日本 にっぽん 国 こく
日本 にっぽん 国 こく [1]
国 くに の標語 ひょうご :特 とく になし
国歌 こっか :君 きみ が代 よ
^ 百科 ひゃっか 事典 じてん マイペディア. “日本 にっぽん ”. コトバンク. 2022年 ねん 11月25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “第 だい Ⅱ章 しょう 都道府県 とどうふけん 別 べつ 面積 めんせき ” (PDF). 令 れい 和 わ 4年 ねん 全国 ぜんこく 都道府県 とどうふけん 市区 しく 町村 ちょうそん 別 べつ 面積 めんせき 調 ちょう (1月 がつ 1日 にち 時点 じてん ) . 国土 こくど 交通省 こうつうしょう 国土 こくど 地理 ちり 院 いん . (2022年 ねん 3月 がつ 23日 にち ). p. 5. オリジナル の2022年 ねん 3月 がつ 23日 にち 時点 じてん におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220323125218/https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20220101.pdf 2022年 ねん 3月 がつ 23日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “人口 じんこう 推計 すいけい (令 れい 和 わ 5年 ねん (2023年 ねん )9月 がつ 確 かく 定値 ていち 、令 れい 和 わ 6年 ねん (2024年 ねん )2月 がつ 概算 がいさん 値 ち ) ”. 総務 そうむ 省 しょう 統計 とうけい 局 きょく (2023年 ねん 4月 がつ 20日 はつか ). 2024年 ねん 3月 がつ 3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “令 れい 和 わ 2年 ねん 国勢調査 こくせいちょうさ ”. 総務 そうむ 省 しょう 統計 とうけい 局 きょく (2020年 ねん ). 2022年 ねん 3月 がつ 23日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d e “Report for Selected Countries and Subjects ”. IMF (2023年 ねん 10月 がつ ). 2023年 ねん 10月 がつ 26日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 明治 めいじ 5年 ねん 太政官 だじょうかん 布告 ふこく 第 だい 344号 ごう で1月 がつ 29日 にち に推定 すいてい された後 のち 、明治 めいじ 6年 ねん 太政官 だじょうかん 布告 ふこく 第 だい 344号 ごう で紀元節 きげんせつ を2月 がつ 11日 にち に定 さだ める
日本 にっぽん 国 こく (にほんこく、にっぽんこく、英 えい : Japan )、または日本 にっぽん (にほん、にっぽん)は、東 ひがし アジア に位置 いち する民主 みんしゅ 制 せい 国家 こっか [1] 。首都 しゅと は東京 とうきょう 都 と [注釈 ちゅうしゃく 2] [2] [3] 。
日本 にっぽん は1964年 ねん 4月 がつ 28日 にち に「先進 せんしん 国 こく クラブ」とも呼 よ ばれていた経済 けいざい 協力 きょうりょく 開発 かいはつ 機構 きこう (OECD) の21番目 ばんめ の加盟 かめい 国 こく となり、世界 せかい 的 てき に先進 せんしん 国 こく 入 い りしたと見 み 做されている国 くに である[4] [5] [注釈 ちゅうしゃく 6] [6] [注釈 ちゅうしゃく 7] 。全長 ぜんちょう 3500キロメートル以上 いじょう にわたる国土 こくど は、主 おも に日本 にっぽん 列島 れっとう [注釈 ちゅうしゃく 8] および南西諸島 なんせいしょとう ・伊豆諸島 いずしょとう ・小笠原諸島 おがさわらしょとう などの弧状 こじょう 列島 れっとう により構成 こうせい される[3] [7] 。大 だい 部分 ぶぶん が温帯 おんたい に属 ぞく するが、北部 ほくぶ や島嶼 とうしょ 部 ぶ では亜寒帯 あかんたい や熱帯 ねったい の地域 ちいき がある[8] [9] 。地形 ちけい は起伏 きふく に富 と み、火山 かざん 地 ち ・丘陵 きゅうりょう を含 ふく む山地 さんち の面積 めんせき は国土 こくど の約 やく 75%を占 し め[9] 、人口 じんこう は沿岸 えんがん の平野 へいや 部 ぶ に集中 しゅうちゅう している。国内 こくない には行政 ぎょうせい 区分 くぶん として47の都道府県 とどうふけん があり、日本人 にっぽんじん (大和 やまと 民族 みんぞく ・琉球 りゅうきゅう 民族 みんぞく ・アイヌ民族 みんぞく [注釈 ちゅうしゃく 9] ・外国 がいこく 系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく )と外国 がいこく 人 じん と数 すう 百 ひゃく 人 にん 程度 ていど の無 む 国籍 こくせき 者 しゃ [10] [注釈 ちゅうしゃく 10] が居住 きょじゅう し、日本語 にほんご を通用 つうよう する[2] [3] 。漢字 かんじ 文化 ぶんか 圏 けん に含 ふく まれる国 くに の1つでもある[11] 。
概要 がいよう
自然 しぜん 環境 かんきょう
自然 しぜん 地理 ちり 的 てき には、ユーラシア大陸 たいりく の東 ひがし に位置 いち しており、環太平洋 かんたいへいよう 火山 かざん 帯 たい を構成 こうせい する[2] 。島嶼 とうしょ 国 こく であり、領土 りょうど が海 うみ に囲 かこ まれているため地続 じつづ きの国境 こっきょう は存在 そんざい しない。領土 りょうど を取 と り巻 ま く海 うみ は他国 たこく から日本 にっぽん への侵略 しんりゃく を非常 ひじょう に難 むずか しくしている[12] 。日本 にっぽん 列島 れっとう は本州 ほんしゅう 、北海道 ほっかいどう 、九州 きゅうしゅう 、四国 しこく 、沖縄 おきなわ 島 とう (以上 いじょう 本土 ほんど )も含 ふく めて1万 まん 4125の島 しま を有 ゆう する[13] 。気候 きこう 区分 くぶん は、北 きた は亜寒帯 あかんたい [14] から南 みなみ は熱帯 ねったい [15] まで様々 さまざま な気候 きこう 区分 くぶん に属 ぞく している[16] 。気象 きしょう 条件 じょうけん や地質 ちしつ 構造 こうぞう 上 じょう 、様々 さまざま な自然 しぜん 災害 さいがい が発生 はっせい しやすく、台風 たいふう や地震 じしん などの災害 さいがい 被害 ひがい は世界 せかい 有数 ゆうすう 規模 きぼ である[17] 。
人口 じんこう 面 めん
日本 にっぽん 国民 こくみん は単 たん に日本人 にっぽんじん として一 いち 括 くく りに扱 あつか われることが多 おお い[18] が、実際 じっさい は複数 ふくすう の民族 みんぞく で構成 こうせい されている。日本語 にほんご を母語 ぼご とする大和 やまと 民族 みんぞく が国民 こくみん の大 だい 部分 ぶぶん を占 し め、他 た に少数 しょうすう 民族 みんぞく としてアイヌ民族 みんぞく や琉球 りゅうきゅう 民族 みんぞく の存在 そんざい が知 し られている[19] 。日本 にっぽん に帰化 きか した元 もと 外国 がいこく 人 じん も日本 にっぽん 国民 こくみん として居住 きょじゅう する[20] 。
日本 にっぽん 国民 こくみん 以外 いがい では在留 ざいりゅう 外国 がいこく 人 じん [21] や無 む 国籍 こくせき 者 しゃ [10] が居住 きょじゅう する。
人口 じんこう 動態 どうたい を考慮 こうりょ すると、21世紀 せいき を通 とお して日本 にっぽん の国民 こくみん 生活 せいかつ がより厳 きび しくなることは確実 かくじつ である。人口 じんこう は江戸 えど 末期 まっき まで概 おおむ ね3000万 まん 人 にん 台 だい で安定 あんてい していたが、明治 めいじ 以降 いこう は人口 じんこう 急増 きゅうぞう 期 き に入 はい り、1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )に初 はじ めて1億 おく 人 にん を突破 とっぱ した。その後 ご 出生 しゅっしょう 率 りつ の低下 ていか に伴 ともな い2008年 ねん にピークを迎 むか え、人口 じんこう 減少 げんしょう 期 き が始 はじ まった[22] [23] 。現在 げんざい は少子化 しょうしか が進 すす んでおり、世界 せかい トップクラスの平均 へいきん 寿命 じゅみょう の長 なが さや、移入 いにゅう 民 みん 人口 じんこう の少 すく なさも相 あい まって、超 ちょう 高齢 こうれい 化 か 社会 しゃかい に移行 いこう している。その結果 けっか として増税 ぞうぜい や年金 ねんきん 額 がく の減少 げんしょう が起 お こっている。2025年 ねん には1947年 ねん - 1949年 ねん 生 う まれの団塊 だんかい の世代 せだい が75歳 さい 以上 いじょう になることによって高齢 こうれい 者 しゃ 人口 じんこう が約 やく 3500万 まん 人 にん まで増加 ぞうか し、雇用 こよう ・医療 いりょう ・福祉 ふくし などさまざまな分野 ぶんや に影響 えいきょう が及 およ ぶとされ、「2025年 ねん 問題 もんだい 」と呼 よ ばれている[24] [25] 。また、75歳 さい 以上 いじょう の高齢 こうれい 者 しゃ 人口 じんこう は2054年 ねん ごろまで増加 ぞうか 傾向 けいこう が継続 けいぞく され、生産 せいさん 年齢 ねんれい 人口 じんこう の減少 げんしょう も併 あわ せて進 すす むと見込 みこ まれている[24] [25] 。国立 こくりつ 社会 しゃかい 保障 ほしょう ・人口 じんこう 問題 もんだい 研究所 けんきゅうじょ が2023年 ねん に示 しめ した将来 しょうらい 人口 じんこう 推計 すいけい によると、標準 ひょうじゅん 的 てき なシナリオでは、21世紀 せいき を通 とお して人口 じんこう 減少 げんしょう が継続 けいぞく し、2056年 ねん に1億 おく 人 にん を下回 したまわ ることが予測 よそく されている[26] 。このような状況 じょうきょう 下 か で進 すす む生産 せいさん 年齢 ねんれい 人口 じんこう の減少 げんしょう により、労働 ろうどう 力 りょく の不足 ふそく 、国内 こくない 需要 じゅよう の減少 げんしょう による経済 けいざい 規模 きぼ の縮小 しゅくしょう など様々 さまざま な社会 しゃかい 的 てき ・経済 けいざい 的 てき 課題 かだい も深刻 しんこく 化 か することが予測 よそく されており[27] 、日本 にっぽん 社会 しゃかい の持続 じぞく 可能 かのう 性 せい にも少 すく なからぬ影響 えいきょう を及 およ ぼしている[23] 。少 すく なくとも、少子 しょうし 高齢 こうれい 化 か の進展 しんてん により2040年 ねん には年金 ねんきん 給付 きゅうふ が保険 ほけん 料 りょう 収入 しゅうにゅう を大幅 おおはば に上回 うわまわ ることが予想 よそう されているため自助 じじょ の比重 ひじゅう が高 たか まり、国民 こくみん においては若年 じゃくねん 期 き からの数 すう 十 じゅう 年 ねん に渡 わた る継続 けいぞく 的 てき な老後 ろうご 資金 しきん の積 つ み立 た て(NISA ,iDeco ,個人 こじん 年金 ねんきん 保険 ほけん 等 ひとし )や高齢 こうれい 期 き (65歳 さい 以降 いこう )の労働 ろうどう が必要 ひつよう な状況 じょうきょう が生 しょう じている[28] [29] [30] 。数 かず 千 せん 万 まん 円 えん の老後 ろうご 資金 しきん の積 つ み立 た てが必要 ひつよう なことや、円 えん 安 やす に起因 きいん する物価高 ぶっかだか や、増税 ぞうぜい のために、国民 こくみん の大 だい 多数 たすう は可 か 処分 しょぶん 所得 しょとく の減少 げんしょう から生活苦 せいかつく に陥 おちい り、家庭 かてい を持 も つことを諦 あきら める国民 こくみん も増 ふ えつつある。2019年 ねん にメキシコ に抜 ぬ かれるまでは日本 にっぽん の世界 せかい 人口 じんこう に占 し める割合 わりあい の順位 じゅんい は10位 い だったが、2023年 ねん 現在 げんざい は12位 い になっている。前述 ぜんじゅつ のことを総合 そうごう 的 てき に勘案 かんあん すると、日本 にっぽん の将来 しょうらい を楽観 らっかん 視 し することはできない。
産業 さんぎょう 面 めん
21世紀 せいき までに奇跡 きせき 的 てき な高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう と長期 ちょうき の経済 けいざい 停滞 ていたい を経 へ てきている。日本 にっぽん は1945年 ねん に敗戦 はいせん した太平洋戦争 たいへいようせんそう からの復興 ふっこう を果 は たし、国内 こくない で多数 たすう の企業 きぎょう が躍進 やくしん した結果 けっか 、1964年 ねん のOECD 加盟 かめい をもって先進 せんしん 国 こく 入 い りを果 は たし、OECD 加盟 かめい 時 じ に受諾 じゅだく した資本 しほん 自由 じゆう 化 か 等 ひとし の義務 ぎむ を忠実 ちゅうじつ に履行 りこう して政策 せいさく 協調 きょうちょう も行 おこな った[4] 。太平洋 たいへいよう ベルト を基盤 きばん として官民 かんみん が総力 そうりょく を挙 あ げて取 と り組 く んだ経済 けいざい 成長 せいちょう の最高 さいこう の到達 とうたつ 地点 ちてん と言 い えるバブル絶頂 ぜっちょう 期 き を迎 むか えた1989年 ねん 、世界 せかい の時価 じか 総額 そうがく ランキング の上位 じょうい 10社 しゃ の殆 ほとん どを日本 にっぽん 企業 きぎょう が独占 どくせん するほどに日本 にっぽん の産業 さんぎょう (特 とく に製造 せいぞう 業 ぎょう )が世界 せかい を席巻 せっけん した。しかし、その後 ご はIT革命 かくめい に乗 の り遅 おく れ[31] [32] 、情報 じょうほう 技術 ぎじゅつ (IT)分野 ぶんや を中心 ちゅうしん とする米国 べいこく 企業 きぎょう に大 おお きく抜 ぬ かれた[33] 。21世紀 せいき に入 はい ってからは、中国 ちゅうごく やアメリカ、インド の企業 きぎょう 群 ぐん との競争 きょうそう が激 はげ しい状況 じょうきょう 下 か であるが、自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう やエレクトロニクス 産業 さんぎょう 、重化学 じゅうかがく 工業 こうぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち であり[34] [35] 、科学 かがく 技術 ぎじゅつ のリーダーとされる[36] 。しかし、情報 じょうほう 技術 ぎじゅつ (IT) では遅 おく れをとっており、古 ふる くブラックボックス 化 か したレガシーシステム が産業 さんぎょう 界 かい の至 いた るところに残 のこ っているため、2025年 ねん には「2025年 ねん の崖 がけ 」という問題 もんだい が発生 はっせい してデジタルトランスフォーメーション(DX) の実現 じつげん に歯止 はど めが掛 か かると言 い われている[24] 。DXの遅 おく れは大 おお きな経済 けいざい 損失 そんしつ を生 う むため、「2025年 ねん の崖 がけ 」を境 さかい にして日本 にっぽん の経済 けいざい は大 おお きく落 お ち込 こ む可能 かのう 性 せい がある[24] 。更 さら に2030年 ねん には日本 にっぽん 経済 けいざい を駆動 くどう する物流 ぶつりゅう において、トラックドライバー の不足 ふそく により全体 ぜんたい の3割 わり 以上 いじょう の荷物 にもつ がトラック で配送 はいそう できなくなる「物流 ぶつりゅう 危機 きき 」が生 しょう じるため、日本 にっぽん 経済 けいざい が致命傷 ちめいしょう を受 う ける可能 かのう 性 せい がある[37] 。
トヨタ自動車 とよたじどうしゃ 、パナソニック 、東京 とうきょう エレクトロン 、任天堂 にんてんどう 、日立製作所 ひたちせいさくしょ 、三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう 、日本 にっぽん 製鉄 せいてつ 、三菱 みつびし ケミカル 、東 とう レ 、武田薬品工業 たけだやくひんこうぎょう 、ENEOS 、INPEX 、三菱商事 みつびししょうじ 、ソニー 、セブン&アイ 、 三井不動産 みついふどうさん 、日本電信電話 にほんでんしんでんわ 、三菱 みつびし UFJフィナンシャル・グループ など多数 たすう の大 だい 企業 きぎょう を輩出 はいしゅつ し、また、経済 けいざい 複雑 ふくざつ 性 せい 指標 しひょう において日本 にっぽん は1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )以降 いこう 、一貫 いっかん して世界 せかい 首位 しゅい を維持 いじ している。このような理由 りゆう から、列強 れっきょう の一 いち 国 こく とみなされる[38] [39] 。人間 にんげん 開発 かいはつ 指数 しすう は高 たか く先進 せんしん 国 こく のひとつに数 かぞ えられており[40] 、経済 けいざい 協力 きょうりょく 開発 かいはつ 機構 きこう 、G7 、G8 およびG20 の参加 さんか 国 こく である。名目 めいもく GDPは世界 せかい 第 だい 4位 い かつ購買 こうばい 力 りょく 平価 へいか は世界 せかい 第 だい 4位 い である[41] 。
経済 けいざい 平和 へいわ 研究所 けんきゅうじょ による2022年 ねん (令 れい 和 わ 4年 ねん )の健全 けんぜん なビジネス環境 かんきょう ランキングでは、日本 にっぽん はオーストラリア 、スイス 、カナダ 、英国 えいこく に次 つ いで世界 せかい 第 だい 5位 い となっている[42] 。また、2020年 ねん (令 れい 和 わ 2年 ねん )の国際 こくさい 労働 ろうどう 組合 くみあい 総 そう 連合 れんごう (ITUC)の労働 ろうどう 権 けん ランキングでは、世界 せかい で6段階 だんかい 中 ちゅう の2番手 ばんて のグループに属 ぞく し、台湾 たいわん やシンガポール とともにアジア で独歩 どっぽ 的 てき な位置 いち を占 し め、世界 せかい 的 てき にもドイツ やイタリア には及 およ ばないものの、フランス やカナダ と同格 どうかく 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく やイギリス よりも高 たか く、上位 じょうい レベルとみなされる[43] 。但 ただ し、「中 ちゅう 抜 ぬ き 」という中間 ちゅうかん マージン を搾取 さくしゅ する商 しょう 慣習 かんしゅう があらゆる産業 さんぎょう に蔓延 はびこ っており、日本 にっぽん 経済 けいざい の効率 こうりつ 性 せい を大 おお きく落 お とす原因 げんいん になっている[44] 。また、時代 じだい に合 あ わなくなり利益 りえき が上 あ がらなくなった企業 きぎょう を政府 せいふ が支援 しえん することで急増 きゅうぞう した「ゾンビ企業 きぎょう 」が日本 にっぽん 経済 けいざい の硬直 こうちょく 化 か の原因 げんいん となっている[45] 。
日本 にっぽん は島国 しまぐに で他国 たこく との文化 ぶんか 的 てき 差異 さい が大 おお きい上 うえ に内 うち 向 む き志向 しこう が強 つよ く、国内 こくない 市場 いちば も比較的 ひかくてき 大 おお きいため、日本 にっぽん の産業 さんぎょう 界 かい は国内 こくない での売上 うりあげ を基本 きほん とする傾向 けいこう にあり、様々 さまざま な産業 さんぎょう でガラパゴス化 か が起 お きている。具体 ぐたい 的 てき には、他国 たこく の発明 はつめい を日本 にっぽん に輸入 ゆにゅう して国内 こくない 市場 いちば に特 とく 化 か した改良 かいりょう を行 おこな う事 こと が多 おお く、日本 にっぽん 市場 いちば でしか通用 つうよう しない(つまりは世界 せかい シェア を獲得 かくとく できない)製品 せいひん が多数 たすう 作 つく られている[46] 。世界 せかい に先駆 さきが けて高機能 こうきのう 化 か が進 すす んでいたが、世界 せかい 標準 ひょうじゅん の技術 ぎじゅつ で作 つく られたスマートフォン に日本 にっぽん 国内 こくない のシェアまで奪 うば われたガラケー は、ガラパゴス化 か した製品 せいひん の最 もっと も典型 てんけい 的 てき な例 れい として否定 ひてい 的 てき な意味 いみ で議論 ぎろん の俎上 そじょう に上 あ がる事 こと が多 おお い[47] 。しかし、後述 こうじゅつ する文化 ぶんか のように、ガラパゴス化 か が良 よ い意味 いみ での固有 こゆう 性 せい をもたらす事 こと もある。
文化 ぶんか 面 めん
文化 ぶんか 面 めん では漢字 かんじ 文化 ぶんか 圏 けん に含 ふく まれ、日本 にっぽん 庭園 ていえん 、日本 にっぽん 建築 けんちく 、和食 わしょく 、着物 きもの や宗教 しゅうきょう (神道 しんとう ・日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう )、武道 ぶどう ・武術 ぶじゅつ (特 とく に古 こ 武道 ぶどう )などの伝統 でんとう 文化 ぶんか を保持 ほじ し、複数 ふくすう の世界 せかい 遺産 いさん を保有 ほゆう している。また漫画 まんが 、特撮 とくさつ 、アニメ 、ゲーム 、アイドル 、シティ・ポップ を始 はじ めとするポップカルチャー の中心 ちゅうしん 地 ち である。他 ほか にも、日本 にっぽん の成人 せいじん はOECD の調査 ちょうさ で読解 どっかい 力 りょく ・数 すう 的 てき 思考 しこう 力 りょく においてフィンランド やスウェーデン などと並 なら んで世界 せかい のトップレベルにあるため総 そう じて理性 りせい 的 てき であり、お互 たが いに順番 じゅんばん を守 まも り時 とき には譲 ゆず り合 あ いをしてストライキ や暴動 ぼうどう といった過激 かげき な行動 こうどう も滅多 めった に起 お こさないという規律 きりつ の正 ただ しさや、銃刀 じゅうとう 法 ほう により火器 かき や規定 きてい 以上 いじょう の刃物 はもの の無 む 許可 きょか での所持 しょじ が禁止 きんし され、銃 じゅう 犯罪 はんざい はおろか、女性 じょせい が夜道 よみち を1人 ひとり で歩 ある いていても犯罪 はんざい 被害 ひがい に遭 あ うことすら殆 ほとん ど無 な いという理想 りそう に近 ちか い治安 ちあん の高 たか さも実現 じつげん している[48] [49] [注釈 ちゅうしゃく 11] 。これらの文化 ぶんか は、欧米 おうべい 圏 けん の文化 ぶんか と比 くら べ特異 とくい な文化 ぶんか として海外 かいがい から注目 ちゅうもく されている[注釈 ちゅうしゃく 12] 。食 しょく 文化 ぶんか は最 もっと も特筆 とくひつ するべき点 てん で、性愛 せいあい を最 もっと も快 こころよ いとする他 た 国民 こくみん と異 こと なり日本人 にっぽんじん は「美味 おい しいものを食 た べる」ことが最 もっと も快 こころよ いと感 かん じており[50] 、食 しょく について一切 いっさい 妥協 だきょう しない国民 こくみん 性 せい によって磨 みが き上 あ げられた美食 びしょく については圧倒的 あっとうてき 世界 せかい 一 いち の強 つよ さを誇 ほこ っている。まず、2023年 ねん 時点 じてん で東京 とうきょう は2008年 ねん のミシュランガイド [注釈 ちゅうしゃく 13] 初 はつ 掲載 けいさい 以来 いらい 16年 ねん 連続 れんぞく で世界 せかい 1位 い に輝 かがや いており、レストラン の価格 かかく 帯 たい を問 と わない全般 ぜんぱん 的 てき な品質 ひんしつ 水準 すいじゅん の高 たか さと多数 たすう の国 くに の料理 りょうり が楽 たの しめる多様 たよう 性 せい で他国 たこく の都市 とし を圧倒 あっとう する世界一 せかいいち の美食 びしょく 都市 とし として世界 せかい 的 てき に知 し られている[51] [52] [53] [54] 。また、ミシュランガイド では2位 い のパリに続 つづ いて京都 きょうと が3位 い 、大阪 おおさか が4位 い と複数 ふくすう の日本 にっぽん の都市 とし が最 さい 上位 じょうい を独占 どくせん していることから、日本 にっぽん は美食 びしょく について単 たん に世界一 せかいいち であるだけでなく、他国 たこく を寄 よ せ付 つ けないほどの圧倒的 あっとうてき な強 つよ さを持 も つことが客観 きゃっかん 的 てき に証明 しょうめい されている[53] [55] 。日本人 にっぽんじん にとっては食事 しょくじ が美味 おい しいことは当 あ たり前 まえ 過 す ぎるため世界 せかい にアピールしていない食 しょく 文化 ぶんか は非常 ひじょう に多 おお いが、訪日 ほうにち 外国 がいこく 人 じん がSNS を通 とお して新 あら たな価値 かち の発見 はっけん として世界 せかい に広 ひろ めており[56] 、「ガストロノミーツーリズム(食 しょく を中心 ちゅうしん としたツーリズム)」[57] を目的 もくてき として来日 らいにち する外国 がいこく 人 じん も増加 ぞうか している。日本 にっぽん 発 はつ のゲームも世界 せかい 的 てき に有名 ゆうめい で、日本 にっぽん のゲーム文化 ぶんか の原点 げんてん であるマリオシリーズ を筆頭 ひっとう に数々 かずかず のタイトルが世界 せかい 的 てき に広 ひろ く知 し られている。家庭 かてい 用 よう ゲーム機 き のハードウェア では、1990年代 ねんだい までに任天堂 にんてんどう ・ソニー ・セガ の3社 しゃ が世界 せかい シェアの大 だい 部分 ぶぶん を獲得 かくとく し、強固 きょうこ なゲームプラットフォームとなったが、2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )3月 がつ にはセガ が撤退 てったい した。但 ただ し、他国 たこく からも大 だい ヒットするタイトルが発表 はっぴょう されているように、往時 おうじ と比較 ひかく して他国 たこく のゲームソフトメーカーの勢 いきお いは増 ま しており、日本 にっぽん では制作 せいさく が難 むずか しい巨額 きょがく の費用 ひよう を掛 か けた外国 がいこく 人 じん 好 この みの大作 たいさく が多数 たすう 制作 せいさく されている他 ほか 、ゲームプラットフォーム についてもマイクロソフト のXBOX やValve Corporation のSteam 等 ひとし の他国 たこく 発 はつ のプラットフォームに押 お されつつある。前述 ぜんじゅつ の通 とお り、枚挙 まいきょ に暇 ひま がないほど様々 さまざま な日本 にっぽん 文化 ぶんか が海外 かいがい から注目 ちゅうもく されているが、19世紀 せいき 後半 こうはん にもヨーロッパ でジャポニスム という流行 りゅうこう が起 お きた事 こと はあるため、21世紀 せいき 以降 いこう に限 かぎ った話 はなし ではない。
政府 せいふ はクールジャパン 戦略 せんりゃく を実行 じっこう するなど、観光 かんこう 立国 りっこく を推進 すいしん している。2021年 ねん (令 れい 和 わ 3年 ねん )には東京 とうきょう オリンピック[注釈 ちゅうしゃく 14] が開催 かいさい され、2025年 ねん (令 れい 和 わ 7年 ねん )には大阪 おおさか ・関西 かんさい 万博 ばんぱく も予定 よてい されるなど、国際 こくさい 的 てき イベントの招致 しょうち にも力 ちから を入 い れる。2021年 ねん 、USニューズ&ワールド・レポート の2021 Best Countries ランキング で第 だい 2位 い となった[58] 。2020年 ねん 、日本 にっぽん は国際 こくさい 送金 そうきん サービスを扱 あつか うremitlyで調査 ちょうさ した最 もっと も移住 いじゅう したい国 くに ランキングで、カナダに次 つ いで2位 い を占 し めた [8] 。2023年 ねん 、オンライン 言語 げんご 学習 がくしゅう アプリ Preply の運営 うんえい 会社 かいしゃ の調査 ちょうさ によりZ世代 せだい のアメリカ人 じん が希望 きぼう する移住 いじゅう 先 さき としてアメリカ と比較的 ひかくてき 近 ちか い文化 ぶんか を持 も ち言語 げんご 面 めん での苦労 くろう も少 すく ない1位 い のイギリス ,2位 い のカナダ の2カ国 かこく に次 つ いで非 ひ 英語 えいご 圏 けん である日本 にっぽん が3位 い となったことが分 わ かった[59] 。当 とう 調査 ちょうさ で他国 たこく への移住 いじゅう を望 のぞ むとしたZ世代 せだい のアメリカ人 じん には異 い 文化 ぶんか 体験 たいけん を理由 りゆう に挙 あ げる者 もの が最 もっと も多 おお く、日本 にっぽん がアジア で1位 い となった要因 よういん として世界 せかい 的 てき に顕著 けんちょ な日本 にっぽん 文化 ぶんか への憧 あこが れが影響 えいきょう していると見 み る向 む きもある[60] 。
略 りゃく 史 し
日本 にっぽん は古 ふる くから中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう との関係 かんけい が深 ふか く、飛鳥 あすか 時代 ときよ ・奈良 なら 時代 じだい には遣 や 隋 ずい 使 し 、遣唐使 けんとうし といった交易 こうえき を通 とお して法 ほう 制度 せいど ・仏教 ぶっきょう ・儒教 じゅきょう ・漢文 かんぶん などを輸入 ゆにゅう し、国家 こっか 体制 たいせい の構築 こうちく に役立 やくだ てている。また、正 せい 倉 くら 院 いん にペルシア ・インド を由来 ゆらい とする文化財 ぶんかざい が複数 ふくすう 含 ふく まれることを例 れい に取 と れるように、唐 とう や朝鮮 ちょうせん に限 かぎ らず交易 こうえき を通 つう じてアジア ・シルクロード 文化 ぶんか も流入 りゅうにゅう している。律令 りつりょう 体制 たいせい 樹立 じゅりつ 後 ご の平安 へいあん 時代 じだい 末期 まっき より武家 ぶけ 政権 せいけん が成立 せいりつ し、幾度 いくど も交替 こうたい する。江戸 えど 時代 じだい に至 いた って交際 こうさい 国 こく を限定 げんてい する「鎖国 さこく 」を行 おこな ったが、外圧 がいあつ を受 う けて開国 かいこく し、明治維新 めいじいしん の過程 かてい で王政 おうせい 復古 ふっこ の大 だい 号令 ごうれい で武家 ぶけ 政権 せいけん が終焉 しゅうえん した。
版籍 はんせき 奉還 ほうかん や廃藩置県 はいはんちけん などを経 へ て中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か を完了 かんりょう した後 のち 、自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう を受 う けて大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう が制定 せいてい され、国会 こっかい が設置 せっち された[61] 。同時 どうじ に西洋 せいよう の資本 しほん 主義 しゅぎ を参考 さんこう にして日本 にっぽん 初 はつ の銀行 ぎんこう や東京 とうきょう 株式 かぶしき 取引 とりひき 所 しょ および銀行 ぎんこう と取引 とりひき を行 おこな う会社 かいしゃ が次々 つぎつぎ と創業 そうぎょう された。並行 へいこう して工業 こうぎょう 化 か も進展 しんてん し、ここに西洋 せいよう 化 か ・近代 きんだい 化 か が果 は たされ、日本 にっぽん は近代 きんだい 国家 こっか ・立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい 国家 こっか へ移行 いこう する。
日 にち 清 しん 戦争 せんそう 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に勝利 しょうり した日本 にっぽん は、開国 かいこく 時 じ に欧米 おうべい 諸国 しょこく と結 むす んだ不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく を撤廃 てっぱい させ、領土 りょうど を拡張 かくちょう した。国際 こくさい 連盟 れんめい 発足 ほっそく にあたっては、日本 にっぽん は国際 こくさい 連盟 れんめい 規約 きやく への人種 じんしゅ 差別 さべつ 撤廃 てっぱい 明記 めいき を呼 よ びかけたが(人種 じんしゅ 的 てき 差別 さべつ 撤廃 てっぱい 提案 ていあん )、実現 じつげん には至 いた らなかった[62] [63] 。アメリカ 不在 ふざい の国際 こくさい 連盟 れんめい において常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく の地位 ちい を確保 かくほ した日本 にっぽん は、大正 たいしょう デモクラシー を受 う けて政治 せいじ 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき 発展 はってん が進 すす み、政党 せいとう 政治 せいじ の慣例 かんれい の確立 かくりつ や普通 ふつう 選挙 せんきょ 法 ほう 成立 せいりつ など民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の発展 はってん が見 み られた。しかし、世界 せかい 恐慌 きょうこう とそれに続 つづ くブロック経済 けいざい 化 か の中 なか で日本 にっぽん は五 ご ・一 いち 五 ご 事件 じけん や二・二六事件 ににろくじけん 、政党 せいとう の汚職 おしょく 事件 じけん などに揺 ゆ れて政党 せいとう 政治 せいじ が後退 こうたい [64] 、軍 ぐん の影響 えいきょう の強 つよ い挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく が常態 じょうたい 化 か した[65] 。満州 まんしゅう 事変 じへん に続 つづ き日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう に向 む かい、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に枢軸 すうじく 国 こく として参戦 さんせん 、連合 れんごう 国軍 こくぐん と対戦 たいせん したが太平洋戦争 たいへいようせんそう に敗 やぶ れた。
占領 せんりょう 下 した では連合 れんごう 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ)の指示 しじ を受 う けて国民 こくみん 主権 しゅけん 、基本 きほん 的 てき 人権 じんけん の尊重 そんちょう 、平和 へいわ 主義 しゅぎ などを謳 うた う[66] 日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう が制定 せいてい され、日本 にっぽん は再 ふたた び政党 せいとう 政治 せいじ を基調 きちょう とした民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 国家 こっか となる。戦後 せんご 復興 ふっこう ののち、冷戦 れいせん の中 なか で自衛隊 じえいたい と日米 にちべい 安保 あんぽ 条約 じょうやく を軸 じく とした国防 こくぼう を維持 いじ しながら、1960年代 ねんだい から高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き に入 はい り、工業 こうぎょう 化 か が加速 かそく し加工 かこう 貿易 ぼうえき が推進 すいしん された結果 けっか 経済 けいざい 大国 たいこく になったが、プラザ合意 ごうい を経 へ てバブル経済 けいざい に突入 とつにゅう し、1990年代 ねんだい 初頭 しょとう にバブル経済 けいざい が崩壊 ほうかい すると以後 いご は経済 けいざい 停滞 ていたい 期 き に入 はい った[2] [注釈 ちゅうしゃく 15] 。現在 げんざい は世界 せかい 最大 さいだい の対外 たいがい 純資産 じゅんしさん 国 くに となっている[67] 。しかし富 とみ の再 さい 分配 ぶんぱい においては、所得 しょとく 格差 かくさ は拡大 かくだい している[68] [69] 。環太平洋 かんたいへいよう パートナーシップに関 かん する包括 ほうかつ 的 てき 及 およ び先進 せんしん 的 てき な協定 きょうてい を推進 すいしん するなど、概 おおむ ね自由 じゆう 貿易 ぼうえき 体制 たいせい を支持 しじ している。
国号 こくごう
富士山 ふじさん から昇 のぼ る日 ひ の出 で 。「日 ひ の本 もと 」、「日 にち 出処 しゅっしょ 」は日 ひ が昇 のぼ る地域 ちいき を意味 いみ する
「韓国 かんこく 併合 へいごう ニ関 せき スル条約 じょうやく 」に関 かん する李 り 完 かん 用 よう への全権 ぜんけん 委任 いにん 状 じょう 。文中 ぶんちゅう に「大日 だいにち 本國 ほんごく 」「大日本帝國 だいにっぽんていこく 」と書 か かれている
日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう の本文 ほんぶん 。冒頭 ぼうとう に「日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 」とある
日本国 にっぽんこく 旅券 りょけん 。国名 こくめい として「日本 にっぽん 国 こく 」英 えい 称 しょう として「JAPAN」の文字 もじ が記 しる されている
「日本 にっぽん 」という漢字 かんじ による国号 こくごう の表記 ひょうき は、日本 にっぽん 列島 れっとう が中国 ちゅうごく 大陸 たいりく から見 み て東 ひがし の果 は て、つまり「日 ひ の本 もと (ひのもと)」に位置 いち することに由来 ゆらい するという説 せつ がある[70] 。近代 きんだい の二 ふた つの憲法 けんぽう の表題 ひょうだい は、「日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 」および「大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう 」であるが、国号 こくごう を直接 ちょくせつ かつ明確 めいかく に規定 きてい した法令 ほうれい は存在 そんざい しない[71] 。ただし、日本工業規格 にほんこうぎょうきかく では「日本 にっぽん 国 こく 」、英語 えいご 表記 ひょうき をJapan と規定 きてい 。更 さら に、国際 こくさい 規格 きかく (ISO)では3文字 もじ 略号 りゃくごう をJPN 、2文字 もじ 略号 りゃくごう をJP と規定 きてい している。また、外務省 がいむしょう から発給 はっきゅう される旅券 りょけん の表紙 ひょうし には「日本 にっぽん 国 こく 」の表記 ひょうき と十 じゅう 六 ろく 一 いち 重 じゅう 表 ひょう 菊 きく [注釈 ちゅうしゃく 16] を提示 ていじ している。法令 ほうれい で日本 にっぽん を指 さ し示 しめ す表記 ひょうき には統一 とういつ されておらず「日本 にっぽん 」「日本 にっぽん 国 こく 」「本邦 ほんぽう 」「わが国 くに 」などが混在 こんざい している。
日本語 にほんご の表現 ひょうげん
発音 はつおん
「にほん 」、「にっぽん 」二 ふた つの呼 よ び方 かた がある。どちらも多 おお く用 もち いられているため、日本 にっぽん 政府 せいふ は正式 せいしき な読 よ み方 かた をどちらか一方 いっぽう には定 さだ めておらず、どちらの読 よ みでも良 よ いとしている[73] 。
7世紀 せいき の後半 こうはん の国際 こくさい 関係 かんけい から生 しょう じた「日本 にっぽん 」国号 こくごう は、当時 とうじ の国際 こくさい 的 てき な読 よ み(音読 おんどく )で「ニッポン」(呉音 ごおん )ないし「ジッポン」(漢音 かんおん )と読 よ まれたものと推測 すいそく される[74] 。いつ「ニホン」の読 よ みが始 はじ まったか定 さだ かでない。仮名 かめい 表記 ひょうき では「にほん」と表記 ひょうき された。平安 へいあん 時代 じだい には「ひのもと 」とも和訓 わくん されるようになった。
室町 むろまち 時代 ときよ の謡曲 ようきょく 狂言 きょうげん は、中国人 ちゅうごくじん に「ニッポン」と読 よ ませ、日本人 にっぽんじん に「ニホン」と読 よ ませている。安土 あづち 桃山 ももやま 時代 じだい にポルトガル 人 ひと が編纂 へんさん した『日 にち 葡辞書 しょ 』や『日本 にっぽん 小 しょう 文典 ぶんてん 』などには、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読 よ みが見 み られ、その用例 ようれい から判断 はんだん すると、改 あらた まった場面 ばめん ・強調 きょうちょう したい場合 ばあい に「ニッポン」が使 つか われ、日常 にちじょう の場面 ばめん で「ニホン」が使 つか われていた[75] 。このことから小池 こいけ 清治 きよじ は、中世 ちゅうせい の日本人 にっぽんじん が中国語 ちゅうごくご 的 てき な語感 ごかん のある「ジッポン」を使用 しよう したのは、中国人 ちゅうごくじん ・西洋 せいよう 人 じん など対外 たいがい 的 てき な場面 ばめん に限定 げんてい されていて、日常 にちじょう だと「ニッポン」「ニホン」が用 もち いられていたのでは、と推測 すいそく している[76] 。なお、現在 げんざい に伝 つた わっていない「ジッポン」音 おと については、その他 た の言語 げんご も参照 さんしょう 。
近代 きんだい 以降 いこう も「ニホン」「ニッポン」両方 りょうほう 使用 しよう される中 なか 、1934年 ねん には文部省 もんぶしょう 臨時 りんじ 国語 こくご 調査 ちょうさ 会 かい が「にっぽん」に統一 とういつ して外国 がいこく 語 ご 表記 ひょうき もJapanを廃 はい してNipponを使用 しよう するという案 あん を示 しめ したこともあったが、不完全 ふかんぜん に終 お わった。同年 どうねん 、日本 にっぽん 放送 ほうそう 協会 きょうかい (NHK)は「放送 ほうそう 上 じょう 、国号 こくごう としては『にっぽん』を第 だい 一 いち の読 よ み方 かた とし『にほん』を第 だい 二 に の読 よ み方 かた とする」旨 むね の決定 けってい をした[77] 。
その後 ご 現在 げんざい も両方 りょうほう 使用 しよう されており、2009年 ねん 6月 がつ 30日 にち に政府 せいふ は「『にっぽん』『にほん』という読 よ み方 かた については、いずれも広 ひろ く通用 つうよう しており、どちらか一方 いっぽう に統一 とういつ する必要 ひつよう はない」とする答弁 とうべん 書 しょ を閣議 かくぎ 決定 けってい している[73] 。
現在 げんざい 、通商 つうしょう や交流 こうりゅう の点 てん で自国 じこく 外 がい と関連 かんれん のある紙幣 しへい 、切手 きって などには「NIPPON」と描 えが かれている(紙幣 しへい 発券 はっけん 者 しゃ も「にっぽんぎんこう 」である)。
「にほん」(NIHON)
「にっぽん」(NIPPON)
また、日本テレビ放送網 にほんてれびほうそうもう (日本 にほん テレビ)、東日本 ひがしにっぽん 電信 でんしん 電話 でんわ (NTT東日本 ひがしにっぽん )・西日本 にしにほん 電信 でんしん 電話 でんわ (NTT西日本 にしにほん )のように、社名 しゃめい では「にっぽん」、愛称 あいしょう は「にほん」と使 つか い分 わ けている例 れい や、東日本 ひがしにっぽん 高速 こうそく 道路 どうろ (NEXCO東日本 ひがしにっぽん )・中 ちゅう 日本 にっぽん 高速 こうそく 道路 どうろ (NEXCO中 ちゅう 日本 にっぽん )・西日本 にしにほん 高速 こうそく 道路 どうろ (NEXCO西日本 にしにほん )のように英字 えいじ 社名 しゃめい は「Nippon」、日本語 にほんご での社名 しゃめい では「にほん」を用 もち いる例 れい もある。
