木村きむら拓也たくや

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木村きむら 拓也たくや
広島ひろしま時代じだい
(2004ねん2がつ19にち日南にちなん天福てんぷく球場きゅうじょうにて)
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 宮崎みやざきけん宮崎みやざきぐん田野たのまちげん宮崎みやざき
生年月日せいねんがっぴ (1972-04-15) 1972ねん4がつ15にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2010-04-07) 2010ねん4がつ7にち(37さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
173 cm
75 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎなげりょう
ポジション 内野ないやしゅ外野がいやしゅ捕手ほしゅ
プロ 1990ねん ドラフトがい
はつ出場しゅつじょう 1992ねん9がつ29にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 2009ねん10がつ12にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき
  • 読売よみうりジャイアンツ (2010)
国際こくさい大会たいかい
代表だいひょうチーム 日本の旗 日本にっぽん
五輪ごりん 2004ねん
オリンピック
男子だんし 野球やきゅう
どう 2004 野球やきゅう

木村きむら 拓也たくや(きむら たくや、1972ねん4がつ15にち - 2010ねん4がつ7にち)は、宮崎みやざきけん宮崎みやざきぐん田野たのまちげん宮崎みやざき出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅ内野ないやしゅ外野がいやしゅ捕手ほしゅみぎなげりょう)、コーチ愛称あいしょうは「キムタク」。

アテネオリンピック野球やきゅうどうメダリスト。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

高校こうこう時代じだい捕手ほしゅつとめ、宮崎みやざき県立けんりつ宮崎みやざきみなみ高等こうとう学校がっこうでは1ねんなつ甲子園こうしえん(70かい大会たいかいで1しょう、3ねんはるには5打席だせき連続れんぞく三塁打さんるいだ高校こうこう通算つうさん35本塁打ほんるいだ記録きろくつ。とおなげ120メートルの強肩きょうけん捕手ほしゅとしてらしていた。

父親ちちおやきゅう田野たのまち町議会ちょうぎかい議員ぎいんながつとめた地元じもと名士めいしである[1]

日本にほんハム時代じだい[編集へんしゅう]

1990ねんオフ、捕手ほしゅとしてドラフトがい日本にっぽんハムファイターズ入団にゅうだん。しかし、開幕かいまく支配しはい登録とうろく当時とうじの60にんわくかられ、いち任意にんい引退いんたい選手せんしゅあつかいとなったことがあった。

本職ほんしょく捕手ほしゅとしての出場しゅつじょう機会きかいめぐまれなかったことから、のポジションをさがし、1992ねん俊足しゅんそく強肩きょうけんわれて外野がいやしゅ転向てんこう[2]

広島ひろしま時代じだい[編集へんしゅう]

1994ねんオフに長冨ながとみ浩志ひろし投手とうしゅとの交換こうかんトレードで広島東洋ひろしまとうようカープ移籍いせき正田しょうだ耕三こうぞう後釜あとがま候補こうほとして二塁手にるいしゅき、以後いご内野ないや守備しゅびねるようになる。 1996ねんオフにスイッチヒッター転向てんこうみ、1997ねんよりスイッチヒッターデビューした[3]同年どうねん秋季しゅうきキャンプから故障こしょうがちな野村のむら謙二郎けんじろうひかえとして遊撃手ゆうげきしゅ挑戦ちょうせん。これがおおきな転機てんきとなる。

1998ねん公式こうしきせん遊撃手ゆうげきしゅとしてまもったほかに代打だいだふだとして活躍かつやく盗塁とうるいも14記録きろくしてスーパーサブとしての役割やくわりたした。

1999ねんには一時いちじ捕手ほしゅへのさい転向てんこうあん浮上ふじょうし、公式こうしきせんでも4試合しあい捕手ほしゅまもった。このころよりユーティリティープレイヤーとなり、このとしだけで投手とうしゅ一塁いちるいしゅ以外いがいぜんポジションをまもっている。同年どうねん広島ひろしま市民しみん球場きゅうじょうのバックスクリーンにプロはつ本塁打ほんるいだはなつなどバッティングも向上こうじょうし、2000ねんには一番いちばん打者だしゃとしてはつ規定きてい打席だせき到達とうたつしただけでなく、打率だりつ2わり8ふん8りん、10本塁打ほんるいだ、30打点だてん、165安打あんだ好成績こうせいせきのこすなど10ねんにしてブレイクした。以降いこうは3ねん連続れんぞくして130試合しあい出場しゅつじょうするなど、チームにとってかせない存在そんざいとなる。

2001ねんは2ばん東出ひがしであきらひろしとのコンビでシーズンつうじて1ばん打者だしゃ活躍かつやくし、自己じこ最高さいこうの45打点だてんをマークするも、中心ちゅうしんのスイングが目立めだつようになり、くわえてリードオフマンとしては三振さんしんおおてん課題かだいで、もっと打席だせきすうおおい1ばんという条件じょうけん考慮こうりょしても、129もの三振さんしんきっしている。

2002ねん東出ひがしで故障こしょうにより、それまで二塁にるい中堅ちゅうけんでの起用きようおもであったが、ゆうげきでの起用きようえた。打撃だげきめんでの成績せいせき前年ぜんねん下回したまわった。2003ねんには東出ひがしで二塁にるいへコンバートされることになったため、木村きむらゆうげきまわあんたが、アンディ・シーツ獲得かくとくにより実行じっこうはされなかった。しかし、東出ひがしでから二塁にるいのポジションを奪還だっかんし、自己じこ最高さいこうの13本塁打ほんるいだはなっただけでなく、センターまえしぶかえすシュアな打撃だげきにもみがきがかかり、打率だりつも2わり8ふんえた。シーズンとおして二塁にるいおもまもっていたが、三塁さんるい外野がいや、シーツが退しりぞいた場合ばあいゆうげき守備しゅびにもついた。

2004ねんにはアテネオリンピック野球やきゅう日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつ詳細しょうさい後述こうじゅつ)。10月9にちたい横浜よこはま28回戦かいせんでは三浦みうら大輔だいすけまえさんじゅうころせ記録きろくはセンターフライ)をきっしている。このシーズン以降いこう若手わかて選手せんしゅきゅう成長せいちょうくわえ、あしこし故障こしょうするなどして、打撃だげき走塁そうるい満足まんぞくなプレーをのこせず、スタメン出場しゅつじょう機会きかいいちじるしく減少げんしょう。シーズン終盤しゅうばん椎間板ついかんばんヘルニア発症はっしょうし、手術しゅじゅつけた。

