竹槍たけやり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
インドネシア独立どくりつ戦争せんそう使用しようされた竹槍たけやり(インドネシア、ジョグジャカルタのヨグヤ・ケンバリ独立どくりつ記念きねんかん所蔵しょぞう)。

竹槍たけやり(たけやり)とはたけ加工かこうして製造せいぞうされたやりじょう簡易かんい武器ぶきである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

スラバヤのたたか」を記念きねんする「竹槍たけやり記念きねん」(スラバヤ)。

竹槍たけやりは、たけにして先端せんたんやり穂先ほさきむすけたものと、たけけずってさきをとがらせたものの2種類しゅるいがある。

たけのみでつくられた竹槍たけやりは、たけ適当てきとうながさにったうえで、先端せんたんななめに切断せつだんした、あるいはその円周えんしゅう一部いちぶだけをとがらせたもので、さらあぶるなどして硬化こうか処理しょりほどこした簡易かんい武器ぶきであるが、たけ熱帯ねったいから亜熱帯あねったい温帯おんたい亜寒帯あかんたいひろ範囲はんい自生じせいしているため、このたけ自生じせい地域ちいきではほとんどタダ同然どうぜん入手にゅうしゅできる武器ぶきである。ただしその威力いりょく一度いちど使用しようすれば貫通かんつうりょくなま使つか程度ていどで、こちらも「簡易かんい」とぶに相応ふさわしいものとなっている。

使用しようされるたけ該当がいとう地域ちいき自生じせいするものにかぎられるため、そのふとさはまちまちである。しかしたけ垂直すいちょく方向ほうこう繊維せんいそろっていて丈夫じょうぶで、かつ中空ちゅうくうであるため軽量けいりょうくわえて使つかてとはいえ白兵戦はくへいせん近接きんせつ戦闘せんとうにおいては十分じゅうぶん殺傷さっしょう能力のうりょくっていたことから、ひろ範囲はんい様々さまざまかたち利用りようされていたとかんがえられる。

なお武器ぶき性質せいしつとしては竿ざおじょう武器ぶきポールウェポン)となるが、そのおおくでは入手にゅうしゅしやすいこと(=量産りょうさんしやすいこと)から集団しゅうだん利用りようするためにも便利べんりく、これによって対象たいしょう相手あいて武器ぶききばつめ間合まあいのそとからかこんで、いたりたたいたりして対象たいしょう攻撃こうげきするのにいていた。

太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんでは制式せいしき兵器へいきとして竹槍たけやり採用さいようしていた。[よう出典しゅってん]また、ベトナム戦争せんそうにおけるみなみベトナム解放かいほう民族みんぞく戦線せんせんなど、近代きんだいのゲリラせんでも活用かつようされた。インドネシア独立どくりつ戦争せんそうでも使用しようされ、そのため独立どくりつ達成たっせいするまでの勇気ゆうき犠牲ぎせい象徴しょうちょうするものとされ、戦争せんそう記念きねんなどのモチーフとされている[1]

歴史れきし[編集へんしゅう]

その起源きげんふるく、竹林ちくりん自生じせいする地域ちいきでは鉄器てっき文明ぶんめい以前いぜんから使用しようされていたともわれているが、記録きろくがない有史ゆうし以前いぜんでもあり、材質ざいしつてきにも遺物いぶつとしてのこりにくいため、詳細しょうさい不明ふめいである。

日本にっぽん[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは戦国せんごく時代じだいにはすでに使用しようされていた記録きろくがあるが、当時とうじ純粋じゅんすいたけせいのものだけでなく、(鋼鉄こうてつせい穂先ほさきそなえていたとしても) たけせいであればいずれも竹槍たけやり呼称こしょうしていた[2] ので注意ちゅうい必要ひつようである。明智あけち光秀みつひで武者むしゃをしていた土地とち農民のうみんらの竹槍たけやりかりてたとされる[3] 一方いっぽうで、びたやりとの異説いせつもあるのもこのためである。

江戸えど時代じだい百姓ひゃくしょう一揆いっきによる強訴ごうそは、支配しはいそう武力ぶりょく転覆てんぷくねらったものではなく、騒擾そうじょうこすことによって責任せきにん問題もんだいおそれるはん代官だいかん要求ようきゅうをのませようとする性格せいかく行動こうどうであったため、農民のうみんとしての身分みぶんあらわ農具のうぐ使用しようされた。狩猟しゅりょう用具ようぐであった鉄砲てっぽう竹槍たけやりすことはあったものの、攻撃こうげきのために使用しようすることはほとんどなかった[4]青木あおきにじ江戸えど時代じだい発生はっせいした一揆いっき3710けん調査ちょうさしたなかで、竹槍たけやり役人やくにん殺害さつがいした事例じれいいちれいしか存在そんざいしない[5]

近代きんだい以後いごも、民衆みんしゅう暴動ぼうどうさいしては竹槍たけやり活躍かつやくした。明治めいじ初年しょねん農民のうみんしん政府せいふ政策せいさく反対はんたいする新政しんせい反対はんたい一揆いっきなか竹槍たけやり頻繁ひんぱん使用しようするようになった[5]地租ちそ改正かいせい反対はんたい一揆いっきふうした「竹槍たけやりでドンと二分にぶんりん」と川柳せんりゅう著名ちょめいである。明治めいじ6ねん1872ねん)の筑前ちくぜん竹槍たけやり一揆いっき使用しようされた竹槍たけやり現在げんざい福岡ふくおか博物館はくぶつかん現存げんそんしている[5]。これらの一揆いっき明治めいじじゅう年代ねんだいには沈静ちんせいし、自由じゆう民権みんけん運動うんどう活発かっぱつすると、民権みんけん運動うんどうから百姓ひゃくしょう一揆いっきふるかた運動うんどうであると否定ひていてきられるようになり、竹槍たけやりはその象徴しょうちょうとして「竹槍たけやり筵旗むしろばた」(ちくそうせっき、たけやりむしろばた)という言葉ことば表現ひょうげんされるようになった[6]明治めいじ31ねん(1898ねん)2がつ5にちには衆議院しゅうぎいん議員ぎいん選挙せんきょにおいて、選挙せんきょじん刀剣とうけん銃器じゅうき棍棒こんぼう竹槍たけやり携帯けいたいすることをきんじた決議けつぎ枢密院すうみついんおこなわれている[7]。その1918ねんまい騒動そうどう小作こさく争議そうぎ労働ろうどう争議そうぎ外地がいちにおける反日はんにち蜂起ほうきなどで竹槍たけやりもちいられた。たとえば1931ねんから1932ねんにかけてこった栃木とちぎけん阿久津あくつむら小作こさく争議そうぎ阿久津あくつむら事件じけん)においては、猟銃りょうじゅう竹槍たけやりなどで武装ぶそうした労農ろうのう大衆たいしゅうとういんが、地主じぬし結託けったくして農民のうみん弾圧だんあつした愛国あいこく主義しゅぎ政党せいとうだい日本にっぽん生産せいさんとう演説えんぜつかい事務所じむしょ襲撃しゅうげきする事件じけんが1932ねんはるにあり、死者ししゃ4めい重傷じゅうしょうしゃ10めい[8]最終さいしゅうてき死者ししゃは5めいとなり、109にん殺人さつじんざい起訴きそ・35にん実刑じっけい判決はんけつけている。東京とうきょう東京とうきょう市民しみん飲用いんようすいのために大宮おおみや浦和うらわまち(いずれもげんさいたま)にある見沼みぬま貯水池ちょすいちとして中禅寺湖ちゅうぜんじこの3ばい規模きぼにまで拡大かくだいする計画けいかくを1934ねん発表はっぴょうしたが、これにたいする反対はんたい運動うんどう激化げきかしたさい東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんは「竹槍たけやりせきはたしはせぬかとづかわれている」とひょうしている[9]、この計画けいかく最終さいしゅうてきに1939ねん撤回てっかいされている。

