太平洋戦争たいへいようせんそう

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太平洋戦争たいへいようせんそう

うえから時計とけいまわりにルソン島るそんとうたたかでのアメリカぐんシンガポールのたたか日本にっぽんぐん降伏ごうぶくしたイギリスぐん長崎ながさきへの原子げんしばくだん投下とうか、アメリカぐん戦艦せんかんアイオワかんほう射撃しゃげき真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき直前ちょくぜん日本にっぽんぐんれいしき艦上かんじょう戦闘せんとう
戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう[1]
年月日ねんがっぴ1941ねん12月8にち - 1945ねん8がつ15にち9月2にち[1]
場所ばしょアジア太平洋たいへいよう地域ちいき[1]
結果けっか連合れんごうこくがわ勝利しょうり日本にっぽん降伏ごうぶく無条件むじょうけん降伏ごうぶく[1]
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
タイ王国の旗 タイ王国おうこく
満洲国の旗 まんしゅうこく
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
フィリピン第二共和国の旗 フィリピン
ビルマ国の旗 ビルマこく
自由インドの旗 自由じゆうインド
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
イギリスの旗 イギリス帝国ていこく
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
中華ソビエト共和国の旗 陝甘寧辺にょんびょん
オランダの旗 オランダ
フランスの旗 フランス共和きょうわこく
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
オーストラリアの旗 オーストラリア
イギリス領インド帝国の旗 イギリスりょうインド帝国ていこく
カナダの旗 カナダ
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
フィリピンの旗 べいりょうフィリピン
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国の旗 昭和しょうわ天皇てんのう
大日本帝国の旗 東条とうじょう英機ひでき
大日本帝国の旗 小磯こいそ國昭くにあき
大日本帝国の旗 鈴木すずき貫太郎かんたろう
タイ王国の旗 プレーク・ピブーンソンクラーム
満洲国の旗 あいしんさとし溥儀ふぎ
中華民国の旗 ひろしちょうめい
フィリピン第二共和国の旗 ホセ・ラウレル
ビルマ国の旗 バー・モウ
自由インドの旗 スバス・チャンドラ・ボース
アメリカ合衆国の旗 フランクリン・ルーズベルト
アメリカ合衆国の旗 ハリー・S・トルーマン
イギリスの旗 ジョージ6せい
イギリスの旗 ウィンストン・チャーチル
イギリスの旗 クレメント・アトリー
中華民国の旗 蔣介せき
毛沢東もうたくとう
オランダの旗 ウィルヘルミナ
フランスの旗 シャルル・ド・ゴール
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
オーストラリアの旗 ジョン・カーティン
イギリス領インド帝国の旗 ヴィクター・ホープ
イギリス領インド帝国の旗 アーチボルド・ウェーヴェル
カナダの旗 ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング
ニュージーランドの旗 ピーター・フレーサー
フィリピンの旗 マニュエル・ケソン
フィリピンの旗 セルヒオ・オスメニャ
戦力せんりょく
日本にっぽんぐん[2]
開戦かいせん240まんにん
終戦しゅうせん720まんにん
徴兵ちょうへいすう
昭和しょうわ18ねん41まんにん
昭和しょうわ19ねん113まんにん
タイぐん6まんにん[3]
アメリカぐん[4][ちゅう 1]
1635まんにんだい世界せかい大戦たいせんにおけるそう兵員へいいんすう
イギリス帝国ていこくぐん[5][ちゅう 2]
1784まんにんだい世界せかい大戦たいせんにおけるそう兵員へいいんすう
中国ちゅうごくぐん[6][7]
1570まんにん以上いじょう
ソビエトぐん[8]
157まん7725にん
損害そんがい
軍人ぐんじん軍属ぐんぞく
193まん2000にん[9]
ささえ事変じへんから太平洋戦争たいへいようせんそう戦後せんご死者ししゃまでの合計ごうけい212まん3300にん[10][11][12]
民間みんかんじん
80まんにん以上いじょう日本にっぽん内地ないち50まんにん沖縄おきなわふく日本にっぽん内地ないちがい30まんにん[13]
軍人ぐんじん
400まんにん以上いじょう[ちゅう 3]
民間みんかんじん
すうせんまんにん(ただし諸説しょせつあり)[ちゅう 4][14]
太平洋戦争たいへいようせんそう

太平洋戦争たいへいようせんそう(たいへいようせんそう、英語えいご: Pacific War)は、1941ねん昭和しょうわ16ねん)から1945ねん昭和しょうわ20ねん)までおこなわれた戦争せんそうであり、だい世界せかい大戦たいせん局面きょくめんひとつである。

日本にっぽんなどの枢軸すうじくこくアメリカイギリス中国ちゅうごくなどの連合れんごうこくあいだおこなわれた戦争せんそうであった。実際じっさいには以前いぜんからにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)がつづいており、その継続けいぞくとしての側面そくめんもある[15][16]日本にっぽんは1945ねん8がつ15にち連合れんごうこくたいして降伏ごうぶくし、国民こくみんにも終戦しゅうせんつたえられた。その9月2にち日本にっぽん政府せいふ降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいし、戦争せんそう正式せいしき終結しゅうけつした。なお、これ以降いこうソ連それんぐんによる日本にっぽん侵攻しんこうなど戦争せんそう状態じょうたい一部いちぶ継続けいぞくした。

その日本にっぽん連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)により占領せんりょうされ、戦後せんご民主みんしゅ主義しゅぎ移行いこう連合れんごうこくによる日本にっぽん占領せんりょうは7ねんにわたりつづいた。

名称めいしょう期間きかん[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくやイギリス、オーストラリアなどの連合れんごうこくにおいては、主戦しゅせんじょう太平洋たいへいよう地域ちいきであったことから「Pacific Theater太平洋たいへいよう戦域せんいき)」が使用しようされ[17]、「the War in the Pacific (Theater)」「WW II-Pacific Theater」「the Pacific Theater in the Second World War」などだい世界せかい大戦たいせん戦線せんせん戦域せんいきもちいられた。これはだい世界せかい大戦たいせん太平洋たいへいよう戦線せんせんとしての意味いみである[18]戦時せんじちゅうは「太平洋戦争たいへいようせんそう」という名称めいしょう使つかわれたことはなく[17]たいにち戦争せんそうWar against Japan)とばれた。また、中国ちゅうごく戦線せんせんやインド・ビルマ戦線せんせんは、太平洋たいへいよう戦域せんいきとは区別くべつされていた。

なお、英語えいごけんスペインけんでは、南米なんべいにおける1865ねんチリペルースペイン戦争せんそう、1879ねん - 1884ねんのチリとボリビアおよびペルーとの「太平洋戦争たいへいようせんそう」は The War of the Pacificぶ。たいにち戦争せんそうThe Pacific War表記ひょうきされ区別くべつされている[18]日本にっぽんでもりょう戦争せんそうを「太平洋戦争たいへいようせんそう」と表記ひょうきするため、国際こくさいてきに「太平洋戦争たいへいようせんそう呼称こしょう誤解ごかいまねくという指摘してきがある[18]

太平洋戦争たいへいようせんそう」と「だい東亜とうあ戦争せんそう呼称こしょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは1925ねん大正たいしょう14ねん)の日米にちべい未来みらい戦記せんきなどで「太平洋戦争たいへいようせんそう」が使用しようされた[19]が、1941ねん開戦かいせん直後ちょくごに「だい東亜とうあ戦争せんそう」が閣議かくぎ決定けっていされた[20](「」は「亜細亜あじあ」すなわちアジア略語りゃくご)。「アジアの欧米おうべい植民しょくみん解放かいほうし、だい東亜とうあ共栄きょうえいけん設立せつりつしてアジアの自立じりつ目指めざす」という理念りねんかかげた。植民しょくみん宗主そうしゅこく中心ちゅうしん構成こうせいされた連合れんごうこくがわにとっては都合つごうわるかったため、[よう出典しゅってん]戦後せんご連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)の占領せんりょう政策せいさくで「だい東亜とうあ戦争せんそう」は「太平洋戦争たいへいようせんそう」へ強制きょうせいてき変更へんこうさせられた[21][19]

GHQはプレス・コードなど[22]で「だい東亜とうあ戦争せんそう」の使用しよう新聞しんぶんけるように指令しれい[23]1945ねん12月8にち開戦かいせん4周年しゅうねん以降いこう新聞しんぶん各紙かくしでGHQ民間みんかん情報じょうほう教育きょういくきょく作成さくせいの『太平洋戰爭たいへいようせんそう真実しんじつなき軍国ぐんこく日本にっぽん崩壊ほうかい』の掲載けいさい開始かいし。このまんしゅう事変じへんから太平洋戦争たいへいようせんそうまでを連続れんぞくさせ日本にっぽん侵略しんりゃく残虐ざんぎゃく行為こうい詳細しょうさい叙述じょじゅつした戦史せんし単行本たんこうぼん10まん完売かんばい、GHQ指導しどう学校がっこう教育きょういくでも奨励しょうれいされ、定着ていちゃくした[23]12月15にち神道しんとう指令しれい[24]では軍国ぐんこく主義しゅぎ国家こっか主義しゅぎ連想れんそうさせるとして「だい東亜とうあ戦争せんそう呼称こしょう使用しよう公文書こうぶんしょにおいて禁止きんしした[25](のち失効しっこう[19][26])。

よく1946ねん法律ほうりつみことのりれい文言もんごんは「今次こんじ戦争せんそう」とあらためられた[27]。1960ねんごろからいちしゅのタブーあつかいとされ「だい東亜とうあ戦争せんそう」はメディアでの使用しようひかえられており、日本にっぽん政府せいふはGHQの政策せいさく以降いこう現在げんざいまで公的こうてきには「今次こんじ戦争せんそう」「さき大戦たいせん」「だい世界せかい大戦たいせん」などをもちいている[25]。ただし2006ねん平成へいせい18ねん)の政府せいふ見解けんかいでは「だい東亜とうあ戦争せんそう」「太平洋戦争たいへいようせんそう」の定義ていぎさだめる法令ほうれいはないとされた[28]

2007ねん平成へいせい19ねん)の政府せいふ見解けんかいでは「だい東亜とうあ戦争せんそう」の定義ていぎについては、当時とうじ閣議かくぎ決定けっていにおいて「「今次こんじたいべいえい戦争せんそう今後こんご情勢じょうせい推移すいいとも生起せいきスルコトアルヘキ戦争せんそうささえ事変じへんヲモ含メだい東亜とうあ戦争せんそう呼称こしょうス」とされている」とした一方いっぽう、「太平洋戦争たいへいようせんそう」の定義ていぎについては「政府せいふとして定義ていぎしてもちいている用語ようごではない」とした[29]。また、「だい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう同一どういつ戦争せんそうか」という質問しつもんたいし、「太平洋戦争たいへいようせんそう」を定義ていぎしていない関係かんけいじょうこたえることは困難こんなんであるとした。

2024ねんれい6ねん)、陸上りくじょう自衛隊じえいたいだい32普通ふつう連隊れんたい公式こうしきXで「だい東亜とうあ戦争せんそう」をふく投稿とうこう[30]をし、波紋はもんんだ[31]

太平洋戦争たいへいようせんそう」の呼称こしょうかんする論争ろんそうとう[編集へんしゅう]

おもにアメリカや戦後せんごのマスコミによりひろめられたため、民間みんかんでも「太平洋戦争たいへいようせんそう呼称こしょう定着ていちゃくした[32][33]が、それ以外いがい戦争せんそう呼称こしょうについても歴史れきしがく歴史れきし認識にんしき問題もんだいなどで議論ぎろん多数たすうなされた[34]

たとえばはやし房雄ふさお薩英戦争せんそううませき戦争せんそう[35]ペリー来航らいこう以来いらい西欧せいおう列強れっきょうのアジア侵略しんりゃく対抗たいこうして日本にっぽんがアジア解放かいほう目的もくてきとした「だい東亜とうあひゃくねん戦争せんそう」の集大成しゅうたいせいとして「だい東亜とうあ戦争せんそう」をみなし[36]、そのほか、じゅうねん戦争せんそう[37]アジア・太平洋戦争たいへいようせんそう[38]昭和しょうわ戦争せんそう[39][40]などの呼称こしょう提唱ていしょうされた。アメリカの歴史れきしジョン・ステファンは呼称こしょうとしてだい世界せかい大戦たいせん広範囲こうはんいで、「太平洋戦争たいへいようせんそう」は「あまりにせますぎる」ので不適切ふてきせつであり「だい東亜とうあ戦争せんそう」という呼称こしょうが「日本にっぽんインド洋いんどよう太平洋たいへいようひがしアジアおよび東南とうなんアジアでひろげようとした戦争せんそうもっと正確せいかく表現ひょうげんしている」と指摘してきしている[41]

またイギリスの歴史れきしC・ソーンはアメリカはイギリスとの関係かんけいからたいにち戦争せんそういたった経緯けいいから「太平洋戦争たいへいようせんそう」は不適切ふてきせつで、極東きょくとう戦争せんそう提唱ていしょうした[42]が、ソーンのほかA・J・P・テイラーらは日本にっぽんがアジアでの英国えいこく勢力せいりょく駆逐くちくするために開戦かいせんし、結果けっかとしてイギリスは植民しょくみんうしない「敗北はいぼく」したことをかんがえれば「だい東亜とうあ戦争せんそう呼称こしょう妥当だとうとした[42]。ジョン・プリチャードらは「じゅうねん戦争せんそう」は曖昧あいまいで「極東きょくとう戦争せんそう」は地理ちりてきヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎ、「War with Japan(たいにち戦争せんそう)」も一方いっぽうてきなので「だい東亜とうあ太平洋戦争たいへいようせんそう」という呼称こしょう提案ていあんした[43]

また小中学校しょうちゅうがっこうとう教科書きょうかしょでは太平洋たいへいよう以外いがいにもアジア地域ちいきたたかったことから「アジア・太平洋戦争たいへいようせんそう」と明記めいきされている教科書きょうかしょもある。また、「・」なしで「アジア太平洋戦争たいへいようせんそう」とする場合ばあいもある。

平成へいせい13年度ねんど教科書きょうかしょ検定けんていでは「アジア・太平洋戦争たいへいようせんそうといういいかたも、一般いっぱんてきになっている。」といた教科書きょうかしょに「「アジア・太平洋戦争たいへいようせんそう」という用語ようごは、現在げんざい一般いっぱんてきとはがたい」という検定けんてい意見いけんいた。

戦争せんそう期間きかんマレー作戦さくせん開始かいしおよび開戦かいせんみことのりされた1941ねん12月8にちから大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんした1945ねん9月2にちとするのが一般いっぱんてきである[44]が、様々さまざま戦争せんそう呼称こしょうによって起点きてんことなる[42]中華民国ちゅうかみんこくおよび中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくでは「抗日こうにち戦争せんそう」として8年間ねんかんないしまんしゅう事変じへんやなぎじょうみずうみ事件じけん以降いこうの14年間ねんかん[45]とされる。

関与かんよした国家こっか勢力せいりょく[編集へんしゅう]

※は途中とちゅう陣営じんえいえをおこなったくに勢力せいりょく

1939ねんにおけるアジア太平洋たいへいよう地域ちいき政治せいじ地図ちず

枢軸すうじくこくがわ[編集へんしゅう]

類型るいけい くに
戦闘せんとう参加さんかこく政府せいふ 大日本帝国だいにっぽんていこくタイ王国おうこく (1942-1945ねん)、まんしゅうこく[ちゅう 5]中華民国ちゅうかみんこく南京なんきん国民こくみん政府せいふひろしちょうめい政権せいけんこうむ自治じちくに政府せいふビルマこくビルマ独立どくりつ義勇軍ぎゆうぐん
協力きょうりょく支援しえんこく ドイツ(潜水せんすいかん作戦さくせんやなぎせんなど)、ふつヴィシー政権せいけん[ちゅう 6]ふつりょうインドシナ政府せいふ[ちゅう 7]イタリア王国おうこく(1941-1943ねん潜水せんすいかん作戦さくせんなど※)
日本にっぽんによる支援しえん指導しどうけた組織そしき 自由じゆうインドかり政府せいふ[ちゅう 8]インド国民こくみんぐん)、ビルマ防衛ぼうえいぐん郷土きょうど防衛ぼうえい義勇軍ぎゆうぐんインドネシア)、スマトラ義勇軍ぎゆうぐんボルネオ義勇軍ぎゆうぐんジャワ防衛ぼうえい義勇軍ぎゆうぐん、マレー義勇軍ぎゆうぐん、マレー義勇ぎゆうたいえつみなみ青年せいねん先鋒せんぽうたいベトナム)、フィリピンじん義勇軍ぎゆうぐんマカピリ〉、比島ひしまラウエル大統領だいとうりょうづけ親衛隊しんえいたいいしそうしろけいロシアじん義勇軍ぎゆうぐん中国ちゅうごく)、浅野あさの部隊ぶたい中国ちゅうごく)、すめらぎきょう維新いしんぐん中国ちゅうごく)、中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふぐんすめらぎきょうしん中華ちゅうかすくい国民こくみんぐんまんしゅうイスラム教徒きょうと騎兵きへいだん高砂たかさご義勇ぎゆうたい台湾たいわん)、間島まじま特設とくせつたい朝鮮ちょうせんまんしゅう
連合れんごうこくがわ宣戦せんせん布告ふこくをしたが太平洋戦争たいへいようせんそうには参加さんかしていないくに ビルマこく (1943-1945ねん)、フィリピンだい共和きょうわこく(1943-45ねん)、ベトナム帝国ていこく(1945ねん-)、ラオス王国おうこく(1945ねん-)、カンボジア王国おうこく(1945ねん-)、ギリシャこくクロアチアどく立国りっこくブルガリア(1941-1944ねん※)、スロバキア(1941-1945ねん)、ハンガリー王国おうこく(1941-1944ねん)、ルーマニア王国おうこく(1941-1944ねん)、セルビア救国きゅうこく政府せいふ(1941-1944ねん)、ピンドス公国こうこく・マケドニア公国こうこく(1941-1944ねん)、フィンランド共和きょうわこく(1941-1944ねん)、ロシアしょ民族みんぞく解放かいほう委員いいんかい(1944-1945ねん

連合れんごうこくがわ[編集へんしゅう]

類型るいけい くに
戦闘せんとう参加さんかこく政府せいふ イギリスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくオーストラリア・ニュージーランド連合れんごうぐんカナダオランダ中華民国ちゅうかみんこく重慶たーちん政府せいふソビエト連邦れんぽうソ連それん)(1945ねん)、こうむ人民じんみん共和きょうわこく (1945ねん)[ちゅう 9]フランス共和きょうわこく臨時りんじ政府せいふ (1945ねん)

参戦さんせん兵力へいりょくおおかった統治とうちりょうイギリスりょうインド帝国ていこくイギリスりょうマラヤフィリピン・コモンウェルスである。)

連合れんごうこくによる支援しえん指導しどうけた組織そしき 中国共産党ちゅうごくきょうさんとうはちぐん)、大韓民国だいかんみんこく臨時りんじ政府せいふ[ちゅう 10]韓国かんこくこうふくぐん)、朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐんフクバラハップフィリピン共産党きょうさんとう抗日こうにち武装ぶそう組織そしき)、抗日こうにちマラヤ人民じんみんぐんマレーシア華僑かきょう抗日こうにち武装ぶそう組織そしき)、フォース136英軍えいぐんによって訓練くんれんされたゲリラ部隊ぶたい)、東南とうなんアジアボランティアぐん華僑かきょう武装ぶそう組織そしき)、日本にっぽん人民じんみん解放かいほう連盟れんめい日本人にっぽんじんみん反戦はんせん同盟どうめい日本にっぽん民主みんしゅ革命かくめい同志どうしかい中国ちゅうごく大陸たいりくで、国民こくみん政府せいふはちぐん支援しえん監督かんとくした活動かつどうした日本人にっぽんじんによるはん大日本帝国だいにっぽんていこく組織そしき)、自由じゆうタイ運動うんどうニューギニアぞく民兵みんぺいりょう陣営じんえいげんじゅう民兵みんぺいとして参加さんか[46]
連合れんごうこくであるが、太平洋戦争たいへいようせんそうには参加さんかしていないくに みなみアフリカ連邦れんぽうレバノン(1943-1945ねん)、エルサルバドルコスタリカドミニカ(イギリス委任いにん統治とうちりょう)、ニカラグアハイチグアテマラホンジュラスパナマキューバノルウェーリベリアエジプト王国おうこくシリア(フランス委任いにん統治とうちりょうサウジアラビアイラク王国おうこくパフラヴィーあさイラン、メキシコ(1942-1945ねん)、ブラジル(1942-1945ねん)、コロンビア(1943-1945ねん)、ボリビア(1943-1945ねん)、ペルー(1945ねん)、ベネズエラ(1945ねん)、ウルグアイ(1945ねん)、パラグアイ(1945ねん)、エクアドル(1945ねん)、トルコ(1945ねん)、アルゼンチン(1945ねん)、チリ(1945ねん)、ベルギー(1945ねん
日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくをしたが、連合れんごうこくなされないくに イタリア王国おうこく(1945ねん

戦争せんそう影響えいきょうつよけた中立ちゅうりつこく[編集へんしゅう]

ポルトガル - アジアにおける植民しょくみんマカオおよびポルトガルりょうティモール)が枢軸すうじくこく連合れんごうこくによって占領せんりょうされた。

戦争せんそう原因げんいん開戦かいせんまでの経緯けいい[編集へんしゅう]

概観がいかん[編集へんしゅう]

日本にっぽん中国ちゅうごく対立たいりつと、それによるまんしゅうをめぐる国境こっきょう紛争ふんそうにより発生はっせいしたにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)は予想よそうがいそう力戦りきせんとなった。結果けっか泥沼どろぬまし、解決かいけつのめどがたなくなっていた。日本にっぽん南進なんしんおこない、中国ちゅうごく国民党こくみんとうへの物資ぶっし補給ほきゅうち、石油せきゆなどの戦略せんりゃく物資ぶっし入手にゅうしゅすることでにちちゅう戦争せんそう解決かいけつはかった。にちらん会商かいしょうにより、オランダりょうひがしインドらんしるし)から石油せきゆ入手にゅうしゅすることはできていたが、日本にっぽんぐん南進なんしんによる南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうをきっかけにオランダりょうひがしインドは日本にっぽんとの経済けいざい協定きょうてい石油せきゆ協定きょうてい破棄はき日本にっぽん石油せきゆあたえなくなった。ヴィシーフランスから許可きょかもらって進駐しんちゅうしたものの南進なんしん欧米おうべい反発はんぱつうことは必至ひっしであったが、欧州おうしゅう諸国しょこくナチス・ドイツ台頭たいとうと1939ねん9がつはじまっただい世界せかい大戦たいせんによりひがしアジアに関与かんよする余裕よゆうとぼしくなっており、アメリカへの対策たいさく問題もんだいとなった。日本にっぽんにちどくさんこく同盟どうめいにち中立ちゅうりつ条約じょうやくによりアメリカを牽制けんせいしようとしたが、アメリカはこれにつよ反発はんぱつして南進なんしんみとめなかった。ABCD包囲ほういもう展開てんかい日本にっぽん牽制けんせいするととも全面ぜんめんてき禁輸きんゆおこなった。日本にっぽん日米にちべい交渉こうしょうにてかぶとあんおつあん提示ていじしたがアメリカはこれをまずわりに、ハルノート提示ていじした。日本にっぽん同意どういせずマレー作戦さくせん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきおこな開戦かいせんした。

日米にちべい国力こくりょく[編集へんしゅう]

開戦かいせんまえ時点じてんでの日本にっぽんとアメリカの国力こくりょくは、アメリカは日本にっぽんたいして国民総生産こくみんそうせいさん (GNP) で10ばい - 20ばい石油せきゆ生産せいさんりょうで700ばいおよんだ[47][48]。1941ねんそう力戦りきせん研究所けんきゅうじょおこなった日米にちべい戦争せんそう予測よそくでは、長期ちょうきせんとなるため国力こくりょくにより日本にっぽんがわ敗北はいぼくという結果けっかされた[49]。また予想よそうされた戦局せんきょく推移すいい原爆げんばく投下とうかのぞ実際じっさい推移すいいおおむ合致がっちしていた。

軍事ぐんじめんにおいてもチェスター・ニミッツは、アメリカのたいにちせん海軍兵学校かいぐんへいがっこうまなんだへい演習えんしゅう再演さいえんであり、予期よきできなかったのは神風かみかぜ攻撃こうげきのみだったとかたっている[50]

石油せきゆ関連かんれんした日米にちべい(1941ねん時点じてん[48]
日本にっぽんまんバレル/にち 米国べいこくまんバレル/にち 米国べいこく÷日本にっぽん
1にちあたりの原油げんゆ生産せいさんりょう 0.52 383.60 738
1にちあたりの人造じんぞう石油せきゆ生産せいさんりょう 0.33
1にちあたりの石油せきゆ精製せいせいりょう 9.04 465.8 52
1にちあたりの原油げんゆ処理しょりりょう 4.93 389 79
1にちあたりの液体えきたい燃料ねんりょう在庫ざいこりょう 4,300 33,500 7.8
1にちあたりの製油せいゆしょ1にち1人ひとりあたり精製せいせいりょう 4 53 13
海軍かいぐん戦力せんりょく太平洋たいへいよう配備はいび、1941ねん時点じてん[51]
日本にっぽん 米国べいこく 英国えいこく
戦艦せんかんめぐよう戦艦せんかん 11 9 2
航空こうくう母艦ぼかん 8 3 0
じゅう巡洋艦じゅんようかん主砲しゅほう20cmほう以上いじょう 18 13 1
けい巡洋艦じゅんようかん(15cmほう以下いか 23 11 7
駆逐くちくかん 129 80 13
潜水せんすいかん 67 56 0

にちえいべいらん開戦かいせんまでの国策こくさく[編集へんしゅう]

アメリカの太平洋たいへいよう戦略せんりゃく

アメリカはアメリカ・メキシコ戦争せんそう勝利しょうりしてカリフォルニアしゅう獲得かくとくして太平洋たいへいようめんする広大こうだい領土りょうどれ、ロシアからはアラスカ購入こうにゅうした。太平洋たいへいようではハワイ王国おうこく併合へいごうつづき、べい西にし戦争せんそうアメリカ・スペイン戦争せんそう勝利しょうりによりフィリピングアムなどをれると、アメリカ・フィリピン戦争せんそうてフィリピンを植民しょくみんすることにより太平洋たいへいようへの覇権はけん確立かくりつした[52]

日本にっぽん戦勝せんしょうこくとなっただいいち世界せかい大戦たいせん国際こくさい連盟れんめいからドイツ帝国ていこくりょうであったパラオサイパンなどの太平洋たいへいよう島々しまじま委任いにん統治とうちゆだねられるようになり(南洋なんよう諸島しょとう)、アメリカの勢力せいりょくけんせっするようになった。アメリカのびかけでおこなわれたシベリア出兵しゅっぺいでは、日本にっぽんはアメリカぐん撤兵てっぺい駐留ちゅうりゅう継続けいぞくするなどアメリカの利害りがいとずれがしょうじるようになっていた。とはいえ、1920年代ねんだい日米にちべいともにひがしアジア・太平洋たいへいよう地域ちいきにおける平和へいわてき国際こくさい体制たいせいであるワシントン体制たいせいした協調きょうちょう外交がいこうおこなっていた。1921ねんむすばれたよんヵ国かこく条約じょうやくでは太平洋たいへいようにおけるにちえいべいふつ利益りえき相互そうごみとめ、現状げんじょう維持いじ確認かくにんし、この条約じょうやくなかにちえい同盟どうめい発展はってんてき解消かいしょうげた[53]。1922ねんにはワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくむすばれ、列強れっきょうあいだけんかん競争きょうそう歯止はどめをかけた。

にち戦争せんそう、アメリカはたいにち戦略せんりゃく明確めいかくし、1906ねんたいにち戦争せんそう計画けいかくオレンジ計画けいかく」を作成さくせい、1938ねんには「しんオレンジ作戦さくせん」を策定さくていした[47]しんオレンジ作戦さくせんでは、開戦かいせんした場合ばあい日本にっぽんはまずフィリピン攻撃こうげきおこなうと予想よそう、これにたいアメリカ海軍かいぐん主力しゅりょく艦隊かんたい太平洋たいへいよう西進せいしんし、同時どうじたいにち海上かいじょう封鎖ふうさ実施じっし日本にっぽん経済けいざい枯渇こかつさせ太平洋たいへいよう制海権せいかいけん掌握しょうあくしたうえ日本にっぽん海軍かいぐん艦隊かんたい決戦けっせんするという戦略せんりゃく構想こうそうされた[47]。また1941ねん3がつレインボー5ごう作戦さくせんでは欧州おうしゅう戦線せんせん優先ゆうせん太平洋たいへいよう戦線せんせん防御ぼうぎょ日本にっぽん経済けいざいてき弱体じゃくたい太平洋たいへいよう海域かいいき海上かいじょう交通こうつうせん封鎖ふうさ破壊はかい日本にっぽん南洋なんよう諸島しょとう占領せんりょう主軸しゅじくとなった[47]

まんしゅう事変じへん華北かほく分離ぶんり工作こうさくにちちゅう戦争せんそう
1937ねん昭和しょうわ12ねん)7がつ ささえ駐屯ちゅうとんぐん配置はいち[54]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)にまんしゅう事変じへんこり、関東軍かんとうぐん後押あとおしによるまんしゅうこく成立せいりつすると国際こくさい社会しゃかいなか日本にっぽんおおきく非難ひなんされることとなる。その関東軍かんとうぐんは、華北かほく中華民国ちゅうかみんこくからはなすため傀儡かいらい自治じち政権せいけんつく華北かほく分離ぶんり工作こうさくおこなった。中華民国ちゅうかみんこく日本にっぽんぐん対抗たいこうする軍事ぐんじりょくたくわえていく。 1937ねん昭和しょうわ12ねん)に勃発ぼっぱつしたにちちゅう戦争せんそうにおいて、大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ軍部ぐんぶ当初とうしょ現地げんち解決かいけつ不拡大ふかくだい方針ほうしんによって事態じたい収拾しゅうしゅうこころみた。しかし、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう規定きていである統帥とうすいけん独立どくりつ問題もんだいや、いち事件じけん二・二六事件ににろくじけん以後いごからおこなわれるようになった軍部ぐんぶによる政治せいじ干渉かんしょうにより軍部ぐんぶ統御とうぎょむずかしくなっていた。くわえて中国ちゅうごく大陸たいりくで、だいべにもん事件じけん盧溝橋ろこうきょう事件じけんとそれに呼応こおうしてきたろうぼう事件じけん広安ひろやすもん事件じけんとおりしゅう事件じけんだい上海しゃんはい事変じへんなど在留ざいりゅう日本人にっぽんじん中国ちゅうごくぐん中国人ちゅうごくじん虐殺ぎゃくさつされる事件じけん頻発ひんぱつすると、日本にっぽん世論せろん中国ちゅうごく徹底的てっていてきたたくべきという方向ほうこうかたむく(暴支膺懲ようちょう)。この結果けっか政府せいふ軍事ぐんじ行動こうどう主張しゅちょうする陸軍りくぐん海軍かいぐんおさえきることがさらにむずかしくなり、情勢じょうせいにちちゅうりょうぐんによるだい規模きぼ全面ぜんめん衝突しょうとつ発展はってんする。日本にっぽんぐん北京ぺきん上海しゃんはいなど主要しゅよう都市とし占領せんりょうつづいて中華民国ちゅうかみんこく首都しゅと南京なんきん陥落かんらくさせた(南京なんきんせん)。1937ねん8がつ26にちに、日本にっぽん海軍かいぐんによるものとされる英国えいこく大使たいし襲撃しゅうげき事件じけんであるヒューゲッセン遭難そうなん事件じけんきると、英国えいこく新聞しんぶん日本にっぽんたいするいかりをあらわわにした[55]。1937ねん10がつ国際こくさい連盟れんめい日本にっぽんきゅうこく条約じょうやくおよ不戦ふせん条約じょうやく侵犯しんぱんであると決議けつぎした[56]同年どうねん11がつ3にちにはブリュッセルきゅうこく条約じょうやく会議かいぎひらかれ、英国えいこく自身じしん首唱しゅしょう指導しどうした国際こくさい議定ぎていによって、それまでソ連それんによりおこなわれていただい国共こっきょう合作がっさくなかの蔣介せきへの支援しえん参加さんかした[57]。1937ねん12月には、パナイごう事件じけんレディバードごう事件じけんきた。

1937ねん11月からよく1938ねん1がつにかけて、ちゅうどく合作がっさくにより中華民国ちゅうかみんこく友好ゆうこう関係かんけいにあったナチス・ドイツ仲介ちゅうかいしゃとするトラウトマン和平わへい工作こうさくにちちゅうあいだによっておこなわれたが、12月の南京なんきん陥落かんらくによって日本にっぽんがわではたいちゅう強硬きょうこうろん政府せいふ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん近衛このえ文麿ふみまろ外務がいむ大臣だいじん広田ひろた弘毅こうき)と海軍かいぐん海軍かいぐん大臣だいじん米内よない光政みつまさ)にて台頭たいとう一方いっぽう陸軍りくぐんでは陸軍りくぐんしょう陸軍りくぐん大臣だいじん杉山すぎやまはじめ)こそ政府せいふ海軍かいぐんおなじく強硬きょうこうであったが、多田ただ駿しゅん陸軍りくぐん中将ちゅうじょう筆頭ひっとうとする参謀さんぼう本部ほんぶにちちゅう和平わへい交渉こうしょう継続けいぞく終始しゅうしつよ主張しゅちょう参謀さんぼう本部ほんぶ要請ようせいによってにち戦争せんそう以来いらい御前ごぜん会議かいぎひらかれるなどしたが、政府せいふ海軍かいぐんおよび陸軍りくぐんしょう圧力あつりょくけ、1がつ15にち政府せいふ最終さいしゅうてき交渉こうしょうりを決定けってい翌日よくじつ16にち近衛このえ内閣ないかくは「帝国ていこく政府せいふ爾後じご国民こくみん政府せいふたいとせず。しん提携ていけいするにりる新興しんこうささえ政権せいけん期待きたいし、これと国交こっこう調整ちょうせいして更生こうせいささえ建設けんせつ協力きょうりょくせんとす」との声明せいめいはっし(だいいち近衛このえ声明せいめい)、トラウトマン和平わへい工作こうさく頓挫とんざした。

蔣介せき総統そうとうひきいる中国ちゅうごく国民こくみん政府せいふは、首都しゅと西部せいぶ奥地おくち重慶たーちんうつして抗戦こうせんつづけた。中華民国ちゅうかみんこくぐんはアメリカやイギリス、ソ連それんから軍需ぐんじゅ物資ぶっし人的じんてき援助えんじょけ(援蔣ルート)、かし各地かくち抵抗ていこうじょしゅう会戦かいせん武漢ぶかん会戦かいせん発生はっせいした。また正規せいき戦法せんぽう以外いがい督戦とくせんたい戦法せんぽうゲリラ戦術せんじゅつ清野きよの戦術せんじゅつなどの戦術せんじゅつもち日本にっぽんぐん攪乱かくらんした。一方いっぽう西安しーあん事件じけんつうじて成立せいりつした国共こっきょう合作がっさくもとづき、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん北西ほくせい奥地おくちのべやす拠点きょてんしゅいさおひきいるはちぐんしんよんぐん日本にっぽんぐんにゲリラせん仕掛しかけ、にちちゅう戦争せんそう長期ちょうきせんおちいっていた。

こうして国共こっきょう合作がっさくおよび国民こくみん政府せいふ抗戦こうせん続行ぞっこうにより軍事ぐんじてき解決かいけつ失敗しっぱいし、傀儡かいらい政権せいけん樹立じゅりつひろしちょうめい政権せいけん)による政治せいじてき解決かいけつにも失敗しっぱい[58]にちちゅう戦争せんそう収拾しゅうしゅうのめどがつかなくなり、日本にっぽん援蔣ルート遮断しゃだん企図きとする。

にちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつ[編集へんしゅう]

同盟どうめい締結ていけつ記念きねんしてベルリンの日本にっぽん大使館たいしかんかかげられたさんこく国旗こっき(1940ねん9がつ

1939ねん9月、ドイツぐんポーランドに侵攻しんこうしたことにより、欧州おうしゅうではだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。よく1940ねん6がつにはフランスが短期間たんきかん休戦きゅうせんまれ西欧せいおう北欧ほくおうおおくがその占領せんりょうとなり、ドーバー海峡かいきょうはさんだイギリスが連合れんごうこく最後さいごとりでとしてくるしい抵抗ていこうつづけていた。これをけ、日本にっぽん政府せいふ軍部ぐんぶには、どく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつ以来いらい沈滞ちんたいしていたドイツとの関係かんけい強化きょうかし、えいべい対抗たいこうするべきという勢力せいりょくふたたがりをせるようになってきた。

日本にっぽん重慶たーちん中華民国ちゅうかみんこく政府せいふへの軍事ぐんじ物資ぶっし補給ほきゅうルートを遮断しゃだんするため、6月19にちフランスりょうインドシナふつしるし政府せいふ圧力あつりょくをかけ、「援蔣ふつしるしルート」の遮断しゃだん要求ようきゅうした。ナチス・ドイツへの敗北はいぼくにフランス本国ほんごく成立せいりつしたヴィシー政権せいけんとのあいだで9がつ協定きょうていむすばれ、べにかわ以北いほくのインドシナに進駐しんちゅう中華民国ちゅうかみんこく支配しはい地域ちいきへの攻撃こうげき利用りようした。これにより日本にっぽんたいべいえい関係かんけい緊張きんちょうした[48]。そのあらたにビルマ経由けいゆする「援蔣ビルマルート」がつくられた。1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ19にち荻窪おぎくぼ会談かいだんでは、盟主めいしゅである英国えいこく不在ふざい東南とうなんアジア植民しょくみんかう南進なんしんろん方針ほうしん確認かくにんされ、戦争せんそう相手あいて英国えいこくのみに局限きょくげんするが、たいべいせん準備じゅんびする必要ひつようがあるとされた[48]。7月26にちには基本きほん国策こくさく要綱ようこう閣議かくぎ決定けっていされた[48]

近衛このえ文麿ふみまろ大政たいせい翼賛よくさんかい総裁そうさい初代しょだい)などを歴任れきにんした。

7がつ22にちだい2近衛このえないかく成立せいりつ、7がつ26にちには「皇国こうこく核心かくしんトシみつるささえ強固きょうこナル結合けつごう根幹こんかんトスルだい東亜とうあしん秩序ちつじょ建設けんせつスル」という[59][ちゅう 11]、『基本きほん国策こくさく要綱ようこう』を閣議かくぎ決定けっていした。よく27にちには「世界せかい情勢じょうせい推移すいいともなえ時局じきょく処理しょり要綱ようこう」を決定けっていした。8月1にちには松岡まつおか洋右ようすけ外相がいしょう談話だんわで「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん」という用語ようごはじめてもちい、その範囲はんいは、日本にっぽんまんしゅう中国ちゅうごくふつしるしオランダりょうひがしインドふくめるとした[59]

当初とうしょにちどく提携ていけい懐疑かいぎてきであった松岡まつおか洋右ようすけ外相がいしょう次第しだいさんこく同盟どうめい締結ていけつ接近せっきん9月27にちにドイツおよびイタリアとのあいださんこく条約じょうやく締結ていけつされ、にちどくさんこく同盟どうめい成立せいりつした。松岡まつおからはこの同盟どうめい政策せいさく発展はってんさせ、にちどく、そしてソ連それんくわえたユーラシアブロックによってべいえい牽制けんせいしようとしたが[60]かえってえいべい日本にっぽんたいする不信ふしんかん一層いっそうすこととなった。アメリカは10月12にちさんこく条約じょうやくたいする対抗たいこう措置そちると表明ひょうめい、10月16にち屑鉄くずてつたいにち禁輸きんゆ決定けっていした。制裁せいさい措置そち翌年よくねんにはさらに強化きょうかされ、イギリスも追随ついずいした。

これを日米にちべい開戦かいせんろんじられるが、政府せいふ軍部ぐんぶ一部いちぶには慎重しんちょうろんつよかった。日本にっぽんぐん中国ちゅうごく戦線せんせんたいソ連それん警戒けいかい兵力へいりょく集中しゅうちゅうさせ身動みうごきできない状況じょうきょうにあったため、米国べいこく日本にっぽんたい強硬きょうこう姿勢しせいしめすようになる。

フランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょう

12月29にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト炉辺ろへん談話だんわにおいて「アメリカは民主みんしゅ主義しゅぎ兵器廠へいきしょう工場こうじょう)になる」(en:Arsenal of Democracy) とかたり、イギリスへの援助えんじょ公然こうぜん表明ひょうめいした[61]翌年よくねんにはイギリスへの武器ぶき貸与たいよほうレンドリースほう)を成立せいりつさせた。1941ねん3がつ開催かいさいされたべいえいぐんによる協議きょうぎ通称つうしょう「ABC会議かいぎ」)ではまずドイツとイタリアを打倒だとうすることを優先ゆうせんし、日本にっぽんへの対処たいしょはそのつぎおこなうことが合意ごういされた[62]

1940ねん11月23にちタイ王国おうこくはフランスに占領せんりょうされていたきゅうタイりょう回復かいふくのためフランスりょう南部なんぶふつしるし進軍しんぐんし、タイ・フランスりょうインドシナ紛争ふんそう勃発ぼっぱつ1941ねん5月8にち日本にっぽん仲介ちゅうかいによりタイ王国おうこく失地しっち回復かいふくするかたちでタイ王国おうこくとフランスのあいだ東京とうきょう条約じょうやく締結ていけつされる。

日米にちべい交渉こうしょう本格ほんかく[編集へんしゅう]

1941ねん駐米ちゅうべい大使たいし野村のむら吉三郎きちさぶろうした陸軍りくぐんしょう軍事ぐんじ課長かちょうであった岩畔いわぐろ豪雄ひでお渡米とべい民間みんかんじん井川いかわ忠雄ただおらとともに、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかんコーデル・ハルまじえて秘密ひみつ交渉こうしょうによる日米にちべい関係かんけい改善かいぜん模索もさくされた。日米にちべい軍人ぐんじん民間みんかんじんによって策定さくていされた「日米にちべい諒解りょうかいあん」では、日本にっぽんぐん中国ちゅうごく撤退てったい、アメリカはまんしゅうこく承認しょうにんすること、ひろしちょうめい政権せいけん中国ちゅうごく政府せいふとして認定にんていすること、ホノルルにおける日米にちべい首脳しゅのう会談かいだん実現じつげんなどが示唆しさされていたが、ハルはその内容ないようがあまりにも日本にっぽん有利ゆうりであることに反発はんぱつ諒解りょうかいあん基礎きそ交渉こうしょうする前提ぜんていとしてよん原則げんそく(「すべての国家こっか領土りょうど保全ほぜん主権しゅけん尊重そんちょう」「他国たこくたいする内政ないせい不干渉ふかんしょう」「通商つうしょうじょう機会きかい均等きんとうふく平等びょうどう原則げんそく」「平和へいわてき手段しゅだんにより変更へんこうされる場合ばあいのぞ太平洋たいへいよう現状げんじょう維持いじ」)を日本にっぽんれることをもとめた。しかし野村のむら大使たいしよん原則げんそく日本にっぽん政府せいふ伝達でんたつせず、日本にっぽんがわ諒解りょうかいあんだけをアメリカの公式こうしき提案ていあん誤認ごにんしてしまう。6月22にちどくソが開戦かいせんすると、さんこく同盟どうめいたいべい圧力あつりょく減少げんしょうしアメリカはさらなる譲歩じょうほもとめるようになる。

にちらん会商かいしょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんは、らんしるしからの石油せきゆ輸入ゆにゅうりょうについて、らんしるしと200まんトンで合意ごういした[63]。このりょうは、当初とうしょ希望きぼうりょうの2ばいであった[63]
しかし1941ねん6月17にちにちらん会商かいしょう芳澤よしざわ団長だんちょうらんしるしがわ交渉こうしょうりを通告つうこくした[63]日本にっぽんからの使節しせつだんらんしるしがわ最後さいご交渉こうしょうおこない、経済けいざい協定きょうてい石油せきゆ協定きょうてい維持いじしたが、7がつ28にち日本にっぽんぐんによる南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうをきっかけにらんしるしがわ日本にっぽんとの経済けいざい協定きょうてい石油せきゆ協定きょうてい破棄はきした[63]

開戦かいせん決意けついよんかい御前ごぜん会議かいぎ[編集へんしゅう]

7がつ2にち だいかい御前ごぜん会議かいぎ

その日本にっぽん政府せいふ関係かんけい改善かいぜん目指めざしてワシントンD.C.でアメリカと交渉こうしょうつづけたが、日本にっぽんぐん7がつ2にち御前ごぜん会議かいぎにおける『情勢じょうせい推移すいいとも帝国ていこく国策こくさく要綱ようこう[ちゅう 12]たいせん準備じゅんび南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう)の決定けっていしたがい、7がつ7にちからは[まんしゅうでの関東軍かんとうぐん特種とくしゅ演習えんしゅうけて内地ないちから兵員へいいん動員どういん開始かいしされる[64]当時とうじ欧州おうしゅうではナチス・ドイツのソ連それん侵攻しんこうバルバロッサ作戦さくせん)が順調じゅんちょう進展しんてんしていた。

南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう

7がつ28にちには日本にっぽんがフランスりょうインドシナ南部なんぶへの進駐しんちゅう実施じっしした(南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう)が、イギリスとアメリカは事前じぜん南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう反対はんたい意志いし表明ひょうめいしていたため、りょう政府せいふないたいにち感情かんじょう一挙いっきょ悪化あっかした[65]8がつ1にちには「すべての侵略しんりゃくこく」への石油せきゆ輸出ゆしゅつ禁止きんし方針ほうしん決定けっていし、日本にっぽんたいしても石油せきゆ輸出ゆしゅつ全面ぜんめん禁止きんしというきびしい経済けいざい制裁せいさい発令はつれいし、イギリスとオランダもただちに同調どうちょうした。この制裁せいさいは1940ねん日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく破棄はきからはじまり、最初さいしょ航空こうくうよう燃料ねんりょう禁輸きんゆ北部ほくぶふつしるし進駐しんちゅうともなてつるい禁輸きんゆ実施じっしされた。また1940ねんから41ねんにかけて民間みんかん会社かいしゃつう必要ひつよう物資ぶっし開拓かいたくすすめたが、アメリカ政府せいふ干渉かんしょうによって契約けいやくまでこぎけないじょうふついんへの進駐しんちゅうおよびまんしゅう増派ぞうはともな制裁せいさい実施じっしされ、物資ぶっし供給きょうきゅう完全かんぜんたれることとなった。当時とうじ日本にっぽん事実じじつじょうアメリカから物資ぶっし購入こうにゅうしながら大陸たいりくにあった日本にっぽん権益けんえきを蔣介せきぐんからまもっていた。たとえば日米にちべい開戦かいせん国内こくないにおける石油せきゆ備蓄びちく民事みんじ軍事ぐんじわせても2ねんぶんしかなく、禁輸きんゆ措置そち日本にっぽん経済けいざいたい破滅はめつてき影響えいきょうあたえるおそれがあった。

9月6にち だいろくかい御前ごぜん会議かいぎ
1941ねん10月18にち総理そうり大臣だいじん官邸かんていでのはつ閣議かくぎえた東條とうじょう内閣ないかく閣僚かくりょうら。

陸海りくかいぐん石油せきゆ禁輸きんゆについてまった想定そうていしておらず[66]らんしるし当局とうきょくとのにちらん会商かいしょう再開さいかい見通みとおしがたなくなった。9月3にち日本にっぽんでは大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎ[ちゅう 13]において『帝国ていこく国策こくさく遂行すいこう要領ようりょう』が審議しんぎされ、9月6にち御前ごぜん会議かいぎで「外交がいこう交渉こうしょうじゅうがつ上旬じょうじゅんごろいたるもなおわが要求ようきゅう貫徹かんてつ目途もくとなき場合ばあいおいてはただちにたいべいえいらん開戦かいせん決意けついす」と決定けっていされた。近衛このえ日米にちべい首脳しゅのう会談かいだんによる事態じたい解決かいけつ決意けついしてちゅうにちアメリカ大使たいしジョセフ・グルー極秘ごくひ会談かいだんし、日米にちべい首脳しゅのう会談かいだん早期そうき実現じつげんつようったえたが、10月2にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務省こくむしょう日米にちべい首脳しゅのう会談かいだん事実じじつじょう拒否きょひする回答かいとう日本にっぽんがわしめした。

