き による雷撃 らいげき と爆 ばく 撃 げき で撃沈 げきちん された(マレー沖 おき 海戦 かいせん )。
真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき に向 む かう空母 くうぼ 「加賀 かが 」(左 ひだり )と「瑞 みず 鶴 づる 」(右 みぎ )
日本 にっぽん 海軍 かいぐん の攻撃 こうげき で炎上 えんじょう する戦艦 せんかん 「アリゾナ 」
続 つづ いて、日本 にっぽん の航空 こうくう 母艦 ぼかん (空母 くうぼ )艦載 かんさい 機 き により、米 べい 領 りょう ハワイ のオアフ島 とう にあるアメリカ軍 ぐん 基地 きち に対 たい する奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき (真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき )も、日本 にっぽん 時間 じかん 12月 がつ 8日 にち 午前 ごぜん 1時 じ 30分 ふん (ハワイ時間 じかん 12月 がつ 7日 にち 午前 ごぜん 7時 じ )に発進 はっしん して、日本 にっぽん 時間 じかん 午前 ごぜん 3時 じ 19分 ふん (ハワイ時間 じかん 午前 ごぜん 7時 じ 49分 ふん )から攻撃 こうげき が開始 かいし された。戦闘 せんとう の結果 けっか 、戦艦 せんかん 8隻 せき を撃 げき 沈破するなどの大 だい 戦果 せんか を挙 あ げ、アメリカ太平洋艦隊 たいへいようかんたい の戦艦 せんかん 部隊 ぶたい は戦闘 せんとう 能力 のうりょく を一時 いちじ 的 てき に完全 かんぜん に喪失 そうしつ 。開戦 かいせん 初頭 しょとう にアメリカ軍 ぐん 艦隊 かんたい に大 だい 打撃 だげき を与 あた えて側面 そくめん から南方 みなかた 作戦 さくせん を援護 えんご するという[71] 作戦 さくせん 目的 もくてき を達成 たっせい した[72] 。
真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき はこれまでの戦争 せんそう の状況 じょうきょう を一変 いっぺん させる画期的 かっきてき な戦闘 せんとう となった。アメリカ軍 ぐん は「真珠湾 しんじゅわん 作戦 さくせん に使用 しよう された航空 こうくう 部隊 ぶたい は、かつてどこの国 くに の空軍 くうぐん も集結 しゅうけつ したことのない、もっとも危険 きけん な部隊 ぶたい のひとつであった。わずかな装甲 そうこう 板 ばん を持 も つか、装甲 そうこう 板 ばん を持 も たず、燃料 ねんりょう タンクは防弾 ぼうだん 式 しき でなく、エンジンは1,000馬力 ばりき 程度 ていど 、巡航 じゅんこう 速度 そくど 150マイル、最大 さいだい 速度 そくど 200マイルの急降下 きゅうこうか 爆撃 ばくげき 機 き や雷撃 らいげき 機 き が「このもっとも華麗 かれい な、成功 せいこう した攻撃 こうげき 」を実施 じっし したことは、今 いま から思 おも えば、まったく驚 おどろ くべきことである。攻撃 こうげき は計画 けいかく 通 どお りに、約 やく 1時 じ 間 あいだ 間隔 かんかく で二 に 波 は にわかれて実施 じっし された。パールハーバーの攻撃 こうげき の結果 けっか については詳述 しょうじゅつ する必要 ひつよう もなく、日本 にっぽん 空軍 くうぐん は文字通 もじどお り空前絶後 くうぜんぜつご の完成 かんせい 度 ど のピーク時 じ で戦争 せんそう を開始 かいし したといえば十分 じゅうぶん であろう。」などと大 だい 損害 そんがい を被 こうむ りながら最大限 さいだいげん の賛辞 さんじ をもってこの作戦 さくせん を評価 ひょうか している[73] 。
「
帝国 ていこく 陸海 りくかい 軍 ぐん は、
本 ほん 8
日 にち 未明 みめい 、
西太平洋 にしたいへいよう においてアメリカ、イギリス
軍 ぐん と
戦闘 せんとう 状態 じょうたい に
入 い れり」と
述 の べている。
臨時 りんじ ニュースとは
言 い っているが、
毎朝 まいあさ 7
時 じ の
定時 ていじ のニュースで、
午前 ごぜん 6
時 じ 発表 はっぴょう の
大本営 だいほんえい 陸海 りくかい 軍部 ぐんぶ 発表 はっぴょう を1
時 じ 間 あいだ 遅 おく れて
伝 つた えた。
Ogg Vorbis
「帝国 ていこく 政府 せいふ ノ対 たい 米 べい 通牒 つうちょう 覚書 おぼえがき 」 [ 編集 へんしゅう ]
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご 、「開戦 かいせん に関 かん する条約 じょうやく 」を日米 にちべい 両国 りょうこく とも締結 ていけつ し批准 ひじゅん しており、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の時点 じてん では、明瞭 めいりょう かつ事前 じぜん に宣戦 せんせん 布告 ふこく を相手 あいて 国 こく に行 おこな う義務 ぎむ があった。
来栖 くるす 三郎 さぶろう 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし と野村 のむら 吉三郎 きちさぶろう 大使 たいし が「帝国 ていこく 政府 せいふ ノ対 たい 米 べい 通牒 つうちょう 覚書 おぼえがき 」[74] を手交 しゅこう し、コーデル・ハル国務 こくむ 長官 ちょうかん に交渉 こうしょう 妥結 だけつ を断念 だんねん するかのような通告 つうこく したのは真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき 後 ご の日本 にっぽん 時間 じかん 12月 がつ 8日 にち 月曜日 げつようび 午前 ごぜん 4時 じ 20分 ふん (ワシントン時間 じかん 12月 がつ 7日 にち 午後 ごご 2時 じ 20分 ふん )であった。
この「帝国 ていこく 政府 せいふ ノ対 たい 米 べい 通牒 つうちょう 覚書 おぼえがき 」[74] は、覚書 おぼえがき 本文 ほんぶん の最終 さいしゅう 部分 ぶぶん (第 だい 7項 こう 3)が下記 かき のとおり書 か かれていた。
仍 ( よっ ) テ帝国 ていこく 政府 せいふ ハ、茲 ( ここ ) ニ合衆国 がっしゅうこく 政府 せいふ ノ態度 たいど ニ鑑 かん ミ、今後 こんご 交渉 こうしょう ヲ継続 けいぞく スルモ妥結 だけつ ニスルヲ得 とく ズト認 みとめ ムル外 がい ナキ旨 むね ヲ、合衆国 がっしゅうこく 政府 せいふ ニ通告 つうこく スルヲ遺憾 いかん トスルモノナリ。
これは、当時 とうじ 行 おこな われていた野村 のむら 駐米 ちゅうべい 大使 たいし と来栖 くるす 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし による交渉 こうしょう の打切 うちきり に繋 つな がるものか、日米 にちべい 間 あいだ 交渉 こうしょう そのものの打切 うちきり の通告 つうこく であるかも明確 めいかく でなく、米国 べいこく に対 たい する宣戦 せんせん 布告 ふこく ではない[75] 。
日本 にっぽん が実際 じっさい にアメリカに手交 しゅこう した「帝国 ていこく 政府 せいふ ノ対 たい 米 べい 通牒 つうちょう 覚書 おぼえがき 」[74] は宣戦 せんせん 布告 ふこく ではなかった のである[75]
。
日本 にっぽん 時間 じかん 12月 がつ 8日 にち 午前 ごぜん 7時半 じはん 、日本 にっぽん はイギリスに対 たい してロバート・クレイギー 駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし を外務省 がいむしょう に呼 よ び、ワシントンでハル国務 こくむ 長官 ちょうかん に手渡 てわた した「帝国 ていこく 政府 せいふ ノ対 たい 米 べい 通牒 つうちょう 覚書 おぼえがき 」[74] と同文 どうぶん の写 うつ しを「参考 さんこう として」手渡 てわたし した[76] 。これも手交 しゅこう がマレ まれ ー半島 はんとう 攻撃 こうげき 開始 かいし 後 ご となった。同日 どうじつ に、オランダは日本 にっぽん に宣戦 せんせん 布告 ふこく した[77] (ナチス・ドイツに本国 ほんごく を前年 ぜんねん 占領 せんりょう され、イギリスに亡命 ぼうめい 政府 せいふ を置 お いていた)。
米國 べいこく 及英國 えいこく ニ對 たい スル宣戰 せんせん ノ詔書 しょうしょ (現代 げんだい 文 ぶん )[ 編集 へんしゅう ]
「米國 べいこく 及英國 えいこく ニ對 たい スル宣戰 せんせん ノ詔書 しょうしょ 」は真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき 後 ご の日本 にっぽん 時間 じかん 昭和 しょうわ 16年 ねん 12月8日 にち 午前 ごぜん 11時 じ 45分 ふん に渙発 かんぱつ され、正午 しょうご を期 き してラジオ放送 ほうそう が行 おこな われた。
詔書 しょうしょ
天 てん の助 たす けを保有 ほゆう し万世 ばんせい 一系 いっけい の皇位 こうい を継承 けいしょう している大日本帝国 だいにっぽんていこく 天皇 てんのう は、明 あき らかに忠誠 ちゅうせい 勇武 ゆうぶ なあなたたち国民 こくみん に示 しめ す。
我 が はここに米国 べいこく 及 およ び英国 えいこく に対 たい して戦 たたか いを宣言 せんげん する。我 わ が国 くに の陸海 りくかい 将兵 しょうへい は全力 ぜんりょく を奮 ふる って交戦 こうせん に従事 じゅうじ し、我 わ が国 くに の官僚 かんりょう や役人 やくにん は励 はげ んで精 せい を出 だ し職務 しょくむ を執行 しっこう し、我 わ が国民 こくみん は各々 おのおの その本分 ほんぶん を尽 つく し、全 ぜん 国民 こくみん が一 ひと つになり国家 こっか の総力 そうりょく を挙 あ げて戦争 せんそう の目的 もくてき を達成 たっせい することに手落 てお ちがないよう心構 こころがま えしなさい。
そもそも、東 ひがし アジアの安定 あんてい を確保 かくほ することにより世界 せかい の平和 へいわ に寄与 きよ することは、立派 りっぱ な祖父 そふ (明治天皇 めいじてんのう )から立派 りっぱ に受 う け継 つ いだ父 ちち (大正天皇 たいしょうてんのう )の作 さく 述 じゅつ した遠大 えんだい な計画 けいかく であって、我 わ がうやうやしくそのままにしておかなかったことで、そうして列国 れっこく との友好 ゆうこう を厚 あつ くし全 ぜん 世界 せかい が共 とも に栄 さか える喜 よろこ びを共有 きょうゆう することは、これはまた帝国 ていこく が常 つね に国交 こっこう の重要 じゅうよう な意義 いぎ としているところである。今 いま や不幸 ふこう にして米 べい 英 えい 両国 りょうこく と不和 ふわ を招 まね くに至 いた った。まことに止 や むをえないものがあり、どうして我 が が望 のぞ むところであろうか。中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ は先 さき に帝国 ていこく の真意 しんい を理解 りかい せず、みだりに事 こと を荒立 あらだ て東 ひがし アジアの平和 へいわ を攪乱 かくらん し、ついに帝国 ていこく の武力 ぶりょく に訴 うった えるに至 いた らしめ、そして四 よん 年 ねん 有余 ゆうよ が経 た った。幸 さいわ いに国民 こくみん 政府 せいふ が新 あたら しくなることになった。帝国 ていこく はここと隣国 りんごく の友好 ゆうこう 関係 かんけい を結 むす びお互 たが い提携 ていけい するに至 いた ったが、重慶 たーちん に残存 ざんそん する政権 せいけん は米 べい 英 えい の助 たす けを願 ねが って兄弟 きょうだい なおいまだ内輪 うちわ で争 あらそ うことを悔 く い改 あらた めない。米 べい 英 えい 両国 りょうこく は残存 ざんそん 政権 せいけん を支援 しえん して東 ひがし アジアの禍 わざわい 乱 らん を助長 じょちょう し平和 へいわ の美名 びめい に隠 かく れて東洋 とうよう 制覇 せいは の分 ぶん 不相応 ふそうおう の大 おお きな望 のぞ みを強 つよ くしている。事 こと もあろうか同盟 どうめい 国 こく を誘 さそ い、帝国 ていこく の周辺 しゅうへん において武力 ぶりょく を増強 ぞうきょう して我 が に挑戦 ちょうせん し、更 さら に帝国 ていこく の平和 へいわ 的 てき 通商 つうしょう にあらゆる妨害 ぼうがい を与 あた え、ついに経済 けいざい 断交 だんこう をあえて行 おこな い、帝国 ていこく の生存 せいぞん に重大 じゅうだい なる脅威 きょうい を加 くわ えた。我 が は政府 せいふ を通 つう じ事態 じたい を平和 へいわ の内 うち に回復 かいふく させようとし我慢 がまん し続 つづ けてきたが、彼 かれ らは全 まった く交譲の精神 せいしん がなく無駄 むだ に時局 じきょく の解決 かいけつ を長引 ながび かせ、この間 あいだ かえって益々 ますます 経済 けいざい 上 じょう 軍事 ぐんじ 上 じょう の脅威 きょうい が増大 ぞうだい し、それにより我 が を屈従 くつじゅう させようとした。このようにして推移 すいい したが、東 ひがし アジアの安定 あんてい に関 かん する帝国 ていこく の積年 せきねん の努力 どりょく はことごとく水泡 すいほう に帰 かえ し、帝国 ていこく の存立 そんりつ はまた正 まさ に大 おお きな危険 きけん にさらされた。こと既 すで にここに至 いた る帝国 ていこく は、今 いま や自存 じそん 自衛 じえい のため蹶然 けつぜん と立 た ち上 あ がり一切 いっさい の障害 しょうがい を破砕 はさい するほかない。
歴代 れきだい 天皇 てんのう の神霊 しんれい 上 じょう にある。 我 が はあなたたち国民 こくみん の忠誠 ちゅうせい 勇武 ゆうぶ を信頼 しんらい し、歴代 れきだい 天皇 てんのう の遺業 いぎょう を押 お し広 ひろ め、速 すみ やかに禍根 かこん を取 と り除 のぞ き、東 ひがし アジアの永遠 えいえん の平和 へいわ を確立 かくりつ し、これにより帝国 ていこく の光栄 こうえい を保全 ほぜん することを期待 きたい する。
御名 ぎょめい 御璽 ぎょじ
昭和 しょうわ 十 じゅう 六 ろく 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 八 はち 日 にち
— 昭和 しょうわ 天皇 てんのう 、米國 べいこく 及英國 えいこく ニ對 たい スル宣戰 せんせん ノ詔書 しょうしょ
「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の呼称 こしょう の決定 けってい [ 編集 へんしゅう ]
12月10日 にち の大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ で支 ささえ 那 な 事変 じへん と「対 たい 米 べい 英 えい 戦争 せんそう 」を合 あ わせた呼称 こしょう として「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」呼称 こしょう が確認 かくにん され、12月12日 にち の閣議 かくぎ 決定 けってい で戦争 せんそう 名称 めいしょう は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう (英 えい : Great East Asia War )」、戦時 せんじ 分界 ぶんかい 時期 じき は昭和 しょうわ 16年 ねん 12月8日 にち 午前 ごぜん 1時 じ 30分 ふん と決定 けってい した[20] 。同日 どうじつ 内閣 ないかく 情報 じょうほう 局 きょく は、アジア諸国 しょこく における欧米 おうべい の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の打倒 だとう を目指 めざ す「大 だい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ 建設 けんせつ 」を戦争 せんそう 目的 もくてき とした。
マレー作戦 さくせん や真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき などにより、日本 にっぽん がイギリスやアメリカ、オランダなどの連合 れんごう 国 こく との間 あいだ に開戦 かいせん したことを受 う けて、12月10日 にち に中華民国 ちゅうかみんこく が日本 にっぽん に対 たい し正式 せいしき に宣戦 せんせん 布告 ふこく した。12月11日 にち にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦 せんせん 布告 ふこく したことで、名実 めいじつ ともに世界 せかい 大戦 たいせん となった。
日本 にっぽん 軍 ぐん の快 かい 進撃 しんげき [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん による占領 せんりょう 地域 ちいき の拡大 かくだい (1937年 ねん から1942年 ねん )
1940年 ねん 9月 がつ 以降 いこう 、仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう を行 おこな っていた日本 にっぽん 軍 ぐん は、領土 りょうど 外 がい には満 まん 洲 しゅう 国 こく 、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 東部 とうぶ 、フランス領 りょう インドシナに兵力 へいりょく を展開 てんかい していた。1941年 ねん 12月8日 にち に日本 にっぽん 陸軍 りくぐん がタイ 国境 こっきょう 近 ちか くの英 えい 領 りょう マレ まれ ー半島 はんとう のコタバル と、中立 ちゅうりつ 国 くに だったタイの南部 なんぶ (パタニ とソンクラ )へ陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい を上陸 じょうりく させ(マレー作戦 さくせん )、同日 どうじつ 行 おこな われた日本 にっぽん 海軍 かいぐん によるアメリカ海軍 かいぐん 太平洋艦隊 たいへいようかんたい に対 たい する真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき 、米 べい 領 りょう フィリピンへの攻撃 こうげき 開始 かいし (フィリピンの戦 たたか い (1941-1942年 ねん ) )、英 えい 領 りょう 香港 ほんこん への攻撃 こうげき 開始 かいし (香港 ほんこん の戦 たたか い )、12月10日 にち のイギリス海軍 かいぐん 東洋 とうよう 艦隊 かんたい に対 たい するマレー沖 おき 海戦 かいせん などの連合 れんごう 国軍 こくぐん に対 たい する戦 たたか いで、日本 にっぽん 軍 ぐん は大 だい 勝利 しょうり を収 おさ めた。
真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 陸軍 りくぐん によるイギリス領 りょう マレ まれ ー半島 はんとう への上陸 じょうりく は成功 せいこう し、その後 ご 、地上 ちじょう と海上 かいじょう の双方 そうほう でイギリス軍 ぐん に対 たい する作戦 さくせん を成功 せいこう させマレ まれ ー半島 はんとう 制圧 せいあつ へと進 すす むこととなった。真珠湾 しんじゅわん でアメリカ艦隊 かんたい が壊滅 かいめつ 的 てき 打撃 だげき を受 う けたことは、この後 のち の日本 にっぽん 軍 ぐん の南方 なんぽう 作戦 さくせん の展開 てんかい に寄与 きよ することとはなったが、空母 くうぼ を撃 う ち漏 も らしたことと、日本 にっぽん 軍 ぐん は攻撃 こうげき を艦船 かんせん に集中 しゅうちゅう したため修理 しゅうり 施設 しせつ や燃料 ねんりょう タンクはほぼ無傷 むきず で、アメリカ海軍 かいぐん が損害 そんがい から立 た ち直 なお るのは日本 にっぽん 軍 ぐん の予想 よそう 以上 いじょう に早 はや く、のちの戦況 せんきょう に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼすこととなった。
日本 にっぽん 海軍 かいぐん は当時 とうじ 、短期間 たんきかん で勝利 しょうり を重 かさ ね、有利 ゆうり な状況 じょうきょう 下 か でアメリカ軍 ぐん をはじめとする連合 れんごう 国軍 こくぐん と停戦 ていせん に持 も ち込 こ むことを画策 かくさく していたため、負担 ふたん が大 おお きい割 わり には戦略 せんりゃく 的 てき 意味 いみ が薄 うす いと考 かんが えられていたハワイ諸島 しょとう に対 たい する上陸 じょうりく 作戦 さくせん は考 かんが えていなかった。また、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の成功 せいこう 後 ご 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん の潜水 せんすい 艦 かん 約 やく 10隻 せき を使用 しよう して、サンフランシスコ やサンディエゴ などアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 西海岸 にしかいがん の都市 とし 部 ぶ に対 たい して一斉 いっせい 砲撃 ほうげき を行 おこな う計画 けいかく もあったものの、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき によりアメリカ西海岸 にしかいがん 部 ぶ の警戒 けいかい が強化 きょうか されたこともあり、この案 あん が実行 じっこう に移 うつ されることはなかった。
しかしそのような中 なか で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領 だいとうりょう 以下 いか のアメリカ政府 せいふ 首脳 しゅのう 陣 じん は、ハワイ諸島 しょとう だけでなく本土 ほんど 西海岸 にしかいがん に対 たい する日本 にっぽん 海軍 かいぐん の上陸 じょうりく 作戦 さくせん を危惧 きぐ し、ハワイ駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん の本土 ほんど への撤退 てったい 計画 けいかく の策定 さくてい やハワイ諸島 しょとう で流通 りゅうつう されているアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ドル紙幣 しへい を専用 せんよう のものに変更 へんこう するなど、日本 にっぽん 軍 ぐん にハワイ諸島 しょとう が占領 せんりょう され資産 しさん などが日本 にっぽん 軍 ぐん の手 て に渡 わた った際 さい の対策 たいさく を早急 そうきゅう に策定 さくてい していた。また、アメリカ政府 せいふ 首脳 しゅのう 陣 じん および軍 ぐん の首脳 しゅのう 部 ぶ においては、日本 にっぽん 海軍 かいぐん の空母 くうぼ を含 ふく む連合 れんごう 艦隊 かんたい によるアメリカ本土 ほんど 空襲 くうしゅう と、それに続 つづ くアメリカ本土 ほんど への侵攻 しんこう 計画 けいかく は当時 とうじ その可能 かのう 性 せい が高 たか いと分析 ぶんせき されており、戦争 せんそう 開始 かいし 直後 ちょくご 、ルーズベルト大統領 だいとうりょう は日本 にっぽん 軍 ぐん によるアメリカ本土 ほんど への上陸 じょうりく を危惧 きぐ し、陸軍 りくぐん 上層 じょうそう 部 ぶ に上陸 じょうりく 時 じ での阻止 そし を打診 だしん するものの、陸軍 りくぐん 上層 じょうそう 部 ぶ は「大 だい 規模 きぼ な日本 にっぽん 軍 ぐん の上陸 じょうりく は避 さ けられない」として日本 にっぽん 軍 ぐん を上陸 じょうりく 後 ご ロッキー山脈 さんみゃく で、もしそれに失敗 しっぱい した場合 ばあい は中西部 ちゅうせいぶ のシカゴ で阻止 そし することを検討 けんとう していた[注 ちゅう 15] 。
香港 ほんこん に入城 にゅうじょう する日本 にっぽん 軍 ぐん
日本 にっぽん 軍 ぐん は1941年 ねん 12月8日 にち 朝 あさ 、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき と同 どう 時刻 じこく に啓 けい 徳 とく 空港 くうこう などの空港 くうこう を空襲 くうしゅう し初日 しょにち で航空 こうくう 戦力 せんりょく を無力 むりょく 化 か すると、9日 にち 夜 よる には九 きゅう 龍 りゅう 半島 はんとう の九 きゅう 龍 りゅう 要塞 ようさい ジン・ドリンカーズ・ライン主 ぬし 陣地 じんち への進攻 しんこう を開始 かいし 、当初 とうしょ の計画 けいかく より速 はや い6日 にち でイギリス軍 ぐん は香港 ほんこん 島 とう への撤退 てったい を発令 はつれい した。その後 ご に香港 ほんこん 島 とう に進攻 しんこう した日本 にっぽん 軍 ぐん は、香港 ほんこん 攻略 こうりゃく のために編成 へんせい された第 だい 1砲兵 ほうへい 隊 たい の激 はげ しい支援 しえん 砲撃 ほうげき のもとに香港 ほんこん 島 とう に進攻 しんこう したが、九 きゅう 龍 りゅう 半島 はんとう から水 みず の補給 ほきゅう も途絶 とだ えていたイギリス軍 ぐん は25日 にち 17時 じ 50分 ふん に白旗 しらはた を掲 かか げ、香港 ほんこん 島 とう も日本 にっぽん 軍 ぐん の手 て に落 お ちた[80] 。
一方 いっぽう で、中国 ちゅうごく 軍 ぐん が大陸 たいりく から香港 ほんこん 救援 きゅうえん を画策 かくさく していたが、阿南 あなみ 惟幾 これちか 中将 ちゅうじょう 率 ひき いる第 だい 11軍 ぐん の3個 こ 師団 しだん がその機先 きせん を制 せい して、中国 ちゅうごく 軍 ぐん の重要 じゅうよう 拠点 きょてん 長 ちょう 沙 すな に攻撃 こうげき をかけた。しかし、中国 ちゅうごく 軍 ぐん は30個 こ 師団 しだん 30万 まん 人 にん の兵力 へいりょく であり、第 だい 11軍 ぐん 3個 こ 師団 しだん は長 ちょう 沙 すな で撃退 げきたい されると、圧倒的 あっとうてき 多数 たすう の中国 ちゅうごく 軍 ぐん 相手 あいて に戦闘 せんとう しながらの撤退 てったい を余儀 よぎ なくされて多 おお くの損害 そんがい を被 こうむ り、この作戦 さくせん による日本 にっぽん 軍 ぐん の損害 そんがい は戦死 せんし 1,591人 にん 、戦傷 せんしょう 4,412人 にん にも上 のぼ ったが、各 かく 師団 しだん は厳 きび しい戦況 せんきょう のなかでも敢闘 かんとう し中国 ちゅうごく 軍 ぐん にも打撃 だげき を与 あた えて遺棄 いき 死体 したい 約 やく 28,612人 にん を確認 かくにん し、捕虜 ほりょ 1,065人 にん を得 え ている。中国 ちゅうごく 側 がわ が長 ちょう 沙 すな 会戦 かいせん と呼 よ んだこの戦 たたか いは、日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい する連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん 最初 さいしょ の勝利 しょうり として重慶 たーちん 政府 せいふ は大 おお いに喧伝 けんでん したが、中国 ちゅうごく 軍 ぐん 自身 じしん は、数 すう 倍 ばい の戦力 せんりょく を揃 そろ えて周到 しゅうとう に包囲 ほうい 作戦 さくせん を準備 じゅんび していたにも関 かか わらず、第 だい 11軍 ぐん を取 と り逃 に がしたことについて「すこぶる遺憾 いかん 」と厳 きび しい評価 ひょうか をしている。一方 いっぽう で長 ちょう 沙 すな を攻略 こうりゃく できなかった日本 にっぽん 軍 ぐん であったが、中国 ちゅうごく 軍 ぐん 主力 しゅりょく 12個 こ 軍 ぐん を牽制 けんせい して足止 あしど めし、結果 けっか 的 てき にこのあとの香港 ほんこん の攻略 こうりゃく や南方 なんぽう 作戦 さくせん を有利 ゆうり に展開 てんかい させることとなった。
降伏 ごうぶく 交渉 こうしょう を行 おこな う山下 やました 奉文 ともゆき 中将 ちゅうじょう とアーサー・パーシバル 中将 ちゅうじょう
日本 にっぽん 陸軍 りくぐん によるイギリス領 りょう マレ まれ ー半島 はんとう への上陸 じょうりく は成功 せいこう し、その後 ご 、地上 ちじょう と海上 かいじょう の双方 そうほう でイギリス軍 ぐん に対 たい する作戦 さくせん を成功 せいこう させマレ まれ ー半島 はんとう 制圧 せいあつ へと進 すす むこととなった。スリム河 かわ の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) においては、島田 しまだ 豊作 とよさく 少佐 しょうさ 率 ひき いる九 きゅう 七 なな 式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ を主力 しゅりょく とするわずか1個 いっこ 中隊 ちゅうたい 18輌 りょう の戦車 せんしゃ が、イギリス軍 ぐん 2個 こ 師団 しだん が守 まも る陣地 じんち を夜襲 やしゅう で突破 とっぱ するなど、イギリス軍 ぐん を圧倒 あっとう しながらマレ まれ ー半島 はんとう 南部 なんぶ に追 お い詰 つ めていった。
マレ まれ ー半島 はんとう を南下 なんか した日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は、大 だい 英 えい 帝国 ていこく の東南 とうなん アジア支配 しはい の拠点 きょてん で、ジブラルタル要塞 ようさい と同様 どうよう に巨費 きょひ を投 とう じて構築 こうちく されたシンガポール 要塞 ようさい への攻撃 こうげき を開始 かいし した。英国 えいこく 首相 しゅしょう チャーチルは司令 しれい 官 かん のアーサー・パーシヴァル 中将 ちゅうじょう に死守 ししゅ を命 めい じて、続々 ぞくぞく と援軍 えんぐん を送 おく っており、パーシバルは4個 こ 師団 しだん 相当 そうとう の85,000人 にん もの大 だい 兵力 へいりょく を指揮 しき していた。その兵力 へいりょく の多 おお くはイギリス本国 ほんごく 軍 ぐん やオーストラリア軍 ぐん から構成 こうせい され、主力 しゅりょく 戦車 せんしゃ は配備 はいび されていなかったものの十分 じゅうぶん な装備 そうび に加 くわ えて、航空 こうくう 戦力 せんりょく でもバトル・オブ・ブリテン で活躍 かつやく したホーカー ハリケーン Mk.IIが100機 き 送 おく られた。しかし、シンガポール要塞 ようさい は東方 とうほう 海上 かいじょう からの攻撃 こうげき に備 そな えて構築 こうちく され、主力 しゅりょく 兵器 へいき の 15インチ(380㎜)要塞 ようさい 砲 ほう (英語 えいご 版 ばん ) などの要塞 ようさい 砲 ほう は海 うみ 側 がわ を向 む いて設置 せっち されており、マレ まれ ー半島 はんとう を走破 そうは してジョホールバル から進攻 しんこう してくる日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい して役 やく にたなかった上 じょう [86] 、第 だい 25軍 ぐん の3個 こ 師団 しだん 36,000人 にん の日本 にっぽん 軍 ぐん に倍 ばい する兵力 へいりょく を有 ゆう しながら、訓練 くんれん 不足 ふそく などで兵力 へいりょく での優位 ゆうい を活 い かすことはできなかった。
まずは、菅原 すがわら 道 みち 大 だい 中将 ちゅうじょう 率 ひき いる第 だい 3飛行 ひこう 集団 しゅうだん がシンガポールを爆撃 ばくげき 、ハリケーンを主力 しゅりょく としたイギリス空軍 くうぐん が迎撃 げいげき するも、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい の最 さい 新鋭 しんえい 戦闘 せんとう 機 き 一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 「隼 はやぶさ 」を配備 はいび した加藤 かとう 建夫 たけお 中佐 ちゅうさ 率 ひき いる飛行 ひこう 第 だい 64戦隊 せんたい がハリケーンを次々 つぎつぎ と撃墜 げきつい し、イギリス軍 ぐん のハリケーンへの期待 きたい は裏切 うらぎ られた格好 かっこう となってシンガポールの制空権 せいくうけん は日本 にっぽん 軍 ぐん が確保 かくほ した。第 だい 3飛行 ひこう 集団 しゅうだん はシンガポールを連日 れんじつ 爆撃 ばくげき し、たまらず極東 きょくとう のイギリス空軍 くうぐん 司令 しれい 部 ぶ はシンガポールから逃亡 とうぼう し、日本 にっぽん 軍 ぐん から撃墜 げきつい 撃破 げきは を逃 のが れた残存 ざんそん 機 き もジャワ やスマトラ島 すまとらとう に退避 たいひ してしまった。空 そら からの援護 えんご で第 だい 25軍 ぐん はシンガポールに上陸 じょうりく 、激戦 げきせん の末 すえ 、シンガポールの水源 すいげん 地 ち であり、大量 たいりょう の物資 ぶっし ・弾薬 だんやく が貯蔵 ちょぞう してあったブキッ・ティマ 高地 こうち を奪取 だっしゅ すると、パーシバルはたまらず第 だい 25軍 ぐん の司令 しれい 官 かん 山下 やました 奉文 ともゆき 中将 ちゅうじょう に降伏 ごうぶく を申 もう し出 で た。マレ まれ ー半島 はんとう の戦 たたか いも含 ふく め大 だい 英 えい 帝国 ていこく は死傷 ししょう 者 しゃ 20,000人 にん に加 くわ えて、イギリス兵 へい 35,000人 にん 、オーストラリア兵 へい 15,000人 にん 、インド兵 へい 67,000人 にん 、現地 げんち 義勇 ぎゆう 兵 へい 14,000人 にん の合計 ごうけい 131,000人 にん 以上 いじょう が捕虜 ほりょ となるなど甚大 じんだい な損害 そんがい を被 こうむ った[89] 。パーシバルに死守 ししゅ を命 めい じていたチャーチルはこの敗戦 はいせん に衝撃 しょうげき を受 う けて『大 だい 英 えい 帝国 ていこく 史上 しじょう 最悪 さいあく の災害 さいがい と最大 さいだい の降伏 ごうぶく 』と後々 あとあと まで悔 く やむこととなった[90] 。
中立 ちゅうりつ 国 こく ポルトガル の植民 しょくみん 地 ち に対 たい しても、英国 えいこく の勢力 せいりょく 圏 けん であったオーストラリア 攻略 こうりゃく の経由 けいゆ 地 ち となる可能 かのう 性 せい を持 も った東 ひがし ティモール と、香港 ほんこん や中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に近接 きんせつ するマカオ については当初 とうしょ 、日本 にっぽん 軍 ぐん は中立 ちゅうりつ 国 こく の植民 しょくみん 地 ち であることを理由 りゆう に侵攻 しんこう を行 おこな わなかった。しかし、オランダ軍 ぐん とオーストラリア軍 ぐん が中立 ちゅうりつ 担保 たんぽ のためとして東 ひがし ティモールを保障 ほしょう 占領 せんりょう したため、日本 にっぽん 軍 ぐん がオランダ領 りょう の西 にし ティモールと同時 どうじ に占領 せんりょう し、ポルトガル政府 せいふ の黙認 もくにん の下 した 、マカオとともに事実 じじつ 上 じょう の統治 とうち 下 か に置 お いた。
1942年 ねん 5月 がつ 、フィリピン・コレヒドール島 とう におけるアメリカ極東 きょくとう 陸軍 りくぐん の降伏 ごうぶく
日本 にっぽん 軍 ぐん はアメリカの植民 しょくみん 地 ち であったフィリピン にも上陸 じょうりく した。フィリピンでは軍事 ぐんじ 顧問 こもん から現役 げんえき 軍人 ぐんじん に復帰 ふっき したダグラス・マッカーサー がアメリカ軍 ぐん とフィリピン軍 ぐん を統括 とうかつ するアメリカ極東 きょくとう 陸軍 りくぐん 司令 しれい 官 かん として、本間 ほんま 雅晴 まさはる 中将 ちゅうじょう 率 ひき いる第 だい 14軍 ぐん を迎 むか え撃 う ったが、開戦 かいせん 劈頭 へきとう にクラークフィールド 飛行場 ひこうじょう を日本 にっぽん 軍 ぐん に爆撃 ばくげき されて、新 しん 兵器 へいき の大型 おおがた 爆撃 ばくげき 機 き B-17 を含 ふく む航空 こうくう 戦力 せんりょく が壊滅 かいめつ すると、15万 まん 人 にん の兵力 へいりょく を有 ゆう しながら、リンガエン湾 わん から上陸 じょうりく してきた4万 まん 人 にん の第 だい 14軍 ぐん に圧倒 あっとう されてバターン半島 はんとう とコレヒドール島 とう で籠城 ろうじょう させられた。その後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん は主力 しゅりょく の第 だい 48師団 しだん が蘭 らん 印 しるし 作戦 さくせん に転出 てんしゅつ したため、圧倒的 あっとうてき に兵力 へいりょく に勝 まさ るアメリカ極東 きょくとう 陸軍 りくぐん を攻 せ めあぐねていたが、食料 しょくりょう の備蓄 びちく が底 そこ をついたアメリカ極東 きょくとう 陸軍 りくぐん の戦力 せんりょく と士気 しき の低下 ていか は著 いちじる しく、アメリカ陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう まで務 つと めたマッカーサーが捕虜 ほりょ となった場合 ばあい の悪影響 あくえいきょう を懸念 けねん したルーズベルトよりオーストラリアへの脱出 だっしゅつ 命令 めいれい を受 う けたマッカーサーは、バターンで飢餓 きが と疫病 えきびょう に苦 くる しむ部下 ぶか 将兵 しょうへい やフィリピン国民 こくみん に対 たい して「私 わたし はアメリカ大統領 だいとうりょう から、日本 にっぽん の戦線 せんせん を突破 とっぱ してコレヒドールからオーストラリアに行 い けと命 めい じられた。その目的 もくてき は、私 わたし の了解 りょうかい するところでは、日本 にっぽん に対 たい するアメリカの攻勢 こうせい を準備 じゅんび することで、その最大 さいだい の目的 もくてき はフィリピンの救援 きゅうえん にある。私 わたし はやってきたが、必 かなら ずや私 わたし は戻 もど るだろう(I shall return )」と約束 やくそく すると、フィリピンから脱出 だっしゅつ した。
マッカーサーに見捨 みす てられたジョナサン・ウェインライト 少将 しょうしょう 率 ひき いるアメリカ極東 きょくとう 陸軍 りくぐん は、その後 ご も飢餓 きが や疫病 えきびょう で多 おお くの犠牲 ぎせい を出 だ しながらもバターンを守 まも り続 つづ けたが、1942年 ねん 4月 がつ に増援 ぞうえん を得 え た日本 にっぽん 軍 ぐん の総 そう 攻撃 こうげき により降伏 ごうぶく へと追 お い込 こ まれた。この時 とき に日本 にっぽん 軍 ぐん に投降 とうこう したアメリカ極東 きょくとう 軍 ぐん 将兵 しょうへい は76,000名 めい にもなり、『戦史 せんし 上 じょう でアメリカ軍 ぐん が被 こうむ った最悪 さいあく の敗北 はいぼく 』と言 い われ、多 おお くのアメリカ人 じん のなかに長 なが く苦痛 くつう の記憶 きおく として残 のこ ることとなった[94] 。勝利 しょうり した日本 にっぽん 軍 ぐん であったが、バターン攻撃 こうげき 当初 とうしょ からバターンに籠 こも ったアメリカ極東 きょくとう 軍 ぐん の兵士 へいし 数 すう を把握 はあく できておらず、予想 よそう 外 がい の捕虜 ほりょ に対 たい し食糧 しょくりょう も運搬 うんぱん 手段 しゅだん も準備 じゅんび できていなかった。また、降伏 ごうぶく した将兵 しょうへい はマッカーサーの「絶対 ぜったい に降伏 ごうぶく するな」という死守 ししゅ 命令 めいれい により、飢餓 きが と病気 びょうき で消耗 しょうもう しきっていたが、司令 しれい 官 かん の本 ほん 間 あいだ はそういう事情 じじょう を十分 じゅうぶん 知 し らされていない中 なか で、バターン半島 はんとう 最 さい 南部 なんぶ からマニラ北方 ほっぽう のサンフェルナンド まで90kmを徒歩 とほ で移動 いどう するという捕虜 ほりょ 輸送 ゆそう 計画 けいかく を承認 しょうにん した。徒歩 とほ 移動 いどう 中 ちゅう に消耗 しょうもう しきった捕虜 ほりょ たちは、マラリア 、疲労 ひろう 、飢餓 きが と日本 にっぽん 兵 へい の暴行 ぼうこう や処刑 しょけい で7,000名 めい 〜10,000名 めい が死 し ぬこととなり、後 のち にアメリカで『Bataan Death March(バターン死 し の行進 こうしん )』と称 しょう されて、日本 にっぽん への敵愾心 てきがいしん を煽 あお ることとなった。
蘭 らん 印 しるし 作戦 さくせん [ 編集 へんしゅう ]
バリクパパン を進撃 しんげき する日本 にっぽん 軍 ぐん
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )1月 がつ に日本 にっぽん は対 たい 米 べい 英 えい 戦争 せんそう と支 ささえ 那 な 事変 じへん のみならず、対 たい 蘭 らん 戦 たたかえ 、対 たい ソ連 それん 戦 せん も「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」に含 ふく むと確認 かくにん した[96] 。同 どう 1月 がつ 、日本 にっぽん が宣戦 せんせん を保留 ほりゅう していたオランダとも開戦 かいせん 。当時 とうじ はイギリスおよびオランダの植民 しょくみん 地 ち であったボルネオ島 とう (カリマンタン島 とう )とジャワ島 じゃわとう 、オランダの植民 しょくみん 地 ち であったスマトラ島 すまとらとう にも侵攻 しんこう を開始 かいし した。
1942年 ねん の2月 がつ には、開戦 かいせん 以来 いらい 連戦 れんせん 連勝 れんしょう を続 つづ ける日本 にっぽん 海軍 かいぐん の伊 い 号 ごう 第 だい 十 じゅう 七 なな 潜水 せんすい 艦 かん が、アメリカ西海岸 にしかいがん 沿岸 えんがん 部 ぶ のカリフォルニア州 しゅう サンタバーバラ 市 し 近郊 きんこう のエルウッドにある製油 せいゆ 所 しょ を砲撃 ほうげき し製油 せいゆ 所 しょ の施設 しせつ を破壊 はかい した。続 つづ いて同 どう 6月 がつ にはオレゴン州 しゅう にあるアメリカ海軍 かいぐん の基地 きち を砲撃 ほうげき して被害 ひがい を出 だ したこともあり、アメリカは本土 ほんど への日本 にっぽん 軍 ぐん の本格 ほんかく 的 てき な上陸 じょうりく に備 そな えたものの、短期 たんき 決着 けっちゃく による早期 そうき 和平 わへい を意図 いと していた日本 にっぽん 海軍 かいぐん はアメリカ本土 ほんど に向 む けて本格 ほんかく 的 てき に進軍 しんぐん する意図 いと はなかった。しかし、これらのアメリカ本土 ほんど 攻撃 こうげき がもたらした日本 にっぽん 軍 ぐん のアメリカ本土 ほんど 上陸 じょうりく に対 たい するアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 政府 せいふ の恐怖 きょうふ 心 しん と、無知 むち による人種 じんしゅ 差別 さべつ 的 てき 感情 かんじょう が、日系 にっけい 人 じん の強制 きょうせい 収容 しゅうよう の本格 ほんかく 化 か に繋 つな がったとも言 い われる。
日本 にっぽん 海軍 かいぐん は、同月 どうげつ に行 おこな われたジャワ沖 おき 海戦 かいせん でアメリカ、イギリス、オランダ海軍 かいぐん を中心 ちゅうしん とする連合 れんごう 軍 ぐん 諸国 しょこく の艦隊 かんたい を打破 だは する。続 つづ くスラバヤ沖 おき 海戦 かいせん では、巡洋艦 じゅんようかん 7隻 せき を撃 げき 沈破された連合 れんごう 国 こく 海軍 かいぐん に対 たい し、日本 にっぽん 海軍 かいぐん 側 がわ の損失 そんしつ は皆無 かいむ と圧勝 あっしょう した。シンガポール陥落 かんらく 後 ご の3月 がつ に行 おこな われたバタビア沖 おき 海戦 かいせん でも勝利 しょうり し、東南 とうなん アジア海域 かいいき の連合 れんごう 国軍 こくぐん 艦隊 かんたい をほぼ壊滅 かいめつ させた。またジャワ島 じゃわとう に上陸 じょうりく した日本 にっぽん 軍 ぐん は、疲弊 ひへい したオランダ軍 ぐん を制圧 せいあつ し同島 どうとう 全域 ぜんいき を占領 せんりょう した(蘭 らん 印 しるし 作戦 さくせん )。
ビルマの仏教 ぶっきょう 寺院 じいん をパトロールする日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし (1942年 ねん )
1941年 ねん 12月、日本 にっぽん 軍 ぐん は「マレー作戦 さくせん の側 がわ 背 せ の安定 あんてい ・援蒋ルート の遮断 しゃだん ・対 たい インドおよび対 たい 中国 ちゅうごく の圧迫 あっぱく 強化 きょうか 」を目的 もくてき としてビルマ(現 げん ミャンマー )に進攻 しんこう した。
1942年 ねん 3月 がつ 8日 にち には首都 しゅと ラングーンを占領 せんりょう 。日本 にっぽん 軍 ぐん は破竹 はちく の勢 いきお いで連合 れんごう 軍 ぐん を追撃 ついげき 、5月 がつ 末 まつ までに一掃 いっそう し、ビルマを制圧 せいあつ した。英 えい 印 しるし 軍 ぐん は重 じゅう 装備 そうび ・車両 しゃりょう の類 るい をことごとく放棄 ほうき してアラカン山中 さんちゅう に敗走 はいそう し、一方 いっぽう 、雲南 うんなん 方面 ほうめん への退路 たいろ を遮断 しゃだん された中国 ちゅうごく 軍 ぐん は、北部 ほくぶ ビルマに追 お い詰 つ められ崩壊 ほうかい していった。中国 ちゅうごく ・ビルマ ・インド 戦域 せんいき アメリカ陸軍 りくぐん 司令 しれい 官 かん ジョセフ・スティルウェル 中将 ちゅうじょう はわずか数 すう 十 じゅう 名 めい とともにアラカン山中 さんちゅう をさまよい、インドへ逃 のが れた。以上 いじょう のようにして、ビルマ作戦 さくせん は日本 にっぽん 軍 ぐん の完全 かんぜん 勝利 しょうり をもって、雨季 うき 入 い り直前 ちょくぜん に予定 よてい 通 どお りその幕 まく を閉 と じた。
その後 ご 日本 にっぽん 軍 ぐん は、インドの要衝 ようしょう カルカッタ(現 げん コルカタ )への爆 ばく 撃 げき を実施 じっし した(カルカッタ爆 ばく 撃 げき )。
インド洋 いんどよう とオーストラリアへの進攻 しんこう [ 編集 へんしゅう ]
1942年 ねん 2月 がつ 19日 にち 、オーストラリア北西 ほくせい 部 ぶ ダーウィンへの空襲 くうしゅう
ビルマ方面 ほうめん に展開 てんかい する日本 にっぽん 陸軍 りくぐん を後方 こうほう 協力 きょうりょく する形 かたち で、航空 こうくう 母艦 ぼかん を中心 ちゅうしん とした海軍 かいぐん の機動 きどう 艦隊 かんたい が、進出 しんしゅつ したインド洋 いんどよう で空母 くうぼ 搭載 とうさい 機 き によるイギリス領 りょう セイロン(現在 げんざい のスリランカ )のコロンボ 、トリンコマリーを空襲 くうしゅう 、さらにイギリス海軍 かいぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい へも攻撃 こうげき を加 くわ え多数 たすう の艦艇 かんてい を撃沈 げきちん した(セイロン沖 おき 海戦 かいせん )。こうして航空 こうくう 戦力 せんりょく に大 だい 打撃 だげき を受 う けたイギリス東洋 とうよう 艦隊 かんたい は日本 にっぽん 海軍 かいぐん の機動 きどう 部隊 ぶたい に対 たい する反撃 はんげき ができず、当時 とうじ 植民 しょくみん 地下 ちか に置 お いていたアフリカ東岸 とうがん のケニア のキリンディニ港 こう まで撤退 てったい することになる。なお、この攻撃 こうげき に加 くわ わった潜水 せんすい 艦 かん の一 いち 隻 せき である伊 い 号 ごう 第 だい 三 さん 十 じゅう 潜水 せんすい 艦 かん は、その後 ご 8月 がつ に戦争 せんそう 開始 かいし 後 ご 初 はつ の遣 や 独 どく 潜水 せんすい 艦 かん 作戦 さくせん (第 だい 一 いち 次 じ 遣 や 独 どく 潜水 せんすい 艦 かん )としてドイツ占領 せんりょう 下 か のフランスへと派遣 はけん され、エニグマ暗号 あんごう 機 き などを持 も ち帰 かえ った。
1942年 ねん 2月 がつ 19日 にち には日本 にっぽん 軍 ぐん が艦載 かんさい 機 き と陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き によって、オーストラリア のダーウィン 湾 わん と停泊 ていはく している艦船 かんせん と飛行場 ひこうじょう を空襲 くうしゅう した(ダーウィン空襲 くうしゅう )。オーストラリア史上 しじょう 初 はつ の他国 たこく による本土 ほんど への軍事 ぐんじ 攻撃 こうげき となったが、停泊 ていはく 中 ちゅう の艦船 かんせん 39隻 せき が撃 げき 沈破、30機 き の航空機 こうくうき が撃墜 げきつい 撃破 げきは されるなど大 おお きな損害 そんがい を被 こうむ った。この後 のち も日本 にっぽん 軍 ぐん は96回 かい に渡 わた ってオーストラリアを爆撃 ばくげき し(日本 にっぽん のオーストラリア空襲 くうしゅう )、一般 いっぱん 市民 しみん に2,000人 にん 弱 じゃく の死傷 ししょう 者 しゃ をだした[101] 。また、1942年 ねん 5月 がつ には日本 にっぽん 軍 ぐん の特殊 とくしゅ 潜航 せんこう 艇 てい がシドニー港 こう を攻撃 こうげき し、オーストラリア海軍 かいぐん の宿泊 しゅくはく 艦 かん 「クッタブル (HMAS Kuttabul )」を撃沈 げきちん 、その隣 となり にいたオランダ海軍 かいぐん の潜水 せんすい 艦 かん 「K IX (K IX )」も大破 たいは してシドニー港 こう は大 だい 混乱 こんらん に陥 おちい った。日本 にっぽん 軍 ぐん の侵攻 しんこう が現実 げんじつ 的 てき となったオーストラリアに緊張 きんちょう が走 はし ったが、肝心 かんじん のオーストラリア軍 ぐん はシンガポールで大 だい 損害 そんがい を被 こうむ っていたうえ、チャーチルの要請 ようせい によってエルヴィン・ロンメル 率 ひき いる「ドイツ・アフリカ軍団 ぐんだん 」に対抗 たいこう するため北 きた アフリカ戦線 せんせん に3個 こ 師団 しだん が派遣 はけん されており、オーストラリアのジョン・カーティン 首相 しゅしょう はルーズベルトとチャーチルにアメリカがオーストラリアの防衛 ぼうえい に責任 せきにん を持 も つよう要請 ようせい した。ルーズベルトはフィリピンから脱出 だっしゅつ したマッカーサーを司令 しれい 官 かん とし南西 なんせい 太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん 軍 ぐん を編成 へんせい して、日本 にっぽん 軍 ぐん の侵攻 しんこう に対抗 たいこう することとした[103] 。
この頃 ころ イギリス軍 ぐん は日本 にっぽん 海軍 かいぐん の基地 きち とされる危険 きけん 性 せい から、ヴィシー・フランス 統治 とうち 下 か にあったアフリカ東岸 とうがん のマダガスカル 島 しま を、南 みなみ アフリカ軍 ぐん の支援 しえん を受 う けて占領 せんりょう した(マダガスカルの戦 たたか い )。この戦 たたか いの間 あいだ に、現地 げんち のヴィシー・フランス軍 ぐん を援護 えんご する名目 めいもく でイギリス海軍 かいぐん を追 お った日本 にっぽん 海軍 かいぐん の特殊 とくしゅ 潜航 せんこう 艇 てい がディエゴスアレス 港 みなと を攻撃 こうげき し、タンカー「ブリティッシュ・ロイヤルティ 」を撃沈 げきちん 、イギリス海軍 かいぐん の戦艦 せんかん を1隻 せき 大破 たいは させるなどの戦果 せんか を挙 あ げている。戦争 せんそう 末期 まっき にはイギリス軍 ぐん が反攻 はんこう に転 てん じるが、インド洋 いんどよう 東部 とうぶ における日本 にっぽん 軍 ぐん によるアンダマン・ニコバル諸島 しょとう の占領 せんりょう は終戦 しゅうせん まで続 つづ いた。
珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん [ 編集 へんしゅう ]
気化 きか ガソリンに引火 いんか し大 だい 爆発 ばくはつ を起 お こした米 べい 空母 くうぼ 「レキシントン 」
こうした第 だい 一 いち 段 だん 作戦 さくせん の終了 しゅうりょう 後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん は第 だい 二 に 段 だん 作戦 さくせん として、アメリカとオーストラリア(豪州 ごうしゅう )の間 あいだ のシーレーン を遮断 しゃだん しオーストラリアを孤立 こりつ させる「米 べい 豪 ごう 遮断 しゃだん 作戦 さくせん 」(FS作戦 さくせん )を構想 こうそう した。この阻止 そし を目論 もくろ む連合 れんごう 軍 ぐん との間 あいだ でソロモン諸島 しょとう の戦 たたか い 、ニューギニアの戦 たたか い が開始 かいし されると、この地域 ちいき で足止 あしど めされた日本 にっぽん 軍 ぐん は、戦争 せんそう 資源 しげん を消耗 しょうもう していくことになる。
日本 にっぽん 軍 ぐん は、アメリカとオーストラリアのシーレーン遮断 しゃだん のため潜水 せんすい 艦 かん をオーストラリア海域 かいいき に派遣 はけん 、日本 にっぽん 軍 ぐん 潜水 せんすい 艦 かん は約 やく 30隻 せき の艦船 かんせん を撃沈 げきちん し、一時 いちじ 連合 れんごう 軍 ぐん は海上 かいじょう 輸送 ゆそう 路 ろ の変更 へんこう を余儀 よぎ なくされ輸送 ゆそう 量 りょう が減少 げんしょう することとなったが、戦況 せんきょう やオーストラリア経済 けいざい に与 あた えた影響 えいきょう は少 すく なかった[104] 。しかし、撃沈 げきちん された艦船 かんせん の中 なか には、オーストラリアの病院 びょういん 船 せん ケンタウロス (英語 えいご 版 ばん ) も含 ふく まれており、のちに国際 こくさい 問題 もんだい となった[105] 。
日本 にっぽん 軍 ぐん は「米 べい 豪 ごう 遮断 しゃだん 作戦 さくせん 」実現 じつげん のため、ニューギニアの連合 れんごう 軍 ぐん 重要 じゅうよう 拠点 きょてん ポートモレスビー に海路 かいろ 進攻 しんこう するMO作戦 さくせん を計画 けいかく 、作戦 さくせん には「第 だい 五 ご 航空 こうくう 戦隊 せんたい 」の「翔 しょう 鶴 づる 」「瑞 みず 鶴 づる 」とMO攻略 こうりゃく 部隊 ぶたい MO主 しゅ 隊 たい の「祥 さち 鳳 おおとり 」の空母 くうぼ 3隻 せき が参加 さんか していたが、アメリカ軍 ぐん も作戦 さくせん 阻止 そし のため大型 おおがた 空母 くうぼ 「レキシントン 」と「ヨークタウン 」の空母 くうぼ 2隻 せき が出撃 しゅつげき 、5月4日 にち から、歴史 れきし 上 うえ 初 はつ の両 りょう 艦隊 かんたい が互 たが いの視界 しかい 外 がい 且 か つ空母 くうぼ 同士 どうし の海戦 かいせん となった珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん が戦 たたか われた。海戦 かいせん は日本 にっぽん 軍 ぐん が「レキシントン」を撃沈 げきちん したのに対 たい して、失 うしな ったのは小型 こがた 空母 くうぼ 「祥 さち 鳳 おおとり 」だけで、アメリカ軍 ぐん 艦隊 かんたい を後退 こうたい させることに成功 せいこう したが、「翔 しょう 鶴 づる 」が損傷 そんしょう していたうえ、艦載 かんさい 機 き の消耗 しょうもう が激 はげ しく、海 うみ からのポートモレスビー攻略 こうりゃく を断念 だんねん せざるを得 え ず、アメリカ軍 ぐん からは開戦 かいせん 以来 いらい 初 はじ めて日本 にっぽん 軍 ぐん の膨張 ぼうちょう を抑 おさ えることができたとの評価 ひょうか であった。この結果 けっか 、海路 かいろ からのポートモレスビー攻略 こうりゃく を断念 だんねん した日本 にっぽん 軍 ぐん は陸路 りくろ からの作戦 さくせん に切 き り替 か えたものの、山脈 さんみゃく 越 こ えの難 なん 行軍 こうぐん により補給 ほきゅう が途絶 とだ えてポートモレスビー攻略 こうりゃく 作戦 さくせん は失敗 しっぱい する。
