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インドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう で使用 しよう された竹槍 たけやり (インドネシア、ジョグジャカルタ市 し のヨグヤ・ケンバリ独立 どくりつ 記念 きねん 館 かん 所蔵 しょぞう )。
竹槍 たけやり (たけやり)とは竹 たけ を加工 かこう して製造 せいぞう された槍 やり 状 じょう の簡易 かんい 武器 ぶき である。
「スラバヤの戦 たたか い 」を記念 きねん する「竹槍 たけやり 記念 きねん 碑 ひ 」(スラバヤ市 し )。
竹槍 たけやり は、竹 たけ を柄 え にして先端 せんたん に槍 やり の穂先 ほさき を結 むす び付 つ けた物 もの と、竹 たけ を削 けず って先 さき をとがらせたものの2種類 しゅるい がある。
竹 たけ のみで作 つく られた竹槍 たけやり は、竹 たけ を適当 てきとう な長 なが さに切 き った上 うえ で、先端 せんたん 部 ぶ を斜 なな めに切断 せつだん した、あるいはその円周 えんしゅう の一部 いちぶ だけを尖 とが らせたもので、更 さら に火 ひ で炙 あぶ るなどして硬化 こうか 処理 しょり を施 ほどこ した簡易 かんい の武器 ぶき であるが、竹 たけ が熱帯 ねったい から亜熱帯 あねったい ・温帯 おんたい ・亜寒帯 あかんたい に掛 か け広 ひろ い範囲 はんい に自生 じせい しているため、この竹 たけ 自生 じせい 地域 ちいき ではほとんどタダ同然 どうぜん で入手 にゅうしゅ できる武器 ぶき である。ただしその威力 いりょく は一度 いちど 使用 しよう すれば貫通 かんつう 力 りょく が鈍 なま る使 つか い捨 す て程度 ていど で、こちらも「簡易 かんい 」と呼 よ ぶに相応 ふさわ しいものとなっている。
使用 しよう される竹 たけ は該当 がいとう 地域 ちいき に自生 じせい するものに限 かぎ られるため、その太 ふと さはまちまちである。しかし竹 たけ が垂直 すいちょく 方向 ほうこう に繊維 せんい が揃 そろ っていて丈夫 じょうぶ で、かつ中空 ちゅうくう であるため軽量 けいりょう 、加 くわ えて使 つか い捨 す てとはいえ白兵戦 はくへいせん ・近接 きんせつ 戦闘 せんとう においては十分 じゅうぶん な殺傷 さっしょう 能力 のうりょく を持 も っていたことから、広 ひろ い範囲 はんい で様々 さまざま な形 かたち で利用 りよう されていたと考 かんが えられる。
なお武器 ぶき の性質 せいしつ としては竿 ざお 状 じょう 武器 ぶき (ポールウェポン )となるが、その多 おお くでは入手 にゅうしゅ しやすいこと(=量産 りょうさん しやすいこと)から集団 しゅうだん で利用 りよう するためにも便利 べんり が良 よ く、これによって対象 たいしょう を相手 あいて の武器 ぶき や牙 きば ・爪 つめ の間合 まあ いの外 そと から取 と り囲 かこ んで、突 つ いたり叩 たた いたりして対象 たいしょう を攻撃 こうげき するのに向 む いていた。
太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう の大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん では制式 せいしき 兵器 へいき として竹槍 たけやり を採用 さいよう していた。[要 よう 出典 しゅってん ] また、ベトナム戦争 せんそう における南 みなみ ベトナム解放 かいほう 民族 みんぞく 戦線 せんせん など、近代 きんだい のゲリラ戦 せん でも活用 かつよう された。インドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう でも使用 しよう され、そのため独立 どくりつ を達成 たっせい するまでの勇気 ゆうき と犠牲 ぎせい を象徴 しょうちょう するものとされ、戦争 せんそう 記念 きねん 碑 ひ などのモチーフとされている[1] 。
その起源 きげん は古 ふる く、竹林 ちくりん が自生 じせい する地域 ちいき では鉄器 てっき 文明 ぶんめい 以前 いぜん から使用 しよう されていたとも言 い われているが、記録 きろく がない有史 ゆうし 以前 いぜん でもあり、材質 ざいしつ 的 てき にも遺物 いぶつ として残 のこ りにくいため、詳細 しょうさい は不明 ふめい である。
日本 にっぽん では戦国 せんごく 時代 じだい にはすでに使用 しよう されていた記録 きろく があるが、当時 とうじ は純粋 じゅんすい な竹 たけ 製 せい のものだけでなく、(鋼鉄 こうてつ 製 せい の穂先 ほさき を備 そな えていたとしても) 柄 え が竹 たけ 製 せい であればいずれも竹槍 たけやり と呼称 こしょう していた[2] ので注意 ちゅうい が必要 ひつよう である。明智 あけち 光秀 みつひで も落 お ち武者 むしゃ 狩 か り をしていた土地 とち の農民 のうみん らの竹槍 たけやり に掛 か かり果 は てたとされる[3] 一方 いっぽう で、錆 さ びた鑓 やり との異説 いせつ もあるのもこのためである。
江戸 えど 時代 じだい の百姓 ひゃくしょう 一揆 いっき による強訴 ごうそ は、支配 しはい 層 そう の武力 ぶりょく 転覆 てんぷく を狙 ねら ったものではなく、騒擾 そうじょう を起 お こすことによって責任 せきにん 問題 もんだい を恐 おそ れる藩 はん や代官 だいかん に要求 ようきゅう をのませようとする性格 せいかく の行動 こうどう であったため、農民 のうみん としての身分 みぶん を表 あらわ す農具 のうぐ が使用 しよう された。狩猟 しゅりょう 用具 ようぐ であった鉄砲 てっぽう や竹槍 たけやり を持 も ち出 だ すことはあったものの、攻撃 こうげき のために使用 しよう することはほとんどなかった。青木 あおき 虹 にじ 二 に が江戸 えど 時代 じだい に発生 はっせい した一揆 いっき 3710件 けん を調査 ちょうさ した中 なか で、竹槍 たけやり で役人 やくにん を殺害 さつがい した事例 じれい は一 いち 例 れい しか存在 そんざい しない。
近代 きんだい 以後 いご も、民衆 みんしゅう の暴動 ぼうどう に際 さい しては竹槍 たけやり が活躍 かつやく した。明治 めいじ 初年 しょねん 、農民 のうみん は新 しん 政府 せいふ の政策 せいさく に反対 はんたい する新政 しんせい 反対 はんたい 一揆 いっき の中 なか で竹槍 たけやり を頻繁 ひんぱん に使用 しよう するようになった。地租 ちそ 改正 かいせい 反対 はんたい 一揆 いっき を諷 ふう した「竹槍 たけやり でドンと突 つ き出 だ す二分 にぶん 五 ご 厘 りん 」と言 い う川柳 せんりゅう は著名 ちょめい である。明治 めいじ 6年 ねん (1872年 ねん )の筑前 ちくぜん 竹槍 たけやり 一揆 いっき で使用 しよう された竹槍 たけやり は現在 げんざい も福岡 ふくおか 市 し 博物館 はくぶつかん に現存 げんそん している。これらの一揆 いっき は明治 めいじ 十 じゅう 年代 ねんだい には沈静 ちんせい 化 か し、自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう が活発 かっぱつ 化 か すると、民権 みんけん 運動 うんどう 家 か から百姓 ひゃくしょう 一揆 いっき は古 ふる い型 かた の運動 うんどう であると否定 ひてい 的 てき に見 み られるようになり、竹槍 たけやり はその象徴 しょうちょう として「竹槍 たけやり 筵旗 むしろばた 」(ちくそうせっき、たけやりむしろばた)という言葉 ことば で表現 ひょうげん されるようになった。
明治 めいじ 31年 ねん (1898年 ねん )2月 がつ 5日 にち には衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 選挙 せんきょ において、選挙 せんきょ 人 じん が刀剣 とうけん や銃器 じゅうき ・棍棒 こんぼう ・竹槍 たけやり を携帯 けいたい することを禁 きん じた決議 けつぎ が枢密院 すうみついん で行 おこな われている[7] 。その後 ご も1918年 ねん 米 まい 騒動 そうどう や小作 こさく 争議 そうぎ 、労働 ろうどう 争議 そうぎ 、外地 がいち における反日 はんにち 蜂起 ほうき などで竹槍 たけやり が用 もち いられた。例 たと えば1931年 ねん から1932年 ねん にかけて起 お こった栃木 とちぎ 県 けん 阿久津 あくつ 村 むら の小作 こさく 争議 そうぎ (阿久津 あくつ 村 むら 事件 じけん )においては、猟銃 りょうじゅう や竹槍 たけやり などで武装 ぶそう した労農 ろうのう 大衆 たいしゅう 党 とう 員 いん が、地主 じぬし と結託 けったく して農民 のうみん を弾圧 だんあつ した愛国 あいこく 主義 しゅぎ 政党 せいとう ・大 だい 日本 にっぽん 生産 せいさん 党 とう の演説 えんぜつ 会 かい 事務所 じむしょ を襲撃 しゅうげき する事件 じけん が1932年 ねん 春 はる にあり、死者 ししゃ 4名 めい ・重傷 じゅうしょう 者 しゃ 10名 めい を出 だ し[8] 、最終 さいしゅう 的 てき に死者 ししゃ は5名 めい となり、109人 にん が殺人 さつじん 罪 ざい で起訴 きそ ・35人 にん が実刑 じっけい 判決 はんけつ を受 う けている。東京 とうきょう 市 し は東京 とうきょう 市民 しみん の飲用 いんよう 水 すい のために大宮 おおみや ・浦和 うらわ 町 まち (いずれも現 げん さいたま市 し )にある見沼 みぬま を貯水池 ちょすいち として中禅寺湖 ちゅうぜんじこ の3倍 ばい の規模 きぼ にまで拡大 かくだい する計画 けいかく を1934年 ねん に発表 はっぴょう したが、これに対 たい する反対 はんたい 運動 うんどう が激化 げきか した際 さい 、東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん は「竹槍 たけやり 席 せき 旗 はた 化 か しはせぬかと気 き づかわれている」と評 ひょう している[9] 、この計画 けいかく は最終 さいしゅう 的 てき に1939年 ねん に撤回 てっかい されている。
