樺太からふと

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樺太からふととう
樺太
所在地しょざいち きた樺太からふと: ロシアの旗 ロシア
みなみ樺太からふと北緯ほくい50以南いなん): 帰属きぞく未定みてい実効じっこう支配しはい: ロシアの旗 ロシア
所在しょざい海域かいいき オホーツクかい日本海にほんかい
座標ざひょう 北緯ほくい4554ふん - 北緯ほくい5420ふん
東経とうけい14138ふん - 東経とうけい14445ふん
面積めんせき 72,492 km²
最高さいこう標高ひょうこう 1,609 m
最高峰さいこうほう ロパチンさん
最大さいだい都市とし ユジノサハリンスク
きゅう豊原とよはら
プロジェクト 地形ちけい
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樺太からふと(からふと)またはサハリンロシア: Сахалин)は、ユーラシア東方とうほうオホーツクかい南西なんせいにあるしま広義こうぎ日本にっぽん列島れっとうふくまれる。南北なんぼくやく948km、東西とうざいやく160kmで南北なんぼく細長ほそながく、面積めんせきは72,492km2で、北海道ほっかいどう(78,073km2)よりややちいさい。樺太からふととう(からふととう)、サハリンとう(サハリンとう)ともいう。日本にっぽん実効じっこう支配しはいしていたころ樺太からふとという名称めいしょう以外いがいではサガレン一般いっぱんてきもちいられていた。

樺太からふとは、北部ほくぶ南部なんぶでそれぞれことなる沿革えんかくたため、ここでは北緯ほくい50せん以北いほくを「きた樺太からふと」(または「きたサハリン」)、以南いなんを「みなみ樺太からふと」と表記ひょうきする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

近世きんせい以前いぜん樺太からふとにはアイヌウィルタニヴフなどの先住民せんじゅうみん居住きょじゅうしており、主権しゅけん国家こっか支配しはいおよんでいなかった。

近代きんだい以降いこう樺太からふとみなみ隣接りんせつする日本にっぽんと、北西ほくせい隣接りんせつするロシアとがきそって樺太からふとへの領土りょうど拡張かくちょうもとめて植民しょくみんすすめ、おおくの日本人にっぽんじんとロシアじん樺太からふと移住いじゅうするようになった。

1855ねん安政あんせい2ねん)のにち和親わしん条約じょうやくでは樺太からふとには明確めいかく国境こっきょうもうけられず、日本にっぽんとロシアとがこんじゅうする土地とちのままとされた。

1875ねん明治めいじ5ねん)の樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくによって、以前いぜんから日本にっぽんりょうであった北方領土ほっぽうりょうどにくわえて千島ちしま列島れっとうとくなでしまからうらないもりとう)を日本にっぽんりょうとするわりに、樺太からふと全土ぜんどがロシアりょうさだめられた。

1905ねん明治めいじ38ねん)から1945ねん昭和しょうわ20ねん)までは、北緯ほくい50せんさかいに、樺太からふとみなみ半分はんぶんみなみ樺太からふと)を「樺太からふと(カラフト)」として日本にっぽんが、きた半分はんぶんきた樺太からふときたサハリン)を「サハリンロシアСахалин」としてロシアおよソビエト連邦れんぽう領有りょうゆうしていた。日本にっぽん領有りょうゆうにおいては、みなみ樺太からふとおよびその付属ふぞく島嶼とうしょ行政ぎょうせい区画くかくとして「樺太からふとちょう」が使用しようされた[1]

だい世界せかい大戦たいせん末期まっき沖縄おきなわけんにおける沖縄おきなわせんつづいて、日本にっぽん本土ほんど内地ないち最後さいご市街しがいせんおこなわれたである(1945ねん8がつ樺太からふとたたか)。

戦後せんごソビエト連邦れんぽうおよロシア連邦れんぽう樺太からふと南部なんぶ実効じっこう支配しはいしている。人口じんこうやく50まんにん最大さいだい都市としはサハリンしゅう州都しゅうとでもあるユジノサハリンスク人口じんこうやく20まんにん日本にっぽんめい: 豊原とよはら)。現在げんざいサハリンプロジェクトすすめられている。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

「からふと」のは、一説いっせつにはアイヌでこのしまを「カムイ・カㇻ・プㇳ・ヤ・モシㇼ 」(kamuy kar put ya mosir) とんだこと由来ゆらいするとう。[よう出典しゅってん]これはアイヌで「かみ河口かこうつくったしま」を意味いみし、黒竜江こくりゅうこう(アムールがわ)の河口かこうからてそのさき位置いちすることからこのようにばれたとされる[2]なお樺太からふとアイヌでは、「陸地りくち国土こくど」を意味いみするヤンケモシリばれ[3]北海道ほっかいどうアイヌではカラプト Karaptoばれる[4]

ふるくは1646ねん正保しょうほう3ねん)に成立せいりつした松前まさきはん歴史れきししょしん記録きろく』に「からわたりしま」としてえ、正保しょうほう日本にっぽんにも「からとのしま」がえがかれている。1669ねん寛文ひろふみ9ねん)の史料しりょうでは「からふと」(「たてまつ言上ごんじょうさとし」『津軽つがる一統かずのりこころざし』)「からふとのしま」(『蝦夷えぞ蜂起ほうき注進ちゅうしんしょ』)という表記ひょうき確認かくにんできる[5]1700ねん元禄げんろく13ねん)の『松前まさきとうごうちょう』には「からとしま」とある。1704ねん宝永ほうえい元年がんねん)に蝦夷えぞわたったせいひかりそらねん史料しりょうでは「からふと」「からふとしま」という表記ひょうきおおいものの、「とうふとうしま」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記ひょうきられる[6]

1783ねん天明てんめい3ねん)の『西にしかずらもりこく風説ふうせつこう』では「カラフトのきたにサカリインといふ大嶋おおしまゆう」とし、同書どうしょ付図ふずでは「カラフト」を大陸たいりく地続じつづきの半島はんとうとしてえがき、べつに「サカリイン」をしまとしてえがいている[7]。1785ねんどう5ねん)の『さんこく通覧つうらん図説ずせつ』においても「カラフトしま」は大陸たいりく半島はんとうとしてえがかれ、べつに「北海ほっかいちゅういち大国たいこく」として「サガリイン」をえがいている。1808ねん文化ぶんか5ねん)から1809ねん文化ぶんか6ねん)にわたっておこなわれた間宮まみや林蔵りんぞうひとし調査ちょうさにより樺太からふとしまであること確認かくにんされた、1809ねん文化ぶんか6ねん以降いこう東西とうざい蝦夷えぞたいしてきた蝦夷えぞともばれた(それ以前いぜん西にし蝦夷えぞふくまれた)。その明治めいじ政府せいふ北海道ほっかいどう開拓かいたく使設置せっちするにあたり「樺太からふと」という漢字かんじ表記ひょうきさだめられる[8]

「サハリン」(ふるくは「サガレン」と表記ひょうき)という名称めいしょうは、きよし皇帝こうていが3にんイエズスかい修道しゅうどうめいじた清国きよくに版図はんと測量そくりょうさいに、黒竜江こくりゅうこう満州まんしゅうᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
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転写てんしゃ:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口かこう対岸たいがんしまがあるとき、そこを満州まんしゅうでサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
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転写てんしゃ:sahaliyan ula angga hada、「黒竜江こくりゅうこう対岸たいがんしま」)とんだことに由来ゆらいする。ポーツマス条約じょうやく調印ちょういん以降いこう日本にっぽんでは、たんに「樺太からふと」とえばみなみ樺太からふとしたため、きた樺太からふとしてサガレン(薩哈嗹)と場合ばあいもあった。「サガレンしゅう派遣はけんぐん」などは、そのいちれいである。

中国ちゅうごくではきよし時代じだいである「くらぺーじとう」(くげちとう、クーイェダオ、由来ゆらいえびす)とばれる。また、ロシア音訳おんやくである「薩哈林島はやしじま」(サハリンダオ)も使つかわれる。

地理ちり[編集へんしゅう]

50せん強調きょうちょうされている樺太からふと地図ちず
ふゆ (ひだり) となつ (みぎ) の樺太からふと周辺しゅうへん衛星えいせい写真しゃしん
樺太からふと周辺しゅうへんまち

樺太からふとは、ユーラシア大陸たいりく東方とうほう北海道ほっかいどう北方ほっぽう位置いちしており、北緯ほくい4554ふんから5420ふん東経とうけい14138ふんから14445ふんにかけてひろがるしまである。しま南北なんぼく細長ほそながく、東西とうざいはば最大さいだいやく160km(さいせまやく26km)であるのにたいし、南北なんぼくやく948kmにもおよぶ。しま面積めんせき北海道ほっかいどうよりややちいさく76,400km2である(北海道ほっかいどう本島ほんとう面積めんせきは77,981.87km2)。その面積めんせきのうちのやく70%は山岳さんがく地帯ちたいによってめられており、平地ひらち北部ほくぶ集中しゅうちゅうしている。

樺太からふとは、みなみ北海道ほっかいどうとは宗谷海峡そうやかいきょうにより、また、西にしのユーラシア大陸たいりくとは間宮まみや海峡かいきょうによりへだてられている。しま北岸ほくがんおよび東岸とうがんオホーツクかいめんしている。なお、2まんねんほどまえこおりには海水かいすいめん低下ていかしており、今日きょうのユーラシア大陸たいりく樺太からふと北海道ほっかいどうたがいに地続じつづきだったとかんがえられている。

樺太からふと最北端さいほくたんは、シュミット半島はんとう先端せんたん位置いちしている小門おかどみさき(がおとみさき、別名べつめい:エリザベスみさき、エリザベートみさきとも)である。シュミット半島はんとうから西方せいほう樺太からふと北岸ほくがんから、対岸たいがん大陸たいりくがわであるアムールがわ河口かこう地域ちいき北岸ほくがんまでの海岸かいがんせんいちつづきとみるとみなみ湾曲わんきょくしたわんじょう海岸かいがんせんとなっている。このわんサハリンわんばれている。

みなみ宗谷海峡そうやかいきょうたいしては、西側にしがわから能登のとりょ半島はんとうが、また東側ひがしがわからちゅう知床しれとこ半島はんとうており、これら2つの半島はんとうあいだにはみなみひらにわわん(アニワわん)がある。能登のとりょ半島はんとう先端せんたん樺太からふと最南端さいなんたんとなる西にし能登のとりょみさきである。ちゅう知床しれとこ半島はんとう先端せんたんちゅう知床岬しれとこみさきである。

樺太からふと西方せいほうユーラシア大陸たいりくとのあいだ間宮まみや海峡かいきょうよこたわっている。間宮まみや海峡かいきょうさいせまくろりゅう水道すいどうばれ、そのはばやく7.3kmである。