戦局 せんきょく の転換期 てんかんき [ 編集 へんしゅう ]
ドーリットル空襲 くうしゅう [ 編集 へんしゅう ]
空母 くうぼ ホーネットを発 はつ 艦 かん するB-25
敗戦 はいせん が続 つづ き国民 こくみん の士気 しき が低下 ていか していることを懸念 けねん していたルーズベルトは、日本 にっぽん 本土 ほんど を爆撃 ばくげき して国民 こくみん の士気 しき を高 たか める必要 ひつよう があると考 かんが えていた。ルースベルトの強 つよ い意志 いし もあってアメリカ統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は、「航続 こうぞく 距離 きょり の長 なが い陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき 機 き を空母 くうぼ から発 はつ 艦 かん させ、日本 にっぽん 本土 ほんど を爆撃 ばくげき する」という作戦 さくせん を決定 けってい し、改造 かいぞう した「B-25 」16機 き で東京 とうきょう を爆撃 ばくげき して、そのまま中国 ちゅうごく の飛行場 ひこうじょう に着陸 ちゃくりく するという計画 けいかく を立 た てた。アメリカ海軍 かいぐん のなかには、戦術 せんじゅつ 的 てき な効果 こうか が殆 ほとん ど望 のぞ めない作戦 さくせん で貴重 きちょう な空母 くうぼ を必要 ひつよう 以上 いじょう の危険 きけん に晒 さら すことに反対 はんたい 意見 いけん も根強 ねづよ かったが、ルーズベルトの強 つよ い意志 いし もあって作戦 さくせん は決行 けっこう された。
ジミー・ドーリットル 中佐 ちゅうさ が任務 にんむ の指揮 しき 官 かん に選 えら ばれ、B-25を16機 き 搭載 とうさい した空母 くうぼ 「ホーネット 」と護衛 ごえい する「エンタープライズ 」が途中 とちゅう で日本 にっぽん 軍 ぐん の警戒 けいかい 船 せん を排除 はいじょ しながら、日本 にっぽん 本土 ほんど に接近 せっきん し、1942年 ねん 4月 がつ 18日 にち 、東京 とうきょう から700マイルの地点 ちてん で予定 よてい より7時間 じかん 早 はや い08:15からB-25が発 はつ 艦 かん を開始 かいし した。予定 よてい よりも7時 じ 間 あいだ も発 はつ 艦 かん を早 はや めたのは日本 にっぽん 軍 ぐん の警戒 けいかい 船 せん に発見 はっけん されたことを警戒 けいかい したためであったが、日本 にっぽん 軍 ぐん は警戒 けいかい はしていたもののB-25をまともに迎撃 げいげき することはできなかった。B-25は東京 とうきょう のほか、横浜 よこはま 、横須賀 よこすか 、名古屋 なごや を空襲 くうしゅう し、中国 ちゅうごく 方面 ほうめん に離脱 りだつ したが、日本 にっぽん 本土 ほんど で撃墜 げきつい された機 き はなかったものの、16機 き 全 ぜん 機 き が不時着 ふじちゃく などで失 うしな われた。日本 にっぽん がこの空襲 くうしゅう で受 う けた被害 ひがい は限定 げんてい 的 てき であったが、この影響 えいきょう は日本 にっぽん 、アメリカ共 ども に大 おお きなものとなり、特 とく にアメリカ国民 こくみん の士気 しき は大 おお いに高 たか まった。
爆 ばく 撃 げき を受 う け炎上 えんじょう する空母 くうぼ 「飛 ひ 龍 りゅう 」
4月 がつ 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん は、アメリカの海軍 かいぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい を制圧 せいあつ するため、機動 きどう 部隊 ぶたい 主力 しゅりょく を投入 とうにゅう しミッドウェー島 とう 攻略 こうりゃく を決定 けってい するが、その直後 ちょくご のドーリットル空襲 くうしゅう に衝撃 しょうげき を受 う ける。6月に行 おこな われたミッドウェー海戦 かいせん において、日本 にっぽん 海軍 かいぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい は主力 しゅりょく 正規 せいき 空母 くうぼ 4隻 せき (「赤城 あかぎ 」「加賀 かが 」「蒼 あおい 龍 りゅう 」「飛 ひ 龍 りゅう 」)と重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん 「三 さん 隈 くま 」を喪失 そうしつ する事態 じたい に陥 おちい る。艦船 かんせん の被害 ひがい だけではなく多 おお くの艦載 かんさい 機 き および搭乗 とうじょう 員 いん を失 うしな ったこの戦闘 せんとう は太平洋戦争 たいへいようせんそう のターニングポイントとなった。ここで大本営 だいほんえい 海軍 かいぐん 部 ぶ は、ミッドウェー海戦 かいせん における大敗 たいはい の事実 じじつ を隠蔽 いんぺい する(大本営 だいほんえい 発表 はっぴょう )。
アメリカ海軍 かいぐん 機 き による日本 にっぽん 本土 ほんど への初 はつ 空襲 くうしゅう に対 たい して、9月には日本 にっぽん 海軍 かいぐん の伊 い 十 じゅう 五 ご 型 がた 潜水 せんすい 艦 かん 伊 い 号 ごう 第 だい 二 に 十 じゅう 五 ご 潜水 せんすい 艦 かん の潜水艦 せんすいかん 搭載 とうさい 偵察 ていさつ 機 き によりアメリカ西海岸 にしかいがん のオレゴン州 しゅう を2度 ど にわたり空爆 くうばく し、森林 しんりん 火災 かさい を発生 はっせい させるなどの被害 ひがい を与 あた えたが(アメリカ本土 ほんど 空襲 くうしゅう )、アメリカ政府 せいふ はこの事実 じじつ を隠蔽 いんぺい した。この空襲 くうしゅう は、2022年 ねん 現在 げんざい に至 いた るまでアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 本土 ほんど に対 たい する唯一 ゆいいつ の外国 がいこく 軍機 ぐんき による空襲 くうしゅう となっている。
ガダルカナル島 とう の戦 たたか い・ソロモン海戦 かいせん [ 編集 へんしゅう ]
1942年 ねん 10月 がつ 、ガダルカナル島 とう の戦 たたか いにおいて壊滅 かいめつ した日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の第 だい 2師団 しだん
ミッドウェー海戦 かいせん 直後 ちょくご の7月 がつ に日本 にっぽん 軍 ぐん は最大 さいだい 勢力 せいりょく 範囲 はんい に達 たっ したが、ミッドウェー海戦 かいせん により日本 にっぽん 軍 ぐん の圧倒的 あっとうてき 優位 ゆうい にあった空母 くうぼ 戦力 せんりょく は一時 いちじ 的 てき に拮抗 きっこう し、アメリカ海軍 かいぐん は日本 にっぽん 海軍 かいぐん の予想 よそう より早 はや く反攻 はんこう 作戦 さくせん を開始 かいし することとなる。8月にアメリカ軍 ぐん は日本 にっぽん 海軍 かいぐん に対 たい する初 はつ の本格 ほんかく 的 てき な反攻 はんこう として、ソロモン諸島 しょとう のツラギ島 とう およびガダルカナル島 とう に海兵 かいへい 隊 たい 2万 まん 人 にん を上陸 じょうりく させ、日本 にっぽん 海軍 かいぐん が建設 けんせつ し完成 かんせい 間近 まぢか であった飛行場 ひこうじょう を占領 せんりょう した[47] 。日本 にっぽん 海軍 かいぐん は日本 にっぽん 陸軍 りくぐん に対 たい して同地 どうち 奪回 だっかい を懇願 こんがん し、陸軍 りくぐん は地上 ちじょう 部隊 ぶたい を派兵 はへい 、これにより日本 にっぽん 軍 ぐん と米 べい 豪 ごう 両 りょう 軍 ぐん の間 あいだ で陸 りく ・海 うみ ・空 そら の全 すべ てにおいて一大 いちだい 消耗 しょうもう 戦 せん が繰 く り広 ひろ げることとなった(ガダルカナル島 とう の戦 たたか い )。同月 どうげつ に行 おこな われた第 だい 一 いち 次 じ ソロモン海戦 かいせん では日本 にっぽん 海軍 かいぐん の攻撃 こうげき で、アメリカ、オーストラリア海軍 かいぐん などからなる連合 れんごう 軍 ぐん の重 じゅう 巡 じゅん 4隻 せき を撃沈 げきちん して勝利 しょうり する。しかし、日本 にっぽん 軍 ぐん が輸送 ゆそう 船 せん を攻撃 こうげき しなかったため、ガダルカナル島 とう での戦況 せんきょう に大 おお きな影響 えいきょう はなかったが、第 だい 二 に 次 じ ソロモン海戦 かいせん で日本 にっぽん 海軍 かいぐん は小型 こがた 空母 くうぼ 「龍 りゅう 驤 」を失 うしな い、島 しま を巡 めぐ る戦況 せんきょう は泥沼 どろぬま 化 か する。
10月に行 おこな われた南太平洋 みなみたいへいよう 海戦 かいせん では、日本 にっぽん 海軍 かいぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい の攻撃 こうげき により、アメリカ海軍 かいぐん 大型 おおがた 空母 くうぼ のうち「ホーネット 」を撃沈 げきちん 、「エンタープライズ 」を大破 たいは させた。先立 さきだ って「サラトガ 」が大破 たいは 、「ワスプ 」を日本 にっぽん 潜水 せんすい 艦 かん の雷撃 らいげき によって失 うしな っていたアメリカ海軍 かいぐん は、一時 いちじ 的 てき にではあるが太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん における可 か 稼動 かどう 空母 くうぼ が皆無 かいむ という危機 きき 的 てき 状況 じょうきょう へ陥 おちい った。日本 にっぽん は「瑞 みず 鶴 づる 」以下 いか 5隻 せき の空母 くうぼ を有 ゆう し、ミッドウェー海戦 かいせん 後 ご も空母 くうぼ の隻数 せきすう では優位 ゆうい にあったが、度重 たびかさ なる海戦 かいせん で熟練 じゅくれん 搭乗 とうじょう 員 いん が消耗 しょうもう してしまったことと補給 ほきゅう 線 せん が延 の びきったことにより、前線 ぜんせん への投入 とうにゅう ができず新 あら たな攻勢 こうせい に打 う って出 で ることができなかった。
その後 ご 行 おこな われた第 だい 三 さん 次 じ ソロモン海戦 かいせん で、日本 にっぽん 海軍 かいぐん は戦艦 せんかん 2隻 せき (「比叡 ひえい 」「霧島 きりしま 」)を失 うしな い敗北 はいぼく した。アメリカ軍 ぐん はガダルカナル島 とう 周辺 しゅうへん において航空 こうくう 優勢 ゆうせい を獲得 かくとく 、日本 にっぽん 軍 ぐん の輸送 ゆそう 船 せん を撃破 げきは して補給 ほきゅう を妨害 ぼうがい し、物資 ぶっし 輸送 ゆそう を封 ふう じ込 こ めた。ガダルカナル島 とう では補給 ほきゅう が覚束 おぼつか なくなり、餓死 がし する日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし が続出 ぞくしゅつ した。後 のち に一部 いちぶ の司令 しれい 部 ぶ よりガダルカナル諸島 しょとう は「餓 かつえ 島 しま 」と皮肉 ひにく られた。
1943年 ねん 1月 がつ 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん はソロモン諸島 しょとう で行 おこな われたレンネル島 とう 沖 おき 海戦 かいせん でアメリカ海軍 かいぐん の重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん 「シカゴ 」を撃沈 げきちん する戦果 せんか を上 あ げたが、島 しま の奪回 だっかい は最早 もはや 絶望 ぜつぼう 的 てき となり、2月 がつ に日本 にっぽん 陸軍 りくぐん はガダルカナル島 とう から撤退 てったい (ケ号 ごう 作戦 さくせん )した。半年 はんとし にも及 およ ぶ消耗 しょうもう 戦 せん により、日 にち 米 べい 豪 ごう 両 りょう 軍 ぐん に大 おお きな損害 そんがい が生 しょう じたが、国力 こくりょく に限界 げんかい がある日本 にっぽん にとっては取 と り返 かえ しのつかない損害 そんがい であった。これ以降 いこう 、ソロモン諸島 しょとう での戦闘 せんとう は両 りょう 軍 ぐん 拮抗 きっこう したまま続 つづ く。
1943年 ねん 4月 がつ 18日 にち には、日本 にっぽん 海軍 かいぐん の連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん の山本 やまもと 五十六 いそろく 海軍 かいぐん 大将 たいしょう [注 ちゅう 16] が、前線 ぜんせん 視察 しさつ のため訪 おとず れていたブーゲンビル島 とう 上空 じょうくう でアメリカ海軍 かいぐん 情報 じょうほう 局 きょく による暗号 あんごう 解読 かいどく を受 う けたP-38 戦闘 せんとう 機 き の待 ま ち伏 ぶ せを受 う け、乗 じょう 機 き の一式 いっしき 陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き を撃墜 げきつい され戦死 せんし した(海軍 かいぐん 甲 かぶと 事件 じけん )。しかし大本営 だいほんえい は、作戦 さくせん 指導 しどう 上 じょう の機密 きみつ 保持 ほじ や連合 れんごう 国 こく による宣伝 せんでん 利用 りよう の防止 ぼうし などを考慮 こうりょ して、山本 やまもと 長官 ちょうかん の死 し の事実 じじつ を1か月 げつ 以上 いじょう たった5月21日 にち まで伏 ふ せていた。しかし、この頃 ころ 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん の暗号 あんごう の多 おお くはアメリカ海軍 かいぐん 情報 じょうほう 局 きょく により解読 かいどく されており、アメリカ軍 ぐん は日本 にっぽん 海軍 かいぐん の無線 むせん 傍受 ぼうじゅ と暗号 あんごう 解読 かいどく により、撃墜 げきつい 後 ご 間 ま もなく山本 やまもと 長官 ちょうかん の死 し を察知 さっち していたことが戦後 せんご 明 あき らかになった。
アッツ島 とう 玉砕 ぎょくさい [ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん 5月 がつ には前年 ぜんねん の6月 がつ より日本 にっぽん 軍 ぐん が占領 せんりょう していたアリューシャン列島 れっとう のアッツ島 とう に米 べい 軍 ぐん が上陸 じょうりく 。山崎 やまざき 保代 やすよ 大佐 たいさ 以下 いか 日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は全滅 ぜんめつ し(アッツ島 とう の戦 たたか い )、大本営 だいほんえい 発表 はっぴょう において初 はじ めて「玉砕 ぎょくさい 」という言葉 ことば が用 もち いられた。また、ニューギニア島 とう では日本 にっぽん 軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん 、オーストラリア軍 ぐん を中心 ちゅうしん とした連合 れんごう 軍 ぐん との激 はげ しい戦 たたか いが続 つづ いていたが(ニューギニアの戦 たたか い )、8月 がつ 頃 ごろ より少 すこ しずつ日本 にっぽん 軍 ぐん の退勢 たいせい となり、物資 ぶっし 補給 ほきゅう に困難 こんなん が出 で てきた。同年 どうねん の暮 く れ頃 ごろ には、日本 にっぽん 軍 ぐん にとって南太平洋 みなみたいへいよう 戦線 せんせん での最大 さいだい 基地 きち であるラバウル は度重 たびかさ なる空襲 くうしゅう を受 う け孤立 こりつ 化 か し始 はじ める。
連合 れんごう 軍 ぐん の反攻 はんこう [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ の作成 さくせい した『日本 にっぽん 撃滅 げきめつ 戦略 せんりゃく 計画 けいかく 』では「1、封鎖 ふうさ 、特 とく に東 ひがし インド諸島 しょとう 地域 ちいき の油田 ゆでん およびその他 た の戦略 せんりゃく 物資 ぶっし を運 はこ ぶ日本 にっぽん 側 がわ 補給 ほきゅう 路 ろ の切断 せつだん 」「2、日本 にっぽん の諸 しょ 都市 とし への継続 けいぞく 的 てき な空襲 くうしゅう 」「3、日本 にっぽん 本土 ほんど への上陸 じょうりく 」によって日本 にっぽん を撃滅 げきめつ できると想定 そうてい していた。開戦 かいせん 後 ご に敗北 はいぼく を続 つづ けたものの、その後 ご 戦力 せんりょく を整 ととの えたアメリカ軍 ぐん やイギリス軍 ぐん 、オーストラリア軍 ぐん を中心 ちゅうしん とした連合 れんごう 国軍 こくぐん は、この年 とし の後半 こうはん から戦略 せんりゃく 計画 けいかく に基 もと づき反攻 はんこう 作戦 さくせん を本格 ほんかく 化 か させた。
二 に 方面 ほうめん からの進攻 しんこう 計画 けいかく [ 編集 へんしゅう ]
連合 れんごう 軍 ぐん による2方面 ほうめん からの反攻 はんこう 進路 しんろ
やがて、戦局 せんきょく が連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ に有利 ゆうり になると、軍 ぐん の指揮 しき 権 けん が、マッカーサー率 ひき いるアメリカ陸軍 りくぐん が主力 しゅりょく の連合 れんごう 国 こく 南西 なんせい 太平洋軍 たいへいようぐん (英語 えいご 版 ばん ) (SWPA)と、チェスター・ニミッツ 提督 ていとく 率 ひき いるアメリカ海軍 かいぐん 、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい 主力 しゅりょく の連合 れんごう 国 こく 太平洋軍 たいへいようぐん (英語 えいご 版 ばん ) (POA)の2つに分権 ぶんけん されている太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき の指揮 しき 権 けん について、マッカーサーがヨーロッパ戦線 せんせん の連合 れんごう 国 こく 遠征 えんせい 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総 そう 司令 しれい 官 かん のように全 ぜん 指揮 しき 権 けん を掌握 しょうあく するべきと主張 しゅちょう した。さらにマッカーサーは、自分 じぶん がその指揮 しき 権 けん を統括 とうかつ して、一本 いっぽん 化 か した戦力 せんりょく によってニューブリテン島 とう 攻略 こうりゃく を起点 きてん とした反攻 はんこう 計画 けいかく 「エルクトロン計画 けいかく 」を提案 ていあん したが[112] 、栄誉 えいよ を独占 どくせん しようというマッカーサーを警戒 けいかい していたアーネスト・キング 海軍 かいぐん 作戦 さくせん 部長 ぶちょう が強硬 きょうこう に反対 はんたい した。この問題 もんだい は、1943年 ねん 5月 がつ にワシントン で開催 かいさい された、ルーズベルトとイギリス 首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル による「トライデント会議 かいぎ 」で協議 きょうぎ されたが、マッカーサーの主張 しゅちょう は却下 きゃっか されて、太平洋 たいへいよう は従来 じゅうらい 通 どお り連合 れんごう 国 こく 南西 なんせい 太平洋軍 たいへいようぐん と連合 れんごう 国 こく 太平洋軍 たいへいようぐん が2方面 ほうめん で対 たい 日 にち 反攻 はんこう 作戦 さくせん を展開 てんかい していくことが決定 けってい された[113] 。
反攻 はんこう ルートについては、「I shall return」の約束 やくそく を果 は たすため、フィリピンの奪還 だっかん を急 いそ ぐマッカーサーは、ニューギニアからフィリピンという比較的 ひかくてき 大 おお きい陸地 りくち を進攻 しんこう することによって、陸上 りくじょう 飛行 ひこう 基地 きち が全作 ぜんさく 戦線 せんせん を支援 しえん 可能 かのう となることや、マッカーサーがこれまで行 い ってきた、『リープフロッギング(蛙 かえる 飛 と び)作戦 さくせん 』によって損害 そんがい を減 へ らすことができると主張 しゅちょう していたのに対 たい して、ニミッツは、従来 じゅうらい からのアメリカ海軍 かいぐん の対 たい 日 にち 戦 せん のドクトリン であるオレンジ計画 けいかく に基 もと づき、太平洋 たいへいよう 中央 ちゅうおう の海路 かいろ による進撃 しんげき を主張 しゅちょう し[115] 、マッカーサーに対 たい しては、陸路 りくろ を進撃 しんげき することは、海路 かいろ での進撃 しんげき と比較 ひかく して、長 なが い弱 よわ い交通 こうつう 線 せん での進撃 しんげき や補給 ほきゅう となって、戦力 せんりょく の不経済 ふけいざい な使用 しよう となることや、日本 にっぽん 本土 ほんど 侵攻 しんこう には遠回 とおまわ りとなるうえ、進撃 しんげき 路 ろ が容易 ようい に予知 よち されるので日本 にっぽん 軍 ぐん に兵力 へいりょく の集中 しゅうちゅう を許 ゆる してしまうこと、また、進撃 しんげき 路 ろ となるニューギニアなどには感染 かんせん 症 しょう が蔓延 まんえん しており、兵士 へいし を危険 きけん に晒 さら すことになると反論 はんろん した[116] 。
アメリカ統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は、双方 そうほう の主張 しゅちょう を取 と り上 あ げて、マッカーサーはビスマルク諸島 しょとう とニューギニアを前進 ぜんしん しミンダナオ を攻略 こうりゃく 、一方 いっぽう でニミッツは、ギルバート諸島 しょとう を攻略 こうりゃく 、次 つ いで西方 せいほう に転 てん じて、クェゼリン 、エニウェトク 、グアム 、サイパン 、ペリリュー へと前進 ぜんしん し、両 りょう 軍 ぐん はルソン島 るそんとう か台湾 たいわん で一本 いっぽん になると決 き められ、8月 がつ のケベック会談 かいだん において作戦 さくせん 案 あん をチャーチルも承諾 しょうだく した。連合 れんごう 軍 ぐん の基本 きほん 方針 ほうしん は、まずはナチス・ドイツ を打 う ち破 やぶ ることを優先 ゆうせん し、それまでは太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん での積極 せっきょく 的 てき な攻勢 こうせい は控 ひか えるというもので、投入 とうにゅう される戦力 せんりょく や物資 ぶっし はヨーロッパ70%に対 たい して太平洋 たいへいよう 30%と決 き められていたが、マッカーサーやキングが、日本 にっぽん 軍 ぐん の手強 てごわ さと太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん の重要 じゅうよう 性 せい をルーズベルトに説 と いて、ヨーロッパと太平洋 たいへいよう の戦力 せんりょく や物資 ぶっし の不 ふ 均衡 きんこう さは改善 かいぜん されており、このような大 だい 規模 きぼ な2方面 ほうめん 作戦 さくせん を行 おこな うことが可能 かのう となっていた[117] 。特 とく に海軍 かいぐん 力 りょく の増強 ぞうきょう が著 いちじる しく、ソロモンでの激戦 げきせん で一時 いちじ 太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき での可動 かどう 空母 くうぼ が0隻 せき となっていたアメリカ海軍 かいぐん であったが、新型 しんがた 空母 くうぼ エセックス級 きゅう 航空 こうくう 母艦 ぼかん が32隻 せき も発注 はっちゅう され、続々 ぞくぞく と就役 しゅうえき すると(第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の終了 しゅうりょう にともないキャンセルされた8隻 せき を除 のぞ く24隻 せき が就役 しゅうえき )[118] 、連合 れんごう 軍 ぐん 反攻 はんこう の大 おお きな戦力 せんりょく となった[119] 。また、大量 たいりょう の護衛 ごえい 空母 くうぼ も続々 ぞくぞく と就役 しゅうえき しており、後 のち に「月刊 げっかん 正規 せいき 空母 くうぼ 」「週刊 しゅうかん 護衛 ごえい 空母 くうぼ 」などとも言 い われ、アメリカの巨大 きょだい な生産 せいさん 力 りょく を象徴 しょうちょう することともなった[120] 。
なおもマッカーサーは、中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう には日本 にっぽん 軍 ぐん が要塞 ようさい 化 か している島 しま がいくつもあって、アメリカ軍 ぐん に多大 ただい な出血 しゅっけつ を強 し いることになるため、自分 じぶん に戦力 せんりょく を集中 しゅうちゅう すべきと食 く い下 さ がったが、ニミッツは、ニューギニアを主戦 しゅせん 線 せん とすると空母 くうぼ 部隊 ぶたい が日本 にっぽん 軍 ぐん の陸上 りくじょう 基地 きち からの攻撃 こうげき の危険 きけん に晒 さら されると反論 はんろん した。このニミッツの反論 はんろん には空母 くうぼ をマッカーサーの指揮 しき 下 か には絶対 ぜったい に置 お かないという強 つよ い意志 いし もはたらいており容易 ようい に議論 ぎろん はまとまらなかった。
絶対 ぜったい 国防 こくぼう 圏 けん の決定 けってい [ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん 、大本営 だいほんえい はソロモン諸島 しょとう での一連 いちれん の敗戦 はいせん とアメリカ軍 ぐん による本格 ほんかく 的 てき な反攻 はんこう を前 まえ にして、広 ひろ がりきった現 げん 戦線 せんせん で戦 たたか うことの不利 ふり を認識 にんしき 、後方 こうほう に自主 じしゅ 的 てき に戦線 せんせん を設 もう けて戦線 せんせん を集約 しゅうやく しようという方針 ほうしん の検討 けんとう を始 はじ めた。しかし、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん と日本 にっぽん 海軍 かいぐん ではその方針 ほうしん が異 こと なっており、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は大幅 おおはば に戦域 せんいき を集約 しゅうやく したうえで、後方 こうほう の防衛 ぼうえい 線 せん で反撃 はんげき 態勢 たいせい を整 ととの えようという方針 ほうしん に対 たい して、日本 にっぽん 海軍 かいぐん は戦線 せんせん の後退 こうたい は最低限 さいていげん にし、早期 そうき 決戦 けっせん を追求 ついきゅう すべきという方針 ほうしん であり、なかなか方針 ほうしん が固 かた まらないまま時 じ が経過 けいか していった[122] 。日本 にっぽん 海軍 かいぐん はギルバート諸島 しょとう やマーシャル諸島 しょとう をアメリカ軍 ぐん 侵攻 しんこう の迎撃 げいげき 帯 たい とするZ作戦 さくせん 要領 ようりょう を発令 はつれい したが、従来 じゅうらい 、太平洋 たいへいよう 正面 しょうめん は海軍 かいぐん の担当 たんとう 地域 ちいき と考 かんが えていた陸軍 りくぐん は、ギルバートやマーシャルには部隊 ぶたい を配置 はいち しておらず、陸軍 りくぐん が想定 そうてい している西北 せいほく 部 ぶ ニューギニア からマリアナ諸島 しょとう に至 いた る後方 こうほう 戦線 せんせん から2,000㎞以上 いじょう も東方 とうほう に位置 いち しているこれらの離島 りとう では、陸海 りくかい 軍 ぐん が連携 れんけい しての反撃 はんげき は困難 こんなん であると主張 しゅちょう するなど、陸海 りくかい 軍 ぐん の認識 にんしき の相違 そうい は明 あき らかであった[123] 。
これら陸海 りくかい 軍 ぐん の根本 こんぽん 的 てき な方針 ほうしん の差 さ は解消 かいしょう されなかったものの、9月30日 にち の閣議 かくぎ 及 およ び御前 ごぜん 会議 かいぎ で決定 けってい された「今後 こんご 採 と ルヘキ戦争 せんそう 指導 しどう ノ大綱 たいこう 」において「帝国 ていこく 戦争 せんそう 遂行 すいこう 上 じょう 太平洋 たいへいよう 及印度 いんど 洋 よう 方面 ほうめん ニ於テ絶対 ぜったい 確保 かくほ スヘキ要 よう 域 いき ヲ千島 ちしま 、小笠原 おがさわら 、内 うち 南洋 なんよう (中西部 ちゅうせいぶ )及西部 ぶ 「ニューギニア 」「スンダ 」「ビルマ 」ヲ含ム圏 けん 域 いき トス」とする「絶対 ぜったい 国防 こくぼう 圏 けん 」が決定 けってい された。これは陸軍 りくぐん の主張 しゅちょう してきた後方 こうほう 戦線 せんせん とほぼ同 おな じもので、海軍 かいぐん が主張 しゅちょう してきた決戦 けっせん 場 じょう である、ギルバートやマーシャルは除外 じょがい されたが、大綱 たいこう のなかの「敵 てき 米 べい 英 えい ニ対 たい シ其ノ攻勢 こうせい 企図 きと ヲ破摧 はさい シツツ」や「随時 ずいじ 敵 てき ノ反攻 はんこう 戦力 せんりょく ヲ捕捉 ほそく 破摧 はさい ス」の抽象 ちゅうしょう 的 てき 文言 もんごん により、絶対 ぜったい 国防 こくぼう 圏 けん の前方 ぜんぽう での海軍 かいぐん の作戦 さくせん を容認 ようにん する玉虫色 たまむしいろ の決着 けっちゃく であり、この海軍 かいぐん の決戦 けっせん 思想 しそう は、陸軍 りくぐん の持久 じきゅう 戦略 せんりゃく とは相反 あいはん するもので、のちの絶対 ぜったい 国防 こくぼう 圏 けん の防衛 ぼうえい 体制 たいせい 構築 こうちく を遅 おく らせることになってしまった[124]
タラワ島 とう 海岸 かいがん に横 よこ たわるアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の遺体 いたい
1943年 ねん 11月、ギルバート諸島 しょとう のマキン島 とう とタラワ島 とう にアメリカ軍 ぐん が侵攻 しんこう 、両島 りょうしま を守 まも る日本 にっぽん 軍 ぐん 将兵 しょうへい はわずか3,000人 にん 足 た らず(朝鮮 ちょうせん 人 じん 労務者 ろうむしゃ を加 くわ えると5,000人 にん )に対 たい して、アメリカ軍 ぐん はアメリカ海兵 かいへい 隊 たい を主力 しゅりょく とした40,000人 にん で攻撃 こうげき したのにも関 かか わらず、日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は奮闘 ふんとう し、特 とく に第 だい 三 さん 特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい 司令 しれい 官 かん 柴崎 しばざき 恵 めぐみ 次 じ 少将 しょうしょう が徹底 てってい した要塞 ようさい 化 か を進 すす めていたタラワ島 とう に上陸 じょうりく したアメリカ軍 ぐん は、日本 にっぽん 軍 ぐん の激烈 げきれつ な抵抗 ていこう の前 まえ に大 だい 損害 そんがい を被 こうむ り、のちに「恐怖 きょうふ のタラワ」と呼 よ ばれることとなった(タラワの戦 たたか い )。タラワ島 とう の激戦 げきせん の様子 ようす はタイム誌 し によってアメリカ国内 こくない に報道 ほうどう されたが、「先週 せんしゅう 、約 やく 2,000ないし3,000のアメリカ海兵 かいへい は、その大半 たいはん が今 いま や戦死 せんし したかもしくは負傷 ふしょう しているが、全 ぜん 国民 こくみん にたいしてレキシントン・コンコードの戦 たたか い やアラモの戦 たたか い やリトルビッグホーンの戦 たたか い や ベローウッドの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) などの名前 なまえ のわきに並 なら ぶべき、不朽 ふきゅう の名前 なまえ を一 ひと つあたえた。その名前 なまえ はタラワであった。」とセンセーショナルな記事 きじ であったため、アメリカ国民 こくみん に動揺 どうよう が広 ひろ がった。
マキン島 とう においても第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい 分遣 ぶんけん 隊 たい 243名 めい の日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい して、上陸 じょうりく した第 だい 27歩兵 ほへい 師団 しだん (英語 えいご 版 ばん ) の2個 こ 連隊 れんたい 6,500人 にん は実 じつ に27倍 ばい の兵力 へいりょく ながら苦戦 くせん を強 し いられた。また、この戦闘 せんとう 中 ちゅう に伊 い 175 が上陸 じょうりく 支援 しえん 中 ちゅう の護衛 ごえい 空母 くうぼ リスカム・ベイ を撃沈 げきちん 、マキン島 とう でのアメリカ軍 ぐん 死傷 ししょう 者 しゃ は1,327人 にん にもなり、朝鮮 ちょうせん 人 じん 労務者 ろうむしゃ を加 くわ えた日本 にっぽん 軍 ぐん 戦死 せんし 者 しゃ 591人 にん を上回 うわまわ る損害 そんがい を被 こうむ り、作戦 さくせん を指揮 しき したニミッツを憤慨 ふんがい させ、この後 のち の上陸 じょうりく 作戦 さくせん に対 たい する大 おお きな教訓 きょうくん となった。
大 だい 東亜 とうあ 会議 かいぎ [ 編集 へんしゅう ]
同 どう 11月 がつ に日本 にっぽん の東條 とうじょう 英機 ひでき 首相 しゅしょう は、満 まん 洲 しゅう 国 こく やタイ、フィリピン、ビルマ、自由 じゆう インド仮 かり 政府 せいふ 、中華民国 ちゅうかみんこく 南京 なんきん 国民 こくみん 政府 せいふ などの首脳 しゅのう を東京 とうきょう に集 あつ めて大 だい 東亜 とうあ 会議 かいぎ を開 ひら き、大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん の結束 けっそく を誇示 こじ した。この年 とし の年末 ねんまつ になると、開戦 かいせん 当初 とうしょ の相次 あいつ ぐ敗北 はいぼく から完全 かんぜん に態勢 たいせい を立 た て直 なお し、圧倒的 あっとうてき な戦力 せんりょく を持 も つに至 いた ったアメリカ軍 ぐん に加 くわ え、ヨーロッパ戦線 せんせん でドイツ軍 ぐん に対 たい して攻勢 こうせい に転 てん じ戦線 せんせん の展開 てんかい に余裕 よゆう が出 で てきたイギリス軍 ぐん やオーストラリア軍 ぐん 、ニュージーランド軍 ぐん などの数 すう カ国 かこく からなる連合 れんごう 軍 ぐん と、中国 ちゅうごく 戦線 せんせん の膠着 こうちゃく 状態 じょうたい を打開 だかい できないまま、太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん においてさしたる味方 みかた もなく事実 じじつ 上 じょう 一 いち 国 こく で戦 たたか う上 うえ 、開戦 かいせん 当初 とうしょ の相次 あいつ ぐ勝利 しょうり のために予想 よそう しなかったほど戦線 せんせん が延 の びたことで兵士 へいし の補給 ほきゅう や兵器 へいき の生産 せいさん 、軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし の補給 ほきゅう に困難 こんなん が生 しょう じる日本 にっぽん 軍 ぐん の力 ちから 関係 かんけい は一気 いっき に連合 れんごう 国 こく 有利 ゆうり へと傾 かたむ いていった。
大陸 たいりく 打 だ 通 どおり 作戦 さくせん [ 編集 へんしゅう ]
粤漢線 せん の線路 せんろ 上 じょう を進撃 しんげき する日本 にっぽん 軍 ぐん
アメリカは大型 おおがた 戦略 せんりゃく 爆撃 ばくげき 機 き 「B-29 」の開発 かいはつ を進 すす めていたが、B-29の作戦 さくせん 準備 じゅんび が整 ととの うまでに、「ドイツの工業 こうぎょう 力 りょく 、通信 つうしん 網 もう 、そのほかの軍事 ぐんじ 目標 もくひょう の大半 たいはん を、すでに破壊 はかい してしまっている」と分析 ぶんせき し、B-29を日本 にっぽん に対 たい して使用 しよう すると決定 けってい した。1943年 ねん 1月 がつ に開催 かいさい されたカサブランカ会談 かいだん の席上 せきじょう で、ルーズベルトは蔣介石 せき に中華民国 ちゅうかみんこく を基地 きち とする日本 にっぽん 本土 ほんど への爆 ばく 撃 げき 計画 けいかく を検討 けんとう すると告 つ げた。日本 にっぽん 軍 ぐん も軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 佐藤 さとう 賢 けん 了 りょう 少将 しょうしょう を委員 いいん 長 ちょう とするB-29対策 たいさく 委員 いいん 会 かい を設置 せっち 、海外 かいがい 調査 ちょうさ 機関 きかん を通 つう じて資料 しりょう を収集 しゅうしゅう した。
1943年 ねん 10月 がつ 13日 にち 、アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ヘンリー・ハップ・アーノルド 大将 たいしょう が日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう 作戦 さくせん 計画 けいかく マッターホルン作戦 さくせん を作成 さくせい 、ルーズベルトはこれを承認 しょうにん し、ケベック会談 かいだん でチャーチルに「我々 われわれ は来年 らいねん 早々 そうそう 、新 しん 爆撃 ばくげき 機 き (B-29)をもって、日本 にっぽん に強力 きょうりょく な打撃 だげき を与 あた える準備 じゅんび 中 ちゅう である。日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 力 りょく を支 ささ えている製鉄 せいてつ 工業 こうぎょう の原動力 げんどうりょく となっている満 まん 洲 しゅう および九州 きゅうしゅう の炭鉱 たんこう 地帯 ちたい は、中華民国 ちゅうかみんこく 成都 せいと 地区 ちく からの爆 ばく 撃 げき 機 き の行動 こうどう 圏内 けんない に入 はい ることになる」「この作戦 さくせん の遂行 すいこう によって、アジアにおける連合 れんごう 軍 ぐん の勝利 しょうり を促進 そくしん できるだろう」という手紙 てがみ を送 おく って協力 きょうりょく を要請 ようせい し、蔣介石 せき に対 たい しては1944年 ねん 3月 がつ 末 まつ までに成都 せいと 地区 ちく に5個 こ の飛行場 ひこうじょう を絶対 ぜったい に建設 けんせつ するよう要請 ようせい した。
一方 いっぽう 、日本 にっぽん 軍 ぐん も着々 ちゃくちゃく と進 すす む中華民国 ちゅうかみんこく からの日本 にっぽん 本土 ほんど 爆 ばく 撃 げき の準備 じゅんび を見過 みす ごしていたわけではなく、1943年 ねん 12月には大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 服部 はっとり 卓 たく 四郎 しろう 作戦 さくせん 課長 かちょう 総裁 そうさい のもとに、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく からの本土 ほんど 爆 ばく 撃 げき 対策 たいさく の兵 へい 棋演習 えんしゅう が行 おこな われ、一 いち 号 ごう 作戦 さくせん (大陸 たいりく 打 だ 通 どおり 作戦 さくせん )が立案 りつあん された。翌 よく 1944年 ねん 1月 がつ には、大陸 たいりく 打 だ 通 どおり 作戦 さくせん の目的 もくてき を中華民国 ちゅうかみんこく 南西 なんせい 部 ぶ の飛行場 ひこうじょう の覆滅 ふくめつ による日本 にっぽん 本土 ほんど 爆 ばく 撃 げき の阻止 そし として大本営 だいほんえい 命令 めいれい が発令 はつれい された。日本 にっぽん 軍 ぐん は桂 かつら 林 りん 、柳 やなぎ 州 しゅう 地区 ちく にB-29が進出 しんしゅつ すると、東京 とうきょう を含 ふく む大都市 だいとし がすべて爆 ばく 撃 げき の圏内 けんない に入 はい るものと考 かんが え攻略 こうりゃく することとしたが、アーノルドは、日本 にっぽん 軍 ぐん の攻撃 こうげき で中国 ちゅうごく 軍 ぐん が桂 かつら 林 りん 、柳 やなぎ 州 しゅう を防衛 ぼうえい できないと判断 はんだん して、B-29の基地 きち を成都 せいと まで後退 こうたい させている。日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は建 けん 軍 ぐん 以来 いらい 最大 さいだい 規模 きぼ となる10個 こ 師団 しだん 40万 まん 人 にん の大 だい 兵力 へいりょく を動員 どういん し、1944年 ねん 4月 がつ にまずは長 ちょう 沙 すな 、その後 ご 1944年 ねん 11月には桂 かつら 林 りん 、柳 やなぎ 州 しゅう の飛行場 ひこうじょう するなど怒涛 どとう の進撃 しんげき を見 み せて、中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん 75万 まん 人 にん を撃破 げきは するなど、多大 ただい な損害 そんがい を与 あた えつつ目的 もくてき の地域 ちいき の攻略 こうりゃく には成功 せいこう したが、中国 ちゅうごく ・ビルマ ・インド 戦域 せんいき アメリカ陸軍 りくぐん 司令 しれい 官 かん ジョセフ・スティルウェル 中将 ちゅうじょう による勧告 かんこく もあって、アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい は進出 しんしゅつ しておらず、飛行場 ひこうじょう はもぬけの殻 から で肝心 かんじん の日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう 阻止 そし という最大 さいだい の目的 もくてき は達成 たっせい できなかった。
しかし、後退 こうたい した成都 せいと 周辺 しゅうへん からの出撃 しゅつげき ではいかに航続 こうぞく 距離 きょり の長 なが いB-29であっても、九州 きゅうしゅう を爆撃 ばくげき するのがやっとであり、より近 ちか い場所 ばしょ にB-29の基地 きち が求 もと められた。また、マッターホルン作戦 さくせん では中国 ちゅうごく 内 ない のB-29前進 ぜんしん 基地 きち への補給 ほきゅう には十分 じゅうぶん な量 りょう の輸送 ゆそう が困難 こんなん な空路 くうろ に頼 たよ りざるを得 え ないため、作戦 さくせん の大 おお きな障害 しょうがい となることが懸念 けねん されており、日本 にっぽん 本土 ほんど の大半 たいはん を爆撃 ばくげき 圏内 けんない に収 おさ め、尚 なお 且 か つ海路 かいろ で大量 たいりょう の物資 ぶっし を安定 あんてい 的 てき に補給 ほきゅう できるマリアナ諸島 しょとう がB-29の出撃 しゅつげき 基地 きち として検討 けんとう されることとなっていく。
この戦 たたか いは太平洋 たいへいよう では苦戦 くせん が続 つづ く日本 にっぽん 軍 ぐん の大 だい 勝利 しょうり となったが、戦略 せんりゃく 的 てき には得 え たものは少 すく なかった。一方 いっぽう で惨敗 ざんぱい した蔣介石 せき がアメリカから見限 みかぎ られる一因 いちいん ともなって、戦後 せんご の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の建国 けんこく に少 すく なからず影響 えいきょう を及 およ ぼした[135] 。
日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう 開始 かいし [ 編集 へんしゅう ]
中国 ちゅうごく の飛行場 ひこうじょう に駐 ちゅう 機 き しているB-29
着々 ちゃくちゃく と準備 じゅんび を進 すす めたアメリカ軍 ぐん は、1944年 ねん 6月 がつ 15日 にち に成都 せいと から75機 き のB-29による八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ を主 おも 目標 もくひょう とする日本 にっぽん 初 はつ 空襲 くうしゅう を行 おこな った(八幡 やはた 空襲 くうしゅう )。B-29は灯火 ともしび 管制 かんせい で目視 もくし 爆撃 ばくげき ができず、レーダー爆 ばく 撃 げき を行 おこな ったが、爆 ばく 撃 げき 隊 たい は不慣 ふな れもあって大 だい 混乱 こんらん しており、主 しゅ 目的 もくてき であった八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ の爆撃 ばくげき による被害 ひがい は軽微 けいび で生産 せいさん に影響 えいきょう はなかった。爆 ばく 撃 げき を指揮 しき したアラン・クラーク大佐 たいさ は「作戦 さくせん の結果 けっか はみじめなものだった。八幡 やはた 地区 ちく に落 お ちた爆 ばく 弾 だん のうち、目標 もくひょう 区域 くいき への命中 めいちゅう 率 りつ はごくわずかで、30kmも離 はな れておちたものもいくつかあった。レーダー手 しゅ がレーダー爆撃 ばくげき になれていないためだった」と評価 ひょうか したが、製鐵 せいてつ 所 しょ に命中 めいちゅう しなかった爆 ばく 弾 だん が八幡 はちまん 市街地 しがいち に落下 らっか して市民 しみん 322名 めい が犠牲 ぎせい となった[139] 。このB-29日本 にっぽん 本土 ほんど 初 はつ 空襲 くうしゅう が日本 にっぽん アメリカ双方 そうほう に与 あた えた衝撃 しょうげき は実際 じっさい の爆 ばく 撃 げき の効果 こうか 以上 いじょう に大 おお きかった。日本 にっぽん 側 がわ は、B-29の想定 そうてい 以上 いじょう の性能 せいのう に衝撃 しょうげき を受 う け、西日本 にしにほん の防空 ぼうくう 体制 たいせい の再 さい 構築 こうちく が急 いそ がれることとなった。軍 ぐん が受 う けた衝撃 しょうげき は大 おお きかったが、一般 いっぱん 国民 こくみん には抑制 よくせい 的 てき な報道 ほうどう がなされ、日本 にっぽん 側 がわ の迎撃 げいげき で6機 き のB-29を撃墜 げきつい しながら、わが方 ほう に損害 そんがい なしと報 ほう じられた。一方 いっぽう 、アメリカではB-29による日本 にっぽん 本土 ほんど 初 はつ 空襲 くうしゅう 成功 せいこう のニュースとして大々的 だいだいてき に報 ほう じられ、その扱 あつか いはほぼ同 どう 時期 じき に行 おこな われたノルマンディ上陸 じょうりく 作戦 さくせん に匹敵 ひってき する大 おお きさで、ニュースが読 よ み上 あ げられてる間 あいだ は国会 こっかい の議事 ぎじ は停止 ていし されたほどであった。ノルマンディを訪 おとず れていたアーノルドも「この超 ちょう 空 そら の要塞 ようさい による第 だい 一撃 いちげき は、“まことに全 ぜん 世界 せかい 的 てき な航空 こうくう 作戦 さくせん ”の開始 かいし であり、アメリカは航空 こうくう 戦力 せんりょく としてははじめての、最大 さいだい の打撃 だげき を与 あた えることができる成功 せいこう 無比 むひ で、威力 いりょく 絶大 ぜつだい な爆撃 ばくげき 機 き を持 も つに至 いた った」という声明 せいめい を発表 はっぴょう した。
八幡 やはた への初 はつ 空襲 くうしゅう の成功 せいこう に気 き をよくしたアーノルドは第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん のケネス・B・ウルフ 准 じゅん 将 しょう に、引 ひ き続 つづ いての日本 にっぽん 本土 ほんど 爆 ばく 撃 げき を命 めい じた。しかし、第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん の最大 さいだい の弱点 じゃくてん である中国 ちゅうごく 国内 こくない の前進 ぜんしん 基地 きち への補給 ほきゅう 問題 もんだい は改善 かいぜん しておらず、八幡 やはた 空襲 くうしゅう ののち、中国 ちゅうごく 国内 こくない 基地 きち の燃料 ねんりょう 備蓄 びちく 量 りょう はわずかとなっており、当面 とうめん の間 あいだ は作戦 さくせん 不能 ふのう となっていた。ウルフはのこの窮状 きゅうじょう からアーノルドの命令 めいれい は実行 じっこう 不可能 ふかのう と考 かんが えていたが、アーノルドはウルフを消極 しょうきょく 的 てき と断 だん じて更迭 こうてつ 、ヨーロッパ戦線 せんせん で活躍 かつやく して勇名 ゆうめい をはせていた38歳 さい の若 わか い将軍 しょうぐん カーチス・ルメイ 少将 しょうしょう を後任 こうにん に任命 にんめい した。しかし、中国 ちゅうごく 成都 せいと からの出撃 しゅつげき では九州 きゅうしゅう を爆撃 ばくげき するのがやっとで、またB-29の機 き 数 すう も少 すく なく、補給 ほきゅう の問題 もんだい もあったことから、日本 にっぽん の被害 ひがい は限定 げんてい 的 てき であった。また、日本 にっぽん 軍 ぐん の迎撃 げいげき も激烈 げきれつ であり、1944年 ねん 8月 がつ 20日 はつか の白昼 はくちゅう に行 おこな われた3度目 どめ の八幡 やはた 爆 ばく 撃 げき では、61機 き のB-29に対 たい して。陸軍 りくぐん の四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「疾風 しっぷう 」二 に 式 しき 複 ふく 座 ざ 戦闘 せんとう 機 き 「屠 ほふ 龍 りゅう 」 や海軍 かいぐん の「零 れい 戦 せん 」と「月光 げっこう 」など合計 ごうけい 100機 き 以上 いじょう が迎撃 げいげき し、撃墜 げきつい 確実 かくじつ 24機 き 、不 ふ 確実 かくじつ 13機 き を報告 ほうこく するなど大 だい 戦果 せんか を挙 あ げている。アメリカ軍 ぐん の損失 そんしつ 記録 きろく でも出撃 しゅつげき 61機 き 中 ちゅう 14機 き 損失 そんしつ で損失 そんしつ 率 りつ は22.9%となり、B-29の出撃 しゅつげき のなかでは最悪 さいあく の損失 そんしつ 率 りつ となった。
マリアナ諸島 しょとう への進攻 しんこう 決定 けってい [ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん のカイロ会談 かいだん にて、アジア・太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき の連合 れんごう 国 こく 各国 かっこく 指導 しどう 者 しゃ 。左 ひだり から、蔣介石 せき 、フランクリン・ルーズベルト 、ウィンストン・チャーチル 。
アメリカ海軍 かいぐん 作戦 さくせん 部長 ぶちょう のキングは、マリアナ諸島 しょとう が日本 にっぽん 本土 ほんど と南方 なんぽう の日本 にっぽん 軍 ぐん 基地 きち とを結 むす ぶ後方 こうほう 連絡 れんらく 線 せん の中間 ちゅうかん に位置 いち し、フィリピンや南方 なんぽう 資源 しげん 地帯 ちたい に至 いた る経済 けいざい 的 てき な生命 せいめい 線 せん を担 にな う日本 にっぽん にとっての太平洋 たいへいよう の鍵 かぎ で、これを攻略 こうりゃく できれば、台湾 たいわん や中国 ちゅうごく 本土 ほんど への侵攻 しんこう 基地 きち となるうえ、日本 にっぽん 本土 ほんど を封鎖 ふうさ して経済 けいざい 的 てき に息 いき の根 ね を止 と めることもできると分析 ぶんせき し、その攻略 こうりゃく を急 いそ ぐべきだと考 かんが えていた[148] 。アメリカ陸軍 りくぐん でも、アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん アーノルドが、B-29による日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう の基地 きち としてマリアナの確保 かくほ を願 ねが っていた。既 すで に中国 ちゅうごく 本土 ほんど からの日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう の準備 じゅんび は進 すす められていたが、中国 ちゅうごく からではB-29の航続 こうぞく 距離 きょり をもってしても九州 きゅうしゅう を爆撃 ばくげき するのが精 せい いっぱいであり、日本 にっぽん 本土 ほんど 全 すべ てを出撃 しゅつげき 圏内 けんない に収 おさ めることができるマリアナはアーノルドにとって絶好 ぜっこう の位置 いち であった。また、中国 ちゅうごく 内 ない のB-29前進 ぜんしん 基地 きち への補給 ほきゅう には、補給 ほきゅう 量 りょう が限 かぎ られる空路 くうろ に頼 たよ らざるを得 え ないのと比較 ひかく すると、マリアナへは海路 かいろ で大量 たいりょう の物資 ぶっし を安定 あんてい 的 てき に補給 ほきゅう できるのも、この案 あん が推奨 すいしょう された大 おお きな理由 りゆう のひとつとなった。そこでアーノルドは連合 れんごう 軍 ぐん 首脳 しゅのう が集 あつ まったケベック会議 かいぎ で、マリアナからの日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう 計画 けいかく となる「日本 にっぽん を撃破 げきは するための航空 こうくう 攻撃 こうげき 計画 けいかく 」を提案 ていあん しているが、ここでは採択 さいたく までには至 いた らなかった。
アーノルドらの動 うご きを警戒 けいかい したマッカーサーは、真珠湾 しんじゅわん から3,000マイル、もっとも近 ちか いアメリカ軍 ぐん の基地 きち エニウェトク からでも1,000マイルの大 だい 遠征 えんせい 作戦 さくせん となる[150] マリアナ侵攻 しんこう 作戦 さくせん に不安 ふあん を抱 だ いていたニミッツを抱 だ き込 こ んで、マリアナ攻略 こうりゃく の断念 だんねん を主張 しゅちょう した。アーノルドと同 おな じアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 所属 しょぞく ながらマッカーサーの腹心 ふくしん でもあった極東 きょくとう 空軍 くうぐん (Far East Air Force, FEAF)司令 しれい 官 かん ジョージ・ケニー (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう もマッカーサーの肩 かた を持 も ち「マリアナからでは戦闘 せんとう 機 き の護衛 ごえい が不可能 ふかのう であり、護衛 ごえい がなければB-29は高 こう 高度 こうど からの爆 ばく 撃 げき を余儀 よぎ なくされ、精度 せいど はお粗末 そまつ になるだろう。こうした空襲 くうしゅう は『曲芸 きょくげい 』以外 いがい の何 なに 物 ぶつ でもない」と上官 じょうかん でもあるアーノルドの作戦 さくせん 計画 けいかく を嘲笑 あざわら うかのような反論 はんろん を行 おこな った[151] 。