日本経済新聞 にほんけいざいしんぶん が2016年 ねん に行 い った調査 ちょうさ によると、社名 しゃめい に「日本 にっぽん 」が含 ふく まれる上場 じょうじょう 企業 きぎょう の読 よ み方 かた は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読 よ ませる企業 きぎょう の比率 ひりつ が増加 ぞうか 傾向 けいこう にあった。テレビ番組 ばんぐみ 名 めい では「にっぽん」が使 つか われることが多 おお くなってきている[78] 。なお、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう の読 よ みについて、内閣 ないかく 法制 ほうせい 局 きょく は、読 よ み方 かた について特 とく に規定 きてい がなく、どちらでもよいとしている[79] 。日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 制定 せいてい の際 さい 、読 よ みについての議論 ぎろん で、憲法 けんぽう 担当 たんとう 大臣 だいじん 金森 かなもり 徳次郎 とくじろう は「ニホン、ニッポン両様 りょうよう の読 よ み方 かた がともに使 つか われることは、通念 つうねん として認 みと められている」と述 の べており、どちらかに決 き められることはなかった[77] 。
日本 にっぽん の政党 せいとう 名 な における読 よ みは、次 つぎ のとおり(国会 こっかい に複数 ふくすう の議席 ぎせき を有 ゆう したことのある政党 せいとう )。
「にほん」(NIHON)
「にっぽん」(NIPPON)
日本 にっぽん のオリンピック 選手 せんしゅ 団 だん は入場 にゅうじょう 行進 こうしん 時 じ のプラカード表記 ひょうき を英語 えいご 表記 ひょうき の「JAPAN」としているが、1912年 ねん の初 はつ 参加 さんか となったストックホルムオリンピック の選手 せんしゅ 団 だん のみ「NIPPON」の表記 ひょうき を使 つか っていた[80] 。2021年 ねん の自国 じこく 開催 かいさい の2020年 ねん 東京 とうきょう オリンピック では入場 にゅうじょう 行進 こうしん 時 じ に「にほん」とアナウンスされている。
東京 とうきょう と大阪 おおさか にある橋 はし の名称 めいしょう と地名 ちめい になっている日本橋 にほんばし は、東京 とうきょう の日本橋 にほんばし は「にほんばし(Nihon-bashi)」、大阪 おおさか の日本橋 にほんばし は「にっぽんばし(Nippon-bashi)」と読 よ む。
明仁 あきひと 上皇 じょうこう は一貫 いっかん して「にほん」と読 よ んでいる[77] 。
呼称 こしょう
古 ふる くから多様 たよう である。
和語 わご
あきつしま - 「秋津 あきつ (あきつ)」は、「とんぼ」の意 い 。孝安 たかやす 天皇 てんのう の都 と の名 な 「室 しつ 秋津島 あきつしま 宮 みや 」に由来 ゆらい するとされる。
「秋津島 あきつしま 」
「大倭 おおやまと 豊 ゆたか 秋津島 あきつしま 」(『古事記 こじき 』本州 ほんしゅう の別名 べつめい として)
「大 だい 日本 にっぽん 豊秋 とよあき 津 つ 洲 しゅう 」(『日本書紀 にほんしょき 』神代 かみよ )
あしはらのなかつくに - 「葦原 よしわら 」は、豊穣 ほうじょう な地 ち を表 あらわ すとも、かつての一 いち 地名 ちめい とも言 い われる。
「葦原 あしはら の中 なか つ国 くに [81] 」(あしはらのなかつくに、葦原 よしわら 中国 ちゅうごく )(『古事記 こじき 』、『日本書紀 にほんしょき 』神代 かみよ )
「豊葦原 とよあしはら (とよあしはら)」
「豊葦原 とよあしはら 瑞穂 みずほ 国 こく 」
「豊葦原 とよあしはら 之 の 千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記 こじき 』)
「豊葦原 とよあしはら 千 せん 五 ご 百 ひゃく 秋 あき 瑞穂 みずほ 国 こく (とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀 にほんしょき 』神代 かみよ )
うらやすのくに - 心 しん 安 やす (うらやす)の国 くに の意 い 。
「浦安 うらやす 国 こく 」(日本書紀 にほんしょき ・神 かみ 武紀 たけのり )
おおやしま - 国生 こくしょう み神話 しんわ で、最初 さいしょ に創造 そうぞう された八 はち 個 こ の島 しま で構成 こうせい される国 くに の意 い 。古事記 こじき では順 じゅん に淡路島 あわじしま :四国 しこく :隠岐 おき :九州 きゅうしゅう :壱岐 いき :対馬 つしま :佐渡 さど :本州 ほんしゅう 。
「大 だい 八 はち 島 とう 」「太 ふと 八島 やしま 」
「大 だい 八 はち 洲 しゅう 」(『養老 ようろう 令 れい 』)
「大 だい 八 はち 洲 しゅう 国 こく 」(『日本書紀 にほんしょき 』神代 かみよ )
くわしほこちたるくに - 精巧 せいこう な武器 ぶき が備 そな わっている国 くに の意 い 。
「細 ほそ 矛 ほこ 千 せん 足 そく 国 こく 」(日本書紀 にほんしょき ・神 かみ 武紀 たけのり )
しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇 てんのう の都 と 「磯城 しき 島 とう 金刺 かなざし 宮 みや 」に由来 ゆらい するとされる。
「師 し 木島 きじま 」(『古事記 こじき 』)
「磯城 しき 島 とう 」「志貴 しき 島 とう 」(『万葉集 まんようしゅう 』)
「敷島 しきしま 」
たまかきうちのくに
「玉 たま 牆内国 こく 」(日本書紀 にほんしょき ・神 かみ 武紀 たけのり )
「玉垣内 たまがいと 国 こく 」(『神 かみ 皇 すめらぎ 正統 せいとう 記 き 』)
ひのいづるところ - 遣 や 隋 ずい 使 し が煬帝へ送 おく った国書 こくしょ にある「日 にち 出處 しゅっしょ 」を訓読 くんどく したもの。
ひのもと - 雅語 がご で読 よ むこともある[注釈 ちゅうしゃく 17] 。
ほつまのくに
「磯 いそ 輪 わ 上 うえ 秀真 ほずま 国 こく (しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀 にほんしょき ・神 かみ 武紀 たけのり )
みづほのくに - みずみずしい稲穂 いなほ の実 みの る国 くに の意 い 。
やまと - 大和 やまと 国 こく (奈良 なら 県 けん )を特 とく に指 さ すとともに日本 にっぽん 全体 ぜんたい の意味 いみ にも使 つか われる。『古事記 こじき 』では「倭 やまと 」、『日本書紀 にほんしょき 』では「倭 やまと 」「日本 にっぽん 」として表記 ひょうき されている。魏 ぎ 志 こころざし 倭人 わじん 伝 でん などの中国 ちゅうごく 史書 ししょ では日本 にっぽん (ヤマト)は「邪 よこしま 馬 ば 臺 だい 」国 こく と借 か 音 おと で表記 ひょうき されている。また『日本書紀 にほんしょき 』では「夜 よる 摩 ま 苔 こけ 」とも表記 ひょうき されている。「日本 にっぽん 」の国号 こくごう が成立 せいりつ する前 まえ 、日本 にっぽん 列島 れっとう には、中国 ちゅうごく の王朝 おうちょう から「倭国 わのくに 」・「倭 やまと 」と称 しょう される国家 こっか ないし民族 みんぞく があった。『日本書紀 にほんしょき 』は、「ヤマト」の勢力 せいりょく が中心 ちゅうしん に倭 やまと を統一 とういつ した古代 こだい の日本 にっぽん では、漢字 かんじ の流入 りゅうにゅう と共 とも に「倭 やまと 」を借 か 字 じ として「ヤマト」と読 よ むようになり、時間 じかん と共 とも に「倭 やまと 」が「大倭 おおやまと 」になり「大和 やまと 」へと変化 へんか していく。その後 ご に更 さら に「大和 やまと 」を「日本 にっぽん 」に変更 へんこう し、これを「ヤマト」と読 よ んだとする[82] が、『旧 きゅう 唐 とう 書 しょ 』など、これを疑 うたが う立場 たちば もある。神 かみ 日本 にっぽん 磐 いわ 余 あまり 彥天皇 てんのう (かむ やまと いわれびこ)、稚 やや 日本 にっぽん 根子 ねっこ 彦(わか やまと ねこひこ)など。また、隼人 はやと (はやと)などの呼称 こしょう からすれば、元 もと は山地 さんち の人 ひと を「山人 さんじん 」(やまと)といったことも考 かんが えられる。
「虚空 こくう 見 み つ日本 にっぽん の国 くに 」(そらみつやまとのくに)
漢語 かんご
「倭 やまと 」「倭国 わのくに 」「大 だい 倭国 わのくに (大和 やまと 国 こく )」「倭 やまと 奴 やつ 国 こく 」「倭人 わじん 国 こく 」の他 ほか 、扶桑 ふそう 蓬 よもぎ 萊伝説 でんせつ に準 なぞら えた「扶桑 ふそう 」[83] 、「蓬莱 ほうらい 」などの雅称 がしょう があるが、雅称 がしょう としては特 とく に瀛州 (えいしゅう)・東 ひがし 瀛 (とうえい)と記 しる される[84] 。このほかにも「東海 とうかい 姫 ひめ 氏 し 国 こく 」「東海 とうかい 女 おんな 国 こく 」「女子 じょし 国 こく 」「君子 くんし 国 こく 」「若木 わかぎ 国 こく 」「日 にち 域 いき 」「日東 にっとう 」「日下 くさか 」「烏 がらす 卯 う 国 こく 」「阿 おもね 母 はは 郷 きょう 」(阿 おもね 母 はは 山 やま ・波 なみ 母 はは 郷 きょう ・波 なみ 母 はは 山 さん )などがあった。
「皇 すめらぎ 朝 あさ 」は、もともと中原 なかはら の天子 てんし の王朝 おうちょう をさす漢語 かんご だが、日本 にっぽん で天皇 てんのう の王朝 おうちょう をさす漢文 かんぶん 的 てき 表現 ひょうげん として使 つか われ、国学 こくがく 者 しゃ はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読 くんどく した。「神国 しんこく 」「皇国 こうこく 」「神州 しんしゅう 」「天朝 てんちょう 」「天子 てんし 国 こく 」などは雅語 がご (美称 びしょう )たる「皇 すめらぎ 朝 あさ 」のい替 いか えであって、国名 こくめい や国号 こくごう の類 るい でない。「本朝 ほんちょう 」も「我 わ が国 くに 」といった意味 いみ であって国名 こくめい でない。江戸 えど 時代 じだい の儒学 じゅがく 者 しゃ などは、日本 にっぽん を指 さ して「中華 ちゅうか 」「中原 なかはら 」「中 ちゅう 朝 ちょう 」「中 ちゅう 域 いき 」「中国 ちゅうごく 」などと書 か くことがあったが、これも国名 こくめい でない。「大 だい 日本 にっぽん 」と大 だい を付 つ けるのは、国名 こくめい の前 まえ に大 だい ・皇 すめらぎ ・有 ゆう ・聖 ひじり などの字 じ を付 つ けて天子 てんし の王朝 おうちょう であることを示 しめ す中国 ちゅうごく の習慣 しゅうかん から来 き ている[注釈 ちゅうしゃく 18] 。ただし、「おおやまと」と読 よ む場合 ばあい 、古称 こしょう の一 ひと つである。「帝国 ていこく 」はもともと「神国 しんこく 、皇国 こうこく 、神州 しんしゅう 」と同義 どうぎ だったが、近代 きんだい 以後 いご "empire"の訳語 やくご として使 つか われている。大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう の後 のち 「大日本帝国 だいにっぽんていこく 」の他 ほか 「日本 にっぽん 」「日本 にっぽん 国 こく 」「日本 にっぽん 帝国 ていこく 」「大 だい 日本 にっぽん 」「大日 だいにち 本国 ほんごく 」などといった表記 ひょうき が用 もち いられた。戦後 せんご の国号 こくごう としては「日本 にっぽん 国 こく 」が専 もっぱ ら用 もち いられる[注釈 ちゅうしゃく 19] 。
倭 やまと 漢 かん 通用 つうよう
江戸 えど 初期 しょき の神道 しんとう 家 か である出口 いでぐち 延佳 のぶよし と山本 やまもと 広足 ひろたり が著 あらわ した『日本書紀 にほんしょき 神代 かみよ 講述 こうじゅつ 鈔』[85] に倭 やまと 漢 かん 通用 つうよう の国 くに 称 しょう が掲載 けいさい されている。
「倭国 わのくに 」
「和 わ 面 めん 国 こく 」
「和人 わじん 国 こく 」
「野 の 馬 ば 台 だい 国 こく 」、「耶摩堆 うずたか 」
「姫 ひめ 氏 し 国 こく 」、「女王 じょおう 国 こく 」
「扶桑 ふそう 国 こく 」
「君子 くんし 国 こく 」
「日本 にっぽん 国 こく 」 - 垂 たれ 仁 じん 天皇 てんのう 2年 ねん 、任 にん 那 な のツヌガアラシト(都 と 怒 いか 我 わが 阿 おもね 羅 ら 斯等)は、ある村 むら に祀 まつ られていた白 しろ い石 いし の変化 へんか である童女 どうじょ を得 え たが、その後 ご に逃 に げた童女 どうじょ を追 お って「日本 にっぽん 国 こく 」に入 はい り、その童女 どうじょ が難波 なんば (なんば)と豊国 ほうこく 々前 ぜん 郡 ぐん (とよくにの みちのくちの くに)の比 ひ 賣 うり 語 ご 曾社 (ひめごその やしろ)の祭神 さいじん となっているのを見 み つけたとされている(日本書紀 にほんしょき )。
その他 た の言語 げんご
マルティン・ベハイム が1492年 ねん に想像 そうぞう した欧州 おうしゅう 大陸 たいりく 西側 にしがわ の詳細 しょうさい 。アメリカ大陸 あめりかたいりく の存在 そんざい が認識 にんしき されておらず太平洋 たいへいよう と大西洋 たいせいよう が一 ひと つの大海 たいかい として表現 ひょうげん されている。中央 ちゅうおう 上部 じょうぶ 左 ひだり にCipangu とある。
中世 ちゅうせい アラブ世界 せかい のムハンマド・アル=イドリースィー が1154年 ねん に作成 さくせい した地図 ちず には、左上 ひだりうえ の山 やま のような絵 え にالواق واق という地名 ちめい が記載 きさい されている。この地図 ちず は当時 とうじ 最先端 さいせんたん の世界 せかい 地図 ちず の1つであった。
英語 えいご での公式 こうしき な表記 ひょうき は、Japan (ジャパン )。形容詞 けいようし はJapanese (ジャパニーズ )。略記 りゃっき は、ISO 3166-1 などで使 つか われるJPN 、JP が多 おお く用 もち いられる。JAP (ジャップ )は英語 えいご 圏 けん を中心 ちゅうしん に侮蔑 ぶべつ 的 てき な意味 いみ があるが、一部 いちぶ の国 くに [注釈 ちゅうしゃく 20] やIOCコード では中立 ちゅうりつ 的 てき な立場 たちば でJAP が用 もち いられる。Nippon (ニッポン)が用 もち いられる例 れい も見 み られ、具体 ぐたい 的 てき には、UPU などによるロ ろ ーマ字 まじ 表記 ひょうき (1965年 ねん 以降 いこう )、郵便 ゆうびん 切手 きって や日本銀行 にっぽんぎんこう 券 けん などでNippon 表記 ひょうき を用 もち いている。略称 りゃくしょう は、NPN が用 もち いられる。
その他 た 、各 かく 言語 げんご で日本 にっぽん を意味 いみ する固有名詞 こゆうめいし は、アン チャパイン(愛 あい : an tSeapáin )、ヤーパン(独 どく : Japan )、ジャポン(仏 ふつ : Japon )、ヤパン(蘭 らん : Japan )、ハポン(西 にし : Japón )、ジャッポーネ(伊 い : Giappone )、ヤポニヤ(波 なみ : Japonia )、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注釈 ちゅうしゃく 21] (露 ろ : Япо́ния )、ヤポーニヤ(宇 : Япо́нія )、イープン(泰 やすし : ญี่ปุ่น )など、特定 とくてい の時期 じき に特定 とくてい の地域 ちいき の中国 ちゅうごく 語 ご で「日本 にっぽん 国 こく 」を発音 はつおん した「ジーパングォ」を写 うつ し取 と った(日本語 にほんご 読 よ み の「ジッポン」に由来 ゆらい するとの説 せつ もある)、ジパング (Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源 ごげん とすると考 かんが えられる。
漢字 かんじ 文化 ぶんか 圏 けん においては、リーベン(中 なか : Rìběn;日本 にっぽん )[注釈 ちゅうしゃく 22] 、イルボン(朝 あさ : 일본;日本 にっぽん )、ニャッバーン(越 こし : Nhật Bản;日本 にっぽん )[注釈 ちゅうしゃく 23] など、「日本 にっぽん 」をそのまま自 じ 言語 げんご の発音 はつおん で読 よ んでいる。
9世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう の中世 ちゅうせい アラブ世界 せかい では、東方 とうほう の彼方 かなた に存在 そんざい する黄金 おうごん に富 と む土地 とち をワクワク (阿 おもね : الواق واق )と呼 よ んでいた。この呼称 こしょう の由来 ゆらい として、当時 とうじ の中国 ちゅうごく における呼称 こしょう である「倭国 わのくに 」がアラブ世界 せかい に伝 つた わって訛 なま った結果 けっか との説 せつ がある。また、東方 とうほう の黄金 おうごん に富 と む土地 とち という意味 いみ についてもジパング 伝説 でんせつ と一致 いっち する。
欧州 おうしゅう 発行 はっこう の古地 こち 図上 ずじょう での表記 ひょうき
国号 こくごう の由来 ゆらい
概説 がいせつ
日本 にっぽん では、大和 やまと 政権 せいけん が統一 とういつ 以降 いこう に自国 じこく を「ヤマト 」と称 しょう していたようであるが、古 ふる くから中国 ちゅうごく や朝鮮 ちょうせん は日本 にっぽん を「倭 やまと 」と呼 よ んできた。石上 いしがみ 神宮 じんぐう の七 なな 支 ささえ 刀 がたな の銘 めい や、中国 ちゅうごく の歴史 れきし 書 しょ (『前 ぜん 漢書 かんしょ 』『三国志 さんごくし 』『後 こう 漢書 かんしょ 』『宋 そう 書 しょ 』『隋 ずい 書 しょ 』など)や、高句麗 こうくり の広開土王 こうかいどおう の碑文 ひぶん も、すべて倭 やまと 、倭国 わのくに 、倭人 わじん 、倭 やまと 王 おう 、倭 やまと 賊 ぞく などと記 しる している。そこで大和 やまと の代表 だいひょう 者 しゃ も、外交 がいこう 時 とき には(5世紀 せいき の「倭 やまと の五 ご 王 おう 」のように)国書 こくしょ に「倭国 わのくに 王 おう 」と記 しる すようになった[115] 。
しかし、中国 ちゅうごく との国交 こっこう が約 やく 120年 ねん に渡 わた って中絶 ちゅうぜつ した後 のち 、7世紀 せいき 初期 しょき に再開 さいかい された時 とき には、初回 しょかい は「日出 ひので ずる処 しょ の天子 てんし 、書 しょ を日没 にちぼつ する処 ところ の天子 てんし に致 いた す。恙無 つつがな しや」(『隋 ずい 書 しょ 』)、これに隋 ずい が「皇帝 こうてい 、倭 やまと 皇 すめらぎ に問 と う」(『日本書紀 にほんしょき 』)と応 おう じ、第 だい 2回 かい は「東 ひがし の天皇 てんのう が西 にし の皇帝 こうてい に白 しろ す」(『日本書紀 にほんしょき 』)とする国書 こくしょ を日本 にっぽん 側 がわ の遣 や 隋 ずい 使 し が渡 わた した記述 きじゅつ があり、初回 しょかい の遣唐使 けんとうし を送 おく ってきた唐 とう 使 し と礼 れい を争 あらそ った時 とき も『日本書紀 にほんしょき 』では「天子 てんし の命 いのち のたまへる使 つかい 、天皇 てんのう の朝 あさ に到 いた れりと聞 き きて迎 むか えしむ」と日本 にっぽん 側 がわ が発言 はつげん している。いずれも「天子 てんし 」「天皇 てんのう 」は記 しる すが国名 こくめい は記 しる していない。当時 とうじ 編纂 へんさん されたとされ、現存 げんそん しない歴史 れきし 書 しょ 『天皇 てんのう 記 き 』『国 くに 記 き 』も君主 くんしゅ 号 ごう のみがあり国号 こくごう は無 な い[注釈 ちゅうしゃく 25] 。中国 ちゅうごく 側 がわ では『旧 きゅう 唐 とう 書 しょ 』の「東夷 あずまえびす 伝 でん 」に初 はじ めて日本 にっぽん の名称 めいしょう が登場 とうじょう し、倭国 わのくに 伝 でん と日本 にっぽん 伝 でん を別 べつ に立 た て「日本 にっぽん 国 こく は倭国 わのくに の別種 べっしゅ なり。其 そ の国 くに 、日 にち の辺 あたり に在 あ るを以 もっ ての故 ゆえ に、日本 にっぽん を以 もっ て名 な と為 な す」「或 ある いは曰 いわ く、倭国 わのくに 自 みずか ら其 そ の名 な の雅 みやび ならざるを悪 あく (にく)み、改 あらた めて日本 にっぽん と為 な す」「或 ある いは曰 いわ く、日本 にっぽん は旧 きゅう (もと)小国 おぐに 、倭国 わのくに の地 ち を併す」のように、倭 やまと と日本 にっぽん の関係 かんけい について説明 せつめい している[116] 。『新 しん 唐 とう 書 しょ 』東夷 あずまえびす 伝 でん も似 に た記事 きじ を載 の せるが、日本 にっぽん 伝 でん のみを立 た て、倭国 わのくに が日本 にっぽん 国 こく を併合 へいごう して国号 こくごう を奪 うば ったとする異 い 伝 つて を記 しる す点 てん が大 おお きく相違 そうい する。
遣唐使 けんとうし はその後 ご もしばしば派遣 はけん されているが、いつから「倭 やまと 」に変 か えて「日本 にっぽん 」を国号 こくごう としたのかは明 あき らかでない[117] 。使者 ししゃ の毎回 まいかい の交渉 こうしょう について詳 くわ しく記述 きじゅつ している『日本書紀 にほんしょき 』も、8世紀 せいき に国号 こくごう としての日本 にっぽん が確立 かくりつ した後 のち の書物 しょもつ であり、原 はら 資料 しりょう にあった可能 かのう 性 せい のある「倭 やまと 」という国号 こくごう の多 おお くを「日本 にっぽん 」と改 あらた めている[注釈 ちゅうしゃく 26] 。対照 たいしょう 的 てき に『古事記 こじき 』には「日本 にっぽん 」という文字 もじ は全 まった く現 あらわ れない。それ以外 いがい の文献 ぶんけん では、733年 ねん (天平 てんぴょう 5年 ねん )に書 か かれた『海外 かいがい 国 こく 記 き 』の逸文 いつぶん で、664年 ねん (天智 てんじ 3年 ねん )に太宰府 だざいふ へ来 き た唐 とう の使者 ししゃ に「日本 にっぽん 鎮西 ちんぜい 筑紫 つくし 大将軍 だいしょうぐん 牒」とある書 しょ を与 あた えたというが、真偽 しんぎ は不明 ふめい である。結局 けっきょく 確 たし かなのは『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』における記述 きじゅつ であり、702年 ねん (大宝 たいほう 2年 ねん )に32年 ねん ぶりで唐 とう を訪 おとず れた遣唐使 けんとうし は、唐 とう 側 がわ が「大 だい 倭国 わのくに 」の使者 ししゃ として扱 あつか ったのに対 たい し、「日本国 にっぽんこく 使 し 」と主張 しゅちょう したという。『旧 きゅう 唐 とう 書 しょ 』『新 しん 唐 とう 書 しょ 』の記事 きじ も、この日本 にっぽん 側 がわ の説明 せつめい に基 もと づいているようである[118] 。なお『万葉集 まんようしゅう 』の歌謡 かよう では692年 ねん 、持 もち 統 すべ 天皇 てんのう が伊勢 いせ 国 こく の神郡 かんごおり [注釈 ちゅうしゃく 27] に行幸 ぎょうこう したときに随行 ずいこう した石上麻呂 いそのかみのまろ の歌 うた (44番 ばん )が「日本 にっぽん 」の初出 しょしゅつ であり、この「日本 にっぽん 」は大和 やまと 国 こく (現在 げんざい の奈良 なら 県 けん [注釈 ちゅうしゃく 28] )の意味 いみ で使 つか われている[注釈 ちゅうしゃく 29] 。
詳細 しょうさい
『日本書紀 にほんしょき 』では日本 にっぽん の初代 しょだい 天皇 てんのう の神武 じんむ 天皇 てんのう は神 かみ 日本 にっぽん 磐 いわ 余 あまり 彦尊( かむやまといわれひこのみこと ) と記 しる し、饒 にょう 速 そく 日 び 命 いのち ( にぎはやひ ) は「虚空 こくう 見 み つ日本 にっぽん の国 くに 」と日本 にっぽん を呼 よ んだ。
唐 とう の張 ちょう 守 まもる 節 ぶし が開 ひらき 元 もと 24年 ねん (736年 ねん )に記 しる した『史記 しき 正義 まさよし 』虞 おそれ 舜 しゅん 篇 へん には「武 たけ 后 きさき 改 あらため 倭國 わのくに 爲 ため 日本 にっぽん 國 こく (武 たけ 后 きさき が倭国 わのくに を改 あらた めて日本 にっぽん 国 こく と為 な す)」、夏 なつ 禹篇には「倭 やまと 國武 くにたけ 皇后 こうごう 改 あらため 曰日本國 ほんごく (倭国 わのくに は武 たけ 皇后 こうごう が改 あらた めて日本 にっぽん 国 こく と曰 のたま う)」とある。北 きた 宋 そう の王 おう 溥 が建 たて 隆 たかし 2年 ねん (961年 ねん )に記 しる した『唐 とう 会 かい 要 よう 』には「咸亨 元年 がんねん 三 さん 月 がつ 、遣 や 使 つかい 賀 が 平 ひら 髙麗、爾 しか 後繼 こうけい 来朝 らいちょう 貢 みつぎ 則 そく 天 てん 時 じ 、自 じ 言 げん 其國近日 きんじつ 所出 しょしゅつ 、故 ゆえ 號 ごう 日本 にっぽん 國 こく (咸亨元年 がんねん (670年 ねん )三 さん 月 がつ 、使 つかい を遣 つか わし、高麗 こうらい を平 たいら ぐるを賀 が し、爾後 じご 継 つ いで来 き たりて朝貢 ちょうこう す。則 のり 天 てん の時 とき 、自 みずか ら言 い う「其 そ の国 くに 、日 ひ の出 で づる所 しょ に近 ちか し、故 ゆえ に日本 にっぽん 国 こく と号 ごう す」と)」とある。北 きた 宋 そう の宋 そう 祁 が嘉 よしみ 祐 ゆう 5年 ねん (1060年 ねん )に記 しる した『新 しん 唐 とう 書 しょ 』には「天智 てんじ 死 し 、子 こ 天武 てんむ 立 りつ 。死 し 、子 こ 總 そう 持 じ 立 りつ 。咸亨元年 がんねん 、遣 や 使 つかい 賀 が 平 ひら 髙麗、後 ご 稍 やや 習夏音 おん 、惡 あく 倭名 わみょう 、更 さら 號 ごう 日 び 夲。使者 ししゃ 自 じ 言 げん 、国近 くにちか 日 び 所出 しょしゅつ 、以爲名 めい (天智 てんじ 死 し し、子 こ の天武 てんむ 立 た つ。死 し し、子 こ の總 そう 持 じ 立 た つ。咸亨元年 がんねん 、使 つかい を遣 つか わし髙麗を平 たいら ぐるを賀 が す、後 こう ち稍 やや く夏 なつ 音 おん を習 なら い、倭 やまと の名 な を悪 わる み、更 さら めて日 にち 夲と号 ごう く。使者 ししゃ 自 みずか ら言 い う、国 くに 、日 ひ の出 で づる所 しょ に近 ちか く、以 もっ て名 な と為 な すと)」とあり[119] 、名前 なまえ や系譜 けいふ の誤 あやま りはあるが持 もち 統 すべ 天皇 てんのう が国号 こくごう を変更 へんこう したとする。『史記 しき 正義 まさよし 』は唐 とう 代 だい に成立 せいりつ した書物 しょもつ 、『唐 とう 会 かい 要 よう 』は唐 とう 代 だい に編纂 へんさん されたものが北 きた 宋 そう 期 き に完成 かんせい した書物 しょもつ 、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』は唐 とう 代 だい に成立 せいりつ した史料 しりょう を元 もと に成立 せいりつ した書物 しょもつ であることから、信憑 しんぴょう 性 せい は高 たか いと考 かんが えられる[120] 。武則 たけのり 天 てん が改名 かいめい したとする『史記 しき 正義 まさよし 』の記事 きじ は事実 じじつ には反 はん するが、中華 ちゅうか 思想 しそう の立場 たちば からの表現 ひょうげん と考 かんが えられる[注釈 ちゅうしゃく 30] 。
『三 さん 国史 こくし 記 き 』の新 しん 羅 ら 本紀 ほんぎ では「670年 ねん 、倭国 わのくに が国号 こくごう を日本 にっぽん と改 あらた めた」とされているが、井上 いのうえ 秀雄 ひでお と吉田 よしだ 孝 たかし は、これは上記 じょうき の『新 しん 唐 とう 書 しょ 』を誤 あやま って引用 いんよう したものとする。新 しん 羅 ら 本紀 ほんぎ には「698年 ねん 、日本 にっぽん 国 こく から使者 ししゃ が来 き た」という記事 きじ もあるが、『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』にはこれに対応 たいおう する記事 きじ は無 な い。「倭 やまと 」と「日本 にっぽん 」の関係 かんけい について、『日本書紀 にほんしょき 』によれば、「ヤマト」の勢力 せいりょく が中心 ちゅうしん に倭 やまと を統一 とういつ した古代 こだい の日本 にっぽん では、漢字 かんじ の流入 りゅうにゅう と共 とも に「倭 やまと 」を借 か 字 じ として「ヤマト」と読 よ むようになり、やがて、その「ヤマト」に当 あ てる漢字 かんじ を「倭 やまと 」から「日本 にっぽん 」に変更 へんこう し、当初 とうしょ はこれを「ヤマト」と読 よ んだとする[82] 。
「日本 にっぽん 」という国号 こくごう の表記 ひょうき が定着 ていちゃく した時期 じき は、7世紀 せいき 後半 こうはん から8世紀 せいき 初頭 しょとう までの間 あいだ と考 かんが えられる。このころの東 ひがし アジアは、618年 ねん に成立 せいりつ した唐 とう が勢力 せいりょく を拡大 かくだい し、周辺 しゅうへん 諸国 しょこく に強 つよ い影響 えいきょう を及 およ ぼしていた。斉 ひとし 明天 めいてん 皇 すめらぎ は658年 ねん 臣 しん の阿倍比羅夫 あべのひらふ に、外国 がいこく である粛慎 (樺太 からふと )征伐 せいばつ を命 めい じている。663年 ねん の白村 はくそん 江 こう の戦 たたか いでの倭国 わのくに 軍 ぐん の敗戦 はいせん により、唐 とう は使者 ししゃ を倭国 わのくに に遣 つか わし、唐 とう と倭国 わのくに の戦後 せんご 処理 しょり を行 おこな っていく過程 かてい で、倭国 わのくに 側 がわ には唐 とう との対等 たいとう 関係 かんけい を目指 めざ した律令 りつりょう 国家 こっか に変革 へんかく していく必要 ひつよう 性 せい が生 しょう じた。これらの情勢 じょうせい を契機 けいき として、668年 ねん には天智天皇 てんぢてんのう が日本 にっぽん で最初 さいしょ の律令 りつりょう である近江 おうみ 朝廷 ちょうてい 之 の 令 れい (近江 おうみ 令 れい )を制定 せいてい した。そして672年 ねん の壬 みずのえ 申 さる の乱 らん を経 へ て強 つよ い権力 けんりょく を握 にぎ った天武天皇 てんむてんのう は、天皇 てんのう を中心 ちゅうしん とする体制 たいせい の構築 こうちく を更 さら に進 すす め、689年 ねん の飛鳥 あすか 浄 きよし 御 ご 原 はら 令 れい から701年 ねん (大宝 たいほう 元年 がんねん )の大宝 たいほう 律令 りつりょう の制定 せいてい へと至 いた る過程 かてい において国号 こくごう の表記 ひょうき としての「日本 にっぽん 」は誕生 たんじょう したと考 かんが えられる。
具体 ぐたい 的 てき な成立 せいりつ の時点 じてん は、天智天皇 てんぢてんのう の時代 じだい (670年 ねん )説 せつ を除 のぞ いた見解 けんかい は以下 いか の2説 せつ に絞 しぼ られる。
天武天皇 てんむてんのう の治世 ちせい (672年 ねん - 686年 ねん )に成立 せいりつ したとする説 せつ [121] 。これは、この治世 ちせい に「天皇 てんのう 」の号 ごう および表記 ひょうき が成立 せいりつ したと同 どう 時期 じき に「日本 にっぽん 」という表記 ひょうき も成立 せいりつ したとする見解 けんかい である。例 たと えば吉田 よしだ 孝 たかし は、689年 ねん の飛鳥 あすか 浄 きよし 御 ご 原 はら 令 れい で「天皇 てんのう 」表記 ひょうき と「日本 にっぽん 」表記 ひょうき と両方 りょうほう が定 さだ められたと推測 すいそく する[122] [注釈 ちゅうしゃく 31] 。
701年 ねん (大宝 たいほう 元年 がんねん )の大宝 たいほう 律令 りつりょう の成立 せいりつ の前後 ぜんご に「日本 にっぽん 」表記 ひょうき が成立 せいりつ したとする説 せつ 。例 たと えば神野 かみの 志 こころざし 隆光 りゅうこう は、大宝 たいほう 令 れい 公式 こうしき 令 れい 詔書 しょうしょ 式 しき で「日本 にっぽん 」表記 ひょうき が定 さだ められたとしている[123] 。ただし、『日本書紀 にほんしょき 』の大化 たいか 元年 がんねん (645年 ねん )七 なな 月 がつ 条 じょう には、高句麗 こうくり ・百済 くだら からの使者 ししゃ への詔 みことのり には「明神 みょうじん 御宇 ぎょう 日本 にっぽん 天皇 てんのう 」とあるが、今日 きょう これは、後 のち に定 さだ められた大宝 たいほう 律令 りつりょう 公式 こうしき 令 れい を元 もと に、『日本書紀 にほんしょき 』(720年 ねん (養老 ようろう 4年 ねん )成立 せいりつ )の編者 へんしゃ が潤色 じゅんしょく を加 くわ えたものと考 かんが えられている[124] 。
8世紀 せいき 前半 ぜんはん の唐 とう で成立 せいりつ した『唐 とう 暦 れき 』には、702年 ねん (大宝 たいほう 2年 ねん )に「日本 にっぽん 国 こく 」からの遣 や 使 つかい (遣唐使 けんとうし )があったと記 しる されている[125] 。後代 こうだい に成立 せいりつ した『旧 きゅう 唐 とう 書 しょ 』[126] [127] 、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』[128] にも、この時 とき の遣唐使 けんとうし によって「日本 にっぽん 」という新国 にいくに 号 ごう が唐 とう (武則 たけのり 天 てん 、大周 たいしゅう )へ伝 つた えられたとの記述 きじゅつ がある。両 りょう 書 しょ とも「日 ひ の出 で の地 ち に近 ちか いことが国号 こくごう の由来 ゆらい である」とする。国号 こくごう の変更 へんこう 理由 りゆう については「雅 みやび でない倭国 わのくに の名 な を嫌 きら ったからだ」という日本国 にっぽんこく 側 がわ からの説明 せつめい を記載 きさい するものの、倭国 わのくに と日本 にっぽん 国 こく との関係 かんけい については、単 たん なる国号 こくごう の変更 へんこう ではない可能 かのう 性 せい について言及 げんきゅう している。すなわち、『旧 きゅう 唐 とう 書 しょ 』は「小国 しょうこく だった日本 にっぽん が倭国 わのくに を併合 へいごう した」とし、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』は、日本 にっぽん の使者 ししゃ は「倭 やまと が国号 こくごう を日本 にっぽん に変 か えた」とか「倭 やまと が小国 しょうこく だった日本 にっぽん を併合 へいごう し国号 こくごう を奪 うば った」と説明 せつめい したとする説 せつ を記 しる している[注釈 ちゅうしゃく 32] 。また、日本 にっぽん の王 おう の姓 せい は阿 おもね 毎 まい 氏 し であること、筑紫 つくし 城 じょう にいた神武 じんむ が大和 やまと を征服 せいふく し天皇 てんのう となったことなどが記載 きさい されている。
これまでに発見 はっけん されている「日本 にっぽん 」国号 こくごう が記 しる された最古 さいこ の実物 じつぶつ 史料 しりょう は、開 ひらき 元 もと 22年 ねん (734年 ねん 、日本 にっぽん :天平 てんぺい 6年 ねん )銘 めい の井 い 真 ま 成 なり 墓誌 ぼし である[注釈 ちゅうしゃく 33] 。但 ただ し2011年 ねん 7月 がつ 、祢軍 [注釈 ちゅうしゃく 34] という名 な の百済 くだら 人 ひと 武将 ぶしょう の墓誌 ぼし に「日本 にっぽん 」の文字 もじ が見 み つかったという論文 ろんぶん が中国 ちゅうごく で発表 はっぴょう された。墓誌 ぼし は678年 ねん 制作 せいさく と考 かんが えられており、もしこれが事実 じじつ であるならば日本 にっぽん という国号 こくごう の成立 せいりつ は従来 じゅうらい 説 せつ から、さらに遡 さかのぼ ることになる[130] 。
『旧 きゅう 唐 とう 書 しょ 』・『新 しん 唐 とう 書 しょ 』などを理由 りゆう として「日本 にっぽん 」国号 こくごう は、日本 にっぽん 列島 れっとう を東方 とうほう に見 み るという中国 ちゅうごく 大陸 たいりく からの視点 してん に立 た った呼称 こしょう であるとする説 せつ がある[131] 。平安 へいあん 時代 じだい 初期 しょき に成立 せいりつ した『弘 ひろ 仁 じん 私記 しき 』序 じょ にて、日本 にっぽん 国 こく が中国 ちゅうごく に対 たい して「日 ひ の本 もと 」、つまり東方 とうほう に所在 しょざい することが日本 にっぽん の由来 ゆらい であると説明 せつめい され、平安 へいあん 時代 じだい に数 すう 度 ど に渡 わた って行 おこな われた『日本書紀 にほんしょき 』の講読 こうどく の様子 ようす を記 しる す『日本書紀 にほんしょき 私記 しき 』諸 しょ 本 ほん においても中国 ちゅうごく の視点 してん により名付 なづ けられたとする説 せつ が採 と られている[注釈 ちゅうしゃく 35] 。
『隋 ずい 書 しょ 』東夷 あずまえびす 伝 でん に、倭 やまと 王 おう が隋 ずい 皇帝 こうてい への国書 こくしょ に「日出 ひので ずる処 しょ の天子 てんし 」と自称 じしょう したとあり、このときの「日出 ひので ずる処 しょ 」という語句 ごく が「日本 にっぽん 」国号 こくごう の淵源 えんげん となったとする主張 しゅちょう もある。しかし、「日出 ひので ずる処 しょ 」について、仏典 ぶってん 『大智 たいち 度 ど 論 ろん 』に東方 とうほう の別 べつ 表現 ひょうげん である旨 むね の記述 きじゅつ があるため、現在 げんざい 、単 たん に文飾 ぶんしょく に過 す ぎないとする指摘 してき もある[132] 。
歴史 れきし
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通常 つうじょう 、日本 にっぽん の歴史 れきし は、日本 にっぽん 列島 れっとう における歴史 れきし と同一 どういつ 視 し される。しかし、厳密 げんみつ な「日本 にっぽん 」の成立 せいりつ は、国号 こくごう にあるように7世紀 せいき 後期 こうき であり、それまでは「倭国 わのくに 」と呼 よ び記 しる されていた。この倭国 わのくに がどのような地理 ちり 的 てき 範囲 はんい あるいは系統 けいとう 的 てき 範囲 はんい をもつ集団 しゅうだん であるかについては史料 しりょう に明確 めいかく にされておらず、多 おお くの学術 がくじゅつ 上 じょう の仮説 かせつ が提出 ていしゅつ されている。倭国 わのくに と日本 にっぽん 国 こく との関係 かんけい は諸説 しょせつ あり、「日本 にっぽん の歴史 れきし 」と「日本 にっぽん 列島 れっとう の歴史 れきし 」とを明確 めいかく に区別 くべつ して捉 とら えるべきとする考 かんが えも示 しめ されている[133] 。
人類 じんるい の歴史 れきし よりも日本 にっぽん 列島 れっとう の歴史 れきし の方 ほう が数 すう 千 せん 万 まん 年 ねん 以上 いじょう 長 なが く、日本 にっぽん 列島 れっとう には長 なが らくヒト が住 す んでいなかった。日本 にっぽん 列島 れっとう の形成 けいせい が始 はじ まったのは、哺乳類 ほにゅうるい が現 あらわ れた始 はじめ 新 しん 世 よ (5600万 まん 年 ねん 前 まえ - 3400万 まん 年 ねん 前 まえ )と推測 すいそく されている。そして、アフリカにヒト が現 あらわ れた時代 じだい は始 はじめ 新 しん 世 よ よりも遥 はる か後 ご の更新 こうしん 世 よ 末期 まっき (約 やく 25万 まん 年 ねん 前 まえ )である。
時代 じだい の区分 くぶん は、考古学 こうこがく 上 うえ のものと歴史 れきし 学 がく 上 うえ のものとがある。
(1)考古学 こうこがく 上 じょう は、旧石器時代 きゅうせっきじだい (先 さき 土器 どき 時代 じだい )、縄文 じょうもん 時代 じだい 、弥生 やよい 時代 じだい 、歴史 れきし 時代 じだい 、とするのが一般 いっぱん 的 てき である。
一方 いっぽう 、(2)歴史 れきし 学 がく 上 じょう は、古代 こだい (古墳 こふん 時代 じだい から・飛鳥 あすか 時代 ときよ ・奈良 なら 時代 じだい ・平安 へいあん 時代 じだい )、中世 ちゅうせい (鎌倉 かまくら 時代 ときよ ・室町 むろまち 時代 ときよ ・戦国 せんごく 時代 じだい )、近世 きんせい (安土 あづち 桃山 ももやま 時代 じだい ・江戸 えど 時代 じだい )、近代 きんだい (明治維新 めいじいしん から1945年 ねん 8月 がつ 14日 にち まで)および現代 げんだい (1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち 以降 いこう )の五 ご 分 ふん 法 ほう が通説 つうせつ である[注釈 ちゅうしゃく 36] 。
建国 けんこく をめぐる議論 ぎろん
日本 にっぽん の初代 しょだい 天皇 てんのう とされる神武 じんむ 天皇 てんのう
公的 こうてき には1966年 ねん に成立 せいりつ した建国 けんこく 記念 きねん の日 ひ となる日 ひ を定 さだ める政令 せいれい (昭和 しょうわ 41年 ねん 政令 せいれい 第 だい 376号 ごう )により、2月 がつ 11日 にち が「建国 けんこく されたという事象 じしょう そのものを記念 きねん する日 ひ 」として建国 けんこく 記念 きねん の日 ひ (旧 きゅう 紀元節 きげんせつ )が定 さだ められた。記紀 きき による初代 しょだい 神武 じんむ 天皇 てんのう 即位 そくい の日 ひ (辛 からし 酉 とり 年 ねん 1月 がつ 1日 にち )をグレゴリオ暦 れき に換算 かんさん (紀元前 きげんぜん 660年 ねん 2月 がつ 11日 にち )による。紀元前 きげんぜん 663年 ねん 、奈良盆地 ならぼんち とその周辺 しゅうへん を支配 しはい していた長 ちょう 髄 ずい 彦 を神武 じんむ 天皇 てんのう が打 う ち破 やぶ り(神武 じんむ 東征 とうせい )、神武 じんむ 天皇 てんのう が奈良盆地 ならぼんち とその周辺 しゅうへん を統治 とうち することになったとされる。
ただし、国家 こっか としての日本 にっぽん 、日本 にっぽん の民族 みんぞく ・文化 ぶんか は、有史 ゆうし 以前 いぜん からの長 なが い年月 としつき を経 へ て段階 だんかい 的 てき に形成 けいせい され、神話 しんわ か現実 げんじつ か区別 くべつ が難 むずか しい記録 きろく が多 おお いため[134] 、建国 けんこく 時期 じき の確実 かくじつ な根拠 こんきょ となる記録 きろく は存在 そんざい しない。