東方とうほうオホーツクかいたいしては、しまなか南部なんぶからきた知床しれとこ半島はんとうている。先端せんたんきた知床岬しれとこみさきから西方せいほうきたかって海岸かいがんせん湾曲わんきょくし、そのわんらいわん(タライカわん)とばれている。

樺太からふと気候きこう亜寒帯あかんたいモンスーン気候きこうぞくする。夏季かき湿度しつどたかく、きりおお発生はっせいし、日照ひでり時間じかんすくなくなる。ふゆ日本海にほんかいがわゆきおおくなるものの、オホーツクかいがわ比較ひかくしてみはゆるむ。南西なんせい対馬つしま海流かいりゅう暖流だんりゅう)の影響えいきょう比較的ひかくてき温暖おんだんであり冬季とうきうみ結氷けっぴょうしないが、北東ほくとうくにしたがいひがし樺太からふと海流かいりゅう寒流かんりゅう)の影響えいきょう気温きおんひく冬季とうきうみ結氷けっぴょうする。オホーツクかいがわでは乾燥かんそうし、きびしいさむさとなり、うみ氷結ひょうけつすると晴天せいてんつづく。また、なつふゆ寒暖かんだんおおきい。海洋かいよう影響えいきょうおおきいみなみ樺太からふとくらべ、大陸たいりく影響えいきょうけやすいきた樺太からふととく気温きおんおおきく、2018ねん現在げんざいまで観測かんそくされている最高さいこう気温きおん記録きろくは、ノグリキで1977ねん7がつ観測かんそくされた39最低さいてい気温きおん記録きろくはティモフスコエで1980ねん1がつ観測かんそくされたマイナス50であり、寒暖かんだんおおきさがデータでも確認かくにんすることができる。

植物しょくぶつ分布ぶんぷ境界きょうかいせんとしてきた樺太からふと西海岸にしかいがんのヅエとみなみ樺太からふと東岸とうがんうちむすぶシュミットせん有名ゆうめいであり、日本にっぽん固有こゆうしゅ分布ぶんぷはこのせんより南側みなみがわで、北側きたがわ針葉樹しんようじゅりんなどシベリアけい様相ようそうとなっている。動物どうぶつ分布ぶんぷ境界きょうかいせん八田はったせん宗谷線そうやせん)があり、宗谷海峡そうやかいきょうはさ樺太からふと北海道ほっかいどう両生類りょうせいるい爬虫類はちゅうるいなどの分布ぶんぷことなっている。

樺太からふと石油せきゆ天然てんねんガスなどの豊富ほうふ地下ちか資源しげんにもめぐまれている。

地理ちりてき意味合いみあいでの日本にっぽん列島れっとうなかでは、本州ほんしゅう北海道ほっかいどうぎ、3番目ばんめおおきいしまである。

おも山岳さんがく[編集へんしゅう]

おも湖沼こしょう[編集へんしゅう]

おも河川かせん[編集へんしゅう]

島嶼とうしょ[編集へんしゅう]

民族みんぞく[編集へんしゅう]

ピウスツキが撮影さつえいした樺太からふとアイヌ(1900年代ねんだい
きた樺太からふと

ニヴフのほか、東部とうぶ幌内川ほろないがわ[よう曖昧あいまい回避かいひ]ロモウがわ流域りゅういき)にはウィルタ居住きょじゅう

みなみ樺太からふと

樺太からふとアイヌのほか、北東ほくとう幌内川ほろないがわ[よう曖昧あいまい回避かいひ]流域りゅういきじきこうやつぐんぐんなど)のウィルタニヴフといった北方ほっぽう少数しょうすう民族みんぞくがいる。1905ねんから1945ねんまでの日本にっぽん統治とうちみなみ樺太からふとでは樺太からふとちょうはアイヌ(樺太からふとアイヌは当初とうしょ樺太からふと土人どじんとされていたが、1932ねん1がつ戸籍こせきほうじょう内地ないちじんとなった)をのぞ樺太からふと先住民せんじゅうみん(ウィルタ、ニヴフなど)はオタスのもりしゅうじゅう戸籍こせきほうじょう樺太からふと土人どじんあつかって内地ないちじん区別くべつされていたが、日本にっぽん国籍こくせき付与ふよしていた。樺太からふと先住民せんじゅうみんみなみ樺太からふと居住きょじゅうして日本にっぽん国籍こくせきあたえられていたために、ソ連それんによる樺太からふと占領せんりょう残留ざんりゅうせざるをない事情じじょうったもののぞ北海道ほっかいどう以南いなん追放ついほうされている。日本にっぽんでは終戦しゅうせんの1945ねんにアイヌをのぞ樺太からふと先住民せんじゅうみん参政さんせいけん停止ていしされたものの、1952ねんサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうさいに就籍というかたち参政さんせいけん回復かいふくした。現在げんざい樺太からふと住民じゅうみんなかにはアイヌ名乗なのもの若干じゃっかんめい存在そんざいするものの、統計とうけいられていないために詳細しょうさい不明ふめいである。

ギャラリー[編集へんしゅう]

みなみ樺太からふと[編集へんしゅう]

王子製紙おうじせいし豊原とよはら工場こうじょう

北緯ほくい50せん以南いなんみなみ樺太からふとアイヌ居住きょじゅうで、ニヴフウィルタは、50せんちか東岸とうがん幌内川ほろないがわ流域りゅういき周辺しゅうへんのみに分布ぶんぷする。日本にっぽん施政しせいにおいては樺太からふとばれる行政ぎょうせい区画くかくであった。地方ちほう行政ぎょうせい官庁かんちょうとして樺太からふとちょう設置せっちされ、太平洋戦争たいへいようせんそうなか1942ねん昭和しょうわ17ねん)に外地がいちから内地ないちへと編入へんにゅうされた。人口じんこう1945ねん昭和しょうわ20ねん当時とうじやく40まんにんであった。当時とうじ主要しゅよう産業さんぎょう漁業ぎょぎょう農業のうぎょう林業りんぎょう製紙せいしぎょうパルプなどの工業こうぎょう石炭せきたん石油せきゆ採掘さいくつぎょうなど。みなみ樺太からふと中心ちゅうしん都市としは、樺太からふとちょうかれた豊原とよはらユジノサハリンスク)。

1995ねん平成へいせい7ねん)より稚内わっかない - コルサコフ - 小樽おたる[注釈ちゅうしゃく 1]むすにち定期ていき航路こうろ開設かいせつされており、稚内わっかないこうよりふね渡航とこう可能かのうである[9]。なお、稚内わっかないとコルサコフあいだ定期ていき航路こうろ就航しゅうこうしたのは50ねんぶりである[9]

石炭せきたん産業さんぎょう[編集へんしゅう]

1905ねん明治めいじ政府せいふは、樺太からふと南部なんぶから中部ちゅうぶまでの地層ちそうこまかく調査ちょうさ本州ほんしゅうへも移出いしゅつとうまち周辺しゅうへんでは良質りょうしつ無煙炭むえんたんおおれた。そのとみもとめて、人口じんこう増加ぞうかとう小学校しょうがっこうではさんせんめい児童じどうかかえ、ろくじゅうめい教員きょういん在職ざいしょく、「日本にっぽん最大さいだい小学校しょうがっこう」とわれた[注釈ちゅうしゃく 2][10]

にわわん[編集へんしゅう]

樺太からふととめ比較ひかくてき温暖おんだんであり、農耕のうこうにもてきしているが、にわわんにおいてホッキガイなどを採取さいしゅし、採取さいしゅにはだんるためたきなどもしていた[よう出典しゅってん]

林業りんぎょう製紙せいしぎょう[編集へんしゅう]

1905ねん明治めいじ38ねん)の祖国そこく復帰ふっき明治めいじ政府せいふ蝦夷松えぞまつ椴松とどまつパルプ原料げんりょうとなることを調査ちょうさ研究けんきゅうによってめ、1914ねん大正たいしょう3ねん)、だいいち世界せかい大戦たいせん特需とくじゅ景気けいき恩恵おんけいきゅう成長せいちょうげる。王子製紙おうじせいし富士ふじ製紙せいし樺太からふと工業こうぎょうによるさんしゃ寡占かせん状態じょうたいであったが、1933ねん昭和しょうわ8ねん)に王子製紙おうじせいし競合きょうごうしゃ吸収きゅうしゅう合併がっぺい王子おうじ製品せいひん本州ほんしゅうへも移出いしゅつされた。またどう時期じきには木材もくざい業者ぎょうしゃ合併がっぺいおこなわれ、樺太からふと木材もくざい統制とうせい組合くみあい設立せつりつされた。

森林しんりん伐採ばっさいは、開発かいはつ不可分ふかぶん進行しんこうするが島内とうないですべてを消費しょうひできることもなく、木材もくざいしまがいへの移出いしゅつ活発かっぱつとなった。移出いしゅつりょうは、1929ねん昭和しょうわ4ねん)にピークをむかやく1,300まんせき記録きろく。しかしその漸減ぜんげんし、だい世界せかい大戦たいせん直前ちょくぜんの1941ねん昭和しょうわ16ねん)にはやく10まんせきんだ。戦争せんそうちゅうは、木材もくざい運搬うんぱんする船舶せんぱく不足ふそくし、しが不能ふのうになったまま終戦しゅうせんむかえた[11]

新聞しんぶん[編集へんしゅう]

日刊にっかんだけでもじゅう以上いじょう発行はっこうされていた(読売新聞社よみうりしんぶんしゃ経営けいえい日刊にっかん各紙かくし読売よみうり統合とうごう読売よみうりけい樺太からふと新聞しんぶんとなる)。代表だいひょうてき日刊にっかんは、樺太からふとにちにち新聞しんぶん樺太からふと時事じじ新聞しんぶん樺太からふと毎日新聞まいにちしんぶん真岡もおか毎日新聞まいにちしんぶんめぐみ須取毎日新聞まいにちしんぶんである[よう出典しゅってん]

ラジオ放送ほうそう[編集へんしゅう]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、豊原とよはらでの試験しけん放送ほうそう人気にんきて、1941ねん昭和しょうわ16ねん)、日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい(NHK)は豊原とよはら放送ほうそうきょく開設かいせつ

銭湯せんとう[編集へんしゅう]

島民とうみん証言しょうげんによると、豊原とよはらにはすうけん以上いじょう銭湯せんとうがあった[よう出典しゅってん]

樺太からふと出身しゅっしん有名人ゆうめいじん[編集へんしゅう]

交通こうつう[編集へんしゅう]

