院政いんせい

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白河しらかわ上皇じょうこう御幸みゆき。『春日かすが権現ごんげんけん』より。

院政いんせい(いんせい)は、上皇じょうこう太上天皇だじょうてんのうまたは出家しゅっけした上皇じょうこうである法皇ほうおうふとしじょう法皇ほうおう天皇てんのうわり政務せいむおこな政治せいじ形態けいたいのことである。この政治せいじ形態けいたいは、「いん」すなわち上皇じょうこう執政しっせい常態じょうたいとする[1]。もうひとつの意味いみとしては(上皇じょうこう院政いんせいたとえて)、現職げんしょく引退いんたいしたひと引退いんたい実権じっけんにぎっていることを[2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

摂関せっかん政治せいじおとろえた平安へいあん時代じだい末期まっきから、鎌倉かまくら時代ときよすなわち武家ぶけ政治せいじはじまるまでのあいだられた政治せいじ方針ほうしんである。

天皇てんのう皇位こういゆずると上皇じょうこうとなり、上皇じょうこう出家しゅっけすると法皇ほうおうとなるが[3]上皇じょうこうは「いん」ともばれたので、院政いんせいという(いんという場所ばしょ政治せいじおこなったから院政いんせいというとするせつもある)。 1086ねん白河天皇しらかわてんのう譲位じょういして白河しらかわ上皇じょうこうとなってから、平家ひらか滅亡めつぼう1185ねんころまでを「院政いんせい時代じだい」とぶことがある。

院政いんせい」という言葉ことば自体じたいは、江戸えど時代じだいよりゆき山陽さんようが『日本にっぽん外史がいし』のなかでこうした政治せいじ形態けいたいを「せいざい上皇じょうこう[4]として「院政いんせい[5]表現ひょうげんし、明治めいじ政府せいふによって編纂へんさんされた『国史こくし』がこれを参照さんしょうにして「院政いんせい」としょうしたことでひろられるようになったとされている。院政いんせい上皇じょうこうてんきみともばれた。

前史ぜんし[編集へんしゅう]

本来ほんらい皇位こういはいわゆる終身しゅうしんせいとなっており、皇位こうい継承けいしょう天皇てんのう崩御ほうぎょによってのみおこなわれていた。すめらぎごく天皇てんのう以降いこうもちすべ天皇てんのう元正がんしょう天皇てんのう聖武天皇しょうむてんのうなど、皇位こうい生前せいぜん譲位じょういおこなわれるようになった。当時とうじ皇位こうい継承けいしょう安定あんていしていなかったため(大兄たいけいせい)、譲位じょういという意思いし表示ひょうじによって意中いちゅう皇子おうじ皇位こうい継承けいしょうさせるためにとられた方法ほうほうかんがえられている。すめらぎきょくもちみつる元正がんしょう女帝にょていであり、皇位こうい継承けいしょうしゃとしての成人せいじんした男性だんせい皇族こうぞくあらわれるまでの中継なかつぎにぎなかったという事情じじょうがあった。聖武天皇しょうむてんのうかんしては、国家こっかプロジェクトであった東大寺とうだいじ建立こんりゅう専念せんねんするためという事情じじょうもあった。これらが後年こうねん院政いんせい萌芽ほうがとなる。

平安へいあん時代じだいはいっても嵯峨天皇さがてんのう宇多天皇うだてんのうや、円融天皇えんゆうてんのうなどにも、生前せいぜん譲位じょういられる(後述こうじゅつ)。日本にっぽん律令りつりょうでは上皇じょうこう天皇てんのう同等どうとう権限けんげんつとされていたため、こうしたやや変則へんそくてき政体せいたいですら制度せいどわくない可能かのうであった。これらの天皇てんのう退位たいいも「天皇てんのう家父かふちょう」としてわか天皇てんのう後見こうけんするとして国政こくせい関与かんよすることがあった。だが、当時とうじはまだこの状態じょうたいつね維持いじするための政治せいじてき組織そしき財政ざいせいてき軍事ぐんじてき裏付うらづけが不十分ふじゅうぶんであり、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきにはおさな短命たんめい天皇てんのうおお十分じゅうぶん指導しどうりょく発揮はっきするためのわかさと健康けんこう保持ほじした上皇じょうこうえてひさしかったために、父系ふけいによるこの仕組しくみは衰退すいたいしていく[注釈ちゅうしゃく 1]わりに母系ぼけいにあたる天皇てんのう外祖父がいそふ地位ちいめた藤原ふじわらきた天皇てんのう職務しょくむ権利けんり代理だいり代行だいこうする摂関せっかん政治せいじ隆盛りゅうせいしていくことになる。

