新選しんせんぐみ

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新選しんせんぐみ(しんせんぐみ)は、江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ)に江戸えど幕府ばくふ徴募ちょうぼにより組織そしきされた浪士ろうしたいである。とく尊攘そんじょう志士しし弾圧だんあつ活動かつどう従事じゅうじした[1][2]発足ほっそくは24めいだったが、最大さいだいにはやく230めいたい所属しょぞくしていたとされる。会津あいづはんあずかりという正規せいき組織そしきであったが、慶応けいおう3ねん(1867ねん)6がつ幕臣ばくしんてられる。慶応けいおう4ねん(1868ねん)にきゅう幕府ばくふから甲州こうしゅう鎮撫ちんぶめいぜられたことにより、きのえよう鎮撫ちんぶたいあらためる。しかし明治めいじ2ねん5月18にち戊辰戦争ぼしんせんそうにおいてのきゅう幕府ばくふぐん降伏ごうぶくにより、事実じじつじょう消滅しょうめつした。

名称めいしょうについて[編集へんしゅう]

せん」のは「せん」とも表記ひょうきされることがあり、「新撰しんせんぐみ」と表記ひょうきされた史料しりょうもある。新選しんせんぐみ局長きょくちょう近藤こんどういさむをはじめ、たいたちがのこした手紙てがみでも両方りょうほう表記ひょうきもちいられている[3]明治めいじ時代じだい以降いこう公的こうてき機関きかん編纂へんさんした史料しりょうしゅうでは、『維新いしん史料しりょう綱要こうよう』では「新撰しんせんぐみ」としるされている[4]が、『復古ふっこ』では「新選しんせんぐみ」としるされている[5]ように記述きじゅつれている。ただたい公印こういんされた文献ぶんけんは「せん」の文字もじ使用しようされているため、2004ねんごろから高校こうこう日本にっぽん教科書きょうかしょでは「新選しんせんぐみ」の表記ひょうきえてきている[3]。また、報道ほうどう機関きかんなどでも 「せん」の文字もじ常用漢字じょうようかんじがいのため、新選しんせんぐみ表記ひょうきするのが一般いっぱんてきである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

幕末ばくまつ京都きょうと政治せいじ中心ちゅうしんであり、もろはんから尊王そんのう攘夷じょうい倒幕とうばく運動うんどう志士ししあつまり、従来じゅうらいから京都きょうと治安ちあん維持いじにあたっていた京都きょうと所司代しょしだい京都きょうとまち奉行ぶぎょうだけではふせぎきれないと判断はんだんした幕府ばくふは、清河きよかわ八郎はちろうによる献策けんさく浪士ろうしぐみ結成けっせい企図きとした。

江戸えど求人きゅうじんしたあと、きょう移動いどうした。しかし清河きよかわ演説えんぜつでその本意ほんい後述こうじゅつ)をった近藤こんどういさむ芹沢鴨せりざわかもらが反発はんぱつして脱退だったい。 そして、その思想しそう意気投合いきとうごうした会津あいづはん野村のむらひだり兵衛ひょうえ進言しんげん京都きょうと守護しゅごしょく会津あいづはんおも松平まつだいら容保かたもり庇護ひごのもと、新選しんせんぐみとして発足ほっそくした。

同様どうよう配下はいか京都きょうと見廻組みまわりぐみ幕臣ばくしん旗本はたもと御家人ごけにん)で構成こうせいされた正規せいき組織そしきであったのにたいして、新選しんせんぐみはそのおおくが町人ちょうにん農民のうみん出身しゅっしん浪士ろうしによって構成こうせいされた「会津あいづはんあずかり」という正規せいき組織そしきであった。

隊員たいいんすうは、前身ぜんしんである壬生みぶ浪士ろうしぐみ24めいから発足ほっそくし、新選しんせんぐみ最盛さいせいには200めいえた。京都きょうと攘夷じょうい弾圧だんあつにあたった[2][1]商家しょうかから強引ごういん資金しきん提供ていきょうさせたり、たい規則きそく違反いはんしゃ次々つぎつぎ粛清しゅくせいするなど内部ないぶ抗争こうそうかえした。

慶応けいおう3ねん1867ねん6がつ幕臣ばくしんてられる。翌年よくねん戊辰戦争ぼしんせんそうはじまると、きゅう幕府ばくふぐんしたが転戦てんせんしたが、鳥羽とば伏見ふしみたたか敗北はいぼくしたあとは四散しさんし、甲州こうしゅう勝沼かつぬまにおいて板垣いたがき退助たいすけひきいる迅衝たい撃破げきはされ敗走はいそうかいたい[2]局長きょくちょう近藤こんどういさむらえられ斬首ざんしゅけいしょせられた[1]。その副長ふくちょう土方ひじかた歳三としぞう戊辰戦争ぼしんせんそう最後さいごたたかい・はこかん戦争せんそう戦死せんし新選しんせんぐみしん政府せいふぐん降伏ごうぶくすることになった。

逆賊ぎゃくぞくりしまる立場たちばであったが明治維新めいじいしん敗北はいぼくしたことからせい反対はんたい逆賊ぎゃくぞく新選しんせんぐみというあつかいをけてしまった風評ふうひょう被害ひがいもあった。2004ねん大河たいがドラマで脚本きゃくほん担当たんとうした三谷幸喜みたにこうきもこのことを指摘してきしている[6]

歴史れきし[編集へんしゅう]

結成けっせい[編集へんしゅう]