9月21にちえいべいソによりだい1かいモスクワ会談かいだんひらかれた[67]。アメリカはソ連それんへの援助えんじょ発言はつげんし、10月21にちには「大量たいりょう軍備ぐんびひん月末げつまつまでにソ連それん発送はっそうする」むね公式こうしき声明せいめい発表はっぴょうした[67]。また、アメリカは「極東きょくとう安全あんぜんえいべいまもるのでソ連それん極東きょくとうぐん西部せいぶのドイツ戦線せんせん移動いどうすべし」とも主張しゅちょうしていた[67]

戦争せんそう決断けつだんせまられた近衛このえたいちゅう撤兵てっぺいによる交渉こうしょうみちもとめたが、これに反対はんたいする東條とうじょう英機ひでき陸相りくしょうは、そう辞職じしょく国策こくさく要綱ようこうもとづく開戦かいせん要求ようきゅうしたため、10月16にち近衛このえないかくそう辞職じしょくする。後継こうけい東條とうじょう内閣ないかくは18にち成立せいりつした。

11月5にち だいななかい御前ごぜん会議かいぎ

11月1にち大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎでは「帝国ていこく現下げんか危局ききょく打開だかいして自存じそん自衛じえいかん(まつと)うしだい東亜とうあしん秩序ちつじょ建設けんせつするため、さいえいべいらんせん決意けついし」「武力ぶりょく発動はつどう時期じきを12月初頭しょとうさだめ、陸海りくかいぐん作戦さくせん準備じゅんびかんせいす」という内容ないようの『帝国ていこく国策こくさく遂行すいこう要領ようりょう[68]あらためて決定けっていした。その11月5にち御前ごぜん会議かいぎ[ちゅう 14]承認しょうにんされた。以降いこう陸海りくかいぐんは12月8にち開戦かいせん予定よていとしてたいべいえいらん戦争せんそう準備じゅんび本格ほんかくさせた。

11月6にち南方みなかた作戦さくせん担当たんとうするかくぐん司令しれい編制へんせい発令はつれいされ、南方なんぽうぐんそう司令しれいかん寺内てらうち寿一ひさいち大将たいしょうだい14ぐん司令しれいかん本間ほんま雅晴まさはる中将ちゅうじょうだい15ぐん司令しれいかん飯田いいだ祥二郎しょうじろう中将ちゅうじょうだい16ぐん司令しれいかん今村いまむらひとし中将ちゅうじょうだい25ぐん司令しれいかん山下やました奉文ともゆき中将ちゅうじょうしんされた。同日どうじつ大本営だいほんえい南方なんぽうぐんだい14ぐんだい15ぐんだい16ぐんだい25ぐん南海なんかい支隊したい戦闘せんとう序列じょれつはっし、かくぐんおよびささえ派遣はけんぐんたい南方みなかた作戦さくせん作戦さくせん準備じゅんびしたれいした。海軍かいぐんは、11月26にち真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき部隊ぶたいをハワイへけて出港しゅっこうさせた。

軍部ぐんぶ中心ちゅうしんとなって作成さくせいし1941ねん11月15にち大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎ決定けっていした、太平洋戦争たいへいようせんそう全般ぜんぱんにわたる基本きほん方針ほうしんとなる日本にっぽん戦争せんそう計画けいかくしょたいえいべいらん蔣戦そう 終末しゅうまつ促進そくしんかんする腹案ふくあん』では、「東南とうなんアジア南太平洋みなみたいへいようにおけるべいえいらん根拠こんきょ覆滅ふくめつし、戦略せんりゃくじょう優位ゆうい態勢たいせい確立かくりつするとともに、重要じゅうよう資源しげん地域ちいきならびに主要しゅよう交通こうつうせん確保かくほして、長期ちょうき自給自足じきゅうじそく態勢たいせいととのう」とし、戦争せんそうわらせかたについては「どく提携ていけいしてえい屈服くっぷくはかり、べいつぎせん意志いし喪失そうしつせしむるにつとむむ」としていた。

ハル・ノートの提示ていじ
コーデル・ハル

11月20にち日本にっぽんはアメリカにたいする交渉こうしょう最終さいしゅうあん甲乙こうおつふた用意よういし、来栖くるす三郎さぶろう特命とくめい全権ぜんけん大使たいしおよび野村のむら大使たいしによりハル国務こくむ長官ちょうかん提示ていじして交渉こうしょうたった。11月26にちあさ、ハル国務こくむ長官ちょうかんりょうあん拒否きょひし、中国ちゅうごく大陸たいりく・インドシナからのぐん警察けいさつりょく撤退てったいにちどくさんこく同盟どうめい否定ひていなどの条件じょうけんふく交渉こうしょうあん、いわゆるハル・ノート来栖くるす特命とくめい全権ぜんけん大使たいし野村のむら大使たいし提示ていじした。ここでいう中国ちゅうごく大陸たいりくまんしゅうふくむかどうかについても議論ぎろんがある。

日本にっぽん政府せいふはこのハル・ノートをり、開戦かいせん最終さいしゅうてき決断けつだんすることになる。のちの極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)で弁護人べんごにんつとめたベン・ブルース・ブレイクニーは「もし、ハル・ノートのようなものをきつけられたら、ルクセンブルクのような小国しょうこく武器ぶきり、アメリカとたたかっただろう」とひょうしており、えいりょうインド出身しゅっしん判事はんじラダ・ビノード・パールものちに引用いんようしている[69]。アメリカ海軍かいぐんどう11がつ26にちちゅうにアジアの潜水せんすいかん部隊ぶたいたいして、日米にちべい開戦かいせん場合ばあい武装ぶそう商船しょうせんでも警告けいこく攻撃こうげきしてもよいとする制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせん発令はつれいした。ただしハル・ノートには「極秘ごくひ暫定ざんていかつ拘束こうそくりょくがない」と明記めいきされており、回答かいとう期限きげん設定せっていされていない。アメリカがわがハル・ノート受諾じゅだくかんするわせをしたことはなく、その交渉こうしょう継続けいぞくおこな意志いしせている。

12月1にち だいはちかい御前ごぜん会議かいぎ

日米にちべい交渉こうしょう決裂けつれつ結果けっか東條とうじょう内閣ないかく12月1にち御前ごぜん会議かいぎにおいて、日本にっぽん時間じかん12月8にち開戦かいせん最終さいしゅう決定けっていした。

開戦かいせん経過けいか[編集へんしゅう]

宣戦せんせん布告ふこくまえ奇襲きしゅう[編集へんしゅう]

マレー作戦さくせん[編集へんしゅう]

クアラルンプール突入とつにゅうする日本にっぽん陸軍りくぐん

最初さいしょに、日本にっぽん陸軍りくぐん上陸じょうりく部隊ぶたいせた船団せんだん日本にっぽん時間じかん12がつ8にち未明みめいにイギリスりょうマレまれ半島はんとう東北とうほくはしコタ・バル接近せっきん日本にっぽん時間じかん午前ごぜん215ふん現地げんち時間じかん午前ごぜん130ふん)に上陸じょうりくし、海岸かいがんせんえいしるしぐん交戦こうせん[70]。イギリス政府せいふたいする宣戦せんせん布告ふこくまえ奇襲きしゅうによって太平洋戦争たいへいようせんそう戦端せんたんひらかれた。日本にっぽんぐんはほぼ同時どうじにタイにも上陸じょうりくし、タイがわ戦闘せんとうおこなっている(→日本にっぽんぐんのタイ進駐しんちゅう)。また近衛このえ師団しだんも8にちふつしるしから陸路りくろタイに侵入しんにゅうした。日本にっぽんぐん迎撃げいげきしようとしたイギリス海軍かいぐん戦艦せんかん「プリンス・オブ・ウェールズ」めぐよう戦艦せんかん「レパルス」は、ふつしるしから発進はっしんした日本にっぽん海軍かいぐん陸上りくじょう攻撃こうげきによる雷撃らいげきばくげき撃沈げきちんされた(マレーおき海戦かいせん)。

真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき[編集へんしゅう]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきかう空母くうぼ加賀かが」(ひだり)と「みずづる」(みぎ)
日本にっぽん海軍かいぐん攻撃こうげき炎上えんじょうする戦艦せんかんアリゾナ

つづいて、日本にっぽん航空こうくう母艦ぼかん空母くうぼ艦載かんさいにより、べいりょうハワイオアフとうにあるアメリカぐん基地きちたいする奇襲きしゅう攻撃こうげき真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき)も、日本にっぽん時間じかん12がつ8にち午前ごぜん130ふん(ハワイ時間じかん12がつ7にち午前ごぜん7)に発進はっしんして、日本にっぽん時間じかん午前ごぜん319ふん(ハワイ時間じかん午前ごぜん749ふん)から攻撃こうげき開始かいしされた。戦闘せんとう結果けっか戦艦せんかん8せきげき沈破するなどのだい戦果せんかげ、アメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたい戦艦せんかん部隊ぶたい戦闘せんとう能力のうりょく一時いちじてき完全かんぜん喪失そうしつ開戦かいせん初頭しょとうにアメリカぐん艦隊かんたいだい打撃だげきあたえて側面そくめんから南方みなかた作戦さくせん援護えんごするという[71]作戦さくせん目的もくてき達成たっせいした[72]

真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきはこれまでの戦争せんそう状況じょうきょう一変いっぺんさせる画期的かっきてき戦闘せんとうとなった。アメリカぐんは「真珠湾しんじゅわん作戦さくせん使用しようされた航空こうくう部隊ぶたいは、かつてどこのくに空軍くうぐん集結しゅうけつしたことのない、もっとも危険きけん部隊ぶたいのひとつであった。わずかな装甲そうこうばんつか、装甲そうこうばんたず、燃料ねんりょうタンクは防弾ぼうだんしきでなく、エンジンは1,000馬力ばりき程度ていど巡航じゅんこう速度そくど150マイル、最大さいだい速度そくど200マイルの急降下きゅうこうか爆撃ばくげき雷撃らいげきが「このもっとも華麗かれいな、成功せいこうした攻撃こうげき」を実施じっししたことは、いまからおもえば、まったくおどろくべきことである。攻撃こうげき計画けいかくどおりに、やく1あいだ間隔かんかくにわかれて実施じっしされた。パールハーバーの攻撃こうげき結果けっかについては詳述しょうじゅつする必要ひつようもなく、日本にっぽん空軍くうぐん文字通もじどお空前絶後くうぜんぜつご完成かんせいのピーク戦争せんそう開始かいししたといえば十分じゅうぶんであろう。」などとだい損害そんがいこうむりながら最大限さいだいげん賛辞さんじをもってこの作戦さくせん評価ひょうかしている[73]

帝国ていこく政府せいふたいべい通牒つうちょう覚書おぼえがき[編集へんしゅう]

にち戦争せんそう、「開戦かいせんかんする条約じょうやく」を日米にちべい両国りょうこくとも締結ていけつ批准ひじゅんしており、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき時点じてんでは、明瞭めいりょうかつ事前じぜん宣戦せんせん布告ふこく相手あいてこくおこな義務ぎむがあった。

来栖くるす三郎さぶろう特命とくめい全権ぜんけん大使たいし野村のむら吉三郎きちさぶろう大使たいしが「帝国ていこく政府せいふたいべい通牒つうちょう覚書おぼえがき[74]手交しゅこうし、コーデル・ハル国務こくむ長官ちょうかん交渉こうしょう妥結だけつ断念だんねんするかのような通告つうこくしたのは真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき日本にっぽん時間じかん12がつ8にち月曜日げつようび午前ごぜん420ふん(ワシントン時間じかん12がつ7にち午後ごご220ふん)であった。

この「帝国ていこく政府せいふたいべい通牒つうちょう覚書おぼえがき[74]は、覚書おぼえがき本文ほんぶん最終さいしゅう部分ぶぶんだい7こう3)が下記かきのとおりかれていた。

よっ帝国ていこく政府せいふハ、ここ合衆国がっしゅうこく政府せいふ態度たいどかんミ、今後こんご交渉こうしょう継続けいぞくスルモ妥結だけつニスルヲとくズトみとめムルがいナキむねヲ、合衆国がっしゅうこく政府せいふ通告つうこくスルヲ遺憾いかんトスルモノナリ。

これは、当時とうじおこなわれていた野村のむら駐米ちゅうべい大使たいし来栖くるす特命とくめい全権ぜんけん大使たいしによる交渉こうしょう打切うちきりつながるものか、日米にちべいあいだ交渉こうしょうそのものの打切うちきり通告つうこくであるかも明確めいかくでなく、米国べいこくたいする宣戦せんせん布告ふこくではない[75]

日本にっぽん実際じっさいにアメリカに手交しゅこうした「帝国ていこく政府せいふたいべい通牒つうちょう覚書おぼえがき[74]宣戦せんせん布告ふこくではなかったのである[75]

日本にっぽん時間じかん12がつ8にち午前ごぜん7時半じはん日本にっぽんはイギリスにたいしてロバート・クレイギーちゅうにち大使たいし外務省がいむしょうび、ワシントンでハル国務こくむ長官ちょうかん手渡てわたした「帝国ていこく政府せいふたいべい通牒つうちょう覚書おぼえがき[74]同文どうぶんうつしを「参考さんこうとして」手渡てわたしした[76]。これも手交しゅこうマレまれ半島はんとう攻撃こうげき開始かいしとなった。同日どうじつに、オランダは日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくした[77](ナチス・ドイツに本国ほんごく前年ぜんねん占領せんりょうされ、イギリスに亡命ぼうめい政府せいふいていた)。

米國べいこく英國えいこくたいスル宣戰せんせん詔書しょうしょ現代げんだいぶん[編集へんしゅう]

米國べいこく英國えいこくたいスル宣戰せんせん詔書しょうしょ」は真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき日本にっぽん時間じかん昭和しょうわ16ねん12月8にち午前ごぜん1145ふん渙発かんぱつされ、正午しょうごしてラジオ放送ほうそうおこなわれた。

詔書しょうしょ

てんたすけを保有ほゆう万世ばんせい一系いっけい皇位こうい継承けいしょうしている大日本帝国だいにっぽんていこく天皇てんのうは、あきらかに忠誠ちゅうせい勇武ゆうぶなあなたたち国民こくみんしめす。

はここに米国べいこくおよ英国えいこくたいしてたたかいを宣言せんげんする。くに陸海りくかい将兵しょうへい全力ぜんりょくふるって交戦こうせん従事じゅうじし、くに官僚かんりょう役人やくにんはげんでせい職務しょくむ執行しっこうし、国民こくみん各々おのおのその本分ほんぶんつくし、ぜん国民こくみんひとつになり国家こっか総力そうりょくげて戦争せんそう目的もくてき達成たっせいすることに手落ておちがないよう心構こころがまえしなさい。

そもそも、ひがしアジアの安定あんてい確保かくほすることにより世界せかい平和へいわ寄与きよすることは、立派りっぱ祖父そふ明治天皇めいじてんのう)から立派りっぱいだちち大正天皇たいしょうてんのう)のさくじゅつした遠大えんだい計画けいかくであって、がうやうやしくそのままにしておかなかったことで、そうして列国れっこくとの友好ゆうこうあつくしぜん世界せかいともさかえるよろこびを共有きょうゆうすることは、これはまた帝国ていこくつね国交こっこう重要じゅうよう意義いぎとしているところである。いま不幸ふこうにしてべいえい両国りょうこく不和ふわまねくにいたった。まことにむをえないものがあり、どうしてのぞむところであろうか。中華民国ちゅうかみんこく政府せいふさき帝国ていこく真意しんい理解りかいせず、みだりにこと荒立あらだひがしアジアの平和へいわ攪乱かくらんし、ついに帝国ていこく武力ぶりょくうったえるにいたらしめ、そしてよんねん有余ゆうよった。さいわいに国民こくみん政府せいふあたらしくなることになった。帝国ていこくはここと隣国りんごく友好ゆうこう関係かんけいむすびおたが提携ていけいするにいたったが、重慶たーちん残存ざんそんする政権せいけんべいえいたすけをねがって兄弟きょうだいなおいまだ内輪うちわあらそうことをあらためない。べいえい両国りょうこく残存ざんそん政権せいけん支援しえんしてひがしアジアのわざわいらん助長じょちょう平和へいわ美名びめいかくれて東洋とうよう制覇せいはぶん不相応ふそうおうおおきなのぞみをつよくしている。こともあろうか同盟どうめいこくさそい、帝国ていこく周辺しゅうへんにおいて武力ぶりょく増強ぞうきょうして挑戦ちょうせんし、さら帝国ていこく平和へいわてき通商つうしょうにあらゆる妨害ぼうがいあたえ、ついに経済けいざい断交だんこうをあえておこない、帝国ていこく生存せいぞん重大じゅうだいなる脅威きょういくわえた。政府せいふつう事態じたい平和へいわうち回復かいふくさせようとし我慢がまんつづけてきたが、かれらはまったく交譲の精神せいしんがなく無駄むだ時局じきょく解決かいけつ長引ながびかせ、このあいだかえって益々ますます経済けいざいじょう軍事ぐんじじょう脅威きょうい増大ぞうだいし、それにより屈従くつじゅうさせようとした。このようにして推移すいいしたが、ひがしアジアの安定あんていかんする帝国ていこく積年せきねん努力どりょくはことごとく水泡すいほうかえし、帝国ていこく存立そんりつはまたまさおおきな危険きけんにさらされた。ことすでにここにいた帝国ていこくは、いま自存じそん自衛じえいのため蹶然けつぜんがり一切いっさい障害しょうがい破砕はさいするほかない。

歴代れきだい天皇てんのう神霊しんれいじょうにある。 はあなたたち国民こくみん忠誠ちゅうせい勇武ゆうぶ信頼しんらいし、歴代れきだい天皇てんのう遺業いぎょうひろめ、すみやかに禍根かこんのぞき、ひがしアジアの永遠えいえん平和へいわ確立かくりつし、これにより帝国ていこく光栄こうえい保全ほぜんすることを期待きたいする。

御名ぎょめい御璽ぎょじ

昭和しょうわじゅうろくねん十二月じゅうにがつはちにち

— 昭和しょうわ天皇てんのう米國べいこく英國えいこくたいスル宣戰せんせん詔書しょうしょ

だい東亜とうあ戦争せんそう」の呼称こしょう決定けってい[編集へんしゅう]

12月10にち大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎささえ事変じへんと「たいべいえい戦争せんそう」をわせた呼称こしょうとして「だい東亜とうあ戦争せんそう呼称こしょう確認かくにんされ[34]、12月12にち閣議かくぎ決定けってい戦争せんそう名称めいしょうは「だい東亜とうあ戦争せんそうえい: Great East Asia War[34])」、戦時せんじ分界ぶんかい時期じき昭和しょうわ16ねん12月8にち午前ごぜん130ふん決定けっていした[20]同日どうじつ内閣ないかく情報じょうほうきょくは、アジア諸国しょこくにおける欧米おうべい植民しょくみん支配しはい打倒だとう目指めざす「だい東亜とうあしん秩序ちつじょ建設けんせつ」を戦争せんそう目的もくてきとした[59]

マレー作戦さくせん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきなどにより、日本にっぽんがイギリスやアメリカ、オランダなどの連合れんごうこくとのあいだ開戦かいせんしたことをけて、12月10にち中華民国ちゅうかみんこく日本にっぽんたい正式せいしき宣戦せんせん布告ふこくした。12月11にちにはドイツとイタリアがアメリカに宣戦せんせん布告ふこくしたことで、名実めいじつともに世界せかい大戦たいせんとなった。

日本にっぽんぐんかい進撃しんげき[編集へんしゅう]

日本にっぽんによる占領せんりょう地域ちいき拡大かくだい(1937ねんから1942ねん

1940ねん9がつ以降いこうふつしるし進駐しんちゅうおこなっていた日本にっぽんぐんは、領土りょうどがいにはまんしゅうこく中国ちゅうごく大陸たいりく東部とうぶ、フランスりょうインドシナに兵力へいりょく展開てんかいしていた。1941ねん12月8にち日本にっぽん陸軍りくぐんタイ国境こっきょうちかくのえいりょうマレまれ半島はんとうコタバルと、中立ちゅうりつくにだったタイの南部なんぶパタニソンクラ)へ陸軍りくぐん部隊ぶたい上陸じょうりくさせ(マレー作戦さくせん)、同日どうじつおこなわれた日本にっぽん海軍かいぐんによるアメリカ海軍かいぐん太平洋艦隊たいへいようかんたいたいする真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきべいりょうフィリピンへの攻撃こうげき開始かいしフィリピンのたたかい (1941-1942ねん))、えいりょう香港ほんこんへの攻撃こうげき開始かいし香港ほんこんたたか)、12月10にちイギリス海軍かいぐん東洋とうよう艦隊かんたいたいするマレーおき海戦かいせんなどの連合れんごう国軍こくぐんたいするたたかいで、日本にっぽんぐんだい勝利しょうりおさめた。

真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき影響えいきょう[編集へんしゅう]

日本にっぽん陸軍りくぐんによるイギリスりょうマレまれ半島はんとうへの上陸じょうりく成功せいこうし、その地上ちじょう海上かいじょう双方そうほうでイギリスぐんたいする作戦さくせん成功せいこうさせマレまれ半島はんとう制圧せいあつへとすすむこととなった。真珠湾しんじゅわんでアメリカ艦隊かんたい壊滅かいめつてき打撃だげきけたことは、こののち日本にっぽんぐん南方なんぽう作戦さくせん展開てんかい寄与きよすることとはなったが、空母くうぼらしたことと、日本にっぽんぐん攻撃こうげき艦船かんせん集中しゅうちゅうしたため修理しゅうり施設しせつ燃料ねんりょうタンクはほぼ無傷むきずで、アメリカ海軍かいぐん損害そんがいからなおるのは日本にっぽんぐん予想よそう以上いじょうはやく、のちの戦況せんきょうおおきな影響えいきょうおよぼすこととなった[78]

日本にっぽん海軍かいぐん当時とうじ短期間たんきかん勝利しょうりかさね、有利ゆうり状況じょうきょうでアメリカぐんをはじめとする連合れんごう国軍こくぐん停戦ていせんむことを画策かくさくしていたため、負担ふたんおおきいわりには戦略せんりゃくてき意味いみうすいとかんがえられていたハワイ諸島しょとうたいする上陸じょうりく作戦さくせんかんがえていなかった。また、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき成功せいこう日本にっぽん海軍かいぐん潜水せんすいかんやく10せき使用しようして、サンフランシスコサンディエゴなどアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく西海岸にしかいがん都市としたいして一斉いっせい砲撃ほうげきおこな計画けいかくもあったものの、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきによりアメリカ西海岸にしかいがん警戒けいかい強化きょうかされたこともあり、このあん実行じっこううつされることはなかった。

しかしそのようななかで、フランクリン・D・ルーズベルト大統領だいとうりょう以下いかのアメリカ政府せいふ首脳しゅのうじんは、ハワイ諸島しょとうだけでなく本土ほんど西海岸にしかいがんたいする日本にっぽん海軍かいぐん上陸じょうりく作戦さくせん危惧きぐし、ハワイ駐留ちゅうりゅうぐん本土ほんどへの撤退てったい計画けいかく策定さくていやハワイ諸島しょとう流通りゅうつうされているアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくドル紙幣しへい専用せんようのものに変更へんこうするなど、日本にっぽんぐんにハワイ諸島しょとう占領せんりょうされ資産しさんなどが日本にっぽんぐんわたったさい対策たいさく早急そうきゅう策定さくていしていた。また、アメリカ政府せいふ首脳しゅのうじんおよびぐん首脳しゅのうにおいては、日本にっぽん海軍かいぐん空母くうぼふく連合れんごう艦隊かんたいによるアメリカ本土ほんど空襲くうしゅうと、それにつづくアメリカ本土ほんどへの侵攻しんこう計画けいかく当時とうじその可能かのうせいたかいと分析ぶんせきされており、戦争せんそう開始かいし直後ちょくご、ルーズベルト大統領だいとうりょう日本にっぽんぐんによるアメリカ本土ほんどへの上陸じょうりく危惧きぐし、陸軍りくぐん上層じょうそう上陸じょうりくでの阻止そし打診だしんするものの、陸軍りくぐん上層じょうそうは「だい規模きぼ日本にっぽんぐん上陸じょうりくけられない」として日本にっぽんぐん上陸じょうりくロッキー山脈さんみゃくで、もしそれに失敗しっぱいした場合ばあい中西部ちゅうせいぶシカゴ阻止そしすることを検討けんとうしていた[ちゅう 15]

香港ほんこん作戦さくせん[編集へんしゅう]

香港ほんこん入城にゅうじょうする日本にっぽんぐん

日本にっぽんぐんは1941ねん12月8にちあさ真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきどう時刻じこくけいとく空港くうこうなどの空港くうこう空襲くうしゅう初日しょにち航空こうくう戦力せんりょく無力むりょくすると、9にちよるにはきゅうりゅう半島はんとうきゅうりゅう要塞ようさいジン・ドリンカーズ・ラインぬし陣地じんちへの進攻しんこう開始かいし当初とうしょ計画けいかくよりはやい6にちでイギリスぐん香港ほんこんとうへの撤退てったい発令はつれいした[79]。その香港ほんこんとう進攻しんこうした日本にっぽんぐんは、香港ほんこん攻略こうりゃくのために編成へんせいされただい1砲兵ほうへいたいはげしい支援しえん砲撃ほうげきのもとに香港ほんこんとう進攻しんこうしたが、きゅうりゅう半島はんとうからみず補給ほきゅう途絶とだえていたイギリスぐんは25にち1750ふん白旗しらはたかかげ、香港ほんこんとう日本にっぽんぐんちた[80]

一方いっぽうで、中国ちゅうごくぐん大陸たいりくから香港ほんこん救援きゅうえん画策かくさくしていたが、阿南あなみ惟幾これちか中将ちゅうじょうひきいるだい11ぐんの3師団しだんがその機先きせんせいして、中国ちゅうごくぐん重要じゅうよう拠点きょてんちょうすな攻撃こうげきをかけた。しかし、中国ちゅうごくぐんは30師団しだん30まんにん兵力へいりょくであり、だい11ぐん3師団しだんちょうすな撃退げきたいされると、圧倒的あっとうてき多数たすう中国ちゅうごくぐん相手あいて戦闘せんとうしながらの撤退てったい余儀よぎなくされておおくの損害そんがいこうむり、この作戦さくせんによる日本にっぽんぐん損害そんがい戦死せんし1,591にん戦傷せんしょう4,412にんにものぼったが、かく師団しだんきびしい戦況せんきょうのなかでも敢闘かんとう中国ちゅうごくぐんにも打撃だげきあたえて遺棄いき死体したいやく28,612にん確認かくにんし、捕虜ほりょ1,065にんている[81]中国ちゅうごくがわちょうすな会戦かいせんんだこのたたかいは、日本にっぽんぐんたいする連合れんごうこくぐん最初さいしょ勝利しょうりとして重慶たーちん政府せいふおおいに喧伝けんでんしたが、中国ちゅうごくぐん自身じしんは、すうばい戦力せんりょくそろえて周到しゅうとう包囲ほうい作戦さくせん準備じゅんびしていたにもかかわらず、だい11ぐんがしたことについて「すこぶる遺憾いかん」ときびしい評価ひょうかをしている[82]一方いっぽうちょうすな攻略こうりゃくできなかった日本にっぽんぐんであったが、中国ちゅうごくぐん主力しゅりょく12ぐん牽制けんせいして足止あしどめし、結果けっかてきにこのあとの香港ほんこん攻略こうりゃく南方なんぽう作戦さくせん有利ゆうり展開てんかいさせることとなった[83]

シンガポール陥落かんらく[編集へんしゅう]

降伏ごうぶく交渉こうしょうおこな山下やました奉文ともゆき中将ちゅうじょうアーサー・パーシバル中将ちゅうじょう

日本にっぽん陸軍りくぐんによるイギリスりょうマレまれ半島はんとうへの上陸じょうりく成功せいこうし、その地上ちじょう海上かいじょう双方そうほうでイギリスぐんたいする作戦さくせん成功せいこうさせマレまれ半島はんとう制圧せいあつへとすすむこととなった。スリムかわたたか英語えいごばんにおいては、島田しまだ豊作とよさく少佐しょうさひきいるきゅうななしきちゅう戦車せんしゃ主力しゅりょくとするわずか1個いっこ中隊ちゅうたい18りょう戦車せんしゃが、イギリスぐん2師団しだんまも陣地じんち夜襲やしゅう突破とっぱするなど、イギリスぐん圧倒あっとうしながらマレまれ半島はんとう南部なんぶめていった[84]

マレまれ半島はんとう南下なんかした日本にっぽん陸軍りくぐんは、だいえい帝国ていこく東南とうなんアジア支配しはい拠点きょてんで、ジブラルタル要塞ようさい同様どうよう巨費きょひとうじて構築こうちくされたシンガポール要塞ようさいへの攻撃こうげき開始かいしした。英国えいこく首相しゅしょうチャーチルは司令しれいかんアーサー・パーシヴァル中将ちゅうじょう死守ししゅめいじて、続々ぞくぞく援軍えんぐんおくっており、パーシバルは4師団しだん相当そうとうの85,000にんものだい兵力へいりょく指揮しきしていた。その兵力へいりょくおおくはイギリス本国ほんごくぐんやオーストラリアぐんから構成こうせいされ、主力しゅりょく戦車せんしゃ配備はいびされていなかったものの十分じゅうぶん装備そうびくわえて、航空こうくう戦力せんりょくでもバトル・オブ・ブリテン活躍かつやくしたホーカー ハリケーンMk.IIが100おくられた[85]。しかし、シンガポール要塞ようさい東方とうほう海上かいじょうからの攻撃こうげきそなえて構築こうちくされ、主力しゅりょく兵器へいき15インチ(380㎜)要塞ようさいほう英語えいごばんなどの要塞ようさいほううみがわいて設置せっちされており、マレまれ半島はんとう走破そうはしてジョホールバルから進攻しんこうしてくる日本にっぽんぐんたいしてやくにたなかったじょう[86]だい25ぐんの3師団しだん36,000にん日本にっぽんぐんばいする兵力へいりょくゆうしながら、訓練くんれん不足ふそくなどで兵力へいりょくでの優位ゆういかすことはできなかった。

まずは、菅原すがわらみちだい中将ちゅうじょうひきいるだい3飛行ひこう集団しゅうだんがシンガポールを爆撃ばくげき、ハリケーンを主力しゅりょくとしたイギリス空軍くうぐん迎撃げいげきするも、陸軍りくぐん航空こうくうたいさい新鋭しんえい戦闘せんとう一式いっしき戦闘せんとうはやぶさ」を配備はいびした加藤かとう建夫たけお中佐ちゅうさひきいる飛行ひこうだい64戦隊せんたいがハリケーンを次々つぎつぎ撃墜げきついし、イギリスぐんのハリケーンへの期待きたい裏切うらぎられた格好かっこうとなってシンガポールの制空権せいくうけん日本にっぽんぐん確保かくほした[87]だい3飛行ひこう集団しゅうだんはシンガポールを連日れんじつ爆撃ばくげきし、たまらず極東きょくとうのイギリス空軍くうぐん司令しれいはシンガポールから逃亡とうぼうし、日本にっぽんぐんから撃墜げきつい撃破げきはのがれた残存ざんそんジャワスマトラ島すまとらとう退避たいひしてしまった[88]そらからの援護えんごだい25ぐんはシンガポールに上陸じょうりく激戦げきせんすえ、シンガポールの水源すいげんであり、大量たいりょう物資ぶっし弾薬だんやく貯蔵ちょぞうしてあったブキッ・ティマ高地こうち奪取だっしゅすると、パーシバルはたまらずだい25ぐん司令しれいかん山下やました奉文ともゆき中将ちゅうじょう降伏ごうぶくもうた。マレまれ半島はんとうたたかいもふくだいえい帝国ていこく死傷ししょうしゃ20,000にんくわえて、イギリスへい35,000にん、オーストラリアへい15,000にん、インドへい67,000にん現地げんち義勇ぎゆうへい14,000にん合計ごうけい131,000にん以上いじょう捕虜ほりょとなるなど甚大じんだい損害そんがいこうむった[89]。パーシバルに死守ししゅめいじていたチャーチルはこの敗戦はいせん衝撃しょうげきけて『だいえい帝国ていこく史上しじょう最悪さいあく災害さいがい最大さいだい降伏ごうぶく』と後々あとあとまでやむこととなった[90]

中立ちゅうりつこくポルトガル植民しょくみんたいしても、英国えいこく勢力せいりょくけんであったオーストラリア攻略こうりゃく経由けいゆとなる可能かのうせいったひがしティモールと、香港ほんこん中国ちゅうごく大陸たいりく近接きんせつするマカオについては当初とうしょ日本にっぽんぐん中立ちゅうりつこく植民しょくみんであることを理由りゆう侵攻しんこうおこなわなかった。しかし、オランダぐんとオーストラリアぐん中立ちゅうりつ担保たんぽのためとしてひがしティモールを保障ほしょう占領せんりょうしたため、日本にっぽんぐんがオランダりょう西にしティモールと同時どうじ占領せんりょうし、ポルトガル政府せいふ黙認もくにんした、マカオとともに事実じじつじょう統治とうちいた。

フィリピンのたたか[編集へんしゅう]

1942ねん5がつ、フィリピン・コレヒドールとうにおけるアメリカ極東きょくとう陸軍りくぐん降伏ごうぶく

日本にっぽんぐんはアメリカの植民しょくみんであったフィリピンにも上陸じょうりくした。フィリピンでは軍事ぐんじ顧問こもんから現役げんえき軍人ぐんじん復帰ふっきしたダグラス・マッカーサーがアメリカぐんとフィリピンぐん統括とうかつするアメリカ極東きょくとう陸軍りくぐん司令しれいかんとして、本間ほんま雅晴まさはる中将ちゅうじょうひきいるだい14ぐんむかったが[91]開戦かいせん劈頭へきとうクラークフィールド飛行場ひこうじょう日本にっぽんぐん爆撃ばくげきされて、しん兵器へいき大型おおがた爆撃ばくげきB-17ふく航空こうくう戦力せんりょく壊滅かいめつすると、15まんにん兵力へいりょくゆうしながら、リンガエンわんから上陸じょうりくしてきた4まんにんだい14ぐん圧倒あっとうされてバターン半島はんとうコレヒドールとう籠城ろうじょうさせられた[92]。その日本にっぽんぐん主力しゅりょくだい48師団しだんらんしるし作戦さくせん転出てんしゅつしたため、圧倒的あっとうてき兵力へいりょくまさるアメリカ極東きょくとう陸軍りくぐんめあぐねていたが、食料しょくりょう備蓄びちくそこをついたアメリカ極東きょくとう陸軍りくぐん戦力せんりょく士気しき低下ていかいちじるしく、アメリカ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうまでつとめたマッカーサーが捕虜ほりょとなった場合ばあい悪影響あくえいきょう懸念けねんしたルーズベルトよりオーストラリアへの脱出だっしゅつ命令めいれいけたマッカーサーは、バターンで飢餓きが疫病えきびょうくるしむ部下ぶか将兵しょうへいやフィリピン国民こくみんたいして「わたしはアメリカ大統領だいとうりょうから、日本にっぽん戦線せんせん突破とっぱしてコレヒドールからオーストラリアにけとめいじられた。その目的もくてきは、わたし了解りょうかいするところでは、日本にっぽんたいするアメリカの攻勢こうせい準備じゅんびすることで、その最大さいだい目的もくてきはフィリピンの救援きゅうえんにある。わたしはやってきたが、かならずやわたしもどるだろう(I shall return)」と約束やくそくすると、フィリピンから脱出だっしゅつした[93]

マッカーサーに見捨みすてられたジョナサン・ウェインライト少将しょうしょうひきいるアメリカ極東きょくとう陸軍りくぐんは、その飢餓きが疫病えきびょうおおくの犠牲ぎせいしながらもバターンをまもつづけたが、1942ねん4がつ増援ぞうえん日本にっぽんぐんそう攻撃こうげきにより降伏ごうぶくへとまれた。このとき日本にっぽんぐん投降とうこうしたアメリカ極東きょくとうぐん将兵しょうへいは76,000めいにもなり、『戦史せんしじょうでアメリカぐんこうむった最悪さいあく敗北はいぼく』とわれ、おおくのアメリカじんのなかになが苦痛くつう記憶きおくとしてのこることとなった[94]勝利しょうりした日本にっぽんぐんであったが、バターン攻撃こうげき当初とうしょからバターンにこもったアメリカ極東きょくとうぐん兵士へいしすう把握はあくできておらず、予想よそうがい捕虜ほりょたい食糧しょくりょう運搬うんぱん手段しゅだん準備じゅんびできていなかった。また、降伏ごうぶくした将兵しょうへいはマッカーサーの「絶対ぜったい降伏ごうぶくするな」という死守ししゅ命令めいれいにより、飢餓きが病気びょうき消耗しょうもうしきっていたが、司令しれいかんほんあいだはそういう事情じじょう十分じゅうぶんらされていないなかで、バターン半島はんとうさい南部なんぶからマニラ北方ほっぽうサンフェルナンドまで90kmを徒歩とほ移動いどうするという捕虜ほりょ輸送ゆそう計画けいかく承認しょうにんした。徒歩とほ移動いどうちゅう消耗しょうもうしきった捕虜ほりょたちは、マラリア疲労ひろう飢餓きが日本にっぽんへい暴行ぼうこう処刑しょけいで7,000めい〜10,000めいぬこととなり、のちにアメリカで『Bataan Death March(バターン行進こうしん)』としょうされて、日本にっぽんへの敵愾心てきがいしんあおることとなった[95]

らんしるし作戦さくせん[編集へんしゅう]

バリクパパン進撃しんげきする日本にっぽんぐん

1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ日本にっぽんたいべいえい戦争せんそうささえ事変じへんのみならず、たいらんたたかえたいソ連それんせんも「だい東亜とうあ戦争せんそう」にふくむと確認かくにんした[96][97]どう1がつ日本にっぽん宣戦せんせん保留ほりゅうしていたオランダとも開戦かいせん当時とうじはイギリスおよびオランダの植民しょくみんであったボルネオとう(カリマンタンとう)とジャワ島じゃわとう、オランダの植民しょくみんであったスマトラ島すまとらとうにも侵攻しんこう開始かいしした。

1942ねんの2がつには、開戦かいせん以来いらい連戦れんせん連勝れんしょうつづける日本にっぽん海軍かいぐんごうだいじゅうなな潜水せんすいかんが、アメリカ西海岸にしかいがん沿岸えんがんカリフォルニアしゅうサンタバーバラ近郊きんこうのエルウッドにある製油せいゆしょ砲撃ほうげき製油せいゆしょ施設しせつ破壊はかいした。つづいてどう6がつにはオレゴンしゅうにあるアメリカ海軍かいぐん基地きち砲撃ほうげきして被害ひがいしたこともあり、アメリカは本土ほんどへの日本にっぽんぐん本格ほんかくてき上陸じょうりくそなえたものの、短期たんき決着けっちゃくによる早期そうき和平わへい意図いとしていた日本にっぽん海軍かいぐんはアメリカ本土ほんどけて本格ほんかくてき進軍しんぐんする意図いとはなかった。しかし、これらのアメリカ本土ほんど攻撃こうげきがもたらした日本にっぽんぐんのアメリカ本土ほんど上陸じょうりくたいするアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふ恐怖きょうふしんと、無知むちによる人種じんしゅ差別さべつてき感情かんじょうが、日系にっけいじん強制きょうせい収容しゅうよう本格ほんかくつながったともわれる。

日本にっぽん海軍かいぐんは、同月どうげつおこなわれたジャワおき海戦かいせんでアメリカ、イギリス、オランダ海軍かいぐん中心ちゅうしんとする連合れんごうぐん諸国しょこく艦隊かんたい打破だはする。つづスラバヤおき海戦かいせんでは、巡洋艦じゅんようかん7せきげき沈破された連合れんごうこく海軍かいぐんたいし、日本にっぽん海軍かいぐんがわ損失そんしつ皆無かいむ圧勝あっしょうした。シンガポール陥落かんらくの3がつおこなわれたバタビアおき海戦かいせんでも勝利しょうりし、東南とうなんアジア海域かいいき連合れんごう国軍こくぐん艦隊かんたいをほぼ壊滅かいめつさせた。またジャワ島じゃわとう上陸じょうりくした日本にっぽんぐんは、疲弊ひへいしたオランダぐん制圧せいあつ同島どうとう全域ぜんいき占領せんりょうした(らんしるし作戦さくせん)。

ビルマ作戦さくせん[編集へんしゅう]

ビルマの仏教ぶっきょう寺院じいんをパトロールする日本にっぽんぐん兵士へいし(1942ねん

1941ねん12月、日本にっぽんぐんは「マレー作戦さくせんがわ安定あんてい援蒋ルート遮断しゃだんたいインドおよびたい中国ちゅうごく圧迫あっぱく強化きょうか」を目的もくてきとしてビルマ(げんミャンマー)に進攻しんこうした[98]。 1942ねん3がつ8にちには首都しゅとラングーンを占領せんりょう[99]日本にっぽんぐん破竹はちくいきおいで連合れんごうぐん追撃ついげき、5がつまつまでに一掃いっそうし、ビルマを制圧せいあつした。えいしるしぐんじゅう装備そうび車両しゃりょうるいをことごとく放棄ほうきしてアラカン山中さんちゅう敗走はいそうし、一方いっぽう雲南うんなん方面ほうめんへの退路たいろ遮断しゃだんされた中国ちゅうごくぐんは、北部ほくぶビルマにめられ崩壊ほうかいしていった。中国ちゅうごくビルマインド戦域せんいきアメリカ陸軍りくぐん司令しれいかんジョセフ・スティルウェル中将ちゅうじょうはわずかすうじゅうめいとともにアラカン山中さんちゅうをさまよい、インドへのがれた。以上いじょうのようにして、ビルマ作戦さくせん日本にっぽんぐん完全かんぜん勝利しょうりをもって、雨季うき直前ちょくぜん予定よていどおりそのまくじた[100]

その日本にっぽんぐんは、インドの要衝ようしょうカルカッタ(げんコルカタ)へのばくげき実施じっしした(カルカッタばくげき)。

インド洋いんどようとオーストラリアへの進攻しんこう[編集へんしゅう]

1942ねん2がつ19にち、オーストラリア北西ほくせいダーウィンへの空襲くうしゅう

ビルマ方面ほうめん展開てんかいする日本にっぽん陸軍りくぐん後方こうほう協力きょうりょくするかたちで、航空こうくう母艦ぼかん中心ちゅうしんとした海軍かいぐん機動きどう艦隊かんたいが、進出しんしゅつしたインド洋いんどよう空母くうぼ搭載とうさいによるイギリスりょうセイロン(現在げんざいスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲くうしゅう、さらにイギリス海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたいへも攻撃こうげきくわ多数たすう艦艇かんてい撃沈げきちんした(セイロンおき海戦かいせん)。こうして航空こうくう戦力せんりょくだい打撃だげきけたイギリス東洋とうよう艦隊かんたい日本にっぽん海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたいたいする反撃はんげきができず、当時とうじ植民しょくみん地下ちかいていたアフリカ東岸とうがんケニアキリンディニこうまで撤退てったいすることになる。なお、この攻撃こうげきくわわった潜水せんすいかんいちせきであるごうだいさんじゅう潜水せんすいかんは、その8がつ戦争せんそう開始かいしはつどく潜水せんすいかん作戦さくせんだいいちどく潜水せんすいかん)としてドイツ占領せんりょうのフランスへと派遣はけんされ、エニグマ暗号あんごうなどをかえった。

1942ねん2がつ19にちには日本にっぽんぐん艦載かんさい陸上りくじょう攻撃こうげきによって、オーストラリアダーウィンわん停泊ていはくしている艦船かんせん飛行場ひこうじょう空襲くうしゅうした(ダーウィン空襲くうしゅう)。オーストラリア史上しじょうはつ他国たこくによる本土ほんどへの軍事ぐんじ攻撃こうげきとなったが、停泊ていはくちゅう艦船かんせん39せきげき沈破、30航空機こうくうき撃墜げきつい撃破げきはされるなどおおきな損害そんがいこうむった。こののち日本にっぽんぐんは96かいわたってオーストラリアを爆撃ばくげきし(日本にっぽんのオーストラリア空襲くうしゅう)、一般いっぱん市民しみんに2,000にんじゃく死傷ししょうしゃをだした[101]。また、1942ねん5がつには日本にっぽんぐん特殊とくしゅ潜航せんこうていシドニーこう攻撃こうげきし、オーストラリア海軍かいぐん宿泊しゅくはくかんクッタブルHMAS Kuttabul)」を撃沈げきちん、そのとなりにいたオランダ海軍かいぐん潜水せんすいかんK IXK IX)」も大破たいはしてシドニーこうだい混乱こんらんおちいった[102]日本にっぽんぐん侵攻しんこう現実げんじつてきとなったオーストラリアに緊張きんちょうはしったが、肝心かんじんのオーストラリアぐんはシンガポールでだい損害そんがいこうむっていたうえ、チャーチルの要請ようせいによってエルヴィン・ロンメルひきいる「ドイツ・アフリカ軍団ぐんだん」に対抗たいこうするためきたアフリカ戦線せんせんに3師団しだん派遣はけんされており、オーストラリアのジョン・カーティン首相しゅしょうはルーズベルトとチャーチルにアメリカがオーストラリアの防衛ぼうえい責任せきにんつよう要請ようせいした。ルーズベルトはフィリピンから脱出だっしゅつしたマッカーサーを司令しれいかんとし南西なんせい太平洋たいへいよう方面ほうめんぐん編成へんせいして、日本にっぽんぐん侵攻しんこう対抗たいこうすることとした[103]

このころイギリスぐん日本にっぽん海軍かいぐん基地きちとされる危険きけんせいから、ヴィシー・フランス統治とうちにあったアフリカ東岸とうがんマダガスカルしまを、みなみアフリカぐん支援しえんけて占領せんりょうした(マダガスカルのたたか)。このたたかいのあいだに、現地げんちのヴィシー・フランスぐん援護えんごする名目めいもくでイギリス海軍かいぐんった日本にっぽん海軍かいぐん特殊とくしゅ潜航せんこうていディエゴスアレスみなと攻撃こうげきし、タンカー「ブリティッシュ・ロイヤルティ」を撃沈げきちん、イギリス海軍かいぐん戦艦せんかんを1せき大破たいはさせるなどの戦果せんかげている。戦争せんそう末期まっきにはイギリスぐん反攻はんこうてんじるが、インド洋いんどよう東部とうぶにおける日本にっぽんぐんによるアンダマン・ニコバル諸島しょとう占領せんりょう終戦しゅうせんまでつづいた。

珊瑚さんごうみ海戦かいせん[編集へんしゅう]

気化きかガソリンに引火いんかだい爆発ばくはつこしたべい空母くうぼレキシントン

こうしただいいちだん作戦さくせん終了しゅうりょう日本にっぽんぐんだいだん作戦さくせんとして、アメリカとオーストラリア(豪州ごうしゅう)のあいだシーレーン遮断しゃだんしオーストラリアを孤立こりつさせる「べいごう遮断しゃだん作戦さくせん」(FS作戦さくせん)を構想こうそうした。この阻止そし目論もくろ連合れんごうぐんとのあいだソロモン諸島しょとうたたかニューギニアのたたか開始かいしされると、この地域ちいき足止あしどめされた日本にっぽんぐんは、戦争せんそう資源しげん消耗しょうもうしていくことになる。

日本にっぽんぐんは、アメリカとオーストラリアのシーレーン遮断しゃだんのため潜水せんすいかんをオーストラリア海域かいいき派遣はけん日本にっぽんぐん潜水せんすいかんやく30せき艦船かんせん撃沈げきちんし、一時いちじ連合れんごうぐん海上かいじょう輸送ゆそう変更へんこう余儀よぎなくされ輸送ゆそうりょう減少げんしょうすることとなったが、戦況せんきょうやオーストラリア経済けいざいあたえた影響えいきょうすくなかった[104]。しかし、撃沈げきちんされた艦船かんせんなかには、オーストラリアの病院びょういんせんケンタウロス英語えいごばんふくまれており、のちに国際こくさい問題もんだいとなった[105]