だが、れき4ねん1068ねん)の後三条ごさんじょう天皇てんのう即位そくいはその状況じょうきょうおおきな変化へんかをもたらした。平安へいあん時代じだいつうじて皇位こうい継承けいしょう安定あんていおおきな政治せいじ課題かだいとされており、皇統こうとう一条天皇いちじょうてんのうけい統一とういつするというながれのなかで、後三条ごさんじょう天皇てんのう即位そくいすることとなった。後三条ごさんじょう天皇てんのうは、宇多天皇うだてんのう以来いらい藤原ふじわらきた摂関せっかん)を外戚がいせきたない170ねんぶりの天皇てんのうであり、外戚がいせき地位ちい権力けんりょく源泉げんせんとしていた摂関せっかん政治せいじがここにらぎはじめることとなる。

後三条ごさんじょう天皇てんのう以前いぜん天皇てんのうおおくも即位そくいした直後ちょくごに、すめらぎけん確立かくりつ律令りつりょう復興ふっこう企図きとして「新政しんせい」としょうした一連いちれん政策せいさく企画きかく実行じっこうしていたが、後三条ごさんじょう天皇てんのう外戚がいせき摂関せっかんたないつよみも背景はいけいとして、延久のべひさ荘園しょうえん整理せいりれい1069ねん)などより積極せっきょくてき政策せいさく展開てんかいおこなった。延久のべひさ4ねん1072ねん)に後三条ごさんじょう天皇てんのうだいいち皇子おうじ貞仁さだひと親王しんのう白河天皇しらかわてんのう)へ生前せいぜん譲位じょういしたが、その直後ちょくご病没びょうぼつしてしまう。

後三条ごさんじょう天皇てんのう譲位じょうい意図いとについてのしょ学説がくせつ[編集へんしゅう]

このとき、後三条ごさんじょう天皇てんのう院政いんせい開始かいしする意図いとっていたとする見解けんかい慈円じえんにより主張しゅちょうされて(『かんしょう』)以来いらい北畠きたばたけ親房ちかふさ(『かみすめらぎ正統せいとう』)、新井あらい白石はくせき(『読史どくしあまりろん』)、黒板こくばん勝美かつみ三浦みうらあまねぎょうなどにより主張しゅちょうされていたが、和田わだ英松ひでまつが、災害さいがい異変いへん後三条ごさんじょう天皇てんのう病気びょうきじつじん親王しんのうたて東宮とうぐうの3てん譲位じょうい理由りゆうであり院政いんせい開始かいし企図きとされていなかったと主張しゅちょうし、平泉ひらいずみきよし病気びょうきのみに限定げんていするなど異論いろんされた。近年きんねんでは吉村よしむら茂樹しげきが、当時とうじ災害さいがい異変いへん突出とっしゅつしていないこと、後三条ごさんじょう天皇てんのう病気びょうき糖尿とうにょうびょう推定すいていされている)がじゅうあつししたのが退位たいいであることを理由りゆうとして、摂関せっかん外戚がいせきたないじつじん親王しんのう皇位こうい継承けいしょうさせることによるすめらぎけん拡大かくだい意図いとし、摂関せっかん政治せいじへの回帰かいき阻止そししたものであって院政いんせい意図いとはなかったと主張しゅちょうし、通説つうせつしている。しかしながら美川みかわけいのように、院政いんせい当初とうしょ目的もくてき皇位こうい決定けっていけん掌握しょうあくて、すめらぎけん拡大かくだい意図いとしたこと自体じたい重要じゅうようする意見いけんている。