2005ねん打順だじゅん一定いっていしないもののほぼ二塁にるいゆうげきまもる。レギュラーに定着ていちゃくしかけていたが腰痛ようつう発症はっしょうし、8がつ上旬じょうじゅん離脱りだつした。1ヶ月かげつ復帰ふっきしたが、以後いごはスタメン起用きよう大幅おおはばった。2006ねんシーズン、新任しんにんマーティ・ブラウン監督かんとく若手わかて起用きよう方針ほうしんにより開幕かいまくぐんスタートとなり、まった一軍いちぐんでの起用きようがなく、シーズン途中とちゅうではあったが本人ほんにん希望きぼうもあって6がつ5にち山田やまだしんかい外野がいやしゅとの交換こうかんトレードできょじん移籍いせき広島ひろしまOBの江夏えなつゆたかは「広島ひろしまおおきな損失そんしつをした」と木村きむら移籍いせきしんだ。なお、広島ひろしま時代じだい応援おうえんあしはやさは だれにもけない かぜはし木村きむら拓也たくや」のフレーズは、2007ねんシーズン広島ひろしま移籍いせきしてきた同姓どうせい木村きむらのぼるわれ(2015ねん退団たいだん)にがれた。

巨人きょじん時代じだい[編集へんしゅう]

出番でばんもとめてトレードを志願しがんしたのに、トレードさき戦力せんりょく充実じゅうじつしている巨人きょじんだった」と、トレードに懐疑かいぎてきかんがえをいていたが、移籍いせきあいだもない同年どうねん6がつ7にちたい福岡ふくおかソフトバンクホークスたたかえ福岡ふくおかYahoo!JAPANドーム)ではやくも一軍いちぐん登録とうろくされ、4かいひょう指名しめい打者だしゃでスタメンだったはら俊介しゅんすけ代打だいだはつ出場しゅつじょう試合しあい途中とちゅううけたまわ負傷ふしょう退場たいじょうもあり、三塁手さんるいしゅ中堅ちゅうけんしゅとしても出場しゅつじょうし、いきなりの活躍かつやくせる。シーズン終了しゅうりょう契約けいやく更改こうかいでは、代打だいだ出場しゅつじょうでの打率だりつたか代打だいだふだとして起用きようされ、おおくの選手せんしゅ年俸ねんぽうげられるなか年俸ねんぽう5000まんえん推定すいてい以下いかどう)から、200まんえんアップの5200まんえんとなった。

2007ねんシーズンは、二塁手にるいしゅとして加入かにゅうしたしん外国がいこくじんルイス・ゴンザレス開幕かいまく早々そうそう離脱りだつしたこともあり、たいみぎ先発せんぱつスタメン二塁手にるいしゅとして活躍かつやくれた二塁にるいでの起用きようだったこともあり、このとしの100試合しあい以上いじょう出場しゅつじょうした二塁手にるいしゅなかでは関本せきもと健太郎けんたろう守備しゅびりつ.994に守備しゅびりつ.993を記録きろくし、守備しゅび能力のうりょく健在けんざいぶりをアピールした。

2007ねんにはたま捕手ほしゅ練習れんしゅうをしていたこともあり、捕手ほしゅ2にんせいいていたきょじんでは、せい捕手ほしゅ阿部あべまことこれすけ欠場けつじょう途中とちゅう交代こうたいしたさいはブルペンにはいって、捕手ほしゅとしての出場しゅつじょうそなえたことがすう試合しあいあった。

上記じょうきのようにチームのあなめる活躍かつやくせたことで、2007ねんシーズン終了しゅうりょうには、自身じしんプロ最高さいこう年俸ねんぽうとなる6500まんえん更改こうかいし、会見かいけんでは笑顔えがおせた。また、はらたつとくべつせきで「今年ことし、タク(木村きむら愛称あいしょう)がいなかったらとおもうとゾッとしますね」とコメントしている。

2008ねん開幕かいまくから2ばん二塁にるい定着ていちゃく打撃だげき好調こうちょう打率だりつ3わりをキープしつづけ、中軸ちゅうじくへのつなぎやくとして重要じゅうよう役割やくわりたした。5月26にちたい日本にほんハムせんでは故障こしょう欠場けつじょうした小笠原おがさわらみちだいわり3ばんでスタメン出場しゅつじょうし、先制せんせいてんとなる本塁打ほんるいだはな勝利しょうり貢献こうけんした。試合しあいのヒーローインタビューでは「ジャイアンツは主力しゅりょくがいなければよわいのかとおもわれたくない。だから絶対ぜったいちたかった」とコメントした。6月21にちたいソフトバンクせんでは延長えんちょう12かい自身じしん5ねんぶり、巨人きょじん移籍いせきはつとなる逆転ぎゃくてんサヨナラはなった。そのは、9かい二死にし大道おおみちのりよしみ完投かんとう目前もくぜん杉内すぎうち俊哉としやから同点どうてん本塁打ほんるいだっていたのち逆転ぎゃくてんげきであった。9月24にちには広島ひろしま市民しみん球場きゅうじょうでプロ野球やきゅう251にんとなる通算つうさん1000安打あんだ達成たっせいするなど、シーズンをつうじてせい二塁手にるいしゅとして定着ていちゃくつづけた。規定きてい打席だせきこそわずかにおよばなかったものの、自己じこ最高さいこう打率だりつ.293をのこし、さらには広島ひろしま時代じだい2003ねん以来いらいとなるシーズン100安打あんだ、チームトップの26犠打ぎだをマークするなど巨人きょじん移籍いせき最高さいこうのシーズンとなった。

2009ねん若手わかて選手せんしゅとの競争きょうそうくわえて、せい二塁手にるいしゅ候補こうほとしてあらたにエドガルド・アルフォンゾ入団にゅうだん。しかし、アルフォンゾや脇谷わきたに亮太りょうた不振ふしんで、前年ぜんねん同様どうよう2ばんセカンドで木村きむら固定こていされた。一時いちじはリーグ打率だりつ4をマークする好調こうちょうぶりだったが、4がつ16にちから29にちにかけて20打席だせきちか安打あんだきっするなど不振ふしんおちいり、4わりちか打率だりつ一気いっきに2わりだい前半ぜんはんへと下降かこうした。不振ふしん脇谷わきたに徐々じょじょ調子ちょうしげたこともあり、スタメンから木村きむらはずれることもおおくなった。交流こうりゅうせんはいると、5月19にち北海道ほっかいどう日本にっぽんハムファイターズせんでシーズンだい1ごうふくむ3安打あんだ、6月16にち埼玉さいたま西武せいぶライオンズせんでは 石井いしい一久かずひさから逆転ぎゃくてん3ラン本塁打ほんるいだはなつなど、復調ふくちょうきざしをせたものの、7がつ3にち一軍いちぐん選手せんしゅ登録とうろく抹消まっしょうされた。ファームで結果けっかのこし、7がつ14にちにはさい登録とうろくされた。