じゅうねん戦争せんそうなか大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんにおいては、竹槍たけやり兵器へいきとして使用しようされた。まず、にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ当初とうしょにおいては、輜重しちょう兵站へいたんなどの後方こうほう部隊ぶたいにおける補助ほじょ兵器へいきとして竹槍たけやり配分はいぶんされた。その太平洋戦争たいへいようせんそうなかの1942ねんには大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんの「制式せいしき兵器へいき」(ぐんから兵士へいし配備はいびされる正規せいき兵器へいき)として正式せいしき竹槍たけやり採用さいようされ、前線ぜんせん兵士へいし竹槍たけやり配備はいびされた。銃後じゅうご国民こくみんにおいても、1943ねんには陸軍りくぐん策定さくていした「竹槍たけやりじゅつ」のマニュアルが配布はいふされ、学生がくせい主婦しゅふなど民間みんかんじんあいだ竹槍たけやり製造せいぞう訓練くんれんおこなわれた。さらに1945ねんには竹槍たけやり本土ほんど決戦けっせんそなえた「決戦けっせん兵器へいき」と位置付いちづけられ、国民こくみん義勇ぎゆうたい主要しゅよう装備そうびのひとつとされた。また、ぐんでは「制式せいしき兵器へいき」としてだけではなく「自活じかつ兵器へいき」(窮乏きゅうぼうした兵士へいしがありあわせのものから自作じさくした兵器へいき)としても採用さいようされ、使用しようする兵器へいき陸海りくかいぐん部隊ぶたい自作じさくして小銃しょうじゅうわりに装備そうびしたれいされる。明治めいじ以前いぜん一揆いっきなどで使用しようされていたものながさが通常つうじょうやりおなじく3メートルから4メートルとながかったが、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん制式せいしき兵器へいきとして規格きかくされた竹槍たけやり子供こどもようが150センチほど、大人おとなようが170~200センチほどだった。直径ちょっけいは3~5センチである。実態じったいとしてはやりというよりも銃剣じゅうけんだい用品ようひんであり、おこなわれた訓練くんれん竹槍たけやりじゅつ)は銃剣じゅうけんじゅつおなじだった。

戦後せんごでは、昭和しょうわ時代じだい中期ちゅうきしん左翼さよく過激かげきてつパイプや火炎瓶かえんびんなどとともに使用しようしたれいがあり、たとえば1971ねん東峰とうほう十字路じゅうじろ事件じけんなどで竹槍たけやり使用しようされた。

中国ちゅうごく台湾たいわん[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく台湾たいわんでもむかしから使用しようされていたようだ。あかり時代じだいには、日本にっぽんがたな武装ぶそうしたやまと穂先ほさきとされないように、枝葉えだはいた青竹あおだけ竹槍たけやりにする「おおかみ」と武器ぶき考案こうあんされている。

近代きんだいにいたっても、日本にっぽん統治とうちとなって日本にっぽんぐんによる竹槍たけやり教練きょうれんはじまる以前いぜんより使用しようされていたようだ。台湾たいわんにおいて使用しようされたれいとして、1930ねん台湾たいわん原住民げんじゅうみんであるセデックぞく民衆みんしゅう日本人にっぽんじんたいして蜂起ほうきしたきりしゃ事件じけんにおいて使用しようされたとの記録きろくがある[10]

近代きんだいはいって中国ちゅうごく正規せいきぐん竹槍たけやり使用しようしたというれいく、むしろ毛沢東もうたくとうひきいるゲリラへいであるはちぐん農民のうみんへい拳銃けんじゅう武装ぶそうしているのにたいし、これと対峙たいじする日本にっぽんぐん都市としごとに補給ほきゅう分断ぶんだんされて武器ぶきがなくなり、正規せいきぐんなのに竹槍たけやり訓練くんれんをしていたという記録きろくがある。

インドネシア[編集へんしゅう]

日本にっぽん敗戦はいせん(1945ねん8がつ)から連合れんごうぐんのインドネシア進駐しんちゅう(1945ねん10がつ)までの期間きかんに、日本にっぽんぐんたいして竹槍たけやりって蜂起ほうきした「青年せいねんだん(ペムダ)」とばれる青年せいねん民族みんぞく主義しゅぎしゃ集団しゅうだん(1945ねん
1945ねん10がつよりインドネシアに進駐しんちゅうした連合れんごうぐん(イギリスぐん)、そして1946ねんより進駐しんちゅうしたオランダぐんたいし、「青年せいねんだん(ペムダ)」は日本にっぽんぐんから鹵獲ろかくした機関きかんじゅう小銃しょうじゅう、そして竹槍たけやりってかった(1946ねん

インドネシアでは、竹槍たけやりは「Bambu Runcing」とばれる。日本にっぽんぐんが1942ねんらんしるし現在げんざいのインドネシア)を占領せんりょうしたのち、1943ねん10がつより住民じゅうみん統制とうせい目的もくてきとする隣組となりぐみ(インドネシアでも「Tonarigumi」とう)をジャワ島じゃわとうほか各地かくち設置せっちした日本にっぽん軍政ぐんせい当局とうきょくによって竹槍たけやりじゅつ教練きょうれんおこなわれており、ポンティアナック事件じけん(1943ねん西にしカリマンタンしゅうポンティアナック大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつした事件じけん)ののちダヤクぞく竹槍たけやり蜂起ほうきしたり、またシンガパルナ事件じけん(1944ねん、タシクマラヤけんシンガパルナむら農民のうみん武装ぶそう蜂起ほうきした事件じけん)では「反乱はんらんおそれあり」として農民のうみんをスパイしていた日本にっぽん憲兵けんぺい人質ひとじちりながら農民のうみん軍政ぐんせい当局とうきょくたいして竹槍たけやり蜂起ほうきするなど、インドネシア各地かくち竹槍たけやりかかげた反日はんにち武装ぶそう蜂起ほうきがいくつもこっていたが、しょせん竹槍たけやりでは近代きんだい兵器へいき武装ぶそうした大日本帝国だいにっぽんていこく陸海りくかいぐんてきうはずがかった。しかし、インドネシアじん竹槍たけやり占領せんりょうぐんたいして勝利しょうりるのは、インドネシア独立どくりつ戦争せんそうにおいてである。(なお、「Tonarigumi」は住民じゅうみん相互そうご扶助ふじょ相互そうご監視かんしによる軍政ぐんせい当局とうきょく負担ふたん軽減けいげんねらって日本にっぽん軍政ぐんせい当局とうきょく設置せっちしたものだが、竹槍たけやり訓練くんれん防火ぼうか訓練くんれんなどで住民じゅうみん団結だんけつさせ、その独立どくりつ戦争せんそうでもおおきな役目やくめたしたことから、インドネシア共和きょうわこくでも最小さいしょう行政ぎょうせい単位たんいである「Rukun Tetangga」および「Rukun Warga」としてほぼそのままのこっている)

