紫電しでんあらため

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川西かわにし N1K2-J 紫電しでんあらため

紫電改三(N1K4-J)試作機

紫電しでんあらためさん(N1K4-J)試作しさく

紫電しでんあらため(しでんかい)は、太平洋戦争たいへいようせんそうにおける大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん戦闘せんとうである。紫電しでん(N1K1-J)のいちがた以降いこう紫電しでんあらため呼称こしょうされる。このこうでは紫電しでんあらため紫電しでんをまとめて紹介しょうかいする。

局地きょくち戦闘せんとう紫電しでんは、水上すいじょう戦闘せんとう強風きょうふう」を陸上りくじょう戦闘せんとうしたもので、紫電しでんいちがた強風きょうふうにちなんだなかつばさ配置はいち紫電しでんていつばささい設計せっけいした機体きたいであり、紫電しでんあらためしん機軸きじく設計せっけい自動じどう空戦くうせんフラップそうりゅうつばさ)が特徴とくちょうであった。この機体きたい後述こうじゅつするように日本にっぽん海軍かいぐん、ひいては日本にっぽんぐん戦闘せんとうなか最優秀さいゆうしゅうひとつとされる。精鋭せいえいあつめられただいさんよんさん海軍かいぐん航空こうくうたい通称つうしょう"けん部隊ぶたい"に集中しゅうちゅう配備はいびされたこともこの機体きたい名声めいせいたかまった要因よういんえる。

昭和しょうわ19ねん4がつ7にちうちれいへいだい27ごう航空機こうくうき名称めいしょう」では「試製しせい紫電しでんあらため」は「試製しせい紫電しでん機体きたい改造かいぞう及兵そう強化きょうかせるもの」として定義ていぎづけられており、昭和しょうわ20ねん4がつ11にち海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶ海軍かいぐん飛行機ひこうきりゃく符号ふごう一覧いちらんひょう」におけるいちがた以降いこう紫電しでんあらため)は、「試製しせい紫電しでんあらため(いちがた)」「試製しせい紫電しでんあらためかぶと(いちかぶとがた)」「試製しせい紫電しでんあらためいち(さんいちがた)」「試製しせい紫電しでんあらため」「試製しせい紫電しでんあらためさん」「試製しせい紫電しでんあらためよん」「試製しせい紫電しでんあらため」が該当がいとうする。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

紫電しでんあらため」の名称めいしょうは、兵器へいき名称めいしょう付与ふよ標準ひょうじゅんもとづき兵器へいき採用さいようまえ試製しせいとして「試製しせい紫電しでんあらため」とされたもので[1]、「仮称かしょう紫電しでんいちがた」ともしょうし、兵器へいき採用さいようにより「紫電しでんいちがた」となった。

日本にっぽん海軍かいぐん搭乗とうじょういんからは「紫電しでん」と「紫電しでんあらため」の呼称こしょうほか[2]紫電しでんが「J」、紫電しでんあらためが「Jあらため」と呼称こしょうされることもあった[2]さんよんさんそら戦時せんじ日記にっきでも「紫電しでんあらため」「紫電しでんいちがた」の両方りょうほう記述きじゅつがあり、呼称こしょう統一とういつされていなかった[3]

連合れんごうぐんがわコードネームは"George"(ジョージ)。紫電しでんあらため正面しょうめんからるとていつばさであることがわかるため、紫電しでんいちいちがたとはべつ認識にんしきされ、さらに戦時せんじちゅうには情報じょうほう不足ふそくから、疾風しっぷうれいせんなどの機種きしゅ誤認ごにん報告ほうこくされており、戦後せんごになってから紫電しでんGeorge11[4]紫電しでんあらためGeorge21分類ぶんるいされてばれた。

開発かいはつ経緯けいい[編集へんしゅう]

強風きょうふうから紫電しでん[編集へんしゅう]

戦後せんごアメリカにわたされてアメリカ本土ほんどでテスト飛行ひこうおこな紫電しでんいちいちかぶとがた(N1K1-Ja)。主翼しゅよくなかつばさ配置はいちだん伸縮しんしゅくしきしゅあしれる。

1941ねん昭和しょうわ16ねんまつ川西かわにし航空機こうくうき以下いか川西かわにし)は水上すいじょう需要じゅよう減少げんしょう見込みこみ、川西かわにし龍三りゅうぞう社長しゃちょうした機種きしゅ制作せいさく討議とうぎした[5]川西かわにし社内しゃないしきだいてい陸上りくじょう攻撃こうげき新型しんがた艦上かんじょう攻撃こうげき開発かいはつ川西かわにしじゅうためし水上すいじょう戦闘せんとう(「強風きょうふう」)の陸上りくじょう戦闘せんとうさんあん検討けんとうした結果けっかじゅう五試水上戦機陸戦案がまった[6]川西かわにしきくはら静男しずお設計せっけい技師ぎしは12月28にち海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶおとずれ、技術ぎじゅつ本部ほんぶちょう多田ただ力三りきぞう少将しょうしょう計画けいかく提案ていあん三菱みつびし開発かいはつすすめられていた局地きょくち戦闘せんとう雷電らいでん」とれいせん後継こうけい烈風れっぷう」の開発かいはつ遅延ちえんなやんでいた日本にっぽん海軍かいぐん[7]川西かわにし提案ていあん歓迎かんげい[8]、その承認しょうにんされた[6]。しかし海軍かいぐん技術ぎじゅつしゃから陸上りくじょう製作せいさく経験けいけんあさ川西かわにし技術ぎじゅつりょくたいして疑問ぎもんこえがあがったため審議しんぎかいひらかれ[6]1942ねん昭和しょうわ17ねん)4がつ15にちに「仮称かしょういちごう局地きょくち戦闘せんとう」として試作しさく許可きょかけた[6]

完成かんせいいそぐため可能かのうかぎ水上すいじょう戦闘せんとう強風きょうふう」の機体きたい流用りゅうようすることになっていたが、実際じっさいには発動はつどうを「火星かせい」からだい馬力ばりきかつしょう直径ちょっけいの「ほまれ」へかわそうしたこと、装備そうびしたことなどから、機首きしゅしぼみや機体きたい後部こうぶ大幅おおはば変更へんこうされており、そのまま使用しようできたのは操縦そうじゅうせき付近ふきんのみであった[6]。しかし主翼しゅよくについては、車輪しゃりん収容しゅうよう部分ぶぶんくわえたほかはほぼ原型げんけいのままで、つばさがた航空こうくう研究所けんきゅうじょ開発かいはつされたLBつばさがたそうりゅうつばさ)が強風きょうふうよりがれている。自動じどう空戦くうせんフラップも装備そうびしていたが、初期しょき段階だんかいではトラブルに見舞みまわれた(後述こうじゅつ)。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)12月27にち試作しさくいち号機ごうき完成かんせいし、12月31にち伊丹いたみ飛行場ひこうじょう現在げんざい大阪国際空港おおさかこくさいくうこう)ではつ飛行ひこうおこなったが[9]当初とうしょから「ほまれ」の不調ふちょうなやまされた。川西かわにしは「紫電しでんではなくエンジンの実験じっけんだ」という不満ふまんいだ[10][11]志賀しが淑雄としお少佐しょうさ(テストパイロット)も「完成かんせいしていなかった『ル』(ほまれ略称りゃくしょう)のまぼろしって設計せっけいされた」とべている[12]搭乗とうじょういん岩下いわした邦夫くにお大尉たいいはエンジンの不調ふちょうとも紫電しでん操縦そうじゅうせき排気はいきガスがはいってきて苦労くろうしたという[13]

紫電しでんは「強風きょうふう」のなかつばさ形式けいしき継承けいしょうしており、降着こうちゃく装置そうちしゅあしにある程度ていどながさを必要ひつようとしていたが、ながすぎると格納かくのうおおくの空間くうかん占有せんゆうするのが問題もんだいとなった。そこでしゅあし段式だんしきとし油圧ゆあつ伸縮しんしゅくする機構きこう採用さいようした[6][14][15]試作しさくがたではしゅあしちぢめるのに1-2ふんかかり、のちに20びょう改善かいぜんされた[16][13]。ブレーキのきが左右さゆうちがうこともあり、ベテランパイロットであっても安心あんしんして着陸ちゃくりくできなかった[17]あし収納しゅうのうにかかる時間じかんは、れいせんが12びょうたい紫電しでんあらためは9びょう若干じゃっかん短縮たんしゅくされている。