9月4にちたいヤクルトせん東京とうきょうドーム)では、捕手ほしゅ登録とうろく選手せんしゅすべ交代こうたいしていたため、10ねんぶりに捕手ほしゅとして出場しゅつじょうした(詳細しょうさい後述こうじゅつ)。

10がつ10日とおか広島ひろしま時代じだい同僚どうりょう緒方おがたたかし引退いんたい試合しあい(マツダスタジアム)では、8かいからセンターの守備しゅびいていた緒方おがたけてねらったかのようにフライをはなち、アウトになったにもかかわらず笑顔えがおをみせた。シーズン最終さいしゅう打席だせき巨人きょじん最終さいしゅうせんの10がつ12にちたいヤクルトせんにおいて7かい代打だいだ登場とうじょう結果けっか三塁さんるいゴロだった。この結果けっか木村きむら生涯しょうがい打数だすうは4000となり、生涯しょうがい打率だりつ公式こうしき記録きろくとしてみとめられる範囲はんいはいった。日本にっぽんシリーズではだい1せんだい2せんだい4せん先発せんぱつ出場しゅつじょうするなど、最後さいごまで試合しあいだい一線いっせん活躍かつやくつづけた。だい4せんの5かい八木やぎさとしから安打あんだはなっている。8かいはやしあきらはん三振さんしんうばわれ、これが現役げんえき生活せいかつ最後さいご打席だせきとなっている。チームは4しょう2はいで7ねんぶりの日本一にっぽんいち奪回だっかい木村きむらにとってははつ日本一にっぽんいちであった。

11月7にち日本にっぽんシリーズだい6せん終了しゅうりょう球団きゅうだんからこんシーズンかぎりで現役げんえき引退いんたいすることが発表はっぴょうされ記者きしゃ会見かいけんおこなった[4]引退いんたい理由りゆうについては詳細しょうさいかたられなかったが、若手わかて出番でばんあたえるために木村きむら出場しゅつじょう機会きかいることを考慮こうりょしたはらが、コーチ就任しゅうにん要請ようせいし、木村きむらがこれを受諾じゅだくしたうえでのことであることがのちかたられている。ファン感謝かんしゃデーでは会田あいだ有志ゆうじとともに引退いんたいセレモニーをおこない、息子むすこのインフルエンザで会場かいじょうられなかった家族かぞくに「パパは、がんばったよ」と挨拶あいさつをした。なお、木村きむら愛用あいようしていたミット・グラブの手入てい道具どうぐ一式いっしき寺内てらうちたかしこうゆずけた。

2010ねん巨人きょじん一軍いちぐん内野ないや守備しゅび走塁そうるいコーチに就任しゅうにんした。公式こうしきせん開幕かいまくまえの3がつ4にち開催かいさいされた2010年度ねんど入団にゅうだん新人しんじん研修けんしゅう講師こうしとして招聘しょうへいされ、新人しんじん選手せんしゅ相手あいてに、みずからがドラフトがい入団にゅうだんしてから引退いんたいするまでの19年間ねんかん選手せんしゅ生活せいかつについて、「プロとしてやれた秘訣ひけつ」として「ハワイでのウインターリーグでイチロー同室どうしつになり、イチローの野球やきゅうたいする姿勢しせい自分じぶんあまさにづいた」ことをかたり、「この世界せかいっていくためには、自分じぶん自身じしんって可能かのうせいさぐることも大事だいじだ」とべて新人しんじん選手せんしゅ鼓舞こぶした[5]

突然とつぜん[編集へんしゅう]

2010ねん4がつ2にち1740ふんごろMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島ひろしまでのたい広島東洋ひろしまとうようカープ1回戦かいせん試合しあいまえ本塁ほんるい付近ふきんでシートノックちゅう突如とつじょとして意識いしき喪失そうしつしそのままたおんだ。ただちにその関係かんけいしゃりょうチームの選手せんしゅ救急きゅうきゅうたいによってAED蘇生そせい処置しょちけたのち広島大学ひろしまだいがく病院びょういん緊急きんきゅう搬送はんそうされた。医師いしによる検査けんさなどの結果けっかクモまく出血しゅっけつ診断しんだんされ[6]、そのまま緊急きんきゅう入院にゅういんして治療ちりょうけていたが、意識いしき不明ふめい重体じゅうたいから容態ようだい回復かいふくすることなく、その5にち4がつ7にち322ふん入院にゅういんさき病院びょういんいきった。37さいぼつ[7]。38さい誕生たんじょうのわずか8にちまえだった。なお、きよしたけ英利ひでとし球団きゅうだん代表だいひょう同日どうじつ記者きしゃ会見かいけんで「搬送はんそうされた時点じてんで、すでにレベル5[ちゅう 1]最悪さいあく状態じょうたいだった」と状況じょうきょうかたった。目立めだった前兆ぜんちょうかったが、広島ひろしま直前ちょくぜん関係かんけいしゃたいして「ひどい頭痛ずつう見舞みまわれて、2あいだぐらいしかねむれなかった[8]」「べるりょうわらないのにせた」とはなしていたという[9]生死せいしをさまようなか巨人きょじん選手せんしゅ木村きむら背番号せばんごう「84」をつけて、巨人きょじんファンは現役げんえき時代じだい応援おうえんを、広島ひろしまファンも広島ひろしま在籍ざいせき応援おうえんをそれぞれ熱唱ねっしょうし、「ガンバレ、ガンバレ、拓也たくや」とエールをおくり、復帰ふっきいのっていた。

死去しきょ当日とうじつの4がつ7にちは、開催かいさいされたプロ野球やきゅうぜん試合しあい会場かいじょう半旗はんき掲揚けいようしたほか、試合しあいまえ黙祷もくとうささげられ、マツダスタジアムではかつて在籍ざいせきした広島ひろしま松田まつだはじめオーナーらにより[10]たおれた場所ばしょである本塁ほんるい付近ふきん献花けんかささげられた(どう球場きゅうじょうでは試合しあいなし)。また、生前せいぜん所属しょぞくしていた巨人きょじん広島ひろしまかく選手せんしゅ関係かんけいしゃ当日とうじつ巨人きょじん対戦たいせん相手あいて広島ひろしま時代じだい同僚どうりょうだった阪神はんしん金本かなもとともけん新井あらい貴浩たかひろおか義朗よしろう1ぐん野手やしゅチーフコーチ、広島ひろしま当日とうじつ対戦たいせん相手あいてで、広島ひろしま時代じだい同僚どうりょうだったヤクルト福地ふくち寿樹ひさきなどが喪章もしょうけて試合しあいおこなった[11][12]巨人きょじんはこのたい阪神はんしんタイガースせん勝利しょうり小笠原おがさわらみちだい決勝けっしょう本塁打ほんるいだ甲子園こうしえんでの本塁打ほんるいだ小笠原おがさわら自身じしんはつ)をはなち、木村きむら白星しろぼしささげた。通夜つやは4がつ9にち葬儀そうぎ告別こくべつしきは4がつ10日とおかにそれぞれ広島ひろしま市内しないいとなまれ、3000にん以上いじょうおおくの関係かんけいしゃやファンがめかけ、わかれをしんだ。法名ほうみょうは「ただしん」。