稚内わっかない桟橋さんばしえきから大泊おおとまりみなとえきまで、ややはく連絡れんらくせんやく8あいだ

遺骨いこつ[編集へんしゅう]

熊笹くまざさとうげには、樺太からふとたたかにおけるソ連それんぐん南進なんしん阻止そしし、同軍どうぐん北海道ほっかいどう侵攻しんこう断念だんねんさせた日本にっぽん将兵しょうへい遺骨いこついまねむっている[よう出典しゅってん]

摂政せっしょうみや裕仁ひろひと親王しんのう行啓ぎょうけい[編集へんしゅう]

1925ねん大正たいしょう14ねん)8がつ皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう当時とうじ摂政せっしょう昭和しょうわ天皇てんのう)が、樺太からふと行啓ぎょうけいした[12]

御召おめしかん戦艦せんかん長門ながとであり、高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのうおよ久邇くにみやいえあさとおるおう当時とうじ皇太子こうたいし良子りょうこ女王じょおう実兄じっけい皇太子こうたいし義兄ぎけい)も同乗どうじょうした。

樺太からふといぬ[編集へんしゅう]

樺太からふといぬ日本にっぽん固有こゆうしゅであり、きわめてぬし忠実ちゅうじつである。南極なんきょく物語ものがたり登場とうじょうするタロとジロがそうである。

カラフトマス(樺太からふとます[編集へんしゅう]

カラフトマスは、さけ缶詰かんづめ原料げんりょうとして利用りようされている。

マリモ[編集へんしゅう]

樺太からふと富内とみうちむらには湖沼こしょう多数たすう存在そんざいし、マリモおお生息せいそく北海道ほっかいどうのものとは種類しゅるいことなるため、樺太からふと天然記念物てんねんきねんぶつとして指定していされている。

フレップ[編集へんしゅう]

フレップ(コケモモ)とばれる直径ちょっけいやく1cm程度ていどがあり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌで、「あかもの」という意味いみである。

競馬けいば[編集へんしゅう]

日本にっぽん時代じだいみなみ樺太からふとでは6がつから9がつあいだ競馬けいばさかんにおこなわれていた。1931ねん(昭和しょうわ6ねん)には大小だいしょう20かしょ競馬けいばじょうがあり、そのなかで8かしょが1932ねん昭和しょうわ7ねん)に樺太からふと競馬けいば規則きそくによる公認こうにん競馬けいばじょう認可にんかされた。

きた樺太からふときたサハリン)[編集へんしゅう]

北緯ほくい50せん以北いほくきた樺太からふとニヴフ居住きょじゅうで、東岸とうがんのロモウがわ流域りゅういきにはウィルタ分布ぶんぷする。樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやく以来いらいのロシアりょうであり(条約じょうやく以前いぜん領有りょうゆう確定かくていにち混合こんごう居住きょじゅう)、ロシア帝国ていこく時代じだい沿海州えんかいしゅうぞくした。ソビエト連邦れんぽう成立せいりつ当初とうしょシベリア出兵しゅっぺいどき発生はっせいしたあまみなと事件じけんけ、1920ねん7がつから1925ねん5がつ15にちやく5年間ねんかん日本にっぽんサガレンしゅう派遣はけんぐんによる保障ほしょう占領せんりょうしたにあった。1925ねん大正たいしょう14ねん)ににち国交こっこう樹立じゅりつ日本にっぽんぐん撤退てったいするとハバロフスク地方ちほう編入へんにゅうされ、そのはサハリンしゅうぞくし、ロシア連邦れんぽうとなった現在げんざいつづきサハリンしゅうぞくしている。おも都市としオハアレクサンドロフスク・サハリンスキー日本にっぽんめい:オッチシ・落石らくせき、アイヌ由来ゆらい。ニヴフめい:イドイー)である。オハ油田ゆでんサハリンプロジェクトサハリン1サハリン2)が代表だいひょうてき石油せきゆ産業さんぎょうである。

自然しぜん[編集へんしゅう]

冷温れいおんたい気候きこうぞくする。北端ほくたんのオハでは植物しょくぶつ生長せいちょう期間きかんが97にち極端きょくたんみじかい。全島ぜんとう面積めんせきの75%は森林しんりんであり、かつてはきたエゾマツみなみにはトドマツ中心ちゅうしん原生げんせいりんひろっていた。みなみ樺太からふと日本にっぽん領有りょうゆうしたさいには、パルプの原料げんりょうとしてだい規模きぼ伐採ばっさいおこなったほか、病虫害びょうちゅうがい(カラフトマツカレハ)の発生はっせいやま火事かじにより森林しんりん資源しげん減少げんしょうソ連それん実効じっこう支配しはいしたのちもパルプ工場こうじょう稼働かどうし、森林しんりん伐採ばっさいつづいたことから、森林しんりん減少げんしょうつづいたとみられる[13]

歴史れきし[編集へんしゅう]

初期しょき歴史れきし[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん古書こしょ山海さんかいけいうみひがし諸国しょこく)には、いずれも「日本にっぽんきたまた領域りょういき)は黒龍江こくりゅうこうこうこる。」と記載きさい

氷河ひょうが時代じだいには、樺太からふととう大陸たいりくとつながっていた。しん石器せっき時代じだいから樺太からふととうには人々ひとびとんでいた。3世紀せいきから13世紀せいきにかけて、エホツク海岸かいがん一帯いったいにオホーツク文化ぶんか存在そんざいし、現在げんざい北海道ほっかいどう樺太からふととう千島ちしま列島れっとう南部なんぶ分布ぶんぷしていた。この文明ぶんめいは、コリャークじんやニフフじん関連かんれんがあり、北海道ほっかいどうぞく縄文じょうもん文化ぶんかこすぶん文化ぶんかとはことなる。この時期じきには、アイヌじん樺太からふととう南部なんぶで、オロッコひと中部ちゅうぶで、ニヴフじん北部ほくぶ生活せいかつしていた。中国ちゅうごく古代こだい文献ぶんけんによれば、ホジェンぞくオロチョンぞく代表だいひょうとするツングースけい民族みんぞくがこのしまんでおり、おも狩猟しゅりょう漁労ぎょろう生計せいけいてていたとされている[14]

とう時代じだいには、中国人ちゅうごくじんはカムチャツカ半島はんとう千島ちしま列島れっとう発見はっけんし、カムチャツカ半島はんとう千島ちしま列島れっとう航行こうこうしていた。[よう出典しゅってん]とうげんむねひらけもとじゅうさんねん西暦せいれき725ねん)、からあさハバロフスクはくりょく)に黒水くろみず設置せっちし、黒水くろみずぐん配置はいちし、黒水くろみず靺鞨の地域ちいき効果こうかてき行政ぎょうせい支配しはいおこない、現在げんざいのカムチャツカ半島はんとう千島ちしま列島れっとう探検たんけんした。[よう出典しゅってん]しんとうしょ北狄ほくてきでん』には、「黑水くろみず西北せいほくまたゆう思慕しぼえききたぎょうじゅうにちとくぐん利部かがぶ東北とうほくゆきじゅうにちとくくつせつまたごうこごめしつらえやや東南とうなんぎょうじゅうにちとく莫曳みな」としるされている。

とう時代じだいにおいて樺太からふととう靺鞨くつせつぞくし、「くつせつ」や「こごめせつ」といった言葉ことば同島どうとう中国語ちゅうごくごめいである「くらぺーじ」の語源ごげんとなった。[よう出典しゅってん] 当時とうじに靺鞨の勢力せいりょく強力きょうりょくであったため、くつせつ直接ちょくせつとう朝貢ちょうこうするのではなく、靺鞨にぞくしていた。また、ながれおにこくとう朝貢ちょうこうし、その王子おうじ可也かなりこころざしからあさである長安ながやすおとずれ、からあささつふうけ、可也かなりこころざしにはからあさからじょう官職かんしょく授与じゅよされました。ながれおにこくはおそらくカムチャツカ半島はんとうのエホツク文化ぶんか一部いちぶぞくであったとかんがえられている。[よう出典しゅってん]史料しりょうによれば、ながれおにこく使者ししゃは「さんやく而来朝貢ちょうこう」し、まずくつせつながれおにこく言葉ことばくつせつ言葉ことばやくし、つぎ黒水くろみず靺鞨がみずからの言葉ことば翻訳ほんやくし、最後さいご中国語ちゅうごくごやくされたとされている。

また、飛鳥あすか時代ときよひとし明天めいてんすめらぎのころおこなわれた蝦夷えぞ征討せいとう・粛慎討伐とうばつさい阿倍比羅夫あべのひらふ交戦こうせんしたぬさまかないべんとう樺太からふととのせつ[15] もある。樺太からふと南北なんぼくながいため、アイヌの居住きょじゅうであるみなみ樺太からふとと、ニヴフの居住きょじゅうであるきた樺太からふとけて記述きじゅつする。

ロシアのウラジオストクにおけるアルセニエフ博物館はくぶつかん所蔵しょぞうされているえいやすしてらじゅうけんえいやすしてら

15世紀せいきはつあきらきた黒龍江こくりゅうこう下流かりゅう地域ちいき進出しんしゅつしたため、おんなしんぞくかく部族ぶぞくあかり服属ふくぞくはじめた。1410ねん同島どうとうひがし位置いちする駑烈かわ流域りゅういきオロッコじん族長ぞくちょう率先そっせんしてあかり朝貢ちょうこうし、そのに兀烈かわまもる設置せっちした。1411ねんあかりそとまんしゅうとくりんやつしか指揮しき使もうけ、そとまんしゅうおんなしょ部族ぶぞくをなだめるためのものだった。1412ねん北部ほくぶ近海きんかいニヴフじん族長ぞくちょう朝貢ちょうこうし、そのに囊哈まもる設置せっちした。1428ねん中部ちゅうぶなみ奈河ながわ流域りゅういきオロッコじん族長ぞくちょう朝貢ちょうこうし、そのなみかわまもるもうけた。これらみっつのまもるはすべてやつしか指揮しき使ぞくしていた。あかり黒龍江こくりゅうこう下流かりゅう地域ちいき樺太からふととうなどを効果こうかてき管理かんりするため、ふとしかんまたしつ派遣はけんした。かれやつしか地域ちいき巡回じゅんかいし、えいやすしてら建立こんりゅうしながら、この地域ちいき事務じむ記録きろくしているえいやすしてらった。またしつ哈は1413ねんには樺太からふととうふたた視察しさつした。1430ねんあかりせんむね指揮しきかん旺、おうはじめふね、佟答敕哈らをやつしか指揮しき使派遣はけん軍民ぐんみん慰撫いぶした[16]やつしか指揮しき使せんとく9ねん(1434ねん)に正式せいしき廃止はいしされた。そのみっつのまもるあかり朝貢ちょうこうしなくなった。