また着陸ちゃくりくにはあしのトラブルにより、さんよんさんそら戦闘せんとう301たいでは1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ1にちから8にちにかけて、3にちに1割合わりあいあし故障こしょうにより紫電しでんうしなっている[17]

離着陸りちゃくりく事故じこ多発たはつ前方ぜんぽう視界しかい不良ふりょう連合れんごうこくぐん新鋭しんえいたいする速度そくど不足ふそくなどの問題もんだい紫電しでんにつきまとった。計画けいかくでは最高さいこう速度そくど653.8km/hをすはずだったが、実測じっそく高度こうど5,000mで570.4km/hであった。上昇じょうしょうりょくは5,000mまで5ふん32びょう [18]航続こうぞく距離きょりぞうふねなし)全力ぜんりょく30ふん+巡航じゅんこう高度こうど3,000m、360km/h)で2.8あいだという性能せいのうだった[19]速度そくど低下ていか原因げんいんは、オクタン価おくたんかが100の燃料ねんりょう節約せつやくするため92オクタンで代用だいようしたこと、翼下よくかめんに20mm機銃きじゅうをおさめたポッドを装着そうちゃくしたことによる抵抗ていこうりょく増大ぞうだいとう指摘してきされる[19]。しかし試作しさくは、問題もんだい解決かいけつのまま1943ねん昭和しょうわ18ねん)7がつ24にちぐん領収りょうしゅうされ、8がつ10日とおかに「紫電しでんいちいちがた」として量産りょうさんめいじられた[19]。これは、従来じゅうらい海軍かいぐん主力しゅりょく戦闘せんとうであるれいせんではえいべいぐん新鋭しんえい戦闘せんとう太刀打たちうちできなくなってきたこと、ようやく完成かんせいした雷電らいでん実戦じっせん配備はいびおくれていたことがおも原因げんいんである[20]。だが、紫電しでん操縦そうじゅう参考さんこうしょには「紫電しでん強風きょうふう急速きゅうそく陸上りくじょう戦闘せんとうあらため設計せっけいしたものだから、計画けいかく設計せっけい不備ふびにより、改善かいぜん余地よちだいなり」としるされていた[21]

紫電しでん11がた参戦さんせん[編集へんしゅう]

紫電しでんは、だいいち航空こうくう艦隊かんたいしん編成へんせいされる10航空こうくうぐんのうち4さんよんいちそらさんよんさんそらさんよんそらさんろくいちそら)が紫電しでん装備そうび予定よていするほどの期待きたいあつめたが[22]1944ねん昭和しょうわ19ねん)1がつ紫電しでん優先ゆうせん配備はいびすることがまっていただいさんよんいち海軍かいぐん航空こうくうたいでさえ、れいせんとの交替こうたい遅々ちちとしてすすまず、7がつ時点じてんでも編隊へんたい飛行ひこう訓練くんれんきゅうさんしき中間ちゅうかん練習れんしゅうおこなっていた[23]紫電しでん生産せいさんおくれ、さんよんさんそられいせんたたかい、さんよんそらさんろくいちそら紫電しでん供給きょうきゅうもなくかいたいされた。

1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつから9がつにかけてさんよんいちそら台湾たいわん高雄たかお進出しんしゅつし、10月にはウィリアム・ハルゼー提督ていとくひきいるだい38任務にんむ部隊ぶたい迎撃げいげきした。10月12にち紫電しでん31べい軍機ぐんき60交戦こうせんし、べい軍機ぐんき撃墜げきつい10、紫電しでん14喪失そうしつという初陣ういじんであった[23]。10月15にちまで台湾たいわんおき航空こうくうせんたたかった。11月、さんよんいちそらいちそらはフィリピンに進出しんしゅつしてレイテおき海戦かいせん参加さんかする[23]紫電しでんべいぐん新鋭しんえいとの空中くうちゅうせん強行きょうこう偵察ていさつ[24]べい魚雷ぎょらいてい攻撃こうげきなど多様たよう任務にんむ投入とうにゅうされ、機材きざい搭乗とうじょうしゃ双方そうほう疲弊ひへいにより消耗しょうもうしていった[25]。1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ7にちさんよんいちそらから特攻とっこうちょく掩機ともに紫電しでん編成へんせいされた特攻隊とっこうたい出撃しゅつげきした[26]。こうしてさんよんいちそら装備そうびする紫電しでんすべうしな[27]、フィリピンから台湾たいわん撤退てったいした[28]

宮崎みやざきいさむは、れいせんくらべて機銃きじゅう命中めいちゅうりつたかく、高空こうくう性能せいのう降下こうか速度そくどすぐれていたが、鈍重どんじゅう空戦くうせん性能せいのうれいせんよりはるかにおとる「りにくい」戦闘せんとうであったとひょうする[29]さんよんいちそら飛行ひこう隊長たいちょうだった岩本いわもと邦雄くにお〇一空搭乗員だった笠井かさい智一ともかずは、紫電しでんF6Fにはあしなかったという[30]はじめて紫電しでん笠井かさいは、紫電しでんF4F酷似こくじしていたと証言しょうげん陸軍りくぐんあやましゃ撃墜げきついされた機体きたいや、ぎゃくべい軍機ぐんき誤認ごにんさせて接近せっきん撃墜げきついしたれいもあるという[31]

紫電しでんあらため開発かいはつ[編集へんしゅう]

紫電しでんあらため防弾ぼうだんガラス。あつさ20 mmの硬化こうかガラスを3まい積層せきそうしている。

紫電しでんいちいちがた川西かわにし設計せっけいじんにとっても満足まんぞくできる戦闘せんとうではなく、紫電しでん試作しさく飛行ひこうしてから5にちの1943ねん昭和しょうわ18ねん)1がつ5にちには、紫電しでんていつばさした「仮称かしょう一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計せっけい着手ちゃくしゅした[32]海軍かいぐん川西かわにし計画けいかく承認しょうにんし、3月15にち正式せいしきに「仮称かしょういちごう局地きょくち戦闘せんとうあらため N1K2-J」の試作しさく指示しじした[32]12月31にち試作しさくいち号機ごうき完成かんせいした。

この試作しさく主翼しゅよく配置はいちちゅうつばさからていつばさとし、また胴体どうたい全体ぜんたいを「ほまれ」の直径ちょっけいわせてしぼんだことで離着陸りちゃくりくどきぜん下方かほう視界しかい改善かいぜんされた[32]胴体どうたいは400 mm延長えんちょうされ、水平すいへい尾翼びよくは400 mm位置いちげられており、全長ぜんちょうが460 mm増大ぞうだい紫電しでんくらべてスマートな印象いんしょうとなっているが、重量じゅうりょうは250 kg増加ぞうかした[33]。トラブルがおおかっただん伸縮しんしゅくしきしゅあしも、主翼しゅよくていつばさともなって全長ぜんちょう短縮たんしゅくできたため、廃止はいしされた。同時どうじ部品ぶひん点数てんすう紫電しでんいちいちがたの2/3に削減さくげんして、量産りょうさんせい大幅おおはばたかめていた[32]

試作しさく主翼しゅよく配置はいちちゅうつばさからていつばさしき変更へんこうされたが、主翼しゅよく外形がいけい強風きょうふう紫電しでんいちいちがた同様どうようであった[32]。また紫電しでんいちいちがた紫電しでんいちいちかぶとがた(N1K1-J、N1K1-Ja)までは20mm機銃きじゅう主翼しゅよくないかく1てい両翼りょうよく下面かめんかく1てい主翼しゅよく下面かめん直接ちょくせつけていた(ガンポッドではない)。紫電しでんあらためでは紫電しでんいちいちおつがた(N1K1-Jb)と同様どうよう、4ていともつばさない装備そうびとしている。またれいせん採用さいようした「操縦そうじゅうさく剛性ごうせい低下ていか」と同様どうようてい高速度こうそくどいきにおける操舵そうだ感覚かんかくかじきの平均へいきん可能かのうとするうで変更へんこう装置そうち導入どうにゅうされた。