まず、だい大戦たいせん日本にっぽんぐん降伏ごうぶくした1945ねん8がつ15にちから、連合れんごう国軍こくぐんがインドネシアに上陸じょうりくする9がつ-10がつまでのあいだラングーン協定きょうていにより連合れんごうぐん武器ぶきわた義務ぎむった日本にっぽんぐんと、日本にっぽんぐんたいして連合れんごうぐん上陸じょうりくまえ武器ぶきわたしをもとめて竹槍たけやりなどで武装ぶそうしたインドネシア青年せいねんだん(pemuda、「若者わかもの」「青年せいねん」の意味いみ。「青年せいねん民族みんぞく主義しゅぎしゃ」ともやくされる)とばれるインドネシアじん独立どくりつ運動うんどう過激かげき若者わかもの集団しゅうだんとのあいだで、各所かくしょ小競こぜいがこった。連合れんごうぐんとインドネシア青年せいねんだんあいだ板挟いたばさみになった日本にっぽんぐん対応たいおうかく部隊ぶたいでまちまちで、スラバヤ(岩部いわべ重雄しげお少将しょうしょう指揮しき)など日本にっぽんぐんがインドネシアじん協力きょうりょくてきであった地域ちいきにおいては、青年せいねんだんによる武器ぶき略奪りゃくだつ黙認もくにんするかたち機関きかんじゅう竹槍たけやりなどのきゅう日本にっぽんぐん武器ぶきがインドネシアじんにほぼ無血むけつわたされたが、バンドンやバタビア(馬淵まぶち少将しょうしょう指揮しき)、スマラン(城戸きど少将しょうしょう指揮しき)など、日本にっぽんぐんがインドネシアじん協力きょうりょくてきであった地域ちいきにおいては、蜂起ほうきした青年せいねんだん武器ぶきわたしをもとめて日本にっぽんへいおそい、日本にっぽんぐんみずからがインドネシアじん教練きょうれんした竹槍たけやりじゅつによって多数たすう日本人にっぽんじんがインドネシアじん殺傷さっしょうされている。だい16ぐん宮本みやもと静雄しずお参謀さんぼう日本にっぽんぐん武装ぶそう解除かいじょ射撃しゃげき原則げんそく禁止きんし通達つうたつしていたため、無抵抗むていこう日本にっぽんへい竹槍たけやり虐殺ぎゃくさつされた事件じけんもいくつかあり、たとえばバンドン近郊きんこうのブカシでは海軍かいぐんだい警備けいびたい竹下たけした大佐たいさら86めい住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつされている(軍政ぐんせいのインドネシアじんあさぶくろのズボンをかされた仕返しかえしとして、ブカシの日本人にっぽんじんあさぶくろのズボンをかされたうえで虐殺ぎゃくさつされたとのこと。英雄えいゆう記念きねんHari Pahlawan)の「竹槍たけやり行進こうしん」が「独立どくりつ戦争せんそう苦難くなんつい体験たいけんする」と意味合いみあいがあったのとおなじく、現在げんざい独立どくりつ記念きねん面白おもしろアトラクションとしている「あさぶくろレース(id:balap karung)」も元々もともとは「日本にっぽん統治とうち時代じだい苦難くなんつい体験たいけんする」という意味合いみあいがあった。なお、ブカシ日本にっぽんぐん連合れんごうぐん圧政あっせい竹槍たけやりはらったことをしめすものとして、ブカシには日本にっぽんぐん使役しえきされる労務者ろうむしゃロームシャ、インドネシアでもそのまま「romusa」とう)のレリーフなどをともなった竹槍たけやり記念きねんの「ブカシ人民じんみん闘争とうそう記念きねん(Monumen Perjuangan Rakyat Di Bekasi)」も存在そんざいするが、2005ねんには日本にっぽんへい竹槍たけやり惨殺ざんさつされた死体したいほうまれたブカシがわのほとりに、日本にっぽんとインドネシアの平和へいわ友好ゆうこう記念きねんである「Monumen Tepi Kali」が建設けんせつされるなど、現在げんざい日本にっぽんとブカシ関係かんけい友好ゆうこうてきである)。1946ねん1がつよりジャワ島じゃわとうからきゅう日本にっぽんへい復員ふくいんはじまるが、復員ふくいんさせてもらえずに降伏ごうぶく軍人ぐんじん軍属ぐんぞくとして連合れんごうぐん使役しえきされたり、インドネシア独立どくりつ戦争せんそう参加さんかしたり、日本にっぽんぐん武装ぶそう解除かいじょによる治安ちあん空白くうはくによってえた強盗ごうとう殺害さつがいされたれいなどもふくめ、1000にん以上いじょう日本人にっぽんじん終戦しゅうせんのジャワで日本にっぽんかえまえくなっている。そのうちかなりのかず竹槍たけやり惨殺ざんさつされた。(なお、インドネシア各地かくち独立どくりつ戦争せんそう記念きねんまえには、独立どくりつ戦争せんそう歴史れきし文字もじしるしたレリーフが設置せっちされていることがあり、ブカシやスマランなど、圧制あっせいいた日本にっぽんへい竹槍たけやり殺傷さっしょうした歴史れきしがある都市としでは竹槍たけやり記念きねんまえにそのとおりのレリーフがある。ただし、日本にっぽんへいなかには現地げんち住民じゅうみん英雄えいゆうとしてとなえられているひともおり、かならずしもすべての日本にっぽんへい竹槍たけやり記念きねんまえ労務者ろうむしゃ暴虐ぼうぎゃくったり青年せいねんだん竹槍たけやり殺傷さっしょうされているわけではい。とくに、バリしゅうバドゥンけんMengwiぐんPenarunganむらでインドネシアじんとともに独立どくりつ戦争せんそうたたかった松井まつい兵曹へいそうちょう荒木あらき兵曹へいそうぞうは、竹槍たけやり記念きねんまえによくいる日本にっぽんへいとはってわって温厚おんこうかおをしており、その人柄ひとがらしのばせるものとなっている)

「5にち戦争せんそう」(1945ねん)において、やく130にん日本人にっぽんじん竹槍たけやりなどで虐殺ぎゃくさつされたブル刑務所けいむしょ(インドネシア、スマラン)。なお、虐殺ぎゃくさつされた日本にっぽんへいが『インドネシア独立どくりつまんさい』とかべ血書けっしょしたものがインドネシアじん感動かんどうあたえ、記念きねん保存ほぞんされた、とのせつがネットじょう流布るふしているが、真偽しんぎ不明ふめいで、すくなくとも特別とくべつ保存ほぞんはされておらず、建物たてもの現在げんざいもそのまま刑務所けいむしょとして使つかわれている
スマランの日本にっぽん軍政ぐんせい当局とうきょくと5にちにわたって竹槍たけやりたたかった「5にち戦争せんそう」を記念きねんする「青年せいねんいしぶみ(Tugu Muda)」(インドネシア、スマラン)。「飢餓きが」「戦闘せんとう」「暴力ぼうりょく」「犠牲ぎせい」「勝利しょうり」を象徴しょうちょうするレリーフがきざまれた5ほん竹槍たけやり合体がったいした蝋燭ろうそくのようなかたちをしている。そのみぎえるのが5ほんの「竹槍たけやりオブジェ」である

もっと多数たすう日本人にっぽんじん竹槍たけやり殺害さつがいされたことられるスマランの「5にち戦争せんそう」のれいげると、インドネシアがわ協力きょうりょくてきであった中部ちゅうぶジャワ防衛ぼうえいたい司令しれい中村なかむらあつし少将しょうしょう命令めいれい無視むしかど日本にっぽんぐん逮捕たいほされ、シンガポールの南方なんぽうぐん司令しれい更迭こうてつされたのちわってスマランを支配しはいいたスマラン駐屯ちゅうとんぐん城戸きど少将しょうしょう青年せいねんだん対立たいりつ激化げきかし、緊張きんちょうたかまるなかで10がつ14にち630ふんごろより日本にっぽんぐんがプルサラ病院びょういんげんDr.カリアディ病院びょういん)のまえ検問けんもん開始かいし。「日本にっぽんぐん貯水池ちょすいちどくれた」との不穏ふおんうわさながれるなか、1800ふんごろに日本にっぽんぐんが8にんのインドネシアじん警察官けいさつかん武装ぶそう解除かいじょしたうえ連行れんこう拷問ごうもんしたためにさらに緊張きんちょうたかまる。貯水池ちょすいち調査ちょうさをするためにシランダ貯水池ちょすいちかったプルサラ病院びょういん院長いんちょうであるDr.カリアディは、スマランのパンダナランで運転うんてんしゅとともに日本にっぽんぐん銃撃じゅうげきされ2330ふん死亡しぼう一方いっぽう青年せいねんだんは10月14にちにオランダじん2000にん日本にっぽんへいやく130にんをブル刑務所けいむしょ監禁かんきん。そして10がつ15にち未明みめい330ふんより、現在げんざいの「青年せいねんいしぶみ」(Tugu Muda)がっている場所ばしょ城戸きど部隊ぶたい青年せいねんだん戦闘せんとう開始かいしされた。青年せいねんだんは「機関きかんじゅう小銃しょうじゅう竹槍たけやりなど」[11]もちいて、スマラン憲兵けんぺいたい刑務所けいむしょ突入とつにゅうする10がつ16にちまでにブル刑務所けいむしょ日本人にっぽんじん全員ぜんいん虐殺ぎゃくさつ城戸きど部隊ぶたいはその報復ほうふくとして、イギリスのグルカへいがスマランに進駐しんちゅうする10がつ19にちまでにやく2000にん青年せいねんだんインドネシア人民じんみん治安ちあんだんid:Badan Keamanan Rakyat青年せいねんだん支援しえんしていた軍事ぐんじ組織そしき現在げんざいインドネシア国軍こくぐん前身ぜんしん)を殺害さつがいした。10月19にち中部ちゅうぶジャワしゅうのウォンソヌゴロ知事ちじ仲介ちゅうかいによって城戸きど部隊ぶたいインドネシア人民じんみん治安ちあんぐん(Tentara Keamanan Rakyat、人民じんみん治安ちあんだんから改称かいしょう)とのあいだ交渉こうしょうおこなわれ、また10がつ20日はつかにはベテルじゅんしょうひきいるイギリスぐんによって日本にっぽんぐん拘留こうりゅう武装ぶそう解除かいじょおこなわれ、10がつ20日はつかにスマランの治安ちあん回復かいふくされた。城戸きど少将しょうしょう判断はんだん結果けっかとして最終さいしゅうてきにスマラン在住ざいじゅうの200めいちか日本人にっぽんじん竹槍たけやりなどで殺害さつがいされる結果けっかとなったが、一方いっぽうでブル刑務所けいむしょ収容しゅうようされていたオランダじん全員ぜんいん無傷むきずであり、城戸きど少将しょうしょうはスマランのオランダじん抑留よくりゅうしゃやく3まんにん武器ぶきまもった有能ゆうのう司令しれいかんとして連合れんごうぐん南方なんぽうぐん双方そうほうから称賛しょうさんされたとのこと。インドネシアではこれを「Pertempuran Lima Hari」(5にち戦争せんそう)とび、高校こうこう教科書きょうかしょならう。日本にっぽんがわではこれを「スマラン事件じけん」とび、「親日しんにちこくであるインドネシアじんが、アジア開放かいほうためともたたかった日本人にっぽんじん竹槍たけやり殺傷さっしょうするはずがない」と観点かんてんから、「スマラン事件じけん共産きょうさん主義しゅぎしゃこした」というせつとなえるものもいるが、スマラン事件じけん現場げんばには竹槍たけやり日本にっぽんぐん蜂起ほうきした青年せいねんだんたたえるための「青年せいねんいしぶみ」が現在げんざいっており、鹵獲ろかくした銃剣じゅうけんさんはちしき歩兵ほへいじゅう竹槍たけやりもちいてきゅうしきてつぼうこうむった日本にっぽんへいとげ突する場面ばめんのレリーフも土台どだいられていることから、すくなくともスマランがわはそのようには認識にんしきしていない。(なお、スマラン事件じけん犠牲ぎせいとなった日本人にっぽんじん188めい慰霊いれいが1998ねんにスマラン当局とうきょく協力きょうりょく西にしバンジルカナルがわのほとりに建設けんせつされ、「5にち戦争せんそう発端ほったんとして日本にっぽんぐん殺害さつがいされた」と現地げんち教科書きょうかしょにもっているDr.カリアディを記念きねんしたDr.カリアディ病院びょういん北海道大学ほっかいどうだいがく協定きょうていむすぶなど、現在げんざい日本にっぽんとスマラン当局とうきょくとの関係かんけい友好ゆうこうてきである。)