清朝せいちょう統治とうち[編集へんしゅう]

樺太からふとしん帝国ていこく一部いちぶであることをしめす1821ねんのフランスの地図ちず

1616ねんに、げんの『ひじりたけし』によると「ふとしへい四百收瀕海散各部、其島けんしゃ小舟こぶねひゃく往取、くらぺーじ內附、としみつぎてんがわしつらえせいちょうごう長子ながこおとうと以統」との記述きじゅつがある。清朝せいちょう建国けんこくしたのち樺太からふととう中国語ちゅうごくごめいくらぺーじとう)は最初さいしょやすしとうふくみやこみつる管理かんりかれ、1715ねん以降いこうさんせいふくみやこみつる統轄とうかつとなった。しま住民じゅうみん毎年まいとし黑龍江こくりゅうこう下流かりゅう祿ろくきょうまでおもむき、清朝せいちょうてんがわなどを献上けんじょうしなければならなかった[17]

1689ねん清朝せいちょうとロシア帝国ていこくは『ネルチンスク条約じょうやく』を締結ていけつし、スタノヴォイ山脈さんみゃく以南いなん中国ちゅうごく領土りょうど規定きていしたが、当時とうじのロシアじん樺太からふととう存在そんざいらなかった。1709ねんかん熙帝はさんにんのイエズスかい修道しゅうどう全国ぜんこく地図ちず測量そくりょうするために派遣はけんし、かれらはひとつのおおきなしま存在そんざいすることをった。翌年よくねんまんしゅうじん構成こうせいされただい測量そくりょうたい間宮まみや海峡かいきょう横断おうだんして樺太からふととう到達とうたつした。满洲ぶん地図ちずでは、樺太からふととう正式せいしきに「ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
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」(sahaliyan ula angga hada)と名付なづけられ、「黒江くろえ口先くちさき」という意味いみである。雍正じゅうねん(1732ねん)、清朝せいちょうは三姓副都統衙門を設立せつりつし、「海島うみしま居住きょじゅうするくらぺーじフェヤカじんてんがわ献上けんじょうする場合ばあい、三姓副都統衙門の兵士へいし派遣はけんされ、約束やくそくてんがわ収集しゅうしゅうする。約束やくそく場所ばしょない場合ばあいは、兵士へいししまるようにめいじ、てんがわ収集しゅうしゅうする」(居住きょじゅう海島うみしまくらぺーじみやび喀人みつぎてんのりよし三姓副都統衙門派出官兵、ぜん約定やくじょうしゅう噶珊收集しゅうしゅうみつぎてんなみ頒賞がらすりん。如不ぜんらい約定やくじょうのりれいかんへいひろ入海いりうみとう喚起かんきまえらい徵收ちょうしゅうてんがわなみ頒賞がらすりん[18])と規定きていされ、同年どうねんには「海島うみしまとくもん赫圖しゃなどのくらぺーじフェヤカじん146を招撫し、てんがわ進上しんじょうするようにめいじた」(招撫居住きょじゅう於海島上しまがみとくもん赫圖しゃとうしょぺーじみやび喀人146れい其貢てん[19])。さらに、清朝せいちょうは「薩爾罕錐」とばれるはたじんむすめ地元じもと部族ぶぞく結婚けっこんすることで連絡れんらく強化きょうかするようになった。結婚けっこん条件じょうけんたかく、皇帝こうてい直接ちょくせつ承認しょうにん必要ひつようであった。男性だんせいおくもの用意よういしなければならず、通常つうじょうてんがわ304まいとさまざまないろのキツネの毛皮けがわ必要ひつようであった。清朝せいちょう豊富ほうふ持参じさんきん用意よういし、おも衣類いるいであったが、「うしとう,犁、鏵、犁碗かく一對いっつい」といった農業のうぎょう持参じさんきんふくまれていた[20]

1738ねんから1739ねんにかけて、日本にっぽん航路こうろ探検たんけんしたロシアの中尉ちゅういシュパンベルクはアイヌぞくから樺太からふととう存在そんざいった。1742ねんにロシアじん探検たんけんシェリティンクは樺太からふととうのほぼ全体ぜんたい東海岸ひがしかいがん探検たんけんし、ロシアは遠東とおひがし地域ちいき樺太からふととう重要じゅうようせいづきはじめた。1783ねんから1787ねんにかけて、フランスの航海こうかいラ・ペルーズ黒龍江こくりゅうこうこう樺太からふととう調査ちょうさし、そのなか宗谷海峡そうやかいきょう発見はっけんした[17]。1785ねん江戸えど幕府ばくふ山口やまぐち鉄五郎てつごろうら5にんとその側近そっきんらを派遣はけんし、千島ちしま列島れっとう樺太からふととう方向ほうこうから測量そくりょうし、「樺太からふととう北部ほくぶ清国きよくにぞくする」と結論けつろんけた[17]

みなみ樺太からふと歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい以前いぜん南部なんぶ進出しんしゅつしたぞく縄文じょうもんじんや、日本書紀にほんしょきうえ粛慎(みしわせ)比定ひていされるオホーツク文化ぶんかひとなどが存在そんざいし、鎌倉かまくら時代ときよ以降いこうアイヌ民族みんぞく和人わじん進出しんしゅつ北東ほくとう幌内川ほろないがわ[よう曖昧あいまい回避かいひ]流域りゅういき)には、アイヌ民族みんぞくが「オロッコ」とんだウィルタ民族みんぞくや、「ニクブン」とんだ東岸とうがんニヴフ民族みんぞく(ニヴヒとも。)などの北方ほっぽう少数しょうすう民族みんぞくもいた。以下いかは、みなみ樺太からふと中心ちゅうしん出来事できごと

古代こだいから中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

近世きんせい[編集へんしゅう]

以下いか幕府ばくふ把握はあくしたきた蝦夷えぞ樺太からふと)のアイヌじん人口じんこうと、明治めいじ政府せいふ把握はあくした樺太からふと人員じんいん本籍ほんせき人口じんこうをまとめる。
きた蝦夷えぞ樺太からふと人員じんいん変遷へんせん
西暦せいれき元号げんごう 人口じんこう
1804ねん文化ぶんか元年がんねん 2,100
1822ねん文政ぶんせい5ねん 2,571
1839ねん天保てんぽう10ねん 2,606
1854ねん安政あんせい元年がんねん 2,669
1873ねん明治めいじ6ねん)1がつ1にち 2,358
1875ねん明治めいじ8ねん)1がつ1にち 2,374
  • 1808ねん文化ぶんか5ねん) - 江戸えど幕府ばくふが、最上もがみ徳内とくない松田まつだでん十郎じゅうろう間宮まみや林蔵りんぞう相次あいついで派遣はけん
  • 1809ねん(文化ぶんか6ねん)
    • 同年どうねん西にし蝦夷えぞから分立ぶんりつ名称めいしょうきた蝦夷えぞとなる。松田まつだでん十郎じゅうろう樺太からふとアイヌ住民じゅうみん債務さいむ問題もんだい解決かいけつ貢献こうけん[35] した。また、やま貿易ぼうえき幕府ばくふ公認こうにんとし、アイヌを事実じじつじょう日本人にっぽんじんとしてあつかった。以降いこうやま交易こうえき幕府ばくふ直営ちょくえいとなり、やまじん江戸えど幕府ばくふたい朝貢ちょうこうするようになる。
    • 栖原すはらすみ兵衛ひょうえ信義しんぎ伊達だてりんみぎ衛門えもん共同きょうどうきた蝦夷えぞ(樺太からふと)場所ばしょ[36]幕命ばくめいにより樺太からふと久春ひさはる古丹こたん(大泊おおとまりぐん大泊おおとまりまちくすのきけい)と宗谷そうやあいだに500 せき以上いじょう帆船はんせん2そう就航しゅうこうさせ、松前まさき陸奥みちのくさんうまやあいだにも定期ていき航路こうろ開設かいせつみなみ樺太からふと漁場ぎょじょう48箇所かしょ経営けいえい[37] し、島内とうないに7ヶ所かしょ通行つうこうすなわ旅宿りょしゅくしょ)をもう交通こうつう便びんはかる。
  • 1821ねん文政ぶんせい4ねん) - 幕府ばくふぜん蝦夷えぞ松前まさきはん返還へんかんする。
  • 1846ねんひろし3ねん) - 松浦まつうら武四郎たけしろう草履ぞうり運平うんぺい名乗なのり、はじめてわたりかばきた蝦夷えぞ勤務きんむ下命かめいされたはん西川にしかわはるあん随行ずいこう(『鈴木すずきしげるなお 松浦まつうら武四郎たけしろう からふとし日記にっき』)。

幕末ばくまつから明治めいじ初期しょき[編集へんしゅう]