キングとアーノルドは互 たが いに目的 もくてき は異 こと なるとはいえ、同 おな じマリアナ攻略 こうりゃく を検討 けんとう していることを知 し ると接近 せっきん し、両 りょう 名 な はフィリピンへの早期 そうき 侵攻 しんこう を主張 しゅちょう するマッカーサーに理解 りかい を示 しめ していた陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう マーシャルに、マリアナの戦略 せんりゃく 的 てき 価値 かち を説 と き続 つづ けついには納得 なっとく させた[115] 。キング自身 じしん の計画 けいかく では、マリアナをB-29の拠点 きょてん として活用 かつよう することは主 しゅ たる作戦 さくせん 目的 もくてき ではなく、キングが自 みずか らの計画 けいかく を推 お し進 すす めるべく、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん を味方 みかた にするために付 つ け加 くわ えられたのに過 す ぎなかったが、キングとアーノルドという陸海 りくかい 軍 ぐん の有力 ゆうりょく 者 しゃ が、最終 さいしゅう 的 てき な目的 もくてき は異 こと なるとは言 い え手 しゅ を結 むす んだことは、自分 じぶん の戦線 せんせん 優先 ゆうせん を主張 しゅちょう するマッカーサーや、ナチスドイツ 打倒 だとう 優先 ゆうせん を主張 しゅちょう するチャーチルによって停滞 ていたい していた太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん 戦略 せんりゃく 計画 けいかく 立案 りつあん の停滞 ていたい 状 じょう 況 きょう を打破 だは することとなった。ルーズベルトもこの提案 ていあん を大 おお いに評価 ひょうか し、1943年 ねん 12月のカイロ会談 かいだん において、1944年 ねん 10月 がつ のマリアナの攻略 こうりゃく と、アーノルドの「日本 にっぽん を撃破 げきは するための航空 こうくう 攻撃 こうげき 計画 けいかく 」も承認 しょうにん され会議 かいぎ 文書 ぶんしょ に「日本 にっぽん 本土 ほんど 戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき のために戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき 部隊 ぶたい をグアムとテニアン、サイパンに設置 せっち する」という文言 もんごん が織 お り込 こ まれて[148] 、マリアナからの日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう が決定 けってい された。
その後 ご も、マッカーサーはマリアナの攻略 こうりゃく より自分 じぶん が担当 たんとう する西太平洋 にしたいへいよう 戦域 せんいき に戦力 せんりょく を集中 しゅうちゅう すべきであるという主張 しゅちょう を変 か えなかったので、1944年 ねん 3月 がつ にアメリカ統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ はワシントン で太平洋 たいへいよう における戦略 せんりゃく 論争 ろんそう に決着 けっちゃく をつけるための会議 かいぎ を開催 かいさい した。その会議 かいぎ では、マッカーサーの代理 だいり で会議 かいぎ に出席 しゅっせき していたサザランドには、統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ の方針 ほうしん に従 したが って西太平洋 にしたいへいよう 方面 ほうめん での限定 げんてい 的 てき な攻勢 こうせい を進 すす めることという勧告 かんこく がなされるとともに、マリアナ侵攻 しんこう のフォレージャー作戦 さくせん (掠奪 りゃくだつ 者 しゃ 作戦 さくせん )を1944年 ねん 6月 がつ に前倒 まえだお しすることが決定 けってい された。
あ号 ごう 作戦 さくせん 計画 けいかく [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 海軍 かいぐん は、マリアナ諸島 しょとう 〜カロリン諸島 しょとう 〜西部 にしべ ニューギニアを結 むす ぶ三角 さんかく 地帯 ちたい に邀撃 ようげき 帯 たい を設 もう けて、機動 きどう 部隊 ぶたい と基地 きち 航空 こうくう 隊 たい により、アメリカ軍 ぐん 侵攻 しんこう 部隊 ぶたい に対 たい して一大 いちだい 反撃 はんげき を加 くわ える作戦 さくせん を構想 こうそう 、1944年 ねん 5月 がつ 3日 にち 軍令 ぐんれい 部 ぶ による「連合 れんごう 艦隊 かんたい ノ当面 とうめん 準拠 じゅんきょ スベキ作戦 さくせん 方針 ほうしん 」で決戦 けっせん 構想 こうそう の「あ号 ごう 作戦 さくせん 」が策定 さくてい された[154] 。決戦 けっせん 地 ち の選定 せんてい にあたって、日本 にっぽん 海軍 かいぐん はアメリカ軍 ぐん の侵攻 しんこう が西 にし カロリンのパラオ諸島 しょとう とマリアナのどっちが先 さき かはなかなか判断 はんだん できなかったが、結果 けっか 的 てき にパラオが先 さき という判断 はんだん となった[155] 。日本 にっぽん 海軍 かいぐん は作戦 さくせん 準備 じゅんび として第 だい 一 いち 機動 きどう 艦隊 かんたい (空母 くうぼ 9隻 せき 、搭載 とうさい 機 き 数 すう 約 やく 440機 き )を新設 しんせつ すると共 とも に基地 きち 航空 こうくう 隊 たい の第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい を中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう に配置 はいち した[156] 。機動 きどう 部隊 ぶたい の艦載 かんさい 機 き と航空 こうくう 基地 きち からの陸上 りくじょう 機 き によって、アメリカ軍 ぐん の侵攻 しんこう 艦隊 かんたい を挟撃 きょうげき して撃滅 げきめつ しようという作戦 さくせん 計画 けいかく であったが、第 だい 1航空 こうくう 艦隊 かんたい の基地 きち 航空 こうくう 隊 たい は定数 ていすう 1,750機 き と表面 ひょうめん 上 じょう は大戦 たいせん 力 りょく ながら、実際 じっさい に配備 はいび されたのはその半数 はんすう の750機 き でうち可動 かどう 機 き は500機 き 程度 ていど にすぎなかった[157] 。
一方 いっぽう で、アメリカ統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ のマリアナ侵攻 しんこう 決定 けってい に激怒 げきど したマッカーサーであったが、ニューギニア作戦 さくせん の集大成 しゅうたいせい と、ニミッツによるフォレージャー作戦 さくせん 支援 しえん の航空 こうくう 基地 きち 確保 かくほ のため、ニューギニア西部 せいぶ のビアク島 とう 攻略 こうりゃく を決 き めた。ビアク島 とう には日本 にっぽん 軍 ぐん が設営 せつえい した飛行場 ひこうじょう があり、マリアナ攻略 こうりゃく の航空 こうくう 支援 しえん 基地 きち として重要 じゅうよう な位置 いち にあった。1944年 ねん 5月 がつ 27日 にち に第 だい 6軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ウォルター・クルーガー 中将 ちゅうじょう 率 ひき いる大 だい 部隊 ぶたい がビアク島 とう に上陸 じょうりく しビアク島 とう の戦 たたか い が始 はじ まった。ビアク守備 しゅび 隊 たい 支隊 したい 長 ちょう の歩兵 ほへい 第 だい 222連隊 れんたい 長 ちょう 葛 かずら 目 め 直幸 なおゆき 大佐 たいさ は、上陸 じょうりく 部隊 ぶたい を内陸 ないりく に引 ひ き込 こ んで、巧 たく みに構築 こうちく した陣地 じんち で迎 むか え撃 う つこととした。第 だい 41歩兵 ほへい 師団 しだん (英語 えいご 版 ばん ) は日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい の巧 たく みな戦 たたか いで苦戦 くせん し、マリアナ作戦 さくせん が迫 せま っているのに、ビアク島 とう の攻略 こうりゃく が遅遅 ちち として進 すす まないことでニミッツに対 たい して恥 はじ をかくと考 かんが えたマッカーサーは、師団 しだん 長 ちょう ホレース・フラー (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう を上陸 じょうりく 部隊 ぶたい 司令 しれい 官 かん と第 だい 41歩兵 ほへい 師団 しだん 師 し 団長 だんちょう から更迭 こうてつ した。しかし、師団 しだん 長 ちょう を挿 す げ替 か えても戦況 せんきょう が大 おお きく好転 こうてん することはなく、ビアク島 とう の飛行場 ひこうじょう が稼働 かどう し始 はじ めたのは6月 がつ 22日 にち になり、サイパンの戦 たたか い にもマリアナ沖 おき 海戦 かいせん にも間 ま に合 あ わなかった。ビアク島 とう 攻略 こうりゃく 後 ご にマッカーサーはフラーの名誉 めいよ を回復 かいふく させるため功労 こうろう 勲章 くんしょう (英語 えいご 版 ばん ) を授与 じゅよ したが、ビアク島 とう の戦 たたか いはマッカーサーにとっても、フラーにとっても敗戦 はいせん に近 ちか いような後味 あとあじ の悪 わる い戦 たたか いとなった。
大本営 だいほんえい は、アメリカ軍 ぐん の次 つぎ の侵攻 しんこう 先 さき を判断 はんだん しかねていたが、ビアク島 とう にマッカーサーが侵攻 しんこう してきたことによって、連合 れんごう 軍 ぐん の戦力 せんりょく が一本 いっぽん 化 か して西部 せいぶ ニューギニアからパラオ諸島 しょとう に侵攻 しんこう してくると誤 あやま った判断 はんだん をし、「渾作戦 さくせん 」を発動 はつどう した。大和 やまと 、武蔵 むさし の戦艦 せんかん 部隊 ぶたい を送 おく って、アメリカ軍 ぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい の誘引 ゆういん を図 はか ると共 とも に、マリアナの第 だい 1航空 こうくう 艦隊 かんたい 第 だい 61航空 こうくう 戦隊 せんたい の可動 かどう 350機 き の約 やく 半数 はんすう も作戦 さくせん への投入 とうにゅう が決定 けってい され、インドネシア のモルッカ諸島 しょとう にあるハルマヘラ島 とう に飛 と び立 た った[163] 。これらビアクを巡 めぐ る戦 たたか いによって、アメリカ軍 ぐん にその意図 いと はなかったが、結果 けっか 的 てき に陽動 ようどう となって日本 にっぽん 軍 ぐん の関心 かんしん はビアクに集中 しゅうちゅう してしまい、マリアナへのアメリカ軍 ぐん の侵攻 しんこう を許 ゆる すこととなってしまった[164] 。
マリアナ・パラオ諸島 しょとう の戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
サイパン島 とう の戦 たたか いで自決 じけつ した日本人 にっぽんじん 住民 じゅうみん 。
絶対 ぜったい 国防 こくぼう 圏 けん の要 よう とも言 い えるマリアナ諸島 しょとう のサイパン島 とう に、日本 にっぽん 軍 ぐん の予想 よそう に反 はん してアメリカ軍 ぐん が侵攻 しんこう してきた(サイパンの戦 たたか い )。日本 にっぽん 軍 ぐん はあ号 ごう 作戦 さくせん を発動 はつどう し、アメリカ軍 ぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい を迎撃 げいげき したが、既 すで に基地 きち 航空 こうくう 隊 たい は渾作戦 せん への戦力 せんりょく 分散 ぶんさん と事前 じぜん の空襲 くうしゅう で壊滅 かいめつ 状態 じょうたい 状態 じょうたい に陥 おちい っており、地上 ちじょう 航空 こうくう 戦力 せんりょく の支援 しえん がなくなった第 だい 一 いち 機動 きどう 艦隊 かんたい に対 たい して、アメリカ側 がわ は新型 しんがた レーダー 、新型 しんがた 戦闘 せんとう 機 き F6F [47] 、空母 くうぼ 15隻 せき を投入 とうにゅう し、さらに日本 にっぽん の倍 ばい 近 ちか い艦船 かんせん を護衛 ごえい につけていた。航空機 こうくうき の質 しち や防空 ぼうくう システムでも遅 おく れをとっていた日本 にっぽん 機動 きどう 部隊 ぶたい はアメリカ海軍 かいぐん の機動 きどう 部隊 ぶたい に惨敗 ざんぱい を喫 きっ した。(マリアナ沖 おき 海戦 かいせん )旗艦 きかん 「大 だい 鳳 おおとり 」以下 いか 空母 くうぼ 3隻 せき 、艦載 かんさい 機 き 395機 き を失 うしな った日本 にっぽん の空母 くうぼ 機動 きどう 部隊 ぶたい は実質 じっしつ 的 てき に壊滅 かいめつ した[47] 。ただし戦艦 せんかん 部隊 ぶたい は無傷 むきず であったため、10月 がつ 末 まつ のレイテ沖 おき 海戦 かいせん では、残存 ざんそん 空母 くうぼ と航空 こうくう 戦艦 せんかん による機動 きどう 部隊 ぶたい を囮 おとり として(レイテ沖 おき 海戦 かいせん #エンガノ岬 みさき 沖 おき 海戦 かいせん )、戦艦 せんかん 部隊 ぶたい を基軸 きじく とした艦隊 かんたい が編成 へんせい されることになる。
陸上 りくじょう では、猛烈 もうれつ な艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき と航空機 こうくうき による支援 しえん を受 う けたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の大 だい 部隊 ぶたい がマリアナ諸島 しょとう に侵攻 しんこう 、1944年 ねん 7月 がつ にはサイパン島 とう にアメリカ軍 ぐん が上陸 じょうりく してきた。防衛 ぼうえい 準備 じゅんび が十分 じゅうぶん でなかったのにも関 かか わらず「水際 みずぎわ 撃滅 げきめつ 」作戦 さくせん で海岸 かいがん 線 せん での防衛 ぼうえい 戦 せん を画策 かくさく した日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は緒戦 しょせん で大 だい 損害 そんがい を被 こうむ りながらも、その後 ご は島中 しまなか 央 ひさし 部 ぶ のタポーチョ山 さん などの地形 ちけい をうまく利用 りよう しながら激 はげ しく抵抗 ていこう し、アメリカ軍 ぐん の死傷 ししょう 率 りつ は最終 さいしゅう 的 てき に20%を超 こ える高 たか い確 かく 率 りつ となったが、これはアメリカ軍 ぐん が恐怖 きょうふ と呼 よ んだタラワの戦 たたか い と同 おな じ死傷 ししょう 率 りつ となった。この後 のち に敵前 てきぜん 上陸 じょうりく 作戦 さくせん の戦術 せんじゅつ の見直 みなお しが行 おこな われたが、日本 にっぽん 軍 ぐん も、サイパン島 とう の戦 せん 訓 くん を参考 さんこう に、従来 じゅうらい の「水際 みずぎわ 配置 はいち ・水際 みずぎわ 撃滅 げきめつ 主義 しゅぎ 」 から、海岸 かいがん 線 せん から後退 こうたい した要地 ようち に堅固 けんご な陣地 じんち を構築 こうちく し、上陸 じょうりく 軍 ぐん を引 ひ き込 こ んでから叩 たた くという「後退 こうたい 配備 はいび ・沿岸 えんがん 撃滅 げきめつ 主義 しゅぎ 」 へと大 おお きく防衛 ぼうえい 戦術 せんじゅつ を見直 みなお して、よりアメリカ軍 ぐん を苦戦 くせん させることとなった。
サイパン島 とう は日本 にっぽん の委任 いにん 統治 とうち 領 りょう であったため、日本人 にっぽんじん の移住 いじゅう が進 すす んで、1943年 ねん 8月 がつ の時点 じてん で29,348人 にん の日本人 にっぽんじん 住民 じゅうみん がおり[168] 、アメリカ軍 ぐん による侵攻 しんこう の懸念 けねん が高 たか まると、高齢 こうれい 者 しゃ や婦女子 ふじょし を中心 ちゅうしん に日本 にっぽん 本土 ほんど への疎開 そかい が進 すす められたが、避難 ひなん 船 せん がアメリカ軍 ぐん の潜水 せんすい 艦 かん に撃沈 げきちん されて民間 みんかん 人 じん に多数 たすう の犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ したこともあって疎開 そかい は進 すす まず、アメリカ軍 ぐん 上陸 じょうりく 時点 じてん でも約 やく 20,000人 にん が疎開 そかい できないまま戦闘 せんとう に巻 ま き込 こ まれた[169] 。日本 にっぽん 住民 じゅうみん は、次第 しだい にサイパン北部 ほくぶ に追 お い込 こ まれ、最後 さいご には日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい の敗残 はいざん 兵 へい と共 とも にバンザイクリフ やスーサイドクリフ などで集団 しゅうだん 自決 じけつ し、日本人 にっぽんじん 住民 じゅうみん の犠牲 ぎせい 者 しゃ は約 やく 8,000人 にん と推計 すいけい されているが[170] 、研究 けんきゅう 者 しゃ のなかには、日本人 にっぽんじん と朝鮮 ちょうせん 人 じん の死者 ししゃ は12,000人 にん にもなり、住民 じゅうみん の死亡 しぼう 率 りつ では沖縄 おきなわ 戦 せん を超 こ える最悪 さいあく のものになったという指摘 してき をする者 もの もいる[171] 。
サイパンの戦 たたか いののち、8月 がつ にはテニアンの戦 たたか い によってテニアン島 とう が、グアムの戦 たたか い によってグアム島 とう が連合 れんごう 軍 ぐん に占領 せんりょう された。アメリカ軍 ぐん は日本 にっぽん 軍 ぐん が使用 しよう していた基地 きち を即座 そくざ に改修 かいしゅう し、大型 おおがた 爆撃 ばくげき 機 き の発着 はっちゃく が可能 かのう な滑走 かっそう 路 ろ の建設 けんせつ を開始 かいし した。このことにより北海道 ほっかいどう を除 のぞ く日本 にっぽん 列島 れっとう のほぼ全土 ぜんど がB-29の爆 ばく 撃 げき 可能 かのう 圏内 けんない に入 はい り、日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう が本格 ほんかく 化 か (後述 こうじゅつ )。1944年 ねん 11月24日 にち 以降 いこう 、新設 しんせつ されたヘイウッド・ハンセル 准 じゅん 将 しょう 率 ひき いる第 だい 21爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん のアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん のB-29が、サイパン島 とう のイズリー飛行場 ひこうじょう を飛 と び立 た って東京 とうきょう にある中島 なかじま 飛行機 ひこうき の武蔵野 むさしの 製作所 せいさくしょ を爆撃 ばくげき 、首都 しゅと 圏 けん を中心 ちゅうしん とした日本 にっぽん 全土 ぜんど への空爆 くうばく が本格 ほんかく 化 か し、翌 よく 1945年 ねん 2月 がつ には日本石油 にほんせきゆ 横浜 よこはま 製油 せいゆ 所 しょ 、3月には清水 しみず の東亜 とうあ 燃料 ねんりょう や東京 とうきょう の日本石油 にほんせきゆ 、5月には徳山 とくやま の第 だい 3海軍 かいぐん 燃料 ねんりょう 廠 しょう 、大竹 おおたけ の興亜石油 こうあせきゆ 、岩国 いわくに 陸軍 りくぐん 燃料 ねんりょう 廠 しょう 製油 せいゆ 所 しょ 、宇部 うべ の帝国 ていこく 燃料 ねんりょう 工業 こうぎょう 人造 じんぞう 石油 せきゆ 工場 こうじょう などが、6月22日 にち には四日市 よっかいち の第 だい 2海軍 かいぐん 燃料 ねんりょう 廠 しょう が爆撃 ばくげき され、国内 こくない の製油 せいゆ 所 しょ が壊滅 かいめつ していった[47] 。太平洋 たいへいよう 上 じょう の最 さい 重要 じゅうよう 地点 ちてん であるサイパン島 とう を失 うしな った影響 えいきょう は大 おお きく、攻勢 こうせい のための布石 ふせき は完全 かんぜん に無力 むりょく 化 か した。
一方 いっぽう で日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は、当時 とうじ 日本 にっぽん の研究 けんきゅう 員 いん だけが発見 はっけん していたジェット気流 きりゅう を利用 りよう し、大型 おおがた 気球 ききゅう に爆 ばく 弾 だん をつけて高 こう 高度 こうど に飛 と ばしアメリカ本土 ほんど まで運 はこ ばせる風船 ふうせん 爆 ばく 弾 だん を開発 かいはつ し、実際 じっさい にアメリカ本土 ほんど へ向 む けて数 すう 千 せん 個 こ を飛 と ばして、小規模 しょうきぼ ながら被害 ひがい を与 あた えた。
各地 かくち で劣勢 れっせい が伝 つた えられる中 なか 、東條 とうじょう 英機 ひでき 首相 しゅしょう 兼 けん 陸相 りくしょう に対 たい する反発 はんぱつ は強 つよ く、中野 なかの 正 ただし 剛 つよし などの政治 せいじ 家 か や陸海 りくかい 軍 ぐん 将校 しょうこう などを中心 ちゅうしん とした倒閣 とうかく 運動 うんどう が行 おこな われた。それだけでなく、近衛 このえ 文麿 ふみまろ 元 もと 首相 しゅしょう の秘書官 ひしょかん であった細川 ほそかわ 護貞 もりさだ の大戦 たいせん 後 ご の証言 しょうげん によると、当時 とうじ 現役 げんえき の海軍 かいぐん 将校 しょうこう であった高松宮 たかまつのみや 宣仁 のぶひと 親王 しんのう 黙認 もくにん の上 うえ での具体 ぐたい 的 てき な暗殺 あんさつ 計画 けいかく もあったといわれている。しかしその計画 けいかく が実行 じっこう に移 うつ されるより早 はや く、サイパン島 とう 陥落 かんらく の責任 せきにん を取 と り東條 とうじょう 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく 。小磯 こいそ 国昭 くにあき 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう を首班 しゅはん とし、米内 よない 光政 みつまさ 海軍 かいぐん 大臣 だいじん らが補佐 ほさ する小磯 こいそ 内閣 ないかく が発足 ほっそく した。
日本 にっぽん は前年 ぜんねん 末 まつ からの相次 あいつ ぐ敗北 はいぼく により航空 こうくう および海軍 かいぐん 兵力 へいりょく の多 おお くを喪失 そうしつ 、兵器 へいき や物資 ぶっし の増産 ぞうさん も捗 はかど らなかった。しかも本土 ほんど における資源 しげん が少 すく ないため鉄鉱 てっこう 石 せき や石油 せきゆ などの資源 しげん をほぼ外国 がいこく や勢力 せいりょく 圏 けん からの輸入 ゆにゅう に頼 たよ っていた上 うえ に、連合 れんごう 国軍 こくぐん による通商 つうしょう 破壊 はかい 戦 せん により外地 がいち から資源 しげん を運 はこ んでくる船舶 せんぱく の多 おお くを失 うしな っていたために、車輌 しゃりょう ・航空機 こうくうき ・艦艇 かんてい への燃料 ねんりょう 供給 きょうきゅう すら困難 こんなん な状況 じょうきょう であった。
人力 じんりき で険 けわ しい山道 さんどう を火砲 かほう で分解 ぶんかい して運搬 うんぱん している第 だい 15軍兵 ぐんびょう 士 し
ビルマ方面 ほうめん では日本 にっぽん 陸軍 りくぐん とイギリス陸軍 りくぐん との地上 ちじょう での戦 たたか いが続 つづ いていた(ビルマの戦 たたか い )。太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん での連合 れんごう 軍 ぐん の反攻 はんこう に呼応 こおう して、チャーチルは極東 きょくとう 地域 ちいき でのイギリス植民 しょくみん 地 ち 奪還 だっかん を画策 かくさく しており、1942年 ねん 12月、その拠点 きょてん とするためにベンガル湾 わん 沿岸 えんがん の西 にし ビルマ重要 じゅうよう 拠点 きょてん アキャブ(現在 げんざい のシットウェー )奪還 だっかん を目指 めざ して軍 ぐん を南下 なんか させた。しかし、この反攻 はんこう は日本 にっぽん 軍 ぐん の反撃 はんげき で大 だい 損害 そんがい を被 こうむ って撃退 げきたい された(第 だい 一 いち 次 じ アキャブ作戦 さくせん )[172] 。この惨敗 ざんぱい でイギリス軍 ぐん は日本 にっぽん 軍 ぐん に対抗 たいこう するために、大量 たいりょう の輸送 ゆそう 機 き を活用 かつよう した空輸 くうゆ という新 しん 戦術 せんじゅつ を編 あ み出 だ し、アメリカからのレンドリース によって着々 ちゃくちゃく と準備 じゅんび を整 ととの えたが、一方 いっぽう で日本 にっぽん 軍 ぐん はこの勝利 しょうり に慢心 まんしん して、イギリス軍 ぐん を侮 あなど るようになったうえ、大量 たいりょう の物資 ぶっし を鹵獲 ろかく したことによって「チャーチル給与 きゅうよ 」などと称 しょう し、作戦 さくせん 計画 けいかく で安易 あんい に敵 てき からの鹵獲 ろかく 品 ひん をあてにするようになってしまった[173] 。
イギリス軍 ぐん は新 しん 戦術 せんじゅつ の成果 せいか を試 ため す意味 いみ もあって、東 ひがし アフリカ戦線 せんせん のゲリラ 戦 せん で活躍 かつやく したオード・ウィンゲート に特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい チンディット を与 あた えて、北 きた ビルマで空輸 くうゆ を糧 かて として日本 にっぽん 軍 ぐん の後方 こうほう を攪乱 かくらん させて一定 いってい の成果 せいか を得 え た。これにより今 いま まで安全 あんぜん 地域 ちいき と思 おも われていた北 きた ビルマに緊張 きんちょう が走 はし り、日本 にっぽん 軍 ぐん はその防衛 ぼうえい 強化 きょうか を迫 せま られることとなった[174] 。第 だい 15軍 ぐん の司令 しれい 官 かん 牟田 むた 口 くち 廉 れん 也中将 ちゅうじょう は、防衛 ぼうえい に徹 てっ するよりはむしろ積極 せっきょく 的 てき な攻勢 こうせい でインド領内 りょうない の重要 じゅうよう 拠点 きょてん インパール を攻略 こうりゃく し、イギリス軍 ぐん の機先 きせん を制 せい して北 きた ビルマの安全 あんぜん を確保 かくほ するといった攻撃 こうげき 防御 ぼうぎょ 的 てき な作戦 さくせん を考 かんが えた。さらにインド領内 りょうない 深 ふか くまで侵攻 しんこう し、インド独立 どくりつ 運動 うんどう 家 か スバス・チャンドラ・ボース 率 ひき いるインド国民 こくみん 軍 ぐん とも連携 れんけい して、イギリスのインド支配 しはい を動揺 どうよう させて、連合 れんごう 軍 ぐん から脱落 だつらく させるという壮大 そうだい な構想 こうそう も抱 だ いた[175] 。この構想 こうそう は、太平洋 たいへいよう 正面 しょうめん の戦況 せんきょう 悪化 あっか に悩 なや む東条 とうじょう 英機 ひでき 陸相 りくしょう (首相 しゅしょう 兼任 けんにん )にも期待 きたい され、緬 はる 甸方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 河辺 かわべ 正三 しょうさん 大将 たいしょう にも支持 しじ された[176] 。
しかし、北 きた ビルマとインド国境 こっきょう には険 けわ しいアラカン山脈 さんみゃく があり、これを超 こ えての大 だい 規模 きぼ な進攻 しんこう 作戦 さくせん は主 おも に補給 ほきゅう や兵站 へいたん の面 めん で困難 こんなん なものと思 おも われた。牟田 むた 口 こう の作戦 さくせん 計画 けいかく はその困難 こんなん に対 たい して十分 じゅうぶん な対策 たいさく を講 こう じていない強引 ごういん なものであったが、インド進攻 しんこう に期待 きたい している軍 ぐん 中央 ちゅうおう の方針 ほうしん もあって[177] 、次第 しだい に反対 はんたい 意見 いけん が封 ふう じられていき、補給 ほきゅう や兵站 へいたん の問題 もんだい の解決 かいけつ 策 さく がないままで牟田 むた 口 くち の強引 ごういん な作戦 さくせん 計画 けいかく が決定 けってい された[178] 。そんな中 なか でイギリス軍 ぐん の反攻 はんこう も開始 かいし されており、チンディットによる日本 にっぽん 軍 ぐん 背後 はいご への空挺 くうてい 降下 こうか 作戦 さくせん や、アキャブへの再 さい 侵攻 しんこう に対 たい して緬 はる 甸方面 ほうめん 軍 ぐん は対応 たいおう に迫 せま られた。アキャブへの再 さい 侵攻 しんこう に対 たい しては、前年 ぜんねん の第 だい 一 いち 次 じ アキャブ作戦 さくせん の際 さい と同様 どうよう に、日本 にっぽん 軍 ぐん は侵攻 しんこう してきたイギリス軍 ぐん を包囲 ほうい して殲滅 せんめつ しようとしたが、イギリス軍 ぐん が編 あ み出 だ していた新 しん 戦術 せんじゅつ 「アドミン・ボックス(管理 かんり 箱 ばこ もしくは立体 りったい 陣地 じんち )」と呼 よ ばれた密集 みっしゅう 陣 じん を前 まえ に敗北 はいぼく を喫 きっ した(第 だい 二 に 次 じ アキャブ作戦 さくせん )[179] 。この戦術 せんじゅつ は、日本 にっぽん 軍 ぐん の包囲 ほうい によってイギリス軍 ぐん 部隊 ぶたい が孤立 こりつ しても、豊富 ほうふ な輸送 ゆそう 機 き で補給 ほきゅう 物資 ぶっし を空輸 くうゆ し続 つづ けて防御 ぼうぎょ を固 かた めて、攻撃 こうげき してくる日本 にっぽん 軍 ぐん を消耗 しょうもう させるというものであった。この戦 たたか いでこれまでイギリス軍 ぐん に対 たい しては常勝 じょうしょう であった日本 にっぽん 軍 ぐん が初 はじ めて敗北 はいぼく を喫 きっ し、ビルマでの戦局 せんきょく 逆転 ぎゃくてん のきっかけともなった[180] 。
1944年 ねん 3月 がつ 8日 にち に開始 かいし された「ウ」号 ごう 作戦 さくせん (インパール作戦 さくせん )は、作戦 さくせん 当初 とうしょ は隷下 れいか の3個 こ 師団 しだん の奮闘 ふんとう もあり、チンドウィン川 がわ を奇襲 きしゅう 渡河 とか 成功 せいこう 、ほぼ人力 じんりき で軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし を輸送 ゆそう しながら途中 とちゅう の軍事 ぐんじ 拠点 きょてん を攻略 こうりゃく し、4月 がつ 6日 にち には第 だい 31師団 しだん (烈 れつ )が要衝 ようしょう コヒマ を占領 せんりょう 、インパールの孤立 こりつ 化 か に成功 せいこう し、さらにイギリス軍 ぐん のビルマ戦線 せんせん における最大 さいだい の補給 ほきゅう 拠点 きょてん ディマプル を脅 おど かして、イギリス軍 ぐん を追 お い詰 つ めたが、河辺 かわべ と牟田 むた 口 こう の作戦 さくせん 方針 ほうしん の相違 そうい もあって、ディマプルへの進撃 しんげき は見送 みおく られ、イギリス軍 ぐん は最大 さいだい の危機 きき を乗 の り換 か えた[181] 。日本 にっぽん 軍 ぐん の攻勢 こうせい はここまでで、イギリス軍 ぐん は第 だい 二 に 次 じ アキャブ作戦 さくせん の時 とき と同様 どうよう に大量 たいりょう の輸送 ゆそう 機 き をもって孤立 こりつ したインパールに大量 たいりょう の物資 ぶっし を送 おく り続 つづ け、インパールとその周辺 しゅうへん の防備 ぼうび は強化 きょうか される一方 いっぽう で第 だい 15軍 ぐん の進撃 しんげき は完全 かんぜん に停滞 ていたい してしまった。牟田 むた 口 こう の「3週間 しゅうかん 以内 いない にインパールを攻略 こうりゃく する」という方針 ほうしん もあって[182] 、第 だい 15軍 ぐん は食料 しょくりょう を3週間 しゅうかん 分 ぶん しか携行 けいこう していなかったうえ、厳 きび しいアラカン山脈 さんみゃく に阻 はば まれて前線 ぜんせん に殆 ほとん ど補給 ほきゅう 品 ひん を届 とど けることができず、第 だい 15軍 ぐん では飢餓 きが が始 はじ まっていた。やがて5月 がつ に入 はい って雨季 うき が始 はじ まると、飢餓 きが に加 くわ えてマラリア や赤痢 せきり といった感染 かんせん 症 しょう が蔓延 まんえん して、もはや第 だい 15軍兵 ぐんびょう 士 し は戦闘 せんとう どころではなくなっていた[183] 。
牟田 むた 口 くち や河辺 かわべ は4月 がつ 末 まつ には作戦 さくせん の失敗 しっぱい を認識 にんしき していたが、作戦 さくせん 中止 ちゅうし を決断 けつだん することができず、その間 あいだ 第 だい 15軍兵 ぐんびょう 士 し に餓死 がし 者 しゃ 病死 びょうし 者 しゃ が増 ふ え続 つづ けた。決断 けつだん できない軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ に業 ごう を煮 に やした第 だい 31師団 しだん (烈 れつ )長 ちょう 佐藤 さとう 幸徳 ゆきのり 中将 ちゅうじょう が、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 始 はじ まって以来 いらい 初 はじ めての師団 しだん 長 ちょう による独断 どくだん 撤退 てったい を開始 かいし した。牟田 むた 口 くち と河辺 かわべ は反抗 はんこう 的 てき な佐藤 さとう に加 くわ えて、指揮 しき 力 りょく 不足 ふそく を名目 めいもく に他 た の2人 ふたり の師団 しだん 長 ちょう も更迭 こうてつ し、これも日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 始 はじ まって以来 いらい の作戦 さくせん 途中 とちゅう の全 ぜん 師団 しだん 長 ちょう 更迭 こうてつ という珍事 ちんじ となった[184] 。さすがにここで牟田 むた 口 くち も作戦 さくせん 失敗 しっぱい を認識 にんしき し、作戦 さくせん 中止 ちゅうし を河辺 かわべ に上申 じょうしん 、大本営 だいほんえい の決裁 けっさい を受 う けて7月 がつ 12日 にち に緬 はる 甸方面 ほうめん 軍 ぐん から作戦 さくせん 中止 ちゅうし 命令 めいれい が出 だ された。その後 ご の撤退 てったい も凄惨 せいさん を極 きわ め、多 おお くの兵士 へいし が飢餓 きが や病気 びょうき で命 いのち を落 お とし、第 だい 15軍 ぐん が撤退 てったい した道 みち は「白骨 はっこつ 街道 かいどう 」と呼 よ ばれることとなり、作戦 さくせん 全体 ぜんたい の死者 ししゃ は約 やく 30,000人 にん にもなった[185] 。
インパール作戦 さくせん の失敗 しっぱい によってビルマ戦線 せんせん の戦局 せんきょく は完全 かんぜん に逆転 ぎゃくてん した。イギリス軍 ぐん の追撃 ついげき に加 くわ えて、アメリカ軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん 式 しき 装備 そうび の中国 ちゅうごく 軍 ぐん も拉 ひしげ 孟 はじめ ・騰 あが 越 えつ の戦 たたか い で日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい を撃破 げきは するとビルマ領内 りょうない に侵攻 しんこう し、ビルマ戦線 せんせん は崩壊 ほうかい の一途 いっと を辿 たど っていく。日本 にっぽん 軍 ぐん はイラワジ会戦 かいせん でもイギリス軍 ぐん に敗北 はいぼく を喫 きっ すると、翌 よく 1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )3月 がつ には、アウン・サン 将軍 しょうぐん 率 ひき いるビルマ国民 こくみん 軍 ぐん が連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ へと離反 りはん し、日本 にっぽん はビルマを失陥 しっかん することとなった。なお、当 とう 作戦 さくせん を始 はじ め、ビルマで命 いのち を落 お とした日本 にっぽん 軍 ぐん 将兵 しょうへい の数 かず は16万 まん 人 にん におよび、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 、フィリピン に次 つ ぐ3番目 ばんめ に戦死 せんし 者 しゃ が多 おお かった戦場 せんじょう となっている[10] 。一方 いっぽう で連合 れんごう 軍 ぐん 全体 ぜんたい での人的 じんてき 損害 そんがい (戦 せん 病 びょう を除 のぞ く)も207,203人 にん 以上 いじょう という甚大 じんだい なものとなった。しかし、もっとも大 おお きな損害 そんがい を被 こうむ ったのは戦場 せんじょう となったビルマ国民 こくみん であり、その犠牲 ぎせい 者 しゃ は最大 さいだい で1,000,000人 にん に達 たっ したとの推計 すいけい もある。
1944年 ねん 9月 がつ 15日 にち 、のちのフィリピン侵攻 しんこう への支援 しえん として、パラオ諸島 しょとう のペリリュー島 とう にアメリカ軍 ぐん が上陸 じょうりく した(ペリリューの戦 たたか い )。ペリリュー島 とう は中川 なかがわ 州 しゅう 男 おとこ 大佐 たいさ 以下 いか 約 やく 10,000人 にん の日本 にっぽん 兵 へい が守備 しゅび に付 つ いていたが、中川 なかがわ のゲリラ戦 せん も含 ふく めた巧 たく みな戦術 せんじゅつ の前 まえ にアメリカ軍 ぐん は大 だい 苦戦 くせん を強 し いられて、死傷 ししょう 者 しゃ に戦闘 せんとう 神経症 しんけいしょう などの戦 せん 病者 びょうしゃ を加 くわ えた人的 じんてき 損害 そんがい は13,000人 にん 以上 いじょう に達 たっ し、2か月 げつ 以上 いじょう も足止 あしど めを食 く らうこととなった。この中川 なかがわ の対 たい 上陸 じょうりく 戦術 せんじゅつ はのちの戦 たたか いにも活 い かされ、硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い や沖縄 おきなわ 戦 せん でアメリカ軍 ぐん に大量 たいりょう の出血 しゅっけつ を強 し いることとなった[187] 。
シブヤン海 うみ 海戦 かいせん で攻撃 こうげき を受 う ける戦艦 せんかん 「武蔵 むさし 」(こののち沈没 ちんぼつ )
日本 にっぽん 軍 ぐん に占領 せんりょう されていたフィリピンの奪還 だっかん については、アメリカ陸軍 りくぐん は「戦略 せんりゃく 上 じょう 必要 ひつよう なし」と判断 はんだん しており、アメリカ海軍 かいぐん もそれに同意 どうい する意見 いけん が多 おお かった。統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は、マッカーサーと東京 とうきょう への進撃 しんげき スピードを張 は り合 あ っていたアメリカ太平洋艦隊 たいへいようかんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 兼 けん 太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん チェスター・ニミッツ 提督 ていとく が進行 しんこう 中 ちゅう であった、マリアナ諸島 しょとう 及 およ びパラオ諸島 しょとう の攻略 こうりゃく 作戦 さくせん であるフォレイジャー作戦 さくせん が成功 せいこう すれば、B-29により直接 ちょくせつ 東京 とうきょう を攻撃 こうげき できるようになるため、フィリピンの占領 せんりょう は遥 はる かに低 ひく い軍事 ぐんじ 的 てき 優先 ゆうせん 順位 じゅんい となるものであった。しかし、開戦 かいせん 初頭 しょとう のフィリピンの戦 たたか い で敗北 はいぼく し、オーストラリアに脱出 だっしゅつ させられたマッカーサーは名誉 めいよ 挽回 ばんかい のため、フィリピン奪還 だっかん を主張 しゅちょう した。マッカーサーはマスコミも使 つか ってフィリピン奪還 だっかん の必要 ひつよう 性 せい を主張 しゅちょう し続 つづ け、世論 せろん も味方 みかた につけたマッカーサーに同意 どうい する軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ も増 ふ えて、アメリカ軍 ぐん 内 ない の意見 いけん も真 ま っ二 ぷた つに割 わ れていた。ルーズベルトはこのような状況 じょうきょう に業 ごう を煮 に やして、マッカーサーとニミッツに直接 ちょくせつ 意見 いけん を聞 き いて方針 ほうしん を決 き めることとし、1944年 ねん 7月 がつ 26日 にち に両 りょう 名 な をハワイに召喚 しょうかん した。マッカーサーは1944年 ねん の大統領 だいとうりょう 選 せん を見据 みす えて、「アメリカ国民 こくみん の激 はげ しい怒 いか りは貴方 あなた への反対 はんたい 票 ひょう となって跳 は ね返 かえ ってくる」と脅迫 きょうはく するなど熱弁 ねつべん を振 ふ るって、体調 たいちょう が芳 かんば しくなかったルーズベルトを押 お し切 き ってフィリピン奪還 だっかん を承諾 しょうだく させた。
攻略 こうりゃく 目標 もくひょう は、偵察 ていさつ の結果 けっか で日本 にっぽん 軍 ぐん の配備 はいび 兵力 へいりょく が少 すく ないレイテ島 れいてとう とされた。その作戦 さくせん 準備 じゅんび のために台湾 たいわん 近海 きんかい に進出 しんしゅつ してきた第 だい 38任務 にんむ 部隊 ぶたい と日本 にっぽん 軍 ぐん の間 あいだ で激戦 げきせん が繰 く り広 ひろ げられ、1944年 ねん 10月 がつ には沖縄 おきなわ で十 じゅう ・十 じゅう 空襲 くうしゅう 、台湾 たいわん 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん が展開 てんかい した。この頃 ころ には、ノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん の成功 せいこう でヨーロッパの戦局 せんきょく は最終 さいしゅう 段階 だんかい に入 はい ったものと見 み なされて、ルーズベルトやチャーチルといった連合 れんごう 国 こく の指導 しどう 者 しゃ たちは太平洋 たいへいよう の戦局 せんきょく に重大 じゅうだい な関心 かんしん を持 も つようになっており、膨大 ぼうだい な戦力 せんりょく の準備 じゅんび が必要 ひつよう であったマッカーサーにとっては追 お い風 かぜ となった。連合 れんごう 軍 ぐん の基本 きほん 方針 ほうしん であった「まずはドイツを叩 たた く」はキングやマッカーサーら太平洋 たいへいよう の軍 ぐん 有力 ゆうりょく 者 しゃ の反論 はんろん で既 すで に有名 ゆうめい 無実 むじつ 化 か されていたが、フィリピン作戦 さくせん でマッカーサーが政治 せいじ 力 りょく を発揮 はっき し大量 たいりょう の兵力 へいりょく を確保 かくほ したことで、逆 ぎゃく にヨーロッパ戦線 せんせん への補充 ほじゅう は減 へ らされる一方 いっぽう となっており、このことがのちのドイツ軍 ぐん の最後 さいご の反 はん 撃 げき である「バルジの戦 たたか い 」を招 まね くこととなった[193] 。
10月には、アメリカ軍 ぐん はフィリピンのレイテ島 れいてとう への進攻 しんこう を開始 かいし した(レイテ島 れいてとう の戦 たたか い )。日本 にっぽん 軍 ぐん は台湾 たいわん 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん でアメリカ軍 ぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい に大 だい 打撃 だげき を与 あた えたという虚報 きょほう に振 ふ り回 まわ されており、大本営 だいほんえい の横 よこ やりで現地 げんち の第 だい 14方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 山下 やました 奉文 ともゆき 大将 たいしょう の反対 はんたい を押 お し切 き り、レイテを決戦 けっせん 場 じょう としてアメリカ軍 ぐん に決戦 けっせん を挑 いど むこととし、捷一 しょういち 号 ごう 作戦 さくせん を発動 はつどう した。連合 れんごう 艦隊 かんたい の主力 しゅりょく がアメリカ輸送 ゆそう 艦隊 かんたい を撃滅 げきめつ 、次 つ いで陸軍 りくぐん はルソン島 とう より順次 じゅんじ 増援 ぞうえん をレイテに派遣 はけん し、上陸 じょうりく 軍 ぐん を撃滅 げきめつ しようという作戦 さくせん だった。連合 れんごう 艦隊 かんたい はこの大本営 だいほんえい の方針 ほうしん に従 したが い、レイテ島 れいてとう に向 む かって出撃 しゅつげき しレイテ沖 おき 海戦 かいせん が発生 はっせい した。連合 れんごう 艦隊 かんたい は空母 くうぼ 「瑞 みず 鶴 づる 」を主力 しゅりょく とする機動 きどう 部隊 ぶたい を、米 べい 機動 きどう 部隊 ぶたい をひきつけるための囮 おとり として使 つか い、栗田 くりた 健男 たけお 中将 ちゅうじょう 率 ひき いる戦艦 せんかん 「大和 やまと 」「武蔵 むさし 」を主力 しゅりょく とする戦艦 せんかん 部隊 ぶたい (栗田 くりた 艦隊 かんたい )による、レイテ島 れいてとう への上陸 じょうりく 部隊 ぶたい を乗 の せた敵 てき 輸送 ゆそう 船隊 せんたい の殲滅 せんめつ を期 き した。しかし、既 すで に作戦 さくせん 期日 きじつ に3日 にち の遅 おく れが生 しょう じていたため、栗田 くりた 艦隊 かんたい はレイテ湾 わん 目前 もくぜん で反転 はんてん し、失敗 しっぱい に終 お わった。この海戦 かいせん で日本 にっぽん 海軍 かいぐん は空母 くうぼ 4隻 せき と武蔵 むさし 以下 いか 主力 しゅりょく 戦艦 せんかん 3隻 せき 、重 じゅう 巡 じゅん 6隻 せき など多数 たすう の艦艇 かんてい を失 うしな い事実 じじつ 上 じょう 壊滅 かいめつ し、組織 そしき 的 てき な作戦 さくせん 能力 のうりょく はほぼ喪失 そうしつ した。また、この戦 たたか いにおいて第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 大西 おおにし 瀧 たき 治郎 じろう 中将 ちゅうじょう が神風 かみかぜ 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい を編成 へんせい し、指揮 しき 官 かん の関 せき 行男 いくお 大尉 たいい の指揮 しき によって初 はつ の航空機 こうくうき による組織 そしき 的 てき な特別 とくべつ 攻撃 こうげき が行 おこな われ、アメリカ海軍 かいぐん の護衛 ごえい 空母 くうぼ 撃沈 げきちん などの戦果 せんか を上 あ げている[194] 。
レイテ島 れいてとう に上陸 じょうりく するダグラス・マッカーサー
マッカーサーは「I shall return」の宣言 せんげん 通 どお りにレイテ島 れいてとう に上陸 じょうりく し、日本 にっぽん の軍政 ぐんせい に苦 くる しめられていた多 おお くのフィリピン国民 こくみん は熱狂 ねっきょう 的 てき にマッカーサーの帰還 きかん を歓迎 かんげい した。しかしアメリカ軍 ぐん の苦境 くきょう はなおも続 つづ き、レイテ沖 おき 海戦 かいせん で連合 れんごう 艦隊 かんたい は撃退 げきたい したものの、レイテ島 れいてとう 上陸 じょうりく 直後 ちょくご のアメリカ軍 ぐん は飛行場 ひこうじょう の確保 かくほ に苦労 くろう しており、唯一 ゆいいつ 確保 かくほ したタクロバン飛行場 ひこうじょう が雨 あめ が降 ふ るとまともに使用 しよう できないなど、航空 こうくう 戦力 せんりょく を十分 じゅうぶん に活用 かつよう できていなかった[195] 。第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん の富永 とみなが 恭次 きょうじ 中将 ちゅうじょう はその好機 こうき を活 い かして、アメリカ軍 ぐん 飛行場 ひこうじょう に連日 れんじつ 連夜 れんや 猛攻 もうこう 撃 げき をかけた。アメリカ軍 ぐん は一 いち 晩 ばん で100機 き の作戦 さくせん 機 き が撃破 げきは されたり[196] 、100名 めい の搭乗 とうじょう 員 いん が戦死 せんし するなど大 だい 損害 そんがい を被 こうむ った[197] 。富永 とみなが はアメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく 拠点 きょてん への攻撃 こうげき も命 めい じ、11月の第 だい 1週 しゅう には、揚陸 ようりく したばかりの2,000トンのガソリンや1,700トンの弾薬 だんやく を爆 ばく 砕し、上陸 じょうりく したアメリカ軍 ぐん の補給 ほきゅう 線 せん を脅 おど かした[198] 。また、マッカーサーのいる司令 しれい 部 ぶ にも猛攻 もうこう を加 くわ えて、マッカーサーと幕僚 ばくりょう たちは何 なん 度 ど も命 いのち の危機 きき に曝 さら されるなど、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん は一時 いちじ はレイテ島 れいてとう の制空権 せいくうけん を確保 かくほ していた。昭和 しょうわ 天皇 てんのう も第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の善戦 ぜんせん の報告 ほうこく を受 う けると「第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん がよく奮闘 ふんとう しているが、レイテ島 れいてとう の地上 ちじょう の敵 てき を撃滅 げきめつ しなければ勝 か ったとはいえない。今 こん 一息 ひといき だから十分 じゅうぶん 第 だい 一線 いっせん を激励 げきれい せよ」と富永 とみなが を激励 げきれい すると共 とも にレイテ島 れいてとう での決戦 けっせん を指示 しじ している[200] 。
大本営 だいほんえい はレイテ島 れいてとう での決戦 けっせん のため、海路 かいろ で援軍 えんぐん を送 おく り込 こ む多 た 号 ごう 作戦 さくせん を命令 めいれい 、富永 とみなが も指揮 しき 下 か の戦闘 せんとう 機 き 部隊 ぶたい に輸送 ゆそう 船団 せんだん を全力 ぜんりょく で護衛 ごえい することを命 めい じて、第 だい 1師団 しだん など多数 たすう の部隊 ぶたい と物資 ぶっし のレイテ島 れいてとう 逆 ぎゃく 上陸 じょうりく に成功 せいこう している。陸海 りくかい でのアメリカ軍 ぐん の苦戦 くせん でトーマス・C・キンケイド 中将 ちゅうじょう は、「戦史 せんし 上 じょう めったに類 るい を見 み ない大 だい 惨事 さんじ を招 まね きかねません」という理由 りゆう で、この後 のち に予定 よてい されていたルソン島 るそんとう 上陸 じょうりく 作戦 さくせん の中止 ちゅうし をマッカーサーに求 もと めた[201] 。フィリピン全域 ぜんいき の奪還 だっかん が目標 もくひょう であったマッカーサーはキンケイドの勧告 かんこく をき入 きい れることはなかったが、この後 のち もマッカーサーは予想 よそう 外 がい の日本 にっぽん 軍 ぐん の戦力 せんりょく を相手 あいて に苦戦 くせん し、後 ご のルソン島 るそんとう 上陸 じょうりく 作戦 さくせん のスケジュールの見直 みなお しを余儀 よぎ なくされた。
しかし、レイテ島 れいてとう のアメリカ軍 ぐん 飛行場 ひこうじょう 整備 せいび が進 すす むと、数 かず が勝 まさ るアメリカ軍 ぐん に対 たい し、作戦 さくせん 機 き の補充 ほじゅう もままならない第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん は制空権 せいくうけん を次第 しだい に喪失 そうしつ してゆき、多 た 号 ごう 作戦 さくせん の輸送 ゆそう 艦 かん もアメリカ軍機 ぐんき の空襲 くうしゅう により多大 ただい な損害 そんがい を被 こうむ って海上 かいじょう 輸送 ゆそう は困難 こんなん となって、レイテ島 れいてとう への増援 ぞうえん や補給 ほきゅう は滞 とどこお ってしまった。富永 とみなが は作戦 さくせん 機 き による地上 ちじょう 部隊 ぶたい への補給 ほきゅう 物資 ぶっし の空輸 くうゆ や、制空権 せいくうけん 奪還 だっかん のための空挺 くうてい 作戦 さくせん 「義 ぎ 号 ごう 作戦 さくせん 」など積極 せっきょく 的 てき な作戦 さくせん を命 めい じ、アメリカ軍 ぐん に一時 いちじ 的 てき な混乱 こんらん を生 しょう じさせたが[203] 、制空権 せいくうけん を取 と り戻 もど すことはできず、やがて、マッカーサーがレイテ島 れいてとう の攻略 こうりゃく を一気 いっき に進 すす めるため、多 た 号 ごう 作戦 さくせん の揚陸 ようりく 港 こう でもあったオルモック に上陸 じょうりく 作戦 さくせん を命 めい じたことにより、レイテ島 れいてとう の日本 にっぽん 軍 ぐん は完全 かんぜん に孤立 こりつ し、アメリカ軍 ぐん の包囲 ほうい 下 か で飢餓 きが や疫病 えきびょう によって多数 たすう の将兵 しょうへい が死亡 しぼう して組織 そしき 的 てき 抵抗 ていこう 力 りょく を失 うしな い、日本 にっぽん 軍 ぐん が決戦 けっせん の地 ち と定 さだ めたレイテ島 れいてとう はアメリカ軍 ぐん の手 て に落 お ちた。日本 にっぽん 軍 ぐん の激 はげ しい抵抗 ていこう で計画 けいかく よりは遅 おく れたものの、マッカーサーはレイテ島 れいてとう を起点 きてん としてフィリピン諸島 しょとう の攻略 こうりゃく を進 すす めていった[204] 。
特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい の出撃 しゅつげき [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 10月 がつ 21日 にち 、初 はつ 出撃 しゅつげき する神風 かみかぜ 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい の敷島 しきしま 隊 たい
将兵 しょうへい が決死 けっし 的 てき な攻撃 こうげき を行 おこな う特攻 とっこう については、陸海 りくかい 軍 ぐん ともに以前 いぜん から検討 けんとう が進 すす められており、海軍 かいぐん においては黒島 くろしま 亀 ひさし 人 じん 軍令 ぐんれい 部 ぶ 第 だい 二 に 部長 ぶちょう が、1943年 ねん 8月 がつ に「特攻 とっこう 艇 てい 」の提案 ていあん を行 おこな い[205] 、同 どう 時期 じき に甲 かぶと 標的 ひょうてき 搭乗 とうじょう 員 いん の黒木 くろき 博司 ひろし 大尉 たいい らから、甲 きのえ 標的 ひょうてき や魚雷 ぎょらい で自爆 じばく 攻撃 こうげき を行 おこな ういわゆる「人間 にんげん 魚雷 ぎょらい 」の提案 ていあん があった[206] 。当初 とうしょ は特攻 とっこう 開始 かいし には消極 しょうきょく 的 てき であった大本営 だいほんえい ではあったが、1944年 ねん 2月 がつ 17日 にち のトラック島 とう 空襲 くうしゅう で大 だい 損害 そんがい を被 こうむ るなど[207] 、戦局 せんきょく の悪化 あっか に歯止 はど めがかからなくなったことを重 おも くみて[208] 、1944年 ねん 4月 がつ には「特攻 とっこう 艇 てい 」は「震 ふるえ 洋 よう 」「人間 にんげん 魚雷 ぎょらい 」は「回天 かいてん 」として開発 かいはつ と採用 さいよう が決定 けってい した[209] 。航空機 こうくうき による特攻 とっこう についても、侍従 じじゅう 武官 ぶかん 城 じょう 英一郎 えいいちろう 大佐 たいさ や[210] 、341空 そら 司令 しれい 岡村 おかむら 基 はじめ 春 はる 大佐 たいさ から軍令 ぐんれい 部 ぶ や連合 れんごう 艦隊 かんたい に対 たい して上申 じょうしん あったが、当時 とうじ の航空 こうくう 本部 ほんぶ 総務 そうむ 部長 ぶちょう 大西 おおにし 瀧 たき 治郎 じろう 中将 ちゅうじょう が「時期 じき 尚早 しょうそう 」として却下 きゃっか している[211] 。一方 いっぽう で、1944年 ねん 5月 がつ には航空 こうくう 偵察 ていさつ 員 いん 大田 おおた 正一 しょういち 海軍 かいぐん 特務 とくむ 少尉 しょうい が提案 ていあん した有人 ゆうじん ロケット 兵器 へいき (のちの「桜花 おうか 」)の研究 けんきゅう が開始 かいし されていた。