壬生みぶ屯所とんしょあと 八木はちぼくてい碑文ひぶんは「新選しんせんぐみ屯所とんしょ遺蹟いせき

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、江戸えど幕府ばくふ庄内しょうないはん郷士ごうし清河きよかわ八郎はちろう献策けんさくれ、将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち上洛じょうらくさいして、将軍しょうぐん警護けいご名目めいもく浪士ろうし募集ぼしゅう

よく文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)2がつあつまった200めいあまりの浪士ろうしたちは将軍しょうぐん上洛じょうらくさきがけ「浪士ろうしぐみ」として一団いちだんし、中山道なかせんどう西上にしがみする。浪士ろうし取締役とりしまりやくには、松平まつだいら上総かずさかい鵜殿うどの鳩翁きゅうおう窪田くぼた鎮勝山岡やまおか鉄太郎てつたろう松岡まつおかよろず中條ちゅうじょう金之助きんのすけ佐々木ささき只三郎たださぶろうらがにんじられた。

京都きょうと到着とうちゃく清河きよかわ勤王きんのう勢力せいりょくつうじ、浪士ろうしぐみ天皇てんのう配下はいか兵力へいりょくにしようとする画策かくさく発覚はっかくする。浪士ろうし取締役とりしまりやく協議きょうぎ結果けっか清河きよかわ計画けいかく阻止そしするために浪士ろうしぐみ江戸えどもどることとなった。これにたい近藤こんどういさむ土方ひじかた歳三としぞう中心ちゅうしんとするためしまもるかんと、芹沢鴨せりざわかも中心ちゅうしんとする水戸みとは、あくまでも将軍しょうぐん警護けいごのための京都きょうと残留ざんりゅう主張しゅちょうした。

鵜殿うどの鳩翁きゅうおうは、浪士ろうしぐみ殿内とのうち義雄よしおいえさと次郎じろう残留ざんりゅうしゃつのるよう指示しじ。これにこたえてためしまもるかん水戸みと殿内とのうち以下いか根岸ねぎしともさん一派いっぱなどが京都きょうと壬生みぶむらのこったが、根岸ねぎし直後ちょくごだつたいした。殿内とのうちいえさと排斥はいせきされ、同年どうねん3がつ公武こうぶ合体がったいもとづく攘夷じょうい断行だんこう実現じつげん助力じょりょくすることを目的もくてきとし、新選しんせんぐみ前身ぜんしんである「壬生みぶ浪士ろうしぐみ」(せいちゅう浪士ろうしぐみ)を結成けっせい一方いっぽう江戸えどもどったメンバーはしんちょうぐみ結成けっせいした。

壬生みぶ浪士ろうしぐみ壬生みぶむら八木はちぼくてい前川まえかわていおよびその周辺しゅうへん邸宅ていたく屯所とんしょとし、だいいちたい募集ぼしゅうおこなう。その結果けっか36めいあまりの集団しゅうだんとなり、京都きょうと守護しゅごしょく松平まつだいら容保かたもりから、おもに不逞ふてい浪士ろうしまりと市中しちゅう警備けいびまかされる。

4がつ大坂おおさか両替りょうがえしょう平野屋ひらのや兵衛ひょうえに100りょう提供ていきょうさせ、これを元手もとでたいふくたいはたそろえ、たいぶんまわし制定せいていにとりかかる。

6がつ大坂おおさか相撲すもう力士りきし乱闘らんとうになり殺傷さっしょうする。壬生みぶ浪士ろうしぐみにも負傷ふしょうしゃた。奉行ぶぎょうしょ力士りきしがわがあると判断はんだん力士りきしがわ壬生みぶ浪士ろうしぐみに50りょうおくびをれる。

8がつ芹沢鴨せりざわかもやく30めいたいが、京都きょうと生糸きいと問屋とんや大和屋やまとや庄兵衛しょうべえ金策きんさく謝絶しゃぜつされたことにはら放火ほうかかたないて火消ひけしせつけず、いちばんかけてくす。この事件じけん松平まつだいら容保かたもりいきどおり、近藤こんどうらを処置しょちめいじたとされる。一説いっせつとして、芹沢せりざわおよび壬生みぶ浪士ろうしぐみ関与かんよについては否定ひていてき見解けんかい存在そんざいする[7]が、浪士ろうしぐみしる風説ふうせつしょおおのこり、ちをおこなったというせつもある[8][9]

同月どうげつ壬生みぶ浪士ろうしぐみはちがつじゅうはちにち政変せいへん警備けいび出動しゅつどうし、そのはたらきを評価ひょうかされる。そして、あらたなたいめい新選しんせんぐみ」を拝命はいめいする。たいめい武家ぶけ伝奏てんそう[10] からたまわったというせつと、松平まつだいら容保かたもりからたまわったというせつの2つがある。後者こうしゃせつは、会津あいづ藩主はんしゅ本陣ほんじん警備けいび部隊ぶたいめい容保かたもりからもらったという意味いみである。

9月近藤こんどう土方どかたためしまもるかん八木はちぼくてい芹沢鴨せりざわかも平山ひらやま五郎ごろう暗殺あんさつ平間ひらま重助しげすけ脱走だっそう野口のぐち健司けんじ12月切腹せっぷく水戸みと一掃いっそうされ、ためしまもるかんくみ掌握しょうあく近藤こんどう頂点ちょうてんとする組織そしき整備せいびした。

発展はってん[編集へんしゅう]