強風きょうふう以来いらい自動じどう空戦くうせんフラップ装備そうびし、改良かいりょうにより実用じつようせいたかめた。当時とうじ川西かわにし航空機こうくうき検査けんさテストパイロットだった岡安おかやす宗吉そうきちはこれを評価ひょうかしている。開発かいはつしゃである田中たなか[34]によれば、紫電しでんのテストパイロットである志賀しが淑雄としお空戦くうせん性能せいのう向上こうじょう評価ひょうかしたという[35]試作しさく初期しょき量産りょうさんがた紫電しでんにおいて自動じどう空戦くうせんフラップのトラブルが続出ぞくしゅつした[10][35][36]。この初期しょき欠陥けっかん順次じゅんじ改修かいしゅうされ、実戦じっせん配備はいびされた紫電しでん紫電しでんあらためにおいて故障こしょう皆無かいむであった[37]紫電しでんあらためのテストパイロットをつとめて空母くうぼ信濃しなの」にかんした山本やまもと重久しげひさは、紫電しでんでは信頼しんらいせいひくかった自動じどう空戦くうせんフラップだが紫電しでんあらためでは作動さどう確実かくじつとし、1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ17にちにおける紫電しでんあらためでの実戦じっせんでも有効ゆうこう活用かつようしてべい軍機ぐんき撃墜げきついしている[38]笠井かさい智一ともかず兵曹へいそうも、4がつ12にち喜界島きかいじま上空じょうくう戦闘せんとうべい軍機ぐんき格闘かくとうせんおこない、自動じどう空戦くうせんフラップの絶大ぜつだい効果こうか体感たいかんした[39]

れいせん弱点じゃくてんであった防弾ぼうだん装備そうび欠如けつじょかんし、ほんでは、主翼しゅよく胴体どうたいない搭載とうさいされた燃料ねんりょうタンクはすべ防弾ぼうだんタンク(外装がいそうしきぼうタンク)であり、さら自動じどう消火しょうか装置そうち装備そうびして改善かいぜんされた。べいぐん調査ちょうさによると、燃料ねんりょうタンクにセルフシーリング機能きのうかったとされるが[40]2007ねん平成へいせい19ねん)にオハイオしゅうデイトンにおいて復元ふくげんのため分解ぶんかいされた紫電しでんいちがたきのえ(5312号機ごうき)の燃料ねんりょうタンク外側そとがわ防弾ぼうだんゴムと金属きんぞくあみ炭酸たんさんガス噴射ふんしゃしき自動じどう消火しょうか装置そうち確認かくにんできる[41]操縦そうじゅうせき前方ぜんぽう防弾ぼうだんガラスは装備そうびされていたが、操縦そうじゅうせき後方こうほう防弾ぼうだんばん計画けいかくのみで、実際じっさいには装備そうびだったとされている。笠井かさいによれば、後部こうぶにはあつさ10cmくらいのいたしかなく、後方こうほう不安ふあんかかえていたという[42]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)1がつ志賀しが淑雄としお少佐しょうさ古賀こがはじめ中尉ちゅうい増山ますやま兵曹へいそうらによって紫電しでんあらためのテスト飛行ひこうおこなわれ、志賀しがは「紫電しでん欠陥けっかん克服こくふくされてまれわった」とたか評価ひょうかあたえた[32]。また志賀しが急降下きゅうこうかテストをおこなったさいには、計器けいき速度そくど796.4km/hを記録きろくし、れいせんくらべて頑丈がんじょう機体きたいであることを証明しょうめい[43]最大さいだい速度そくどは11.1〜24.1km/h、上昇じょうしょう性能せいのう航続こうぞく距離きょり向上こうじょうし、空戦くうせんフラップの作動さどう良好りょうこうだった[43]日本にっぽん海軍かいぐんは「改造かいぞう効果こうか顕著けんちょナリ」と判定はんていし、4がつ4にち全力ぜんりょく生産せいさん指示しじする[43]。1944ねん昭和しょうわ19ねんちゅう試作しさくをふくめて67生産せいさんされた[43]。1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ制式せいしき採用さいようとなり「紫電しでんいちがた(N1K2-J)紫電しでんあらため」が誕生たんじょうした。

そこでおつせん迎撃げいげき戦闘せんとう)でありながらもかぶとせんせいそら戦闘せんとう)としても使つかえる紫電しでんあらためたか評価ひょうかした海軍かいぐん開発かいはつちゅう新型しんがたいて、ほんれいせん後継こうけい次期じき主力しゅりょくせいそら戦闘せんとうとして配備はいびすることをいそ決定けってい。1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつには三菱みつびし雷電らいでん烈風れっぷう生産せいさん中止ちゅうし紫電しでんあらため生産せいさん指示しじした[44]航空こうくう本部ほんぶは19年度ねんど紫電しでん紫電しでんあらため合計ごうけいで2,170発注はっちゅう、20ねん1がつ11にちには11,800という生産せいさん計画けいかくてた[44]。しかし空襲くうしゅう影響えいきょう計画けいかく破綻はたんし、川西かわにしで406昭和しょうわ飛行機ひこうき2愛知あいち2だい21航空こうくうしょうで1三菱みつびしで9生産せいさんされたにまる[45]。 また、紫電しでんあらため強風きょうふうもと度々どど改造かいぞうかさねた機体きたい性能せいのうてき陳腐ちんぷれいせんよりはやいと海軍かいぐん見込みこんでいた。実際じっさい制式せいしき採用さいようからわずか3,4ヶ月かげつ昭和しょうわ20ねん5がつごろには昭和しょうわ21ねん以後いご見越みこした次期じき主力しゅりょく開発かいはつ開始かいしされていた。わなかったものの、ほんさらなる性能せいのう向上こうじょうがたほかに、凍結とうけつされたじんふう試作しさく再開さいかいなどが検討けんとうされていた[46]

ほん遠方えんぽうからるとF6Fとよくており、日本にっぽん海軍かいぐんパイロット自身じしん誤認ごにんしかけるほどだった[47]味方みかたからあやまされることもあり、1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ20日はつかには戦艦せんかん大和やまと哨戒しょうかい飛行ひこうちゅう紫電しでんあらため笠井かさい智一ともかず搭乗とうじょう)をあやました[48]陸軍りくぐん紫電しでんあらためあやますることがあり、笠井かさい疾風しっぷうよんしきせん)4空戦くうせんいどまれ、交戦こうせん直前ちょくぜん陸軍りくぐんがわ気付きづいたという[49]同士討どうしうちをけるため、らんまち陸軍りくぐん基地きちれいせんがた紫電しでんいちいちがた紫電しでんあらため出張しゅっちょうして陸軍りくぐんへい実物じつぶつせたことがある[50]。8月12にちにも友軍ゆうぐん地上ちじょう砲火ほうかで3被弾ひだん不時着ふじちゃくしている[50]

1943ねん昭和しょうわ18ねん以降いこうのF6FやF4UP-51連合れんごうぐん新鋭しんえい登場とうじょうによって急速きゅうそく現実げんじつ問題もんだいしたれいせん旧式きゅうしきにもかかわらず、れいせん後継こうけいとしてぐん本命ほんめいしていた次期じきかぶとせん烈風れっぷうは1944ねん昭和しょうわ19ねん)になっても試作しさく途中とちゅう段階だんかいとどまっており、量産りょうさん配備はいびはまださきとの見積みつもりであった。これにごうやした海軍かいぐん紫電しでん生産せいさんライン多少たしょう改変かいへんすれば生産せいさん可能かのうであったほん機体きたい分類ぶんるいじょうおつせんのまま、1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ段階だんかいれいせん後継こうけいとして選定せんていし、生産せいさん指示しじした。この決定けってい影響えいきょうにより、分類ぶんるいじょう迎撃げいげき戦闘せんとうであるおつせんのままであったにもかかわらず、実戦じっせんではおも配備はいびさきさんよんさんそらはじめとした部隊ぶたいではれいせんわる次世代じせだいせいそら戦闘せんとう』として運用うんようされていくことになる。[51]