4がつ24にちには東京とうきょう都内とないで「おわかれのかい」がおこなわれ、告別こくべつしき参列さんれつできなかった巨人きょじん選手せんしゅ関係かんけいしゃや、当日とうじつ試合しあいのため東京とうきょうりしていた広島ひろしま選手せんしゅ参列さんれつあらためて故人こじんとのわかれをしんだ。同日どうじつたい広島東洋ひろしまとうようカープせんは「追悼ついとう試合しあい」として開催かいさいされ、この試合しあい始球しきゅうしき当時とうじ小学しょうがく5年生ねんせい木村きむら長男ちょうなんが、ちちきょじんでコーチをしていたときのユニフォームをつとめた。同日どうじつのインタビューで当時とうじげん監督かんとくは、二人ふたりなかかったことと同時どうじ愛煙あいえんであったこともかしている。同日どうじつ試合しあいでは、巨人きょじんたにけい逆転ぎゃくてん満塁まんるいホームランをち、7たい3で巨人きょじん勝利しょうりした。

そのは、日本にほんテレビ追悼ついとう特番とくばんまれ、テレビ局てれびきょく野球やきゅう雑誌ざっしなどでも2010ねんシーズンちゅう木村きむらかんする話題わだい幾度いくどげられた。球界きゅうかい関係かんけいしゃのコメントには人格じんかくめん技術ぎじゅつめんたか評価ひょうかしていたものもおおく、指導しどうしゃ・プロ野球やきゅうOBとしての今後こんごおおきな期待きたいけられていた木村きむら急逝きゅうせいは、球界きゅうかいとそのなかでも木村きむらおおくの足跡あしあとのこした広島ひろしま巨人きょじんりょう球団きゅうだんにとっておおきな人的じんてき損失そんしつであった。

2015ねん4がつ7にち木村きむら死去しきょからちょうど5ねんとなったこの試合しあいまえ広島ひろしま緒方おがたたかし監督かんとくと梵英しん巨人きょじんげんたつとく監督かんとく坂本さかもと勇人はやとがホームベース付近ふきん献花けんかし、わせた。りょうぐん選手せんしゅらもベンチまえならび、故人こじんをしのんだ。

プレースタイル[編集へんしゅう]

シーズン打率だりつ3わりもゴールデングラブしょう獲得かくとくしていないが、「俊足しゅんそく強肩きょうけんたくみ」と、攻守こうしゅともにすぐれたユーティリティープレイヤーとして重宝ちょうほうされた選手せんしゅだった。2006ねん代打だいだ成功せいこうりつは4わりえ、かつて「代打だいだ神様かみさま」とばれた八木やぎひろしは「代打だいだ結果けっかのこスイッチヒッターこわい」と絶賛ぜっさんした。

ユーティリティプレイヤーになっていく過程かていは、ドラフトがいでのプロりからはじまり、球団きゅうだんからをかけてもらえない日々ひびつづいたことで「チームでいているポジションをさがして、そこににゅうろうとした」結果けっかである。ドラフトがいのプロりについて「いま育成いくせい選手せんしゅですよ」というコメントをしており、「のちつづひとたち(育成いくせい選手せんしゅふく若手わかて)の目標もくひょうになりたい」とかたっていた。

バントたくみく、二死にしるいじょうにランナーがいない場面ばめんでも積極せっきょくてきにセーフティバントをこころみ、実際じっさい成功せいこうさせたこともあった。盗塁とうるいかんしては、巨人きょじん移籍いせき広島ひろしま時代じだいのように積極せっきょくてき企図きとする機会きかいったものの、俊足しゅんそく健在けんざい守備しゅび範囲はんいひろかった。前述ぜんじゅつのとおりかた非常ひじょうつよく、外野がいや守備しゅびには度々たびたびのような送球そうきゅうせた。広島ひろしま長期ちょうきにわたってリードオフマンをまかされ、巨人きょじん移籍いせきも2ばんなどの上位じょうい打線だせん機会きかいおおかったてんにもこうしたしょうわざ堅実けんじつさがすぐれていたという理由りゆうがある。広島ひろしま在籍ざいせきしていたころ長打ちょうだ意識いしきするあまり、前述ぜんじゅつのように三振さんしんかずおおいことがおおきな課題かだいであったが、巨人きょじん移籍いせきはその傾向けいこう改善かいぜんされた。得点とくてんけんでの勝負しょうぶつよさや確実かくじつせいのみならず、出塁しゅつるいりつ得点とくてんけん打率だりつ大幅おおはば向上こうじょうした。しょうわざたくみに使つかい、2009ねん日本にっぽんシリーズではだい1せんの7かいひょうスクイズせかけてわざと空振からぶりし、相手あいてバッテリーを油断ゆだんさせたすき一塁いちるい走者そうしゃすすめる偽装ぎそうスクイズを成功せいこうさせた(直後ちょくごのタイムリーで追加ついかてん)。

打席だせき登場とうじょうきょく2007ねんFatboy Slimの「Slash Dot Dash」。2008ねんからRage Against The Machineの「Guerrilla Radio」を使用しよう

球界きゅうかい屈指くっしのユーティリティープレイヤー[編集へんしゅう]

投手とうしゅ以外いがいすべてのポジションをこなせる(投手とうしゅ高校こうこう時代じだい経験けいけんあり)じょうスイッチヒッターという器用きような、采配さいはい監督かんとくにとっては自在じざい使つかえる便利べんり選手せんしゅであった。とく巨人きょじん移籍いせき以降いこうせい二塁手にるいしゅとしての出場しゅつじょうえた。途中とちゅう出場しゅつじょうであっても、二塁手にるいしゅ先発せんぱつしている選手せんしゅのポジションにうつし、二塁にるいまもることがおおかった。2007ねん守備しゅび機会きかいによる二塁にるい守備しゅび評価ひょうか(→レンジファクター)は前任ぜんにんしゃである仁志にし敏久としひさよりもたかかった。