陸軍 りくぐん の航空 こうくう 特攻 とっこう の検討 けんとう は海軍 かいぐん よりも早 はや く、1944年 ねん 3月 がつ には艦船 かんせん 体当 たいあ たりを主 おも とした航空 こうくう 特攻 とっこう 戦法 せんぽう の検討 けんとう が開始 かいし され[212] 、春 はる には機材 きざい 、研究 けんきゅう にも着手 ちゃくしゅ した[213] 。特攻 とっこう 兵器 へいき の研究 けんきゅう は第 だい 3陸軍 りくぐん 航空 こうくう 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ 所長 しょちょう 正木 まさき 博 ひろし 少将 しょうしょう が進 すす めていた[214] 。しかし、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 本部 ほんぶ には特攻 とっこう 反対 はんたい 意見 いけん が多 おお かったことから、1944年 ねん 3月 がつ 28日 にち に内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 兼 けん 陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 兼 けん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう の東條 とうじょう は航空 こうくう 総監 そうかん 兼 けん 航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう の安田 やすだ 武雄 たけお 中将 ちゅうじょう を更迭 こうてつ 、特攻 とっこう に積極 せっきょく 的 てき であった後宮 こうきゅう 淳 あつし 大将 たいしょう を後任 こうにん に据 す えた[215] 。正木 まさき は、1944年 ねん 7月 がつ 11日 にち 、「捨 す て身 み 戦法 せんぽう に依 よ る艦船 かんせん 攻撃 こうげき の考案 こうあん 」として対 たい 艦船 かんせん 特攻 とっこう の6つの方法 ほうほう を提案 ていあん し、その提案 ていあん に基 もと づいて、7月 がつ 中旬 ちゅうじゅん からの特攻 とっこう 機 き の改修 かいしゅう 作業 さぎょう が秘 ひそ かに進 すす められた[216] 。
その後 ご 、サイパン失陥 しっかん で陸海 りくかい 軍 ぐん 共 とも に特攻 とっこう 開始 かいし の準備 じゅんび が本格 ほんかく 化 か し、陸軍 りくぐん では、7月 がつ 中 ちゅう には鉾田 ほこた 教導 きょうどう 飛行 ひこう 師団 しだん と浜松 はままつ 教導 きょうどう 飛行 ひこう 師団 しだん に特攻隊 とっこうたい を編成 へんせい する内示 ないじ が出 で て、10月4日 にち には特攻 とっこう 部隊 ぶたい 編成 へんせい の準備 じゅんび 命令 めいれい が出 で た[217] 。しかし鉾田 ほこた 教導 きょうどう 飛行 ひこう 師団 しだん 司令 しれい 官 かん の今西 いまにし 六郎 ろくろう 少将 しょうしょう は、大本営 だいほんえい からの「大元帥 だいげんすい である天皇 てんのう が特攻隊 とっこうたい 編成 へんせい の正式 せいしき な奉勅 ほうちょく 命令 めいれい を出 だ すことは、天皇 てんのう が「生 い きて帰 かえ ってくるな」という命令 めいれい をするも同然 どうぜん であって、建前 たてまえ として志願 しがん 者 しゃ を募 つの るよう」とする命令 めいれい に、「人 ひと の心 しん は一 いち 日 にち の中 なか でのたびたび変 か わるもので、殉国 じゅんこく の精神 せいしん に懸念 けねん のない多数 たすう の青年 せいねん を長 なが 時 とき 苦悩 くのう させるものではない」と特攻隊 とっこうたい の編制 へんせい に否定 ひてい 的 てき であったが[218] 、10月17日 にち にレイテにアメリカ軍 ぐん が来襲 らいしゅう し捷 とし 号 ごう 一 いち 号 ごう 作戦 さくせん が発令 はつれい されると、20日 はつか には正式 せいしき な編成 へんせい の指示 しじ があり、今西 いまにし は苦悩 くのう の末 すえ 、最初 さいしょ の特攻 とっこう は確実 かくじつ を期 き さなければいけないと判断 はんだん し、航空 こうくう 本部 ほんぶ の「絶対 ぜったい に志願 しがん 者 しゃ 」との指示 しじ を破 やぶ って陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい きっての操縦 そうじゅう 技量 ぎりょう を持 も ち、特攻 とっこう には批判 ひはん 的 てき であった岩本 いわもと 益 えき 臣 しん 大尉 たいい を中隊 ちゅうたい 長 ちょう とした佐々木 ささき 友次 ともじ 伍長 ごちょう ら精鋭 せいえい を“指名 しめい ”し、陸軍 りくぐん 初 はつ の航空 こうくう 特攻隊 とっこうたい 「万朶 ばんだ 隊 たい 」が編制 へんせい された[219] 。志願 しがん を募 つの らなかったのは、鉾田 ほこた 教導 きょうどう 飛行 ひこう 師団 しだん 首脳 しゅのう らの「志願 しがん 者 しゃ を募 つの れば、全員 ぜんいん 志願 しがん するであろう」という考 かんが えに基 もと づくものであった[220] 。浜松 はままつ 教導 きょうどう 飛行 ひこう 師団 しだん でも「富嶽 ふがく 隊 たい 」が編成 へんせい されて両 りょう 隊 たい はフィリピンに送 おく られた[221] 。
海軍 かいぐん においても、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )10月5日 にち にダバオ誤報 ごほう 事件 じけん の失敗 しっぱい で更迭 こうてつ された寺岡 てらおか 謹平中将 ちゅうじょう の後任 こうにん として、第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に内定 ないてい した大西 おおにし は、これまでの特攻 とっこう への慎重 しんちょう な姿勢 しせい から一転 いってん して、及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう 軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう に対 たい して航空 こうくう 特攻 とっこう を開始 かいし する決意 けつい を語 かた っている。及川 おいかわ は「(特攻 とっこう の)指示 しじ はしないが、現地 げんち の自発 じはつ 的 てき 実施 じっし には反対 はんたい しない」と承認 しょうにん し、それに対 たい して大西 おおにし は「中央 ちゅうおう からは何 なに も指示 しじ をしないように」と要請 ようせい している。
大西 おおにし はフィリピンに向 む けて出発 しゅっぱつ する途中 とちゅう で台湾 たいわん 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん の様子 ようす を見学 けんがく したが、日本 にっぽん 軍 ぐん の苦戦 くせん ぶりを見 み て愕然 がくぜん とし、台湾 たいわん 入 い りしていた連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 豊田 とよだ 副 ふく 武 ぶ 大将 たいしょう とも面会 めんかい し「大戦 たいせん 初期 しょき のような練度 れんど の高 たか い者 もの ならよいが、中 なか には単独 たんどく 飛行 ひこう がよっとこせという搭乗 とうじょう 員 いん が沢山 たくさん ある、こういう者 もの が雷撃 らいげき 爆 ばく 撃 げき をやっても、被害 ひがい に見合 みあ う戦果 せんか を期待 きたい できない。どうしても体当 たいあ たり以外 いがい に方法 ほうほう はないと思 おも う。しかし、命令 めいれい では無 な くそういった空気 くうき にならなければ(特攻 とっこう は)実行 じっこう できない」と特攻 とっこう への決意 けつい を語 かた っている[223] 。フィリピンに到着 とうちゃく した大西 おおにし は、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )10月 がつ 19日 にち 夕刻 ゆうこく 、マバラカット飛行場 ひこうじょう 第 だい 201海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい 本部 ほんぶ に第 だい 1航空 こうくう 艦隊 かんたい の幕僚 ばくりょう らを集 あつ めると、「空母 くうぼ を一 いち 週間 しゅうかん くらい使用 しよう 不能 ふのう にし、捷一 しょういち 号 ごう 作戦 さくせん を成功 せいこう させるため、零 れい 戦 せん に250kg爆 ばく 弾 だん を抱 いだ かせて体当 たいあた りをやるほかに確実 かくじつ な攻撃 こうげき 法 ほう は無 な いと思 おも うがどうだろう」と提案 ていあん した[224] 。大西 おおにし の決意 けつい に一同 いちどう は特攻隊 とっこうたい 編成 へんせい を受 う け入 い れ、「指揮 しき 官 かん の選定 せんてい は海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 出身 しゅっしん 者 しゃ を」という猪口 いのぐち 力 つとむ 平 たいら 主席 しゅせき 参謀 さんぼう の意向 いこう を受 う け、第 だい 二 に 〇一海軍航空隊副長 ふくちょう 玉井 たまい 浅 あさ 一 いち 中佐 ちゅうさ は戦闘 せんとう 第 だい 301飛行 ひこう 隊長 たいちょう の関 せき 行男 いくお 大尉 たいい を指名 しめい した[225] 。猪口 ちょこ は、郷里 きょうり の古 こ 剣術 けんじゅつ の道場 どうじょう である「神風 かみかぜ (しんぷう)流 りゅう 」から名前 なまえ を取 と り、特攻隊 とっこうたい の名称 めいしょう を「神風 かみかぜ 隊 たい というのはどうだろう」と提案 ていあん し、玉井 たまい も「神風 かみかぜ を起 お こさなければならない」と同意 どうい して「神風 かみかぜ 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい 」と命名 めいめい された[226] 。
以上 いじょう のような経緯 けいい で特攻 とっこう は開始 かいし され、フィリピンの戦 たたか いで海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい は特攻 とっこう 機 き 333機 き を投入 とうにゅう し、420名 めい の搭乗 とうじょう 員 いん を失 うしな い[227] 、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい は210機 き を投入 とうにゅう し、251名 めい の搭乗 とうじょう 員 いん を失 うしな ったが[228] 、それに対 たい して連合 れんごう 軍 ぐん は、特攻 とっこう によりフィリピンだけで、22隻 せき の艦艇 かんてい が沈 しず められ、110隻 せき が撃破 げきは された。これは日本 にっぽん 軍 ぐん の通常 つうじょう 攻撃 こうげき を含 ふく めた航空 こうくう 部隊 ぶたい による全 ぜん 戦果 せんか のなかで、沈没 ちんぼつ 艦 かん で67%、撃破 げきは 艦 かん では81%を占 し めており[229] 、特攻 とっこう は相対 そうたい 的 てき に少 すく ない戦力 せんりょく の消耗 しょうもう で、きわめて大 おお きな成果 せいか をあげたことは明白 めいはく であった[230] 。また、フィリピン戦 せん においてアメリカ海軍 かいぐん の将兵 しょうへい だけで4,336名 めい が戦死 せんし し、830名 めい が再起 さいき 不能 ふのう の重傷 じゅうしょう を負 お ったが、この中 なか の大半 たいはん が特攻 とっこう による損失 そんしつ であった[231] 。特攻 とっこう に痛撃 つうげき を浴 あ びせられたアメリカ軍 ぐん は、アメリカ太平洋艦隊 たいへいようかんたい 司令 しれい チェスター・ニミッツ 元帥 げんすい が、フィリピン戦 せん で特攻 とっこう により被 こうむ った損害 そんがい を見 み て「特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい という攻撃 こうげき 兵力 へいりょく はいまや連合 れんごう 軍 ぐん の侵攻 しんこう を粉砕 ふんさい し撃退 げきたい するために、長 なが い間 あいだ 考 かんが え抜 ぬ いた方法 ほうほう を実際 じっさい に発見 はっけん したかのように見 み え始 はじ めた」 と評価 ひょうか したように特攻 とっこう が大 おお きな脅威 きょうい になると危惧 きぐ したり、特攻 とっこう 機 き による空母 くうぼ 部隊 ぶたい の大 だい 損害 そんがい により、第 だい 38任務 にんむ 部隊 ぶたい 司令 しれい ウィリアム・ハルゼー・ジュニア 提督 ていとく が1944年 ねん 11月11日 にち に計画 けいかく していた艦載 かんさい 機 き による初 はつ の大 だい 規模 きぼ な東京 とうきょう 空襲 くうしゅう は中止 ちゅうし に追 お い込 こ まれ、ハルゼーはこの中止 ちゅうし の判断 はんだん にあたって「少 すく なくとも、(特攻 とっこう に対 たい する)防御 ぼうぎょ 技術 ぎじゅつ が完成 かんせい するまでは 大 だい 兵力 へいりょく による戦局 せんきょく を決定的 けっていてき にするような攻撃 こうげき だけが、自殺 じさつ 攻撃 こうげき に高速 こうそく 空母 くうぼ をさらすことを正当 せいとう 化 か できる」と特攻 とっこう 対策 たいさく の強化 きょうか の検討 けんとう を要求 ようきゅう した[232] 。特攻 とっこう による大 だい 損害 そんがい は大統領 だいとうりょう のルーズベルトの耳 みみ にまで達 たっ し、1945年 ねん 1月 がつ にチャーチルとの会談 かいだん 時 じ に、特攻 とっこう がアメリカ海軍 かいぐん に多大 ただい な人的 じんてき 損失 そんしつ と艦艇 かんてい への損害 そんがい をもたらせていることで非常 ひじょう に憂慮 ゆうりょ していることと、戦争 せんそう の早期 そうき 終結 しゅうけつ は困難 こんなん になるだろうとの懸念 けねん を示 しめ した。特定 とくてい の戦術 せんじゅつ に対 たい してアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう がここまでの懸念 けねん を抱 だ いたとことは極 きわ めて異例 いれい で、それだけ特攻 とっこう がアメリカに与 あた えた衝撃 しょうげき は大 おお きかった[233] 。この後 のち も特攻 とっこう は終戦 しゅうせん まで連合 れんごう 軍 ぐん をくるしめることとなっていく[234] 。
廃墟 はいきょ と化 か したマニラ市街 しがい でアメリカ軍 ぐん に投降 とうこう した日本 にっぽん 軍 ぐん 負傷 ふしょう 兵 へい
1945年 ねん 1月 がつ 4日 にち にマッカーサーは800隻 せき の上陸 じょうりく 艦隊 かんたい と支援 しえん 艦隊 かんたい を率 ひき い、ルソン島 とう のリンガエン 湾 わん を目指 めざ して進撃 しんげき を開始 かいし したが、日本 にっぽん 軍 ぐん の残存 ざんそん 特攻 とっこう 機 き が迎撃 げいげき し、護衛 ごえい 空母 くうぼ オマニー・ベイ を撃沈 げきちん 、戦艦 せんかん ニューメキシコ にも特攻 とっこう 機 き が命中 めいちゅう して、ルソン島 るそんとう 上陸 じょうりく 作戦 さくせん を観戦 かんせん するためニューメキシコに乗艦 じょうかん していたイギリス軍 ぐん ハーバード・ラムズデン (英語 えいご 版 ばん ) 中将 ちゅうじょう が戦死 せんし するなど(ラムズデンは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でのイギリス軍 ぐん 最高 さいこう 階級 かいきゅう の戦死 せんし 者 しゃ )、連合 れんごう 軍 ぐん はルソン島 るそんとう 上陸 じょうりく 前 まえ に大 だい 損害 そんがい を被 こうむ った。ルソン島 るそんとう に上陸 じょうりく したアメリカ軍 ぐん に対 たい して、レイテで戦力 せんりょく を消耗 しょうもう した日本 にっぽん 軍 ぐん は平地 ひらち での決戦 けっせん をさけて、山岳 さんがく 地帯 ちたい での遅滞 ちたい 戦術 せんじゅつ をとることとした。司令 しれい 官 かん の山下 やました は首都 しゅと マニラ を戦闘 せんとう に巻 ま き込 こ まないために防衛 ぼうえい を諦 あきら め、守備 しゅび 隊 たい にも撤退 てったい 命令 めいれい を出 だ したが、陸海 りくかい 軍 ぐん の作戦 さくせん 不 ふ 統一 とういつ でそれは履行 りこう されず、海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい を中心 ちゅうしん とする日本 にっぽん 軍 ぐん 14,000名 めい がマニラに立 た て籠 こ もった。マニラ奪還 だっかん に焦 こげ るマッカーサーは、市内 しない への重砲 じゅうほう による砲撃 ほうげき を許可 きょか し、激 はげ しい市街 しがい 戦 せん の上 うえ で日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は全滅 ぜんめつ し、住宅 じゅうたく 地 ち の80%、工場 こうじょう の75%、商業 しょうぎょう 施設 しせつ はほぼ全 すべ てが破壊 はかい された(マニラの戦 たたか い (1945年 ねん ) )。戦闘 せんとう に巻 ま き込 こ まれたマニラ市民 しみん の犠牲 ぎせい は10万 まん 人 にん にも上 のぼ ったが、その中 なか には日本 にっぽん 兵 へい による残虐 ざんぎゃく 行為 こうい の他 ほか 、アメリカ軍 ぐん が支援 しえん したユサッフェ・ゲリラ とフクバラハップ の犠牲 ぎせい 者 しゃ も含 ふく まれていた。武装 ぶそう ゲリラの跳梁 ちょうりょう に悩 なや む日本 にっぽん 軍 ぐん であったが、ゲリラとその一般 いっぱん 市民 しみん の区別 くべつ がつかず、老若男女 ろうにゃくなんにょ 構 かま わず殺害 さつがい した(マニラ大 だい 虐殺 ぎゃくさつ )。
日本 にっぽん 軍 ぐん はその後 ご も圧倒的 あっとうてき な火力 かりょく のアメリカ軍 ぐん と、数 すう 十 じゅう 万 まん 人 にん にも膨 ふく れ上 あ がったフィリピン・ゲリラに圧倒 あっとう されながら絶望 ぜつぼう 的 てき な戦 たたか いを続 つづ け、ルソン島 るそんとう 山中 さんちゅう に孤立 こりつ することとなり、将兵 しょうへい や軍 ぐん と一緒 いっしょ に山中 さんちゅう に逃 に げ込 こ んだ一般 いっぱん 市民 しみん に大量 たいりょう の餓死 がし 者 しゃ ・病死 びょうし 者 しゃ を出 だ した。一方 いっぽう で
アメリカ軍 ぐん も、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の戦 たたか いの中 なか では最大 さいだい 級 きゅう の人的 じんてき 損害 そんがい となる、戦闘 せんとう での死傷 ししょう 79,104名 めい 、戦 せん 病 びょう や戦闘 せんとう 外 がい での負傷 ふしょう 93,422名 めい [238] [239] [240] という大 おお きな損失 そんしつ を被 こうむ った上 うえ に、何 なに よりもマッカーサーが軍 ぐん の一部 いちぶ と認定 にんてい し多大 ただい な武器 ぶき や物資 ぶっし を援助 えんじょ して、一緒 いっしょ に日本 にっぽん 軍 ぐん と戦 たたか ったフィリピン・ゲリラや、ゲリラを支援 しえん していたフィリピン国民 こくみん の損失 そんしつ は甚大 じんだい であった[242] 。しかし、「アメリカ軍 ぐん 17個 こ 師団 しだん で日本 にっぽん 軍 ぐん 23個 こ 師団 しだん を打 う ち破 やぶ り、日本 にっぽん 軍 ぐん の人的 じんてき 損失 そんしつ と比較 ひかく すると我 わ が方 ほう の損害 そんがい は少 すく なかった」と回顧 かいこ 録 ろく で自賛 じさん するマッカーサーには、フィリピン人民 じんみん の被 こうむ った損失 そんしつ は頭 あたま になかった。
6月28日 にち にマッカーサーはルソン島 るそんとう での戦闘 せんとう の終結 しゅうけつ 宣言 せんげん を行 おこ ない、「アメリカ史上 しじょう もっとも激 はげ しく血 ち なまぐさい戦 たたか いの一 ひと つ(中略 ちゅうりゃく )約 やく 103,475km2 の面積 めんせき と800万 まん 人 にん の人口 じんこう を擁 よう するルソン島 るそんとう 全域 ぜんいき はついに解放 かいほう された」と振 ふ り返 かえ ったが、結局 けっきょく はその後 ご も日本 にっぽん 軍 ぐん の残存 ざんそん 部隊 ぶたい はルソン島 るそんとう の山岳 さんがく 地帯 ちたい で抵抗 ていこう を続 つづ け、アメリカ陸軍 りくぐん 第 だい 6軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) の3個 こ 師団 しだん は終戦 しゅうせん までルソン島 とう に足止 あしど めされることとなった[245] 。その後 ご 、ミンダナオ島 みんだなおとう の戦 たたか い 、ビサヤ諸島 しょとう の戦 たたか い などでも敗北 はいぼく し南方 なんぽう の要衝 ようしょう であるフィリピン全土 ぜんど を失 うしな った日本 にっぽん は、南方 みなかた 資源 しげん 地帯 ちたい との海路 かいろ を断 た たれて、戦争 せんそう 継続 けいぞく 能力 のうりょく が無 な くなるのも時間 じかん の問題 もんだい となった。
フィリピンゲリラに武器 ぶき の使用 しよう 法 ほう を指導 しどう するアメリカ兵 へい 、フィリピンゲリラの多 おお くは実際 じっさい にはアメリカ軍 ぐん 正規 せいき 兵 へい 扱 あつか いであった
フィリピン奪還 だっかん を目指 めざ していたマッカーサーは、この日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい するフィリピン人 じん の反感 はんかん を巧 たく みに利用 りよう し、大量 たいりょう の武器 ぶき を与 あた えてゲリラとして組織 そしき 化 か した。マッカーサーは潜水 せんすい 艦 かん で大量 たいりょう の武器 ぶき を送 おく り込 こ むと、捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ から脱走 だっそう したアメリカ兵 へい にフィリピンゲリラを支援 しえん させたが、重火器 じゅうかき はないものの自動 じどう 小銃 しょうじゅう や短 たん 機関 きかん 銃 じゅう を大量 たいりょう に供給 きょうきゅう されたゲリラの火器 かき 装備 そうび は90%を超 こ えており、支配 しはい 者 しゃ である日本 にっぽん 軍 ぐん より火力 かりょく に優 すぐ れているといった有様 ありさま だった。アメリカ軍 ぐん がレイテ島 れいてとう に上陸 じょうりく する前 まえ には30万 まん 人 にん 以上 いじょう の武装 ぶそう ゲリラが存在 そんざい して日本 にっぽん 軍 ぐん と戦闘 せんとう を開始 かいし しており、日本 にっぽん 軍 ぐん が掌握 しょうあく できていたのはフィリピンのわずか30%に過 す ぎなかった。ゲリラといっても、アメリカ軍 ぐん の指揮 しき ・命令 めいれい を受 う けていたユサッフェはフィリピン人 じん のアメリカ陸軍 りくぐん 正規 せいき 兵 へい であるフィリピン・スカウト (英語 えいご 版 ばん ) と同 おな じ扱 あつか いであって、アメリカ本国 ほんごく から階級 かいきゅう の昇進 しょうしん や任免 にんめん まで行 おこな われていた。マッカーサーは正規 せいき 軍 ぐん であるユサッフェを通常 つうじょう の軍事 ぐんじ 作戦 さくせん に投入 とうにゅう し、アメリカ軍 ぐん が日本 にっぽん 軍 ぐん 前線 ぜんせん に進攻 しんこう すると陣地 じんち 後方 こうほう から攻撃 こうげき させ、空挺 くうてい 部隊 ぶたい が降下 こうか してくるときには事前 じぜん に降下 こうか 地 ち の日本 にっぽん 軍 ぐん を掃討 そうとう させていた。
ただし、正規 せいき 兵 へい 扱 あつか いと言 い っても全員 ぜんいん が軍服 ぐんぷく を着用 ちゃくよう しているのではなく、むしろ一般 いっぱん 市民 しみん に溶 と け込 こ むような活動 かつどう を行 おこな い、またゲリラの支援 しえん 者 しゃ は、アメリカ正規 せいき 軍 ぐん 扱 あつか いではないフクバラハップゲリラを含 ふく めると、国民 こくみん の大 だい 多数 たすう にあたる1,700万 まん 人 にん にも達 たっ していたという推計 すいけい もあって、日本 にっぽん 軍 ぐん にゲリラとその支援 しえん 者 しゃ と一般 いっぱん 市民 しみん を見分 みわ ける手段 しゅだん はなく、ゲリラ討伐 とうばつ として、実際 じっさい のゲリラの他 ほか に無辜 むこ の一般 いっぱん 市民 しみん も大量 たいりょう に虐殺 ぎゃくさつ した。日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし は多 おお くの戦友 せんゆう や一般 いっぱん の邦人 ほうじん をゲリラに殺害 さつがい されており、その報復 ほうふく としてゲリラ討伐 とうばつ が激 はげ しくなっていったという指摘 してき もある。特 とく にマニラの戦 たたか いではアメリカ軍 ぐん とゲリラに追 お い詰 つ められた日本 にっぽん 軍 ぐん が見境 みさかい なく多 おお くのマニラ市民 しみん を虐殺 ぎゃくさつ することとなった。マッカーサーは日本 にっぽん 軍 ぐん のゲリラ討伐 とうばつ を「強力 きょうりょく で無慈悲 むじひ な戦力 せんりょく が野蛮 やばん な手段 しゅだん に訴 うった えた」などと激 はげ しく非難 ひなん したが、その無 む 武装 ぶそう で弱 よわ き者 しゃ を武装 ぶそう させてけしかけたのはマッカーサーであり、また日本 にっぽん 軍 ぐん と戦 たたか ったゲリラの多 おお くが実際 じっさい にはアメリカ正規 せいき 軍 ぐん のようなものであった。戦後 せんご にフィリピンでの虐殺 ぎゃくさつ の罪 つみ を問 と われて戦犯 せんぱん となった第 だい 14方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 山下 やました の裁判 さいばん では、山下 やました の弁護 べんご 側 がわ から、マッカーサーの父 ちち アーサー・マッカーサー・ジュニア がフィリピンのアメリカ軍 ぐん の司令 しれい 官 かん として、米 べい 比 ひ 戦争 せんそう などフィリピンの独立 どくりつ 運動 うんどう を弾圧 だんあつ した時 とき の例 れい を出 だ され「血 ち なまぐさい『フィリピンの反乱 はんらん 』の期間 きかん 、フィリピンを鎮圧 ちんあつ するために、アメリカ人 じん が考案 こうあん し用 もち いられた方法 ほうほう を、日本 にっぽん 軍 ぐん は模倣 もほう したようなものである」「アメリカ軍 ぐん の討伐 とうばつ 隊 たい の指揮 しき 官 かん スミス准 じゅん 将 しょう は「小銃 しょうじゅう を持 も てる者 もの は全 すべ て殺 ころ せ」という命令 めいれい を出 だ した」と指摘 してき されている。しかし、マッカーサーは初 はじ めから山下 やました に全 ぜん 責任 せきにん を押 お し付 つ けようと考 かんが えており、マッカーサーの息 いき のかかった法曹 ほうそう 経験 けいけん が全 まった くない職業 しょくぎょう 軍人 ぐんじん を裁判官 さいばんかん とした典型 てんけい 的 てき なカンガルー法廷 ほうてい (似 に 非 ひ 裁判 さいばん :法律 ほうりつ を無視 むし して行 おこな われる私的 してき 裁判 さいばん )で山下 やました を死刑 しけい に処 しょ した。
インドシナの状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん は、1940年 ねん のドイツによるフランス占領 せんりょう より、親 おや 枢軸 すうじく 的 てき 中立 ちゅうりつ 国 こく のヴィシー政権 せいけん との協定 きょうてい を基 もと にフランス領 りょう インドシナ に進駐 しんちゅう し続 つづ けていたが、前年 ぜんねん の連合 れんごう 軍 ぐん によるフランス解放 かいほう ならびに、自由 じゆう フランス指導 しどう 者 しゃ シャルル・ド・ゴール による、ヴィシー政権 せいけん と日本 にっぽん の間 あいだ の協定 きょうてい の無効 むこう 宣言 せんげん が行 おこな われたことを受 う け、進駐 しんちゅう していた日本 にっぽん 軍 ぐん は3月9日 にち に明 あかり 号 ごう 作戦 さくせん を発動 はつどう 。フランス植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ および駐留 ちゅうりゅう フランス軍 ぐん を武力 ぶりょく によって解体 かいたい し、インドシナを独立 どくりつ させた。なお、この頃 ころ においてもインドシナに駐留 ちゅうりゅう する日本 にっぽん 軍 ぐん は戦闘 せんとう 状態 じょうたい に置 お かれることが少 すく なかくかなりの戦力 せんりょく を維持 いじ していたが、連合 れんごう 国軍 こくぐん も日本 にっぽん 軍 ぐん も互 たが いに目立 めだ った攻撃 こうげき を行 おこな わなかった。
小笠原諸島 おがさわらしょとう 、沖縄 おきなわ への進攻 しんこう 決定 けってい [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 8月 がつ 時点 じてん での連合 れんごう 軍 ぐん の戦略 せんりゃく では、沖縄 おきなわ よりも先 さき に台湾 たいわん を攻略 こうりゃく することが計画 けいかく されていた[253] 。台湾 たいわん を拠点 きょてん とした後 のち に、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく あるいは沖縄 おきなわ のいずれかへ進撃 しんげき することが予定 よてい された。台湾 たいわん の攻略 こうりゃく 作戦 さくせん についてはコーズウェイ作戦 さくせん (Operation Causeway 日本語 にほんご で土手 どて 道 どう のこと) の名 な の下 した に具体 ぐたい 的 てき な検討 けんとう が進 すす められた[254] 。ところが、9月 がつ 中旬 ちゅうじゅん になってレイテ島 れいてとう 上陸 じょうりく の予定 よてい 繰上 くりあ げが決 き まり、フィリピンでの泊地 はくち 確保 かくほ もより早 はや く行 おこな える可能 かのう 性 せい が出 で てくると、アメリカ海軍 かいぐん のニミッツらは台湾 たいわん 攻略 こうりゃく 以外 いがい の選択肢 せんたくし について再 さい 検討 けんとう を始 はじ めた[255] 。アメリカ陸軍 りくぐん も、ルソン島 るそんとう さえ占領 せんりょう すれば台湾 たいわん は無力 むりょく 化 か できると考 かんが えて、台湾 たいわん 攻略 こうりゃく 中止 ちゅうし に同調 どうちょう した[255] 。そして、新 あら たな日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう の拠点 きょてん を求 もと めていたアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん が、台湾 たいわん より日本 にっぽん 本土 ほんど に近 ちか い小笠原諸島 おがさわらしょとう や沖縄 おきなわ 本島 ほんとう がその拠点 きょてん に相応 ふさわ しいと考 かんが え、コーズウェイ作戦 さくせん を中止 ちゅうし し、小笠原諸島 おがさわらしょとう や沖縄 おきなわ 本島 ほんとう を攻略 こうりゃく 目標 もくひょう とすることを提案 ていあん した。陸軍 りくぐん の意見 いけん にアーネスト・キング 海軍 かいぐん 作戦 さくせん 部長 ぶちょう も同意 どうい し、ルソン島 るそんとう 攻略 こうりゃく 後 ご は、より日本 にっぽん 本土 ほんど に近 ちか い小笠原諸島 おがさわらしょとう ついで沖縄 おきなわ の順 じゅん で攻略 こうりゃく することが決定 けってい した[256] 。計画 けいかく では10月 がつ 20日 はつか のレイテ島 れいてとう 上陸 じょうりく 、12月20日 にち のルソン島 るそんとう 上陸 じょうりく 、翌 よく 1945年 ねん 1月 がつ 20日 はつか の硫黄 いおう 島 とう 占領 せんりょう に続 つづ いて、3月1日 にち に沖縄 おきなわ 諸島 しょとう へと上陸 じょうりく することとなった[257] 。
連合 れんごう 国 こく の対 たい 日 にち 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ への模索 もさく [ 編集 へんしゅう ]
ルーズベルト大統領 だいとうりょう は、日本 にっぽん を含 ふく む枢軸 すうじく 国 こく に対 たい して、事前 じぜん に一切 いっさい の条件 じょうけん 交渉 こうしょう を認 みと めない「無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 」を求 もと める構想 こうそう を持 も っており、この方針 ほうしん は1943年 ねん のカサブランカ会談 かいだん で確認 かくにん されていた。
1944年 ねん 10月 がつ 14日 にち 、ルーズベルト大統領 だいとうりょう は日本 にっぽん の降伏 ごうぶく を早 はや めるために駐 ちゅう ソ大使 たいし W・アヴェレル・ハリマン を介 かい してソ連 それん による対 たい 日 にち 参戦 さんせん を促 うなが した[258] 。同 どう 12月 がつ 14日 にち 、ソ連 それん の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ スターリン は武器 ぶき の提供 ていきょう と樺太 からふと (サハリン)南部 なんぶ や千島 ちしま 列島 れっとう の領有 りょうゆう を要求 ようきゅう [259] 、ルーズベルトは千島 ちしま 列島 れっとう をソ連 それん に引 ひ き渡 わた すことを条件 じょうけん に、日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく の一方 いっぽう 的 てき 破棄 はき を促 うなが した。また、このときの武器 ぶき 提供 ていきょう 合意 ごうい はマイルポスト合意 ごうい といい、翌 よく 45年 ねん に米国 べいこく は、中立 ちゅうりつ 国 こく だったソ連 それん の船 ふね を使 つか って日本海 にほんかい を抜 ぬ け、ウラジオストク に80万 まん トンの武器 ぶき 弾薬 だんやく を陸揚 りくあ げした[260] 。翌 よく 1945年 ねん 2月 がつ 4日 にち から11日 にち にかけて、クリミア半島 くりみあはんとう のヤルタ で、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談 かいだん が開 ひら かれた。会議 かいぎ では大戦 たいせん 後 ご の国際 こくさい 秩序 ちつじょ や、またソ連 それん との日本 にっぽん の領土 りょうど 分割 ぶんかつ などについて秘密 ひみつ 協定 きょうてい 「極東 きょくとう 密約 みつやく 」 としてまとめられた[261] 。
1945年 ねん 4月 がつ にルーズベルトが急死 きゅうし すると、後継 こうけい 大統領 だいとうりょう となったハリー・S・トルーマン は日本 にっぽん に対 たい して降伏 ごうぶく 勧告 かんこく を行 おこな う、事実 じじつ 上 じょう の「条件 じょうけん 付 つ き無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 」案 あん を模索 もさく するようになった。
全 ぜん 軍 ぐん 特攻 とっこう の推進 すいしん [ 編集 へんしゅう ]
特攻 とっこう 機 き が突入 とつにゅう し飛行 ひこう 甲板 かんぱん に大穴 おおあな が開 ひら いた空母 くうぼ タイコンデロガ
1945年 ねん 1月 がつ 19日 にち に大本営 だいほんえい は「帝国 ていこく 陸海 りくかい 軍 ぐん 作戦 さくせん 計画 けいかく 大綱 たいこう 」の奏上 そうじょう で、天皇 てんのう に全 ぜん 軍 ぐん 特攻 とっこう 化 か の説明 せつめい を行 おこな い、1945年 ねん 2月 がつ 10日 とおか には第 だい 5航空 こうくう 艦隊 かんたい の編成 へんせい で軍令 ぐんれい 部 ぶ 、連合 れんごう 艦隊 かんたい の指示 しじ ・意向 いこう による特攻 とっこう を主体 しゅたい とした部隊 ぶたい 編成 へんせい が初 はじ めて行 おこな われた。第 だい 五 ご 航空 こうくう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん となった宇垣 うがき 纏 まとい 中将 ちゅうじょう は長官 ちょうかん 訓示 くんじ で全員 ぜんいん 特攻 とっこう の決意 けつい を全 ぜん 艦隊 かんたい に徹底 てってい させた[262] 。フィリピンでの大量 たいりょう 損失 そんしつ で大 だい 打撃 だげき を受 う けていた海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい も再 さい 編成 へんせい が進 すす められ、3月 がつ 上旬 じょうじゅん までに第 だい 5航空 こうくう 艦隊 かんたい 600機 き 、第 だい 3航空 こうくう 艦隊 かんたい 800機 き が準備 じゅんび 可能 かのう と見込 みこ まれていた[263] 。海軍 かいぐん は練習 れんしゅう 機 き で特攻 とっこう を行 おこな う方法 ほうほう の研究 けんきゅう を求 もと め、練習 れんしゅう 機 き 「白菊 しらぎく 」が多数 たすう あることから戦力 せんりょく 化 か が必要 ひつよう と発言 はつげん した[264] 。同年 どうねん 3月 がつ 1日 にち 、海軍 かいぐん 練習 れんしゅう 連合 れんごう 航空 こうくう 総 そう 隊 たい を第 だい 10航空 こうくう 艦隊 かんたい に改編 かいへん し[263] 、特攻隊 とっこうたい 員 いん 訓練 くんれん のため一般 いっぱん 搭乗 とうじょう 員 いん の養成 ようせい 教育 きょういく を5月 がつ 中旬 ちゅうじゅん まで中止 ちゅうし した[265] 。
台湾 たいわん に転進 てんしん した大西 おおにし ら第 だい 1航空 こうくう 艦隊 かんたい は台湾 たいわん でも特攻 とっこう を継続 けいぞく し、1945年 ねん 1月 がつ 18日 にち に「神風 かみかぜ 特攻隊 とっこうたい 新高 にいたか 隊 たい 」が編成 へんせい された。大西 おおにし は「この神風 かみかぜ 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい が出 で て、万 まん 一 いち 負 ま けたとしても、日本 にっぽん は亡国 ぼうこく にならない。これが出 で ないで負 ま けたら真 しん の亡国 ぼうこく になる」と訓示 くんじ した[266] 。1月21日 にち に台湾 たいわん に接近 せっきん してきた第 だい 38任務 にんむ 部隊 ぶたい に対 たい し「神風 かみかぜ 特攻隊 とっこうたい 新高 にいたか 隊 たい 」が出撃 しゅつげき 、少数 しょうすう であったが正規 せいき 空母 くうぼ タイコンデロガ に2機 き の特攻 とっこう 機 き が命中 めいちゅう し、格納庫 かくのうこ の艦載 かんさい 機 き と搭載 とうさい していた魚雷 ぎょらい ・爆 ばく 弾 だん が誘爆 ゆうばく し沈没 ちんぼつ も懸念 けねん されたが、ディクシー・キーファー (英語 えいご 版 ばん ) 艦長 かんちょう が自 みずか らも右手 みぎて が砕 くだ かれるなどの大 だい 怪我 けが を負 お ったが、艦橋 かんきょう 内 ない にマットレスを敷 し き横 よこ になりながら、12時 じ 間 あいだ もの間 あいだ 的確 てきかく なダメージコントロール を指示 しじ し続 つづ け、沈没 ちんぼつ は免 まぬか れた[267] 。
1945年 ねん 2月 がつ 6日 にち に陸軍 りくぐん が沖縄 おきなわ 方面 ほうめん で大 だい 規模 きぼ な航空 こうくう 作戦 さくせん をおこなうことを(大陸 たいりく 指 ゆび 第 だい 2382号 ごう )海軍 かいぐん に提案 ていあん 、当初 とうしょ 海軍 かいぐん は陸軍 りくぐん の提案 ていあん に難色 なんしょく を示 しめ していたが、3月1日 にち に大本営 だいほんえい により陸海 りくかい 軍 ぐん の調整 ちょうせい により「航空 こうくう 作戦 さくせん に関 かん する陸海 りくかい 軍 ぐん 中央 ちゅうおう 協定 きょうてい 」が結 むす ばれ「海軍 かいぐん は敵 てき 機動 きどう 部隊 ぶたい 、陸軍 りくぐん は敵 てき 輸送 ゆそう 船団 せんだん 」を主 おも 攻撃 こうげき 目標 もくひょう とする方針 ほうしん が決 き められ、作戦 さくせん 名 めい は天 てん 号 ごう 作戦 さくせん と名付 なづ けられた。天 てん 号 ごう 作戦 さくせん は敵 てき を迎 むか え撃 う つ海域 かいいき に応 おう じた番号 ばんごう が付 ふ され、沖縄 おきなわ 方面 ほうめん の場合 ばあい は「天 てん 一 いち 号 ごう 作戦 さくせん 」台湾 たいわん 方面 ほうめん は「天 てん 二 に 号 ごう 作戦 さくせん 」東シナ海 ひがししなかい 沿岸 えんがん 方面 ほうめん を「天 てん 三 さん 号 ごう 作戦 さくせん 」海南 かいなん 島 とう 以西 いせい を「天 てん 四 よん 号 ごう 作戦 さくせん 」と呼称 こしょう することとしたが、海軍 かいぐん は次 つぎ に連合 れんごう 軍 ぐん は沖縄 おきなわ に攻 せ めてくる公算 こうさん が大 おお きいと考 かんが えており、3月 がつ 20日 はつか に南西諸島 なんせいしょとう の緊張 きんちょう が高 たか まりつつあるのを受 う けて大本営 だいほんえい 海軍 かいぐん 部 ぶ は「帝国 ていこく 海軍 かいぐん 当面 とうめん 作戦 さくせん 計画 けいかく 要綱 ようこう 」を発令 はつれい し、沖縄 おきなわ での航空 こうくう 決戦 けっせん に舵 かじ をきっていくことになった[268] 。
硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い[ 編集 へんしゅう ]
硫黄 いおう 島 とう に上陸 じょうりく したアメリカ海兵 かいへい 隊 たい
アメリカ軍 ぐん は1944年 ねん 11月より開始 かいし されていたマリアナ諸島 しょとう からのB-29による日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう が、マリアナの飛行場 ひこうじょう から日本 にっぽん 本土 ほんど までの距離 きょり があまりにも遠 とお く、戦闘 せんとう 機 き の護衛 ごえい を付 つ けることができないことや、燃料 ねんりょう の消費 しょうひ を考慮 こうりょ して爆 ばく 弾 だん の搭載 とうさい 量 りょう を抑制 よくせい しなければいけなかったので、期待 きたい していたほどの戦果 せんか を挙 あ げることができていなかった。そこでアメリカ軍 ぐん はマリアナから日本 にっぽん 本土 ほんど の途中 とちゅう にある硫黄 いおう 島 とう を、戦闘 せんとう 機 き や中型 ちゅうがた 爆撃 ばくげき 機 き の出撃 しゅつげき 基地 きち としてだけではなく、B-29の燃料 ねんりょう 補給 ほきゅう 所 しょ や日本 にっぽん 本土 ほんど で損傷 そんしょう したB-29の不時着 ふじちゃく 場 じょう として確保 かくほ することとした。しかし、マッカーサーによるフィリピン侵攻 しんこう に大量 たいりょう の兵力 へいりょく が投入 とうにゅう されたことと、日本 にっぽん 軍 ぐん の頑強 がんきょう な抵抗 ていこう によりフィリピン攻略 こうりゃく が長引 ながび いたことで硫黄 いおう 島 とう への侵攻 しんこう スケジュールは遅 おく れることとなった。
アメリカ軍 ぐん の侵攻 しんこう が遅 おく れる間 あいだ 、硫黄 いおう 島 とう 守備 しゅび 隊 たい の小笠原 おがさわら 兵団 へいだん 司令 しれい 官 かん 栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう 中将 ちゅうじょう は硫黄 いおう 島 とう の徹底 てってい した要塞 ようさい 化 か に着手 ちゃくしゅ 、激 はげ しい空襲 くうしゅう により工事 こうじ の妨害 ぼうがい をしながらも、要塞 ようさい 化 か の進行 しんこう を確認 かくにん していたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 第 だい 56任務 にんむ 部隊 ぶたい 司令 しれい 官 かん ホーランド・スミス 中将 ちゅうじょう は上陸 じょうりく 艦隊 かんたい の第 だい 58任務 にんむ 部隊 ぶたい 司令 しれい 官 かん レイモンド・スプルーアンス 中将 ちゅうじょう に「硫黄 いおう 島 とう は我々 われわれ が今 いま まで占領 せんりょう しなければならなかった島 しま の中 なか で、一番 いちばん 堅固 けんご な島 しま でしょう。なぜあの島 しま をとりたいというのかわかりませんが、とることはとりましょう」と悲観 ひかん 的 てき に語 かた っており、スプルーアンスは作戦 さくせん の先行 さきゆ きに不安 ふあん を感 かん じている。
日本 にっぽん 軍 ぐん も硫黄 いおう 島 とう がアメリカ軍 ぐん の手 て に落 お ちた場合 ばあい の影響 えいきょう の重大 じゅうだい 性 せい を痛感 つうかん しており、硫黄 いおう 島 とう を爆破 ばくは して海 うみ 没 ぼっ させるという珍 ちん 案 あん が真面目 まじめ に検討 けんとう されたこともあったが、莫大 ばくだい な爆薬 ばくやく が必要 ひつよう であることから断念 だんねん し、守備 しゅび する小笠原 おがさわら 兵団 へいだん の強化 きょうか を図 はか った。栗林 くりばやし は要塞 ようさい 化 か した硫黄 いおう 島 とう で徹底 てってい した持久 じきゅう 戦 せん を将兵 しょうへい に命 めい じ、「我 わが 等 ひとし ハ敵 てき 十 じゅう 人 にん ヲ斃サザレバ死 し ストモ死 し セズ」「我 わが 等 ひとし ハ最後 さいご ノ一人 ひとり トナルモ「ゲリラ」ニ依 よ ツテ敵 てき ヲ悩マサン」などと戦闘 せんとう 方針 ほうしん を定 さだ めた栗林 くりばやし 自 みずか ら起草 きそう がした『敢闘 かんとう ノ誓 ちかい 』を硫黄 いおう 島 とう 守備 しゅび 隊 たい 全員 ぜんいん に配布 はいふ している。
アメリカ軍 ぐん は入念 にゅうねん な爆 ばく 撃 げき と艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を加 くわ えたのちに硫黄 いおう 島 とう に上陸 じょうりく してきたが、巧 たく みに構築 こうちく された日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち は殆 ほとん ど損害 そんがい を受 う けておらず日本 にっぽん 軍 ぐん の攻撃 こうげき の前 まえ に海岸 かいがん 線 せん に貼 は り付 づ けとなって多大 ただい な損害 そんがい を被 こうむ った。作戦 さくせん 初日 しょにち に硫黄 いおう 島 とう に上陸 じょうりく できたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は30,000人 にん であったがそのうち2,400人 にん が戦死 せんし していた。日本 にっぽん 軍 ぐん は硫黄 いおう 島 とう を空 そら から支援 しえん するため、神風 かみかぜ 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい 「第 だい 2御 ご 盾 たて 隊 たい 」を出撃 しゅつげき させた。32機 き と少数 しょうすう であったが、護衛 ごえい 空母 くうぼ ビスマーク・シー を撃沈 げきちん 、正規 せいき 空母 くうぼ サラトガ に5発 はつ の命中 めいちゅう 弾 だん を与 あた えて大破 たいは させた他 ほか 、キーオカック(防潜網 ぼうせんもう 輸送 ゆそう 船 せん ) (英語 えいご 版 ばん ) など数 すう 隻 せき を損傷 そんしょう させる戦果 せんか を挙 あ げた。特攻 とっこう によるアメリカ軍 ぐん の被害 ひがい は硫黄 いおう 島 とう からも目視 もくし でき、第 だい 27航空 こうくう 戦隊 せんたい 司令 しれい 官 かん 市丸 いちまる 利之 としゆき 助 すけ 少将 しょうしょう が「敵艦 てきかん 船 せん に対 たい する勇敢 ゆうかん な特別 とくべつ 攻撃 こうげき により硫黄 いおう 島 とう 守備 しゅび 隊員 たいいん の士気 しき は鼓舞 こぶ された」「必勝 ひっしょう を確信 かくしん 敢闘 かんとう を誓 ちかい あり」と打電 だでん している[275] 。
その後 ご も摺鉢山 すりばちやま を巡 めぐ っての激戦 げきせん などで、両 りょう 軍兵 ぐんびょう 士 し は互 たが いに多大 ただい な損害 そんがい を被 こうむ りながら激戦 げきせん を続 つづ けたが、当初 とうしょ 5日 にち で攻略 こうりゃく 予定 よてい であったアメリカ軍 ぐん を1か月 げつ 以上 いじょう も足止 あしど めした栗林 くりばやし は、3月26日 にち に残存 ざんそん 兵 へい 約 やく 400人 にん とともにアメリカ軍 ぐん に夜襲 やしゅう を敢行 かんこう して戦死 せんし した。日本 にっぽん 軍 ぐん は21,000人 にん の守備 しゅび 隊 たい のうち20,000人 にん が戦死 せんし したが、アメリカ軍 ぐん は28,000人 にん が死傷 ししょう し人的 じんてき 損失 そんしつ はアメリカ軍 ぐん が上回 うわまわ った。甚大 じんだい な損害 そんがい を被 こうむ ったこの戦 たたか いについて、アメリカ側 がわ の軍事 ぐんじ 的 てき な評価 ひょうか は厳 きび しいものとなり、政治 せいじ 学者 がくしゃ 五 ご 百 ひゃく 籏頭真 しん は戦後 せんご にアメリカの公文書 こうぶんしょ を調査 ちょうさ していた際 さい に、硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いとこの後 のち の沖縄 おきなわ 戦 せん については、アメリカの方 ほう が敗者 はいしゃ 意識 いしき を持 も っている事 こと に驚 おどろ いている。
甚大 じんだい な損害 そんがい を被 こうむ りながらも攻略 こうりゃく した硫黄 いおう 島 とう の戦略 せんりゃく 的 てき 価値 かち は非常 ひじょう に高 たか く、まだ日本 にっぽん アメリカ両 りょう 軍 ぐん が戦闘 せんとう 中 ちゅう であった1945年 ねん 3月 がつ 4日 にち に最初 さいしょ のB-29が硫黄 いおう 島 とう に緊急 きんきゅう 着陸 ちゃくりく すると、その後 ご も終戦 しゅうせん までに延 の べ2,251機 き のB-29が硫黄 いおう 島 とう に緊急 きんきゅう 着陸 ちゃくりく し、約 やく 25,000人 にん の搭乗 とうじょう 員 いん を救 すく うことになった。また、P-51D を主力 しゅりょく とする第 だい 7戦闘 せんとう 機 き 集団 しゅうだん が硫黄 いおう 島 とう に進出 しんしゅつ し、B-29の護衛 ごえい についたり、日本 にっぽん 軍 ぐん 飛行場 ひこうじょう を襲撃 しゅうげき したりしたため、日本 にっぽん 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き によるB-29の迎撃 げいげき は大 おお きな制約 せいやく を受 う けることとなった。一方 いっぽう で日本 にっぽん 軍 ぐん は、マリアナ諸島 しょとう への攻撃 こうげき の前進 ぜんしん 基地 きち だけでなく、日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう への防空 ぼうくう 監視 かんし 拠点 きょてん をも失 うしな うこととなって、いよいよ戦局 せんきょく の悪化 あっか に歯止 はど めがかからなくなっていった。
東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう と都市 とし への無 む 差別 さべつ 爆 ばく 撃 げき の激化 げきか [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 3月 がつ 10日 とおか の空襲 くうしゅう で焼 や け野原 のはら となった東京 とうきょう
第 だい 21爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん ヘイウッド・ハンセル 准 じゅん 将 しょう による初 はつ の東京 とうきょう 空襲 くうしゅう から1945年 ねん 2月 がつ 10日 とおか までの16回 かい に及 およ ぶマリアナ諸島 しょとう からの日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう で、アメリカ軍 ぐん は合計 ごうけい 78機 き のB-29を失 うしな っていたが[280] 、期待 きたい していた戦果 せんか を挙 あ げることはできずハンセルは更迭 こうてつ された。アーノルドは信頼 しんらい していたルメイをハンセルの後任 こうにん としたが、ルメイもあがらぬ戦果 せんか と予想 よそう 外 がい の損失 そんしつ に頭 あたま を悩 なや ませていた。信頼 しんらい していたルメイも結果 けっか を出 だ せないことに業 ごう を煮 に やしたアーノルドは「やってみろ。B-29で結果 けっか を出 しゅっ せ。結果 けっか が出 で なかったら、君 きみ はクビだ」「結果 けっか が出 で なかったら、最終 さいしゅう 的 てき に大 だい 規模 きぼ な日本 にっぽん 上陸 じょうりく 侵攻 しんこう になり、さらに50万 まん 人 にん のアメリカ人 じん の命 いのち が犠牲 ぎせい になるかも知 し れんのだ」と激 はげ しい言葉 ことば で叱咤 しった した。アーノルドに叱咤 しった されたルメイは大胆 だいたん な作戦 さくせん 方針 ほうしん の変更 へんこう を行 おこな うこととした。爆 ばく 撃 げき 高度 こうど を思 おも い切 き って高度 こうど 1500m~3000mの低 てい 高度 こうど に下 さ げることにし、これまでの白昼 はくちゅう の空襲 くうしゅう ではなく、夜間 やかん に空襲 くうしゅう することによって爆 ばく 撃 げき 高度 こうど を下 さ げても損失 そんしつ 率 りつ は上 あ がらないと判断 はんだん した。使用 しよう する爆 ばく 弾 だん は日本 にっぽん の市街地 しがいち を焼 や き払 はら うために開発 かいはつ されたM69焼夷弾 しょういだん としたが、搭載 とうさい されたナパーム (ゲル化 か ガソリン)の火力 かりょく は凄 すさ まじく、木造 もくぞう 建造 けんぞう 物 ぶつ が多 おお い日本 にっぽん に最適 さいてき の焼夷弾 しょういだん と認定 にんてい されていた。
ルメイの新 しん 戦術 せんじゅつ の最初 さいしょ の作戦 さくせん は3月 がつ 10日 とおか の東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう となった。325機 き のB-29は3月 がつ 9日 にち の午後 ごご 5時 じ 15分 ふん にマリアナ諸島 しょとう のアメリカ軍 ぐん 基地 きち を出撃 しゅつげき すると、3月 がつ 10日 とおか の午前 ごぜん 0時 じ 5分 ふん に第 だい 一 いち 弾 だん を投下 とうか した。空襲 くうしゅう はルメイの計画 けいかく 通 どお り大 だい 成功 せいこう となり、たった一 いち 晩 ばん で83,000人 にん の住民 じゅうみん が死亡 しぼう し、26万 まん 戸 こ の家屋 かおく が焼失 しょうしつ したが、他 た の焼夷弾 しょういだん 爆撃 ばくげき と桁違 けたちが いの被害 ひがい をもたらせた最大 さいだい の原因 げんいん は関東大震災 かんとうだいしんさい のさいにも発生 はっせい した火災 かさい 旋風 せんぷう が大 だい 規模 きぼ に発生 はっせい したためであった。東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう からわずか10日間 にちかん の間 あいだ に、ルメイは名古屋 なごや 、大阪 おおさか 、神戸 こうべ などの大都市 だいとし に延 の べ1,595機 き のB-29を出撃 しゅつげき させたが、この機 き 数 すう はそれまでマリアナから日本 にっぽん 本土 ほんど を爆撃 ばくげき した延 の べ機 き 数 すう の3倍 ばい の数 かず であり、投下 とうか した9,365トンという爆 ばく 弾 だん の量 りょう も、3月9日 にち までに投下 とうか した爆 ばく 弾 だん 量 りょう の3倍 ばい となった。日本 にっぽん の都市 とし が焼夷弾 しょういだん 攻撃 こうげき に極 きわ めて脆 もろ いことが実証 じっしょう され、東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう を境 さかい にして対 たい 日 にち 戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき の様相 ようそう は一変 いっぺん してしまった。