この神武 じんむ 天皇 てんのう 即位 そくい 紀元 きげん をもとに1957年 ねん ごろから「建国 けんこく 記念 きねん 日 び 」制定 せいてい に関 かん する法案 ほうあん が9度 ど に渡 わた り提出 ていしゅつ されてきたが、歴史 れきし 学 がく の立場 たちば から見 み る神武 じんむ 天皇 てんのう の即位 そくい は、当 とう の記紀 きき に何人 なんにん もの人 ひと が100歳 さい 以上 いじょう 生 い きていたなどの記述 きじゅつ もあることから神話 しんわ と見 み られ事実 じじつ でないとするのが戦後 せんご の大勢 おおぜい であったため、いずれも成立 せいりつ には至 いた らなかった背景 はいけい がある。
そのため建国 けんこく 記念 きねん の日 ひ も「日本 にっぽん が建国 けんこく された日付 ひづけ 」を法律 ほうりつ 上 じょう 定義 ていぎ するものではない。
神武 じんむ 天皇 てんのう は実在 じつざい しなかった架空 かくう の人物 じんぶつ である可能 かのう 性 せい がある[134] が、『日本書紀 にほんしょき 』神 かみ 武紀 たけのり に、カムヤマトイワレヒコ(神武 じんむ 天皇 てんのう )が辛 からし 酉 とり 年春 としはる 正月 しょうがつ 庚 かのえ 辰 たつ 朔 ついたち (1月 がつ 1日 にち )に即位 そくい したとの記述 きじゅつ があり、明治 めいじ 時代 じだい 以前 いぜん の日本 にっぽん では、これが日本 にっぽん 建国 けんこく の画 が 期 き と広 ひろ く考 かんが えられていた。そのため明治 めいじ 5年 ねん 11月15日 にち (1872年 ねん 12月15日 にち )には、神武 じんむ 天皇 てんのう 即位 そくい 紀元 きげん が西暦 せいれき 紀元前 きげんぜん 660年 ねん に始 はじ まると定 さだ められ、これを元年 がんねん とする紀年 きねん 法 ほう ・「皇紀 こうき 」が明治 めいじ 6年 ねん 1月 がつ 1日 にち (1873年 ねん 1月 がつ 1日 にち )から使用 しよう されていた[注釈 ちゅうしゃく 37] 。
他 ほか にも建国 けんこく の時期 じき として、「日本 にっぽん 」という国号 こくごう が定 さだ められた時期 じき (飛鳥 あすか 浄 きよし 御 ご 原 はら 令 れい ないし大宝 たいほう 律令 りつりょう の成立 せいりつ )や大政奉還 たいせいほうかん がなされて近代 きんだい 国家 こっか の建設 けんせつ が始 はじ まった(国際 こくさい 法 ほう 上 じょう の国家 こっか 主権 しゅけん の存在 そんざい が明確 めいかく 化 か された)明治維新 めいじいしん の時期 じき とする学説 がくせつ もあるなど、日本 にっぽん の建国 けんこく 時期 じき を明確 めいかく に定義 ていぎ づける証拠 しょうこ はない。
日本 にっぽん の黎明 れいめい 期 き
日本 にっぽん 列島 れっとう における人類 じんるい の歴史 れきし は、人 ひと が住 す み始 はじ めた約 やく 10万 まん 年 ねん 前 まえ 以前 いぜん ないし約 やく 3.5万 まん 年 ねん 前 まえ に始 はじ まったとされる[注釈 ちゅうしゃく 38] 。当時 とうじ の日本 にっぽん 列島 れっとう は、アジア大陸 たいりく と陸続 りくつづ きで[注釈 ちゅうしゃく 39] 、西方 せいほう の華北 かほく や北方 ほっぽう のシベリア との文化 ぶんか 交流 こうりゅう も見 み られた。約 やく 3万 まん 年 ねん 前 まえ には朝鮮半島 ちょうせんはんとう と海峡 かいきょう で隔 へだ たり、約 やく 1万 まん 2千 せん 年 ねん 前 まえ の前後 ぜんご に最終 さいしゅう 氷 ごおり 期 き が終 お わると6千 せん 年 ねん 前 まえ ごろまで100m以上 いじょう の海 うみ 進 しん が進 すす んだ(縄文 じょうもん 海 うみ 進 すすむ )。この時期 じき の住民 じゅうみん が縄文 じょうもん 人 じん である。この後 のち も列島 れっとう と大陸 たいりく との間 あいだ に小規模 しょうきぼ ながらも広範囲 こうはんい に通交 つうこう ・交流 こうりゅう が行 おこな われ、巨視的 きょしてき には、日本 にっぽん 列島 れっとう も中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん とする東 ひがし アジア文化 ぶんか 圏 けん の影響 えいきょう 下 か にあった[注釈 ちゅうしゃく 40] 。だが、東 ひがし アジアの最 さい 東方 とうほう に所在 しょざい する大 おお きな島国 しまぐに 、という地理 ちり 的 てき 条件 じょうけん により、黄河 こうが ・長江 ちょうこう 流域 りゅういき の文明 ぶんめい を中心 ちゅうしん に早期 そうき から発展 はってん していた中国 ちゅうごく と比 くら べると、文明 ぶんめい の発達 はったつ 度 ど という意味 いみ では後進 こうしん 地域 ちいき となっていた。
紀元前 きげんぜん 8世紀 せいき ごろ以降 いこう 、中国 ちゅうごく 南部 なんぶ から稲作 いなさく を中心 ちゅうしん とする文化 ぶんか 様式 ようしき を持 も つ弥生 やよい 人 じん が流入 りゅうにゅう すると、各地 かくち に「クニ」と呼 よ ばれる地域 ちいき 的 てき 政治 せいじ 集団 しゅうだん が徐々 じょじょ に形成 けいせい される。これらの地域 ちいき 的 てき 政治 せいじ 集団 しゅうだん により、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ から南西諸島 なんせいしょとう までの範囲 はんい で海上 かいじょう 交易 こうえき で結 むす びついた緩 ゆる やかな倭人 わじん の文化 ぶんか 圏 けん が構成 こうせい されていった。こうした文化 ぶんか 圏 けん の中 なか で、勾玉 まがたま などが紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき 以降 いこう 日本 にっぽん から朝鮮半島 ちょうせんはんとう へ伝搬 でんぱん したほか、紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき ごろに青銅器 せいどうき および鉄器 てっき の製造 せいぞう 法 ほう が日本 にっぽん へ伝 つた わった。1世紀 せいき ・2世紀 せいき 前後 ぜんご に倭 やまと の代表 だいひょう の座 ざ を巡 めぐ って各 かく クニが抗 こう 争 そう を繰 く り返 かえ し、各地 かくち に地域 ちいき 的 てき 連合 れんごう 国家 こっか を形成 けいせい した。中 なか でも北九州 きたきゅうしゅう から本州 ほんしゅう にかけて存在 そんざい していた国家 こっか 群 ぐん から、最 もっと も有力 ゆうりょく であったヤマトを盟主 めいしゅ として統一 とういつ 王権 おうけん (ヤマト王権 おうけん )が形成 けいせい され、これが王朝 おうちょう に発展 はってん したとする説 せつ が有力 ゆうりょく である。王権 おうけん の首長 しゅちょう (王 おう )はのちに大王 だいおう (おおきみ)と呼 よ ばれ、豪族 ごうぞく (地方 ちほう 首長 しゅちょう )を従 したが えて統一 とういつ 国家 こっか 建設 けんせつ を進 すす めた。
律令 りつりょう 国家 こっか の成立 せいりつ と貴族 きぞく 政治 せいじ の展開 てんかい
漢 かん 委 い 奴 やつ 国王 こくおう 印 しるし
朝鮮半島 ちょうせんはんとう における覇権 はけん 争 あらそ いが倭国 わのくに の国家 こっか 体制 たいせい を変化 へんか させた。それまで、ヤマト王権 おうけん は、同 おな じ文化 ぶんか 圏 けん に属 ぞく していたツングース系 けい 中国人 ちゅうごくじん の国家 こっか である百済 くだら や新 しん 羅 ら に対 たい して、度重 たびかさ なる出兵 しゅっぺい を行 おこな い任 にん 那 な に日本 にっぽん 領 りょう を築 きず くなど、朝鮮半島 ちょうせんはんとう に影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていたが、663年 ねん 、百済 くだら 復興 ふっこう のために援軍 えんぐん を送 おく った白村 はくそん 江 こう の戦 たたか い で新 しん 羅 ら ・唐 とう の連合 れんごう 軍 ぐん に敗 やぶ れて半島 はんとう への影響 えいきょう 力 りょく を後退 こうたい させる。その後 ご 間 ま もなくヤマト王権 おうけん は「倭国 わのくに 」号 ごう に代 か わる「日本 にっぽん 国 こく 」号 ごう 、「大王 だいおう 」号 ごう に代 か わる「天皇 てんのう 」号 ごう を設定 せってい して、中国 ちゅうごく と対等 たいとう な外交 がいこう 関係 かんけい を結 むす ぼうとする姿勢 しせい を見 み せ、中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん とする冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい からの自立 じりつ を明確 めいかく にした。これは、他 た の東 ひがし アジア諸国 しょこく と異質 いしつ な外交 がいこう 姿勢 しせい であり、その後 ご の日本 にっぽん にも多 おお かれ少 すく なかれ引 ひ き継 つ がれた。日本 にっぽん は7世紀 せいき 後半 こうはん に中国 ちゅうごく の法体 ほうたい 系 けい ・社会 しゃかい 制度 せいど を急速 きゅうそく に摂取 せっしゅ し、8世紀 せいき 初頭 しょとう に古代 こだい 国家 こっか (律令 りつりょう 国家 こっか )としての完成 かんせい を見 み た。また『隋 ずい 書 しょ 』では、日本 にっぽん 列島 れっとう での古墳 こふん 時代 じだい 後期 こうき にあたる610年 ねん に隋 ずい が「流 ながれ 求 もとめ 国 こく 」に遠征 えんせい して滅亡 めつぼう させたとされており、従来 じゅうらい の研究 けんきゅう ではこれが琉球 りゅうきゅう 諸島 しょとう に存在 そんざい していたことが定説 ていせつ となっていたが、その位置 いち を巡 めぐ っては意見 いけん が分 わ かれている[135] [136] 。
日本 にっぽん は、東 ひがし アジアの中 なか でも独特 どくとく の国際 こくさい 的 てき な地位 ちい を保持 ほじ し続 つづ け、7世紀 せいき に中華 ちゅうか 王朝 おうちょう に対 たい して独自 どくじ の「天子 てんし 」を称 しょう し、8世紀 せいき には渤海を朝貢 ちょうこう 国 こく とした 。後述 こうじゅつ する武家 ぶけ 政権 せいけん 成立 せいりつ 後 ご も、13世紀 せいき の元 もと 寇 、16世紀 せいき のヨーロッパのアジア進出 しんしゅつ 、19世紀 せいき の欧米 おうべい 列強 れっきょう の進出 しんしゅつ など、様々 さまざま な事態 じたい にも対応 たいおう して独立 どくりつ を維持 いじ していくこととなる。
成立 せいりつ 当時 とうじ の倭 やまと の支配 しはい 地域 ちいき は、日本 にっぽん 列島 れっとう の全域 ぜんいき に及 およ ぶものでなく、九州 きゅうしゅう 南部 なんぶ 以南 いなん および東北 とうほく 中部 ちゅうぶ 以北 いほく は、まだ領域 りょういき 外 がい だった。九州 きゅうしゅう 南部 なんぶ は、8世紀 せいき 末 まつ に組 く み込 こ まれた(隼人 はやと )が、抵抗 ていこう の強 つよ かった東北 とうほく 地方 ちほう の全域 ぜんいき が平安 へいあん 時代 じだい 後期 こうき に(延久 のべひさ 蝦夷 えぞ 合戦 かっせん )領域 りょういき に組 く み込 こ まれ、倭人 わじん 、隼人 はやと 、蝦夷 えぞ 人 じん が日本人 にっぽんじん となった。特 とく に8、9世紀 せいき は、蝦夷 えぞ の征服 せいふく 活動 かつどう が活発 かっぱつ 化 か すると共 とも に、関係 かんけい が悪化 あっか した新 しん 羅 ら への遠征 えんせい も計画 けいかく される[137] など、帝国 ていこく としての対外 たいがい 志向 しこう が強 つよ まった時期 じき だが、10世紀 せいき に入 はい り、こうした動 うご きも沈静 ちんせい 化 か した。
9世紀 せいき から10世紀 せいき にかけて、地方 ちほう 豪族 ごうぞく や有力 ゆうりょく 農民 のうみん は、勢力 せいりょく の維持 いじ ・拡大 かくだい を図 はか り、武装 ぶそう するようになった。彼 かれ らはしばしば各地 かくち で紛争 ふんそう を起 お こすようになり、政府 せいふ は制圧 せいあつ のために中 ちゅう 下級 かきゅう の公家 くげ を押領使 し や追 つい 捕 と 使 つかい に任 にん じて、各地 かくち に派遣 はけん したが、中 なか には在庁 ざいちょう 官 かん 人 じん となってそのまま定着 ていちゃく するものも現 あらわ れるようになった。これが武士 ぶし の起 お こりである。武士 ぶし は家子 いえこ や郎党 ろうとう を率 ひき いて戦 せん を繰 く り返 かえ したが、やがて東日本 ひがしにっぽん を中心 ちゅうしん に、連合体 れんごうたい である武士 ぶし 団 だん へと成長 せいちょう した。中 なか でも中央 ちゅうおう 貴族 きぞく の系譜 けいふ を引 ひ く桓武 かんむ 平 たいら 氏 し と清和 せいわ 源 はじめ 氏 し は、軍事 ぐんじ 貴族 きぞく である武家 ぶけ となって武士 ぶし を二分 にぶん する勢力 せいりょく に成長 せいちょう し、政権 せいけん を巡 めぐ って両者 りょうしゃ は相 あい 争 あらそ った。
中央 ちゅうおう 政治 せいじ においては11世紀 せいき に藤原 ふじわら 北 きた 家 か が皇族 こうぞく の外戚 がいせき として政権 せいけん 中枢 ちゅうすう を担 にな う摂関 せっかん 政治 せいじ が成立 せいりつ した。白河 しらかわ 上皇 じょうこう が治 ち 天 てん の君 きみ として実権 じっけん を握 にぎ って以降 いこう は、藤原 ふじわら 北 きた 家 か と直接 ちょくせつ の血縁 けつえん を持 も たない天皇 てんのう が早 はや くに譲位 じょうい し、太上天皇 だじょうてんのう (上皇 じょうこう )となって政 せい を取 と り仕切 しき る院政 いんせい がしばしば見 み られるようになった。
文化 ぶんか 面 めん においては、7世紀 せいき から9世紀 せいき にかけて唐 とう を中心 ちゅうしん とする大陸 たいりく 文化 ぶんか の摂取 せっしゅ に努 つと めたが、10世紀 せいき ごろから12世紀 せいき にかけては日本 にっぽん 独特 どくとく の文化 ぶんか が創造 そうぞう されるようになり、国風 くにぶり 文化 ぶんか が花開 はなひら いた[3] 。
武家 ぶけ 政権 せいけん の時代 じだい
当世 とうせい 具足 ぐそく を身 み に着 つ けた侍 さむらい 手 て 彩色 さいしき 写真 しゃしん 。元 もと の写真 しゃしん はフェリーチェ・ベアト による1860年代 ねんだい の撮影 さつえい 。
10世紀 せいき から12世紀 せいき にかけて、旧来 きゅうらい の天皇 てんのう を中心 ちゅうしん とする古代 こだい の律令 りつりょう 国家 こっか 体制 たいせい が大 おお きく変質 へんしつ し、社会 しゃかい 各 かく 階層 かいそう への分権 ぶんけん 化 か が進 すす んだ王朝 おうちょう 国家 こっか 体制 たいせい へと移行 いこう した。更 さら に治 ち 承 うけたまわ ・寿 ことぶき 永 ひさし の乱 らん で平 たいら 氏 し 政権 せいけん を破 やぶ った清和 せいわ 源 はじめ 氏 し や北条 ほうじょう 氏 し が実権 じっけん を掌握 しょうあく する鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ が王朝 おうちょう 貴族 きぞく 勢力 せいりょく と拮抗 きっこう しながら国内 こくない の統治 とうち を行 おこな い、「一所懸命 いっしょけんめい 」「御 ご 恩 おん と奉公 ほうこう 」の言葉 ことば に象徴 しょうちょう される封建 ほうけん 的 てき なシステムが確立 かくりつ した(荘園 しょうえん 公 こう 領 りょう 制 せい 、職 しょく の体系 たいけい )[3] 。
12世紀 せいき ごろ(平安 へいあん 末期 まっき )から起請文 きしょうもん などの古文書 こもんじょ に「日本 にっぽん 」「日本 にっぽん 国 こく 」の表記 ひょうき が見 み られ始 はじ め「日本 にっぽん 」「日本人 にっぽんじん 」の意識 いしき が強 つよ く意識 いしき されるようになったことの表 あらわ れと考 かんが えられる。また、このころに今日 きょう につながる日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう の諸 しょ 宗派 しゅうは が発達 はったつ した[3] 。
モンゴル帝国 ていこく に勝利 しょうり 後 ご
13世紀 せいき 後半 こうはん のモンゴル帝国 ていこく の日本 にっぽん 侵攻 しんこう は、「日本 にっぽん 」「日本人 にっぽんじん 」の意識 いしき が社会 しゃかい 各層 かくそう に広 ひろ く浸透 しんとう する契機 けいき となり、併 あわ せて「神国 しんこく 」観念 かんねん を定着 ていちゃく させた。網野 あみの 善彦 よしひこ は、このような「日本 にっぽん 」「日本人 にっぽんじん 」意識 いしき は、外国 がいこく のみならず神仏 しんぶつ などをも含 ふく む「異 こと 界 かい 」に対 たい する関係 かんけい 性 せい の中 なか で醸成 じょうせい されたとしている[138] 。
1333年 ねん に鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ を滅亡 めつぼう させた後醍醐天皇 ごだいごてんのう は古代 こだい の天皇 てんのう 親政 しんせい に回帰 かいき する建 たて 武 たけし の新政 しんせい を行 おこな ったが、ほどなく失敗 しっぱい し、1336年 ねん に成立 せいりつ した足利 あしかが 氏 し の室町 むろまち 幕府 ばくふ がその後 ご の南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい の騒乱 そうらん を抑 おさ えて中世 ちゅうせい 武家 ぶけ 政権 せいけん の支配 しはい を継続 けいぞく した。
この室町 むろまち 時代 じだい までには、安東 あんどう 氏 し の活動 かつどう を通 つう じて「日本 にっぽん 」の領域 りょういき が北海道 ほっかいどう の南部 なんぶ まで及 およ んだ(道 みち 南 みなみ 十 じゅう 二 に 館 かん )。また、15世紀 せいき には足利 あしかが 義満 よしみつ による日明 ひあがり 貿易 ぼうえき が行 おこな われ、形式 けいしき 的 てき には足利 あしかが 将軍 しょうぐん が「日本 にっぽん 国王 こくおう 」として中国 ちゅうごく の明朝 みょうちょう から冊 さつ 封 ふう を受 う けることになったが、その後 ご の日 にち 中 ちゅう 関係 かんけい ではこの関係 かんけい は定着 ていちゃく しなかった。
戦国 せんごく 時代 じだい ・近世 きんせい の到来 とうらい
三 さん 英傑 えいけつ
14世紀 せいき から15世紀 せいき までの時期 じき には社会 しゃかい の中世 ちゅうせい 的 てき な分権 ぶんけん 化 か が一層 いっそう 進展 しんてん し、守護 しゅご 領国 りょうごく 制 せい が形成 けいせい されたが、応仁 おうにん の乱 らん による室町 むろまち 幕府 ばくふ の衰退 すいたい を決定 けってい 機 き として15世紀 せいき 後半 こうはん ごろから戦国 せんごく 大名 だいみょう 勢力 せいりょく による地域 ちいき 国家 こっか の形成 けいせい が急速 きゅうそく に進 すす んだ[3] 。この地域 ちいき 国家 こっか の形成 けいせい は中世 ちゅうせい 社会 しゃかい の再 さい 統合 とうごう へと繋 つな がり、16世紀 せいき 末 まつ に織田 おだ 信長 のぶなが の遺志 いし を引 ひ き継 つ ぎ日本 にっぽん の統一 とういつ 政権 せいけん を樹立 じゅりつ した豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし は太閤 たいこう 検地 けんち を実施 じっし し近世 きんせい 封建 ほうけん 社会 しゃかい の基礎 きそ を確立 かくりつ した[139] 。戦国 せんごく 大名 だいみょう の最後 さいご の覇者 はしゃ となった徳川 とくがわ 家康 いえやす は1603年 ねん に江戸 えど 幕府 ばくふ を開 ひら き、約 やく 260年間 ねんかん にわたる「天下 てんか 泰平 たいへい の世 よ 」が続 つづ いた[3] 。幕 まく 藩 はん 体制 たいせい の確立 かくりつ は日本 にっぽん 国内 こくない の安定 あんてい 化 か をもたらし、緩 ゆる やかな経済 けいざい 成長 せいちょう の継続 けいぞく は大都市 だいとし の発展 はってん や商業 しょうぎょう 資本 しほん の蓄積 ちくせき として近代 きんだい 化 か の基盤 きばん の一 ひと つになった。一方 いっぽう 、17世紀 せいき 以降 いこう に発展 はってん した国学 こくがく は日本 にっぽん の伝統 でんとう 宗教 しゅうきょう である神道 しんとう を思想 しそう 的 てき に発展 はってん させ、その後 ご の日本 にっぽん に大 おお きな思想 しそう 的 てき 影響 えいきょう を与 あた えた。
日本 にっぽん の領域 りょういき は、この時期 じき にも変動 へんどう している。16世紀 せいき 末 まつ に蠣崎 かきざき 氏 し が北海道 ほっかいどう の南部 なんぶ に本拠 ほんきょ を置 お き、北海道 ほっかいどう ・千島 ちしま ・樺太 からふと ・カムチャッカを含 ふく む蝦夷 えぞ 地 ち の支配 しはい 権 けん を得 え た。蝦夷 えぞ 地 ち は、日本 にっぽん の領域 りょういき とされることもあれば、領域 りょういき 外 がい とされることもある、言 い わば「境界 きょうかい 」とも言 い うべき地域 ちいき だったが、17世紀 せいき にシャクシャインの戦 たたか い やロシア帝国 ていこく の進出 しんしゅつ によって北方 ほっぽう への関心 かんしん が強 つよ まると、日本 にっぽん の領域 りょういき も「蝦夷 えぞ が島 しま 」(北海道 ほっかいどう )以南 いなん と意識 いしき されるようになった。南方 なんぽう に目 め を向 む けると、中世 ちゅうせい を通 つう じて鬼 おに 界 さかい 島 とう ・硫黄 いおう 島 とう までが西 にし の境界 きょうかい と意識 いしき された。17世紀 せいき 初 はじ めに薩摩 さつま 藩 はん の島津 しまつ 氏 し は琉球 りゅうきゅう 王国 おうこく に侵攻 しんこう して、かつて北条 ほうじょう 氏 し の得 とく 宗 むね 領 りょう であり、鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ 滅亡 めつぼう 後 ご 島津 しまつ 氏 し の支配 しはい 下 か に入 はい った千 せん 竈 かまど 氏 し の采配 さいはい 地 ち であった奄美 あまみ 群島 ぐんとう を直轄 ちょっかつ 地 ち とし、沖縄諸島 おきなわしょとう および先 さき 島 とう 諸島 しょとう (宮古列島 みやこれっとう および八重山列島 やえやまれっとう )の琉球 りゅうきゅう 王 おう 府 ふ の支配 しはい 地 ち から米 べい ・砂糖 さとう を上納 じょうのう させた[140] が、朝貢 ちょうこう 貿易 ぼうえき は続 つづ けさせたため、その後 ご も琉球 りゅうきゅう 王国 おうこく は、日本 にっぽん ・明朝 みょうちょう (後 のち に清朝 せいちょう )両 りょう 属 ぞく の状態 じょうたい に置 お かれた。
海外 かいがい との交流 こうりゅう の面 めん においては、ポルトガル 船 ふね の来航 らいこう 以来 いらい 16世紀 せいき には南蛮 なんばん 貿易 ぼうえき が盛 さか んになり、織田 おだ 信長 のぶなが は特 とく にこれらを保護 ほご し文化 ぶんか 的 てき な交流 こうりゅう も極 きわ めて豊 ゆた かな状態 じょうたい になった一方 いっぽう 、豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし は伴天連 ばてれん 追放 ついほう 令 れい を発 はっ し、秀吉 ひでよし が李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん に侵攻 しんこう した文禄・慶長 ぶんろくけいちょう の役 えき の失敗 しっぱい 後 ご 、1603年 ねん に徳川 とくがわ 家康 いえやす が開 ひら いた江戸 えど 幕府 ばくふ は薩摩 さつま を通 つう じた琉球 りゅうきゅう 侵攻 しんこう 以外 いがい は対外 たいがい 政策 せいさく は徐々 じょじょ に消極 しょうきょく 的 てき になり、貿易 ぼうえき も「鎖国 さこく 」とも称 しょう される貿易 ぼうえき 体制 たいせい によって外国 がいこく 文物 ぶんぶつ の流入 りゅうにゅう が制限 せいげん されるようになったものの、清 きよし との貿易 ぼうえき や出島 でじま でのオランダ との交易 こうえき を通 つう じ文化 ぶんか ・情報 じょうほう の流入 りゅうにゅう は途絶 とだ える事 こと はなかった。18世紀 せいき 末 まつ 以降 いこう 、江戸 えど 幕府 ばくふ は千島 ちしま 列島 れっとう などでロシア勢力 せいりょく と接触 せっしょく し、北方 ほっぽう での防衛 ぼうえい 強化 きょうか が課題 かだい となったが、ロシアとの正式 せいしき な外交 がいこう 条約 じょうやく や国境 こっきょう 画定 かくてい は「開国 かいこく 」後 ご まで行 おこな われなかった。
1865年 ねん ごろの江戸 えど (武家 ぶけ 政権 せいけん 終焉 しゅうえん の直前 ちょくぜん に愛宕山 あたごやま から撮影 さつえい )
明治維新 めいじいしん と近代 きんだい 日本 にっぽん の展開 てんかい
明治 めいじ 以降 いこう の西洋 せいよう 化 か と共 とも に経済 けいざい 発展 はってん を遂 と げた21世紀 せいき の東京 とうきょう 都 と (新宿 しんじゅく ・東京 とうきょう スカイツリー 、レインボーブリッジ 、渋谷 しぶや 、国会 こっかい 議事堂 ぎじどう )
江戸 えど 幕府 ばくふ は日米 にちべい 和親 わしん 条約 じょうやく を皮切 かわき りに開国 かいこく を行 おこな い、それまでの対外 たいがい 政策 せいさく を変更 へんこう した。幕末 ばくまつ 期 き には人口 じんこう 増加 ぞうか も見 み られたが、尊王 そんのう 攘夷 じょうい 運動 うんどう を経 へ た明治維新 めいじいしん で、明治 めいじ 政府 せいふ は幕 まく 藩 はん 体制 たいせい を崩壊 ほうかい させ中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か を進 すす めた。近隣 きんりん 国 こく と国境 こっきょう の確定 かくてい を行 おこな い、1875年 ねん に樺太 からふと 全域 ぜんいき をロシア領 りょう とする代 か わりに占 うらない 守 もり 島 とう 以南 いなん の千島 ちしま 列島 れっとう 全域 ぜんいき を日本 にっぽん 領 りょう とし(樺太 からふと ・千島 ちしま 交換 こうかん 条約 じょうやく )、1876年 ねん に小笠原諸島 おがさわらしょとう の領有 りょうゆう を宣言 せんげん し[141] 、また、琉球 りゅうきゅう 処分 しょぶん を行 おこな うとともに1885年 ねん に大東諸島 だいとうしょとう 、1895年 ねん に尖閣諸島 せんかくしょとう を編入 へんにゅう し、南西諸島 なんせいしょとう 方面 ほうめん の実効 じっこう 的 てき な支配 しはい を確立 かくりつ した。明治 めいじ 政府 せいふ の対外 たいがい 政策 せいさく の中心 ちゅうしん 課題 かだい に不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく の撤廃 てっぱい があった。
自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう を受 う けて1889年 ねん に発布 はっぷ された大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう により、アジアで初 はじ めて憲法 けんぽう と議会 ぎかい とを持 も つ、近代 きんだい 的 てき な「立憲 りっけん 国家 こっか 」となった[注釈 ちゅうしゃく 41] [142] 。帝国 ていこく 憲法 けんぽう 下 か では部分 ぶぶん 的 てき な権利 けんり が保障 ほしょう されたが、1925年 ねん の普通 ふつう 選挙 せんきょ 法 ほう で男子 だんし 普通 ふつう 選挙 せんきょ 制度 せいど が成立 せいりつ した。
大日本帝国 だいにっぽんていこく
諸 しょ 外国 がいこく との戦争 せんそう に次々 つぎつぎ と勝利 しょうり する日本 にっぽん
日 にち 清 しん 戦争 せんそう に勝利 しょうり した日本 にっぽん は乙 おつ 未 み 戦争 せんそう 後 のち に台湾 たいわん 割譲 かつじょう 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう によってロシア帝国 ていこく に勝利 しょうり した日本 にっぽん は南 みなみ 樺太 からふと 割譲 かつじょう 、朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ 設立 せつりつ 後 ご には韓国 かんこく 併合 へいごう で領土 りょうど を拡大 かくだい させると、シベリア出兵 しゅっぺい の失敗 しっぱい を経 へ たのち、関東軍 かんとうぐん は日本 にっぽん が権益 けんえき を持 も つ満 まん 洲 しゅう (中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ )への侵略 しんりゃく を強 つよ め[143] 、1934年 ねん に満 まん 洲 しゅう 国 こく を建国 けんこく して一定 いってい の支配 しはい 権 けん を得 え るに至 いた り[144] 、その後 ご 対 たい 支 ささえ 一 いち 撃 げき 論 ろん を主張 しゅちょう する。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に勝利 しょうり
日 にち 清 しん 戦争 せんそう 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 、義和 よしかず 団 だん の乱 らん と外国 がいこく との戦争 せんそう で連続 れんぞく 的 てき に勝利 しょうり してきた日本 にっぽん は当初 とうしょ 、1914年 ねん にヨーロッパで始 はじ まった第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に直接 ちょくせつ 国益 こくえき に関与 かんよ しないにもかかわらず日 にち 英 えい 同盟 どうめい を根拠 こんきょ に連合 れんごう 国 こく 側 がわ として参戦 さんせん した。日本 にっぽん は中央 ちゅうおう 同盟 どうめい 国 こく のドイツ帝国 ていこく とオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく に宣戦 せんせん 布告 ふこく 、日 にち 独 どく 戦争 せんそう に突入 とつにゅう した。欧州 おうしゅう 諸国 しょこく とは違 ちが い日本 にっぽん 本土 ほんど は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 、被害 ひがい を受 う けなかったため、日本 にっぽん はアフリカやアジアに輸出 ゆしゅつ が増加 ぞうか 、国内 こくない は大戦 たいせん 景気 けいき と呼 よ ばれる好景気 こうけいき が5年 ねん 以上 いじょう と続 つづ いた。
ドイツ帝国 ていこく とオーストリア・ハンガリー帝国 ていこく に次々 つぎつぎ と勝利 しょうり していった日本 にっぽん は植民 しょくみん 地 ち だった中華民国 ちゅうかみんこく の一部 いちぶ の都市 とし を占領 せんりょう した。大戦 たいせん の結果 けっか 、日本 にっぽん などの連合 れんごう 国 こく は勝利 しょうり した。
戦後 せんご 、日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい で建 た てられた南洋 なんよう 神社 じんじゃ 。鳥居 とりい があるなど数 すう 多 おお くの日本 にっぽん 文化 ぶんか が入 はい った事 こと が分 わ かる(現在 げんざい のパラオ共和国 ぱらおきょうわこく )。 また、現在 げんざい でもパラオ共和国 ぱらおきょうわこく のアンガウル州 しゅう は日本語 にほんご が公用 こうよう 語 ご になっている。
戦後 せんご の日本 にっぽん は戦勝 せんしょう 国 こく になったことから欧州 おうしゅう の列強 れっきょう 国 こく とともに数少 かずすく ない国際 こくさい 連盟 れんめい の常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく に加盟 かめい するなど国際 こくさい 社会 しゃかい の大国 たいこく として君臨 くんりん していった。また、ドイツ領 りょう ニューギニアも日本 にっぽん の統治 とうち 下 か へと変更 へんこう になった [疑問 ぎもん 点 てん – ノート ] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に敗北 はいぼく
1942年 ねん 時点 じてん の軍事 ぐんじ 勢力 せいりょく 圏 けん (濃緑 こみどり は領土 りょうど )
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう に引 ひ き続 つづ き1941年 ねん に真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき で太平洋戦争 たいへいようせんそう が開戦 かいせん し、既 すで にヨーロッパ ではナチス・ドイツ が侵攻 しんこう を開始 かいし していたものの、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が参戦 さんせん した事 こと でここに第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん は全 ぜん 世界 せかい に拡大 かくだい した。真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の奇襲 きしゅう に成功 せいこう しながらドックや補給 ほきゅう タンクを放置 ほうち したことがミッドウエイ海戦 かいせん での米 べい 軍 ぐん の戦力 せんりょく 回復 かいふく を助 たす けたことなど、自国 じこく 側 がわ の兵站 へいたん 計画 けいかく だけでなく、敵対 てきたい 国 こく の兵站 へいたん を断 た つことへの認識 にんしき の甘 あま さを指摘 してき する説 せつ もある[145] 。
敗戦 はいせん により日本 にっぽん は朝鮮 ちょうせん ・台湾 たいわん ・樺太 からふと ・千島 ちしま 列島 れっとう を放棄 ほうき した。
戦後 せんご 復興 ふっこう
占領 せんりょう から主権 しゅけん 回復 かいふく 期 き
1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち 、玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう で昭和 しょうわ 天皇 てんのう は臣民 しんみん にポツダム宣言 せんげん を受諾 じゅだく する事 こと を広報 こうほう し、同年 どうねん 9月 がつ 2日 にち 降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に日本 にっぽん と連合 れんごう 国 こく が署名 しょめい したことで太平洋戦争 たいへいようせんそう は終結 しゅうけつ し、日本 にっぽん はGHQ の監督 かんとく 下 か に置 お かれることになった。初 はつ の男女 だんじょ 普通 ふつう 選挙 せんきょ だった第 だい 22回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ で選 えら ばれた衆議院 しゅうぎいん での改正 かいせい 手続 てつづ きを経 へ た日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう が、1946年 ねん 11月3日 にち に公布 こうふ され、大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう が全文 ぜんぶん 改正 かいせい された形式 けいしき をとるものの国民 こくみん 主権 しゅけん になり主権 しゅけん 者 しゃ 規定 きてい が変更 へんこう された。人材 じんざい 面 めん では公職 こうしょく 追放 ついほう ・レッドパージ が行 おこな われた。占領 せんりょう 当局 とうきょく は政策 せいさく を進 すす めるにあたりプレスコード を布 し いた。当初 とうしょ 憲法 けんぽう に従 したが い軍隊 ぐんたい に準 じゅん ずる組織 そしき はなかったものの1950年 ねん には警察 けいさつ 予備 よび 隊 たい が設置 せっち された。
1951年 ねん 9月 にサンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく が調印 ちょういん され、日本 にっぽん の主権 しゅけん 回復 かいふく が決 き められるとともに、日本 にっぽん はここで朝鮮 ちょうせん の独立 どくりつ を承認 しょうにん し、済州 さいしゅう 島 とう ・巨 きょ 文 ぶん 島 とう ・鬱 うつ 陵 りょう 島 とう を含 ふく む朝鮮 ちょうせん 地域 ちいき の放棄 ほうき が規定 きてい された[146] 。同時 どうじ に日本 にっぽん 国 こく とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との間 あいだ の安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく (旧 きゅう 日米 にちべい 安保 あんぽ 条約 じょうやく )が調印 ちょういん され、主権 しゅけん 回復 かいふく 後 ご も引 ひ き続 つづ き在 ざい 日米 にちべい 軍 ぐん の駐留 ちゅうりゅう が続 つづ けられることとなった[3] [147] 。1952年 ねん 主権 しゅけん 回復 かいふく 。1956年 ねん 、日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん 調印 ちょういん 後 ご 、国際 こくさい 連合 れんごう に加盟 かめい した。
経済 けいざい の面 めん においては、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の日本 にっぽん の状況 じょうきょう は苛烈 かれつ を極 きわ めたものの、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ に伴 ともな う朝鮮 ちょうせん 特需 とくじゅ もあって経済 けいざい 復興 ふっこう をとげ[3] 、1956年 ねん の『経済 けいざい 白書 はくしょ 』で「もはや戦後 せんご ではない」と記述 きじゅつ される状況 じょうきょう に至 いた った。
主権 しゅけん 回復 かいふく 後 ご
神武 じんむ 景気 けいき から本格 ほんかく 的 てき な経済 けいざい 成長 せいちょう に入 はい った日本 にっぽん は、60年代 ねんだい には高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き に突入 とつにゅう した。オイルショックまで高度 こうど 成長 せいちょう は続 つづ き、成長 せいちょう と所得 しょとく の平等 びょうどう (一 いち 億 おく 総 そう 中流 ちゅうりゅう )を達成 たっせい したその様 よう は、経済 けいざい 学者 がくしゃ のラビ・バトラ が「資本 しほん 主義 しゅぎ の究極 きゅうきょく の理想 りそう に近 ちか い」と表現 ひょうげん するほどであった。
対外 たいがい 的 てき には1953年 ねん の竹島 たけしま 紛争 ふんそう などを除 のぞ き概 おおむ ね直接 ちょくせつ 紛争 ふんそう は避 さ けられた。安保 あんぽ 闘争 とうそう も起 お きたものの、1960年 ねん には新 あら たな日米 にちべい 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく が締結 ていけつ された。この「安保 あんぽ 改定 かいてい 」は、現在 げんざい も有効 ゆうこう であり日本 にっぽん の国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう の根幹 こんかん をなしているが、基地 きち 問題 もんだい やアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の世界 せかい 戦略 せんりゃく への協力 きょうりょく の是非 ぜひ などをめぐりしばしば議論 ぎろん の的 まと となっている[3] [147] 。
朝鮮 ちょうせん に関 かん しては、1965年 ねん の日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく で韓国 かんこく と国交 こっこう を正常 せいじょう 化 か し、東 ひがし アジアでの地位 ちい を固 かた めた。「二 ふた つの中国 ちゅうごく 」問題 もんだい については、中華民国 ちゅうかみんこく とのみ国交 こっこう を結 むす ぶ「サンフランシスコ体制 たいせい 」をとり、国共 こっきょう 内戦 ないせん を経 へ て中国 ちゅうごく 本土 ほんど を実質 じっしつ 支配 しはい していた中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく とは国交 こっこう がない期間 きかん が続 つづ いたが、1972年 ねん に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との間 あいだ に国交 こっこう を結 むす んだ 。引 ひ き換 か えに中華民国 ちゅうかみんこく とは断交 だんこう し、以来 いらい 現在 げんざい に至 いた るまで国家 こっか 間 あいだ での公式 こうしき な交流 こうりゅう は行 おこな われていない[3] 。
1980年代 ねんだい にはバブル景気 けいき が発生 はっせい し戦後 せんご 最大 さいだい の好景気 こうけいき となった。1993年 ねん の細川 ほそかわ 政権 せいけん 発足 ほっそく まで一貫 いっかん して自由民主党 じゆうみんしゅとう が与党 よとう であった、これは55年 ねん 体制 たいせい と呼 よ ばれる。
バブル崩壊 ほうかい 後 ご 日本 にっぽん 経済 けいざい は低迷 ていめい 、失 うしな われた30年 ねん と呼 よ ばれる。この間 あいだ に日本人 にっぽんじん 技術 ぎじゅつ 者 しゃ を台湾 たいわん や韓国 かんこく の企業 きぎょう が雇 やと い技術 ぎじゅつ 力 りょく を高 たか めた。90年代 ねんだい より中国 ちゅうごく などアジア新興 しんこう 国 こく が工業 こうぎょう 化 か を行 おこな い、輸出 ゆしゅつ により経済 けいざい を回 まわ していた日本 にっぽん は徐々 じょじょ に競争 きょうそう 力 りょく を失 うしな った。京都大学 きょうとだいがく の研究 けんきゅう チームによる将来 しょうらい 予測 よそく では、2008年 ねん を過 す ぎたころからの急速 きゅうそく な人口 じんこう 減少 げんしょう ,財政 ざいせい における持続 じぞく 可能 かのう 性 せい ,格差 かくさ と子 こ ども・若者 わかもの をめぐる持続 じぞく 可能 かのう 性 せい ,コミュニティーないし「つながり」に関 かん する持続 じぞく 可能 かのう 性 せい の観点 かんてん で、日本 にっぽん 社会 しゃかい の持続 じぞく 可能 かのう 性 せい が相当 そうとう に危 あや うい状態 じょうたい になっていることが指摘 してき されている[23] 。
1995年 ねん 1月 がつ 17日 にち には阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい が発生 はっせい 。関西 かんさい は深刻 しんこく な被害 ひがい を受 う けた。同年 どうねん 3月 がつ 20日 はつか に東京 とうきょう 都 と でオウム真理教 おうむしんりきょう による地下鉄 ちかてつ サリン事件 じけん が発生 はっせい し、カルト の危険 きけん 性 せい が浮 う き彫 ぼ りとなった(当時 とうじ 、平時 へいじ の大都市 だいとし において無 む 差別 さべつ に化学 かがく 兵器 へいき が使用 しよう される事件 じけん は世界 せかい でも稀 まれ であった)。1995年 ねん は日本 にっぽん 社会 しゃかい を揺 ゆ るがす出来事 できごと が立 た て続 つづ けに起 お きた年 とし となった。
