箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう
種類しゅるい 株式会社かぶしきがいしゃ
本社ほんしゃ所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん
大阪おおさか豊能とよのぐん池田いけだまち[1]
設立せつりつ 1907ねん明治めいじ40ねん)10がつ[1]
業種ぎょうしゅ てつ軌道きどうぎょう
代表だいひょうしゃ 社長しゃちょう 平賀ひらがあつし[1]
資本しほんきん 3,850,000えん払込はらいこみだか[1]
特記とっき事項じこう上記じょうきデータは1917ねん大正たいしょう6ねん現在げんざい[1]
テンプレートを表示ひょうじ

箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう(みのおありまでんききどう、通称つうしょうゆう電車でんしゃ・きゆうでんしゃ、箕面みのお電車でんしゃ[2])とは、阪急電鉄はんきゅうでんてつ阪急はんきゅう阪神はんしんホールディングス)の前身ぜんしんとなる軌道きどう運営うんえい事業じぎょうしゃ同社どうしゃ現在げんざい阪急はんきゅう宝塚本線たからづかほんせん阪急はんきゅう箕面線みのおせん敷設ふせつした。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

ばんづる鉄道てつどう[編集へんしゅう]

同社どうしゃ設立せつりつメンバーのおおくは、現在げんざい西日本旅客鉄道にしにほんりょかくてつどう(JR西日本にしにほん福知山線ふくちやません敷設ふせつしたばんづる鉄道てつどう幹部かんぶであった。

ばんづる鉄道てつどうは1897ねん-1899ねんにかけ、尼崎あまがさきみなとえき現在げんざい廃止はいし) - 池田いけだえきいま川西かわにし池田いけだえきあいだ開業かいぎょうさせた摂津せっつ鉄道てつどう買収ばいしゅう福知山ふくちやまえきまで路線ろせん延伸えんしんさせ、官営かんえい鉄道てつどう国鉄こくてつせん借受かりうけしん舞鶴まいづるえきいま東舞鶴ひがしまいづるえき)、神崎かんざきえきいま尼崎あまがさきえき)かられで大阪おおさかえきまでの直通ちょくつうたしていた。

しかし、官営かんえい鉄道てつどうとの直通ちょくつうというかたちでは列車れっしゃ本数ほんすうやすこともままならず、さらには沿線えんせん人口じんこう伊丹いたみ以外いがいおおところがなかったことから、(川西かわにし池田いけだより分岐ぶんきし、直接ちょくせつ梅田うめだれる補助ほじょ路線ろせん計画けいかく免許めんきょ取得しゅとくした。

だが主要しゅよう鉄道てつどう国有こくゆう方針ほうしんてられている(1906ねん交付こうふ鉄道てつどう国有こくゆうほうにより、1907ねん実施じっし)ことをったことから、ばんづる鉄道てつどうではけん計画けいかく実施じっしし、ちゅう長距離ちょうきょり輸送ゆそうから近郊きんこう輸送ゆそう指針ししんえてのこりをはかろうとかんがえた。

設立せつりつ開業かいぎょう[編集へんしゅう]

開業かいぎょう梅田うめだえき

同社どうしゃ関係かんけいしゃ阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう京浜けいひん電気でんき鉄道てつどう事例じれいならって、汽車きしゃではなくあらたに出現しゅつげんはじめていた軌道きどう条例じょうれい準拠じゅんきょ電車でんしゃによる運転うんてん画策かくさくした。1906ねんに、箕面みのお有馬ありま電気でんき鉄道てつどうとして特許とっきょ取得しゅとくした[3]。1907ねん10がつ創立そうりつ総会そうかいひらかれ、専務せんむ取締役とりしまりやく小林こばやし一三かずみ取締役とりしまりやく井上いのうえ保次郎やすじろう藤本ふじもときよし兵衛ひょうえ松方まつかた幸次郎こうじろう志方しかたぜいなな監査かんさやく野田のだ卯太郎うたろう速水はやみ太郎たろう平賀ひらがさとし選任せんにんされる[4]