十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう 中 なか の大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん においては、竹槍 たけやり が兵器 へいき として使用 しよう された。まず、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ 当初 とうしょ においては、輜重 しちょう ・兵站 へいたん などの後方 こうほう 部隊 ぶたい における補助 ほじょ 兵器 へいき として竹槍 たけやり が配分 はいぶん された。その後 ご 、太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 なか の1942年 ねん には大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん の「制式 せいしき 兵器 へいき 」(軍 ぐん から兵士 へいし に配備 はいび される正規 せいき の兵器 へいき )として正式 せいしき に竹槍 たけやり が採用 さいよう され、前線 ぜんせん の兵士 へいし に竹槍 たけやり が配備 はいび された。銃後 じゅうご の国民 こくみん においても、1943年 ねん には陸軍 りくぐん が策定 さくてい した「竹槍 たけやり 術 じゅつ 」のマニュアルが配布 はいふ され、学生 がくせい や主婦 しゅふ など民間 みんかん 人 じん の間 あいだ で竹槍 たけやり の製造 せいぞう と訓練 くんれん が行 おこな われた。さらに1945年 ねん には竹槍 たけやり は本土 ほんど 決戦 けっせん に備 そな えた「決戦 けっせん 兵器 へいき 」と位置付 いちづ けられ、国民 こくみん 義勇 ぎゆう 隊 たい の主要 しゅよう 装備 そうび のひとつとされた。また、軍 ぐん では「制式 せいしき 兵器 へいき 」としてだけではなく「自活 じかつ 兵器 へいき 」(窮乏 きゅうぼう した兵士 へいし がありあわせの物 もの から自作 じさく した兵器 へいき )としても採用 さいよう され、使用 しよう する兵器 へいき に欠 か く陸海 りくかい 軍 ぐん 部隊 ぶたい が自作 じさく して小銃 しょうじゅう の代 か わりに装備 そうび した例 れい が多 た 見 み される。明治 めいじ 以前 いぜん に一揆 いっき などで使用 しよう されていた物 もの は長 なが さが通常 つうじょう の槍 やり と同 おな じく3メートルから4メートルと長 なが かったが、大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん の制式 せいしき 兵器 へいき として規格 きかく 化 か された竹槍 たけやり は子供 こども 用 よう が150センチほど、大人 おとな 用 よう が170~200センチほどだった。直径 ちょっけい は3~5センチである。実態 じったい としては槍 やり というよりも銃剣 じゅうけん の代 だい 用品 ようひん であり、行 おこな われた訓練 くんれん (竹槍 たけやり 術 じゅつ )は銃剣 じゅうけん 術 じゅつ と同 おな じだった。
戦後 せんご では、昭和 しょうわ 時代 じだい 中期 ちゅうき に新 しん 左翼 さよく 過激 かげき 派 は が鉄 てつ パイプや火炎瓶 かえんびん などとともに使用 しよう した例 れい があり、例 たと えば1971年 ねん の東峰 とうほう 十字路 じゅうじろ 事件 じけん などで竹槍 たけやり が使用 しよう された。
中国 ちゅうごく ・台湾 たいわん [ 編集 へんしゅう ]
中国 ちゅうごく ・台湾 たいわん でも昔 むかし から使用 しよう されていたようだ。明 あかり の時代 じだい には、日本 にっぽん 刀 がたな で武装 ぶそう した倭 やまと 寇 に穂先 ほさき を斬 き り落 お とされないように、枝葉 えだは の付 つ いた青竹 あおだけ を竹槍 たけやり の柄 え にする「狼 おおかみ 筅 」と言 い う武器 ぶき が考案 こうあん されている。
近代 きんだい にいたっても、日本 にっぽん 統治 とうち 下 か となって日本 にっぽん 軍 ぐん による竹槍 たけやり 教練 きょうれん が始 はじ まる以前 いぜん より使用 しよう されていたようだ。台湾 たいわん において使用 しよう された例 れい として、1930年 ねん に台湾 たいわん 原住民 げんじゅうみん であるセデック族 ぞく の民衆 みんしゅう が日本人 にっぽんじん に対 たい して蜂起 ほうき した霧 きり 社 しゃ 事件 じけん において使用 しよう されたとの記録 きろく がある[10] 。
近代 きんだい に入 はい って中国 ちゅうごく の正規 せいき 軍 ぐん で竹槍 たけやり を使用 しよう したという例 れい は無 な く、むしろ毛沢東 もうたくとう 率 ひき いるゲリラ兵 へい である八 はち 路 ろ 軍 ぐん の農民 のうみん 兵 へい が拳銃 けんじゅう で武装 ぶそう しているのに対 たい し、これと対峙 たいじ する日本 にっぽん 軍 ぐん は都市 とし ごとに補給 ほきゅう が分断 ぶんだん されて武器 ぶき がなくなり、正規 せいき 軍 ぐん なのに竹槍 たけやり 訓練 くんれん をしていたという記録 きろく がある。
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日本 にっぽん の敗戦 はいせん (1945年 ねん 8月 がつ )から連合 れんごう 軍 ぐん のインドネシア進駐 しんちゅう (1945年 ねん 10月 がつ )までの期間 きかん に、日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい して竹槍 たけやり を持 も って蜂起 ほうき した「青年 せいねん 団 だん (ペムダ)」と呼 よ ばれる青年 せいねん 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ の集団 しゅうだん (1945年 ねん )
1945年 ねん 10月 がつ よりインドネシアに進駐 しんちゅう した連合 れんごう 軍 ぐん (イギリス軍 ぐん )、そして1946年 ねん より進駐 しんちゅう したオランダ軍 ぐん に対 たい し、「青年 せいねん 団 だん (ペムダ)」は日本 にっぽん 軍 ぐん から鹵獲 ろかく した機関 きかん 銃 じゅう 、小銃 しょうじゅう 、そして竹槍 たけやり を持 も って立 た ち向 む かった(1946年 ねん )
インドネシア では、竹槍 たけやり は「Bambu Runcing 」と呼 よ ばれる。日本 にっぽん 軍 ぐん が1942年 ねん に蘭 らん 印 しるし (現在 げんざい のインドネシア)を占領 せんりょう した後 のち 、1943年 ねん 10月 がつ より住民 じゅうみん 統制 とうせい を目的 もくてき とする隣組 となりぐみ (インドネシア語 ご でも「Tonarigumi 」と言 い う)をジャワ島 じゃわとう ほか各地 かくち に設置 せっち した日本 にっぽん の軍政 ぐんせい 当局 とうきょく によって竹槍 たけやり 術 じゅつ の教練 きょうれん が行 おこな われており、ポンティアナック事件 じけん (1943年 ねん 、西 にし カリマンタン州 しゅう ポンティアナック市 し で大日本帝国 だいにっぽんていこく 海軍 かいぐん が住民 じゅうみん を虐殺 ぎゃくさつ した事件 じけん )の後 のち にダヤク族 ぞく が竹槍 たけやり で蜂起 ほうき したり、またシンガパルナ事件 じけん (1944年 ねん 、タシクマラヤ県 けん シンガパルナ村 むら で農民 のうみん が武装 ぶそう 蜂起 ほうき した事件 じけん )では「反乱 はんらん の恐 おそ れあり」として農民 のうみん をスパイしていた日本 にっぽん の憲兵 けんぺい を人質 ひとじち に取 と りながら農民 のうみん が軍政 ぐんせい 当局 とうきょく に対 たい して竹槍 たけやり で蜂起 ほうき するなど、インドネシア各地 かくち で竹槍 たけやり を掲 かか げた反日 はんにち 武装 ぶそう 蜂起 ほうき がいくつも起 お こっていたが、しょせん竹槍 たけやり では近代 きんだい 兵器 へいき で武装 ぶそう した大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸海 りくかい 軍 ぐん に敵 てき うはずが無 な かった。しかし、インドネシア人 じん が竹槍 たけやり で占領 せんりょう 軍 ぐん に対 たい して勝利 しょうり を勝 か ち取 と るのは、インドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう においてである。(なお、「Tonarigumi」は住民 じゅうみん の相互 そうご 扶助 ふじょ ・相互 そうご 監視 かんし による軍政 ぐんせい 当局 とうきょく の負担 ふたん 軽減 けいげん 化 か を狙 ねら って日本 にっぽん 軍政 ぐんせい 当局 とうきょく が設置 せっち したものだが、竹槍 たけやり 訓練 くんれん ・防火 ぼうか 訓練 くんれん などで住民 じゅうみん を団結 だんけつ させ、その後 ご の独立 どくりつ 戦争 せんそう でも大 おお きな役目 やくめ を果 は たしたことから、インドネシア共和 きょうわ 国 こく でも最小 さいしょう の行政 ぎょうせい 単位 たんい である「Rukun Tetangga」および「Rukun Warga」としてほぼそのまま残 のこ っている)
まず、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん で日本 にっぽん 軍 ぐん が降伏 ごうぶく した1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち から、連合 れんごう 国軍 こくぐん がインドネシアに上陸 じょうりく する9月 がつ -10月 がつ までの間 あいだ 、ラングーン協定 きょうてい により連合 れんごう 軍 ぐん に武器 ぶき を引 ひ き渡 わた す義務 ぎむ を負 お った日本 にっぽん 軍 ぐん と、日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい して連合 れんごう 軍 ぐん の上陸 じょうりく 前 まえ に武器 ぶき の引 ひ き渡 わた しを求 もと めて竹槍 たけやり などで武装 ぶそう したインドネシア青年 せいねん 団 だん (pemuda、「若者 わかもの 」「青年 せいねん 」の意味 いみ 。「青年 せいねん 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ 」とも訳 やく される)と呼 よ ばれるインドネシア人 じん の独立 どくりつ 運動 うんどう 過激 かげき 派 は の若者 わかもの 集団 しゅうだん との間 あいだ で、各所 かくしょ で小競 こぜ り合 あ いが起 お こった。