1949ねん3がつ1にち、1500めい竹槍たけやり部隊ぶたいひきいてオランダよりジョグジャカルタを奪回だっかいしたスハルト中佐ちゅうさのちにインドネシア共和きょうわこくだい2だい大統領だいとうりょうとして30ねんにわたる経済けいざい成長せいちょうみちびく、不敗ふはいの「スハルト神話しんわ」がここからはじまった

その日本にっぽんぐんから鹵獲ろかくした機関きかんじゅう竹槍たけやりなどで武装ぶそうしたインドネシア民兵みんぺいは、連合れんごう国軍こくぐん一員いちいんとしてインドネシアに進駐しんちゅうしたイギリスぐんたたかった。とくに、連合れんごうぐんとインドネシア民兵みんぺいとのあいだスラバヤにおいて1945ねん11がつ10日とおかよりおこなわれた「スラバヤのたたか」は、竹槍たけやりなどで武装ぶそうしたインドネシア民兵みんぺいがわ多大ただい犠牲ぎせいしながらもインドネシア独立どくりつ戦争せんそう端緒たんしょとなった。そのためスラバヤには、連合れんごうぐん竹槍たけやりかった英雄えいゆうたちを記念きねんする「竹槍たけやり記念きねん(Monumen Bambu Runcing)」がてられている。また、おなじくインドネシア独立どくりつ戦争せんそう激戦げきせんとなったジョグジャカルタにおいて、1949ねん3がつ1にちのジョグジャカルタ奪還だっかん作戦さくせん(Serangan Oemoem)でスハルト中佐ちゅうさひきいられた1500にん竹槍たけやり部隊ぶたい奮闘ふんとうぶりは、オランダの「カラス作戦さくせん」によって壊滅かいめつしたとおもわれていたインドネシア共和きょうわ国軍こくぐん健在けんざいぶりを世界せかいらしめ、国連こくれん圧力あつりょくもあって1949ねん6がつについにオランダがジョグジャカルタより撤退てったいするにいたったことでも、またそのの「スハルト神話しんわ」の形成けいせい一役ひとやくったことでもられており、ジョグジャカルタ奪還だっかん独立どくりつ戦争せんそう闘士とうし記念きねんするヨグヤ・ケンバリ記念きねんかん(ジョグジャカルタの小学生しょうがくせい遠足えんそくかならく)にも、独立どくりつ戦争せんそう使つかわれた竹槍たけやり展示てんじされている。

竹槍たけやり戦線せんせんid:Barisan Bambu Runcing、インドネシア独立どくりつもとめて1945ねん11月に設立せつりつされたラシュカ(Lasykar、イスラムけい民兵みんぺい組織そしき)のひとつ)の指導しどうしゃであるK. H. Subchi(「竹槍たけやり将軍しょうぐん(Jenderal Bambu Runcing)」の異名いみょうつ)は、日本にっぽん占領せんりょうより竹槍たけやりをインドネシアのナショナリズムの象徴しょうちょうとしていた人物じんぶつとしてられ、Subchiの故郷こきょうであるテマングンけんパラカンにはTAMAN BAMBU RUNCING(竹槍たけやり公園こうえん)が建設けんせつされている。また、パラカンのアルバロカモスク(Masjid Al Barokah di Parakan)は、竹槍たけやり戦線せんせん記念きねんして竹槍たけやりをイメージしたモスクである。

ポンティアナック事件じけん(1943ねん)で大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん虐殺ぎゃくさつされた5にんふくむ、植民しょくみん支配しはい抵抗ていこうしたサレカット・イスラム英雄えいゆう11にん記念きねんするために建設けんせつされたディグリス記念きねん(インドネシア、ポンティアナック)。なお、以前いぜん紅白こうはくにペイントされており、通称つうしょう口紅くちべに」とばれるちんスポットだった

独立どくりつのインドネシアにおける竹槍たけやりは、鹵獲ろかくした武器ぶきりょう十分じゅうぶんでないために竹槍たけやりたたかわざるをなかった独立どくりつ戦争せんそう初期しょき苦難くなんや、オランダ・日本にっぽん・そして連合れんごうこくたいして竹槍たけやりって蜂起ほうきした市井しせい民衆みんしゅう勇気ゆうき象徴しょうちょうするものとされ、スハルト時代じだい以後いご経済けいざい成長せいちょうには竹槍たけやり記念きねんしたモニュメントが各地かくち設立せつりつされた。なお、公共こうきょう建築けんちくとしておおきな竹槍たけやりがインドネシア各地かくち乱雑らんざつ建設けんせつされているいちめんもあり、植民しょくみん支配しはい抵抗ていこうしたポンティアナックサレカット・イスラム英雄えいゆう11にん(ポンティアナック事件じけん犠牲ぎせいとなった3にんふくむ)を記念きねんするために1987ねん建設けんせつされたディグリス記念きねんは、1995ねん紅白こうはく塗装とそう変更へんこうされたため、市民しみんから「口紅くちべに」とばれていた(2006ねんたけのペイントに塗装とそうなおされた)。

21世紀せいきのインドネシアにおいては、ほとんどのインドネシアじんにとって竹槍たけやりたんなる「歴史れきし」であるため、竹槍たけやり記念きねんにwi-fiスポットを設置せっちしたり、台座だいざのぼって竹槍たけやりかかげた独立どくりつ戦争せんそう英雄えいゆうとツーショット写真しゃしんってSNSにアップしたり、落書らくがきされている記念きねんおおい。戦後せんご70ねん以上いじょうて、「竹槍たけやり独立どくりつった」という戦争せんそう記憶きおくわすられつつある一方いっぽうで、従来じゅうらいの「竹槍たけやり独立どくりつった」という史観しかんともまたちがった、あたらしい視点してんから見直みなおそうとするクリエーターもそだっており、建国けんこく英雄えいゆうスギヤプラナタ司教しきょう主人公しゅじんこうとした『スギヤ』(Soegija、ガリン・ヌグロホ監督かんとく、2012ねん。スマラン事件じけん下敷したじきにしながら、従来じゅうらいのようなはげしい戦闘せんとう場面ばめんのある戦争せんそう映画えいがではなく、戦争せんそう背後はいごにある普遍ふへんてき人間にんげんせいえがき、たか評価ひょうかけた。日本にっぽんぐん青年せいねんだんあいだ板挟いたばさみになっていのちとす日本にっぽんへい鈴木すずき伸幸のぶゆき好演こうえんした)、「スラバヤのたたかい」をテーマとしたアニメ『Battle of Surabaya』(アリャント・ユニアワン監督かんとく、2015ねん連合れんごうぐんむすんでインドネシア独立どくりつ阻止そししようとする忍者にんじゃ軍団ぐんだんをヒロインがいつもの竹槍たけやりではなく忍者にんじゃがたなでうちたおす)、などが制作せいさくされている。