その一方いっぽうで、近年きんねんでは宇多天皇うだてんのう醍醐天皇だいごてんのう譲位じょういして法皇ほうおうとなったのち天皇てんのう病気びょうきともなって実質じっしつじょう院政いんせいおこなっていたことあきらかになったことや、円融天皇えんゆうてんのう退位たいい息子むすこ一条天皇いちじょうてんのう皇位こういぐと政務せいむようとしたために外祖父がいそふである摂政せっしょう藤原ふじわらけん対立たいりつしていたというせつもあり、院政いんせい嚆矢こうし後三条ごさんじょう天皇てんのうよりも以前いぜんせつ有力ゆうりょくとなっている。

白河しらかわ院政いんせい[編集へんしゅう]

つぎ白河天皇しらかわてんのうはは御堂みどうりゅう摂関せっかんではない閑院りゅう出身しゅっしん中納言ちゅうなごん藤原ふじわらこうなりむすめ春宮とうぐう大夫たいふ藤原ふじわらのうしん異母いぼけい頼通よりみちとは反目はんもくしていた)の養女ようじょである女御にょうご藤原ふじわら茂子しげこであったため、白河天皇しらかわてんのうは、御堂みどうりゅう嫡流ちゃくりゅう摂関せっかん藤原ふじわら関白かんぱくをににんじつつ後三条ごさんじょう天皇てんのう同様どうよう親政しんせいおこなった。白河天皇しらかわてんのうおうとく3ねん1086ねん)に当時とうじ8さい善仁よしひと皇子おうじ堀河ほりかわ天皇てんのう)へ譲位じょうい太上天皇だじょうてんのう上皇じょうこう)となったが、ようみかど後見こうけんするため白河しらかわいんしょうして、つづ政務せいむたった。一般いっぱんてきにはこれが院政いんせいはじまりであるとされている。よしみうけたまわ2ねん1107ねん)に堀河ほりかわ天皇てんのうぼっするとその皇子おうじ鳥羽天皇とばてんのう)が4さい即位そくいし、独自どくじせいられた堀河ほりかわ天皇てんのう時代じだいより白河しらかわ上皇じょうこう院政いんせい強化きょうかすることに成功せいこうした。白河しらかわ上皇じょうこう以後いご院政いんせいいた上皇じょうこうてんきみ、すなわち事実じじつじょう君主くんしゅとして君臨くんりんし、天皇てんのうは「まるで東宮とうぐう皇太子こうたいし)のようだ」とわれるようになった。実際じっさい院政いんせい本格ほんかくすると皇太子こうたいしてることがなくなっている。