元々もともと本職ほんしょく捕手ほしゅで、プロおも二塁手にるいしゅ中堅ちゅうけんしゅであるが、プロでは投手とうしゅ以外いがいすべてのポジションを経験けいけんした。本職ほんしょく以外いがいのポジションでも、堅実けんじつにこなすことができるのがあじであった(ただし捕手ほしゅまもった機会きかいのポジションとくらべて極端きょくたんすくない)。1999ねん以降いこう内野ないやまも機会きかいおおくなったが、2008ねん内野ないやしゅ登録とうろくとなるまでは外野がいやしゅとして登録とうろくされていた。

まもった機会きかいすくないがゆうげき守備しゅび非常ひじょう上手うまく、俊足しゅんそく強肩きょうけんかした守備しゅび本職ほんしょく遊撃手ゆうげきしゅである選手せんしゅ遜色そんしょくがなかった。一方いっぽう本人ほんにんが「センターラインよりひだりのポジションは自信じしんがない」ととおり、三塁さんるい守備しゅび不得意ふとくいとしており、巨人きょじん移籍いせき終盤しゅうばん二塁手にるいしゅ以外いがいにチームの都合つごうから不慣ふなれではあるが一塁いちるいしゅ守備しゅび要員よういんとしての出番でばんえた。

木村きむらユーティリティープレーヤーぶりをあらわ象徴しょうちょうてき出来事できごとが、2004ねんアテネオリンピック野球やきゅう日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつと、2009ねん9がつ4にちたい東京とうきょうヤクルトスワローズせん17回戦かいせんでの急遽きゅうきょ捕手ほしゅとしての出場しゅつじょうである。

巨人きょじん時代じだいはらたつとく監督かんとくからは絶大ぜつだいなる信頼しんらいけていた。移籍いせき当初とうしょ巨人きょじんはFA制度せいど利用りようしての補強ほきょう相次あいつぎ、その影響えいきょう世代せだい交代こうたい若手わかて育成いくせい急務きゅうむだった。はら木村きむらおなじくたくみ堅守けんしゅられた川相かわい昌弘まさひろのような役割やくわり期待きたいしていた。木村きむら守備しゅび緩慢かんまんなプレーでミスをしたさい、すぐ交代こうたいさせるなど、木村きむらには若手わかてへの見本みほんとなるためのハードルをたかいた。木村きむらもこれによくこたえ、野手やしゅのチームリーダーかくとして若手わかて牽引けんいんした。木村きむら引退いんたい巨人きょじん小笠原おがさわらアレックス・ラミレスマーク・クルーンなどまだ球団きゅうだんからの移籍いせき選手せんしゅ依存いぞんしていた。

現役げんえきさい晩年ばんねんもっと活躍かつやくし、メディアでも注目ちゅうもくびた非常ひじょうめずらしい選手せんしゅである[13]。また、球団きゅうだん主力しゅりょく選手せんしゅきょじん移籍いせきした選手せんしゅ結果けっかのこせぬまま退団たいだんする選手せんしゅおおかったなか、巨人きょじん移籍いせき攻守こうしゅにわたって重宝ちょうほうされ、はら巨人きょじんのリーグ3連覇れんぱおおきく貢献こうけんした。引退いんたいすぐにきょじんのコーチ就任しゅうにん打診だしんされるなど、球団きゅうだん出身しゅっしん選手せんしゅとしては異例いれい待遇たいぐうけた。はらは2012ねんのリーグ優勝ゆうしょう、「ようやく拓也たくやにいい報告ほうこく出来できる」とかえった。

アテネオリンピック日本にっぽん代表だいひょうとして[編集へんしゅう]

アテネオリンピックでの野球やきゅう日本にっぽん代表だいひょうかくチームから2めい以内いない選出せんしゅつというもうわせ事項じこうがあり、広島ひろしまからエースの黒田くろだ博樹ひろきとも選出せんしゅつされた選手せんしゅは、当時とうじ連日れんじつスタメンにつらねていた前田まえだ智徳とものり新井あらい貴浩たかひろではなく、グレッグ・ラロッカ緒方おがたたかし交代こうたいでセカンドやセンターで出場しゅつじょうする機会きかいおおかった木村きむらだった。オリンピックの野球やきゅう競技きょうぎ(をふくめた野球やきゅう国際こくさい大会たいかい)では、ベンチ可能かのう選手せんしゅ人数にんずう非常ひじょうすくないため、複数ふくすうのポジションをこなせる選手せんしゅ重宝ちょうほうされた。アテネオリンピックの公式こうしき記録きろくしゅうでは日本にっぽん代表だいひょう唯一ゆいいつ、ユーティリティープレーヤーである「U」の表記ひょうきとなっている[14]試合しあい出場しゅつじょう予選よせんリーグのたいギリシャたたかえ(8かいからたにけいとの交代こうたいでレフトをまもる)と、3決定けっていせんとなったたいカナダたたかえ(8ばんレフトでフル出場しゅつじょう)の2試合しあいにとどまったが[14]試合しあいでの攻守こうしゅのみならず、雑用ざつようがかりやブルペンキャッチャーとしても活躍かつやくし、長嶋ながしま茂雄しげおからは「率先そっせんして裏方うらかた仕事しごと手伝てつだい、どうメダルに貢献こうけんしてくれた」ととなえられた[11]

2009ねん9がつ4にちたいヤクルト17回戦かいせん[編集へんしゅう]

2009ねん9月4にち東京とうきょうドームおこなわれたたい東京とうきょうヤクルトスワローズ17回戦かいせん巨人きょじん先発せんぱつセス・グライシンガーのため、相性あいしょう考慮こうりょして先発せんぱつ捕手ほしゅ鶴岡つるおか一成いっせいせい捕手ほしゅ阿部あべまことこれすけ一塁いちるいしゅとして先発せんぱつ出場しゅつじょうした。阿部あべは7かいひょう守備しゅび途中とちゅう交代こうたい鶴岡つるおかも8かいうら木村きむら代打だいだ起用きようされて退しりぞき、9かいひょうから唯一ゆいいつのこった捕手ほしゅである加藤かとうけん出場しゅつじょう木村きむら二塁にるい守備しゅびいた。試合しあいは9かいうら巨人きょじん同点どうてんいついて延長えんちょうせん突入とつにゅう。しかし、11かいうら打席だせきはいった加藤かとう高木たかぎあきらたかしから頭部とうぶ死球しきゅうけて負傷ふしょう退場たいじょうとなり、巨人きょじんはそのかい無得点むとくてんわったため、つぎの12かいひょうまも捕手ほしゅがいない、という緊急きんきゅう事態じたいになった[15][16]