池田いけだあと 京都きょうと中京ちゅうきょう三条さんじょうどおり河原町かわらまち 名前なまえ使用しようした居酒屋いざかやになっている(2009ねん

元治もとはる元年がんねん1864ねん6月5にち池田いけだ事件じけん攘夷じょうい志士しし斬殺ざんさつ捕縛ほばく8がつ禁門きんもんへん鎮圧ちんあつ参加さんかした。

池田いけだ事件じけん禁門きんもんへんはたらきで朝廷ちょうてい幕府ばくふ会津あいづはんから感状かんじょうと200りょうあまりの恩賞おんしょう下賜かしされると、同年どうねん9月だいたい募集ぼしゅうおこなうこととなった。池田いけだ事件じけん新選しんせんぐみ知名度ちめいどがっていたことから土方ひじかた斎藤さいとう伊藤いとう藤堂とうどう平助へいすけなどの幹部かんぶ直接ちょくせつ江戸えどかい剣術けんじゅつ道場どうじょうなどを訪問ほうもんし、伊東いとう甲子太郎きねたろうらの一派いっぱれることに成功せいこう翌年よくねんがつに32めい京都きょうともどったことが確認かくにんされている[11]。これらの活動かつどうにより新選しんせんぐみは200めいまで増強ぞうきょうされ、たい収容しゅうようするために壬生みぶ屯所とんしょから西本願寺にしほんがんじ本拠ほんきょ移転いてんする。

長州ちょうしゅう征伐せいばつへの参加さんかそなえ、戦場せんじょうでの指揮しき命令めいれい明確めいかくになる小隊しょうたいせいいち番組ばんぐみはち番組ばんぐみおよび小荷駄こにだざつ)に改組かいそ。「ぐんちゅう法度はっと」も制定せいていした。しかし新選しんせんぐみ出動しゅつどう命令めいれいはなかった。

慶応けいおう3ねん1867ねん3がつ伊東いとう甲子太郎きねたろうらの一派いっぱ思想しそうちがいなどから御陵ごりょう衛士えじ結成けっせいして脱退だったい同年どうねん6がつ新選しんせんぐみ幕臣ばくしんてられる。同年どうねん11月御陵ごりょう衛士えじ襲撃しゅうげきし、伊東いとう服部はっとり藤堂とうどう毛内もうない惨殺ざんさつ篠原しのはら富山とやま鈴木すずき加納かのう逃走とうそう油小路あぶらのこうじ事件じけん)。

解散かいさん[編集へんしゅう]

慶応けいおう3ねん(1867ねん10月将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかんおこなった。新選しんせんぐみきゅう幕府ばくふぐんしたが戊辰戦争ぼしんせんそう参加さんかするが、初戦しょせん鳥羽とば伏見ふしみたたかしん政府せいふぐん敗北はいぼく。このさい井上いのうえ源三郎げんざぶろう戦死せんし榎本えのもと武揚ぶようひきいる幕府ばくふ所有しょゆう軍艦ぐんかん江戸えど撤退てったいする。この時期じき戦局せんきょく不利ふりさとったたいたちが相次あいついで脱走だっそうし、戦力せんりょく低下ていかした。

流山ながれやま本陣ほんじんあと千葉ちばけん流山ながれやま
近藤こんどういさむ土方ひじかた歳三としぞう別離べつり

そのきゅう幕府ばくふがわからしん政府せいふぐん甲府こうふ進軍しんぐん阻止そしする任務にんむあたえられ、きのえよう鎮撫ちんぶたいあらた甲州こうしゅう街道かいどう甲府こうふじょう進軍しんぐんするが、その途中とちゅう甲州こうしゅう勝沼かつぬまたたかにおいて板垣いたがき退助たいすけひきいる迅衝たい敗退はいたいする。ふたたび江戸えどもどったが、方針ほうしんちがいから永倉ながくら新八しんぱち原田はらだひだりすけらがはなれたいしてやすし兵隊へいたい結成けっせい近藤こんどう土方どかたらは再起さいきをかけて流山ながれやま移動いどうするが、近藤こんどうしん政府せいふぐんとらわれ処刑しょけいされ、沖田おきた総司そうし持病じびょうだった肺結核はいけっかくにより江戸えどにて死亡しぼう。また、しょ事情じじょう江戸えどもどった原田はらだあきらたい加入かにゅうし、上野うえの戦争せんそう戦死せんしした(諸説しょせつあり)。

新選しんせんぐみ宇都うと宮城みやぎたたか会津あいづ戦争せんそうなどに参加さんかするが、会津あいづでは斎藤さいとうはじめらがはなれたい残留ざんりゅうのこたいたちは蝦夷えぞかった榎本えのもとらに合流ごうりゅうし、二股ふたまたこうたたかなどで活躍かつやくする(蝦夷えぞ共和きょうわこく参照さんしょう)。しん政府せいふぐんはこかん進軍しんぐんしており、弁天べんてん台場だいばしん政府せいふぐんたたかっていたたいたちをけようと土方ひじかたすうめいたすけにかうが、土方どかた銃弾じゅうだんたり戦死せんしし、食料しょくりょうみずきてきたため、新選しんせんぐみ降伏ごうぶくした。きゅう幕府ばくふぐんはこかん五稜郭ごりょうかくにおいてしん政府せいふぐん降伏ごうぶくした(はこかん戦争せんそう)。

明治めいじ政府せいふは、たい遺族いぞくらに遺品いひん所有しょゆうきんじた[よう出典しゅってん]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