ただし、白河天皇しらかわてんのう当初とうしょからそのような院政いんせい体制たいせい意図いとしていたわけではなく、結果けっかてきにそうなったともいえる。白河天皇しらかわてんのう本来ほんらい意志いしは、皇位こうい継承けいしょう安定あんてい、というより自分じぶんによる皇位こうい独占どくせんという意図いとがあった。白河天皇しらかわてんのう御堂みどうりゅう藤原ふじわらのうしん養女ようじょ藤原ふじわら茂子しげこ母親ははおやおなじく御堂みどうりゅう関白かんぱく藤原ふじわら養女ようじょ藤原ふじわら賢子さとこ御堂みどうりゅう親密しんみつ村上むらかみはじめ中院なかのいん流出りゅうしゅつ)を中宮なかみやとしており、生前せいぜんのちさんじょう天皇てんのうおよびはん摂関せっかん貴族きぞくにとっては、異母弟いぼていであるじつじん親王しんのう輔仁親王しんのう摂関せっかん冷遇れいぐうされた三条さんじょうはじめ系譜けいふ)への譲位じょういのぞまれていた。そうしたなか白河天皇しらかわてんのうは、である善仁よしひと親王しんのう皇位こういゆずることで、これらおとうと皇位こうい継承けいしょう断念だんねんさせる意図いとがあった。これはふたた摂関せっかん外戚がいせきとすることであり、むしろ摂関せっかん政治せいじへの回帰かいきにつながる行動こうどうであった。佐々木ささき宗雄むねお研究けんきゅうによれば、『ちゅう右記うき』などにおける朝廷ちょうていないでの政策せいさく決定けってい過程かていにおいて、白河天皇しらかわてんのうがある時期じきまで突出とっしゅつして政策せいさく判断はんだんしたことはすくなく、院政いんせい開始かいしには摂政せっしょうであった相談そうだんして政策せいさく遂行すいこうし、堀河ほりかわ天皇てんのう成人せいじん堀河ほりかわ天皇てんのう関白かんぱく藤原ふじわらどおり協議きょうぎして政策せいさくおこなって白河しらかわ上皇じょうこう相談そうだんおこなわないことすらめずらしくなかったという。これは当時とうじ国政こくせいかんする情報じょうほう天皇てんのう代理だいりである摂関せっかん集中しゅうちゅうする仕組しくみとなっており、国政こくせい情報じょうほう独占どくせんしていた摂関せっかん政治せいじりょく上皇じょうこうのそれが上回うわまわるような状況じょうきょう発生はっせいしなかったとかんがえられている。だが、どおりはたらざかりの年齢ねんれいでの急逝きゅうせい若年じゃくねん政治せいじ経験けいけんとぼしい藤原ふじわら忠実ちゅうじつ継承けいしょうともなって摂関せっかん政治せいじりょく低下ていか国政こくせい情報じょうほう独占どくせん崩壊ほうかいがもたらされ、堀河ほりかわ天皇てんのうわか忠実ちゅうじつではなく父親ちちおや白河しらかわ上皇じょうこう相談そうだん相手あいてもとめざるをなかった。さらにその堀河ほりかわ天皇てんのう崩御ほうぎょしておさな鳥羽天皇とばてんのう即位そくいしたために結果けっかてき白河しらかわ上皇じょうこうによる権力けんりょく集中しゅうちゅう成立せいりつしたとする。一方いっぽう樋口ひぐち健太郎けんたろう白河しらかわ法皇ほうおう院政いんせい前提ぜんていとして藤原ふじわら彰子あきこ上東門院じょうとうもんいん)の存在そんざいがあったと指摘してきする。彼女かのじょである後一条天皇ごいちじょうてんのう太皇太后たいこうたいこうのち女院にょいん)の立場たちば[注釈ちゅうしゃく 2]からささえ、以後いご白河天皇しらかわてんのうまで5だい天皇てんのうにわたり天皇てんのう家長かちょうてき存在そんざいであった。天皇てんのう代理だいりであった摂政せっしょう自己じこ任免にんめん天皇てんのう勅許ちょっきょおこなうことができず(それをおこなうと結果けっかてき摂政せっしょう自身じしん自己じこ進退しんたい判断はんだんする矛盾むじゅん状態じょうたいになる)、摂関せっかん全盛期ぜんせいききずいた道長みちなが頼通よりみち父子ふし摂政せっしょう任免にんめん彼女かのじょ令旨れいしなどの体裁ていさい実施じっしされていた。じつ自己じこ権威けんいづけのために自己じこ摂関せっかん任免にんめんについて道長みちなが先例せんれいならってちちいんである白河しらかわ上皇じょうこう関与かんよ[注釈ちゅうしゃく 3]もとめ、天皇てんのう在位ざいいちゅう協調きょうちょう関係かんけいもあって上皇じょうこう行幸ぎょうこう公卿くぎょう動員どういんし、いん御所ごしょ造営ぞうえい諸国しょこくしょ実施じっしするなどその権限けんげん強化きょうか協力きょうりょくしてきた。また、白河しらかわ上皇じょうこういんちょう人事じんじじつ一任いちにんするなど、国政こくせい主導しゅどうしゃとしてみとめる政策せいさくってきた[注釈ちゅうしゃく 4]。ところが、皮肉ひにくにもどおり相次あいつ急死きゅうしによってのこされたのは、強化きょうかした白河しらかわ上皇じょうこう法皇ほうおう)の権威けんい上東門院じょうとうもんいん先例せんれい根拠こんきょとした白河しらかわ上皇じょうこう法皇ほうおう)による摂関せっかん任命にんめい人事じんじへの関与かんよ実績じっせきであり、結果けっかてきには藤原ふじわら忠実ちゅうじつ摂政せっしょう任命にんめいをはじめとする「てんきみ」による摂関せっかん任命にんめい正当せいとうすることになってしまった。