このとき広島ひろしま在籍ざいせき捕手ほしゅ経験けいけんがあった木村きむら白羽しらはった。はらたつとく監督かんとく捕手ほしゅ起用きようのために木村きむらさがしたが、加藤かとう退場たいじょうするまえから出番でばんかんじた木村きむらは、すでにブルペンにき、れていない変化球へんかきゅうたまする練習れんしゅうおこなっていたという[ちゅう 2]木村きむらは、いつでも、どのポジションでもられるように5種類しゅるいのグラブとミット(一塁いちるいしゅようミット、二塁手にるいしゅ遊撃手ゆうげきしゅ兼用けんようグラブ、二塁手にるいしゅ遊撃手ゆうげきしゅ兼用けんよう予備よびグラブ、三塁手さんるいしゅようグラブ、外野がいやしゅようグラブ)をつねんでいたが、捕手ほしゅようミットはっていなかったため、「一番いちばんやわらかかったから」として鶴岡つるおかのミットを、チェストプロテクターレガースなどはブルペン捕手ほしゅからそれぞれりて「急造きゅうぞう捕手ほしゅ」としてグラウンドへ[15]捕手ほしゅとしての出場しゅつじょう広島ひろしま時代じだいの1999ねん7がつ6にち横浜よこはま12回戦かいせんおなじく「急造きゅうぞう捕手ほしゅ」として出場しゅつじょうして以来いらい10ねんぶり(3716にちぶり)であった[16]

12かいひょう救援きゅうえん登板とうばんした豊田とよだきよしには、初球しょきゅうフォークげさせるなどみずからサインを[ちゅう 3]田中たなかひろしやすしちゅうる。「豊田とよださんは直球ちょっきゅうとフォークしかないから。からだってめればいい」とっていた木村きむらだったが[15]、バッター青木あおきせんおやのところで藤田ふじた宗一そういち投手とうしゅ交代こうたい。「たましゅおおくて大変たいへんでした」とかたりながらも、1きゅうシュート、2きゅうカーブとバッターのうらをかくはいだま[ちゅう 3]はいり、最後さいごにスライダーで青木あおき三振さんしん仕留しとめた[16]。こののち飯原いいはらほまれには四球しきゅうあたえ、アーロン・ガイエル右前みぎまえびたが、このかい3にん野間口のまぐち貴彦たかひこ松元まつもとユウイチをこのイニング合計ごうけい23きゅうとなる151km/hの速球そっきゅう三振さんしん仕留しと[16]、しびれる状況じょうきょうなか木村きむらはその役割やくわり見事みごとたした[17]はらはベンチをし、もどってきた「捕手ほしゅ木村きむらたく」にきつくようになんかたをたたいて活躍かつやくたたえた[15][16]。またこの試合しあいのテレビ中継ちゅうけい解説かいせつしゃとして現地げんちにおり、広島ひろしま時代じだい木村きむら監督かんとくとして指導しどうしたさいには木村きむらをほとんどめたことがないという山本やまもと浩二こうじは、試合しあいのインタビューで「拓也たくやたいしたもんだ」と賛辞さんじおくった[18]

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

木村きむら現役げんえき時代じだいおおくをごした広島ひろしま巨人きょじんでは背番号せばんごう0けて活躍かつやくした。前述ぜんじゅつ捕手ほしゅとしての出場しゅつじょうふくめてその姿すがた有名ゆうめいになったが、1991ねん日本にっぽんハムファイターズ入団にゅうだんしたさい591994ねん広島ひろしま移籍いせきした当初とうしょ41だった。1998ねんこう信二しんじ現役げんえき引退いんたいすると、翌年よくねんから木村きむらこう背負せおっていた0け、巨人きょじん移籍いせき直後ちょくごはトレード相手あいてとなった山田やまだしんかい背番号せばんごう58いだが、翌年よくねんからふたた背番号せばんごう0となり、引退いんたいまで背負せおった。

現役げんえき引退いんたい巨人きょじんのコーチとして就任しゅうにんし、死去しきょするまでのあいだつけていた背番号せばんごう84だった。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

木村きむら拓哉たくやとの関係かんけい[編集へんしゅう]

広島ひろしま時代じだい2000ねん以降いこう)には木村きむらいちが、巨人きょじん移籍いせき木村きむら正太しょうたどうチームに所属しょぞくしていたため、実況じっきょう場内じょうないアナウンスではかならず「きむらたくや」とフルネームでばれており、スコアボードにも「木村きむらたく」と表示ひょうじされた。コーチ就任しゅうにん木村きむら龍治りゅうじがコーチとして在籍ざいせきしている関係かんけいじょう木村きむらたくコーチ」と表記ひょうきされた。

同姓どうせい同名どうめい人気にんきアイドルグループSMAP木村きむら拓哉たくや愛称あいしょうキムタク」にちなんで木村きむら拓也たくやを「球界きゅうかいのキムタク」や「こいのキムタク」と紹介しょうかいすることもおおかった。また、2人ふたり共同きょうどうじ1972ねんまれであり『SMAP×SMAP』の特別とくべつ企画きかくどう学年がくねん』で対談たいだんしたことがある。そのせき拓哉たくやは「(自分じぶん自身じしんは)野球やきゅうはあまりくわしくないが、自分じぶんおな名前なまえのプロ野球やきゅう選手せんしゅがいることはっていました。(上記じょうき理由りゆうで)「きむらたくや」「きむらたくや」といつもフルネームで(拓也たくやが)ばれるじゃないですか。自分じぶんことじゃないんだけど、なにか「よしっ」というかんじでうれしくおもっていました」とかたり、一方いっぽう拓也たくやは「知名度ちめいどは(拓哉たくやと)全然ぜんぜんちがうとおもいますけど、プロ野球やきゅう選手せんしゅとして(SMAPの)木村きむらさんとおなじぐらい名前なまえってもらえるようになろうと、ある意味いみ目標もくひょうにしてましたね」とかたっており、これ以降いこう2にんあいだ交流こうりゅうまれた。また、このせき拓也たくやは、収録しゅうろくおこなわれるきょじん-広島ひろしません2002ねん9月7にち東京とうきょうドーム当時とうじ広島ひろしま在籍ざいせき)で本塁打ほんるいだつことを拓哉たくや約束やくそく宣言せんげんどおり、巨人きょじん工藤くどうこうやすしからひだりえに本塁打ほんるいだはなち、それをいた拓哉たくやだいよろこびするという姿すがたられた[19]