社名しゃめいとおり、予定よてい路線ろせんには当初とうしょ計画けいかく梅田うめだ - 池田いけだあいだのほか、池田いけだ - 宝塚たからづか - 有馬ありまあいだ延伸えんしんせん箕面みのおへの支線しせんふくまれていた。免許めんきょ早期そうきりた背景はいけいには、ばんづる鉄道てつどう買収ばいしゅう補償ほしょうという観点かんてんもあったとされる。

だが直後ちょくごこった恐慌きょうこうで、株式かぶしき引受ひきうけしゅ資金しきんはらみを躊躇ちゅうちょし、やく半分はんぶんかぶ引受ひきうけ手無てなしという苦境くきょうおちいった[3]。そこへしてきたのが、当時とうじ恐慌きょうこう失職しっしょくしていた小林こばやし一三かずみである。かれ路線ろせん有望ゆうぼうせい見抜みぬいてそれをかつての上司じょうし北浜きたはま銀行ぎんこう頭取とうどりだった岩下いわしたきよししゅういた[3]。そして、ばんづる鉄道てつどう買収ばいしゅう直後ちょくご1907ねん10月19にち箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう設立せつりつされた[3]鉄道てつどう軌道きどうあらためたのは、軌道きどうほう準拠じゅんきょということだからという、くに要請ようせいのためであったといわれている。

ともあれ工事こうじ開始かいしされ、1910ねん3がつ10日とおか梅田うめだえき - 宝塚たからづかえきあいだ石橋いしばしえき - 箕面みのおえきあいだ同時どうじ開業かいぎょうさせる[5]。なお、このときは軌道きどう路面ろめん電車でんしゃあつかいであったことから、梅田うめだえき - 北野きたのえきはいえき)・じゅうさんえき - 三国みくにえき豊中とよなかえき - 石橋いしばしえき桜井さくらいえき - 牧落まきおちえきあいだ併用へいよう軌道きどう存在そんざいした。

沿線えんせん開発かいはつ[編集へんしゅう]

しかし、阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう大阪おおさか-神戸こうべ)や京浜けいひん電気でんき鉄道てつどう東京とうきょう-横浜よこはま)、京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう大阪おおさか-京都きょうと)のように大都市だいとしあいだむす路線ろせんでもなく、さらには沿線えんせん田園でんえん地帯ちたいであったことから、採算さいさんれないのではないかという懸念けねん周辺しゅうへんではつよかった。そのようは「ミミズ電車でんしゃ」と揶揄やゆされるほどであった。

いざ開業かいぎょうしてみれば営業えいぎょう成績せいせきほう良好りょうこうで、開業かいぎょうあいだもないころ収入しゅうにゅう当初とうしょ予定よていの2ばいになったという。だが一方いっぽうで、開業かいぎょうから8日間にちかんあいだにははやくも列車れっしゃ衝突しょうとつ事故じこを2けんこし、3めい死亡しぼうするという事態じたいにもいたっており、大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶんにもてられた。

そんななか同社どうしゃ専務せんむ社長しゃちょう不在ふざいのため、実質じっしつてきには代表だいひょうしゃ)となった小林こばやし一三かずみは、路線ろせん敷設ふせつ先立さきだって周辺しゅうへん土地とち買収ばいしゅうし、その開発かいはつおこなって増収ぞうしゅうにつなげるという施策しさくをとった[3]。まず路線ろせん開業かいぎょうした1910ねん池田いけだ当時とうじめずらしかった月賦げっぷ方式ほうしきによる住宅じゅうたく分譲ぶんじょう開始かいしした。同年どうねん11がつには箕面みのお日本にっぽん最大さいだいきゅうひろさをほこ箕面みのお動物どうぶつえん、1911ねん5がつには宝塚たからづかしん温泉おんせんひらいた[3]1913ねんには現在げんざい宝塚歌劇団たからづかかげきだん前身ぜんしんとなる、宝塚たからづか唱歌しょうかたい創設そうせつした[3]