直系ちょっけい相続そうぞくによる皇位こうい継承けいしょう継承けいしょう男子だんしかならずしも確保かくほできるわけではなく、つね皇統こうとう断絶だんぜつ不安ふあんがつきまとう。ぎゃくおおくの皇子おうじ並立へいりつしていても皇位こうい継承けいしょう紛争ふんそうえないこととなる。院政いんせいしたでは、「てんきみ」が次代じだい次々つぎつぎだい天皇てんのう指名しめいできたので、比較的ひかくてき安定あんていした皇位こうい継承けいしょう実現じつげんでき、皇位こうい継承けいしょうに「てんきみ」の意向いこう反映はんえいさせることも可能かのうであった。

また、外戚がいせき関係かんけい媒介ばいかい摂政せっしょう関白かんぱくとして政務せいむにあたる摂関せっかん政治せいじことなって、院政いんせい直接的ちょくせつてき父権ふけんもとづくものであったため、専制せんせいてき統治とうち可能かのうとしていた。院政いんせい上皇じょうこうは、自己じこ政務せいむ機関きかんとしていんちょう設置せっちし、院宣いんぜんいんちょうぶんなどの命令めいれい文書ぶんしょ発給はっきゅうした。従来じゅうらい学説がくせつではいんちょうにおいて実際じっさい政務せいむられたとされていたが、鈴木すずき茂男しげお当時とうじいんちょう発給はっきゅう文書ぶんしょ国政こくせいかんする内容ないようみとめられないことを主張しゅちょうし、橋本はしもと義彦よしひこがこれをけていんちょう政治せいじろん痛烈つうれつ批判ひはんしたため近年きんねんでは、非公式ひこうしきわたし文書ぶんしょとしての側面そくめんのある院宣いんぜんもちいて朝廷ちょうてい圧力あつりょくをかけ、いん独自どくじ側近そっきんいん近臣きんしんとして太政官だじょうかんうちおくむことによって事実じじつじょう指揮しきったとする見解けんかい有力ゆうりょくとなっている。これらいん近臣きんしん上皇じょうこうとの個別こべつ主従しゅうじゅう関係かんけいにより出世しゅっせ権勢けんせいつよめた。また、上皇じょうこう独自どくじ軍事ぐんじ組織そしきとして北面ほくめん武士ぶしくなど、たいらおもとした武士ぶし勢力せいりょく登用とうようはかったため、たいら権力けんりょく成長せいちょううながした。そのため、白河しらかわ上皇じょうこうによる院政いんせい開始かいしをもって中世ちゅうせい起点きてんとすることもある。

平安へいあん後期こうき以降いこう院政いんせい定着ていちゃくした背景はいけいとして、岡野おかの友彦ともひこ財政ざいせいめん理由りゆう指摘してきしている。おおやけ公民こうみんせい実態じったいとして崩壊ほうかいしたこの時期じきであっても、法制ほうせいじょう律令りつりょう国家こっかちょうである天皇てんのう荘園しょうえん私有しゆうできなかった。このため寄進きしんによって皇室こうしつりょうとなった荘園しょうえん上皇じょうこう所有しょゆう管理かんりし、国家こっか財政ざいせいささえたという見解けんかいである[9]