連合 れんごう 軍 ぐん とインドネシア青年 せいねん 団 だん の間 あいだ で板挟 いたばさ みになった日本 にっぽん 軍 ぐん の対応 たいおう は各 かく 部隊 ぶたい でまちまちで、スラバヤ(岩部 いわべ 重雄 しげお 少将 しょうしょう の指揮 しき 下 か )など日本 にっぽん 軍 ぐん がインドネシア人 じん に協力 きょうりょく 的 てき であった地域 ちいき においては、青年 せいねん 団 だん による武器 ぶき の略奪 りゃくだつ を黙認 もくにん する形 かたち で機関 きかん 銃 じゅう や竹槍 たけやり などの旧 きゅう 日本 にっぽん 軍 ぐん の武器 ぶき がインドネシア人 じん にほぼ無血 むけつ で引 ひ き渡 わた されたが、バンドンやバタビア(馬淵 まぶち 少将 しょうしょう の指揮 しき 下 か )、スマラン(城戸 きど 少将 しょうしょう の指揮 しき 下 か )など、日本 にっぽん 軍 ぐん がインドネシア人 じん に非 ひ 協力 きょうりょく 的 てき であった地域 ちいき においては、蜂起 ほうき した青年 せいねん 団 だん が武器 ぶき の引 ひ き渡 わた しを求 もと めて日本 にっぽん 兵 へい を襲 おそ い、日本 にっぽん 軍 ぐん 自 みずか らがインドネシア人 じん に教練 きょうれん した竹槍 たけやり 術 じゅつ によって多数 たすう の日本人 にっぽんじん がインドネシア人 じん に殺傷 さっしょう されている。第 だい 16軍 ぐん の宮本 みやもと 静雄 しずお 参謀 さんぼう は日本 にっぽん 軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ と射撃 しゃげき の原則 げんそく 禁止 きんし を通達 つうたつ していたため、無抵抗 むていこう の日本 にっぽん 兵 へい が竹槍 たけやり で虐殺 ぎゃくさつ された事件 じけん もいくつかあり、例 たと えばバンドン近郊 きんこう のブカシでは海軍 かいぐん 第 だい 五 ご 警備 けいび 隊 たい の竹下 たけした 大佐 たいさ ら86名 めい が住民 じゅうみん に虐殺 ぎゃくさつ されている(軍政 ぐんせい 期 き のインドネシア人 じん が麻 あさ 袋 ぶくろ のズボンを履 は かされた仕返 しかえ しとして、ブカシの日本人 にっぽんじん は麻 あさ 袋 ぶくろ のズボンを履 は かされたうえで虐殺 ぎゃくさつ されたとのこと。英雄 えいゆう 記念 きねん 日 び (Hari Pahlawan )の「竹槍 たけやり 行進 こうしん 」が「独立 どくりつ 戦争 せんそう の苦難 くなん を追 つい 体験 たいけん する」と言 い う意味合 いみあ いがあったのと同 おな じく、現在 げんざい は独立 どくりつ 記念 きねん 日 び の面白 おもしろ アトラクションと化 か している「麻 あさ 袋 ぶくろ レース(id:balap karung )」も元々 もともと は「日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の苦難 くなん を追 つい 体験 たいけん する」という意味合 いみあ いがあった。なお、ブカシ市 し が日本 にっぽん 軍 ぐん や連合 れんごう 軍 ぐん の圧政 あっせい を竹槍 たけやり で打 う ち払 はら ったことを示 しめ すものとして、ブカシ市 し には日本 にっぽん 軍 ぐん に使役 しえき される労務者 ろうむしゃ (ロームシャ 、インドネシア語 ご でもそのまま「romusa」と言 い う)のレリーフなどを伴 ともな った竹槍 たけやり 記念 きねん 碑 ひ の「ブカシ人民 じんみん 闘争 とうそう 記念 きねん 碑 ひ (Monumen Perjuangan Rakyat Di Bekasi)」も存在 そんざい するが、2005年 ねん には日本 にっぽん 兵 へい が竹槍 たけやり で惨殺 ざんさつ された死体 したい が放 ほう り込 こ まれたブカシ川 がわ のほとりに、日本 にっぽん とインドネシアの平和 へいわ と友好 ゆうこう の記念 きねん 碑 ひ である「Monumen Tepi Kali」が建設 けんせつ されるなど、現在 げんざい は日本 にっぽん とブカシ市 し の関係 かんけい は友好 ゆうこう 的 てき である)。1946年 ねん 1月 がつ よりジャワ島 じゃわとう から旧 きゅう 日本 にっぽん 兵 へい の復員 ふくいん が始 はじ まるが、復員 ふくいん させてもらえずに降伏 ごうぶく 軍人 ぐんじん 軍属 ぐんぞく として連合 れんごう 軍 ぐん に使役 しえき されたり、インドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう に参加 さんか したり、日本 にっぽん 軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ による治安 ちあん の空白 くうはく 化 か によって増 ふ えた強盗 ごうとう に殺害 さつがい された例 れい なども含 ふく め、1000人 にん 以上 いじょう の日本人 にっぽんじん が終戦 しゅうせん 後 ご のジャワで日本 にっぽん に帰 かえ る前 まえ に亡 な くなっている。そのうちかなりの数 かず が竹槍 たけやり で惨殺 ざんさつ された。(なお、インドネシア各地 かくち の独立 どくりつ 戦争 せんそう 記念 きねん 碑 ひ の前 まえ には、独立 どくりつ 戦争 せんそう の歴史 れきし を絵 え と文字 もじ で記 しる したレリーフが設置 せっち されていることがあり、ブカシ市 し やスマラン市 し など、圧制 あっせい を敷 し いた日本 にっぽん 兵 へい を竹槍 たけやり で殺傷 さっしょう した歴史 れきし がある都市 とし では竹槍 たけやり 記念 きねん 碑 ひ の前 まえ にその通 とお りのレリーフがある。ただし、日本 にっぽん 兵 へい の中 なか には現地 げんち 住民 じゅうみん に英雄 えいゆう として称 とな えられている人 ひと もおり、必 かなら ずしも全 すべ ての日本 にっぽん 兵 へい が竹槍 たけやり 記念 きねん 碑 ひ の前 まえ で労務者 ろうむしゃ に暴虐 ぼうぎゃく を振 ふ ったり青年 せいねん 団 だん に竹槍 たけやり で殺傷 さっしょう されているわけでは無 な い。特 とく に、バリ州 しゅう バドゥン県 けん Mengwi郡 ぐん Penarungan村 むら でインドネシア人 じん とともに独立 どくりつ 戦争 せんそう を戦 たたか った松井 まつい 兵曹 へいそう 長 ちょう ・荒木 あらき 兵曹 へいそう の像 ぞう は、竹槍 たけやり 記念 きねん 碑 ひ の前 まえ によくいる日本 にっぽん 兵 へい とは打 う って変 か わって温厚 おんこう な顔 かお をしており、その人柄 ひとがら を偲 しの ばせるものとなっている)
「5日 にち 戦争 せんそう 」(1945年 ねん )において、約 やく 130人 にん の日本人 にっぽんじん が竹槍 たけやり などで虐殺 ぎゃくさつ されたブル刑務所 けいむしょ (インドネシア、スマラン市 し )。なお、虐殺 ぎゃくさつ された日本 にっぽん 兵 へい が『インドネシア独立 どくりつ 万 まん 歳 さい 』と壁 かべ に血書 けっしょ した物 もの がインドネシア人 じん に感動 かんどう を与 あた え、記念 きねん に保存 ほぞん された、との説 せつ がネット上 じょう で流布 るふ しているが、真偽 しんぎ 不明 ふめい で、少 すく なくとも特別 とくべつ に保存 ほぞん はされておらず、建物 たてもの は現在 げんざい もそのまま刑務所 けいむしょ として使 つか われている
スマランの日本 にっぽん 軍政 ぐんせい 当局 とうきょく と5日 にち にわたって竹槍 たけやり で戦 たたか った「5日 にち 戦争 せんそう 」を記念 きねん する「青年 せいねん の碑 いしぶみ (Tugu Muda)」(インドネシア、スマラン市 し )。「飢餓 きが 」「戦闘 せんとう 」「暴力 ぼうりょく 」「犠牲 ぎせい 」「勝利 しょうり 」を象徴 しょうちょう するレリーフが刻 きざ まれた5本 ほん の竹槍 たけやり が合体 がったい した蝋燭 ろうそく のような形 かたち をしている。その右 みぎ 下 か に見 み えるのが5本 ほん の「竹槍 たけやり オブジェ」である
最 もっと も多数 たすう の日本人 にっぽんじん が竹槍 たけやり で殺害 さつがい された事 こと で知 し られるスマラン 市 し の「5日 にち 戦争 せんそう 」の例 れい を挙 あ げると、インドネシア側 がわ に協力 きょうりょく 的 てき であった中部 ちゅうぶ ジャワ防衛 ぼうえい 隊 たい 司令 しれい 部 ぶ の中村 なかむら 淳 あつし 次 じ 少将 しょうしょう が命令 めいれい 無視 むし の廉 かど で日本 にっぽん 軍 ぐん に逮捕 たいほ され、シンガポールの南方 なんぽう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ に更迭 こうてつ された後 のち 、代 か わってスマランを支配 しはい 下 か に置 お いたスマラン駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん の城戸 きど 少将 しょうしょう と青年 せいねん 団 だん の対立 たいりつ が激化 げきか し、緊張 きんちょう が高 たか まる中 なか で10月 がつ 14日 にち 6時 じ 30分 ふん ごろより日本 にっぽん 軍 ぐん がプルサラ病院 びょういん (現 げん ・Dr.カリアディ病院 びょういん )の前 まえ で検問 けんもん を開始 かいし 。「日本 にっぽん 軍 ぐん が貯水池 ちょすいち に毒 どく を入 い れた」との不穏 ふおん な噂 うわさ が流 なが れる中 なか 、18時 じ 00分 ふん ごろに日本 にっぽん 軍 ぐん が8人 にん のインドネシア人 じん 警察官 けいさつかん を武装 ぶそう 解除 かいじょ した上 うえ で連行 れんこう し拷問 ごうもん したためにさらに緊張 きんちょう が高 たか まる。貯水池 ちょすいち の調査 ちょうさ をするためにシランダ貯水池 ちょすいち に向 む かったプルサラ病院 びょういん の院長 いんちょう であるDr.カリアディは、スマラン市 し のパンダナランで運転 うんてん 手 しゅ とともに日本 にっぽん 軍 ぐん に銃撃 じゅうげき され23時 じ 30分 ふん に死亡 しぼう 。一方 いっぽう 青年 せいねん 団 だん は10月14日 にち にオランダ人 じん 2000人 にん と日本 にっぽん 兵 へい 約 やく 130人 にん をブル刑務所 けいむしょ に監禁 かんきん 。そして10月 がつ 15日 にち の未明 みめい 3時 じ 30分 ふん より、現在 げんざい の「青年 せいねん の碑 いしぶみ 」(Tugu Muda)が立 た っている場所 ばしょ で城戸 きど 部隊 ぶたい と青年 せいねん 団 だん の戦闘 せんとう が開始 かいし された。青年 せいねん 団 だん は「機関 きかん 銃 じゅう 、小銃 しょうじゅう 、竹槍 たけやり など」[11] を用 もち いて、スマラン憲兵 けんぺい 隊 たい が刑務所 けいむしょ に突入 とつにゅう する10月 がつ 16日 にち までにブル刑務所 けいむしょ の日本人 にっぽんじん 全員 ぜんいん を虐殺 ぎゃくさつ 。