あらゆる性能 せいのう で日本 にっぽん 軍機 ぐんき を圧倒 あっとう していたB-29の迎撃 げいげき に日本 にっぽん 軍 ぐん は苦戦 くせん し、日本 にっぽん 本土 ほんど の各 かく 都市 とし は次第 しだい に焦土 しょうど と化 か していった。それでも日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう で失 うしな われたB-29は485機 き にも及 およ び、1945年 ねん 5月 がつ 25日 にち (爆 ばく 撃 げき は翌 よく 26日 にち の未明 みめい まで)の東京 とうきょう 市街地 しがいち に対 たい する夜間 やかん 無差別 むさべつ 爆 ばく 撃 げき では、日本 にっぽん 軍 ぐん は大量 たいりょう の陸海 りくかい 軍 ぐん 迎撃 げいげき 機 き を出撃 しゅつげき させたうえ、合計 ごうけい 14,476発 はつ の高射 こうしゃ 砲弾 ほうだん を浴 あ びせて、B-29合計 ごうけい 47機 き 撃墜 げきつい を記録 きろく している。一方 いっぽう 、アメリカ軍 ぐん の公式 こうしき 記録 きろく ではこの日 ひ のB-29の損失 そんしつ は26機 き となっており、日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう で1日 にち に失 うしな われた機 き 数 すう としては最悪 さいあく のものとなって、その損害 そんがい を聞 き かされたB-29の搭乗 とうじょう 員 いん は恐 おそ れをなしている。
戦後 せんご に日本 にっぽん とドイツに対 たい する戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき の効果 こうか を調査 ちょうさ した米国 べいこく 戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき 調査 ちょうさ 団 だん が出 だ した結論 けつろん は、日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう でのB-29の損失 そんしつ は、第 だい 8空軍 くうぐん がドイツ本土 ほんど 爆 ばく 撃 げき で被 こうむ った損失 そんしつ の1/3であり、日本 にっぽん の警戒 けいかい システムと迎撃 げいげき 地上 ちじょう 管制 かんせい システムはドイツ軍 ぐん と比較 ひかく して“poor”(貧弱 ひんじゃく )だったと評 ひょう された。
日本 にっぽん の防空 ぼうくう システムが“poor”だった要因 よういん としては下記 かき を指摘 してき している。
日本 にっぽん の戦争 せんそう 指導 しどう 者 しゃ たちが、連合 れんごう 軍 ぐん による空襲 くうしゅう の危険 きけん 性 せい を十分 じゅうぶん に認識 にんしき せず、防空 ぼうくう システムの整備 せいび を優先 ゆうせん しなかった
フィリピン作戦 さくせん 中 ちゅう は、日本 にっぽん 軍 ぐん 航空 こうくう 部隊 ぶたい は連合 れんごう 軍 ぐん の北上 ほくじょう を止 と めるために使用 しよう され、それ以降 いこう は本土 ほんど 上陸 じょうりく に対 たい する防衛 ぼうえい が優先 ゆうせん された
対 たい 上陸 じょうりく 部隊 ぶたい として使用 しよう するため、航空機 こうくうき と搭乗 とうじょう 員 いん は温存 おんぞん されて、日本 にっぽん 空軍 くうぐん は常 つね に作戦 さくせん 可能 かのう な戦闘 せんとう 機 き の30%未満 みまん しか本土 ほんど 防空 ぼうくう に使用 しよう しなかった
また、ドイツ本土 ほんど 爆 ばく 撃 げき で使用 しよう されたB-17 及 およ びB-24 と比較 ひかく するとB-29は高性能 こうせいのう であり、それを使 つか いこなしたのも日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう が成功 せいこう した大 おお きな要因 よういん となったとも指摘 してき している[294] 。しかし、日本 にっぽん 軍 ぐん も貧弱 ひんじゃく な防空 ぼうくう 体制 たいせい ながら健闘 けんとう し、作戦 さくせん 従事 じゅうじ 機 き 数 すう に対 たい する損失 そんしつ 率 りつ で比較 ひかく すれば、ドイツ本土 ほんど 空襲 くうしゅう でのB-17とB-24の損失 そんしつ 率 りつ が1.60%なのに対 たい して、日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう でのB-29の損失 そんしつ 率 りつ は1.32%であった[295] 。
6月18日 にち 、最前線 さいぜんせん を視察 しさつ する沖縄 おきなわ 上陸 じょうりく 連合 れんごう 軍 ぐん 部隊 ぶたい 最高 さいこう 指揮 しき 官 かん サイモン・B・バックナー・ジュニア 中将 ちゅうじょう (右 みぎ )。この直後 ちょくご 、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 速射 そくしゃ 砲 ほう の攻撃 こうげき を受 う け戦死 せんし 。
連合 れんごう 軍 ぐん は日本 にっぽん 上陸 じょうりく の前提 ぜんてい として沖縄諸島 おきなわしょとう に戦線 せんせん を進 すす め、沖縄 おきなわ 本島 ほんとう への上陸 じょうりく 作戦 さくせん を行 おこな う(沖縄 おきなわ 戦 せん )。連合 れんごう 軍 ぐん は陸海空 りくかいくう で第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう で最大 さいだい 級 きゅう の戦力 せんりょく を投入 とうにゅう し[296] 、守 まも る日本 にっぽん 軍 ぐん も地上 ちじょう では牛島 うしじま 満 みつる 中将 ちゅうじょう 率 ひき いる第 だい 32軍 ぐん を主力 しゅりょく とし、ひめゆり部隊 ぶたい や鉄血 てっけつ 勤皇 きんのう 隊 たい など多数 たすう の沖縄 おきなわ の民間 みんかん 人 じん をも動員 どういん 、海上 かいじょう では戦艦 せんかん 「大和 やまと 」以下 いか 残存 ざんそん の可動 かどう 艦艇 かんてい 、空 そら からは、大戦 たいせん 末期 まっき にも関 かか わらず、太平洋戦争 たいへいようせんそう 開戦 かいせん 以来 いらい 最大 さいだい 級 きゅう の航空 こうくう 戦力 せんりょく を投入 とうにゅう して連合 れんごう 軍 ぐん に対抗 たいこう した(菊水 きくすい 作戦 さくせん )。特 とく に特攻 とっこう 機 き に対 たい してはフィリピンと同様 どうよう に連合 れんごう 軍 ぐん 艦隊 かんたい は痛撃 つうげき を被 こうむ り、アメリカ海軍 かいぐん は損害 そんがい を少 すこ しでも軽減 けいげん するため、海軍 かいぐん 作戦 さくせん 部長 ぶちょう の アーネスト・キング がアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん アーノルドに対 たい し「陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい が海軍 かいぐん を支援 しえん しなければ、海軍 かいぐん は沖縄 おきなわ から撤退 てったい する。陸軍 りくぐん は自分 じぶん らで防御 ぼうぎょ と補給 ほきゅう をすることになる」と脅迫 きょうはく し[297] 、ルメイは渋々 しぶしぶ B-29を戦術 せんじゅつ 爆 ばく 撃 げき 任務 にんむ に回 まわ すこととしている[298] 。
4月 がつ 上旬 じょうじゅん から約 やく 1か月 げつ 半 はん の間 あいだ 、延 の べ2,000機 き のB-29が特攻 とっこう の発進 はっしん 基地 きち となっていた九州 きゅうしゅう の飛行場 ひこうじょう の攻撃 こうげき に投入 とうにゅう され、その間 あいだ 日本 にっぽん 内地 ないち の大都市 だいとし は空襲 くうしゅう の被害 ひがい が軽減 けいげん されている[299] 。大都市 だいとし への空襲 くうしゅう を取 と りやめてまで行 い った特攻 とっこう 機 き 対策 たいさく であったが、日本 にっぽん 軍 ぐん が巧 たく みに特攻 とっこう 機 き を隠匿 いんとく したため、B-29は飛行場 ひこうじょう 施設 しせつ を破壊 はかい しただけで、特攻 とっこう 機 き に大 おお きな損害 そんがい を与 あた えることができず、特攻 とっこう によるアメリカ海軍 かいぐん の損害 そんがい はさらに拡大 かくだい していった。B-29の働 はたら きに失望 しつぼう した第 だい 5艦隊 かんたい 司令 しれい レイモンド・スプルーアンス 中将 ちゅうじょう は「彼 かれ ら(陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん )は砂糖 さとう 工場 こうじょう や鉄道 てつどう の駅 えき や機材 きざい をおおいに壊 こわ してくれた」と皮肉 ひにく を言 い い、5月 がつ 中旬 ちゅうじゅん にはルメイへの支援 しえん 要請 ようせい を取 と り下 さ げて、B-29は大都市 だいとし や産業 さんぎょう への戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき 任務 にんむ に復帰 ふっき している[300] 。アメリカ海軍 かいぐん は沖縄 おきなわ 戦 せん で艦船 かんせん 沈没 ちんぼつ 36隻 せき 、損傷 そんしょう 368隻 せき 、艦上 かんじょう での戦死 せんし 者 しゃ は4,907名 めい 、負傷 ふしょう 者 しゃ 4,824名 めい という甚大 じんだい な損害 そんがい を被 こうむ ったが、その大 だい 部分 ぶぶん は1,895機 き も投入 とうにゅう された航空 こうくう 特攻 とっこう による損害 そんがい で、アメリカ海軍 かいぐん 史上 しじょう 単一 たんいつ の作戦 さくせん で受 う けた損害 そんがい としては最悪 さいあく のものとなっている。アメリカ軍 ぐん も公式 こうしき 報告 ほうこく 書 しょ で「十分 じゅうぶん な訓練 くんれん も受 う けていないパイロットが旧式 きゅうしき 機 き を操縦 そうじゅう しても、集団 しゅうだん 特攻 とっこう 攻撃 こうげき が水上 すいじょう 艦艇 かんてい にとって非常 ひじょう に危険 きけん であることが沖縄 おきなわ 戦 せん で証明 しょうめい された。終戦 しゅうせん 時 じ でさえ、日本 にっぽん 本土 ほんど に接近 せっきん する侵攻 しんこう 部隊 ぶたい に対 たい し、日本 にっぽん 空軍 くうぐん が特攻 とっこう 攻撃 こうげき によって重大 じゅうだい な損害 そんがい を与 あた える能力 のうりょく を有 ゆう していた事 こと は明白 めいはく である。」と総括 そうかつ している。
陸上 りくじょう では、第 だい 32軍 ぐん 高級 こうきゅう 参謀 さんぼう 八原 やはら 博 はく 通 どおり 大佐 たいさ による戦略 せんりゃく 持久 じきゅう 作戦 さくせん で、徹底 てってい した陣地 じんち 構築 こうちく による防衛 ぼうえい 戦 せん が展開 てんかい されて、高度 こうど に要塞 ようさい 化 か された日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち を攻 せ めあぐねた連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ は多大 ただい な損害 そんがい を被 こうむ った。堅固 けんご な陣地 じんち に立 た て籠 こ もる日本 にっぽん 軍 ぐん は「鉄 てつ の暴風 ぼうふう (英 えい : Typhoon of Steel)」とも評 ひょう された連合 れんごう 軍 ぐん の物量 ぶつりょう に物 もの を言 い わせた激 はげ しい砲 ほう 爆撃 ばくげき にも耐 た えていたが、やがて「一撃 いちげき 講和 こうわ 」を狙 ねら って連合 れんごう 軍 ぐん に局地 きょくち 的 てき な勝利 しょうり を収 おさ めたいとする大本営 だいほんえい の横 よこ やりによって、連合 れんごう 軍 ぐん に対 たい して反撃 はんげき に出 で ることとなった。しかし、陣地 じんち を飛 と び出 だ した日本 にっぽん 軍 ぐん は、連合 れんごう 軍 ぐん の圧倒的 あっとうてき な火力 かりょく の前 まえ に大 だい 損害 そんがい を被 こうむ って撃退 げきたい され、反撃 はんげき は失敗 しっぱい に終 お わって無駄 むだ に戦力 せんりょく を消耗 しょうもう させただけとなった[305] 。その後 ご は八原 やはら の方針 ほうしん 通 どお り持久 じきゅう 作戦 さくせん を続 つづ け、6月23日 にち に牛島 うしじま が自決 じけつ して日本 にっぽん 軍 ぐん の組織 そしき 的 てき な抵抗 ていこう が終 お わるまでに、アメリカ軍 ぐん 側 がわ は死者 ししゃ ・行方 ゆくえ 不明 ふめい 者 しゃ 20,195人 にん を出 だ したが、これは1944年 ねん 12月に戦 たたか われた、西部 せいぶ 戦線 せんせん 最大 さいだい の激戦 げきせん の1つであるバルジの戦 たたか い の戦死 せんし 者 しゃ 最大 さいだい 約 やく 19,000人 にん を上回 うわまわ るものであり[306] 、戦傷 せんしょう 者 しゃ 55,162人 にん [307] 、戦闘 せんとう 外傷 がいしょう 病者 びょうしゃ 26,211人 にん [308] を加 くわ えた人的 じんてき 損失 そんしつ は実 じつ に投入 とうにゅう 兵力 へいりょく の39%という高水準 こうすいじゅん に達 たっ したため[309] 、ハリー・S・トルーマン 大統領 だいとうりょう らアメリカの戦争 せんそう 指導 しどう 者 しゃ たちはあまりにも甚大 じんだい な損害 そんがい に大 おお きな衝撃 しょうげき を受 う けて、のちの日本 にっぽん 本土 ほんど 侵攻 しんこう 作戦 さくせん 「ダウンフォール作戦 さくせん 」の方針 ほうしん 決定 けってい に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼした[310] 。
一方 いっぽう で日本 にっぽん 側 がわ も8万 まん 人 にん の兵士 へいし が戦死 せんし したほか、沖縄 おきなわ 県民 けんみん に約 やく 12万 まん 人 にん の犠牲 ぎせい が出 で た(うち3万 まん 人 にん は現地 げんち 召集 しょうしゅう 兵 へい )。戦闘 せんとう に巻 ま き込 こ まれた沖縄 おきなわ の一般 いっぱん 住民 じゅうみん は、連合 れんごう 軍 ぐん の砲 ほう 爆 ばく 撃 げき などで殺害 さつがい されることが多 おお かったが、なかには読谷 よみたん 村 むら のチビチリガマ の事例 じれい のような集団 しゅうだん 自決 じけつ や、久米島 くめじま 守備 しゅび 隊 たい 住民 じゅうみん 虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん や渡 わたり 野 の 喜 き 屋 や 事件 じけん のように日本 にっぽん 軍 ぐん に殺害 さつがい されることもあった。日本 にっぽん 軍 ぐん の方針 ほうしん は『帝国 ていこく 陸海 りくかい 軍 ぐん 作戦 さくせん 計画 けいかく 大綱 たいこう 』によれば、「南 みなみ 千 せん 島 とう 、小笠原諸島 おがさわらしょとう (硫黄 いおう 島 とう ヲ含ム)沖縄 おきなわ 本島 ほんとう 以南 いなん ノ南西諸島 なんせいしょとう 、台湾 たいわん 及上海 しゃんはい 附近 ふきん 」を「皇 すめらぎ 土 ど 防衛 ぼうえい ノ為 ため 、縦 たて 深 ふか 作戦 さくせん 遂行 すいこう 上 じょう ノ前 ぜん 縁 えん 」と位置 いち づけ、「右前 みぎまえ 縁 えん 地帯 ちたい ノ一部 いちぶ ニ於テ状況 じょうきょう 真 ま ニ止 とめ ムヲ得 とく ズ敵 てき ノ上陸 じょうりく ヲ見 み ル場合 ばあい ニ於テモ極力 きょくりょく 敵 てき ノ出血 しゅっけつ 消耗 しょうもう ヲ図 ず リ且敵航空 こうくう 基盤 きばん 造成 ぞうせい ヲ妨害 ぼうがい ス」としており、沖縄 おきなわ は硫黄 いおう 島 とう などと同様 どうよう に、日本 にっぽん 本土 ほんど の前 ぜん 縁 えん として敵 てき の出血 しゅっけつ ・消耗 しょうもう を強 し いる防波堤 ぼうはてい と想定 そうてい していた。沖縄 おきなわ 戦 せん における日本 にっぽん 軍 ぐん の作戦 さくせん は、これをもって「捨 す て石 いし 作戦 さくせん 」と呼 よ ばれており[311] 、住民 じゅうみん 保護 ほご よりは持久 じきゅう 作戦 さくせん を優先 ゆうせん した日本 にっぽん 軍 ぐん の方針 ほうしん に対 たい して、甚大 じんだい な被害 ひがい を被 こうむ った沖縄 おきなわ では今 いま でも「軍隊 ぐんたい は住民 じゅうみん を守 まも らない」との批判 ひはん が根強 ねづよ い[312] 。
終戦 しゅうせん への迷走 めいそう [ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ 神宮 じんぐう を参拝 さんぱい する鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく 閣僚 かくりょう 、先頭 せんとう から順 じゅん に総理 そうり 大臣 だいじん 鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 、海軍 かいぐん 大臣 だいじん 米内 よない 光政 みつまさ 、陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 阿南 あなみ 惟幾 これちか
日本 にっぽん においても、政府 せいふ 内外 ないがい で和平 わへい 派 は による活動 かつどう が活発 かっぱつ となっていた。近衛 このえ 上奏 じょうそう 文 ぶん による終戦 しゅうせん 策 さく を進 すす めていた外交 がいこう 官 かん 吉田 よしだ 茂 しげる (元 もと 駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし )が憲兵 けんぺい 隊 たい に拘束 こうそく されるということもあった。しかし、まだ政府 せいふ 内 ない で終戦 しゅうせん に関 かん する議論 ぎろん は進 すす んでおらず、東西 とうざい から激 はげ しく攻 せ め込 こ まれているナチス・ドイツの命運 めいうん を固唾 かたず を呑 の んで見守 みまも っている状況 じょうきょう であった。しかし、ベルリン にソ連 それん 赤軍 せきぐん が突入 とつにゅう してベルリンの戦 たたか い が始 はじ まり、5月8日 にち にナチス・ドイツが連合 れんごう 国 こく に降伏 ごうぶく し、イタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく も消滅 しょうめつ したことで、ついに日本 にっぽん は一 いち 国 こく でイギリス、アメリカ、オランダ、中華民国 ちゅうかみんこく 、オーストラリアなどの連合 れんごう 国 こく と対峙 たいじ することになった(「欧州 おうしゅう 戦線 せんせん における終戦 しゅうせん (第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ) 」参照 さんしょう )。この状況 じょうきょう に至 いた っても、陸軍 りくぐん を中心 ちゅうしん とする徹底 てってい 抗戦 こうせん 派 は は、「神洲 しんしゅう 不敗 ふはい 」をスローガンに本土 ほんど 決戦 けっせん を掲 かか げて一 いち 億 おく 玉砕 ぎょくさい を唱 とな えた。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )4月 がつ に、戦争 せんそう 終結 しゅうけつ を胸 むね に秘 ひ めて総理 そうり 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう の鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう (元 もと 侍従 じじゅう 長 ちょう 、元 もと 海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部長 ぶちょう )も徹底 てってい 抗戦 こうせん 派 は の強硬 きょうこう な姿勢 しせい に即時 そくじ 講和 こうわ を主張 しゅちょう することはできず、連合 れんごう 軍 ぐん に決戦 けっせん を挑 いど み大 だい 損害 そんがい を与 あた えて有利 ゆうり な条件 じょうけん で連合 れんごう 軍 ぐん と講和 こうわ するという「一撃 いちげき 講和 こうわ 」に期待 きたい をかけており、それは昭和 しょうわ 天皇 てんのう も同様 どうよう であった。
しかし、沖縄 おきなわ 戦 せん の命運 めいうん が決 けっ すると、決戦 けっせん 地 ち を沖縄 おきなわ と考 かんが えていた昭和 しょうわ 天皇 てんのう と鈴木 すずき は「一撃 いちげき 講和 こうわ 」すら困難 こんなん なことを思 おも い知 し らされ、表向 おもてむ きはドイツ降伏 ごうぶく 直後 ちょくご の5月 がつ 9日 にち に「帝國 ていこく と盟 めい を一 いち にせる独逸 どいつ の降伏 ごうぶく は帝國 ていこく の衷心 ちゅうしん より遺憾 いかん とするところなり、帝國 ていこく の戦争 せんそう 目的 もくてき はもとよりその自存 じそん と自衛 じえい とに存 そん す、是 ぜ れ帝國 ていこく の不動 ふどう の信念 しんねん にして歐州 おうしゅう 戦局 せんきょく の急変 きゅうへん は帝國 ていこく の戦争 せんそう 目的 もくてき に寸毫 すんごう の変化 へんか を与 あた えるものに非 ひ ず、帝國 ていこく は東亜 とうあ の盟邦 めいほう と共 とも に東亜 とうあ を自己 じこ の慾 よく 意 い と暴力 ぼうりょく との下 した に蹂躙 じゅうりん せんとする米 べい 英 えい の非望 ひぼう に対 たい しあくまでも之 これ を破摧 はさい しもつて東亜 とうあ の安定 あんてい を確保 かくほ せんことを期 き す」とする戦争 せんそう 遂行 すいこう の政府 せいふ 声明 せいめい を出 だ したものの、裏 うら では昭和 しょうわ 天皇 てんのう が内大臣 ないだいじん 木戸 きど 幸一 こういち に、「鈴木 すずき は講和 こうわ の条件 じょうけん などについては弱 よわ い。木戸 きど はどう考 かんが えるか。軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ については、何 なに とか3,000人 にん とか5,000人 にん の軍隊 ぐんたい を残 のこ せるよう話 ばなし ができないものだろうか」と講和 こうわ を進 すす めるよう打診 だしん している。昭和 しょうわ 天皇 てんのう は6月 がつ 9日 にち に、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の視察 しさつ から帰 かえ ってきた参謀 さんぼう 総長 そうちょう 梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう から、「在 ざい 満 まん 洲 しゅう と在中 ざいちゅう 国 こく の戦力 せんりょく は、アメリカ陸軍 りくぐん 師団 しだん に換算 かんさん して4個 こ 師団 しだん 程度 ていど の戦力 せんりょく しかなく、弾薬 だんやく も近代 きんだい 戦 せん であれば1会戦 かいせん 分 ぶん ぐらいしかない」という報告 ほうこく を受 う け「日本 にっぽん 内地 ないち の部隊 ぶたい は在 ざい 満 まん 部隊 ぶたい より遙 はる かに戦力 せんりょく が劣 おと ると効 き いているのに、在 ざい 満 まん 部隊 ぶたい がその程度 ていど の戦力 せんりょく であれば、統帥 とうすい 部 ぶ のいう本土 ほんど 決戦 けっせん など成 な らぬではないか」と認識 にんしき 、さらに6月 がつ 12日 にち には海軍 かいぐん の軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん 長谷川 はせがわ 清 きよし 大将 たいしょう から「海軍 かいぐん は兵器 へいき も人員 じんいん も底 そこ をついている」「動員 どういん 計画 けいかく も行 ゆ き当 あ たりばったりの杜撰 ずさん なもの」という報告 ほうこく も受 う けて、今 いま までの事実 じじつ 認識 にんしき が大 おお きく崩 くず れて、「本土 ほんど 決戦 けっせん の戦勝 せんしょう による有利 ゆうり な講和 こうわ 」は幻影 げんえい に過 す ぎないことを認識 にんしき させられており、そのことを知 し っていた木戸 きど は、天皇 てんのう の親書 しんしょ を携 たずさ えた特使 とくし をソ連 それん に送 おく り、対 たい アメリカ、イギリスとの仲介 ちゅうかい を依頼 いらい するという講和 こうわ 案 あん を考 かんが えて、昭和 しょうわ 天皇 てんのう に言上 ごんじょう した。
昭和 しょうわ 天皇 てんのう の意向 いこう には陸 りく 海軍 かいぐん とも反対 はんたい はできずに、本土 ほんど 決戦 けっせん 準備 じゅんび と並行 へいこう してひそかにソ連 それん を仲介 ちゅうかい 役 やく とした終戦 しゅうせん 工作 こうさく が進 すす められることとなった。外務省 がいむしょう はソ連 それん の駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし ヤコフ・マリク が疎開 そかい していた箱根 はこね の強羅 ごうら ホテル に、広田 ひろた 弘毅 こうき 元 もと 首相 しゅしょう を交渉 こうしょう に向 む かわせた。しかし、交渉 こうしょう の進展 しんてん がなかったため、鈴木 すずき は天皇 てんのう の親書 しんしょ を携 たずさ えた特使 とくし をモスクワ に派遣 はけん することに決 き めた。特使 とくし の代表 だいひょう には元 もと 首相 しゅしょう 近衛 このえ 文麿 ふみまろ が選 えら ばれて、外務省 がいむしょう はソ連 それん 大使 たいし の佐藤 さとう 尚武 なおたけ に近衛 このえ 訪問 ほうもん の許可 きょか を得 え るように命 めい じたが、既 すで にソ連 それん は1945年 ねん 2月 がつ のヤルタ会談 かいだん で極東 きょくとう の権益 けんえき 獲得 かくとく を条件 じょうけん に対 たい 日 にち 参戦 さんせん を決 き めており(極東 きょくとう 密約 みつやく もしくはヤルタの密約 みつやく )、何 なん ら成果 せいか は上 あ がらなかった。この日本 にっぽん 側 がわ の打診 だしん がソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう ヨシフ・スターリン に報告 ほうこく されたのが、スターリンがポツダム会談 かいだん のためベルリン 郊外 こうがい のポツダム に向 む かった後 のち であり、ソ連 それん 側 がわ は時間 じかん 稼 かせ ぎのため引 ひ き延 の ばした上 うえ で、7月 がつ 18日 にち にはぐらかした回答 かいとう をしているが、日本 にっぽん 側 がわ がこの事情 じじょう を知 し るよしもなく貴重 きちょう な時間 じかん を浪費 ろうひ することとなった。
日本 にっぽん 本土 ほんど 決戦 けっせん の概略 がいりゃく 図 ず
6月 がつ には日本海 にほんかい に米 べい 海軍 かいぐん 潜水 せんすい 艦 かん 9隻 せき が侵入 しんにゅう (バーニー作戦 さくせん )。7月14日 にち には米 べい 海軍 かいぐん 第 だい 38機動 きどう 部隊 ぶたい (空母 くうぼ 4隻 せき 、艦載 かんさい 機 き 248機 き )は青函 せいかん 連絡 れんらく 船 せん を攻撃 こうげき して11隻 せき が沈没 ちんぼつ し、北海道 ほっかいどう は孤立 こりつ した[47] (北海道 ほっかいどう 空襲 くうしゅう )。同 どう 7月 がつ の国内 こくない 石油 せきゆ 在庫 ざいこ 量 りょう は48万 まん kL で、これは開戦 かいせん 直前 ちょくぜん の備蓄 びちく 量 りょう 840万 まん kLの5.7%にすぎず、ほぼ底 そこ をついた[47] 。沖縄 おきなわ へ海上 かいじょう 特攻隊 とっこうたい として向 む かった戦艦 せんかん 「大和 やまと 」以下 いか の艦隊 かんたい は米 べい 海軍 かいぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい の攻撃 こうげき によって壊滅 かいめつ (坊ノ岬 ぼうのみさき 沖 おき 海戦 かいせん )しており、海軍 かいぐん 艦艇 かんてい は5月 がつ 以降 いこう 、機能 きのう を停止 ていし した[47] 。
この頃 ころ には、南方 みなかた 資源 しげん 地帯 ちたい からの資材 しざい 海上 かいじょう 輸送 ゆそう の途絶 とぜつ 及 およ び、これまでのB-29の無 む 差別 さべつ 爆撃 ばくげき により、日本 にっぽん の航空機 こうくうき 生産 せいさん 力 りょく は低下 ていか しており、日本 にっぽん 軍 ぐん としては航空機 こうくうき 使用 しよう の選択 せんたく と集中 しゅうちゅう をせざるを得 え ず、大本営 だいほんえい は敵 てき 本土 ほんど 上陸 じょうりく 部隊 ぶたい への全 ぜん 機 き 特攻 とっこう 戦法 せんぽう への航空機 こうくうき 確保 かくほ が優先 ゆうせん し防空 ぼうくう 戦闘 せんとう を局限 きょくげん する方針 ほうしん をとっていた。また、防空 ぼうくう 戦力 せんりょく は、大都市 だいとし に集中 しゅうちゅう していたので、地方 ちほう の中小 ちゅうしょう 都市 とし については、敵 てき 機 き の跳梁 ちょうりょう にまかせることとなってしまった。このような防空 ぼうくう 戦略 せんりゃく の後退 こうたい は、国民 こくみん の厭戦 えんせん 気分 きぶん を高 たか めることになった。日本 にっぽん の大都市 だいとし を破壊 はかい しつくしたルメイは、目標 もくひょう を人口 じんこう 10万 まん 人 にん から20万 まん 人 にん の中小 ちゅうしょう 都市 とし 58に対 たい する焼夷弾 しょういだん 攻撃 こうげき を行 おこな うこととした。この作戦 さくせん は6月 がつ 17日 にち に開始 かいし されて、鹿児島 かごしま 、大牟田 おおむた 、浜松 はままつ 、四日市 よっかいち 、豊橋 とよはし 、福岡 ふくおか 、静岡 しずおか 、富山 とやま などが目標 もくひょう となり終戦 しゅうせん まで続 つづ けられた。このころになると日本 にっぽん 国民 こくみん はアメリカ軍 ぐん のどの兵器 へいき よりもB-29を恐 おそ れるようになっており、上智大学 じょうちだいがく の神父 しんぷ として日本 にっぽん に在住 ざいじゅう し、日本人 にっぽんじん との親交 しんこう が深 ふか かったブルーノ・ビッテル によれば「日本 にっぽん 国民 こくみん の全 ぜん 階層 かいそう にわたって、敗戦 はいせん の意識 いしき が芽生 めば え始 はじ めるようになったのは、B-29の大 だい 空襲 くうしゅう によってであった」と証言 しょうげん している。B-29は爆 ばく 撃 げき 任務 にんむ のほかに、約 やく 12,000個 こ の機雷 きらい を日本 にっぽん 列島 れっとう 沿岸 えんがん 各地 かくち に投下 とうか する「飢餓 きが 作戦 さくせん 」を行 おこな っており(関門海峡 かんもんかいきょう 4990、周防灘 すおうなだ 666、若狭湾 わかさわん 611、広島 ひろしま 湾 わん 534、大阪 おおさか 湾 わん 380)、やがて国内 こくない 海上 かいじょう 輸送 ゆそう も麻痺 まひ した[47] 。
また、海上 かいじょう においても、室蘭 むろらん や釜石 かまいし では製鉄 せいてつ 所 しょ を持 も ちながらも、迎撃 げいげき 用 よう の航空機 こうくうき や大型 おおがた 艦 かん の配備 はいび が皆無 かいむ に等 ひと しいことを察知 さっち していたアメリカ軍 ぐん は、艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき による対地 たいち 攻撃 こうげき を行 おこな う。また、日本 にっぽん 本土 ほんど 近海 きんかい の制海権 せいかいけん を完全 かんぜん に手中 しゅちゅう に収 おさ めたアメリカ軍 ぐん は、イギリス軍 ぐん も加 くわ えて空母 くうぼ 機動 きどう 部隊 ぶたい を日本 にっぽん 沿岸 えんがん に度々 どど 派遣 はけん し、艦載 かんさい 機 き による各地 かくち への空襲 くうしゅう や機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ を行 おこな った。日本 にっぽん 軍 ぐん は本土 ほんど 近海 きんかい に迫 せま るようになった連合 れんごう 軍 ぐん 艦艇 かんてい に対 たい しても特攻 とっこう で対抗 たいこう し、連合 れんごう 軍 ぐん 艦艇 かんてい にいくらかの被害 ひがい を与 あた えるなどしたものの日本 にっぽん 軍 ぐん の軍事 ぐんじ 的 てき な敗北 はいぼく は明 あき らかであった。
しかし、日本 にっぽん の戦争 せんそう 指導 しどう 者 しゃ は、密 ひそ かに進 すす めていたソ連 それん を仲介 ちゅうかい とする終戦 しゅうせん 工作 こうさく に期待 きたい しつつも、特 とく に陸軍 りくぐん は連合 れんごう 軍 ぐん と決戦 けっせん を行 おこな い局地 きょくち 的 てき な勝利 しょうり を収 おさ めて有利 ゆうり な講和 こうわ を結 むす ぼうという「一撃 いちげき 講和 こうわ 」を諦 あきら めておらず、その決戦 けっせん の地 ち を日本 にっぽん 本土 ほんど とした。1945年 ねん 6月 がつ 8日 にち には本土 ほんど 決戦 けっせん の方針 ほうしん を定 さだ めた「今後 こんご 採 と ルヘキ戦争 せんそう 指導 しどう ノ基本 きほん 大綱 たいこう 」が昭和 しょうわ 天皇 てんのう より裁可 さいか され[326] 、その御前 ごぜん 会議 かいぎ の席 せき で参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 次長 じちょう 河辺 かわべ 虎 とら 四 よん 郎 ろう 中将 ちゅうじょう が特攻 とっこう を主戦 しゅせん 術 じゅつ として本土 ほんど 決戦 けっせん を戦 たたか う方針 ほうしん を示 しめ した[327] 。特攻 とっこう を主戦 しゅせん 術 じゅつ とする方針 ほうしん に基 もと づき、特攻 とっこう 兵器 へいき (震 ふるえ 洋 よう 、回天 かいてん 、海龍 かいりゅう など)が生産 せいさん され各地 かくち に基地 きち が設営 せつえい され、作戦 さくせん 用 よう 航空機 こうくうき も陸海 りくかい 軍機 ぐんき と併 あわ せると1万 まん 機 き 以上 いじょう の航空機 こうくうき が本土 ほんど 決戦 けっせん 用 よう に特攻 とっこう 機 き とその支援 しえん 機 き として温存 おんぞん された[328] 。陸上 りくじょう の兵力 へいりょく も既設 きせつ の12個 こ 師団 しだん 86万 まん 人 にん では戦力 せんりょく 不足 ふそく は明 あき らかであったため、根 ね こそぎ動員 どういん による新設 しんせつ 師団 しだん の編成 へんせい など、なりふり構 かま わない戦力 せんりょく 増強 ぞうきょう 策 さく で日本 にっぽん 本土 ほんど の兵力 へいりょく は54個 こ 師団 しだん 400万 まん 人 にん に増強 ぞうきょう されていた。しかし、日本 にっぽん 軍 ぐん は装備 そうび 調達 ちょうたつ に苦慮 くりょ していたため、根 ね こそぎ動員 どういん で動員 どういん された師団 しだん の装備 そうび は不十分 ふじゅうぶん であった。特 とく に第 だい 三 さん 次 じ 兵備 へいび で編成 へんせい された師団 しだん の装備 そうび が不足 ふそく しており、第 だい 53軍 ぐん の第 だい 316師団 しだん にように、1個 いっこ 小隊 しょうたい に重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう 2丁 ちょう に小銃 しょうじゅう 15~16丁 ちょう しか配備 はいび されないなど、小 しょう 火器 かき の充足 じゅうそく 率 りつ は約 やく 40%、重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう や迫撃 はくげき 砲 ほう の充足 じゅうそく 率 りつ は約 やく 50%、火砲 かほう も未 み 充足 じゅうそく というものであった。また、国民 こくみん 義勇 ぎゆう 隊 たい として2,800万 まん 人 にん もの一般 いっぱん 国民 こくみん も戦闘 せんとう に投入 とうにゅう される計画 けいかく であり、まさに大 だい 部分 ぶぶん の国民 こくみん が戦争 せんそう に駆 か り出 だ される事態 じたい となっていた[332] 。
一方 いっぽう 、連合 れんごう 国 こく においては、1945年 ねん 2月 がつ のヤルタ会談 かいだん 直前 ちょくぜん に、ルーズベルトとチャーチルがマルタ島 とう で協議 きょうぎ し、1945年 ねん 9月 がつ に九州 きゅうしゅう 侵攻 しんこう を開始 かいし 、1945年 ねん 12月に本州 ほんしゅう に侵攻 しんこう するといったタイムテーブルがチャーチルに提示 ていじ された。そしてヤルタ会談 かいだん ではルーズベルトがソ連 それん のヨシフ・スターリン 書記 しょき 長 ちょう に、日本 にっぽん 本土 ほんど 侵攻 しんこう 作戦 さくせん の陽動 ようどう としてソ連 それん 対 たい 日 にち 参戦 さんせん の同意 どうい を取 と り付 つ けていた。3月29日 にち には、統合 とうごう 参謀 さんぼう 長 ちょう 会議 かいぎ が「対 たい 日 にち 攻撃 こうげき 戦力 せんりょく 最終 さいしゅう 計画 けいかく 」を作成 さくせい し、日本 にっぽん 本土 ほんど 侵攻 しんこう 作戦 さくせん 全体 ぜんたい を「ダウンフォール作戦 さくせん 」、九州 きゅうしゅう 侵攻 しんこう 作戦 さくせん を「オリンピック作戦 さくせん 」、関東 かんとう 侵攻 しんこう 作戦 さくせん を「コロネット作戦 さくせん 」と命名 めいめい した。アメリカ陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう ジョージ・マーシャル はマッカーサーに「コロネットは日本 にっぽん にとどめを刺 さ す作戦 さくせん となるが、それはオリンピックの延長 えんちょう として実施 じっし される運 はこ びになろう」「ヨーロッパの戦争 せんそう が1945年 ねん 7月 がつ までに終 お わるという仮定 かてい に基 もと づけば、オリンピック作戦 さくせん の開始 かいし 時期 じき は12月1日 にち 、コロネット作戦 さくせん の開始 かいし 時期 じき は1946年 ねん 3月 がつ 1日 にち を目標 もくひょう に、計画 けいかく を作成 さくせい することとなる」とタイムスケジュールを説明 せつめい している[335] 。
ドイツの敗戦 はいせん が予想 よそう より早 はや まると、オリンピック作戦 さくせん も前倒 まえだお しされ、5月25日 にち に発令 はつれい されたオリンピック作戦 さくせん 指令 しれい においては、Xデイと名付 なづ けられた九州 きゅうしゅう 上陸 じょうりく は1945年 ねん 11月1日 にち 朝 あさ 6時 じ とされた。投入 とうにゅう される兵力 へいりょく は、アメリカ軍 ぐん だけでもオリンピック作戦 さくせん では上陸 じょうりく 部隊 ぶたい 574,730人 にん 、支援 しえん 要員 よういん や航空 こうくう 部隊 ぶたい も含 ふく めると766,700人 にん [337] 、コロネット作戦 さくせん では1,171,646人 にん [338] となるが、間接 かんせつ 的 てき に関与 かんよ する人数 にんずう も含 ふく めると500万 まん 名 めい 以上 いじょう に上 のぼ るとみられていた。また英 えい 連邦 れんぽう 軍 ぐん も地上 ちじょう 部隊 ぶたい の他 ほか に海 うみ 空軍 くうぐん や支援 しえん 要員 よういん を含 ふく めると約 やく 20万 まん 名 めい が投入 とうにゅう され、アメリカと同様 どうよう に間接 かんせつ 的 てき に関与 かんよ する人数 にんずう を含 ふく めると100万 まん 人 にん 以上 いじょう となる予定 よてい であり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で最大 さいだい 規模 きぼ の軍事 ぐんじ 作戦 さくせん となる予定 よてい であった[339] 。
ルーズベルトの急逝 きゅうせい により急遽 きゅうきょ 大統領 だいとうりょう となったトルーマンは、沖縄 おきなわ 戦 せん での大 だい 損害 そんがい により甚大 じんだい な損害 そんがい が確実視 かくじつし される日本 にっぽん 本土 ほんど 上陸 じょうりく には消極 しょうきょく 的 てき になっていた[340] 。この頃 ころ になると、オリンピック計画 けいかく 作成 さくせい 時 じ の日本 にっぽん 軍 ぐん 戦力 せんりょく 分析 ぶんせき は過小 かしょう 評価 ひょうか であったことが判明 はんめい しており、損害 そんがい の見積 みつもり が最大 さいだい で死傷 ししょう 者 しゃ 400万 まん 人 にん 以上 いじょう などと上方 かみがた 修正 しゅうせい されていた。特 とく にドイツ軍 ぐん との戦 たたか いの対比 たいひ が論 ろん じられ、「ドイツ本土 ほんど よりも戦車 せんしゃ の運用 うんよう が困難 こんなん 」「ドイツとの戦 たたか いよりも大 だい 損害 そんがい を覚悟 かくご する必要 ひつよう がある」という分析 ぶんせき の他 ほか にも[340] 、太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき でのアメリカ軍 ぐん 地上 ちじょう 部隊 ぶたい の兵員 へいいん の死傷 ししょう 率 りつ は、ヨーロッパ戦域 せんいき の3.5倍 ばい という高 たか い水準 すいじゅん となっており[343] 、これらの大 おお きな損害 そんがい 予想 よそう は日本 にっぽん 本土 ほんど 侵攻 しんこう 慎重 しんちょう 派 は の発言 はつげん 力 りょく を後押 あとお しすることとなった。
アメリカ軍 ぐん による生物 せいぶつ 化学 かがく 兵器 へいき の使用 しよう 計画 けいかく [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい する化学 かがく 兵器 へいき の使用 しよう が本格 ほんかく 的 てき に検討 けんとう されるようになったのは、1943年 ねん 11月のタラワの戦 たたか いでアメリカ軍 ぐん 海兵 かいへい 隊 たい が多大 ただい な損害 そんがい を被 こうむ ってからであった。アメリカ陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう ジョージ・マーシャル も「我々 われわれ が即座 そくざ に使 つか え、アメリカ人 じん の生命 せいめい の損失 そんしつ が間違 まちが いなく低減 ていげん され、物理 ぶつり 的 てき に戦争 せんそう 終結 しゅうけつ を早 はや めるもので、我々 われわれ がこれまで使用 しよう していない唯一 ゆいいつ の兵器 へいき は毒 どく ガスである」とも述 の べていた[344] 。やがて、日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう が開始 かいし されると、アメリカ軍 ぐん は、東京 とうきょう 市 し に効果 こうか 的 てき に毒 どく ガス を散布 さんぷ するための詳細 しょうさい な研究 けんきゅう を行 おこな っており、散布 さんぷ する季 き 節 ぶし や気象 きしょう 条件 じょうけん を初 はじ めとして散布 さんぷ するガスの検討 けんとう を行 おこな い、マスタードガス ・ホスゲン などが候補 こうほ に挙 あ がっていた[345] 。また、アメリカ軍 ぐん は日本 にっぽん の農産物 のうさんぶつ に対 たい する有毒 ゆうどく 兵器 へいき の使用 しよう も計画 けいかく していた。1942年 ねん にメリーランド州 しゅう ベルツビル (英語 えいご 版 ばん ) にあるアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 農務 のうむ 省 しょう 研究 けんきゅう 本部 ほんぶ でアメリカ陸軍 りくぐん の要請 ようせい により日本 にっぽん の特定 とくてい の農産物 のうさんぶつ を枯 か れ死 し にさせる生物 せいぶつ 兵器 へいき となる細菌 さいきん の研究 けんきゅう が開始 かいし された。しかし、日本 にっぽん の主要 しゅよう な農産物 のうさんぶつ である米 べい やサツマイモ などは細菌 さいきん に対 たい して極 きわ めて抵抗 ていこう 力 りょく が強 つよ いことが判明 はんめい したので、細菌 さいきん ではなく化学 かがく 物質 ぶっしつ の散布 さんぷ を行 おこな うこととなり、実際 じっさい に日本 にっぽん の耕作 こうさく 地帯 ちたい にB-29で原油 げんゆ と廃油 はいゆ を散布 さんぷ したが効果 こうか はなかった。さらに検討 けんとう が進 すす められて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 さくさん を農作物 のうさくもつ の灌漑 かんがい 用水 ようすい に散布 さんぷ する計画 けいかく も進 すす められた[346] 。
しかしルーズベルトの使用 しよう 方針 ほうしん はあくまでも日本 にっぽん 軍 ぐん が使用 しよう した場合 ばあい の報復 ほうふく 的 てき なものに限 かぎ っていたが[347] 、硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いや沖縄 おきなわ 戦 せん でアメリカ軍 ぐん が甚大 じんだい な損害 そんがい を被 こうむ ると、きたるダウンフォール作戦 さくせん に向 む けてアメリカ軍 ぐん の損害 そんがい を減 へ らすためとして、積極 せっきょく 的 てき な生物 せいぶつ 化学 かがく 兵器 へいき の使用 しよう の主張 しゅちょう が強 つよ まった。沖縄 おきなわ 戦 せん でアメリカ陸軍 りくぐん 第 だい 10軍 ぐん を指揮 しき したジョセフ・スティルウェル 中将 ちゅうじょう も、「毒 どく ガスの使用 しよう が考慮 こうりょ に入 い れられるべきです。攻撃 こうげき を軍事 ぐんじ 目標 もくひょう に限定 げんてい すれば、民間 みんかん 人 じん への使用 しよう という不名誉 ふめいよ は回避 かいひ できます」と主張 しゅちょう していた[348] 。アメリカ統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ が、生物 せいぶつ 化学 かがく 兵器 へいき の使用 しよう を世論 せろん に認 みと めさせるため、マスコミ と協力 きょうりょく して世論 せろん づくりをしていたことを記録 きろく した極秘 ごくひ 資料 しりょう が情報 じょうほう 公開 こうかい により明 あき らかになっている[349] 。当局 とうきょく の世論 せろん 工作 こうさく もあって、シカゴ・トリビューン は「彼 かれ ら(日本 にっぽん 軍 ぐん )をガスで片付 かたづ けろ」という社説 しゃせつ を紙上 しじょう に掲載 けいさい したが、「毒 どく ガスを非 ひ 人道的 じんどうてき とする非難 ひなん は誤 あやま りでもあるし、的外 まとはず れでもある」「ガスの使用 しよう は数 すう 多 おお くのアメリカ国民 こくみん の命 いのち を救 すく うと同時 どうじ に、日本人 にっぽんじん の命 いのち もある程度 ていど は救 すく う可能 かのう 性 せい がある」などと、アメリカ国民 こくみん に生物 せいぶつ 化学 かがく 兵器 へいき 使用 しよう の罪悪 ざいあく 感 かん を軽減 けいげん させるような主張 しゅちょう をしていた[348] 。アメリカ軍 ぐん はオリンピック作戦 さくせん 準備 じゅんび として、オーストラリアとハワイに生物 せいぶつ 化学 かがく 兵器 へいき を貯蔵 ちょぞう する大 おお きな倉庫 そうこ を大量 たいりょう に建設 けんせつ し、太平洋 たいへいよう 上 じょう の島々 しまじま にも小規模 しょうきぼ な貯蔵 ちょぞう 施設 しせつ が設置 せっち した。やがてルソン島 るそんとう と沖縄 おきなわ を攻略 こうりゃく したアメリカ軍 ぐん は、生物 せいぶつ 化学 かがく 兵器 へいき 7,500トンをルソン島 るそんとう に、16,000トンを沖縄 おきなわ に貯蔵 ちょぞう する計画 けいかく を立 た てた。そしてオリンピック作戦 さくせん が開始 かいし されると、8,500トンの生物 せいぶつ 化学 かがく 兵器 へいき を積載 せきさい した輸送 ゆそう 艦 かん をマニラ湾 まにらわん に待機 たいき させて、いつでも前線 ぜんせん に送 おく り込 こ めるようにする予定 よてい であった[346] 。
戦争 せんそう 状態 じょうたい の終結 しゅうけつ と講和 こうわ [ 編集 へんしゅう ]
ポツダムに集 あつ まった左 ひだり からアトリー(大 だい 英 えい 帝国 ていこく )トルーマン(アメリカ)スターリン(ソ連 それん )
ドイツ 降伏 ごうぶく 後 ご の1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )7月 がつ 17日 にち から8月 がつ 2日 にち にかけ、アメリカ大統領 だいとうりょう トルーマン、大 だい 英 えい 帝国 ていこく 首相 しゅしょう チャーチルおよびクレメント・アトリー 、ソ連 それん 書記 しょき 長 ちょう スターリンがベルリン 郊外 こうがい ポツダム に集 あつ まり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の戦後 せんご 処理 しょり について協議 きょうぎ した(ポツダム会談 かいだん )。そして、この会談 かいだん の期間 きかん 中 ちゅう の1945年 ねん 7月 がつ 26日 にち に、主 おも にアメリカによって作成 さくせい された後 のち 、大 だい 英 えい 帝国 ていこく が修正 しゅうせい を加 くわ え中華民国 ちゅうかみんこく が同意 どうい していたポツダム宣言 せんげん が3か国 こく の共同 きょうどう 声明 せいめい として発表 はっぴょう された。宣言 せんげん は日本 にっぽん に無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく を迫 せま り、その後 ご の連合 れんごう 国 こく による日本 にっぽん 占領 せんりょう と、日本 にっぽん 軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく の排除 はいじょ 、カイロ宣言 せんげん の履行 りこう 、日本 にっぽん の主権 しゅけん を本州 ほんしゅう ・北海道 ほっかいどう ・九州 きゅうしゅう ・四国 しこく および連合 れんごう 国 こく が決 き める諸 しょ 小島 こじま に制限 せいげん すること、軍隊 ぐんたい の武装 ぶそう 解除 かいじょ 、戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん の処罰 しょばつ 、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ ・基本 きほん 的 てき 人権 じんけん の確立 かくりつ など、全 ぜん 13項 こう が日本 にっぽん に伝達 でんたつ された[350] 。
ポツダム宣言 せんげん を伝達 でんたつ された日本 にっぽん 政府 せいふ は対応 たいおう を協議 きょうぎ するため翌 よく 27日 にち に最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ と閣議 かくぎ を開催 かいさい した。これを受 う けた東郷 とうごう は最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ と閣議 かくぎ において、「本 ほん 宣言 せんげん は有 ゆう 条件 じょうけん 講和 こうわ であり、これを拒否 きょひ する時 とき は極 きわ めて重大 じゅうだい なる結果 けっか を惹起 じゃっき する」と発言 はつげん した。議論 ぎろん の末 すえ 、一旦 いったん は日本 にっぽん 政府 せいふ として方針 ほうしん を示 しめ さないが、各 かく 新聞 しんぶん にコメント入 い りで報道 ほうどう させて国民 こくみん に周知 しゅうち させるという結論 けつろん となった。翌 よく 28日 にち の新聞 しんぶん では、「笑止 しょうし 、対 たい 日 にち 降伏 ごうぶく 条件 じょうけん 」、「共同 きょうどう 宣言 せんげん 、自惚 うぬぼ れを撃破 げきは せん、聖戦 せいせん 飽 あ くまで完遂 かんすい 」「白昼夢 はくちゅうむ 錯覚 さっかく を露呈 ろてい 」などという新聞 しんぶん 社 しゃ による論評 ろんぴょう が加 くわ えられて報 ほう じられたが、各社 かくしゃ とも扱 あつか いは小 ちい さく、国民 こくみん に大 おお きな影響 えいきょう はなかった。しかし、支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 岡村 おかむら 寧 やすし 次 じ 大将 たいしょう の「ポツダム宣言 せんげん は滑稽 こっけい というべし」という意見 いけん に代表 だいひょう されるように、首相 しゅしょう の鈴木 すずき は軍 ぐん の突 とっ き上 あ げによって、やむなく記者 きしゃ 会見 かいけん で「共同 きょうどう 声明 せいめい はカイロ会談 かいだん の焼直 やきなお しと思 おも う、政府 せいふ としては重大 じゅうだい な価値 かち あるものとは認 みと めず“黙殺 もくさつ ” し、我々 われわれ は戦争 せんそう 完遂 かんすい に邁進 まいしん する」との談話 だんわ を発表 はっぴょう した。東郷 とうごう はこれを閣議 かくぎ 決定 けってい 違反 いはん だと激怒 げきど して抗議 こうぎ した。これが新聞 しんぶん 各紙 かくし で「政府 せいふ は黙殺 もくさつ 」などと報道 ほうどう され、さらに海外 かいがい では「黙殺 もくさつ 」が「reject(拒絶 きょぜつ )」と報道 ほうどう された。ポツダム会談 かいだん 中 ちゅう にトルーマンの元 もと にトリニティ実験 じっけん の成功 せいこう の報 ほう がもたらされると、トルーマンは日本 にっぽん に降伏 ごうぶく を促 うなが す手段 しゅだん として原爆 げんばく の使用 しよう を決定 けってい したが、トルーマンは7月 がつ 25日 にち の日記 にっき に「日本 にっぽん がポツダム宣言 せんげん を受諾 じゅだく しないことを確信 かくしん している」と書 か いているなど、一旦 いったん はポツダム宣言 せんげん を拒絶 きょぜつ されることを予測 よそく しており、鈴木 すずき の“黙殺 もくさつ ”は日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか を正当 せいとう 化 か する理由 りゆう ともなった。戦後 せんご 、鈴木 すずき はこの発言 はつげん を振 ふ り返 かえ って「この一言 ひとこと は後々 あとあと に至 いた るまで、余 よ の誠 まこと に遺憾 いかん と思 おも う点 てん であり・・・」と悔 く やんでいる。
広島 ひろしま への原爆 げんばく 投下 とうか [ 編集 へんしゅう ]
広島 ひろしま 市 し への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか により生 しょう じた巨大 きょだい なキノコ雲 くも (米 べい 軍機 ぐんき 撮影 さつえい )。下 した に見 み えるのは広島 ひろしま 市街 しがい 、その左 ひだり 奥 おく は広島 ひろしま 湾 わん [354] 。