西本願寺にしほんがんじ太鼓たいころう
本光寺ほんこうじ 伊東いとう甲子太郎きねたろう殉難じゅんなん
弁天べんてん台場だいばあと

文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん[編集へんしゅう]

文久ぶんきゅう4ねん元治もとはる元年がんねん(1864ねん[編集へんしゅう]

もと2ねん慶応けいおう元年がんねん(1865ねん[編集へんしゅう]

慶応けいおう2ねん(1866ねん[編集へんしゅう]

慶応けいおう3ねん(1867ねん[編集へんしゅう]

慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん(1868ねん[編集へんしゅう]

明治めいじ2ねん(1869ねん[編集へんしゅう]

昭和しょうわ13ねん(1938ねん[編集へんしゅう]

  • 昭和しょうわ13ねん1がつ16にち 現在げんざいわかっているなか新選しんせんぐみ最後さいごのこ池田いけだ七三郎しちさぶろう病死びょうし。これにより、現在げんざいわかっているなか生存せいぞんしている新選しんせんぐみたいはいなくなった。

実像じつぞう[編集へんしゅう]

入隊にゅうたい資格しかく[編集へんしゅう]

年齢ねんれい身分みぶんによる制限せいげんはなく、尽忠じんちゅう報国ほうこくこころざしがある健康けんこうものであれば入隊にゅうたいできた[14]実技じつぎ試験しけんもなかった[15][16]。ただし既婚きこんしゃ妻子さいし壬生みぶ屯所とんしょから10さとやく40キロ)以上いじょうはなれた場所ばしょまわせることが条件じょうけんとされた。これは、新選しんせんぐみおとこ合宿がっしゅくせいをとっていること、妻子さいしちかくにいることによっていのちしむようになることをふせぐためとかんがえられる。幹部かんぶ昇進しょうしんすれば京都きょうといえち、妻子さいしわらわむかえることがゆるされた。

新選しんせんぐみ交流こうりゅうのあった加太かだくにけん述懐じゅっかいによれば、入隊にゅうたい一定いってい期間きかんは「かり同志どうし」という試用しよう期間きかんとなっており、先輩せんぱいたいよるむなどして度胸どきょうためされ、このときに臆病おくびょうなふるまいをしたもの追放ついほうされたという[17]

任務にんむ[編集へんしゅう]

京都きょうと活動かつどうしている不逞ふてい浪士ろうし倒幕とうばく志士しし捜索そうさく捕縛ほばく担当たんとう地域ちいき巡察じゅんさつ警備けいび要人ようじん警護けいごなど、警察けいさつ活動かつどう任務にんむとしていた。

後述こうじゅつする数々かずかずのフィクション作品さくひん影響えいきょうにより、不逞ふてい浪士ろうし倒幕とうばく志士しし容赦ようしゃ次々つぎつぎ斬殺ざんさつしていたという「ひと集団しゅうだん」とのイメージがつよいが、実際じっさいには捕縛ほばくり)を原則げんそくとしており、犯人はんにん抵抗ていこうして捕縛ほばくできない場合ばあいのみった[18]池田いけだ事件じけんにおいても、最初さいしょてき人数にんずう上回うわまわったため方針ほうしんたたかったが、土方ひじかたたい到着とうちゃくして新選しんせんぐみ有利ゆうりになると、方針ほうしん捕縛ほばくえている[19][20]事件じけん近藤こんどういさむは「討取うちとななにんきずためこうしゃよんにん召捕めしとじゅうさんにん」(7にんころし、4にん手傷てきずわせ、23にん捕縛ほばくした)と報告ほうこくしている[21]

新選しんせんぐみ担当たんとう地域ちいき祇園ぎおん伏見ふしみであり、御所ごしょ官庁かんちょうがい会津あいづはんへい1,000めい、そのまわりは京都きょうと見廻組みまわりぐみ500めいかためていた。従来じゅうらいからの京都きょうと所司代しょしだい京都きょうとまち奉行ぶぎょう治安ちあん維持いじにあたっていた。ほかの組織そしき管轄かんかつ順守じゅんしゅしていたのにたいし、新選しんせんぐみ浪士ろうし逃亡とうぼうなどを理由りゆう管轄かんかつやぶりをすることもすくなくなかったといわれる。

訓練くんれん[編集へんしゅう]

1865ねん慶応けいおう元年がんねん)に撃剣げっけん柔術じゅうじゅつ文学ぶんがく砲術ほうじゅつ馬術ばじゅつ槍術そうじゅつかく師範しはんもうけた。しかし、どの程度ていど稼働かどうしていたのかははっきりしない[22]

局長きょくちょう近藤こんどういさむ副長ふくちょう土方ひじかた歳三としぞう一番いちばんたい組長くみちょう沖田おきた総司そうし新選しんせんぐみ代表だいひょうしゃ天然てんねんしんりゅうためしまもるかん剣客けんかくであったことから、新選しんせんぐみ所縁しょえん剣術けんじゅつとして天然てんねんしんりゅう有名ゆうめいであるが、ほかのたい神道しんとう無念むねんりゅう北辰ほくしん一刀いっとうりゅうそのまちまちであり、新選しんせんぐみ天然てんねんしんりゅうではない[23]撃剣げっけん師範しはん7めいのうち天然てんねんこころりゅうは1めい沖田おきた総司そうし)である。流派りゅうは入隊にゅうたい時期じきことなればかたち稽古けいこはできないため、稽古けいこ竹刀しない稽古けいこかぎられていた[23]稽古けいこはかなりのはげしさだったらしく、新選しんせんぐみ駐屯ちゅうとんしていた八木はちぼくてい八木やぎ為三郎ためさぶろうは、たおされてうごけなくなっているものをよくたという。また、近藤こんどういさむ芹沢鴨せりざわかもたかいところにすわってていることがおおかったが、土方ひじかた歳三としぞうはいつもどうけてあせながしながら「かるかるい」などとしかっていたという[24]