  • 1853ねんよしみひさし6ねん
  • 1854ねんよしみなが7ねん
    • 千島ちしま列島れっとうちょん樺太からふとしまカムチャッカ半島はんとうまでも明記めいきした「改正かいせい蝦夷えぞぜん」なる(加陽かよう豊島としま あつしさく
    • 5月18にち - クリミア戦争せんそう影響えいきょうけ、ロシアせん4せき来航らいこうしわずか8かげつほどで駐留ちゅうりゅうのロシアへい撤収てっしゅうしてクシュンコタン(久春ひさはる古丹こたん)をった。
  • 1854ねん安政あんせい元年がんねん
    • 6月12にち目付めつけほりとしあきら勘定かんじょう吟味ぎんみやくむらかきはんただしらがきた蝦夷えぞクシュンコタンに渡海とかい西にしらいしむらちかくのライチシカまで、ひがしはオハコタン(栄浜さかえはまぐんしろぬいむら箱田はこだ)まで調査ちょうさ。このとき普請ふしんやく間宮まみや鉄次郎てつじろう東海岸ひがしかいがんタライカ(じきこうやつぐんじきこうやつまちらい)まで、支配しはい勘定かんじょう上川かみかわさむらい次郎じろう西海岸にしかいがん北緯ほくい50のすぐきたのホロコタン(ほろけいめいピリポ)まで、松前まさき藩士はんし今井いまいはちきゅうろうはニヴフ居住きょじゅうきた樺太からふとナッコ(ラッカ)まで調査ちょうさ
    • にち和親わしん条約じょうやくにより、にち国境こっきょう樺太からふととうじょうさだめずまでの仕来しきたりによること(国境こっきょう確定かくていのまま棚上たなあ先送さきおくり)を決定けっていした[39]
  • 安政あんせい年間ねんかん(1854 ねん1860ねん)から明治めいじ初期しょきにかけて、安房あわ勝山かちやまはん小浜おばまはん黒羽くろははん烏山からすやまはん笠間かさまはん加納かのうはんかくはんもタライカわんせい香川かがわ(じきこうやつぐんじきこうやつまち)近辺きんぺん警固けいご拠点きょてんかまえた。東岸とうがんでフヌプよりきた居住きょじゅうするアイヌ(タライカじん)は60めいで、らいわんきし東岸とうがんにおけるアイヌ居住きょじゅう北限ほくげんであるが、とくらい周辺しゅうへんではニヴフやウィルタとこんじゅうしていた。
  • 1855ねん安政あんせい2ねん) - 樺太からふとふく蝦夷えぞふたたおおやけ御料ごりょう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう)となり、秋田あきたはんしろぬし久春ひさはる古丹こたん陣屋じんやきず警固けいごおこなった。また、このとし以降いこう番人ばんにん足軽あしがる取立とりたて武装ぶそう冬季とうき警固けいごした。
  • 1856ねん安政あんせい3ねん
  • 1857ねん安政あんせい4ねん
    • 越後えちご出身しゅっしん蝦夷えぞ御用ごようかた松川まつかわべんすけ東岸とうがんひがしとみあい(トンナイ)りょうのオチョポカ(富内とみうちぐん富内とみうちむら落帆)に漁場ぎょじょう(ぎょば)を開拓かいたくする。
    • 越後えちごこく蒲原かまはらぐん井栗いぐりむら大工だいくしょく平次郎へいじろうつまよつ、樺太からふと身内みうちくなりざいりょうワアレ(栄浜さかえはまぐんしろぬいむらあら)まで一人ひとりたびした[41]
    • 佐藤さとうひろみぎもん東海岸ひがしかいがんのマアヌイと西海岸にしかいがん久春ひさはるない取締とりしまりしょ番屋ばんやりょうしゃ)、東海岸ひがしかいがんひがしとみあいりょうオチョポッカや栄浜さかえはまりょうの魯礼にも会所かいしょうん上屋うわや)を漁場ぎょじょう経営けいえいあたった。
    • 7がつ - ロタノスケひきいるロシアぐんがナヨロ(とまりぐん名寄なよせむら)に上陸じょうりくしクシニンナイに移動いどう、クスナイスキー哨所を建設けんせつしたが日本にっぽん警護けいごかたく8がつ1にち撤退てったい
    • 安政あんせい3ねん4ねん(1856・57)ごろ幕府ばくふ施設しせつでクシュンコタンに大砲たいほう4設置せっちされた台場だいば1カ所かしょ存在そんざい陸上りくじょう交通こうつうについて、西岸せいがんは「通行つうこう」5カ所かしょ、「しょうきゅうしょ」3カ所かしょ、ナヤス(めいこうぐんめいこうむら)以北いほくのみに「宿やど」あり。にわ湾岸わんがんは「通行つうこう」8カ所かしょと、「しょうきゅうしょ」3カ所かしょ東岸とうがんは「通行つうこう」5カ所かしょと、「しょうきゅうしょ」5カ所かしょ
  • 1858ねん安政あんせい5ねん
    • 幕府ばくふ大野おおのはんあるじ土井どい利忠としただきた蝦夷えぞ警固けいご開拓かいたくめいじた(大野おおのはんじゅんりょうウショロ(じょう場所ばしょ)。ウショロ場所ばしょには、めいこうぐんやホロコタン(ほろけいめい:ピレオ)もふくまれた。同年どうねん、クシュンナイ周辺しゅうへんはこかん奉行ぶぎょう石狩いしかり役所やくしょちょく捌場しょとなった(石狩いしかりちょく場所ばしょ)。
    • 10代目だいめ山田やまだぶんみぎ衛門えもん清富きよとみ差配さはい人並ひとなみにんじられ、栄浜さかえはまりょうのシュシュウシナイ(栄浜さかえはまぐん栄浜さかえはまむら栄浜さかえはま)など東海岸ひがしかいがんすうしょ漁場ぎょじょうひらいた。
    • 米屋よねや喜代きよさく(慶応けいおうねん以降いこう佐野さの孫右衛門まごえもん)とうひがしとみあいりょうイヌヌシナイ(栄浜さかえはまぐん栄浜さかえはまむらいぬぬし)やマクンコタン(もととまりぐんやどりきむらうまぐん潭)に漁場ぎょじょうひらいた。
    • マーヌイ(栄浜さかえはまぐんしろぬいむらぬい)にマヌエ哨所を建設けんせつ少数しょうすうのロシアへい定住ていじゅうし、はじめてにち両国りょうこくじん部分ぶぶんてき雑居ざっきょ状態じょうたいしょうじる。
  • 1859ねん安政あんせい6ねん)7がつ26にち - ムラヴィヨフは、みずか軍艦ぐんかん7せきひきいて品川しながわ来航らいこう樺太からふと全土ぜんどりょう威嚇いかく主張しゅちょうしたが、虎ノ門とらのもん天徳寺てんとくじにおける江戸えど幕府ばくふとムラヴィヨフの会談かいだん席上せきじょう幕府ばくふ外国がいこく事務じむかけ遠藤えんどうたねみつる酒井さかいただしとおしてこれを完全かんぜん退しりぞけた。
  • 1860ねん万延まんえん元年がんねん
    • 樺太からふと南部なんぶ警固けいご仙台せんだい会津あいづ秋田あきた庄内しょうないの4はんとなる。
    • 佐藤さとうひろみぎ衛門えもんちゅう知床岬しれとこみさき北東ほくとう海岸かいがん漁場ぎょじょう7カ所かしょひらく(みなべつりょう)。
  • 1862ねん文久ぶんきゅう2ねん
    • 安房あわ勝山かちやまはん藩士はんし渡辺わたなべ隆之助りゅうのすけ派遣はけん東岸とうがんのシスカ(じきこうやつぐんじきこうやつまち)に漁場ぎょじょう開設かいせつ
    • 勤番きんばんしょ、クシュンコタン、シラヌシ、西にしトンナイ(真岡しんおかぐん真岡しんおかまち)、ワーレ(栄浜さかえはまぐんしろぬいむらあら)、クシュンナイの5ケ所かしょとなる。
  • 1863ねん文久ぶんきゅう3ねん) - 樺太からふと南部なんぶ警固けいご仙台せんだい秋田あきた庄内しょうないの3はんとなる。
  • 1865ねん慶応けいおう元年がんねん) - ロシア軍艦ぐんかん久春ひさはるない来航らいこうし、大砲たいほうもん揚陸ようりく強引ごういんに哨所をきずく。
  • 1866ねん慶応けいおう2ねん
  • 1867ねん慶応けいおう3ねん
    • 幕府ばくふ使節しせつだんとロシアがわで、1がつ2にちから2がつ7にちまで8かい交渉こうしょうおこなわれるも正式せいしき合意ごういいたらず、2がつ25にち樺太からふととうかり規則きそく調印ちょういん樺太からふと全島ぜんとうにち雑居ざっきょ[43] とされた。以降いこう、ロシアは軍隊ぐんたい増派ぞうはして、北緯ほくい48以南いなん日本にっぽん本拠地ほんきょちである樺太からふと南端なんたんにわわんきしまでの軍事ぐんじてき制圧せいあつ着手ちゃくしゅ
    • 5月 - 使節しせつだん日本にっぽん帰国きこく
    • 6がつ - 栖原すはらすみ兵衛ひょうえやすしみき樺太からふと漁業ぎょぎょう出稼でかせぎめいぜられる。同年どうねん12がつ樺太からふと東海岸ひがしかいがん漁業ぎょぎょう出稼でかせぎめいぜられ、栖原すはら経営けいえいした漁場ぎょじょうは58かしょおよんだ。
  • 1868ねん慶応けいおう4ねん
    • 4がつ12にち - はこかん裁判所さいばんしょ(あいだ4がつ24にちはこかん改称かいしょう)の管轄かんかつとなった。
    • 6がつまつ - 岡本おかもとかん輔、はこかん行政ぎょうせいかんとしてクシュンコタン(大泊おおとまりぐん大泊おおとまりまちくすのきけい)に着任ちゃくにんおおやけしょくとともに、島内とうない8ヶ所かしょ出張所しゅっちょうしょ設置せっち官員かんいん派遣はけん
    • 同年どうねん神仏しんぶつ分離ぶんりれいされる。
  • 1869ねん明治めいじ2ねん) - 開拓かいたく使直轄ちょっかつりょうとなり、きた蝦夷えぞ樺太からふとくに改称かいしょう。このとしからロシアは囚人しゅうじん送込おくりこはじめる。
  • 1870ねん明治めいじ3ねん)2がつ13にち - 樺太からふと開拓かいたく使開拓かいたく使から分離ぶんりして、久春ひさはる古丹こたん開設かいせつされる。
  • 1871ねん明治めいじ4ねん)8がつ7にち - 樺太からふと開拓かいたく使閉鎖へいさし、開拓かいたく使再度さいど統合とうごうする。
  • 1872ねん明治めいじ5ねん
  • 1873ねん明治めいじ6ねん) - ロシアへい破壊はかい活動かつどう消火しょうか活動かつどう妨害ぼうがいおこなったはこはく大泊おおとまりぐん大泊おおとまりまち山下やました出火しゅっか事件じけんけ、そつ増員ぞういん
  • 1875ねん(明治めいじ8ねん)

全島ぜんとうのロシアりょう[編集へんしゅう]

南部なんぶ日本にっぽんりょう[編集へんしゅう]