アメリカはマンハッタン計画 けいかく で原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の開発 かいはつ を進 すす めていた。マンハッタン計画 けいかく の責任 せきにん 者 しゃ レズリー・グローヴス 准 じゅん 将 しょう は、開発 かいはつ 中 ちゅう のB-29を原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 搭載 とうさい 機 き に決定 けってい し、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 航空 こうくう 資材 しざい 調達 ちょうたつ 責任 せきにん 者 しゃ であるオリバー・エコルズ (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう にB-29を原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 搭載 とうさい 可能 かのう の改造 かいぞう を行 おこな うよう命 めい じた。この計画 けいかく は、エコルズを含 ふく む数 すう 名 めい で極秘 ごくひ 裏 うら に進 すす められたが、B-29改造 かいぞう 担当 たんとう 者 しゃ はロスアラモス原子力 げんしりょく 研究所 けんきゅうじょ から2種類 しゅるい の形 かたち の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を開発 かいはつ していると説明 せつめい を受 う けると、その両方 りょうほう の爆 ばく 弾 だん を搭載 とうさい 可能 かのう な改造 かいぞう を行 おこな う必要 ひつよう 性 せい に迫 せま られた。機密 きみつ 保持 ほじ のため、2種類 しゅるい の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん をその形状 けいじょう から、それぞれ「シンマン (やせっぽち)」と「ファットマン (でぶっちょ)」、改造 かいぞう 計画 けいかく を「シルバープレート 」と隠語 いんご で名付 なづ けた。マンハッタン計画 けいかく を知 し らない多数 たすう の技術 ぎじゅつ 者 しゃ に対 たい しては、シンマンとはルーズベルト、ファットマンはチャーチルのことで、この2名 めい が極秘 ごくひ 裏 うら にアメリカ国内 こくない を旅行 りょこう するために使用 しよう するプルマン式 しき 寝台 しんだい 車 しゃ を輸送 ゆそう するための改造 かいぞう であり、ことの重大 じゅうだい 性 せい から寝台 しんだい 車 しゃ もシルバープレートという隠語 いんご で呼 よ んでいると説明 せつめい している。のちにシンマンは設計 せっけい 変更 へんこう で「リトルボーイ (ちびっこ)」と呼 よ ばれることになった。シルバープレート機 き は戦争 せんそう が終 お わるまでに54機 き まで発注 はっちゅう を増 ふ やし、うち46機 き が納品 のうひん されていた。原爆 げんばく 搭載 とうさい 機 き の製造 せいぞう と並行 へいこう して、原爆 げんばく 投下 とうか のための特別 とくべつ の戦闘 せんとう 部隊 ぶたい の第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい を組織 そしき し、指揮 しき 官 かん にはポール・ティベッツ 大佐 たいさ が選 えら ばれた。第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい のほとんどの搭乗 とうじょう 員 いん が、自分 じぶん 達 たち が大型 おおがた の特殊 とくしゅ 爆 ばく 弾 だん の投下 とうか 任務 にんむ に就 つ くということは知 し っていたが、その特殊 とくしゅ 爆 ばく 弾 だん が恐 おそれ るべき破壊 はかい 力 りょく を持 も つ原子 げんし 爆 ばく 弾 だん ということを知 し らなかった。
第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい は徹底 てってい した訓練 くんれん ののち、シルバープレート機 き を15機 き を擁 よう して(終戦 しゅうせん 時 じ までに29機 き に増強 ぞうきょう )1945年 ねん 5月 がつ にテニアン基地 きち に進出 しんしゅつ した。日本 にっぽん 軍 ぐん はテニアン島 とう に潜伏 せんぷく していた生存 せいぞん 兵 へい が尾翼 びよく のマークを確認 かくにん して新 あたら しい飛行 ひこう 隊 たい が進出 しんしゅつ してきたことを確認 かくにん し、まだ日本 にっぽん 軍 ぐん が支配 しはい していたロタ島 とう を通 つう じて大本営 だいほんえい に向 む けて報告 ほうこく された。特殊 とくしゅ 任務 にんむ 部隊 ぶたい との認識 にんしき はあったが、原爆 げんばく 投下 とうか 部隊 ぶたい とは知 し らなかった大本営 だいほんえい は、日本 にっぽん 軍 ぐん の情報 じょうほう 力 りょく を誇示 こじ するため、東京 とうきょう ローズ にプロパガンダ ラジオ番組 ばんぐみ ゼロアワーで第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい 進出 しんしゅつ 歓迎 かんげい のことばを言 い わせたが、皮肉 ひにく なことにこの部隊 ぶたい がのちに日本 にっぽん に大 だい 惨禍 さんか をもたらすことになった。原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の投下 とうか 目標 もくひょう 都市 とし については、爆撃 ばくげき による被害 ひがい が少 すく なく原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の威力 いりょく を検証 けんしょう しやすい都市 とし が選 えら ばれ、広島 ひろしま 、小倉 おぐら 、横浜 よこはま 、京都 きょうと などが候補 こうほ にあがり、グローヴスは人口 じんこう 108万 まん 人 にん の京都 きょうと が原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の威力 いりょく を測 はか るのにもっとも相応 ふさわ しいと主張 しゅちょう したが、陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん のヘンリー・スティムソン が「京都 きょうと は極東 きょくとう の文化 ぶんか 史上 しじょう 重要 じゅうよう で芸術 げいじゅつ 品 ひん も数多 かずおお い」という理由 りゆう で候補 こうほ から外 はず させている。原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 目標 もくひょう の選定 せんてい が進 すす む中 なか で第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい は集中 しゅうちゅう 的 てき な実地 じっち 訓練 くんれん を継続 けいぞく しており、パンプキン爆 ばく 弾 だん と名付 なづ けられた原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を模 も した大型 おおがた 爆 ばく 弾 だん による精密 せいみつ 爆 ばく 撃 げき 訓練 くんれん などを行 おこな った。1945年 ねん 7月 がつ 20日 はつか にはパンプキン爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 訓練 くんれん のため東京 とうきょう を飛行 ひこう していたクロード・イーザリー 少佐 しょうさ 操縦 そうじゅう のストレートフラッシュ 号 ごう で、副 ふく 航空 こうくう 機関 きかん 士 し ジャック・ビヴァンスの提案 ていあん により、攻撃 こうげき が禁止 きんし されていた皇居 こうきょ にパンプキン爆 ばく 弾 だん を投下 とうか することとなった。しかし、皇居 こうきょ の上空 じょうくう には雲 くも が立 た ち込 こ めており、レーダー照準 しょうじゅん での爆 ばく 撃 げき となったので、パンプキン爆 ばく 弾 だん は皇居 こうきょ には命中 めいちゅう しなかった。日本 にっぽん のラジオ放送 ほうそう で皇居 こうきょ 爆 ばく 撃 げき の事実 じじつ を知 し った爆 ばく 撃 げき 団 だん 司令 しれい 部 ぶ によりイーザリーらは厳 きび しく叱責 しっせき されたが、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 任務 にんむ から外 はず されることはなかった。
1945年 ねん 7月 がつ 16日 にち 、トリニティ実験 じっけん が成功 せいこう したが、その知 し らせはルメイらごく一部 いちぶ の司令 しれい 官 かん 、参謀 さんぼう にしか伝 つた えられず、依然 いぜん として第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい の搭乗 とうじょう 員 いん らも新型 しんがた 爆 ばく 弾 だん の正体 しょうたい を知 し らされていなかった。テニアン島 とう に重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん インディアナポリス が「リトルボーイ」を運 はこ び込 こ んだときも機密 きみつ 保持 ほじ の状況 じょうきょう に変更 へんこう はなかった。1945年 ねん 7月 がつ 26日 にち にポツダム宣言 せんげん が発表 はっぴょう されたが、日本 にっぽん 政府 せいふ はこれを「黙殺 もくさつ 」した。トルーマンからの原爆 げんばく 使用 しよう の承認 しょうにん を得 え ていたグローヴスは原爆 げんばく 投下 とうか 命令 めいれい を発 はっ し、8月 がつ 2日 にち には第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい 名 めい で出 だ された野戦 やせん 命令 めいれい 第 だい 13号 ごう で8月 がつ 6日 にち に第 だい 1目標 もくひょう 広島 ひろしま 、第 だい 2目標 もくひょう 小倉 おぐら に原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を投下 とうか すると決定 けってい した。8月6日 にち 、リトル・ボーイを搭載 とうさい しパーソンズを乗 の せたB-29エノラ・ゲイ はティベッツの操縦 そうじゅう で午前 ごぜん 2時 じ 45分 ふん にテニアン島 とう から出撃 しゅつげき した。その後 ご に先行 せんこう していた気象 きしょう 観測 かんそく 機 き ストレートフラッシュ号 ごう から第 だい 1目標 もくひょう の広島 ひろしま の天候 てんこう は良好 りょうこう との知 し らせが入 はい り、計画 けいかく 通 どお り広島 ひろしま に初 はじ めての原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が投下 とうか されることになった。
エノラ・ゲイは計画 けいかく よりわずか17秒 びょう の超過 ちょうか だけで、午前 ごぜん 9時 じ 15分 ふん 17秒 びょう (日本 にっぽん の時間 じかん では8時 じ 15分 ふん 17秒 びょう )にリトルボーイを投下 とうか し、リトルボーイは投下 とうか 後 ご 43秒 びょう でさく裂 れつ し、エノラ・ゲイは9マイル先 さき に離脱 りだつ していたが、衝撃波 しょうげきは が激 はげ しく機体 きたい を震 ふる わせた。一瞬 いっしゅん のうちに広島 ひろしま では、78,150人 にん の市民 しみん が死亡 しぼう し、70,147戸 こ の家屋 かおく が半壊 はんかい 以上 いじょう の損害 そんがい を受 う けた。中国 ちゅうごく 軍 ぐん 管区 かんく は豊後水道 ぶんごすいどう を北上 ほくじょう するエノラ・ゲイ3機 き を発見 はっけん し7時 じ 9分 ふん に警戒 けいかい 警報 けいほう を発令 はつれい していたが、うち1機 き のストレートフラッシュが一旦 いったん 広島 ひろしま 上空 じょうくう を通過 つうか して播磨灘 はりまなだ 方面 ほうめん に去 さ ったので、7時 じ 31分 ふん に警報 けいほう 解除 かいじょ している。その後 ご 8時 じ 11分 ふん に松永 まつなが 対空 たいくう 監視 かんし 所 しょ がエノラ・ゲイと観測 かんそく 機 き グレート・アーティスト 号 ごう が高度 こうど 9,500mで接近 せっきん してくるのを発見 はっけん したが、時 とき すでに遅 おそ く充分 じゅうぶん な対応 たいおう ができなかった。原爆 げんばく 投下 とうか 成功 せいこう の知 し らせは、ポツダム会談 かいだん からの帰国 きこく 中 ちゅう のトルーマンにも報告 ほうこく され、トルーマンは「さらに迅速 じんそく かつ完全 かんぜん に日本 にっぽん のどこの都市 とし であろうが、地上 ちじょう にある生産 せいさん 施設 しせつ を抹殺 まっさつ してしまう用意 ようい がある。我々 われわれ は、彼 かれ らの造船 ぞうせん 所 しょ を、彼 かれ らの工場 こうじょう を、彼 かれ らの交通 こうつう を破壊 はかい するであろう。誤解 ごかい のないよう重 かさ ねていうが、我々 われわれ は日本 にっぽん の戦力 せんりょく を完全 かんぜん に破壊 はかい するであろう」という談話 だんわ を発表 はっぴょう した。
長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか [ 編集 へんしゅう ]
爆 ばく 心地 ごこち 近 ちか くにあり爆風 ばくふう で破壊 はかい された浦上 うらかみ 天主堂 てんしゅどう
広島 ひろしま の3日 にち 後 ご が次 つぎ の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか の日 ひ に選 えら ばれた。短期間 たんきかん の間 あいだ に2回 かい も原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を投下 とうか するのは、日本 にっぽん 側 がわ にいつでも原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を投下 とうか できるストックがあると知 し らしめることが目的 もくてき であったが、実際 じっさい は次 つぎ に投下 とうか する予定 よてい のファットマンがアメリカ軍 ぐん が製造 せいぞう していた最後 さいご の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん であった。初回 しょかい の任務 にんむ を成功 せいこう させたティベッツは2回 かい 目 め は信頼 しんらい できる部下 ぶか に任 まか せることとし、広島 ひろしま の際 さい に観測 かんそく 機 き グレート・アーティストの機長 きちょう であったチャールズ・スウィーニー 中佐 ちゅうさ がB-29ボックスカー 号 ごう に搭乗 とうじょう して原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 任務 にんむ を行 おこな うことになった。目標 もくひょう は小倉 おぐら か新潟 にいがた いずれかに絞 しぼ られたが、新潟 にいがた は距離 きょり が遠 とお すぎるという理由 りゆう で第 だい 1目標 もくひょう が小倉 おぐら 、そして第 だい 2目標 もくひょう を同 おな じ九州 きゅうしゅう の長崎 ながさき と定 さだ めた。1945年 ねん 8月 がつ 9日 にち テニアン島 とう を出撃 しゅつげき したボックスカーは、午前 ごぜん 8時 じ 43分 ふん に小倉 こくら 上空 じょうくう に達 たっ したが、天候 てんこう 不良 ふりょう で小倉 おぐら は厚 あつ い雲 くも に覆 おお われており、やむなく第 だい 2目標 もくひょう の長崎 ながさき に向 む かった。長崎 ながさき も天候 てんこう は不良 ふりょう であったが、レーダーで爆撃 ばくげき 進路 しんろ をとっているときに一瞬 いっしゅん 雲 くも の切 き れ目 め が見 み えたので、午前 ごぜん 10時 じ 58分 ふん にファットマンを投下 とうか し、ボックスカーは燃料 ねんりょう 不足 ふそく のためマリアナには戻 もど らずそのまま沖縄 おきなわ に向 む けて飛行 ひこう した。
日本 にっぽん 軍 ぐん も広島 ひろしま への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか 以降 いこう 警戒 けいかい は強化 きょうか しており、国東半島 くにさきはんとう から北九州 きたきゅうしゅう 地区 ちく に向 む かう2機 き のB-29を発見 はっけん したが、西部 せいぶ 軍 ぐん 管区 かんく は広島 ひろしま と同様 どうよう の編成 へんせい であったのでこれを原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 搭載 とうさい 機 き と判断 はんだん し10時 じ 53分 ふん に空襲 くうしゅう 警報 けいほう を発令 はつれい した。第 だい 16方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は、敵 てき 機 き の目標 もくひょう は長崎 ながさき と判断 はんだん しラジオを通 つう じて「B-29少数 しょうすう 機 き 、長崎 ながさき 方面 ほうめん に侵入 しんにゅう しつつあり。全員 ぜんいん 退避 たいひ せよ」という放送 ほうそう を繰 く り返 かえ し流 なが させたが、事前 じぜん の空襲 くうしゅう 警報 けいほう やラジオ放送 ほうそう はほとんどの長崎 ながさき 市民 しみん には認知 にんち されておらず(ラジオ放送 ほうそう そのものがなかったという証言 しょうげん もあり)長崎 ながさき 市民 しみん が大 だい 規模 きぼ な避難 ひなん をすることはなかった[371] [372] 。11時 じ 2分 ふん に現在 げんざい の原爆 げんばく 落下 らっか 中心地 ちゅうしんち 公園 こうえん 上空 じょうくう でファットマンがさく裂 れつ し、長崎 ながさき でも一瞬 いっしゅん のうちに23,752人 にん もの市民 しみん の命 いのち が奪 うば われた。
なお、日本 にっぽん 軍 ぐん も原爆 げんばく の開発 かいはつ を試 こころ みたが基礎 きそ 研究 けんきゅう の域 いき は出 で ていなかった(日本 にっぽん の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 開発 かいはつ )。
ソ連 それん 対 たい 日 にち 参戦 さんせん [ 編集 へんしゅう ]
ソ連 それん 軍 ぐん の奇襲 きしゅう [ 編集 へんしゅう ]
その直後 ちょくご に、日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を結 むす んでいたソビエト連邦 れんぽう も、上記 じょうき のヤルタ会談 かいだん での密約 みつやく (ヤルタ協約 きょうやく )を基 もと に、1946年 ねん 4月 がつ まで有効 ゆうこう である日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を破棄 はき し、8月 がつ 8日 にち に対 たい 日 にち 宣戦 せんせん 布告 ふこく をし、日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく の満 まん 洲 しゅう 国 こく へ侵攻 しんこう を開始 かいし した(ソ連 それん 対 たい 日 にち 参戦 さんせん )。当時 とうじ 、満 まん 洲 しゅう 国 こく に駐留 ちゅうりゅう していた日本 にっぽん の関東軍 かんとうぐん は、主力 しゅりょく 部隊 ぶたい を南方 なんぽう 戦線 せんせん や日本 にっぽん 本土 ほんど に引 ひ き抜 ぬ かれて弱体 じゃくたい 化 か していたため、急遽 きゅうきょ 、在郷 ざいきょう 軍人 ぐんじん や居留民 きょりゅうみん から25万 まん 人 にん を動員 どういん し、70万 まん 人 にん の兵力 へいりょく と、戦車 せんしゃ 150輌 りょう 、航空機 こうくうき 150機 き 、火砲 かほう 1000門 もん を揃 そろ えたが、兵士 へいし の多 おお くが老兵 ろうへい で、また装備 そうび の充足 じゅうそく 率 りつ も低 ひく く、真 しん の兵力 へいりょく はこの数 すう 分 ぶん の1に過 す ぎなかった。一方 いっぽう 、アレクサンドル・ヴァシレフスキー 率 ひき いるソ連 それん 軍 ぐん は、兵員 へいいん 1,577,725人 にん と火砲 かほう ・迫撃 はくげき 砲 ほう 26,137門 もん 、戦車 せんしゃ ・自 じ 走 はし 砲 ほう 5,556両 りょう 、航空機 こうくうき 3,446機 き と、関東軍 かんとうぐん を圧倒 あっとう していた[375] 。奇襲 きしゅう を受 う けた関東軍 かんとうぐん であったが、兵力 へいりょく 不足 ふそく を補 おぎな うため満 まん 洲 しゅう の2/3を放棄 ほうき し、居留民 きょりゅうみん 150万 まん 人 にん のうち110万 まん 人 にん が居住 きょじゅう する新 しん 京 きょう と大連 たいれん 間 あいだ を走 はし る「連 れん 京 きょう 線 せん 」と新 しん 京 きょう から図 ず 們 を走 はし る「京 きょう 図 ず 線 せん 」を結 むす ぶ防衛 ぼうえい 線 せん でソ連 それん 軍 ぐん を食 く い止 と めるとする作戦 さくせん 計画 けいかく に基 もと づき、国境 こっきょう の要塞 ようさい に配置 はいち された兵力 へいりょく を除 のぞ き、主力 しゅりょく は満 まん 洲 しゅう 南部 なんぶ への撤退 てったい を開始 かいし した。
国境 こっきょう 要塞 ようさい の奮闘 ふんとう [ 編集 へんしゅう ]
満 まん 洲 しゅう 東部 とうぶ 方面 ほうめん は防衛 ぼうえい 線 せん の最 さい 重要 じゅうよう 地区 ちく であり、特 とく にウスリー河 かわ 対岸 たいがん のソ連 それん 領 りょう イマン(現 げん ・ダリネレチェンスク )を見渡 みわた せる高地 こうち を抱 かか え、長大 ちょうだい な満 まん ソ国境 こっきょう において唯一 ゆいいつ シベリア鉄道 てつどう を視認 しにん できる戦略 せんりゃく 拠点 きょてん であった虎 とら 林 りん に関東軍 かんとうぐん は虎 とら 頭 あたま 要塞 ようさい を構築 こうちく していた。本来 ほんらい であればこの要塞 ようさい が東部 とうぶ 国境 こっきょう 防衛 ぼうえい の要 よう となるはずであったが、関東軍 かんとうぐん の他 ほか の部隊 ぶたい の例 れい にもれず要塞 ようさい 守備 しゅび 隊 たい も兵力 へいりょく は次第 しだい に減 へ らされて、ソ連 それん 参戦 さんせん 時 じ にはわずか1,400人 にん となっていた。要塞 ようさい には避難 ひなん してきた周囲 しゅうい の居留民 きょりゅうみん も収容 しゅうよう していたが、そのうち500人 にん が義勇 ぎゆう 兵 へい となり戦力 せんりょく は1,900人 にん となった。ソ連 それん 軍 ぐん も虎 とら 頭 あたま 要塞 ようさい の堅牢 けんろう さを警戒 けいかい しており、対 たい 日 にち 宣戦 せんせん 布告 ふこく がなされる前 まえ から激 はげ しい砲撃 ほうげき を加 くわ え、その量 りょう はわずか2日 にち で7,000トンにも達 たっ したが、要塞 ようさい は健在 けんざい であった。その後 ご わずか1,900人 にん に対 たい し、2個 こ 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん 、1個 いっこ 戦車 せんしゃ 旅団 りょだん で攻撃 こうげき してきたが、日本 にっぽん で唯一 ゆいいつ 配備 はいび されていた試製 しせい 四 よん 十 じゅう 一 いち 糎 せんちめーとる 榴弾 りゅうだん 砲 ほう や長 ちょう 射程 しゃてい の九 きゅう 〇式 しき 二 に 十 じゅう 四 よん 糎 せんちめーとる 列車 れっしゃ 加 か 農 のう 、七 なな 年 ねん 式 しき 三 さん 十 じゅう 糎 せんちめーとる 長 ちょう 榴弾 りゅうだん 砲 ほう ・四 よん 五 ご 式 しき 二 に 十 じゅう 四 よん 糎 せんちめーとる 榴弾 りゅうだん 砲 ほう などの巨 きょ 砲 ほう を駆使 くし し、圧倒的 あっとうてき 戦力 せんりょく のソ連 それん 軍 ぐん に大 だい 損害 そんがい を与 あた えて2週間 しゅうかん も足止 あしど めし、8月 がつ 20日 はつか に陥落 かんらく した時 とき には兵士 へいし と居留民 きょりゅうみん の生存 せいぞん 者 しゃ はわずか500人 にん となっていた。
牡丹 ぼたん 江 こう においても第 だい 5軍 ぐん 指揮 しき 下 か の予備 よび 士官 しかん 学校 がっこう の候補 こうほ 生 せい で編成 へんせい された特設 とくせつ 荒木 あらき 歩兵 ほへい 連隊 れんたい が、ソ連 それん 軍 ぐん の重 じゅう 戦車 せんしゃ 相手 あいて に肉弾 にくだん 特攻 とっこう で応戦 おうせん 、身体 しんたい に爆雷 ばくらい を結 むす び付 つ けての戦車 せんしゃ への体当 たいあ たり攻撃 こうげき でソ連 それん 軍 ぐん 戦車 せんしゃ 5~6輌 りょう を撃破 げきは して攻撃 こうげき を撃退 げきたい し続 つづ けるなど、8月 がつ 13日 にち までは戦線 せんせん を守 まも り抜 ぬ いた。こうして一部 いちぶ 戦線 せんせん ではソ連 それん 軍 ぐん の足止 あしど めに成功 せいこう していたものの、戦線 せんせん を突破 とっぱ したソ連 それん 軍 ぐん 機械 きかい 化 か 部隊 ぶたい の進撃 しんげき 速度 そくど は早 はや く、その急進 きゅうしん 撃 げき に恐 おそ れをなした大本営 だいほんえい や関東 かんとう 軍 ぐん は主力 しゅりょく の防衛 ぼうえい 線 せん を「連 れん 京 きょう 線 せん 」と「京 きょう 図 ず 線 せん 」を結 むす ぶ複 ふく 廓 くるわ 陣地 じんち からさらに後退 こうたい した通 つう 化 か 周辺 しゅうへん とするよう命令 めいれい を出 だ した。しかし、その命令 めいれい を聞 き いた第 だい 3方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 後宮 こうきゅう 淳 あつし 大将 たいしょう は、「110万 まん 人 にん の居留民 きょりゅうみん を見捨 みす てることなど関東 かんとう 軍 ぐん の面目 めんぼく が許 ゆる さない」「軍 ぐん は居留民 きょりゅうみん と共 とも に生 い き居留民 きょりゅうみん と共 とも に死 し ぬ」と述 の べて撤退 てったい を拒否 きょひ 、隷下 れいか の第 だい 30軍 ぐん に「新 しん 京 きょう を死守 ししゅ してほしい。本官 ほんかん は奉天 ほうてん を死守 ししゅ する」と命 めい じている。
居留民 きょりゅうみん の悲劇 ひげき [ 編集 へんしゅう ]
道路 どうろ 工事 こうじ をする満 まん 洲 しゅう 開拓 かいたく 団 だん の居留民 きょりゅうみん
関東軍 かんとうぐん はソ連 それん 攻撃 こうげき 時 じ の満 まん 洲 しゅう 居留民 きょりゅうみん に対 たい する方針 ほうしん について検討 けんとう を先送 さきおく りして具体 ぐたい 的 てき な対策 たいさく を決 き めていなかった。しかし、関東軍 かんとうぐん が居留民 きょりゅうみん 退避 たいひ に対 たい して無 む 関心 かんしん であったということではなく、ソ連 それん による中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく 破棄 はき 通告 つうこく があったときには、関東軍 かんとうぐん 司令 しれい 部 ぶ は各省 かくしょう の首脳 しゅのう や開拓 かいたく 団 だん の代表 だいひょう 者 しゃ を招集 しょうしゅう し「近 ちか く予想 よそう されるソ連 それん の侵攻 しんこう に対 たい する準備 じゅんび 」を議題 ぎだい として長時間 ちょうじかん の討議 とうぎ を行 おこな っている。その席 せき で開拓 かいたく 団 だん はおおむね楽観 らっかん 的 てき で「満 まん 洲 しゅう は我 われ ら墳墓 ふんぼ の地 ち 、移 うつ るとすれば天国 てんごく のみ」とか「ソ連 それん の侵攻 しんこう に対 たい しては、老若 ろうにゃく 婦女子 ふじょし も剣 けん を持 も って起 た ち、軍 ぐん と運命 うんめい をともにすることを光栄 こうえい とする」などの意見 いけん が出 だ されて、関東軍 かんとうぐん より提案 ていあん のあった退避 たいひ には消極 しょうきょく 的 てき であった。関東軍 かんとうぐん はその後 ご も居留民 きょりゅうみん に日本 にっぽん 本土 ほんど への退避 たいひ を促 うなが したが、日本 にっぽん 本土 ほんど はB-29の空襲 くうしゅう が開始 かいし されていたのに加 くわ え、満 まん 洲 しゅう は食料 しょくりょう などの物資 ぶっし が豊富 ほうふ であり、積極 せっきょく 的 てき に退避 たいひ する居留民 きょりゅうみん は少 すく なかった。
8月 がつ 9日 にち にソ連 それん 参戦 さんせん の情報 じょうほう が入 はい ると関東軍 かんとうぐん は慌 あわ てて国境 こっきょう 付近 ふきん に居住 きょじゅう している居留民 きょりゅうみん に速 すみ やかな避難 ひなん を示達 じたつ したが、混乱 こんらん のなかで十分 じゅうぶん には伝 つた わらなかった。満 まん 洲 しゅう 国 こく の首都 しゅと 新 しん 京 きょう においては、満 まん 洲 しゅう 国 こく と日本 にっぽん 政府 せいふ の関係 かんけい 者 しゃ 、関東軍 かんとうぐん 、南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう などが集 あつ まって対策 たいさく 会議 かいぎ が開催 かいさい され、軍 ぐん からは新 しん 京 きょう 防衛 ぼうえい 戦 せん のため居留民 きょりゅうみん の速 すみ やかな退避 たいひ の要求 ようきゅう があり、政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ からは「新 しん 京 きょう 陥落 かんらく まで家族 かぞく と踏 ふ みとどまる」などの意見 いけん が出 だ され、最終 さいしゅう 的 てき には南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう が避難 ひなん のための臨時 りんじ 列車 れっしゃ を出 だ し、8月 がつ 10日 にち 午後 ごご 6時 じ を一 いち 便 びん として「居留民 きょりゅうみん 」「政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ 」「軍 ぐん 」の順 じゅん で新 しん 京 きょう から退避 たいひ することが決定 けってい された。しかし、状況 じょうきょう が切迫 せっぱく する中 なか で、老人 ろうじん 、妊 にん 婦 ふ 、病人 びょうにん が優先 ゆうせん される以外 いがい については駅 えき に到着 とうちゃく 次第 しだい 順 じゅん に列車 れっしゃ に詰 つ め込 こ まれるという状況 じょうきょう になって、「居留民 きょりゅうみん 」「政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ 」「軍 ぐん 」の順 じゅん は最初 さいしょ から崩 くず れてしまった。結局 けっきょく 、避難 ひなん 列車 れっしゃ 第 だい 一 いち 便 びん も大 おお きく遅延 ちえん し、8月 がつ 11日 にち 1:40に新 しん 京 きょう を出発 しゅっぱつ した。この後 のち も2時 じ 間 あいだ おきに列車 れっしゃ が出発 しゅっぱつ したが、故障 こしょう 続発 ぞくはつ で避難 ひなん は捗 はかど らなかった。もっと悲惨 ひさん な状況 じょうきょう となったのは国境 こっきょう などの辺境 へんきょう からの避難 ひなん 民 みん で、ソ連 それん 軍 ぐん や暴民 ぼうみん からの暴虐 ぼうぎゃく によって凌辱 りょうじょく されたり、命 いのち をうしなうものも多数 たすう に上 のぼ って、戦時 せんじ 中 ちゅう に死亡 しぼう した居留民 きょりゅうみん は3万 まん 人 にん にも上 のぼ った。暴虐 ぼうぎゃく な目 め にあわなかった避難 ひなん 民 みん も飢餓 きが や疫病 えきびょう に苦 くる しみ、やむを得 え ず我 わ が子 こ を現地 げんち 民 みん に託 たく すこともあり、後 のち に中国 ちゅうごく 残留 ざんりゅう 孤児 こじ 問題 もんだい として残 のこ ることとなった。
庇護 ひご を失 うしな った住民 じゅうみん を救 すく うため、関東軍 かんとうぐん の一部 いちぶ 将兵 しょうへい や鉄道 てつどう 警備 けいび 隊 たい や警官 けいかん などが乏 とぼ しい装備 そうび でソ連 それん 軍 ぐん に立 た ち向 む かい鋒 ほこさき 鏑 かぶら に倒 たお れるといった悲壮 ひそう な状況 じょうきょう も各地 かくち で見 み られることとなった。その例 れい として、関東軍 かんとうぐん 第 だい 5練習 れんしゅう 飛行 ひこう 隊 たい の二ノ宮 にのみや 清 きよし 准尉 じゅんい ら10人 にん が、葛根 かずらね 廟 びょう 事件 じけん などの虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん を目 ま のあたりにし、ソ連 それん 軍 ぐん に一 いち 撃 げき を加 くわ え居留民 きょりゅうみん の避難 ひなん する時 とき 間 あいだ を稼 かせ ぐために、10機 き の練習 れんしゅう 機 き で特攻 とっこう 出撃 しゅつげき した「神州 しんしゅう 不滅 ふめつ 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい 」がある。特攻 とっこう 機 き には特攻隊 とっこうたい 員 いん の婚約 こんやく 者 しゃ の女性 じょせい 2人 にん も同乗 どうじょう しており、特攻隊 とっこうたい 員 いん 10人 にん と婚約 こんやく 者 しゃ 2人 にん はソ連 それん 軍 ぐん 戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい に特攻 とっこう し戦死 せんし した[385] 。
関東軍 かんとうぐん は、各 かく 戦域 せんいき で敢闘 かんとう して一部 いちぶ でソ連 それん 軍 ぐん の進撃 しんげき 速度 そくど を遅 おく らせ、居留民 きょりゅうみん の避難 ひなん の時間 じかん 稼 かせ ぎをしたが満 まん 洲 しゅう 全域 ぜんいき においては多 おお くの居留民 きょりゅうみん が戦禍 せんか に巻 ま き込 こ まれることとなり、1945年 ねん 時点 じてん で満 まん 洲 しゅう に在住 ざいじゅう した150万 まん 人 にん の居留民 きょりゅうみん のうち、戦時 せんじ 中 ちゅう に死亡 しぼう した3万 まん 人 にん に加 くわ え、戦後 せんご に餓死 がし ・病死 びょうし したり行方 ゆくえ 不明 ふめい になったものも含 ふく めると13万 まん 人 にん が帰 かえ らぬ人 ひと となった。それでも、満 まん 洲 しゅう からは朝鮮半島 ちょうせんはんとう 経由 けいゆ も含 ふく めて約 やく 135万 まん 人 にん が戦後 せんご に日本 にっぽん 本土 ほんど に帰国 きこく できた。結果 けっか 的 てき に多 おお くの居留民 きょりゅうみん を避難 ひなん させることに成功 せいこう した関東軍 かんとうぐん に対 たい して、ソ連 それん (現 げん ロシア)には、「関東軍 かんとうぐん は臨機応変 りんきおうへん に後退 こうたい し、避難 ひなん 民 みん 撤退 てったい の時間 じかん 稼 かせ ぎをしながら、持久 じきゅう 戦 せん を展開 てんかい した。ソ連 それん 軍 ぐん は、8月 がつ 13日 にち に牡丹 ぼたん 江 え を占領 せんりょう したが、15日 にち の時点 じてん では、満 まん 洲 しゅう の主要 しゅよう 都市 とし は陥落 かんらく していなかった」という肯定 こうてい 的 てき な評価 ひょうか もある[375] 。
ミズーリ 艦上 かんじょう にて日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい するダグラス・マッカーサー(1945年 ねん 9月 がつ 2日 にち )
8月 がつ 9日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ において昭和 しょうわ 天皇 てんのう が「戦争 せんそう 指導 しどう については、先 さき の(6月 がつ 8日 にち )で決定 けってい しているが、他面 ためん 、戦争 せんそう の終結 しゅうけつ についても、この際 さい 従来 じゅうらい の観念 かんねん にとらわれることなく、速 すみ やかに具体 ぐたい 的 てき 研究 けんきゅう を遂 と げ、これを実現 じつげん するよう努力 どりょく せよ」と戦争 せんそう 終結 しゅうけつ のことを口 くち にした。本土 ほんど 決戦 けっせん による「一撃 いちげき 講和 こうわ 」を諦 あきら めきれない陸軍 りくぐん 内 ない で混乱 こんらん が深 ふか まったが、首相 しゅしょう の鈴木 すずき が天皇 てんのう に発言 はつげん を促 うなが し、天皇 てんのう 自身 じしん が和平 わへい を望 のぞ んでいることを直接 ちょくせつ 口 くち にしたことにより、昭和 しょうわ 天皇 てんのう からの信頼 しんらい が厚 あつ かった陸軍 りくぐん 大臣 だいじん の阿南 あなみ 惟幾 これちか が、徹底 てってい 抗戦 こうせん を主張 しゅちょう する青年 せいねん 将校 しょうこう らを「御 ご 聖断 せいだん は下 くだ ったのである。いまはそれに従 したが うばかりである。不服 ふふく のものは自分 じぶん の屍 かばね を越 こ えていけ」と身 み を挺 てい して説 と き伏 ふ せ、8月 がつ 14日 にち 、終戦 しゅうせん の詔書 しょうしょ が発 はっ されポツダム宣言 せんげん を受諾 じゅだく (日本 にっぽん の降伏 ごうぶく )することになった。その後 ご も米 べい 軍 ぐん による爆 ばく 撃 げき は続 つづ き、グアム島 とう からの第 だい 315爆撃 ばくげき 団 だん B-29、134機 き が8月 がつ 14日 にち 午後 ごご 10時 じ から8月 がつ 15日 にち 午前 ごぜん 3時 じ まで日本石油 にほんせきゆ 秋田 あきた 製油 せいゆ 所 しょ まで爆 ばく 弾 だん 12,000発 はつ を投下 とうか し、87名 めい の従業 じゅうぎょう 員 いん らが爆 ばく 死 し した[47] 。敗戦 はいせん と玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう の実施 じっし を知 し った一部 いちぶ の陸軍 りくぐん 青年 せいねん 将校 しょうこう グループが、玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう が録音 ろくおん されたレコード の奪還 だっかん をもくろんで8月 がつ 15日 にち 未明 みめい に宮 みや 内省 ないせい などを襲撃 しゅうげき する事件 じけん を起 お こしたが(宮城 みやぎ 事件 じけん )、これは陸軍 りくぐん 自身 じしん によって鎮圧 ちんあつ された。8月 がつ 15日 にち 正午 しょうご 、昭和 しょうわ 天皇 てんのう の玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう が放送 ほうそう された。
8月 がつ 16日 にち 、大本営 だいほんえい は全 ぜん 軍 ぐん に対 たい して、戦闘 せんとう 行為 こうい を停止 ていし するよう命令 めいれい を発 はっ した。この後 のち 、鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく 。玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう の後 のち には、海軍 かいぐん において一部 いちぶ 将兵 しょうへい が徹底 てってい 抗戦 こうせん を呼 よ びかけるビラ を撒 ま いたり停戦 ていせん 連絡 れんらく 機 き を破壊 はかい したりして抵抗 ていこう (厚木 あつぎ 航空 こうくう 隊 たい 事件 じけん )した他 ほか は大 おお きな反乱 はんらん は起 お こらなかった。8月17~18日 にち に起 お きた米 べい 軍機 ぐんき への迎撃 げいげき (「B-32 (航空機 こうくうき )#歴史 れきし 」参照 さんしょう )を最後 さいご に内地 ないち の日本 にっぽん 軍 ぐん は戦闘 せんとう を停止 ていし したが、後述 こうじゅつ するように、日本 にっぽん 軍民 ぐんみん への攻撃 こうげき を続 つづ けるソ連 それん 軍 ぐん への抗戦 こうせん (占 うらない 守 もり 島 とう の戦 たたか い など)を中心 ちゅうしん に外地 がいち では戦闘 せんとう が一部 いちぶ 続 つづ いた。
翌日 よくじつ には連合 れんごう 国軍 こくぐん が中立 ちゅうりつ 国 こく のスイス を通 つう じて、占領 せんりょう 軍 ぐん の日本 にっぽん 本土 ほんど への受 う け入 い れや各地 かくち に展開 てんかい する日本 にっぽん 軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ を進 すす めるための停戦 ていせん 連絡 れんらく 機 き の派遣 はけん を依頼 いらい し、19日 にち には日本 にっぽん 側 がわ の停戦 ていせん 全権 ぜんけん 委員 いいん が一式 いっしき 陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き でフィリピンのマニラへと向 む かうなど、イギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん に対 たい する停戦 ていせん と武装 ぶそう 解除 かいじょ は順調 じゅんちょう に遂行 すいこう された。
8月 がつ 28日 にち 、連合 れんごう 国軍 こくぐん による日本 にっぽん 占領 せんりょう 部隊 ぶたい の第 だい 一 いち 弾 だん としてアメリカ軍 ぐん の先遣 せんけん 部隊 ぶたい が厚木 あつぎ 飛行場 ひこうじょう に到着 とうちゃく し、8月 がつ 30日 にち には後 のち に連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ/SCAP)の総 そう 司令 しれい 官 かん として連合 れんごう 国 こく による日本 にっぽん 占領 せんりょう の指揮 しき に当 あ たることになるアメリカ陸軍 りくぐん のマッカーサー大将 たいしょう も同 どう 基地 きち に到着 とうちゃく し、続 つづ いてイギリス軍 ぐん やオーストラリア軍 ぐん などの日本 にっぽん 占領 せんりょう 部隊 ぶたい も到着 とうちゃく した。
9月2日 にち には、東京 とうきょう 湾 わん 内 うち に停泊 ていはく したアメリカ海軍 かいぐん の戦艦 せんかん 「ミズーリ 」において、イギリス、アメリカ、中華民国 ちゅうかみんこく 、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合 れんごう 諸国 しょこく 17カ国 かこく の代表 だいひょう 団 だん の臨席 りんせき [注 ちゅう 17] の下 した 、日本 にっぽん 政府 せいふ 全権 ぜんけん 重光 しげみつ 葵 まもる 外務 がいむ 大臣 だいじん と、大本営 だいほんえい 全権 ぜんけん 梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう 参謀 さんぼう 総長 そうちょう による対 たい 連合 れんごう 国 こく 降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ への調印 ちょういん がなされ、ここに1939年 ねん 9月 がつ 1日 にち より6年 ねん にわたって続 つづ いた第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん は終結 しゅうけつ した。
関東軍 かんとうぐん の降伏 ごうぶく [ 編集 へんしゅう ]
関東軍 かんとうぐん 降伏 ごうぶく の様子 ようす を描 えが いた絵画 かいが
玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう が全日本 ぜんにほん 軍 ぐん に降伏 ごうぶく を知 し らせた翌 よく 8月 がつ 16日 にち になっても満 まん 洲 しゅう では戦闘 せんとう が継続 けいぞく していた。モスクワの総 そう 司令 しれい 部 ぶ はヴァシレフスキーに「8月 がつ 14日 にち の天皇 てんのう による日本 にっぽん の降伏 ごうぶく に関 かん する通告 つうこく は、無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく の一般 いっぱん 的 てき 声明 せいめい に過 す ぎない」「ソ連 それん 軍 ぐん は極東 きょくとう での日本 にっぽん への攻撃 こうげき 作戦 さくせん を継続 けいぞく するべし」という命令 めいれい を出 だ して、日本 にっぽん 軍 ぐん が激 はげ しく抵抗 ていこう している虎 とら 頭 あたま 要塞 ようさい などに猛攻 もうこう を続 つづ けていた。スターリンは日本 にっぽん 軍 ぐん が抵抗 ていこう を止 と めないことを理由 りゆう にして、一気 いっき に北海道 ほっかいどう の北 きた 半分 はんぶん まで侵攻 しんこう しようと画策 かくさく していたが、トルーマンは「日本 にっぽん 本土 ほんど の全 すべ ての島 しま にいる日本 にっぽん 武装 ぶそう 兵力 へいりょく はマッカーサー将軍 しょうぐん に降伏 ごうぶく するものである」とスターリンの画策 かくさく を真 ま っ向 こう から否定 ひてい した。それでもスターリンは極東 きょくとう ソ連 それん 軍 ぐん の侵攻 しんこう の手 て を緩 ゆる めることはなく「関東軍 かんとうぐん の破砕 はさい 、全 ぜん 満 まん 洲 しゅう 、北朝鮮 きたちょうせん 、南 みなみ 樺太 からふと 、千島 ちしま を解放 かいほう せよ」と命 めい じている。一方 いっぽう 、関東軍 かんとうぐん 司令 しれい 官 かん の山田 やまだ 乙 おつ 三 さん 大将 たいしょう は17日 にち に各 かく 部隊 ぶたい に停戦 ていせん 命令 めいれい を下達 かたつ し、ヴァシレフスキーに接触 せっしょく を試 こころ みていたが、8月 がつ 19日 にち になってようやく直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう による停戦 ていせん が実現 じつげん した。結局 けっきょく 、国境 こっきょう 付近 ふきん で激 はげ しい戦闘 せんとう はあったものの、関東軍 かんとうぐん 主力 しゅりょく は殆 ほとん どソ連 それん 軍 ぐん と戦闘 せんとう することなく降伏 ごうぶく し、捕虜 ほりょ となった将兵 しょうへい は70万 まん 人 にん にも上 のぼ ったが、そのうち57万 まん 人 にん がポツダム宣言 せんげん の第 だい 9条 じょう の規定 きてい に反 はん して強制 きょうせい 労働 ろうどう のためにシベリア に送 おく られ、劣悪 れつあく な環境 かんきょう での強制 きょうせい 労働 ろうどう で7万 まん 人 にん 以上 いじょう が死亡 しぼう した(シベリア抑留 よくりゅう )。日本 にっぽん の後 うし ろ盾 たて を失 うしな った満 まん 洲 しゅう 国 こく は事実 じじつ 上 じょう 崩壊 ほうかい し、8月 がつ 18日 にち に退位 たいい した皇帝 こうてい 愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥儀 ふぎ ら満 まん 洲 しゅう 国 こく 首脳 しゅのう は日本 にっぽん への逃命を図 はか るも、侵攻 しんこう してきたソ連 それん 軍 ぐん によって身柄 みがら を拘束 こうそく された。
満 まん 洲 しゅう での戦闘 せんとう は終 お わったが、ソ連 それん 軍 ぐん は樺太 からふと と千島 ちしま への侵攻 しんこう を続 つづ けた。樺太 からふと の戦 たたか い で樺太 からふと を占領 せんりょう 、8月 がつ 22日 にち には樺太 からふと からの引 ひ き揚 あ げ船 せん 3隻 せき がソ連 それん 潜水 せんすい 艦 かん の攻撃 こうげき で撃 げき 沈破されている(三船 みふね 殉難 じゅんなん 事件 じけん )。千島 ちしま 列島 れっとう にも侵攻 しんこう し占 うらない 守 もり 島 とう の戦 たたか い で大 おお きな損害 そんがい を被 こうむ ったものの、その後 ご も千島 ちしま 列島 れっとう を南下 なんか し続 つづ けた。マッカーサーの回想 かいそう によれば、連合 れんごう 軍 ぐん のソ連 それん 代表 だいひょう であったクズマ・デレビヤンコ 中将 ちゅうじょう は、日本 にっぽん に進駐 しんちゅう 後 ご に一緒 いっしょ に行動 こうどう していたマッカーサーに対 たい して「ソ連 それん 軍 ぐん は北海道 ほっかいどう に上陸 じょうりく し、日本 にっぽん をアメリカと二分 にぶん する」と詰 つ め寄 よ ってきたのに対 たい して、マッカーサーは「ソ連 それん 兵 へい が自分 じぶん の許可 きょか なく日本 にっぽん に入 はい ったらデレビヤンコ将軍 しょうぐん 自身 じしん も含 ふく めてソ連 それん 代表 だいひょう 部 ぶ の全員 ぜんいん を即座 そくざ に投獄 とうごく する」と脅 おど してソ連 それん 軍 ぐん の上陸 じょうりく を阻止 そし したと主張 しゅちょう しているが、ソ連 それん 軍 ぐん の侵攻 しんこう は止 と まることはなく、南 みなみ 千 せん 島 とう を占領 せんりょう したのち、9月1日 にち に色丹島 しこたんとう 、そして9月 がつ 4日 にち に歯舞諸島 はぼまいしょとう へ上陸 じょうりく してソ連 それん 領土 りょうど とした。その間 あいだ 、北海道 ほっかいどう にはアメリカ軍 ぐん は全 まった くおらず、ようやく10月 がつ 4日 にち になって第 だい 77歩兵 ほへい 師団 しだん (英語 えいご 版 ばん ) が函館 はこだて に上陸 じょうりく しており、ソ連 それん の侵攻 しんこう には全 まった く対抗 たいこう できていなかった[393] 。ソ連 それん 軍 ぐん に占領 せんりょう された島 しま のうち、択捉島 えとろふとう 、国後島 くなしりとう 、色丹島 しこたんとう 、そして歯舞 はぼまい 群島 ぐんとう をあわせた4つの島 しま については日本 にっぽん が領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう して返還 へんかん を求 もと めているが、ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご に4島 とう を実効 じっこう 支配 しはい しているロシア連邦 れんぽう が自国 じこく の領土 りょうど と主張 しゅちょう して返還 へんかん に応 おう じていない[394] 。
海外 かいがい 在住 ざいじゅう の日系 にっけい 人 じん [ 編集 へんしゅう ]
マンザナー強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ
戦前 せんぜん から日本人 にっぽんじん 移民 いみん が生粋 きっすい の自 じ 国民 こくみん の職 しょく を奪 うば うとしてアメリカ、オーストラリア、カナダ 、ペルー 、ブラジル などをはじめに移民 いみん 排斥 はいせき 運動 うんどう が行 おこな われていた。このことは、欧米 おうべい と日本 にっぽん の信頼 しんらい 関係 かんけい を低下 ていか させることに繋 つな がると共 とも に移民 いみん 者 しゃ は差別 さべつ や偏見 へんけん を受 う けていた[注 ちゅう 18] 。太平洋戦争 たいへいようせんそう が始 はじ まるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北 なんぼく アメリカの13カ国 かこく やオーストラリアなどの連合 れんごう 国 こく は、日本人 にっぽんじん 移民 いみん のみならず、それらの国 くに の国籍 こくせき を持 も つ日系 にっけい の自 じ 国民 こくみん までも「敵性 てきせい 市民 しみん 」として財産 ざいさん を没収 ぼっしゅう し、アメリカや自国 じこく 内 ない の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に強制 きょうせい 収容 しゅうよう させた[注 ちゅう 19] 。アメリカの移民 いみん 日本人 にっぽんじん 1世 せい はこの行為 こうい に対 たい し憤慨 ふんがい し日章旗 にっしょうき を掲 かか げるなど遺憾 いかん の意 い を示 しめ した。その一方 いっぽう でアメリカ育 そだ ちの移民 いみん 日本人 にっぽんじん 2世 せい の若者 わかもの 達 たち の中 なか には祖国 そこく への忠誠 ちゅうせい 心 しん を示 しめ すために志願 しがん 、第 だい 442連隊 れんたい 戦闘 せんとう 団 だん が組織 そしき され欧州 おうしゅう 戦線 せんせん [注 ちゅう 20] の最前線 さいぜんせん に送 おく られ活躍 かつやく した。このことは2世 せい が名実 めいじつ 共 ども にアメリカ人 じん として認 みと められた一方 いっぽう で、1世 せい と2世 せい の激 はげ しい対立 たいりつ を生 う み出 だ し禍根 かこん を残 のこ した。
関与 かんよ した各国 かっこく における経済 けいざい 損失 そんしつ は莫大 ばくだい な規模 きぼ と考 かんが えられるが、ここでは人的 じんてき 被害 ひがい について記 しる す。
太平洋戦争 たいへいようせんそう における日本 にっぽん の犠牲 ぎせい 者 しゃ については、軍民 ぐんみん 併 あわ せて310万 まん 人 にん とされることが多 おお いが誤認 ごにん である[395] 。 これは、毎年 まいとし 8月 がつ 15日 にち に開催 かいさい されている全国 ぜんこく 戦没 せんぼつ 者 しゃ 追悼 ついとう 式 しき で追悼 ついとう される戦没 せんぼつ 者 しゃ が310万 まん 人 にん とされていることから生 しょう じる誤認 ごにん と思 おも われるが、全国 ぜんこく 戦没 せんぼつ 者 しゃ 追悼 ついとう 式 しき の戦没 せんぼつ 者 しゃ の範囲 はんい は、1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )5月 がつ 14日 にち の閣議 かくぎ 決定 けってい によって「支 ささえ 那 な 事変 じへん 以降 いこう の戦争 せんそう による死没 しぼつ 者 しゃ (軍人 ぐんじん ・軍属 ぐんぞく 及 およ び準 じゅん 軍属 ぐんぞく のほか、外地 がいち において非命 ひめい にたおれた者 もの 、内地 ないち における戦災 せんさい 死没 しぼつ 者 しゃ 等 とう をも含 ふく む者 もの とする。)とする」と定 さだ められており、[14] 、太平洋戦争 たいへいようせんそう に加 くわ えて、盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん に端 はし を発 はっ する日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう やその後 ご のノモンハン事件 じけん などの国際 こくさい 紛争 ふんそう の戦没 せんぼつ 者 しゃ の累計 るいけい で、なおかつ、戦後 せんご に日本 にっぽん 内地 ないち 引 ひ き揚 あ げ までに行方 ゆくえ 不明 ふめい となった者 もの や、戦犯 せんぱん として刑死 けいし した者 もの 、シベリア抑留 よくりゅう など捕虜 ほりょ として死亡 しぼう した者 もの も戦争 せんそう 犠牲 ぎせい 者 しゃ として集計 しゅうけい されている[10] 。 また、厚生 こうせい 労働省 ろうどうしょう が実施 じっし している遺骨 いこつ 収集 しゅうしゅう 事業 じぎょう の対象 たいしょう となっている海外 かいがい 戦没 せんぼつ 者 しゃ 2,400,000人 にん には、沖縄 おきなわ の対象 たいしょう 者 しゃ が188,140人 にん であるように、軍人 ぐんじん ・軍属 ぐんぞく だけではなく民間 みんかん 人 じん 犠牲 ぎせい 者 しゃ も含 ふく まれている[396] 。
中華民国 ちゅうかみんこく と、満 まん 洲 しゅう 国 こく および中華民国 ちゅうかみんこく 南京 なんきん 政府 せいふ との分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい にあった中国 ちゅうごく 大陸 たいりく については民間 みんかん 人 じん の死者 ししゃ 数 すう は記載 きさい せず、「その他 た 」で記載 きさい [注 ちゅう 21] [397] 。
国名 こくめい
参戦 さんせん 期間 きかん
主戦 しゅせん 場 じょう
犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう (戦闘 せんとう 員 いん )
犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう (民間 みんかん )
備考 びこう
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく
1941-1945
太平洋 たいへいよう
戦死 せんし 者 しゃ 156,283人 にん [398] ~196,265人 にん (戦闘 せんとう 外 がい での死者 ししゃ を含 ふく む)[399] ・戦傷 せんしょう 者 しゃ 248,316名 めい [400]
1,726人 にん 以上 いじょう
民間 みんかん 人 じん の犠牲 ぎせい 者 しゃ は抑留 よくりゅう により992人 にん が死亡 しぼう 、544人 にん が不明 ふめい 、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき で68人 にん 、グアム島 とう で1人 ひとり 、ウェイク島 とう で83人 にん 、ロサンゼルスの戦 たたか い で8人 にん [401] 、アッツ島 とう で20人 にん 、風船 ふうせん 爆 ばく 弾 だん で6人 にん など
フィリピン(ユサッフェ)
1941-1945
フィリピン、沖縄 おきなわ
戦死 せんし 者 しゃ 98,000人 にん
1,000,000人 にん [403]
大 だい 英 えい 帝国 ていこく
1941-1945
東南 とうなん アジア、インド、インドシナ
戦死 せんし 者 しゃ 86,838人 にん ・ 戦死 せんし 傷者 しょうしゃ 合計 ごうけい 227,131人 にん
不明 ふめい
オランダ
1941-1942
インドネシア
27,600人 にん (民間 みんかん の犠牲 ぎせい 者 しゃ も含 ふく む)
—
中華民国 ちゅうかみんこく (重慶 たーちん 政府 せいふ )
1941-1945
中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 、ビルマ
戦死 せんし 者 しゃ 1,319,000–4,000,000人 にん [405] [406] 軍 ぐん の死傷 ししょう 者 しゃ 合計 ごうけい 3,211,000–10,000,000人 にん [406] [407] [408] [409]
死傷 ししょう 3,500万 まん 人 にん [14]
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく による公表 こうひょう 値 ち
八 はち 路 ろ 軍 ぐん ・新 しん 四 よん 軍 ぐん
1941-1945
満 まん 洲 しゅう ・中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 等 とう
戦死 せんし 傷者 しょうしゃ 584,267人 にん [410]
—
国共 こっきょう 合作 がっさく により中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん と協力 きょうりょく した中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 軍 ぐん
オーストラリア
1941-1942
ビルマ、インド、インドシナ
戦死 せんし 者 しゃ 19,189人 にん [411]
735人 にん [412] [14]
ニュージーランド
1941-1942
ビルマ、インド、インドシナ
戦死 せんし 者 しゃ 11,671人 にん [413]
不明 ふめい
自由 じゆう フランス
1945-
インドシナ
戦死 せんし 者 しゃ 5,000人 にん [414]
不明 ふめい
ソビエト連邦 れんぽう
1945.8.28-
モンゴル、満 まん 洲 しゅう 、樺太 からふと 、千島 ちしま 列島 れっとう
戦死 せんし 者 しゃ 22,694人 にん ・戦傷 せんしょう 者 しゃ 40,377人 にん
なし
ノモンハン事件 じけん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を含 ふく む
蒙 こうむ 古 こ 人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく
1945-
モンゴル、満 まん 洲 しゅう
不明 ふめい
なし
その他 た の戦闘 せんとう や戦争 せんそう が絡 から んだ弾圧 だんあつ 行為 こうい 、強制 きょうせい 労働 ろうどう など、太平洋戦争 たいへいようせんそう (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう も含 ふく む)に巻 ま き込 こ まれて亡 な くなった人数 にんずう など、アジアなどの戦闘 せんとう が起 お きた地域 ちいき のみに限 かぎ らず記載 きさい [注 ちゅう 22] 。(各国 かっこく 政府 せいふ 主張 しゅちょう に基 もと づく数値 すうち [14] )
戦災 せんさい 国名 こくめい (地域 ちいき )
戦時 せんじ 中 ちゅう の人口 じんこう
犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう
備考 びこう
中国 ちゅうごく 大陸 たいりく (民衆 みんしゅう )
4億 おく 人 にん
死傷 ししょう 者 しゃ 約 やく 3,500万 まん 人 にん [14]
両 りょう 軍 ぐん の戦闘 せんとう の巻 ま き添 ぞ え、労務者 ろうむしゃ としての徴用 ちょうよう など
ベトナム
1400万 まん 人 にん
推定 すいてい 約 やく 200万 まん 人 にん
強制 きょうせい 供出 きょうしゅつ による飢餓 きが
インドネシア
6150万 まん 人 にん
推定 すいてい 約 やく 200万 まん 人 にん
労務者 ろうむしゃ としての徴発 ちょうはつ
フィリピン
1630万 まん 人 にん
推定 すいてい 約 やく 105万 まん 人 にん
両 りょう 軍 ぐん の戦闘 せんとう の巻 ま き添 ぞ え
シンガポール
561万 まん 人 にん
推計 すいけい 約 やく 50,000人 にん [415]
日本 にっぽん 軍 ぐん による虐殺 ぎゃくさつ
マレーシア
ビルマ
1500万 まん 人 にん
最大 さいだい 約 やく 100万 まん 人 にん
泰緬鉄道 たいめんてつどう の労務者 ろうむしゃ 、戦闘 せんとう の巻 ま き添 ぞ え、飢餓 きが 疫病 えきびょう
※各国 かっこく 犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう には飢饉 ききん による推定 すいてい 死者 ししゃ 数 すう も上乗 うわの せされている。
主 おも な艦船 かんせん の損失 そんしつ 数 すう [ 編集 へんしゅう ]
坊ノ岬 ぼうのみさき 沖 おき 海戦 かいせん で爆沈 ばくちん する戦艦 せんかん 大和 やまと
参戦 さんせん 国 こく の太平洋 たいへいよう における主要 しゅよう 艦艇 かんてい の損失 そんしつ 数 すう 、終戦 しゅうせん 後 ご に廃棄 はいき された艦船 かんせん は除外 じょがい
各国 かっこく の艦艇 かんてい 損失 そんしつ 数 すう [416] [417] [418] [419] [420] [421]
国名 こくめい
空母 くうぼ ・護衛 ごえい 空母 くうぼ ・水上 すいじょう 機 き 母艦 ぼかん
戦艦 せんかん ・巡 じゅん 洋 よう 戦艦 せんかん
巡洋艦 じゅんようかん
駆逐 くちく 艦 かん
潜水 せんすい 艦 かん
日本 にっぽん
19
8
37
134
130
アメリカ
14
3
10
84
63
大 だい 英 えい 帝国 ていこく
1
2
3
12
5
オーストラリア
3
6
オランダ
2
7
5
ソ連 それん
4
空母 くうぼ エンタープライズ艦上 かんじょう で炎上 えんじょう するF6Fヘルキャット
参戦 さんせん 国 こく の太平洋 たいへいよう における航空機 こうくうき の損失 そんしつ 数 すう
日本 にっぽん : 35,000機 き ~50,000機 き (うち戦闘 せんとう 損失 そんしつ 20,000機 き )
アメリカ : 27,000機 き [423] (うち戦闘 せんとう 損失 そんしつ 14,533機 き )
中華民国 ちゅうかみんこく : 2,468機 き
大 だい 英 えい 帝国 ていこく : 機 き 数 すう は不明 ふめい であるがイギリス空軍 くうぐん だけで4,858人 にん のパイロットが戦死 せんし
オーストラリア :250機 き
太平洋戦争 たいへいようせんそう における人的 じんてき 損失 そんしつ の特徴 とくちょう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん は、補給 ほきゅう の軽視 けいし 及 およ び連合 れんごう 軍 ぐん に制 せい 空 そら 制海権 せいかいけん を奪取 だっしゅ されて補給 ほきゅう が途絶 とぜつ したことによって、満足 まんぞく な食料 しょくりょう の補給 ほきゅう を受 う けることができず大量 たいりょう の餓死 がし 者 しゃ を出 だ した。また日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし は、戦陣 せんじん 訓 くん の「生 い きて虜囚 りょしゅう (りょしゅう)の辱 はずかしめ (はずかしめ)を受 う けず、死 し して罪 つみ 禍 か (ざいか)の汚名 おめい を残 のこ すこと勿(なか)れ」の一節 いっせつ に代表 だいひょう されるように捕虜 ほりょ となることを事実 じじつ 上 じょう 禁止 きんし されていると認識 にんしき していたり、投降 とうこう することによって自分 じぶん や内地 ないち の家族 かぞく が社会 しゃかい 的 てき 迫害 はくがい を被 こうむ るといった懸念 けねん から、戦闘 せんとう の大勢 おおぜい が決 けっ しても他国 たこく の軍隊 ぐんたい と異 こと なり安易 あんい に捕虜 ほりょ となることはなく餓死 がし することも多 おお かった。さらに太平洋戦争 たいへいようせんそう の戦場 せんじょう となった南方 みなかた 地域 ちいき には、マラリア やデング熱 でんぐねつ といった感染 かんせん 症 しょう が蔓延 まんえん しており、飢餓 きが で体力 たいりょく が弱 よわ った多 おお くの日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし が感染 かんせん 症 しょう によって病死 びょうし し、戦没 せんぼつ 者 しゃ 数 すう を激増 げきぞう させる要因 よういん ともなった。
日本 にっぽん 軍 ぐん がもっとも戦没 せんぼつ 者 しゃ を出 だ したフィリピンの戦 たたか い (1944-1945年 ねん )において、厚生省 こうせいしょう の統計 とうけい によれば、陸海 りくかい 軍 ぐん の軍人 ぐんじん 軍属 ぐんぞく 486,600人 にん (戦後 せんご に死亡 しぼう した12,000人 にん を除 のぞ く)の戦没 せんぼつ 者 しゃ のうち[10] 、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 衛生 えいせい 学校 がっこう の研究 けんきゅう では65%が餓死 がし ・病死 びょうし 者 しゃ であり、残 のこ りの35%の約 やく 17万 まん 人 にん が直接 ちょくせつ の戦闘 せんとう 行為 こうい での戦死 せんし 者 しゃ であると指摘 してき している。また、戦後 せんご にアメリカ軍 ぐん から尋問 じんもん を受 う けた参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 第 だい 2部 ぶ 部長 ぶちょう の有末 ありすえ 精三 せいぞう 中将 ちゅうじょう が「7~8割 わり が(餓死 がし )病気 びょうき でしたと思 おも う。マラリア病 びょう と栄養失調 えいようしっちょう である」と答 こた えていることから、餓死 がし ・病死 びょうし 者 しゃ は80%にも上 のぼ り、戦闘 せんとう による戦死 せんし 者 しゃ はわずか20%の約 やく 10万 まん 人 にん であったとの推計 すいけい もある。一方 いっぽう で、フィリピン作戦 さくせん において、アメリカ陸海 りくかい 軍 ぐん の戦死 せんし 傷者 しょうしゃ は78,824人 にん [432] [433] [434] 、フィリピン正規 せいき 軍 ぐん (ユサッフェ) の戦死 せんし 者 しゃ 57,000人 にん (戦傷 せんしょう 者 しゃ 不明 ふめい )[435] 、フクバラハップなどのゲリラも正確 せいかく な数字 すうじ は不明 ふめい ながら日本 にっぽん 軍 ぐん の戦闘 せんとう で多数 たすう の死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ しており、日本 にっぽん 軍 ぐん と連合 れんごう 軍 ぐん の直接 ちょくせつ 戦闘 せんとう のキルレシオ では大 おお きな差 さ はないが、大量 たいりょう の餓死 がし ・病死 びょうし 者 しゃ が日本 にっぽん 軍 ぐん の戦没 せんぼつ 者 しゃ 数 すう を押 お し上 あ げていた。
この傾向 けいこう は連合 れんごう 軍 ぐん の侵攻 しんこう 目標 もくひょう から除外 じょがい されて太平洋 たいへいよう 上 じょう で孤立 こりつ した離島 りとう 守備 しゅび 隊 たい に顕著 けんちょ に表 あらわ れ、補給 ほきゅう も脱出 だっしゅつ も困難 こんなん な絶海 ぜっかい の孤島 ことう で孤立 こりつ した日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は、連合 れんごう 軍 ぐん からの幾度 いくど もの降伏 ごうぶく 勧告 かんこく を拒絶 きょぜつ し戦 たたか うこともなく餓死 がし 者 しゃ を出 だ していった。特 とく にメレヨン島 とう においては、守備 しゅび 隊 たい 6426人 にん (陸軍 りくぐん 3205人 にん 、海軍 かいぐん 3221人 にん )中 ちゅう 、戦没 せんぼつ 者 しゃ は4800人 にん であったが、連合 れんごう 軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき など戦闘 せんとう 行為 こうい で戦没 せんぼつ したのは307人 にん に過 す ぎず、残 のこ りの4493人 にん は餓死 がし もしくは病死 びょうし と実 じつ に戦没 せんぼつ 者 しゃ に占 し める割合 わりあい は90%以上 いじょう となっており「戦 たたか わずして玉砕 ぎょくさい した悲劇 ひげき の島 しま 」などとも呼 よ ばれることとなった。このように、戦没 せんぼつ 者 しゃ の中 なか に占 し める餓死 がし 者 しゃ 病死 びょうし 者 しゃ の比率 ひりつ が非常 ひじょう に高 たか くなっており、230万 まん 人 にん の軍人 ぐんじん 軍属 ぐんぞく の戦没 せんぼつ 者 しゃ のうち60%の140万 まん 人 にん が餓死 がし ・病死 びょうし という主張 しゅちょう や、27%の62万 まん 人 にん という主張 しゅちょう など推定 すいてい 値 ち は異 こと なるものの、いずれにしても他国 たこく の軍 ぐん にはない高 たか い比率 ひりつ であったことには変 か わりはない。
日本 にっぽん 兵 へい は傷病 しょうびょう により戦闘 せんとう 行動 こうどう の継続 けいぞく が困難 こんなん になると自決 じけつ することが多 おお く、戦没 せんぼつ 者 しゃ の数 かず を押 お し上 あ げる要因 よういん となった。硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いでの生還 せいかん 者 しゃ 、独立 どくりつ 機関 きかん 砲 ほう 第 だい 44中隊 ちゅうたい の鈴木 すずき 栄之助 えいのすけ によれば、実際 じっさい の戦闘 せんとう で戦死 せんし したのは30%前後 ぜんこう と少 すく なく、残 のこ りは60%が自決 じけつ (軍医 ぐんい に注射 ちゅうしゃ での殺害 さつがい を要請 ようせい した場合 ばあい も含 ふく む)、10%が事故死 じこし 及 およ び味方 みかた の兵士 へいし による殺害 さつがい (重症 じゅうしょう 者 しゃ を捕虜 ほりょ にしないための殺害 さつがい など)であったとされる。また戦局 せんきょく が悪化 あっか してくると、傷病 しょうびょう 兵 へい を治療 ちりょう したり安全 あんぜん な地域 ちいき に後送 こうそう することが困難 こんなん となり、「処置 しょち 」と称 しょう して軍医 ぐんい や衛生 えいせい 兵 へい が動 うご くことができなくなった傷病 しょうびょう 兵 へい を殺害 さつがい することも常態 じょうたい 化 か していった。
戦闘 せんとう 中 ちゅう のアメリカ兵 へい 1,000人 にん 当 あ たりの1日 にち の死傷 ししょう 者 しゃ 数 すう 比較 ひかく [441]
太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん
ヨーロッパ戦線 せんせん
戦闘 せんとう で死亡 しぼう
1.78人 にん
0.36人 にん
戦闘 せんとう で行方 ゆくえ 不明 ふめい
0.17人 にん
0.06人 にん
戦闘 せんとう で負傷 ふしょう
5.50人 にん
1.74人 にん
戦闘 せんとう で死傷 ししょう 合計 ごうけい
7.45人 にん
2.16人 にん
アメリカ軍 ぐん の統計 とうけい では、戦闘 せんとう 期間 きかん 中 ちゅう において、太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん の方 ほう がヨーロッパ戦線 せんせん より3.5倍 ばい 以上 いじょう の人的 じんてき 損失 そんしつ を被 こうむ っていた[442] 。これは短期間 たんきかん のうちに多大 ただい な損失 そんしつ を被 こうむ る敵前 てきぜん 上陸 じょうりく 作戦 さくせん が多 おお かったことに加 くわ えて、前述 ぜんじゅつ の通 とお り、戦闘 せんとう の大勢 おおぜい が決 けっ しても投降 とうこう することなく最後 さいご まで戦 たたか うといった日本 にっぽん 軍 ぐん の性質 せいしつ によるものも大 おお きく、アメリカ軍 ぐん の統計 とうけい では戦闘 せんとう で投降 とうこう して捕虜 ほりょ となった日本 にっぽん 兵 へい はわずか1~3%と低 ひく い比率 ひりつ であった[442] 。
このように降伏 ごうぶく せずに最後 さいご まで戦 たたか うという日本 にっぽん 軍 ぐん の傾向 けいこう に対 たい して連合 れんごう 軍 ぐん は、同 おな じく敵 てき であったドイツ軍 ぐん と比較 ひかく して、日本 にっぽん 軍 ぐん とドイツ軍 ぐん の指揮 しき 官 かん はどちらも「現在 げんざい の兵力 へいりょく で任務 にんむ を達成 たっせい しなければならない」「命令 めいれい があるまで退却 たいきゃく してはならない」「自決 じけつ を覚悟 かくご せよ」などとする「死守 ししゅ 命令 めいれい 」を乱発 らんぱつ したが、実際 じっさい に「死守 ししゅ 命令 めいれい 」を守 まも ったケースは日本 にっぽん 軍 ぐん の方 ほう が遥 はる かに多 おお く、ドイツ軍 ぐん は部隊 ぶたい が崩壊 ほうかい すると大量 たいりょう の兵士 へいし が降伏 ごうぶく し残 のこ りは速 すみ やかに敗走 はいそう するため、連合 れんごう 軍 ぐん は先 さき を争 あらそ って急 きゅう 進撃 しんげき し大 だい 勝利 しょうり を得 え たのに対 たい し、日本 にっぽん 軍 ぐん は、退却 たいきゃく するにしてもじわじわと退 しりぞ き、さらにドイツ兵 へい とは異 こと なり日本 にっぽん 兵 へい はほとんど降伏 ごうぶく することがなかったので、連合 れんごう 軍 ぐん は延々 えんえん と続 つづ く戦 たたか いを強 し いられていたなどと評価 ひょうか している。
前述 ぜんじゅつ の通 とお り、補給 ほきゅう 難 なん に苦 くる しみ大量 たいりょう の餓死 がし ・病死 びょうし 者 しゃ を出 だ してきた日本 にっぽん 軍 ぐん も、皮肉 ひにく にも戦場 せんじょう が硫黄 いおう 島 とう や沖縄 おきなわ と本土 ほんど に近 ちか づくにつれて補給 ほきゅう 線 せん が短 みじか くなって十分 じゅうぶん な補給 ほきゅう が受 う けられるようになった。沖縄 おきなわ 戦 せん における日本 にっぽん 軍 ぐん の補給 ほきゅう 状 じょう 況 きょう に対 たい してアメリカ軍 ぐん は「敵 てき の装備 そうび は良好 りょうこう で補給 ほきゅう も十分 じゅうぶん であり、精緻 せいち な洞窟 どうくつ 陣地 じんち は種々 しゅじゅ の補給 ほきゅう 品 ひん を集 あつ めるのに有効 ゆうこう であった。」と分析 ぶんせき していた。十分 じゅうぶん な装備 そうび と食料 しょくりょう を補給 ほきゅう されていた沖縄 おきなわ の日本 にっぽん 軍 ぐん は激烈 げきれつ な抵抗 ていこう を示 しめ し、アメリカ軍 ぐん の人的 じんてき 損失 そんしつ は総 そう 司令 しれい 官 かん のバックナーを含 ふく めて実 じつ に投入 とうにゅう 兵力 へいりょく の39%という高水準 こうすいじゅん に達 たっ したため[309] 、太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん の総 そう 司令 しれい 官 かん ニミッツは「日本 にっぽん 兵 へい が準備 じゅんび された防御 ぼうぎょ 陣地 じんち に布陣 ふじん し、十分 じゅうぶん な補給 ほきゅう を受 う けられるところでは、日本 にっぽん 軍 ぐん が、我 わ が軍 ぐん のもっとも優秀 ゆうしゅう な部隊 ぶたい が、従来 じゅうらい 見 み られなかった航空 こうくう 支援 しえん や艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき 及 およ び強力 きょうりょく な砲兵 ほうへい 支援 しえん のもとに攻撃 こうげき しても、遅々 ちち たる前進 ぜんしん しか許 ゆる さないような、強力 きょうりょく な戦闘 せんとう 力 りょく を発揮 はっき することが実戦 じっせん で証明 しょうめい された。」「日本 にっぽん 軍 ぐん 部隊 ぶたい はこれまで、まとまった数 かず で投降 とうこう したことはなく、我 わ が軍 ぐん に多数 たすう の死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ すことなく、日本 にっぽん 軍 ぐん 部隊 ぶたい を撃破 げきは することができない。」と十分 じゅうぶん な補給 ほきゅう を受 う けている日本 にっぽん 軍 ぐん 相手 あいて の死傷 ししょう 者 しゃ 増加 ぞうか を嘆 なげ いていた。
また、陸上 りくじょう での戦 たたか いが中心 ちゅうしん であったヨーロッパ戦線 せんせん と比較 ひかく すると、太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん は戦場 せんじょう の多 おお くが海上 かいじょう となり、アメリカ兵 へい の戦死 せんし 傷者 しょうしゃ のなかの戦死 せんし 者 しゃ の占 し める割合 わりあい が高 たか く、特 とく に陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい と海軍 かいぐん にその傾向 けいこう が顕著 けんちょ であった。アメリカ海軍 かいぐん は太平洋 たいへいよう での戦闘 せんとう における死傷 ししょう 者 しゃ 62,858人 にん のうち、31,157人 にん が戦死 せんし 者 しゃ で戦死 せんし 者 しゃ が占 し める割合 わりあい は50%であり、アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい は戦闘 せんとう における24,230人 にん の死傷 ししょう 者 しゃ のうち、戦死 せんし 者 しゃ が15,694人 にん で割合 わりあい は65%と非常 ひじょう に高 たか くなっている[447] 。これは、ドイツ本土 ほんど 空襲 くうしゅう で大 だい 損害 そんがい を被 こうむ ったアメリカ第 だい 8空軍 くうぐん の戦闘 せんとう における死傷 ししょう 者 しゃ 47,483人 にん のうち、戦死 せんし 者 しゃ 26,000人 にん の戦死 せんし 者 しゃ が占 し める割合 わりあい 54%と比較 ひかく すると10%以上 いじょう 高 たか くなっている[448] 。
シーレーンをめぐる戦 たたか いと民間 みんかん 船員 せんいん の犠牲 ぎせい [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん は日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 下 か で国家 こっか 総動員 そうどういん 法 ほう を制定 せいてい して国家 こっか 総 そう 力戦 りきせん 、戦時 せんじ 体制 たいせい に突入 とつにゅう していた。太平洋戦争 たいへいようせんそう では、漁船 ぎょせん を特設 とくせつ 監視 かんし 艇 てい として、商船 しょうせん や客船 きゃくせん を上陸 じょうりく 作戦 さくせん や前線 ぜんせん への補給 ほきゅう 、南方 なんぽう などからの資源 しげん 輸送 ゆそう 用 よう の徴用 ちょうよう 船 ふね として動員 どういん した。米 べい 軍 ぐん が開戦 かいせん 直後 ちょくご から潜水 せんすい 艦 かん などで通商 つうしょう 破壊 はかい 戦 せん を展開 てんかい したのに対 たい して、日本 にっぽん 海軍 かいぐん は敵 てき 海軍 かいぐん との決戦 けっせん に偏重 へんちょう し、兵站 へいたん と海上 かいじょう 護衛 ごえい を軽視 けいし したまま各地 かくち に派兵 はへい し、広 ひろ がったシーレーンを十分 じゅうぶん 守 まも れなかった[449] (「海上 かいじょう 護衛 ごえい 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 」参照 さんしょう )。日本 にっぽん 民間 みんかん 船員 せんいん の犠牲 ぎせい 者 しゃ は35,000 - 46,000人 にん (死亡 しぼう 率 りつ 49%)と推計 すいけい されている[47] 、30,592(100トン以上 いじょう の鋼 はがね 製 せい 商船 しょうせん 乗組 のりくみ 分 ぶん )、60,609人 にん (総数 そうすう )[450] 。日本 にっぽん 列島 れっとう 周辺 しゅうへん で戦没 せんぼつ した船 ふね も多 おお いが、現在 げんざい は外国 がいこく になっている海域 かいいき で民間 みんかん 船 せん と海軍 かいぐん 艦艇 かんてい が合計 ごうけい 2290隻 せき 沈 しず み、約 やく 30万 まん 人 にん の遺骨 いこつ が海 うみ に眠 ねむ っているとみられる。日本 にっぽん 政府 せいふ は未 み 回収 かいしゅう 分 ぶん を水葬 すいそう 扱 あつか いとしてきたが、トラック島 とう などダイビング [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] で見 み られる海底 かいてい にある沈没 ちんぼつ 船 せん もあり、戦没 せんぼつ 者 しゃ 遺骨 いこつ 収集 しゅうしゅう 推進 すいしん 法 ほう (2016年 ねん 制定 せいてい )に基 もと づき収容 しゅうよう を進 すす めると報道 ほうどう されている[451] 。
戦時 せんじ 下 か 日本 にっぽん での経済 けいざい ・国民 こくみん 生活 せいかつ [ 編集 へんしゅう ]
太平洋戦争 たいへいようせんそう 下 か の日本 にっぽん では兵器 へいき や軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし の生産 せいさん ・調達 ちょうたつ が最 さい 優先 ゆうせん された。金属 きんぞく 類 るい 回収 かいしゅう 令 れい で生活 せいかつ 用品 ようひん や銅像 どうぞう 、梵鐘 ぼんしょう が鋳潰 いつぶ されたほか、木造 もくぞう 船 せん 建造 けんぞう のため皇室 こうしつ 御料林 ごりょうりん のほか、各地 かくち の巨木 きょぼく を切 き り倒 たお すよう求 もと める「供 きょう 木 き 運動 うんどう 」が行 おこな われた[452] 。
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極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん 市ヶ谷 いちがや 法廷 ほうてい 大 だい 法廷 ほうてい
ウィリアム・F・ウエップ裁判 さいばん 長 ちょう
1946年 ねん 5月 がつ から1948年 ねん にかけて日本 にっぽん の戦争 せんそう 責任 せきにん を追及 ついきゅう する極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん (東京 とうきょう 裁判 さいばん )が開 ひら かれ、開戦 かいせん に至 いた る時期 じき の日本 にっぽん の指導 しどう 者 しゃ らが連合 れんごう 国 こく により戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん (戦犯 せんぱん )として裁 さば かれた。なお、昭和 しょうわ 天皇 てんのう は裁判 さいばん を免 まぬか れたほか、指導 しどう 者 しゃ であっても不 ふ 起訴 きそ となった者 もの もあった。また、フィリピンや中華民国 ちゅうかみんこく などで「通例 つうれい の戦争 せんそう 犯罪 はんざい 」(B級 きゅう 戦争 せんそう 犯罪 はんざい )と「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 」(C級 きゅう 戦争 せんそう 犯罪 はんざい )を裁 さば いたBC級 きゅう 戦犯 せんぱん 裁判 さいばん が行 おこな われた[453] 。
占領 せんりょう 政策 せいさく と戦後 せんご 処理 しょり 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
戦後 せんご 、日本 にっぽん は前述 ぜんじゅつ したとおり連合 れんごう 国 こく 各国 かっこく 軍隊 ぐんたい によって構成 こうせい されるGHQによって占領 せんりょう されることとなった。名目 めいもく 上 じょう 占領 せんりょう 軍 ぐん は日本 にっぽん と交戦 こうせん ・降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ を受諾 じゅだく した連合 れんごう 国軍 こくぐん とされたが、実際 じっさい には大 だい 部分 ぶぶん を占 し めるアメリカ軍 ぐん による単独 たんどく 占領 せんりょう に近 ちか い形 かたち となり、ほかにもイギリス軍 ぐん や当時 とうじ イギリスの植民 しょくみん 地 ち だったオーストラリアやインド、カナダ、ニュージーランドなどの軍 ぐん も占領 せんりょう 軍 ぐん に加 くわ わっている。なお、アメリカやイギリス以外 いがい の国 くに が占領 せんりょう 軍 ぐん で大 おお きな役割 やくわり を果 は たすことはあまりなく、冷戦 れいせん でアメリカと対立 たいりつ したソ連 それん や戦後 せんご の国家 こっか の立 た て直 なお しや復興 ふっこう で忙 いそが しかったフランス、国共 こっきょう 内戦 ないせん でそれどころではなかった中国 ちゅうごく などは、駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん を派遣 はけん するにとどまった。またそのことが、のちの冷戦 れいせん で日本 にっぽん が西側 にしがわ 諸国 しょこく の一因 いちいん となる要因 よういん の一 ひと つになったとされる。
GHQは民主 みんしゅ 化 か 政策 せいさく を進 すす めると共 とも に、国力 こくりょく を削 そ ぎ、日本 にっぽん が二度 にど と脅威 きょうい となる存在 そんざい にならないよう、「日本 にっぽん 占領 せんりょう 及 およ び管理 かんり のための連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に対 たい する降伏 ごうぶく 後 ご における初期 しょき 基本 きほん 的 てき 指令 しれい 」[454] に沿 そ って、大 だい 規模 きぼ な国家 こっか 改造 かいぞう を実施 じっし した。大日本帝国 だいにっぽんていこく の国家 こっか 体制 たいせい (国体 こくたい )を解体 かいたい した上 うえ で、新 あら たに連合 れんごう 国 こく (特 とく に、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく )の庇護 ひご の下 した での国家 こっか 体制 たいせい (戦後 せんご 体制 たいせい )を確立 かくりつ するために、治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう の廃止 はいし や日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう の制定 せいてい を行 おこな った。また、内務省 ないむしょう の廃止 はいし や財閥 ざいばつ 解体 かいたい 、農地 のうち 改革 かいかく など矢継 やつ ぎ早 ばや に民主 みんしゅ 化 か 政策 せいさく を実施 じっし した。並行 へいこう して日本人 にっぽんじん の意識 いしき 改革 かいかく のため、言論 げんろん が厳 きび しく統制 とうせい (プレスコード など)されるとともに、教科書 きょうかしょ やラジオ(ラジオ放送 ほうそう 『眞相 しんそう はかうだ』 等 ひとし )などのメディアを通 つう じ、情報 じょうほう 誘導 ゆうどう による民主 みんしゅ 化 か 政策 せいさく が実施 じっし された。江藤 えとう 淳 あつし は、プレスコードを伴 ともな ったことを、GHQの政策 せいさく を日本 にっぽん に戦犯 せんぱん 者 しゃ としての意識 いしき を植 う え付 つ けるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム だと主張 しゅちょう しているが[455] 、秦 はた 郁 いく 彦 は「果 は たしてそんな大 だい それたものか」「江藤 えとう の論調 ろんちょう は必然 ひつぜん 的 てき に反米 はんべい 思想 しそう に行 い きつく」と否定 ひてい している[456] 。
1951年 ねん 9月8日 にち に調印 ちょういん されたサンフランシスコ講和 こうわ 条約 じょうやく (1952年 ねん 4月 がつ 28日 にち 発効 はっこう )により、GHQは廃止 はいし され、戦後 せんご 処理 しょり は終了 しゅうりょう した。
ソ連 それん 軍 ぐん と米 べい 軍 ぐん は日本 にっぽん 領 りょう だった朝鮮半島 ちょうせんはんとう を分割 ぶんかつ 占領 せんりょう し、朝鮮 ちょうせん 人 じん 自身 じしん の手 て による朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく の建国 けんこく を認 みと めず、解体 かいたい を命 めい じて弾圧 だんあつ を行 おこな った。1948年 ねん 8月 がつ 13日 にち の大韓民国 だいかんみんこく 独立 どくりつ 、同年 どうねん 9月9日 にち の朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく 独立 どくりつ をもって朝鮮 ちょうせん 民族 みんぞく は南北 なんぼく に分 わ かれて独立 どくりつ したが、南北 なんぼく 分離 ぶんり 独立 どくりつ を認 みと めない勢力 せいりょく もあり、済州 さいしゅう 島 とう 四 よん ・三 さん 事件 じけん などの大 だい 規模 きぼ な死者 ししゃ を伴 ともな う蜂起 ほうき や騒乱 そうらん が発生 はっせい 。朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ して南北 なんぼく 分断 ぶんだん が確定 かくてい した。
日本人 にっぽんじん の引 ひ き揚 あ げと復員 ふくいん [ 編集 へんしゅう ]
連合 れんごう 国 こく に降伏 ごうぶく を予告 よこく した1945年 ねん 8月 がつ 14日 にち 当時 とうじ 、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく や東南 とうなん アジア 、太平洋 たいへいよう の島々 しまじま など、当時 とうじ 日本 にっぽん が統治 とうち または支配 しはい していた「外地 がいち 」には軍人 ぐんじん ・軍属 ぐんぞく ・民間 みんかん 人 じん を合 あ わせ660万 まん の日本人 にっぽんじん (当時 とうじ の日本 にっぽん の総 そう 人口 じんこう の約 やく 9%)が取 と り残 のこ されていた。日本 にっぽん 政府 せいふ は外地 がいち の邦人 ほうじん 受 う け入 い れのために準備 じゅんび をしたが、船舶 せんぱく や食糧 しょくりょう 、衣料 いりょう 品 ひん などが不足 ふそく し用意 ようい することが困難 こんなん だったため、連合 れんごう 軍 ぐん (特 とく にアメリカ軍 ぐん )の援助 えんじょ を受 う けて進 すす められた。しかし不十分 ふじゅうぶん な食糧 しょくりょう 事情 じじょう による病気 びょうき や、日本 にっぽん の支配 しはい から脱 だっ した現地 げんち 住民 じゅうみん による報復 ほうふく 、当事 とうじ 国 こく の方針 ほうしん によって引 ひ き揚 あ げ が難航 なんこう した地域 ちいき も多 おお く、中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ (旧 きゅう 満 まん 洲 しゅう )では、やむを得 え ず幼児 ようじ を中国人 ちゅうごくじん に託 たく した親達 おやたち も多 おお かった(中国 ちゅうごく 残留 ざんりゅう 日本人 にっぽんじん )。ソ連 それん の継承 けいしょう 国 こく であるロシア連邦 れんぽう のロシア国立 こくりつ 軍事 ぐんじ 公文書 こうぶんしょ 館 かん の資料 しりょう によると、ソ連 それん は満 まん 洲 しゅう や樺太 からふと などから日本 にっぽん 軍 ぐん 将兵 しょうへい や民間 みんかん 人 じん 約 やく 76万 まん 人 にん をソ連 それん 各地 かくち に強制 きょうせい 連行 れんこう し、約 やく 2000ヶ所 かしょ の収容 しゅうよう 所 しょ などで強制 きょうせい 労働 ろうどう を課 か した[457] (シベリア抑留 よくりゅう )[458] 。
軍役 ぐんえき 者 しゃ の復員 ふくいん 業務 ぎょうむ と軍隊 ぐんたい 解体 かいたい 後 ご の残務 ざんむ 処理 しょり を所管 しょかん させるため、1945年 ねん 11月に陸軍 りくぐん 省 しょう ・海軍 かいぐん 省 しょう を改組 かいそ した第 だい 一 いち 復員 ふくいん 省 しょう 、第 だい 二 に 復員 ふくいん 省 しょう が設置 せっち された。民間 みんかん 人 じん の引 ひ き揚 あ げ業務 ぎょうむ については、厚生省 こうせいしょう が所管 しょかん した[注 ちゅう 23] 。
政府 せいふ は1945年 ねん 9月 がつ 28日 にち にまず、舞鶴 まいづる [注 ちゅう 24] 、横浜 よこはま 、浦賀 うらが 、呉 ご 、仙崎 せんざき 、下関 しものせき 、門司 もじ 、博多 はかた 、佐世保 させぼ 、鹿児島 かごしま を引 ひ き揚 あ げ港 みなと として指定 してい した。10月7日 にち に朝鮮半島 ちょうせんはんとう 釜山 ぷさん からの引 ひ き揚 あ げ第 だい 1船 せん 「雲仙 うんぜん 丸 まる 」(陸軍 りくぐん の復員 ふくいん 軍人 ぐんじん )が舞鶴 まいづる に入港 にゅうこう したのをはじめに、その後 ご は函館 はこだて 、名古屋 なごや 、唐津 からつ 、大竹 おおたけ 、田辺 たなべ などでも、引 ひ き揚 あ げ者 しゃ の受 う け入 い れが行 おこな われた。1946年 ねん からはNHKラジオ で『尋 たず ね人 びと の時間 じかん 』が放送 ほうそう された(1962年 ねん まで)
引 ひ き揚 あ げと復員 ふくいん 者 しゃ 数 すう [459] (【注意 ちゅうい 】以下 いか の数値 すうち は上陸 じょうりく 地 ち の港 みなと において引 ひ き揚 あ げ手続 てつづ きを行 おこな った人 ひと のみを計上 けいじょう したもの)
国籍 こくせき
軍人 ぐんじん
民間 みんかん 人 じん
旧 きゅう ソ連 それん 領 りょう (シベリアなど)
45万 まん 3787
1万 まん 9165
満 まん 洲 しゅう
4万 まん 1916
100万 まん 3609
北朝鮮 きたちょうせん (ソ連 それん 占領 せんりょう 地 ち )
2万 まん 5391
29万 まん 7194
韓国 かんこく (アメリカ占領 せんりょう 地 ち )
18万 まん 1209
41万 まん 6110
琉球 りゅうきゅう 諸島 しょとう (沖縄 おきなわ など)
5万 まん 7364
1万 まん 2052
本土 ほんど 近隣 きんりん 諸島 しょとう (硫黄 いおう 島 とう など)
6万 まん 7000
2382
中国 ちゅうごく (香港 ほんこん を含 ふく む)
106万 まん 9662
71万 まん 7009
台湾 たいわん
15万 まん 7388
32万 まん 2156
フランス領 りょう インドシナ
2万 まん 8710
3593
東南 とうなん アジア
65万 まん 5330
5万 まん 6177
オランダ領 りょう 東 ひがし インド
1万 まん 4129
1464
オーストラリア
13万 まん 398
8445
ニュージーランド
391
406
太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう
10万 まん 3462
2万 まん 7506
ハワイ諸島 しょとう
3349
310
戦争 せんそう 賠償 ばいしょう と戦後 せんご 補償 ほしょう [ 編集 へんしゅう ]
戦勝 せんしょう 国 こく に対 たい する賠償 ばいしょう と戦後 せんご 関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
中華民国 ちゅうかみんこく ・中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく [ 編集 へんしゅう ]
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう ・太平洋戦争 たいへいようせんそう では中国 ちゅうごく 大陸 たいりく において中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん と日本 にっぽん 軍 ぐん の間 あいだ で激 はげ しい攻防 こうぼう 戦 せん が行 おこな われ、大量 たいりょう の犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ した。ただし日 にち 中 ちゅう 間 あいだ では認識 にんしき の相違 そうい が存在 そんざい している[460] 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう が終 お わると、中華民国 ちゅうかみんこく を率 ひき いていた蔣介石 せき の中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう と、毛沢東 もうたくとう 率 ひき いる中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の間 あいだ で国共 こっきょう 内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ した。1949年 ねん には中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう が勝利 しょうり して中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に樹立 じゅりつ し、敗北 はいぼく した国民党 こくみんとう は台湾 たいわん に逃 のが れた。1952年 ねん 主権 しゅけん を回復 かいふく した日本国 にっぽんこく 政府 せいふ は、中華民国 ちゅうかみんこく を「中国 ちゅうごく を代表 だいひょう する政府 せいふ 」として承認 しょうにん し、直 ただ ちに賠償 ばいしょう 問題 もんだい の討議 とうぎ を行 おこな ったが、中華民国 ちゅうかみんこく は賠償 ばいしょう を放棄 ほうき した。その後 ご 、1972年 ねん に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の周 しゅう 恩来 おんらい 首相 しゅしょう と日本 にっぽん 国 こく の田中 たなか 角栄 かくえい 首相 しゅしょう が会談 かいだん し、日本 にっぽん は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を「中国 ちゅうごく を代表 だいひょう する政府 せいふ 」として承認 しょうにん し、中華民国 ちゅうかみんこく と断交 だんこう した。この会談 かいだん において中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 側 がわ は中華民国 ちゅうかみんこく と同様 どうよう に賠償 ばいしょう 問題 もんだい を全面 ぜんめん 的 てき に棚上 たなあ げし、日 にち 中 ちゅう 共同 きょうどう 声明 せいめい によって賠償 ばいしょう 放棄 ほうき が宣言 せんげん された。日本 にっぽん 国 こく が1979年 ねん から中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に対 たい し行 い ってきたODA総額 そうがく は、2005年 ねん までに3兆 ちょう 円 えん を超 こ え[461] 、近年 きんねん まで年間 ねんかん 1000億 おく 円 えん の資金 しきん が中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に援助 えんじょ されていた。
オランダ は、1942年 ねん の日本 にっぽん 軍 ぐん による東 ひがし インド(蘭 らん 印 しるし )攻略 こうりゃく によって、同地 どうち を長 なが く植民 しょくみん 地 ち として支配 しはい し続 つづ けた蘭 らん 印 しるし 軍 ぐん 66,219名 めい (連合 れんごう 軍 ぐん 82,618名 めい )が捕虜 ほりょ とされたほか、民間 みんかん 人 じん 9万 まん 人 にん 余 あまり が捕 と らえられ、彼 かれ らが東 ひがし インド住民 じゅうみん を懲罰 ちょうばつ するために設 もう けた監獄 かんごく に収容 しゅうよう されるという屈辱 くつじょく を味 あじ わった。なおオランダ人 じん 兵士 へいし の一部 いちぶ は長崎 ながさき の捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ に収容 しゅうよう され、そこで被爆 ひばく した。また、日本 にっぽん 軍 ぐん がオランダ人 じん 女性 じょせい を強制 きょうせい 連行 れんこう して慰安 いあん 婦 ふ にした白馬 しろうま 事件 じけん が起 お こった。
国家 こっか 補償 ほしょう :元 もと 捕虜 ほりょ や民間 みんかん 人 じん への見舞 みまい 金 きん の支払 しはら い・36億 おく 円 えん /昭和 しょうわ 31年 ねん (1956年 ねん ・日 にち 蘭 らん 議定 ぎてい 書 しょ )
個人 こじん 補償 ほしょう :2億 おく 5500万 まん 円 えん /平成 へいせい 13年 ねん (2001年 ねん ・償 つぐな い事業 じぎょう 1)
終戦 しゅうせん 後 ご オランダは、捕虜 ほりょ 虐待 ぎゃくたい などの真偽 しんぎ が不明瞭 ふめいりょう な容疑 ようぎ で、多 おお くの日本 にっぽん 軍人 ぐんじん をBC級 きゅう 戦犯 せんぱん として処罰 しょばつ した(連合 れんごう 国 こく 中 ちゅう で最 もっと も多 おお い226人 にん の日本人 にっぽんじん を処刑 しょけい )。戦後 せんご 間 ま もなくのオランダは、ドイツ軍 ぐん の侵略 しんりゃく によって社会 しゃかい が疲弊 ひへい していた。さらにインドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう に敗北 はいぼく し最大 さいだい の植民 しょくみん 地 ち だった東 ひがし インドを失 うしな い、経済 けいざい は打撃 だげき を受 う けた。このことから、インドネシア独立 どくりつ の要因 よういん を作 つく った日本 にっぽん と、独立 どくりつ 戦争 せんそう の指導 しどう にあたった残留 ざんりゅう 日本 にっぽん 兵 へい に対 たい する評価 ひょうか も加 くわ わり、不信 ふしん 感 かん が長 なが らく残 のこ った。1971年 ねん に、昭和 しょうわ 天皇 てんのう が訪 おとずれ 蘭 らん した際 さい には卵 たまご が投 な げつけられ、1986年 ねん にはベアトリクス女王 じょおう の訪日 ほうにち 計画 けいかく がオランダ世論 せろん の反発 はんぱつ を受 う けて中止 ちゅうし された。その後 ご 、1991年 ねん に来日 らいにち した女王 じょおう は講和 こうわ 条約 じょうやく と日 にち 蘭 らん 議定 ぎてい 書 しょ で賠償 ばいしょう 問題 もんだい が法的 ほうてき には国家 こっか 間 あいだ において解決 かいけつ されているにもかかわらず、宮中 きゅうちゅう 晩餐 ばんさん 会 かい で「日本 にっぽん のオランダ人 じん 捕虜 ほりょ 問題 もんだい は、お国 くに ではあまり知 し られていない歴史 れきし の一 いち 章 しょう です」と賠償 ばいしょう を要求 ようきゅう した。それに対 たい して日本 にっぽん 政府 せいふ は、アジア女性 じょせい 基金 ききん により総額 そうがく 2億 おく 5500万 まん 円 えん の医療 いりょう 福祉 ふくし 支援 しえん を個人 こじん に対 たい して実施 じっし した。2007年 ねん にはオランダ下院 かいん で日本 にっぽん に対 たい し元 もと 慰安 いあん 婦 ふ への謝罪 しゃざい と補償 ほしょう を求 もと める決議 けつぎ がなされた。2008年 ねん に訪日 ほうにち したマキシム・フェルハーヘン 外相 がいしょう は「法的 ほうてき には解決 かいけつ 済 ず みだが被害 ひがい 者 しゃ 感情 かんじょう は強 つよ く、60年 ねん 以上 いじょう たった今 いま も戦争 せんそう の傷 きず は生々 なまなま しい。オランダ議会 ぎかい ・政府 せいふ は日本 にっぽん 当局 とうきょく に追加 ついか 的 てき な意思 いし 表示 ひょうじ を求 もと める」と述 の べた。
なお、サンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく の締結 ていけつ 時 じ に、オランダの植民 しょくみん 地 ち であった東 ひがし インドに対 たい する日本 にっぽん の侵攻 しんこう に対 たい して「被害 ひがい 者 しゃ 」の立場 たちば をとり、賠償 ばいしょう 責任 せきにん の枠 わく を超 こ えて日本 にっぽん に個人 こじん 賠償 ばいしょう を請求 せいきゅう したオランダに対 たい して、インドネシア政府 せいふ は「インドネシアに対 たい しての植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい には何 なん の反省 はんせい もしていない」と批判 ひはん した[462] 。
戦災 せんさい 国 こく に対 たい する補償 ほしょう と戦後 せんご 関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん は1952年 ねん 4月 がつ 28日 にち のサンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく により、日本 にっぽん は太平洋戦争 たいへいようせんそう に与 あた えた被害 ひがい について、日本 にっぽん 経済 けいざい が存立 そんりつ 可能 かのう な範囲 はんい で国 こく ごとに賠償 ばいしょう をする責任 せきにん を負 お った。この賠償 ばいしょう (無償 むしょう 援助 えんじょ )は、各国 かっこく の協力 きょうりょく に基 もと づく日本 にっぽん の復興 ふっこう なくしては実現 じつげん しなかった。またこのことは同時 どうじ に東南 とうなん アジアへの経済 けいざい 進出 しんしゅつ への糸口 いとぐち となり、日本 にっぽん の成長 せいちょう を助長 じょちょう する転機 てんき となると共 とも に植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい をした国 くに の中 なか で唯一 ゆいいつ 、植民 しょくみん 地 ち 化 か された国 くに に対 たい し謝罪 しゃざい の意 い を示 しめ すこととなり、結果 けっか 的 てき にアジア諸国 しょこく とのその後 ご の外交 がいこう 関係 かんけい に寄与 きよ することになった。
サンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく 14条 じょう に基 もと づき、賠償 ばいしょう を求 もと める国 くに が日本 にっぽん へ賠償 ばいしょう 希望 きぼう の意思 いし を示 しめ し、交渉 こうしょう 後 ご に長期 ちょうき 分割 ぶんかつ で賠償金 ばいしょうきん を支給 しきゅう したり、無償 むしょう (日本 にっぽん 製品 せいひん の提供 ていきょう や、技術 ぎじゅつ ・労働 ろうどう 力 りょく などの経済 けいざい 協力 きょうりょく )支援 しえん を行 おこな ったりした。他 ほか にも貸付 かしつけ 方式 ほうしき による有償 ゆうしょう 援助 えんじょ もあった。
補償 ほしょう を求 もと めた国家 こっか と補償 ほしょう 額 がく [ 編集 へんしゅう ]
カッコ内 ない は国交 こっこう 回復 かいふく に至 いた った条約 じょうやく の発効 はっこう 年 ねん
国 くに
条件 じょうけん
金額 きんがく
年 とし
モンゴル人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく
無償 むしょう
50億 おく 円 えん
1972年 ねん
大韓民国 だいかんみんこく
無償 むしょう
1080億 おく 円 えん
1965年 ねん
フィリピン
賠償 ばいしょう
1980億 おく 円 えん
1956年 ねん
ベトナム
賠償 ばいしょう
140億 おく 円 えん
1959年 ねん
ラオス
無償 むしょう
10億 おく 円 えん
1959年 ねん
タイ
無償 むしょう
96億 おく 円 えん
1962年 ねん
カンボジア
無償 むしょう
15億 おく 円 えん
1959年 ねん
ビルマ(ミャンマー)
賠償 ばいしょう
720億 おく 円 えん
1955年 ねん
マレーシア
無償 むしょう
29億 おく 円 えん
1968年 ねん
シンガポール
無償 むしょう
29億 おく 円 えん
1968年 ねん
インドネシア
無償 むしょう
803億 おく 円 えん
1958年 ねん
ミクロネシア
無償 むしょう
18億 おく 円 えん
1969年 ねん
領土 りょうど 返還 へんかん と領土 りょうど 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
戦後 せんご 、沖縄 おきなわ 、奄美 あまみ 群島 ぐんとう 、小笠原諸島 おがさわらしょとう 、トカラ列島 れっとう は日本 にっぽん 本土 ほんど から切 き り離 はな されアメリカ統治 とうち 下 か に置 お かれた。講和 こうわ 条約 じょうやく 後 ご 、小笠原諸島 おがさわらしょとう は1968年 ねん に、沖縄 おきなわ が1972年 ねん にアメリカ施設 しせつ 下 か から日本 にっぽん に復帰 ふっき した一方 いっぽう で、ソ連 それん が占領 せんりょう した北方領土 ほっぽうりょうど は、2021年 ねん 現在 げんざい でも、北方領土 ほっぽうりょうど をソ連 それん から事実 じじつ 上 じょう 受 う け継 つ ぎ支配 しはい しているロシア連邦 れんぽう と日本 にっぽん 国 こく で意見 いけん が食 く い違 ちが い、政治 せいじ 問題 もんだい として棚上 たなあ げされ、解決 かいけつ していない(北方領土 ほっぽうりょうど 問題 もんだい )。
戦後 せんご の世界 せかい への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
太平洋 たいへいよう と欧州 おうしゅう において繰 く り広 ひろ げられた全 ぜん 世界 せかい 規模 きぼ の消耗 しょうもう 戦 せん は世界 せかい 経済 けいざい に大 おお きな打撃 だげき を与 あた えた。国際 こくさい 機構 きこう として国際 こくさい 連合 れんごう が組織 そしき された。
日本 にっぽん は敗戦 はいせん 国 こく であることに加 くわ え、飢饉 ききん も起 お こり、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご は混乱 こんらん を極 きわ めた[463] 。戦後 せんご の日本 にっぽん は、徐々 じょじょ に経済 けいざい と社会 しゃかい の復興 ふっこう を実現 じつげん し、さらには高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう を果 は たし、奇跡 きせき とも称 しょう された。しかし、太平洋戦争 たいへいようせんそう の評価 ひょうか については、日本 にっぽん 国民 こくみん の間 あいだ でも定 さだ まっておらず、様々 さまざま な論 ろん が並存 へいそん している。