紫電しでんあらためどう時期じき開発かいはつされ、おな発動はつどう搭載とうさいする中島なかじま飛行機ひこうきよんしき戦闘せんとう疾風しっぷう以下いかよんしきせんりゃく)と、紫電しでんあらためさい高速度こうそくど仕様しようしょもとうえ比較ひかくすると、紫電しでんあらためほうおとっている。紫電しでんあらため試作しさくにおける最高さいこう速度そくどは335ノット(620.4 km/h[52]全備ぜんび重量じゅうりょうでのさい高速度こうそくどは321ノット(596 km/h)/ 5600m、上昇じょうしょうりょくは6,000mまで7ふん22びょうであった[53]よんしきせん初期しょき試作しさくさい高速度こうそくど624 - 640 km/h、さらに推力すいりょくしきたん排気はいきかん改造かいぞうされたよんしきせん後期こうき試作しさくは、初期しょき試作しさくより10 - 15 km/hほどはやい。当時とうじ紫電しでん紫電しでんあらため発動はつどうであるほまれいちがた運転うんてん制限せいげんのため出力しゅつりょくていかくより1わりほどひく状態じょうたいであった。不具合ふぐあい解決かいけつのため試作しさくちゅうだった低圧ていあつ燃料ねんりょう噴射ふんしゃ装置そうちほまれさんがた完成かんせいすれば性能せいのう向上こうじょうする予定よていだった[54]。もっとも、同様どうよう運転うんてん制限せいげんよんしきせん搭載とうさいされたほまれ(ハ45とく)もけており、条件じょうけん同等どうとうえる。

おなじエンジンを搭載とうさいし、自重じちょう同等どうとうであるが、つばさ面積めんせき紫電しでん系列けいれつが23.5平方へいほうメートルよんしきせんは21平方へいほうメートルであり、紫電しでんあらためのほうがおおきなつばさをつけている。つばさめん荷重かじゅう(kg/平方へいほうm)/馬力ばりき荷重かじゅう(kg/PS)は強風きょうふう150/2.5、紫電しでんあらため170/2.2、よんしきせん180/2.0、れいせんいちがた107/2.5、れいせんがた120/2.3、烈風れっぷう143/2.8、F6F167/2.6、F8F197/2.0 [55]。この数値すうちのみで判断はんだんすれば、紫電しでんあらためよんしきせんより空気くうき抵抗ていこうえるぶんややおそく、かわりに揚力ようりょくおおきくて旋回せんかい性能せいのうがよいということになる。山本やまもと重久しげひさテストパイロットは、よこ旋回せんかいではれいせん苦戦くせんたて旋回せんかい戦闘せんとうではれいせんたい断然だんぜん優位ゆういれいせん2相手あいてにしても互角ごかくたたかえ、加速かそく性能せいのう急降下きゅうこうか性能せいのうふくめれいせんよりまさっていたと評価ひょうかしている[56]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)12がつ10日とおか速水はやみけいやすし大尉たいい搭乗とうじょうする紫電しでんあらためが、紫電しでん6笠井かさい智一ともかずら)とともに、F-13(B-29の写真しゃしん偵察ていさつがた)の迎撃げいげき出動しゅつどうした[57]。これが紫電しでんあらため初陣ういじんとされる。1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ17にち硫黄いおうとう攻略こうりゃくせん前哨ぜんしょうせんとしてべいぐん艦載かんさい関東かんとう地方ちほう侵入しんにゅうジャンボリー作戦さくせん)。指宿いぶすき少佐しょうさ指揮しきのもと、岩下いわした邦雄くにお大尉たいいはねきり松雄まつお少尉しょうい武藤むとう金義かねよし曹長そうちょう紫電しでんあらためたい海軍かいぐん航空こうくう技術ぎじゅつしょうそらわざしょう)から山本やまもと重久しげひさ大尉たいい増山ますやまうえ曹、平林ひらばやしいち曹が試製しせい紫電しでんあらためれいせん48雷電らいでん紫電しでん11とも迎撃げいげき[58]べい軍機ぐんき編隊へんたい撃退げきたいしたうえで、岩下いわしたはねきり山本やまもとぞうひさし平林ひらばやしかく1武藤むとうが4撃墜げきついという戦果せんかをあげ、紫電しでんあらためたい生還せいかんした[28]れいせんは11紫電しでんは1うしなわれた。

沖縄おきなわせん以降いこう[編集へんしゅう]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)12月源田げんた大佐たいさ司令しれい)の制空権せいくうけん奪還だっかんという構想こうそうによって松山まつやま基地きち編成へんせいされただいさんよんさん海軍かいぐん航空こうくうたい通称つうしょうけん部隊ぶたい以下いかさんよんさんそら」とする)に紫電しでんあらため優先ゆうせんてき配備はいびされた。「紫電しでんあらため」とうでつパイロットをわせ、さら徹底的てっていてき改良かいりょうほどこされた無線むせん無線むせん電話機でんわき)を活用かつようした編隊へんたい空戦くうせんほうによりおおきな戦果せんか[28]太平洋戦争たいへいようせんそう中盤ちゅうばんの1943ねん後半こうはん以降いこう劣勢れっせいたびくしていった日本にっぽん海軍かいぐん戦闘せんとうたいに、アメリカぐん中心ちゅうしんとした連合れんごう国軍こくぐんさい新鋭しんえい戦闘せんとう互角ごかくたたかえる新鋭しんえい戦闘せんとうとして紫電しでんあらため本土ほんど防空ぼうくう任務にんむについた。紫電しでんあらため配備はいびおくれたため、そろわないぶん紫電しでん代用だいようしていた。1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ19にちさんよんさんそら初陣ういじんべい艦上かんじょう160たいし、紫電しでん7紫電しでんあらため56迎撃げいげきして、べい軍機ぐんき58撃墜げきつい報告ほうこくした(なおべいぐんがわ記録きろくでは不時着ふじちゃくふく機体きたい損失そんしつは14死亡しぼう8めいである)。

さんよんさんそら活躍かつやく戦後せんごは「おそすぎたれいせん後継こうけい」として認知にんちされ、れいせんはやぶさ疾風しっぷうなら代表だいひょうてき日本にっぽん軍機ぐんきとして一般いっぱん認知にんちされる[59]。その経歴けいれきやネーミングから人気にんきたか機体きたいである[59]

こうかん命令めいれいしたがい、さんよんさんそら紫電しでんあらため銀河ぎんが彗星すいせいひとし特攻とっこう護衛ごえい任務にんむいたが、もともと特攻とっこうせん想定そうていしておらず、紫電しでんあらため航続こうぞく距離きょり不足ふそくしており[60]奄美あまみ大島おおしま喜界島きかいじま付近ふきんにて特攻隊とっこうたいぜんみち哨戒しょうかいせいそら戦闘せんとう実施じっしした[61]さんよんさんそら通常つうじょう援護えんごではなく、紫電しでんあらため制空権せいくうけん確保かくほして突撃とつげきけいひらけすることで経路けいろ確保かくほする戦法せんぽうをとっていた[62]