21世紀せいきのインドネシアにおいては、「竹槍たけやり精神せいしん」(semangat bambu runcing)は「チャレンジ精神せいしん」「ベンチャー精神せいしん」などとおな意味いみ使つかわれており、トコペディア(2009ねん設立せつりつされたインドネシアの電子でんし商取引しょうとりひき大手おおて。2014ねんソフトバンクグループにはいった)の創設そうせつしゃであるウィリアム・タヌウィジャヤも「竹槍たけやり精神せいしん」によって起業きぎょうし、インドネシアの代表だいひょうとして稚拙ちせつ英語えいごりょくながら国外こくがい投資とうし投資とうした、と2017ねんかたっている[12]。2010年代ねんだいのインドネシアを代表だいひょうするIT起業きぎょうであるウィリアムは、「デジタル時代じだい竹槍たけやり精神せいしん」として「勇気ゆうき」「ねばづよさ(失敗しっぱいおそれずに事業じぎょう継続けいぞくする)」「希望きぼう独立どくりつ英雄えいゆうのように崇高すうこう目標もくひょうつ)」をげており、「この3つの精神せいしんをもってただしい努力どりょくをすれば、きみゆめ実現じつげんできる」としている。トコペディアはその竹槍たけやり精神せいしんによって、2011ねんにインドネシアに進出しんしゅつしたグローバル資本しほん電子でんし商取引しょうとりひき大手おおてである楽天らくてん楽天らくてん市場いちば、Rakuten BELANJA)を2016ねんにはインドネシアから撤退てったいんだ。

21世紀せいきのインドネシアにおいては、竹槍たけやりじゅつ伝統でんとう武道ぶどうのようなものになっており、たまにイベントなどで竹槍たけやり訓練くんれんおこなわれることがある。2018ねん2がつ15にち西にしジャワしゅうガルトけんSelaawiにおいて子供こどもたち630にんによる竹槍たけやり演舞えんぶおこなわれ、RECORD HOLDERS REPUBLIC(RHR、イギリスの世界せかい記録きろく認定にんてい機関きかん)によって竹槍たけやり演舞えんぶ世界せかい記録きろく認定にんていされた[13]

ベトナム[編集へんしゅう]

みなみベトナム戦略せんりゃくむら(1964ねん
ベトナム戦争せんそう使つかわれたパンジ・スティック合間あいまあるくアメリカへい(1966ねん

だいいちインドシナ戦争せんそう(1946ねん - 1954ねん)では竹槍たけやり使用しようされなかった。

ベトナム戦争せんそうなかのベトナムでは有刺鉄線ゆうしてっせんわりとして竹槍たけやり多用たようされた。れいとして、ベトナム共和きょうわこくみなみベトナム政府せいふがアメリカの指導しどうした建設けんせつした戦略せんりゃくむらは、みなみベトナム政府せいふぐん支配しはい地域ちいき農民のうみん竹槍たけやりのバリケードのなかきずかれた「むら」に移住いじゅうさせ、みなみベトナム政府せいふの「保護ほご」と「財政ざいせい支援しえん」をあたえる、とものであった。これは農民のうみんたいしてみなみベトナム政府せいふへの忠誠ちゅうせいしんそだてると同時どうじに、アメリカの傀儡かいらいであるみなみベトナム政府せいふ打倒だとうかかげるみなみベトナム解放かいほう民族みんぞく戦線せんせんベトコン)から孤立こりつさせて関係かんけいつことをねらったものだが、農民のうみん強制きょうせい移住いじゅう強制きょうせい収容しゅうようするやりかたは、かえって農民のうみん反発はんぱつんだ。

また、ベトコンがゲリラせんよう無音むおん武器ぶきブービートラップ仕掛しかわな)として竹槍たけやり使用しようしており、とくに「パンジ・スティック乱杭らんぐい)」が多用たようされた。としあなってそのそこ竹槍たけやり設置せっちする(おおかみ)こともおおく、あしまたは下肢かしのみにダメージをあたえるもの主流しゅりゅうであった[14]せまとしあな側面そくめんに、さきしたけて設置せっちすると、救出きゅうしゅつ困難こんなんとなって足止あしど効果こうかおおきく、ちたひと救助きゅうじょするまでのあいだ搬送はんそうため担架たんかかついだアメリカへい機動きどうりょくち、病院びょういんへの移送いそうためにヘリコプターを使つかわせるなど、部隊ぶたい全体ぜんたいにダメージをあたえることができた[14]

ほかにも、細菌さいきんによる感染かんせんしょうねらい、排泄はいせつぶつることもあった。ワイヤーにかるとして串刺くしざしにするといったものもあり、それらにかった兵士へいしるも無残むざん姿すがたとなったため、アメリカぐん兵士へいしにとって士気しきげるほどのストレスをあたえたともされる。なおカンボジア内戦ないせんでのポル・ポトも、これらのわな多用たようしたが、竹槍たけやりではなくとがらせたものを使用しようした。

パンジ・スティックは現在げんざい1983ねん発効はっこう特定とくてい通常つうじょう兵器へいき使用しよう禁止きんし制限せいげん条約じょうやく禁止きんしされており、日本にっぽんもこれを批准ひじゅんしているため、日本にっぽんでパンジ・スティックを設置せっちすることはできない。

アメリカ[編集へんしゅう]

アメリカ陸軍りくぐんのサバイバルマニュアル (FM 3-05.70, May 2002) の12-18こう[15]即席そくせきやりつく方法ほうほう説明せつめいしており、わせて竹槍たけやりつくかた図解ずかいされている。

つくかた[編集へんしゅう]

たけけずってさきをとがらせたタイプの竹槍たけやりと、たけやりとして使つかって穂先ほさきとしてナイフなどの刃物はものむすけるタイプの竹槍たけやりがある。大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん制式せいしき兵器へいきとしての竹槍たけやりについては後述こうじゅつ

戦国せんごく時代じだい竹槍たけやり[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだいから近代きんだいにかけて、農民のうみん一揆いっき博徒ばくと出入でいりなどで使つかわれたとかんがえられている竹槍たけやり[16]

  • ながさは4.0m前後ぜんごおもさは1.8-2.5 kg。
  • 先端せんたんやり穂先ほさきむすけないタイプの竹槍たけやり場合ばあいたけさき単純たんじゅんななめにいだものと、やり穂先ほさきじょうけずったものがある。
  • にくあつく、まっすぐな青竹あおだけもちいる。
  • たけ根本こんぽんがわ穂先ほさきにし、穂先ほさきがわ直径ちょっけい5cm、手元てもとがわが3cm程度ていどい。
  • いだ穂先ほさき強固きょうこにするためにあぶらってあぶり、これをかえすとくちあぶらみて強固きょうこ穂先ほさきつくることができる。

べい陸軍りくぐん竹槍たけやり[編集へんしゅう]

べい陸軍りくぐん兵士へいしが、手持てもちの道具どうぐがほとんどなにもなくなっても、どんな場所ばしょからでも生還せいかんできるように、べい陸軍りくぐんのサバイバルマニュアルがつくかた指導しどうしている、即席そくせき竹槍たけやり[17]穂先ほさきくくけるタイプの即席そくせきやりつくることもできるが、くくけないタイプの即席そくせきやりつくるにはたけ最適さいてきとのこと。ちなみに、たけ穂先ほさきにナイフのくくけるタイプの竹槍たけやりつく場合ばあいは、たんくくけるよりも、たけさき半分はんぶんって、そこにんでくくけたほういとのこと。

  • 青竹あおだけのまっすぐな部分ぶぶんを1.2mから1.5mくらいのながさにす。
  • 先端せんたんってつくる。先端せんたんから8cm-10cmくらいのところから、先端せんたんけて、ななめ45角度かくどみをれる。
  • 先端せんたんけずって鋭利えいりにする。このさいたけ内側うちがわよりも外側そとがわほう強度きょうどつよいので、かならたけつつ外側そとがわではなく内側うちがわけずるように。
  • 先端せんたんあぶってかたくしても

大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんにおける竹槍たけやり[編集へんしゅう]

べいぐんだい5艦隊かんたいおよび艦載かんさい上陸じょうりくしただい77歩兵ほへい師団しだんなどに住人じゅうにん竹槍たけやりかった伊江島いえじま(1945ねん)。5せんにん死亡しぼう

だい世界せかい大戦たいせんちゅう大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんにおいては、竹槍たけやりが「制式せいしき兵器へいき」、すなわち正規せいき兵器へいきとして採用さいようされ、実戦じっせん使用しようされた。