城戸 きど 部隊 ぶたい はその報復 ほうふく として、イギリスのグルカ兵 へい がスマランに進駐 しんちゅう する10月 がつ 19日 にち までに約 やく 2000人 にん の青年 せいねん 団 だん とインドネシア人民 じんみん 治安 ちあん 団 だん (id:Badan Keamanan Rakyat 、青年 せいねん 団 だん を支援 しえん していた軍事 ぐんじ 組織 そしき 、現在 げんざい のインドネシア国軍 こくぐん の前身 ぜんしん )を殺害 さつがい した。10月19日 にち に中部 ちゅうぶ ジャワ州 しゅう のウォンソヌゴロ知事 ちじ の仲介 ちゅうかい によって城戸 きど 部隊 ぶたい とインドネシア人民 じんみん 治安 ちあん 軍 ぐん (Tentara Keamanan Rakyat、人民 じんみん 治安 ちあん 団 だん から改称 かいしょう )との間 あいだ で交渉 こうしょう が行 おこな われ、また10月 がつ 20日 はつか にはベテル准 じゅん 将 しょう が率 ひき いるイギリス軍 ぐん によって日本 にっぽん 軍 ぐん の拘留 こうりゅう と武装 ぶそう 解除 かいじょ が行 おこな われ、10月 がつ 20日 はつか にスマランの治安 ちあん が回復 かいふく された。城戸 きど 少将 しょうしょう の判断 はんだん の結果 けっか として最終 さいしゅう 的 てき にスマラン在住 ざいじゅう の200名 めい 近 ちか い日本人 にっぽんじん が竹槍 たけやり などで殺害 さつがい される結果 けっか となったが、一方 いっぽう でブル刑務所 けいむしょ に収容 しゅうよう されていたオランダ人 じん は全員 ぜんいん 無傷 むきず であり、城戸 きど 少将 しょうしょう はスマランのオランダ人 じん 抑留 よくりゅう 者 しゃ 約 やく 3万 まん 人 にん と武器 ぶき を守 まも り切 き った有能 ゆうのう 司令 しれい 官 かん として連合 れんごう 軍 ぐん と南方 なんぽう 軍 ぐん の双方 そうほう から称賛 しょうさん されたとのこと。インドネシアではこれを「Pertempuran Lima Hari」(5日 にち 戦争 せんそう )と呼 よ び、高校 こうこう の教科書 きょうかしょ で習 なら う。日本 にっぽん 側 がわ ではこれを「スマラン事件 じけん 」と呼 よ び、「親日 しんにち 国 こく であるインドネシア人 じん が、アジア開放 かいほう の為 ため に共 とも に戦 たたか った日本人 にっぽんじん を竹槍 たけやり で殺傷 さっしょう するはずがない」と言 い う観点 かんてん から、「スマラン事件 じけん は共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ が起 お こした」という説 せつ を唱 とな える者 もの もいるが、スマラン事件 じけん の現場 げんば には竹槍 たけやり で日本 にっぽん 軍 ぐん に蜂起 ほうき した青年 せいねん 団 だん を称 たた えるための「青年 せいねん の碑 いしぶみ 」が現在 げんざい 立 た っており、鹵獲 ろかく した銃剣 じゅうけん 付 つ き三 さん 八 はち 式 しき 歩兵 ほへい 銃 じゅう と竹槍 たけやり を用 もち いて九 きゅう 〇式 しき 鉄 てつ 帽 ぼう を被 こうむ った日本 にっぽん 兵 へい を刺 とげ 突する場面 ばめん のレリーフも土台 どだい に掘 ほ られていることから、少 すく なくともスマラン市 し 側 がわ はそのようには認識 にんしき していない。(なお、スマラン事件 じけん の犠牲 ぎせい となった日本人 にっぽんじん 188名 めい の慰霊 いれい 碑 ひ が1998年 ねん にスマラン市 し 当局 とうきょく の協力 きょうりょく で西 にし バンジルカナル川 がわ のほとりに建設 けんせつ され、「5日 にち 戦争 せんそう の発端 ほったん として日本 にっぽん 軍 ぐん に殺害 さつがい された」と現地 げんち 教科書 きょうかしょ にも載 の っているDr.カリアディを記念 きねん したDr.カリアディ病院 びょういん と北海道大学 ほっかいどうだいがく が協定 きょうてい を結 むす ぶなど、現在 げんざい は日本 にっぽん とスマラン市 し 当局 とうきょく との関係 かんけい は友好 ゆうこう 的 てき である。)
1949年 ねん 3月 がつ 1日 にち 、1500名 めい の竹槍 たけやり 部隊 ぶたい を率 ひき いてオランダよりジョグジャカルタを奪回 だっかい したスハルト中佐 ちゅうさ 。後 のち にインドネシア共和 きょうわ 国 こく の第 だい 2代 だい 大統領 だいとうりょう として30年 ねん にわたる経済 けいざい 成長 せいちょう を導 みちび く、不敗 ふはい の「スハルト神話 しんわ 」がここから始 はじ まった
その後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん から鹵獲 ろかく した機関 きかん 銃 じゅう や竹槍 たけやり などで武装 ぶそう したインドネシア民兵 みんぺい は、連合 れんごう 国軍 こくぐん の一員 いちいん としてインドネシアに進駐 しんちゅう したイギリス軍 ぐん と戦 たたか った。特 とく に、連合 れんごう 軍 ぐん とインドネシア民兵 みんぺい との間 あいだ でスラバヤ 市 し において1945年 ねん 11月 がつ 10日 とおか より行 おこな われた「スラバヤの戦 たたか い 」は、竹槍 たけやり などで武装 ぶそう したインドネシア民兵 みんぺい 側 がわ に多大 ただい な犠牲 ぎせい を出 だ しながらもインドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう の端緒 たんしょ となった。そのためスラバヤ市 し には、連合 れんごう 軍 ぐん に竹槍 たけやり で立 た ち向 む かった英雄 えいゆう たちを記念 きねん する「竹槍 たけやり 記念 きねん 碑 ひ (Monumen Bambu Runcing)」が建 た てられている。また、同 おな じくインドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう の激戦 げきせん 地 ち となったジョグジャカルタ 市 し において、1949年 ねん 3月 がつ 1日 にち のジョグジャカルタ奪還 だっかん 作戦 さくせん (Serangan Oemoem)でスハルト 中佐 ちゅうさ に率 ひき いられた1500人 にん の竹槍 たけやり 部隊 ぶたい の奮闘 ふんとう ぶりは、オランダの「カラス作戦 さくせん 」によって壊滅 かいめつ したと思 おも われていたインドネシア共和 きょうわ 国軍 こくぐん の健在 けんざい ぶりを世界 せかい に知 し らしめ、国連 こくれん の圧力 あつりょく もあって1949年 ねん 6月 がつ についにオランダがジョグジャカルタより撤退 てったい するに至 いた ったことでも、またその後 ご の「スハルト神話 しんわ 」の形成 けいせい に一役 ひとやく 買 か ったことでも知 し られており、ジョグジャカルタ市 し の奪還 だっかん と独立 どくりつ 戦争 せんそう の闘士 とうし を記念 きねん するヨグヤ・ケンバリ記念 きねん 館 かん (ジョグジャカルタの小学生 しょうがくせい は遠足 えんそく で必 かなら ず行 い く)にも、独立 どくりつ 戦争 せんそう で使 つか われた竹槍 たけやり が展示 てんじ されている。
竹槍 たけやり 戦線 せんせん (id:Barisan Bambu Runcing 、インドネシア独立 どくりつ を求 もと めて1945年 ねん 11月に設立 せつりつ されたラシュカ(Lasykar、イスラム系 けい 民兵 みんぺい 組織 そしき )の一 ひと つ)の指導 しどう 者 しゃ であるK. H. Subchi (「竹槍 たけやり 将軍 しょうぐん (Jenderal Bambu Runcing)」の異名 いみょう を持 も つ)は、日本 にっぽん 占領 せんりょう 期 き より竹槍 たけやり をインドネシアのナショナリズムの象徴 しょうちょう としていた人物 じんぶつ として知 し られ、Subchiの故郷 こきょう であるテマングン県 けん パラカン市 し にはTAMAN BAMBU RUNCING(竹槍 たけやり 公園 こうえん )が建設 けんせつ されている。また、パラカン市 し のアルバロカモスク(Masjid Al Barokah di Parakan)は、竹槍 たけやり 戦線 せんせん を記念 きねん して竹槍 たけやり をイメージしたモスクである。
ポンティアナック事件 じけん (1943年 ねん )で大日本帝国 だいにっぽんていこく 海軍 かいぐん に虐殺 ぎゃくさつ された5人 にん を含 ふく む、植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい に抵抗 ていこう したサレカット・イスラム の英雄 えいゆう 11人 にん を記念 きねん するために建設 けんせつ されたディグリス記念 きねん 碑 ひ (インドネシア、ポンティアナック 市 し )。なお、以前 いぜん は紅白 こうはく にペイントされており、通称 つうしょう 「口紅 くちべに 」と呼 よ ばれる珍 ちん スポットだった
独立 どくりつ 後 ご のインドネシアにおける竹槍 たけやり は、鹵獲 ろかく した武器 ぶき の量 りょう が十分 じゅうぶん でないために竹槍 たけやり で戦 たたか わざるを得 え なかった独立 どくりつ 戦争 せんそう の初期 しょき の苦難 くなん や、オランダ・日本 にっぽん ・そして連合 れんごう 国 こく に対 たい して竹槍 たけやり を持 も って蜂起 ほうき した市井 しせい の民衆 みんしゅう の勇気 ゆうき を象徴 しょうちょう するものとされ、スハルト時代 じだい 以後 いご の経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き には竹槍 たけやり を記念 きねん したモニュメントが各地 かくち に設立 せつりつ された。なお、公共 こうきょう 建築 けんちく として大 おお きな竹槍 たけやり がインドネシア各地 かくち に乱雑 らんざつ に建設 けんせつ されている一 いち 面 めん もあり、植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい に抵抗 ていこう したポンティアナック 市 し のサレカット・イスラム の英雄 えいゆう 11人 にん (ポンティアナック事件 じけん の犠牲 ぎせい となった3人 にん を含 ふく む)を記念 きねん するために1987年 ねん に建設 けんせつ されたディグリス記念 きねん 碑 ひ は、1995年 ねん に紅白 こうはく の塗装 とそう に変更 へんこう されたため、市民 しみん から「口紅 くちべに 」と呼 よ ばれていた(2006年 ねん に竹 たけ のペイントに塗装 とそう し直 なお された)。