日本にっぽんぐんは「べいごう遮断しゃだん作戦さくせん実現じつげんのため、ニューギニアの連合れんごうぐん重要じゅうよう拠点きょてんポートモレスビー海路かいろ進攻しんこうするMO作戦さくせん計画けいかく作戦さくせんには「だい航空こうくう戦隊せんたい」の「しょうづる」「みずづる」とMO攻略こうりゃく部隊ぶたいMOしゅたいの「さちおおとり」の空母くうぼ3せき参加さんかしていたが、アメリカぐん作戦さくせん阻止そしのため大型おおがた空母くうぼレキシントン」と「ヨークタウン」の空母くうぼ2せき出撃しゅつげき、5月4にちから、歴史れきしうえはつりょう艦隊かんたいたがいの視界しかいがい空母くうぼ同士どうし海戦かいせんとなった珊瑚さんごうみ海戦かいせんたたかわれた[106]海戦かいせん日本にっぽんぐんが「レキシントン」を撃沈げきちんしたのにたいして、うしなったのは小型こがた空母くうぼさちおおとり」だけで、アメリカぐん艦隊かんたい後退こうたいさせることに成功せいこうしたが、「しょうづる」が損傷そんしょうしていたうえ、艦載かんさい消耗しょうもうはげしく、うみからのポートモレスビー攻略こうりゃく断念だんねんせざるをず、アメリカぐんからは開戦かいせん以来いらいはじめて日本にっぽんぐん膨張ぼうちょうおさえることができたとの評価ひょうかであった[107]。この結果けっか海路かいろからのポートモレスビー攻略こうりゃく断念だんねんした日本にっぽんぐん陸路りくろからの作戦さくせんえたものの、山脈さんみゃくえのなん行軍こうぐんにより補給ほきゅう途絶とだえてポートモレスビー攻略こうりゃく作戦さくせん失敗しっぱいする。

戦局せんきょく転換期てんかんき[編集へんしゅう]

ドーリットル空襲くうしゅう[編集へんしゅう]

空母くうぼホーネットをはつかんするB-25

敗戦はいせんつづ国民こくみん士気しき低下ていかしていることを懸念けねんしていたルーズベルトは、日本にっぽん本土ほんど爆撃ばくげきして国民こくみん士気しきたかめる必要ひつようがあるとかんがえていた。ルースベルトのつよ意志いしもあってアメリカ統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶは、「航続こうぞく距離きょりなが陸軍りくぐん航空こうくうぐんばくげき空母くうぼからはつかんさせ、日本にっぽん本土ほんど爆撃ばくげきする」という作戦さくせん決定けってい[108]改造かいぞうした「B-25」16東京とうきょう爆撃ばくげきして、そのまま中国ちゅうごく飛行場ひこうじょう着陸ちゃくりくするという計画けいかくてた[109]。アメリカ海軍かいぐんのなかには、戦術せんじゅつてき効果こうかほとんのぞめない作戦さくせん貴重きちょう空母くうぼ必要ひつよう以上いじょう危険きけんさらすことに反対はんたい意見いけん根強ねづよかったが、ルーズベルトのつよ意志いしもあって作戦さくせん決行けっこうされた[110]

ジミー・ドーリットル中佐ちゅうさ任務にんむ指揮しきかんえらばれ[108]、B-25を16搭載とうさいした空母くうぼホーネット」と護衛ごえいする「エンタープライズ」が途中とちゅう日本にっぽんぐん警戒けいかいせん排除はいじょしながら、日本にっぽん本土ほんど接近せっきんし、1942ねん4がつ18にち東京とうきょうから700マイルの地点ちてん予定よていより7時間じかんはやい08:15からB-25がはつかん開始かいしした。予定よていよりも7あいだはつかんはやめたのは日本にっぽんぐん警戒けいかいせん発見はっけんされたことを警戒けいかいしたためであったが、日本にっぽんぐん警戒けいかいはしていたもののB-25をまともに迎撃げいげきすることはできなかった。B-25は東京とうきょうのほか、横浜よこはま横須賀よこすか名古屋なごや空襲くうしゅうし、中国ちゅうごく方面ほうめん離脱りだつしたが、日本にっぽん本土ほんど撃墜げきついされたはなかったものの、16ぜん不時着ふじちゃくなどでうしなわれた。日本にっぽんがこの空襲くうしゅうけた被害ひがい限定げんていてきであったが、この影響えいきょう日本にっぽん、アメリカどもおおきなものとなり、とくにアメリカ国民こくみん士気しきおおいにたかまった[111]

ミッドウェー海戦かいせん[編集へんしゅう]

ばくげき炎上えんじょうする空母くうぼりゅう

4がつ日本にっぽん海軍かいぐんは、アメリカの海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい制圧せいあつするため、機動きどう部隊ぶたい主力しゅりょく投入とうにゅうミッドウェーとう攻略こうりゃく決定けっていするが、その直後ちょくごのドーリットル空襲くうしゅう衝撃しょうげきける。6月におこなわれたミッドウェー海戦かいせんにおいて、日本にっぽん海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい主力しゅりょく正規せいき空母くうぼ4せき(「赤城あかぎ」「加賀かが」「あおいりゅう」「りゅう」)とじゅう巡洋艦じゅんようかんさんくま」を喪失そうしつする事態じたいおちいる。艦船かんせん被害ひがいだけではなくおおくの艦載かんさいおよび搭乗とうじょういんうしなったこの戦闘せんとう太平洋戦争たいへいようせんそうのターニングポイントとなった。ここで大本営だいほんえい海軍かいぐんは、ミッドウェー海戦かいせんにおける大敗たいはい事実じじつ隠蔽いんぺいする(大本営だいほんえい発表はっぴょう)。

アメリカ海軍かいぐんによる日本にっぽん本土ほんどへのはつ空襲くうしゅうたいして、9月には日本にっぽん海軍かいぐんじゅうがた潜水せんすいかんごうだいじゅう潜水せんすいかん潜水艦せんすいかん搭載とうさい偵察ていさつによりアメリカ西海岸にしかいがんオレゴンしゅうを2にわたり空爆くうばくし、森林しんりん火災かさい発生はっせいさせるなどの被害ひがいあたえたが(アメリカ本土ほんど空襲くうしゅう)、アメリカ政府せいふはこの事実じじつ隠蔽いんぺいした。この空襲くうしゅうは、2022ねん現在げんざいいたるまでアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく本土ほんどたいする唯一ゆいいつ外国がいこく軍機ぐんきによる空襲くうしゅうとなっている。

ガダルカナルとうたたかい・ソロモン海戦かいせん[編集へんしゅう]

1942ねん10がつ、ガダルカナルとうたたかいにおいて壊滅かいめつした日本にっぽん陸軍りくぐんだい2師団しだん

ミッドウェー海戦かいせん直後ちょくごの7がつ日本にっぽんぐん最大さいだい勢力せいりょく範囲はんいたっしたが、ミッドウェー海戦かいせんにより日本にっぽんぐん圧倒的あっとうてき優位ゆういにあった空母くうぼ戦力せんりょく一時いちじてき拮抗きっこうし、アメリカ海軍かいぐん日本にっぽん海軍かいぐん予想よそうよりはや反攻はんこう作戦さくせん開始かいしすることとなる。8月にアメリカぐん日本にっぽん海軍かいぐんたいするはつ本格ほんかくてき反攻はんこうとして、ソロモン諸島しょとうツラギとうおよびガダルカナルとう海兵かいへいたい2まんにん上陸じょうりくさせ、日本にっぽん海軍かいぐん建設けんせつ完成かんせい間近まぢかであった飛行場ひこうじょう占領せんりょうした[47]日本にっぽん海軍かいぐん日本にっぽん陸軍りくぐんたいして同地どうち奪回だっかい懇願こんがんし、陸軍りくぐん地上ちじょう部隊ぶたい派兵はへい、これにより日本にっぽんぐんべいごうりょうぐんあいだりくうみそらすべてにおいて一大いちだい消耗しょうもうせんひろげることとなった(ガダルカナルとうたたか)。同月どうげつおこなわれただいいちソロモン海戦かいせんでは日本にっぽん海軍かいぐん攻撃こうげきで、アメリカ、オーストラリア海軍かいぐんなどからなる連合れんごうぐんじゅうじゅん4せき撃沈げきちんして勝利しょうりする。しかし、日本にっぽんぐん輸送ゆそうせん攻撃こうげきしなかったため、ガダルカナルとうでの戦況せんきょうおおきな影響えいきょうはなかったが、だいソロモン海戦かいせん日本にっぽん海軍かいぐん小型こがた空母くうぼりゅう」をうしない、しまめぐ戦況せんきょう泥沼どろぬまする。

10月におこなわれた南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせんでは、日本にっぽん海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきにより、アメリカ海軍かいぐん大型おおがた空母くうぼのうち「ホーネット」を撃沈げきちん、「エンタープライズ」を大破たいはさせた。先立さきだって「サラトガ」が大破たいは、「ワスプ」を日本にっぽん潜水せんすいかん雷撃らいげきによってうしなっていたアメリカ海軍かいぐんは、一時いちじてきにではあるが太平洋たいへいよう戦線せんせんにおける稼動かどう空母くうぼ皆無かいむという危機ききてき状況じょうきょうおちいった。日本にっぽんは「みずづる以下いか5せき空母くうぼゆうし、ミッドウェー海戦かいせん空母くうぼ隻数せきすうでは優位ゆういにあったが、度重たびかさなる海戦かいせん熟練じゅくれん搭乗とうじょういん消耗しょうもうしてしまったことと補給ほきゅうせんびきったことにより、前線ぜんせんへの投入とうにゅうができずあらたな攻勢こうせいってることができなかった。

そのおこなわれただいさんソロモン海戦かいせんで、日本にっぽん海軍かいぐん戦艦せんかん2せき(「比叡ひえい」「霧島きりしま」)をうしな敗北はいぼくした。アメリカぐんはガダルカナルとう周辺しゅうへんにおいて航空こうくう優勢ゆうせい獲得かくとく日本にっぽんぐん輸送ゆそうせん撃破げきはして補給ほきゅう妨害ぼうがいし、物資ぶっし輸送ゆそうふうめた。ガダルカナルとうでは補給ほきゅう覚束おぼつかなくなり、餓死がしする日本にっぽんぐん兵士へいし続出ぞくしゅつした。のち一部いちぶ司令しれいよりガダルカナル諸島しょとうは「かつえしま」と皮肉ひにくられた。

1943ねん1がつ日本にっぽん海軍かいぐんソロモン諸島しょとうおこなわれたレンネルとうおき海戦かいせんでアメリカ海軍かいぐんじゅう巡洋艦じゅんようかんシカゴ」を撃沈げきちんする戦果せんかげたが、しま奪回だっかい最早もはや絶望ぜつぼうてきとなり、2がつ日本にっぽん陸軍りくぐんはガダルカナルとうから撤退てったいごう作戦さくせん)した。半年はんとしにもおよ消耗しょうもうせんにより、にちべいごうりょうぐんおおきな損害そんがいしょうじたが、国力こくりょく限界げんかいがある日本にっぽんにとってはかえしのつかない損害そんがいであった。これ以降いこう、ソロモン諸島しょとうでの戦闘せんとうりょうぐん拮抗きっこうしたままつづく。

1943ねん4がつ18にちには、日本にっぽん海軍かいぐん連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろく海軍かいぐん大将たいしょう[ちゅう 16]が、前線ぜんせん視察しさつのためおとずれていたブーゲンビルとう上空じょうくうアメリカ海軍かいぐん情報じょうほうきょくによる暗号あんごう解読かいどくけたP-38戦闘せんとうせをけ、じょう一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき撃墜げきついされ戦死せんしした(海軍かいぐんかぶと事件じけん)。しかし大本営だいほんえいは、作戦さくせん指導しどうじょう機密きみつ保持ほじ連合れんごうこくによる宣伝せんでん利用りよう防止ぼうしなどを考慮こうりょして、山本やまもと長官ちょうかん事実じじつを1かげつ以上いじょうたった5月21にちまでせていた。しかし、このころ日本にっぽん海軍かいぐん暗号あんごうおおくはアメリカ海軍かいぐん情報じょうほうきょくにより解読かいどくされており、アメリカぐん日本にっぽん海軍かいぐん無線むせん傍受ぼうじゅ暗号あんごう解読かいどくにより、撃墜げきついもなく山本やまもと長官ちょうかん察知さっちしていたことが戦後せんごあきらかになった。

アッツとう玉砕ぎょくさい[編集へんしゅう]

1943ねん5がつには前年ぜんねんの6がつより日本にっぽんぐん占領せんりょうしていたアリューシャン列島れっとうアッツとうべいぐん上陸じょうりく山崎やまざき保代やすよ大佐たいさ以下いか日本にっぽんぐん守備しゅびたい全滅ぜんめつし(アッツとうたたか)、大本営だいほんえい発表はっぴょうにおいてはじめて「玉砕ぎょくさい」という言葉ことばもちいられた。また、ニューギニアとうでは日本にっぽんぐんとアメリカぐん、オーストラリアぐん中心ちゅうしんとした連合れんごうぐんとのはげしいたたかいがつづいていたが(ニューギニアのたたか)、8がつごろよりすこしずつ日本にっぽんぐん退勢たいせいとなり、物資ぶっし補給ほきゅう困難こんなんてきた。同年どうねんごろには、日本にっぽんぐんにとって南太平洋みなみたいへいよう戦線せんせんでの最大さいだい基地きちであるラバウル度重たびかさなる空襲くうしゅう孤立こりつはじめる。

連合れんごうぐん反攻はんこう[編集へんしゅう]

アメリカ統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶ作成さくせいした『日本にっぽん撃滅げきめつ戦略せんりゃく計画けいかく』では「1、封鎖ふうさとくひがしインド諸島しょとう地域ちいき油田ゆでんおよびその戦略せんりゃく物資ぶっしはこ日本にっぽんがわ補給ほきゅう切断せつだん」「2、日本にっぽんしょ都市としへの継続けいぞくてき空襲くうしゅう」「3、日本にっぽん本土ほんどへの上陸じょうりく」によって日本にっぽん撃滅げきめつできると想定そうていしていた。開戦かいせん敗北はいぼくつづけたものの、その戦力せんりょくととのえたアメリカぐんやイギリスぐん、オーストラリアぐん中心ちゅうしんとした連合れんごう国軍こくぐんは、このとし後半こうはんから戦略せんりゃく計画けいかくもとづき反攻はんこう作戦さくせん本格ほんかくさせた。

方面ほうめんからの進攻しんこう計画けいかく[編集へんしゅう]

連合れんごうぐんによる2方面ほうめんからの反攻はんこう進路しんろ

やがて、戦局せんきょく連合れんごうぐんがわ有利ゆうりになると、ぐん指揮しきけんが、マッカーサーひきいるアメリカ陸軍りくぐん主力しゅりょく連合れんごうこく南西なんせい太平洋軍たいへいようぐん英語えいごばん(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督ていとくひきいるアメリカ海軍かいぐんアメリカ海兵かいへいたい主力しゅりょく連合れんごうこく太平洋軍たいへいようぐん英語えいごばん(POA)の2つに分権ぶんけんされている太平洋たいへいよう戦域せんいき指揮しきけんについて、マッカーサーがヨーロッパ戦線せんせん連合れんごうこく遠征えんせいぐん最高さいこう司令しれいそう司令しれいかんのようにぜん指揮しきけん掌握しょうあくするべきと主張しゅちょうした。さらにマッカーサーは、自分じぶんがその指揮しきけん統括とうかつして、一本いっぽんした戦力せんりょくによってニューブリテンとう攻略こうりゃく起点きてんとした反攻はんこう計画けいかく「エルクトロン計画けいかく」を提案ていあんしたが[112]栄誉えいよ独占どくせんしようというマッカーサーを警戒けいかいしていたアーネスト・キング海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょう強硬きょうこう反対はんたいした。この問題もんだいは、1943ねん5がつワシントン開催かいさいされた、ルーズベルトとイギリス首相しゅしょうウィンストン・チャーチルによる「トライデント会議かいぎ」で協議きょうぎされたが、マッカーサーの主張しゅちょう却下きゃっかされて、太平洋たいへいよう従来じゅうらいどお連合れんごうこく南西なんせい太平洋軍たいへいようぐん連合れんごうこく太平洋軍たいへいようぐんが2方面ほうめんたいにち反攻はんこう作戦さくせん展開てんかいしていくことが決定けっていされた[113]

反攻はんこうルートについては、「I shall return」の約束やくそくたすため、フィリピンの奪還だっかんいそぐマッカーサーは、ニューギニアからフィリピンという比較的ひかくてきおおきい陸地りくち進攻しんこうすることによって、陸上りくじょう飛行ひこう基地きち全作ぜんさく戦線せんせん支援しえん可能かのうとなることや、マッカーサーがこれまでってきた、『リープフロッギング(かえるび)作戦さくせん』によって損害そんがいらすことができると主張しゅちょうしていたのにたいして[114]、ニミッツは、従来じゅうらいからのアメリカ海軍かいぐんたいにちせんドクトリンであるオレンジ計画けいかくもとづき、太平洋たいへいよう中央ちゅうおう海路かいろによる進撃しんげき主張しゅちょう[115]、マッカーサーにたいしては、陸路りくろ進撃しんげきすることは、海路かいろでの進撃しんげき比較ひかくして、ながよわ交通こうつうせんでの進撃しんげき補給ほきゅうとなって、戦力せんりょく不経済ふけいざい使用しようとなることや、日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこうには遠回とおまわりとなるうえ、進撃しんげき容易ようい予知よちされるので日本にっぽんぐん兵力へいりょく集中しゅうちゅうゆるしてしまうこと、また、進撃しんげきとなるニューギニアなどには感染かんせんしょう蔓延まんえんしており、兵士へいし危険きけんさらすことになると反論はんろんした[116]

アメリカ統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶは、双方そうほう主張しゅちょうげて、マッカーサーはビスマルク諸島しょとうとニューギニアを前進ぜんしんミンダナオ攻略こうりゃく一方いっぽうでニミッツは、ギルバート諸島しょとう攻略こうりゃくいで西方せいほうてんじて、クェゼリンエニウェトクグアムサイパンペリリューへと前進ぜんしんし、りょうぐんルソン島るそんとう台湾たいわん一本いっぽんになるとめられ、8がつケベック会談かいだんにおいて作戦さくせんあんをチャーチルも承諾しょうだくした。連合れんごうぐん基本きほん方針ほうしんは、まずはナチス・ドイツやぶることを優先ゆうせんし、それまでは太平洋たいへいよう戦線せんせんでの積極せっきょくてき攻勢こうせいひかえるというもので、投入とうにゅうされる戦力せんりょく物資ぶっしはヨーロッパ70%にたいして太平洋たいへいよう30%とめられていたが、マッカーサーやキングが、日本にっぽんぐん手強てごわさと太平洋たいへいよう戦線せんせん重要じゅうようせいをルーズベルトにいて、ヨーロッパと太平洋たいへいよう戦力せんりょく物資ぶっし均衡きんこうさは改善かいぜんされており、このようなだい規模きぼな2方面ほうめん作戦さくせんおこなうことが可能かのうとなっていた[117]とく海軍かいぐんりょく増強ぞうきょういちじるしく、ソロモンでの激戦げきせん一時いちじ太平洋たいへいよう戦域せんいきでの可動かどう空母くうぼが0せきとなっていたアメリカ海軍かいぐんであったが、新型しんがた空母くうぼエセックスきゅう航空こうくう母艦ぼかんが32せき発注はっちゅうされ、続々ぞくぞく就役しゅうえきすると(だい世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうにともないキャンセルされた8せきのぞく24せき就役しゅうえき[118]連合れんごうぐん反攻はんこうおおきな戦力せんりょくとなった[119]。また、大量たいりょう護衛ごえい空母くうぼ続々ぞくぞく就役しゅうえきしており、のちに「月刊げっかん正規せいき空母くうぼ」「週刊しゅうかん護衛ごえい空母くうぼ」などともわれ、アメリカの巨大きょだい生産せいさんりょく象徴しょうちょうすることともなった[120]

なおもマッカーサーは、中部ちゅうぶ太平洋たいへいようには日本にっぽんぐん要塞ようさいしているしまがいくつもあって、アメリカぐん多大ただい出血しゅっけついることになるため、自分じぶん戦力せんりょく集中しゅうちゅうすべきとがったが、ニミッツは、ニューギニアを主戦しゅせんせんとすると空母くうぼ部隊ぶたい日本にっぽんぐん陸上りくじょう基地きちからの攻撃こうげき危険きけんさらされると反論はんろんした。このニミッツの反論はんろんには空母くうぼをマッカーサーの指揮しきには絶対ぜったいかないというつよ意志いしもはたらいており容易ようい議論ぎろんはまとまらなかった[121]

絶対ぜったい国防こくぼうけん決定けってい[編集へんしゅう]

1943ねん大本営だいほんえいはソロモン諸島しょとうでの一連いちれん敗戦はいせんとアメリカぐんによる本格ほんかくてき反攻はんこうまえにして、ひろがりきったげん戦線せんせんたたかうことの不利ふり認識にんしき後方こうほう自主じしゅてき戦線せんせんもうけて戦線せんせん集約しゅうやくしようという方針ほうしん検討けんとうはじめた。しかし、日本にっぽん陸軍りくぐん日本にっぽん海軍かいぐんではその方針ほうしんことなっており、日本にっぽん陸軍りくぐん大幅おおはば戦域せんいき集約しゅうやくしたうえで、後方こうほう防衛ぼうえいせん反撃はんげき態勢たいせいととのえようという方針ほうしんたいして、日本にっぽん海軍かいぐん戦線せんせん後退こうたい最低限さいていげんにし、早期そうき決戦けっせん追求ついきゅうすべきという方針ほうしんであり、なかなか方針ほうしんかたまらないまま経過けいかしていった[122]日本にっぽん海軍かいぐんギルバート諸島しょとうマーシャル諸島しょとうをアメリカぐん侵攻しんこう迎撃げいげきたいとするZ作戦さくせん要領ようりょう発令はつれいしたが、従来じゅうらい太平洋たいへいよう正面しょうめん海軍かいぐん担当たんとう地域ちいきかんがえていた陸軍りくぐんは、ギルバートやマーシャルには部隊ぶたい配置はいちしておらず、陸軍りくぐん想定そうていしている西北せいほくニューギニアからマリアナ諸島しょとういた後方こうほう戦線せんせんから2,000㎞以上いじょう東方とうほう位置いちしているこれらの離島りとうでは、陸海りくかいぐん連携れんけいしての反撃はんげき困難こんなんであると主張しゅちょうするなど、陸海りくかいぐん認識にんしき相違そういあきらかであった[123]

これら陸海りくかいぐん根本こんぽんてき方針ほうしん解消かいしょうされなかったものの、9月30にち閣議かくぎおよ御前ごぜん会議かいぎ決定けっていされた「今後こんごルヘキ戦争せんそう指導しどう大綱たいこう」において「帝国ていこく戦争せんそう遂行すいこうじょう太平洋たいへいよう印度いんどよう方面ほうめんニ於テ絶対ぜったい確保かくほスヘキよういき千島ちしま小笠原おがさわらうち南洋なんよう中西部ちゅうせいぶ)及西ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ムけんいきトス」とする「絶対ぜったい国防こくぼうけん」が決定けっていされた。これは陸軍りくぐん主張しゅちょうしてきた後方こうほう戦線せんせんとほぼおなじもので、海軍かいぐん主張しゅちょうしてきた決戦けっせんじょうである、ギルバートやマーシャルは除外じょがいされたが、大綱たいこうのなかの「てきべいえいたいシ其ノ攻勢こうせい企図きと破摧はさいシツツ」や「随時ずいじてき反攻はんこう戦力せんりょく捕捉ほそく破摧はさいス」の抽象ちゅうしょうてき文言もんごんにより、絶対ぜったい国防こくぼうけん前方ぜんぽうでの海軍かいぐん作戦さくせん容認ようにんする玉虫色たまむしいろ決着けっちゃくであり、この海軍かいぐん決戦けっせん思想しそうは、陸軍りくぐん持久じきゅう戦略せんりゃくとは相反あいはんするもので、のちの絶対ぜったい国防こくぼうけん防衛ぼうえい体制たいせい構築こうちくおくらせることになってしまった[124]

恐怖きょうふのタラワ[編集へんしゅう]

タラワとう海岸かいがんよこたわるアメリカ海兵かいへい隊員たいいん遺体いたい

1943ねん11月、ギルバート諸島しょとうマキンとうタラワとうにアメリカぐん侵攻しんこう両島りょうしままも日本にっぽんぐん将兵しょうへいはわずか3,000にんらず(朝鮮ちょうせんじん労務者ろうむしゃくわえると5,000にん)にたいして、アメリカぐんアメリカ海兵かいへいたい主力しゅりょくとした40,000にん攻撃こうげきしたのにもかかわらず[125]日本にっぽんぐん守備しゅびたい奮闘ふんとうし、とくだいさん特別とくべつ根拠地こんきょちたい司令しれいかん柴崎しばざきめぐみ少将しょうしょう徹底てっていした要塞ようさいすすめていたタラワとう上陸じょうりくしたアメリカぐんは、日本にっぽんぐん激烈げきれつ抵抗ていこうまえだい損害そんがいこうむり、のちに「恐怖きょうふのタラワ」とばれることとなった(タラワのたたか)。タラワとう激戦げきせん様子ようすタイムによってアメリカ国内こくない報道ほうどうされたが、「先週せんしゅうやく2,000ないし3,000のアメリカ海兵かいへいは、その大半たいはんいま戦死せんししたかもしくは負傷ふしょうしているが、ぜん国民こくみんにたいしてレキシントン・コンコードのたたかアラモのたたかリトルビッグホーンのたたかベローウッドのたたか英語えいごばんなどの名前なまえのわきにならぶべき、不朽ふきゅう名前なまえひとつあたえた。その名前なまえはタラワであった。」とセンセーショナルな記事きじであったため、アメリカ国民こくみん動揺どうようひろがった[126]

マキンとうにおいてもだい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい分遣ぶんけんたい243めい日本にっぽんぐんたいして、上陸じょうりくしただい27歩兵ほへい師団しだん英語えいごばんの2連隊れんたい6,500にんじつに27ばい兵力へいりょくながら苦戦くせんいられた。また、この戦闘せんとうちゅう175上陸じょうりく支援しえんちゅう護衛ごえい空母くうぼリスカム・ベイ撃沈げきちん、マキンとうでのアメリカぐん死傷ししょうしゃは1,327にんにもなり、朝鮮ちょうせんじん労務者ろうむしゃくわえた日本にっぽんぐん戦死せんししゃ591にん上回うわまわ損害そんがいこうむり、作戦さくせん指揮しきしたニミッツを憤慨ふんがいさせ、こののち上陸じょうりく作戦さくせんたいするおおきな教訓きょうくんとなった[127]

だい東亜とうあ会議かいぎ[編集へんしゅう]

どう11がつ日本にっぽん東條とうじょう英機ひでき首相しゅしょうは、まんしゅうこくやタイ、フィリピン、ビルマ、自由じゆうインドかり政府せいふ中華民国ちゅうかみんこく南京なんきん国民こくみん政府せいふなどの首脳しゅのう東京とうきょうあつめてだい東亜とうあ会議かいぎひらき、だい東亜とうあ共栄きょうえいけん結束けっそく誇示こじした。このとし年末ねんまつになると、開戦かいせん当初とうしょ相次あいつ敗北はいぼくから完全かんぜん態勢たいせいなおし、圧倒的あっとうてき戦力せんりょくつにいたったアメリカぐんくわえ、ヨーロッパ戦線せんせんでドイツぐんたいして攻勢こうせいてん戦線せんせん展開てんかい余裕よゆうてきたイギリスぐんやオーストラリアぐん、ニュージーランドぐんなどのすうカ国かこくからなる連合れんごうぐんと、中国ちゅうごく戦線せんせん膠着こうちゃく状態じょうたい打開だかいできないまま、太平洋たいへいよう戦線せんせんにおいてさしたる味方みかたもなく事実じじつじょういちこくたたかうえ開戦かいせん当初とうしょ相次あいつ勝利しょうりのために予想よそうしなかったほど戦線せんせんびたことで兵士へいし補給ほきゅう兵器へいき生産せいさん軍需ぐんじゅ物資ぶっし補給ほきゅう困難こんなんしょうじる日本にっぽんぐんちから関係かんけい一気いっき連合れんごうこく有利ゆうりへとかたむいていった。

大陸たいりくどおり作戦さくせん[編集へんしゅう]

粤漢せん線路せんろじょう進撃しんげきする日本にっぽんぐん

アメリカは大型おおがた戦略せんりゃく爆撃ばくげきB-29」の開発かいはつすすめていたが、B-29の作戦さくせん準備じゅんびととのうまでに、「ドイツの工業こうぎょうりょく通信つうしんもう、そのほかの軍事ぐんじ目標もくひょう大半たいはんを、すでに破壊はかいしてしまっている」と分析ぶんせきし、B-29を日本にっぽんたいして使用しようすると決定けっていした[128]。1943ねん1がつ開催かいさいされたカサブランカ会談かいだん席上せきじょうで、ルーズベルトは蔣介せき中華民国ちゅうかみんこく基地きちとする日本にっぽん本土ほんどへのばくげき計画けいかく検討けんとうするとげた[129]日本にっぽんぐん軍務ぐんむ局長きょくちょう佐藤さとうけんりょう少将しょうしょう委員いいんちょうとするB-29対策たいさく委員いいんかい設置せっち海外かいがい調査ちょうさ機関きかんつうじて資料しりょう収集しゅうしゅうした[130]。 1943ねん10がつ13にちアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん司令しれいかんヘンリー・ハップ・アーノルド大将たいしょう日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう作戦さくせん計画けいかくマッターホルン作戦さくせん作成さくせい、ルーズベルトはこれを承認しょうにんし、ケベック会談かいだんでチャーチルに「我々われわれ来年らいねん早々そうそうしん爆撃ばくげき(B-29)をもって、日本にっぽん強力きょうりょく打撃だげきあたえる準備じゅんびちゅうである。日本にっぽん軍事ぐんじりょくささえている製鉄せいてつ工業こうぎょう原動力げんどうりょくとなっているまんしゅうおよび九州きゅうしゅう炭鉱たんこう地帯ちたいは、中華民国ちゅうかみんこく成都せいと地区ちくからのばくげき行動こうどう圏内けんないはいることになる」「この作戦さくせん遂行すいこうによって、アジアにおける連合れんごうぐん勝利しょうり促進そくしんできるだろう」という手紙てがみおくって協力きょうりょく要請ようせいし、蔣介せきたいしては1944ねん3がつまつまでに成都せいと地区ちくに5飛行場ひこうじょう絶対ぜったい建設けんせつするよう要請ようせいした[131]

一方いっぽう日本にっぽんぐん着々ちゃくちゃくすす中華民国ちゅうかみんこくからの日本にっぽん本土ほんどばくげき準備じゅんび見過みすごしていたわけではなく、1943ねん12月には大本営だいほんえい陸軍りくぐん服部はっとりたく四郎しろう作戦さくせん課長かちょう総裁そうさいのもとに、中国ちゅうごく大陸たいりくからの本土ほんどばくげき対策たいさくへい演習えんしゅうおこなわれ、いちごう作戦さくせん大陸たいりくどおり作戦さくせん)が立案りつあんされた。よく1944ねん1がつには、大陸たいりくどおり作戦さくせん目的もくてき中華民国ちゅうかみんこく南西なんせい飛行場ひこうじょう覆滅ふくめつによる日本にっぽん本土ほんどばくげき阻止そしとして大本営だいほんえい命令めいれい発令はつれいされた[132]日本にっぽんぐんかつらりんやなぎしゅう地区ちくにB-29が進出しんしゅつすると、東京とうきょうふく大都市だいとしがすべてばくげき圏内けんないはいるものとかんが攻略こうりゃくすることとしたが、アーノルドは、日本にっぽんぐん攻撃こうげき中国ちゅうごくぐんかつらりんやなぎしゅう防衛ぼうえいできないと判断はんだんして、B-29の基地きち成都せいとまで後退こうたいさせている。日本にっぽん陸軍りくぐんけんぐん以来いらい最大さいだい規模きぼとなる10師団しだん40まんにんだい兵力へいりょく動員どういんし、1944ねん4がつにまずはちょうすな、その1944ねん11月にはかつらりんやなぎしゅう飛行場ひこうじょうするなど怒涛どとう進撃しんげきせて、中華民国ちゅうかみんこくぐん75まんにん撃破げきはするなど、多大ただい損害そんがいあたえつつ目的もくてき地域ちいき攻略こうりゃくには成功せいこうしたが、中国ちゅうごくビルマインド戦域せんいきアメリカ陸軍りくぐん司令しれいかんジョセフ・スティルウェル中将ちゅうじょうによる勧告かんこくもあって、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうたい進出しんしゅつしておらず、飛行場ひこうじょうはもぬけのから肝心かんじん日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう阻止そしという最大さいだい目的もくてき達成たっせいできなかった[133]

しかし、後退こうたいした成都せいと周辺しゅうへんからの出撃しゅつげきではいかに航続こうぞく距離きょりながいB-29であっても、九州きゅうしゅう爆撃ばくげきするのがやっとであり、よりちか場所ばしょにB-29の基地きちもとめられた。また、マッターホルン作戦さくせんでは中国ちゅうごくないのB-29前進ぜんしん基地きちへの補給ほきゅうには十分じゅうぶんりょう輸送ゆそう困難こんなん空路くうろたよりざるをないため、作戦さくせんおおきな障害しょうがいとなることが懸念けねんされており、日本にっぽん本土ほんど大半たいはん爆撃ばくげき圏内けんないおさめ、なお海路かいろ大量たいりょう物資ぶっし安定あんていてき補給ほきゅうできるマリアナ諸島しょとうがB-29の出撃しゅつげき基地きちとして検討けんとうされることとなっていく[134]

このたたかいは太平洋たいへいようでは苦戦くせんつづ日本にっぽんぐんだい勝利しょうりとなったが、戦略せんりゃくてきにはたものはすくなかった。一方いっぽう惨敗ざんぱいした蔣介せきがアメリカから見限みかぎられる一因いちいんともなって、戦後せんご中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく建国けんこくすくなからず影響えいきょうおよぼした[135]

日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう開始かいし[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく飛行場ひこうじょうちゅうしているB-29

着々ちゃくちゃく準備じゅんびすすめたアメリカぐんは、1944ねん6がつ15にち成都せいとから75のB-29による八幡やはた製鐵せいてつしょおも目標もくひょうとする日本にっぽんはつ空襲くうしゅうおこなった(八幡やはた空襲くうしゅう[136]。B-29は灯火ともしび管制かんせい目視もくし爆撃ばくげきができず、レーダーばくげきおこなったが、ばくげきたい不慣ふなれもあってだい混乱こんらんしており、しゅ目的もくてきであった八幡やはた製鐵せいてつしょ爆撃ばくげきによる被害ひがい軽微けいび生産せいさん影響えいきょうはなかった[137]ばくげき指揮しきしたアラン・クラーク大佐たいさは「作戦さくせん結果けっかはみじめなものだった。八幡やはた地区ちくちたばくだんのうち、目標もくひょう区域くいきへの命中めいちゅうりつはごくわずかで、30kmもはなれておちたものもいくつかあった。レーダーしゅがレーダー爆撃ばくげきになれていないためだった」と評価ひょうかしたが[138]製鐵せいてつしょ命中めいちゅうしなかったばくだん八幡はちまん市街地しがいち落下らっかして市民しみん322めい犠牲ぎせいとなった[139]。このB-29日本にっぽん本土ほんどはつ空襲くうしゅう日本にっぽんアメリカ双方そうほうあたえた衝撃しょうげき実際じっさいばくげき効果こうか以上いじょうおおきかった。日本にっぽんがわは、B-29の想定そうてい以上いじょう性能せいのう衝撃しょうげきけ、西日本にしにほん防空ぼうくう体制たいせいさい構築こうちくいそがれることとなった[140]ぐんけた衝撃しょうげきおおきかったが、一般いっぱん国民こくみんには抑制よくせいてき報道ほうどうがなされ、日本にっぽんがわ迎撃げいげきで6のB-29を撃墜げきついしながら、わがほう損害そんがいなしとほうじられた[141]一方いっぽう、アメリカではB-29による日本にっぽん本土ほんどはつ空襲くうしゅう成功せいこうのニュースとして大々的だいだいてきほうじられ、そのあつかいはほぼどう時期じきおこなわれたノルマンディ上陸じょうりく作戦さくせん匹敵ひってきするおおきさで、ニュースがげられてるあいだ国会こっかい議事ぎじ停止ていしされたほどであった。ノルマンディをおとずれていたアーノルドも「このちょうそら要塞ようさいによるだい一撃いちげきは、“まことにぜん世界せかいてき航空こうくう作戦さくせん”の開始かいしであり、アメリカは航空こうくう戦力せんりょくとしてははじめての、最大さいだい打撃だげきあたえることができる成功せいこう無比むひで、威力いりょく絶大ぜつだい爆撃ばくげきつにいたった」という声明せいめい発表はっぴょうした[142]

八幡やはたへのはつ空襲くうしゅう成功せいこうをよくしたアーノルドはだい20ばくげき集団しゅうだん司令しれいかんケネス・B・ウルフじゅんしょうに、つづいての日本にっぽん本土ほんどばくげきめいじた。しかし、だい20ばくげき集団しゅうだん最大さいだい弱点じゃくてんである中国ちゅうごく国内こくない前進ぜんしん基地きちへの補給ほきゅう問題もんだい改善かいぜんしておらず、八幡やはた空襲くうしゅうののち、中国ちゅうごく国内こくない基地きち燃料ねんりょう備蓄びちくりょうはわずかとなっており、当面とうめんあいだ作戦さくせん不能ふのうとなっていた。ウルフはのこの窮状きゅうじょうからアーノルドの命令めいれい実行じっこう不可能ふかのうかんがえていたが[143]、アーノルドはウルフを消極しょうきょくてきだんじて更迭こうてつ、ヨーロッパ戦線せんせん活躍かつやくして勇名ゆうめいをはせていた38さいわか将軍しょうぐんカーチス・ルメイ少将しょうしょう後任こうにん任命にんめいした[144]。しかし、中国ちゅうごく成都せいとからの出撃しゅつげきでは九州きゅうしゅう爆撃ばくげきするのがやっとで、またB-29のすうすくなく、補給ほきゅう問題もんだいもあったことから、日本にっぽん被害ひがい限定げんていてきであった。また、日本にっぽんぐん迎撃げいげき激烈げきれつであり、1944ねん8がつ20日はつか白昼はくちゅうおこなわれた3度目どめ八幡やはたばくげきでは、61のB-29にたいして。陸軍りくぐんよんしき戦闘せんとう疾風しっぷうしきふく戦闘せんとうほふりゅう海軍かいぐんの「れいせん」と「月光げっこう」など合計ごうけい100以上いじょう迎撃げいげきし、撃墜げきつい確実かくじつ24確実かくじつ13報告ほうこくするなどだい戦果せんかげている[145]。アメリカぐん損失そんしつ記録きろくでも出撃しゅつげき61ちゅう14損失そんしつ損失そんしつりつは22.9%となり、B-29の出撃しゅつげきのなかでは最悪さいあく損失そんしつりつとなった[146]

マリアナ諸島しょとうへの進攻しんこう決定けってい[編集へんしゅう]

1943ねんカイロ会談かいだんにて、アジア・太平洋たいへいよう戦域せんいき連合れんごうこく各国かっこく指導しどうしゃひだりから、蔣介せきフランクリン・ルーズベルトウィンストン・チャーチル

アメリカ海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうのキングは、マリアナ諸島しょとう日本にっぽん本土ほんど南方なんぽう日本にっぽんぐん基地きちとをむす後方こうほう連絡れんらくせん中間ちゅうかん位置いちし、フィリピンや南方なんぽう資源しげん地帯ちたいいた経済けいざいてき生命せいめいせんにな日本にっぽんにとっての太平洋たいへいようかぎで、これを攻略こうりゃくできれば、台湾たいわん中国ちゅうごく本土ほんどへの侵攻しんこう基地きちとなるうえ、日本にっぽん本土ほんど封鎖ふうさして経済けいざいてきいきめることもできると分析ぶんせき[147]、その攻略こうりゃくいそぐべきだとかんがえていた[148]。アメリカ陸軍りくぐんでも、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん司令しれいかんアーノルドが、B-29による日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう基地きちとしてマリアナの確保かくほねがっていた。すで中国ちゅうごく本土ほんどからの日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう準備じゅんびすすめられていたが、中国ちゅうごくからではB-29の航続こうぞく距離きょりをもってしても九州きゅうしゅう爆撃ばくげきするのがせいいっぱいであり、日本にっぽん本土ほんどすべてを出撃しゅつげき圏内けんないおさめることができるマリアナはアーノルドにとって絶好ぜっこう位置いちであった。また、中国ちゅうごくないのB-29前進ぜんしん基地きちへの補給ほきゅうには、補給ほきゅうりょうかぎられる空路くうろたよらざるをないのと比較ひかくすると、マリアナへは海路かいろ大量たいりょう物資ぶっし安定あんていてき補給ほきゅうできるのも、このあん推奨すいしょうされたおおきな理由りゆうのひとつとなった[134]。そこでアーノルドは連合れんごうぐん首脳しゅのうあつまったケベック会議かいぎで、マリアナからの日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう計画けいかくとなる「日本にっぽん撃破げきはするための航空こうくう攻撃こうげき計画けいかく」を提案ていあんしているが、ここでは採択さいたくまでにはいたらなかった[149]

アーノルドらのうごきを警戒けいかいしたマッカーサーは、真珠湾しんじゅわんから3,000マイル、もっともちかいアメリカぐん基地きちエニウェトクからでも1,000マイルのだい遠征えんせい作戦さくせんとなる[150]マリアナ侵攻しんこう作戦さくせん不安ふあんいていたニミッツをんで、マリアナ攻略こうりゃく断念だんねん主張しゅちょうした。アーノルドとおなじアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん所属しょぞくながらマッカーサーの腹心ふくしんでもあった極東きょくとう空軍くうぐん(Far East Air Force, FEAF)司令しれいかんジョージ・ケニー英語えいごばん少将しょうしょうもマッカーサーのかたち「マリアナからでは戦闘せんとう護衛ごえい不可能ふかのうであり、護衛ごえいがなければB-29はこう高度こうどからのばくげき余儀よぎなくされ、精度せいどはお粗末そまつになるだろう。こうした空襲くうしゅうは『曲芸きょくげい以外いがいなにぶつでもない」と上官じょうかんでもあるアーノルドの作戦さくせん計画けいかく嘲笑あざわらうかのような反論はんろんおこなった[151]

キングとアーノルドはたがいに目的もくてきことなるとはいえ、おなじマリアナ攻略こうりゃく検討けんとうしていることをると接近せっきんし、りょうはフィリピンへの早期そうき侵攻しんこう主張しゅちょうするマッカーサーに理解りかいしめしていた陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうマーシャルに、マリアナの戦略せんりゃくてき価値かちつづけついには納得なっとくさせた[115]。キング自身じしん計画けいかくでは、マリアナをB-29の拠点きょてんとして活用かつようすることはしゅたる作戦さくせん目的もくてきではなく、キングがみずからの計画けいかくすすめるべく、陸軍りくぐん航空こうくうぐん味方みかたにするためにくわえられたのにぎなかったが、キングとアーノルドという陸海りくかいぐん有力ゆうりょくしゃが、最終さいしゅうてき目的もくてきことなるとはしゅむすんだことは、自分じぶん戦線せんせん優先ゆうせん主張しゅちょうするマッカーサーや、ナチスドイツ打倒だとう優先ゆうせん主張しゅちょうするチャーチルによって停滞ていたいしていた太平洋たいへいよう戦線せんせん戦略せんりゃく計画けいかく立案りつあん停滞ていたいじょうきょう打破だはすることとなった。ルーズベルトもこの提案ていあんおおいに評価ひょうか[149]、1943ねん12月のカイロ会談かいだんにおいて、1944ねん10がつのマリアナの攻略こうりゃく[152]、アーノルドの「日本にっぽん撃破げきはするための航空こうくう攻撃こうげき計画けいかく」も承認しょうにんされ会議かいぎ文書ぶんしょに「日本にっぽん本土ほんど戦略せんりゃくばくげきのために戦略せんりゃくばくげき部隊ぶたいをグアムとテニアン、サイパンに設置せっちする」という文言もんごんまれて[148]、マリアナからの日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう決定けっていされた[149]

そのも、マッカーサーはマリアナの攻略こうりゃくより自分じぶん担当たんとうする西太平洋にしたいへいよう戦域せんいき戦力せんりょく集中しゅうちゅうすべきであるという主張しゅちょうえなかったので、1944ねん3がつアメリカ統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶワシントン太平洋たいへいようにおける戦略せんりゃく論争ろんそう決着けっちゃくをつけるための会議かいぎ開催かいさいした。その会議かいぎでは、マッカーサーの代理だいり会議かいぎ出席しゅっせきしていたサザランドには、統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶ方針ほうしんしたがって西太平洋にしたいへいよう方面ほうめんでの限定げんていてき攻勢こうせいすすめることという勧告かんこくがなされるとともに、マリアナ侵攻しんこうフォレージャー作戦さくせん掠奪りゃくだつしゃ作戦さくせん)を1944ねん6がつ前倒まえだおしすることが決定けっていされた[153]

ごう作戦さくせん計画けいかく[編集へんしゅう]

日本にっぽん海軍かいぐんは、マリアナ諸島しょとうカロリン諸島しょとう西部にしべニューギニアをむす三角さんかく地帯ちたい邀撃ようげきたいもうけて、機動きどう部隊ぶたい基地きち航空こうくうたいにより、アメリカぐん侵攻しんこう部隊ぶたいたいして一大いちだい反撃はんげきくわえる作戦さくせん構想こうそう、1944ねん5がつ3にち軍令ぐんれいによる「連合れんごう艦隊かんたい当面とうめん準拠じゅんきょスベキ作戦さくせん方針ほうしん」で決戦けっせん構想こうそうの「ごう作戦さくせん」が策定さくていされた[154]決戦けっせん選定せんていにあたって、日本にっぽん海軍かいぐんはアメリカぐん侵攻しんこう西にしカロリンのパラオ諸島しょとうとマリアナのどっちがさきかはなかなか判断はんだんできなかったが、結果けっかてきにパラオがさきという判断はんだんとなった[155]日本にっぽん海軍かいぐん作戦さくせん準備じゅんびとしてだいいち機動きどう艦隊かんたい空母くうぼ9せき搭載とうさいすうやく440)を新設しんせつするととも基地きち航空こうくうたいだいいち航空こうくう艦隊かんたい中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう配置はいちした[156]機動きどう部隊ぶたい艦載かんさい航空こうくう基地きちからの陸上りくじょうによって、アメリカぐん侵攻しんこう艦隊かんたい挟撃きょうげきして撃滅げきめつしようという作戦さくせん計画けいかくであったが、だい1航空こうくう艦隊かんたい基地きち航空こうくうたい定数ていすう1,750表面ひょうめんじょう大戦たいせんりょくながら、実際じっさい配備はいびされたのはその半数はんすうの750でうち可動かどうは500程度ていどにすぎなかった[157]

一方いっぽうで、アメリカ統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶのマリアナ侵攻しんこう決定けってい激怒げきどしたマッカーサーであったが、ニューギニア作戦さくせん集大成しゅうたいせいと、ニミッツによるフォレージャー作戦さくせん支援しえん航空こうくう基地きち確保かくほのため、ニューギニア西部せいぶビアクとう攻略こうりゃくめた[158]。ビアクとうには日本にっぽんぐん設営せつえいした飛行場ひこうじょうがあり、マリアナ攻略こうりゃく航空こうくう支援しえん基地きちとして重要じゅうよう位置いちにあった[159]。1944ねん5がつ27にちだい6ぐん 司令しれいかんウォルター・クルーガー中将ちゅうじょうひきいるだい部隊ぶたいがビアクとう上陸じょうりくビアクとうたたかはじまった。ビアク守備しゅびたい支隊したいちょう歩兵ほへいだい222連隊れんたいちょうかずら直幸なおゆき大佐たいさ[160]上陸じょうりく部隊ぶたい内陸ないりくんで、たくみに構築こうちくした陣地じんちむかつこととした[158]だい41歩兵ほへい師団しだん英語えいごばん日本にっぽんぐん守備しゅびたいたくみなたたかいで苦戦くせんし、マリアナ作戦さくせんせまっているのに、ビアクとう攻略こうりゃく遅遅ちちとしてすすまないことでニミッツにたいしてはじをかくとかんがえたマッカーサーは、師団しだんちょうホレース・フラー英語えいごばん少将しょうしょう上陸じょうりく部隊ぶたい司令しれいかんだい41歩兵ほへい師団しだん団長だんちょうから更迭こうてつした[161]。しかし、師団しだんちょうえても戦況せんきょうおおきく好転こうてんすることはなく、ビアクとう飛行場ひこうじょう稼働かどうはじめたのは6がつ22にちになり、サイパンのたたかにもマリアナおき海戦かいせんにもわなかった。ビアクとう攻略こうりゃくにマッカーサーはフラーの名誉めいよ回復かいふくさせるため功労こうろう勲章くんしょう英語えいごばん授与じゅよしたが、ビアクとうたたかいはマッカーサーにとっても、フラーにとっても敗戦はいせんちかいような後味あとあじわるたたかいとなった[162]