1996年 ねん に発足 ほっそく した橋本 はしもと 内閣 ないかく は景気 けいき 回復 かいふく より増税 ぞうぜい による財政 ざいせい 再建 さいけん を急 いそ いだため回復 かいふく の兆 きざ しを見 み せていた景気 けいき の再 ふたた びの悪化 あっか を招 まね いた。このころより日本 にっぽん はデフレーション に突入 とつにゅう する。90年代 ねんだい より売上 うりあげ 高 だか が頭打 あたまう ちになった日本 にっぽん 企業 きぎょう は正社員 せいしゃいん を非 ひ 正規 せいき 社員 しゃいん の労働 ろうどう に置 お き換 か える、新入 しんにゅう 社員 しゃいん の給与 きゅうよ を抑制 よくせい するなど、一方 いっぽう 的 てき なコストカットに活路 かつろ を見出 みいだ すようになった[148] 。このような企業 きぎょう の行動 こうどう は消費 しょうひ の縮小 しゅくしょう を発生 はっせい させ日本 にっぽん 経済 けいざい 全体 ぜんたい を縮小 しゅくしょう させることとなった。ゴールドマン・サックス で日本 にっぽん 経済 けいざい の「伝説 でんせつ のアナリスト」として名 な をはせたデービッド・アトキンソン により、現代 げんだい 日本 にっぽん は強大 きょうだい になり過 す ぎた企業 きぎょう が労働 ろうどう 者 しゃ を安 やす く買 か い叩 たた くmonopsony (モノプソニー)と呼 よ ばれる状況 じょうきょう に陥 おちい って、生産 せいさん 性 せい の低下 ていか や財政 ざいせい の弱体 じゃくたい 化 か が起 お きている可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている[149] 。
1999年 ねん に能登半島 のとはんとう 沖 おき 不審 ふしん 船 せん 事件 じけん が発生 はっせい 。朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく の不審 ふしん 船 せん が日本 にっぽん の排他 はいた 的 てき 経済 けいざい 水域 すいいき 内 ない に侵入 しんにゅう し、初 はじ めて海上 かいじょう 警備 けいび 行動 こうどう が発動 はつどう し、海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい が対処 たいしょ にあたった。北朝鮮 きたちょうせん とは拉致 らち 問題 もんだい や1993年 ねん 以降 いこう 続 つづ く弾道 だんどう ミサイルの発射 はっしゃ 実験 じっけん などの問題 もんだい を抱 かか え、緊張 きんちょう 状態 じょうたい が続 つづ いている。
21世紀 せいき
2001年 ねん から聖域 せいいき なき構造 こうぞう 改革 かいかく が行 おこな われ景気 けいき 悪化 あっか は底 そこ を打 う ったが、非 ひ 正規 せいき 労働 ろうどう の規制 きせい 緩和 かんわ という実質 じっしつ 賃金 ちんぎん 抑制 よくせい 策 さく によって労働 ろうどう 者 しゃ の地位 ちい 低下 ていか を招 まね いたとの批判 ひはん がある。2013年 ねん には前年 ぜんねん 発足 ほっそく した第 だい 2次 じ 安倍 あべ 内閣 ないかく が円 えん 高 だか ・デフレ不 ふ 況 きょう からの脱却 だっきゃく を目指 めざ すアベノミクス と呼 よ ばれる経済 けいざい 政策 せいさく を打 う ち立 た て、経済 けいざい の立 た て直 なお しを図 はか った[150] 。
2008年 ねん には日本 にっぽん の人口 じんこう が頂点 ちょうてん に達 たっ し、以降 いこう は急速 きゅうそく な人口 じんこう 減少 げんしょう に転 てん じた[23] 。人口 じんこう 減少 げんしょう は出生 しゅっしょう 率 りつ の低下 ていか が主 おも な原因 げんいん であり、国立 こくりつ 社会 しゃかい 保障 ほしょう ・人口 じんこう 問題 もんだい 研究所 けんきゅうじょ の予測 よそく によれば日本 にっぽん の人口 じんこう が半減 はんげん する2110年 ねん であっても人口 じんこう 減少 げんしょう が止 と まらない見通 みとお しである[26] 。更 さら に長期 ちょうき の予測 よそく として、河合 かわい 雅司 まさし の『未来 みらい の年表 ねんぴょう 業界 ぎょうかい 大 だい 変化 へんか 瀬戸際 せとぎわ の日本 にっぽん で起 お きること』では、低 ひく い出生 しゅっしょう 率 りつ が継続 けいぞく した場合 ばあい 3000年 ねん には日本 にっぽん の人口 じんこう が僅 わず か2000人 にん になることが予測 よそく されており、負 まけ の連鎖 れんさ による縮小 しゅくしょう 再 さい 生産 せいさん も考慮 こうりょ すると早急 そうきゅう に手 て を打 う たなければ日本人 にっぽんじん が絶滅 ぜつめつ の危機 きき にあるという指摘 してき までなされている[151] 。
2011年 ねん には東北 とうほく 地方 ちほう 太平洋 たいへいよう 沖 おき 地震 じしん が発生 はっせい 。三陸 さんりく 沖 おき の太平洋 たいへいよう を震源 しんげん とするマグニチュード 9.0の超 ちょう 巨 きょ 大 だい 地震 じしん が発生 はっせい し、津波 つなみ や福島 ふくしま 第 だい 一 いち 原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 事故 じこ などを誘発 ゆうはつ した。それらの災害 さいがい は総称 そうしょう して東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい と呼 よ ばれ、それによる死者 ししゃ は2022年 ねん 時点 じてん で1.9万 まん 人 にん に達 たっ し、戦後 せんご 最悪 さいあく の自然 しぜん 災害 さいがい とされる。
2019年 ねん 、天皇 てんのう 明仁 あきひと は皇太子 こうたいし 徳 とく 仁 ひとし に譲位 じょうい を行 おこな い元号 げんごう が令 れい 和 わ となった。改元 かいげん を以って明仁 あきひと は上皇 じょうこう となった。
2020年 ねん 、国内 こくない で初 はつ の新型 しんがた コロナウイルス感染 かんせん 者 しゃ が発表 はっぴょう された。
2021年 ねん 、第 だい 49回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ では自由民主党 じゆうみんしゅとう が衆議院 しゅうぎいん の過半数 かはんすう の議席 ぎせき を獲得 かくとく した[152] 。第 だい 26回 かい 参議院 さんぎいん 議員 ぎいん 通常 つうじょう 選挙 せんきょ では自由民主党 じゆうみんしゅとう が参議院 さんぎいん の第 だい 1党 とう の地位 ちい を維持 いじ した[153] 。
2023年 ねん 8月 がつ 24日 にち 13時 じ ごろ、2011年 ねん に原子力 げんしりょく 事故 じこ を起 お こした福島 ふくしま 第 だい 一 いち 原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ でトリチウム などの放射 ほうしゃ 性 せい 物質 ぶっしつ を含 ふく む処理 しょり 水 すい の放出 ほうしゅつ が開始 かいし された。放出 ほうしゅつ 期間 きかん は30年 ねん 程度 ていど に及 およ ぶ見通 みとお しである[154] 。
2024年 ねん 1月 がつ 1日 にち 16時 じ 10分 ふん 、能登半島 のとはんとう 地震 じしん が発生 はっせい 。人口 じんこう 減少 げんしょう 社会 しゃかい に合 あ わせた過疎 かそ 地域 ちいき の限定 げんてい 的 てき な復興 ふっこう の必要 ひつよう 性 せい についての意見 いけん が挙 あ がる[155] 。
2025年 ねん 、大阪 おおさか 府 ふ の夢 ゆめ 洲 しゅう で2025年 ねん 日本 にっぽん 国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい (略称 りゃくしょう :大阪 おおさか ・関西 かんさい 万博 ばんぱく )が開催 かいさい される予定 よてい である。しかし、海外 かいがい パビリオンの建設 けんせつ が大幅 おおはば に遅 おく れ、開催 かいさい が危 あや ぶまれる事態 じたい となっている[156] 。
2025年 ねん 以降 いこう は、少子 しょうし 高齢 こうれい 化 か と人口 じんこう 減少 げんしょう に伴 ともな い発生 はっせい する問題 もんだい がかつて無 な いほどに深刻 しんこく 化 か し、国民 こくみん においてはより自助 じじょ が求 もと められる国家 こっか に変 か わることは確実 かくじつ となっている。
新型 しんがた コロナウイルスの流行 りゅうこう
2020年 ねん 1月 がつ 16日 にち 、神奈川 かながわ 県 けん で国内 こくない 第 だい 1例 れい 目 め の武漢 ぶかん 市 し への旅行 りょこう 歴 れき のある新型 しんがた コロナウイルス の感染 かんせん 者 もの が発表 はっぴょう された後 のち [157] 、パンデミック と呼 よ ばれる状況 じょうきょう に陥 おちい り、政治 せいじ 、経済 けいざい 、国民 こくみん 生活 せいかつ に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている。パンデミックの影響 えいきょう による1年 ねん 延期 えんき ののち、2020年 ねん 東京 とうきょう オリンピック・パラリンピック が2021年 ねん に開催 かいさい された。
2023年 ねん 5月8日 にち には新型 しんがた コロナウイルス の感染 かんせん 症 しょう 法 ほう 上 うえ の位置付 いちづ けが季 き 節 ぶし 性 せい インフルエンザ と同等 どうとう の5類 るい 感染 かんせん 症 しょう に変更 へんこう されたことにより、日本 にっぽん 社会 しゃかい は新型 しんがた コロナウイルス と共存 きょうぞん する社会 しゃかい に移行 いこう しているが、未 いま だに感染 かんせん 収束 しゅうそく の目処 めど は立 た っていない[158] 。
2025年 ねん 問題 もんだい
2025年 ねん は日本 にっぽん 国 こく 全体 ぜんたい の人口 じんこう 構成 こうせい という観点 かんてん では「2025年 ねん 問題 もんだい 」[25] 、産業 さんぎょう 界 かい のデジタルトランスフォーメーション(DX)という観点 かんてん では「2025年 ねん の崖 がけ 」[24] というより厳 きび しい局面 きょくめん を迎 むか える年 とし でもある。
2030年 ねん 問題 もんだい
2030年 ねん には日本 にっぽん 経済 けいざい を駆動 くどう する物流 ぶつりゅう において、トラックドライバーの不足 ふそく により全体 ぜんたい の3割 わり 以上 いじょう の荷物 にもつ がトラックで配送 はいそう できなくなる「物流 ぶつりゅう 危機 きき 」が生 しょう じるため、日本 にっぽん 経済 けいざい が致命傷 ちめいしょう を受 う ける可能 かのう 性 せい がある[37] 。
地理 ちり
日本 にっぽん の衛星 えいせい 写真 しゃしん
日本 にっぽん 列島 れっとう の地形 ちけい 図 ず 。国土 こくど は14,125の島 しま から構成 こうせい され、約 やく 70%が山岳 さんがく 地帯 ちたい である。
日本 にっぽん は明治 めいじ 以来 いらい 、憲法 けんぽう における領土 りょうど 規定 きてい がなく、これは比較 ひかく 法学 ほうがく の観点 かんてん では特殊 とくしゅ なものであった[注釈 ちゅうしゃく 42] 。島嶼 とうしょ 部 ぶ についての領有 りょうゆう 宣言 せんげん 、あるいは周辺 しゅうへん 諸国 しょこく との条約 じょうやく がおもに領土 りょうど 領 りょう 陸 りく の法 ほう 規範 きはん であり、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 後 ご は日本 にっぽん 国 こく との平和 へいわ 条約 じょうやく (通称 つうしょう :サンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく )が主要 しゅよう な法 ほう 規範 きはん を形成 けいせい している。
地勢 ちせい
日本 にっぽん 最高峰 さいこうほう 「富士山 ふじさん 」(標高 ひょうこう 3,776メートル)
日本 にっぽん 最長 さいちょう の川 かわ である信濃川 しなのがわ
日本 にっぽん の領土 りょうど は、14,125の島 しま からなる[161] 。
アジア ・東 ひがし アジアの中 なか でも東方 とうほう にあり、ユーラシア の東 ひがし 端 はし 近 ちか くにあたるため、東洋 とうよう や極東 きょくとう などと呼 よ ばれる地域 ちいき に含 ふく まれる。領土 りょうど の大 だい 部分 ぶぶん が、島 しま 弧 こ をなす日本 にっぽん 列島 れっとう である。これは本州 ほんしゅう ・北海道 ほっかいどう ・九州 きゅうしゅう ・四国 しこく などからなる。このほか、南 みなみ に延 の びる伊豆 いず ・小笠原諸島 おがさわらしょとう 、南西 なんせい に延 の びる南西諸島 なんせいしょとう (沖縄 おきなわ 本島 ほんとう など)も有 ゆう する。日本 にっぽん はまた北東 ほくとう に位置 いち する北方 ほっぽう 四 よん 島 とう の領有 りょうゆう 権 けん をも主張 しゅちょう している。
領土 りょうど 面積 めんせき は約 やく 37.8万 まん 平方 へいほう キロメートル (日本 にっぽん 政府 せいふ が領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう する領域 りょういき )で世界 せかい 第 だい 60位 い である。国土 こくど の約 やく 70%が山岳 さんがく 地域 ちいき であり、森林 しんりん 率 りつ は約 やく 67%である。
埋立 うめたて 地 ち は古 ふる くから造成 ぞうせい されてきたが、その多 おお くは港湾 こうわん を形成 けいせい 整備 せいび することが目的 もくてき であった。これによる埋立 うめたて 地 ち がポートアイランド 、六甲 ろっこう アイランド 、神戸 こうべ 空港 くうこう などである。最近 さいきん では関西国際空港 かんさいこくさいくうこう 、横浜 よこはま 八景島 はっけいじま や和歌山 わかやま マリーナシティ などがあり、総 そう 面積 めんせき は国土 こくど の約 やく 0.5%に相当 そうとう する。また、諫早 いさはや 湾 わん 干拓 かんたく 事業 じぎょう と八郎潟 はちろうがた のような大 だい 規模 きぼ 事業 じぎょう のような例 れい もある。
離島 りとう が多数 たすう 存在 そんざい し、その中 なか には様々 さまざま な理由 りゆう で(多 おお くは私有地 しゆうち や重要 じゅうよう な施設 しせつ があるため)立入禁止 たちいりきんし の島 しま もある。琉球 りゅうきゅう 諸島 しょとう や伊豆諸島 いずしょとう は離島 りとう の内 うち でも交通 こうつう の便 びん が良 よ く、南方 なんぽう の島々 しまじま は亜熱帯 あねったい 気候 きこう あるいは熱帯 ねったい 雨林 うりん 気候 きこう となっているため「日本 にっぽん のハワイ」などと称 しょう され、日本人 にっぽんじん 観光 かんこう 客 きゃく に人気 にんき である。
最 さい 東 ひがし 端 はし
東京 とうきょう 都 と 小笠原 おがさわら 村 むら 南鳥島 みなみとりしま (北緯 ほくい 24度 ど 16分 ふん 59秒 びょう ・東経 とうけい 153度 ど 59分 ふん 11秒 びょう )
最 さい 西端 せいたん
沖縄 おきなわ 県 けん 八重山 やえやま 郡 ぐん 与那国 よなくに 町 まち トゥイシ [162] [163] (北緯 ほくい 24度 ど 27分 ふん 05秒 びょう ・東経 とうけい 122度 ど 55分 ふん 57秒 びょう [163] )
日本 にっぽん 最 さい 西端 せいたん は長 なが らく与那国島 よなぐにじま の西崎 にしざき (いりざき)とされてきたが、2019年 ねん に基本 きほん 図 ず とされる国土 こくど 地理 ちり 院 いん の2万 まん 5千 せん 分 ぶん の1地形 ちけい 図 ず が改訂 かいてい され、与那国島 よなぐにじま 北 きた 北西 ほくせい 260mに位置 いち するトゥイシが日本 にっぽん 最 さい 西端 せいたん の地点 ちてん となった[162] [163] 。
最南端 さいなんたん
東京 とうきょう 都 と 小笠原 おがさわら 村 むら 沖ノ鳥島 おきのとりしま (北緯 ほくい 20度 ど 25分 ふん 31秒 びょう ・東経 とうけい 136度 ど 04分 ふん 11秒 びょう )
最北端 さいほくたん
北海道 ほっかいどう 稚内 わっかない 市 し 弁天島 べんてんしま (北緯 ほくい 45度 ど 31分 ふん 35秒 びょう 、東経 とうけい 141度 ど 55分 ふん 09秒 びょう )(日本 にっぽん 政府 せいふ の実効 じっこう 支配 しはい 下 した にある領域 りょういき の最北端 さいほくたん )
北海道 ほっかいどう 蘂 しべ 取 と 郡 ぐん 蘂 しべ 取 と 村 むら 択捉島 えとろふとう カモイワッカ岬 かもいわっかみさき (北緯 ほくい 45度 ど 33分 ふん 28秒 びょう ・東経 とうけい 148度 ど 45分 ふん 14秒 びょう )(日本 にっぽん 政府 せいふ が領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう する領域 りょういき の最北端 さいほくたん )
周囲 しゅうい を太平洋 たいへいよう 、日本海 にほんかい 、東シナ海 ひがししなかい 、フィリピン海 うみ 、オホーツク海 かい などの海洋 かいよう に囲 かこ まれる。本州 ほんしゅう と四国 しこく との間 あいだ の海 うみ は瀬戸内海 せとないかい と呼 よ ばれる。陸上 りくじょう の国境 こっきょう 線 せん が無 な く、ロシア 、北朝鮮 きたちょうせん 、台湾 たいわん 、韓国 かんこく 、中国 ちゅうごく 、フィリピン 、アメリカと排他 はいた 的 てき 経済 けいざい 水域 すいいき が接 せっ している。また、南方 なんぽう にパラオ 共和 きょうわ 国 こく 、小笠原諸島 おがさわらしょとう の延長線 えんちょうせん 上 じょう にミクロネシア連邦 れんぽう があり、太平洋 たいへいよう を挟 はさ んでアメリカ大陸 あめりかたいりく がある。沖合 おきあい を暖流 だんりゅう の日本 にっぽん 海流 かいりゅう (黒潮 くろしお )、対馬 つしま 海流 かいりゅう 、寒流 かんりゅう の千島 ちしま 海流 かいりゅう (親潮 おやしお )、リマン海流 かいりゅう が流 なが れる。
領土 りょうど 問題 もんだい のある地域 ちいき が数箇所 すうかしょ 存在 そんざい する。
自然 しぜん 地理 ちり 的 てき 区分 くぶん は、地質 ちしつ 構造 こうぞう を基準 きじゅん に、本州 ほんしゅう 中部 ちゅうぶ を南北 なんぼく に縦断 じゅうだん する糸魚川 いといがわ 静岡 しずおか 構造 こうぞう 線 せん を境 さかい に、南 みなみ 西日本 にしにほん と東北 とうほく 日本 にっぽん とに大別 たいべつ される。付近 ふきん では、ユーラシアプレート 、フィリピン海 うみ プレート 、太平洋 たいへいよう プレート 、北 きた アメリカプレート がせめぎ合 あ い、環太平洋 かんたいへいよう 造山 つくりやま 帯 たい ・環太平洋 かんたいへいよう 火山 かざん 帯 たい ・環太平洋 かんたいへいよう 地震 じしん 帯 たい と呼 よ ばれる帯 おび の一環 いっかん をなしている。そのため、世界 せかい 全体 ぜんたい で放出 ほうしゅつ される地震 じしん エネルギーのうち1割 わり から2割 わり が日本 にっぽん の周辺 しゅうへん に集中 しゅうちゅう すると言 い われているほど地震 じしん が頻発 ひんぱつ し、震度 しんど 1や2クラス程度 ていど の地震 じしん なら、どこかで毎日 まいにち のように起 お きている。また、火山 かざん 活動 かつどう が活発 かっぱつ なことから火山 かざん 性 せい 土壌 どじょう が多 おお く、これが日本 にっぽん 列島 れっとう の自然 しぜん を豊 ゆた かにした面 めん もある。温泉 おんせん が多 おお いことも火山 かざん の恵 めぐ みと言 い える。一方 いっぽう で日本 にっぽん 史 し では大 おお きな噴火 ふんか 活動 かつどう が何 なん 度 ど も記録 きろく され、さらに近年 きんねん の地質 ちしつ 学 がく 研究 けんきゅう によって先史 せんし 時代 じだい に何 なん 度 ど かの破局 はきょく 噴火 ふんか が起 お きていたことが分 わ かっている。
山岳 さんがく は、最高峰 さいこうほう は富士山 ふじさん (標高 ひょうこう 3776メートル)の他 ほか 、南 みなみ アルプス 、北 きた アルプス など、2500メートル超 こ えの山 やま が本州 ほんしゅう 中央 ちゅうおう に集中 しゅうちゅう している。他 た 、大雪山 たいせつざん 、磐梯山 ばんだいさん 、阿蘇山 あそさん などが有名 ゆうめい である。富士山 ふじさん はその優美 ゆうび な風貌 ふうぼう から数 すう 多 おお くの芸術 げいじゅつ 作品 さくひん の題材 だいざい とされることで芸術 げいじゅつ 面 めん でも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた え、日本 にっぽん の象徴 しょうちょう として広 ひろ く世界 せかい に知 し られている。
河川 かせん は、利根川 とねがわ ・最上川 もがみがわ などが代表 だいひょう 的 てき であるが、大陸 たいりく 河川 かせん と違 ちが い、源流 げんりゅう から河口 かこう までの距離 きょり が大変 たいへん に短 みじか いこと、海抜 かいばつ 高低 こうてい 差 さ が急 きゅう なこともあり、比較的 ひかくてき 流 なが れが速 はや い。集中 しゅうちゅう 豪雨 ごうう が発生 はっせい すると堤防 ていぼう が決壊 けっかい し、人家 じんか ・田畑 たはた に甚大 じんだい な被害 ひがい を及 およ ぼすという短所 たんしょ もあるが、比較的 ひかくてき 新鮮 しんせん な水 みず が取水 しゅすい しやすいのも特色 とくしょく である。
周囲 しゅうい を海 うみ に囲 かこ まれた島国 しまぐに であることから、海上 かいじょう 交易 こうえき ・漁業 ぎょぎょう ともに盛 さか んな海洋 かいよう 国家 こっか である。内海 うつみ を含 ふく む領海 りょうかい を入 い れた領域 りょういき の面積 めんせき は約 やく 43万 まん 平方 へいほう キロメートルである[164] 。
日本 にっぽん 政府 せいふ が主張 しゅちょう する日本 にっぽん の排他 はいた 的 てき 経済 けいざい 水域 すいいき (EEZ )は領土 りょうど 面積 めんせき の約 やく 12倍 ばい である約 やく 405万 まん 平方 へいほう キロメートル、領海 りょうかい とEEZを合計 ごうけい すると約 やく 447万 まん 平方 へいほう キロメートルであり世界 せかい では第 だい 6位 い となる[165] 。ただし日本 にっぽん が領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう しているが韓国 かんこく に不法 ふほう 占拠 せんきょ されている竹島 たけしま と日本 にっぽん が実効 じっこう 支配 しはい しているが近年 きんねん になって中国 ちゅうごく が領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう している尖閣諸島 せんかくしょとう 周辺 しゅうへん 海域 かいいき についてはそれぞれの国家 こっか 間 あいだ で重要 じゅうよう な外交 がいこう 問題 もんだい となっている。また、九州 きゅうしゅう 西方 せいほう と東シナ海 ひがししなかい の領域 りょういき については中国 ちゅうごく と韓国 かんこく が自国 じこく の領海 りょうかい から延伸 えんしん する大陸棚 たいりくだな に関 かん して国際 こくさい 法 ほう を無視 むし して権利 けんり を主張 しゅちょう している。
EEZとは別 べつ に国連 こくれん 海洋 かいよう 法 ほう 条約 じょうやく において排他 はいた 的 てき な海底 かいてい 資源 しげん 権益 けんえき が与 あた えられる法的 ほうてき な大陸棚 たいりくだな については、2012年 ねん 4月 がつ に国連 こくれん 大陸棚 たいりくだな 限界 げんかい 委員 いいん 会 かい が「四国 しこく 海 かい 盆 ぼん 海域 かいいき 」、「小笠原 おがさわら 海 かい 台 だい 海域 かいいき 」、「南硫黄島 みなみいおうじま 海域 かいいき 」、「沖 おき 大東 だいとう 海嶺 かいれい 南方 なんぽう 海域 かいいき 」の4海域 かいいき を日本 にっぽん の大陸棚 たいりくだな と認定 にんてい した[166] 。
国土 こくど の変遷 へんせん
古代 こだい
古代 こだい 日本 にっぽん 国家 こっか の北限 ほくげん 、阿武隈川 あぶくまがわ
弥生 やよい 時代 じだい 後期 こうき 、西日本 にしにほん の各地 かくち に広域 こういき の地域 ちいき 勢力 せいりょく が勃興 ぼっこう した[167] 。2世紀 せいき 末 まつ には畿内 きない を中心 ちゅうしん として、西日本 にしにほん 広域 こういき を支配 しはい する邪馬台国 やまたいこく 連合 れんごう が創設 そうせつ された。邪馬台国 やまたいこく 連合 れんごう は3世紀 せいき には東海 とうかい ・北陸 ほくりく のほか東日本 ひがしにっぽん も支配 しはい 下 か に置 お き倭国 わのくに が成立 せいりつ した[168] 。古墳 こふん 時代 じだい 前期 ぜんき 前半 ぜんはん には、現在 げんざい の九州 きゅうしゅう の宮崎 みやざき 県 けん から東北 とうほく の宮城 みやぎ 県 けん の範囲 はんい まで国土 こくど が拡大 かくだい されたことが、古墳 こふん 造営 ぞうえい の消長 しょうちょう から明 あき らかになっている[169] [注釈 ちゅうしゃく 43] 。荒井 あらい 秀 しげる 規 ぶんまわし は、3世紀 せいき 末 まつ から4世紀 せいき に倭 やまと 王権 おうけん による東国 とうごく への最初 さいしょ の接触 せっしょく があった後 のち 、4世紀 せいき 末 まつ から5世紀 せいき にかけて倭 やまと 王権 おうけん による東国 とうごく への征服 せいふく 戦争 せんそう が行 おこな われたと想定 そうてい している [170] 。ただし倭国 わのくに は東北 とうほく など各 かく 支配 しはい 領域 りょういき を確保 かくほ ・維持 いじ しようとする考 かんが えを持 も っておらず[171] 、6世紀 せいき には、経済 けいざい 基盤 きばん が脆弱 ぜいじゃく な阿武隈川 あぶくまがわ 以北 いほく を倭国 わのくに の支配 しはい 地 ち から切 き り離 はな し[172] 古墳 こふん 時代 じだい 後期 こうき には太平洋 たいへいよう 側 がわ では現在 げんざい の宮城 みやぎ 県 けん 南部 なんぶ 、日本海 にほんかい 側 がわ では現在 げんざい の新潟 にいがた 県 けん 中部 ちゅうぶ までが倭国 わのくに の支配 しはい 領域 りょういき となった[173] 。またこの間 あいだ 、400年 ねん (履中天皇 りちゅうてんのう 元年 がんねん )と404年 ねん (履中天皇 りちゅうてんのう 5年 ねん )に倭 やまと は朝鮮半島 ちょうせんはんとう で百済 くだら ・加 か 耶諸国 こく と共 とも に高句麗 こうくり ・百済 くだら 連合 れんごう 軍 ぐん と2度 ど にわたって合戦 かっせん を行 おこな っている[174] 。
奈良 なら ・平安 へいあん 時代 じだい の日本 にっぽん 国 こく は、北 きた は津軽海峡 つがるかいきょう まで、南 みなみ は喜界島 きかいじま までを国土 こくど と認識 にんしき していたが[175] 、一方 いっぽう で九州 きゅうしゅう ・四国 しこく ・壱岐島 いきしま ・対馬 つしま とそれらに取 と り囲 かこ まれた本州 ほんしゅう の北陸 ほくりく と中部 ちゅうぶ 地方 ちほう 西部 せいぶ までの範囲 はんい こそが日本 にっぽん 国 こく 本来 ほんらい の領土 りょうど とも認識 にんしき していた[176] 。そのため東北 とうほく 地方 ちほう に対 たい しての関心 かんしん の希薄 きはく さは変 か わることがなく、東北 とうほく 地方 ちほう 北部 ほくぶ を完全 かんぜん な形 かたち で支配 しはい する必要 ひつよう 性 せい は感 かん じておらず[177] 、実際 じっさい には大崎 おおさき 平野 へいや までが8世紀 せいき における日本 にっぽん 国 こく の北限 ほくげん であった[178] 。9世紀 せいき 、陸奥 みちのく ・出羽 でわ からの徴税 ちょうぜい の京 きょう 進 すすむ が行 おこな われなくなると[179] 関心 かんしん は更 さら に希薄 きはく になり、東北 とうほく 北部 ほくぶ の経営 けいえい は現地 げんち の官 かん 人任 ひとまか せになっていった[180] 。また、南西諸島 なんせいしょとう への関心 かんしん も薄 うす れていった[181] 。
古代 こだい の日本 にっぽん では、畿内 きない と言 い われる行政 ぎょうせい 区 く が設 もう けられていた。大化 たいか の改新 かいしん によって設置 せっち された当時 とうじ から畿内 きない は支配 しはい 者 しゃ にとっての特別 とくべつ な地域 ちいき と認識 にんしき されていたが[182] 、律令制 りつりょうせい 施行 しこう 後 ご は直轄 ちょっかつ 地 ち として国家 こっか を支 ささ える役割 やくわり を担 にな った[183] 。
中世 ちゅうせい
15世紀 せいき 前半 ぜんはん 、帰属 きぞく を巡 めぐ って日本 にっぽん と朝鮮 ちょうせん の間 あいだ で揺 ゆ れた対馬 つしま 島 とう
中世 ちゅうせい 後期 こうき の日本 にっぽん は、室町 むろまち 将軍 しょうぐん との間 あいだ に<主 おも -従 したがえ の関係 かんけい >を築 きず くことが出来 でき ているか、室町 むろまち 将軍 しょうぐん を頂点 ちょうてん とした階層 かいそう 的 てき な秩序 ちつじょ の内 うち に居 い るか、あるいは外 そと に居 い るかで境界 きょうかい が引 ひ かれていた[184] 。将軍 しょうぐん に反逆 はんぎゃく し命令 めいれい の届 とど かない地域 ちいき は支配 しはい 権 けん の外 そと に置 お かれ、<主 おも ‐従 したがえ の関係 かんけい >の有無 うむ によって境界 きょうかい が明瞭 めいりょう 化 か された[185] 。
歴史 れきし 学 がく において室町 むろまち 幕府 ばくふ 3代 だい 将軍 しょうぐん ・足利 あしかが 義満 よしみつ の治世 ちせい は初 はつ の公武 こうぶ 統一 とういつ 政権 せいけん と評価 ひょうか されている[186] 。しかし室町 むろまち 幕府 ばくふ は地方 ちほう への関心 かんしん を殆 ほとん ど持 も たない政治 せいじ 権力 けんりょく であり[187] 、自 みずか らが統治 とうち すべき範囲 はんい は畿内 きない 近国 きんごく ・瀬戸内 せとうち ・中部 ちゅうぶ 地域 ちいき と考 かんが えており、幕府 ばくふ にとって東北 とうほく ・関東 かんとう ・九州 きゅうしゅう は辺境 へんきょう でしかなかった[188] 。
15世紀 せいき 前半 ぜんはん 、永 えい 享 とおる の乱 らん によって将軍 しょうぐん と鎌倉 かまくら 公方 くぼう との<主 しゅ ー従 したがえ の関係 かんけい >が崩 くず れると、幕府 ばくふ は日本 にっぽん 国 こく の東側 ひがしがわ の境界 きょうかい は駿河 するが 国 こく までであると規定 きてい するようになり、東国 とうごく を日本 にっぽん 国 こく から切 き り離 はな した[189] [190] [191] 。一方 いっぽう で当時 とうじ は独立 どくりつ 国 こく だった琉球 りゅうきゅう 国 こく は室町 むろまち 将軍 しょうぐん との間 あいだ に<主 おも ‐従 したがえ の関係 かんけい >を結 むす んでおり、将軍 しょうぐん による<主 おも ‐従 したがえ の関係 かんけい >は国家 こっか 間 あいだ においても成立 せいりつ しうる概念 がいねん でもあった[192] 。
1419年 ねん (応 おう 永 なが 26年 ねん )、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん は倭 やまと 寇 の拠点 きょてん 壊滅 かいめつ を目的 もくてき に対馬 つしま を攻撃 こうげき したが作戦 さくせん は失敗 しっぱい に終 お わった(応 おう 永 なが の外寇 がいこう )。その後 ご 、対馬 つしま を李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 領 りょう とするため対馬 つしま -李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 間 あいだ で交渉 こうしょう が行 おこな われたが、交渉 こうしょう は不調 ふちょう に終 お わり対馬 つしま は引 ひ き続 つづ き日本 にっぽん 国 こく に所属 しょぞく することになった[193] 。
文明 ぶんめい 年間 ねんかん 、大和 やまと 興福寺 こうふくじ ・別当 べっとう の尋 ひろ 尊 みこと は「大乗 だいじょう 院 いん 寺社 じしゃ 雑事 ざつじ 記 き 」で、中世 ちゅうせい 後期 こうき の日本 にっぽん 国 こく の範囲 はんい は現在 げんざい の近畿 きんき ・東海 とうかい ・北陸 ほくりく ・中国 ちゅうごく ・四国 しこく の各 かく 地域 ちいき であるとしている[194] 。一方 いっぽう 、戦国 せんごく 時代 じだい 末期 まっき の天正 てんしょう 9年 ねん (1581年 ねん )、織田 おだ 信長 のぶなが は毛利 もうり 氏 し との決戦 けっせん の意思 いし を明 あき らかにした際 さい 、「今度 こんど 、毛利 もうり 家 か 人数 にんずう 後 ご 巻 まき として罷 まか り出 で づるに付 つ いては、信長 のぶなが 公 こう 御 ご 出馬 しゅつば を出 で だされ、東国 とうごく 西国 さいこく の人数 にんずう 膚 はだ を合 あわ せ、御 ご 一 いち 戦 せん を遂 と げられ、悉 ことごと く討 う ち果 は たし、本朝 ほんちょう 滞 とどこお りなく御 ご 心 しん 一 ひと つに任 まか せらるべきの旨 むね 、上意 じょうい にて、各 かく 其 そ の覚悟 かくご 仕 つかまつ り候 こう 」と語 かた り、東国 とうごく (織田 おだ 領 りょう )と西国 さいこく (毛利 もうり 領 りょう )が合戦 かっせん し西国 さいこく を討 う ち果 は たせば本朝 ほんちょう (日本 にっぽん 国 こく )は滞 とどこお りない状態 じょうたい になるだろう、と日本 にっぽん 国 こく の範囲 はんい を規定 きてい している[195] 。
近世 きんせい
豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の時代 じだい 、日本 にっぽん 国 こく の支配 しはい は初 はじ めて本州 ほんしゅう の北端 ほくたん に到達 とうたつ した
織田 おだ 政権 せいけん を継承 けいしょう した豊臣 とよとみ 政権 せいけん は、四国 しこく 平定 へいてい ・九州 きゅうしゅう 平定 へいてい を経 へ て1588年 ねん (天正 てんしょう 16年 ねん )日本 にっぽん 国 こく の統一 とういつ を成 な し遂 と げた[196] 。豊臣 とよとみ 政権 せいけん はその後 ご 東日本 ひがしにっぽん にも支配 しはい を拡大 かくだい し[197] 、1590年 ねん (天正 てんしょう 18年 ねん )の奥羽 おうう 仕置 しおき により初 はじ めて本州 ほんしゅう 北端 ほくたん までを日本 にっぽん の国土 こくど に組 く み込 こ んだ[198] 。更 さら に秀吉 ひでよし は「唐 とう 入 い り」と称 しょう して朝鮮半島 ちょうせんはんとう に2度 ど に亘 わた って攻 せ め込 こ むが、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく ・朝鮮半島 ちょうせんはんとう へ支配 しはい を拡 ひろ げるには至 いた らなかった(文禄・慶長 ぶんろくけいちょう の役 えき )。
豊臣 とよとみ 政権 せいけん を継承 けいしょう した徳川 とくがわ 幕府 ばくふ は、豊臣 とよとみ 政権 せいけん とは一転 いってん して国際 こくさい 的 てき 孤立 こりつ 主義 しゅぎ の道 みち を選 えら び[199] 、長崎 ながさき ・対馬 つしま ・琉球 りゅうきゅう (薩摩 さつま )・松前 まさき の4地域 ちいき を窓口 まどぐち として対外 たいがい 交渉 こうしょう を行 おこな った[200] 。
1609年 ねん (慶長 けいちょう 14年 ねん )、薩摩 さつま 藩 はん が琉球 りゅうきゅう に侵攻 しんこう し冊 さつ 封 ふう 関係 かんけい を築 きず き支配 しはい 下 か に置 お いたが、琉球 りゅうきゅう は中国 ちゅうごく とも朝貢 ちょうこう 関係 かんけい を持 も ち続 つづ け、日本 にっぽん 国 こく と中国 ちゅうごく (明 あきら ・清 きよし )との間 あいだ で両 りょう 属 ぞく 的 てき な関係 かんけい を維持 いじ した[201] 。また、徳川 とくがわ 政権 せいけん 期 き 、蝦夷 えぞ 地 ち (北海道 ほっかいどう )は松前 まさき 藩 はん が支配 しはい する渡島 ととう 半島 はんとう の南部 なんぶ の「和人 わじん 地 ち 」以外 いがい は日本 にっぽん 国 こく の外 そと と認識 にんしき していた[202] 。
近代 きんだい 以降 いこう
辺境 へんきょう 地域 ちいき の領土 りょうど 確定 かくてい を課題 かだい としていた明治 めいじ 新 しん 政府 せいふ は1870年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん )、北海道 ほっかいどう を日本 にっぽん 国 こく に組 く み込 こ み、1879年 ねん (明治 めいじ 12年 ねん )には清 きよし との帰属 きぞく 交渉 こうしょう が未決 みけつ のまま、琉球 りゅうきゅう を沖縄 おきなわ 県 けん として公式 こうしき に日本 にっぽん 国 こく に編入 へんにゅう した[203] 。
19世紀 せいき 末 まつ 以降 いこう 、日本 にっぽん 国 こく は対外 たいがい 戦争 せんそう により国土 こくど を拡 ひろ げていき、20世紀 せいき 前半 ぜんはん には日本 にっぽん 史 し 史上 しじょう 最大 さいだい 規模 きぼ に拡大 かくだい した。1895年 ねん (明治 めいじ 28年 ねん )に日 にち 清 しん 戦争 せんそう の結果 けっか 、清 しん から台湾 たいわん を獲得 かくとく (下関 しものせき 条約 じょうやく )し[204] 、1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )には、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご の交渉 こうしょう で、ロシアより南 みなみ 樺太 からふと の割譲 かつじょう を受 う けた[205] (ポーツマス条約 じょうやく )。更 さら に1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )にはそれ以前 いぜん より日本 にっぽん 国 こく の保護 ほご 下 か にあった朝鮮 ちょうせん を併合 へいごう した[206] 。その後 ご 、1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )には南洋 なんよう 諸島 しょとう の委任 いにん 統治 とうち も開始 かいし し[207] 、太平洋 たいへいよう 側 がわ へも支配 しはい 地域 ちいき を拡大 かくだい させた。
1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )には満州 まんしゅう 国 こく を建国 けんこく し[208] 。1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )、盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん をきっかけに開戦 かいせん した日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう により中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に占領 せんりょう 地 ち を拡大 かくだい 。1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )9月 がつ 、フランス領 りょう インドシナ北部 ほくぶ へ進駐 しんちゅう を開始 かいし し(仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう )[209] 、翌年 よくねん 7月 がつ には南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう 、翌年 よくねん 7月 がつ には南部 なんぶ にも進駐 しんちゅう を開始 かいし した[209] 。
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )2月 がつ 、台湾 たいわん 総督 そうとく 府 ふ は海軍 かいぐん と共 とも に海南 かいなん 島 とう を占領 せんりょう した[210] 。台湾 たいわん 総督 そうとく 府 ふ は台湾 たいわん の重工業 じゅうこうぎょう 化 か を企図 きと し、「台湾 たいわん の植民 しょくみん 地 ち 」として海南 かいなん 島 とう を支配 しはい 下 か に置 お くことを目論 もくろ んだものだった[211] 。だが占領 せんりょう 後 ご の海南 かいなん 島 とう 支配 しはい は海軍 かいぐん が主導 しゅどう することになり、台湾 たいわん 総督 そうとく 府 ふ は海軍 かいぐん に協力 きょうりょく することでしか関与 かんよ できなかった[212] 。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月、日本 にっぽん は太平洋戦争 たいへいようせんそう の開戦 かいせん と共 とも に南方 みなかた 作戦 さくせん を発動 はつどう し、翌年 よくねん 5月 がつ には東南 とうなん アジア一帯 いったい を国土 こくど に組 く み込 こ んだ[213] 。しかし太平洋戦争 たいへいようせんそう に敗 やぶ れると、日本 にっぽん はそれ以前 いぜん からの各 かく 植民 しょくみん 地 ち を失 うしな い満州 まんしゅう 国 こく も消滅 しょうめつ 。1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )に締結 ていけつ されたサンフランシスコ条約 じょうやく により南 みなみ 樺太 からふと 、千島 ちしま 列島 れっとう の領有 りょうゆう 権 けん も放棄 ほうき することになった[214] 。
1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )には、太平洋戦争 たいへいようせんそう 末期 まっき からアメリカの占領 せんりょう 状態 じょうたい にあった沖縄 おきなわ が日本 にっぽん に返還 へんかん され[215] 現在 げんざい に至 いた っている(沖縄 おきなわ 返還 へんかん )。
気候 きこう ・動植物 どうしょくぶつ
日本 にっぽん の気候 きこう 区分 くぶん
気候 きこう
ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん によると、本州 ほんしゅう 以南 いなん 沖縄 おきなわ 諸島 しょとう 大東諸島 だいとうしょとう 以北 いほく の大半 たいはん が温帯 おんたい 多雨 たう 夏 なつ 高温 こうおん 気候 きこう (Cfa)、宮古 みやこ 諸島 しょとう ・八重山列島 やえやまれっとう ・沖大東島 おきだいとうじま などは熱帯 ねったい 雨林 うりん 気候 きこう (Af)、南鳥島 みなみとりしま はサバナ気候 きこう (Aw)に属 ぞく する一方 いっぽう 、北海道 ほっかいどう などが亜寒帯 あかんたい 湿潤 しつじゅん 夏 なつ 冷涼 れいりょう 気候 きこう (Dfb)を示 しめ す[216] 。内陸 ないりく 部 ぶ にも標高 ひょうこう が高 たか いために寒冷 かんれい な気候 きこう となる地区 ちく があり、避暑 ひしょ 地 ち として利用 りよう されている。モンスーン の影響 えいきょう を受 う け四季 しき の変化 へんか がはっきりしているものの、全般 ぜんぱん 的 てき には海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう [217] のため大陸 たいりく と比較 ひかく して冬 ふゆ の寒 さむ さはそれほど厳 きび しくなく温和 おんわ な気候 きこう である。飛 と び地 ち や海外 かいがい 領土 りょうど などを別 べつ にすれば、一 いち 国 こく の領土 りょうど 内 ない に熱帯 ねったい から亜寒帯 あかんたい までを含 ふく む国家 こっか は珍 めずら しい。北半球 きたはんきゅう では他 た にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく と中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく ぐらいである。(標高 ひょうこう の高 たか さによる寒冷 かんれい 地域 ちいき は除 のぞ く)
冬季 とうき は、シベリア高気圧 こうきあつ が優勢 ゆうせい となり北西 ほくせい の季節風 きせつふう が吹 ふ くが、その通 とお り道 みち である日本海 にほんかい で暖流 だんりゅう の対馬 つしま 海流 かいりゅう から大量 たいりょう の水蒸気 すいじょうき が蒸発 じょうはつ するため、大量 たいりょう の雪 ゆき を降 ふ らせる。そのため、日本海 にほんかい 側 がわ を中心 ちゅうしん に国土 こくど の約 やく 52%が世界 せかい でも有数 ゆうすう の豪雪 ごうせつ 地帯 ちたい となる。併 あわ せて、日本海 にほんかい 側 がわ で起 お きる冬季 とうき 雷 かみなり は世界 せかい でも稀 まれ な自然 しぜん 現象 げんしょう である。太平洋 たいへいよう 側 がわ では、空気 くうき が乾燥 かんそう した晴天 せいてん の日 ひ が多 おお い。
夏季 かき は、太平洋 たいへいよう 高気圧 こうきあつ の影響 えいきょう が強 つよ く、高温 こうおん 多湿 たしつ の日 ひ が続 つづ く。台風 たいふう も多 おお い。但 ただ し、北部 ほくぶ を中心 ちゅうしん にオホーツク海 かい 高気圧 こうきあつ の影響 えいきょう が強 つよ くなると低温 ていおん となり、しばしば農業 のうぎょう に影響 えいきょう を与 あた える。
比較的 ひかくてき 、降水 こうすい 量 りょう の多 おお い地域 ちいき である。主 おも な要因 よういん は、日本海 にほんかい 側 がわ での冬季 とうき の降雪 こうせつ 、6、7月(沖縄 おきなわ ・奄美 あまみ 地方 ちほう は5、6月 がつ )に前線 ぜんせん が停滞 ていたい して起 お こる梅雨 つゆ 、夏季 かき から秋季 しゅうき にかけて南方 みなかた 海上 かいじょう から接近 せっきん ・上陸 じょうりく する台風 たいふう など。また、地球 ちきゅう 温暖 おんだん 化 か に伴 ともな い、元 もと からある季 き 節 ぶし 性 せい の大雨 おおあめ 以外 いがい にも、春 はる から秋 あき にかけて不規則 ふきそく に線 せん 状 じょう 降水 こうすい 帯 たい が現 あらわ れ、極端 きょくたん に強 つよ い集中 しゅうちゅう 豪雨 ごうう が西日本 にしにほん を中心 ちゅうしん に多発 たはつ するようになった[218] [219] 。年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう は、約 やく 1700ミリメートルで地域 ちいき 差 さ が大 おお きい。南鳥島 みなみとりしま を除 のぞ く日本 にっぽん 全域 ぜんいき がモンスーン 地域 ちいき で、山 やま がちな日本 にっぽん 列島 れっとう の西岸 せいがん および南岸 なんがん の周 まわ りを暖流 だんりゅう が流 なが れている為 ため に雲 くも が発達 はったつ しやすく、日照 ひでり 時間 じかん は約 やく 1800時 じ 間 あいだ 程度 ていど と世界 せかい の他 ほか の温帯 おんたい 地域 ちいき と比 くら べても少 すく なめである。
生態 せいたい 系 けい
南北 なんぼく に長 なが く、また、森林 しんりん 限界 げんかい を越 こ える高山 たかやま 帯 たい や広 ひろ い海洋 かいよう 、四季 しき の変化 へんか により、面積 めんせき の広 ひろ さに比 くら べ、生息 せいそく する動物 どうぶつ や植物 しょくぶつ の種類 しゅるい が豊富 ほうふ である。津軽海峡 つがるかいきょう 以北 いほく の北海道 ほっかいどう の生態 せいたい 系 けい は沿海州 えんかいしゅう の生態 せいたい 系 けい に似 に ており、ブラキストン線 せん という境界 きょうかい が提唱 ていしょう されている。屋久島 やくしま と南西諸島 なんせいしょとう の間 あいだ には、旧 きゅう 北 きた 区 く と東洋 とうよう 区 く の生態 せいたい 系 けい の分布 ぶんぷ 境界 きょうかい 線 せん である渡瀬 わたせ 線 せん [220] が提唱 ていしょう されている。このほか海峡 かいきょう を主 おも に複数 ふくすう の分布 ぶんぷ 境界 きょうかい 線 せん が提唱 ていしょう されている[221] 。
四方 しほう が海 うみ で囲 かこ まれているため、外部 がいぶ から新 あたら しい生物 せいぶつ が侵入 しんにゅう してくる可能 かのう 性 せい が低 ひく かった。それに加 くわ え、多 おお くの離島 りとう があるため、その島 しま 独自 どくじ の生態 せいたい 系 けい が維持 いじ されてきた土地 とち が多数 たすう ある。特 とく に小笠原諸島 おがさわらしょとう や南西諸島 なんせいしょとう は、古 ふる くから本土 ほんど と比 くら べて孤立 こりつ した生態 せいたい 系 けい を築 きず いてきたため、その島 しま に固有 こゆう の動植物 どうしょくぶつ が多 おお く生息 せいそく している。小笠原諸島 おがさわらしょとう は、「東洋 とうよう のガラパゴス 」と呼 よ ばれるほど特殊 とくしゅ な生態 せいたい 系 けい を持 も つ。南西諸島 なんせいしょとう でも、西表島 いりおもてじま のイリオモテヤマネコ 、奄美 あまみ 大島 おおしま ・徳之島 とくのしま のアマミノクロウサギ をはじめ、固有 こゆう 生物 せいぶつ が島 しま ごとに生息 せいそく している例 れい がある。だが、近年 きんねん の開発 かいはつ や人間 にんげん が持 も ち込 こ んだ外来 がいらい 生物 せいぶつ により、生態 せいたい 系 けい は激変 げきへん し、固有 こゆう の動植物 どうしょくぶつ の生息 せいそく が脅 おびや かされている場所 ばしょ が多 おお い。
植物 しょくぶつ ・森林 しんりん
熱帯 ねったい のものから亜寒帯 あかんたい のもの、さらには高山 たかやま ツンドラ に生育 せいいく する高山 たかやま 植物 しょくぶつ に至 いた るまで植物 しょくぶつ の種類 しゅるい が豊富 ほうふ で多様 たよう 性 せい に富 と む。降水 こうすい に恵 めぐ まれ、高 こう 湿度 しつど に適 てき した植物 しょくぶつ が多 おお く分布 ぶんぷ している。コケ植物 しょくぶつ やシダ植物 しょくぶつ などが特 とく に豊富 ほうふ 。大陸 たいりく から離 はな れた地形 ちけい から、スギ などの日本 にっぽん 固有 こゆう 種 しゅ が広 ひろ く分布 ぶんぷ する。慣習 かんしゅう 的 てき に桜 さくら と菊 きく が国花 こっか と同等 どうとう の扱 あつか いを受 う ける。この他 ほか 、各 かく 自治体 じちたい でも独自 どくじ の木 き や花 はな を制定 せいてい している[222] [223] 。
陸地 りくち の約 やく 3分 ぶん の2が森林 しんりん (森林 しんりん 率 りつ 66%[注釈 ちゅうしゃく 44] ・森林 しんりん 面積 めんせき :2,512万 まん ヘクタール ・2009年 ねん 現在 げんざい )である。亜熱帯 あねったい から亜寒帯 あかんたい に渡 わた る、どの地域 ちいき でも年間 ねんかん の雨量 うりょう が十分 じゅうぶん で、森林 しんりん の成立 せいりつ が可能 かのう である。平地 ひらち の植生 しょくせい は、南 みなみ の約 やく 3分 ぶん の2が常緑 じょうりょく 広葉樹 こうようじゅ 林 りん 、いわゆる照葉樹 しょうようじゅ 林 りん という型 かた であり、北 きた の約 やく 3分 ぶん の1が落葉 らくよう 広葉樹 こうようじゅ 林 りん 、ブナ林 りん を代表 だいひょう とする森林 しんりん である。標高 ひょうこう の高 たか い地域 ちいき では、更 さら に常緑 じょうりょく 針葉樹 しんようじゅ 林 りん 、一部 いちぶ に落葉 らくよう 針葉樹 しんようじゅ 林 りん がある。南西諸島 なんせいしょとう の一部 いちぶ は熱帯 ねったい に属 ぞく し、沿海 えんかい の干潟 ひがた にはマングローブ が発達 はったつ する。
この森林 しんりん 面積 めんせき の内訳 うちわけ は、天然 てんねん 林 りん が53%(1335万 まん ヘクタール)、人工 じんこう 林 りん が41%(1036万 まん ヘクタール)、その他 た (標高 ひょうこう などの条件 じょうけん で未 み 生育 せいいく の森林 しんりん など)が6%、となっている。内 うち 、人工 じんこう 林 りん は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の拡大 かくだい 造林 ぞうりん の影響 えいきょう を受 う けたことから、スギ林 りん が多数 たすう (452万 まん ヘクタール)を占 し める。これは、高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き に木材 もくざい 需要 じゅよう の逼迫 ひっぱく から大量 たいりょう の天然 てんねん 林 りん が伐採 ばっさい され、木材 もくざい の生産 せいさん 効率 こうりつ のみを考 かんが えたスギ・ヒノキ 林 はやし に更新 こうしん されたためである。その後 ご 海外 かいがい からの輸入 ゆにゅう 量 りょう が急増 きゅうぞう し、一転 いってん して木材 もくざい の価格 かかく が暴落 ぼうらく した結果 けっか 、採算 さいさん の取 と れない人工 じんこう 林 りん の多 おお くが取 と り残 のこ される結果 けっか となった。放棄 ほうき されたスギ林 りん では、下層 かそう 植生 しょくせい が発達 はったつ せず貧弱 ひんじゃく な生態 せいたい 系 けい となり、防災 ぼうさい や水源 すいげん 涵養 かんよう の面 めん でも問題 もんだい が多 おお い。また、スギやヒノキの大量 たいりょう 植樹 しょくじゅ は時 とき に「国民 こくみん 病 びょう 」とも呼 よ ばれる花粉 かふん 症 しょう の蔓延 まんえん を招 まね いている。
動物 どうぶつ
雪 ゆき の中 なか 温泉 おんせん につかるニホンザル (長野 ながの 県 けん 地獄谷 じごくだに 野猿 やえん 公 こう 苑 えん )。
哺乳類 ほにゅうるい
100種 しゅ 強 きょう が生息 せいそく し、その内 うち 、固有 こゆう 種 しゅ が3割 わり を超 こ え、7属 ぞく が固有 こゆう 属 ぞく である。日本 にっぽん の哺乳類 ほにゅうるい 相 しょう は、北海道 ほっかいどう と本州 ほんしゅう との間 あいだ にあるブラキストン線 せん 、また、南西諸島 なんせいしょとう のうち、トカラ列島 れっとう と奄美 あまみ 群島 ぐんとう との間 あいだ にある渡瀬 わたせ 線 せん で区切 くぎ られ、これらを境 さかい に異 こと なる動物 どうぶつ 群 ぐん が生息 せいそく している。
大型 おおがた 哺乳類 ほにゅうるい では、北海道 ほっかいどう のヒグマ 、エゾシカ 、本州 ほんしゅう のツキノワグマ 、ニホンジカ 、ニホンカモシカ などがいる。
固有 こゆう 種 しゅ であるニホンザル のうち、下北半島 しもきたはんとう に住 す む個体 こたい 群 ぐん は、世界 せかい で最 もっと も北方 ほっぽう に棲息 せいそく するサル である。ニホンオオカミ 、エゾオオカミ 、ニホンアシカ 、日本 にっぽん のラッコ 個体 こたい 群 ぐん 、および、ニホンカワウソ は絶滅 ぜつめつ 。
鳥類 ちょうるい
日本 にっぽん の国鳥 こくちょう のキジ
500種 しゅ を越 こ える鳥類 ちょうるい が観察 かんさつ される。四方 しほう の海 うみ に加 くわ え、水源 すいげん が豊富 ほうふ な日本 にっぽん では、河川 かせん や池 いけ 、湖 みずうみ が多 おお く、それに棲 す む水鳥 みずとり の種類 しゅるい が豊富 ほうふ である。日本 にっぽん 列島 れっとう はシベリアで繁殖 はんしょく する鳥 とり の越冬 えっとう 地 ち であり、東南 とうなん アジア など南方 なんぽう で越冬 えっとう した鳥 とり が繁殖 はんしょく する地 ち であり、さらに北方 ほっぽう から南方 なんぽう に渡 わた る渡 わた り鳥 どり が通過 つうか する中継 ちゅうけい 地 ち としても重要 じゅうよう で、季 き 節 ぶし によって多彩 たさい な渡 わた り鳥 どり を観察 かんさつ することができる。近年 きんねん 、乱 らん 開発 かいはつ による干潟 ひかた の減少 げんしょう や、東南 とうなん アジアの森林 しんりん の破壊 はかい が、日本 にっぽん で見 み られる鳥類 ちょうるい の存続 そんぞく の脅威 きょうい となっている。水鳥 みずとり の生息 せいそく 地 ち として国際 こくさい 的 てき に重要 じゅうよう な37の湿地 しっち が、ラムサール条約 じょうやく に登録 とうろく され保護 ほご されている[224] 。
渡 わた りをしない留鳥 りゅうちょう としては、国鳥 こくちょう のキジ などがあげられる。人家 じんか の近 ちか くには、カラス 、スズメ 、ハト 、ツバメ 、ハクセキレイ などが生息 せいそく し、古来 こらい より文化 ぶんか の中 なか で親 した しまれてきた。最近 さいきん ではヒヨドリ やムクドリ が人家 じんか 周辺 しゅうへん に多 おお い。
固有 こゆう 種 しゅ は、メグロ などがある。トキ の個体 こたい 群 ぐん は、絶滅 ぜつめつ 。現在 げんざい 、佐渡 さど 市 し で人工 じんこう 的 てき に繁殖 はんしょく されているトキは、中国 ちゅうごく の個体 こたい 群 ぐん から借 か り入 い れたものである。
爬虫類 はちゅうるい ・両生類 りょうせいるい
いずれも亜熱帯 あねったい に種類 しゅるい が多 おお く、南西諸島 なんせいしょとう に半分 はんぶん 以上 いじょう の種 たね が集中 しゅうちゅう する。これは、島 しま ごとの種 たね 分化 ぶんか が進 すす んでいるためでもある。本土 ほんど における島 しま ごとの種 たね 分化 ぶんか は、さほど見 み られない。例外 れいがい は、サンショウウオ 類 るい で、南西諸島 なんせいしょとう に見 み られないが、本土 ほんど の各 かく 地方 ちほう での種 たね 分化 ぶんか が進 すす み、多 おお くの種 たね を産 さん することで世界 せかい 的 てき にも知 し られる。また、現存 げんそん する世界 せかい 最大 さいだい の両生類 りょうせいるい であるオオサンショウウオ は、日本 にっぽん を代表 だいひょう する両生類 りょうせいるい として世界 せかい 的 てき に知 し られる。
魚類 ぎょるい
近海 きんかい の魚類 ぎょるい は、種類 しゅるい 、数 かず 、共 とも に豊 ゆた かで、三陸海岸 さんりくかいがん 沖 おき から千島 ちしま 列島 れっとう に掛 か けてが世界 せかい 三 さん 大漁 たいりょう 場 じょう の一 ひと つに数 かぞ えられる。近海 きんかい を暖流 だんりゅう と寒流 かんりゅう とが流 なが れ、これらの接点 せってん である潮境 しおざかい でプランクトン が発生 はっせい しやすいことや、周辺 しゅうへん に広 ひろ い大陸棚 たいりくだな や多様 たよう で複雑 ふくざつ な海岸 かいがん を持 も つこと、などが好条件 こうじょうけん となっている。淡水魚 たんすいぎょ の種 たね は、大陸 たいりく に比 くら べて河川 かせん の規模 きぼ が小 ちい さいため、多 おお くない。古代 こだい 湖 みずうみ である琵琶湖 びわこ などに多彩 たさい な種 たね が棲息 せいそく するものの、アユ など食用 しょくよう に供 きょう される種 たね の人為 じんい 的 てき な放流 ほうりゅう や外来 がいらい 魚 ぎょ の勢力 せいりょく 拡大 かくだい により、希少 きしょう 種 しゅ の絶滅 ぜつめつ や淡水魚 たんすいぎょ 類 るい 相 しょう の激変 げきへん が問題 もんだい となっている。他方 たほう 、雨量 うりょう の多 おお い気候 きこう のために河口 かこう 域 いき に汽水域 すいいき が出来 でき やすく、貝類 かいるい も豊富 ほうふ である。
また、2010年 ねん に海洋 かいよう 生物 せいぶつ センサス(Census of Marine Life)が出 だ した報告 ほうこく により、日本 にっぽん 近海 きんかい は、世界 せかい 25箇所 かしょ の代表 だいひょう 的 てき な海 うみ の中 なか で最多 さいた となる、約 やく 3万 まん 3000種 しゅ の海洋 かいよう 生物 せいぶつ が生息 せいそく していることが明 あき らかとなった[225] 。これは日本 にっぽん の気候 きこう が南北 なんぼく に渡 わた って非常 ひじょう に多彩 たさい であり、同時 どうじ に大 おお きな海流 かいりゅう に恵 めぐ まれ、海水 かいすい が多 おお くの栄養 えいよう を持 も っていることを示 しめ している。例 たと えば北海道 ほっかいどう は流氷 りゅうひょう の南限 なんげん であるのに対 たい し、南西諸島 なんせいしょとう および小笠原諸島 おがさわらしょとう はサンゴ生育 せいいく の北限 ほくげん である。
昆虫 こんちゅう
亜熱帯 あねったい のものから亜寒帯 あかんたい のものまで種類 しゅるい が豊富 ほうふ で多様 たよう 性 せい に富 と む。森林 しんりん が多 おお いため、数 かず も多 おお い。都市 とし 部 ぶ でも多 おお くの昆虫 こんちゅう が見 み られる。雨 あめ が多 おお く、湿地 しっち や水田 すいでん が各地 かくち にあるため、特 とく にトンボ の種類 しゅるい が多 おお い。また、カブトムシ など里山 さとやま に暮 く らす昆虫 こんちゅう も多 おお く見 み られたが、暮 く らしの変化 へんか と共 とも に少 すく なくなった。江戸 えど 時代 じだい ごろからスズムシ やコオロギ の鳴 な き声 ごえ を楽 たの しむために飼育 しいく が行 おこな われてきた。愛玩 あいがん 対象 たいしょう として昆虫 こんちゅう を飼 か う文化 ぶんか は、世界 せかい 的 てき にも珍 めずら しい。オオムラサキ が国 くに 蝶 ちょう 。
環境 かんきょう 問題 もんだい
メガソーラーとして建設 けんせつ された米 べい 倉山 くらやま 太陽光 たいようこう 発電 はつでん 所 しょ
1950-60年代 ねんだい 、四 よん 大 だい 公害 こうがい 病 びょう に代表 だいひょう される大 だい 規模 きぼ な公害 こうがい の発生 はっせい から、1967年 ねん の公害 こうがい 対策 たいさく 基本 きほん 法 ほう を始 はじ めに水質 すいしつ 汚濁 おだく や大気 たいき 汚染 おせん などの規制 きせい 法 ほう が相次 あいつ いで成立 せいりつ した。これを受 う け、日本 にっぽん 企業 きぎょう は、オイルショック のためにマイナス成長 せいちょう 下 か にあった1973年 ねん -1976年 ねん の前後 ぜんご に集中 しゅうちゅう して公害 こうがい の防止 ぼうし への投資 とうし を行 おこな い、1970年代 ねんだい 以降 いこう 、大 だい 規模 きぼ な公害 こうがい の件数 けんすう が急速 きゅうそく に減少 げんしょう した。また、この投資 とうし は、オイルショック下 か の日本 にっぽん 経済 けいざい の下 しも 支 ささ えの役割 やくわり を果 は たしたため、「日本 にっぽん は公害 こうがい 対策 たいさく と経済 けいざい 成長 せいちょう を両立 りょうりつ させた」と言 い われる[226] 。
しかし、日本 にっぽん 列島 れっとう 改造 かいぞう 論 ろん が叫 さけ ばれた1970年代 ねんだい 以降 いこう 、地域 ちいき 振興 しんこう を名目 めいもく に道路 どうろ 建設 けんせつ や圃場 ほじょう 整備 せいび などの公共 こうきょう 事業 じぎょう 、リゾート 開発 かいはつ などの大型 おおがた 開発 かいはつ が盛 さか んに行 おこな われ、日本 にっぽん 固有 こゆう の風致 ふうち や生態 せいたい 系 けい は大 おお きく損 そこな われてしまった。また、ゴミ問題 もんだい のために富士山 ふじさん の世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく を断念 だんねん したことに象徴 しょうちょう されるように、環境 かんきょう 管理 かんり においても多 おお くの課題 かだい を抱 かか える。人工 じんこう 林 りん の荒廃 こうはい やダム 建設 けんせつ などによって河川 かせん や山林 さんりん の生態 せいたい 系 けい が衰退 すいたい していることにより、ニホンザルやイノシシ が市街地 しがいち に出没 しゅつぼつ するなど、人間 にんげん の生活 せいかつ への影響 えいきょう も出 で ている。
高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き 以降 いこう 、日本人 にっぽんじん の食卓 しょくたく の変化 へんか や、海外 かいがい の農産 のうさん 品 ひん の輸入 ゆにゅう 増加 ぞうか 、東京 とうきょう 一 いち 極 きょく 集中 しゅうちゅう 、天然 てんねん 林 りん の伐採 ばっさい 、地域 ちいき 振興 しんこう における公共 こうきょう 事業 じぎょう 偏重 へんちょう など様々 さまざま な要因 よういん により、農 のう 山村 さんそん や農林 のうりん 水産 すいさん 業 ぎょう が衰退 すいたい した。これに伴 ともな い、耕作 こうさく 放棄 ほうき 地 ち の増加 ぞうか 、人工 じんこう 林 りん の荒廃 こうはい 、水産 すいさん 資源 しげん の減少 げんしょう などの問題 もんだい が発生 はっせい している。
地域 ちいき 区分 くぶん
都道府県 とどうふけん (1都 と 1道 みち 2府 ふ 43県 けん )という広域 こういき 行政 ぎょうせい 区画 くかく から構成 こうせい される。但 ただ し、それよりも広域 こういき の地域 ちいき 区分 くぶん (地方 ちほう 区分 くぶん )には、揺 ゆ れが見 み られる。都道府県 とどうふけん の内部 ないぶ には、市町村 しちょうそん や、町村 ちょうそん をまとめた郡 ぐん 、特別 とくべつ 区 く などがある(日本 にっぽん の地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい 一覧 いちらん 参照 さんしょう )。一部 いちぶ の市 し は、行政 ぎょうせい 上 じょう 、別途 べっと 政令 せいれい 指定 してい 都市 とし 、中核 ちゅうかく 市 し 、施行 しこう 時 じ 特例 とくれい 市 し に定 さだ められている。
日本 にっぽん の各 かく 都道府県 とどうふけん の位置 いち (クリックでリンク先 さき に移動 いどう ) /
北海道 ほっかいどう 地方 ちほう
1.北海道 ほっかいどう
東北 とうほく 地方 ちほう
2.青森 あおもり 県 けん - 3.岩手 いわて 県 けん - 4.宮城 みやぎ 県 けん - 5.秋田 あきた 県 けん - 6.山形 やまがた 県 けん - 7.福島 ふくしま 県 けん
関東 かんとう 地方 ちほう
8.茨城 いばらき 県 けん - 9.栃木 とちぎ 県 けん - 10.群馬 ぐんま 県 けん - 11.埼玉 さいたま 県 けん - 12.千葉 ちば 県 けん - 13.東京 とうきょう 都 と - 14.神奈川 かながわ 県 けん
上記 じょうき は「一 いち 都 と 六 ろく 県 けん 」。「首都 しゅと 圏 けん 」はこれに山梨 やまなし 県 けん を、「広域 こういき 関東 かんとう 圏 けん 」には関東 かんとう 地方 ちほう 1都 と 6県 けん に親 しん 不知 ふち 浜名湖 はまなこ 線 せん 以東 いとう の新潟 にいがた ・山梨 やまなし ・長野 ながの ・静岡 しずおか の4県 けん を、それぞれ加 くわ える。
中部 ちゅうぶ 地方 ちほう [227] [228]
北陸 ほくりく 地方 ちほう [229] [230] [231]
15.新潟 にいがた 県 けん - 16.富山 とやま 県 けん - 17.石川 いしかわ 県 けん - 18.福井 ふくい 県 けん
福井 ふくい 県 けん 嶺 みね 南 みなみ 地域 ちいき を近畿 きんき 地方 ちほう に含 ふく める場合 ばあい がある。
新潟 にいがた 県 けん を北陸 ほくりく 地方 ちほう に含 ふく めず、長野 ながの 県 けん 、山梨 やまなし 県 けん とともに甲信越 こうしんえつ と称 しょう する場合 ばあい も多 おお い。
東山 ひがしやま 地方 ちほう [232]
19.山梨 やまなし 県 けん - 20.長野 ながの 県 けん
中央 ちゅうおう 高地 こうち [注釈 ちゅうしゃく 45] ともいう。岐阜 ぎふ 県 けん 飛騨 ひだ 地域 ちいき を加 くわ える場合 ばあい もある。
東海 とうかい 地方 ちほう
21.岐阜 ぎふ 県 けん - 22.静岡 しずおか 県 けん - 23.愛知 あいち 県 けん
普通 ふつう 、「東海 とうかい 3県 けん 」というと、静岡 しずおか 県 けん ではなく三重 みえ 県 けん を含 ふく めることが多 おお い。なお、静岡 しずおか 県 けん については関東甲信越 かんとうこうしんえつ 各 かく 県 けん と併 あわ せて広域 こういき 関東 かんとう 圏 けん とする場合 ばあい も多 おお い。
近畿 きんき 地方 ちほう
24.三重 みえ 県 けん - 25.滋賀 しが 県 けん - 26.京都 きょうと 府 ふ - 27.大阪 おおさか 府 ふ - 28.兵庫 ひょうご 県 けん - 29.奈良 なら 県 けん - 30.和歌山 わかやま 県 けん
但 ただ し、三重 みえ 県 けん は近畿 きんき 地方 ちほう に含 ふく めず中部 ちゅうぶ 地方 ちほう もしくは東海 とうかい 地方 ちほう に含 ふく まれることも多 おお い。なお、近畿 きんき 地方 ちほう のことを「関西 かんさい 地方 ちほう 」と呼 よ ぶ場合 ばあい は通常 つうじょう 、三重 みえ 県 けん を除 のぞ く2府 ふ 4県 けん のことを指 さ す(場合 ばあい によっては三重 みえ 県 けん のうち伊賀 いが 地域 ちいき を加 くわ えることもある)。
中国 ちゅうごく 地方 ちほう
31.鳥取 とっとり 県 けん - 32.島根 しまね 県 けん - 33.岡山 おかやま 県 けん - 34.広島 ひろしま 県 けん - 35.山口 やまぐち 県 けん
鳥取 とっとり 県 けん と島根 しまね 県 けん 、そして場合 ばあい によっては山口 やまぐち 県 けん の一部 いちぶ や兵庫 ひょうご 県 けん ・京都 きょうと 府 ふ の一部 いちぶ をも含 ふく む地域 ちいき を、山陰 さんいん と呼 よ ぶ。岡山 おかやま 県 けん と広島 ひろしま 県 けん に山口 やまぐち 県 けん の多 おお くを含 ふく めた地域 ちいき を、山陽 さんよう と呼 よ ぶ(兵庫 ひょうご 県 けん の一部 いちぶ を含 ふく むこともある)。また、山口 やまぐち 県 けん を九州 きゅうしゅう 地方 ちほう と併 あわ せて九州 きゅうしゅう ・山口 やまぐち 地方 ちほう とする場合 ばあい もある。
四国 しこく 地方 ちほう
36.徳島 とくしま 県 けん - 37.香川 かがわ 県 けん - 38.愛媛 えひめ 県 けん - 39.高知 こうち 県 けん
四国 しこく 山地 さんち より北 きた を北 きた 四国 しこく 、南 みなみ を南 みなみ 四国 しこく とする。また、中国 ちゅうごく 地方 ちほう とあわせて中国 ちゅうごく ・四国 しこく 地方 ちほう (中 ちゅう 四国 しこく 地方 ちほう )とする場合 ばあい もある。その場合 ばあい 、山陽 さんよう と北 きた 四国 しこく とをあわせて瀬戸内 せとうち と呼 よ ぶ。
九州 きゅうしゅう 地方 ちほう
40.福岡 ふくおか 県 けん - 41.佐賀 さが 県 けん - 42.長崎 ながさき 県 けん - 43.熊本 くまもと 県 けん - 44.大分 おおいた 県 けん - 45.宮崎 みやざき 県 けん - 46.鹿児島 かごしま 県 けん
山口 やまぐち 県 けん とあわせて九州 きゅうしゅう ・山口 やまぐち 地方 ちほう とする場合 ばあい や、沖縄 おきなわ 県 けん とあわせて九州 きゅうしゅう ・沖縄 おきなわ 地方 ちほう とする場合 ばあい もある。
奄美 あまみ 群島 ぐんとう は、歴史 れきし ・文化 ぶんか ・自然 しぜん などの面 めん において九州 きゅうしゅう よりも沖縄 おきなわ に近 ちか い[233] [234] [235] ため、奄美 あまみ 群島 ぐんとう を沖縄 おきなわ 県 けん とあわせて沖縄 おきなわ ・奄美 あまみ 地方 ちほう とする場合 ばあい もある。
沖縄 おきなわ 地方 ちほう
47.沖縄 おきなわ 県 けん
沖縄 おきなわ 県 けん は九州 きゅうしゅう 地方 ちほう に含 ふく む場合 ばあい もある。九州 きゅうしゅう 地方 ちほう に含 ふく める場合 ばあい は九州 きゅうしゅう ・沖縄 おきなわ 地方 ちほう と呼称 こしょう することもある。
沖縄 おきなわ 県 けん は奄美 あまみ 群島 ぐんとう と文化 ぶんか 的 てき 、自然 しぜん 的 てき に近 ちか い[236] [237] ため、奄美 あまみ 群島 ぐんとう とあわせて沖縄 おきなわ ・奄美 あまみ 地方 ちほう とする場合 ばあい もある。
都市 とし
法定 ほうてい 人口 じんこう による政令 せいれい 指定 してい 都市 とし の順位 じゅんい 付 づ け参考 さんこう のため、東京 とうきょう 都区 とく 部 ぶ を併記 へいき
順位 じゅんい
都道府県 とどうふけん
市 し (区 く )
法定 ほうてい 人口 じんこう
推計 すいけい 人口 じんこう
増減 ぞうげん 率 りつ (%)
種別 しゅべつ
推計 すいけい 人口 じんこう の統計 とうけい 年月日 ねんがっぴ
00 0
東京 とうきょう 都 と
特別 とくべつ 区 く 部 ぶ
9,733,276
9,793,163
+0.62
特別 とくべつ 区 く 部 ぶ
2024年 ねん 3月 がつ 1日 にち
1
神奈川 かながわ 県 けん
横浜 よこはま 市 し
3,777,491
3,764,961
-0.33
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 3月 がつ 1日 にち
2
大阪 おおさか 府 ふ
大阪 おおさか 市 し
2,752,412
2,773,449
+0.76
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
3
愛知 あいち 県 けん
名古屋 なごや 市 し
2,332,176
2,326,518
-0.24
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
4
北海道 ほっかいどう
札幌 さっぽろ 市 し
1,973,395
1,954,888
-0.94
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 29日 にち
5
福岡 ふくおか 県 けん
福岡 ふくおか 市 し
1,612,392
1,645,100
+2.03
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
6
神奈川 かながわ 県 けん
川崎 かわさき 市 し
1,538,262
1,545,048
+0.44
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 3月 がつ 1日 にち
7
兵庫 ひょうご 県 けん
神戸 こうべ 市 し
1,525,152
1,496,425
-1.88
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
8
京都 きょうと 府 ふ
京都 きょうと 市 し
1,463,723
1,439,929
-1.63
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
9
埼玉 さいたま 県 けん
さいたま市 し
1,324,025
1,345,724
+1.64
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 3月 がつ 1日 にち
10
広島 ひろしま 県 けん
広島 ひろしま 市 し
1,200,754
1,183,425
-1.44
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
11
宮城 みやぎ 県 けん
仙台 せんだい 市 し
1,096,704
1,097,032
+0.03
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
12
千葉 ちば 県 けん
千葉 ちば 市 し
974,951
979,579
+0.47
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
13
福岡 ふくおか 県 けん
北九州 きたきゅうしゅう 市 し
939,029
913,563
-2.71
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
14
大阪 おおさか 府 ふ
堺 さかい 市 し
826,161
810,163
-1.94
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
15
静岡 しずおか 県 けん
浜松 はままつ 市 し
790,718
778,158
-1.59
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 3月 がつ 1日 にち
16
新潟 にいがた 県 けん
新潟 にいがた 市 し
789,275
770,317
-2.40
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
17
熊本 くまもと 県 けん
熊本 くまもと 市 し
738,865
737,108
-0.24
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 3月 がつ 1日 にち
18
神奈川 かながわ 県 けん
相模原 さがみはら 市 し
725,493
723,785
-0.24
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 3月 がつ 1日 にち
19
岡山 おかやま 県 けん
岡山 おかやま 市 し
724,691
714,678
-1.38
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 2月 がつ 1日 にち
20
静岡 しずおか 県 けん
静岡 しずおか 市 し
693,389
674,801
-2.68
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
2024年 ねん 3月 がつ 1日 にち
特別 とくべつ 区 く
区 く 名 めい
区 く 旗 はた
区 く 章 あきら
推計 すいけい 人口 じんこう
面積 めんせき
人口 じんこう 密度 みつど
千代田 ちよだ 区 く
68,489人 にん
11.66km²
5,874
中央 ちゅうおう 区 く
178,655人 にん
10.21km²
17,498
港 みなと 区 く
267,225人 にん
20.36km²
13,125
新宿 しんじゅく 区 く
353,880人 にん
18.22km²
19,423
文京 ぶんきょう 区 く
245,484人 にん
11.29km²
21,743
台東 たいとう 区 く
221,332人 にん
10.11km²
21,892
墨田 すみだ 区 く
281,366人 にん
13.77km²
20,433
江東 こうとう 区 く
536,597人 にん
42.99km²
12,482
品川 しながわ 区 く
423,436人 にん
22.85km²
18,531
目黒 めぐろ 区 く
285,465人 にん
14.67km²
19,459
大田 おおた 区 く
744,849人 にん
61.86km²
12,041
世田谷 せたがや 区 く
939,178人 にん
58.05km²
16,179
渋谷 しぶや 区 く
243,668人 にん
15.11km²
16,126
中野 なかの 区 く
347,341人 にん
15.59km²
22,280
杉並 すぎなみ 区 く
589,076人 にん
34.06km²
17,295
豊島 としま 区 く
305,784人 にん
13.01km²
23,504
北 きた 区 く
359,413人 にん
20.61km²
17,439
荒川 あらかわ 区 く
220,364人 にん
10.16km²
21,689
板橋 いたばし 区 く
586,209人 にん
32.22km²
18,194
練馬 ねりま 区 く
752,974人 にん
48.08km²
15,661
足立 あだち 区 く
696,454人 にん
53.25km²
13,079
葛飾 かつしか 区 く
455,442人 にん
34.80km²
13,087
江戸川 えどがわ 区 く
690,482人 にん
49.90km²
13,837
政令 せいれい 指定 してい 都市 とし
地域 ちいき
道府県 どうふけん
市 し 名 めい
市 し 章 あきら
市 し 旗 はた
推計 すいけい 人口 じんこう (人 ひと )
DID人口 じんこう (人 ひと )
面積 めんせき (km2 )
市街地 しがいち 面積 めんせき (km2 )
人口 じんこう 密度 みつど (人 ひと /km2 )
DID人口 じんこう 密度 みつど (人 ひと /km2 )
財政 ざいせい 力 りょく 指数 しすう
企業 きぎょう 数 すう [238]
施行 しこう 日 び
行政 ぎょうせい 区 く [注釈 ちゅうしゃく 46]
北海道 ほっかいどう
北海道 ほっかいどう
札幌 さっぽろ 市 し
1,954,888
1,812,362
1,121.26
250.2
1,743
7,966.4
0.72
47,412
1972年 ねん 4月 がつ 1日 にち
東北 とうほく
宮城 みやぎ 県 けん
仙台 せんだい 市 し
1,097,032
905,139
786.35
179.6
1,395
6,951.9
0.89
27,183
1989年 ねん 4月 がつ 1日 にち
関東 かんとう
埼玉 さいたま 県 けん
さいたま市 し
1,345,724
1,080,130
217.43
117.0
6,189
9,344.5
0.98
26,164
2003年 ねん 4月 がつ 1日 にち
千葉 ちば 県 けん
千葉 ちば 市 し
979,579
830,383
271.76
128.8
3,605
7,022.9
0.95
17,426
1992年 ねん 4月 がつ 1日 にち
神奈川 かながわ 県 けん
横浜 よこはま 市 し
3,764,961
3,487,816
438.01
331.0
8,596
10,036.3
0.97
77,101
1956年 ねん 4月 がつ 1日 にち
川崎 かわさき 市 し
1,545,048
1,316,910
142.96
127.3
10,808
9,974.3
1.00
28,222
1972年 ねん 4月 がつ 1日 にち
相模原 さがみはら 市 し
723,785
640,899
328.91
67.8
2,201
8,998.9
0.93
16,293
2010年 ねん 4月 がつ 1日 にち
北陸 ほくりく
新潟 にいがた 県 けん
新潟 にいがた 市 し
770,317
579,033
726.19
128.9
1,061
5,738.7
0.75
23,316
2007年 ねん 4月 がつ 1日 にち
東海 とうかい
静岡 しずおか 県 けん
静岡 しずおか 市 し
674,801
621,397
1,411.93
104.4
478
6,081.4
0.91
25,151
2005年 ねん 4月 がつ 1日 にち
浜松 はままつ 市 し
778,158
471,949
1,558.11
97.9
499
5,604.4
0.89
26,165
2007年 ねん 4月 がつ 1日 にち
愛知 あいち 県 けん
名古屋 なごや 市 し
2,326,518
2,159,379
326.46
302.6
7,127
7,889.9
0.99
82,369
1956年 ねん 4月 がつ 1日 にち
近畿 きんき
京都 きょうと 府 ふ
京都 きょうと 市 し
1,439,929
1,387,532
827.83
149.9
1,739
9,903.9
0.79
52,918
1956年 ねん 4月 がつ 1日 にち
大阪 おおさか 府 ふ
大阪 おおさか 市 し
2,773,449
2,628,312
225.34
211.5
12,308
11,857.4
0.92
133,454
1956年 ねん 4月 がつ 1日 にち
堺 さかい 市 し
810,163
794,924
149.83
109.3
5,407
7,557.7
0.84
21,290
2006年 ねん 4月 がつ 1日 にち
兵庫 ひょうご 県 けん
神戸 こうべ 市 し
1,496,425
1,409,454
557.05
203.7
2,686
9,536.2
0.79
47,517
1956年 ねん 4月 がつ 1日 にち
中国 ちゅうごく
岡山 おかやま 県 けん
岡山 おかやま 市 し
714,678
454,902
789.95
103.9
905
5,797.9
0.79
20,887
2009年 ねん 4月 がつ 1日 にち
広島 ひろしま 県 けん
広島 ひろしま 市 し
1,183,425
1,004,506
906.69
159.8
1,305
7,436.9
0.83
34,596
1980年 ねん 4月 がつ 1日 にち
九州 きゅうしゅう
福岡 ふくおか 県 けん
北九州 きたきゅうしゅう 市 し
939,622
888,161
492.50
204.4
1,855
5,667.2
0.72
29,486
1963年 ねん 4月 がつ 1日 にち
福岡 ふくおか 市 し
1,645,100
1,343,902
343.47
162.7
4,790
8,936.7
0.88
43,811
1972年 ねん 4月 がつ 1日 にち
熊本 くまもと 県 けん
熊本 くまもと 市 し
737,108
556,186
390.32
107.3
1,888
6,675.3
0.70
21,002
2012年 ねん 4月 がつ 1日 にち
中核 ちゅうかく 市 し
2021年 ねん 4月 がつ 1日 にち 現在 げんざい 、以下 いか の62市 し が中核 ちゅうかく 市 し に指定 してい されている。
施行 しこう 時 じ 特例 とくれい 市 し
特例 とくれい 市 し 制度 せいど 廃止 はいし 時点 じてん に特例 とくれい 市 し に指定 してい されていた市 し のうち、中核 ちゅうかく 市 し や政令 せいれい 指定 してい 都市 とし に移行 いこう していない市 し 。2021年 ねん 4月 がつ 1日 にち 現在 げんざい 、以下 いか の23市 し が「施行 しこう 時 じ 特例 とくれい 市 し 」に指定 してい されている。
政治 せいじ
日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 下 か の統治 とうち 機構 きこう 図 ず
法 ほう 制度 せいど