  • 1905ねん明治めいじ38ねん)9がつ5にち - にち戦争せんそう勝利しょうりポーツマス条約じょうやく締結ていけつにより、北緯ほくい50以南いなん樺太からふととうみなみ樺太からふと)が日本にっぽん帰属きぞく行政ぎょうせい機関きかんとして樺太からふと民政みんせいしょ設置せっちされる。
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)4がつ1にち
    • 樺太からふとちょう官制かんせい明治めいじ40ねん3がつ15にちみことのりれいだい33ごう)により、樺太からふと民政みんせいしょ発展はってんてき解消かいしょうして樺太からふとちょう発足ほっそく
    • 樺太からふと施行しこうスヘキ法令ほうれいせきスル法律ほうりつ明治めいじ40ねん法律ほうりつだい25ごう施行しこう[44][45]内地ないち法律ほうりつみことのりれいにより施行しこうされ、台湾たいわん朝鮮ちょうせんことなり、樺太からふとみなみ樺太からふと)では委任いにん立法りっぽう制度せいどみとめられずなかった。そのため、特定とくてい事項じこうについてはみことのりれい特別とくべつさだめをすることができることとし、樺太からふと実情じつじょう適合てきごうしない不都合ふつごう緩和かんわする方策ほうさくられた[46]。また、司法しほうせきスル法律ほうりつ樺太からふと施行しこうスルノけん明治めいじ40ねんみことのりれいだい94ごう)により、裁判所さいばんしょ構成こうせいほう民法みんぽう商法しょうほう樺太からふと施行しこうされ内地ないち同一どういつ制度せいどになっていた。
北緯ほくい50国境こっきょう標識ひょうしきと、警備けいびにあたる日本にっぽん国境こっきょう警察けいさつ隊員たいいん。1913ねん大正たいしょう2ねん)から1939ねん昭和しょうわ14ねん)までみなみ樺太からふと日本にっぽんぐん部隊ぶたい常駐じょうちゅうせず、国境こっきょう警察けいさつたいだけが警備けいび担当たんとうしていた。
日本にっぽん統治とうち時代じだい樺太からふとみなみ樺太からふと)の人口じんこう変遷へんせん以下いかにまとめる。
日本にっぽん統治とうち時代じだい樺太からふとみなみ樺太からふと)の人口じんこう変遷へんせん
調査ちょうさ年月日ねんがっぴ 人口じんこう 出典しゅってん
1908ねん明治めいじ41ねん)12月31にち 26,393 樺太からふとちょう統計とうけいしょ
1913ねん大正たいしょう2ねん)12月31にち 44,356 樺太からふとちょう統計とうけいしょ
1918ねん大正たいしょう7ねん)12月31にち 79,795 樺太からふとちょう統計とうけいしょ
1920ねん大正たいしょう9ねん)10がつ1にち 105,899 国勢調査こくせいちょうさ
1925ねん大正たいしょう14ねん)10がつ1にち 203,754 国勢調査こくせいちょうさ
1930ねん昭和しょうわ5ねん)10がつ1にち 295,196 国勢調査こくせいちょうさ
1935ねん昭和しょうわ10ねん)10がつ1にち 331,943 国勢調査こくせいちょうさ
1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ1にち 414,891 国勢調査こくせいちょうさ
1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつ22にち 391,825 人口じんこう調査ちょうさ
ただし、極寒ごっかん樺太からふとではなつふゆでは人口じんこうちがい、ふゆには避寒ひかんのため北海道ほっかいどう以南いなんもどものおお人口じんこうり、よくなつにはまたえる。れいとしては明治めいじ44ねんではなつ人口じんこうは57000にんだがふゆには36725にんっている[47]
  • 1908ねん明治めいじ41ねん3月31にち - 内務省ないむしょう告示こくじにて、地名ちめい日本語にほんごしき漢字かんじ表記ひょうき変更へんこう[48]
  • 1909ねん明治めいじ42ねん樺太からふとちょうれいで、「部落ぶらく総代そうだい規定きてい」を制定せいてい主要しゅよう83部落ぶらく集落しゅうらく)に町村ちょうそんちょう相当そうとうする総代そうだいき、行政ぎょうせい事務じむをおこなうこととした。
  • 1911ねん明治めいじ44ねん) - 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ樺太からふと国有こくゆうりん伐採ばっさいけんる。
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん) - 樺太からふと守備しゅびたい廃止はいし以降いこう国境こっきょう警察けいさつたい国境こっきょう警備けいび担当たんとう
  • 1915ねん大正たいしょう4ねん6月26にち - みことのりれいだい101ごう樺太からふとぐん町村ちょうそん編制へんせいせきスルけんにより、17ぐん4まち58むら設置せっちされる。
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん) - 共通きょうつうほう大正たいしょう7ねん法律ほうりつだい39ごう)(大正たいしょう7ねん4がつ17にち施行しこう)1じょう2こうで、樺太からふと内地ないちふくむと規定きてい[49] された。これは前述ぜんじゅつのように、すでに民法みんぽう樺太からふとについて、適用てきようされていたため、内地ないちあつかいとしたものである。
  • 1920ねん大正たいしょう9ねん
    • 5月1にち大正たいしょう9ねんみことのりれいだい124ごう樺太からふと施行しこうスル法律ほうりつ特例とくれいせきスルけん[50] 公布こうふ。それまで樺太からふとに、内地ないち法律ほうりつ適用てきようするさいに、個別こべつ規定きていしていた地方ちほうてきまた種族しゅぞく法的ほうてき性質せいしつゆうする特例とくれい統合とうごうして規定きていした。なおこのみことのりれいは、大正たいしょう15ねん12月25にちみことのりれいだい357ごうによる改正かいせい題名だいめいが、樺太からふと施行しこう法律ほうりつ特例とくれいとなった。
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん
    • 4がつ1にち - 「樺太からふと地方ちほう制度せいどせきスル法律ほうりつ」(大正たいしょう10ねん4がつ8にち法律ほうりつだい47ごう)と、その細則さいそく樺太からふと町村ちょうそんせい」(大正たいしょう11ねん1がつ23にちみことのりれいだい8ごう)が施行しこう
    • 部落ぶらく総代そうだい規定きてい廃止はいし
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん
樺太からふと残留ざんりゅうロシアじん集落しゅうらく
1930ねん昭和しょうわ5ねんごろ

内地ないち時代じだい[編集へんしゅう]

1930年代ねんだい内地ないち編入へんにゅうまえ)の豊原とよはら中心ちゅうしん真岡もおかどお)の風景ふうけい
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん11月1にち - つぶせつとむしょう廃止はいしだい東亜とうあしょう設置せっちともな樺太からふとちょう内務省ないむしょう移管いかんされる。
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん
    • 4がつ1にち - よんじゅうねん法律ほうりつだいじゅうごう廃止はいし法律ほうりつ昭和しょうわ18ねん3がつ27にち法律ほうりつだい85ごう)により、樺太からふと施行しこうスヘキ法令ほうれいせきスルけん廃止はいし

され、樺太からふと完全かんぜん内地ないち編入へんにゅうされた。ただし、廃止はいし法律ほうりつ附則ふそくで、それまでのみことのりれいによる特例とくれいはなお効力こうりょくゆうするとされたため、樺太からふと施行しこう法律ほうりつ特例とくれい大正たいしょう9ねんみことのりれいだい124ごう)は廃止はいしされずそのまま有効ゆうこうとされた。北海道ほっかいどうとともに北海ほっかい地方ちほう[注釈ちゅうしゃく 5]ふくまれた。

戦後せんご樺太からふと[編集へんしゅう]

きた樺太からふと歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい以前いぜん日本書紀にほんしょきうえ粛慎(みしわせ)とされるオホーツク文化ぶんかひとなどが存在そんざいし、鎌倉かまくら時代ときよ以降いこうは、ニヴフ民族みんぞく(ニヴヒとも。アイヌ民族みんぞく西岸せいがんを「スメレンクル」、東岸とうがんを「ニクブン」とんだ)、アイヌ民族みんぞくが「オロッコ」とんだ東部とうぶ(ロモウがわ流域りゅういき)のウィルタ民族みんぞく、などの北方ほっぽう少数しょうすう民族みんぞくもいた。以下いかきた樺太からふと中心ちゅうしん出来事できごと

古代こだいから中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

  • 640ねん舒明天皇てんのう12ねん) - 「ながれおにこく」(オホーツク文化ぶんかひと?)がとう入貢にゅうこう
  • 762ねん天平てんぴょうたから6ねん)12月1にち - 陸奥みちのくこく陸前りくぜんこく)の国府こくふ多賀城たがじょう修造しゅうぞうされた多賀城たがじょうに「靺鞨(まっかつ)こくさかいさんせんさと(1,600km)」としるされる。ちなみに、多賀城たがじょうからの直線ちょくせん距離きょりは、間宮まみや海峡かいきょうさいせまくろりゅう水道すいどう)でやく1,530km、それよりきた黒龍江こくりゅうこう河口かこう付近ふきんやく1,600kmである。
  • 1264ねんぶんひさし元年がんねん) - さつふう体制たいせいしたにあった吉里よしさと迷(ギレミ、よしれつめつが、「ほね嵬(クイ)やまたさと于(イリウ)が毎年まいとしのように侵入しんにゅうしてくる」とうったえたため、こうむ帝国ていこく(1271ねんからもと)が3000にん軍勢ぐんぜい樺太からふと派兵はへいし、みなみ住民じゅうみんの「ほね嵬」を攻撃こうげき。このころ、蝦夷えぞ社会しゃかい不安定ふあんていし、安東あんどう五郎ごろう討伐とうばつぐんひき津軽海峡つがるかいきょう渡海とかいしたが討死うちじにしたという記録きろく日蓮にちれん遺文いぶん種種しゅじゅ振舞ふるまいしょ』)があり、たいこうむ戦闘せんとうせつもある。
  • 1284ねん弘安ひろやす7ねん)- 1286ねん弘安ひろやす9ねん) - もと、聶古たい(ニクタイ)をせいひがし招討にんじ、だい規模きぼほね征伐せいばつが20ねんぶりに実行じっこうされる。1285ねん弘安ひろやす8ねん)はへいいちまんにん、1286ねんにはへいいちまんにんふね1,000そう派遣はけん(『もと』)。派兵はへい規模きぼ目安めやすとして、関連かんれん項目こうもくもと参照さんしょうされたい。
  • 1295ねんえいひとし3ねん) - にちみなみ樺太からふとから北上ほくじょうし、オッチシ(落石らくせき、ニヴフめいはイドイー)から、日蓮宗にちれんしゅう布教ふきょう活動かつどうのため大陸たいりく渡航とこうしたとされる。
  • 1297ねんえいひとし5ねん)7がつ - おうかどいにしえ(ユプレンク)にひきいられたほね嵬(樺太からふとアイヌ)が間宮まみや海峡かいきょう対岸たいがん大陸たいりく黒龍江こくりゅうこう遡上そじょうしてはらいさとかわというところでもと交戦こうせん(『もとぶんるい』)。このたたかいについては諸説しょせつあり、榎森えのもりすすむ無理むりがあると指摘してきする[54] 一方いっぽう海保かいほ嶺夫みねおは、水軍すいぐんをはじめ対抗たいこう可能かのう軍事ぐんじりょくようする蝦夷えぞ沙汰さたしょく蝦夷えぞ代官だいかん安藤あんどうが、蝦夷えぞ樺太からふとアイヌ)を動員どういんして組織そしきてきもとたたかったというせつとなえた[55]
  • 1308ねん徳治とくじ3ねん/のべけい元年がんねん) - 吉里よしさと迷を仲介ちゅうかいとして、ほね嵬が毛皮けがわみつぎおさめ条件じょうけん提示ていじ元朝がんちょうへの和議わぎ帰順きじゅんもう事実じじつじょう和睦わぼく成立せいりつ交易こうえきするようになった。以降いこう、40ねん以上いじょうおよんだほね嵬と元朝がんちょうたたかいは終了しゅうりょう。このとき、安藤あんどう停戦ていせん戦闘せんとう継続けいぞく対立たいりつ、のちの安藤あんどうらんつながったとするせつもある。
  • 1368ねん南朝なんちょう:正平しょうへい23ねん北朝ほくちょう:おうやす元年がんねん) - もと中国ちゅうごく大陸たいりく支配しはいけんうしなきたはし大陸たいりくまんしゅう方面ほうめんめぐって新興しんこうあきらまじえての戦乱せんらん混乱こんらんつづき、間宮まみや海峡かいきょうはさんで対峙たいじする樺太からふとへの干渉かんしょうきりけしする。
  • 室町むろまち時代ときよ以降いこう安藤あんどう水軍すいぐん関東かんとう御免ごめんせんとして日本海にほんかい北部ほくぶ中心ちゅうしんにかなり広範囲こうはんい活動かつどう大陸たいりくとの交易こうえきもおこなった。
  • 1411ねんおうなが18ねん) - あきら進出しんしゅつした大陸たいりく黒龍江こくりゅうこう(アムールがわしも流域りゅういきそとまんしゅうティル羈縻政策せいさくつかさどやつみやこつかさ設置せっち周辺しゅうへんしょ民族みんぞく外交がいこう関係かんけいむすさい樺太からふと北部ほくぶ3箇所かしょ先住民せんじゅうみん首長しゅちょうにもめい目的もくてき羈縻まもるしょ指揮しきかん称号しょうごう付与ふよ[56]。これをかいみなみ樺太からふと以南いなんむタライカじん(アイヌ民族みんぞく)とも交易こうえきする。
    • 1410ねんおうなが17ねん) - きた樺太からふと東岸とうがんロモウがわ流域りゅういき先住民せんじゅうみん(ウィルタ)首長しゅちょうあかり朝貢ちょうこう、兀列かわ(ウリエホー)まもる指揮しきかん称号しょうごう授与じゅよされる。
    • 1412ねんおうなが19ねん) - きた樺太からふと西岸せいがんリャングルの先住民せんじゅうみん(ニヴフ)首長しゅちょうあかり朝貢ちょうこう、嚢哈(ナンハル)まもる指揮しきかん称号しょうごう授与じゅよされる。
    • 1428ねんおうなが35ねん/せいちょう元年がんねん)までに、樺太からふと東岸とうがん中部ちゅうぶ幌内川ほろないがわ流域りゅういき先住民せんじゅうみん(ウィルタ)首長しゅちょうあかり朝貢ちょうこうなみかわ(ポロホー)まもる指揮しきかん称号しょうごう授与じゅよされる。
  • 1435ねんえいとおる7ねん) - やつ廃止はいしされ、樺太からふと北部ほくぶ3まもる先住民せんじゅうみんあかりへの朝貢ちょうこう交易こうえきから解放かいほうされる。ただし、ロモウがわ流域りゅういき幌内川ほろないがわ流域りゅういきは、15世紀せいき後半こうはんまで大陸たいりく交易こうえきをおこなった。