まず、1931ねん(昭和しょうわ6ねん)に勃発ぼっぱつした満州まんしゅう事変じへんころより、教育きょういく総監そうかん本部ほんぶちょう陸軍りくぐん大臣だいじんなどを歴任れきにんした大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんトップの荒木あらき貞夫さだおが、竹槍たけやりを「とぼしい軍備ぐんび象徴しょうちょう」としてさかんにかたるようになった。「日本にっぽん国民こくみん全員ぜんいん日本にっぽん精神せいしんちさえすれば、あとは軍備ぐんびとぼしくても十分じゅうぶん国防こくぼうおこなえる」とするろんで、その趣旨しゅしについては、本人ほんにんが1934ねんあらわした『非常時ひじょうじ認識にんしき青年せいねん覚悟かくご』にくわしい。荒木あらきいわく、「軍事ぐんじ非常ひじょう余計よけいかっていかぬとうならば、もう要塞ようさい全部ぜんぶたいらにして、兵器へいき全部ぜんぶしまいんで、このきゅうせんまん国民こくみん一致いっちして、ひとひととの皇室こうしつ日本にっぽんどうとをいただいてやったらばよい。そうすれば国防こくぼうため竹槍たけやりさんひゃくまんほんそろえておきさえすれば、それでもう沢山だくさんだ」[18] とのこと。荒木あらき陸相りくしょうは1933ねん昭和しょうわ8ねん)に来日らいにちしたバーナード・ショー当時とうじ世界せかいてき影響えいきょうりょくのあった文化ぶんかじんで、1925ねんにノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう)にも面会めんかいし、各国かっこく軍拡ぐんかく競争きょうそうをストップするために各国かっこく竹槍たけやり戦術せんじゅつ採用さいようするべきだとうったえたことを東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん(1933ねん3がつ8にちづけ)などがほうじている。

竹槍たけやりはやがて、「日本にっぽん精神せいしん象徴しょうちょう」としてももちいられるようになった。荒木あらき貞夫さだお陸軍りくぐん大将たいしょうは1936ねん昭和しょうわ11ねん)の講演こうえんにおいて、「さんひゃくまんにん国民こくみん竹槍たけやりってよくふせぎよくまも決心けっしんあらば、大将たいしょうみずか指揮しきしてちぎって国家こっか守護しゅごする」とかたっており、その解説かいせつによると「さんひゃくまんにんとは国防こくぼうだい一線いっせん陸海りくかい軍人ぐんじんであり、竹槍たけやりとは誠心せいしんである」[19] とのこと。このように、すくなくともじゅうねん戦争せんそう初期しょき時点じてんにおいては、竹槍たけやりはあくまでたとえであり、本当ほんとう竹槍たけやり兵器へいきとして使つかうという意味いみではなかったと帝国ていこく軍人ぐんじんには解釈かいしゃくされていた。しかし荒木あらきのいわゆる「竹槍たけやりさんひゃくまんほんろん」は、当時とうじのマスコミに幾度いくど報道ほうどうされており、神戸こうべ又新またしん日報にっぽう(1932ねん5がつ9にちづけ)が「ばくだんさん勇士ゆうし」になぞらえて「竹槍たけやりさん勇士ゆうし」とひょうするほどのその扇情せんじょうてき精神せいしんろんが、当時とうじ青年せいねんだんいん在郷ざいきょう軍人ぐんじん愛国心あいこくしんうったえかけて「なにほどかの効果こうかったこととおもわれる」と当時とうじ神戸こうべ又新またしん日報にっぽうほうじており[20]、また荒木あらきすめらぎどうのシンボルとしても、当時とうじ青年せいねん将校しょうこうらに絶大ぜつだい思想しそうてき影響えいきょうりょくがあったことは事実じじつである。

1937ねん(昭和しょうわ12ねん)に勃発ぼっぱつしたにちちゅう戦争せんそうころより、本当ほんとう竹槍たけやり実戦じっせんもちいられるようになった。ただし、当初とうしょはあくまで銃剣じゅうけんだい用品ようひんとしての位置いちづけで、輜重しちょう兵站へいたんなどの後方こうほう部隊ぶたいにおいて補助ほじょ兵器へいきとして竹槍たけやり配分はいぶんされた事例じれいられる[21]銃剣じゅうけんだい用品ようひんとしての竹槍たけやりかんしては、『銃剣じゅうけんじゅつ指導しどう必携ひっけい』(陸軍りくぐん戸山とやま学校がっこうへん、1942ねん)にくわしい。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)より、竹槍たけやりは「制式せいしき兵器へいき」と位置付いちづけられて規格きかくされ、陸軍りくぐん兵士へいし配備はいびされた。また竹槍たけやりあつかかたも、陸軍りくぐん教育きょういくてのひら教育きょういく総監そうかんによって武術ぶじゅつひとつである「竹槍たけやりじゅつ」として完成かんせいされ、1942ねんよりぜん国民こくみん竹槍たけやり訓練くんれんおこなわれるにいたった。武術ぶじゅつとしての「竹槍たけやりじゅつ」の神髄しんずいおよ訓練くんれん方法ほうほうかんしては、『たけ槍術そうじゅつ訓練くんれん参考さんこう』(教育きょういく総監そうかん、1943ねん)にくわしい。本書ほんしょでは、竹槍たけやりだい用品ようひんとしてやり使つか方法ほうほう紹介しょうかいされている。

さらに1945ねんには国民こくみん義勇ぎゆうたい組織そしきされ、竹槍たけやり本土ほんど決戦けっせんのための主要しゅよう武器ぶきひとつと位置付いちづけられた。白兵戦はくへいせんにおいて竹槍たけやりもちいてアメリカじんころすためのテクニックについては、『国民こくみん抗戦こうせん必携ひっけい』(大本営だいほんえい陸軍りくぐん、1945ねん)にくわしい。具体ぐたいてきには、「こうイヤンキーどもはらヲ突ケ、ルナ、ハラフナ」とのこと(かたなやり一般いっぱんてきもちかた解説かいせつしたものだが、例示れいじされているイラストはあきらかに竹槍たけやりである。じゅうったてきへい正面しょうめんからかってき、竹槍たけやりすと、てきへいのちょうどおへそのあたりにさり、てき撃滅げきめつする、というのが、1945ねん当時とうじ大日本帝国だいにっぽんていこく大本営だいほんえい陸軍りくぐん想定そうていした運用うんよう方法ほうほうである)。

竹槍たけやりは「制式せいしき兵器へいき」(ぐんから正規せいき支給しきゅうされる武器ぶき)としてだけでなく、「自活じかつ兵器へいき」(現地げんちでありあわせのもの使つかって自作じさくする武器ぶき)としても活用かつようされた。日本にっぽんぐんにおいては武器ぶき弾薬だんやくきたのちも、「きて虜囚りょしゅうはずかしめをけず」(戦陣せんじんくん)のおしえから降伏ごうぶくせず、てきたいして最後さいご突撃とつげきバンザイ突撃とつげき)をおこな慣習かんしゅうがあり、そのさい持参じさんする武器ぶきとして、現地げんちえているたけもちいて竹槍たけやり制作せいさくされた。てきがわ記録きろく日本にっぽんへい陣中じんちゅう日誌にっしなどに多数たすうれい記載きさいされている[22]

竹槍たけやりじゅつ実戦じっせんけにマニュアルも整備せいびされており、心身しんしん陶冶とうやにも、本土ほんど決戦けっせんにおける白兵はくへい戦闘せんとう兵器へいきとしても有効ゆうこうだと1944ねん当時とうじ陸軍りくぐんかんがえていたが、一方いっぽう当時とうじ海軍かいぐんは「戦争せんそう太平洋たいへいようまる、てき日本にっぽん沿岸えんがん侵攻しんこうして時点じてんではもう手遅ておくれ」「てき飛行機ひこうき海洋かいよう航空機こうくうき)でめてくるが、竹槍たけやりでは飛行機ひこうきたたかない」とかんがえており、海軍かいぐん意向いこうをくむかたち毎日新聞まいにちしんぶん新名にいな丈夫たけお記者きしゃが『毎日新聞まいにちしんぶん』(1944ねん2がつ23にちづけ)に「竹槍たけやりではあいだごうはぬ 飛行機ひこうきだ、海洋かいよう航空機こうくうきだ」との記事きじせたところ、東條とうじょう英機ひでき陸相りくしょうけん首相しゅしょう激怒げきど毎日新聞まいにちしんぶん発禁はっきんとなり、新名にいな招集しょうしゅうされた(竹槍たけやり事件じけん)。