紫電しでんは、沖縄おきなわせん偵察ていさつじゅういち飛行ひこうたい偵察ていさつじゅう飛行ひこうたい配備はいびされ、台湾たいわんから出撃しゅつげきした。ここではせいそら任務にんむだけでなく、強行きょうこう偵察ていさつ戦果せんか確認かくにん索敵さくてき任務にんむ投入とうにゅうされた。本土ほんど防空ぼうくうせんにもすうおおくの紫電しでん参加さんかした。5月29にち戦闘せんとう403飛行ひこうたい6紫電しでんがB-29を迎撃げいげきして2撃墜げきつい、7がつ8にちには16紫電しでんが50のB-29、250P-51マスタング迎撃げいげきして4撃墜げきついするなど[63]劣勢れっせいながら奮戦ふんせんしている。1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ17にちべい機動きどう部隊ぶたい艦載かんさいとの戦闘せんとうでは、紫電しでん搭乗とうじょうしていた山崎やまざきたくうえ曹)が横浜よこはま杉田すいた上空じょうくう落下傘らっかさん降下こうか[64]山崎やまざき降下こうかのち暴徒ぼうとした市民しみんによって殺害さつがいされ、以降いこう日本にっぽん海軍かいぐんではパイロットに味方みかたであることをしめすため、飛行ひこうふくおよ飛行ひこうぼうまるけることとなる。尾翼びよくにカタカナのヨ-のマークをつけた紫電しでん横須賀よこすか海軍かいぐん航空こうくうたい配備はいびされ終戦しゅうせんまで京浜けいひん地区ちく防空ぼうくうにあたる。

だいさん航空こうくう艦隊かんたいでは、さんよんさんそら配備はいびされていた機体きたいのぞすべての紫電しでんあらため紫電しでんあつめ、彩雲さいうんひゃくしき偵とともばくそうすることで、べい護衛ごえい戦闘せんとう対空たいくう砲火ほうか高速こうそく突破とっぱによるたか命中めいちゅうりつ命中めいちゅうりつ25パーセント)を期待きたいしている[65]。もっとも紫電しでんあらため生産せいさんすうつき70えることはなく、計画けいかく中止ちゅうしとなった。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ16にちべいぐんわたすための空輸くうゆさい[66]べいぐんのハイオクガソリンをもちいてぜんそく紫電しでんあらため3志賀しが淑雄としお少佐しょうさ田中たなか利男としおじょう曹、小野おのただしもりじょう曹がしめしあわせて実行じっこう武装ぶそう撤去てっきょ弾薬だんやく搭載とうさいのため軽量けいりょう)に、実弾じつだん装備そうびした監視かんしやくの6F4Uりにされそうになったという[67]

紫電しでんあらためたたかった搭乗とうじょういんからの評価ひょうかたかく、三上みかみ光雄みつおは「けいせんたいするじゅうせんでありながらもれいせんるいする」「れいせんけいせん紫電しでんあらためじゅうせんうべく十分じゅうぶん使つかえた」、磯崎いそざきせんとし松場まつば秋夫あきおは「れいせん同様どうよう使つかえた」とひょうし、磯崎いそざき最大さいだい欠点けってんとして高速こうそくダイブちゅうもどりにたいする強度きょうど不足ふそくげている[68]笠井かさい智一ともかず佐藤さとう精一郎せいいちろう失速しっそくせいその注意ちゅういしながらも紫電しでんあらためたたかえたことを最高さいこうほこりとし、20mm4てい威力いりょくつつみ路線ろせんがたフラップの効用こうよう評価ひょうかした[68]岩下いわした邦雄くにお笠井かさい智一ともかずはF6Fと互角ごかくたたかえる素晴すばらしい機体きたいとして歓迎かんげいした[69]笠井かさいによれば、紫電しでんあらためにとってもっと手強てごわかったべいぐん戦闘せんとうはF6Fで[49]紫電しでん紫電しでんあらためには雲泥うんでいがあり、紫電しでんあらため配備はいび訓練くんれん搭乗とうじょう紫電しでん指定していされると、全員ぜんいん気落きおちしたという[57]本田ほんだみのるは、当時とうじ若年じゃくねん搭乗とうじょういんで12編隊へんたい着陸ちゃくりく一様いちようにできた操縦そうじゅうせいうで利用りようによるこう低速ていそく両用りょうよう操縦そうじゅうせい評価ひょうかし、戦後せんご三菱みつびしテストパイロットとしての外遊がいゆう資料しりょうから大戦たいせん末期まっきにおける双璧そうへき紫電しでんあらためとP-51であるとべている[68]紫電しでんあらためのテストパイロットだった志賀しが淑雄としお紫電しでんあらためいのししのようになににでもいついていけるおてんばむすめ使つかえる機体きたいだとおもったという[70]当機とうきでの実戦じっせん経験けいけんはないが教育きょういくかかわった坂井さかい三郎さぶろうは、航続力こうぞくりょくがないてんからみればきゅうろくかんせん時代じだい逆戻ぎゃくもどりしたかんがあるが、きわめて斬新ざんしん設計せっけい空戦くうせんフラップ)がほどこされた優秀ゆうしゅう戦闘せんとうひょうしていた[71]。しかし、晩年ばんねんには「せいそら戦闘せんとうとも局地きょくち戦闘せんとうともいえない中途半端ちゅうとはんぱ戦闘せんとう」とひょうして批判ひはんてきになった[72]坂井さかいは、さんよんさんそら教官きょうかんとして着任ちゃくにんしたさいに『局地きょくち戦闘せんとう 紫電しでんいちいちがた空中くうちゅう使用しよう標準ひょうじゅん参考さんこう』(いちいちがた紫電しでんあらため間違まちがえている)を制作せいさくしたとして、空戦くうせんフラップを「旋回せんかい性能せいのうくなるが、作動さどうめん信頼しんらいせいけた」「かじきすぎたとき修正しゅうせいむずかしい」など批判ひはんするが、「水銀すいぎん表面ひょうめん酸化さんかして導通どうつうわるくなり、油圧ゆあつ誤作動ごさどうする(水銀すいぎん常温じょうおん酸化さんかしない)」などの科学かがくてき内容ないようふくんでいる[73]

べい技術ぎじゅつ雑誌ざっしポピュラーメカニクス』では、べい空軍くうぐん試験しけん紫電しでんあらためマグネトーべいせいえ、100オクタン燃料ねんりょう使つかって空軍くうぐん飛行ひこうした結果けっか速力そくりょくはどのべい戦闘せんとうにもおとらず、機銃きじゅう威力いりょく一番いちばんつよいと紹介しょうかいされた[74]ピエール・クロステルマン著書ちょしょ空戦くうせん」では、紫電しでんあらため高度こうど6,000mでP-51マスタング44ねんがたどう程度ていどのスピードを発揮はっきしたことからマスタング44ねんがたのカタログスペックを基準きじゅんとした最高さいこう速度そくど時速じそく680km/hせつ採用さいようしており、当時とうじ連合れんごうぐん空軍くうぐん関係かんけいしゃはその程度ていど速度そくど認識にんしきしていた。また、川西かわにし航空機こうくうき設計せっけい課長かちょうだったきくはら静男しずおによれば、1951ねん昭和しょうわ26ねん)に来日らいにちしたべい空軍くうぐん将校しょうこうだんなかにアメリカで紫電しでんあらためをテストした中佐ちゅうさがおり「ライトフィールドで紫電しでんあらためって、べい空軍くうぐん戦闘せんとう空戦くうせん演習えんしゅうをやってみた。どのべい戦闘せんとう紫電しでんあらためてなかった。ともかくこの飛行機ひこうきは、戦場せんじょうではうるさい存在そんざいであった」とひょうしたという[75]

スミソニアン博物館はくぶつかん展示てんじされている紫電しでんあらため説明せつめいぶんに「太平洋たいへいよう使つかわれた万能ばんのう戦闘せんとうのひとつである」とされながらも「B-29にたいする有効ゆうこう邀撃ようげきとしてはこう高度こうど性能せいのう不十分ふじゅうぶんであった」とかれているように、局地きょくち戦闘せんとうとしてはこう高度こうど性能せいのうすぐれているとはえなかった[76]。これは日本にっぽん共通きょうつうする欠点けってんで、排気はいきタービンきゅう(ターボチャージャー)や段式だんしき機械きかいきゅうスーパーチャージャー)を実用じつようできなかったためである。なお、この紫電しでんあらためこう高度こうど性能せいのう不足ふそく対策たいさくとして、一時いちじ生産せいさん中止ちゅうしされそうになった雷電らいでん生産せいさん促進そくしんがなされている。主力しゅりょく戦闘せんとうとしてだい生産せいさん計画けいかくてられたものの、実戦じっせん配備はいびがB-29による本土ほんど爆撃ばくげき本格ほんかくした1944ねん昭和しょうわ19ねんまつであったこともあって紫電しでんあらため生産せいさんすうやく400まり、「だい東亜とうあ決戦けっせん」として3,000以上いじょう生産せいさんされ、文字通もじどお大戦たいせん末期まっきにおける陸軍りくぐん主力しゅりょく戦闘せんとうとなったよんしきせんとは対照たいしょうてき評価ひょうかされることがある[77]近藤こんどう芳夫よしお疾風しっぷう開発かいはつしゃ)は「疾風しっぷういちげき離脱りだつキ44(かね馗)原点げんてん紫電しでんあらため空中くうちゅう格闘かくとうせんかかわっていた」とべている[55]