戊辰戦争ぼしんせんそう鳥羽とば伏見ふしみたたかしん政府せいふぐんかたないどんでやぶれ、土方どかたが「えびすほうざれば不可ふかぼくけんやりり、いちもちいうるところなし」とかたったこと[25] や、甲州こうしゅう勝沼かつぬまたたか近藤こんどうひきいたきのえよう鎮撫ちんぶたい迅衝たいにわずか2あいだやぶれた事例じれいなどから、白兵戦はくへいせんとくした集団しゅうだんとのイメージをたれることがおおいが、幕府ばくふ陸軍りくぐんにならいフランスしき軍事ぐんじ訓練くんれんおこなっていた。西本願寺にしほんがんじ境内けいだい大砲たいほう小銃しょうじゅう訓練くんれんおこない、銃砲じゅうほうおと迷惑めいわくした西本願寺にしほんがんじ訓練くんれん中止ちゅうしもと会津あいづはん陳情ちんじょうした。その壬生寺みぶでら訓練くんれん場所ばしょうつされたが、訓練くんれん参詣さんけいじんさまたげになり、ほう音響おんきょうてら破損はそんするなどの被害ひがい発生はっせいしている。

戦術せんじゅつ[編集へんしゅう]

組織そしきりょく強化きょうかするため、#役職やくしょくもうけ、指揮しき命令めいれい系統けいとうつくげた。

戦法せんぽうは、かならてきよりおお人数にんずうのぞみ、集団しゅうだんかこんで襲撃しゅうげきするものであった。たとえば三条さんじょう制札せいさつ事件じけんでは8にんてきたいし34にん味方みかた用意よういし、油小路あぶらのこうじ事件じけんでは7にんてきたいし35、6にん襲撃しゅうげきした[26]。さらに、「ばん」という突入とつにゅう担当たんとうしゃ輪番りんばんであらかじめめておき、突然とつぜん事件じけんきてもひるむことなく対処たいしょできるようにした。

装束しょうぞく装備そうび[編集へんしゅう]

ダンダラ羽織はおりはちきん

当初とうしょ袖口そでぐち山形やまがた模様もよう(ダンダラ模様もよう)をしろいた浅葱あさつきしょく水色みずいろ)の羽織はおり着用ちゃくようしていたとされる。羽織はおりのダンダラは、歌舞伎かぶきなどの演目えんもく忠臣蔵ちゅうしんぐら』で赤穂あこう浪士ろうし吉良きらていしたときにている羽織はおり(ただし史実しじつではなく赤穂あこう事件じけんをもとにした創作そうさくひろまったもの)で、浅葱あさつきしょく武士ぶし装束しょうぞくいろである。製作せいさくしたのは大文字おおもじ呉服ごふくてん現在げんざい大丸だいまる)。一説いっせつには、大文字おおもじではなく四条しじょう呉服ごふく菱屋ひしや」ともいわれる。

ダンダラ羽織はおり最初さいしょの1ねんほどで廃止はいしされたらしく、池田いけだ事件じけんとき着用ちゃくようしていたとする証言しょうげん最後さいご記録きろくである。池田いけだ事件じけんの2にち目撃もくげきされたたい服装ふくそうは、こみ襦袢じばんまちだかはかまこん脚絆きゃはんのち鉢巻はちまきしろたすきであった[27]新選しんせんぐみ尾行びこうされていた大村おおむらはん渡辺わたなべのぼるによれば、尾行びこうしゃ黒衣くろご黒袴くろばかまであればすぐに新選しんせんぐみであるとかったという。また、明治めいじ末期まっき老人ろうじんが、新選しんせんぐみくろ羅紗らしゃ筒袖つつそで陣羽織じんばおりていたと証言しょうげんしていることから、ダンダラ羽織はおり廃止はいしくろずくめであったとかんがえられる。

警備けいび戦闘せんとうさいには、はちきん鎖帷子くさりかたびらかごしゅどうなどの防具ぼうぐ装着そうちゃくした。武器ぶき市街地しがいちせん想定そうていかたなたんやりであった。局長きょくちょう近藤こんどういさむかたなとほぼどうすんなが脇差わきざしこのんだ。副長ふくちょう土方ひじかた歳三としぞうも、ちょう2しゃく8すん和泉いずみまもる兼定かねさだ、1しゃく9すん5ぶん堀川ほりかわ国広くにひろかたなもちいていた。

鳥羽とば伏見ふしみたたかしん政府せいふぐんやぶれた直後ちょくご土方どかた会津あいづはんから2,000りょう受給じゅきゅうしており、新式しんしきへい装備そうびひんてた可能かのうせいたか[25]

たいはた[編集へんしゅう]

たいいちれい

あかきむまたはしろで「まこと」をき、たいふくおなじようにダンダラがはいっていたとするたい一般いっぱんてきである。全部ぜんぶで6種類しゅるいあるとされている。現在げんざい髙島にあたる古着ふるぎ木綿こわたしょうによって特注とくちゅう製作せいさくされたものである。そのたいあらわれたとき、てき恐怖きょうふこおりついたとわれる。