東南 とうなん アジア においては大戦 たいせん による欧州 おうしゅう 諸国 しょこく ・日本 にっぽん の国力 こくりょく 低下 ていか や、太平洋戦争 たいへいようせんそう による経験 けいけん を通 つう じ独立 どくりつ 運動 うんどう が高 たか まり、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご より各地 かくち で独立 どくりつ 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ 。米 べい ソ冷戦 れいせん の舞台 ぶたい となったこともあり大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 以来 いらい の欧州 おうしゅう による植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい (帝国 ていこく 主義 しゅぎ )が崩壊 ほうかい する転機 てんき となった(一方 いっぽう でソ連 それん 型 がた 共産 きょうさん 主義 しゅぎ やアメリカ型 がた 資本 しほん 主義 しゅぎ が浸透 しんとう している)。
台湾 たいわん では、空襲 くうしゅう はあったものの地上 ちじょう 戦 せん がなかったため、他 た 地域 ちいき に比 くら べ引 ひ き揚 あ げが基 もと 隆 たかし 港 みなと より比較的 ひかくてき 平和 へいわ に行 おこな われた。が、その後 ご 、当初 とうしょ 日本 にっぽん 統治 とうち に代 か わって歓迎 かんげい された、国共 こっきょう 内戦 ないせん に敗 やぶ れた蔣介石 せき 国民党 こくみんとう 政府 せいふ により、二 に ・二 に 八 はち 事件 じけん から始 はじ まる戒厳 かいげん 令 れい が敷 し かれることにより、統制 とうせい の時期 じき を迎 むか えることになる。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう においては、日本 にっぽん の敗戦 はいせん に伴 ともな い在留 ざいりゅう 日本人 にっぽんじん の釜山 ぷさん 港 こう からの引 ひ き揚 あ げ が始 はじ まる。アメリカの後 うし ろ盾 たて を受 う けた李 り 承晩 しょうばん がアメリカ占領 せんりょう 地域 ちいき で大韓民国 だいかんみんこく (韓国 かんこく )の成立 せいりつ を宣言 せんげん すると、ソ連 それん から戻 もど った金 きむ 日成 いるそん はソ連 それん 占領 せんりょう 地域 ちいき で朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく (北朝鮮 きたちょうせん )の成立 せいりつ を宣言 せんげん し、やがて北朝鮮 きたちょうせん 軍 ぐん の韓国 かんこく への侵攻 しんこう を発端 ほったん とする朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう が1950年 ねん より3年 ねん にわたって行 おこな われ、南北朝鮮 なんぼくちょうせん の分裂 ぶんれつ は長期 ちょうき 化 か することとなる。
中国 ちゅうごく では日本 にっぽん 軍 ぐん 将兵 しょうへい が国共 こっきょう 内戦 ないせん に加 くわ わるなどして、中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ (白 しろ 団 だん )や中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 軍 ぐん (東北 とうほく 民主 みんしゅ 連 れん 軍 ぐん 航空 こうくう 学校 がっこう )の近代 きんだい 化 か に貢献 こうけん した。
インドにおいては特 とく にインパール作戦 さくせん からなる日 にち 英 えい の戦 たたか いはインドに独立 どくりつ の可能 かのう 性 せい を与 あた え、1947年 ねん 、ガンディー により独立 どくりつ を果 は たす。なお東京 とうきょう 裁判 さいばん においてインド出身 しゅっしん のパール判事 はんじ は司法 しほう の基本 きほん 原則 げんそく である法 ほう の不 ふ 遡及 そきゅう などの擁護 ようご のために日本 にっぽん の無罪 むざい を主張 しゅちょう したが、一方 いっぽう で日本 にっぽん 軍 ぐん による南京 なんきん 虐殺 ぎゃくさつ を非難 ひなん している。
アメリカにおいては、日本 にっぽん に勝利 しょうり した後 のち に軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう の活発 かっぱつ 化 か が始 はじ まり、そのまま国共 こっきょう 内戦 ないせん の激化 げきか 、冷戦 れいせん による朝鮮 ちょうせん 、ベトナムでの赤化 せっか の抑 そもそも えと超 ちょう 大国 たいこく へと変貌 へんぼう していく。
かつて宗主 そうしゅ 国 こく だった西欧 せいおう 諸国 しょこく においては、日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 後 ご に再 ふたた びアジアの植民 しょくみん 支配 しはい を続 つづ けようとしたものの、かつてない現地 げんち 住民 じゅうみん の猛烈 もうれつ な抗議 こうぎ ・独立 どくりつ 運動 うんどう に遭 あ い、アジアの植民 しょくみん 地 ち をことごとく失 うしな う(アジア諸国 しょこく の独立 どくりつ )結果 けっか となった。そのため欧米 おうべい の歴史 れきし 認識 にんしき でも、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を境 さかい に脱 だつ 植民 しょくみん 地 ち 化 か の動 うご きが加速 かそく した[464] との総括 そうかつ がなされている。ただし、日本人 にっぽんじん の一部 いちぶ が中国 ちゅうごく の植民 しょくみん 地 ち と扱 あつか う、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 統治 とうち 下 か のチベット 、新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く は、中国 ちゅうごく が日本 にっぽん との主要 しゅよう 交戦 こうせん 国 こく だったにも関 かか わらず、現在 げんざい に至 いた っても独立 どくりつ はしていない。
戦争 せんそう の評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん における評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
太平洋戦争 たいへいようせんそう の原因 げんいん と評価 ひょうか については様々 さまざま な見解 けんかい と評価 ひょうか がある。
欧米 おうべい の帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ と同 おな じくアジア征服 せいふく を企 たくら んだとする見方 みかた 。
ABCD包囲 ほうい 網 もう やハル・ノート などによって日本 にっぽん が追 お いつめられた結果 けっか の自衛 じえい 戦争 せんそう であったという見方 みかた 。
自衛 じえい 戦争 せんそう と侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の両面 りょうめん を持 も つとする見方 みかた 。
存在 そんざい 意義 いぎ を必要 ひつよう とした陸海 りくかい 軍 ぐん の暴走 ぼうそう という見方 みかた 。
ナチス・ドイツの攻勢 こうせい で空白 くうはく 地帯 ちたい となった欧米 おうべい の植民 しょくみん 地 ち を狙 ねら ったとする見方 みかた 。
米国 べいこく は日本 にっぽん に石油 せきゆ ・物資 ぶっし を販売 はんばい しながら、中華民国 ちゅうかみんこく にも強力 きょうりょく な援助 えんじょ を継続 けいぞく しており、日 にち 中共 ちゅうきょう に米国 べいこく と対立 たいりつ して戦争 せんそう を継続 けいぞく するのは最初 さいしょ から困難 こんなん であった。米国 べいこく は日 にち 中 ちゅう に対 たい して決定的 けっていてき な影響 えいきょう 力 りょく を開戦 かいせん 前 まえ から持 も っていたため、太平洋戦争 たいへいようせんそう は米国 べいこく が日本 にっぽん ・中国 ちゅうごく 双方 そうほう を弱体 じゃくたい 化 か させる策 さく であったとの見方 みかた 。
ルーズベルト米国 べいこく 大統領 だいとうりょう による策略 さくりゃく (陰謀 いんぼう )とする見方 みかた [465] 。
自衛 じえい 戦争 せんそう と解放 かいほう 戦争 せんそう の両方 りょうほう を持 も つとする見方 みかた 。
日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん の戦闘 せんとう の反省 はんせい としては、シーレーン 確保 かくほ 、補給 ほきゅう 、護衛 ごえい という観念 かんねん が不足 ふそく 、複雑 ふくざつ な階級 かいきゅう 分 わ け、指揮 しき 制度 せいど の見直 みなお しが不十分 ふじゅうぶん だったという見方 みかた もある[47] 。
欧米 おうべい における評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
欧米 おうべい においても、この戦争 せんそう については様々 さまざま な見解 けんかい が存在 そんざい する。著名 ちょめい なSF 作家 さっか であり歴史 れきし 研究 けんきゅう 家 か でもあったH・G・ウェルズ は、日本 にっぽん は帝国 ていこく 主義 しゅぎ の伝統 でんとう をもち、中国 ちゅうごく への最 もっと も主要 しゅよう な侵略 しんりゃく 国 こく としている。そして、アジアにおける反 はん ヨーロッパ思想 しそう の中心 ちゅうしん として日本 にっぽん を位置 いち づけ、ナチス の陰謀 いんぼう よりも深刻 しんこく で明白 めいはく 、かつ遠大 えんだい と論 ろん じた[466] 。歴史 れきし 家 か アーノルド・J・トインビー は、太平洋 たいへいよう 問題 もんだい 調査 ちょうさ 会 かい で来日 らいにち した際 さい の公開 こうかい 講演 こうえん において、日本 にっぽん がカルタゴ の運命 うんめい の轍 わだち を踏 ふ まないようにと説 と いた[467] 。戦後 せんご は、アジアとアフリカを支配 しはい してきた西洋 せいよう 人 じん が過去 かこ 200年 ねん の間 あいだ 信 しん じられてきたような不敗 ふはい の神 かみ ではないことを西洋 せいよう 人 じん 以外 いがい の人種 じんしゅ に明 あき らかにしたと述 の べた[468] 。そして、日 にち 清 しん 戦争 せんそう から太平洋戦争 たいへいようせんそう までの日本 にっぽん は軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ と国家 こっか 主義 しゅぎ を主軸 しゅじく にしていたと指摘 してき し、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 9条 じょう を歴史 れきし 的 てき 課題 かだい に対 たい する英断 えいだん として評価 ひょうか した[467] 。歴史 れきし 家 か クリストファー・ソーン は、日本 にっぽん はナチス・ドイツとファシスト・イタリアの侵略 しんりゃく に加担 かたん する一方 いっぽう で、アジアにおけるヨーロッパ植民 しょくみん 地 ち の終焉 しゅうえん を早 はや める契機 けいき にもなったとしている[469] 。
日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか の正当 せいとう 性 せい の問題 もんだい については、ジョン・ロールズ をはじめ、その正当 せいとう 性 せい が議論 ぎろん されている。正当 せいとう 性 せい が問 と われる理由 りゆう の根拠 こんきょ として、原爆 げんばく を使 つか わずとも都市 とし への焼夷弾 しょういだん 爆 ばく 撃 げき と機雷 きらい による海上 かいじょう 封鎖 ふうさ で日本 にっぽん の継 つぎ 戦 せん 能力 のうりょく が既 すで に奪 うば われていたこと、使 つか うとしても人口 じんこう 希薄 きはく 地帯 ちたい に投下 とうか して威力 いりょく を理解 りかい させ降伏 ごうぶく を迫 せ れば日本 にっぽん は受 う け入 い れる以外 いがい の選択 せんたく はほとんどなかった可能 かのう 性 せい が高 たか いこと、が挙 あ げられる。
アジアにおける評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
東南 とうなん アジア
太平洋戦争 たいへいようせんそう において西欧 せいおう 諸国 しょこく の植民 しょくみん 地 ち 統治 とうち より大日本帝国 だいにっぽんていこく に占領 せんりょう されたマレーシア、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)や、末期 まっき まで日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく となっていたタイ王国 おうこく などの東南 とうなん アジアの歴史 れきし 学者 がくしゃ の一部 いちぶ は、太平洋戦争 たいへいようせんそう とそれに続 つづ くソ連 それん の支援 しえん によるアジア各地 かくち の独立 どくりつ 戦争 せんそう を一連 いちれん の流 なが れとして考 かんが えており、英 えい 仏 ふつ などの戦勝 せんしょう 国 こく が日本 にっぽん の戦争 せんそう 責任 せきにん を追及 ついきゅう することについて「西欧 せいおう によるアジア植民 しょくみん 地 ち の歴史 れきし を歪曲 わいきょく することだ」と断 だん じている[462] 。
当時 とうじ の東南 とうなん アジアにおいてタイ王国 おうこく 以外 いがい の全 すべ ての東南 とうなん アジア地域 ちいき は西側 にしがわ ヨーロッパやアメリカの植民 しょくみん 地 ち もしくは隷属 れいぞく 地 ち であったため(ただしフィリピンは太平洋戦争 たいへいようせんそう 以前 いぜん にアメリカとの独立 どくりつ が約束 やくそく されていた)太平洋戦争 たいへいようせんそう を人種 じんしゅ 間 あいだ 戦争 せんそう とみる歴史 れきし 観 かん も存在 そんざい した。
(1) 太平洋戦争 たいへいようせんそう がこれらの地域 ちいき の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい からの解放 かいほう に寄与 きよ したとして肯定 こうてい 的 てき に評価 ひょうか しているケース、(2) 教育 きょういく や政府 せいふ 機関 きかん 、軍事 ぐんじ 力 りょく を整 ととの えたことを肯定 こうてい しているケース、(3) 戦後 せんご 、再 ふたた びアジアを植民 しょくみん 地 ち 化 か しようと再 さい 上陸 じょうりく してきたヨーロッパ宗主 そうしゅ 国 こく (英 えい 仏 ふつ 蘭 らん )に対 たい して、旧 きゅう 日本 にっぽん 軍 ぐん の残党 ざんとう と共 とも に戦 たたか ったことを好意 こうい 的 てき に評価 ひょうか しているケース、(4) 日本 にっぽん 軍 ぐん の後 のち 盾 たて で政権 せいけん についた政治 せいじ 家 か (例 れい :ベトナムのバオ・ダイ )の都合 つごう で親日 しんにち 的 てき 姿勢 しせい をとったケースなど肯定 こうてい 派 は の歴史 れきし 観 かん は様々 さまざま である。
一方 いっぽう でベトナム建国 けんこく の父 ちち ホー・チ・ミン がベトナム独立 どくりつ 宣言 せんげん で述 の べたように日本 にっぽん の統治 とうち を欧米 おうべい 列強 れっきょう と同 おな じ「植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 」と解釈 かいしゃく する見方 みかた もあり(フランス領 りょう インドシナは枢軸 すうじく 国 こく に友好 ゆうこう 的 てき なヴィシー・フランスの海外 かいがい 領土 りょうど であり、日本 にっぽん はフランス政府 せいふ の植民 しょくみん 地 ち 政庁 せいちょう を温存 おんぞん した)、実際 じっさい に日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 地帯 ちたい には現地 げんち 住民 じゅうみん からなる多 おお くの抗日 こうにち ゲリラが存在 そんざい した。またインドネシア、フィリピンなど日本 にっぽん 軍 ぐん の過酷 かこく な占領 せんりょう 統治 とうち で多 おお くの被害 ひがい を出 だ した国 くに は戦後 せんご 、日本 にっぽん に賠償 ばいしょう を請求 せいきゅう している。
否定 ひてい 派 は の主 おも な歴史 れきし 観 かん は(1)太平洋戦争 たいへいようせんそう が日本 にっぽん による資源 しげん 収奪 しゅうだつ 戦争 せんそう だと規定 きてい し否定 ひてい 的 てき に評価 ひょうか するケース、(2)日本 にっぽん は枢軸 すうじく 派 は の植民 しょくみん 地 ち (フランス領 りょう インドシナ)では白人 はくじん 支配 しはい 体制 たいせい を温存 おんぞん したため人種 じんしゅ 間 あいだ 戦争 せんそう ではないと評価 ひょうか するケース、(3)日本 にっぽん 軍 ぐん の占領 せんりょう 統治 とうち の過程 かてい で発生 はっせい した強制 きょうせい 労働 ろうどう や大量 たいりょう 餓死 がし を非難 ひなん するケース、(4)大戦 たいせん 中 ちゅう に抗日 こうにち ゲリラであった政治 せいじ 家 か が独立 どくりつ を主導 しゅどう したケースなどが挙 あ げられる。
ベトナム
1941年 ねん のフランス領 りょう インドシナ進駐 しんちゅう のさい日本 にっぽん 軍 ぐん はアジア解放 かいほう の大義 たいぎ 面 めん 分 ぶん とは矛盾 むじゅん するフランスの植民 しょくみん 地 ち 統治 とうち 機構 きこう を温存 おんぞん する方針 ほうしん を決定 けってい し、インドシナは1945年 ねん まで日 にち 仏 ふつ の二 に 重 じゅう 支配 しはい を受 う けた。日 にち 仏 ふつ の過酷 かこく な支配 しはい と搾取 さくしゅ によりベトナムでは餓死 がし 者 しゃ 200万 まん 人 にん とも推計 すいけい される1945年 ねん ベトナム飢饉 ききん が発生 はっせい した。前述 ぜんじゅつ のように、ホー・チ・ミンはベトナム独立 どくりつ 宣言 せんげん において日本 にっぽん 軍 ぐん の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を厳 きび しく非難 ひなん している。
原文 げんぶん Mùa thu năm 1940, phát xít Nhật đến xâm lăng Đông Dương để mở thêm căn cứ đánh Đồng Minh, thì bọn thực dân Pháp quỳ gối đầu hàng, mở cửa nước ta rước Nhật. Từ đó dân ta chịu hai tầng xiềng xích: Pháp và Nhật. Từ đó dân ta càng cực khổ, nghèo nàn. Kết quả là cuối năm ngoái sang đầu năm nay, từ Quảng Trị đến Bắc kỳ, hơn hai triệu đồng bào ta bị chết đói.
…Sự thật là từ mùa thu năm 1940, nước ta đã thành thuộc địa của Nhật, chứ không phải thuộc địa của Pháp nữa. Khi Nhật hàng Đồng minh thì nhân dân cả nước ta đã nổi dậy giành chính quyền, lập nên nước Việt Nam Dân chủ Cộng hòa.
日本語 にほんご 訳 やく 1940年 ねん の秋 あき に、ファシスト 日本 にっぽん (日本 にっぽん のファシズム )が連合 れんごう 国 こく との戦 たたか いにおいて新 あたら しい基地 きち を確立 かくりつ する為 ため にインドシナ半島 いんどしなはんとう の領域 りょういき を荒 あ らした時 とき 、フランスの帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ は彼 かれ らに膝 ひざ を曲 ま げてひざまずいて、我々 われわれ の国 くに を彼 かれ らに手渡 てわた した。このように、その日付 ひづけ から、我々 われわれ の身内 みうち は、フランス人 じん と日本人 にっぽんじん の二 に 重 じゅう の軛 くびき に服従 ふくじゅう した。彼 かれ らの苦 くる しみと惨 みじ めさは増加 ぞうか した。結果 けっか は、昨年 さくねん の終 お わりから今年 ことし の初 はじ めまで、クアンチ省 しょう からベトナム北部 ほくぶ に至 いた るまで、我々 われわれ の仲間 なかま の市民 しみん のうちの200万 まん 人 にん が飢餓 きが で死 し んだ。(中略 ちゅうりゃく )1940年 ねん の秋 あき から、我々 われわれ の国 くに は実際 じっさい にフランスの植民 しょくみん 地 ち であるのをやめて、日本 にっぽん の所有 しょゆう になった。日本人 にっぽんじん が連合 れんごう 国 こく に降伏 ごうぶく したあと、我々 われわれ の全部 ぜんぶ の仲間 なかま は我々 われわれ の国家 こっか 主権 しゅけん を回復 かいふく して、ベトナム民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく を起 お こす為 ため に蜂起 ほうき した。
真実 しんじつ は、我々 われわれ はフランスからではなく、日本 にっぽん から我々 われわれ の独立 どくりつ をもぎ取 と った。
インドネシア
インドネシアでは太平洋戦争 たいへいようせんそう 終戦 しゅうせん 後 ご 、すぐにオランダとの独立 どくりつ 戦争 せんそう (インドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう )となったが、独立 どくりつ には残留 ざんりゅう 日本 にっぽん 兵 へい も関与 かんよ したこともあり、日本 にっぽん 軍 ぐん の一部 いちぶ 兵士 へいし は独立 どくりつ の英雄 えいゆう として讃 たた えられた[462] 。他方 たほう 、日本 にっぽん 軍 ぐん による強制 きょうせい 労働 ろうどう により、多 おお くのインドネシアの若者 わかもの が犠牲 ぎせい になった。戦後 せんご の賠償 ばいしょう 交渉 こうしょう では、インドネシア政府 せいふ は労務者 ろうむしゃ の総動員 そうどういん 数 すう を400万 まん 人 にん と主張 しゅちょう している[470] 。
ビルマ
三 さん 十 じゅう 人 にん の志士 しし (ビルマ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) のメンバーの一人 ひとり であったバー・モウ は日本 にっぽん の大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう とそれに伴 ともな った欧米 おうべい 諸国 しょこく による植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ からのアジア解放 かいほう を日本 にっぽん 軍 ぐん による収奪 しゅうだつ などの批判 ひはん を加 くわ えながらも、概 おおむ ね高 たか く評価 ひょうか している。
原文 げんぶん …so much of what they did during the war in Southeast Asia, whether it was right or wrong, always appeared to be wrong to the people there.…
The case of Japan is indeed tragic. Looking at it historically, no nation has done so much to liberate Asia from white domination, yet no nation has been so misunderstood by the very peoples whom it has helped either to liberate or to set an example to in many things.Japan was betrayed by her militarists and their racial fantasies.Had her Asian instincts been true, had she only been faithful to the concept of Asia for the Asians that she herself had proclaimed at the beginning of the war, Japan's fate. would have been very different.No military defeat could then have robbed her of the trust and gratitude of half of Asia or even more, and that would have mattered a great deal in finding for her a new, great, and abiding place in a postwar world in which Asia was coming into her own.[471]
日本語 にほんご 訳 やく 日本人 にっぽんじん は、日本 にっぽん 軍 ぐん が戦争 せんそう 中 ちゅう 東南 とうなん アジアで行 おこな った数々 かずかず の行為 こうい が良 よ いことだったかのか悪 わる いことだったのかを問 と われるといつも日本 にっぽん 軍 ぐん は悪 わる いことを行 おこな ったと答 こた えているように私 わたし は思 おも ってしまう。(中略 ちゅうりゃく ) 日本 にっぽん については本当 ほんとう に悲惨 ひさん 的 てき だ。歴史 れきし 的 てき に見 み るならば、日本 にっぽん ほどアジアを白人 はくじん 支配 しはい から離脱 りだつ させることに貢献 こうけん した国 くに はない。しかしまたその解放 かいほう を助 たす けたり、あるいは多 おお くの事柄 ことがら に対 たい して範 はん を示 しめ してやったりした諸 しょ 国民 こくみん そのものから、日本 にっぽん ほど誤解 ごかい を受 う けている国 くに はない。もし日本 にっぽん が武断 ぶだん 的 てき 独断 どくだん と自惚 うぬぼ れを退 しりぞ け、開戦 かいせん 当時 とうじ の初 はつ 一念 いちねん を忘 わす れず、大 だい 東亜 とうあ 宣言 せんげん の精神 せいしん を一貫 いっかん し、商 しょう 機関 きかん や鈴木 すずき 大佐 たいさ らの解放 かいほう の真心 まごころ が軍人 ぐんじん の間 あいだ にもっと広 ひろ がっていたら、いかなる軍事 ぐんじ 的 てき 敗北 はいぼく も、アジアの半分 はんぶん 、否 いや 、過半数 かはんすう の人々 ひとびと からの信頼 しんらい と感謝 かんしゃ とを日本 にっぽん から奪 うば い去 さ ることはできなかったであろう。日本 にっぽん のために惜 お しむのである[472] 。
名桜大学 めいおうだいがく 教授 きょうじゅ (ビルマ史 し 専攻 せんこう )[473] のドナルド・M・シーキンズ (DONALD M. SEEKINS) は、ビルマ人 じん が現在 げんざい に至 いた るまで自国 じこく の民族 みんぞく 対立 たいりつ 史 し と隣国 りんごく の政治 せいじ 的 てき 工作 こうさく に囚 とら われ続 つづ けているが故 こ 、"日本 にっぽん はビルマを白人 はくじん 支配 しはい から解放 かいほう したのか"という論理 ろんり は不適切 ふてきせつ であり、真 しん の解放 かいほう は未 いま だ成 な し遂 と げられていないと主張 しゅちょう している。以下 いか 原文 げんぶん を参考 さんこう 。
Against this background, the question – did the Japanese liberate Burma from colonial rule? – becomes irrelevant, since Burma remains hostage to its own history of ethnic confrontation and the manipulations of its neighbours. True national liberation, internal liberation, has not been achieved. [474]
マレーシア
多 た 民族 みんぞく 国家 こっか マレーシア では[注 ちゅう 25] 、太平洋戦争 たいへいようせんそう についての見解 けんかい は多様 たよう である。否定 ひてい 的 てき 評価 ひょうか としては、1988年版 ねんばん の歴史 れきし 教科書 きょうかしょ の「日本 にっぽん は、マレー人 じん の解放 かいほう 獲得 かくとく への期待 きたい を裏切 うらぎ った。日本人 にっぽんじん はマラヤを、まるで自分 じぶん たちの植民 しょくみん 地 ち であるかのように支配 しはい した。今度 こんど は彼 かれ らがイギリス人 じん の座 ざ を奪 うば ったのだ。日本人 にっぽんじん の支配 しはい はイギリスよりずっとひどかった」というものがあり、日本 にっぽん 軍 ぐん による食糧 しょくりょう の独占 どくせん や経済 けいざい 政策 せいさく の失敗 しっぱい によるインフレーション の悪影響 あくえいきょう についても記述 きじゅつ されている[475] 。日本 にっぽん 軍 ぐん 統治 とうち 時代 じだい のマレー人 じん 死亡 しぼう 率 りつ は英国 えいこく 統治 とうち 時代 じだい の約 やく 二 に 倍 ばい に達 たっ し、英軍 えいぐん がマレーを再 さい 占領 せんりょう した時 とき には児童 じどう の35%が貧血 ひんけつ で、30%がビタミン欠乏症 けつぼうしょう であった[476] 。
肯定 こうてい 的 てき 評価 ひょうか としては、日本 にっぽん による統治 とうち が、英 えい 仏 ふつ 蘭 らん などヨーロッパ諸国 しょこく によるアジア植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を駆逐 くちく し、アジア人 じん 自身 じしん を覚醒 かくせい させたとして評価 ひょうか するものがある[477] 。特 とく にマレー人 じん の間 あいだ では、イギリスによる長 なが い植民 しょくみん 地 ち 統治 とうち による愚民 ぐみん 化 か 政策 せいさく と西洋 せいよう 文明 ぶんめい の浸透 しんとう (文化 ぶんか 侵略 しんりゃく )などによって、独自 どくじ のアイデンティティー を喪失 そうしつ したという論調 ろんちょう が強 つよ いとされる。戦争 せんそう 当時 とうじ 、マレー人 じん は英国 えいこく 人 じん と比 くら べて極 きわ めて低 ひく い権利 けんり しか与 あた えられず、いわゆる奴隷 どれい であった。当時 とうじ のマレー系 けい 住民 じゅうみん は自 みずか らを支配 しはい する存在 そんざい である「白人 はくじん 」が無敵 むてき で、絶対 ぜったい 的 てき な存在 そんざい [注 ちゅう 26] だと信 しん じていた。しかし、英国 えいこく 東洋 とうよう 艦隊 かんたい が同 おな じ東洋 とうよう 人 じん である日本人 にっぽんじん によって撃滅 げきめつ されたことや、イギリス帝国 ていこく 絶対 ぜったい 不敗 ふはい 神話 しんわ の象徴 しょうちょう だったシンガポール が陥落 かんらく したこと、イギリス軍 ぐん が焦土 しょうど 作戦 さくせん のため、徹底的 てっていてき に破壊 はかい した発電 はつでん 所 しょ や工場 こうじょう などの都市 とし 設備 せつび を日本人 にっぽんじん がいとも簡単 かんたん に短期間 たんきかん のうちに復旧 ふっきゅう させてみせたことなどを目 ま の当 あ たりにし、大 おお きな衝撃 しょうげき を受 う けた。この出来事 できごと は長 なが い間 あいだ 、支配 しはい に甘 あま んじてきたマレー系 けい 住民 じゅうみん の意識 いしき を変 か える転機 てんき となり、独立 どくりつ 心 しん を芽生 めば えさせた[477] 。ただし、戦後 せんご の西側 にしがわ ヨーロッパからのアジア独立 どくりつ 運動 うんどう においては白人 はくじん 国家 こっか であるソ連 それん の支援 しえん が強 つよ い影響 えいきょう を与 あた えていた。またアジアに植民 しょくみん 地 ち を持 も っていた西側 にしがわ ヨーロッパは欧州 おうしゅう 本国 ほんごく での大戦 たいせん により戦後 せんご 、米 べい ソの台頭 たいとう に対 たい して既 すで に主導 しゅどう 権 けん は失 うしな っていた。
このほか、植民 しょくみん 地 ち 統治 とうち の過程 かてい で流入 りゅうにゅう した華僑 かきょう や印 しるし 僑 などの異 い 民族 みんぞく との抗 こう 争 そう を経験 けいけん をしたことから、ヨーロッパ各国 かっこく が行 おこな った行為 こうい に対 たい する批判 ひはん が強 つよ く、ヨーロッパ(特 とく に英 えい 仏 ふつ 蘭 らん )のメディアが日本 にっぽん 軍 ぐん による戦争 せんそう を批判 ひはん することに対 たい しては、ヨーロッパ各国 かっこく が行 おこな った植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の歴史 れきし を歪曲 わいきょく しようとしているとして批判 ひはん 的 てき な立場 たちば をとっている。チャンドラ・ムザファー (英語 えいご 版 ばん ) は「欧州 おうしゅう は、日本 にっぽん とアジアを分断 ぶんだん するために、日本 にっぽん 批判 ひはん を繰 く り返 かえ しているのではないか」と発言 はつげん したり、マハティール・ビン・モハマド 首相 しゅしょう は「もしも過去 かこ のことを問題 もんだい にするなら、マレーシアはイギリスやオランダやポルトガルと話 はなし をすることが出来 でき ない。…我々 われわれ は彼 かれ らと戦争 せんそう をしたことがあるからだ。もちろん、そういう出来事 できごと が過去 かこ にあったことを忘 わす れたわけではないが、今 いま は現在 げんざい に基 もと づいて関係 かんけい を築 きず いていくべきだ。マレーシアは、日本 にっぽん に謝罪 しゃざい を求 もと めたりはしない。謝罪 しゃざい するよりも、もっと社会 しゃかい と市場 いちば を開放 かいほう してもらいたいのだ。」と発言 はつげん しており、ほかルックイースト政策 せいさく などでも窺 うかが える。
他方 たほう 、大戦 たいせん 中 ちゅう は、民族 みんぞく 系統 けいとう に問 と わず日本 にっぽん 軍 ぐん に協力 きょうりょく した者 もの や抗日 こうにち 活動 かつどう に身 み を投 とう じた者 もの もおり、このうち抗日 こうにち 運動 うんどう に身 み を投 とう じたのは華人 かじん 系 けい の住民 じゅうみん が圧倒的 あっとうてき に多 おお く、これは日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が影響 えいきょう している。マラヤの華僑 かきょう は故国 ここく のため、国民党 こくみんとう 政府 せいふ 軍 ぐん に物心 ぶっしん 両面 りょうめん の援助 えんじょ を惜 お しまなかった。中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に渡 わた り抗 こう 日 にち 軍 ぐん に身 み を投 とう じたり、中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 組織 そしき に向 む けて情報 じょうほう 提供 ていきょう したりする者 もの 、抗日 こうにち 救国 きゅうこく 運動 うんどう に力 ちから を注 そそ ぐ人々 ひとびと もいた。華人 かじん 系 けい マレー人 じん のオン・カティン 住宅 じゅうたく ・地方 ちほう 自治 じち 相 しょう は、小泉 こいずみ 純一郎 じゅんいちろう 首相 しゅしょう が2001年 ねん 8月 がつ 13日 にち に靖国神社 やすくにじんじゃ に参拝 さんぱい した時 とき 、「私 わたし は、この歴史 れきし 教科書 きょうかしょ と首相 しゅしょう の靖国神社 やすくにじんじゃ 参拝 さんぱい への抗議 こうぎ の意思 いし を表明 ひょうめい する先頭 せんとう に立 た ちたい」「侵略 しんりゃく 戦争 せんそう を正 ただ しい戦争 せんそう と教 おし えることは、次 つぎ の世代 せだい を誤 あやま って導 みちび くことになる」[478] と述 の べている。
台湾 たいわん (中華民国 ちゅうかみんこく )
当時 とうじ は日本 にっぽん 統治 とうち 下 か であった台湾 たいわん 島 とう では戦時 せんじ 中 ちゅう 、アメリカ軍 ぐん やイギリス軍 ぐん による空襲 くうしゅう や機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ などはあったが、地上 ちじょう 戦 せん は行 おこな われなかった。また、台湾 たいわん 自体 じたい が兵站 へいたん 基地 きち であったため、食糧 しょくりょう など物資 ぶっし の欠乏 けつぼう もそれほど深刻 しんこく ではなかった。また戦後 せんご の国共 こっきょう 内戦 ないせん で敗北 はいぼく し、台湾 たいわん に移 うつ ってきた中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう の強権 きょうけん 統治 とうち に対 たい する批判 ひはん により、相対 そうたい 的 てき に日本 にっぽん の統治 とうち 政策 せいさく を評価 ひょうか する人 ひと もいる。
戦時 せんじ には台湾 たいわん でも徴兵 ちょうへい 制 せい や志願 しがん 兵 へい 制度 せいど などによる動員 どういん が行 おこな われ、多 おお くの台湾 たいわん 人 じん が戦地 せんち へと赴 おもむ いた。これについての評価 ひょうか も分 わ かれている。当時 とうじ は日本 にっぽん 国民 こくみん であったのだから当然 とうぜん のことではあるが、不当 ふとう な強制 きょうせい 連行 れんこう であったと批判 ひはん する人 ひと もいる。「当時 とうじ は日本 にっぽん 国民 こくみん であったのに靖国神社 やすくにじんじゃ に死後 しご 祀 まつ られないのは差別 さべつ である」と批判 ひはん をする人 ひと もいれば、その反対 はんたい に「靖国神社 やすくにじんじゃ への合祀 ごうし は宗教 しゅうきょう 的 てき 人格 じんかく 権 けん の侵害 しんがい である」として日本 にっぽん 政府 せいふ を提訴 ていそ している人 ひと もいる。また、戦後 せんご 、軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう の支給 しきゅう などについて日本人 にっぽんじん の軍人 ぐんじん 軍属 ぐんぞく と(講和 こうわ 条約 じょうやく により日本 にっぽん 政府 せいふ が台湾 たいわん の統治 とうち 権 けん を放棄 ほうき したことで別 べつ 国家 こっか の扱 あつか いになったため)区別 くべつ して取 と り扱 あつか いがなされたことに対 たい する批判 ひはん もある。現在 げんざい 台湾 たいわん では、太平洋戦争 たいへいようせんそう やその前 ぜん 段階 だんかい の日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい についてどう評価 ひょうか するか については政治 せいじ 的 てき な論点 ろんてん の一 ひと つとなっている。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく (1949年 ねん 以後 いご の中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 政権 せいけん )は当時 とうじ 存在 そんざい していなかった国家 こっか であるものの、国共 こっきょう 内戦 ないせん の結果 けっか 中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の統治 とうち を中華民国 ちゅうかみんこく から引 ひ き継 つ いだこともあり、官民 かんみん ともに日本 にっぽん の責任 せきにん を厳 きび しく問 と う意見 いけん が強 つよ い。日本 にっぽん 軍 ぐん による占領 せんりょう 政策 せいさく への否定 ひてい 的 てき 評価 ひょうか としては、徴用 ちょうよう に伴 ともな う虐待 ぎゃくたい や徴発 ちょうはつ ・軍票 ぐんぴょう 体制 たいせい による旧 きゅう 経済 けいざい の混乱 こんらん 、農産 のうさん 品 ひん 市場 いちば の脆弱 ぜいじゃく さに伴 ともな う飢餓 きが の発生 はっせい などが論点 ろんてん として挙 あ げられる。また「満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく は日本 にっぽん の傀儡 かいらい 国家 こっか であった」として、官民 かんみん ともにこれを批判 ひはん するものがほとんどである。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう
当時 とうじ 日本 にっぽん の統治 とうち 下 か にあった朝鮮半島 ちょうせんはんとう (その後 ご 韓国 かんこく 、北朝鮮 きたちょうせん として独立 どくりつ )では、官民 かんみん ともに日本 にっぽん の責任 せきにん を厳 きび しく問 と う意見 いけん が強 つよ い。戦時 せんじ には朝鮮半島 ちょうせんはんとう でも徴兵 ちょうへい 制 せい や志願 しがん 兵 へい 制度 せいど などによる動員 どういん が行 おこな われ、日本 にっぽん や台湾 たいわん の日本人 にっぽんじん 同様 どうよう に多 おお くの朝鮮 ちょうせん 人 じん が戦地 せんち へと赴 おもむ いた。日本 にっぽん による戦時 せんじ 政策 せいさく への否定 ひてい 的 てき 評価 ひょうか としては、戦前 せんぜん から続 つづ いた日本 にっぽん 化 か 教育 きょういく の実施 じっし や、徴用 ちょうよう や徴発 ちょうはつ による経済 けいざい の混乱 こんらん などが論点 ろんてん として挙 あ げられる。
肯定 こうてい 的 てき な評価 ひょうか としては、戦前 せんぜん から続 つづ いていた日本 にっぽん 軍 ぐん における教育 きょういく や訓練 くんれん が、有能 ゆうのう で才能 さいのう ある現地 げんち 人 じん の発掘 はっくつ に繋 つな がり独立 どくりつ 後 ご の軍民 ぐんみん の中核 ちゅうかく を担 にな う人材 じんざい となっていったこと、また戦前 せんぜん から行 おこな われていたインフラストラクチャーや教育 きょういく の充実 じゅうじつ などが挙 あ げられる。
^ ヨーロッパ戦線 せんせん (英語 えいご 版 ばん ) と太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき の人数 にんずう 別 べつ は不明 ふめい
^ ヨーロッパ戦線 せんせん (英語 えいご 版 ばん ) と太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき の人数 にんずう 別 べつ は不明 ふめい
^ 参戦 さんせん 国 こく の合計 ごうけい 、詳細 しょうさい は#被害 ひがい 参照 さんしょう 。
^ 交戦 こうせん 各国 かっこく の主張 しゅちょう の合計 ごうけい 、詳細 しょうさい はこちら を参照 さんしょう 。
^ 日本 にっぽん の内面 ないめん 指導 しどう により、公式 こうしき な宣戦 せんせん 布告 ふこく はせず。終末 しゅうまつ 期 き に連合 れんごう 国 こく の攻撃 こうげき を受 う けたため、事実 じじつ 上 じょう の交戦 こうせん 国 こく として扱 あつか われた。
^ 事実 じじつ 上 じょう のドイツ協力 きょうりょく 政権 せいけん 。マダガスカルの戦 たたか い で日本 にっぽん 軍 ぐん と一部 いちぶ 軍事 ぐんじ 協力 きょうりょく 。
^ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう 後 ご の日本 にっぽん による占領 せんりょう 下 か では日本 にっぽん 軍 ぐん と協力 きょうりょく 。ただし進駐 しんちゅう 開始 かいし 時 じ および、日本 にっぽん 軍 ぐん の実権 じっけん 掌握 しょうあく (明 あかり 号 ごう 作戦 さくせん )では若干 じゃっかん の交戦 こうせん が発生 はっせい している。
^ 日本 にっぽん は設立 せつりつ を支援 しえん したが、正式 せいしき な政府 せいふ としての承認 しょうにん は最後 さいご まで行 おこな わなかった。
^ モンゴルは当時 とうじ ソ連 それん 以外 いがい に国家 こっか 承認 しょうにん されておらず、連合 れんごう 国 こく 扱 あつか いは受 う けていない
^ 連合 れんごう 国 こく は政府 せいふ としての承認 しょうにん を行 おこな わなかった。
^ 「世界 せかい は今 いま や歴史 れきし 的 てき 一大 いちだい 転機 てんき に際会 さいかい 」しているとの認識 にんしき に立 た ち、「八紘 はっこう 一宇 いちう 」のために「大 だい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ の建設 けんせつ 」を目指 めざ し「国内 こくない 体制 たいせい の刷新 さっしん 」を行 おこな い、「強力 きょうりょく な新 しん 政治 せいじ 体制 たいせい の確立 かくりつ 」を国策 こくさく として決定 けってい した。出典 しゅってん :遠山 とおやま 茂樹 しげき 、今井 いまい 清一 せいいち 、藤原 ふじわら 彰 あきら 『昭和 しょうわ 史 し 』[新版 しんぱん ] 岩波書店 いわなみしょてん 岩波 いわなみ 新書 しんしょ (青 あお 版 ばん )355 1959年 ねん p.17)。
^ もし、日米 にちべい 交渉 こうしょう が失敗 しっぱい し戦争 せんそう を行 おこな うことになった場合 ばあい 、南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし が連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん によって占領 せんりょう されると南方 なんぽう 進出 しんしゅつ およびビルマルートの遮断 しゃだん が困難 こんなん になると予想 よそう されたことから南部 なんぶ にも進駐 しんちゅう の必要 ひつよう 性 せい 指摘 してき 。
^ 大本営 だいほんえい と政府 せいふ との間 あいだ の開 ひら かれる会合 かいごう で、重要 じゅうよう 国策 こくさく に際 さい して、国務 こくむ と統帥 とうすい の統合 とうごう ・調整 ちょうせい を図 はか るために創 つく られた。出席 しゅっせき 者 しゃ は、参謀 さんぼう 総長 そうちょう 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 、首相 しゅしょう 、陸相 りくしょう 、海 うみ 相 しょう 、外相 がいしょう など。最初 さいしょ の開催 かいさい は1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )11月。開戦 かいせん にいたる過程 かてい で、重要 じゅうよう 国策 こくさく 決定 けってい の機関 きかん として政治 せいじ 的 てき 比重 ひじゅう が増 ま した。吉田 よしだ 裕 ひろし 、2007, pp.37-38
^ 「開戦 かいせん という日本 にっぽん の国家 こっか 意思 いし が最終 さいしゅう 的 てき に確定 かくてい した。」吉田 よしだ 裕 ひろし 、2007, pp.49
^ なお、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき 後 こう 数 すう 週間 しゅうかん の間 あいだ 、アメリカ西海岸 にしかいがん では日本 にっぽん 軍 ぐん の上陸 じょうりく を伝 つた える誤報 ごほう が陸軍 りくぐん 当局 とうきょく に度々 どど 報告 ほうこく されていた。「ロサンゼルスの戦 たたか い 」も参照 さんしょう 。
^ 戦死 せんし 後 ご 、元帥 げんすい 海軍 かいぐん 大将 たいしょう となる。
^ 8月 がつ 8日 にち に参戦 さんせん したばかりのソビエト連邦 れんぽう の代表 だいひょう 団 だん も戦勝 せんしょう 国 こく の一員 いちいん として臨席 りんせき した。
^ 当時 とうじ は白人 はくじん 至上 しじょう 主義 しゅぎ 全盛期 ぜんせいき だったため、日本人 にっぽんじん のみに限 かぎ らず、有色 ゆうしょく 人種 じんしゅ に対 たい する差別 さべつ や偏見 へんけん も激 はげ しかった。
^ この際 さい 同 おな じように敵国 てきこく だったドイツ系 けい の住民 じゅうみん やイタリア系 けい の住民 じゅうみん は収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく られることが無 な かったことから人種 じんしゅ 差別 さべつ だとする意見 いけん も存在 そんざい する。
^ 米 べい 軍 ぐん は日系 にっけい 日本人 にっぽんじん が離反 りはん し日本 にっぽん 側 がわ に付 つ くことを恐 おそ れたため、太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん ではなく欧州 おうしゅう 戦線 せんせん へ投入 とうにゅう された
^ 南 みなみ アジア、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (中国 ちゅうごく 戦線 せんせん )も含 ふく む。
^ 上記 じょうき の武装 ぶそう 勢力 せいりょく とは区別 くべつ 。なお、国名 こくめい については当時 とうじ の国家 こっか 名 めい を記載 きさい 。国家 こっか 的 てき な概念 がいねん がない地域 ちいき の場合 ばあい は現在 げんざい の国名 こくめい で記載 きさい [397] 。
^ 後 のち に第 だい 一 いち 、第 だい 二 に 復員 ふくいん 省 しょう は、復員 ふくいん 庁 ちょう となった後 のち 、厚生省 こうせいしょう 所管 しょかん の第 だい 一 いち 復員 ふくいん 局 きょく 、首相 しゅしょう 所管 しょかん の第 だい 二 に 復員 ふくいん 局 きょく を経 へ て共 とも に引揚援護 えんご 局 きょく に改組 かいそ され、現在 げんざい は一括 いっかつ して厚生 こうせい 労働省 ろうどうしょう の所管 しょかん となり、主 おも に同省 どうしょう 社会 しゃかい 援護 えんご 局 きょく が戦 たたかえ 病者 びょうしゃ や戦没 せんぼつ 者 しゃ 遺族 いぞく への年金 ねんきん 、遺骨 いこつ 収集 しゅうしゅう 、中国 ちゅうごく 残留 ざんりゅう 邦人 ほうじん の帰国 きこく などを取 と り扱 あつか っている。
^ 舞鶴 まいづる は1949年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )以降 いこう は唯一 ゆいいつ の引 ひ き揚 あ げ港 こう となった。
^ 日本 にっぽん 軍 ぐん がマレ まれ ー半島 はんとう に侵入 しんにゅう した時 とき 、マレーシアはイギリスの植民 しょくみん 地下 ちか にあり、マラッカ王国 おうこく 以来 いらい のマレー人 じん 、外来 がいらい の華人 かじん 系 けい 住民 じゅうみん ・インド系 けい 住民 じゅうみん 、その他 た に日本人 にっぽんじん 、イギリス人 じん などが居住 きょじゅう していた。現在 げんざい 、マレーシア人 じん はマレー系 けい が約 やく 65%、華人 かじん 系 けい が約 やく 25%、インド系 けい が約 やく 7%を占 し める。
^ 現在 げんざい でも東南 とうなん アジアのカフェでは白人 はくじん 客 きゃく のことをマスター と呼 よ ぶ名残 なごり がみられる。
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^ “太平洋戦争 たいへいようせんそう 時 じ のアメリカ軍 ぐん の兵力 へいりょく の総数 そうすう 、できればヨーロッパ戦線 せんせん と太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん それぞれの動員 どういん 数 すう と陸 りく ・海軍 かいぐん それぞれの総数 そうすう 、あと船 せん (駆逐 くちく 艦 かん 、巡洋艦 じゅんようかん 、戦艦 せんかん 、空母 くうぼ 等 とう )と戦闘 せんとう 機 き と戦車 せんしゃ の総数 そうすう もできればお願 ねが いします。 ”. レファレンス協同 きょうどう データベース (2014年 ねん 4月 がつ 18日 にち ). 2023年 ねん 8月 がつ 18日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ “「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 」「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と何 なに が違 ちが う? 12月8日 にち に開戦 かいせん した「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」とは(THE PAGE)” . Yahoo! ニュース . (2019年 ねん 12月8日 にち ). https://news.yahoo.co.jp/articles/16c923bf3fb7118d17a46955f99d630c2e0ecc18 2020年 ねん 11月30日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ 1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ 11日 にち 「ポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく に伴 ともな い発 はっ する命令 めいれい に関 かん する件 けん の廃止 はいし に関 かん する法律 ほうりつ 」(法律 ほうりつ 第 だい 81号 ごう )
^ 「昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 勅 みことのり 令 れい 第 だい 五 ご 百 ひゃく 四 よん 十 じゅう 二 に 号 ごう 「ポツダム」宣言 せんげん ノ受諾 じゅだく ニ伴 とも ヒ発 はつ スル命令 めいれい ニ関 せき スル件 けん ニ基 もと ク国有 こくゆう 財産 ざいさん 法 ほう 中 ちゅう 改正 かいせい 等 とう ノ件 けん 」(昭和 しょうわ 21年 ねん 3月 がつ 14日 にち 勅 みことのり 令 れい 第 だい 142号 ごう )
^ “衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 鈴木 すずき 宗男 むねお 君 くん 提出 ていしゅつ 大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の定義 ていぎ に関 かん する質問 しつもん に対 たい する答弁 とうべん 書 しょ ”. 2023年 ねん 2月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 鈴木 すずき 宗男 むねお 君 くん 提出 ていしゅつ 大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の定義 ていぎ 等 とう に関 かん する質問 しつもん に対 たい する答弁 とうべん 書 しょ ”. 2023年 ねん 2月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。
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