『The Illustrated Directory of Fighters』(Mike Spickちょ)P.218によると、N1K2-J(紫電しでんあらため)は高度こうど19,030フィート(5,800 m)において最高さいこう速度そくど416マイル(669 km/h)、海面かいめん高度こうどにおいて最高さいこう速度そくど358マイル(576 km/h)、上昇じょうしょうりつ高度こうど20,014フィート(6,100 m)まで6ふん6びょうとの性能せいのう記載きさいされている。これらの数値すうち連合れんごうぐんによる鹵獲ろかくでの試験しけんデータにもとづく数値すうち注釈ちゅうしゃくれられているが、もととなった試験しけん情報じょうほう出典しゅってんなど詳細しょうさい不明ふめいである。英国えいこくのブランドフォードしゃの『原色げんしょく航空機こうくうき百科ひゃっか』(K.マンソンちょ[78]では「太平洋たいへいよう戦線せんせん出現しゅつげんした日本にっぽんちゅうもっともすばらしいもののひとつであった」とたか評価ひょうかされている。

水上すいじょう戦闘せんとう特異とくいせい[編集へんしゅう]

強風きょうふうからいだ主翼しゅよく[79]つばさ取付とりつけかくが4[80]戦闘せんとうとしては異例いれいおおきい。飛燕ひえんが0[81]Fw190が3[82]大半たいはん戦闘せんとうがこの範囲はんいにおさまっている。一般いっぱん水上すいじょう陸上りくじょうくらつばさめん荷重かじゅうひくくされるが、高速こうそく要求ようきゅうされた強風きょうふうたかめに設計せっけいされ、離水りすい性能せいのう確保かくほするためプロペラ圏内けんない主翼しゅよく取付とりつけかく欲張よくばったとおもわれる。その結果けっかはつ飛行ひこうした強風きょうふうはフラップをおさめた途端とたんつばさ失速しっそくらんりゅう水平すいへい尾翼びよくたたいて振動しんどうこしており[83]ちゅうつばさでありながらフィレットを大型おおがたする対策たいさくこうじている[84]ていつばさ紫電しでんあらためはさらに大型おおがたのフィレットをよう[85]そらりょく重量じゅうりょう不利益ふりえきとなった。なお、おな川西かわにし航空機こうくうき最初さいしょから陸上りくじょう戦闘せんとうとして設計せっけいされた J6K1じんふう主翼しゅよく取付とりつけかくは2[86]である。またA-1スカイレイダー主翼しゅよく取付とりつけかくほんおなじ4だがつばさにNACA2417という旧来きゅうらいつばさがた使つかっており、胴体どうたい下部かぶかくがた断面だんめんとしてフィレットしでませている。左右さゆうフラップあいだうちすん胴体どうたいはばおなじであり、フラップのはば面積めんせきがフィレットの存在そんざい減少げんしょうした強風きょうふう紫電しでんあらため)とはこう対照たいしょうす。

派生はせいがた[編集へんしゅう]

紫電しでん[編集へんしゅう]

仮称かしょういちごう局地きょくち戦闘せんとう/紫電しでんいちいちがた(N1K1-J)
発動はつどう火星かせいいちさんがたからほまれいちがたかわそうした陸上りくじょう戦闘せんとうがたきょく初期しょきがた武装ぶそう翼下よくかのガンポッドに20mm機銃きじゅう2てい胴体どうたい7.7mm機銃きじゅう2てい
紫電しでんいちいちかぶとがた(N1K1-Ja)
胴体どうたいの7.7mm機銃きじゅう廃止はいしし、つばさない20mm機銃きじゅう2てい追加ついかした武装ぶそう強化きょうかがた
紫電しでんいちいちおつがた(N1K1-Jb)
翼下よくかガンポッドないの20mm機銃きじゅう廃止はいししてつばさないに20mm機銃きじゅう4てい内蔵ないぞうしたかたぞうそくよう火薬かやくロケット6ほん装着そうちゃく機体きたい存在そんざい
紫電しでんいちいちへいがた(N1K1-Jc)
いちいちおつがたばくそう能力のうりょくを、60kgばくだん4はつまたは250kgばくだん2はつ向上こうじょうさせたかた試作しさくのみ。

紫電しでんあらため[編集へんしゅう]

仮称かしょういちごう局地きょくち戦闘せんとうあらため/試製しせい紫電しでんあらため/紫電しでんいちがた(N1K2-J)
紫電しでんあらため最初さいしょ量産りょうさんがたで99生産せいさん[44]された。51号機ごうき以降いこうは20mm機銃きじゅう角度かくどを3上向うわむきに変更へんこうばくだん投下とうか手動しゅどうしき
紫電しでんいちかぶとがた(N1K2-Ja)
いちがたばくそう能力のうりょくを60kgばくだん4はつまたは250kgばくだん2はつ向上こうじょうさせ、垂直すいちょく安定あんてい板前いたまええんけず面積めんせきを13%げんせきしたかた。テストパイロットをつとめた山本やまもと重久しげひさ少佐しょうさによると、操縦そうじゅうせい安定あんていせいのバランスが改善かいぜんされた。生産せいさん101〜200号機ごうき[44]
試製しせい紫電しでんあらためいち/紫電しでんさんいちがた(N1K3-J)
ばくだん投下とうか電気でんき投下とうかしき改良かいりょう発動はつどう前方ぜんぽうに150mm延長えんちょうし、機首きしゅさんしきじゅうさんみりめーとる機銃きじゅういちがた2てい追加ついか[44]燃料ねんりょうタンクをうちぶくろしき防弾ぼうだんタンクとしたもの。生産せいさん201号機ごうき以降いこうで、1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ少数しょうすう生産せいさん[44]
試製しせい紫電しでんあらため(N1K3-A)
試製しせい紫電しでんあらためいちちゃくかんフック補強ほきょうなどの改造かいぞうほどこ艦上かんじょう戦闘せんとうとしたもの。試作しさく2。1944ねん昭和しょうわ19ねん)11月12にち山本やまもとひさじゅう少佐しょうさ操縦そうじゅう東京とうきょうわんおこなわれた航空こうくう母艦ぼかん信濃しなのでのちゃくかん実験じっけん参加さんか[44][38]
試製しせい紫電しでんあらためさん(N1K4-J)
さんいちがた発動はつどう低圧ていあつ燃料ねんりょう噴射ふんしゃ装置そうちきのほまれさんがた(NK9H-S ハよん-さんがた)に変更へんこうしたかた鳴尾なるお517、520号機ごうきのみ[44]
試製しせい紫電しでんあらためよん(N1K4-A)
試製しせい紫電しでんあらためさんかんフックなどを追加ついかした艦上かんじょう戦闘せんとうがた[44]試作しさく製作せいさくされたとされている。
試製しせい紫電しでんあらため(N1K5-J)
いちかぶとがた発動はつどう次期じき艦上かんじょう戦闘せんとうとなるはずであった「烈風れっぷう」とおなじハよんさん-いちいちがたはなれのぼり2,200馬力ばりき)に変更へんこうしたかた[44]。13mm機銃きじゅう廃止はいしされ、機首きしゅ形状けいじょうわった。完成かんせい直前ちょくぜん工場こうじょう被爆ひばくによりテスト飛行ひこう中止ちゅうし[44]がた、もしくはさんがたとも表記ひょうきされる[87]
仮称かしょう紫電しでん性能せいのう向上こうじょうがた
発動はつどうだんさんそくきゅうきのほまれよんよんがた(ハよん-よんよんがた)にかわそうした航空こうくう性能せいのう向上こうじょうがた計画けいかくのみ[44]
仮称かしょう紫電しでん練習れんしゅう戦闘せんとうがた(N1K2-K)
いちがたふくとし練習れんしゅうとしたもの。胴体どうたい延長えんちょうされておらず、速力そくりょく若干じゃっかん低下ていか[44]小数しょうすう生産せいさん
紫電しでんあらためこうせいがた
紫電しでんあらためはがねせいしたタイプで、計画けいかくのみ。重量じゅうりょう増大ぞうだいするため、つばさはし延長えんちょう予定よてい[44]