近世きんせい[編集へんしゅう]

1810ねん間宮まみや林蔵りんぞう作成さくせいしたサハリン(樺太からふと)の地図ちず

幕末ばくまつから明治めいじ初期しょき[編集へんしゅう]

  • 1853ねんよしみひさし6ねん
    • ロシアが、きた樺太からふと北端ほくたんクエグトみさき国旗こっきかかげ、領有りょうゆう宣言せんげん同年どうねんあき、ネヴェリスコイ海軍かいぐん大佐たいさ一方いっぽうてき樺太からふと全島ぜんとう領有りょうゆう宣言せんげん
    • ロシア使節しせつプチャーチン国境こっきょう交渉こうしょう通商つうしょうもと長崎ながさき来航らいこう日本にっぽん全権ぜんけん筒井つつい肥前ひぜんもり川路かわじ聖謨としあきら交渉こうしょうしたが決裂けつれつ北緯ほくい50せん分割ぶんかつあん検討けんとうされたが、日本にっぽん行政ぎょうせいオムシャ宗門しゅうもん人別にんべつあらためちょう参照さんしょう)がおよ地域ちいき西岸せいがん北緯ほくい50°よりすこきたのホロコタン(ほろけいめい:ピレオ。樺太からふと西岸せいがんにおけるアイヌ居住きょじゅう北限ほくげん。)以南いなん東岸とうがん北緯ほくい48.5°のフヌプ(もととまりぐんもととまりむらはんしん以南いなん)は日本にっぽんりょう、それよりきたもロシアの支配しはいおよばない無主むしゅとして国境こっきょう交渉こうしょう当時とうじきた樺太からふと住民じゅうみんはアイヌによって西岸せいがんはスメレンクル、東岸とうがんはニクブンとばれたニヴフのほか、東岸とうがん幌内川ほろないがわとロモウがわ流域りゅういきむウィルタ、西岸せいがんさい南部なんぶ・ホロコタンに少数しょうすう日本人にっぽんじん(アイヌおよ和人わじん)のみ。間宮まみや海峡かいきょう対岸たいがんそとまんしゅうでさえ清国きよくにりょうであり、ロシアりょうではなかった[38]
  • 1854ねん安政あんせい元年がんねん
    • 6がつ支配しはい勘定かんじょう上川かみかわさむらい次郎じろう西海岸にしかいがん北緯ほくい50のすぐきたのホロコタン(ほろけいめいピリポ)まで、松前まさき藩士はんし今井いまいはちきゅうろうはニヴフ居住きょじゅうきた樺太からふとナッコ(ラッカ)まで調査ちょうさ
    • にち和親わしん条約じょうやくにより、にち国境こっきょう樺太からふととうじょうさだめずまでの仕来しきたりによること(国境こっきょう確定かくていのまま棚上たなあ先送さきおくり)を決定けっていした[39]
  • 1854ねんよしみなが7ねん
  • 1856ねん安政あんせい3ねん
    • 同年どうねん海軍かいぐん大尉たいいN.M.チハチョーフがニヴフ居住きょじゅうきた樺太からふと西海岸にしかいがんころもにドウーエ哨所を建設けんせつ
  • 1858ねん安政あんせい5ねん
    • 当時とうじ樺太からふと居住きょじゅうするロシアじんはニヴフ居住きょじゅうきた樺太からふと西岸せいがん・オッチシ(落石らくせきめい:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12めいのみである。
  • 1865ねん慶応けいおう元年がんねん) - 岡本おかもとかんが、樺太からふと最北端さいほくたんガオトみさき北緯ほくい55)にいたり、「だい日本にっぽんりょう」としるした標柱ひょうちゅうてる。
  • 1867ねん慶応けいおう3ねん) - 幕府ばくふ使節しせつだんとロシアがわで、1がつ2にちから2がつ7にちまで8かい交渉こうしょうおこなわれるも正式せいしき合意ごういいたらず、2がつ25にち樺太からふととうかり規則きそく調印ちょういん樺太からふと全島ぜんとうにち雑居ざっきょ[43] とされた。

ロシアりょう[編集へんしゅう]

1880年代ねんだい樺太からふとへのロシアの流刑りゅうけいしゃ

帰属きぞく歴史れきし[編集へんしゅう]

領土りょうど開発かいはつ1875ねんから1945ねん
1875ねん樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやく
1905ねんポーツマス条約じょうやく
1945ねんだい世界せかい大戦たいせんわり
ロシアにおける樺太からふと位置いち
宗谷そうやみさきから樺太からふとのぞむ。この写真しゃしんではぼんやりしているが、天候てんこうによってははっきりえることもある[64]

幕末ばくまつ以来いらい日本にっぽんとロシアのあいだ領有りょうゆうしゃ度々どど変遷へんせんした。

ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい、それを継承けいしょうしたロシア連邦れんぽうがいまなおみなみ樺太からふと全体ぜんたい実効じっこう支配しはいしている。

領土りょうど問題もんだい[編集へんしゅう]

樺太からふと(50せん以南いなん)について、日本にっぽんでは国際こくさいほうじょう帰属きぞく確定かくていであるとするゆえに、北方領土ほっぽうりょうど問題もんだいとともにげられることもおおい。

現在げんざいまでの経緯けいい[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ9にち、ソビエト連邦れんぽうにち中立ちゅうりつ条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきたいにち参戦さんせん。これは1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつべいえい首脳しゅのうソ連それんたいしてナチス・ドイツ降伏ごうぶく3カ月かげつたいにち参戦さんせんすることを条件じょうけんに、みなみ樺太からふと千島ちしま列島れっとうわたすという密約みつやくあたえたヤルタ協定きょうていもとづいておこなわれたものである。8がつ11にちよりみなみ樺太からふと侵攻しんこう開始かいしした。8がつ14にちポツダム宣言せんげん受諾じゅだくも、8がつ22にちまちにち停戦ていせん協定きょうてい成立せいりつするまでソ連それん民間みんかんじんたいしても攻撃こうげきつづけた。

1951ねん昭和しょうわ26ねん9月8にちに、日本にっぽん政府せいふは、北緯ほくい30せん以南いなん南西諸島なんせいしょとう小笠原諸島おがさわらしょとうみなみ樺太からふとなどの権利けんり権原けんげんおよ請求せいきゅうけん放棄ほうき明記めいきされたサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく締結ていけつしたが、引渡さき記載きさいである。そして、ソビエト連邦れんぽうがサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやくへの調印ちょういん批准ひじゅん拒否きょひどう条約じょうやく当事とうじこくでないため条約じょうやく内容ないようソ連それん後継こうけいロシア連邦れんぽう)に適用てきようされるわけではなく、みなみ樺太からふと領有りょうゆうけん帰属きぞくさき国際こくさいほうじょう未定みていのままとなっている[65]

サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく締結ていけつこく見解けんかい[編集へんしゅう]

現在げんざい日本にっぽん積極せっきょくてき領土りょうど返還へんかん要求ようきゅうおこなっていないものの、最終さいしゅうてき帰属きぞくにちあいだ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつなど、将来しょうらい国際こくさいてき解決かいけつ手段しゅだんゆだねられると主張しゅちょうしている[66]。さらに、日本にっぽん政府せいふは「かり将来しょうらいなんらかの国際こくさいてき解決かいけつ手段しゅだんによりみなみ樺太からふと帰属きぞく決定けっていされる場合ばあいには、日本にっぽんとしてその内容ないようおうじて必要ひつよう措置そち」をるとしている[66]。そして、日本にっぽん政府せいふはヤルタ会談かいだんについて、日本にっぽん参加さんかしていないためこれに拘束こうそくされず、ヤルタの秘密ひみつ協定きょうてい主権しゅけん侵害しんがいであり国際こくさいほう違反いはんだとしている。