拓也たくや緊急きんきゅう入院にゅういんしたとき主演しゅえんドラマ「つき恋人こいびと〜Moon Lovers〜」の上海しゃんはいロケに参加さんかしていた拓哉たくやは「まだ試合しあい終了しゅうりょうにはなっていない。奇跡きせきちたい」とエールをおくった[19]が、そのねがいはとどかなかった。その拓也たくや告別こくべつしきには献花けんかおこなった。

同郷どうきょう関係かんけい[編集へんしゅう]

巨人軍きょじんぐん球団きゅうだん代表だいひょうつとめたきよしたけ英利ひでとしおな宮崎みやざきみなみ高等こうとう学校がっこう出身しゅっしんで、木村きむら先輩せんぱいである。俳優はいゆうさかい雅人まさと木村きむらひと学年がくねん

宮崎放送みやざきほうそうアナウンス部長ぶちょう伊賀いがとおるひろしとは田野でんや中学ちゅうがく同級生どうきゅうせいである。伊賀いがテレビ長崎てれびながさきにアナウンサーとして在職ざいしょくちゅう平日へいじつKTNスーパーニュース担当たんとうしており、4がつ2にち木村きむらたおれたニュースをローカルニュースがはじまるいちふんまえ東京とうきょうからのニュース速報そくほうり、まさに予期よきせぬ突然とつぜん出来事できごとだったという。12月には木村きむらびかけで同窓会どうそうかいおこな予定よていであったという[20]

テレビ出演しゅつえん[編集へんしゅう]

日本にほんテレビズームイン!!サタデー』(以下いかズムサタ)の人気にんきコーナー「プロ野球やきゅうねつケツ情報じょうほう」に巨人きょじん移籍いせきの2006ねんから多数たすう出演しゅつえん進学校しんがくこう出身しゅっしんということもあり、博学はくがく多彩たさい知識ちしき披露ひろうしてコーナーをげ、おな球団きゅうだん出身しゅっしん大道だいどうとも常連じょうれん出演しゅつえんしゃとなった。 2010ねん4がつ10日とおか放送ほうそうでは、「ありがとう 木村きむら拓也たくや」とだいしてねつケツ情報じょうほうめい場面ばめんかえ追悼ついとう企画きかくをCMをはさまずに放送ほうそうした。またズムサタでの4年間ねんかん取材しゅざいをまとめたドキュメンタリー『一生懸命いっしょうけんめい-木村きむら拓也たくや・パパがのこしてくれたモノ-』が同年どうねん7がつ25にちリアル×ワールド放送ほうそうされた[ちゅう 4]

また、おなじく日本にほんテレビ『中井なかい正広まさひろのブラックバラエティ』での野球やきゅうものまねでは現役げんえき選手せんしゅながら選手せんしゅとともによく出演しゅつえんしていた。2010ねん4がつ11にち放送ほうそうでは番組ばんぐみ最後さいごほん番組ばんぐみ出演しゅつえんのVTR(2008ねん12月12にち収録しゅうろく)をバックに「木村きむら拓也たくやさん ありがとうございました」という追悼ついとうコメントをした。

そののエピソード[編集へんしゅう]

広島東洋ひろしまとうようカープ所属しょぞく時代じだい大野おおの練習れんしゅうじょう一人ひとり少年しょうねん写真しゃしん撮影さつえいをおねがいされた。就学しゅうがく時間じかんたいなので怪訝けげんおもい「学校がっこうはどうしたの?」とくと、中学生ちゅうがくせいだが登校とうこうちゅうだとう。そこで木村きむらは「そっか、大人おとなでも『今日きょう会社かいしゃきたくない』ってとき結構けっこうあるよ。あせらなくても大丈夫だいじょうぶ。」とやさしくはげました。少年しょうねん感激かんげきし、登校とうこう再開さいかいした。この少年しょうねんは、のカープ芸人げいにんゴッホ向井むかいブルーである[21]

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1992 日本にほんハム 6 15 13 3 3 0 1 0 5 1 1 0 1 0 1 0 0 3 0 .231 .286 .385 .670
1993 29 18 16 4 3 0 0 0 3 2 0 1 0 0 2 0 0 3 0 .188 .278 .188 .465
1994 83 41 39 6 8 3 0 0 11 0 2 0 1 0 0 0 1 10 1 .205 .225 .282 .507
1995 広島ひろしま 7 7 7 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
1996 30 15 14 5 2 0 0 0 2 0 4 2 1 0 0 0 0 4 0 .143 .143 .143 .286
1997 77 88 78 17 18 1 0 0 19 5 8 1 2 0 8 0 0 25 0 .231 .302 .244 .546
1998 86 150 131 20 32 5 2 0 41 8 14 2 5 1 13 0 0 27 0 .244 .310 .313 .623
1999 90 231 205 23 51 6 1 3 68 13 6 2 15 1 10 0 0 39 10 .249 .282 .332 .614
2000 136 620 572 74 165 34 2 10 233 30 17 15 11 1 33 1 3 80 4 .288 .330 .407 .737
2001 137 630 551 78 145 23 5 7 199 45 18 11 16 2 61 1 0 129 5 .263 .336 .361 .697
2002 130 449 412 46 98 18 1 5 133 27 6 1 13 1 20 0 3 66 7 .238 .278 .323 .600
2003 131 537 473 64 135 19 0 13 193 38 14 6 26 3 30 4 5 95 6 .285 .333 .408 .741
2004 85 183 161 21 40 8 2 2 58 12 4 0 4 1 17 0 0 32 2 .248 .318 .360 .679
2005 111 354 313 32 77 9 0 2 92 16 3 5 13 0 26 2 2 41 9 .246 .308 .294 .602
2006 巨人きょじん 62 169 146 12 38 7 0 0 45 7 0 2 5 1 16 0 1 32 2 .260 .335 .308 .644
2007 113 338 311 26 82 15 2 2 107 29 4 4 5 2 17 2 3 64 6 .264 .306 .344 .650
2008 124 432 372 46 109 21 0 7 151 31 1 3 26 2 27 1 5 61 3 .293 .347 .406 .753
2009 86 210 186 17 43 8 0 2 57 16 1 0 8 2 12 0 2 38 2 .231 .282 .306 .589
通算つうさん:18ねん 1523 4487 4000 495 1049 177 16 53 1417 280 103 55 152 17 293 11 25 752 57 .262 .315 .354 .670
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

通算つうさん守備しゅび成績せいせき[編集へんしゅう]