現存げんそんする機体きたい[編集へんしゅう]

紫電しでん[編集へんしゅう]

紫電しでん試験しけんためすう米国べいこく輸送ゆそうされたが、現存げんそんしない。

紫電しでんあらため[編集へんしゅう]

紫電しでんあらためは3米国べいこく輸送ゆそうされ[88]スミソニアン博物館はくぶつかん国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかんペンサコーラ海軍かいぐん航空こうくう基地きち英語えいごばんうち 国立こくりつ海軍かいぐん航空こうくう博物館はくぶつかんライト・パターソン空軍くうぐん基地きちうち 国立こくりつアメリカ空軍くうぐん博物館はくぶつかんにそれぞれ展示てんじされている。日本にっぽん国内こくないでは1978ねん昭和しょうわ53ねん)に愛媛えひめけん久良ひさよしわんからげられた機体きたいみなみレクリエーション都市としうち紫電しでんあらため展示てんじかん保存ほぞんされている。

また、いちがた実物じつぶつだい模型もけい兵庫ひょうごけん加西かさい鶉野うずらの(うずらの)まちにある鶉野うずらの飛行場ひこうじょう資料しりょうかんきゅう日本にっぽんぐん鶉野うずらの飛行場ひこうじょう跡地あとち)で展示てんじされている。

型名かためい 機体きたい写真しゃしん   国名こくめい   保存ほぞん施設しせつ/管理かんりしゃ 公開こうかいじょうきょう   状態じょうたい   備考びこう
いちがた 日本にっぽん みなみレクリエーション都市としうち 紫電しでんあらため展示てんじかん[89] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ 1978ねん昭和しょうわ53ねん)11月、愛媛えひめけん南宇和みなみうわぐん城辺ぐすくべまちげん南宇和みなみうわぐんあい南町みなみまち久良ひさよしわん海底かいていで1紫電しでんあらため発見はっけんされ、よく1979ねん7がつげられた[90][91]

1945ねん昭和しょうわ20ねん7がつ24にちやく200のアメリカぐんむかつためさんよんさんそらやく20発進はっしん豊後水道ぶんごすいどう上空じょうくうかいてき戦闘せんとうとなった[90][92]。その戦闘せんとうによる帰還きかん6のうちの1で、戦闘せんとう301たい所属しょぞく機体きたいとされる[93]

いちがた
2007ねん
アメリカ ペンサコーラ海軍かいぐん航空こうくう基地きち英語えいごばんうち 国立こくりつ海軍かいぐん航空こうくう博物館はくぶつかん[100] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ 川西かわにし5128号機ごうき[101]ほん源田げんた大佐たいさひきいたさんよんさんそら所属しょぞく紫電しでんあらためのうちの1胴体どうたい無名むめいのパイロットによる俳句はいくきざまれている。
いちかぶとがた
2015ねん7がつ
アメリカ ライト・パターソン空軍くうぐん基地きちうち 国立こくりつアメリカ空軍くうぐん博物館はくぶつかん

[102]

公開こうかい 静態せいたい展示てんじ 川西かわにし5312号機ごうき[103][104]ほんのレストアは2009ねんはる完了かんりょうした[104]
いちかぶとがた
2007ねん11月
アメリカ スミソニアン博物館はくぶつかん国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん別館べっかん[105] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ 川西かわにし5341号機ごうき[106]

性能せいのう[編集へんしゅう]

制式せいしき名称めいしょう 紫電しでんいちいちがた 紫電しでんいちがた
機体きたい略号りゃくごう N1K1-J N1K2-J
全幅ぜんぷく 11.99m
全長ぜんちょう 8.885m 9.376m
ぜんこう 4.058m 3.96m
つばさ面積めんせき 23.5m²
つばさめん荷重かじゅう 165.96 kg/m² 161.70 kg/m²
自重じちょう 2,897kg 2,657kg
正規せいき全備ぜんび重量じゅうりょう 3,900kg 3,800kg
発動はつどう ほまれいちがたはなれのぼり1,990馬力ばりき
最高さいこう速度そくど 583km/h(高度こうど5,900m) 610km/h(高度こうど6,000m)[107]
実用じつよう上昇じょうしょう限度げんど 12,500m 11,250m[108]
航続こうぞく距離きょり 1,432km(正規せいき)/2,545km( 1,715km(正規せいき)/2,392km(
武装ぶそう つばさない20mm機銃きじゅう2てい 主翼しゅよくポッド20mm機銃きじゅう2てい携行けいこうだんすうかく100はつ
機首きしゅ7.7mm機銃きじゅう2てい携行けいこうだんすうかく550はつ
つばさない20mm機銃きじゅう4てい
携行けいこうだんすう内側うちがわかく200はつ外側そとがわかく250はつけい900はつ
ばくそう 60kgばくだん4はつ、250kgばくだん2はつ
生産せいさんすう 1,007 415
  • 生産せいさんすうはそれぞれいちいちがた全体ぜんたいいちがた以降いこう数値すうち

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

太平洋たいへいようつばさ

映像えいぞう作品さくひん[編集へんしゅう]

『NHK特集とくしゅう 紫電しでんあらため 最後さいご戦闘せんとうNHKスペシャル(1979ねん7がつ27にち[109]
撃墜げきつい 3にんのパイロット〜いのちうばった若者わかものたち』
NHKのドキュメンタリードラマ。紫電しでんあらためパイロットである武藤むとう金義かねよしらの物語ものがたり
『ザ・コクピット』
戦場せんじょうまんがシリーズOVA作品さくひんだい2音速おんそく雷撃らいげきたい』に紫電しでん登場とうじょう主人公しゅじんこうらの一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげきれいせんとも護衛ごえいする。航続こうぞく距離きょりれいせんよりもみじかいため、途上とじょうそらになったぞうそうはなすも、そのまま最後さいごまで護衛ごえいつづける。
終戦しゅうせん75ねん 特別とくべつ番組ばんぐみ紫電しでんあらため」』南海放送なんかいほうそう
だいさんよんさん海軍かいぐん航空こうくうたい紫電しでんあらため隊員たいいんたちとすきしょうてん喜楽きらく女将おかみ 今井いまい琴子ことこさんやすみ高等こうとう女学院じょがくいん現在げんざいすみ高等こうとう学校がっこう (愛媛えひめけん))の交流こうりゅうと、うみからげられた紫電しでんあらため搭乗とうじょうしていたとおもわれる6めい隊員たいいん物語ものがたり

TVアニメ[編集へんしゅう]

荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい
いちいちがたいちがた登場とうじょういちいちがただい1やとわれ用心棒ようじんぼうのナサリン飛行ひこうたい使用しようするが、運動うんどうせいたかれいしき艦上かんじょう戦闘せんとういちがた翻弄ほんろうされぜん撃墜げきついされる。いちがただい9所属しょぞく不明ふめいとして登場とうじょうし、あな調査ちょうさする主人公しゅじんこうキリエらの操縦そうじゅうするきゅうしきいちがた練習れんしゅう襲撃しゅうげきする。だい10以降いこう不明ふめいおなじカラーリングのイケスカ所属しょぞくとして登場とうじょうする。
ドリフターズ
いちがた世界せかいばされた菅野かんのただし大尉たいいじょうとして登場とうじょうくろおうぐんによるカルネアデス侵攻しんこう真中まんなか史実しじつにおける菅野かんのの「なぞ失踪しっそう1945ねん8がつ1にち)」の直後ちょくご菅野かんのごと召喚しょうかんされる。本来ほんらい4てい装備そうび機銃きじゅうが3ていしか機能きのうしていないが、これは失踪しっそう直前ちょくぜん菅野かんの機銃きじゅうつつない暴発ぼうはつ無線むせん報告ほうこくしたとされる証言しょうげん一致いっちする。
くろおうぐんりゅうくされる人々ひとびと菅野かんのが、空襲くうしゅうされる日本にっぽん連想れんそう激怒げきどしたことでりゅう4たい撃墜げきつい。そのオルテ北部ほくぶ山岳さんがく地帯ちたい不時着ふじちゃくする。
ストライクウィッチーズ』シリーズ
いちがたをモデルとしたストライカーユニットが劇場げきじょうばんとTVアニメだい3『ROAD to BERLIN』に登場とうじょうおも扶桑ふそう皇国こうこく海軍かいぐんのウィッチたち使用しようする。『ブレイブウィッチーズ』では艦上かんじょうよう試製しせい紫電しでんあらためがモデルのストライカーユニットが登場とうじょうする。

漫画まんが文芸ぶんげい小説しょうせつ[編集へんしゅう]

鋼鉄こうてつのレヴァイアサン
プロローグにて紫電しでんあらため登場とうじょう大和やまと沖縄おきなわ特攻とっこうさいべい海軍かいぐん撃墜げきついし、大和やまと護衛ごえい成功せいこうする。山口やまぐち多聞たもん中将ちゅうじょうつよ要請ようせいにより史実しじつよりも航続こうぞく距離きょり向上こうじょうしている。
紫電しでん
紫電しでんあらため343
紫電しでんあらためのタカ
紫電しでんあらためのマキ
『パラレルワールド大戦たいせんそう
豊田とよだ有恒ありつね小説しょうせつ松代まつだい大本営だいほんえいあとしょうじたタイムトンネルをかいして1945ねん日本にっぽん介入かいにゅうした自衛隊じえいたいにより、プラグや燃料ねんりょう未来みらいからまれたものに改善かいぜんしたほか、翼下よくかサイドワインダー・ミサイル搭載とうさいするひとし改造かいぞうけたうえで、日本にっぽん襲来しゅうらいするべい軍機ぐんき迎撃げいげきする。物語ものがたり終盤しゅうばんでは、自衛隊じえいたい鹵獲ろかくしたべい空母くうぼワスプ搭載とうさいされる。

ゲーム[編集へんしゅう]

War Thunder
プレイヤーの操縦そうじゅう機体きたいとして、いちいちかぶとがたいちがたいちかぶとがた登場とうじょう
アズールレーン
じゅうさくら戦闘せんとうとしてN1K3-Aが「紫電しでんあらため」という名称めいしょう登場とうじょう
艦隊かんたいこれくしょん -かんこれ-
艦載かんさいとして「紫電しでんあらため」(N1K3-A)、「紫電しでんあらためよん」(N1K4-A)が、基地きち航空こうくうたい局地きょくち戦闘せんとうとして「紫電しでんいちいちがた」、「紫電しでんいちがた 紫電しでんあらため」、いわゆるネームドとして紫電しでんあらため(さんよんさんそら) 戦闘せんとう301」「紫電しでんあらため(さんよんさんそら) 戦闘せんとう701」「紫電しでんあらため(さんよんさんそら) 戦闘せんとう407」が登場とうじょうする。
荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい 大空おおぞらのテイクオフガールズ!
かくキャラクターの搭乗とうじょう可能かのう機体きたいとしていちいちがた紫電しでんあらため登場とうじょういちいちがたはイヅルマ自警じけいだん主力しゅりょく機体きたいのため、どう組織そしきない広報こうほう部隊ぶたいであるカナリア自警じけいだんろくにん全員ぜんいん本来ほんらい搭乗とうじょうとしており、リッタにいたってはいちいちがたるために入隊にゅうたい志願しがんした経緯けいいつ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ いち試製しせい紫電しでんあらため かり取扱とりあつかい説明せつめいしょ」pp.9
  2. ^ a b 最強さいきょう戦闘せんとう紫電しでんあらため』160ぺーじ笠井かさい智一ともかず海軍かいぐんじょう曹(さんよんさんそら)と岩下いわした邦雄くにお海軍かいぐん大尉たいい横須賀よこすか海軍かいぐん航空こうくうたい)の対談たいだんより。"J"と"Jあらため"は笠井かさい岩下いわしたは"紫電しでん"と"紫電しでんあらため"。
  3. ^ 最強さいきょう戦闘せんとう紫電しでんあらため』114ぺーじ「『紫電しでんあらため』はなにとよばれたか」
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  7. ^ いかり義郎よしお最後さいご戦闘せんとう紫電しでんあらため』85-86ぺーじ試作しさく計画けいかく混乱こんらんのしわよせ」
  8. ^ 世界せかい傑作けっさくNo.124 強風きょうふう紫電しでん紫電しでんあらため』37、74ぺーじ
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  13. ^ a b 最強さいきょう戦闘せんとう紫電しでんあらため』160ぺーじ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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    • Ref.A03032263000「試製しせい紫電しでんあらため かり取扱とりあつかい説明せつめいしょいち
    • Ref.A03032263100「試製しせい紫電しでんあらため かり取扱とりあつかい説明せつめいしょ
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  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう へん軍用ぐんようメカ・シリーズ1 紫電しでん紫電しでんあらため/きゅうよんみず偵』
    光人みつひとしゃ保存ほぞんばん、1992ねんISBN 4-7698-0631-0
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  • 宮崎みやざきいさむかえって紫電しでんあらため 紫電しでんあらため戦闘せんとうたい物語ものがたり』(光人みつひとしゃ、1993ねんISBN 4-7698-0651-5
  • いかり 義朗よしろう最後さいご戦闘せんとう 紫電しでんあらため 起死回生きしかいせいけたおとこたちのたたか
    光人みつひとしゃ、1994ねんISBN 4-7698-0671-X
    光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2006ねんISBN 4-7698-2519-6
  • 世界せかい傑作けっさく No.53 強風きょうふう紫電しでん紫電しでんあらため』(ぶん林堂はやしどう、1995ねんISBN 4-89319-050-4
  • 野原のはら しげるエアロ・ディテール26 川西かわにし局地きょくち戦闘せんとう紫電しでんあらため」』(だい日本にっぽん絵画かいが、1999ねんISBN 4-499-22711-9
  • 歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ24 局地きょくち戦闘せんとう紫電しでんあらため 海軍かいぐん航空こうくう終焉しゅうえんかざった傑作けっさく生涯しょうがい』(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2000ねんISBN 4-05-602064-7
  • 野原のはら しげる日本にっぽん海軍かいぐん戦闘せんとう 強風きょうふう 紫電しでん 紫電しでんあらため』(モデルアートしゃ2001ねん6がつごう臨時りんじ増刊ぞうかん、No.587)
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    (ネコパブリッシング、2003ねんISBN 4-7770-5007-6
    ぞうていばん双葉社ふたばしゃ、2014ねんISBN 4-575-30701-7
  • 松葉まつばみのる 作図さくず解説かいせつ航空機こうくうき原点げんてん 精密せいみつ図面ずめんむ9 日本にっぽん海軍かいぐん戦闘せんとうへん』(たけなわとうしゃ、2005ねんISBN 4-87357-158-8 p86〜p109
  • 世界せかい傑作けっさく No.124 強風きょうふう紫電しでん紫電しでんあらため』(ぶん林堂はやしどう、2008ねんISBN 978-4-89319-158-8
  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう へん最強さいきょう戦闘せんとう紫電しでんあらため よみがえうみわし』(光人みつひとしゃ、2010ねんISBN 978-4-7698-1456-6

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]