大本営だいほんえいは、アメリカぐんつぎ侵攻しんこうさき判断はんだんしかねていたが、ビアクとうにマッカーサーが侵攻しんこうしてきたことによって、連合れんごうぐん戦力せんりょく一本いっぽんして西部せいぶニューギニアからパラオ諸島しょとう侵攻しんこうしてくるとあやまった判断はんだんをし、「作戦さくせん」を発動はつどうした。大和やまと武蔵むさし戦艦せんかん部隊ぶたいおくって、アメリカぐん機動きどう部隊ぶたい誘引ゆういんはかるとともに、マリアナのだい1航空こうくう艦隊かんたいだい61航空こうくう戦隊せんたい可動かどう350やく半数はんすう作戦さくせんへの投入とうにゅう決定けっていされ、インドネシアモルッカ諸島しょとうにあるハルマヘラとうった[163]。これらビアクをめぐたたかいによって、アメリカぐんにその意図いとはなかったが、結果けっかてき陽動ようどうとなって日本にっぽんぐん関心かんしんはビアクに集中しゅうちゅうしてしまい、マリアナへのアメリカぐん侵攻しんこうゆるすこととなってしまった[164]

マリアナ・パラオ諸島しょとうたたか[編集へんしゅう]

サイパンとうたたかいで自決じけつした日本人にっぽんじん住民じゅうみん

絶対ぜったい国防こくぼうけんようともえるマリアナ諸島しょとうサイパンとうに、日本にっぽんぐん予想よそうはんしてアメリカぐん侵攻しんこうしてきた(サイパンのたたか)。日本にっぽんぐんはあごう作戦さくせん発動はつどうし、アメリカぐん機動きどう部隊ぶたい迎撃げいげきしたが、すで基地きち航空こうくうたいは渾作せんへの戦力せんりょく分散ぶんさん事前じぜん空襲くうしゅう壊滅かいめつ状態じょうたい状態じょうたいおちいっており、地上ちじょう航空こうくう戦力せんりょく支援しえんがなくなっただいいち機動きどう艦隊かんたいたいして、アメリカがわ新型しんがたレーダー新型しんがた戦闘せんとうF6F[47]空母くうぼ15せき投入とうにゅうし、さらに日本にっぽんばいちか艦船かんせん護衛ごえいにつけていた。航空機こうくうきしち防空ぼうくうシステムでもおくれをとっていた日本にっぽん機動きどう部隊ぶたいはアメリカ海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい惨敗ざんぱいきっした。(マリアナおき海戦かいせん旗艦きかんだいおおとり以下いか空母くうぼ3せき艦載かんさい395うしなった日本にっぽん空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい実質じっしつてき壊滅かいめつした[47]。ただし戦艦せんかん部隊ぶたい無傷むきずであったため、10がつまつレイテおき海戦かいせんでは、残存ざんそん空母くうぼ航空こうくう戦艦せんかんによる機動きどう部隊ぶたいおとりとして(レイテおき海戦かいせん#エンガノみさきおき海戦かいせん)、戦艦せんかん部隊ぶたい基軸きじくとした艦隊かんたい編成へんせいされることになる。

陸上りくじょうでは、猛烈もうれつかんほう射撃しゃげき航空機こうくうきによる支援しえんけたアメリカ海兵かいへいたいだい部隊ぶたいがマリアナ諸島しょとう侵攻しんこう、1944ねん7がつにはサイパンとうにアメリカぐん上陸じょうりくしてきた。防衛ぼうえい準備じゅんび十分じゅうぶんでなかったのにもかかわらず「水際みずぎわ撃滅げきめつ作戦さくせん海岸かいがんせんでの防衛ぼうえいせん画策かくさくした日本にっぽんぐん守備しゅびたい緒戦しょせんだい損害そんがいこうむりながらも、その島中しまなかひさしのタポーチョさんなどの地形ちけいをうまく利用りようしながらはげしく抵抗ていこうし、アメリカぐん死傷ししょうりつ最終さいしゅうてきに20%をえるたかかくりつとなったが、これはアメリカぐん恐怖きょうふんだタラワのたたかおな死傷ししょうりつとなった。こののち敵前てきぜん上陸じょうりく作戦さくせん戦術せんじゅつ見直みなおしがおこなわれたが、日本にっぽんぐんも、サイパンとうせんくん参考さんこう[165]従来じゅうらい水際みずぎわ配置はいち水際みずぎわ撃滅げきめつ主義しゅぎから、海岸かいがんせんから後退こうたいした要地ようち堅固けんご陣地じんち構築こうちくし、上陸じょうりくぐんんでからたたくという後退こうたい配備はいび沿岸えんがん撃滅げきめつ主義しゅぎへとおおきく防衛ぼうえい戦術せんじゅつ見直みなおして、よりアメリカぐん苦戦くせんさせることとなった[166][167]

サイパンとう日本にっぽん委任いにん統治とうちりょうであったため、日本人にっぽんじん移住いじゅうすすんで、1943ねん8がつ時点じてんで29,348にん日本人にっぽんじん住民じゅうみんがおり[168]、アメリカぐんによる侵攻しんこう懸念けねんたかまると、高齢こうれいしゃ婦女子ふじょし中心ちゅうしん日本にっぽん本土ほんどへの疎開そかいすすめられたが、避難ひなんせんがアメリカぐん潜水せんすいかん撃沈げきちんされて民間みんかんじん多数たすう犠牲ぎせいしゃしたこともあって疎開そかいすすまず、アメリカぐん上陸じょうりく時点じてんでもやく20,000にん疎開そかいできないまま戦闘せんとうまれた[169]日本にっぽん住民じゅうみんは、次第しだいにサイパン北部ほくぶまれ、最後さいごには日本にっぽんぐん守備しゅびたい敗残はいざんへいともバンザイクリフスーサイドクリフなどで集団しゅうだん自決じけつし、日本人にっぽんじん住民じゅうみん犠牲ぎせいしゃやく8,000にん推計すいけいされているが[170]研究けんきゅうしゃのなかには、日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじん死者ししゃは12,000にんにもなり、住民じゅうみん死亡しぼうりつでは沖縄おきなわせんえる最悪さいあくのものになったという指摘してきをするものもいる[171]

サイパンのたたかいののち、8がつにはテニアンのたたかによってテニアンとうが、グアムのたたかによってグアムとう連合れんごうぐん占領せんりょうされた。アメリカぐん日本にっぽんぐん使用しようしていた基地きち即座そくざ改修かいしゅうし、大型おおがた爆撃ばくげき発着はっちゃく可能かのう滑走かっそう建設けんせつ開始かいしした。このことにより北海道ほっかいどうのぞ日本にっぽん列島れっとうのほぼ全土ぜんどがB-29のばくげき可能かのう圏内けんないはいり、日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう本格ほんかく後述こうじゅつ)。1944ねん11月24にち以降いこう新設しんせつされたヘイウッド・ハンセルじゅんしょうひきいるだい21ばくげき集団しゅうだんアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんのB-29が、サイパンとうイズリー飛行場ひこうじょうって東京とうきょうにある中島なかじま飛行機ひこうき武蔵野むさしの製作所せいさくしょ爆撃ばくげき首都しゅとけん中心ちゅうしんとした日本にっぽん全土ぜんどへの空爆くうばく本格ほんかくし、よく1945ねん2がつには日本石油にほんせきゆ横浜よこはま製油せいゆしょ、3月には清水しみず東亜とうあ燃料ねんりょう東京とうきょう日本石油にほんせきゆ、5月には徳山とくやまだい3海軍かいぐん燃料ねんりょうしょう大竹おおたけ興亜石油こうあせきゆ岩国いわくに陸軍りくぐん燃料ねんりょうしょう製油せいゆしょ宇部うべ帝国ていこく燃料ねんりょう工業こうぎょう人造じんぞう石油せきゆ工場こうじょうなどが、6月22にちには四日市よっかいちだい2海軍かいぐん燃料ねんりょうしょう爆撃ばくげきされ、国内こくない製油せいゆしょ壊滅かいめつしていった[47]太平洋たいへいようじょうさい重要じゅうよう地点ちてんであるサイパンとううしなった影響えいきょうおおきく、攻勢こうせいのための布石ふせき完全かんぜん無力むりょくした。

一方いっぽう日本にっぽん陸軍りくぐんは、当時とうじ日本にっぽん研究けんきゅういんだけが発見はっけんしていたジェット気流きりゅう利用りようし、大型おおがた気球ききゅうばくだんをつけてこう高度こうどばしアメリカ本土ほんどまではこばせる風船ふうせんばくだん開発かいはつし、実際じっさいにアメリカ本土ほんどけてすうせんばして、小規模しょうきぼながら被害ひがいあたえた。

各地かくち劣勢れっせいつたえられるなか東條とうじょう英機ひでき首相しゅしょうけん陸相りくしょうたいする反発はんぱつつよく、中野なかのただしつよしなどの政治せいじ陸海りくかいぐん将校しょうこうなどを中心ちゅうしんとした倒閣とうかく運動うんどうおこなわれた。それだけでなく、近衛このえ文麿ふみまろもと首相しゅしょう秘書官ひしょかんであった細川ほそかわ護貞もりさだ大戦たいせん証言しょうげんによると、当時とうじ現役げんえき海軍かいぐん将校しょうこうであった高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう黙認もくにんうえでの具体ぐたいてき暗殺あんさつ計画けいかくもあったといわれている。しかしその計画けいかく実行じっこううつされるよりはやく、サイパンとう陥落かんらく責任せきにん東條とうじょう内閣ないかくそう辞職じしょく小磯こいそ国昭くにあき陸軍りくぐん大将たいしょう首班しゅはんとし、米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじんらが補佐ほさする小磯こいそ内閣ないかく発足ほっそくした。

日本にっぽん前年ぜんねんまつからの相次あいつ敗北はいぼくにより航空こうくうおよび海軍かいぐん兵力へいりょくおおくを喪失そうしつ兵器へいき物資ぶっし増産ぞうさんはかどらなかった。しかも本土ほんどにおける資源しげんすくないため鉄鉱てっこうせき石油せきゆなどの資源しげんをほぼ外国がいこく勢力せいりょくけんからの輸入ゆにゅうたよっていたうえに、連合れんごう国軍こくぐんによる通商つうしょう破壊はかいせんにより外地がいちから資源しげんはこんでくる船舶せんぱくおおくをうしなっていたために、車輌しゃりょう航空機こうくうき艦艇かんていへの燃料ねんりょう供給きょうきゅうすら困難こんなん状況じょうきょうであった。

ビルマの失陥しっかん[編集へんしゅう]

人力じんりきけわしい山道さんどう火砲かほう分解ぶんかいして運搬うんぱんしているだい15軍兵ぐんびょう

ビルマ方面ほうめんでは日本にっぽん陸軍りくぐんとイギリス陸軍りくぐんとの地上ちじょうでのたたかいがつづいていた(ビルマのたたか)。太平洋たいへいよう方面ほうめんでの連合れんごうぐん反攻はんこう呼応こおうして、チャーチルは極東きょくとう地域ちいきでのイギリス植民しょくみん奪還だっかん画策かくさくしており、1942ねん12月、その拠点きょてんとするためにベンガルわん沿岸えんがん西にしビルマ重要じゅうよう拠点きょてんアキャブ(現在げんざいシットウェー)奪還だっかん目指めざしてぐん南下なんかさせた。しかし、この反攻はんこう日本にっぽんぐん反撃はんげきだい損害そんがいこうむって撃退げきたいされた(だいいちアキャブ作戦さくせん[172]。この惨敗ざんぱいでイギリスぐん日本にっぽんぐん対抗たいこうするために、大量たいりょう輸送ゆそう活用かつようした空輸くうゆというしん戦術せんじゅつし、アメリカからのレンドリースによって着々ちゃくちゃく準備じゅんびととのえたが、一方いっぽう日本にっぽんぐんはこの勝利しょうり慢心まんしんして、イギリスぐんあなどるようになったうえ、大量たいりょう物資ぶっし鹵獲ろかくしたことによって「チャーチル給与きゅうよ」などとしょうし、作戦さくせん計画けいかく安易あんいてきからの鹵獲ろかくひんをあてにするようになってしまった[173]

イギリスぐんしん戦術せんじゅつ成果せいかため意味いみもあって、ひがしアフリカ戦線せんせんゲリラせん活躍かつやくしたオード・ウィンゲート特殊とくしゅ部隊ぶたいチンディットあたえて、きたビルマで空輸くうゆかてとして日本にっぽんぐん後方こうほう攪乱かくらんさせて一定いってい成果せいかた。これによりいままで安全あんぜん地域ちいきおもわれていたきたビルマに緊張きんちょうはしり、日本にっぽんぐんはその防衛ぼうえい強化きょうかせまられることとなった[174]だい15ぐん司令しれいかん牟田むたくちれん中将ちゅうじょうは、防衛ぼうえいてっするよりはむしろ積極せっきょくてき攻勢こうせいでインド領内りょうない重要じゅうよう拠点きょてんインパール攻略こうりゃくし、イギリスぐん機先きせんせいしてきたビルマの安全あんぜん確保かくほするといった攻撃こうげき防御ぼうぎょてき作戦さくせんかんがえた。さらにインド領内りょうないふかくまで侵攻しんこうし、インド独立どくりつ運動うんどうスバス・チャンドラ・ボースひきいるインド国民こくみんぐんとも連携れんけいして、イギリスのインド支配しはい動揺どうようさせて、連合れんごうぐんから脱落だつらくさせるという壮大そうだい構想こうそういた[175]。この構想こうそうは、太平洋たいへいよう正面しょうめん戦況せんきょう悪化あっかなや東条とうじょう英機ひでき陸相りくしょう首相しゅしょう兼任けんにん)にも期待きたいされ、はる方面ほうめんぐん司令しれいかん河辺かわべ正三しょうさん大将たいしょうにも支持しじされた[176]

しかし、きたビルマとインド国境こっきょうにはけわしいアラカン山脈さんみゃくがあり、これをえてのだい規模きぼ進攻しんこう作戦さくせんおも補給ほきゅう兵站へいたんめん困難こんなんなものとおもわれた。牟田むたこう作戦さくせん計画けいかくはその困難こんなんたいして十分じゅうぶん対策たいさくこうじていない強引ごういんなものであったが、インド進攻しんこう期待きたいしているぐん中央ちゅうおう方針ほうしんもあって[177]次第しだい反対はんたい意見いけんふうじられていき、補給ほきゅう兵站へいたん問題もんだい解決かいけつさくがないままで牟田むたくち強引ごういん作戦さくせん計画けいかく決定けっていされた[178]。そんななかでイギリスぐん反攻はんこう開始かいしされており、チンディットによる日本にっぽんぐん背後はいごへの空挺くうてい降下こうか作戦さくせんや、アキャブへのさい侵攻しんこうたいしてはる方面ほうめんぐん対応たいおうせまられた。アキャブへのさい侵攻しんこうたいしては、前年ぜんねんだいいちアキャブ作戦さくせんさい同様どうように、日本にっぽんぐん侵攻しんこうしてきたイギリスぐん包囲ほういして殲滅せんめつしようとしたが、イギリスぐんしていたしん戦術せんじゅつ「アドミン・ボックス(管理かんりばこもしくは立体りったい陣地じんち)」とばれた密集みっしゅうじんまえ敗北はいぼくきっした(だいアキャブ作戦さくせん[179]。この戦術せんじゅつは、日本にっぽんぐん包囲ほういによってイギリスぐん部隊ぶたい孤立こりつしても、豊富ほうふ輸送ゆそう補給ほきゅう物資ぶっし空輸くうゆつづけて防御ぼうぎょかためて、攻撃こうげきしてくる日本にっぽんぐん消耗しょうもうさせるというものであった。このたたかいでこれまでイギリスぐんたいしては常勝じょうしょうであった日本にっぽんぐんはじめて敗北はいぼくきっし、ビルマでの戦局せんきょく逆転ぎゃくてんのきっかけともなった[180]

1944ねん3がつ8にち開始かいしされた「ウ」ごう作戦さくせんインパール作戦さくせん)は、作戦さくせん当初とうしょ隷下れいかの3師団しだん奮闘ふんとうもあり、チンドウィンがわ奇襲きしゅう渡河とか成功せいこう、ほぼ人力じんりき軍需ぐんじゅ物資ぶっし輸送ゆそうしながら途中とちゅう軍事ぐんじ拠点きょてん攻略こうりゃくし、4がつ6にちにはだい31師団しだんれつ)が要衝ようしょうコヒマ占領せんりょう、インパールの孤立こりつ成功せいこうし、さらにイギリスぐんのビルマ戦線せんせんにおける最大さいだい補給ほきゅう拠点きょてんディマプルおどかして、イギリスぐんめたが、河辺かわべ牟田むたこう作戦さくせん方針ほうしん相違そういもあって、ディマプルへの進撃しんげき見送みおくられ、イギリスぐん最大さいだい危機ききえた[181]日本にっぽんぐん攻勢こうせいはここまでで、イギリスぐんだいアキャブ作戦さくせんとき同様どうよう大量たいりょう輸送ゆそうをもって孤立こりつしたインパールに大量たいりょう物資ぶっしおくつづけ、インパールとその周辺しゅうへん防備ぼうび強化きょうかされる一方いっぽうだい15ぐん進撃しんげき完全かんぜん停滞ていたいしてしまった。牟田むたこうの「3週間しゅうかん以内いないにインパールを攻略こうりゃくする」という方針ほうしんもあって[182]だい15ぐん食料しょくりょうを3週間しゅうかんぶんしか携行けいこうしていなかったうえ、きびしいアラカン山脈さんみゃくはばまれて前線ぜんせんほとん補給ほきゅうひんとどけることができず、だい15ぐんでは飢餓きがはじまっていた。やがて5がつはいって雨季うきはじまると、飢餓きがくわえてマラリア赤痢せきりといった感染かんせんしょう蔓延まんえんして、もはやだい15軍兵ぐんびょう戦闘せんとうどころではなくなっていた[183]

牟田むたくち河辺かわべは4がつまつには作戦さくせん失敗しっぱい認識にんしきしていたが、作戦さくせん中止ちゅうし決断けつだんすることができず、そのあいだだい15軍兵ぐんびょう餓死がししゃ病死びょうししゃつづけた。決断けつだんできないぐん司令しれいごうやしただい31師団しだんれつちょう佐藤さとう幸徳ゆきのり中将ちゅうじょうが、日本にっぽん陸軍りくぐんはじまって以来いらいはじめての師団しだんちょうによる独断どくだん撤退てったい開始かいしした。牟田むたくち河辺かわべ反抗はんこうてき佐藤さとうくわえて、指揮しきりょく不足ふそく名目めいもく2人ふたり師団しだんちょう更迭こうてつし、これも日本にっぽん陸軍りくぐんはじまって以来いらい作戦さくせん途中とちゅうぜん師団しだんちょう更迭こうてつという珍事ちんじとなった[184]。さすがにここで牟田むたくち作戦さくせん失敗しっぱい認識にんしきし、作戦さくせん中止ちゅうし河辺かわべ上申じょうしん大本営だいほんえい決裁けっさいけて7がつ12にちはる方面ほうめんぐんから作戦さくせん中止ちゅうし命令めいれいされた。その撤退てったい凄惨せいさんきわめ、おおくの兵士へいし飢餓きが病気びょうきいのちとし、だい15ぐん撤退てったいしたみちは「白骨はっこつ街道かいどう」とばれることとなり、作戦さくせん全体ぜんたい死者ししゃやく30,000にんにもなった[185]

インパール作戦さくせん失敗しっぱいによってビルマ戦線せんせん戦局せんきょく完全かんぜん逆転ぎゃくてんした。イギリスぐん追撃ついげきくわえて、アメリカぐんとアメリカぐんしき装備そうび中国ちゅうごくぐんひしげはじめあがえつたたか日本にっぽんぐん守備しゅびたい撃破げきはするとビルマ領内りょうない侵攻しんこうし、ビルマ戦線せんせん崩壊ほうかい一途いっと辿たどっていく。日本にっぽんぐんイラワジ会戦かいせんでもイギリスぐん敗北はいぼくきっすると、よく1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつには、アウン・サン将軍しょうぐんひきいるビルマ国民こくみんぐん連合れんごうぐんがわへと離反りはんし、日本にっぽんはビルマを失陥しっかんすることとなった。なお、とう作戦さくせんはじめ、ビルマでいのちとした日本にっぽんぐん将兵しょうへいかずは16まんにんにおよび、中国ちゅうごく大陸たいりくフィリピンぐ3番目ばんめ戦死せんししゃおおかった戦場せんじょうとなっている[10]一方いっぽう連合れんごうぐん全体ぜんたいでの人的じんてき損害そんがいせんびょうのぞく)も207,203にん以上いじょうという甚大じんだいなものとなった。しかし、もっともおおきな損害そんがいこうむったのは戦場せんじょうとなったビルマ国民こくみんであり、その犠牲ぎせいしゃ最大さいだいで1,000,000にんたっしたとの推計すいけいもある[186]

ペリリューのたたか[編集へんしゅう]

1944ねん9がつ15にち、のちのフィリピン侵攻しんこうへの支援しえんとして、パラオ諸島しょとうペリリューとうにアメリカぐん上陸じょうりくした(ペリリューのたたか)。ペリリューとう中川なかがわしゅうおとこ大佐たいさ以下いかやく10,000にん日本にっぽんへい守備しゅびいていたが、中川なかがわゲリラせんふくめたたくみな戦術せんじゅつまえにアメリカぐんだい苦戦くせんいられて、死傷ししょうしゃ戦闘せんとう神経症しんけいしょうなどのせん病者びょうしゃくわえた人的じんてき損害そんがいは13,000にん以上いじょうたっし、2かげつ以上いじょう足止あしどめをらうこととなった。この中川なかがわたい上陸じょうりく戦術せんじゅつはのちのたたかいにもかされ、硫黄いおうとうたたか沖縄おきなわせんでアメリカぐん大量たいりょう出血しゅっけついることとなった[187]

レイテ決戦けっせん[編集へんしゅう]

シブヤンうみ海戦かいせん攻撃こうげきける戦艦せんかん武蔵むさし」(こののち沈没ちんぼつ

日本にっぽんぐん占領せんりょうされていたフィリピンの奪還だっかんについては、アメリカ陸軍りくぐんは「戦略せんりゃくじょう必要ひつようなし」と判断はんだんしており、アメリカ海軍かいぐんもそれに同意どういする意見いけんおおかった。統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶは、マッカーサーと東京とうきょうへの進撃しんげきスピードをっていたアメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれい長官ちょうかんけん太平洋たいへいよう戦域せんいき最高さいこう司令しれいかんチェスター・ニミッツ提督ていとく進行しんこうちゅうであった、マリアナ諸島しょとうおよパラオ諸島しょとう攻略こうりゃく作戦さくせんであるフォレイジャー作戦さくせん成功せいこうすれば、B-29により直接ちょくせつ東京とうきょう攻撃こうげきできるようになるため、フィリピンの占領せんりょうはるかにひく軍事ぐんじてき優先ゆうせん順位じゅんいとなるものであった[188]。しかし、開戦かいせん初頭しょとうフィリピンのたたか敗北はいぼくし、オーストラリアに脱出だっしゅつさせられたマッカーサーは名誉めいよ挽回ばんかいのため、フィリピン奪還だっかん主張しゅちょうした[189]。マッカーサーはマスコミも使つかってフィリピン奪還だっかん必要ひつようせい主張しゅちょうつづけ、世論せろん味方みかたにつけたマッカーサーに同意どういするぐん関係かんけいしゃえて、アメリカぐんない意見いけんぷたつにれていた。ルーズベルトはこのような状況じょうきょうごうやして、マッカーサーとニミッツに直接ちょくせつ意見いけんいて方針ほうしんめることとし、1944ねん7がつ26にちりょうをハワイに召喚しょうかんした[190]。マッカーサーは1944ねん大統領だいとうりょうせん見据みすえて、「アメリカ国民こくみんはげしいいかりは貴方あなたへの反対はんたいひょうとなってかえってくる」と脅迫きょうはくするなど熱弁ねつべんるって、体調たいちょうかんばしくなかったルーズベルトをってフィリピン奪還だっかん承諾しょうだくさせた[191]

攻略こうりゃく目標もくひょうは、偵察ていさつ結果けっか日本にっぽんぐん配備はいび兵力へいりょくすくないレイテ島れいてとうとされた。その作戦さくせん準備じゅんびのために台湾たいわん近海きんかい進出しんしゅつしてきただい38任務にんむ部隊ぶたい日本にっぽんぐんあいだ激戦げきせんひろげられ、1944ねん10がつには沖縄おきなわじゅうじゅう空襲くうしゅう台湾たいわんおき航空こうくうせん展開てんかいした。このころには、ノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん成功せいこうでヨーロッパの戦局せんきょく最終さいしゅう段階だんかいはいったものとなされて、ルーズベルトやチャーチルといった連合れんごうこく指導しどうしゃたちは太平洋たいへいよう戦局せんきょく重大じゅうだい関心かんしんつようになっており、膨大ぼうだい戦力せんりょく準備じゅんび必要ひつようであったマッカーサーにとってはかぜとなった[192]連合れんごうぐん基本きほん方針ほうしんであった「まずはドイツをたたく」はキングやマッカーサーら太平洋たいへいようぐん有力ゆうりょくしゃ反論はんろんすで有名ゆうめい無実むじつされていたが、フィリピン作戦さくせんでマッカーサーが政治せいじりょく発揮はっき大量たいりょう兵力へいりょく確保かくほしたことで、ぎゃくにヨーロッパ戦線せんせんへの補充ほじゅうらされる一方いっぽうとなっており、このことがのちのドイツぐん最後さいごはんげきである「バルジのたたか」をまねくこととなった[193]

10月には、アメリカぐんはフィリピンのレイテ島れいてとうへの進攻しんこう開始かいしした(レイテ島れいてとうたたか)。日本にっぽんぐん台湾たいわんおき航空こうくうせんでアメリカぐん機動きどう部隊ぶたいだい打撃だげきあたえたという虚報きょほうまわされており、大本営だいほんえいよこやりで現地げんちだい14方面ほうめんぐん司令しれいかん山下やました奉文ともゆき大将たいしょう反対はんたいり、レイテを決戦けっせんじょうとしてアメリカぐん決戦けっせんいどむこととし、捷一しょういちごう作戦さくせん発動はつどうした。連合れんごう艦隊かんたい主力しゅりょくがアメリカ輸送ゆそう艦隊かんたい撃滅げきめついで陸軍りくぐんはルソンとうより順次じゅんじ増援ぞうえんをレイテに派遣はけんし、上陸じょうりくぐん撃滅げきめつしようという作戦さくせんだった。連合れんごう艦隊かんたいはこの大本営だいほんえい方針ほうしんしたがい、レイテ島れいてとうかって出撃しゅつげきレイテおき海戦かいせん発生はっせいした。連合れんごう艦隊かんたい空母くうぼみずづる」を主力しゅりょくとする機動きどう部隊ぶたいを、べい機動きどう部隊ぶたいをひきつけるためのおとりとして使つかい、栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょうひきいる戦艦せんかん大和やまと」「武蔵むさし」を主力しゅりょくとする戦艦せんかん部隊ぶたい栗田くりた艦隊かんたい)による、レイテ島れいてとうへの上陸じょうりく部隊ぶたいせたてき輸送ゆそう船隊せんたい殲滅せんめつした。しかし、すで作戦さくせん期日きじつに3にちおくれがしょうじていたため、栗田くりた艦隊かんたいはレイテわん目前もくぜん反転はんてんし、失敗しっぱいわった。この海戦かいせん日本にっぽん海軍かいぐん空母くうぼ4せき武蔵むさし以下いか主力しゅりょく戦艦せんかん3せきじゅうじゅん6せきなど多数たすう艦艇かんていうしな事実じじつじょう壊滅かいめつし、組織そしきてき作戦さくせん能力のうりょくはほぼ喪失そうしつした。また、このたたかいにおいてだいいち航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん大西おおにしたき治郎じろう中将ちゅうじょう神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたい編成へんせいし、指揮しきかんせき行男いくお大尉たいい指揮しきによってはつ航空機こうくうきによる組織そしきてき特別とくべつ攻撃こうげきおこなわれ、アメリカ海軍かいぐん護衛ごえい空母くうぼ撃沈げきちんなどの戦果せんかげている[194]

レイテ島れいてとう上陸じょうりくするダグラス・マッカーサー

マッカーサーは「I shall return」の宣言せんげんどおりにレイテ島れいてとう上陸じょうりくし、日本にっぽん軍政ぐんせいくるしめられていたおおくのフィリピン国民こくみん熱狂ねっきょうてきにマッカーサーの帰還きかん歓迎かんげいした。しかしアメリカぐん苦境くきょうはなおもつづき、レイテおき海戦かいせん連合れんごう艦隊かんたい撃退げきたいしたものの、レイテ島れいてとう上陸じょうりく直後ちょくごのアメリカぐん飛行場ひこうじょう確保かくほ苦労くろうしており、唯一ゆいいつ確保かくほしたタクロバン飛行場ひこうじょうあめるとまともに使用しようできないなど、航空こうくう戦力せんりょく十分じゅうぶん活用かつようできていなかった[195]だい4航空こうくうぐん司令しれいかん富永とみなが恭次きょうじ中将ちゅうじょうはその好機こうきかして、アメリカぐん飛行場ひこうじょう連日れんじつ連夜れんや猛攻もうこうげきをかけた。アメリカぐんいちばんで100作戦さくせん撃破げきはされたり[196]、100めい搭乗とうじょういん戦死せんしするなどだい損害そんがいこうむった[197]富永とみながはアメリカぐん上陸じょうりく拠点きょてんへの攻撃こうげきめいじ、11月のだい1しゅうには、揚陸ようりくしたばかりの2,000トンのガソリンや1,700トンの弾薬だんやくばく砕し、上陸じょうりくしたアメリカぐん補給ほきゅうせんおどかした[198]。また、マッカーサーのいる司令しれいにも猛攻もうこうくわえて、マッカーサーと幕僚ばくりょうたちはなんいのち危機ききさらされるなど、だい4航空こうくうぐん一時いちじレイテ島れいてとう制空権せいくうけん確保かくほしていた[199]昭和しょうわ天皇てんのうだい4航空こうくうぐん善戦ぜんせん報告ほうこくけると「だい4航空こうくうぐんがよく奮闘ふんとうしているが、レイテ島れいてとう地上ちじょうてき撃滅げきめつしなければったとはいえない。こん一息ひといきだから十分じゅうぶんだい一線いっせん激励げきれいせよ」と富永とみなが激励げきれいするとともレイテ島れいてとうでの決戦けっせん指示しじしている[200]

大本営だいほんえいレイテ島れいてとうでの決戦けっせんのため、海路かいろ援軍えんぐんおくごう作戦さくせん命令めいれい富永とみなが指揮しき戦闘せんとう部隊ぶたい輸送ゆそう船団せんだん全力ぜんりょく護衛ごえいすることをめいじて、だい1師団しだんなど多数たすう部隊ぶたい物資ぶっしレイテ島れいてとうぎゃく上陸じょうりく成功せいこうしている。陸海りくかいでのアメリカぐん苦戦くせんトーマス・C・キンケイド中将ちゅうじょうは、「戦史せんしじょうめったにるいないだい惨事さんじまねきかねません」という理由りゆうで、こののち予定よていされていたルソン島るそんとう上陸じょうりく作戦さくせん中止ちゅうしをマッカーサーにもとめた[201]。フィリピン全域ぜんいき奪還だっかん目標もくひょうであったマッカーサーはキンケイドの勧告かんこくをききいれることはなかったが、こののちもマッカーサーは予想よそうがい日本にっぽんぐん戦力せんりょく相手あいて苦戦くせんし、ルソン島るそんとう上陸じょうりく作戦さくせんのスケジュールの見直みなおしを余儀よぎなくされた[202]

しかし、レイテ島れいてとうのアメリカぐん飛行場ひこうじょう整備せいびすすむと、かずまさるアメリカぐんたいし、作戦さくせん補充ほじゅうもままならないだい4航空こうくうぐん制空権せいくうけん次第しだい喪失そうしつしてゆき、ごう作戦さくせん輸送ゆそうかんもアメリカ軍機ぐんき空襲くうしゅうにより多大ただい損害そんがいこうむって海上かいじょう輸送ゆそう困難こんなんとなって、レイテ島れいてとうへの増援ぞうえん補給ほきゅうとどこおってしまった。富永とみなが作戦さくせんによる地上ちじょう部隊ぶたいへの補給ほきゅう物資ぶっし空輸くうゆや、制空権せいくうけん奪還だっかんのための空挺くうてい作戦さくせんごう作戦さくせん」など積極せっきょくてき作戦さくせんめいじ、アメリカぐん一時いちじてき混乱こんらんしょうじさせたが[203]制空権せいくうけんもどすことはできず、やがて、マッカーサーがレイテ島れいてとう攻略こうりゃく一気いっきすすめるため、ごう作戦さくせん揚陸ようりくこうでもあったオルモック上陸じょうりく作戦さくせんめいじたことにより、レイテ島れいてとう日本にっぽんぐん完全かんぜん孤立こりつし、アメリカぐん包囲ほうい飢餓きが疫病えきびょうによって多数たすう将兵しょうへい死亡しぼうして組織そしきてき抵抗ていこうりょくうしない、日本にっぽんぐん決戦けっせんさだめたレイテ島れいてとうはアメリカぐんちた。日本にっぽんぐんはげしい抵抗ていこう計画けいかくよりはおくれたものの、マッカーサーはレイテ島れいてとう起点きてんとしてフィリピン諸島しょとう攻略こうりゃくすすめていった[204]

特別とくべつ攻撃こうげきたい出撃しゅつげき[編集へんしゅう]

1944ねん10がつ21にちはつ出撃しゅつげきする神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたい敷島しきしまたい

将兵しょうへい決死けっしてき攻撃こうげきおこな特攻とっこうについては、陸海りくかいぐんともに以前いぜんから検討けんとうすすめられており、海軍かいぐんにおいては黒島くろしまひさしじん軍令ぐんれいだい部長ぶちょうが、1943ねん8がつに「特攻とっこうてい」の提案ていあんおこな[205]どう時期じきかぶと標的ひょうてき搭乗とうじょういん黒木くろき博司ひろし大尉たいいらから、きのえ標的ひょうてき魚雷ぎょらい自爆じばく攻撃こうげきおこなういわゆる「人間にんげん魚雷ぎょらい」の提案ていあんがあった[206]当初とうしょ特攻とっこう開始かいしには消極しょうきょくてきであった大本営だいほんえいではあったが、1944ねん2がつ17にちトラックとう空襲くうしゅうだい損害そんがいこうむるなど[207]戦局せんきょく悪化あっか歯止はどめがかからなくなったことをおもくみて[208]、1944ねん4がつには「特攻とっこうてい」は「ふるえよう」「人間にんげん魚雷ぎょらい」は「回天かいてん」として開発かいはつ採用さいよう決定けっていした[209]航空機こうくうきによる特攻とっこうについても、侍従じじゅう武官ぶかんじょう英一郎えいいちろう大佐たいさ[210]、341そら司令しれい岡村おかむらはじめはる大佐たいさから軍令ぐんれい連合れんごう艦隊かんたいたいして上申じょうしんあったが、当時とうじ航空こうくう本部ほんぶ総務そうむ部長ぶちょう大西おおにしたき治郎じろう中将ちゅうじょうが「時期じき尚早しょうそう」として却下きゃっかしている[211]一方いっぽうで、1944ねん5がつには航空こうくう偵察ていさついん大田おおた正一しょういち海軍かいぐん特務とくむ少尉しょうい提案ていあんした有人ゆうじんロケット兵器へいき(のちの「桜花おうか」)の研究けんきゅう開始かいしされていた。

陸軍りくぐん航空こうくう特攻とっこう検討けんとう海軍かいぐんよりもはやく、1944ねん3がつには艦船かんせん体当たいあたりをおもとした航空こうくう特攻とっこう戦法せんぽう検討けんとう開始かいしされ[212]はるには機材きざい研究けんきゅうにも着手ちゃくしゅした[213]特攻とっこう兵器へいき研究けんきゅうだい3陸軍りくぐん航空こうくう技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょ所長しょちょう正木まさきひろし少将しょうしょうすすめていた[214]。しかし、陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶには特攻とっこう反対はんたい意見いけんおおかったことから、1944ねん3がつ28にち内閣ないかく総理そうり大臣だいじんけん陸軍りくぐん大臣だいじんけん参謀さんぼう総長そうちょう東條とうじょう航空こうくう総監そうかんけん航空こうくう本部ほんぶちょう安田やすだ武雄たけお中将ちゅうじょう更迭こうてつ特攻とっこう積極せっきょくてきであった後宮こうきゅうあつし大将たいしょう後任こうにんえた[215]正木まさきは、1944ねん7がつ11にち、「戦法せんぽう艦船かんせん攻撃こうげき考案こうあん」としてたい艦船かんせん特攻とっこうの6つの方法ほうほう提案ていあんし、その提案ていあんもとづいて、7がつ中旬ちゅうじゅんからの特攻とっこう改修かいしゅう作業さぎょうひそかにすすめられた[216]

そのサイパン失陥しっかん陸海りくかいぐんとも特攻とっこう開始かいし準備じゅんび本格ほんかくし、陸軍りくぐんでは、7がつちゅうには鉾田ほこた教導きょうどう飛行ひこう師団しだん浜松はままつ教導きょうどう飛行ひこう師団しだん特攻隊とっこうたい編成へんせいする内示ないじて、10月4にちには特攻とっこう部隊ぶたい編成へんせい準備じゅんび命令めいれい[217]。しかし鉾田ほこた教導きょうどう飛行ひこう師団しだん司令しれいかん今西いまにし六郎ろくろう少将しょうしょうは、大本営だいほんえいからの「大元帥だいげんすいである天皇てんのう特攻隊とっこうたい編成へんせい正式せいしき奉勅ほうちょく命令めいれいすことは、天皇てんのうが「きてかえってくるな」という命令めいれいをするも同然どうぜんであって、建前たてまえとして志願しがんしゃつのるよう」とする命令めいれいに、「ひとしんいちにちなかでのたびたびわるもので、殉国じゅんこく精神せいしん懸念けねんのない多数たすう青年せいねんながとき苦悩くのうさせるものではない」と特攻隊とっこうたい編制へんせい否定ひていてきであったが[218]、10月17にちにレイテにアメリカぐん来襲らいしゅうとしごういちごう作戦さくせん発令はつれいされると、20日はつかには正式せいしき編成へんせい指示しじがあり、今西いまにし苦悩くのうすえ最初さいしょ特攻とっこう確実かくじつさなければいけないと判断はんだんし、航空こうくう本部ほんぶの「絶対ぜったい志願しがんしゃ」との指示しじやぶって陸軍りくぐん航空こうくうたいきっての操縦そうじゅう技量ぎりょうち、特攻とっこうには批判ひはんてきであった岩本いわもとえきしん大尉たいい中隊ちゅうたいちょうとした佐々木ささき友次ともじ伍長ごちょう精鋭せいえいを“指名しめい”し、陸軍りくぐんはつ航空こうくう特攻隊とっこうたい万朶ばんだたい」が編制へんせいされた[219]志願しがんつのらなかったのは、鉾田ほこた教導きょうどう飛行ひこう師団しだん首脳しゅのうらの「志願しがんしゃつのれば、全員ぜんいん志願しがんするであろう」というかんがえにもとづくものであった[220]浜松はままつ教導きょうどう飛行ひこう師団しだんでも「富嶽ふがくたい」が編成へんせいされてりょうたいはフィリピンにおくられた[221]

海軍かいぐんにおいても、1944ねん昭和しょうわ19ねん10月5にちダバオ誤報ごほう事件じけん失敗しっぱい更迭こうてつされた寺岡てらおか謹平中将ちゅうじょう後任こうにんとして、だいいち航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん内定ないていした大西おおにしは、これまでの特攻とっこうへの慎重しんちょう姿勢しせいから一転いってんして、及川おいかわ古志こしろう軍令ぐんれい総長そうちょうたいして航空こうくう特攻とっこう開始かいしする決意けついかたっている。及川おいかわは「(特攻とっこうの)指示しじはしないが、現地げんち自発じはつてき実施じっしには反対はんたいしない」と承認しょうにんし、それにたいして大西おおにしは「中央ちゅうおうからはなに指示しじをしないように」と要請ようせいしている[222]大西おおにしはフィリピンにけて出発しゅっぱつする途中とちゅう台湾たいわんおき航空こうくうせん様子ようす見学けんがくしたが、日本にっぽんぐん苦戦くせんぶりを愕然がくぜんとし、台湾たいわんりしていた連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん豊田とよだふく大将たいしょうとも面会めんかいし「大戦たいせん初期しょきのような練度れんどたかものならよいが、なかには単独たんどく飛行ひこうがよっとこせという搭乗とうじょういん沢山たくさんある、こういうもの雷撃らいげきばくげきをやっても、被害ひがい見合みあ戦果せんか期待きたいできない。どうしても体当たいあたり以外いがい方法ほうほうはないとおもう。しかし、命令めいれいではくそういった空気くうきにならなければ(特攻とっこうは)実行じっこうできない」と特攻とっこうへの決意けついかたっている[223]。フィリピンに到着とうちゃくした大西おおにしは、1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ19にち夕刻ゆうこく、マバラカット飛行場ひこうじょうだい201海軍かいぐん航空こうくうたい本部ほんぶだい1航空こうくう艦隊かんたい幕僚ばくりょうらをあつめると、「空母くうぼいち週間しゅうかんくらい使用しよう不能ふのうにし、捷一しょういちごう作戦さくせん成功せいこうさせるため、れいせんに250kgばくだんいだかせて体当たいあたりをやるほかに確実かくじつ攻撃こうげきほういとおもうがどうだろう」と提案ていあんした[224]大西おおにし決意けつい一同いちどう特攻隊とっこうたい編成へんせいれ、「指揮しきかん選定せんてい海軍兵学校かいぐんへいがっこう出身しゅっしんしゃを」という猪口いのぐちつとむたいら主席しゅせき参謀さんぼう意向いこうけ、だい〇一海軍航空隊副長ふくちょう玉井たまいあさいち中佐ちゅうさ戦闘せんとうだい301飛行ひこう隊長たいちょうせき行男いくお大尉たいい指名しめいした[225]猪口ちょこは、郷里きょうり剣術けんじゅつ道場どうじょうである「神風かみかぜ(しんぷう)りゅう」から名前なまえり、特攻隊とっこうたい名称めいしょうを「神風かみかぜたいというのはどうだろう」と提案ていあんし、玉井たまいも「神風かみかぜこさなければならない」と同意どういして「神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたい」と命名めいめいされた[226]

以上いじょうのような経緯けいい特攻とっこう開始かいしされ、フィリピンのたたかいで海軍かいぐん航空こうくうたい特攻とっこう333投入とうにゅうし、420めい搭乗とうじょういんうしな[227]陸軍りくぐん航空こうくうたいは210投入とうにゅうし、251めい搭乗とうじょういんうしなったが[228]、それにたいして連合れんごうぐんは、特攻とっこうによりフィリピンだけで、22せき艦艇かんていしずめられ、110せき撃破げきはされた。これは日本にっぽんぐん通常つうじょう攻撃こうげきふくめた航空こうくう部隊ぶたいによるぜん戦果せんかのなかで、沈没ちんぼつかんで67%、撃破げきはかんでは81%をめており[229]特攻とっこう相対そうたいてきすくない戦力せんりょく消耗しょうもうで、きわめておおきな成果せいかをあげたことは明白めいはくであった[230]。また、フィリピンせんにおいてアメリカ海軍かいぐん将兵しょうへいだけで4,336めい戦死せんしし、830めい再起さいき不能ふのう重傷じゅうしょうったが、このなか大半たいはん特攻とっこうによる損失そんしつであった[231]特攻とっこう痛撃つうげきびせられたアメリカぐんは、アメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれいチェスター・ニミッツ元帥げんすいが、フィリピンせん特攻とっこうによりこうむった損害そんがい特別とくべつ攻撃こうげきたいという攻撃こうげき兵力へいりょくはいまや連合れんごうぐん侵攻しんこう粉砕ふんさい撃退げきたいするために、ながあいだかんがいた方法ほうほう実際じっさい発見はっけんしたかのようにはじめた」評価ひょうかしたように特攻とっこうおおきな脅威きょういになると危惧きぐしたり、特攻とっこうによる空母くうぼ部隊ぶたいだい損害そんがいにより、だい38任務にんむ部隊ぶたい司令しれいウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督ていとくが1944ねん11月11にち計画けいかくしていた艦載かんさいによるはつだい規模きぼ東京とうきょう空襲くうしゅう中止ちゅうしまれ、ハルゼーはこの中止ちゅうし判断はんだんにあたって「すくなくとも、(特攻とっこうたいする)防御ぼうぎょ技術ぎじゅつ完成かんせいするまでは だい兵力へいりょくによる戦局せんきょく決定的けっていてきにするような攻撃こうげきだけが、自殺じさつ攻撃こうげき高速こうそく空母くうぼをさらすことを正当せいとうできる」と特攻とっこう対策たいさく強化きょうか検討けんとう要求ようきゅうした[232]特攻とっこうによるだい損害そんがい大統領だいとうりょうのルーズベルトのみみにまでたっし、1945ねん1がつにチャーチルとの会談かいだんに、特攻とっこうがアメリカ海軍かいぐん多大ただい人的じんてき損失そんしつ艦艇かんていへの損害そんがいをもたらせていることで非常ひじょう憂慮ゆうりょしていることと、戦争せんそう早期そうき終結しゅうけつ困難こんなんになるだろうとの懸念けねんしめした。特定とくてい戦術せんじゅつたいしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうがここまでの懸念けねんいたとことはきわめて異例いれいで、それだけ特攻とっこうがアメリカにあたえた衝撃しょうげきおおきかった[233]。こののち特攻とっこう終戦しゅうせんまで連合れんごうぐんをくるしめることとなっていく[234]

フィリピン失陥しっかん[編集へんしゅう]

廃墟はいきょしたマニラ市街しがいでアメリカぐん投降とうこうした日本にっぽんぐん負傷ふしょうへい

1945ねん1がつ4にちにマッカーサーは800せき上陸じょうりく艦隊かんたい支援しえん艦隊かんたいひきい、ルソンとうリンガエンわん目指めざして進撃しんげき開始かいししたが、日本にっぽんぐん残存ざんそん特攻とっこう迎撃げいげきし、護衛ごえい空母くうぼオマニー・ベイ撃沈げきちん戦艦せんかんニューメキシコにも特攻とっこう命中めいちゅうして、ルソン島るそんとう上陸じょうりく作戦さくせん観戦かんせんするためニューメキシコに乗艦じょうかんしていたイギリスぐんハーバード・ラムズデン英語えいごばん中将ちゅうじょう戦死せんしするなど(ラムズデンはだい世界せかい大戦たいせんでのイギリスぐん最高さいこう階級かいきゅう戦死せんししゃ)、連合れんごうぐんルソン島るそんとう上陸じょうりくまえだい損害そんがいこうむった[235]ルソン島るそんとう上陸じょうりくしたアメリカぐんたいして、レイテで戦力せんりょく消耗しょうもうした日本にっぽんぐん平地ひらちでの決戦けっせんをさけて、山岳さんがく地帯ちたいでの遅滞ちたい戦術せんじゅつをとることとした。司令しれいかん山下やました首都しゅとマニラ戦闘せんとうまないために防衛ぼうえいあきらめ、守備しゅびたいにも撤退てったい命令めいれいしたが、陸海りくかいぐん作戦さくせん統一とういつでそれは履行りこうされず、海軍かいぐん陸戦りくせんたい中心ちゅうしんとする日本にっぽんぐん14,000めいがマニラにもった。マニラ奪還だっかんこげるマッカーサーは、市内しないへの重砲じゅうほうによる砲撃ほうげき許可きょかし、はげしい市街しがいせんうえ日本にっぽんぐん守備しゅびたい全滅ぜんめつし、住宅じゅうたくの80%、工場こうじょうの75%、商業しょうぎょう施設しせつはほぼすべてが破壊はかいされた(マニラのたたかい (1945ねん)[236]戦闘せんとうまれたマニラ市民しみん犠牲ぎせいは10まんにんにものぼったが、そのなかには日本にっぽんへいによる残虐ざんぎゃく行為こういほか、アメリカぐん支援しえんしたユサッフェ・ゲリラフクバラハップ犠牲ぎせいしゃふくまれていた。武装ぶそうゲリラの跳梁ちょうりょうなや日本にっぽんぐんであったが、ゲリラとその一般いっぱん市民しみん区別くべつがつかず、老若男女ろうにゃくなんにょかまわず殺害さつがいした(マニラだい虐殺ぎゃくさつ[237]