ただし、院政いんせい登場とうじょう摂政せっしょう関白かんぱく必要ひつようせい否定ひていするものではなかったことには注意ちゅういようする。いん上皇じょうこう法皇ほうおう)の内裏だいりへのりはできない慣例かんれい依然いぜんとして維持いじされているなかで、摂関せっかん天皇てんのう身近みぢかにあってこれ補佐ほさするととも天皇てんのういんをつなぐ連絡れんらくやくとしての役割やくわりになった。そして、なが院政いんせい歴史れきしあいだには白河しらかわ法皇ほうおう藤原ふじわら忠実ちゅうじつのようにいんわか摂関せっかん補佐ほさする状況じょうきょうだけではなく、反対はんたい摂関せっかんわかいん補佐ほさする場面ばめんもあり、いん摂関せっかん、ひいては天皇てんのう摂関せっかん王権おうけん構成こうせいする相互そうご補完ほかんてき関係かんけいでありつづけたのである[10]

院政いんせい最盛さいせい転換てんかん[編集へんしゅう]

白河しらかわ上皇じょうこうは、鳥羽天皇とばてんのうだいいち皇子おうじ崇徳天皇すとくてんのう)を皇位こういにつけたのちくずれじ、鳥羽とば上皇じょうこう院政いんせいくこととなったが、鳥羽とば上皇じょうこう崇徳天皇すとくてんのううとんじ[注釈ちゅうしゃく 5]だいきゅう皇子おうじである近衛天皇このえてんのうはは美福門院びふくもんいん)へ皇位こういがせた(近衛天皇このえてんのうぼつはそのあに後白河天皇ごしらかわてんのうははまちけんもんいん)がまましいだ)。そして、もと元年がんねん1156ねん)に鳥羽とば上皇じょうこうくずれじた直後ちょくごたかしとく上皇じょうこう後白河天皇ごしらかわてんのうあいだ戦闘せんとうこり、後白河天皇ごしらかわてんのう勝利しょうりした(もとらん)。

後白河天皇ごしらかわてんのうたもてもと3ねん(1158ねん)に二条天皇にじょうてんのう譲位じょういすると院政いんせい開始かいしした。しかし、皇統こうとう正嫡せいちゃくとしての意識いしきつよ二条天皇にじょうてんのう天皇てんのう親政しんせい指向しこうしており、こう白河しらかわ院政いんせいじょう親政しんせい対立たいりつがもたらされた。したがって二条天皇にじょうてんのう時代じだいこう白河しらかわ院政いんせい強固きょうこなものとはとうていいえなかった。しかし、やまい二条天皇にじょうてんのうながまん元年がんねん(1165ねん)6がつ25にちおさなろくじょう天皇てんのう譲位じょうい、7がつ28にちにはくずれじてしまった。ここでこう白河しらかわ院政いんせいには実質じっしつじょう内容ないようがもたらされたのである。こう白河しらかわ院政いんせいには、平治へいじらんたいら政権せいけん隆盛りゅうせいおよびその崩壊ほうかいうけたまわ寿ことぶきひさしらん勃発ぼっぱつみなもと頼朝よりとも鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつなど、武士ぶし一気いっき台頭たいとうする時代じだいとなった。

ただ、こう白河しらかわ法皇ほうおう平清盛たいらのきよもりとが対立たいりつはじめたのちうけたまわ3ねん(1179ねん)11月のうけたまわさんねん政変せいへんによって鳥羽とば殿どの幽閉ゆうへいされ、こう白河しらかわ法皇ほうおう院政いんせい停止ていしされてしまった。ここで一旦いったん高倉天皇たかくらてんのう親政しんせい成立せいりつするが、高倉天皇たかくらてんのううけたまわ4ねん(1180ねん)2がつ安徳天皇あんとくてんのう譲位じょうい、ここに高倉たかくら院政いんせい成立せいりつした。高倉たかくら院政いんせいでは福原ふくはらへの「遷都せんと」などがおこなわれたが、もともと病弱びょうじゃくであった高倉たかくら上皇じょうこう福原ふくはらやまい平安京へいあんきょう還御かんぎょした直後ちょくご養和ようわ元年がんねん(1181ねん)1がつ14にちくずれじてしまった。まもなく清盛きよもりったため、清盛きよもり後継こうけいしゃであった平宗盛たいらのむねもりこう白河しらかわ院政いんせい復活ふっかつさせた。