新選しんせんぐみたいが「まこと」であったことから、近藤こんどういさむ実家じっかためしまもるかんは「まことまもるかん」のあやまりと推測すいそくするせつもある[28]

給料きゅうりょう[編集へんしゅう]

結成けっせい当初とうしょ資金しきんなんであり、新選しんせんぐみ後援こうえんしゃ佐藤さとう彦五ろうからの支援しえんだけではりなかったため、商家しょうかから資金しきん提供ていきょうさせたとつたえられる[29]

京都きょうと守護しゅごしょく配下はいか時代じだいは、会津あいづはんからの用金ようきんまかなっていた。その幕府ばくふ配下はいかになると、かくたい幕府ばくふから給料きゅうりょうた。『新撰しんせんぐみ永倉ながくら新八しんぱち』(昭和しょうわ2ねん私家しかほん)によれば、局長きょくちょう50りょう副長ふくちょう40りょうふく長助ちょうすけつとむ30りょうひらたい10りょう月給げっきゅうであったとされるが、実際じっさいはそれ以下いかであったとかんがえられる[30]諸々もろもろ事件じけんへの出動しゅつどうにより褒賞ほうしょうきんなど恩賞おんしょうくだされることもあった。

きょくちゅう法度はっと粛清しゅくせい[編集へんしゅう]

烏合うごうしゅうである浪人ろうにん集団しゅうだん統率とうそつするため、ぞくに「きょくちゅう法度はっと」(きょくちゅう法度はっとしょ)といわれるたいぶんまわしさだめた。たいぶんまわし厳格げんかく運用うんようされ、違反いはんした組員くみいん粛清しゅくせいされた。成立せいりつ会津あいづはんあずかりとなった浪士ろうしぐみ時代じだい文久ぶんきゅう3ねん/1863ねん)に近藤こんどうためしまもるかんから芹沢せりざわ水戸みと提示ていじされたとかんがえられている。天然てんねんしんりゅう入門にゅうもんするさい誓約せいやくさせられる神文しんもんちょうとの類似るいじせい指摘してきされている。

ほうとして機能きのうはじめたのは「新選しんせんぐみ」とあらた近藤こんどう土方どかた中心ちゅうしんとする組織そしきととのってからで、伊東いとう甲子太郎きねたろう一派いっぱ暗殺あんさつさいにも適用てきようされたといわれる。だいいちじょう士道しどうキ間きかんじきごと」などのように、内容ないよう抽象ちゅうしょうてきで、解釈かいしゃく局長きょくちょう副長ふくちょう一存いちぞんゆだねられるものであった。

いち士道しどうキ間きかんじきごと
武士ぶしどうそむ行為こういをしてはならない)
いちきょくだつスルヲもと
新撰しんせんぐみからの脱退だったいゆるされない)
いち勝手かって金策きんさく不可ふか
無断むだん借金しゃっきんをしてはならない)
いち勝手かって訴訟そしょう取扱とりあつかい不可ふか
無断むだん訴訟そしょう関係かんけいしてはならない)
いちわたし闘争とうそうもと
個人こじんてきあらそいをしてはならない)
みぎ条々じょうじょうしょうこうしゃ切腹せっぷく申付もうしつけベクこう
以上いじょういずれかに違反いはんしたものには切腹せっぷくもうわたすものとする)

子母沢しもざわひろし昭和しょうわ3ねん1928ねん)にあらわした『新選しんせんぐみ始末しまつ』で紹介しょうかいされて以来いらい有名ゆうめいとなり、上記じょうきの5かじょうとしてられるが、どう時代じだい史料しりょうにはこれをすべて記録きろくしたものは現在げんざいまでのところ発見はっけんされていない。永倉ながくら新八しんぱち大正たいしょう2ねん1913ねん)にかたった内容ないよう記録きろくした『小樽おたる新聞しんぶん』の記事きじ(『新選しんせんぐみ顛末てんまつ』)には、「わたし闘争とうそうもと」をのぞく4かじょうしか提示ていじされておらず、名称めいしょうも「きょくちゅう法度はっと」ではなく、「禁令きんれい」「法令ほうれい」としか言及げんきゅうされていない。そのため、上記じょうきの5かじょうと「きょくちゅう法度はっと」という名称めいしょうは、べつさだめられていた「ぐんちゅう法度はっと」をぜて子母沢しもざわひろし脚色きゃくしょくしたものと推測すいそくされている。

鳥羽とば伏見ふしみたたか以前いぜんの5年間ねんかんでの新選しんせんぐみ内部ないぶにおける死者ししゃは45めいにのぼる[31]内訳うちわけると倒幕とうばく志士ししとの戦闘せんとうによる死者ししゃすうは6めい[32]、そのはほとんどが切腹せっぷく暗殺あんさつなどの粛清しゅくせいがらみのものであった。記録きろくかぎりでは、新選しんせんぐみ組織そしきないでの相互そうご不信ふしん内部ないぶ抗争こうそうれて、てきよりも同志どうしころしたかずのほうがよほどおおかった[33]

役職やくしょく[編集へんしゅう]