21世紀 せいき のインドネシアにおいては、ほとんどのインドネシア人 じん にとって竹槍 たけやり は単 たん なる「歴史 れきし 」であるため、竹槍 たけやり 記念 きねん 碑 ひ にwi-fiスポットを設置 せっち したり、台座 だいざ に上 のぼ って竹槍 たけやり を掲 かか げた独立 どくりつ 戦争 せんそう の英雄 えいゆう とツーショット写真 しゃしん を撮 と ってSNSにアップしたり、落書 らくが きされている記念 きねん 碑 ひ も多 おお い。戦後 せんご 70年 ねん 以上 いじょう を経 へ て、「竹槍 たけやり で独立 どくりつ を勝 か ち取 と った」という戦争 せんそう の記憶 きおく が忘 わす れ去 さ られつつある一方 いっぽう で、従来 じゅうらい の「竹槍 たけやり で独立 どくりつ を勝 か ち取 と った」という史観 しかん ともまた違 ちが った、新 あたら しい視点 してん から見直 みなお そうとするクリエーターも育 そだ っており、建国 けんこく の英雄 えいゆう スギヤプラナタ司教 しきょう を主人公 しゅじんこう とした『スギヤ』(Soegija、ガリン・ヌグロホ監督 かんとく 、2012年 ねん 。スマラン事件 じけん を下敷 したじ きにしながら、従来 じゅうらい のような激 はげ しい戦闘 せんとう 場面 ばめん のある戦争 せんそう 映画 えいが ではなく、戦争 せんそう の背後 はいご にある普遍 ふへん 的 てき な人間 にんげん 性 せい を描 えが き、高 たか い評価 ひょうか を受 う けた。日本 にっぽん 軍 ぐん と青年 せいねん 団 だん の間 あいだ で板挟 いたばさ みになって命 いのち を落 お とす日本 にっぽん 兵 へい を鈴木 すずき 伸幸 のぶゆき が好演 こうえん した)、「スラバヤの戦 たたか い」をテーマとしたアニメ『Battle of Surabaya』(アリャント・ユニアワン監督 かんとく 、2015年 ねん 。連合 れんごう 軍 ぐん と結 むす んでインドネシア独立 どくりつ を阻止 そし しようとする忍者 にんじゃ 軍団 ぐんだん をヒロインがいつもの竹槍 たけやり ではなく忍者 にんじゃ 刀 がたな でうちたおす)、などが制作 せいさく されている。
21世紀 せいき のインドネシアにおいては、「竹槍 たけやり 精神 せいしん 」(semangat bambu runcing)は「チャレンジ精神 せいしん 」「ベンチャー精神 せいしん 」などと同 おな じ意味 いみ で使 つか われており、トコペディア (2009年 ねん に設立 せつりつ されたインドネシアの電子 でんし 商取引 しょうとりひき 大手 おおて 。2014年 ねん にソフトバンク グループに入 はい った)の創設 そうせつ 者 しゃ であるウィリアム・タヌウィジャヤも「竹槍 たけやり 精神 せいしん 」によって起業 きぎょう し、インドネシアの代表 だいひょう として稚拙 ちせつ な英語 えいご 力 りょく ながら国外 こくがい の投資 とうし 家 か の投資 とうし を得 え た、と2017年 ねん に語 かた っている[12] 。2010年代 ねんだい のインドネシアを代表 だいひょう するIT起業 きぎょう 家 か であるウィリアムは、「デジタル時代 じだい の竹槍 たけやり 精神 せいしん 」として「勇気 ゆうき 」「粘 ねば り強 づよ さ(失敗 しっぱい を恐 おそ れずに事業 じぎょう を継続 けいぞく する)」「希望 きぼう (独立 どくりつ の英雄 えいゆう のように崇高 すうこう な目標 もくひょう を持 も つ)」を挙 あ げており、「この3つの精神 せいしん をもって正 ただ しい努力 どりょく をすれば、君 きみ も夢 ゆめ を実現 じつげん できる」としている。トコペディアはその竹槍 たけやり 精神 せいしん によって、2011年 ねん にインドネシアに進出 しんしゅつ したグローバル資本 しほん の電子 でんし 商取引 しょうとりひき 大手 おおて である楽天 らくてん (楽天 らくてん 市場 いちば 、Rakuten BELANJA)を2016年 ねん にはインドネシアから撤退 てったい に追 お い込 こ んだ。
21世紀 せいき のインドネシアにおいては、竹槍 たけやり 術 じゅつ は伝統 でんとう 武道 ぶどう のようなものになっており、たまにイベントなどで竹槍 たけやり 訓練 くんれん が行 おこな われることがある。2018年 ねん 2月 がつ 15日 にち 、西 にし ジャワ州 しゅう ガルト県 けん Selaawi市 し において子供 こども たち630人 にん による竹槍 たけやり 演舞 えんぶ が行 おこな われ、RECORD HOLDERS REPUBLIC(RHR、イギリスの世界 せかい 記録 きろく 認定 にんてい 機関 きかん )によって竹槍 たけやり 演舞 えんぶ の世界 せかい 記録 きろく に認定 にんてい された[13] 。
この節 ふし には独自 どくじ 研究 けんきゅう が含 ふく まれているおそれがあります。 問題 もんだい 箇所 かしょ を検証 けんしょう し出典 しゅってん を追加 ついか して、記事 きじ の改善 かいぜん にご協力 きょうりょく ください。議論 ぎろん はノート を参照 さんしょう してください。(2021年 ねん 2月 がつ )
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "竹槍 たけやり " – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2021年 ねん 2月 がつ )
南 みなみ ベトナム の戦略 せんりゃく 村 むら (1964年 ねん )
ベトナム戦争 せんそう で使 つか われたパンジ・スティック の合間 あいま を歩 ある くアメリカ兵 へい (1966年 ねん )
第 だい 一 いち 次 じ インドシナ戦争 せんそう (1946年 ねん - 1954年 ねん )では竹槍 たけやり は使用 しよう されなかった。
ベトナム戦争 せんそう 中 なか のベトナムでは有刺鉄線 ゆうしてっせん の代 か わりとして竹槍 たけやり が多用 たよう された。例 れい として、ベトナム共和 きょうわ 国 こく (南 みなみ ベトナム )政府 せいふ がアメリカの指導 しどう の下 した で建設 けんせつ した戦略 せんりゃく 村 むら は、南 みなみ ベトナム政府 せいふ 軍 ぐん 支配 しはい 下 か 地域 ちいき の農民 のうみん を竹槍 たけやり のバリケードの中 なか に築 きず かれた「村 むら 」に移住 いじゅう させ、南 みなみ ベトナム政府 せいふ の「保護 ほご 」と「財政 ざいせい 支援 しえん 」を与 あた える、と言 い う物 もの であった。これは農民 のうみん に対 たい して南 みなみ ベトナム政府 せいふ への忠誠 ちゅうせい 心 しん を育 そだ てると同時 どうじ に、アメリカの傀儡 かいらい である南 みなみ ベトナム政府 せいふ の打倒 だとう を掲 かか げる南 みなみ ベトナム解放 かいほう 民族 みんぞく 戦線 せんせん (ベトコン )から孤立 こりつ させて関係 かんけい を断 た つことを狙 ねら ったものだが、農民 のうみん を強制 きょうせい 移住 いじゅう ・強制 きょうせい 収容 しゅうよう するやり方 かた は、かえって農民 のうみん の反発 はんぱつ を呼 よ んだ。
また、ベトコンがゲリラ 戦 せん 用 よう の無音 むおん 武器 ぶき やブービートラップ (仕掛 しか け罠 わな )として竹槍 たけやり を使用 しよう しており、特 とく に「パンジ・スティック (乱杭 らんぐい )」が多用 たよう された。落 お とし穴 あな を掘 ほ ってその底 そこ に竹槍 たけやり を設置 せっち する(狼 おおかみ 穽 )ことも多 おお く、足 あし または下肢 かし のみにダメージを与 あた える物 もの が主流 しゅりゅう であった[14] 。狭 せま い落 お とし穴 あな の側面 そくめん に、切 き っ先 さき を下 した に向 む けて設置 せっち すると、救出 きゅうしゅつ が困難 こんなん となって足止 あしど め効果 こうか が大 おお きく、落 お ちた人 ひと を救助 きゅうじょ するまでの間 あいだ 、搬送 はんそう の為 ため に担架 たんか を担 かつ いだアメリカ兵 へい は機動 きどう 力 りょく が落 お ち、病院 びょういん への移送 いそう の為 ため にヘリコプターを使 つか わせるなど、部隊 ぶたい 全体 ぜんたい にダメージを与 あた えることができた[14] 。
他 ほか にも、細菌 さいきん による感染 かんせん 症 しょう を狙 ねら い、排泄 はいせつ 物 ぶつ を塗 ぬ ることもあった。ワイヤーに引 ひ っ掛 か かると飛 と び出 だ して串刺 くしざ しにするといったものもあり、それらに掛 か かった兵士 へいし は見 み るも無残 むざん な姿 すがた となったため、アメリカ軍 ぐん 兵士 へいし にとって士気 しき を下 さ げるほどのストレスを与 あた えたともされる。なおカンボジア内戦 ないせん でのポル・ポト派 は も、これらの罠 わな を多用 たよう したが、竹槍 たけやり ではなく木 き を尖 とが らせたものを使用 しよう した。
パンジ・スティックは現在 げんざい 、1983年 ねん 発効 はっこう の特定 とくてい 通常 つうじょう 兵器 へいき 使用 しよう 禁止 きんし 制限 せいげん 条約 じょうやく で禁止 きんし されており、日本 にっぽん もこれを批准 ひじゅん しているため、日本 にっぽん でパンジ・スティックを設置 せっち することはできない。
アメリカ陸軍 りくぐん のサバイバルマニュアル (FM 3-05.70, May 2002) の12-18項 こう [15] は即席 そくせき の槍 やり を作 つく る方法 ほうほう を説明 せつめい しており、合 あ わせて竹槍 たけやり の作 つく り方 かた も図解 ずかい されている。
竹 たけ を削 けず って先 さき をとがらせたタイプの竹槍 たけやり と、竹 たけ を槍 やり の柄 え として使 つか って穂先 ほさき としてナイフなどの刃物 はもの を結 むす び付 つ けるタイプの竹槍 たけやり がある。大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん の制式 せいしき 兵器 へいき としての竹槍 たけやり については後述 こうじゅつ 。
戦国 せんごく 時代 じだい の竹槍 たけやり [ 編集 へんしゅう ]
戦国 せんごく 時代 じだい から近代 きんだい にかけて、農民 のうみん の一揆 いっき や博徒 ばくと の出入 でい りなどで使 つか われたと考 かんが えられている竹槍 たけやり [16] 。
長 なが さは4.0m前後 ぜんご 。重 おも さは1.8-2.5 kg。
先端 せんたん に槍 やり の穂先 ほさき を結 むす び付 つ けないタイプの竹槍 たけやり の場合 ばあい 、竹 たけ の先 さき を単純 たんじゅん に斜 なな めに削 そ いだものと、槍 やり の穂先 ほさき 状 じょう に削 けず ったものがある。