これらの施策しさく予想よそうどお収益しゅうえき増加ぞうかをもたらし、私鉄してつによる沿線えんせん開発かいはつはんともなった。小林こばやしはこれにかんして、「乗客じょうきゃく電車でんしゃ創造そうぞうする」という言葉ことばのこしている。

阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつへの改称かいしょう[編集へんしゅう]

1918ねん同社どうしゃでは現状げんじょう路線ろせんだけで都市としあいだ路線ろせんゆうさないことには発展はってんかぎりがあると判断はんだんし、社名しゃめい阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ(「阪急はんきゅう」という呼称こしょうはこれ以後いご誕生たんじょう)と改称かいしょうした[3]。その同社どうしゃは、1920ねん現在げんざい神戸こうべせん開業かいぎょうさせた[3][6]。1920ねん時点じてん事業じぎょう内容ないよう電鉄でんてつ電気でんき土地とち宝塚たからづか多角たかくてきであり、の1927ねん宝塚たからづか営業えいぎょうが、1936ねん百貨店ひゃっかてん独立どくりつしている[7]1943ねん京阪電気鉄道けいはんでんきてつどうとの合併がっぺい京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつとなり、1949ねん京阪けいはんきゅうしん京阪けいはん鉄道てつどう路線ろせんのぞく)をさい分離ぶんりしたのち1973ねん阪急電鉄はんきゅうでんてつ改称かいしょうした。なお、2005ねんには持株もちかぶ会社かいしゃ本体ほんたい阪急はんきゅうホールディングス改称かいしょうし、2006ねんには阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう系列けいれつとの経営けいえい統合とうごう阪急はんきゅう阪神はんしんホールディングスとなっている。

以後いご沿革えんかく詳細しょうさいは、「阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ」と「阪急電鉄はんきゅうでんてつ歴史れきし」を参照さんしょう

未成みせいせん[編集へんしゅう]

宝塚たからづかから有馬ありま温泉おんせんまでの延伸えんしんは、1913ねん6月23にち軌道きどう敷設ふせつけん放棄ほうきして[8]断念だんねんしている。

宝塚たからづか有馬ありまあいだは、特許とっきょせんとして(1)兵庫ひょうごけん川辺かわべぐん長尾ながおむらうち平井ひらいむら丸山まるやま13番地ばんちよりどうけん有馬ありまぐん山口やまぐちむらうち上山口かみやまぐちむら清水しみず垣内かきうち623番地ばんちいた新設しんせつ軌道きどう[9]、(2)前項ぜんこう終点しゅうてんよりどうぐん有馬ありままちウツギだに13番地ばんちいた県道けんどう[9]ゆうしていた。これは、1906ねん12月22にち内務ないむ大臣だいじんからの軌道きどう敷設ふせつ認可にんかりたさい大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん記事きじでは「大阪おおさかきた北野きたの角田つのだまち起点きてんとし(中略ちゅうりゃくまたりょう元村もとむらより分岐ぶんきして有馬ありまぐん塩瀬しおせむら山口やまぐちむら有馬ありまいたさんじゅうまいる」としるされている[8]