日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう を最高 さいこう 法規 ほうき とし、この下 した に、国会 こっかい が制定 せいてい する法律 ほうりつ 、内閣 ないかく が制定 せいてい する政令 せいれい や各 かく 省庁 しょうちょう が制定 せいてい する省令 しょうれい などの命令 めいれい 、地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい が制定 せいてい する条例 じょうれい など、各種 かくしゅ の法令 ほうれい が定 さだ められる。この他 ほか 、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 改正 かいせい 以前 いぜん の勅 みことのり 令 れい や大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう 以前 いぜん の太政官 だじょうかん 布告 ふこく ・太政官 だじょうかん 達 たち は新 あら たに制定 せいてい されることはなくなったが、憲法 けんぽう に違反 いはん しない限 かぎ り有効 ゆうこう である[注釈 ちゅうしゃく 48] 。2019年 ねん 現在 げんざい において国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん のデータベースである 日本法令 にほんほうれい 索引 さくいん は、有効 ゆうこう な勅 みことのり 令 れい としては本初 ほんしょ 子午線 しごせん 経度 けいど 計算 けいさん 方 かた 及標準時 ひょうじゅんじ ノ件 けん (明治 めいじ 19年 ねん 勅 みことのり 令 れい 第 だい 51号 ごう )、閏年 うるうどし ニ關 せき スル件 けん (明治 めいじ 31年 ねん 勅 みことのり 令 れい 第 だい 90号 ごう )など57件 けん 、太政官 だじょうかん 布告 ふこく ・太政官 だじょうかん 達 たち は改暦 かいれき ノ布告 ふこく (明治 めいじ 5年 ねん 太政官 だじょうかん 布告 ふこく 第 だい 337号 ごう )など9件 けん を収録 しゅうろく している。憲法 けんぽう 上 じょう 、裁判所 さいばんしょ は、全 すべ ての法令 ほうれい や行政 ぎょうせい 行為 こうい などが憲法 けんぽう に適合 てきごう するか否 ひ かを最終 さいしゅう 的 てき に判断 はんだん する違憲 いけん 法令 ほうれい 審査 しんさ 権 けん を有 ゆう し、最高裁判所 さいこうさいばんしょ を終審 しゅうしん 裁判所 さいばんしょ とする。もっとも、いわゆる司法 しほう 消極 しょうきょく 主義 しゅぎ に基 もと づき、国会 こっかい や内閣 ないかく など政治 せいじ 部門 ぶもん が下 くだ した判断 はんだん への干渉 かんしょう は、憲法 けんぽう 判断 はんだん に関 かん する統治 とうち 行為 こうい 論 ろん を代表 だいひょう として司法 しほう 判断 はんだん を控 ひか えることが多 おお い。
憲法 けんぽう
現行 げんこう の憲法 けんぽう は日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう であり、国家 こっか 形態 けいたい および統治 とうち の組織 そしき ・作用 さよう を規定 きてい する。1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )11月3日 にち に公布 こうふ され、1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )5月 がつ 3日 にち に施行 しこう された(形式 けいしき 的 てき には大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう 第 だい 73条 じょう を適用 てきよう して、大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう の改正 かいせい 手続 てつづき を経 へ て制定 せいてい された。)。
現 げん 憲法 けんぽう の改正 かいせい 手続 てつづ きは96条 じょう に規定 きてい されているが硬性 こうせい 憲法 けんぽう に分類 ぶんるい され、現在 げんざい に至 いた るまで改正 かいせい されたことは一 いち 度 ど もない。
日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう の根底 こんてい には第 だい 13条 じょう 「個人 こじん の尊厳 そんげん 」の理念 りねん がある[244] 。
長 なが らく、戦争 せんそう の放棄 ほうき 、戦力 せんりょく の不 ふ 保持 ほじ を定 さだ めた第 だい 9条 じょう と自衛隊 じえいたい の存在 そんざい 意義 いぎ などを巡 めぐ って憲法 けんぽう 改正 かいせい 論議 ろんぎ が行 おこな われている。憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ 設置 せっち や新 あたら しい人権 じんけん 、緊急 きんきゅう 事態 じたい 条項 じょうこう も改憲 かいけん テーマで扱 あつか われるようになってきている。なお、主権 しゅけん が制限 せいげん されていた 、もしくは憲法 けんぽう 制定 せいてい 権力 けんりょく が変更 へんこう された などを理由 りゆう として、占領 せんりょう 下 か での改正 かいせい 手続 てつづ きに法的 ほうてき 瑕疵 かし があったとする議論 ぎろん があり、一部 いちぶ には、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 自体 じたい の無効 むこう を主張 しゅちょう し、今 いま も大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう が有効 ゆうこう であるとする者 もの もいる。
法律 ほうりつ
明治維新 めいじいしん 以来 いらい 、信託 しんたく など一部 いちぶ の民法 みんぽう の規定 きてい を除 のぞ き、大陸 たいりく 法 ほう 系 けい (特 とく にドイツ法 ほう 及 およ びフランス法 ほう )を基礎 きそ としているが、立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい や議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい については英国 えいこく 法 ほう 、最高裁判所 さいこうさいばんしょ 以下 いか 司法 しほう についての規定 きてい につき米国 べいこく 法 ほう の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けているなど、憲法 けんぽう を中心 ちゅうしん として英 えい 米 べい 法 ほう の影響 えいきょう も見 み られる[246] 。日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 、民法 みんぽう 、商法 しょうほう 、刑法 けいほう 、民事 みんじ 訴訟 そしょう 法 ほう 、刑事 けいじ 訴訟 そしょう 法 ほう を総称 そうしょう して六法 ろっぽう と称 しょう する。この六法 ろっぽう が日本 にっぽん の法令 ほうれい の基本 きほん を成 な し、日本 にっぽん の法学 ほうがく の基本 きほん 的 てき な研究 けんきゅう 分野 ぶんや と考 かんが えられてきたことによる。商法 しょうほう のうち、企業 きぎょう に関 かん する定 さだ めの多 おお くは、会社 かいしゃ 法 ほう に分 わ けられた。刑法 けいほう には、死刑 しけい 、懲役 ちょうえき 、禁錮 きんこ 、罰金 ばっきん 、拘留 こうりゅう 、科料 かりょう 、没収 ぼっしゅう が刑罰 けいばつ として定 さだ められている。私法 しほう 分野 ぶんや においては一定 いってい の範囲 はんい 内 ない で慣習 かんしゅう 法 ほう は効力 こうりょく を有 ゆう するが(法 ほう 適用 てきよう 通則 つうそく 法 ほう 3条 じょう )[注釈 ちゅうしゃく 49] 、刑法 けいほう については罪刑法定 ざいけいほうてい 主義 しゅぎ を採 と り、慣習 かんしゅう 法 ほう を排除 はいじょ する。
死刑 しけい 制度 せいど のあり方 かた を巡 めぐ っては、憲法 けんぽう 制定 せいてい の当時 とうじ から議論 ぎろん がある(死刑 しけい 存廃 そんぱい 問題 もんだい #日本 にっぽん における死刑 しけい を参照 さんしょう )。ただし、判例 はんれい は死刑 しけい 制度 せいど を合憲 ごうけん としており(死刑 しけい 制度 せいど 合憲 ごうけん 判決 はんけつ 事件 じけん )、いわゆる「永山 ながやま 基準 きじゅん 」を「死刑 しけい 選択 せんたく の許 ゆる される基準 きじゅん 」としている[247] 。2009年 ねん より、刑事 けいじ 事件 じけん につき重大 じゅうだい な犯罪 はんざい について裁判 さいばん 員 いん 制度 せいど が導入 どうにゅう されている。
人権 じんけん
国民 こくみん の基本 きほん 的 てき 人権 じんけん は、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 11条 じょう により保障 ほしょう されている。
報道 ほうどう の自由 じゆう
日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 21条 じょう によって報道 ほうどう の自由 じゆう を含 ふく む表現 ひょうげん の自由 じゆう と検閲 けんえつ の禁止 きんし ・通信 つうしん の秘密 ひみつ が謳 うた われている。ただし、表現 ひょうげん の自由 じゆう は絶対 ぜったい 無制限 むせいげん に保障 ほしょう されたものではなく、公共 こうきょう の福祉 ふくし のため必要 ひつよう かつ合理 ごうり 的 てき な制限 せいげん は是認 ぜにん されることが立川 たちかわ 反戦 はんせん ビラ配布 はいふ 事件 じけん で判示 はんじ され[248] 、西山 にしやま 事件 じけん では、正当 せいとう な取材 しゅざい 活動 かつどう の範囲 はんい を逸脱 いつだつ したとされる記者 きしゃ に有罪 ゆうざい 判決 はんけつ が下 くだ っている[249] 。
公的 こうてき 機関 きかん による報道 ほうどう 機関 きかん に対 たい する直接的 ちょくせつてき な加害 かがい 行為 こうい はほぼ見受 みう けられず、記者 きしゃ が殺害 さつがい された日本 にっぽん 国内 こくない での政治 せいじ 的 てき テロ は、1987年 ねん の赤 あか 報 ほう 隊 たい 事件 じけん で朝日新聞 あさひしんぶん の記者 きしゃ 1名 めい が犠牲 ぎせい になったのが2021年 ねん 現在 げんざい において唯一 ゆいいつ の事例 じれい となっている。この事件 じけん では、報道 ほうどう 関係 かんけい 者 しゃ に限 かぎ らず総理 そうり 大臣 だいじん 経験 けいけん 者 しゃ である中曽根 なかそね 康弘 やすひろ ・竹下 たけした 登 のぼる らに対 たい する脅迫 きょうはく 行為 こうい なども行 おこな われている[250] 。
日本 にっぽん 独特 どくとく の慣習 かんしゅう として記者 きしゃ クラブ制度 せいど があり、加盟 かめい しているマスメディア のみが政府 せいふ や行政 ぎょうせい 機関 きかん などの記者 きしゃ 会見 かいけん を独占 どくせん し、情報 じょうほう を受 う けるメリットを享受 きょうじゅ している。記者 きしゃ クラブが開催 かいさい している会見 かいけん は、加盟 かめい マスコミ以外 いがい を排除 はいじょ しており、報道 ほうどう の自由 じゆう を侵害 しんがい しているとフリージャーナリスト や外国 がいこく メディアなどからの批判 ひはん が多 おお い[251] 。
公共 こうきょう の電波 でんぱ を使用 しよう するテレビ 放送 ほうそう ・ラジオ 放送 ほうそう については、放送 ほうそう 法 ほう ・電波 でんぱ 法 ほう の定 さだ めにより、総務 そうむ 省 しょう が発行 はっこう する放送 ほうそう 事業 じぎょう 者 しゃ 免許 めんきょ が必要 ひつよう である。放送 ほうそう 法 ほう 第 だい 4条 じょう では中立 ちゅうりつ な内容 ないよう (公安 こうあん 及 およ び善良 ぜんりょう な風俗 ふうぞく を害 がい しないこと・政治 せいじ 的 てき に公平 こうへい であること・報道 ほうどう は事実 じじつ をまげないですること・意見 いけん が対立 たいりつ している問題 もんだい については、できるだけ多 おお くの角度 かくど から論点 ろんてん を明 あき らかにすること)が義務付 ぎむづ けられており、2018年 ねん には同 どう 条 じょう の撤廃 てっぱい が検討 けんとう されている[252] ものの、2021年 ねん 現在 げんざい も存続 そんぞく している。総務 そうむ 省 しょう 所掌 しょしょう の公共 こうきょう 放送 ほうそう である日本 にっぽん 放送 ほうそう 協会 きょうかい (NHK)の予算 よさん は、放送 ほうそう 法 ほう 第 だい 70条 じょう の定 さだ めにより、国会 こっかい の承認 しょうにん を必要 ひつよう とする[253] 。
新聞 しんぶん については、過当 かとう 競争 きょうそう の防止 ぼうし を目的 もくてき とした特殊 とくしゅ 指定 してい の適用 てきよう を受 う けているが、公正 こうせい 取引 とりひき 委員 いいん 会 かい は「新聞 しんぶん 業 ぎょう における特定 とくてい の不 ふ 公正 こうせい な取引 とりひき 方法 ほうほう 」としてその見直 みなお しを求 もと めていて、業界 ぎょうかい 団体 だんたい である日本 にっぽん 新聞 しんぶん 協会 きょうかい と対立 たいりつ している[254] 。なお、新聞 しんぶん は消費 しょうひ 税 ぜい の軽減 けいげん 税率 ぜいりつ 適用 てきよう 対象 たいしょう となっている[255] 。
フランスを拠点 きょてん とする非 ひ 政府 せいふ 組織 そしき 「国境 こっきょう なき記者 きしゃ 団 だん 」(RSF)が作成 さくせい する2020年 ねん の『世界 せかい 報道 ほうどう 自由 じゆう 度 ど ランキング 』では、調査 ちょうさ 対象 たいしょう 国 こく 180か国 こく 中 ちゅう 第 だい 66位 い とされ、各国 かっこく を5段階 だんかい に分 わ けた分類 ぶんるい では上 うえ から3番目 ばんめ の『顕著 けんちょ な問題 もんだい のある国 くに 』にカテゴライズされている。RSFは、日本 にっぽん について「議会 ぎかい 主義 しゅぎ 的 てき 君主 くんしゅ 制 せい であり、概 がい してメディアの多元 たげん 主義 しゅぎ の原則 げんそく を尊重 そんちょう している」としつつも、上述 じょうじゅつ の記者 きしゃ クラブ制度 せいど の他 ほか 、「編集 へんしゅう 部門 ぶもん が、経済 けいざい 的 てき 利益 りえき を優先 ゆうせん する巨大 きょだい な『系列 けいれつ 』の方針 ほうしん に左右 さゆう される状況 じょうきょう が続 つづ いている」ことや「SNSでの福島 ふくしま 第 だい 一 いち 原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 事故 じこ や沖縄 おきなわ 基地 きち 問題 もんだい などを取材 しゅざい するジャーナリストへの嫌 いや がらせ」などを課題 かだい として挙 あ げている[256] [257] 。ただし、このランキングは質的 しつてき 調査 ちょうさ を当該 とうがい 国 こく の報道 ほうどう 関係 かんけい 者 しゃ ・弁護士 べんごし ・研究 けんきゅう 者 しゃ などへのアンケートに依存 いぞん しており、したがって点数 てんすう 付 づ けはこれらのグループの自国 じこく 政府 せいふ への感情 かんじょう などによって左右 さゆう される。また、調査 ちょうさ 対象 たいしょう 国 こく の評価 ひょうか 点 てん の分布 ぶんぷ が平均 へいきん 値 ち 付近 ふきん に集中 しゅうちゅう し、点数 てんすう の差 さ 以上 いじょう に順位 じゅんい の開 ひら きが出 で る傾向 けいこう がある[258] [259] 。
なお、世界 せかい 的 てき な知名度 ちめいど がより高 たか い[259] 「フリーダム・ハウス 」の『Freedom of the Press 2017』においては、199カ国 かこく 中 ちゅう 48位 い で、報道 ほうどう の自由 じゆう が確保 かくほ されている(free)国 こく と判定 はんてい されている[260] 。この他 ほか にインターネット上 じょう の自由 じゆう 度 ど に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ の『Freedom on the Net 2019』において日本 にっぽん は65カ国 かこく 中 ちゅう 11位 い に位置 いち づけられ、インターネット上 じょう の自由 じゆう が確保 かくほ されている国 くに と判定 はんてい されており[261] [262] 、『Freedom in the World 2020』において日本 にっぽん の全般 ぜんぱん 的 てき な自由 じゆう 度 ど は100点 てん 満点 まんてん 中 ちゅう 96点 てん と評定 ひょうじょう され、アジアで最 もっと も自由 じゆう な国 くに として位置 いち づけられている[263] 。
元首 げんしゅ に関 かん する議論 ぎろん
日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう に「日本 にっぽん 国 こく の元首 げんしゅ 」についての規定 きてい がないため、現在 げんざい 元首 げんしゅ については様々 さまざま な見解 けんかい がある。政治 せいじ 学 がく 者 もの の田中 たなか 浩 ひろし 、憲法 けんぽう 学 がく 者 もの の芦部 あしべ 信喜 しき 、総合 そうごう 政策 せいさく 学 がく 者 もの の長野 ながの 和夫 かずお によると学説 がくせつ の多数 たすう は、権限 けんげん を持 も つ内閣 ないかく または内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん を元首 げんしゅ としている(内閣 ないかく ・内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 元首 げんしゅ 説 せつ )。また、現行 げんこう 憲法 けんぽう 施行 しこう 後 ご も変 か わらず天皇 てんのう が元首 げんしゅ であるとする説 せつ (天皇 てんのう 元首 げんしゅ 説 せつ )、国権 こっけん の最高 さいこう 機関 きかん たる国会 こっかい の長 ちょう である衆議院 しゅうぎいん 議長 ぎちょう を元首 げんしゅ とする説 せつ (衆議院 しゅうぎいん 議長 ぎちょう 元首 げんしゅ 説 せつ )や、そもそも日本 にっぽん には元首 げんしゅ が存在 そんざい しないという説 せつ さえある。
天皇 てんのう
皇居 こうきょ ・正門 せいもん 石橋 いしばし (東京 とうきょう 都 と 千代田 ちよだ 区 く 千代田 ちよだ )
天皇 てんのう 徳 とく 仁 ひとし と皇后 こうごう 雅子 まさこ (2019年 ねん 〈令 れい 和 わ 元年 がんねん 〉5月 がつ 撮影 さつえい )
天皇 てんのう は、日本 にっぽん 国 こく および日本 にっぽん 国民 こくみん 統合 とうごう の象徴 しょうちょう たる地位 ちい であり、当該 とうがい 地位 ちい にある個人 こじん である[267] 。日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 1条 じょう には「天皇 てんのう は、日本 にっぽん 国 こく の象徴 しょうちょう であり日本 にっぽん 国民 こくみん 統合 とうごう の象徴 しょうちょう であつて、この地位 ちい は、主権 しゅけん の存 そん する日本 にっぽん 国民 こくみん の総意 そうい に基 もと づく。」と記載 きさい されている。大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう では第 だい 4条 じょう で「天皇 てんのう ハ国 こく ノ元首 げんしゅ ニシテ統治 とうち 権 けん ヲ総攬 そうらん (そうらん)」するとの明記 めいき があったが、現行 げんこう の日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう には天皇 てんのう を元首 げんしゅ とする旨 むね の規定 きてい はない。『日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ 』は、天皇 てんのう には通常 つうじょう の立憲 りっけん 君主 くんしゅ の権限 けんげん は無 な いとし、『法律 ほうりつ 用語 ようご 辞典 じてん (第 だい 4版 はん )』は、象徴 しょうちょう 天皇 てんのう と元首 げんしゅ 天皇 てんのう を別 べつ としている[268] 。また『国史 こくし 大 だい 辞典 じてん 』は法制 ほうせい 上 うえ 、象徴 しょうちょう 天皇 てんのう は君主 くんしゅ ではないとしている[269] 。
『岩波 いわなみ 日本 にっぽん 史 し 辞典 じてん 』によると、「日本 にっぽん の君主 くんしゅ 制 せい 」は「天皇 てんのう 制 せい 」という。戦後 せんご に「社会 しゃかい 科学 かがく 用語 ようご として定着 ていちゃく 」したとされる。憲法 けんぽう で天皇 てんのう を「象徴 しょうちょう 」と称 しょう することから、「象徴 しょうちょう 天皇 てんのう 制 せい 」ともいう。「象徴 しょうちょう 天皇 てんのう 制 せい は天皇 てんのう が元首 げんしゅ でないので君主 くんしゅ 制 せい としない説 せつ もある」とされる。憲法 けんぽう 学者 がくしゃ の野中 のなか 俊彦 としひこ 、中村 なかむら 睦男 むつお 、高橋 たかはし 和之 かずゆき 、高見 たかみ 勝利 かつとし の共同 きょうどう 著作 ちょさく 『憲法 けんぽう I』(第 だい 5版 はん )によれば、「象徴 しょうちょう にすぎなくなった天皇 てんのう は君主 くんしゅ といえるか」という問題 もんだい は、君主 くんしゅ の定義 ていぎ による。民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の浸透 しんとう 後 ご は、君主 くんしゅ 制 せい が維持 いじ された国 くに でも、君主 くんしゅ 権 けん は名目 めいもく 化 か した。こうなると、君主 くんしゅ 制 せい か共和 きょうわ 制 せい かの区別 くべつ は無意味 むいみ に等 ひと しい。天皇 てんのう が君主 くんしゅ かどうかは、憲法 けんぽう 学 がく 上 じょう 「ほとんど議論 ぎろん の実益 じつえき のない問題 もんだい 」とされている。
東洋 とうよう 史学 しがく 者 もの 岡田 おかだ 英弘 ひでひろ の『倭国 わのくに 』および『日本 にっぽん 史 し の誕生 たんじょう 』によると、720年 ねん に完成 かんせい した日本 にっぽん 最古 さいこ の史書 ししょ 『日本書紀 にほんしょき 』では、「高天原 たかまがはら 」より日向 ひなた (宮崎 みやざき 県 けん )の高千穂 たかちほ 山 さん に下 くだ った(天孫 てんそん 降臨 こうりん )太陽 たいよう の女神 めがみ アマテラス の孫 まご ニニギノミコト の孫 まご の神武 じんむ 天皇 てんのう を初代 しょだい とする一 ひと つの皇統 こうとう が、一貫 いっかん して日本 にっぽん 列島 れっとう を統治 とうち し続 つづ けてきたとされる[273] 。『百科 ひゃっか 事典 じてん マイペディア 』によると、神武 じんむ 天皇 てんのう は「もとより史実 しじつ ではない」とされている[274] 。また、皇統 こうとう が分裂 ぶんれつ して、二 に 系統 けいとう が交互 こうご に皇位 こうい に就 つ いた「両統 りょうとう 迭立 」[275] 、皇統 こうとう が分裂 ぶんれつ 抗争 こうそう した「南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい 」という語 かたり が存在 そんざい している[276] 。『NEWSポストセブン 』では、「現存 げんそん する世界 せかい 最古 さいこ の王室 おうしつ としてギネスブック に登録 とうろく される日本 にっぽん の皇室 こうしつ 」と記述 きじゅつ されている[277] 。
国政 こくせい
政治 せいじ 体制 たいせい
日本 にっぽん は単一 たんいつ 国家 こっか であり、その政治 せいじ 体制 たいせい としては、「議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 体制 たいせい 」・「象徴 しょうちょう 天皇 てんのう 制 せい 」[278] [注釈 ちゅうしゃく 50] ・「議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい 」を採 と るとされる。
中央 ちゅうおう 政府 せいふ
日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 下 した の権力 けんりょく 分立 ぶんりつ
日本国 にっぽんこく 政府 せいふ (統治 とうち 機構 きこう )は、憲法 けんぽう 上 じょう 、立法 りっぽう 権 けん を国会 こっかい に、行政 ぎょうせい 権 けん を内閣 ないかく に、司法 しほう 権 けん を裁判所 さいばんしょ に、それぞれ分配 ぶんぱい する権力 けんりょく 分立 ぶんりつ 制 せい (三権分立 さんけんぶんりつ )を採 と る。また、内閣 ないかく が国会 こっかい の信任 しんにん に拠 よ って存在 そんざい する議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい を採用 さいよう する。日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 41条 じょう は、国会 こっかい を「国権 こっけん の最高 さいこう 機関 きかん 」と定 さだ めるが、この意味 いみ につき学説 がくせつ は分 わ かれ、国政 こくせい の中心 ちゅうしん 的 てき 位置 いち を占 し める機関 きかん であることを強調 きょうちょう する政治 せいじ 的 てき 美称 びしょう であるとする説 せつ (政治 せいじ 的 てき 美称 びしょう 説 せつ )[279] 、「国家 こっか 諸 しょ 機関 きかん の権能 けんのう および相互 そうご 関係 かんけい を解釈 かいしゃく する際 さい の解釈 かいしゃく 準則 じゅんそく となる」とする説 せつ (総合 そうごう 調整 ちょうせい 機能 きのう 説 せつ )[280] が有力 ゆうりょく である。
立法府 りっぽうふ
国会 こっかい は、衆議院 しゅうぎいん (下院 かいん )と参議院 さんぎいん (上院 じょういん )との二院 にいん から構成 こうせい される二院 にいん 制 せい の議会 ぎかい (立法府 りっぽうふ )である。上述 じょうじゅつ の通 とお り日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 41条 じょう では「国権 こっけん の最高 さいこう 機関 きかん であつて、国 くに の唯一 ゆいいつ の立法 りっぽう 機関 きかん である」ことがうたわれる。一方 いっぽう 、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 72条 じょう では内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん が内閣 ないかく を代表 だいひょう して議案 ぎあん を国会 こっかい に提出 ていしゅつ することとされており、この"議案 ぎあん "には法律 ほうりつ 案 あん が含 ふく まれているか否 ひ か学説 がくせつ が分 わ かれている。実際 じっさい の運用 うんよう では、内閣 ないかく 立法 りっぽう と議員 ぎいん 立法 りっぽう が併用 へいよう されている[281] [282] 。
衆議院 しゅうぎいん ・参議院 さんぎいん は、いずれも全 ぜん 国民 こくみん を代表 だいひょう する選挙 せんきょ (衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ ・参議院 さんぎいん 議員 ぎいん 通常 つうじょう 選挙 せんきょ )により選出 せんしゅつ された国会 こっかい 議員 ぎいん (衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん ・参議院 さんぎいん 議員 ぎいん )によって組織 そしき される。ただし、法律 ほうりつ や予算 よさん 、条約 じょうやく の議決 ぎけつ 、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん の指名 しめい 、内閣 ないかく 不信任 ふしんにん 決議 けつぎ などにおいて、衆議院 しゅうぎいん に参議院 さんぎいん よりも強度 きょうど な権限 けんげん が付与 ふよ されている(衆議院 しゅうぎいん の優越 ゆうえつ )。これは、衆議院 しゅうぎいん 解散 かいさん があり、任期 にんき も短期間 たんきかん であるため、より民意 みんい を反映 はんえい しているため、と説明 せつめい される。
行政府 ぎょうせいふ
行政府 ぎょうせいふ である内閣 ないかく は、その首長 しゅちょう たる内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん と、その他 た の国務大臣 こくむだいじん から構成 こうせい される合議 ごうぎ 制 せい の機関 きかん である。内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん は、国会 こっかい 議員 ぎいん でなければならない。なお、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 施行 しこう 以来 いらい 、慣例 かんれい として衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん が内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん に指名 しめい されている。国会 こっかい から指名 しめい された人物 じんぶつ は、天皇 てんのう により国事 こくじ 行為 こうい として、儀礼 ぎれい 的 てき ・形式 けいしき 的 てき に内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん に任命 にんめい される。国務大臣 こくむだいじん は、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん が任命 にんめい し、天皇 てんのう が認証 にんしょう する。国務大臣 こくむだいじん の過半数 かはんすう は、国会 こっかい 議員 ぎいん の中 なか から選 えら ばれなければならない。内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 、その他 た の国務大臣 こくむだいじん は、文民 ぶんみん でなければならない。内閣 ないかく は、行政 ぎょうせい 権 けん の行使 こうし について、国会 こっかい に対 たい し連帯 れんたい して責任 せきにん を負 お う一方 いっぽう 、衆議院 しゅうぎいん の実質 じっしつ 的 てき な解散 かいさん 決定 けってい 権 けん を持 も つとする見解 けんかい が多数 たすう 説 せつ となっている(日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 7条 じょう 3項 こう および69条 じょう を参照 さんしょう のこと)。
国会 こっかい で審議 しんぎ される法案 ほうあん の大 だい 多数 たすう は、内閣 ないかく が提出 ていしゅつ する内閣 ないかく 提出 ていしゅつ 法案 ほうあん (政府 せいふ 立法 りっぽう 、閣 かく 法 ほう )であり、国会 こっかい 議員 ぎいん が発議 はつぎ する法案 ほうあん (議員 ぎいん 立法 りっぽう )が少 すく ない[282] 。政府 せいふ 提出 ていしゅつ 法案 ほうあん は、内閣 ないかく の下 した に設置 せっち される省庁 しょうちょう が国会 こっかい 議席 ぎせき の多数 たすう を占 し める与党 よとう との調整 ちょうせい を経 へ て作成 さくせい するため、省庁 しょうちょう の幹部 かんぶ 公務員 こうむいん (キャリア官僚 かんりょう ) の国政 こくせい に対 たい する影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ い。
選挙 せんきょ には地盤 じばん ・看板 かんばん (知名度 ちめいど )・カバン(選挙 せんきょ 資金 しきん )の「3バン」が必要 ひつよう とされることから、世襲 せしゅう 政治 せいじ 家 か が多 おお い。1970年代 ねんだい 以降 いこう は中曽根 なかそね 康弘 やすひろ や小泉 こいずみ 純一郎 じゅんいちろう といった例外 れいがい を除 のぞ いて、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん の任期 にんき はせいぜい2年 ねん にとどまり、2006年 ねん (平成 へいせい 18年 ねん )以降 いこう は1年 ねん 前後 ぜんこう の任期 にんき が続 つづ いた。
55年 ねん 体制 たいせい とその後 ご
国会 こっかい では、1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )に結党 けっとう された自由民主党 じゆうみんしゅとう (通称 つうしょう :自民党 じみんとう )が、一貫 いっかん して最多 さいた の議席 ぎせき を占 し めていた。同年 どうねん に統一 とういつ された日本 にっぽん 社会党 しゃかいとう (通称 つうしょう :社会党 しゃかいとう 、現在 げんざい の社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう )と共 とも に、両 りょう 政党 せいとう が結党 けっとう した西暦 せいれき 年 ねん の下 した 2桁 けた をとって「55年 ねん 体制 たいせい 」と呼 よ ばれる政治 せいじ 体制 たいせい を形作 かたちづく った。この体制 たいせい は、自民党 じみんとう が与党 よとう として党 とう の総裁 そうさい (党首 とうしゅ )を国会 こっかい で内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん に指名 しめい し、同 どう 党 とう 議員 ぎいん の中 なか から国務大臣 こくむだいじん を任命 にんめい して内閣 ないかく を組織 そしき し、社会党 しゃかいとう が野党 やとう として自民党 じみんとう と対立 たいりつ ・協調 きょうちょう しながら、国政 こくせい を運営 うんえい するものである。新自由 しんじゆう クラブ と連立 れんりつ 政権 せいけん を組 く んだ1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )から1986年 ねん (昭和 しょうわ 61年 ねん )までの一 いち 時期 じき を除 のぞ き、1993年 ねん (平成 へいせい 5年 ねん )までの約 やく 40年間 ねんかん 、自民党 じみんとう の単独 たんどく 政権 せいけん が続 つづ いた。
1993年 ねん (平成 へいせい 5年 ねん )に自民党 じみんとう 羽田 はた 派 は が離党 りとう して新生党 しんせいとう を結党 けっとう し、非 ひ 自民 じみん ・非 ひ 共産 きょうさん 連立 れんりつ 政権 せいけん である細川 ほそかわ 内閣 ないかく (細川 ほそかわ 護 まもる 熙首相 しゅしょう )が成立 せいりつ したことで自民党 じみんとう が政権 せいけん を離脱 りだつ し、これをもって戦後 せんご 長年 ながねん の日本 にっぽん 政治 せいじ を構築 こうちく してきた「55年 ねん 体制 たいせい 」が崩壊 ほうかい した。翌 よく 1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )6月 がつ に自民党 じみんとう ・社会党 しゃかいとう ・新党 しんとう さきがけ の自社 じしゃ さ連立 れんりつ 政権 せいけん である村山 むらやま 内閣 ないかく (村山 むらやま 富市 とみいち 首相 しゅしょう )が成立 せいりつ して自民党 じみんとう が政権 せいけん に復帰 ふっき した。次 つぎ の橋本 はしもと 内閣 ないかく (橋本 はしもと 龍太郎 りゅうたろう 首相 しゅしょう )以後 いご 、自民党 じみんとう は連立 れんりつ 相手 あいて を組 く み替 か えながら総裁 そうさい が内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん に就任 しゅうにん する時代 じだい が再度 さいど 継続 けいぞく されたが、2009年 ねん (平成 へいせい 21年 ねん )8月 がつ の衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ で大敗 たいはい 、衆議院 しゅうぎいん 第 だい 1党 とう から転落 てんらく し、翌 よく 9月 がつ に民主党 みんしゅとう ・社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう ・国民 こくみん 新党 しんとう からなる民社 みんしゃ 国 こく 連立 れんりつ 政権 せいけん の鳩山 はとやま 由紀夫 ゆきお 内閣 ないかく (鳩山 はとやま 由紀夫 ゆきお 首相 しゅしょう )が成立 せいりつ 。民主党 みんしゅとう を中心 ちゅうしん とする連立 れんりつ 政権 せいけん は野田 のだ 第 だい 3次 じ 改造 かいぞう 内 ない 閣 かく (野田 のだ 佳彦 よしひこ 首相 しゅしょう )を最後 さいご に2012年 ねん (平成 へいせい 24年 ねん )12月の衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ での敗北 はいぼく で終焉 しゅうえん を迎 むか え、自民党 じみんとう と公明党 こうめいとう の両 りょう 党 とう が再 ふたた び政権 せいけん に復帰 ふっき し、自公 じこう 連立 れんりつ 政権 せいけん が復活 ふっかつ した。
司法 しほう 府 ふ
日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう により、司法 しほう 権 けん は裁判所 さいばんしょ (最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ 及 およ び法律 ほうりつ に定 さだ めるところの下級 かきゅう 裁判所 さいばんしょ )が行使 こうし する。各 かく 地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい には司法 しほう 府 ふ は存在 そんざい せず、各地 かくち に設置 せっち される下級 かきゅう 裁判所 さいばんしょ (高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ 、地方裁判所 ちほうさいばんしょ 、家庭 かてい 裁判所 さいばんしょ 、簡易 かんい 裁判所 さいばんしょ )が裁判 さいばん を行 おこな う。また、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう により特別 とくべつ 裁判所 さいばんしょ (皇室 こうしつ 裁判所 さいばんしょ や軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ など)の設置 せっち は禁止 きんし されている。
司法 しほう 制度 せいど として、刑事 けいじ 裁判 さいばん に市民 しみん 感覚 かんかく を反映 はんえい させる陪審 ばいしん 制 せい と参 さん 審 しん 制 せい を折衷 せっちゅう した制度 せいど である裁判 さいばん 員 いん 制度 せいど や、検察官 けんさつかん の公訴 こうそ 権 けん に民意 みんい を反映 はんえい する検察 けんさつ 審査 しんさ 会 かい 制度 せいど などがある。
地方 ちほう 政治 せいじ
政治 せいじ 体制 たいせい
地方 ちほう 政治 せいじ においては、国政 こくせい とは異 こと なり、住民 じゅうみん から直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ される首長 しゅちょう と地方 ちほう 議会 ぎかい による、二元 にげん 代表 だいひょう 制 せい が採 と られる[283] 。
地方 ちほう 政府 せいふ
地方 ちほう 自治 じち は、基礎 きそ 的 てき な団体 だんたい である市町村 しちょうそん 、広域 こういき 的 てき な団体 だんたい である都道府県 とどうふけん の二 に 段階 だんかい から成 な る、地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい (地方 ちほう 政府 せいふ )が担 にな う。
市区 しく 町村 ちょうそん
市 し が795、町 まち が743、村 むら が183、合計 ごうけい 1718[284] [注釈 ちゅうしゃく 51] 。北海道 ほっかいどう と沖縄 おきなわ 、および一部 いちぶ の離島 りとう 地域 ちいき を除 のぞ く日本 にっぽん 国内 こくない では1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )にこの市町村 しちょうそん 制 せい が施行 しこう された。他 た に、特別 とくべつ 地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい として、2016年 ねん 10月 がつ 10日 にち 現在 げんざい 、首都 しゅと たる東京 とうきょう 都 と に23の特別 とくべつ 区 く (東京 とうきょう 都区 とく 部 ぶ )が設置 せっち されており、これらは市 し に準 じゅん じた権限 けんげん を持 も つ(地方 ちほう 自治 じち 法 ほう 第 だい 281条 じょう 第 だい 2項 こう ・第 だい 283条 じょう )[285] [286] 。かつては1万 まん を超 こ えた市町村 しちょうそん 数 すう は、1950年代 ねんだい 後半 こうはん の昭和 しょうわ の大 だい 合併 がっぺい と2000年代 ねんだい の平成 へいせい の大 だい 合併 がっぺい によって激減 げきげん し、市町村 しちょうそん の再編 さいへん が進 すす んだ。
執行 しっこう 機関 きかん たる市町村 しちょうそん 長 ちょう 、議決 ぎけつ 機関 きかん たる市町村 しちょうそん 議会 ぎかい [注釈 ちゅうしゃく 52] が置 お かれ、いずれも住民 じゅうみん から選挙 せんきょ される。
財産 ざいさん を管理 かんり し、地域 ちいき の事務 じむ を取 と り扱 あつか い、行政 ぎょうせい を執行 しっこう する。法律 ほうりつ の範囲 はんい 内 ない で条例 じょうれい を定 さだ める。特 とく に規模 きぼ が大 おお きい市 し は、政令 せいれい 指定 してい 都市 とし として、農林 のうりん 水産 すいさん 行政 ぎょうせい に関 かん する権能 けんのう などを除 のぞ いて都道府県 とどうふけん 並 な みの権限 けんげん を有 ゆう する。
「市 し 」は「し」と読 よ まれるが、「町 まち 」は「まち」・「ちょう」、「村 むら 」は「むら」・「そん」の読 よ みが混在 こんざい している。
都道府県 とどうふけん
都 と が1、道 みち が1、府 ふ が2、県 けん が43、合計 ごうけい 47都道府県 とどうふけん 。1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )の廃藩置県 はいはんちけん により全国 ぜんこく に行政 ぎょうせい 区画 くかく として府 ふ ・県 けん が置 お かれた。市町村 しちょうそん と異 こと なり、県 けん 自体 じたい の合併 がっぺい ・分立 ぶんりつ は1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )を最後 さいご に行 おこな われていない[注釈 ちゅうしゃく 53] 。
都 と は特別 とくべつ 区 く に関 かん する一定 いってい の調整 ちょうせい 機能 きのう を有 ゆう するが、府県 ふけん の間 あいだ には法律 ほうりつ 上 じょう の違 ちが いはなく、名称 めいしょう の差異 さい は歴史 れきし 的 てき なものである[287] 。道 みち も地方 ちほう 自治 じち 法 ほう 上 じょう は府県 ふけん と同格 どうかく であるが、特別 とくべつ 法 ほう に道 みち について若干 じゃっかん の特例 とくれい を定 さだ める(警察 けいさつ 組織 そしき につき警察 けいさつ 法 ほう 第 だい 46条 じょう ・51条 じょう など)。