日本にっぽんぐんはその圧倒的あっとうてき火力かりょくのアメリカぐんと、すうじゅうまんにんにもふくがったフィリピン・ゲリラに圧倒あっとうされながら絶望ぜつぼうてきたたかいをつづけ、ルソン島るそんとう山中さんちゅう孤立こりつすることとなり、将兵しょうへいぐん一緒いっしょ山中さんちゅうんだ一般いっぱん市民しみん大量たいりょう餓死がししゃ病死びょうししゃした。一方いっぽうで アメリカぐんも、だい世界せかい大戦たいせんたたかいのなかでは最大さいだいきゅう人的じんてき損害そんがいとなる、戦闘せんとうでの死傷ししょう79,104めいせんびょう戦闘せんとうがいでの負傷ふしょう93,422めい[238][239][240]というおおきな損失そんしつこうむったうえに、なによりもマッカーサーがぐん一部いちぶ認定にんてい多大ただい武器ぶき物資ぶっし援助えんじょして、一緒いっしょ日本にっぽんぐんたたかったフィリピン・ゲリラや[241]、ゲリラを支援しえんしていたフィリピン国民こくみん損失そんしつ甚大じんだいであった[242]。しかし、「アメリカぐん17師団しだん日本にっぽんぐん23師団しだんやぶり、日本にっぽんぐん人的じんてき損失そんしつ比較ひかくするとほう損害そんがいすくなかった」と回顧かいころく自賛じさんするマッカーサーには、フィリピン人民じんみんこうむった損失そんしつあたまになかった[243]

6月28にちにマッカーサーはルソン島るそんとうでの戦闘せんとう終結しゅうけつ宣言せんげんおこない、「アメリカ史上しじょうもっともはげしくなまぐさいたたかいのひとつ(中略ちゅうりゃくやく103,475km2面積めんせきと800まんにん人口じんこうようするルソン島るそんとう全域ぜんいきはついに解放かいほうされた」とかえったが[244]結局けっきょくはその日本にっぽんぐん残存ざんそん部隊ぶたいルソン島るそんとう山岳さんがく地帯ちたい抵抗ていこうつづけ、アメリカ陸軍りくぐんだい6ぐん英語えいごばんの3師団しだん終戦しゅうせんまでルソンとう足止あしどめされることとなった[245]。そのミンダナオ島みんだなおとうたたかビサヤ諸島しょとうたたかなどでも敗北はいぼく南方なんぽう要衝ようしょうであるフィリピン全土ぜんどうしなった日本にっぽんは、南方みなかた資源しげん地帯ちたいとの海路かいろたれて、戦争せんそう継続けいぞく能力のうりょくくなるのも時間じかん問題もんだいとなった。

フィリピンゲリラ[編集へんしゅう]
フィリピンゲリラに武器ぶき使用しようほう指導しどうするアメリカへい、フィリピンゲリラのおおくは実際じっさいにはアメリカぐん正規せいきへいあつかいであった

フィリピン奪還だっかん目指めざしていたマッカーサーは、この日本にっぽんぐんたいするフィリピンじん反感はんかんたくみに利用りようし、大量たいりょう武器ぶきあたえてゲリラとして組織そしきした。マッカーサーは潜水せんすいかん大量たいりょう武器ぶきおくむと、捕虜ほりょ収容しゅうようしょから脱走だっそうしたアメリカへいにフィリピンゲリラを支援しえんさせたが[246]重火器じゅうかきはないものの自動じどう小銃しょうじゅうたん機関きかんじゅう大量たいりょう供給きょうきゅうされたゲリラの火器かき装備そうびは90%をえており、支配しはいしゃである日本にっぽんぐんより火力かりょくすぐれているといった有様ありさまだった[247]。アメリカぐんレイテ島れいてとう上陸じょうりくするまえには30まんにん以上いじょう武装ぶそうゲリラが存在そんざいして日本にっぽんぐん戦闘せんとう開始かいししており、日本にっぽんぐん掌握しょうあくできていたのはフィリピンのわずか30%にぎなかった。ゲリラといっても、アメリカぐん指揮しき命令めいれいけていたユサッフェはフィリピンじんのアメリカ陸軍りくぐん正規せいきへいであるフィリピン・スカウト英語えいごばんおなあつかいであって、アメリカ本国ほんごくから階級かいきゅう昇進しょうしん任免にんめんまでおこなわれていた[248]。マッカーサーは正規せいきぐんであるユサッフェを通常つうじょう軍事ぐんじ作戦さくせん投入とうにゅうし、アメリカぐん日本にっぽんぐん前線ぜんせん進攻しんこうすると陣地じんち後方こうほうから攻撃こうげきさせ、空挺くうてい部隊ぶたい降下こうかしてくるときには事前じぜん降下こうか日本にっぽんぐん掃討そうとうさせていた[249]

ただし、正規せいきへいあつかいとっても全員ぜんいん軍服ぐんぷく着用ちゃくようしているのではなく、むしろ一般いっぱん市民しみんむような活動かつどうおこない、またゲリラの支援しえんしゃは、アメリカ正規せいきぐんあつかいではないフクバラハップゲリラをふくめると、国民こくみんだい多数たすうにあたる1,700まんにんにもたっしていたという推計すいけいもあって[250]日本にっぽんぐんにゲリラとその支援しえんしゃ一般いっぱん市民しみん見分みわける手段しゅだんはなく、ゲリラ討伐とうばつとして、実際じっさいのゲリラのほか無辜むこ一般いっぱん市民しみん大量たいりょう虐殺ぎゃくさつした。日本にっぽんぐん兵士へいしおおくの戦友せんゆう一般いっぱん邦人ほうじんをゲリラに殺害さつがいされており、その報復ほうふくとしてゲリラ討伐とうばつはげしくなっていったという指摘してきもある[251]とくにマニラのたたかいではアメリカぐんとゲリラにめられた日本にっぽんぐん見境みさかいなくおおくのマニラ市民しみん虐殺ぎゃくさつすることとなった。マッカーサーは日本にっぽんぐんのゲリラ討伐とうばつを「強力きょうりょく無慈悲むじひ戦力せんりょく野蛮やばん手段しゅだんうったえた」などとはげしく非難ひなんしたが[246]、その武装ぶそうよわしゃ武装ぶそうさせてけしかけたのはマッカーサーであり、また日本にっぽんぐんたたかったゲリラのおおくが実際じっさいにはアメリカ正規せいきぐんのようなものであった。戦後せんごにフィリピンでの虐殺ぎゃくさつつみわれて戦犯せんぱんとなっただい14方面ほうめんぐん司令しれいかん山下やました裁判さいばんでは、山下やました弁護べんごがわから、マッカーサーのちちアーサー・マッカーサー・ジュニアがフィリピンのアメリカぐん司令しれいかんとして、べい戦争せんそうなどフィリピンの独立どくりつ運動うんどう弾圧だんあつしたときれいされ「なまぐさい『フィリピンの反乱はんらん』の期間きかん、フィリピンを鎮圧ちんあつするために、アメリカじん考案こうあんもちいられた方法ほうほうを、日本にっぽんぐん模倣もほうしたようなものである」「アメリカぐん討伐とうばつたい指揮しきかんスミスじゅんしょうは「小銃しょうじゅうてるものすべころせ」という命令めいれいした」と指摘してきされている[237]。しかし、マッカーサーははじめから山下やましたぜん責任せきにんけようとかんがえており、マッカーサーのいきのかかった法曹ほうそう経験けいけんまったくない職業しょくぎょう軍人ぐんじん裁判官さいばんかんとした典型てんけいてきなカンガルー法廷ほうてい裁判さいばん法律ほうりつ無視むししておこなわれる私的してき裁判さいばん)で山下やました死刑しけいしょした[252]

戦争せんそう末期まっき[編集へんしゅう]

インドシナの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐんは、1940ねんのドイツによるフランス占領せんりょうより、おや枢軸すうじくてき中立ちゅうりつこくヴィシー政権せいけんとの協定きょうていもとフランスりょうインドシナ進駐しんちゅうつづけていたが、前年ぜんねん連合れんごうぐんによるフランス解放かいほうならびに、自由じゆうフランス指導しどうしゃシャルル・ド・ゴールによる、ヴィシー政権せいけん日本にっぽんあいだ協定きょうてい無効むこう宣言せんげんおこなわれたことをけ、進駐しんちゅうしていた日本にっぽんぐん3月9にちあかりごう作戦さくせん発動はつどう。フランス植民しょくみん政府せいふおよび駐留ちゅうりゅうフランスぐん武力ぶりょくによって解体かいたいし、インドシナを独立どくりつさせた。なお、このころにおいてもインドシナに駐留ちゅうりゅうする日本にっぽんぐん戦闘せんとう状態じょうたいかれることがすくなかくかなりの戦力せんりょく維持いじしていたが、連合れんごう国軍こくぐん日本にっぽんぐんたがいに目立めだった攻撃こうげきおこなわなかった。

小笠原諸島おがさわらしょとう沖縄おきなわへの進攻しんこう決定けってい[編集へんしゅう]

1944ねん8がつ時点じてんでの連合れんごうぐん戦略せんりゃくでは、沖縄おきなわよりもさき台湾たいわん攻略こうりゃくすることが計画けいかくされていた[253]台湾たいわん拠点きょてんとしたのちに、中国ちゅうごく大陸たいりくあるいは沖縄おきなわのいずれかへ進撃しんげきすることが予定よていされた。台湾たいわん攻略こうりゃく作戦さくせんについてはコーズウェイ作戦さくせん (Operation Causeway 日本語にほんご土手どてどうのこと) のした具体ぐたいてき検討けんとうすすめられた[254]。ところが、9がつ中旬ちゅうじゅんになってレイテ島れいてとう上陸じょうりく予定よてい繰上くりあげがまり、フィリピンでの泊地はくち確保かくほもよりはやおこなえる可能かのうせいてくると、アメリカ海軍かいぐんのニミッツらは台湾たいわん攻略こうりゃく以外いがい選択肢せんたくしについてさい検討けんとうはじめた[255]。アメリカ陸軍りくぐんも、ルソン島るそんとうさえ占領せんりょうすれば台湾たいわん無力むりょくできるとかんがえて、台湾たいわん攻略こうりゃく中止ちゅうし同調どうちょうした[255]。そして、あらたな日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう拠点きょてんもとめていたアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんが、台湾たいわんより日本にっぽん本土ほんどちか小笠原諸島おがさわらしょとう沖縄おきなわ本島ほんとうがその拠点きょてん相応ふさわしいとかんがえ、コーズウェイ作戦さくせん中止ちゅうしし、小笠原諸島おがさわらしょとう沖縄おきなわ本島ほんとう攻略こうりゃく目標もくひょうとすることを提案ていあんした。陸軍りくぐん意見いけんアーネスト・キング海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょう同意どういし、ルソン島るそんとう攻略こうりゃくは、より日本にっぽん本土ほんどちか小笠原諸島おがさわらしょとうついで沖縄おきなわじゅん攻略こうりゃくすることが決定けっていした[256]計画けいかくでは10がつ20日はつかレイテ島れいてとう上陸じょうりく、12月20にちルソン島るそんとう上陸じょうりくよく1945ねん1がつ20日はつか硫黄いおうとう占領せんりょうつづいて、3月1にち沖縄おきなわ諸島しょとうへと上陸じょうりくすることとなった[257]

連合れんごうこくたいにち戦争せんそう終結しゅうけつへの模索もさく[編集へんしゅう]

ルーズベルト大統領だいとうりょうは、日本にっぽんふく枢軸すうじくこくたいして、事前じぜん一切いっさい条件じょうけん交渉こうしょうみとめない「無条件むじょうけん降伏ごうぶく」をもとめる構想こうそうっており、この方針ほうしんは1943ねんカサブランカ会談かいだん確認かくにんされていた。

1944ねん10がつ14にち、ルーズベルト大統領だいとうりょう日本にっぽん降伏ごうぶくはやめるためにちゅう大使たいしW・アヴェレル・ハリマンかいしてソ連それんによるたいにち参戦さんせんうながした[258]どう12がつ14にちソ連それん最高さいこう指導しどうしゃスターリン武器ぶき提供ていきょう樺太からふと(サハリン)南部なんぶ千島ちしま列島れっとう領有りょうゆう要求ようきゅう[259]、ルーズベルトは千島ちしま列島れっとうソ連それんわたすことを条件じょうけんに、にち中立ちゅうりつ条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきうながした。また、このときの武器ぶき提供ていきょう合意ごういマイルポスト合意ごういといい、よく45ねん米国べいこくは、中立ちゅうりつこくだったソ連それんふね使つかって日本海にほんかいけ、ウラジオストクに80まんトンの武器ぶき弾薬だんやく陸揚りくあげした[260]よく1945ねん2がつ4にちから11にちにかけて、クリミア半島くりみあはんとうヤルタで、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談かいだんひらかれた。会議かいぎでは大戦たいせん国際こくさい秩序ちつじょや、またソ連それんとの日本にっぽん領土りょうど分割ぶんかつなどについて秘密ひみつ協定きょうてい極東きょくとう密約みつやくとしてまとめられた[261]。 1945ねん4がつにルーズベルトが急死きゅうしすると、後継こうけい大統領だいとうりょうとなったハリー・S・トルーマン日本にっぽんたいして降伏ごうぶく勧告かんこくおこなう、事実じじつじょうの「条件じょうけん無条件むじょうけん降伏ごうぶくあん模索もさくするようになった。

ぜんぐん特攻とっこう推進すいしん[編集へんしゅう]

特攻とっこう突入とつにゅう飛行ひこう甲板かんぱん大穴おおあなひらいた空母くうぼタイコンデロガ

1945ねん1がつ19にち大本営だいほんえいは「帝国ていこく陸海りくかいぐん作戦さくせん計画けいかく大綱たいこう」の奏上そうじょうで、天皇てんのうぜんぐん特攻とっこう説明せつめいおこない、1945ねん2がつ10日とおかにはだい5航空こうくう艦隊かんたい編成へんせい軍令ぐんれい連合れんごう艦隊かんたい指示しじ意向いこうによる特攻とっこう主体しゅたいとした部隊ぶたい編成へんせいはじめておこなわれた。だい航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんとなった宇垣うがきまとい中将ちゅうじょう長官ちょうかん訓示くんじ全員ぜんいん特攻とっこう決意けついぜん艦隊かんたい徹底てっていさせた[262]。フィリピンでの大量たいりょう損失そんしつだい打撃だげきけていた海軍かいぐん航空こうくうたいさい編成へんせいすすめられ、3がつ上旬じょうじゅんまでにだい5航空こうくう艦隊かんたい600だい3航空こうくう艦隊かんたい800準備じゅんび可能かのう見込みこまれていた[263]海軍かいぐん練習れんしゅう特攻とっこうおこな方法ほうほう研究けんきゅうもとめ、練習れんしゅう白菊しらぎく」が多数たすうあることから戦力せんりょく必要ひつよう発言はつげんした[264]同年どうねん3がつ1にち海軍かいぐん練習れんしゅう連合れんごう航空こうくうそうたいだい10航空こうくう艦隊かんたい改編かいへん[263]特攻隊とっこうたいいん訓練くんれんのため一般いっぱん搭乗とうじょういん養成ようせい教育きょういくを5がつ中旬ちゅうじゅんまで中止ちゅうしした[265]

台湾たいわん転進てんしんした大西おおにしだい1航空こうくう艦隊かんたい台湾たいわんでも特攻とっこう継続けいぞくし、1945ねん1がつ18にちに「神風かみかぜ特攻隊とっこうたい新高にいたかたい」が編成へんせいされた。大西おおにしは「この神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたいて、まんいちけたとしても、日本にっぽん亡国ぼうこくにならない。これがないでけたらしん亡国ぼうこくになる」と訓示くんじした[266]。1月21にち台湾たいわん接近せっきんしてきただい38任務にんむ部隊ぶたいたいし「神風かみかぜ特攻隊とっこうたい新高にいたかたい」が出撃しゅつげき少数しょうすうであったが正規せいき空母くうぼ タイコンデロガ に2特攻とっこう命中めいちゅうし、格納庫かくのうこ艦載かんさい搭載とうさいしていた魚雷ぎょらいばくだん誘爆ゆうばく沈没ちんぼつ懸念けねんされたが、ディクシー・キーファー英語えいごばん艦長かんちょうみずからも右手みぎてくだかれるなどのだい怪我けがったが、艦橋かんきょうないにマットレスをよこになりながら、12あいだものあいだ的確てきかくダメージコントロール指示しじつづけ、沈没ちんぼつまぬかれた[267]

1945ねん2がつ6にち陸軍りくぐん沖縄おきなわ方面ほうめんだい規模きぼ航空こうくう作戦さくせんをおこなうことを(大陸たいりくゆびだい2382ごう海軍かいぐん提案ていあん当初とうしょ海軍かいぐん陸軍りくぐん提案ていあん難色なんしょくしめしていたが、3月1にち大本営だいほんえいにより陸海りくかいぐん調整ちょうせいにより「航空こうくう作戦さくせんかんする陸海りくかいぐん中央ちゅうおう協定きょうてい」がむすばれ「海軍かいぐんてき機動きどう部隊ぶたい陸軍りくぐんてき輸送ゆそう船団せんだん」をおも攻撃こうげき目標もくひょうとする方針ほうしんめられ、作戦さくせんめいてんごう作戦さくせん名付なづけられた。てんごう作戦さくせんてきむか海域かいいきおうじた番号ばんごうされ、沖縄おきなわ方面ほうめん場合ばあいは「てんいちごう作戦さくせん台湾たいわん方面ほうめんは「てんごう作戦さくせん東シナ海ひがししなかい沿岸えんがん方面ほうめんを「てんさんごう作戦さくせん海南かいなんとう以西いせいを「てんよんごう作戦さくせん」と呼称こしょうすることとしたが、海軍かいぐんつぎ連合れんごうぐん沖縄おきなわめてくる公算こうさんおおきいとかんがえており、3がつ20日はつか南西諸島なんせいしょとう緊張きんちょうたかまりつつあるのをけて大本営だいほんえい海軍かいぐんは「帝国ていこく海軍かいぐん当面とうめん作戦さくせん計画けいかく要綱ようこう」を発令はつれいし、沖縄おきなわでの航空こうくう決戦けっせんかじをきっていくことになった[268]

硫黄いおうとうたたか[編集へんしゅう]

硫黄いおうとう上陸じょうりくしたアメリカ海兵かいへいたい

アメリカぐんは1944ねん11月より開始かいしされていたマリアナ諸島しょとうからのB-29による日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうが、マリアナの飛行場ひこうじょうから日本にっぽん本土ほんどまでの距離きょりがあまりにもとおく、戦闘せんとう護衛ごえいけることができないことや、燃料ねんりょう消費しょうひ考慮こうりょしてばくだん搭載とうさいりょう抑制よくせいしなければいけなかったので、期待きたいしていたほどの戦果せんかげることができていなかった。そこでアメリカぐんはマリアナから日本にっぽん本土ほんど途中とちゅうにある硫黄いおうとうを、戦闘せんとう中型ちゅうがた爆撃ばくげき出撃しゅつげき基地きちとしてだけではなく、B-29の燃料ねんりょう補給ほきゅうしょ日本にっぽん本土ほんど損傷そんしょうしたB-29の不時着ふじちゃくじょうとして確保かくほすることとした[269]。しかし、マッカーサーによるフィリピン侵攻しんこう大量たいりょう兵力へいりょく投入とうにゅうされたことと、日本にっぽんぐん頑強がんきょう抵抗ていこうによりフィリピン攻略こうりゃく長引ながびいたことで硫黄いおうとうへの侵攻しんこうスケジュールはおくれることとなった[270]

アメリカぐん侵攻しんこうおくれるあいだ硫黄いおうとう守備しゅびたい小笠原おがさわら兵団へいだん司令しれいかん栗林くりばやしただしどう中将ちゅうじょう硫黄いおうとう徹底てっていした要塞ようさい着手ちゃくしゅはげしい空襲くうしゅうにより工事こうじ妨害ぼうがいをしながらも[271]要塞ようさい進行しんこう確認かくにんしていたアメリカ海兵かいへいたいだい56任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんホーランド・スミス中将ちゅうじょう上陸じょうりく艦隊かんたいだい58任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんレイモンド・スプルーアンス中将ちゅうじょうに「硫黄いおうとう我々われわれいままで占領せんりょうしなければならなかったしまなかで、一番いちばん堅固けんごしまでしょう。なぜあのしまをとりたいというのかわかりませんが、とることはとりましょう」と悲観ひかんてきかたっており、スプルーアンスは作戦さくせん先行さきゆきに不安ふあんかんじている[270]

日本にっぽんぐん硫黄いおうとうがアメリカぐんちた場合ばあい影響えいきょう重大じゅうだいせい痛感つうかんしており、硫黄いおうとう爆破ばくはしてうみぼっさせるというちんあん真面目まじめ検討けんとうされたこともあったが、莫大ばくだい爆薬ばくやく必要ひつようであることから断念だんねんし、守備しゅびする小笠原おがさわら兵団へいだん強化きょうかはかった[272]栗林くりばやし要塞ようさいした硫黄いおうとう徹底てっていした持久じきゅうせん将兵しょうへいめいじ、「わがひとしてきじゅうにんヲ斃サザレバストモセズ」「わがひとし最後さいご一人ひとりトナルモ「ゲリラ」ニツテてきヲ悩マサン」などと戦闘せんとう方針ほうしんさだめた栗林くりばやしみずか起草きそうがした『敢闘かんとうちかい』を硫黄いおうとう守備しゅびたい全員ぜんいん配布はいふしている[273]

アメリカぐん入念にゅうねんばくげきかんほう射撃しゃげきくわえたのちに硫黄いおうとう上陸じょうりくしてきたが、たくみに構築こうちくされた日本にっぽんぐん陣地じんちほとん損害そんがいけておらず日本にっぽんぐん攻撃こうげきまえ海岸かいがんせんけとなって多大ただい損害そんがいこうむった。作戦さくせん初日しょにち硫黄いおうとう上陸じょうりくできたアメリカ海兵かいへいたいは30,000にんであったがそのうち2,400にん戦死せんししていた[274]日本にっぽんぐん硫黄いおうとうそらから支援しえんするため、神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたいだい2たてたい」を出撃しゅつげきさせた。32少数しょうすうであったが、護衛ごえい空母くうぼビスマーク・シー撃沈げきちん正規せいき空母くうぼサラトガに5はつ命中めいちゅうだんあたえて大破たいはさせたほかキーオカック(防潜網ぼうせんもう輸送ゆそうせん) 英語えいごばんなどすうせき損傷そんしょうさせる戦果せんかげた。特攻とっこうによるアメリカぐん被害ひがい硫黄いおうとうからも目視もくしでき、だい27航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん市丸いちまる利之としゆきすけ少将しょうしょうが「敵艦てきかんせんたいする勇敢ゆうかん特別とくべつ攻撃こうげきにより硫黄いおうとう守備しゅび隊員たいいん士気しき鼓舞こぶされた」「必勝ひっしょう確信かくしん敢闘かんとうちかいあり」と打電だでんしている[275]

その摺鉢山すりばちやまめぐっての激戦げきせんなどで、りょう軍兵ぐんびょうたがいに多大ただい損害そんがいこうむりながら激戦げきせんつづけたが、当初とうしょ5にち攻略こうりゃく予定よていであったアメリカぐんを1かげつ以上いじょう足止あしどめした栗林くりばやしは、3月26にち残存ざんそんへいやく400にんとともにアメリカぐん夜襲やしゅう敢行かんこうして戦死せんしした。日本にっぽんぐんは21,000にん守備しゅびたいのうち20,000にん戦死せんししたが、アメリカぐんは28,000にん死傷ししょう人的じんてき損失そんしつはアメリカぐん上回うわまわった[276]甚大じんだい損害そんがいこうむったこのたたかいについて、アメリカがわ軍事ぐんじてき評価ひょうかきびしいものとなり、政治せいじ学者がくしゃひゃく籏頭しん戦後せんごにアメリカの公文書こうぶんしょ調査ちょうさしていたさいに、硫黄いおうとうたたかいとこののち沖縄おきなわせんについては、アメリカのほう敗者はいしゃ意識いしきっていることおどろいている[277]

甚大じんだい損害そんがいこうむりながらも攻略こうりゃくした硫黄いおうとう戦略せんりゃくてき価値かち非常ひじょうたかく、まだ日本にっぽんアメリカりょうぐん戦闘せんとうちゅうであった1945ねん3がつ4にち最初さいしょのB-29が硫黄いおうとう緊急きんきゅう着陸ちゃくりくすると、その終戦しゅうせんまでにべ2,251のB-29が硫黄いおうとう緊急きんきゅう着陸ちゃくりくし、やく25,000にん搭乗とうじょういんすくうことになった。また、P-51D主力しゅりょくとするだい7戦闘せんとう集団しゅうだん硫黄いおうとう進出しんしゅつし、B-29の護衛ごえいについたり、日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょう襲撃しゅうげきしたりしたため、日本にっぽんぐん戦闘せんとうによるB-29の迎撃げいげきおおきな制約せいやくけることとなった[278]一方いっぽう日本にっぽんぐんは、マリアナ諸島しょとうへの攻撃こうげき前進ぜんしん基地きちだけでなく、日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうへの防空ぼうくう監視かんし拠点きょてんをもうしなうこととなって、いよいよ戦局せんきょく悪化あっか歯止はどめがかからなくなっていった[279]

東京とうきょうだい空襲くうしゅう都市としへの差別さべつばくげき激化げきか[編集へんしゅう]

1945ねん3がつ10日とおか空襲くうしゅう野原のはらとなった東京とうきょう

だい21ばくげき集団しゅうだん司令しれいかんヘイウッド・ハンセルじゅんしょうによるはつ東京とうきょう空襲くうしゅうから1945ねん2がつ10日とおかまでの16かいおよぶマリアナ諸島しょとうからの日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうで、アメリカぐん合計ごうけい78のB-29をうしなっていたが[280]期待きたいしていた戦果せんかげることはできずハンセルは更迭こうてつされた。アーノルドは信頼しんらいしていたルメイをハンセルの後任こうにんとしたが、ルメイもあがらぬ戦果せんか予想よそうがい損失そんしつあたまなやませていた[281]信頼しんらいしていたルメイも結果けっかせないことにごうやしたアーノルドは「やってみろ。B-29で結果けっかしゅっせ。結果けっかなかったら、きみはクビだ」「結果けっかなかったら、最終さいしゅうてきだい規模きぼ日本にっぽん上陸じょうりく侵攻しんこうになり、さらに50まんにんのアメリカじんいのち犠牲ぎせいになるかもれんのだ」とはげしい言葉ことば叱咤しったした[282]。アーノルドに叱咤しったされたルメイは大胆だいたん作戦さくせん方針ほうしん変更へんこうおこなうこととした。ばくげき高度こうどおもって高度こうど1500m~3000mのてい高度こうどげることにし、これまでの白昼はくちゅう空襲くうしゅうではなく、夜間やかん空襲くうしゅうすることによってばくげき高度こうどげても損失そんしつりつがらないと判断はんだんした[283]使用しようするばくだん日本にっぽん市街地しがいちはらうために開発かいはつされたM69焼夷弾しょういだんとしたが、搭載とうさいされたナパーム(ゲルガソリン)の火力かりょくすさまじく、木造もくぞう建造けんぞうぶつおお日本にっぽん最適さいてき焼夷弾しょういだん認定にんていされていた[284]

ルメイのしん戦術せんじゅつ最初さいしょ作戦さくせんは3がつ10日とおか東京とうきょうだい空襲くうしゅうとなった[285]。325のB-29は3がつ9にち午後ごご515ふんにマリアナ諸島しょとうのアメリカぐん基地きち出撃しゅつげきすると、3がつ10日とおか午前ごぜん05ふんだいいちだん投下とうかした。空襲くうしゅうはルメイの計画けいかくどおだい成功せいこうとなり、たったいちばんで83,000にん住民じゅうみん死亡しぼうし、26まん家屋かおく焼失しょうしつしたが、焼夷弾しょういだん爆撃ばくげき桁違けたちがいの被害ひがいをもたらせた最大さいだい原因げんいん関東大震災かんとうだいしんさいのさいにも発生はっせいした火災かさい旋風せんぷうだい規模きぼ発生はっせいしたためであった[286]東京とうきょうだい空襲くうしゅうからわずか10日間にちかんあいだに、ルメイは名古屋なごや大阪おおさか神戸こうべなどの大都市だいとしべ1,595のB-29を出撃しゅつげきさせたが、このすうはそれまでマリアナから日本にっぽん本土ほんど爆撃ばくげきしたすうの3ばいかずであり、投下とうかした9,365トンというばくだんりょうも、3月9にちまでに投下とうかしたばくだんりょうの3ばいとなった[287]日本にっぽん都市とし焼夷弾しょういだん攻撃こうげききわめてもろいことが実証じっしょうされ、東京とうきょうだい空襲くうしゅうさかいにしてたいにち戦略せんりゃくばくげき様相ようそう一変いっぺんしてしまった[288]

あらゆる性能せいのう日本にっぽん軍機ぐんき圧倒あっとうしていたB-29の迎撃げいげき日本にっぽんぐん苦戦くせんし、日本にっぽん本土ほんどかく都市とし次第しだい焦土しょうどしていった。それでも日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅううしなわれたB-29は485にもおよ[289]、1945ねん5がつ25にちばくげきよく26にち未明みめいまで)の東京とうきょう市街地しがいちたいする夜間やかん無差別むさべつばくげきでは、日本にっぽんぐん大量たいりょう陸海りくかいぐん迎撃げいげき出撃しゅつげきさせたうえ、合計ごうけい14,476はつ高射こうしゃ砲弾ほうだんびせて、B-29合計ごうけい47撃墜げきつい記録きろくしている[290]一方いっぽう、アメリカぐん公式こうしき記録きろくではこののB-29の損失そんしつは26となっており、日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうで1にちうしなわれたすうとしては最悪さいあくのものとなって、その損害そんがいかされたB-29の搭乗とうじょういんおそれをなしている[291]

戦後せんご日本にっぽんとドイツにたいする戦略せんりゃくばくげき効果こうか調査ちょうさした米国べいこく戦略せんりゃくばくげき調査ちょうさだんした結論けつろんは、日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうでのB-29の損失そんしつは、だい8空軍くうぐんがドイツ本土ほんどばくげきこうむった損失そんしつの1/3であり、日本にっぽん警戒けいかいシステムと迎撃げいげき地上ちじょう管制かんせいシステムはドイツぐん比較ひかくして“poor”(貧弱ひんじゃく)だったとひょうされた[292]

日本にっぽん防空ぼうくうシステムが“poor”だった要因よういんとしては下記かき指摘してきしている[293]

  1. 日本にっぽん戦争せんそう指導しどうしゃたちが、連合れんごうぐんによる空襲くうしゅう危険きけんせい十分じゅうぶん認識にんしきせず、防空ぼうくうシステムの整備せいび優先ゆうせんしなかった
  2. フィリピン作戦さくせんちゅうは、日本にっぽんぐん航空こうくう部隊ぶたい連合れんごうぐん北上ほくじょうめるために使用しようされ、それ以降いこう本土ほんど上陸じょうりくたいする防衛ぼうえい優先ゆうせんされた
  3. たい上陸じょうりく部隊ぶたいとして使用しようするため、航空機こうくうき搭乗とうじょういん温存おんぞんされて、日本にっぽん空軍くうぐんつね作戦さくせん可能かのう戦闘せんとうの30%未満みまんしか本土ほんど防空ぼうくう使用しようしなかった

また、ドイツ本土ほんどばくげき使用しようされたB-17およB-24比較ひかくするとB-29は高性能こうせいのうであり、それを使つかいこなしたのも日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう成功せいこうしたおおきな要因よういんとなったとも指摘してきしている[294]。しかし、日本にっぽんぐん貧弱ひんじゃく防空ぼうくう体制たいせいながら健闘けんとうし、作戦さくせん従事じゅうじすうたいする損失そんしつりつ比較ひかくすれば、ドイツ本土ほんど空襲くうしゅうでのB-17とB-24の損失そんしつりつが1.60%なのにたいして、日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうでのB-29の損失そんしつりつは1.32%であった[295]

沖縄おきなわせん[編集へんしゅう]

6月18にち最前線さいぜんせん視察しさつする沖縄おきなわ上陸じょうりく連合れんごうぐん部隊ぶたい最高さいこう指揮しきかんサイモン・B・バックナー・ジュニア中将ちゅうじょうみぎ)。この直後ちょくご日本にっぽん陸軍りくぐん速射そくしゃほう攻撃こうげき戦死せんし

連合れんごうぐん日本にっぽん上陸じょうりく前提ぜんていとして沖縄諸島おきなわしょとう戦線せんせんすすめ、沖縄おきなわ本島ほんとうへの上陸じょうりく作戦さくせんおこなう(沖縄おきなわせん)。連合れんごうぐん陸海空りくかいくうだい世界せかい大戦たいせんちゅう最大さいだいきゅう戦力せんりょく投入とうにゅう[296]まも日本にっぽんぐん地上ちじょうでは牛島うしじまみつる中将ちゅうじょうひきいるだい32ぐん主力しゅりょくとし、ひめゆり部隊ぶたい鉄血てっけつ勤皇きんのうたいなど多数たすう沖縄おきなわ民間みんかんじんをも動員どういん海上かいじょうでは戦艦せんかん大和やまと以下いか残存ざんそん可動かどう艦艇かんていそらからは、大戦たいせん末期まっきにもかかわらず、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん以来いらい最大さいだいきゅう航空こうくう戦力せんりょく投入とうにゅうして連合れんごうぐん対抗たいこうした(菊水きくすい作戦さくせん)。とく特攻とっこうたいしてはフィリピンと同様どうよう連合れんごうぐん艦隊かんたい痛撃つうげきこうむり、アメリカ海軍かいぐん損害そんがいすこしでも軽減けいげんするため、海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうアーネスト・キングがアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん司令しれいかんアーノルドにたいし「陸軍りくぐん航空こうくうたい海軍かいぐん支援しえんしなければ、海軍かいぐん沖縄おきなわから撤退てったいする。陸軍りくぐん自分じぶんらで防御ぼうぎょ補給ほきゅうをすることになる」と脅迫きょうはく[297]、ルメイは渋々しぶしぶB-29を戦術せんじゅつばくげき任務にんむまわすこととしている[298]

4がつ上旬じょうじゅんからやく1かげつはんあいだべ2,000のB-29が特攻とっこう発進はっしん基地きちとなっていた九州きゅうしゅう飛行場ひこうじょう攻撃こうげき投入とうにゅうされ、そのあいだ日本にっぽん内地ないち大都市だいとし空襲くうしゅう被害ひがい軽減けいげんされている[299]大都市だいとしへの空襲くうしゅうりやめてまでった特攻とっこう対策たいさくであったが、日本にっぽんぐんたくみに特攻とっこう隠匿いんとくしたため、B-29は飛行場ひこうじょう施設しせつ破壊はかいしただけで、特攻とっこうおおきな損害そんがいあたえることができず、特攻とっこうによるアメリカ海軍かいぐん損害そんがいはさらに拡大かくだいしていった。B-29のはたらきに失望しつぼうしただい5艦隊かんたい司令しれいレイモンド・スプルーアンス中将ちゅうじょうは「かれら(陸軍りくぐん航空こうくうぐん)は砂糖さとう工場こうじょう鉄道てつどうえき機材きざいをおおいにこわしてくれた」と皮肉ひにくい、5がつ中旬ちゅうじゅんにはルメイへの支援しえん要請ようせいげて、B-29は大都市だいとし産業さんぎょうへの戦略せんりゃくばくげき任務にんむ復帰ふっきしている[300]。アメリカ海軍かいぐん沖縄おきなわせん艦船かんせん沈没ちんぼつ36せき損傷そんしょう368せき艦上かんじょうでの戦死せんししゃは4,907めい負傷ふしょうしゃ4,824めいという甚大じんだい損害そんがいこうむったが[301]、そのだい部分ぶぶんは1,895投入とうにゅうされた航空こうくう特攻とっこうによる損害そんがい[302]、アメリカ海軍かいぐん史上しじょう単一たんいつ作戦さくせんけた損害そんがいとしては最悪さいあくのものとなっている[303]。アメリカぐん公式こうしき報告ほうこくしょで「十分じゅうぶん訓練くんれんけていないパイロットが旧式きゅうしき操縦そうじゅうしても、集団しゅうだん特攻とっこう攻撃こうげき水上すいじょう艦艇かんていにとって非常ひじょう危険きけんであることが沖縄おきなわせん証明しょうめいされた。終戦しゅうせんでさえ、日本にっぽん本土ほんど接近せっきんする侵攻しんこう部隊ぶたいたいし、日本にっぽん空軍くうぐん特攻とっこう攻撃こうげきによって重大じゅうだい損害そんがいあたえる能力のうりょくゆうしていたこと明白めいはくである。」と総括そうかつしている[303]

陸上りくじょうでは、だい32ぐん高級こうきゅう参謀さんぼう八原やはらはくどおり大佐たいさによる戦略せんりゃく持久じきゅう作戦さくせんで、徹底てっていした陣地じんち構築こうちくによる防衛ぼうえいせん展開てんかいされて[304]高度こうど要塞ようさいされた日本にっぽんぐん陣地じんちめあぐねた連合れんごうぐんがわ多大ただい損害そんがいこうむった。堅固けんご陣地じんちもる日本にっぽんぐんは「てつ暴風ぼうふうえい: Typhoon of Steel)」ともひょうされた連合れんごうぐん物量ぶつりょうものわせたはげしいほう爆撃ばくげきにもえていたが、やがて「一撃いちげき講和こうわ」をねらって連合れんごうぐん局地きょくちてき勝利しょうりおさめたいとする大本営だいほんえいよこやりによって、連合れんごうぐんたいして反撃はんげきることとなった。しかし、陣地じんちした日本にっぽんぐんは、連合れんごうぐん圧倒的あっとうてき火力かりょくまえだい損害そんがいこうむって撃退げきたいされ、反撃はんげき失敗しっぱいわって無駄むだ戦力せんりょく消耗しょうもうさせただけとなった[305]。その八原やはら方針ほうしんどお持久じきゅう作戦さくせんつづけ、6月23にち牛島うしじま自決じけつして日本にっぽんぐん組織そしきてき抵抗ていこうわるまでに、アメリカぐんがわ死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃ20,195にんしたが、これは1944ねん12月にたたかわれた、西部せいぶ戦線せんせん最大さいだい激戦げきせんの1つであるバルジのたたか戦死せんししゃ最大さいだいやく19,000にん上回うわまわるものであり[306]戦傷せんしょうしゃ55,162にん[307]戦闘せんとう外傷がいしょう病者びょうしゃ26,211にん[308]くわえた人的じんてき損失そんしつじつ投入とうにゅう兵力へいりょくの39%という高水準こうすいじゅんたっしたため[309]ハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょうらアメリカの戦争せんそう指導しどうしゃたちはあまりにも甚大じんだい損害そんがいおおきな衝撃しょうげきけて、のちの日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこう作戦さくせんダウンフォール作戦さくせん」の方針ほうしん決定けっていおおきな影響えいきょうおよぼした[310]

一方いっぽう日本にっぽんがわも8まんにん兵士へいし戦死せんししたほか、沖縄おきなわ県民けんみんやく12まんにん犠牲ぎせいた(うち3まんにん現地げんち召集しょうしゅうへい)。戦闘せんとうまれた沖縄おきなわ一般いっぱん住民じゅうみんは、連合れんごうぐんほうばくげきなどで殺害さつがいされることがおおかったが、なかには読谷よみたんむらチビチリガマ事例じれいのような集団しゅうだん自決じけつや、久米島くめじま守備しゅびたい住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつ事件じけんわたり事件じけんのように日本にっぽんぐん殺害さつがいされることもあった。日本にっぽんぐん方針ほうしんは『帝国ていこく陸海りくかいぐん作戦さくせん計画けいかく大綱たいこう』によれば、「みなみせんとう小笠原諸島おがさわらしょとう硫黄いおうとうヲ含ム)沖縄おきなわ本島ほんとう以南いなん南西諸島なんせいしょとう台湾たいわん上海しゃんはい附近ふきん」を「すめらぎ防衛ぼうえいためたてふか作戦さくせん遂行すいこうじょうぜんえん」と位置いちづけ、「右前みぎまええん地帯ちたい一部いちぶニ於テ状況じょうきょうとめムヲとくてき上陸じょうりく場合ばあいニ於テモ極力きょくりょくてき出血しゅっけつ消耗しょうもうリ且敵航空こうくう基盤きばん造成ぞうせい妨害ぼうがいス」としており、沖縄おきなわ硫黄いおうとうなどと同様どうように、日本にっぽん本土ほんどぜんえんとしててき出血しゅっけつ消耗しょうもういる防波堤ぼうはてい想定そうていしていた。沖縄おきなわせんにおける日本にっぽんぐん作戦さくせんは、これをもって「いし作戦さくせん」とばれており[311]住民じゅうみん保護ほごよりは持久じきゅう作戦さくせん優先ゆうせんした日本にっぽんぐん方針ほうしんたいして、甚大じんだい被害ひがいこうむった沖縄おきなわではいまでも「軍隊ぐんたい住民じゅうみんまもらない」との批判ひはん根強ねづよ[312]

終戦しゅうせんへの迷走めいそう[編集へんしゅう]

明治めいじ神宮じんぐう参拝さんぱいする鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく閣僚かくりょう先頭せんとうからじゅん総理そうり大臣だいじん鈴木すずき貫太郎かんたろう海軍かいぐん大臣だいじん米内よない光政みつまさ陸軍りくぐん大臣だいじん阿南あなみ惟幾これちか

日本にっぽんにおいても、政府せいふ内外ないがい和平わへいによる活動かつどう活発かっぱつとなっていた。近衛このえ上奏じょうそうぶんによる終戦しゅうせんさくすすめていた外交がいこうかん吉田よしだしげるもとちゅうえい大使たいし)が憲兵けんぺいたい拘束こうそくされるということもあった[313]。しかし、まだ政府せいふない終戦しゅうせんかんする議論ぎろんすすんでおらず、東西とうざいからはげしくまれているナチス・ドイツの命運めいうん固唾かたずんで見守みまもっている状況じょうきょうであった。しかし、ベルリンソ連それん赤軍せきぐん突入とつにゅうしてベルリンのたたかはじまり、5月8にちにナチス・ドイツが連合れんごうこく降伏ごうぶくし、イタリア社会しゃかい共和きょうわこく消滅しょうめつしたことで、ついに日本にっぽんいちこくでイギリス、アメリカ、オランダ、中華民国ちゅうかみんこく、オーストラリアなどの連合れんごうこく対峙たいじすることになった(「欧州おうしゅう戦線せんせんにおける終戦しゅうせん (だい世界せかい大戦たいせん)参照さんしょう)。この状況じょうきょういたっても、陸軍りくぐん中心ちゅうしんとする徹底てってい抗戦こうせんは、「神洲しんしゅう不敗ふはい」をスローガンに本土ほんど決戦けっせんかかげていちおく玉砕ぎょくさいとなえた。1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつに、戦争せんそう終結しゅうけつむねめて総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんした枢密院すうみついん議長ぎちょう鈴木すずき貫太郎かんたろうもと侍従じじゅうちょうもと海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう)も徹底てってい抗戦こうせん強硬きょうこう姿勢しせい即時そくじ講和こうわ主張しゅちょうすることはできず、連合れんごうぐん決戦けっせんいどだい損害そんがいあたえて有利ゆうり条件じょうけん連合れんごうぐん講和こうわするという「一撃いちげき講和こうわ」に期待きたいをかけており、それは昭和しょうわ天皇てんのう同様どうようであった[314][315]

しかし、沖縄おきなわせん命運めいうんけっすると、決戦けっせん沖縄おきなわかんがえていた昭和しょうわ天皇てんのう鈴木すずきは「一撃いちげき講和こうわ」すら困難こんなんなことをおもらされ、表向おもてむきはドイツ降伏ごうぶく直後ちょくごの5がつ9にちに「帝國ていこくめいいちにせる独逸どいつ降伏ごうぶく帝國ていこく衷心ちゅうしんより遺憾いかんとするところなり、帝國ていこく戦争せんそう目的もくてきはもとよりその自存じそん自衛じえいとにそんす、帝國ていこく不動ふどう信念しんねんにして歐州おうしゅう戦局せんきょく急変きゅうへん帝國ていこく戦争せんそう目的もくてき寸毫すんごう変化へんかあたえるものにず、帝國ていこく東亜とうあ盟邦めいほうとも東亜とうあ自己じこよく暴力ぼうりょくとのした蹂躙じゅうりんせんとするべいえい非望ひぼうたいしあくまでもこれ破摧はさいしもつて東亜とうあ安定あんてい確保かくほせんことをす」とする戦争せんそう遂行すいこう政府せいふ声明せいめいしたものの[316]うらでは昭和しょうわ天皇てんのう内大臣ないだいじん木戸きど幸一こういちに、「鈴木すずき講和こうわ条件じょうけんなどについてはよわい。木戸きどはどうかんがえるか。ぐん武装ぶそう解除かいじょについては、なにとか3,000にんとか5,000にん軍隊ぐんたいのこせるようばなしができないものだろうか」と講和こうわすすめるよう打診だしんしている[317]昭和しょうわ天皇てんのうは6がつ9にちに、中国ちゅうごく大陸たいりく視察しさつからかえってきた参謀さんぼう総長そうちょう梅津うめづ美治よしはるろうから、「ざいまんしゅう在中ざいちゅうこく戦力せんりょくは、アメリカ陸軍りくぐん師団しだん換算かんさんして4師団しだん程度ていど戦力せんりょくしかなく、弾薬だんやく近代きんだいせんであれば1会戦かいせんぶんぐらいしかない」という報告ほうこくけ「日本にっぽん内地ないち部隊ぶたいざいまん部隊ぶたいよりはるかに戦力せんりょくおとるといているのに、ざいまん部隊ぶたいがその程度ていど戦力せんりょくであれば、統帥とうすいのいう本土ほんど決戦けっせんなどらぬではないか」と認識にんしき、さらに6がつ12にちには海軍かいぐん軍事ぐんじ参議さんぎかん長谷川はせがわきよし大将たいしょうから「海軍かいぐん兵器へいき人員じんいんそこをついている」「動員どういん計画けいかくたりばったりの杜撰ずさんなもの」という報告ほうこくけて、いままでの事実じじつ認識にんしきおおきくくずれて、「本土ほんど決戦けっせん戦勝せんしょうによる有利ゆうり講和こうわ」は幻影げんえいぎないことを認識にんしきさせられており[318][319]、そのことをっていた木戸きどは、天皇てんのう親書しんしょたずさえた特使とくしソ連それんおくり、たいアメリカ、イギリスとの仲介ちゅうかい依頼いらいするという講和こうわあんかんがえて、昭和しょうわ天皇てんのう言上ごんじょうした[320]