肉 にく が厚 あつ く、まっすぐな青竹 あおだけ を用 もち いる。
竹 たけ の根本 こんぽん 側 がわ を穂先 ほさき にし、穂先 ほさき 側 がわ が直径 ちょっけい 5cm、手元 てもと 側 がわ が3cm程度 ていど が良 よ い。
削 そ いだ穂先 ほさき を強固 きょうこ にするために油 あぶら を塗 ぬ って火 ひ で焙 あぶ り、これを繰 く り返 かえ すと切 き り口 くち に油 あぶら が浸 し みて強固 きょうこ な穂先 ほさき を作 つく ることができる。
米 べい 陸軍 りくぐん の竹槍 たけやり [ 編集 へんしゅう ]
米 べい 陸軍 りくぐん 兵士 へいし が、手持 ても ちの道具 どうぐ がほとんど何 なに もなくなっても、どんな場所 ばしょ からでも生還 せいかん できるように、米 べい 陸軍 りくぐん のサバイバルマニュアルが作 つく り方 かた を指導 しどう している、即席 そくせき の竹槍 たけやり [17] 。穂先 ほさき に刃 は を括 くく り付 つ けるタイプの即席 そくせき の槍 やり は木 き で作 つく ることもできるが、刃 は を括 くく り付 づ けないタイプの即席 そくせき の槍 やり を作 つく るには竹 たけ が最適 さいてき とのこと。ちなみに、竹 たけ の穂先 ほさき にナイフの刃 は を括 くく り付 つ けるタイプの竹槍 たけやり を作 つく る場合 ばあい は、刃 は を単 たん に括 くく り付 つ けるよりも、竹 たけ の先 さき を半分 はんぶん に割 わ って、そこに刃 は を差 さ し込 こ んで括 くく り付 づ けた方 ほう が良 よ いとのこと。
青竹 あおだけ のまっすぐな部分 ぶぶん を1.2mから1.5mくらいの長 なが さに切 き り出 だ す。
先端 せんたん を切 き って刃 は を作 つく る。先端 せんたん から8cm-10cmくらいのところから、先端 せんたん に向 む けて、斜 なな め45度 ど の角度 かくど で切 き り込 こ みを入 い れる。
先端 せんたん を削 けず って鋭利 えいり にする。この際 さい 、竹 たけ は内側 うちがわ よりも外側 そとがわ の方 ほう が強度 きょうど が強 つよ いので、必 かなら ず竹 たけ の筒 つつ の外側 そとがわ ではなく内側 うちがわ を削 けず るように。
先端 せんたん を火 ひ で焙 あぶ って固 かた くしても可 か 。
大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん における竹槍 たけやり [ 編集 へんしゅう ]
米 べい 軍 ぐん の第 だい 5艦隊 かんたい および艦載 かんさい 機 き 、上陸 じょうりく した第 だい 77歩兵 ほへい 師団 しだん などに住人 じゅうにん が竹槍 たけやり で立 た ち向 む かった伊江島 いえじま (1945年 ねん )。5千 せん 人 にん が死亡 しぼう
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん においては、竹槍 たけやり が「制式 せいしき 兵器 へいき 」、すなわち正規 せいき の兵器 へいき として採用 さいよう され、実戦 じっせん で使用 しよう された。
まず、1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )に勃発 ぼっぱつ した満州 まんしゅう 事変 じへん の頃 ころ より、教育 きょういく 総監 そうかん 部 ぶ 本部 ほんぶ 長 ちょう や陸軍 りくぐん 大臣 だいじん などを歴任 れきにん した大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん トップの荒木 あらき 貞夫 さだお が、竹槍 たけやり を「乏 とぼ しい軍備 ぐんび の象徴 しょうちょう 」として盛 さか んに語 かた るようになった。「日本 にっぽん 国民 こくみん 全員 ぜんいん が日本 にっぽん 精神 せいしん を持 も ちさえすれば、あとは軍備 ぐんび が乏 とぼ しくても十分 じゅうぶん 国防 こくぼう が行 おこな える」とする論 ろん で、その趣旨 しゅし については、本人 ほんにん が1934年 ねん に著 あらわ した『非常時 ひじょうじ の認識 にんしき と青年 せいねん の覚悟 かくご 』に詳 くわ しい。荒木 あらき 曰 いわ く、「軍事 ぐんじ 費 ひ が非常 ひじょう に余計 よけい に掛 か かっていかぬと言 い うならば、もう要塞 ようさい を全部 ぜんぶ 平 たい らにして、兵器 へいき を全部 ぜんぶ しまい込 こ んで、この九 きゅう 千 せん 万 まん 国民 こくみん が一致 いっち して、人 ひと と人 ひと との和 わ 、皇室 こうしつ と日本 にっぽん 道 どう とを戴 いただ いてやったらばよい。そうすれば国防 こくぼう の為 ため に竹槍 たけやり 三 さん 百 ひゃく 万 まん 本 ほん を揃 そろ えておきさえすれば、それでもう沢山 だくさん だ」[18] とのこと。荒木 あらき 陸相 りくしょう は1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )に来日 らいにち したバーナード・ショー (当時 とうじ 世界 せかい 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく のあった文化 ぶんか 人 じん で、1925年 ねん にノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう を受賞 じゅしょう )にも面会 めんかい し、各国 かっこく の軍拡 ぐんかく 競争 きょうそう をストップするために各国 かっこく で竹槍 たけやり 戦術 せんじゅつ を採用 さいよう するべきだと訴 うった えたことを東京 とうきょう 朝日新聞 あさひしんぶん (1933年 ねん 3月 がつ 8日 にち 付 づけ )などが報 ほう じている。
竹槍 たけやり はやがて、「日本 にっぽん 精神 せいしん の象徴 しょうちょう 」としても用 もち いられるようになった。荒木 あらき 貞夫 さだお 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう は1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )の講演 こうえん において、「三 さん 百 ひゃく 万 まん 人 にん の国民 こくみん が竹槍 たけやり を持 も ってよく防 ふせ ぎよく守 まも る決心 けっしん あらば、大将 たいしょう 自 みずか ら指揮 しき して契 ちぎ って国家 こっか を守護 しゅご する」と語 かた っており、その解説 かいせつ によると「三 さん 百 ひゃく 万 まん 人 にん とは国防 こくぼう の第 だい 一線 いっせん に立 た つ陸海 りくかい 軍人 ぐんじん であり、竹槍 たけやり とは誠心 せいしん である」[19] とのこと。このように、少 すく なくとも十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう の初期 しょき の時点 じてん においては、竹槍 たけやり はあくまで喩 たと えであり、本当 ほんとう に竹槍 たけやり を兵器 へいき として使 つか うという意味 いみ ではなかったと帝国 ていこく 軍人 ぐんじん には解釈 かいしゃく されていた。しかし荒木 あらき のいわゆる「竹槍 たけやり 三 さん 百 ひゃく 万 まん 本 ほん 論 ろん 」は、当時 とうじ のマスコミに幾度 いくど も報道 ほうどう されており、神戸 こうべ 又新 またしん 日報 にっぽう (1932年 ねん 5月 がつ 9日 にち 付 づけ )が「爆 ばく 弾 だん 三 さん 勇士 ゆうし 」になぞらえて「竹槍 たけやり 三 さん 勇士 ゆうし 」と評 ひょう するほどのその扇情 せんじょう 的 てき な精神 せいしん 論 ろん が、当時 とうじ の青年 せいねん 団 だん 員 いん や在郷 ざいきょう 軍人 ぐんじん の愛国心 あいこくしん に訴 うった えかけて「何 なに ほどかの効果 こうか を持 も ったことと思 おも われる」と当時 とうじ の神戸 こうべ 又新 またしん 日報 にっぽう も報 ほう じており[20] 、また荒木 あらき は皇 すめらぎ 道 どう 派 は のシンボルとしても、当時 とうじ の青年 せいねん 将校 しょうこう らに絶大 ぜつだい な思想 しそう 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく があったことは事実 じじつ である。
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )に勃発 ぼっぱつ した日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の頃 ころ より、本当 ほんとう に竹槍 たけやり が実戦 じっせん で用 もち いられるようになった。ただし、当初 とうしょ はあくまで銃剣 じゅうけん の代 だい 用品 ようひん としての位置 いち づけで、輜重 しちょう ・兵站 へいたん などの後方 こうほう 部隊 ぶたい において補助 ほじょ 兵器 へいき として竹槍 たけやり が配分 はいぶん された事例 じれい が見 み られる[21] 。銃剣 じゅうけん の代 だい 用品 ようひん としての竹槍 たけやり に関 かん しては、『銃剣 じゅうけん 術 じゅつ 指導 しどう 必携 ひっけい 』(陸軍 りくぐん 戸山 とやま 学校 がっこう 編 へん 、1942年 ねん )に詳 くわ しい。
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )より、竹槍 たけやり は「制式 せいしき 兵器 へいき 」と位置付 いちづ けられて規格 きかく 化 か され、陸軍 りくぐん 兵士 へいし に配備 はいび された。また竹槍 たけやり の扱 あつか い方 かた も、陸軍 りくぐん の教育 きょういく を掌 てのひら る教育 きょういく 総監 そうかん 部 ぶ によって武術 ぶじゅつ の一 ひと つである「竹槍 たけやり 術 じゅつ 」として完成 かんせい され、1942年 ねん より全 ぜん 国民 こくみん に竹槍 たけやり 訓練 くんれん が行 おこな われるに至 いた った。武術 ぶじゅつ としての「竹槍 たけやり 術 じゅつ 」の神髄 しんずい 、及 およ び訓練 くんれん 方法 ほうほう に関 かん しては、『竹 たけ 槍術 そうじゅつ 訓練 くんれん ノ参考 さんこう 』(教育 きょういく 総監 そうかん 部 ぶ 、1943年 ねん )に詳 くわ しい。本書 ほんしょ では、竹槍 たけやり の代 だい 用品 ようひん として木 き 槍 やり を使 つか う方法 ほうほう も紹介 しょうかい されている。