執行 しっこう 機関 きかん たる都道府県 とどうふけん 知事 ちじ 、議決 ぎけつ 機関 きかん たる都道府県 とどうふけん 議会 ぎかい が置 お かれ、いずれも住民 じゅうみん から選挙 せんきょ される。
市町村 しちょうそん を包括 ほうかつ し、より広域 こういき 的 てき な行政 ぎょうせい を行 おこな う。法律 ほうりつ の範囲 はんい 内 ない で条例 じょうれい を定 さだ める。
現在 げんざい 、東京 とうきょう 一 いち 極 きょく 集中 しゅうちゅう を緩和 かんわ して地方 ちほう 分権 ぶんけん を進 すす めるため、都道府県 とどうふけん を解消 かいしょう して更 さら に広域 こういき 的 てき な道 みち 州 しゅう を置 お く道 どう 州 しゅう 制 せい の導入 どうにゅう が検討 けんとう されている(日本 にっぽん の道 どう 州 しゅう 制 せい 論議 ろんぎ )。また、大阪 おおさか 都 と や中京 ちゅうきょう 都 と のように特別 とくべつ 区 く をつくる運動 うんどう もある(大都市 だいとし 地域 ちいき 特別 とくべつ 区 く 設置 せっち 法 ほう )。
選挙 せんきょ
国会 こっかい 議員 ぎいん (衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 、参議院 さんぎいん 議員 ぎいん )を決 き める国政 こくせい 選挙 せんきょ や各 かく 地域 ちいき で行 おこな う地方 ちほう 選挙 せんきょ がある。
国際 こくさい 関係 かんけい
日本国 にっぽんこく 在外 ざいがい 公館 こうかん が設置 せっち されている国 くに
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1956年 ねん から国際 こくさい 連合 れんごう に加盟 かめい しており、1958年 ねん には「国際 こくさい 連合 れんごう 中心 ちゅうしん 」「自由 じゆう 主義 しゅぎ 諸国 しょこく との協調 きょうちょう 」「アジアの一員 いちいん としての立場 たちば の堅持 けんじ 」の外交 がいこう 三 さん 原則 げんそく が掲 かか げられたが、概 がい して日米 にちべい 基軸 きじく 外交 がいこう と両立 りょうりつ する範囲 はんい 内 ない での実施 じっし が実情 じつじょう となっている[288] [289] [290] 。なお、米国 べいこく ピュー研究所 けんきゅうじょ が2022年 ねん 4月 がつ に公表 こうひょう した国連 こくれん への好 こう 感度 かんど 調査 ちょうさ によると、調査 ちょうさ 対象 たいしょう の先進 せんしん 国 こく 19カ国 かこく の中央 ちゅうおう 値 ち が肯定 こうてい 65%否定 ひてい 27%であったのに対 たい し、日本 にっぽん で肯定 こうてい 40%否定 ひてい 48%とやや否定 ひてい 的 てき 評価 ひょうか が優勢 ゆうせい であった[291] 。
現在 げんざい 、世界 せかい の195か国 こく に日本 にっぽん の大使館 たいしかん が設 もう けられており、157か国 こく が日本 にっぽん に大使館 たいしかん を設 もう け42の国際 こくさい 機関 きかん が日本 にっぽん に事務所 じむしょ を設 もう けている[292] 。
2023年 ねん 7月 がつ 現在 げんざい 、日本 にっぽん からビザ なしで渡航 とこう できる国 くに の数 かず は189か国 こく で、韓国 かんこく やフランスなどと並 なら んで世界 せかい 3位 い である。日本 にっぽん は過去 かこ 5年間 ねんかん 、世界 せかい 1位 い を維持 いじ してきたものの、首位 しゅい をシンガポールに明 あ け渡 わた した[293] 。
また、日本 にっぽん はG7 、G8 、G20 、経済 けいざい 協力 きょうりょく 開発 かいはつ 機構 きこう (OECD)、世界 せかい 貿易 ぼうえき 機関 きかん (WTO)加盟 かめい 国 こく であり、いわゆる列強 れっきょう に数 かぞ えられる国家 こっか の一 ひと つである[38] [39] 。
現在 げんざい 、日本 にっぽん は国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい 国 こく のうち、北朝鮮 きたちょうせん (朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく )を除 のぞ いたすべての加盟 かめい 国 こく に加 くわ え、バチカン市 し 国 こく 、コソボ共和 きょうわ 国 こく 、クック諸島 しょとう 、ニウエ を国家 こっか として承認 しょうにん し国際 こくさい 関係 かんけい を有 ゆう している。また、北朝鮮 きたちょうせん (朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく )、パレスチナ(パレスチナ国 こく )、台湾 たいわん (中華民国 ちゅうかみんこく )と非公式 ひこうしき の関係 かんけい を持 も つ。
国際 こくさい 連合 れんごう
東 ひがし アジア
東 ひがし アジア では、古来 こらい 地理 ちり 的 てき に近距離 きんきょり で隣接 りんせつ する中国 ちゅうごく や朝鮮 ちょうせん などを中心 ちゅうしん に外交 がいこう が行 おこな われていた。日本 にっぽん は儒教 じゅきょう ・漢字 かんじ 文化 ぶんか 圏 けん の一角 いっかく であり、伝統 でんとう 的 てき な文化 ぶんか の中 なか には、雅楽 ががく 、水墨 すいぼく 画 が 、陶磁器 とうじき 、禅宗 ぜんしゅう 、書道 しょどう など、東 ひがし アジアをルーツに持 も つ物 もの が多 おお い。明治 めいじ 期 き 以降 いこう 、文明開化 ぶんめいかいか により西洋 せいよう 文化 ぶんか を採用 さいよう して発展 はってん した日本 にっぽん の文化 ぶんか が逆 ぎゃく に東 ひがし アジアに伝播 でんぱ した[294] 。日 にち 中 ちゅう 平和 へいわ 友好 ゆうこう 条約 じょうやく に基 もと づき国交 こっこう は断絶 だんぜつ したが非 ひ 政府 せいふ 間 あいだ の実務 じつむ 関係 かんけい として交流 こうりゅう が続 つづ く台湾 たいわん (中華民国 ちゅうかみんこく )や韓国 かんこく (大韓民国 だいかんみんこく )は、かつて(日本 にっぽん 領 りょう )台湾 たいわん や(日本 にっぽん 領 りょう )朝鮮 ちょうせん として大日本帝国 だいにっぽんていこく に統治 とうち されていた経緯 けいい から、現在 げんざい でも重要 じゅうよう な貿易 ぼうえき 相手 あいて である[295] 。また、経済 けいざい 成長 せいちょう を果 は たした中国 ちゅうごく は科学 かがく 技術 ぎじゅつ や経済 けいざい ・ビジネスにおいて日本 にっぽん の競争 きょうそう 相手 あいて となっている。北朝鮮 きたちょうせん は、同国 どうこく の建国 けんこく 以来 いらい 一貫 いっかん して国交 こっこう がなく、日本 にっぽん は同国 どうこく に対 たい して経済 けいざい 制裁 せいさい を実施 じっし している。軍事 ぐんじ 、安全 あんぜん 保障 ほしょう 面 めん では日本 にっぽん ・韓国 かんこく ・台湾 たいわん はそれぞれアメリカ を介 かい して緩 ゆる やかな協力 きょうりょく 関係 かんけい にある。一方 いっぽう 、中国 ちゅうごく は建国 けんこく 由来 ゆらい (社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく )から朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 以降 いこう 、北朝鮮 きたちょうせん と同盟 どうめい 関係 かんけい にあり、ロシア (旧 きゅう ソビエト連邦 れんぽう )とも協力 きょうりょく 関係 かんけい にある。
韓国 かんこく :古代 こだい より日本 にっぽん は高 こう 麗 うらら や李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 、大韓 たいかん 帝国 ていこく といった朝鮮半島 ちょうせんはんとう の歴代 れきだい 政権 せいけん と一定 いってい の交流 こうりゅう を維持 いじ したが[296] 、江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき になると征 せい 韓 かん 論 ろん が現 あらわ れた[297] 。明治 めいじ 期 き に入 はい り、新 しん 政府 せいふ で征 せい 韓 かん 論 ろん を主張 しゅちょう した主 おも だった者 もの は明治 めいじ 六 ろく 年 ねん 政変 せいへん で退 しりぞ けられたものの、1876年 ねん に不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく である日 にち 朝 ちょう 修好 しゅうこう 条規 じょうき を締結 ていけつ 。大陸 たいりく 勢力 せいりょく からの防衛 ぼうえい も見据 みす えながら朝鮮半島 ちょうせんはんとう を利益 りえき 線 せん ととらえた日本 にっぽん は、19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけて朝鮮 ちょうせん への影響 えいきょう 力 りょく を強 つよ め、1910年 ねん には韓国 かんこく 併合 へいごう が行 おこな われた[298] 。日本 にっぽん による統治 とうち の開始 かいし 当初 とうしょ は陸軍 りくぐん 主導 しゅどう の武断 ぶだん 統治 とうち が行 おこな われたが、1919年 ねん の三 さん ・一 いち 運動 うんどう を招 まね いた。その後 ご 「一視同仁 いっしどうじん 」「内 うち 鮮一 いち 体 たい 」を建前 たてまえ とする懐柔 かいじゅう 政策 せいさく もとられたが、既 すで に歴代 れきだい 王朝 おうちょう による長 なが い統治 とうち の歴史 れきし を有 ゆう する朝鮮 ちょうせん において人心 じんしん の完全 かんぜん 掌握 しょうあく は望 のぞ めず、歪 いびつ な支配 しはい 構造 こうぞう をもたらした。そして1930年代 ねんだい から1940年代 ねんだい にかけて実施 じっし された総 そう 力戦 りきせん 遂行 すいこう のための施策 しさく は、朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん に多 おお くの負担 ふたん を強 し いることとなる。一方 いっぽう 、自 みずか らの手 て で国民 こくみん 国家 こっか を創建 そうけん できなかった朝鮮 ちょうせん においては、日本 にっぽん に対 たい する抵抗 ていこう 運動 うんどう それ自体 じたい がナショナリズム形成 けいせい と密接 みっせつ に結 むす びついている[299] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん での日本 にっぽん の降伏 ごうぶく により、主権 しゅけん を回復 かいふく (光 ひかり 復 ふく )して北緯 ほくい 38度 ど 線 せん 以南 いなん を実効 じっこう 支配 しはい 地域 ちいき とする大韓民国 だいかんみんこく (韓国 かんこく )が建国 けんこく された。朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 中 なか の1950年 ねん には韓国 かんこく 支援 しえん のため海上保安庁 かいじょうほあんちょう の特別 とくべつ 掃海 そうかい 隊 たい が日本 にっぽん から派遣 はけん されるなどしたが[300] 、日本 にっぽん の台頭 たいとう を警戒 けいかい する[301] 李 り 承晩 しょうばん 政権 せいけん のもとで、韓国 かんこく は1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )に一方 いっぽう 的 てき に李 り 承晩 しょうばん ライン を宣言 せんげん して竹島 たけしま を占拠 せんきょ 。これにより竹島 たけしま 問題 もんだい が発生 はっせい し、この境界 きょうかい 線 せん を超 こ えた日本 にっぽん の漁船 ぎょせん は拿捕 だほ され、多 おお くの日本人 にっぽんじん 漁師 りょうし が殺害 さつがい ・抑留 よくりゅう された[302] [303] 。日本 にっぽん 本土 ほんど 内 ない においても、韓国 かんこく 政府 せいふ の工作 こうさく 員 いん が新潟 にいがた 日赤 にっせき センター爆破 ばくは 未遂 みすい 事件 じけん や金 きむ 大中 でじゅん 拉致 らち 事件 じけん などの事件 じけん を起 お こしている[304] [305] 。
5・16軍事 ぐんじ クーデター により軍事 ぐんじ 政権 せいけん を樹立 じゅりつ した朴 ぼく 正煕 せいき は国民 こくみん の反発 はんぱつ を押 お しきり日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく を締結 ていけつ し日本 にっぽん との国交 こっこう を樹立 じゅりつ 、日本 にっぽん から得 え た賠償金 ばいしょうきん を経済 けいざい 成長 せいちょう の原資 げんし としたが、これを国民 こくみん に隠蔽 いんぺい した事 こと で日本 にっぽん 統治 とうち 下 か の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の賠償 ばいしょう をめぐる論争 ろんそう が起 お きる原因 げんいん となった。金 きむ 大中 でじゅん 政権 せいけん で日本 にっぽん の大衆 たいしゅう 文化 ぶんか の自由 じゆう 化 か が進 すす められ、日 にち 韓 かん ワールドカップ共催 きょうさい も提案 ていあん されて日本 にっぽん に親近 しんきん 感 かん を抱 いだ く人々 ひとびと の増加 ぞうか も見 み られた[306] 。
しかし、盧武鉉 のむひょん 政権 せいけん では領土 りょうど や歴史 れきし 問題 もんだい で強硬 きょうこう な外交 がいこう 方針 ほうしん に転 てん じ、2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )に盧武鉉 のむひょん 大統領 だいとうりょう はアメリカ政府 せいふ に対 たい して日本 にっぽん を仮想 かそう 敵国 てきこく として想定 そうてい するように提案 ていあん した[307] 。政権 せいけん 後半 こうはん には竹島 たけしま 問題 もんだい などで「対 たい 日 にち 外交 がいこう 戦争 せんそう 」を公言 こうげん し、小泉 こいずみ 純一郎 じゅんいちろう 首相 しゅしょう の靖国神社 やすくにじんじゃ 参拝 さんぱい などもあって日 にち 韓 かん 関係 かんけい は冷 ひ え切 き っていた[308] 。その後 ご の歴代 れきだい 政権 せいけん においても根本 こんぽん 的 てき な関係 かんけい 改善 かいぜん の兆 きざ しは見 み られなかった。平成 へいせい 26年版 ねんばん 外交 がいこう 青書 せいしょ では「自由 じゆう 、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 、基本 きほん 的 てき 人権 じんけん などの基本 きほん 的 てき な価値 かち と、地域 ちいき の平和 へいわ と安定 あんてい の確保 かくほ などの利益 りえき を共有 きょうゆう する日本 にっぽん にとって、最 もっと も重要 じゅうよう な隣国 りんごく 」とされていた表現 ひょうげん も、年 とし を追 お うごとに簡素 かんそ なものとなり、平成 へいせい 30年版 ねんばん 外交 がいこう 青書 せいしょ では何 なん ら"枕詞 まくらことば "がつかなくなった[309] 。ただし、令 れい 和 わ 2年版 ねんばん 外交 がいこう 青書 せいしょ から「重要 じゅうよう な隣国 りんごく 」の表記 ひょうき が復活 ふっかつ している[310] 。
なお、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を除 のぞ き日本 にっぽん と犯罪 はんざい 人 じん 引渡 ひきわた し条約 じょうやく を結 むす んでいる唯一 ゆいいつ の国 くに であるが(2022年 ねん 現在 げんざい )[311] 、2011年 ねん から2012年 ねん にかけて発生 はっせい した靖国神社 やすくにじんじゃ ・日本 にっぽん 大使館 たいしかん 放火 ほうか 事件 じけん においては、大使館 たいしかん 放火 ほうか の罪 つみ については韓国 かんこく 裁判所 さいばんしょ が犯人 はんにん の中国人 ちゅうごくじん に有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を下 くだ したものの、同人 どうじん を政治 せいじ 犯 はん と認定 にんてい した韓国 かんこく 側 がわ は刑期 けいき 満了 まんりょう しても神社 じんじゃ 放火 ほうか の罪 つみ を捌 さば くための日本 にっぽん への身柄 みがら 引 ひ き渡 わた しを行 おこな わず、当時 とうじ の内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 安倍晋三 あべしんぞう が「条約 じょうやく を無視 むし する行為 こうい 」として対応 たいおう を批判 ひはん している[312] [313] [314] 。
防衛 ぼうえい 面 めん においては、日 にち 韓 かん の国防 こくぼう 関係 かんけい 者 しゃ による交流 こうりゅう が継続 けいぞく 的 てき に行 おこな われているが[315] [316] 、2018年 ねん の済州 さいしゅう 国際 こくさい 観艦式 かんかんしき での自衛 じえい 艦 かん 旗 はた を巡 めぐ る対立 たいりつ や韓国 かんこく 海軍 かいぐん レーダー照射 しょうしゃ 問題 もんだい 、2019年 ねん の韓国 かんこく による日 にち 韓 かん 秘密 ひみつ 軍事 ぐんじ 情報 じょうほう 保護 ほご 協定 きょうてい (GSOMIA)破棄 はき 通告 つうこく など、摩擦 まさつ が表面 ひょうめん 化 か することもある。
文化 ぶんか 面 めん では韓国 かんこく での日本 にっぽん 大衆 たいしゅう 文化 ぶんか の流入 りゅうにゅう 制限 せいげん も徐々 じょじょ に制限 せいげん を緩和 かんわ しつつあり[317] [318] 、日本 にっぽん でもK-POP などの韓国 かんこく 文化 ぶんか が若者 わかもの や女性 じょせい を中心 ちゅうしん に一定 いってい の人気 にんき を博 はく している[319] 。
北朝鮮 きたちょうせん :現在 げんざい 国交 こっこう は存在 そんざい しない。双方 そうほう の在 ざい 中国 ちゅうごく 大使館 たいしかん (北京 ぺきん )が政府 せいふ 間 あいだ 連絡 れんらく 窓口 まどぐち となっているが、東京 とうきょう には旅券 りょけん 、公用 こうよう 査証 さしょう の発行 はっこう や親善 しんぜん 交流 こうりゅう の窓口 まどぐち 機能 きのう を有 ゆう する在日本朝鮮人総聯合会 ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい が存在 そんざい している[320] 。北朝鮮 きたちょうせん は、韓国 かんこく 併合 へいごう (旧 きゅう 李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん ・大韓 たいかん 帝国 ていこく の大日本帝国 だいにっぽんていこく への併合 へいごう )に対 たい する評価 ひょうか や賠償 ばいしょう 問題 もんだい ・請求 せいきゅう 権 けん 問題 もんだい 、いずれについても決着 けっちゃく していないとする立場 たちば である。日本国 にっぽんこく 政府 せいふ は、日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく に基 もと づいて大韓民国 だいかんみんこく 政府 せいふ のみが朝鮮半島 ちょうせんはんとう の正統 せいとう な政府 せいふ であるとの立場 たちば であり、国家 こっか 承認 しょうにん もしていない[321] 。なお、国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい 国 こく の中 なか で日本 にっぽん が承認 しょうにん していない唯一 ゆいいつ の国家 こっか となっている。また、日本 にっぽん は賠償 ばいしょう 問題 もんだい も韓国 かんこく との条約 じょうやく によって解決 かいけつ 済 ず みとの立場 たちば である。2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )の日 にち 朝 ちょう 首脳 しゅのう 会談 かいだん では、賠償 ばいしょう 権 けん を相互 そうご に放棄 ほうき し、国交 こっこう を正常 せいじょう 化 か して日本 にっぽん が北朝鮮 きたちょうせん へ経済 けいざい 協力 きょうりょく を実施 じっし する方法 ほうほう で合意 ごうい したと発表 はっぴょう されたが[322] 、その後 ご は国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か 交渉 こうしょう の停滞 ていたい を招 まね いている。背景 はいけい には、北朝鮮 きたちょうせん による日本人 にっぽんじん 拉致 らち 問題 もんだい や不審 ふしん 船 せん 事件 じけん などに対 たい する日本 にっぽん の世論 せろん の反発 はんぱつ や北朝鮮 きたちょうせん 核 かく 問題 もんだい 、北朝鮮 きたちょうせん 人権 じんけん 問題 もんだい などで孤立 こりつ を深 ふか める北朝鮮 きたちょうせん の現状 げんじょう がある。なお、拉致 らち 問題 もんだい に関 かん しては北朝鮮 きたちょうせん は「すべて解決 かいけつ 済 ず み」という公式 こうしき 見解 けんかい を示 しめ している[323] 。
日本 にっぽん は、現在 げんざい これらを受 う けて経済 けいざい 制裁 せいさい を北朝鮮 きたちょうせん に実施 じっし している[324] 。北朝鮮 きたちょうせん は、核 かく カードを使 つか ってアメリカからテロ支援 しえん 国家 こっか 指定 してい の解除 かいじょ を引 ひ き出 だ したが、2017年 ねん には再 さい 指定 してい されている[325] 。2012年 ねん (平成 へいせい 24年 ねん )4月 がつ 、北朝鮮 きたちょうせん は自国 じこく 憲法 けんぽう (朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 憲法 けんぽう )に核保有 かくほゆう 国 こく と明記 めいき した[326] 。軍事 ぐんじ 面 めん では西日本 にしにほん を射程 しゃてい に収 おさ める短距離 たんきょり 弾道 だんどう ミサイル のスカッド ERを推定 すいてい 350発 はつ 、日本 にっぽん のほぼ全域 ぜんいき を射程 しゃてい に収 おさ めるノドン ミサイルを推定 すいてい 200発 はつ 保有 ほゆう しており、2016年 ねん と2017年 ねん には計 けい 3回 かい 日本 にっぽん 上空 じょうくう をミサイルが通過 つうか し全国 ぜんこく 瞬時 しゅんじ 警報 けいほう システム (通称 つうしょう Jアラート)が発動 はつどう するなど[327] 、日本 にっぽん の安全 あんぜん 保障 ほしょう 上 うえ 深刻 しんこく な脅威 きょうい となっている[328] 。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく :日本 にっぽん は1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )の日 にち 中 ちゅう 共同 きょうどう 声明 せいめい および1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )日 にち 中 ちゅう 平和 へいわ 友好 ゆうこう 条約 じょうやく 締結 ていけつ にともない、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との国交 こっこう を正常 せいじょう 化 か した(日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か )[329] 。鄧小平 ひらた が実権 じっけん を握 にぎ ると「四 よっ つの基本 きほん 原則 げんそく 」を打 う ち出 だ して改革 かいかく 開放 かいほう 政策 せいさく を取 と り、日本 にっぽん はそれを高 たか く評価 ひょうか して政府 せいふ 開発 かいはつ 援助 えんじょ の名目 めいもく で中国 ちゅうごく に大 だい 規模 きぼ な円 えん 借款 しゃっかん を行 おこな った[330] 。その後 ご 、経済 けいざい 成長 せいちょう を達成 たっせい して数 すう 多 おお くの日系 にっけい 企業 きぎょう が生産 せいさん 拠点 きょてん を移転 いてん させ、また、2006年 ねん (平成 へいせい 18年 ねん )より貿易 ぼうえき 総額 そうがく でアメリカを上回 うわまわ って最大 さいだい の貿易 ぼうえき 相手 あいて 国 こく となった[注釈 ちゅうしゃく 54] 。しかし心情 しんじょう 面 めん では靖国神社 やすくにじんじゃ 問題 もんだい に関連 かんれん して関係 かんけい が悪化 あっか している。日本 にっぽん では、2005年 ねん の中国 ちゅうごく における反日 はんにち 活動 かつどう なども盛 さか んに報道 ほうどう され、2008年 ねん 6月 がつ のアメリカの民間 みんかん 調査 ちょうさ 機関 きかん ピュー・リサーチ・センター の調査 ちょうさ では、中国 ちゅうごく を好 この ましくないと答 こた えた割合 わりあい が84%(前年 ぜんねん 比 ひ 17%増 ぞう )となり、調査 ちょうさ した24カ国 かこく の中 なか で最 もっと も高 たか かった。また、日本人 にっぽんじん の中国 ちゅうごく への旅行 りょこう 者 しゃ も減少 げんしょう した。一方 いっぽう 、中国 ちゅうごく では、前年 ぜんねん 比 ひ から9%減少 げんしょう したが、それでも69%が日本 にっぽん を好 この ましく思 おも っていないという調査 ちょうさ 結果 けっか となり、依然 いぜん として両 りょう 国民 こくみん が相互 そうご に反発 はんぱつ していることが明 あき らかとなった。中国 ちゅうごく の報道 ほうどう は中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の統制 とうせい 下 か にあり、一般 いっぱん 国民 こくみん に日本 にっぽん からのODAや謝罪 しゃざい などが周知 しゅうち されているとは言 い いがたいが、四川 しせん 大 だい 地震 じしん に際 さい しての国際 こくさい 緊急 きんきゅう 援助 えんじょ 隊 たい の救援 きゅうえん 活動 かつどう など、中国人 ちゅうごくじん からの感謝 かんしゃ の意 い が表 あらわ れる出来事 できごと もあった[331] 。2010年 ねん 以降 いこう 、GDPで日本 にっぽん を抜 ぬ いて、また中国 ちゅうごく 依存 いぞん を指摘 してき されるなど経済 けいざい 的 てき に無視 むし できない存在 そんざい となっている[332] 。
軍事 ぐんじ 面 めん では日本 にっぽん 全土 ぜんど を射程 しゃてい に収 おさ める核弾頭 かくだんとう を搭載 とうさい 可能 かのう な弾道 だんどう ミサイル東風 こち 21型 がた を推定 すいてい 100発 はつ 、精密 せいみつ 攻撃 こうげき が可能 かのう な巡航 じゅんこう ミサイル東海 とうかい 10型 がた ・長剣 ちょうけん 10型 がた を推定 すいてい 600発 はつ 保有 ほゆう しており日本 にっぽん の脅威 きょうい となっている[333] 。また、中国 ちゅうごく 海 うみ 警局 は2021年 ねん に武器 ぶき 使用 しよう を認 みと められるなど海洋 かいよう 進出 しんしゅつ の姿勢 しせい を顕 あらわ わにしており、日本 にっぽん は危機 きき 感 かん を明 あき らかにしている[334] 。しかし、2019年 ねん には中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん が横須賀 よこすか に入港 にゅうこう し数 すう 年 ねん ぶりの自衛隊 じえいたい との共同 きょうどう 訓練 くんれん を行 おこな うなど、協力 きょうりょく の兆 きざ しもある[335] 。
中華民国 ちゅうかみんこく :台湾 たいわん (中華民国 ちゅうかみんこく )は、日 にち 清 しん 戦争 せんそう で大日本帝国 だいにっぽんていこく に割譲 かつじょう されて以来 いらい 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ まで50年間 ねんかん の日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい を経験 けいけん している。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 こう は国共 こっきょう 内戦 ないせん で中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 軍 ぐん (現在 げんざい の中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん )に敗北 はいぼく した中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう が、開発 かいはつ や安定 あんてい の為 ため に1990年代 ねんだい まで独裁 どくさい 政治 せいじ を敷 し いてきた[336] 。かつて日本 にっぽん は中華民国 ちゅうかみんこく を中国 ちゅうごく の代表 だいひょう 政権 せいけん と見 み なし、国連 こくれん における中国 ちゅうごく 代表 だいひょう 権 けん を巡 めぐ って争 あらそ われたアルバニア決議 けつぎ でも中華民国 ちゅうかみんこく を支持 しじ したが、1970年代 ねんだい の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との国交 こっこう 樹立 じゅりつ に伴 ともな い、中華民国 ちゅうかみんこく とは公式 こうしき に断交 だんこう し、2022年 ねん 現在 げんざい も台湾 たいわん を国家 こっか として承認 しょうにん していない。断交 だんこう に伴 ともな い双方 そうほう の大使館 たいしかん は閉鎖 へいさ されたものの、日本 にっぽん 台湾 たいわん 交流 こうりゅう 協会 きょうかい と台北 たいぺい 駐日 ちゅうにち 経済 けいざい 文化 ぶんか 代表 だいひょう 処 しょ が事実 じじつ 上 じょう その役割 やくわり を果 は たしている。なお、日 にち 中 ちゅう 平和 へいわ 友好 ゆうこう 条約 じょうやく では台湾 たいわん が自国 じこく 領土 りょうど の不可分 ふかぶん の一部 いちぶ であると主張 しゅちょう する中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 政府 せいふ の立場 たちば について「十分 じゅうぶん 理解 りかい し尊重 そんちょう する(understand and respect)」と表現 ひょうげん されており、中国 ちゅうごく の主張 しゅちょう を承知 しょうち しつつも認 みと めているわけではないという態度 たいど を取 と っている[337] 。1990年代 ねんだい には本省 ほんしょう 人 じん である李 り 登輝 とうき が総統 そうとう に就任 しゅうにん するなど融和 ゆうわ が進展 しんてん し、親日 しんにち 国 こく の一 ひと つとなった[338] [339] 。1996年 ねん に国民党 こくみんとう 一 いち 党 とう 独裁 どくさい が解消 かいしょう され 、その後 ご 国民党 こくみんとう と民主進歩党 みんしゅしんぽとう (民進党 みんしんとう )との二 に 大 だい 政党 せいとう 制 せい へと移行 いこう した。抗日 こうにち 戦争 せんそう の経験 けいけん から日本 にっぽん に対 たい して厳 きび しい歴史 れきし 認識 にんしき を持 も っている外 そと 省 しょう 人 じん は国民党 こくみんとう を支持 しじ し、日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい を経験 けいけん した親日 しんにち 的 てき 傾向 けいこう が強 つよ い多数 たすう 派 は の本省 ほんしょう 人 じん が民進党 みんしんとう を支持 しじ する、という構図 こうず での理解 りかい が浸透 しんとう しているが[339] 、2014年 ねん のひまわり学生 がくせい 運動 うんどう に象徴 しょうちょう されるように、世代 せだい が下 くだ るにつれてそのようなステレオタイプ は解消 かいしょう されつつある[340] [341] 。
現在 げんざい では台湾 たいわん は安全 あんぜん 保障 ほしょう 面 めん において、台湾 たいわん 関係 かんけい 法 ほう などを背景 はいけい にアメリカ軍 ぐん と密接 みっせつ な関係 かんけい にあり、日米 にちべい 安保 あんぽ 体制 たいせい を維持 いじ する日本 にっぽん とも間接 かんせつ 的 てき な協力 きょうりょく 関係 かんけい にある。1970年代 ねんだい 以降 いこう 、日 にち 台 たい 間 あいだ でも尖閣諸島 せんかくしょとう の領有 りょうゆう 問題 もんだい があり係争 けいそう も勃発 ぼっぱつ したが、深刻 しんこく な対立 たいりつ に至 いた っていない[342] 。
民間 みんかん レベルでの人的 じんてき ・文化 ぶんか 的 てき ・経済 けいざい 的 てき な交流 こうりゅう は、断交 だんこう 後 ご も一貫 いっかん して盛 さか んであり、特 とく に近年 きんねん は李 り 登輝 とうき 政権 せいけん 以降 いこう の台湾 たいわん 本土 ほんど 化 か 運動 うんどう の結果 けっか として国民 こくみん の親日 しんにち 姿勢 しせい が強 つよ まる傾向 けいこう にある。2011年 ねん 3月 がつ 11日 にち 発生 はっせい の東北 とうほく 地方 ちほう 太平洋 たいへいよう 沖 おき 地震 じしん ・東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい では、台湾 たいわん から世界 せかい 最多 さいた となる200億 おく 円 えん 超 ちょう の義援金 ぎえんきん が日本 にっぽん に送金 そうきん された[343] 。近 こん 場 じょう の海外 かいがい であるため観光 かんこう 地 ち としての人気 にんき も高 たか く、直行 ちょっこう 便 びん が運航 うんこう されている。また、海外 かいがい で初 はじ めて日本 にっぽん の新幹線 しんかんせん システムの一部 いちぶ を採用 さいよう するなど、各種 かくしゅ インフラに日本 にっぽん の技術 ぎじゅつ や製品 せいひん が導入 どうにゅう されている[344] [345] [346] 。
東南 とうなん アジア
歴史 れきし 的 てき には日本 にっぽん と東南 とうなん アジア地域 ちいき との関係 かんけい は朱印船 しゅいんせん 貿易 ぼうえき が盛 さか んだった16世紀 せいき 末 すえ から17世紀 せいき ごろまで遡 さかのぼ る[347] 。日本 にっぽん が鎖国 さこく をした江戸 えど 時代 じだい の間 あいだ に、タイ王国 おうこく を除 のぞ けば東南 とうなん アジア地域 ちいき は列強 れっきょう ・欧州 おうしゅう 諸国 しょこく (アメリカ 、イギリス 、オランダ 、フランス 、ポルトガル )の植民 しょくみん 地 ち になっていった。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では日本 にっぽん と同 どう 地域 ちいき を植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい する欧米 おうべい 列強 れっきょう との交戦 こうせん 地 ち となったために同 どう 地域 ちいき の住民 じゅうみん にも多数 たすう の犠牲 ぎせい を出 だ したが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち に独立 どくりつ を果 は たした各国 かっこく は日本 にっぽん と国交 こっこう を結 むす び、良好 りょうこう な友好 ゆうこう 関係 かんけい を構築 こうちく し、それを堅持 けんじ している。タイ 、フィリピン 、マレーシア など経済 けいざい 的 てき にも文化 ぶんか 的 てき にも関係 かんけい が深 ふか く、互 たが いの国民 こくみん に対 たい する感情 かんじょう も良 よ いとされる[348] 。また日本 にっぽん は、これら各国 かっこく との経済 けいざい 関係 かんけい を1970年代 ねんだい ごろからASEAN (東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう )を通 つう じて深 ふか めており、1997年 ねん からASEAN+3 に参加 さんか [349] 、東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう (ASEAN)諸国 しょこく との間 あいだ で定期 ていき 的 てき に首脳 しゅのう 会談 かいだん を行 おこな い、関係 かんけい を重視 じゅうし している。また自由 じゆう 貿易 ぼうえき 協定 きょうてい (FTA)の締結 ていけつ を模索 もさく している。自衛隊 じえいたい のPKO としての派遣 はけん も、初 はつ の派遣 はけん がカンボジア で、また東 ひがし ティモール やベトナム へも派遣 はけん された。東南 とうなん アジア周辺 しゅうへん の海域 かいいき (特 とく にマラッカ海峡 かいきょう 、シンガポール海峡 かいきょう )は中東 ちゅうとう から輸入 ゆにゅう した原油 げんゆ の9割 わり 近 ちか くが通過 つうか するなど非常 ひじょう に重要 じゅうよう なルートであるが[350] 、海賊 かいぞく が頻繁 ひんぱん に出没 しゅつぼつ する[351] 。その対策 たいさく として、海上保安庁 かいじょうほあんちょう が各国 かっこく の沿岸 えんがん 警備 けいび 隊 たい に対 たい して指導 しどう ・共同 きょうどう 訓練 くんれん を行 おこな っているほか、現地 げんち 派遣 はけん も行 おこな っている[352] 。天皇 てんのう 皇后 こうごう がタイ 、マレーシア 、インドネシア 、シンガポール 、フィリピン を訪問 ほうもん している。
インドネシア :旧 きゅう オランダ 植民 しょくみん 地 ち で、朱印船 しゅいんせん 貿易 ぼうえき や日本 にっぽん 町 まち を中心 ちゅうしん に戦国 せんごく 時代 じだい から民間 みんかん での交流 こうりゅう は存在 そんざい したが、鎖国 さこく に伴 ともな いその交流 こうりゅう は途絶 とだ えた[353] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の際 さい には日本 にっぽん が蘭 らん 印 しるし 作戦 さくせん でオランダ軍 ぐん を破 やぶ り、一時 いちじ 日本 にっぽん の占領 せんりょう 下 か に置 お かれて当初 とうしょ は植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の解放 かいほう 者 しゃ として歓迎 かんげい されていたものの、戦争 せんそう が激化 げきか するにつれ皇 すめらぎ 民 みん 化 か 政策 せいさく が施 ほどこ されインドネシア人 じん の中 なか には「ロームシャ 」として過酷 かこく な重労働 じゅうろうどう に従事 じゅうじ させられた者 もの もいた[354] 。しかし、独立 どくりつ の際 さい に一部 いちぶ の日本人 にっぽんじん が関与 かんよ したこともあり、親日 しんにち 派 は もいた一方 いっぽう 、1960年代 ねんだい の政局 せいきょく の混乱 こんらん のなか共産党 きょうさんとう 勢力 せいりょく の台頭 たいとう に伴 ともな い中国 ちゅうごく などへ接近 せっきん したが、1966年 ねん 以降 いこう のスハルト 体制 たいせい は再 ふたた び日本 にっぽん との関係 かんけい を強 つよ めた[355] 。ただし1970年代 ねんだい には日本 にっぽん 企業 きぎょう がインドネシアに次々 つぎつぎ 進出 しんしゅつ 、インドネシア経済 けいざい で支配 しはい 的 てき になったことから、それに反発 はんぱつ して田中 たなか 角栄 かくえい のインドネシア訪問 ほうもん に合 あ わせて大 だい 規模 きぼ な反日 はんにち 運動 うんどう 「マラリ事件 じけん 」が起 お こった事 こと もある[356] 。
現代 げんだい では、2001年 ねん のアメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ によって米国 べいこく との関係 かんけい が悪化 あっか し、2005年 ねん まで武器 ぶき 禁輸 きんゆ などの制裁 せいさい を受 う けた。そのためロシア や中国 ちゅうごく との関係 かんけい 強化 きょうか を進 すす め、しかしいずれの国 くに とも軍事 ぐんじ 同盟 どうめい を結 むす ばないなど多 た 極 きょく 外交 がいこう を展開 てんかい している[357] 。日本 にっぽん との関係 かんけい は良好 りょうこう で、日本 にっぽん にとっては液化 えきか 天然 てんねん ガス の死活 しかつ 的 てき に重要 じゅうよう な供給 きょうきゅう 国 こく であることから、多数 たすう の日系 にっけい 企業 きぎょう が進出 しんしゅつ 、エネルギー 事業 じぎょう に携 たずさ わっている[358] 。また日本 にっぽん の政府 せいふ 開発 かいはつ 援助 えんじょ (ODA)はハードインフラ 整備 せいび に加 くわ え、市民 しみん 警察 けいさつ 活動 かつどう 促進 そくしん 計画 けいかく [注釈 ちゅうしゃく 55] など統治 とうち 能力 のうりょく 支援 しえん (ガバナンス支援 しえん )や法 ほう 整備 せいび 支援 しえん [注釈 ちゅうしゃく 56] などソフトインフラ整備 せいび の支援 しえん にも及 およ んでいる。スマトラ島 すまとらとう 沖 おき 地震 じしん では、金額 きんがく で国 くに 別 べつ 3位 い の支援 しえん を早急 そうきゅう に決 き めて拠出 きょしゅつ し、更 さら にアチェ州 しゅう へ海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい の艦艇 かんてい を派遣 はけん した[361] 。防災 ぼうさい システムの構築 こうちく にも支援 しえん を行 おこな っている。
カンボジア :旧 きゅう フランス 植民 しょくみん 地 ち のカンボジアとは、戦後 せんご まもなく国交 こっこう が樹立 じゅりつ されたものの[362] 、ポル・ポト 政権 せいけん 時代 じだい には大使館 たいしかん を閉鎖 へいさ するなど事実 じじつ 上 じょう 国交 こっこう は一時 いちじ 断絶 だんぜつ していたが、政権 せいけん 崩壊 ほうかい 後 ご の1990年代 ねんだい には正常 せいじょう 化 か している[363] [364] 。日本 にっぽん からは経済 けいざい 的 てき 援助 えんじょ がなされておりカンボジアにとって日本 にっぽん は最大 さいだい の開発 かいはつ 援助 えんじょ 国 くに であるほか[365] 、自衛隊 じえいたい を活用 かつよう した地雷 じらい 撤去 てっきょ の活動 かつどう や教育 きょういく 支援 しえん なども精力 せいりょく 的 てき に行 おこな われている。また、文化 ぶんか 面 めん でもクメール・ルージュ によって破壊 はかい ・弾圧 だんあつ された仏教 ぶっきょう の施設 しせつ や信仰 しんこう の復興 ふっこう に、日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう 界 さかい が大 おお きく貢献 こうけん している。一方 いっぽう 、カンボジア は日本 にっぽん の常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく 参入 さんにゅう について不変 ふへん の支持 しじ を行 おこな っている[366] 。一 いち 党 とう 独裁 どくさい 化 か を強 つよ め欧米 おうべい から批判 ひはん を受 う け支援 しえん を打 う ち切 き られているカンボジアに対 たい し日本 にっぽん だけが支援 しえん を継続 けいぞく しており、日本 にっぽん は経済 けいざい 支援 しえん と民主 みんしゅ 化 か の同時 どうじ 進行 しんこう を促 うなが す立場 たちば をとっている[367] 。しかし日本 にっぽん がカンボジアに選挙 せんきょ の資金 しきん 援助 えんじょ した2018年 ねん の選挙 せんきょ ではカンボジア政府 せいふ が最大 さいだい 野党 やとう の解体 かいたい を決定 けってい 、全 ぜん 議席 ぎせき が与党 よとう のものとなり民主 みんしゅ 化 か は逆行 ぎゃっこう している[368] 。