昭和しょうわ天皇てんのう意向いこうにはりく海軍かいぐんとも反対はんたいはできずに、本土ほんど決戦けっせん準備じゅんび並行へいこうしてひそかにソ連それん仲介ちゅうかいやくとした終戦しゅうせん工作こうさくすすめられることとなった。外務省がいむしょうソ連それんちゅうにち大使たいしヤコフ・マリク疎開そかいしていた箱根はこね強羅ごうらホテルに、広田ひろた弘毅こうきもと首相しゅしょう交渉こうしょうかわせた。しかし、交渉こうしょう進展しんてんがなかったため、鈴木すずき天皇てんのう親書しんしょたずさえた特使とくしモスクワ派遣はけんすることにめた[321]特使とくし代表だいひょうにはもと首相しゅしょう近衛このえ文麿ふみまろえらばれて、外務省がいむしょうソ連それん大使たいし佐藤さとう尚武なおたけ近衛このえ訪問ほうもん許可きょかるようにめいじたが、すでソ連それん1945ねん2がつヤルタ会談かいだん極東きょくとう権益けんえき獲得かくとく条件じょうけんたいにち参戦さんせんめており(極東きょくとう密約みつやくもしくはヤルタの密約みつやく)、なん成果せいかがらなかった。この日本にっぽんがわ打診だしんソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう書記しょきちょうヨシフ・スターリン報告ほうこくされたのが、スターリンがポツダム会談かいだんのためベルリン郊外こうがいポツダムかったのちであり、ソ連それんがわ時間じかんかせぎのためばしたうえで、7がつ18にちにはぐらかした回答かいとうをしているが、日本にっぽんがわがこの事情じじょうるよしもなく貴重きちょう時間じかん浪費ろうひすることとなった[322]

本土ほんど決戦けっせん[編集へんしゅう]

日本にっぽん本土ほんど決戦けっせん概略がいりゃく

6がつには日本海にほんかいべい海軍かいぐん潜水せんすいかん9せき侵入しんにゅうバーニー作戦さくせん)。7月14にちにはべい海軍かいぐんだい38機動きどう部隊ぶたい空母くうぼ4せき艦載かんさい248)は青函せいかん連絡れんらくせん攻撃こうげきして11せき沈没ちんぼつし、北海道ほっかいどう孤立こりつした[47]北海道ほっかいどう空襲くうしゅう)。どう7がつ国内こくない石油せきゆ在庫ざいこりょうは48まんkLで、これは開戦かいせん直前ちょくぜん備蓄びちくりょう840まんkLの5.7%にすぎず、ほぼそこをついた[47]沖縄おきなわ海上かいじょう特攻隊とっこうたいとしてかった戦艦せんかん大和やまと以下いか艦隊かんたいべい海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきによって壊滅かいめつ坊ノ岬ぼうのみさきおき海戦かいせん)しており、海軍かいぐん艦艇かんていは5がつ以降いこう機能きのう停止ていしした[47]

このころには、南方みなかた資源しげん地帯ちたいからの資材しざい海上かいじょう輸送ゆそう途絶とぜつおよび、これまでのB-29の差別さべつ爆撃ばくげきにより、日本にっぽん航空機こうくうき生産せいさんりょく低下ていかしており、日本にっぽんぐんとしては航空機こうくうき使用しよう選択せんたく集中しゅうちゅうをせざるをず、大本営だいほんえいてき本土ほんど上陸じょうりく部隊ぶたいへのぜん特攻とっこう戦法せんぽうへの航空機こうくうき確保かくほ優先ゆうせん防空ぼうくう戦闘せんとう局限きょくげんする方針ほうしんをとっていた[323]。また、防空ぼうくう戦力せんりょくは、大都市だいとし集中しゅうちゅうしていたので、地方ちほう中小ちゅうしょう都市としについては、てき跳梁ちょうりょうにまかせることとなってしまった。このような防空ぼうくう戦略せんりゃく後退こうたいは、国民こくみん厭戦えんせん気分きぶんたかめることになった[324]日本にっぽん大都市だいとし破壊はかいしつくしたルメイは、目標もくひょう人口じんこう10まんにんから20まんにん中小ちゅうしょう都市とし58にたいする焼夷弾しょういだん攻撃こうげきおこなうこととした。この作戦さくせんは6がつ17にち開始かいしされて、鹿児島かごしま大牟田おおむた浜松はままつ四日市よっかいち豊橋とよはし福岡ふくおか静岡しずおか富山とやまなどが目標もくひょうとなり終戦しゅうせんまでつづけられた。このころになると日本にっぽん国民こくみんはアメリカぐんのどの兵器へいきよりもB-29をおそれるようになっており、上智大学じょうちだいがく神父しんぷとして日本にっぽん在住ざいじゅうし、日本人にっぽんじんとの親交しんこうふかかったブルーノ・ビッテルによれば「日本にっぽん国民こくみんぜん階層かいそうにわたって、敗戦はいせん意識いしき芽生めばはじめるようになったのは、B-29のだい空襲くうしゅうによってであった」と証言しょうげんしている[325]。B-29はばくげき任務にんむのほかに、やく12,000機雷きらい日本にっぽん列島れっとう沿岸えんがん各地かくち投下とうかする「飢餓きが作戦さくせん」をおこなっており(関門海峡かんもんかいきょう4990、周防灘すおうなだ666、若狭湾わかさわん611、広島ひろしまわん534、大阪おおさかわん380)、やがて国内こくない海上かいじょう輸送ゆそう麻痺まひした[47]

また、海上かいじょうにおいても、室蘭むろらん釜石かまいしでは製鉄せいてつしょちながらも、迎撃げいげきよう航空機こうくうき大型おおがたかん配備はいび皆無かいむひとしいことを察知さっちしていたアメリカぐんは、かんほう射撃しゃげきによる対地たいち攻撃こうげきおこなう。また、日本にっぽん本土ほんど近海きんかい制海権せいかいけん完全かんぜん手中しゅちゅうおさめたアメリカぐんは、イギリスぐんくわえて空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい日本にっぽん沿岸えんがん度々どど派遣はけんし、艦載かんさいによる各地かくちへの空襲くうしゅう機銃きじゅう掃射そうしゃおこなった。日本にっぽんぐん本土ほんど近海きんかいせまるようになった連合れんごうぐん艦艇かんていたいしても特攻とっこう対抗たいこうし、連合れんごうぐん艦艇かんていにいくらかの被害ひがいあたえるなどしたものの日本にっぽんぐん軍事ぐんじてき敗北はいぼくあきらかであった。

しかし、日本にっぽん戦争せんそう指導しどうしゃは、ひそかにすすめていたソ連それん仲介ちゅうかいとする終戦しゅうせん工作こうさく期待きたいしつつも、とく陸軍りくぐん連合れんごうぐん決戦けっせんおこな局地きょくちてき勝利しょうりおさめて有利ゆうり講和こうわむすぼうという「一撃いちげき講和こうわ」をあきらめておらず、その決戦けっせん日本にっぽん本土ほんどとした。1945ねん6がつ8にちには本土ほんど決戦けっせん方針ほうしんさだめた「今後こんごルヘキ戦争せんそう指導しどう基本きほん大綱たいこう」が昭和しょうわ天皇てんのうより裁可さいかされ[326]、その御前ごぜん会議かいぎせき参謀さんぼう本部ほんぶ次長じちょう河辺かわべとらよんろう中将ちゅうじょう特攻とっこう主戦しゅせんじゅつとして本土ほんど決戦けっせんたたか方針ほうしんしめした[327]特攻とっこう主戦しゅせんじゅつとする方針ほうしんもとづき、特攻とっこう兵器へいきふるえよう回天かいてん海龍かいりゅうなど)が生産せいさんされ各地かくち基地きち設営せつえいされ、作戦さくせんよう航空機こうくうき陸海りくかい軍機ぐんきあわせると1まん以上いじょう航空機こうくうき本土ほんど決戦けっせんよう特攻とっこうとその支援しえんとして温存おんぞんされた[328]陸上りくじょう兵力へいりょく既設きせつの12師団しだん86まんにんでは戦力せんりょく不足ふそくあきらかであったため[329]こそぎ動員どういんによる新設しんせつ師団しだん編成へんせいなど、なりふりかまわない戦力せんりょく増強ぞうきょうさく日本にっぽん本土ほんど兵力へいりょくは54師団しだん400まんにん増強ぞうきょうされていた[330]。しかし、日本にっぽんぐん装備そうび調達ちょうたつ苦慮くりょしていたため、こそぎ動員どういん動員どういんされた師団しだん装備そうび不十分ふじゅうぶんであった。とくだいさん兵備へいび編成へんせいされた師団しだん装備そうび不足ふそくしており、だい53ぐんだい316師団しだんにように、1個いっこ小隊しょうたいじゅう機関きかんじゅう2ちょう小銃しょうじゅう15~16ちょうしか配備はいびされないなど、しょう火器かき充足じゅうそくりつやく40%、じゅう機関きかんじゅう迫撃はくげきほう充足じゅうそくりつやく50%、火砲かほう充足じゅうそくというものであった[331]。また、国民こくみん義勇ぎゆうたいとして2,800まんにんもの一般いっぱん国民こくみん戦闘せんとう投入とうにゅうされる計画けいかくであり、まさにだい部分ぶぶん国民こくみん戦争せんそうされる事態じたいとなっていた[332]

一方いっぽう連合れんごうこくにおいては、1945ねん2がつヤルタ会談かいだん直前ちょくぜんに、ルーズベルトとチャーチルがマルタとう協議きょうぎし、1945ねん9がつ九州きゅうしゅう侵攻しんこう開始かいし、1945ねん12月に本州ほんしゅう侵攻しんこうするといったタイムテーブルがチャーチルに提示ていじされた。そしてヤルタ会談かいだんではルーズベルトがソ連それんヨシフ・スターリン書記しょきちょうに、日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこう作戦さくせん陽動ようどうとしてソ連それんたいにち参戦さんせん同意どういけていた[333]。3月29にちには、統合とうごう参謀さんぼうちょう会議かいぎが「たいにち攻撃こうげき戦力せんりょく最終さいしゅう計画けいかく」を作成さくせいし、日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこう作戦さくせん全体ぜんたいを「ダウンフォール作戦さくせん」、九州きゅうしゅう侵攻しんこう作戦さくせんを「オリンピック作戦さくせん」、関東かんとう侵攻しんこう作戦さくせんを「コロネット作戦さくせん」と命名めいめいした[334]アメリカ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうジョージ・マーシャルはマッカーサーに「コロネットは日本にっぽんにとどめを作戦さくせんとなるが、それはオリンピックの延長えんちょうとして実施じっしされるはこびになろう」「ヨーロッパの戦争せんそうが1945ねん7がつまでにわるという仮定かていもとづけば、オリンピック作戦さくせん開始かいし時期じきは12月1にち、コロネット作戦さくせん開始かいし時期じきは1946ねん3がつ1にち目標もくひょうに、計画けいかく作成さくせいすることとなる」とタイムスケジュールを説明せつめいしている[335]ドイツの敗戦はいせん予想よそうよりはやまると、オリンピック作戦さくせん前倒まえだおしされ、5月25にち発令はつれいされたオリンピック作戦さくせん指令しれいにおいては、Xデイと名付なづけられた九州きゅうしゅう上陸じょうりくは1945ねん11月1にちあさ6とされた[336]投入とうにゅうされる兵力へいりょくは、アメリカぐんだけでもオリンピック作戦さくせんでは上陸じょうりく部隊ぶたい574,730にん支援しえん要員よういん航空こうくう部隊ぶたいふくめると766,700にん[337]、コロネット作戦さくせんでは1,171,646にん[338]となるが、間接かんせつてき関与かんよする人数にんずうふくめると500まんめい以上いじょうのぼるとみられていた。またえい連邦れんぽうぐん地上ちじょう部隊ぶたいほかうみ空軍くうぐん支援しえん要員よういんふくめるとやく20まんめい投入とうにゅうされ、アメリカと同様どうよう間接かんせつてき関与かんよする人数にんずうふくめると100まんにん以上いじょうとなる予定よていであり、だい世界せかい大戦たいせん最大さいだい規模きぼ軍事ぐんじ作戦さくせんとなる予定よていであった[339]

ルーズベルトの急逝きゅうせいにより急遽きゅうきょ大統領だいとうりょうとなったトルーマンは、沖縄おきなわせんでのだい損害そんがいにより甚大じんだい損害そんがい確実視かくじつしされる日本にっぽん本土ほんど上陸じょうりくには消極しょうきょくてきになっていた[340]。このころになると、オリンピック計画けいかく作成さくせい日本にっぽんぐん戦力せんりょく分析ぶんせき過小かしょう評価ひょうかであったことが判明はんめいしており[341]損害そんがい見積みつもり最大さいだい死傷ししょうしゃ400まんにん以上いじょうなどと上方かみがた修正しゅうせいされていた[342]とくにドイツぐんとのたたかいの対比たいひろんじられ、「ドイツ本土ほんどよりも戦車せんしゃ運用うんよう困難こんなん」「ドイツとのたたかいよりもだい損害そんがい覚悟かくごする必要ひつようがある」という分析ぶんせきほかにも[340]太平洋たいへいよう戦域せんいきでのアメリカぐん地上ちじょう部隊ぶたい兵員へいいん死傷ししょうりつは、ヨーロッパ戦域せんいきの3.5ばいというたか水準すいじゅんとなっており[343]、これらのおおきな損害そんがい予想よそう日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこう慎重しんちょう発言はつげんりょく後押あとおしすることとなった。

アメリカぐんによる生物せいぶつ化学かがく兵器へいき使用しよう計画けいかく[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐんたいする化学かがく兵器へいき使用しよう本格ほんかくてき検討けんとうされるようになったのは、1943ねん11月のタラワのたたかいでアメリカぐん海兵かいへいたい多大ただい損害そんがいこうむってからであった。アメリカ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうジョージ・マーシャルも「我々われわれ即座そくざ使つかえ、アメリカじん生命せいめい損失そんしつ間違まちがいなく低減ていげんされ、物理ぶつりてき戦争せんそう終結しゅうけつはやめるもので、我々われわれがこれまで使用しようしていない唯一ゆいいつ兵器へいきどくガスである」ともべていた[344]。やがて、日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう開始かいしされると、アメリカぐんは、東京とうきょう効果こうかてきどくガス散布さんぷするための詳細しょうさい研究けんきゅうおこなっており、散布さんぷするぶし気象きしょう条件じょうけんはじめとして散布さんぷするガスの検討けんとうおこない、マスタードガスホスゲンなどが候補こうほがっていた[345]。また、アメリカぐん日本にっぽん農産物のうさんぶつたいする有毒ゆうどく兵器へいき使用しよう計画けいかくしていた。1942ねんメリーランドしゅうベルツビル英語えいごばんにあるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく農務のうむしょう研究けんきゅう本部ほんぶでアメリカ陸軍りくぐん要請ようせいにより日本にっぽん特定とくてい農産物のうさんぶつにさせる生物せいぶつ兵器へいきとなる細菌さいきん研究けんきゅう開始かいしされた。しかし、日本にっぽん主要しゅよう農産物のうさんぶつであるべいサツマイモなどは細菌さいきんたいしてきわめて抵抗ていこうりょくつよいことが判明はんめいしたので、細菌さいきんではなく化学かがく物質ぶっしつ散布さんぷおこなうこととなり、実際じっさい日本にっぽん耕作こうさく地帯ちたいにB-29で原油げんゆ廃油はいゆ散布さんぷしたが効果こうかはなかった。さらに検討けんとうすすめられて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸さくさん農作物のうさくもつ灌漑かんがい用水ようすい散布さんぷする計画けいかくすすめられた[346]

しかしルーズベルトの使用しよう方針ほうしんはあくまでも日本にっぽんぐん使用しようした場合ばあい報復ほうふくてきなものにかぎっていたが[347]硫黄いおうとうたたかいや沖縄おきなわせんでアメリカぐん甚大じんだい損害そんがいこうむると、きたるダウンフォール作戦さくせんけてアメリカぐん損害そんがいらすためとして、積極せっきょくてき生物せいぶつ化学かがく兵器へいき使用しよう主張しゅちょうつよまった。沖縄おきなわせんでアメリカ陸軍りくぐんだい10ぐん指揮しきしたジョセフ・スティルウェル中将ちゅうじょうも、「どくガスの使用しよう考慮こうりょれられるべきです。攻撃こうげき軍事ぐんじ目標もくひょう限定げんていすれば、民間みんかんじんへの使用しようという不名誉ふめいよ回避かいひできます」と主張しゅちょうしていた[348]。アメリカ統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶが、生物せいぶつ化学かがく兵器へいき使用しよう世論せろんみとめさせるため、マスコミ協力きょうりょくして世論せろんづくりをしていたことを記録きろくした極秘ごくひ資料しりょう情報じょうほう公開こうかいによりあきらかになっている[349]当局とうきょく世論せろん工作こうさくもあって、シカゴ・トリビューンは「かれら(日本にっぽんぐん)をガスで片付かたづけろ」という社説しゃせつ紙上しじょう掲載けいさいしたが、「どくガスを人道的じんどうてきとする非難ひなんあやまりでもあるし、的外まとはずれでもある」「ガスの使用しようすうおおくのアメリカ国民こくみんいのちすくうと同時どうじに、日本人にっぽんじんいのちもある程度ていどすく可能かのうせいがある」などと、アメリカ国民こくみん生物せいぶつ化学かがく兵器へいき使用しよう罪悪ざいあくかん軽減けいげんさせるような主張しゅちょうをしていた[348]。アメリカぐんはオリンピック作戦さくせん準備じゅんびとして、オーストラリアとハワイに生物せいぶつ化学かがく兵器へいき貯蔵ちょぞうするおおきな倉庫そうこ大量たいりょう建設けんせつし、太平洋たいへいようじょう島々しまじまにも小規模しょうきぼ貯蔵ちょぞう施設しせつ設置せっちした。やがてルソン島るそんとう沖縄おきなわ攻略こうりゃくしたアメリカぐんは、生物せいぶつ化学かがく兵器へいき7,500トンをルソン島るそんとうに、16,000トンを沖縄おきなわ貯蔵ちょぞうする計画けいかくてた。そしてオリンピック作戦さくせん開始かいしされると、8,500トンの生物せいぶつ化学かがく兵器へいき積載せきさいした輸送ゆそうかんマニラ湾まにらわん待機たいきさせて、いつでも前線ぜんせんおくめるようにする予定よていであった[346]

戦争せんそう状態じょうたい終結しゅうけつ講和こうわ[編集へんしゅう]

ポツダム宣言せんげん[編集へんしゅう]

ポツダムにあつまったひだりからアトリー(だいえい帝国ていこく)トルーマン(アメリカ)スターリン(ソ連それん

ドイツ降伏ごうぶく1945ねん昭和しょうわ20ねん7がつ17にちから8がつ2にちにかけ、アメリカ大統領だいとうりょうトルーマン、だいえい帝国ていこく首相しゅしょうチャーチルおよびクレメント・アトリーソ連それん書記しょきちょうスターリンがベルリン郊外こうがいポツダムあつまり、だい世界せかい大戦たいせん戦後せんご処理しょりについて協議きょうぎした(ポツダム会談かいだん)。そして、この会談かいだん期間きかんちゅうの1945ねん7がつ26にちに、おもにアメリカによって作成さくせいされたのちだいえい帝国ていこく修正しゅうせいくわ中華民国ちゅうかみんこく同意どういしていたポツダム宣言せんげんが3かこく共同きょうどう声明せいめいとして発表はっぴょうされた。宣言せんげん日本にっぽん無条件むじょうけん降伏ごうぶくせまり、その連合れんごうこくによる日本にっぽん占領せんりょうと、日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎ勢力せいりょく排除はいじょ、カイロ宣言せんげん履行りこう日本にっぽん主権しゅけん本州ほんしゅう北海道ほっかいどう九州きゅうしゅう四国しこくおよび連合れんごうこくめるしょ小島こじま制限せいげんすること、軍隊ぐんたい武装ぶそう解除かいじょ戦争せんそう犯罪はんざいじん処罰しょばつ民主みんしゅ主義しゅぎ基本きほんてき人権じんけん確立かくりつなど、ぜん13こう日本にっぽん伝達でんたつされた[350]

ポツダム宣言せんげん伝達でんたつされた日本にっぽん政府せいふ対応たいおう協議きょうぎするためよく27にち最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ閣議かくぎ開催かいさいした。これをけた東郷とうごう最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ閣議かくぎにおいて、「ほん宣言せんげんゆう条件じょうけん講和こうわであり、これを拒否きょひするとききわめて重大じゅうだいなる結果けっか惹起じゃっきする」と発言はつげんした。議論ぎろんすえ一旦いったん日本にっぽん政府せいふとして方針ほうしんしめさないが、かく新聞しんぶんにコメントりで報道ほうどうさせて国民こくみん周知しゅうちさせるという結論けつろんとなった[351]よく28にち新聞しんぶんでは、「笑止しょうしたいにち降伏ごうぶく条件じょうけん」、「共同きょうどう宣言せんげん自惚うぬぼれを撃破げきはせん、聖戦せいせんくまで完遂かんすい」「白昼夢はくちゅうむ 錯覚さっかく露呈ろてい」などという新聞しんぶんしゃによる論評ろんぴょうくわえられてほうじられたが、各社かくしゃともあつかいはちいさく、国民こくみんおおきな影響えいきょうはなかった。しかし、ささえ派遣はけんぐんそう司令しれい岡村おかむらやすし大将たいしょうの「ポツダム宣言せんげん滑稽こっけいというべし」という意見いけん代表だいひょうされるように、首相しゅしょう鈴木すずきぐんとっげによって、やむなく記者きしゃ会見かいけんで「共同きょうどう声明せいめいカイロ会談かいだん焼直やきなおしとおもう、政府せいふとしては重大じゅうだい価値かちあるものとはみとめず黙殺もくさつし、我々われわれ戦争せんそう完遂かんすい邁進まいしんする」との談話だんわ発表はっぴょうした。東郷とうごうはこれを閣議かくぎ決定けってい違反いはんだと激怒げきどして抗議こうぎした。これが新聞しんぶん各紙かくしで「政府せいふ黙殺もくさつ」などと報道ほうどうされ、さらに海外かいがいでは「黙殺もくさつ」が「reject(拒絶きょぜつ)」と報道ほうどうされた。ポツダム会談かいだんちゅうにトルーマンのもとトリニティ実験じっけん成功せいこうほうがもたらされると、トルーマンは日本にっぽん降伏ごうぶくうなが手段しゅだんとして原爆げんばく使用しよう決定けっていしたが[352]、トルーマンは7がつ25にち日記にっきに「日本にっぽんがポツダム宣言せんげん受諾じゅだくしないことを確信かくしんしている」といているなど、一旦いったんはポツダム宣言せんげん拒絶きょぜつされることを予測よそくしており、鈴木すずきの“黙殺もくさつ”は日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか正当せいとうする理由りゆうともなった[353]戦後せんご鈴木すずきはこの発言はつげんかえって「この一言ひとこと後々あとあといたるまで、まこと遺憾いかんおもてんであり・・・」とやんでいる[351]

広島ひろしまへの原爆げんばく投下とうか[編集へんしゅう]

広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうかによりしょうじた巨大きょだいキノコくもべい軍機ぐんき撮影さつえい)。したえるのは広島ひろしま市街しがい、そのひだりおく広島ひろしまわん[354]

アメリカはマンハッタン計画けいかく原子げんしばくだん開発かいはつすすめていた。マンハッタン計画けいかく責任せきにんしゃレズリー・グローヴスじゅんしょうは、開発かいはつちゅうのB-29を原子げんしばくだん搭載とうさい決定けっていし、陸軍りくぐん航空こうくうぐんそう司令しれい航空こうくう資材しざい調達ちょうたつ責任せきにんしゃであるオリバー・エコルズ英語えいごばん 少将しょうしょうにB-29を原子げんしばくだん搭載とうさい可能かのう改造かいぞうおこなうようめいじた。この計画けいかくは、エコルズをふくすうめい極秘ごくひうらすすめられたが、B-29改造かいぞう担当たんとうしゃロスアラモス原子力げんしりょく研究所けんきゅうじょから2種類しゅるいかたち原子げんしばくだん開発かいはつしていると説明せつめいけると、その両方りょうほうばくだん搭載とうさい可能かのう改造かいぞうおこな必要ひつようせいせまられた[355]機密きみつ保持ほじのため、2種類しゅるい原子げんしばくだんをその形状けいじょうから、それぞれ「シンマン(やせっぽち)」と「ファットマン(でぶっちょ)」、改造かいぞう計画けいかくを「シルバープレート」と隠語いんご名付なづけた。マンハッタン計画けいかくらない多数たすう技術ぎじゅつしゃたいしては、シンマンとはルーズベルト、ファットマンはチャーチルのことで、この2めい極秘ごくひうらにアメリカ国内こくない旅行りょこうするために使用しようするプルマンしき寝台しんだいしゃ輸送ゆそうするための改造かいぞうであり、ことの重大じゅうだいせいから寝台しんだいしゃもシルバープレートという隠語いんごんでいると説明せつめいしている。のちにシンマンは設計せっけい変更へんこうで「リトルボーイ(ちびっこ)」とばれることになった[356]。シルバープレート戦争せんそうわるまでに54まで発注はっちゅうやし、うち46納品のうひんされていた[357]原爆げんばく搭載とうさい製造せいぞう並行へいこうして、原爆げんばく投下とうかのための特別とくべつ戦闘せんとう部隊ぶたいだい509混成こんせい部隊ぶたい組織そしきし、指揮しきかんにはポール・ティベッツ大佐たいさえらばれた[358]だい509混成こんせい部隊ぶたいのほとんどの搭乗とうじょういんが、自分じぶんたち大型おおがた特殊とくしゅばくだん投下とうか任務にんむくということはっていたが、その特殊とくしゅばくだんおそれるべき破壊はかいりょく原子げんしばくだんということをらなかった[359]

だい509混成こんせい部隊ぶたい徹底てっていした訓練くんれんののち、シルバープレートを15ようして(終戦しゅうせんまでに29増強ぞうきょう)1945ねん5がつにテニアン基地きち進出しんしゅつした。日本にっぽんぐんはテニアンとう潜伏せんぷくしていた生存せいぞんへい尾翼びよくのマークを確認かくにんしてあたらしい飛行ひこうたい進出しんしゅつしてきたことを確認かくにんし、まだ日本にっぽんぐん支配しはいしていたロタとうつうじて大本営だいほんえいけて報告ほうこくされた。特殊とくしゅ任務にんむ部隊ぶたいとの認識にんしきはあったが、原爆げんばく投下とうか部隊ぶたいとはらなかった大本営だいほんえいは、日本にっぽんぐん情報じょうほうりょく誇示こじするため、東京とうきょうローズプロパガンダラジオ番組ばんぐみゼロアワーでだい509混成こんせい部隊ぶたい進出しんしゅつ歓迎かんげいのことばをわせたが、皮肉ひにくなことにこの部隊ぶたいがのちに日本にっぽんだい惨禍さんかをもたらすことになった[360]原子げんしばくだん投下とうか目標もくひょう都市としについては、爆撃ばくげきによる被害ひがいすくなく原子げんしばくだん威力いりょく検証けんしょうしやすい都市としえらばれ、広島ひろしま小倉おぐら横浜よこはま京都きょうとなどが候補こうほにあがり、グローヴスは人口じんこう108まんにん京都きょうと原子げんしばくだん威力いりょくはかるのにもっとも相応ふさわしいと主張しゅちょうしたが、陸軍りくぐん長官ちょうかんヘンリー・スティムソンが「京都きょうと極東きょくとう文化ぶんか史上しじょう重要じゅうよう芸術げいじゅつひん数多かずおおい」という理由りゆう候補こうほからはずさせている。原子げんしばくだん投下とうか目標もくひょう選定せんていすすなかだい509混成こんせい部隊ぶたい集中しゅうちゅうてき実地じっち訓練くんれん継続けいぞくしており、パンプキンばくだん名付なづけられた原子げんしばくだんした大型おおがたばくだんによる精密せいみつばくげき訓練くんれんなどをおこなった[361]。1945ねん7がつ20日はつかにはパンプキンばくだん投下とうか訓練くんれんのため東京とうきょう飛行ひこうしていたクロード・イーザリー少佐しょうさ操縦そうじゅうストレートフラッシュごうで、ふく航空こうくう機関きかんジャック・ビヴァンスの提案ていあんにより、攻撃こうげき禁止きんしされていた皇居こうきょにパンプキンばくだん投下とうかすることとなった。しかし、皇居こうきょ上空じょうくうにはくもめており、レーダー照準しょうじゅんでのばくげきとなったので、パンプキンばくだん皇居こうきょには命中めいちゅうしなかった。日本にっぽんのラジオ放送ほうそう皇居こうきょばくげき事実じじつったばくげきだん司令しれいによりイーザリーらはきびしく叱責しっせきされたが、原子げんしばくだん投下とうか任務にんむからはずされることはなかった[362]

1945ねん7がつ16にちトリニティ実験じっけん成功せいこうしたが、そのらせはルメイらごく一部いちぶ司令しれいかん参謀さんぼうにしかつたえられず、依然いぜんとしてだい509混成こんせい部隊ぶたい搭乗とうじょういんらも新型しんがたばくだん正体しょうたいらされていなかった。テニアンとうじゅう巡洋艦じゅんようかんインディアナポリスが「リトルボーイ」をはこんだときも機密きみつ保持ほじ状況じょうきょう変更へんこうはなかった。1945ねん7がつ26にちポツダム宣言せんげん発表はっぴょうされたが、日本にっぽん政府せいふはこれを「黙殺もくさつ」した。トルーマンからの原爆げんばく使用しよう承認しょうにんていたグローヴスは原爆げんばく投下とうか命令めいれいはっし、8がつ2にちにはだい509混成こんせい部隊ぶたいめいされた野戦やせん命令めいれいだい13ごうで8がつ6にちだい1目標もくひょう広島ひろしまだい2目標もくひょう小倉おぐら原子げんしばくだん投下とうかすると決定けっていした[363]。8月6にち、リトル・ボーイを搭載とうさいしパーソンズをせたB-29エノラ・ゲイはティベッツの操縦そうじゅう午前ごぜん245ふんにテニアンとうから出撃しゅつげきした。その先行せんこうしていた気象きしょう観測かんそくストレートフラッシュごうからだい1目標もくひょう広島ひろしま天候てんこう良好りょうこうとのらせがはいり、計画けいかくどお広島ひろしまはじめての原子げんしばくだん投下とうかされることになった[364]

エノラ・ゲイは計画けいかくよりわずか17びょう超過ちょうかだけで、午前ごぜん915ふん17びょう日本にっぽん時間じかんでは815ふん17びょう)にリトルボーイを投下とうかし、リトルボーイは投下とうか43びょうでさくれつし、エノラ・ゲイは9マイルさき離脱りだつしていたが、衝撃波しょうげきははげしく機体きたいふるわせた[365]一瞬いっしゅんのうちに広島ひろしまでは、78,150にん市民しみん死亡しぼうし、70,147家屋かおく半壊はんかい以上いじょう損害そんがいけた。中国ちゅうごくぐん管区かんく豊後水道ぶんごすいどう北上ほくじょうするエノラ・ゲイ3発見はっけんし79ふん警戒けいかい警報けいほう発令はつれいしていたが、うち1のストレートフラッシュが一旦いったん広島ひろしま上空じょうくう通過つうかして播磨灘はりまなだ方面ほうめんったので、731ふん警報けいほう解除かいじょしている。その811ふん松永まつなが対空たいくう監視かんししょがエノラ・ゲイと観測かんそくグレート・アーティストごう高度こうど9,500mで接近せっきんしてくるのを発見はっけんしたが、ときすでにおそ充分じゅうぶん対応たいおうができなかった[366]原爆げんばく投下とうか成功せいこうらせは、ポツダム会談かいだんからの帰国きこくちゅうのトルーマンにも報告ほうこくされ、トルーマンは「さらに迅速じんそくかつ完全かんぜん日本にっぽんのどこの都市としであろうが、地上ちじょうにある生産せいさん施設しせつ抹殺まっさつしてしまう用意よういがある。我々われわれは、かれらの造船ぞうせんしょを、かれらの工場こうじょうを、かれらの交通こうつう破壊はかいするであろう。誤解ごかいのないようかさねていうが、我々われわれ日本にっぽん戦力せんりょく完全かんぜん破壊はかいするであろう」という談話だんわ発表はっぴょうした[364]

長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうか[編集へんしゅう]

ばく心地ごこちちかくにあり爆風ばくふう破壊はかいされた浦上うらかみ天主堂てんしゅどう

広島ひろしまの3にちつぎ原子げんしばくだん投下とうかえらばれた。短期間たんきかんあいだに2かい原子げんしばくだん投下とうかするのは、日本にっぽんがわにいつでも原子げんしばくだん投下とうかできるストックがあるとらしめることが目的もくてきであったが、実際じっさいつぎ投下とうかする予定よていのファットマンがアメリカぐん製造せいぞうしていた最後さいご原子げんしばくだんであった。初回しょかい任務にんむ成功せいこうさせたティベッツは2かい信頼しんらいできる部下ぶかまかせることとし、広島ひろしまさい観測かんそくグレート・アーティストの機長きちょうであったチャールズ・スウィーニー中佐ちゅうさがB-29ボックスカーごう搭乗とうじょうして原子げんしばくだん投下とうか任務にんむおこなうことになった[367]目標もくひょう小倉おぐら新潟にいがたいずれかにしぼられたが、新潟にいがた距離きょりとおすぎるという理由りゆうだい1目標もくひょう小倉おぐら、そしてだい2目標もくひょうおな九州きゅうしゅう長崎ながさきさだめた[368]。1945ねん8がつ9にちテニアンとう出撃しゅつげきしたボックスカーは、午前ごぜん843ふん小倉こくら上空じょうくうたっしたが、天候てんこう不良ふりょう小倉おぐらあつくもおおわれており、やむなくだい2目標もくひょう長崎ながさきかった。長崎ながさき天候てんこう不良ふりょうであったが、レーダーで爆撃ばくげき進路しんろをとっているときに一瞬いっしゅんくもえたので、午前ごぜん1058ふんにファットマンを投下とうかし、ボックスカーは燃料ねんりょう不足ふそくのためマリアナにはもどらずそのまま沖縄おきなわけて飛行ひこうした[369]

日本にっぽんぐん広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうか以降いこう警戒けいかい強化きょうかしており、国東半島くにさきはんとうから北九州きたきゅうしゅう地区ちくかう2のB-29を発見はっけんしたが、西部せいぶぐん管区かんく広島ひろしま同様どうよう編成へんせいであったのでこれを原子げんしばくだん搭載とうさい判断はんだんし1053ふん空襲くうしゅう警報けいほう発令はつれいした。だい16方面ほうめんぐん司令しれいは、てき目標もくひょう長崎ながさき判断はんだんしラジオをつうじて「B-29少数しょうすう長崎ながさき方面ほうめん侵入しんにゅうしつつあり。全員ぜんいん退避たいひせよ」という放送ほうそうかえながさせたが[370]事前じぜん空襲くうしゅう警報けいほうやラジオ放送ほうそうはほとんどの長崎ながさき市民しみんには認知にんちされておらず(ラジオ放送ほうそうそのものがなかったという証言しょうげんもあり)長崎ながさき市民しみんだい規模きぼ避難ひなんをすることはなかった[371][372]。112ふん現在げんざい原爆げんばく落下らっか中心地ちゅうしんち公園こうえん上空じょうくうでファットマンがさくれつし、長崎ながさきでも一瞬いっしゅんのうちに23,752にんもの市民しみんいのちうばわれた[373]

なお、日本にっぽんぐん原爆げんばく開発かいはつこころみたが基礎きそ研究けんきゅういきていなかった(日本にっぽん原子げんしばくだん開発かいはつ)。

ソ連それんたいにち参戦さんせん[編集へんしゅう]

ソ連それんぐん奇襲きしゅう[編集へんしゅう]

その直後ちょくごに、にち中立ちゅうりつ条約じょうやくむすんでいたソビエト連邦れんぽうも、上記じょうきのヤルタ会談かいだんでの密約みつやく(ヤルタ協約きょうやく)をもとに、1946ねん4がつまで有効ゆうこうであるにち中立ちゅうりつ条約じょうやく破棄はきし、8がつ8にちたいにち宣戦せんせん布告ふこくをし、日本にっぽん同盟どうめいこくまんしゅうこく侵攻しんこう開始かいしした(ソ連それんたいにち参戦さんせん)。当時とうじまんしゅうこく駐留ちゅうりゅうしていた日本にっぽん関東軍かんとうぐんは、主力しゅりょく部隊ぶたい南方なんぽう戦線せんせん日本にっぽん本土ほんどかれて弱体じゃくたいしていたため、急遽きゅうきょ在郷ざいきょう軍人ぐんじん居留民きょりゅうみんから25まんにん動員どういんし、70まんにん兵力へいりょくと、戦車せんしゃ150りょう航空機こうくうき150火砲かほう1000もんそろえたが、兵士へいしおおくが老兵ろうへいで、また装備そうび充足じゅうそくりつひくく、しん兵力へいりょくはこのすうぶんの1にぎなかった[374]一方いっぽうアレクサンドル・ヴァシレフスキーひきいるソ連それんぐんは、兵員へいいん1,577,725にん火砲かほう迫撃はくげきほう26,137もん戦車せんしゃはしほう5,556りょう航空機こうくうき3,446と、関東軍かんとうぐん圧倒あっとうしていた[375]奇襲きしゅうけた関東軍かんとうぐんであったが、兵力へいりょく不足ふそくおぎなうためまんしゅうの2/3を放棄ほうきし、居留民きょりゅうみん150まんにんのうち110まんにん居住きょじゅうするしんきょう大連たいれんあいだはしる「れんきょうせん」としんきょうからはしる「きょうせん」をむす防衛ぼうえいせんソ連それんぐんめるとする作戦さくせん計画けいかくもとづき、国境こっきょう要塞ようさい配置はいちされた兵力へいりょくのぞき、主力しゅりょくまんしゅう南部なんぶへの撤退てったい開始かいしした[376]

国境こっきょう要塞ようさい奮闘ふんとう[編集へんしゅう]

まんしゅう東部とうぶ方面ほうめん防衛ぼうえいせんさい重要じゅうよう地区ちくであり、とくウスリーかわ対岸たいがんソ連それんりょうイマン(げんダリネレチェンスク)を見渡みわたせる高地こうちかかえ、長大ちょうだいまん国境こっきょうにおいて唯一ゆいいつシベリア鉄道てつどう視認しにんできる戦略せんりゃく拠点きょてんであったとらりん関東軍かんとうぐんとらあたま要塞ようさい構築こうちくしていた。本来ほんらいであればこの要塞ようさい東部とうぶ国境こっきょう防衛ぼうえいようとなるはずであったが、関東軍かんとうぐんほか部隊ぶたいれいにもれず要塞ようさい守備しゅびたい兵力へいりょく次第しだいらされて、ソ連それん参戦さんせんにはわずか1,400にんとなっていた。要塞ようさいには避難ひなんしてきた周囲しゅうい居留民きょりゅうみん収容しゅうようしていたが、そのうち500にん義勇ぎゆうへいとなり戦力せんりょくは1,900にんとなった[377]ソ連それんぐんとらあたま要塞ようさい堅牢けんろうさを警戒けいかいしており、たいにち宣戦せんせん布告ふこくがなされるまえからはげしい砲撃ほうげきくわえ、そのりょうはわずか2にちで7,000トンにもたっしたが、要塞ようさい健在けんざいであった。そのわずか1,900にんたいし、2狙撃そげきへい師団しだん1個いっこ戦車せんしゃ旅団りょだん攻撃こうげきしてきたが、日本にっぽん唯一ゆいいつ配備はいびされていた試製しせいよんじゅういちせんちめーとる榴弾りゅうだんほうちょう射程しゃていきゅうしきじゅうよんせんちめーとる列車れっしゃのうななねんしきさんじゅうせんちめーとるちょう榴弾りゅうだんほうよんしきじゅうよんせんちめーとる榴弾りゅうだんほうなどのきょほう駆使くしし、圧倒的あっとうてき戦力せんりょくソ連それんぐんだい損害そんがいあたえて2週間しゅうかん足止あしどめし、8がつ20日はつか陥落かんらくしたときには兵士へいし居留民きょりゅうみん生存せいぞんしゃはわずか500にんとなっていた[378]

牡丹ぼたんこうにおいてもだい5ぐん指揮しき予備よび士官しかん学校がっこう候補こうほせい編成へんせいされた特設とくせつ荒木あらき歩兵ほへい連隊れんたいが、ソ連それんぐんじゅう戦車せんしゃ相手あいて肉弾にくだん特攻とっこう応戦おうせん身体しんたい爆雷ばくらいむすけての戦車せんしゃへの体当たいあたり攻撃こうげきソ連それんぐん戦車せんしゃ5~6りょう撃破げきはして攻撃こうげき撃退げきたいつづけるなど、8がつ13にちまでは戦線せんせんまもいた[379]。こうして一部いちぶ戦線せんせんではソ連それんぐん足止あしどめに成功せいこうしていたものの、戦線せんせん突破とっぱしたソ連それんぐん機械きかい部隊ぶたい進撃しんげき速度そくどはやく、その急進きゅうしんげきおそれをなした大本営だいほんえい関東かんとうぐん主力しゅりょく防衛ぼうえいせんを「れんきょうせん」と「きょうせん」をむすふくくるわ陣地じんちからさらに後退こうたいしたつう周辺しゅうへんとするよう命令めいれいした。しかし、その命令めいれいいただい3方面ほうめんぐん司令しれいかん後宮こうきゅうあつし大将たいしょうは、「110まんにん居留民きょりゅうみん見捨みすてることなど関東かんとうぐん面目めんぼくゆるさない」「ぐん居留民きょりゅうみんとも居留民きょりゅうみんともぬ」とべて撤退てったい拒否きょひ隷下れいかだい30ぐんに「しんきょう死守ししゅしてほしい。本官ほんかん奉天ほうてん死守ししゅする」とめいじている[376]。  

居留民きょりゅうみん悲劇ひげき[編集へんしゅう]
道路どうろ工事こうじをするまんしゅう開拓かいたくだん居留民きょりゅうみん

関東軍かんとうぐんソ連それん攻撃こうげきまんしゅう居留民きょりゅうみんたいする方針ほうしんについて検討けんとう先送さきおくりして具体ぐたいてき対策たいさくめていなかった。しかし、関東軍かんとうぐん居留民きょりゅうみん退避たいひたいして関心かんしんであったということではなく、ソ連それんによる中立ちゅうりつ条約じょうやく破棄はき通告つうこくがあったときには、関東軍かんとうぐん司令しれい各省かくしょう首脳しゅのう開拓かいたくだん代表だいひょうしゃ招集しょうしゅうし「ちか予想よそうされるソ連それん侵攻しんこうたいする準備じゅんび」を議題ぎだいとして長時間ちょうじかん討議とうぎおこなっている。そのせき開拓かいたくだんはおおむね楽観らっかんてきで「まんしゅうわれ墳墓ふんぼうつるとすれば天国てんごくのみ」とか「ソ連それん侵攻しんこうたいしては、老若ろうにゃく婦女子ふじょしけんってち、ぐん運命うんめいをともにすることを光栄こうえいとする」などの意見いけんされて、関東軍かんとうぐんより提案ていあんのあった退避たいひには消極しょうきょくてきであった。関東軍かんとうぐんはその居留民きょりゅうみん日本にっぽん本土ほんどへの退避たいひうながしたが、日本にっぽん本土ほんどはB-29の空襲くうしゅう開始かいしされていたのにくわえ、まんしゅう食料しょくりょうなどの物資ぶっし豊富ほうふであり、積極せっきょくてき退避たいひする居留民きょりゅうみんすくなかった[380]

8がつ9にちソ連それん参戦さんせん情報じょうほうはいると関東軍かんとうぐんあわてて国境こっきょう付近ふきん居住きょじゅうしている居留民きょりゅうみんすみやかな避難ひなん示達じたつしたが、混乱こんらんのなかで十分じゅうぶんにはつたわらなかった。まんしゅうこく首都しゅとしんきょうにおいては、まんしゅうこく日本にっぽん政府せいふ関係かんけいしゃ関東軍かんとうぐんみなみまんしゅう鉄道てつどうなどがあつまって対策たいさく会議かいぎ開催かいさいされ、ぐんからはしんきょう防衛ぼうえいせんのため居留民きょりゅうみんすみやかな退避たいひ要求ようきゅうがあり、政府せいふ関係かんけいしゃからは「しんきょう陥落かんらくまで家族かぞくみとどまる」などの意見いけんされ、最終さいしゅうてきにはみなみまんしゅう鉄道てつどう避難ひなんのための臨時りんじ列車れっしゃし、8がつ10にち午後ごご6いち便びんとして「居留民きょりゅうみん」「政府せいふ関係かんけいしゃ」「ぐん」のじゅんしんきょうから退避たいひすることが決定けっていされた[381]。しかし、状況じょうきょう切迫せっぱくするなかで、老人ろうじんにん病人びょうにん優先ゆうせんされる以外いがいについてはえき到着とうちゃく次第しだいじゅん列車れっしゃまれるという状況じょうきょうになって、「居留民きょりゅうみん」「政府せいふ関係かんけいしゃ」「ぐん」のじゅん最初さいしょからくずれてしまった。結局けっきょく避難ひなん列車れっしゃだいいち便びんおおきく遅延ちえんし、8がつ11にち1:40にしんきょう出発しゅっぱつした。こののちも2あいだおきに列車れっしゃ出発しゅっぱつしたが、故障こしょう続発ぞくはつ避難ひなんはかどらなかった[382]。もっと悲惨ひさん状況じょうきょうとなったのは国境こっきょうなどの辺境へんきょうからの避難ひなんみんで、ソ連それんぐん暴民ぼうみんからの暴虐ぼうぎゃくによって凌辱りょうじょくされたり、いのちをうしなうものも多数たすうのぼって、戦時せんじちゅう死亡しぼうした居留民きょりゅうみんは3まんにんにものぼった[383]暴虐ぼうぎゃくにあわなかった避難ひなんみん飢餓きが疫病えきびょうくるしみ、やむを現地げんちみんたくすこともあり、のち中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじ問題もんだいとしてのこることとなった。

庇護ひごうしなった住民じゅうみんすくうため、関東軍かんとうぐん一部いちぶ将兵しょうへい鉄道てつどう警備けいびたい警官けいかんなどがとぼしい装備そうびソ連それんぐんかいほこさきかぶらたおれるといった悲壮ひそう状況じょうきょう各地かくちられることとなった[384]。そのれいとして、関東軍かんとうぐんだい5練習れんしゅう飛行ひこうたい二ノ宮にのみやきよし准尉じゅんいら10にんが、葛根かずらねびょう事件じけんなどの虐殺ぎゃくさつ事件じけんのあたりにし、ソ連それんぐんいちげきくわ居留民きょりゅうみん避難ひなんするときあいだかせぐために、10練習れんしゅう特攻とっこう出撃しゅつげきした「神州しんしゅう不滅ふめつ特別とくべつ攻撃こうげきたい」がある。特攻とっこうには特攻隊とっこうたいいん婚約こんやくしゃ女性じょせい2にん同乗どうじょうしており、特攻隊とっこうたいいん10にん婚約こんやくしゃ2にんソ連それんぐん戦車せんしゃ部隊ぶたい特攻とっこう戦死せんしした[385]

関東軍かんとうぐんは、かく戦域せんいき敢闘かんとうして一部いちぶソ連それんぐん進撃しんげき速度そくどおくらせ、居留民きょりゅうみん避難ひなん時間じかんかせぎをしたがまんしゅう全域ぜんいきにおいてはおおくの居留民きょりゅうみん戦禍せんかまれることとなり、1945ねん時点じてんまんしゅう在住ざいじゅうした150まんにん居留民きょりゅうみんのうち、戦時せんじちゅう死亡しぼうした3まんにんくわえ、戦後せんご餓死がし病死びょうししたり行方ゆくえ不明ふめいになったものもふくめると13まんにんかえらぬひととなった[386]。それでも、まんしゅうからは朝鮮半島ちょうせんはんとう経由けいゆふくめてやく135まんにん戦後せんご日本にっぽん本土ほんど帰国きこくできた[387]結果けっかてきおおくの居留民きょりゅうみん避難ひなんさせることに成功せいこうした関東軍かんとうぐんたいして、ソ連それんげんロシア)には、「関東軍かんとうぐん臨機応変りんきおうへん後退こうたいし、避難ひなんみん撤退てったい時間じかんかせぎをしながら、持久じきゅうせん展開てんかいした。ソ連それんぐんは、8がつ13にち牡丹ぼたん占領せんりょうしたが、15にち時点じてんでは、まんしゅう主要しゅよう都市とし陥落かんらくしていなかった」という肯定こうていてき評価ひょうかもある[375]

降伏ごうぶく[編集へんしゅう]

ミズーリ艦上かんじょうにて日本にっぽん降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいするダグラス・マッカーサー(1945ねん9がつ2にち