1945ねん沖縄おきなわせんにおいては、兵士へいしだけでなく本来ほんらい戦闘せんとういんであるはずの現地げんち住民じゅうみん女性じょせいまで竹槍たけやりばくだんたされてべいぐん突撃とつげきおこな死亡しぼうした。防衛ぼうえい召集しょうしゅうによってあつめられた現地げんち住民じゅうみん正式せいしきには「防衛ぼうえいたい」とうが、戦闘せんとう訓練くんれんけず、武器ぶきあたえられずに竹槍たけやりぼう)だけたされた姿すがたから自嘲じちょうてきに「ボーヒータイ(ぼう兵隊へいたい)」ともばれた。沖縄おきなわせんにおけるとく悲惨ひさんれいひとつとしてられる伊江島いえじまれいげると[23]、1945ねん3がつ25にちから4がつ16にち早朝そうちょうにかけてだい5艦隊かんたいによるかんほう射撃しゃげきおよび艦載かんさい海洋かいよう航空機こうくうきによるナパームだん投下とうかおこなわれ、やはり竹槍たけやりではたたかずにしま飛行場ひこうじょうおよびほとんどの建造けんぞうぶつ破壊はかいされた。4月16にちについにアメリカぐんだい77歩兵ほへい師団しだん上陸じょうりくし、伊江島いえじま守備しゅびたいとの戦闘せんとうおこなわれたが、白兵戦はくへいせんにおいても竹槍たけやりはあまり有効ゆうこうであったとはえない。米兵べいへいはらくために竹槍たけやりって最後さいご突撃とつげきおこなっても、ほとんどが米兵べいへいちかづくまえ射殺しゃさつされるという欠点けってんがあった。また、よる竹槍たけやりなどをもって少数しょうすう米兵べいへい突撃とつげきする「み」とばれる奇襲きしゅうおこなわれたが、日本にっぽんぐん奇襲きしゅうべいぐん察知さっちしており、照明しょうめいだんらされて一斉いっせい射撃しゃげきさらされるため、きてかえるのもむずかしかった。わずか5にちの4がつ21にち伊江島いえじま全島ぜんとう占領せんりょうされ、守備しゅびたい住人じゅうにんふくめてやく5000にん死亡しぼうした。伊江島いえじま守備しゅびたいにおいては、かく兵士へいし配備はいびされた竹槍たけやり手榴弾しゅりゅうだん以外いがいにも、大隊だいたい機関きかんじゅう中隊ちゅうたい小銃しょうじゅうすうちょう配備はいびされており、あるいは爆薬ばくやく直接ちょくせつって自爆じばく攻撃こうげきおこなうなど竹槍たけやり以外いがいにも攻撃こうげき手段しゅだんいわけではなかったが、だい502特設とくせつ警備けいび工兵こうへいたいやく800めい、うち半数はんすう義勇ぎゆう召集しょうしゅうによる地元じもと住民じゅうみんめる)においてはおも任務にんむ飛行場ひこうじょう整備せいびであり、まともな武器ぶき配備はいびされておらず、メインの対抗たいこう手段しゅだん本当ほんとう竹槍たけやりってのりこみしかなかった。「みでてきへいもとまでたどりき、竹槍たけやりこうとしたものの、てき竹槍たけやりつかまれて結局けっきょくけなかった」とう、あるだい502特設とくせつ警備けいび工兵こうへいたい隊員たいいんによる逸話いつわが『定本ていほん 沖縄おきなわせん』に記載きさいされている。

硫黄いおうとうせん後期こうき内地ないちからおくられて補給ほきゅうひんたら雷管らいかん竹槍たけやりだけであったという[24]大戦たいせん末期まっきには極度きょくど物資ぶっし窮乏きゅうぼうのため、たけさき青竹あおだけんだかごけて爆雷ばくらい発射はっしゃ装置そうちとした「投射とうしゃしき噴進爆雷ばくらい」(たけせいパンツァーファウストのようなもの)、竹槍たけやりさき火薬かやくめて爆雷ばくらいとした「ばくやり」、ばくやり末尾まつび推進すいしん火薬かやくめてロケットだんにした「対空たいくう噴進ばくやり」(たけせいフリーガーファウストのようなもの)など、竹槍たけやり実際じっさい対空たいくう兵器へいき対戦たいせんしゃ兵器へいきとしたものが考案こうあんされている。

たけ槍術そうじゅつ訓練くんれん参考さんこう』など、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん兵器へいきとしての竹槍たけやりかんする軍事ぐんじ資料しりょうは、終戦しゅうせん直後ちょくご証拠しょうこ隠滅いんめつによるやぶ却をのがれたものが、一部いちぶ軍事ぐんじ機密きみつとともに連合れんごうぐん接収せっしゅうされ(竹槍たけやりは『兵器へいき引渡目録もくろく』にも記載きさいされており、本当ほんとう竹槍たけやり兵器へいきとして連合れんごうぐんわたされた)、現在げんざいアメリカ議会ぎかい図書館としょかんぞうされている(「べい議会ぎかい図書館としょかん所蔵しょぞう占領せんりょう接収せっしゅうきゅう陸海りくかいぐん資料しりょう」)ほか、日本にっぽん国内こくないにある資料しりょう一部いちぶ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん国立こくりつ公文書こうぶんしょかんアジア歴史れきし資料しりょうセンターによってインターネット公開こうかいされている。

規格きかく[編集へんしゅう]

以下いかは『たけ槍術そうじゅつ訓練くんれん参考さんこう』に準拠じゅんきょした。

  • ながさ:子供こどもようが1.5m、大人おとなようが1.7m~2m
  • 直径ちょっけい子供こどもようが3.5 cm、大人おとなようが4cm
  • 角度かくど:20やり使つか場合ばあいまるけずっても
  • 強化きょうかのために弱火よわびであぶって植物しょくぶつっても
  • たけは、生乾なまがわきまたはせいものでも

たけふしをまたぐようにさきもうけると、強靭きょうじんとのこと。竹槍たけやりだい用品ようひんとしてのやり規格きかくは、さきまるけずってもとする以外いがい竹槍たけやりおなじ。

北原きたはらすすむによると、隣組となりぐみ訓練くんれんでは、竹槍たけやり根元ねもといしめるとつよすことができると指導しどうされたという[25]

竹槍たけやりじゅつ[編集へんしゅう]

竹槍たけやりじゅつ」は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんが1940年代ねんだい完成かんせいさせ、1943ねんより大日本帝国だいにっぽんていこく国民こくみん教育きょういくされた武術ぶじゅつ竹槍たけやりじゅつの「真髄しんずい体得たいとく必勝ひっしょう信念しんねん養成ようせいスル」のための教本きょうほんである『たけ槍術そうじゅつ訓練くんれん参考さんこう』も、教育きょういく総監そうかんによって制作せいさくされた(生徒せいとよう先生せんせいようの2種類しゅるいがある)。なお、国立こくりつ公文書こうぶんしょかんアジア歴史れきし資料しりょうセンターがネット公開こうかいしている「たけ槍術そうじゅつ訓練くんれん参考さんこう」は、帝国ていこく在郷ざいきょう軍人ぐんじんかい台北たいぺい支部しぶ複写ふくしゃ頒布はんぷしたものが、戦後せんご防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ収蔵しゅうぞうされたもので、「竹槍たけやりじゅつ」は台湾たいわん朝鮮ちょうせんなど当時とうじ日本にっぽんだったしょ地域ちいきでも教育きょういくされていた。

たけ槍術そうじゅつ訓練くんれん参考さんこう』は冒頭ぼうとうに「白兵戦はくへいせん使じゅつ簡単かんたんニシテ精練せいれんナルモノかつかちせいス」とのげんがあり、竹槍たけやり明確めいかく白兵戦はくへいせんのための「兵器へいき」と位置付いちづけられているが、同時どうじに「じゅう代用だいよう」としてのめんや「心身しんしん訓練くんれん陶冶とうや」など、竹槍たけやりじゅつ教練きょうれんつうじた教育きょういくてき要素ようそ重視じゅうしされている。

竹槍たけやりじゅつにおいては「とげ突」がもっとも重要じゅうようされ、「やりからだ」が一致いっちしていないとただしいとげ突がおこなえないとされる。また、「いち必殺ひっさつ」とう、精神せいしんてき要素ようそ重視じゅうしされている。

なお、武道ぶどうにおける「竹槍たけやりじゅつ」には、「槍術そうじゅつ」に「薙刀なぎなたじゅつ」の要素ようそれられ、てきとげ突するだけでなく、てきさえたりはらったりとった実戦じっせんてき要素ようそたかめられたものもあるが、教育きょういく総監そうかんしきの「竹槍たけやりじゅつ」は、そのような武道ぶどう達人たつじんではなく老人ろうじん女性じょせい小学生しょうがくせいなどの銃後じゅうご国民こくみんたいして、在郷ざいきょう軍人ぐんじんなどが本土ほんど決戦けっせんせまなか短時間たんじかん白兵戦はくへいせん教練きょうれんおこなうためのものであるため、「いち必殺ひっさつ」だけである。

インドネシアに進出しんしゅつした日本にっぽんぐん現地げんち人々ひとびと竹槍たけやりじゅつおしえるために制作せいさくされた、日本にっぽん映画えいがしゃジャカルタ製作所せいさくしょによる教育きょういく映画えいが『TAKEYARI JUTSU Pemakaian Tombak bamboe』(1943)が存在そんざいする。竹槍たけやり規格きかくどおりにメジャーではかって正確せいかく裁断さいだんしたり、竹槍たけやりさきあぶってかたくしたり、屈強くっきょう日本にっぽんへいが「突撃とつげきにぃー、すすめッ!」の合図あいずとともにおおきなこえしながらげき突台(竹槍たけやり訓練くんれんときなどに使つか稽古けいこようまとぐんきょうひんとして市販しはんされていた)を次々つぎつぎ竹槍たけやりしていく様子ようすなど、『たけ槍術そうじゅつ訓練くんれん参考さんこう』にいてあるとおりのことだが、竹槍たけやりじゅつ実際じっさい映像えいぞう記録きろくされている[26]。ちなみに「Pemakaian Tombak bamboe」とはマレーで「竹槍たけやりじゅつ」の意味いみ