また、冷戦れいせんした1952ねん昭和しょうわ27ねん3がつ20日はつかに、サンフランシスコ講和こうわ平和へいわ条約じょうやく当事とうじこくであるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく上院じょういんは、同年どうねん4がつ28にち発効はっこうするサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくでは、ソビエト連邦れんぽうへのみなみ樺太からふと領土りょうど権利けんり権益けんえきわたしをめたものではない、とする決議けつぎおこなっている。

一方いっぽうで、日本にっぽん政府せいふは、ロシアによる実効じっこう支配しはいについてロシア以外いがいのいかなるくに政府せいふ領有りょうゆうけん主張しゅちょうおこなっておらず、異議いぎとなえる立場たちばにはないとしている[66]。このてんが、いわゆる北方領土ほっぽうりょうど問題もんだい北方ほっぽう地域ちいき)とはことなっている。

平和へいわ条約じょうやく締結ていけつこく・ロシアの主張しゅちょう[編集へんしゅう]

ロシアがわ立場たちばは、ソ連それんはサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく調印ちょういんしなかったが国際こくさい条約じょうやく領有りょうゆうけん放棄ほうき明記めいきされており、さらに、ヤルタ会談かいだん根拠こんきょとして、みなみ樺太からふと千島ちしま列島れっとうソ連それんによる占領せんりょうとロシアの領有りょうゆう戦争せんそう結果けっかであり、またすでソ連それん国内こくないほうにより編入へんにゅうされている[67][68] というものである。

中国ちゅうごく中華民国ちゅうかみんこく)の主張しゅちょう[編集へんしゅう]

蔣介せきにまつわる記録きろく文書ぶんしょをまとめた『蔣中せい先生せんせい年譜ねんぷ長編ちょうへん』には、かつて中国ちゅうごくで「くにはじ教育きょういく実施じっしされたと記録きろくされており[69]1933ねん上海しゃんはい世界せかい輿地よちがくしゃから発行はっこうされ、中国ちゅうごく使用しようされていた小学校しょうがっこうよう地理ちり教科書きょうかしょ小学しょうがく適用てきよう 本國ほんごくしん地圖ちず』には、過去かこ100年間ねんかん外国がいこくうばわれた中国ちゅうごく国土こくど範囲はんいあらわした地図ちず中華ちゅうかこくはじ」が掲載けいさいされており、中国ちゅうごく中心ちゅうしんとした広大こうだい地域ちいきかこんだくろ破線はせん(「現在げんざい」の国境こっきょうせん)と、そのうえかれたふとあかせん(「ふる時代じだい」の国境こっきょうせん)があり、あかせんかこんだ広大こうだい範囲はんいがすべて中国ちゅうごく領土りょうどであり、あかせんくろ破線はせんはさまれた領土りょうどうしなったことが、中国ちゅうごくの「くにはじ」だとうったえている。あかせん日本海にほんかいなかとおり、種子島たねがしま屋久島やくしまをかすめたところで東側ひがしがわきゅうカーブし、琉球りゅうきゅう諸島しょとう範囲はんいないおさめながら南下なんかし、台湾たいわんひがしすな諸島しょとうかこってすすみ、フィリピンパラワンとうけたところで、ふたたきゅうスールー諸島しょとうかこむためにひがしり、ここからボルネオとう北部ほくぶマレーシアブルネイマレーシアシンガポールのあるマレまれ半島はんとうすべて、そしてインドアンダマン諸島しょとうまでかこいこんでから北上ほくじょうし、ミャンマー西側にしがわとおり、ネパールとインド国境こっきょうすすみ、タジキスタンアフガニスタンウズベキスタンカザフスタンまでふくんだあかせんは、ちゅう国境こっきょうとおってモンゴルかう。そしてモンゴルもすべて領内りょうないとしたうえ、樺太からふとすべて、最後さいご朝鮮半島ちょうせんはんとうをまるごとおさめて、たまきじている[70]。その領土りょうどがいつ、どのようにうしなわれたかという説明せつめいきには、樺太からふとは「にわかいちななきゅうねん喪失そうしつ 佔(ロシアが占領せんりょう1790ねん以後いご喪失そうしつ日本にっぽん占領せんりょう)」とある[71]

一部いちぶ人物じんぶつ見解けんかい[編集へんしゅう]

ソ連それんはサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく調印ちょういんしなかったため、みなみ樺太からふと千島ちしま列島れっとう全域ぜんいき日本にっぽん領土りょうどのままであるというものである。きた樺太からふと領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている人物じんぶつもいる[だれ?]

樺太からふととう在留ざいりゅう邦人ほうじん[編集へんしゅう]

樺太からふととうんでいたが敗戦はいせん混乱こんらんにより帰国きこくできなかった日本人にっぽんじん。2018ねん現在げんざいでは家族かぞくふくめ275にん永住えいじゅう帰国きこくたし、86にん樺太からふとに、23にんきゅうソ連それんけんらしている[72]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 小樽おたる航路こうろのみ休止きゅうしちゅう[9]
  2. ^ 樺太からふと石炭せきたん産業さんぎょう起源きげんについては、「じゅうきゅう世紀せいき中旬ちゅうじゅん、ロマノフあさひがしシベリア総督そうとくが、樺太からふとおくんだ囚人しゅうじん一部いちぶすみ坑夫こうふとして労働ろうどうさせ、ごく小規模しょうきぼ炭鉱たんこう経営けいえい開始かいししたとかんがえられている(出典しゅってん太陽たいよう出版しゅっぱん樺太からふと歴史れきし』78ページ)
  3. ^ ウィマムとは藩主はんしゅ役人やくにんにお目見めみえすること。
  4. ^ どう時期じき欧州おうしゅうオランダには、榎本えのもと武揚ぶようさわ太郎左衛門たろうざえもん赤松あかまつそくりょう西にしあまね[よう曖昧あいまい回避かいひ]幕府ばくふ留学生りゅうがくせいだんがいたが、竣功しゅんこうした開陽かいようまるとも同年どうねん10がつ25にちにオランダをっている。
  5. ^ 樺太からふとふくめた場合ばあい北海ほっかい地方ちほうという。
  6. ^ ただし、日本にっぽん外務省がいむしょうは、樺太からふとにち和親わしん条約じょうやくにちこんじゅうめられたと説明せつめいしている(出典しゅってん外務省がいむしょう国内こくない広報こうほう発行はっこう『われらの北方領土ほっぽうりょうど2006年版ねんばん』6ページ)
  7. ^ ただし、『北方領土ほっぽうりょうど問題もんだい資料集しりょうしゅう南方みなかた同胞どうほう援護えんごかい発行はっこう(1966ねん6がつ)4ページでは「カラフトとう是迄これまでとお両国りょうこく所領しょりょう」とされたと記載きさい

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 樺太からふと―カラフト」をる ニッポン 領土りょうど問題もんだい原点げんてん おかせだつ回復かいふく放棄ほうき不法ふほう占拠せんきょ―そして? (別冊べっさつ正論せいろん25)12ぺーじ
  2. ^ 西鶴さいかくていよしみせつ
  3. ^ 中川なかがわひろし; 北原きたはら次郎じろうふとし; 永山ながやまゆかり; バヤリタ; ブリガ; くら徳和のりかず; 久保くぼ智之としゆき; 西田にしだ文信ふみのぶ ほか『ニューエクスプレス・スペシャル 日本語にほんご隣人りんじんたちⅡ』白水しろみずしゃ、2012ねんISBN 9784560086162 
  4. ^ 同上どうじょうおよ田村たむらすず『アイヌ沙流さる方言ほうげん辞典じてんくさふうかん、1996ねんISBN 9784883230938  、ほか多数たすう
  5. ^ 海保かいほ嶺夫みねお北方ほっぽう史料しりょう集成しゅうせい北海道ほっかいどう出版しゅっぱん企画きかくセンターだい4かん〉、1998ねんISBN 9784832898028 
  6. ^ 國東くにさき利行としゆき廻国かいこく僧正そうじょうこうそらねん宝永ほうえい元年がんねん松前まさき蝦夷えぞおさめけい北海道ほっかいどう出版しゅっぱん企画きかくセンター、2010ねんISBN 9784832810099 
  7. ^ 岩崎いわさき奈緒子なおこ史料しりょう紹介しょうかい 天理大学てんりだいがく付属ふぞく天理てんり図書館としょかん所蔵しょぞう 西にしかずらもりこく風説ふうせつこう」『北海道ほっかいどう東北とうほく研究けんきゅうだい3ごう北海道ほっかいどう東北とうほく研究けんきゅうかい、2006ねん12月、NAID 40015350264 
  8. ^ 「ニッポン 領土りょうど問題もんだい原点げんてん!!「樺太からふと-カラフト」をるの15ぺーじ上段じょうだん4ぎょうおかせだつ回復かいふく放棄ほうき不法ふほう占拠せんきょ―そして?【発行はっこうしょ産経新聞さんけいしんぶんしゃ 発売はつばいしょ日本工業新聞社にほんこうぎょうしんぶんしゃ
  9. ^ a b c 建設けんせつ産業さんぎょうサハリン. “サハリンへのたび”. 稚内わっかない. 2019ねん10がつ21にち閲覧えつらん[リンク]
  10. ^ 樺太からふと炭坑たんこう』(Website "樺太からふとだい百科ひゃっか")http://kam-r.sub.jp/ainu/karafutohyakka.html
  11. ^ 上野うえの金太郎きんたろうへん北洋ほくようざいじゅうねん』1970ねん 全国ぜんこく北洋ほくようざい協同きょうどう組合くみあい連合れんごうかい p.34 記録きろくへん
  12. ^ 官報かんぽうだい3877ごう宮廷きゅうていろくごと」、大正たいしょう14ねん7がつ25にちNDLJP:2956025/2
  13. ^ 笠原かさはら六郎ろくろう 沼田ぬまた善夫よしお「からふとのりんぎょう」『新版しんぱん 林業りんぎょう百科ひゃっか事典じてんだい2はんだい5さつ p103-104 日本にっぽん林業りんぎょう技術ぎじゅつ協会きょうかい 1984ねん昭和しょうわ59ねん発行はっこう
  14. ^ あいつとむ文化ぶんかてき解說かいせつ”. 2016ねん6がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん6がつ2にち閲覧えつらん
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  18. ^ 三姓副都統衙門滿文檔案譯編. p. 461 
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

地理ちり[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]