こう白河しらかわ院政いんせいのちは、そのまご後鳥羽上皇ごとばじょうこう院政いんせいおこなった。後鳥羽ごとばいんは、すめらぎけん復興ふっこう企図きとして鎌倉かまくら幕府ばくふたおそうとしたが失敗しっぱい承久じょうきゅうらん)、自身じしん流罪るざいとなったうえすめらぎけん低下ていか朝廷ちょうてい執権しっけん北条ほうじょう介入かいにゅうまねいてしまった。らんこう堀河ほりかわ天皇てんのう即位そくいするとその父親ちちおやであるくだりじょ入道にゅうどう親王しんのう例外れいがいてき皇位こういずして院政いんせいおこなう(こう高倉たかくらいん)という事態じたい発生はっせいしている。

院政いんせい承久じょうきゅうらん以降いこう存続そんぞくし、公家くげ政権せいけん中枢ちゅうすうとして機能きのうした。とくらん以後いごはじめて本格ほんかくてき院政いんせいいたこう嵯峨さが院政いんせい院政いんせいしょ制度せいど整備せいびされている。こう嵯峨さがいんは、そうごとべんかん蔵人くろうどによる奏上そうじょう)を役職やくしょくである伝奏てんそう制度せいど、そしていん評定ひょうじょうしゅとともにそうろん訴訟そしょう裁許さいきょたるいん評定ひょうじょう確立かくりつし、院政いんせい機能きのう強化きょうかつとめた。いん評定ひょうじょう当時とうじ課題かだいであった徳政とくせい興行こうぎょうのために訴訟そしょう裁許さいきょ円滑えんかつする役目やくめになった[注釈ちゅうしゃく 6]

こう嵯峨さがいん以後いご両統りょうとう迭立には、実際じっさい院政いんせいおこなてんきみ天皇てんのうちち(あるいは祖父そふ祖父そふ)である必要ひつようせいとく強調きょうちょうされるようになる。持明院じみょういんみつる伏見天皇ふしみてんのう即位そくいしたさい実父じっぷであるこう深草ふかくさいん院政いんせいおこなうものとされ、ぜん天皇てんのうである大覚寺だいかくじみつるこう宇多院うだいんがこれに抗議こうぎしたもののかえりみられず、反対はんたいこう宇多院うだいんであるこう二条天皇にじょうてんのう即位そくいしたさいには同時どうじぜん天皇てんのうであるこう伏見ふしみいんだい院政いんせいおこなっていた伏見ふしみいん院政いんせい停止ていしされてこう宇多院うだいん院政いんせい開始かいしされている。なお、このさい伏見ふしみいん皇子おうじこう伏見ふしみいんおとうとにあたるとみじん親王しんのう花園天皇はなぞのてんのう)が立太子りったいしされたさいこう伏見ふしみいん猶子ゆうしとされた(『すめらぎ年代ねんだい略記りゃっき』・『かみすめらぎ正統せいとう』)。花園天皇はなぞのてんのう即位そくい当初とうしょ伏見ふしみいん院政いんせいおこなったものの、正和しょうわ2ねん1313ねん)10がつ17にちてんきみこう伏見ふしみいんゆずられ(『一代いちだいよう』)、4ねん伏見ふしみいんくずれじたときには花園天皇はなぞのてんのう実父じっぷ崩御ほうぎょにもかかわらず祖父そふ形式けいしきった(『ぞうきょう』)。これは本来ほんらい花園天皇はなぞのてんのうあにであるのち伏見ふしみいんどう天皇てんのう治世ちせいにおけるてん資格しかくるために、花園天皇はなぞのてんのう猶子ゆうし関係かんけいむすんだために本来ほんらいは「ちち」の関係かんけいである伏見ふしみいん花園天皇はなぞのてんのう関係かんけいも「祖父そふまご」の関係かんけい擬制ぎせいされたことによる。大覚寺だいかくじみつる事例じれい長慶ちょうけいいんこう亀山天皇かめやまてんのう)は不明ふめいであるものの、以後いご持明院じみょういんみつるにおいてはてんきみ予定よていされたもの皇位こうい継承けいしょう予定よていしゃ猶子ゆうし関係かんけいむすび、てんきみ天皇てんのうあいだ親子おやこ関係かんけい擬制ぎせいされるようになった(ひかりげんいん光明こうみょう天皇てんのうおよちょくじん親王しんのうはい太子たいし[注釈ちゅうしゃく 7]こう小松こまついんこう花園天皇はなぞのてんのう)。