ばく竹槍たけやりばくやり[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん末期まっき日本にっぽんでは「対人たいじんようばく竹槍たけやり」(ばくやり)という兵器へいき実在じつざいした。簡単かんたんうと竹槍たけやりさき爆薬ばくやくめたものである。

陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょによって考案こうあんされ、配備はいびされた自活じかつ兵器へいきのひとつ。2メートルほどながさの竹筒たけづつ先端せんたん爆薬ばくやく簡易かんい信管しんかん装着そうちゃくし、これでてきくと先端せんたん爆発ばくはつしててき殺傷さっしょうするという自爆じばく兵器へいきである。本来ほんらいとげ突爆かみなりぼうさき爆雷ばくらいけたものであるが、物資ぶっし窮乏きゅうぼうのため爆雷ばくらい用意よういできず、竹筒たけづつさき直接ちょくせつ爆薬ばくやく信管しんかんめた。爆薬ばくやくダイナマイト安全あんぜん装置そうち厚紙あつがみなどのわせのもの使つかい、信管しんかんくぎ針金はりがねなどで自作じさくしたげきはり雷管らいかんけただけの簡単かんたん構造こうぞうであった [1]運用うんようほう竹槍たけやりじゅつじゅんずる。

また実戦じっせん使用しようされたかは不明ふめいであるが、ばくやり巨大きょだい弓矢ゆみやばす兵器へいきや、ばくやり末尾まつび推進すいしん火薬かやくめてロケットだんにした「対空たいくう噴進ばくやり」という対空たいくう兵器へいきまで考案こうあんされていた [2]ナチス・ドイツせい携帯けいたいよう対空たいくうロケットほうフリーガーファウストちか運用うんようほうであったとられる。

なお、このように物資ぶっし窮乏きゅうぼうするなか正規せいき兵器へいき対抗たいこうするためにありあわせのものやガラクタでつくった兵器へいき全般ぜんぱん自活じかつ兵器へいきといい、大戦たいせん末期まっき日本にっぽんぐんでは陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょをはじめ、かく部隊ぶたい単位たんいでもいくつも試行しこう錯誤さくごしていた。陸軍りくぐん技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょたけつくったばくやりほかにも、簡易かんい投擲とうてきであるいしゆみゆみ和紙わしとコンニャクのりつくった大陸たいりくあいだ兵器へいきである風船ふうせんばくだんなど数々かずかず兵器へいき開発かいはつしている。なお、前述ぜんじゅつとおり「竹槍たけやり自体じたいは「自活じかつ兵器へいき」ではなく、陸軍りくぐん正式せいしき採用さいようされた「制式せいしき兵器へいき」である。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Monjali Dilapisi 1.500 Bambu Runcing(krjogja.com 参照さんしょう:2018.5.17)
  2. ^ ささあいだ良彦よしひこ図説ずせつ 日本にっぽん武道ぶどう事典じてん柏木かしわぎ書房しょぼう
  3. ^ 太田おおた牛一ごいちべつほん御代みよ軍記ぐんき』(「太田おおた牛一ごいち旧記きゅうき
  4. ^ 呉座ござ勇一ゆういち, 2015 & Kindleばん位置いちNo.ぜん3065ちゅう 270-293 / 9-10%.
  5. ^ a b c 呉座ござ勇一ゆういち, 2015 & Kindleばん位置いちNo.ぜん3065ちゅう 222 / 7%.
  6. ^ 呉座ござ勇一ゆういち, 2015 & Kindleばん位置いちNo.ぜん3065ちゅう 232-244 / 8%.
  7. ^ 枢密院すうみついん決議けつぎいち刀剣とうけん銃砲じゅうほうやり仕入しいれ刀剣とうけん仕込しこみじゅう竹槍たけやり棍棒こんぼうるい携帯けいたい禁止きんしせきスルけん決議けつぎあん明治めいじさんじゅういちねんがつにち決議けつぎ」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A03033947900 
  8. ^ 愛国あいこく陣営じんえい 大阪おおさか時事新報じじしんぽう、1932ねん12月17にち
  9. ^ 東京とうきょうだい貯水池ちょすいち計画けいかく地元民じもとみん必死ひっし反対はんたい」、東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん、1934ねん10がつ13にち
  10. ^ 10月31にち 台湾たいわん憲兵けんぺい隊長たいちょうより今回こんかい事件じけんぐんおいてはきりしゃ事件じけん名付なづけ此の用語ようごていせり」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C10050156200 
  11. ^ はたいく彦『昭和しょうわ秘話ひわう』 2012ねん
  12. ^ Semangat bambu runcing di era digital - merdeka.com
  13. ^ Silat Bambu Runcing Dari Selaawi Catat Rekor Dunia - Infodesaku
  14. ^ a b Lanning, Michael; Cragg, Dan (1992). Inside the VC and the NVA: The Real Story of North Vietnam's Armed Forces. Ivy Books. pp. 120–168 
  15. ^ FM 3-05.70. Survival” (PDF). Army Intelligence and Security Doctrine. 米国べいこく科学かがくしゃ連盟れんめい(FAS). pp. 197-198 (2002ねん5がつ). 2024ねん1がつ25にち閲覧えつらん "Figure 12-4. Bamboo Spear"とある。
  16. ^ 武器ぶき事典じてん』p.136、市川いちかわじょうはるしん紀元きげんしゃ、1996ねん
  17. ^ FM 3-05.70』12-7, Headquarters, Department of the Army, 2002
  18. ^ 非常時ひじょうじ認識にんしき青年せいねん覚悟かくご』p.38、荒木あらき貞夫さだおちょ、1934ねん文明ぶんめいしゃ
  19. ^ 建国けんこくはじめかえれ』p.14、帝国ていこく傷痍軍人しょういぐんじんかい佐賀さがけん支部しぶへん、1936ねん
  20. ^ ファッシズムと大衆たいしゅう支持しじ神戸こうべ又新またしん日報にっぽう、1932ねん5がつ9にち神戸大学こうべだいがく附属ふぞく図書館としょかんデジタルアーカイブ
  21. ^ いちれいとして、だい上海しゃんはい事変じへんで1937ねん上海しゃんはいひがしはな紡績ぼうせき工場こうじょう駐屯ちゅうとんした輜重しちょうへい竹槍たけやり支給しきゅうされたと記述きじゅつする陣中じんちゅう日誌にっしげる。「陣中じんちゅう日誌にっし 昭和しょうわ12ねん11月1にちいたり昭和しょうわ12ねん11月30にち 輜重しちょうへいだい114連隊れんたいだい1中隊ちゅうたい(2)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C11111352600 
  22. ^ いちれいとして、だい次長じちょうすな作戦さくせんで1942ねん現在げんざい湖南こなみしょうちょうすな市長しちょうすなけんかげやま駐屯ちゅうとんした衛生えいせいはんがバンザイ突撃とつげき覚悟かくごするところまで劣勢れっせいとなった「竹槍たけやりつく覚悟かくごする」とだいする陣中じんちゅう日誌にっしげる。「だい2次長じちょうすな作戦さくせん2 あかりだい9029部隊ぶたい衛生えいせいたい)その2」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C11112099600 
  23. ^ 証言しょうげん記録きろく 市民しみんたちの戦争せんそう悲劇ひげきしま かたれなかった記憶きおく沖縄おきなわけん伊江島いえじま NHK 戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス
  24. ^ 実録じつろく太平洋戦争たいへいようせんそう だい5かん』p.14、1960ねん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  25. ^ 大森おおもり洋平ようへい考証こうしょうようしゅう2 蔵出くらだし NHK時代じだい考証こうしょう資料しりょう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ ISBN 978-4-16-791198-0 P.167
  26. ^ Membuat Bambu Runcing untuk Perjuangan (1945) - youtubeの映像えいぞう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 呉座ござ勇一ゆういち一揆いっき原理げんり筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2015ねん原著げんちょ2012ねん)、Kindleばん位置いちNo.ぜん3065ちゅう 2135-2185 / 70-71%ぺーじISBN 978-4480096975 
    • KindleはんASIN B01DSVNA8QKindleばん位置いちNo.ぜん3065ちゅう 2135-2185 / 70-71%

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

その