さらに1945年 ねん には国民 こくみん 義勇 ぎゆう 隊 たい が組織 そしき され、竹槍 たけやり は本土 ほんど 決戦 けっせん のための主要 しゅよう 武器 ぶき の一 ひと つと位置付 いちづ けられた。白兵戦 はくへいせん において竹槍 たけやり を用 もち いてアメリカ人 じん を殺 ころ すためのテクニックについては、『国民 こくみん 抗戦 こうせん 必携 ひっけい 』(大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 、1945年 ねん )に詳 くわ しい。具体 ぐたい 的 てき には、「背 せ ノ高 こう イヤンキー共 ども ノ腹 はら ヲ突ケ、斬 き ルナ、ハラフナ」とのこと(刀 かたな 槍 やり の一般 いっぱん 的 てき な用 もち い方 かた を解説 かいせつ したものだが、例示 れいじ されているイラストは明 あき らかに竹槍 たけやり である。銃 じゅう を持 も った敵 てき 兵 へい に正面 しょうめん から向 む かって行 い き、竹槍 たけやり を突 つ き刺 さ すと、敵 てき 兵 へい のちょうどおへそのあたりに突 つ き刺 さ さり、敵 てき は撃滅 げきめつ する、というのが、1945年 ねん 当時 とうじ の大日本帝国 だいにっぽんていこく の大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ が想定 そうてい した運用 うんよう 方法 ほうほう である)。
竹槍 たけやり は「制式 せいしき 兵器 へいき 」(軍 ぐん から正規 せいき に支給 しきゅう される武器 ぶき )としてだけでなく、「自活 じかつ 兵器 へいき 」(現地 げんち でありあわせの物 もの を使 つか って自作 じさく する武器 ぶき )としても活用 かつよう された。日本 にっぽん 軍 ぐん においては武器 ぶき 弾薬 だんやく が尽 つ きた後 のち も、「生 い きて虜囚 りょしゅう の辱 はずかし めを受 う けず」(戦陣 せんじん 訓 くん )の教 おし えから降伏 ごうぶく せず、敵 てき に対 たい して最後 さいご の突撃 とつげき (バンザイ突撃 とつげき )を行 おこな う慣習 かんしゅう があり、その際 さい に持参 じさん する武器 ぶき として、現地 げんち に生 は えている竹 たけ を用 もち いて竹槍 たけやり が制作 せいさく された。敵 てき 側 がわ の記録 きろく や日本 にっぽん 兵 へい の陣中 じんちゅう 日誌 にっし などに多数 たすう の例 れい が記載 きさい されている[22] 。
竹槍 たけやり 術 じゅつ は実戦 じっせん 向 む けにマニュアルも整備 せいび されており、心身 しんしん の陶冶 とうや にも、本土 ほんど 決戦 けっせん における白兵 はくへい 戦闘 せんとう 兵器 へいき としても有効 ゆうこう だと1944年 ねん 当時 とうじ の陸軍 りくぐん は考 かんが えていたが、一方 いっぽう で当時 とうじ の海軍 かいぐん は「戦争 せんそう は太平洋 たいへいよう で決 き まる、敵 てき が日本 にっぽん 沿岸 えんがん に侵攻 しんこう して来 き た時点 じてん ではもう手遅 ておく れ」「敵 てき は飛行機 ひこうき (海洋 かいよう 航空機 こうくうき )で攻 せ めてくるが、竹槍 たけやり では飛行機 ひこうき と戦 たたか い得 え ない」と考 かんが えており、海軍 かいぐん の意向 いこう をくむ形 かたち で毎日新聞 まいにちしんぶん の新名 にいな 丈夫 たけお 記者 きしゃ が『毎日新聞 まいにちしんぶん 』(1944年 ねん 2月 がつ 23日 にち 付 づけ )に「竹槍 たけやり では間 あいだ に合 ごう はぬ 飛行機 ひこうき だ、海洋 かいよう 航空機 こうくうき だ」との記事 きじ を載 の せたところ、東條 とうじょう 英機 ひでき 陸相 りくしょう 兼 けん 首相 しゅしょう が激怒 げきど 。毎日新聞 まいにちしんぶん は発禁 はっきん となり、新名 にいな は招集 しょうしゅう された(竹槍 たけやり 事件 じけん )。
1945年 ねん の沖縄 おきなわ 戦 せん においては、兵士 へいし だけでなく本来 ほんらい は非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん であるはずの現地 げんち 住民 じゅうみん や女性 じょせい まで竹槍 たけやり や爆 ばく 弾 だん を持 も たされて米 べい 軍 ぐん に突撃 とつげき を行 おこな い死亡 しぼう した。防衛 ぼうえい 召集 しょうしゅう によって集 あつ められた現地 げんち 住民 じゅうみん を正式 せいしき には「防衛 ぼうえい 隊 たい 」と言 い うが、戦闘 せんとう 訓練 くんれん も受 う けず、武器 ぶき も与 あた えられずに竹槍 たけやり (棒 ぼう )だけ持 も たされた姿 すがた から自嘲 じちょう 的 てき に「ボーヒータイ(棒 ぼう 兵隊 へいたい )」とも呼 よ ばれた。沖縄 おきなわ 戦 せん における特 とく に悲惨 ひさん な例 れい の一 ひと つとして知 し られる伊江島 いえじま の例 れい を挙 あ げると[23] 、1945年 ねん 3月 がつ 25日 にち から4月 がつ 16日 にち 早朝 そうちょう にかけて第 だい 5艦隊 かんたい による艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき および艦載 かんさい の海洋 かいよう 航空機 こうくうき によるナパーム弾 だん の投下 とうか が行 おこな われ、やはり竹槍 たけやり では戦 たたか い得 え ずに島 しま の飛行場 ひこうじょう およびほとんどの建造 けんぞう 物 ぶつ は破壊 はかい された。4月16日 にち についにアメリカ軍 ぐん 第 だい 77歩兵 ほへい 師団 しだん が上陸 じょうりく し、伊江島 いえじま 守備 しゅび 隊 たい との戦闘 せんとう が行 おこな われたが、白兵戦 はくへいせん においても竹槍 たけやり はあまり有効 ゆうこう であったとは言 い えない。米兵 べいへい の腹 はら を突 つ くために竹槍 たけやり を持 も って最後 さいご の突撃 とつげき を行 おこな っても、ほとんどが米兵 べいへい に近 ちか づく前 まえ に射殺 しゃさつ されるという欠点 けってん があった。また、夜 よる に竹槍 たけやり などをもって少数 しょうすう で米兵 べいへい に突撃 とつげき する「斬 き り込 こ み」と呼 よ ばれる奇襲 きしゅう も行 おこな われたが、日本 にっぽん 軍 ぐん の奇襲 きしゅう は米 べい 軍 ぐん も察知 さっち しており、照明 しょうめい 弾 だん で照 て らされて一斉 いっせい 射撃 しゃげき に晒 さら されるため、生 い きて帰 かえ るのも難 むずか しかった。わずか5日 にち 後 ご の4月 がつ 21日 にち に伊江島 いえじま 全島 ぜんとう が占領 せんりょう され、守備 しゅび 隊 たい と住人 じゅうにん を含 ふく めて約 やく 5000人 にん が死亡 しぼう した。伊江島 いえじま 守備 しゅび 隊 たい においては、各 かく 兵士 へいし に配備 はいび された竹槍 たけやり と手榴弾 しゅりゅうだん 以外 いがい にも、大隊 だいたい に機関 きかん 銃 じゅう 、中隊 ちゅうたい に小銃 しょうじゅう が数 すう 丁 ちょう 配備 はいび されており、あるいは爆薬 ばくやく を直接 ちょくせつ 持 も って自爆 じばく 攻撃 こうげき を行 おこな うなど竹槍 たけやり 以外 いがい にも攻撃 こうげき 手段 しゅだん が無 な いわけではなかったが、第 だい 502特設 とくせつ 警備 けいび 工兵 こうへい 隊 たい (約 やく 800名 めい 、うち半数 はんすう を義勇 ぎゆう 召集 しょうしゅう による地元 じもと 住民 じゅうみん が占 し める)においては主 おも な任務 にんむ が飛行場 ひこうじょう の整備 せいび であり、まともな武器 ぶき が配備 はいび されておらず、メインの対抗 たいこう 手段 しゅだん が本当 ほんとう に竹槍 たけやり を持 も っての斬 き りこみしかなかった。「斬 き り込 こ みで敵 てき 兵 へい の元 もと までたどり着 つ き、竹槍 たけやり を突 つ こうとしたものの、敵 てき に竹槍 たけやり を掴 つか まれて結局 けっきょく 突 つ けなかった」と言 い う、ある第 だい 502特設 とくせつ 警備 けいび 工兵 こうへい 隊 たい 隊員 たいいん による逸話 いつわ が『定本 ていほん 沖縄 おきなわ 戦 せん 』に記載 きさい されている。
硫黄 いおう 島 とう 戦 せん の後期 こうき 、内地 ないち から送 おく られて来 き た補給 ほきゅう 品 ひん を見 み たら雷管 らいかん と竹槍 たけやり だけであったという[24] 。大戦 たいせん 末期 まっき には極度 きょくど の物資 ぶっし の窮乏 きゅうぼう のため、竹 たけ の先 さき に青竹 あおだけ で編 あ んだ籠 かご を付 つ けて爆雷 ばくらい の発射 はっしゃ 装置 そうち とした「投射 とうしゃ 式 しき 噴進爆雷 ばくらい 」(竹 たけ 製 せい のパンツァーファウスト のようなもの)、竹槍 たけやり の先 さき に火薬 かやく を詰 つ めて爆雷 ばくらい とした「爆 ばく 槍 やり 」、爆 ばく 槍 やり の末尾 まつび に推進 すいしん 火薬 かやく を詰 つ めてロケット弾 だん にした「対空 たいくう 噴進爆 ばく 槍 やり 」(竹 たけ 製 せい のフリーガーファウスト のようなもの)など、竹槍 たけやり を実際 じっさい に対空 たいくう 兵器 へいき や対戦 たいせん 車 しゃ 兵器 へいき としたものが考案 こうあん されている。
『竹 たけ 槍術 そうじゅつ 訓練 くんれん ノ参考 さんこう 』など、大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん 兵器 へいき としての竹槍 たけやり に関 かん する軍事 ぐんじ 資料 しりょう は、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の証拠 しょうこ 隠滅 いんめつ による破 やぶ 却を逃 のが れたものが、一部 いちぶ は他 た の軍事 ぐんじ 機密 きみつ とともに連合 れんごう 軍 ぐん に接収 せっしゅう され(竹槍 たけやり は『兵器 へいき 引渡目録 もくろく 』にも記載 きさい されており、本当 ほんとう に竹槍 たけやり が兵器 へいき として連合 れんごう 軍 ぐん に引 ひ き渡 わた された)、現在 げんざい はアメリカ議会 ぎかい 図書館 としょかん に蔵 ぞう されている(「米 べい 議会 ぎかい 図書館 としょかん 所蔵 しょぞう 占領 せんりょう 接収 せっしゅう 旧 きゅう 陸海 りくかい 軍 ぐん 資料 しりょう 」)ほか、日本 にっぽん 国内 こくない にある資料 しりょう の一部 いちぶ は国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん や国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター によってインターネット公開 こうかい されている。