トップは局長きょくちょう直下ちょっか局長きょくちょう補佐ほさする副長ふくちょうがおり、そのさらにしたふく長助ちょうすけつとむ監察かんさつかた内務ないむ監察かんさつ)、勘定かんじょうかた会計かいけい担当たんとう)などの役職やくしょくもうけた。ふく長助ちょうすけつとむ組長くみちょうとしてひらたい統率とうそつした。かくたい一番いちばんぐみからじゅう番組ばんぐみまであり、かく人員じんいんは10めい前後ぜんこう組長くみちょうした伍長ごちょういた。新選しんせんぐみ組織そしき編制へんせいは、職務しょくむ複数ふくすうせい原則げんそくとする江戸えど時代じだいかく組織そしきちがいちにんせいであり、洋式ようしき軍制ぐんせい影響えいきょう指摘してきされている。

以下いか構成こうせいいん新選しんせんぐみもちいる以前いぜん壬生みぶ浪士ろうしぐみ)もふくむ。

たい一覧いちらん[編集へんしゅう]

筆頭ひっとう局長きょくちょう[編集へんしゅう]

局長きょくちょう[編集へんしゅう]

会津あいづ新選しんせんぐみ局長きょくちょう[編集へんしゅう]

はこかん新選しんせんぐみ局長きょくちょう[編集へんしゅう]

総長そうちょう[編集へんしゅう]

参謀さんぼう[編集へんしゅう]

副長ふくちょう[編集へんしゅう]

組長くみちょう組頭くみがしらふく長助ちょうすけつとむ[編集へんしゅう]

1864ねん編成へんせい組頭くみがしら

しょ取調とりしらべやくけん監察かんさつかた浪士ろうし調ちょうやく[編集へんしゅう]

勘定かんじょうかた[編集へんしゅう]

会計かいけいかた[編集へんしゅう]

伍長ごちょう[編集へんしゅう]

初期しょきふく長助ちょうすけつとむ[編集へんしゅう]

国事こくじ探偵たんていかた[編集へんしゅう]

文武ぶんぶ師範しはん[編集へんしゅう]

ひらたい同志どうし[編集へんしゅう]

下記かき以外いがいたいCategory:新選しんせんぐみたい参照さんしょう

美男びなんにんしゅ[編集へんしゅう]

自称じしょう新選しんせんぐみたい関係かんけいしゃなど[編集へんしゅう]

壬生みぶ浪士ろうし同志どうし[編集へんしゅう]

はこかん新選しんせんぐみ[編集へんしゅう]

いち分隊ぶんたい
いち分隊ぶんたいたいらたい
二分にぶんたい
二分にぶんたいたいらたい
さん分隊ぶんたい
さん分隊ぶんたいたいらたい
よん分隊ぶんたい
よん分隊ぶんたいたいらたい
所属しょぞくたい不明ふめい
ひらたい

新選しんせんぐみ主題しゅだいにした作品さくひん[編集へんしゅう]

モデルとした創作そうさく作品さくひん端役はやくとして登場とうじょうする作品さくひん多数たすうある。ここでは新選しんせんぐみ主題しゅだいとしたもののみをかかげる。Category:新選しんせんぐみ題材だいざいとした作品さくひん参照さんしょう

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

以下いか五十音ごじゅうおんじゅん

映画えいが[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

楽曲がっきょく[編集へんしゅう]

ドラマCD[編集へんしゅう]

  • 新撰しんせんぐみ勿忘草わすれなぐさ』(リジェット新撰しんせんぐみ題材だいざいにしたシチュエーションCD。
  • 新撰しんせんぐみドラマCD 壬生みぶおおかみ真伝しんでん』(プラチナレコード)史実しじつながれを朗読ろうどくはさ物語ものがたり本格ほんかくてき時代物じだいものドラマCD。
  • 新撰しんせんぐみきたしょうでん 晨星落落』(トムス・ミュージック)明治維新めいじいしん新撰しんせんぐみ題材だいざい史実しじつ沿って展開てんかいするシチュエーションCD。

漫画まんが[編集へんしゅう]

アニメ[編集へんしゅう]

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

  • 新国劇しんこくげき新撰しんせんぐみ』(1923ねん8がつさく行友ゆきとも李風りふうふる公演こうえんのため、くわしいデータはのこっていないものの、ほんさく新選しんせんぐみ主題しゅだいとした舞台ぶたい作品さくひんだい1ごうとなる[36]。なお、ほんさくはそのかえ上演じょうえんされており、1964ねん8がつに『極付きわめつき 新撰しんせんぐみ』として上演じょうえんされたさい近藤こんどういさむ島田しまだ正吾しょうご土方ひじかた歳三としぞう緒形おがたけんえんじた[37]