外野がいやしゅ
とし
たま
だん
外野がいや
ためし

ごう
とげ

ころせ


ころせ
しつ

さく


ころせ
もり

りつ
1992 日本にほんハム 5 12 1 0 0 1.000
1993 26 13 0 0 0 1.000
1994 80 50 4 0 0 1.000
1995 広島ひろしま 3 3 0 0 0 1.000
1996 17 8 0 0 0 1.000
1997 38 15 0 0 0 1.000
1998 35 40 3 0 2 1.000
1999 25 17 0 1 0 .944
2000 50 83 3 2 0 .977
2001 122 200 7 3 1 .986
2002 36 49 1 0 0 1.000
2003 11 8 0 0 0 1.000
2004 43 31 0 0 0 1.000
2005 12 10 1 0 1 1.000
2006 巨人きょじん 31 35 0 0 0 1.000
2007 3 0 0 0 0
2008 2 2 0 0 0 1.000
通算つうさん 539 576 20 6 4 .990
内野ないやしゅ
とし
たま
だん
二塁にるい ゆうげき 三塁さんるい 一塁いちるい
ためし

ごう
とげ

ころせ


ころせ
しつ

さく


ころせ
もり

りつ
ためし

ごう
とげ

ころせ


ころせ
しつ

さく


ころせ
もり

りつ
ためし

ごう
とげ

ころせ


ころせ
しつ

さく


ころせ
もり

りつ
ためし

ごう
とげ

ころせ


ころせ
しつ

さく


ころせ
もり

りつ
1995 広島ひろしま 1 2 1 1 1 .750 - - -
1996 - - - -
1997 10 17 16 1 4 .971 - - -
1998 10 9 20 1 4 .967 4 6 12 2 2 .900 - 1 1 0 0 1 1.000
1999 44 58 106 6 26 .965 9 5 11 3 2 .842 4 1 5 1 0 .857 -
2000 118 237 365 14 81 .977 - - -
2001 34 58 80 4 12 .972 - - -
2002 62 71 138 3 18 .986 46 48 102 2 22 .987 9 0 6 0 2 1.000 -
2003 110 235 339 9 63 .985 2 0 0 0 0 - 13 7 15 4 1 .846 -
2004 21 20 33 2 10 .964 1 1 0 0 0 1.000 10 1 9 4 0 .714 -
2005 81 134 235 7 38 .981 29 15 26 2 3 .953 - -
2006 巨人きょじん 19 29 33 3 8 .954 - 7 3 10 0 2 1.000 -
2007 92 195 232 3 54 .993 - - 2 3 0 0 0 1.000
2008 103 166 213 5 40 .987 - 18 8 22 2 2 .938 20 47 5 1 4 .981
2009 64 115 126 3 21 .988 - - 16 34 2 0 1 1.000
通算つうさん 769 1346 1937 62 380 .981 91 75 151 9 29 .962 61 20 67 11 7 .888 39 85 7 1 5 .989
捕手ほしゅ
とし
たま
だん
捕手ほしゅ
ためし

ごう
とげ

ころせ


ころせ
しつ

さく


ころせ


いっ
もり

りつ
くわだて

かず
もと
ぬすめ
るい
ぬすめ
るい
とげ

とめ
りつ
1999 広島ひろしま 4 10 2 0 1 1 1.000 4 4 0 .000
2009 巨人きょじん 1 2 0 0 0 0 1.000 0 0 0 -
通算つうさん 5 12 2 0 1 1 1.000 4 4 0 .000

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

記録きろく[編集へんしゅう]

はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 59 (1991ねん - 1994ねん
  • 41 (1995ねん - 1998ねん
  • 0 (1999ねん - 2006ねん6がつ7にち、2007ねん - 2009ねん
  • 58 (2006ねん6がつ8にち - 同年どうねん終了しゅうりょう
  • 84 (2010ねん
    • 23 (アテネ五輪ごりん予選よせん
    • 27 (アテネ五輪ごりん代表だいひょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ほぼ回復かいふく見込みこみがない状態じょうたいす。
  2. ^ そのときのことをはらは「(木村きむらに)げられたとおもった」とコメントした。
  3. ^ a b たましゅのサインはベンチからバッテリーコーチの西山にしやま秀二しゅうじ指示しじする予定よていだったが、それを確認かくにんする余裕よゆうがなかったため、本人ほんにんいわく「二塁にるい守備しゅびとき捕手ほしゅしていたサインを記憶きおくおもしつつ」木村きむらみずからサインをつづけたという[16]
  4. ^ 放送ほうそうは16:25~17:25。ナレーションは広島ひろしまファンの徳井とくい義実よしざねチュートリアル)が担当たんとう同年どうねん11がつ20日はつかにもさい放送ほうそうされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 宮崎みやざき出身しゅっしん木村きむらひがし知事ちじにエール! ちち町議会ちょうぎかい議員ぎいん. スポーツ報知ほうち (報知新聞社ほうちしんぶんしゃ). (2007ねん1がつ23にち). オリジナルの2007ねん1がつ25にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070125015742/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20070123-OHT1T00050.htm 2013ねん4がつ13にち閲覧えつらん 
  2. ^ “「こまったとき拓也たくやたのみ」プロたましい後輩こうはいへ(巨人きょじん 木村きむら拓也たくや内野ないやしゅ・37さい)”. デイリースポーツ (神戸新聞社こうべしんぶんしゃ). (2009ねん12月15にち). オリジナルの2009ねん12月18にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091218033433/http://www.daily.co.jp/baseball/retire/2009/12/15/0002583040.shtml 2013ねん4がつ13にち閲覧えつらん 
  3. ^ 木村きむら拓也たくやコーチ死去しきょ…「タクヤーッ!」はら監督かんとく絶叫ぜっきょう号泣ごうきゅう
  4. ^ 巨人きょじん木村きむら拓也たくや現役げんえき引退いんたい 来季らいき巨人きょじんのコーチに”. 毎日まいにちjp (毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ). (2009ねん11月8にち). オリジナルの2009ねん11月9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091109054109/http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/pro/news/20091108k0000m050067000c.html 2013ねん4がつ13にち閲覧えつらん 
  5. ^ NPB新人しんじん研修けんしゅう 木村きむらたくコーチ講義こうぎ内容ないよう 讀賣よみうり巨人きょじんぐん公式こうしきサイト(Internet Archiveより) 2018ねん4がつ6にち閲覧えつらん
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  7. ^ 巨人きょじん木村きむら拓也たくやコーチが死去しきょ意識いしきもどらぬまま”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ). (2010ねん4がつ7にち). オリジナルの2010ねん4がつ10日とおか時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100410094822/http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20100407-OYT1T00295.htm 2013ねん4がつ13にち閲覧えつらん 
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

以下いか在任ざいにんちゅう逝去せいきょしたプロ野球やきゅうコーチ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]