これが、1912ねん大正たいしょう元年がんねん)12月3にち[9]に『箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう 線路せんろ変更へんこう許可きょか申請しんせいしょ』(でんかぶとだいいちさんいちごう[9]によって、兵庫ひょうごけん川辺かわべぐん長尾ながおむらうち平井ひらいむら丸山まるやま13番地ばんちよりどうぐん有馬ありままちウツギだに13番地ばんちいた新設しんせつ軌道きどう[9]への変更へんこうとど[9]。これは、軌道きどう敷設ふせつ工事こうじ難航なんこうし、とく山口やまぐち有馬ありまあいだもっと勾配こうばい急峻きゅうしゅんであることを理由りゆうにしていた(図面ずめん鉄道てつどうしょう文書ぶんしょとして国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう[9]途中とちゅうなん工事こうじや、宝塚たからづか西宮にしのみやあいだおよび阪神はんしん直通ちょくつうせん開業かいぎょう優先ゆうせんさせるため[10]、この宝塚たからづか有馬線ありません一部いちぶ有馬ありま鉄道てつどう有馬ありま三田みたあいだ鉄道てつどうにその権利けんりゆずり、どう鉄道てつどう開通かいつう促進そくしんさせた[11]。この阪急電鉄はんきゅうでんてつ当初とうしょ計画けいかくであった有馬ありま温泉おんせんへの鉄道てつどう代行だいこう輸送ゆそう機関きかんとして一翼いちよくになった[10]のが『宝塚たからづか有馬ありま自動車じどうしゃ[10]であり、1925ねん9がつ25にち名塩なじお経由けいゆ[10]、1928ねん4がつ23にちふねざか経由けいゆ[10]のバス路線ろせん免許めんきょ取得しゅとくし、さらに有馬ありまから唐櫃からびつ経由けいゆ六甲ろっこう山頂さんちょういた路線ろせん延長えんちょうおこない、電鉄でんてつ培養ばいよう路線ろせんとして営業えいぎょう開始かいしした[10]。1939ねんに『宝塚たからづか有馬ありま自動車じどうしゃ』は現在げんざい阪急はんきゅうバス吸収きゅうしゅう合併がっぺいされたあと[10]、1948ねん大阪おおさかとの運輸うんゆ協定きょうていによって梅田うめだから服部はっとり池田いけだ宝塚たからづかふねざか現在げんざい国道こくどう176号線ごうせん兵庫ひょうごけんどう51ごう宝塚たからづか唐櫃からびつせん)を経由けいゆして有馬ありま温泉おんせん急行きゅうこう便びん直結ちょっけつする長距離ちょうきょり系統けいとう有馬ありま急行きゅうこうせん』を設定せっていし、同年どうねん7がつ15にちより運行うんこう開始かいしして、温泉おんせんきゃく輸送ゆそうにあたった[10]。その大阪おおさかとの運輸うんゆ協定きょうていによって大阪おおさか本町ほんちょうへのれや、国鉄こくてつ周遊しゅうゆう割引わりびきもあった。この有馬ありま急行きゅうこうせんは1976ねん8がつしん御堂筋みどうすじ中国自動車道ちゅうごくじどうしゃどう経由けいゆ路線ろせん変更へんこうした[10]。また、2013ねん4がつ1にちからは子会社こがいしゃ阪急はんきゅう観光かんこうバスとの共同きょうどう運行うんこうとなったあと、2021ねん9がつ25にちからは阪急はんきゅう観光かんこうバス単独たんどく運行うんこうとなった。また、宝塚たからづか有馬ありまあいだについては阪急はんきゅうバス(有馬線ありませんによる運行うんこうおこなわれている。

社名しゃめいに「有馬ありま」をかか特許とっきょていたものの、急峻きゅうしゅん地形ちけい実現じつげん不可能ふかのうであり、当初とうしょから宝塚たからづかまでの計画けいかくしかなく、実際じっさいには中山寺なかやまじ清荒神きよしこうじんへの参詣さんけい鉄道てつどう目指めざしていたのが実態じったいであった。しばしば「日帰ひがえきゃくえて減収げんしゅうになることを懸念けねんした有馬ありま宿場しゅくば反対はんたい断念だんねんした」とされるが、これは俗説ぞくせつぎない。

また、梅田うめだから野江のえまで延伸えんしんし、京阪けいはん路線ろせん接続せつぞくする特許とっきょていたが、北浜きたはま銀行ぎんこう破綻はたんなだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどう帰属きぞく問題もんだい阪神はんしんとの買収ばいしゅう合戦かっせん)により資金しきんてき余裕よゆうまったく、くに工事こうじ着工ちゃっこう延期えんきねがたものの却下きゃっかされたため、結果けっかてき大阪おおさか譲渡ゆずりわたされることとなった(元々もともと京阪けいはんたいして譲渡じょうと交渉こうしょうをしていたが、不調ふちょうわった)。