以下いか早稲田大学わせだだいがく演劇えんげき博物館はくぶつかんの「演劇えんげき上演じょうえん記録きろくデータベース」で確認かくにんできる作品さくひんのみ。

ゲーム[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん 新撰しんせんぐみ(コトバンク)
  2. ^ a b c ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん 新撰しんせんぐみ(コトバンク)
  3. ^ a b 佐々木ささきさとし (2010ねん5がつ4にち). “「新選しんせんぐみ」 まよう「せん」の漢字かんじ. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. オリジナルの2018ねん6がつ9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180609045348/https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB2600B_W0A420C1000000 2017ねん11月17にち閲覧えつらん 
  4. ^ 維新いしん史料しりょう綱要こうよう まき7
  5. ^ 復古ふっこ だい1さつ
  6. ^ NHK大河たいが新選しんせんぐみ!」脚本きゃくほんつとめた三谷幸喜みたにこうき新選しんせんぐみのイメージえた」永倉ながくら新八しんぱち子孫しそんから感謝かんしゃ”. 日刊にっかんスポーツ (2022ねん12月11にち). 2023ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  7. ^ 宮地みやじ正人まさと歴史れきしのなかの新選しんせんぐみ』、岩波書店いわなみしょてん
  8. ^ 箱根はこねきの千也ちや大和屋やまとや事件じけん真実しんじつ」『玉造たまつくりくさむら61しゅう
  9. ^ 藤堂とうどう利寿としひさ (2019). “新選しんせんぐみ研究けんきゅうへの評論ひょうろん大和屋やまとや事件じけん”. 霊山りょうぜん歴史れきしかん紀要きよう 24. 
  10. ^ 当時とうじ野宮のみやじょういさお飛鳥井あすかい雅典まさのり
  11. ^ 新選しんせんぐみわすもの キセルつかる 草津くさつ宿本しゅくほんじん 滋賀しが - NHK
  12. ^ 新選しんせんぐみ洛中らくちゅう最後さいご拠点きょてん諸説しょせつ論争ろんそう決着けっちゃくか 西本願寺にしほんがんじ古文書こもんじょに「西九条さいくじょうむら」の記述きじゅつ”. 京都きょうと新聞しんぶん (2020ねん6がつ8にち). 2020ねん6がつ7にち閲覧えつらん
  13. ^ 藤堂とうどうかんしては生存せいぞんせつあり
  14. ^ 菊地きくちあきら新選しんせんぐみ真実しんじつ』、PHP研究所けんきゅうじょ 79ぺーじ
  15. ^ 菊地きくちあきら新選しんせんぐみ真実しんじつ』、PHP研究所けんきゅうじょ 194ぺーじ
  16. ^ しん歴史れきしぐんぞうシリーズ『土方ひじかた歳三としぞう』、学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ 84ぺーじ
  17. ^ しん歴史れきしぐんぞうシリーズ『土方ひじかた歳三としぞう』、学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 83-84ぺーじ
  18. ^ 伊東いとう成郎しげお新選しんせんぐみ京都きょうとなにをしていたか』、KTC中央ちゅうおう出版しゅっぱん 308ぺーじ
  19. ^ 菊地きくちあきら新選しんせんぐみ真実しんじつ』、PHP研究所けんきゅうじょ 27ぺーじ
  20. ^ 歴史れきしぐんぞうシリーズ『図説ずせつ新選しんせんぐみ史跡しせき紀行きこう』、学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 74ぺーじ
  21. ^ 伊東いとう成郎しげお新選しんせんぐみ京都きょうとなにをしていたか』、KTC中央ちゅうおう出版しゅっぱん 144ぺーじ
  22. ^ しん歴史れきしぐんぞうシリーズ『土方ひじかた歳三としぞう』、学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 84ぺーじ
  23. ^ a b 小佐野おさのあつし図説ずせつ 武術ぶじゅつ事典じてん』、しん紀元きげんしゃ 152ぺーじ新選しんせんぐみ武術ぶじゅつ
  24. ^ しん歴史れきしぐんぞうシリーズ『土方ひじかた歳三としぞう』、学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 82ぺーじ
  25. ^ a b しん歴史れきしぐんぞうシリーズ『土方ひじかた歳三としぞう』、学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 128ぺーじ
  26. ^ しん歴史れきしぐんぞうシリーズ『土方ひじかた歳三としぞう』、学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 84-85ぺーじ
  27. ^ しん歴史れきしぐんぞうシリーズ『土方ひじかた歳三としぞう』、学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 126ぺーじ
  28. ^ 大石おおいしまなぶ新選しんせんぐみ ―「最後さいご武士ぶし」の実像じつぞう―』(中公新書ちゅうこうしんしょ
  29. ^ 特別とくべつ陳列ちんれつ新選しんせんぐみ-史料しりょうかた新選しんせんぐみ実像じつぞう- 京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん
  30. ^ 菊地きくちあきら新選しんせんぐみ真実しんじつ』、PHP研究所けんきゅうじょ 199-200ぺーじ
  31. ^ 菊地きくちあきら新選しんせんぐみ真実しんじつ』、PHP研究所けんきゅうじょ 209ぺーじ
  32. ^ しん歴史れきしぐんぞうシリーズ『土方ひじかた歳三としぞう』、学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 89ぺーじ
  33. ^ 伊東いとう成郎しげお新選しんせんぐみ京都きょうとなにをしていたか』、KTC中央ちゅうおう出版しゅっぱん 308-309ぺーじ
  34. ^ 初代しょだい新選しんせんぐみ」の局長きょくちょう芹沢鴨せりざわかも家紋かもん揚羽蝶あげはちょう」と生涯しょうがい”. 役立やくだち!ぶしみみより情報じょうほうきょく. 2022ねん1がつ7にち閲覧えつらん
  35. ^ 新選しんせんぐみ参謀さんぼう伊東いとう甲子太郎きねたろう生家せいかしめ絵図えずつかる”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2020ねん12月5にち). 2021ねん3がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん3がつ16にち閲覧えつらん
  36. ^ 箕輪みのわ心中しんちゅうの新撰しんせんぐみ”. 演劇えんげき上演じょうえん記録きろくデータベース. 2023ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  37. ^ 新国劇しんこくげき新選しんせんぐみ”. 緒形おがたけん研究けんきゅうかい (2019ねん8がつ15にち). 2023ねん6がつ28にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]