シンガポール :イギリス領 りょう マラヤ の中心 ちゅうしん 都市 とし だったシンガポール は、明治 めいじ 時代 じだい に山本 やまもと 音吉 おときち がやってきた事 こと によって初 はじ めて日本 にっぽん と交流 こうりゅう を持 も った[369] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では日本 にっぽん の侵略 しんりゃく を受 う ける。シンガポールの戦 たたか い の結果 けっか 日本 にっぽん 軍 ぐん が占領 せんりょう 、昭南 しょうなん 島 とう と改称 かいしょう され(日本 にっぽん 占領 せんりょう 時期 じき のシンガポール )、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )の日本 にっぽん の降伏 ごうぶく まで軍事 ぐんじ 占領 せんりょう と華僑 かきょう を中心 ちゅうしん とした住民 じゅうみん の抵抗 ていこう が続 つづ いた[370] [371] 。シンガポール華僑 かきょう 粛清 しゅくせい 事件 じけん が日本 にっぽん 軍 ぐん の虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい として記録 きろく されている[372] 。シンガポールにおいて日本 にっぽん の占領 せんりょう が始 はじ まった2月 がつ 15日 にち はトータル・ディフェンス・デーとして国防 こくぼう 意識 いしき を高 たか める記念 きねん 日 び になっている[373] 。
1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )にシンガポールがマレーシア から追放 ついほう されて分離 ぶんり 独立 どくりつ すると日本 にっぽん は直 ただ ちに承認 しょうにん し、友好 ゆうこう 関係 かんけい を維持 いじ した。2002年 ねん (平成 へいせい 14年 ねん )には日本 にっぽん ・シンガポール新 しん 時代 じだい 経済 けいざい 連携 れんけい 協定 きょうてい を結 むす び、日本 にっぽん にとって初 はつ の自由 じゆう 貿易 ぼうえき 協定 きょうてい 締結 ていけつ 国 こく であり、要人 ようじん 往来 おうらい も活発 かっぱつ で経済 けいざい ・政治 せいじ において緊密 きんみつ な関係 かんけい を保 たも っている[374] 。
タイ :14世紀 せいき ごろよりアユタヤ日本人 にっぽんじん 街 がい が形成 けいせい され、最盛 さいせい 期 き には3000人 にん の日本人 にっぽんじん が居住 きょじゅう するなどアユタヤ王朝 おうちょう 支配 しはい 下 か のタイで経済 けいざい 的 てき な影響 えいきょう 力 りょく を持 も った[375] 。山田 やまだ 長政 ながまさ が当地 とうち で活躍 かつやく した[376] 。その後 ご 、江戸 えど 幕府 ばくふ が鎖国 さこく 政策 せいさく を取 と ったため日本 にっぽん との交流 こうりゅう を喪失 そうしつ したが、アユタヤ日本人 にっぽんじん 街 がい は18世紀 せいき まで存続 そんぞく していた[377] 。日本 にっぽん 開国 かいこく 後 ご 、1887年 ねん には日 にち ・タイ修好 しゅうこう 宣言 せんげん が結 むす ばれて本格 ほんかく 的 てき に国交 こっこう が再開 さいかい している[378] 。大日本帝国 だいにっぽんていこく とタイ はともに植民 しょくみん 地 ち 化 か を免 まぬか れた共通 きょうつう 点 てん がある事 こと から友好 ゆうこう 関係 かんけい が築 きず かれ、1932年 ねん にはタイ立憲 りっけん 革命 かくめい が巻 ま き起 お こったが、それは駐 ちゅう シャム公使 こうし 矢田部 やたべ 保吉 やすきち をはじめとする日本人 にっぽんじん の支援 しえん も背景 はいけい にあった[379] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では枢軸 すうじく 国 こく とはされていないが、日 にち 泰 たい 攻守 こうしゅ 同盟 どうめい 条約 じょうやく を結 むす んで日本 にっぽん 軍 ぐん が進駐 しんちゅう 、日本 にっぽん に対 たい し協力 きょうりょく 的 てき な姿勢 しせい を見 み せた[380] 。
戦後 せんご は日本 にっぽん の国際 こくさい 社会 しゃかい 復帰 ふっき に尽力 じんりょく 、現代 げんだい では親日 しんにち 国 こく として知 し られ[381] 、経済 けいざい 的 てき に深 ふか い繋 つな がりを有 ゆう している。タイの国際 こくさい 貿易 ぼうえき に占 し める対 たい 日 にち 割合 わりあい は、輸出 ゆしゅつ 9.5%、輸入 ゆにゅう 15.8%(2016年 ねん )であり、中国 ちゅうごく に次 つ ぐ主要 しゅよう 貿易 ぼうえき 相手 あいて 国 こく となっている[382] 。また、日本 にっぽん のタイへの直接 ちょくせつ 投資 とうし 額 がく は1,489億 おく バーツ に上 のぼ り、これはタイの全 ぜん 投資 とうし 額 がく の4分 ぶん の1を占 し めた[382] 。2007年 ねん には日本 にっぽん にとってアジア 三 さん か国 こく 目 め となる経済 けいざい 連携 れんけい 協定 きょうてい が結 むす ばれた[383] 。人件 じんけん 費 ひ ・製造 せいぞう コストの低 ひく さからかねてより日系 にっけい 企業 きぎょう の製造 せいぞう 拠点 きょてん が多 おお く置 お かれていたが、近年 きんねん では経済 けいざい 成長 せいちょう により消費 しょうひ 市場 いちば への転換 てんかん も見 み られる[384] 。タイ王室 おうしつ と皇室 こうしつ との関係 かんけい も良好 りょうこう で[385] 、日本 にっぽん を訪 おとず れるタイ人 じん も増加 ぞうか している[386] 。2004年 ねん のスマトラ島 すまとらとう 沖 おき 地震 じしん では自衛隊 じえいたい のタイ派遣 はけん も実施 じっし された[387] 。
フィリピン :朱印船 しゅいんせん 貿易 ぼうえき を通 つう じて安土 あづち 桃山 ももやま 時代 じだい から交流 こうりゅう を持 も ち、多 おお くの日本人 にっぽんじん が移 うつ り住 す んでマニラ に日本人 にっぽんじん 街 がい が形成 けいせい された[388] 。16世紀 せいき にはスペイン が当時 とうじ の領有 りょうゆう 地 ち だったフィリピンを対 たい 日 にち 貿易 ぼうえき の拠点 きょてん とし、バテレン追放 ついほう 令 れい により日本 にっぽん を追放 ついほう された高山 たかやま 右近 うこん も受 う け入 い れたが[389] 、江戸 えど 幕府 ばくふ の鎖国 さこく 政策 せいさく による外交 がいこう 関係 かんけい の断絶 だんぜつ とともに日本 にっぽん との交流 こうりゅう は途絶 とだ えた。それが再開 さいかい されたのは1868年 ねん に日 にち 西 にし 修好 しゅうこう 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく の締結 ていけつ 以降 いこう である。1899年 ねん にはフィリピンが独立 どくりつ を求 もと めたため米 べい 比 ひ 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ しているが、日本 にっぽん は表向 おもてむ き中立 ちゅうりつ を保 たも ったものの一部 いちぶ の有力 ゆうりょく 者 しゃ が武器 ぶき の売却 ばいきゃく や輸送 ゆそう を行 おこな い[390] 、また指導 しどう 者 しゃ であったアルテミオ・リカルテ の亡命 ぼうめい も受 う け入 い れている[391] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では日本 にっぽん に占領 せんりょう され、現地 げんち 住民 じゅうみん を巻 ま き込 こ んで激戦 げきせん となった経緯 けいい があり(フィリピンの戦 たたか い )、戦後 せんご のフィリピンでは対 たい 日 にち 感情 かんじょう が悪 わる かったものの、賠償金 ばいしょうきん 支払 しはら いや経済 けいざい 援助 えんじょ を通 つう じて徐々 じょじょ に改善 かいぜん が進 すす められた[392] 。現在 げんざい では親日 しんにち 国 こく として知 し られる[393] 。
2008年 ねん には日本 にっぽん ・フィリピン経済 けいざい 連携 れんけい 協定 きょうてい が発効 はっこう され、経済 けいざい 的 てき な結 むす び付 つ きが強 つよ まっている[394] 。ただし、フィリピン の主要 しゅよう 貿易 ぼうえき 相手 あいて 国 こく は現状 げんじょう アメリカ と日本 にっぽん であるが、近年 きんねん は中国 ちゅうごく や韓国 かんこく との貿易 ぼうえき も増 ふ えている[395] 。人件 じんけん 費 ひ や製造 せいぞう コストの観点 かんてん から、多 おお くの日系 にっけい 企業 きぎょう がフィリピンに製造 せいぞう 拠点 きょてん を置 お いて雇用 こよう を創出 そうしゅつ している[396] 。在日 ざいにち フィリピン人 じん は、在日 ざいにち 外国 がいこく 人 じん として国籍 こくせき 別 べつ で第 だい 4位 い の人口 じんこう を有 ゆう する[397] 。2013年 ねん 11月には台風 たいふう ヨランダ がフィリピンに甚大 じんだい な被害 ひがい を齎 もたら し、日本 にっぽん は自衛隊 じえいたい の派遣 はけん を行 おこな った[398] 。政情 せいじょう 面 めん でも日本 にっぽん は貢献 こうけん しており、2011年 ねん には日本 にっぽん の仲介 ちゅうかい でフィリピン大統領 だいとうりょう ベニグノ・アキノ3世 せい と反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく であるモロ・イスラム解放 かいほう 戦線 せんせん が非公式 ひこうしき の初 はつ 会談 かいだん を行 おこな った[399] [400] 。
ベトナム :1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )、フランス領 りょう インドシナ としてのフランス 統治 とうち に反発 はんぱつ するベトナム民族 みんぞく 運動 うんどう 家 か 達 たち はファン=ボイ=チャウ が提唱 ていしょう した日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 勝利 しょうり 後 ご の日本 にっぽん に留学 りゅうがく する東遊 あずまあそび 運動 うんどう を行 おこな ったが、日本 にっぽん 政府 せいふ は1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )締結 ていけつ の日 にち 仏 ふつ 協約 きょうやく によって運動 うんどう 家 か を追放 ついほう した[401] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ではフランス第 だい 三 さん 共和 きょうわ 政 せい が崩壊 ほうかい した後 のち 、日本 にっぽん は日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )の一環 いっかん として1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )に仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう を北部 ほくぶ に、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )には南部 なんぶ に実施 じっし したが、特 とく に南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう は同年 どうねん 12月 がつ の日米 にちべい 開戦 かいせん を強 つよ く促 うなが した[402] 。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )3月 がつ にベトナム帝国 ていこく を成立 せいりつ させてフランス を排除 はいじょ した日本 にっぽん が同年 どうねん 9月 がつ に降伏 ごうぶく すると、北 きた ベトナムとして成立 せいりつ したベトナム民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく 、現在 げんざい のベトナム社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく は、ベトナム戦争 せんそう において日本 にっぽん と安全 あんぜん 保障 ほしょう 面 めん で協力 きょうりょく 関係 かんけい にあるアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく と交戦 こうせん したベトナム共産党 きょうさんとう による独裁 どくさい 政権 せいけん であるが、同 どう 戦争 せんそう では日本 にっぽん は直接 ちょくせつ 参戦 さんせん を行 おこな わなかった。ベトナム戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 前 まえ 、まだ南 みなみ ベトナム政府 せいふ が残留 ざんりゅう していた1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )には日本 にっぽん との国交 こっこう を樹立 じゅりつ 、1975年 ねん のベトナム統一 とういつ 後 ご に社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政策 せいさく を嫌 きら ってボートピープル となったベトナム難民 なんみん (インドシナ難民 なんみん )の一部 いちぶ を日本 にっぽん は受 う け入 い れた[403] 。
ベトナム政府 せいふ の国策 こくさく による労働 ろうどう 輸出 ゆしゅつ と日本 にっぽん の人手 ひとで 不足 ふそく もあって日本 にっぽん は多 おお くのベトナム人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ を受 う け入 い れている。ベトナム人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ は2022年 ねん 時点 じてん で約 やく 46万 まん 人 にん [404] [405] 、そのうちの20万 まん 人 にん は技能 ぎのう 実習 じっしゅう 生 せい として受 う け入 い れており[404] 、2019年 ねん に新設 しんせつ された在留 ざいりゅう 資格 しかく である特定 とくてい 技能 ぎのう の覚書 おぼえがき を交 か わすなど日本 にっぽん にとってベトナムは最大 さいだい の外国 がいこく 人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ 供給 きょうきゅう 国 こく となっている[406] [407] 。一方 いっぽう で日本 にっぽん はベトナムに多額 たがく の開発 かいはつ 援助 えんじょ を実施 じっし しており、日本 にっぽん のODA によって建設 けんせつ ・整備 せいび されたタンソンニャット国際 こくさい 空港 くうこう やカントー橋 きょう はベトナムの交通 こうつう に欠 か かせないものとなっている[408] [409] 。また、人件 じんけん 費 ひ 高騰 こうとう や生産 せいさん コストの増加 ぞうか に伴 ともな って中国 ちゅうごく から生産 せいさん 拠点 きょてん を移転 いてん させる日系 にっけい 企業 きぎょう が2000年 ねん 以降 いこう 増 ふ えつつあり、その最大 さいだい の移転 いてん 先 さき はベトナムとなっている[410] 。
南 みなみ アジア
南 みなみ アジア各国 かっこく とは友好 ゆうこう 関係 かんけい を維持 いじ している。6世紀 せいき とされる仏教 ぶっきょう 公 おおやけ 伝 でん 以来 いらい 、日本 にっぽん の宗教 しゅうきょう ・文化 ぶんか ・政治 せいじ に深 ふか く根 ね ざした仏教 ぶっきょう (大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう )の発祥 はっしょう 地 ち として古代 こだい インドは「天竺 てんじく 」の名 な で広 ひろ く知 し られ[411] [注釈 ちゅうしゃく 57] 、サンスクリット (梵語 ぼんご )で書 か かれた仏教 ぶっきょう 経典 きょうてん や哲学 てつがく 思想 しそう が広 ひろ く流入 りゅうにゅう した[412] 。また、16世紀 せいき 後半 こうはん からの南蛮 なんばん 貿易 ぼうえき ではポルトガル がインド西海岸 にしかいがん のゴア に築 きず いていたポルトガル領 りょう インド 植民 しょくみん 地 ち が重要 じゅうよう な中継 ちゅうけい 点 てん となっていたが[413] 、南 みなみ アジア諸国 しょこく と日本 にっぽん の正式 せいしき な外交 がいこう 関係 かんけい は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の各国 かっこく 独立 どくりつ と日本 にっぽん の主権 しゅけん 回復 かいふく 後 ご に始 はじ められた。日本 にっぽん は「戦争 せんそう による唯一 ゆいいつ の被爆 ひばく 国 こく 」であるということから(日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか )、核 かく 実験 じっけん を実施 じっし したインド やパキスタン と距離 きょり を置 お いていた時期 じき もあったが[414] 、情勢 じょうせい の変化 へんか に伴 ともな って近年 きんねん 関係 かんけい が重視 じゅうし されるようになり、2006年 ねん (平成 へいせい 18年 ねん )には東南 とうなん アジア も含 ふく めて外務省 がいむしょう アジア大洋 たいよう 州 しゅう 局 きょく に南部 なんぶ アジア部 ぶ を新設 しんせつ した[415] 。宗教 しゅうきょう 的 てき な対立 たいりつ 要因 よういん が存在 そんざい していないため、両国 りょうこく 間 あいだ では特 とく に厳 きび しい対立 たいりつ 関係 かんけい にあるインド ・パキスタン 双方 そうほう を含 ふく め、各 かく 国民 こくみん の対 たい 日 にち 感情 かんじょう は比較的 ひかくてき 良好 りょうこう とされる。
アフガニスタン :外交 がいこう 関係 かんけい の樹立 じゅりつ は1930年 ねん である[416] 。ソ連 それん によるアフガニスタン侵攻 しんこう 以後 いご は一時 いちじ 的 てき に国交 こっこう が途絶 とだ えるものの、アフガニスタン紛争 ふんそう に際 さい しては日本 にっぽん は継続 けいぞく 的 てき な支援 しえん を続 つづ けており、バーミヤン渓谷 けいこく の文化 ぶんか 的 てき 景観 けいかん と古代 こだい 遺跡 いせき 群 ぐん の修復 しゅうふく などに多額 たがく の援助 えんじょ を行 おこな っているほか、文化 ぶんか 遺産 いさん の保全 ほぜん をターリバーン にも求 もと めている[417] 。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が行 おこな った武力 ぶりょく 攻撃 こうげき を支持 しじ したが、部隊 ぶたい の派遣 はけん は、自衛隊 じえいたい インド洋 いんどよう 派遣 はけん に留 と めている[418] 。
日本 にっぽん 政府 せいふ はアフガニスタンを実効 じっこう 支配 しはい するタリバン政府 せいふ を承認 しょうにん しておらず[419] 、外務省 がいむしょう のサイトでもタリバンの主張 しゅちょう するアフガニスタン・イスラム首長 しゅちょう 国 こく ではなくアフガニスタン・イスラム共和 きょうわ 国 こく である[420] 。
インド :19世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう 、日本 にっぽん とイギリス領 りょう インド帝国 ていこく は綿織物 めんおりもの 市場 いちば で激 はげ しい国際 こくさい 競争 きょうそう を続 つづ けたが[421] 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう での日本 にっぽん の勝利 しょうり はインド の民族 みんぞく 運動 うんどう 家 か に「アジアの解放 かいほう 」という希望 きぼう を与 あた え、インド国民 こくみん 会議 かいぎ 結成 けっせい に強 つよ い影響 えいきょう を与 あた えている[422] 。その後 ご の日本 にっぽん が帝国 ていこく 主義 しゅぎ 政策 せいさく を進 すす めると、ジャワハルラール・ネルー はこれを批判 ひはん したが[注釈 ちゅうしゃく 58] 、スバス・チャンドラ・ボース はその後 ご も日本 にっぽん に期待 きたい し、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で日 にち 英 えい が開戦 かいせん すると日本 にっぽん は「大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん 」の一員 いちいん としてボースによる自由 じゆう インド仮 かり 政府 せいふ 設立 せつりつ を支援 しえん し、インパール作戦 さくせん でインド侵攻 しんこう を目指 めざ したが敗退 はいたい した[423] 。しかし、日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 行動 こうどう がイギリス のインド統治 とうち に打撃 だげき を与 あた えた事 こと もあり、ネルー 首相 しゅしょう の下 した で1947年 ねん に独立 どくりつ したインドは「非 ひ 同盟 どうめい 運動 うんどう 」を掲 かか げながらも敗戦 はいせん 国 こく 日本 にっぽん への融和 ゆうわ と支援 しえん を続 つづ けた[424] 。
その後 ご はインド国民 こくみん 会議 かいぎ 派 は 政権 せいけん が非 ひ 同盟 どうめい を掲 かか げながらソ連 それん との軍事 ぐんじ 協力 きょうりょく を重視 じゅうし し[425] 、国内 こくない でも国家 こっか 統制 とうせい や計画 けいかく 経済 けいざい を基本 きほん とした「インド型 がた 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい 」を取 と り[426] 、さらには1974年 ねん に核 かく 実験 じっけん を実施 じっし した影響 えいきょう で日本 にっぽん とインドの関係 かんけい は知名度 ちめいど や距離 きょり の割 わり には強 つよ くなかったが[414] 、1990年代 ねんだい のインド経済 けいざい の市場 いちば 化 か やインド人民 じんみん 党 とう による政権 せいけん 交代 こうたい などで日本 にっぽん の経済 けいざい 進出 しんしゅつ が加速 かそく した[427] 。また、巨大 きょだい 化 か する中国 ちゅうごく を東西 とうざい から挟 はさ む地政学 ちせいがく 的 てき な理由 りゆう もあり、今後 こんご 関係 かんけい が特 とく に親密 しんみつ になると期待 きたい されている国 くに のひとつで、近年 きんねん の著 いちじる しい経済 けいざい 発展 はってん や情報 じょうほう 技術 ぎじゅつ での実績 じっせき が注目 ちゅうもく されている[428] 。日本 にっぽん とインドはG4 として共 とも に行動 こうどう する立場 たちば であり、2008年 ねん 10月 がつ には両国 りょうこく 首脳 しゅのう が日 にち 印 いん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 協力 きょうりょく 共同 きょうどう 宣言 せんげん (日本 にっぽん 国 こく とインドとの間 あいだ の安全 あんぜん 保障 ほしょう 協力 きょうりょく に関 かん する共同 きょうどう 宣言 せんげん )に署名 しょめい し、日本 にっぽん にとって、アメリカ 、オーストラリア に次 つ いで安全 あんぜん 保障 ほしょう 分野 ぶんや で正式 せいしき な協力 きょうりょく 関係 かんけい を結 むす んだ3番目 ばんめ の国 くに となった[429] 。さらに2011年 ねん 、日本 にっぽん とインドは関税 かんぜい を段階 だんかい 的 てき に撤廃 てっぱい するFTA(自由 じゆう 貿易 ぼうえき 協定 きょうてい )を柱 はしら としたEPA「日本 にっぽん ・インド経済 けいざい 連携 れんけい 協定 きょうてい 」が発効 はっこう [430] 。日本 にっぽん からインドへの輸出 ゆしゅつ の約 やく 90%、インドから日本 にっぽん への輸出 ゆしゅつ では約 やく 97%に相当 そうとう する物品 ぶっぴん で関税 かんぜい がゼロになる[431] 。さらにはアメリカ 、オーストラリア とともに勢力 せいりょく を拡大 かくだい させる中国 ちゅうごく をにらんで日 にち 米 べい 豪 ごう 印 しるし 戦略 せんりゃく 対話 たいわ (クアッド)を結成 けっせい 、緩 ゆる やかな同盟 どうめい 状態 じょうたい となっている[432] 。
パキスタン :日本 にっぽん は主要 しゅよう な援助 えんじょ 国 こく でありコハットトンネル などが円 えん 借款 しゃっかん で建設 けんせつ されたが[433] 、1998年 ねん の地下 ちか 核 かく 実験 じっけん を機 き に2005年 ねん 4月 がつ まで援助 えんじょ を停止 ていし していた[414] 。しかし、自衛隊 じえいたい イラク派遣 はけん などで安全 あんぜん 保障 ほしょう の観点 かんてん から中東 ちゅうとう への影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ いパキスタンの協力 きょうりょく が必要 ひつよう と感 かん じた日本 にっぽん 政府 せいふ は、当時 とうじ の小泉 こいずみ 純一郎 じゅんいちろう 首相 しゅしょう が訪問 ほうもん したのを機 き に有償 ゆうしょう 資金 しきん 援助 えんじょ を再開 さいかい した[434] 。人口 じんこう 2億 おく 人 にん という魅力 みりょく から、今後 こんご は日系 にっけい 企業 きぎょう に有望 ゆうぼう な巨 きょ 大 だい 市場 いちば となると見 み られている[435] 。歴史 れきし 的 てき にはインダス文明 ぶんめい や仏教 ぶっきょう 文化 ぶんか が隆盛 りゅうせい したことから文化 ぶんか 遺産 いさん が豊富 ほうふ であり、現在 げんざい では日本 にっぽん はユネスコ を通 つう じてモヘンジョダロ やタキシラ (ガンダーラ 遺跡 いせき )保全 ほぜん への支援 しえん を実施 じっし している[436] 。
バングラデシュ :1973年 ねん の独立 どくりつ 以来 いらい 世界 せかい 最貧 さいひん 国 こく の一 ひと つとも言 い われ、日本 にっぽん は経済 けいざい 、保健 ほけん 、自然 しぜん 災害 さいがい 対策 たいさく など多 おお くの面 めん で援助 えんじょ を行 おこな っている[437] 。また、日本 にっぽん と比 くら べると非常 ひじょう に安 やす い製造 せいぞう 費 ひ での出荷 しゅっか が可能 かのう という点 てん が着目 ちゃくもく され、アパレル 産業 さんぎょう を中心 ちゅうしん とした日系 にっけい 企業 きぎょう の進出 しんしゅつ が続 つづ いている[438] 。近年 きんねん はバングラデシュの高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう が続 つづ いているが[439] 、その労働 ろうどう 条件 じょうけん の劣悪 れつあく さが非難 ひなん される事 こと もありバングラデシュに製造 せいぞう 拠点 きょてん を置 お くユニクロ などの日系 にっけい 企業 きぎょう は労働 ろうどう 環境 かんきょう の改善 かいぜん に乗 の り出 だ している[440] 。初代 しょだい バングラデシュ大統領 だいとうりょう ムジブル・ラフマン の娘 むすめ のシェイク・ハシナ 首相 しゅしょう によると、バングラデシュの国旗 こっき を制定 せいてい するときに「父 ちち は日本 にっぽん の日 ひ の丸 まる を参考 さんこう にした」と述 の べており[441] 、従来 じゅうらい から親日 しんにち 国 こく として知 し られる。
西 にし アジア
間 あいだ に巨大 きょだい な中国 ちゅうごく 文化 ぶんか 圏 けん やインド文化 ぶんか 圏 けん が存在 そんざい し、7世紀 せいき 以降 いこう に西 にし アジア で広 ひろ く信仰 しんこう されたイスラム教 いすらむきょう の日本 にっぽん 伝播 でんぱ が20世紀 せいき まで非常 ひじょう に稀 まれ で、政治 せいじ ・経済 けいざい 面 めん でも戦前 せんぜん の日本 にっぽん が英 えい 仏 ふつ 統治 とうち 下 か の西 にし アジアに入 はい る余地 よち はなかったため、日本 にっぽん と西 にし アジア地域 ちいき はトルコやペルシア(1935年 ねん からイラン)との小規模 しょうきぼ ながら友好 ゆうこう 的 てき な外交 がいこう 関係 かんけい を除 のぞ くと希薄 きはく なままだった。しかし、1950年代 ねんだい に日本 にっぽん がペルシア湾 わん 周辺 しゅうへん の油田 ゆでん についてイラン ・サウジアラビア ・クウェート などの湾岸 わんがん 諸国 しょこく と相次 あいつ いで協定 きょうてい を結 むす び[442] 、1960年代 ねんだい 以降 いこう は原油 げんゆ 輸入 ゆにゅう 元 もと の大半 たいはん を中東 ちゅうとう 諸国 しょこく が占 し めるに至 いた って[443] [注釈 ちゅうしゃく 59] 、日本 にっぽん 経済 けいざい の根幹 こんかん に関 かか わる「エネルギー外交 がいこう 」で中東 ちゅうとう 諸国 しょこく との関係 かんけい が死活 しかつ 的 てき に重要 じゅうよう となった。近年 きんねん では日本 にっぽん の自衛隊 じえいたい が中東 ちゅうとう 地域 ちいき での活動 かつどう を行 おこな い、一方 いっぽう では日本人 にっぽんじん が犠牲 ぎせい になった殺害 さつがい 事件 じけん も起 お こるなど、西 にし アジア諸国 しょこく との関係 かんけい は新 あら たな段階 だんかい に入 はい っている[444] 。
イスラエル :1948年 ねん にイスラエルの建国 けんこく 宣言 せんげん 、1952年 ねん に日本 にっぽん が主権 しゅけん を回復 かいふく 、その直後 ちょくご に日本 にっぽん はイスラエルを国家 こっか 承認 しょうにん して外交 がいこう 関係 かんけい が成立 せいりつ した[445] 。なお、在 ざい イスラエル日本 にっぽん 大使館 たいしかん はイスラエルが首都 しゅと と主張 しゅちょう するエルサレム ではなく、テルアビブ に置 お かれた。日本 にっぽん は、中東 ちゅうとう 和平 わへい やパレスチナ問題 もんだい に関 かん して中立 ちゅうりつ の立場 たちば であり、対立 たいりつ する中東 ちゅうとう 諸国 しょこく やパレスチナ 、イラン とも友好 ゆうこう 的 てき な関係 かんけい を保 たも っている。政府 せいふ 高官 こうかん が訪問 ほうもん する際 さい には、イスラエル・パレスチナ自治 じち 政府 せいふ の双方 そうほう と会談 かいだん が設定 せってい されるなどバランスが図 はか られていて[446] 、パレスチナを国連 こくれん の「オブザーバー組織 そしき 」から「オブザーバー国家 こっか 」に格上 かくあ げする際 さい にはイスラエルが反発 はんぱつ するなか賛成 さんせい 票 ひょう を投 とう じた[447] 。このように政治 せいじ や外交 がいこう では一定 いってい の距離 きょり が保 たも たれているものの、2017年 ねん には日 ひ ・イスラエル投資 とうし 協定 きょうてい が締結 ていけつ されるなど[448] 、経済 けいざい や科学 かがく 技術 ぎじゅつ における交流 こうりゅう は深 ふか い。特 とく に先進 せんしん 科学 かがく 技術 ぎじゅつ と宇宙 うちゅう 関連 かんれん 機関 きかん の連携 れんけい は重要 じゅうよう である[449] 。また、ユダヤ人 じん を救 すく った杉原 すぎはら 千畝 ちうね はイスラエルでも高 たか く評価 ひょうか されており[450] 、日本 にっぽん 文化 ぶんか の愛好 あいこう 家 か も多 おお い[451] 。
イラク :1932年 ねん にイギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう メソポタミア がイラク王国 おうこく として独立 どくりつ 、1939年 ねん には日本 にっぽん と国交 こっこう を結 むす んだ[452] 。しかし当時 とうじ は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の真 ま っただ中 なか であり、1943年 ねん には対 たい 日 にち 宣戦 せんせん をして国交 こっこう が断絶 だんぜつ している[453] 。その後 ご 、イラクでは7月 がつ 14日 にち 革命 かくめい によって王政 おうせい が崩 くず れる、東側 ひがしがわ 諸国 しょこく の一員 いちいん となる、バアス党 とう が一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい を築 きず くなどの政変 せいへん があったものの、日本 にっぽん は関係 かんけい を維持 いじ し、関係 かんけい が悪化 あっか したのはクウェート侵攻 しんこう の時 とき であった[454] 。イラク戦争 せんそう の後 のち 、自衛隊 じえいたい イラク派遣 はけん を行 おこな った[455] 。
イラン :日本 にっぽん と共 とも に古代 こだい から続 つづ く領域 りょういき 国家 こっか で、8世紀 せいき に収 おさ められた奈良 なら の「正 せい 倉 くら 院 いん 」の宝物 ほうもつ 庫 こ にはシルクロード を通 つう じてサーサーン朝 あさ ペルシアの影響 えいきょう を受 う けた文物 ぶんぶつ も収 おさ められているほか[456] 、765年 ねん の木簡 もっかん からペルシャ人 じん と考 かんが えられる破 やぶ 斯清道 どう という大 だい 学寮 がくりょう の官吏 かんり が平城京 へいじょうきょう にいた事 こと が判明 はんめい している[457] 。正式 せいしき な国交 こっこう 樹立 じゅりつ はパフラヴィー朝 あさ 成立 せいりつ 後 ご の1926年 ねん まで遅 おく れ、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末期 まっき の1945年 ねん 2月 がつ には英 えい ソ両国 りょうこく に占領 せんりょう されたイランが対 たい 日 にち 宣戦 せんせん を布告 ふこく したが[458] 、1953年 ねん の国交 こっこう 回復 かいふく 後 ご は石油 せきゆ 輸入 ゆにゅう 元 もと の確保 かくほ を求 もと める日本 にっぽん 側 がわ とイギリスからの石油 せきゆ 利権 りけん 奪回 だっかい を狙 ねら うイラン側 がわ の利益 りえき が一致 いっち し、油田 ゆでん 開発 かいはつ や反共 はんきょう 主義 しゅぎ 外交 がいこう で両国 りょうこく 間 あいだ の関係 かんけい は緊密 きんみつ になった[459] 。1979年 ねん にイラン革命 かくめい が成功 せいこう してイスラム教 いすらむきょう による国家 こっか 統治 とうち と強烈 きょうれつ な反米 はんべい 主義 しゅぎ を掲 かか げるイラン・イスラム共和 きょうわ 国 こく が発足 ほっそく した後 のち も両国 りょうこく は友好 ゆうこう 関係 かんけい の維持 いじ を求 もと めたが、続 つづ くイラン・イラク戦争 せんそう やアメリカによる対 たい イラン経済 けいざい 制裁 せいさい の影響 えいきょう を受 う けてイラン・ジャパン石油 せきゆ 化学 かがく (IJPC)プロジェクトが中止 ちゅうし され[注釈 ちゅうしゃく 60] 、その後 ご もイランの核 かく 開発 かいはつ 問題 もんだい [注釈 ちゅうしゃく 61] などが災 わざわ いして、両国 りょうこく 間 あいだ の経済 けいざい 関係 かんけい は資源 しげん 貿易 ぼうえき を除 のぞ き現在 げんざい でも双方 そうほう の期待 きたい ほどには進展 しんてん していない。
カタール :1972年 ねん に初 はじ めて国交 こっこう が樹立 じゅりつ された[460] 。両国 りょうこく の経済 けいざい 規模 きぼ は大 おお きく離 はな れているが意外 いがい にも経済 けいざい や政治 せいじ で結 むす び付 つ きは強 つよ く、カタールにとって日本 にっぽん は第 だい 六 ろく 位 い の貿易 ぼうえき 相手 あいて 国 こく であり、日本 にっぽん にとってカタールは重要 じゅうよう な資源 しげん 供給 きょうきゅう 国 こく である[461] 。政治 せいじ 面 めん では、2014年 ねん にシリア において日本人 にっぽんじん 二 に 人 にん が拘束 こうそく された「ISILによる日本人 にっぽんじん 拘束 こうそく 事件 じけん 」の際 さい 、カタールは解放 かいほう 交渉 こうしょう に尽力 じんりょく した[462] 。逆 ぎゃく に、2017年 ねん カタール外交 がいこう 危機 きき でカタールが周辺 しゅうへん 国 こく から断交 だんこう される事態 じたい に陥 おちい ると、日本 にっぽん 政府 せいふ はその仲裁 ちゅうさい を申 もう し出 で ている[463] 。
サウジアラビア :1909年 ねん 、山岡 やまおか 光太郎 こうたろう が日本人 にっぽんじん として初 はじ めてメッカ 巡礼 じゅんれい を行 おこな った事 こと を皮切 かわき りに、20世紀 せいき 初頭 しょとう からわずかながら交流 こうりゅう を持 も ち始 はじ めた[464] 。正式 せいしき に接触 せっしょく があったのは1938年 ねん であり、その後 ご サウジアラビアの石油 せきゆ 獲得 かくとく を巡 めぐ って幾 いく 度 ど か接触 せっしょく しているものの国交 こっこう 樹立 じゅりつ の交渉 こうしょう は不調 ふちょう で終 お わっている[465] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1955年 ねん には初 はじ めて国交 こっこう が樹立 じゅりつ 、日本 にっぽん が石油 せきゆ 利権 りけん を獲得 かくとく する足掛 あしが かりとなり、また皇室 こうしつ とサウジアラビア王家 おうけ であるサウード家 か との交流 こうりゅう が進展 しんてん した[466] 。現在 げんざい では、文化 ぶんか 面 めん よりも経済 けいざい 面 めん での結 むす びつきが強 つよ く、日本 にっぽん はサウジアラビアにとってアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に次 つ ぐ第 だい 二 に 位 い の貿易 ぼうえき 相手 あいて 国 こく であり、一方 いっぽう でサウジアラビアは日本 にっぽん にとって最大 さいだい の原油 げんゆ 供給 きょうきゅう 国 こく である。日本 にっぽん が調達 ちょうたつ する原油 げんゆ の、30%がサウジアラビアからの輸入 ゆにゅう である[467] 。政治 せいじ や外交 がいこう 面 めん では、ともにG20 の一員 いちいん として国際 こくさい 社会 しゃかい で連携 れんけい する機会 きかい もあり、特 とく にISIL などをイスラム過激 かげき 派 は 組織 そしき に対 たい してはともにテロ組織 そしき に認定 にんてい するなど立場 たちば を共通 きょうつう にしている[468] [469] 。
トルコ :岩倉 いわくら 使節 しせつ 団 だん の福地 ふくち 源一郎 げんいちろう と島地 しまじ 黙雷 もくらい が1873年 ねん にオスマン帝国 ていこく を訪問 ほうもん したことにより、トルコと日本 にっぽん は初 はじ めて接触 せっしょく した[470] 。その後 ご 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう が始 はじ まると、以前 いぜん にオスマン帝国 ていこく はロシア帝国 ていこく の南下 なんか 政策 せいさく によるクリミア戦争 せんそう や露 ろ 土 ど 戦争 せんそう を経験 けいけん していた事 こと からそれに注目 ちゅうもく し、日本 にっぽん の勝利 しょうり は歓喜 かんき を巻 ま き起 お こした[471] 。しかし第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では交戦 こうせん 国 こく となり、敗戦 はいせん 後 ご オスマン帝国 ていこく は解体 かいたい されトルコ共和 きょうわ 国 こく となると1924年 ねん に国交 こっこう が樹立 じゅりつ し[472] 、ムスタファ・ケマル・アタテュルク が推 お し進 すす めた近代 きんだい 化 か 政策 せいさく は日本 にっぽん の明治維新 めいじいしん を参考 さんこう にしたものであった[473] 。その後 ご 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では国交 こっこう が一時 いちじ 断絶 だんぜつ するも、戦後 せんご すぐ復活 ふっかつ 。良好 りょうこう な関係 かんけい が続 つづ いており、日本 にっぽん からは多額 たがく の開発 かいはつ 援助 えんじょ が行 おこな われているほか、日本 にっぽん とイタリア の建設 けんせつ 会社 かいしゃ によってボスポラス海峡 かいきょう にファーティフ・スルタン・メフメト橋 きょう を建設 けんせつ した[474] 。一方 いっぽう 、イラン・イラク戦争 せんそう の際 さい にはトルコ航空機 こうくうき が在 ざい イラン日本人 にっぽんじん を救出 きゅうしゅつ するなど、経済 けいざい や政治 せいじ 面 めん で協力 きょうりょく 経験 けいけん が多 おお い。外交 がいこう においても両国 りょうこく ともにG20 の一員 いちいん で、歩調 ほちょう を合 あ わせる場面 ばめん がある。なお、親日 しんにち 国 こく の代表 だいひょう として紹介 しょうかい される国 くに である。オスマン帝国 ていこく 末期 まっき の1890年 ねん のエルトゥールル号 ごう 遭難 そうなん 事件 じけん が友好 ゆうこう 関係 かんけい の起源 きげん としてしばしば取 と り上 あ げられる[475] 。
ヨルダン :1954年 ねん に国交 こっこう が樹立 じゅりつ され[476] 、国交 こっこう がないパレスチナ への窓口 まどぐち となっているほか、2010年 ねん 以降 いこう は反 はん ISIL で共同 きょうどう 歩調 ほちょう を取 と っている[477] 。経済 けいざい や政治 せいじ 、文化 ぶんか よりは皇室 こうしつ とヨルダン王室 おうしつ との交流 こうりゅう が強 つよ い[478] 。
オセアニア
オセアニア の中 なか でも南洋 なんよう 諸島 しょとう の各国 かっこく は、かつて日本 にっぽん が委任 いにん 統治 とうち 領 りょう ないし占領 せんりょう 地 ち として統治 とうち 下 か に置 お いていたこともあり、関係 かんけい が比較的 ひかくてき 深 ふか い。ミクロネシア連邦 れんぽう では、日系 にっけい 人 じん のトシオ・ナカヤマ やマニー・モリ が大統領 だいとうりょう に選 えら ばれている。パラオ は、かつて日系 にっけい のクニオ・ナカムラ が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん し、一部 いちぶ の自治体 じちたい で日本語 にほんご が国 くに の公用 こうよう 語 ご として採用 さいよう されている(実際 じっさい に日本語 にほんご を日常 にちじょう 的 てき に使用 しよう しているわけでなく、象徴 しょうちょう 的 てき な意味合 いみあ いが強 つよ い)などの経緯 けいい もあり、官民 かんみん とも非常 ひじょう に親日 しんにち 的 てき である。