以下 いか は『竹 たけ 槍術 そうじゅつ 訓練 くんれん ノ参考 さんこう 』に準拠 じゅんきょ した。
長 なが さ:子供 こども 用 よう が1.5m、大人 おとな 用 よう が1.7m~2m
直径 ちょっけい :子供 こども 用 よう が3.5 cm、大人 おとな 用 よう が4cm
刃 は の角度 かくど :20度 ど (木 き 槍 やり を使 つか う場合 ばあい は丸 まる く削 けず っても可 か )
刃 は の強化 きょうか のために弱火 よわび であぶって植物 しょくぶつ 油 ゆ を塗 ぬ っても可 か
竹 たけ は、生乾 なまがわ きまたは生 せい の物 もの でも可 か
竹 たけ の節 ふし をまたぐように切 き っ先 さき を設 もう けると、強靭 きょうじん とのこと。竹槍 たけやり の代 だい 用品 ようひん としての木 き 槍 やり の規格 きかく は、刃 は の先 さき を丸 まる く削 けず っても可 か とする以外 いがい は竹槍 たけやり と同 おな じ。
北原 きたはら 進 すすむ によると、隣組 となりぐみ の訓練 くんれん では、竹槍 たけやり の根元 ねもと に石 いし や土 ど を詰 つ めると強 つよ く突 つ き刺 さ すことができると指導 しどう されたという[25] 。
「竹槍 たけやり 術 じゅつ 」は、大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん が1940年代 ねんだい に完成 かんせい させ、1943年 ねん より大日本帝国 だいにっぽんていこく の国民 こくみん に教育 きょういく された武術 ぶじゅつ 。竹槍 たけやり 術 じゅつ の「真髄 しんずい ヲ体得 たいとく シ必勝 ひっしょう ノ信念 しんねん ヲ養成 ようせい スル」のための教本 きょうほん である『竹 たけ 槍術 そうじゅつ 訓練 くんれん ノ参考 さんこう 』も、教育 きょういく 総監 そうかん 部 ぶ によって制作 せいさく された(生徒 せいと 用 よう と先生 せんせい 用 よう の2種類 しゅるい がある)。なお、国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん アジア歴史 れきし 資料 しりょう センターがネット公開 こうかい している「竹 たけ 槍術 そうじゅつ 訓練 くんれん の参考 さんこう 」は、帝国 ていこく 在郷 ざいきょう 軍人 ぐんじん 会 かい 台北 たいぺい 支部 しぶ が複写 ふくしゃ ・頒布 はんぷ したものが、戦後 せんご に防衛 ぼうえい 省 しょう 防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ に収蔵 しゅうぞう されたもので、「竹槍 たけやり 術 じゅつ 」は台湾 たいわん や朝鮮 ちょうせん など当時 とうじ は日本 にっぽん だった諸 しょ 地域 ちいき でも教育 きょういく されていた。
『竹 たけ 槍術 そうじゅつ 訓練 くんれん の参考 さんこう 』は冒頭 ぼうとう に「白兵戦 はくへいせん ハ使 し 術 じゅつ 簡単 かんたん ニシテ精練 せいれん ナルモノ克 かつ ク勝 かち ヲ制 せい ス」との言 げん があり、竹槍 たけやり は明確 めいかく に白兵戦 はくへいせん のための「兵器 へいき 」と位置付 いちづ けられているが、同時 どうじ に「銃 じゅう 代用 だいよう 」としての面 めん や「心身 しんしん ノ訓練 くんれん 陶冶 とうや 」など、竹槍 たけやり 術 じゅつ の教練 きょうれん を通 つう じた教育 きょういく 的 てき 要素 ようそ も重視 じゅうし されている。
竹槍 たけやり 術 じゅつ においては「刺 とげ 突」がもっとも重要 じゅうよう 視 し され、「気 き ・槍 やり ・体 からだ 」が一致 いっち していないと正 ただ しい刺 とげ 突が行 おこな えないとされる。また、「一 いち 突必殺 ひっさつ 」と言 い う、精神 せいしん 的 てき 要素 ようそ も重視 じゅうし されている。
なお、古 こ 武道 ぶどう における「竹槍 たけやり 術 じゅつ 」には、「槍術 そうじゅつ 」に「薙刀 なぎなた 術 じゅつ 」の要素 ようそ も取 と り入 い れられ、敵 てき を刺 とげ 突するだけでなく、敵 てき を押 お さえたり薙 な ぎ払 はら ったりと言 い った実戦 じっせん 的 てき 要素 ようそ が高 たか められたものもあるが、教育 きょういく 総監 そうかん 部 ぶ 式 しき の「竹槍 たけやり 術 じゅつ 」は、そのような武道 ぶどう の達人 たつじん ではなく老人 ろうじん ・女性 じょせい ・小学生 しょうがくせい などの銃後 じゅうご の国民 こくみん に対 たい して、在郷 ざいきょう 軍人 ぐんじん などが本土 ほんど 決戦 けっせん が迫 せま る中 なか で短時間 たんじかん で白兵戦 はくへいせん の教練 きょうれん を行 おこな うための物 もの であるため、「一 いち 突必殺 ひっさつ 」だけである。
インドネシアに進出 しんしゅつ した日本 にっぽん 軍 ぐん が現地 げんち の人々 ひとびと に竹槍 たけやり 術 じゅつ を教 おし えるために制作 せいさく された、日本 にっぽん 映画 えいが 社 しゃ ジャカルタ製作所 せいさくしょ による教育 きょういく 映画 えいが 『TAKEYARI JUTSU Pemakaian Tombak bamboe』(1943)が存在 そんざい する。竹槍 たけやり を規格 きかく 通 どお りにメジャーで測 はか って正確 せいかく に裁断 さいだん したり、竹槍 たけやり の先 さき を火 ひ で焙 あぶ って固 かた くしたり、屈強 くっきょう な日本 にっぽん 兵 へい が「突撃 とつげき にぃー、進 すす めッ!」の合図 あいず とともに大 おお きな声 こえ を出 だ しながら撃 げき 突台(竹槍 たけやり 訓練 くんれん の時 とき などに使 つか う稽古 けいこ 用 よう の的 まと 。軍 ぐん 教 きょう 品 ひん として市販 しはん されていた)を次々 つぎつぎ と竹槍 たけやり で刺 さ していく様子 ようす など、『竹 たけ 槍術 そうじゅつ 訓練 くんれん の参考 さんこう 』に書 か いてある通 とお りのことだが、竹槍 たけやり 術 じゅつ の実際 じっさい が映像 えいぞう で記録 きろく されている[26] 。ちなみに「Pemakaian Tombak bamboe」とはマレー語 ご で「竹槍 たけやり 術 じゅつ 」の意味 いみ 。
爆 ばく 竹槍 たけやり (爆 ばく 槍 やり )[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末期 まっき の日本 にっぽん では「対人 たいじん 用 よう 爆 ばく 竹槍 たけやり 」(爆 ばく 槍 やり )という兵器 へいき が実在 じつざい した。簡単 かんたん に言 い うと竹槍 たけやり の先 さき に爆薬 ばくやく を詰 つ めたものである。
陸軍 りくぐん 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ によって考案 こうあん され、配備 はいび された自活 じかつ 兵器 へいき のひとつ。2メートルほど長 なが さの竹筒 たけづつ の先端 せんたん に爆薬 ばくやく と簡易 かんい 信管 しんかん を装着 そうちゃく し、これで敵 てき を突 つ くと先端 せんたん が爆発 ばくはつ して敵 てき を殺傷 さっしょう するという自爆 じばく 兵器 へいき である。本来 ほんらい の刺 とげ 突爆雷 かみなり は棒 ぼう の先 さき に爆雷 ばくらい を付 つ けた物 もの であるが、物資 ぶっし の窮乏 きゅうぼう のため爆雷 ばくらい を用意 ようい できず、竹筒 たけづつ の先 さき に直接 ちょくせつ 爆薬 ばくやく と信管 しんかん を詰 つ めた。爆薬 ばくやく はダイナマイト 、安全 あんぜん 装置 そうち は厚紙 あつがみ などの有 あ り合 あ わせの物 もの を使 つか い、信管 しんかん も釘 くぎ や針金 はりがね などで自作 じさく した撃 げき 針 はり を雷管 らいかん に付 つ けただけの簡単 かんたん な構造 こうぞう であった [1] 。運用 うんよう 法 ほう は竹槍 たけやり 術 じゅつ に準 じゅん ずる。
また実戦 じっせん で使用 しよう されたかは不明 ふめい であるが、爆 ばく 槍 やり を巨大 きょだい な弓矢 ゆみや で飛 と ばす兵器 へいき や、爆 ばく 槍 やり の末尾 まつび に推進 すいしん 火薬 かやく を詰 つ めてロケット弾 だん にした「対空 たいくう 噴進爆 ばく 槍 やり 」という対空 たいくう 兵器 へいき まで考案 こうあん されていた [2] 。ナチス・ドイツ 製 せい の携帯 けいたい 用 よう 対空 たいくう ロケット砲 ほう フリーガーファウスト に近 ちか い運用 うんよう 法 ほう であったと見 み られる。
なお、このように物資 ぶっし が窮乏 きゅうぼう する中 なか で正規 せいき の兵器 へいき に対抗 たいこう するためにありあわせの物 もの やガラクタで作 つく った兵器 へいき 全般 ぜんぱん を自活 じかつ 兵器 へいき といい、大戦 たいせん 末期 まっき の日本 にっぽん 軍 ぐん では陸軍 りくぐん 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ をはじめ、各 かく 部隊 ぶたい 単位 たんい でもいくつも試行 しこう 錯誤 さくご していた。陸軍 りくぐん 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ は竹 たけ で作 つく った爆 ばく 槍 やり の他 ほか にも、簡易 かんい 投擲 とうてき 器 き である弩 いしゆみ 弓 ゆみ 、和紙 わし とコンニャク糊 のり で作 つく った大陸 たいりく 間 あいだ 兵器 へいき である風船 ふうせん 爆 ばく 弾 だん など数々 かずかず の兵器 へいき を開発 かいはつ している。なお、前述 ぜんじゅつ の通 とお り「竹槍 たけやり 」自体 じたい は「自活 じかつ 兵器 へいき 」ではなく、陸軍 りくぐん で正式 せいしき に採用 さいよう された「制式 せいしき 兵器 へいき 」である。
呉座 ござ 勇一 ゆういち 『一揆 いっき の原理 げんり 』筑摩書房 ちくましょぼう 〈ちくま学芸 がくげい 文庫 ぶんこ 〉、2015年 ねん (原著 げんちょ 2012年 ねん )、Kindle版 ばん 、位置 いち No.全 ぜん 3065中 ちゅう 2135-2185 / 70-71%頁 ぺーじ 。ISBN 978-4480096975 。
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