8がつ9にち御前ごぜん会議かいぎにおいて昭和しょうわ天皇てんのうが「戦争せんそう指導しどうについては、さきの(6がつ8にち)で決定けっていしているが、他面ためん戦争せんそう終結しゅうけつについても、このさい従来じゅうらい観念かんねんにとらわれることなく、すみやかに具体ぐたいてき研究けんきゅうげ、これを実現じつげんするよう努力どりょくせよ」と戦争せんそう終結しゅうけつのことをくちにした。本土ほんど決戦けっせんによる「一撃いちげき講和こうわ」をあきらめきれない陸軍りくぐんない混乱こんらんふかまったが、首相しゅしょう鈴木すずき天皇てんのう発言はつげんうながし、天皇てんのう自身じしん和平わへいのぞんでいることを直接ちょくせつくちにしたことにより、昭和しょうわ天皇てんのうからの信頼しんらいあつかった陸軍りくぐん大臣だいじん阿南あなみ惟幾これちかが、徹底てってい抗戦こうせん主張しゅちょうする青年せいねん将校しょうこうらを「聖断せいだんくだったのである。いまはそれにしたがうばかりである。不服ふふくのものは自分じぶんかばねえていけ」とていして[388]8がつ14にち終戦しゅうせん詔書しょうしょはっされポツダム宣言せんげん受諾じゅだく日本にっぽん降伏ごうぶく)することになった。そのべいぐんによるばくげきつづき、グアムとうからのだい315爆撃ばくげきだんB-29、134が8がつ14にち午後ごご10から8がつ15にち午前ごぜん3まで日本石油にほんせきゆ秋田あきた製油せいゆしょまでばくだん12,000はつ投下とうかし、87めい従業じゅうぎょういんらがばくした[47]敗戦はいせん玉音ぎょくおん放送ほうそう実施じっしった一部いちぶ陸軍りくぐん青年せいねん将校しょうこうグループが、玉音ぎょくおん放送ほうそう録音ろくおんされたレコード奪還だっかんをもくろんで8がつ15にち未明みめいみや内省ないせいなどを襲撃しゅうげきする事件じけんこしたが(宮城みやぎ事件じけん)、これは陸軍りくぐん自身じしんによって鎮圧ちんあつされた。8がつ15にち正午しょうご昭和しょうわ天皇てんのう玉音ぎょくおん放送ほうそう放送ほうそうされた。

8がつ16にち大本営だいほんえいぜんぐんたいして、戦闘せんとう行為こうい停止ていしするよう命令めいれいはっした。こののち鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかくそう辞職じしょく玉音ぎょくおん放送ほうそうのちには、海軍かいぐんにおいて一部いちぶ将兵しょうへい徹底てってい抗戦こうせんびかけるビラいたり停戦ていせん連絡れんらく破壊はかいしたりして抵抗ていこう厚木あつぎ航空こうくうたい事件じけん)したほかおおきな反乱はんらんこらなかった。8月17~18にちきたべい軍機ぐんきへの迎撃げいげき(「B-32 (航空機こうくうき)#歴史れきし参照さんしょう)を最後さいご内地ないち日本にっぽんぐん戦闘せんとう停止ていししたが、後述こうじゅつするように、日本にっぽん軍民ぐんみんへの攻撃こうげきつづけるソ連それんぐんへの抗戦こうせんうらないもりとうたたかなど)を中心ちゅうしん外地がいちでは戦闘せんとう一部いちぶつづいた。

翌日よくじつには連合れんごう国軍こくぐん中立ちゅうりつこくスイスつうじて、占領せんりょうぐん日本にっぽん本土ほんどへのれや各地かくち展開てんかいする日本にっぽんぐん武装ぶそう解除かいじょすすめるための停戦ていせん連絡れんらく派遣はけん依頼いらいし、19にちには日本にっぽんがわ停戦ていせん全権ぜんけん委員いいん一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげきでフィリピンのマニラへとかうなど、イギリスぐんやアメリカぐんたいする停戦ていせん武装ぶそう解除かいじょ順調じゅんちょう遂行すいこうされた。

8がつ28にち連合れんごう国軍こくぐんによる日本にっぽん占領せんりょう部隊ぶたいだいいちだんとしてアメリカぐん先遣せんけん部隊ぶたい厚木あつぎ飛行場ひこうじょう到着とうちゃくし、8がつ30にちにはのち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ/SCAP)のそう司令しれいかんとして連合れんごうこくによる日本にっぽん占領せんりょう指揮しきたることになるアメリカ陸軍りくぐんのマッカーサー大将たいしょうどう基地きち到着とうちゃくし、つづいてイギリスぐんやオーストラリアぐんなどの日本にっぽん占領せんりょう部隊ぶたい到着とうちゃくした。

9月2にちには、東京とうきょうわんうち停泊ていはくしたアメリカ海軍かいぐん戦艦せんかんミズーリ」において、イギリス、アメリカ、中華民国ちゅうかみんこく、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合れんごう諸国しょこく17カ国かこく代表だいひょうだん臨席りんせき[ちゅう 17]した日本にっぽん政府せいふ全権ぜんけん重光しげみつまもる外務がいむ大臣だいじんと、大本営だいほんえい全権ぜんけん梅津うめづ美治よしはるろう参謀さんぼう総長そうちょうによるたい連合れんごうこく降伏ごうぶく文書ぶんしょへの調印ちょういんがなされ、ここに1939ねん9がつ1にちより6ねんにわたってつづいただい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつした。

関東軍かんとうぐん降伏ごうぶく[編集へんしゅう]
関東軍かんとうぐん降伏ごうぶく様子ようすえがいた絵画かいが

玉音ぎょくおん放送ほうそう全日本ぜんにほんぐん降伏ごうぶくらせたよく8がつ16にちになってもまんしゅうでは戦闘せんとう継続けいぞくしていた。モスクワのそう司令しれいはヴァシレフスキーに「8がつ14にち天皇てんのうによる日本にっぽん降伏ごうぶくかんする通告つうこくは、無条件むじょうけん降伏ごうぶく一般いっぱんてき声明せいめいぎない」「ソ連それんぐん極東きょくとうでの日本にっぽんへの攻撃こうげき作戦さくせん継続けいぞくするべし」という命令めいれいして、日本にっぽんぐんはげしく抵抗ていこうしているとらあたま要塞ようさいなどに猛攻もうこうつづけていた[389]。スターリンは日本にっぽんぐん抵抗ていこうめないことを理由りゆうにして、一気いっき北海道ほっかいどうきた半分はんぶんまで侵攻しんこうしようと画策かくさくしていたが、トルーマンは「日本にっぽん本土ほんどすべてのしまにいる日本にっぽん武装ぶそう兵力へいりょくはマッカーサー将軍しょうぐん降伏ごうぶくするものである」とスターリンの画策かくさくこうから否定ひていした[390]。それでもスターリンは極東きょくとうソ連それんぐん侵攻しんこうゆるめることはなく「関東軍かんとうぐん破砕はさいぜんまんしゅう北朝鮮きたちょうせんみなみ樺太からふと千島ちしま解放かいほうせよ」とめいじている。一方いっぽう関東軍かんとうぐん司令しれいかん山田やまだおつさん大将たいしょうは17にちかく部隊ぶたい停戦ていせん命令めいれい下達かたつし、ヴァシレフスキーに接触せっしょくこころみていたが、8がつ19にちになってようやく直接ちょくせつ交渉こうしょうによる停戦ていせん実現じつげんした[391]結局けっきょく国境こっきょう付近ふきんはげしい戦闘せんとうはあったものの、関東軍かんとうぐん主力しゅりょくほとんソ連それんぐん戦闘せんとうすることなく降伏ごうぶくし、捕虜ほりょとなった将兵しょうへいは70まんにんにものぼったが、そのうち57まんにんがポツダム宣言せんげんだい9じょう規定きていはんして強制きょうせい労働ろうどうのためにシベリアおくられ、劣悪れつあく環境かんきょうでの強制きょうせい労働ろうどうで7まんにん以上いじょう死亡しぼうした[376]シベリア抑留よくりゅう)。日本にっぽんうしたてうしなったまんしゅうこく事実じじつじょう崩壊ほうかいし、8がつ18にち退位たいいした皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎまんしゅうこく首脳しゅのう日本にっぽんへの逃命をはかるも、侵攻しんこうしてきたソ連それんぐんによって身柄みがら拘束こうそくされた。

まんしゅうでの戦闘せんとうわったが、ソ連それんぐん樺太からふと千島ちしまへの侵攻しんこうつづけた。樺太からふとたたか樺太からふと占領せんりょう8がつ22にちには樺太からふとからのせん3せきソ連それん潜水せんすいかん攻撃こうげきげき沈破されている(三船みふね殉難じゅんなん事件じけん)。千島ちしま列島れっとうにも侵攻しんこううらないもりとうたたかおおきな損害そんがいこうむったものの、その千島ちしま列島れっとう南下なんかつづけた。マッカーサーの回想かいそうによれば、連合れんごうぐんソ連それん代表だいひょうであったクズマ・デレビヤンコ中将ちゅうじょうは、日本にっぽん進駐しんちゅう一緒いっしょ行動こうどうしていたマッカーサーにたいして「ソ連それんぐん北海道ほっかいどう上陸じょうりくし、日本にっぽんをアメリカと二分にぶんする」とってきたのにたいして、マッカーサーは「ソ連それんへい自分じぶん許可きょかなく日本にっぽんはいったらデレビヤンコ将軍しょうぐん自身じしんふくめてソ連それん代表だいひょう全員ぜんいん即座そくざ投獄とうごくする」とおどしてソ連それんぐん上陸じょうりく阻止そししたと主張しゅちょうしているが[392]ソ連それんぐん侵攻しんこうまることはなく、みなみせんとう占領せんりょうしたのち、9月1にち色丹島しこたんとう、そして9がつ4にち歯舞諸島はぼまいしょとう上陸じょうりくしてソ連それん領土りょうどとした。そのあいだ北海道ほっかいどうにはアメリカぐんまったくおらず、ようやく10がつ4にちになってだい77歩兵ほへい師団しだん英語えいごばん函館はこだて上陸じょうりくしており、ソ連それん侵攻しんこうにはまった対抗たいこうできていなかった[393]ソ連それんぐん占領せんりょうされたしまのうち、択捉島えとろふとう国後島くなしりとう色丹島しこたんとう、そして歯舞はぼまい群島ぐんとうをあわせた4つのしまについては日本にっぽん領有りょうゆうけん主張しゅちょうして返還へんかんもとめているが、ソ連それん崩壊ほうかいに4とう実効じっこう支配しはいしているロシア連邦れんぽう自国じこく領土りょうど主張しゅちょうして返還へんかんおうじていない[394]

海外かいがい在住ざいじゅう日系にっけいじん[編集へんしゅう]

マンザナー強制きょうせい収容しゅうようしょ

戦前せんぜんから日本人にっぽんじん移民いみん生粋きっすい国民こくみんしょくうばうとしてアメリカ、オーストラリア、カナダペルーブラジルなどをはじめに移民いみん排斥はいせき運動うんどうおこなわれていた。このことは、欧米おうべい日本にっぽん信頼しんらい関係かんけい低下ていかさせることにつながるととも移民いみんしゃ差別さべつ偏見へんけんけていた[ちゅう 18]太平洋戦争たいへいようせんそうはじまるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北なんぼくアメリカの13カ国かこくやオーストラリアなどの連合れんごうこくは、日本人にっぽんじん移民いみんのみならず、それらのくに国籍こくせき日系にっけい国民こくみんまでも「敵性てきせい市民しみん」として財産ざいさん没収ぼっしゅうし、アメリカや自国じこくない強制きょうせい収容しゅうようしょ強制きょうせい収容しゅうようさせた[ちゅう 19]。アメリカの移民いみん日本人にっぽんじん1せいはこの行為こういたい憤慨ふんがい日章旗にっしょうきかかげるなど遺憾いかんしめした。その一方いっぽうでアメリカそだちの移民いみん日本人にっぽんじん2せい若者わかものたちなかには祖国そこくへの忠誠ちゅうせいしんしめすために志願しがんだい442連隊れんたい戦闘せんとうだん組織そしきされ欧州おうしゅう戦線せんせん[ちゅう 20]最前線さいぜんせんおくられ活躍かつやくした。このことは2せい名実めいじつどもにアメリカじんとしてみとめられた一方いっぽうで、1せいと2せいはげしい対立たいりつ禍根かこんのこした。

被害ひがい[編集へんしゅう]

関与かんよした各国かっこくにおける経済けいざい損失そんしつ莫大ばくだい規模きぼかんがえられるが、ここでは人的じんてき被害ひがいについてしるす。

太平洋戦争たいへいようせんそうにおける日本にっぽん犠牲ぎせいしゃについては、軍民ぐんみんあわせて310まんにんとされることがおおいが誤認ごにんである[395]これは、毎年まいとし8がつ15にち開催かいさいされている全国ぜんこく戦没せんぼつしゃ追悼ついとうしき追悼ついとうされる戦没せんぼつしゃが310まんにんとされていることからしょうじる誤認ごにんおもわれるが、全国ぜんこく戦没せんぼつしゃ追悼ついとうしき戦没せんぼつしゃ範囲はんいは、1963ねん昭和しょうわ38ねん)5がつ14にち閣議かくぎ決定けっていによってささえ事変じへん以降いこう戦争せんそうによる死没しぼつしゃ軍人ぐんじん軍属ぐんぞくおよじゅん軍属ぐんぞくのほか、外地がいちにおいて非命ひめいにたおれたもの内地ないちにおける戦災せんさい死没しぼつしゃとうをもふくものとする。)とする」とさだめられており、[14]太平洋戦争たいへいようせんそうくわえて、盧溝橋ろこうきょう事件じけんはしはっするにちちゅう戦争せんそうやそのノモンハン事件じけんなどの国際こくさい紛争ふんそう戦没せんぼつしゃ累計るいけいで、なおかつ、戦後せんご日本にっぽん内地ないちまでに行方ゆくえ不明ふめいとなったものや、戦犯せんぱんとして刑死けいししたものシベリア抑留よくりゅうなど捕虜ほりょとして死亡しぼうしたもの戦争せんそう犠牲ぎせいしゃとして集計しゅうけいされている[10]また、厚生こうせい労働省ろうどうしょう実施じっししている遺骨いこつ収集しゅうしゅう事業じぎょう対象たいしょうとなっている海外かいがい戦没せんぼつしゃ2,400,000にんには、沖縄おきなわ対象たいしょうしゃが188,140にんであるように、軍人ぐんじん軍属ぐんぞくだけではなく民間みんかんじん犠牲ぎせいしゃふくまれている[396]

中華民国ちゅうかみんこくと、まんしゅうこくおよび中華民国ちゅうかみんこく南京なんきん政府せいふとの分裂ぶんれつ状態じょうたいにあった中国ちゅうごく大陸たいりくについては民間みんかんじん死者ししゃすう記載きさいせず、「その」で記載きさい[ちゅう 21][397]

枢軸すうじくこくがわ
国名こくめい 参戦さんせん期間きかん 主戦しゅせんじょう 犠牲ぎせいしゃすう戦闘せんとういん 犠牲ぎせいしゃすう民間みんかん 備考びこう
大日本帝国だいにっぽんていこく 1941-1945 太平洋たいへいようオセアニアひがしアジア東南とうなんアジア
インド洋いんどようインド
1,932,000にん[9] 800,000にん日本にっぽん内地ないち500,000にん沖縄おきなわふく日本にっぽん内地ないちがい300,000にん[13] 盧溝橋ろこうきょう事件じけんから太平洋戦争たいへいようせんそうまでの合計ごうけい戦後せんご死亡しぼう刑死けいし行方ゆくえ不明ふめい180,900にんふくむ)2,123,300にん戦没せんぼつしゃには朝鮮ちょうせんじんおよび台湾たいわんじんふく[10]
タイ王国おうこく 1942-1945 インドシナ 不明ふめい 不明ふめい
まんしゅうこく 1941-1945 モンゴル、まんしゅう 不明ふめい 不明ふめい
中華民国ちゅうかみんこく南京なんきん政府せいふ 1941-1945 中国ちゅうごく大陸たいりく 不明ふめい
こうむ自治じちくに政府せいふ 1941-1945 モンゴル、華北かほくまんしゅう 不明ふめい 不明ふめい
自由じゆうインドかり政府せいふ 1943-1945 ビルマ、インド、インドシナ 不明ふめい
ビルマ独立どくりつ義勇軍ぎゆうぐん 1941-1942 ビルマ、インド、インドシナ 不明ふめい
ドイツ 1941-1945 太平洋たいへいよう東南とうなんアジア、インド洋いんどよう 不明ふめい 不明ふめい
国名こくめい 参戦さんせん期間きかん 主戦しゅせんじょう 犠牲ぎせいしゃすう戦闘せんとういん 犠牲ぎせいしゃすう民間みんかん 備考びこう
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく 1941-1945 太平洋たいへいよう 戦死せんししゃ156,283にん[398]~196,265にん戦闘せんとうがいでの死者ししゃふくむ)[399]戦傷せんしょうしゃ248,316めい[400] 1,726にん以上いじょう 民間みんかんじん犠牲ぎせいしゃ抑留よくりゅうにより992にん死亡しぼう、544にん不明ふめい真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきで68にん、グアムとう1人ひとり、ウェイクとうで83にんロサンゼルスのたたかで8にん[401]、アッツとうで20にん風船ふうせんばくだんで6にんなど
フィリピン(ユサッフェ) 1941-1945 フィリピン、沖縄おきなわ 戦死せんししゃ98,000にん[402] 1,000,000にん[403]
だいえい帝国ていこく 1941-1945 東南とうなんアジア、インド、インドシナ 戦死せんししゃ86,838にん戦死せんし傷者しょうしゃ合計ごうけい227,131にん 不明ふめい
オランダ 1941-1942 インドネシア 27,600にん民間みんかん犠牲ぎせいしゃふくむ)[404]
中華民国ちゅうかみんこく重慶たーちん政府せいふ 1941-1945 中国ちゅうごく大陸たいりく、ビルマ 戦死せんししゃ1,319,000–4,000,000にん[405][406]ぐん死傷ししょうしゃ合計ごうけい3,211,000–10,000,000にん[406][407][408][409] 死傷ししょう3,500まんにん[14] 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによる公表こうひょう
はちぐんしんよんぐん 1941-1945 まんしゅう中国ちゅうごく大陸たいりくとう 戦死せんし傷者しょうしゃ584,267にん[410] 国共こっきょう合作がっさくにより中華民国ちゅうかみんこくぐん協力きょうりょくした中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん
オーストラリア 1941-1942 ビルマ、インド、インドシナ 戦死せんししゃ19,189にん[411] 735にん[412][14]
ニュージーランド 1941-1942 ビルマ、インド、インドシナ 戦死せんししゃ11,671にん[413] 不明ふめい
自由じゆうフランス 1945- インドシナ 戦死せんししゃ5,000にん[414] 不明ふめい
ソビエト連邦れんぽう 1945.8.28- モンゴル、まんしゅう樺太からふと千島ちしま列島れっとう 戦死せんししゃ22,694にん[404]戦傷せんしょうしゃ40,377にん なし ノモンハン事件じけん犠牲ぎせいしゃふく
こうむ人民じんみん共和きょうわこく 1945- モンゴル、まんしゅう 不明ふめい なし
戦闘せんとう加担かたん勢力せいりょく
加担かたん勢力せいりょくめい 所属しょぞく 地域ちいき 犠牲ぎせいしゃすう 備考びこう
ニューギニアぞく民兵みんぺい りょう陣営じんえい ニューギニア 不明ふめい 民兵みんぺい
フィリピンじん義勇軍ぎゆうぐん 日本にっぽん フィリピン 不明ふめい
比島ひじまラウエル大統領だいとうりょうづけ親衛隊しんえいたい 日本にっぽん フィリピン 不明ふめい
フクバラハップ べいえいちゅう フィリピン 不明ふめい フィリピン共産党きょうさんとうけい抗日こうにちゲリラ
郷土きょうど防衛ぼうえい義勇軍ぎゆうぐん 日本にっぽん インドネシア 不明ふめい
インド国民こくみんぐん 日本にっぽん インド 不明ふめい
マレー義勇ぎゆうたい 日本にっぽん マレまれ半島はんとう 不明ふめい
マレー義勇軍ぎゆうぐん 日本にっぽん マレまれ半島はんとう 不明ふめい
えつみなみ青年せいねん先鋒せんぽうたい 日本にっぽん ベトナム 不明ふめい
ビルマ国民こくみんぐん 日本にっぽんえいべいちゅう インドシナ 不明ふめい
抗日こうにちマラヤ人民じんみんぐん えいべいちゅう マレまれ半島はんとう 不明ふめい ゲリラ
フォース136 えいべいちゅう マレまれ半島はんとうとう 不明ふめい 華僑かきょうゲリラ
東南とうなんアジアボランティアぐん えいべいちゅう 中国ちゅうごく大陸たいりく東南とうなんアジア 不明ふめい 華僑かきょうゲリラ
いしそうしろけいロシアじん義勇軍ぎゆうぐん 日本にっぽん 中国ちゅうごく大陸たいりく 不明ふめい
すめらぎきょう維新いしんぐん 日本にっぽん 中国ちゅうごく大陸たいりく 不明ふめい
中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふぐん 日本にっぽん 中国ちゅうごく大陸たいりく 不明ふめい
すめらぎきょうしん中華ちゅうかすくい国民こくみんぐん 日本にっぽん 中国ちゅうごく大陸たいりく 不明ふめい
まんしまイスラム教徒きょうと騎兵きへいだん 日本にっぽん まんしゅう 不明ふめい
朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐん べいえいちゅう まんしゅう中国ちゅうごく大陸たいりくとう 不明ふめい 朝鮮ちょうせんじん部隊ぶたい
大韓民国だいかんみんこく臨時りんじ政府せいふ べいえいちゅう まんしゅう中国ちゅうごく大陸たいりくとう 不明ふめい 亡命ぼうめい政府せいふ自称じしょう韓国かんこくこうふくぐん編成へんせい
日本にっぽん人民じんみん解放かいほう連盟れんめい べいえいちゅう まんしゅう中国ちゅうごく大陸たいりくとう 不明ふめい 日本にっぽん共産党きょうさんとうけいのレジスタンス運動うんどう
その戦闘せんとう戦争せんそうからんだ弾圧だんあつ行為こうい強制きょうせい労働ろうどうなど、太平洋戦争たいへいようせんそうにちちゅう戦争せんそうふくむ)にまれてくなった人数にんずうなど、アジアなどの戦闘せんとうきた地域ちいきのみにかぎらず記載きさい[ちゅう 22]。(各国かっこく政府せいふ主張しゅちょうもとづく数値すうち[14]
戦災せんさい国名こくめい地域ちいき 戦時せんじちゅう人口じんこう 犠牲ぎせいしゃすう 備考びこう
中国ちゅうごく大陸たいりく民衆みんしゅう 4おくにん 死傷ししょうしゃやく3,500まんにん[14] りょうぐん戦闘せんとうえ、労務者ろうむしゃとしての徴用ちょうようなど
ベトナム 1400まんにん 推定すいていやく200まんにん 強制きょうせい供出きょうしゅつによる飢餓きが
インドネシア 6150まんにん 推定すいていやく200まんにん 労務者ろうむしゃとしての徴発ちょうはつ
フィリピン 1630まんにん 推定すいていやく105まんにん りょうぐん戦闘せんとう
シンガポール 561まんにん 推計すいけいやく50,000にん[415] 日本にっぽんぐんによる虐殺ぎゃくさつ
マレーシア
ビルマ 1500まんにん 最大さいだいやく100まんにん[186] 泰緬鉄道たいめんてつどう労務者ろうむしゃ戦闘せんとうえ、飢餓きが疫病えきびょう

各国かっこく犠牲ぎせいしゃすうには飢饉ききんによる推定すいてい死者ししゃすう上乗うわのせされている。

おも艦船かんせん損失そんしつすう[編集へんしゅう]

坊ノ岬ぼうのみさきおき海戦かいせん爆沈ばくちんする戦艦せんかん大和やまと

参戦さんせんこく太平洋たいへいようにおける主要しゅよう艦艇かんてい損失そんしつすう終戦しゅうせん廃棄はいきされた艦船かんせん除外じょがい

各国かっこく艦艇かんてい損失そんしつすう[416][417][418][419][420][421]
国名こくめい 空母くうぼ護衛ごえい空母くうぼ水上すいじょう母艦ぼかん 戦艦せんかんじゅんよう戦艦せんかん 巡洋艦じゅんようかん 駆逐くちくかん 潜水せんすいかん
日本にっぽん 19 8 37 134 130
アメリカ 14 3 10 84 63
だいえい帝国ていこく 1 2 3 12 5
オーストラリア 3 6
オランダ 2 7 5
ソ連それん 4
空母くうぼエンタープライズ艦上かんじょう炎上えんじょうするF6Fヘルキャット

参戦さんせんこく太平洋たいへいようにおける航空機こうくうき損失そんしつすう

  • 日本にっぽん: 35,000~50,000(うち戦闘せんとう損失そんしつ20,000[422]
  • アメリカ: 27,000[423] (うち戦闘せんとう損失そんしつ14,533)[422]
  • 中華民国ちゅうかみんこく: 2,468[422]
  • だいえい帝国ていこく: すう不明ふめいであるがイギリス空軍くうぐんだけで4,858にんのパイロットが戦死せんし[424]
  • オーストラリア:250[425]

太平洋戦争たいへいようせんそうにおける人的じんてき損失そんしつ特徴とくちょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐんは、補給ほきゅう軽視けいしおよ連合れんごうぐんせいそら制海権せいかいけん奪取だっしゅされて補給ほきゅう途絶とぜつしたことによって、満足まんぞく食料しょくりょう補給ほきゅうけることができず大量たいりょう餓死がししゃした[426]。また日本にっぽんぐん兵士へいしは、戦陣せんじんくんの「きて虜囚りょしゅう(りょしゅう)のはずかしめ(はずかしめ)をけず、してつみ(ざいか)の汚名おめいのこすこと勿(なか)れ」の一節いっせつ代表だいひょうされるように捕虜ほりょとなることを事実じじつじょう禁止きんしされていると認識にんしきしていたり[427]投降とうこうすることによって自分じぶん内地ないち家族かぞく社会しゃかいてき迫害はくがいこうむるといった懸念けねんから[428]戦闘せんとう大勢おおぜいけっしても他国たこく軍隊ぐんたいことなり安易あんい捕虜ほりょとなることはなく餓死がしすることもおおかった。さらに太平洋戦争たいへいようせんそう戦場せんじょうとなった南方みなかた地域ちいきには、マラリアデング熱でんぐねつといった感染かんせんしょう蔓延まんえんしており、飢餓きが体力たいりょくよわったおおくの日本にっぽんぐん兵士へいし感染かんせんしょうによって病死びょうしし、戦没せんぼつしゃすう激増げきぞうさせる要因よういんともなった[429]

日本にっぽんぐんがもっとも戦没せんぼつしゃしたフィリピンのたたかい (1944-1945ねん)において、厚生省こうせいしょう統計とうけいによれば、陸海りくかいぐん軍人ぐんじん軍属ぐんぞく486,600にん戦後せんご死亡しぼうした12,000にんのぞく)の戦没せんぼつしゃのうち[10]陸上りくじょう自衛隊じえいたい衛生えいせい学校がっこう研究けんきゅうでは65%が餓死がし病死びょうししゃであり、のこりの35%のやく17まんにん直接ちょくせつ戦闘せんとう行為こういでの戦死せんししゃであると指摘してきしている[426]。また、戦後せんごにアメリカぐんから尋問じんもんけた参謀さんぼう本部ほんぶだい2部長ぶちょう有末ありすえ精三せいぞう中将ちゅうじょうが「7~8わりが(餓死がし病気びょうきでしたとおもう。マラリアびょう栄養失調えいようしっちょうである」とこたえていることから[430]餓死がし病死びょうししゃは80%にものぼり、戦闘せんとうによる戦死せんししゃはわずか20%のやく10まんにんであったとの推計すいけいもある[431]一方いっぽうで、フィリピン作戦さくせんにおいて、アメリカ陸海りくかいぐん戦死せんし傷者しょうしゃは78,824にん[432][433][434]フィリピン正規せいきぐん(ユサッフェ)戦死せんししゃ57,000にん戦傷せんしょうしゃ不明ふめい[435]、フクバラハップなどのゲリラも正確せいかく数字すうじ不明ふめいながら日本にっぽんぐん戦闘せんとう多数たすう死傷ししょうしゃしており、日本にっぽんぐん連合れんごうぐん直接ちょくせつ戦闘せんとうキルレシオではおおきなはないが、大量たいりょう餓死がし病死びょうししゃ日本にっぽんぐん戦没せんぼつしゃすうげていた。

この傾向けいこう連合れんごうぐん侵攻しんこう目標もくひょうから除外じょがいされて太平洋たいへいようじょう孤立こりつした離島りとう守備しゅびたい顕著けんちょあらわれ、補給ほきゅう脱出だっしゅつ困難こんなん絶海ぜっかい孤島ことう孤立こりつした日本にっぽんぐん守備しゅびたいは、連合れんごうぐんからの幾度いくどもの降伏ごうぶく勧告かんこく拒絶きょぜつたたかうこともなく餓死がししゃしていった。とくメレヨンとうにおいては、守備しゅびたい6426にん陸軍りくぐん3205にん海軍かいぐん3221にんちゅう戦没せんぼつしゃは4800にんであったが、連合れんごうぐんばくげきなど戦闘せんとう行為こうい戦没せんぼつしたのは307にんぎず、のこりの4493にん餓死がしもしくは病死びょうしじつ戦没せんぼつしゃめる割合わりあいは90%以上いじょうとなっており「たたかわずして玉砕ぎょくさいした悲劇ひげきしま」などともばれることとなった[436]。このように、戦没せんぼつしゃなかめる餓死がししゃ病死びょうししゃ比率ひりつ非常ひじょうたかくなっており、230まんにん軍人ぐんじん軍属ぐんぞく戦没せんぼつしゃのうち60%の140まんにん餓死がし病死びょうしという主張しゅちょう[437]や、27%の62まんにんという主張しゅちょう[438]など推定すいていことなるものの、いずれにしても他国たこくぐんにはないたか比率ひりつであったことにはわりはない[439]

日本にっぽんへい傷病しょうびょうにより戦闘せんとう行動こうどう継続けいぞく困難こんなんになると自決じけつすることがおおく、戦没せんぼつしゃかずげる要因よういんとなった。硫黄いおうとうたたかいでの生還せいかんしゃ独立どくりつ機関きかんほうだい44中隊ちゅうたい鈴木すずき栄之助えいのすけによれば、実際じっさい戦闘せんとう戦死せんししたのは30%前後ぜんこうすくなく、のこりは60%が自決じけつ軍医ぐんい注射ちゅうしゃでの殺害さつがい要請ようせいした場合ばあいふくむ)、10%が事故死じこしおよ味方みかた兵士へいしによる殺害さつがい重症じゅうしょうしゃ捕虜ほりょにしないための殺害さつがいなど)であったとされる[404]。また戦局せんきょく悪化あっかしてくると、傷病しょうびょうへい治療ちりょうしたり安全あんぜん地域ちいき後送こうそうすることが困難こんなんとなり、「処置しょち」としょうして軍医ぐんい衛生えいせいへいうごくことができなくなった傷病しょうびょうへい殺害さつがいすることも常態じょうたいしていった[440]

連合れんごうぐん[編集へんしゅう]

戦闘せんとうちゅうのアメリカへい1,000にんたりの1にち死傷ししょうしゃすう比較ひかく[441]

太平洋たいへいよう戦線せんせん ヨーロッパ戦線せんせん
戦闘せんとう死亡しぼう 1.78にん 0.36にん
戦闘せんとう行方ゆくえ不明ふめい 0.17にん 0.06にん
戦闘せんとう負傷ふしょう 5.50にん 1.74にん
戦闘せんとう死傷ししょう合計ごうけい 7.45にん 2.16にん

アメリカぐん統計とうけいでは、戦闘せんとう期間きかんちゅうにおいて、太平洋たいへいよう戦線せんせんほうがヨーロッパ戦線せんせんより3.5ばい以上いじょう人的じんてき損失そんしつこうむっていた[442]。これは短期間たんきかんのうちに多大ただい損失そんしつこうむ敵前てきぜん上陸じょうりく作戦さくせんおおかったことにくわえて、前述ぜんじゅつとおり、戦闘せんとう大勢おおぜいけっしても投降とうこうすることなく最後さいごまでたたかうといった日本にっぽんぐん性質せいしつによるものもおおきく、アメリカぐん統計とうけいでは戦闘せんとう投降とうこうして捕虜ほりょとなった日本にっぽんへいはわずか1~3%とひく比率ひりつであった[442]

このように降伏ごうぶくせずに最後さいごまでたたかうという日本にっぽんぐん傾向けいこうたいして連合れんごうぐんは、おなじくてきであったドイツぐん比較ひかくして、日本にっぽんぐんとドイツぐん指揮しきかんはどちらも「現在げんざい兵力へいりょく任務にんむ達成たっせいしなければならない」「命令めいれいがあるまで退却たいきゃくしてはならない」「自決じけつ覚悟かくごせよ」などとする「死守ししゅ命令めいれい」を乱発らんぱつしたが、実際じっさいに「死守ししゅ命令めいれい」をまもったケースは日本にっぽんぐんほうはるかにおお[443]、ドイツぐん部隊ぶたい崩壊ほうかいすると大量たいりょう兵士へいし降伏ごうぶくのこりはすみやかに敗走はいそうするため、連合れんごうぐんさきあらそってきゅう進撃しんげきだい勝利しょうりたのにたいし、日本にっぽんぐんは、退却たいきゃくするにしてもじわじわと退しりぞき、さらにドイツへいとはことなり日本にっぽんへいはほとんど降伏ごうぶくすることがなかったので、連合れんごうぐん延々えんえんつづたたかいをいられていたなどと評価ひょうかしている[444]

前述ぜんじゅつとおり、補給ほきゅうなんくるしみ大量たいりょう餓死がし病死びょうししゃしてきた日本にっぽんぐんも、皮肉ひにくにも戦場せんじょう硫黄いおうとう沖縄おきなわ本土ほんどちかづくにつれて補給ほきゅうせんみじかくなって十分じゅうぶん補給ほきゅうけられるようになった。沖縄おきなわせんにおける日本にっぽんぐん補給ほきゅうじょうきょうたいしてアメリカぐんは「てき装備そうび良好りょうこう補給ほきゅう十分じゅうぶんであり、精緻せいち洞窟どうくつ陣地じんち種々しゅじゅ補給ほきゅうひんあつめるのに有効ゆうこうであった。」と分析ぶんせきしていた[445]十分じゅうぶん装備そうび食料しょくりょう補給ほきゅうされていた沖縄おきなわ日本にっぽんぐん激烈げきれつ抵抗ていこうしめし、アメリカぐん人的じんてき損失そんしつそう司令しれいかんのバックナーをふくめてじつ投入とうにゅう兵力へいりょくの39%という高水準こうすいじゅんたっしたため[309]太平洋たいへいよう方面ほうめんそう司令しれいかんニミッツは「日本にっぽんへい準備じゅんびされた防御ぼうぎょ陣地じんち布陣ふじんし、十分じゅうぶん補給ほきゅうけられるところでは、日本にっぽんぐんが、ぐんのもっとも優秀ゆうしゅう部隊ぶたいが、従来じゅうらいられなかった航空こうくう支援しえんかんほう射撃しゃげきおよ強力きょうりょく砲兵ほうへい支援しえんのもとに攻撃こうげきしても、遅々ちちたる前進ぜんしんしかゆるさないような、強力きょうりょく戦闘せんとうりょく発揮はっきすることが実戦じっせん証明しょうめいされた。」「日本にっぽんぐん部隊ぶたいはこれまで、まとまったかず投降とうこうしたことはなく、ぐん多数たすう死傷ししょうしゃすことなく、日本にっぽんぐん部隊ぶたい撃破げきはすることができない。」と十分じゅうぶん補給ほきゅうけている日本にっぽんぐん相手あいて死傷ししょうしゃ増加ぞうかなげいていた[446]

また、陸上りくじょうでのたたかいが中心ちゅうしんであったヨーロッパ戦線せんせん比較ひかくすると、太平洋たいへいよう戦線せんせん戦場せんじょうおおくが海上かいじょうとなり、アメリカへい戦死せんし傷者しょうしゃのなかの戦死せんししゃめる割合わりあいたかく、とく陸軍りくぐん航空こうくうたい海軍かいぐんにその傾向けいこう顕著けんちょであった。アメリカ海軍かいぐん太平洋たいへいようでの戦闘せんとうにおける死傷ししょうしゃ62,858にんのうち、31,157にん戦死せんししゃ戦死せんししゃめる割合わりあいは50%であり、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうたい戦闘せんとうにおける24,230にん死傷ししょうしゃのうち、戦死せんししゃが15,694にん割合わりあいは65%と非常ひじょうたかくなっている[447]。これは、ドイツ本土ほんど空襲くうしゅうだい損害そんがいこうむったアメリカだい8空軍くうぐん戦闘せんとうにおける死傷ししょうしゃ47,483にんのうち、戦死せんししゃ26,000にん戦死せんししゃめる割合わりあい54%と比較ひかくすると10%以上いじょうたかくなっている[448]

シーレーンをめぐるたたかいと民間みんかん船員せんいん犠牲ぎせい[編集へんしゅう]

日本にっぽんにちちゅう戦争せんそう国家こっか総動員そうどういんほう制定せいていして国家こっかそう力戦りきせん戦時せんじ体制たいせい突入とつにゅうしていた。太平洋戦争たいへいようせんそうでは、漁船ぎょせん特設とくせつ監視かんしていとして、商船しょうせん客船きゃくせん上陸じょうりく作戦さくせん前線ぜんせんへの補給ほきゅう南方なんぽうなどからの資源しげん輸送ゆそうよう徴用ちょうようふねとして動員どういんした。べいぐん開戦かいせん直後ちょくごから潜水せんすいかんなどで通商つうしょう破壊はかいせん展開てんかいしたのにたいして、日本にっぽん海軍かいぐんてき海軍かいぐんとの決戦けっせん偏重へんちょうし、兵站へいたん海上かいじょう護衛ごえい軽視けいししたまま各地かくち派兵はへいし、ひろがったシーレーンを十分じゅうぶんまもれなかった[449](「海上かいじょう護衛ごえいそう司令しれい参照さんしょう)。日本にっぽん民間みんかん船員せんいん犠牲ぎせいしゃは35,000 - 46,000にん死亡しぼうりつ49%)と推計すいけいされている[47]、30,592(100トン以上いじょうはがねせい商船しょうせん乗組のりくみぶん)、60,609にん総数そうすう[450]日本にっぽん列島れっとう周辺しゅうへん戦没せんぼつしたふねおおいが、現在げんざい外国がいこくになっている海域かいいき民間みんかんせん海軍かいぐん艦艇かんてい合計ごうけい2290せきしずみ、やく30まんにん遺骨いこつうみねむっているとみられる。日本にっぽん政府せいふ回収かいしゅうぶん水葬すいそうあつかいとしてきたが、トラックとうなどダイビング[よう曖昧あいまい回避かいひ]られる海底かいていにある沈没ちんぼつせんもあり、戦没せんぼつしゃ遺骨いこつ収集しゅうしゅう推進すいしんほう(2016ねん制定せいてい)にもとづき収容しゅうようすすめると報道ほうどうされている[451]

戦時せんじ日本にっぽんでの経済けいざい国民こくみん生活せいかつ[編集へんしゅう]

太平洋戦争たいへいようせんそう日本にっぽんでは兵器へいき軍需ぐんじゅ物資ぶっし生産せいさん調達ちょうたつさい優先ゆうせんされた。金属きんぞくるい回収かいしゅうれい生活せいかつ用品ようひん銅像どうぞう梵鐘ぼんしょう鋳潰いつぶされたほか、木造もくぞうせん建造けんぞうのため皇室こうしつ御料林ごりょうりんのほか、各地かくち巨木きょぼくたおすようもとめる「きょう運動うんどう」がおこなわれた[452]

戦後せんご処理しょり[編集へんしゅう]

戦争せんそう裁判さいばん[編集へんしゅう]

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん市ヶ谷いちがや法廷ほうていだい法廷ほうてい
ウィリアム・F・ウエップ裁判さいばんちょう

1946ねん5がつから1948ねんにかけて日本にっぽん戦争せんそう責任せきにん追及ついきゅうする極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)がひらかれ、開戦かいせんいた時期じき日本にっぽん指導しどうしゃらが連合れんごうこくにより戦争せんそう犯罪はんざいじん戦犯せんぱん)としてさばかれた。なお、昭和しょうわ天皇てんのう裁判さいばんまぬかれたほか、指導しどうしゃであっても起訴きそとなったものもあった。また、フィリピンや中華民国ちゅうかみんこくなどで「通例つうれい戦争せんそう犯罪はんざい」(Bきゅう戦争せんそう犯罪はんざい)と「人道じんどうたいするつみ」(Cきゅう戦争せんそう犯罪はんざい)をさばいたBCきゅう戦犯せんぱん裁判さいばんおこなわれた[453]

占領せんりょう政策せいさく戦後せんご処理しょり問題もんだい[編集へんしゅう]

戦後せんご日本にっぽん前述ぜんじゅつしたとおり連合れんごうこく各国かっこく軍隊ぐんたいによって構成こうせいされるGHQによって占領せんりょうされることとなった。名目めいもくじょう占領せんりょうぐん日本にっぽん交戦こうせん降伏ごうぶく文書ぶんしょ受諾じゅだくした連合れんごう国軍こくぐんとされたが、実際じっさいにはだい部分ぶぶんめるアメリカぐんによる単独たんどく占領せんりょうちかかたちとなり、ほかにもイギリスぐん当時とうじイギリスの植民しょくみんだったオーストラリアやインド、カナダ、ニュージーランドなどのぐん占領せんりょうぐんくわわっている。なお、アメリカやイギリス以外いがいくに占領せんりょうぐんおおきな役割やくわりたすことはあまりなく、冷戦れいせんでアメリカと対立たいりつしたソ連それん戦後せんご国家こっかなおしや復興ふっこういそがしかったフランス、国共こっきょう内戦ないせんでそれどころではなかった中国ちゅうごくなどは、駐在ちゅうざい武官ぶかん派遣はけんするにとどまった。またそのことが、のちの冷戦れいせん日本にっぽん西側にしがわ諸国しょこく一因いちいんとなる要因よういんひとつになったとされる。

GHQは民主みんしゅ政策せいさくすすめるとともに、国力こくりょくぎ、日本にっぽん二度にど脅威きょういとなる存在そんざいにならないよう、「日本にっぽん占領せんりょうおよ管理かんりのための連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんたいする降伏ごうぶくにおける初期しょき基本きほんてき指令しれい[454]沿って、だい規模きぼ国家こっか改造かいぞう実施じっしした。大日本帝国だいにっぽんていこく国家こっか体制たいせい国体こくたい)を解体かいたいしたうえで、あらたに連合れんごうこくとくに、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく)の庇護ひごしたでの国家こっか体制たいせい戦後せんご体制たいせい)を確立かくりつするために、治安ちあん維持いじほう廃止はいし日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていおこなった。また、内務省ないむしょう廃止はいし財閥ざいばつ解体かいたい農地のうち改革かいかくなど矢継やつばや民主みんしゅ政策せいさく実施じっしした。並行へいこうして日本人にっぽんじん意識いしき改革かいかくのため、言論げんろんきびしく統制とうせいプレスコードなど)されるとともに、教科書きょうかしょやラジオ(ラジオ放送ほうそう眞相しんそうはかうだ』ひとし)などのメディアをつうじ、情報じょうほう誘導ゆうどうによる民主みんしゅ政策せいさく実施じっしされた。江藤えとうあつしは、プレスコードをともなったことを、GHQの政策せいさく日本にっぽん戦犯せんぱんしゃとしての意識いしきけるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムだと主張しゅちょうしているが[455]はたいくは「たしてそんなだいそれたものか」「江藤えとう論調ろんちょう必然ひつぜんてき反米はんべい思想しそうきつく」と否定ひていしている[456]

1951ねん9月8にち調印ちょういんされたサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく1952ねん4がつ28にち発効はっこう)により、GHQは廃止はいしされ、戦後せんご処理しょり終了しゅうりょうした。

ソ連それんぐんべいぐん日本にっぽんりょうだった朝鮮半島ちょうせんはんとう分割ぶんかつ占領せんりょうし、朝鮮ちょうせんじん自身じしんによる朝鮮ちょうせん人民じんみん共和きょうわこく建国けんこくみとめず、解体かいたいめいじて弾圧だんあつおこなった。1948ねん8がつ13にち大韓民国だいかんみんこく独立どくりつ同年どうねん9月9にち朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく独立どくりつをもって朝鮮ちょうせん民族みんぞく南北なんぼくかれて独立どくりつしたが、南北なんぼく分離ぶんり独立どくりつみとめない勢力せいりょくもあり、済州さいしゅうとうよんさん事件じけんなどのだい規模きぼ死者ししゃともな蜂起ほうき騒乱そうらん発生はっせい朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつして南北なんぼく分断ぶんだん確定かくていした。

日本人にっぽんじんげと復員ふくいん[編集へんしゅう]

連合れんごうこく降伏ごうぶく予告よこくした1945ねん8がつ14にち当時とうじ中国ちゅうごく大陸たいりく東南とうなんアジア太平洋たいへいよう島々しまじまなど、当時とうじ日本にっぽん統治とうちまたは支配しはいしていた「外地がいち」には軍人ぐんじん軍属ぐんぞく民間みんかんじんわせ660まん日本人にっぽんじん当時とうじ日本にっぽんそう人口じんこうやく9%)がのこされていた。日本にっぽん政府せいふ外地がいち邦人ほうじんれのために準備じゅんびをしたが、船舶せんぱく食糧しょくりょう衣料いりょうひんなどが不足ふそく用意よういすることが困難こんなんだったため、連合れんごうぐんとくにアメリカぐん)の援助えんじょけてすすめられた。しかし不十分ふじゅうぶん食糧しょくりょう事情じじょうによる病気びょうきや、日本にっぽん支配しはいからだっした現地げんち住民じゅうみんによる報復ほうふく当事とうじこく方針ほうしんによって難航なんこうした地域ちいきおおく、中国ちゅうごく東北とうほくきゅうまんしゅう)では、やむを幼児ようじ中国人ちゅうごくじんたくした親達おやたちおおかった(中国ちゅうごく残留ざんりゅう日本人にっぽんじん)。ソ連それん継承けいしょうこくであるロシア連邦れんぽうのロシア国立こくりつ軍事ぐんじ公文書こうぶんしょかん資料しりょうによると、ソ連それんまんしゅう樺太からふとなどから日本にっぽんぐん将兵しょうへい民間みんかんじんやく76まんにんソ連それん各地かくち強制きょうせい連行れんこうし、やく2000ヶ所かしょ収容しゅうようしょなどで強制きょうせい労働ろうどうした[457]シベリア抑留よくりゅう[458]

軍役ぐんえきしゃ復員ふくいん業務ぎょうむ軍隊ぐんたい解体かいたい残務ざんむ処理しょり所管しょかんさせるため、1945ねん11月に陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう改組かいそしただいいち復員ふくいんしょうだい復員ふくいんしょう設置せっちされた。民間みんかんじん業務ぎょうむについては、厚生省こうせいしょう所管しょかんした[ちゅう 23]

政府せいふは1945ねん9がつ28にちにまず、舞鶴まいづる[ちゅう 24]横浜よこはま浦賀うらが仙崎せんざき下関しものせき門司もじ博多はかた佐世保させぼ鹿児島かごしまみなととして指定していした。10月7にち朝鮮半島ちょうせんはんとう釜山ぷさんからのだい1せん雲仙うんぜんまる」(陸軍りくぐん復員ふくいん軍人ぐんじん)が舞鶴まいづる入港にゅうこうしたのをはじめに、その函館はこだて名古屋なごや唐津からつ大竹おおたけ田辺たなべなどでも、しゃれがおこなわれた。1946ねんからはNHKラジオで『たずびと時間じかん』が放送ほうそうされた(1962ねんまで)