そのほか、宝塚たからづかから南下なんかして西宮にしのみやいた路線ろせん同様どうよう特許とっきょけていたが、これは阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつへの改称かいしょう1921ねん西宝さいほうせん今津線いまづせん)として開業かいぎょうている。

車両しゃりょう[編集へんしゅう]

それまでの私鉄してつ電車でんしゃがオープンデッキの運転うんてんだいち、ステップにより地上ちじょうからりするという、その当時とうじ路面ろめん電車でんしゃとほとんどおなじスタイルだったのにたいし、箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどうでは、最初さいしょ投入とうにゅうした18りょう電車でんしゃ1かたち)の段階だんかいから密閉みっぺいがた運転うんてんだい構造こうぞう採用さいようし、さらには高床たかゆかホームにおける乗降じょうこう考慮こうりょした革新かくしんてき設計せっけいになっていた。

また、装飾そうしょくには小林こばやし高級こうきゅう嗜好しこうはたらいたためか、当初とうしょよりちかられられ、現在げんざいいたるまでもちいられる阪急はんきゅうマルーン塗装とそうほどこされていた。

箕面みのお有馬ありま電車でんしゃ唱歌しょうか[編集へんしゅう]

箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう開業かいぎょうさいして、沿線えんせんぜん15ばんうたった『箕面みのお有馬ありま電車でんしゃ唱歌しょうか』を作成さくせい作詞さくし作曲さっきょくしゃ不明ふめい)し、沿線えんせん地域ちいきへアピールした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 日本にっぽん全国ぜんこくしょ会社かいしゃ役員やくいんろく. だい25かい国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  2. ^ 用例ようれい箕面みのお時空じくう探検たんけん”. 記録きろく資料しりょう. 箕面みのお (2014ねん4がつ28にち). 2015ねん12月15にち閲覧えつらんインフォメーションセンターみのおたうん”. 箕面みのお (2010ねん3がつ8にち). 2015ねん12月15にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i 松本まつもと和明かずあき戦前せんぜん鉄道てつどう企業きぎょう観光かんこう娯楽ごらく戦略せんりゃく : 小林こばやし一三かずみ中心ちゅうしんに」『交通こうつう研究けんきゅうだい62かん交通こうつう学会がっかい、2007ねん、39-53ぺーじdoi:10.20712/kotsushi.62.0_39 
  4. ^ 京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ(かぶ)『京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつじゅうねん』(1959.06)
  5. ^ 小田おだ康徳やすのり川西かわにし歴史れきし今昔こんじゃく 猪名川いながわからひととくらし』神戸こうべ新聞しんぶん総合そうごう出版しゅっぱんセンター、2018ねん、170ぺーじISBN 978-4-343-00978-4 
  6. ^ 阪急はんきゅうものしりちょう 交通こうつう広告こうこく”. 毎日新聞まいにちしんぶん (2013ねん6がつ3にち). 2019ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  7. ^ RailwayHistoryReview 1987, p. 10.
  8. ^ a b 阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ株式会社かぶしきがいしゃ へん阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつじゅうねん阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ、1932。 
  9. ^ a b c d e f g 宝塚たからづか編集へんしゅう専門せんもん委員いいん へん宝塚たからづか だい6かん (資料しりょうへん 3)』宝塚たからづか、1979ねん12月、282-283ぺーじ 
  10. ^ a b c d e f g h i 阪急はんきゅうバス株式会社かぶしきがいしゃしゃ編集へんしゅう委員いいんかい へん阪急はんきゅうバス50ねん阪急はんきゅうバス、1979ねん4がつ、56-62,83,265ぺーじ 
  11. ^ 阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ株式会社かぶしきがいしゃ阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつじゅうねん阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ、1932、4ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 電鉄でんてつ経営けいえい中心ちゅうしんとした小林こばやし一三かずみ革新かくしんせい根拠こんきょ」『鉄道てつどう史学しがくだい5ごう鉄道てつどう学会がっかい、1987ねん10がつISSN 0913-9591 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]