げと復員ふくいんしゃすう[459](【注意ちゅうい以下いか数値すうち上陸じょうりくみなとにおいて手続てつづきをおこなったひとのみを計上けいじょうしたもの)
国籍こくせき 軍人ぐんじん 民間みんかんじん
きゅうソ連それんりょう(シベリアなど) 45まん3787 1まん9165
まんしゅう 4まん1916 100まん3609
北朝鮮きたちょうせんソ連それん占領せんりょう 2まん5391 29まん7194
韓国かんこく(アメリカ占領せんりょう 18まん1209 41まん6110
琉球りゅうきゅう諸島しょとう沖縄おきなわなど) 5まん7364 1まん2052
本土ほんど近隣きんりん諸島しょとう硫黄いおうとうなど) 6まん7000 2382
中国ちゅうごく香港ほんこんふくむ) 106まん9662 71まん7009
台湾たいわん 15まん7388 32まん2156
フランスりょうインドシナ 2まん8710 3593
東南とうなんアジア 65まん5330 5まん6177
オランダりょうひがしインド 1まん4129 1464
オーストラリア 13まん398 8445
ニュージーランド 391 406
太平洋たいへいよう諸島しょとう 10まん3462 2まん7506
ハワイ諸島しょとう 3349 310

戦争せんそう賠償ばいしょう戦後せんご補償ほしょう[編集へんしゅう]

戦勝せんしょうこくたいする賠償ばいしょう戦後せんご関係かんけい[編集へんしゅう]

中華民国ちゅうかみんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうでは中国ちゅうごく大陸たいりくにおいて中華民国ちゅうかみんこくぐん日本にっぽんぐんあいだはげしい攻防こうぼうせんおこなわれ、大量たいりょう犠牲ぎせいしゃした。ただしにちちゅうあいだでは認識にんしき相違そうい存在そんざいしている[460]

太平洋戦争たいへいようせんそうわると、中華民国ちゅうかみんこくひきいていた蔣介せき中国ちゅうごく国民党こくみんとうと、毛沢東もうたくとうひきいる中国共産党ちゅうごくきょうさんとうあいだ国共こっきょう内戦ないせん勃発ぼっぱつした。1949ねんには中国共産党ちゅうごくきょうさんとう勝利しょうりして中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく大陸たいりく樹立じゅりつし、敗北はいぼくした国民党こくみんとう台湾たいわんのがれた。1952ねん主権しゅけん回復かいふくした日本国にっぽんこく政府せいふは、中華民国ちゅうかみんこくを「中国ちゅうごく代表だいひょうする政府せいふ」として承認しょうにんし、ただちに賠償ばいしょう問題もんだい討議とうぎおこなったが、中華民国ちゅうかみんこく賠償ばいしょう放棄ほうきした。その1972ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくしゅう恩来おんらい首相しゅしょう日本にっぽんこく田中たなか角栄かくえい首相しゅしょう会談かいだんし、日本にっぽん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくを「中国ちゅうごく代表だいひょうする政府せいふ」として承認しょうにんし、中華民国ちゅうかみんこく断交だんこうした。この会談かいだんにおいて中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくがわ中華民国ちゅうかみんこく同様どうよう賠償ばいしょう問題もんだい全面ぜんめんてき棚上たなあげし、にちちゅう共同きょうどう声明せいめいによって賠償ばいしょう放棄ほうき宣言せんげんされた。日本にっぽんこく1979ねんから中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくたいってきたODA総額そうがくは、2005ねんまでに3ちょうえん[461]近年きんねんまで年間ねんかん1000おくえん資金しきん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく援助えんじょされていた。

オランダ[編集へんしゅう]

オランダは、1942ねん日本にっぽんぐんによるひがしインド(らんしるし攻略こうりゃくによって、同地どうちなが植民しょくみんとして支配しはいつづけたらんしるしぐん66,219めい連合れんごうぐん82,618めい)が捕虜ほりょとされたほか、民間みんかんじん9まんにんあまりらえられ、かれらがひがしインド住民じゅうみん懲罰ちょうばつするためにもうけた監獄かんごく収容しゅうようされるという屈辱くつじょくあじわった。なおオランダじん兵士へいし一部いちぶ長崎ながさき捕虜ほりょ収容しゅうようしょ収容しゅうようされ、そこで被爆ひばくした。また、日本にっぽんぐんがオランダじん女性じょせい強制きょうせい連行れんこうして慰安いあんにした白馬しろうま事件じけんこった。

  • 国家こっか補償ほしょうもと捕虜ほりょ民間みんかんじんへの見舞みまいきん支払しはらい・36おくえん/昭和しょうわ31ねん1956ねんにちらん議定ぎていしょ
  • 個人こじん補償ほしょう:2おく5500まんえん/平成へいせい13ねん2001ねんつぐな事業じぎょう1)

終戦しゅうせんオランダは、捕虜ほりょ虐待ぎゃくたいなどの真偽しんぎ不明瞭ふめいりょう容疑ようぎで、おおくの日本にっぽん軍人ぐんじんBCきゅう戦犯せんぱんとして処罰しょばつした(連合れんごうこくちゅうもっとおおい226にん日本人にっぽんじん処刑しょけい)。戦後せんごもなくのオランダは、ドイツぐん侵略しんりゃくによって社会しゃかい疲弊ひへいしていた。さらにインドネシア独立どくりつ戦争せんそう敗北はいぼく最大さいだい植民しょくみんだったひがしインドをうしない、経済けいざい打撃だげきけた。このことから、インドネシア独立どくりつ要因よういんつくった日本にっぽんと、独立どくりつ戦争せんそう指導しどうにあたった残留ざんりゅう日本にっぽんへいたいする評価ひょうかくわわり、不信ふしんかんながらくのこった。1971ねんに、昭和しょうわ天皇てんのうおとずれらんしたさいにはたまごげつけられ、1986ねんにはベアトリクス女王じょおう訪日ほうにち計画けいかくがオランダ世論せろん反発はんぱつけて中止ちゅうしされた。その1991ねん来日らいにちした女王じょおう講和こうわ条約じょうやくにちらん議定ぎていしょ賠償ばいしょう問題もんだい法的ほうてきには国家こっかあいだにおいて解決かいけつされているにもかかわらず、宮中きゅうちゅう晩餐ばんさんかいで「日本にっぽんのオランダじん捕虜ほりょ問題もんだいは、おくにではあまりられていない歴史れきしいちしょうです」と賠償ばいしょう要求ようきゅうした。それにたいして日本にっぽん政府せいふは、アジア女性じょせい基金ききんにより総額そうがく2おく5500まんえん医療いりょう福祉ふくし支援しえん個人こじんたいして実施じっしした。2007ねんにはオランダ下院かいん日本にっぽんたいもと慰安いあんへの謝罪しゃざい補償ほしょうもとめる決議けつぎがなされた。2008ねん訪日ほうにちしたマキシム・フェルハーヘン外相がいしょうは「法的ほうてきには解決かいけつみだが被害ひがいしゃ感情かんじょうつよく、60ねん以上いじょうたったいま戦争せんそうきず生々なまなましい。オランダ議会ぎかい政府せいふ日本にっぽん当局とうきょく追加ついかてき意思いし表示ひょうじもとめる」とべた。

なお、サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつに、オランダの植民しょくみんであったひがしインドにたいする日本にっぽん侵攻しんこうたいして「被害ひがいしゃ」の立場たちばをとり、賠償ばいしょう責任せきにんわくえて日本にっぽん個人こじん賠償ばいしょう請求せいきゅうしたオランダにたいして、インドネシア政府せいふは「インドネシアにたいしての植民しょくみん支配しはいにはなん反省はんせいもしていない」と批判ひはんした[462]

戦災せんさいこくたいする補償ほしょう戦後せんご関係かんけい[編集へんしゅう]

日本にっぽん1952ねん4がつ28にちサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくにより、日本にっぽん太平洋戦争たいへいようせんそうあたえた被害ひがいについて、日本にっぽん経済けいざい存立そんりつ可能かのう範囲はんいこくごとに賠償ばいしょうをする責任せきにんった。この賠償ばいしょう無償むしょう援助えんじょ)は、各国かっこく協力きょうりょくもとづく日本にっぽん復興ふっこうなくしては実現じつげんしなかった。またこのことは同時どうじ東南とうなんアジアへの経済けいざい進出しんしゅつへの糸口いとぐちとなり、日本にっぽん成長せいちょう助長じょちょうする転機てんきとなるととも植民しょくみん支配しはいをしたくになか唯一ゆいいつ植民しょくみんされたくにたい謝罪しゃざいしめすこととなり、結果けっかてきにアジア諸国しょこくとのその外交がいこう関係かんけい寄与きよすることになった。

サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく14じょうもとづき、賠償ばいしょうもとめるくに日本にっぽん賠償ばいしょう希望きぼう意思いししめし、交渉こうしょう長期ちょうき分割ぶんかつ賠償金ばいしょうきん支給しきゅうしたり、無償むしょう日本にっぽん製品せいひん提供ていきょうや、技術ぎじゅつ労働ろうどうりょくなどの経済けいざい協力きょうりょく支援しえんおこなったりした。ほかにも貸付かしつけ方式ほうしきによる有償ゆうしょう援助えんじょもあった。

補償ほしょうもとめた国家こっか補償ほしょうがく[編集へんしゅう]

カッコない国交こっこう回復かいふくいたった条約じょうやく発効はっこうねん
くに 条件じょうけん 金額きんがく とし
モンゴル人民じんみん共和きょうわこく 無償むしょう 50おくえん 1972ねん
大韓民国だいかんみんこく 無償むしょう 1080おくえん 1965ねん
フィリピン 賠償ばいしょう 1980おくえん 1956ねん
ベトナム 賠償ばいしょう 140おくえん 1959ねん
ラオス 無償むしょう 10おくえん 1959ねん
タイ 無償むしょう 96おくえん 1962ねん
カンボジア 無償むしょう 15おくえん 1959ねん
ビルマ(ミャンマー) 賠償ばいしょう 720おくえん 1955ねん
マレーシア 無償むしょう 29おくえん 1968ねん
シンガポール 無償むしょう 29おくえん 1968ねん
インドネシア 無償むしょう 803おくえん 1958ねん
ミクロネシア 無償むしょう 18おくえん 1969ねん

領土りょうど返還へんかん領土りょうど問題もんだい[編集へんしゅう]

戦後せんご沖縄おきなわ奄美あまみ群島ぐんとう小笠原諸島おがさわらしょとうトカラ列島れっとう日本にっぽん本土ほんどからはなされアメリカ統治とうちかれた。講和こうわ条約じょうやく小笠原諸島おがさわらしょとう1968ねんに、沖縄おきなわ1972ねんにアメリカ施設しせつから日本にっぽん復帰ふっきした一方いっぽうで、ソ連それん占領せんりょうした北方領土ほっぽうりょうどは、2021ねん現在げんざいでも、北方領土ほっぽうりょうどソ連それんから事実じじつじょう支配しはいしているロシア連邦れんぽう日本にっぽんこく意見いけんちがい、政治せいじ問題もんだいとして棚上たなあげされ、解決かいけつしていない(北方領土ほっぽうりょうど問題もんだい)。

戦後せんご世界せかいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

太平洋たいへいよう欧州おうしゅうにおいてひろげられたぜん世界せかい規模きぼ消耗しょうもうせん世界せかい経済けいざいおおきな打撃だげきあたえた。国際こくさい機構きこうとして国際こくさい連合れんごう組織そしきされた。

  • 日本にっぽん敗戦はいせんこくであることにくわえ、飢饉ききんこり、終戦しゅうせん直後ちょくご混乱こんらんきわめた[463]戦後せんご日本にっぽんは、徐々じょじょ経済けいざい社会しゃかい復興ふっこう実現じつげんし、さらには高度こうど経済けいざい成長せいちょうたし、奇跡きせきともしょうされた。しかし、太平洋戦争たいへいようせんそう評価ひょうかについては、日本にっぽん国民こくみんあいだでもさだまっておらず、様々さまざまろん並存へいそんしている。
  • 東南とうなんアジアにおいては大戦たいせんによる欧州おうしゅう諸国しょこく日本にっぽん国力こくりょく低下ていかや、太平洋戦争たいへいようせんそうによる経験けいけんつう独立どくりつ運動うんどうたかまり、終戦しゅうせん直後ちょくごより各地かくち独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつべい冷戦れいせん舞台ぶたいとなったこともありだい航海こうかい時代じだい以来いらい欧州おうしゅうによる植民しょくみん支配しはい帝国ていこく主義しゅぎ)が崩壊ほうかいする転機てんきとなった(一方いっぽうソ連それんがた共産きょうさん主義しゅぎやアメリカがた資本しほん主義しゅぎ浸透しんとうしている)。
  • 台湾たいわんでは、空襲くうしゅうはあったものの地上ちじょうせんがなかったため、地域ちいきくらげがもとたかしみなとより比較的ひかくてき平和へいわおこなわれた。が、その当初とうしょ日本にっぽん統治とうちわって歓迎かんげいされた、国共こっきょう内戦ないせんやぶれた蔣介せき国民党こくみんとう政府せいふにより、はち事件じけんからはじまる戒厳かいげんれいかれることにより、統制とうせい時期じきむかえることになる。
  • 朝鮮半島ちょうせんはんとうにおいては、日本にっぽん敗戦はいせんともな在留ざいりゅう日本人にっぽんじん釜山ぷさんこうからのはじまる。アメリカのうしたてけた承晩しょうばんがアメリカ占領せんりょう地域ちいき大韓民国だいかんみんこく韓国かんこく)の成立せいりつ宣言せんげんすると、ソ連それんからもどったきむ日成いるそんソ連それん占領せんりょう地域ちいき朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)の成立せいりつ宣言せんげんし、やがて北朝鮮きたちょうせんぐん韓国かんこくへの侵攻しんこう発端ほったんとする朝鮮ちょうせん戦争せんそうが1950ねんより3ねんにわたっておこなわれ、南北朝鮮なんぼくちょうせん分裂ぶんれつ長期ちょうきすることとなる。
  • 中国ちゅうごくでは日本にっぽんぐん将兵しょうへい国共こっきょう内戦ないせんくわわるなどして、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふしろだん)や中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん東北とうほく民主みんしゅれんぐん航空こうくう学校がっこう)の近代きんだい貢献こうけんした。
  • インドにおいてはとくインパール作戦さくせんからなるにちえいたたかいはインドに独立どくりつ可能かのうせいあたえ、1947ねんガンディーにより独立どくりつたす。なお東京とうきょう裁判さいばんにおいてインド出身しゅっしんパール判事はんじ司法しほう基本きほん原則げんそくであるほう遡及そきゅうなどの擁護ようごのために日本にっぽん無罪むざい主張しゅちょうしたが、一方いっぽう日本にっぽんぐんによる南京なんきん虐殺ぎゃくさつ非難ひなんしている。
  • アメリカにおいては、日本にっぽん勝利しょうりしたのち軍需ぐんじゅ産業さんぎょう活発かっぱつはじまり、そのまま国共こっきょう内戦ないせん激化げきか冷戦れいせんによる朝鮮ちょうせん、ベトナムでの赤化せっかそもそもえとちょう大国たいこくへと変貌へんぼうしていく。
  • かつて宗主そうしゅこくだった西欧せいおう諸国しょこくにおいては、日本にっぽん降伏ごうぶくふたたびアジアの植民しょくみん支配しはいつづけようとしたものの、かつてない現地げんち住民じゅうみん猛烈もうれつ抗議こうぎ独立どくりつ運動うんどうい、アジアの植民しょくみんをことごとくうしなう(アジア諸国しょこく独立どくりつ結果けっかとなった。そのため欧米おうべい歴史れきし認識にんしきでも、だい世界せかい大戦たいせんさかいだつ植民しょくみんうごきが加速かそくした[464]との総括そうかつがなされている。ただし、日本人にっぽんじん一部いちぶ中国ちゅうごく植民しょくみんあつかう、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく統治とうちチベット新疆しんきょうウイグル自治じちは、中国ちゅうごく日本にっぽんとの主要しゅよう交戦こうせんこくだったにもかかわらず、現在げんざいいたっても独立どくりつはしていない。

戦争せんそう評価ひょうか[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおける評価ひょうか[編集へんしゅう]

太平洋戦争たいへいようせんそう原因げんいん評価ひょうかについては様々さまざま見解けんかい評価ひょうかがある。

  1. 欧米おうべい帝国ていこく主義しゅぎしゃおなじくアジア征服せいふくたくらんだとする見方みかた
  2. ABCD包囲ほういもうハル・ノートなどによって日本にっぽんいつめられた結果けっか自衛じえい戦争せんそうであったという見方みかた
  3. 自衛じえい戦争せんそう侵略しんりゃく戦争せんそう両面りょうめんつとする見方みかた
  4. 存在そんざい意義いぎ必要ひつようとした陸海りくかいぐん暴走ぼうそうという見方みかた
  5. ナチス・ドイツの攻勢こうせい空白くうはく地帯ちたいとなった欧米おうべい植民しょくみんねらったとする見方みかた
  6. 米国べいこく日本にっぽん石油せきゆ物資ぶっし販売はんばいしながら、中華民国ちゅうかみんこくにも強力きょうりょく援助えんじょ継続けいぞくしており、にち中共ちゅうきょう米国べいこく対立たいりつして戦争せんそう継続けいぞくするのは最初さいしょから困難こんなんであった。米国べいこくにちちゅうたいして決定的けっていてき影響えいきょうりょく開戦かいせんまえからっていたため、太平洋戦争たいへいようせんそう米国べいこく日本にっぽん中国ちゅうごく双方そうほう弱体じゃくたいさせるさくであったとの見方みかた
  7. ルーズベルト米国べいこく大統領だいとうりょうによる策略さくりゃく陰謀いんぼう)とする見方みかた[465]
  8. 自衛じえい戦争せんそう解放かいほう戦争せんそう両方りょうほうつとする見方みかた

日本にっぽん陸海りくかいぐん戦闘せんとう反省はんせいとしては、シーレーン確保かくほ補給ほきゅう護衛ごえいという観念かんねん不足ふそく複雑ふくざつ階級かいきゅうけ、指揮しき制度せいど見直みなおしが不十分ふじゅうぶんだったという見方みかたもある[47]

欧米おうべいにおける評価ひょうか[編集へんしゅう]

欧米おうべいにおいても、この戦争せんそうについては様々さまざま見解けんかい存在そんざいする。著名ちょめいSF作家さっかであり歴史れきし研究けんきゅうでもあったH・G・ウェルズは、日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎ伝統でんとうをもち、中国ちゅうごくへのもっと主要しゅよう侵略しんりゃくこくとしている。そして、アジアにおけるはんヨーロッパ思想しそう中心ちゅうしんとして日本にっぽん位置いちづけ、ナチス陰謀いんぼうよりも深刻しんこく明白めいはく、かつ遠大えんだいろんじた[466]歴史れきしアーノルド・J・トインビーは、太平洋たいへいよう問題もんだい調査ちょうさかい来日らいにちしたさい公開こうかい講演こうえんにおいて、日本にっぽんカルタゴ運命うんめいわだちまないようにといた[467]戦後せんごは、アジアとアフリカを支配しはいしてきた西洋せいようじん過去かこ200ねんあいだしんじられてきたような不敗ふはいかみではないことを西洋せいようじん以外いがい人種じんしゅあきらかにしたとべた[468]。そして、にちしん戦争せんそうから太平洋戦争たいへいようせんそうまでの日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎ国家こっか主義しゅぎ主軸しゅじくにしていたと指摘してきし、日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい9じょう歴史れきしてき課題かだいたいする英断えいだんとして評価ひょうかした[467]歴史れきしクリストファー・ソーンは、日本にっぽんはナチス・ドイツとファシスト・イタリアの侵略しんりゃく加担かたんする一方いっぽうで、アジアにおけるヨーロッパ植民しょくみん終焉しゅうえんはやめる契機けいきにもなったとしている[469]

日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか正当せいとうせい問題もんだいについては、ジョン・ロールズをはじめ、その正当せいとうせい議論ぎろんされている。正当せいとうせいわれる理由りゆう根拠こんきょとして、原爆げんばく使つかわずとも都市としへの焼夷弾しょういだんばくげき機雷きらいによる海上かいじょう封鎖ふうさ日本にっぽんつぎせん能力のうりょくすでうばわれていたこと、使つかうとしても人口じんこう希薄きはく地帯ちたい投下とうかして威力いりょく理解りかいさせ降伏ごうぶくれば日本にっぽんれる以外いがい選択せんたくはほとんどなかった可能かのうせいたかいこと、がげられる。

アジアにおける評価ひょうか[編集へんしゅう]

東南とうなんアジア

太平洋戦争たいへいようせんそうにおいて西欧せいおう諸国しょこく植民しょくみん統治とうちより大日本帝国だいにっぽんていこく占領せんりょうされたマレーシア、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)や、末期まっきまで日本にっぽん同盟どうめいこくとなっていたタイ王国おうこくなどの東南とうなんアジアの歴史れきし学者がくしゃ一部いちぶは、太平洋戦争たいへいようせんそうとそれにつづソ連それん支援しえんによるアジア各地かくち独立どくりつ戦争せんそう一連いちれんながれとしてかんがえており、えいふつなどの戦勝せんしょうこく日本にっぽん戦争せんそう責任せきにん追及ついきゅうすることについて「西欧せいおうによるアジア植民しょくみん歴史れきし歪曲わいきょくすることだ」とだんじている[462]当時とうじ東南とうなんアジアにおいてタイ王国おうこく以外いがいすべての東南とうなんアジア地域ちいき西側にしがわヨーロッパやアメリカの植民しょくみんもしくは隷属れいぞくであったため(ただしフィリピンは太平洋戦争たいへいようせんそう以前いぜんにアメリカとの独立どくりつ約束やくそくされていた)太平洋戦争たいへいようせんそう人種じんしゅあいだ戦争せんそうとみる歴史れきしかん存在そんざいした。 (1) 太平洋戦争たいへいようせんそうがこれらの地域ちいき植民しょくみん支配しはいからの解放かいほう寄与きよしたとして肯定こうていてき評価ひょうかしているケース、(2) 教育きょういく政府せいふ機関きかん軍事ぐんじりょくととのえたことを肯定こうていしているケース、(3) 戦後せんごふたたびアジアを植民しょくみんしようとさい上陸じょうりくしてきたヨーロッパ宗主そうしゅこくえいふつらん)にたいして、きゅう日本にっぽんぐん残党ざんとうともたたかったことを好意こういてき評価ひょうかしているケース、(4) 日本にっぽんぐんのちたて政権せいけんについた政治せいじれい:ベトナムのバオ・ダイ)の都合つごう親日しんにちてき姿勢しせいをとったケースなど肯定こうてい歴史れきしかん様々さまざまである。

一方いっぽうでベトナム建国けんこくちちホー・チ・ミンベトナム独立どくりつ宣言せんげんべたように日本にっぽん統治とうち欧米おうべい列強れっきょうおなじ「植民しょくみん主義しゅぎ」と解釈かいしゃくする見方みかたもあり(フランスりょうインドシナは枢軸すうじくこく友好ゆうこうてきなヴィシー・フランスの海外かいがい領土りょうどであり、日本にっぽんはフランス政府せいふ植民しょくみん政庁せいちょう温存おんぞんした)、実際じっさい日本にっぽんぐん占領せんりょう地帯ちたいには現地げんち住民じゅうみんからなるおおくの抗日こうにちゲリラが存在そんざいした。またインドネシア、フィリピンなど日本にっぽんぐん過酷かこく占領せんりょう統治とうちおおくの被害ひがいしたくに戦後せんご日本にっぽん賠償ばいしょう請求せいきゅうしている。 否定ひていおも歴史れきしかんは(1)太平洋戦争たいへいようせんそう日本にっぽんによる資源しげん収奪しゅうだつ戦争せんそうだと規定きてい否定ひていてき評価ひょうかするケース、(2)日本にっぽん枢軸すうじく植民しょくみん(フランスりょうインドシナ)では白人はくじん支配しはい体制たいせい温存おんぞんしたため人種じんしゅあいだ戦争せんそうではないと評価ひょうかするケース、(3)日本にっぽんぐん占領せんりょう統治とうち過程かてい発生はっせいした強制きょうせい労働ろうどう大量たいりょう餓死がし非難ひなんするケース、(4)大戦たいせんちゅう抗日こうにちゲリラであった政治せいじ独立どくりつ主導しゅどうしたケースなどがげられる。

ベトナム

1941ねんのフランスりょうインドシナ進駐しんちゅうのさい日本にっぽんぐんはアジア解放かいほう大義たいぎめんぶんとは矛盾むじゅんするフランスの植民しょくみん統治とうち機構きこう温存おんぞんする方針ほうしん決定けっていし、インドシナは1945ねんまでにちふつじゅう支配しはいけた。にちふつ過酷かこく支配しはい搾取さくしゅによりベトナムでは餓死がししゃ200まんにんとも推計すいけいされる1945ねんベトナム飢饉ききん発生はっせいした。前述ぜんじゅつのように、ホー・チ・ミンはベトナム独立どくりつ宣言せんげんにおいて日本にっぽんぐん植民しょくみん支配しはいきびしく非難ひなんしている。

原文げんぶん
Mùa thu năm 1940, phát xít Nhật đến xâm lăng Đông Dương để mở thêm căn cứ đánh Đồng Minh, thì bọn thực dân Pháp quỳ gối đầu hàng, mở cửa nước ta rước Nhật. Từ đó dân ta chịu hai tầng xiềng xích: Pháp và Nhật. Từ đó dân ta càng cực khổ, nghèo nàn. Kết quả là cuối năm ngoái sang đầu năm nay, từ Quảng Trị đến Bắc kỳ, hơn hai triệu đồng bào ta bị chết đói. …Sự thật là từ mùa thu năm 1940, nước ta đã thành thuộc địa của Nhật, chứ không phải thuộc địa của Pháp nữa. Khi Nhật hàng Đồng minh thì nhân dân cả nước ta đã nổi dậy giành chính quyền, lập nên nước Việt Nam Dân chủ Cộng hòa.

日本語にほんごやく
1940ねんあきに、ファシスト日本にっぽん日本にっぽんファシズム)が連合れんごうこくとのたたかいにおいてあたらしい基地きち確立かくりつするためインドシナ半島いんどしなはんとう領域りょういきらしたとき、フランスの帝国ていこく主義しゅぎしゃかれらにひざげてひざまずいて、我々われわれくにかれらに手渡てわたした。このように、その日付ひづけから、我々われわれ身内みうちは、フランスじん日本人にっぽんじんじゅうくびき服従ふくじゅうした。かれらのくるしみとみじめさは増加ぞうかした。結果けっかは、昨年さくねんわりから今年ことしはじめまで、クアンチしょうからベトナム北部ほくぶいたるまで、我々われわれ仲間なかま市民しみんのうちの200まんにん飢餓きがんだ。(中略ちゅうりゃく)1940ねんあきから、我々われわれくに実際じっさいにフランスの植民しょくみんであるのをやめて、日本にっぽん所有しょゆうになった。日本人にっぽんじん連合れんごうこく降伏ごうぶくしたあと、我々われわれ全部ぜんぶ仲間なかま我々われわれ国家こっか主権しゅけん回復かいふくして、ベトナム民主みんしゅ共和きょうわこくこすため蜂起ほうきした。 真実しんじつは、我々われわれはフランスからではなく、日本にっぽんから我々われわれ独立どくりつをもぎった。

インドネシア

インドネシアでは太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせん、すぐにオランダとの独立どくりつ戦争せんそうインドネシア独立どくりつ戦争せんそう)となったが、独立どくりつには残留ざんりゅう日本にっぽんへい関与かんよしたこともあり、日本にっぽんぐん一部いちぶ兵士へいし独立どくりつ英雄えいゆうとしてたたえられた[462]他方たほう日本にっぽんぐんによる強制きょうせい労働ろうどうにより、おおくのインドネシアの若者わかもの犠牲ぎせいになった。戦後せんご賠償ばいしょう交渉こうしょうでは、インドネシア政府せいふ労務者ろうむしゃ総動員そうどういんすうを400まんにん主張しゅちょうしている[470]

ビルマ

さんじゅうにん志士ししビルマばん英語えいごばんのメンバーの一人ひとりであったバー・モウ日本にっぽんだい東亜とうあ戦争せんそうとそれにともなった欧米おうべい諸国しょこくによる植民しょくみん主義しゅぎからのアジア解放かいほう日本にっぽんぐんによる収奪しゅうだつなどの批判ひはんくわえながらも、おおむたか評価ひょうかしている。

原文げんぶん
…so much of what they did during the war in Southeast Asia, whether it was right or wrong, always appeared to be wrong to the people there.…

The case of Japan is indeed tragic. Looking at it historically, no nation has done so much to liberate Asia from white domination, yet no nation has been so misunderstood by the very peoples whom it has helped either to liberate or to set an example to in many things.Japan was betrayed by her militarists and their racial fantasies.Had her Asian instincts been true, had she only been faithful to the concept of Asia for the Asians that she herself had proclaimed at the beginning of the war, Japan's fate. would have been very different.No military defeat could then have robbed her of the trust and gratitude of half of Asia or even more, and that would have mattered a great deal in finding for her a new, great, and abiding place in a postwar world in which Asia was coming into her own.[471]

日本語にほんごやく
日本人にっぽんじんは、日本にっぽんぐん戦争せんそうちゅう東南とうなんアジアでおこなった数々かずかず行為こういいことだったかのかわるいことだったのかをわれるといつも日本にっぽんぐんわるいことをおこなったとこたえているようにわたしおもってしまう。(中略ちゅうりゃく) 日本にっぽんについては本当ほんとう悲惨ひさんてきだ。歴史れきしてきるならば、日本にっぽんほどアジアを白人はくじん支配しはいから離脱りだつさせることに貢献こうけんしたくにはない。しかしまたその解放かいほうたすけたり、あるいはおおくの事柄ことがらたいしてはんしめしてやったりしたしょ国民こくみんそのものから、日本にっぽんほど誤解ごかいけているくにはない。もし日本にっぽん武断ぶだんてき独断どくだん自惚うぬぼれを退しりぞけ、開戦かいせん当時とうじはつ一念いちねんわすれず、だい東亜とうあ宣言せんげん精神せいしん一貫いっかんし、しょう機関きかん鈴木すずき大佐たいさらの解放かいほう真心まごころ軍人ぐんじんあいだにもっとひろがっていたら、いかなる軍事ぐんじてき敗北はいぼくも、アジアの半分はんぶんいや過半数かはんすう人々ひとびとからの信頼しんらい感謝かんしゃとを日本にっぽんからうばることはできなかったであろう。日本にっぽんのためにしむのである[472]

名桜大学めいおうだいがく教授きょうじゅ (ビルマ専攻せんこう)[473]のドナルド・M・シーキンズ (DONALD M. SEEKINS) は、ビルマじん現在げんざいいたるまで自国じこく民族みんぞく対立たいりつ隣国りんごく政治せいじてき工作こうさくとらわれつづけているが、"日本にっぽんはビルマを白人はくじん支配しはいから解放かいほうしたのか"という論理ろんり不適切ふてきせつであり、しん解放かいほういまげられていないと主張しゅちょうしている。以下いか原文げんぶん参考さんこう

Against this background, the question – did the Japanese liberate Burma from colonial rule? – becomes irrelevant, since Burma remains hostage to its own history of ethnic confrontation and the manipulations of its neighbours. True national liberation, internal liberation, has not been achieved.[474]

マレーシア

民族みんぞく国家こっかマレーシアでは[ちゅう 25]太平洋戦争たいへいようせんそうについての見解けんかい多様たようである。否定ひていてき評価ひょうかとしては、1988年版ねんばん歴史れきし教科書きょうかしょの「日本にっぽんは、マレーじん解放かいほう獲得かくとくへの期待きたい裏切うらぎった。日本人にっぽんじんはマラヤを、まるで自分じぶんたちの植民しょくみんであるかのように支配しはいした。今度こんどかれらがイギリスじんうばったのだ。日本人にっぽんじん支配しはいはイギリスよりずっとひどかった」というものがあり、日本にっぽんぐんによる食糧しょくりょう独占どくせん経済けいざい政策せいさく失敗しっぱいによるインフレーション悪影響あくえいきょうについても記述きじゅつされている[475]日本にっぽんぐん統治とうち時代じだいマレーじん死亡しぼうりつ英国えいこく統治とうち時代じだいやくばいたっし、英軍えいぐんがマレーをさい占領せんりょうしたときには児童じどうの35%が貧血ひんけつで、30%がビタミン欠乏症けつぼうしょうであった[476]

肯定こうていてき評価ひょうかとしては、日本にっぽんによる統治とうちが、えいふつらんなどヨーロッパ諸国しょこくによるアジア植民しょくみん支配しはい駆逐くちくし、アジアじん自身じしん覚醒かくせいさせたとして評価ひょうかするものがある[477]とくにマレーじんあいだでは、イギリスによるなが植民しょくみん統治とうちによる愚民ぐみん政策せいさく西洋せいよう文明ぶんめい浸透しんとう文化ぶんか侵略しんりゃく)などによって、独自どくじアイデンティティー喪失そうしつしたという論調ろんちょうつよいとされる。戦争せんそう当時とうじ、マレーじん英国えいこくじんくらべてきわめてひく権利けんりしかあたえられず、いわゆる奴隷どれいであった。当時とうじのマレーけい住民じゅうみんみずからを支配しはいする存在そんざいである「白人はくじん」が無敵むてきで、絶対ぜったいてき存在そんざい[ちゅう 26]だとしんじていた。しかし、英国えいこく東洋とうよう艦隊かんたいおな東洋とうようじんである日本人にっぽんじんによって撃滅げきめつされたことや、イギリス帝国ていこく絶対ぜったい不敗ふはい神話しんわ象徴しょうちょうだったシンガポール陥落かんらくしたこと、イギリスぐん焦土しょうど作戦さくせんのため、徹底的てっていてき破壊はかいした発電はつでんしょ工場こうじょうなどの都市とし設備せつび日本人にっぽんじんがいとも簡単かんたん短期間たんきかんのうちに復旧ふっきゅうさせてみせたことなどをたりにし、おおきな衝撃しょうげきけた。この出来事できごとながあいだ支配しはいあまんじてきたマレーけい住民じゅうみん意識いしきえる転機てんきとなり、独立どくりつしん芽生めばえさせた[477]。ただし、戦後せんご西側にしがわヨーロッパからのアジア独立どくりつ運動うんどうにおいては白人はくじん国家こっかであるソ連それん支援しえんつよ影響えいきょうあたえていた。またアジアに植民しょくみんっていた西側にしがわヨーロッパは欧州おうしゅう本国ほんごくでの大戦たいせんにより戦後せんごべいソの台頭たいとうたいしてすで主導しゅどうけんうしなっていた。

このほか、植民しょくみん統治とうち過程かてい流入りゅうにゅうした華僑かきょうしるしなどの民族みんぞくとのこうそう経験けいけんをしたことから、ヨーロッパ各国かっこくおこなった行為こういたいする批判ひはんつよく、ヨーロッパ(とくえいふつらん)のメディアが日本にっぽんぐんによる戦争せんそう批判ひはんすることにたいしては、ヨーロッパ各国かっこくおこなった植民しょくみん支配しはい歴史れきし歪曲わいきょくしようとしているとして批判ひはんてき立場たちばをとっている。チャンドラ・ムザファー英語えいごばんは「欧州おうしゅうは、日本にっぽんとアジアを分断ぶんだんするために、日本にっぽん批判ひはんかえしているのではないか」と発言はつげんしたり、マハティール・ビン・モハマド首相しゅしょうは「もしも過去かこのことを問題もんだいにするなら、マレーシアはイギリスやオランダやポルトガルとはなしをすることが出来できない。…我々われわれかれらと戦争せんそうをしたことがあるからだ。もちろん、そういう出来事できごと過去かこにあったことをわすれたわけではないが、いま現在げんざいもとづいて関係かんけいきずいていくべきだ。マレーシアは、日本にっぽん謝罪しゃざいもとめたりはしない。謝罪しゃざいするよりも、もっと社会しゃかい市場いちば開放かいほうしてもらいたいのだ。」と発言はつげんしており、ほかルックイースト政策せいさくなどでもうかがえる。

他方たほう大戦たいせんちゅうは、民族みんぞく系統けいとうわず日本にっぽんぐん協力きょうりょくしたもの抗日こうにち活動かつどうとうじたものもおり、このうち抗日こうにち運動うんどうとうじたのは華人かじんけい住民じゅうみん圧倒的あっとうてきおおく、これはにちちゅう戦争せんそう影響えいきょうしている。マラヤの華僑かきょう故国ここくのため、国民党こくみんとう政府せいふぐん物心ぶっしん両面りょうめん援助えんじょしまなかった。中国ちゅうごく大陸たいりくわたこうにちぐんとうじたり、中国ちゅうごく国民党こくみんとう組織そしきけて情報じょうほう提供ていきょうしたりするもの抗日こうにち救国きゅうこく運動うんどうちからそそ人々ひとびともいた。華人かじんけいマレーじんオン・カティン住宅じゅうたく地方ちほう自治じちしょうは、小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう首相しゅしょうが2001ねん8がつ13にち靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいしたとき、「わたしは、この歴史れきし教科書きょうかしょ首相しゅしょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいへの抗議こうぎ意思いし表明ひょうめいする先頭せんとうちたい」「侵略しんりゃく戦争せんそうただしい戦争せんそうおしえることは、つぎ世代せだいあやまってみちびくことになる」[478]べている。

台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこく

当時とうじ日本にっぽん統治とうちであった台湾たいわんとうでは戦時せんじちゅう、アメリカぐんやイギリスぐんによる空襲くうしゅう機銃きじゅう掃射そうしゃなどはあったが、地上ちじょうせんおこなわれなかった。また、台湾たいわん自体じたい兵站へいたん基地きちであったため、食糧しょくりょうなど物資ぶっし欠乏けつぼうもそれほど深刻しんこくではなかった。また戦後せんご国共こっきょう内戦ないせん敗北はいぼくし、台湾たいわんうつってきた中国ちゅうごく国民党こくみんとう強権きょうけん統治とうちたいする批判ひはんにより、相対そうたいてき日本にっぽん統治とうち政策せいさく評価ひょうかするひともいる。

戦時せんじには台湾たいわんでも徴兵ちょうへいせい志願しがんへい制度せいどなどによる動員どういんおこなわれ、おおくの台湾たいわんじん戦地せんちへとおもむいた。これについての評価ひょうかかれている。当時とうじ日本にっぽん国民こくみんであったのだから当然とうぜんのことではあるが、不当ふとう強制きょうせい連行れんこうであったと批判ひはんするひともいる。「当時とうじ日本にっぽん国民こくみんであったのに靖国神社やすくにじんじゃ死後しごまつられないのは差別さべつである」と批判ひはんをするひともいれば、その反対はんたいに「靖国神社やすくにじんじゃへの合祀ごうし宗教しゅうきょうてき人格じんかくけん侵害しんがいである」として日本にっぽん政府せいふ提訴ていそしているひともいる。また、戦後せんご軍人ぐんじん恩給おんきゅう支給しきゅうなどについて日本人にっぽんじん軍人ぐんじん軍属ぐんぞくと(講和こうわ条約じょうやくにより日本にっぽん政府せいふ台湾たいわん統治とうちけん放棄ほうきしたことでべつ国家こっかあつかいになったため)区別くべつしてあつかいがなされたことにたいする批判ひはんもある。現在げんざい台湾たいわんでは、太平洋戦争たいへいようせんそうやそのぜん段階だんかい日本にっぽん統治とうち時代じだいについてどう評価ひょうかするかについては政治せいじてき論点ろんてんひとつとなっている。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく(1949ねん以後いご中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政権せいけん)は当時とうじ存在そんざいしていなかった国家こっかであるものの、国共こっきょう内戦ないせん結果けっか中国ちゅうごく大陸たいりく統治とうち中華民国ちゅうかみんこくからいだこともあり、官民かんみんともに日本にっぽん責任せきにんきびしく意見いけんつよい。日本にっぽんぐんによる占領せんりょう政策せいさくへの否定ひていてき評価ひょうかとしては、徴用ちょうようともな虐待ぎゃくたい徴発ちょうはつ軍票ぐんぴょう体制たいせいによるきゅう経済けいざい混乱こんらん農産のうさんひん市場いちば脆弱ぜいじゃくさにともな飢餓きが発生はっせいなどが論点ろんてんとしてげられる。また「まんしゅう帝国ていこく日本にっぽん傀儡かいらい国家こっかであった」として、官民かんみんともにこれを批判ひはんするものがほとんどである。

朝鮮半島ちょうせんはんとう

当時とうじ日本にっぽん統治とうちにあった朝鮮半島ちょうせんはんとう(その韓国かんこく北朝鮮きたちょうせんとして独立どくりつ)では、官民かんみんともに日本にっぽん責任せきにんきびしく意見いけんつよい。戦時せんじには朝鮮半島ちょうせんはんとうでも徴兵ちょうへいせい志願しがんへい制度せいどなどによる動員どういんおこなわれ、日本にっぽん台湾たいわん日本人にっぽんじん同様どうようおおくの朝鮮ちょうせんじん戦地せんちへとおもむいた。日本にっぽんによる戦時せんじ政策せいさくへの否定ひていてき評価ひょうかとしては、戦前せんぜんからつづいた日本にっぽん教育きょういく実施じっしや、徴用ちょうよう徴発ちょうはつによる経済けいざい混乱こんらんなどが論点ろんてんとしてげられる。

肯定こうていてき評価ひょうかとしては、戦前せんぜんからつづいていた日本にっぽんぐんにおける教育きょういく訓練くんれんが、有能ゆうのう才能さいのうある現地げんちじん発掘はっくつつながり独立どくりつ軍民ぐんみん中核ちゅうかくにな人材じんざいとなっていったこと、また戦前せんぜんからおこなわれていたインフラストラクチャーや教育きょういく充実じゅうじつなどがげられる。

慰霊いれい施設しせつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ヨーロッパ戦線せんせん英語えいごばん太平洋たいへいよう戦域せんいき人数にんずうべつ不明ふめい
  2. ^ ヨーロッパ戦線せんせん英語えいごばん太平洋たいへいよう戦域せんいき人数にんずうべつ不明ふめい
  3. ^ 参戦さんせんこく合計ごうけい詳細しょうさい#被害ひがい参照さんしょう
  4. ^ 交戦こうせん各国かっこく主張しゅちょう合計ごうけい詳細しょうさいこちら参照さんしょう
  5. ^ 日本にっぽん内面ないめん指導しどうにより、公式こうしき宣戦せんせん布告ふこくはせず。終末しゅうまつ連合れんごうこく攻撃こうげきけたため、事実じじつじょう交戦こうせんこくとしてあつかわれた。
  6. ^ 事実じじつじょうのドイツ協力きょうりょく政権せいけんマダガスカルのたたか日本にっぽんぐん一部いちぶ軍事ぐんじ協力きょうりょく
  7. ^ ふつしるし進駐しんちゅう日本にっぽんによる占領せんりょうでは日本にっぽんぐん協力きょうりょく。ただし進駐しんちゅう開始かいしおよび、日本にっぽんぐん実権じっけん掌握しょうあくあかりごう作戦さくせん)では若干じゃっかん交戦こうせん発生はっせいしている。
  8. ^ 日本にっぽん設立せつりつ支援しえんしたが、正式せいしき政府せいふとしての承認しょうにん最後さいごまでおこなわなかった。
  9. ^ モンゴルは当時とうじソ連それん以外いがい国家こっか承認しょうにんされておらず、連合れんごうこくあつかいはけていない
  10. ^ 連合れんごうこく政府せいふとしての承認しょうにんおこなわなかった。
  11. ^ 世界せかいいま歴史れきしてき一大いちだい転機てんき際会さいかい」しているとの認識にんしきち、「八紘はっこう一宇いちう」のために「だい東亜とうあしん秩序ちつじょ建設けんせつ」を目指めざし「国内こくない体制たいせい刷新さっしん」をおこない、「強力きょうりょくしん政治せいじ体制たいせい確立かくりつ」を国策こくさくとして決定けっていした。出典しゅってん遠山とおやま茂樹しげき今井いまい清一せいいち藤原ふじわらあきら昭和しょうわ』[新版しんぱん] 岩波書店いわなみしょてん 岩波いわなみ新書しんしょあおばん)355 1959ねん p.17)。
  12. ^ もし、日米にちべい交渉こうしょう失敗しっぱい戦争せんそうおこなうことになった場合ばあい南部なんぶふつしるし連合れんごうこくぐんによって占領せんりょうされると南方なんぽう進出しんしゅつおよびビルマルートの遮断しゃだん困難こんなんになると予想よそうされたことから南部なんぶにも進駐しんちゅう必要ひつようせい指摘してき
  13. ^ 大本営だいほんえい政府せいふとのあいだひらかれる会合かいごうで、重要じゅうよう国策こくさくさいして、国務こくむ統帥とうすい統合とうごう調整ちょうせいはかるためにつくられた。出席しゅっせきしゃは、参謀さんぼう総長そうちょう軍令ぐんれい総長そうちょう首相しゅしょう陸相りくしょううみしょう外相がいしょうなど。最初さいしょ開催かいさいは1937ねん昭和しょうわ12ねん)11月。開戦かいせんにいたる過程かていで、重要じゅうよう国策こくさく決定けってい機関きかんとして政治せいじてき比重ひじゅうした。吉田よしだひろし、2007, pp.37-38
  14. ^ 開戦かいせんという日本にっぽん国家こっか意思いし最終さいしゅうてき確定かくていした。」吉田よしだひろし、2007, pp.49
  15. ^ なお、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきこうすう週間しゅうかんあいだ、アメリカ西海岸にしかいがんでは日本にっぽんぐん上陸じょうりくつたえる誤報ごほう陸軍りくぐん当局とうきょく度々どど報告ほうこくされていた。「ロサンゼルスのたたか」も参照さんしょう
  16. ^ 戦死せんし元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょうとなる。
  17. ^ 8がつ8にち参戦さんせんしたばかりのソビエト連邦れんぽう代表だいひょうだん戦勝せんしょうこく一員いちいんとして臨席りんせきした。
  18. ^ 当時とうじ白人はくじん至上しじょう主義しゅぎ全盛期ぜんせいきだったため、日本人にっぽんじんのみにかぎらず、有色ゆうしょく人種じんしゅたいする差別さべつ偏見へんけんはげしかった。
  19. ^ このさいおなじように敵国てきこくだったドイツけい住民じゅうみんやイタリアけい住民じゅうみん収容しゅうようしょおくられることがかったことから人種じんしゅ差別さべつだとする意見いけん存在そんざいする。
  20. ^ べいぐん日系にっけい日本人にっぽんじん離反りはん日本にっぽんがわくことをおそれたため、太平洋たいへいよう戦線せんせんではなく欧州おうしゅう戦線せんせん投入とうにゅうされた
  21. ^ みなみアジア、にちちゅう戦争せんそう中国ちゅうごく戦線せんせん)もふくむ。
  22. ^ 上記じょうき武装ぶそう勢力せいりょくとは区別くべつ。なお、国名こくめいについては当時とうじ国家こっかめい記載きさい国家こっかてき概念がいねんがない地域ちいき場合ばあい現在げんざい国名こくめい記載きさい[397]
  23. ^ のちだいいちだい復員ふくいんしょうは、復員ふくいんちょうとなったのち厚生省こうせいしょう所管しょかんだいいち復員ふくいんきょく首相しゅしょう所管しょかんだい復員ふくいんきょくともに引揚援護えんごきょく改組かいそされ、現在げんざい一括いっかつして厚生こうせい労働省ろうどうしょう所管しょかんとなり、おも同省どうしょう社会しゃかい援護えんごきょくたたかえ病者びょうしゃ戦没せんぼつしゃ遺族いぞくへの年金ねんきん遺骨いこつ収集しゅうしゅう中国ちゅうごく残留ざんりゅう邦人ほうじん帰国きこくなどをあつかっている。
  24. ^ 舞鶴まいづるは1949ねん昭和しょうわ25ねん以降いこう唯一ゆいいつこうとなった。
  25. ^ 日本にっぽんぐんマレまれ半島はんとう侵入しんにゅうしたとき、マレーシアはイギリスの植民しょくみん地下ちかにあり、マラッカ王国おうこく以来いらいのマレーじん外来がいらい華人かじんけい住民じゅうみん・インドけい住民じゅうみん、その日本人にっぽんじんイギリスじんなどが居住きょじゅうしていた。現在げんざい、マレーシアじんはマレーけいやく65%、華人かじんけいやく25%、インドけいやく7%をめる。
  26. ^ 現在げんざいでも東南とうなんアジアのカフェでは白人はくじんきゃくのことをマスター名残なごりがみられる。

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