院政いんせい形骸けいがい[編集へんしゅう]

たてたけし新政しんせいには後醍醐天皇ごだいごてんのう親政しんせいおこな院政いんせい一時期いちじき中断ちゅうだんしたが、すうねんのち北朝ほくちょうによる院政いんせい復活ふっかつした。室町むろまち時代ときよはいってからも院政いんせい継続けいぞくしたが、てんこう円融えんゆういん自暴自棄じぼうじき行動こうどう権威けんい喪失そうしつすると、足利あしかが義満よしみついん権限けんげん代行だいこうするようになり、これはこう円融えんゆういん崩御ほうぎょ継続けいぞくした。この時期じき義満よしみつてんであったとみなす学者がくしゃもいる[15]

義満よしみつ没後ぼつごこう小松こまつ天皇てんのう譲位じょうい院政いんせい復興ふっこうするが、おうひさし25ねん1418ねん)から将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもち院宣いんぜん事前じぜん審査しんさおこなうようになる[16]。そしてえいとおる5ねん1433ねん)にこう小松こまついん崩御ほうぎょすると院政いんせい事実じじつじょう終焉しゅうえんむかえた。これ以降いこういん相伝そうでんしてきた荘園しょうえんたいする武家ぶけによる横領おうりょうがやまず、院政いんせいささえる経済けいざい基盤きばんうしなわれていった。こう小松こまつつぎ上皇じょうこうになったのち花園はなぞのいん譲位じょういほどなく応仁おうにんらんしょうじ、いん所領しょりょう有名ゆうめい無実むじつした。ただしいんちょうはその存続そんぞく[注釈ちゅうしゃく 8]こう花園はなぞのいん崩御ほうぎょいん仏事ぶつじおこなうためにいんちょう職員しょくいん存在そんざいしていたことが確認かくにんできる[17]。その財務ざいむじょう理由りゆうなどから、天皇てんのう譲位じょうい自体じたい不可能ふかのう状況じょうきょうつづくことになる。

江戸えど時代じだい院政いんせい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいはいると、『禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと』にもとづいて江戸えど幕府ばくふたい朝廷ちょうてい介入かいにゅう本格ほんかくした。幕府ばくふ摂政せっしょう関白かんぱく中心ちゅうしんとした朝廷ちょうてい秩序ちつじょもとめた。しかしこう水尾みずお上皇じょうこうによる院政いんせいかれたため、明正めいせい天皇てんのう朝廷ちょうていける実権じっけんつことはく、こう水尾みずお上皇じょうこう朝廷ちょうていない実権じっけん集中しゅうちゅうした。だが、江戸えど時代じだいはいってからの院政いんせいは、室町むろまち時代じだいまでの院政いんせいとは本質ほんしつてきことなるものとなった。江戸えど時代じだいいん公家くげ社会しゃかい以外いがいへの支配しはいけんたず、仙洞せんとう御料ごりょう上皇じょうこう存在そんざいするときかぎってその都度つど幕府ばくふからあてがわれ、その管理かんりすべ幕府ばくふゆだねられていたためである[18]

れいもと上皇じょうこう院政いんせいおこなうと、おや幕府ばくふであった近衛このえはじめとのあいだ確執かくしつんだ。れいもと院政いんせい終了しゅうりょうさくらまち天皇てんのう上皇じょうこうとなって院政いんせいおこなったが、わずか3ねん崩御ほうぎょこうさくらまち上皇じょうこうこう桃園ももぞの天皇てんのうひかりかく天皇てんのうおさな時期じきには院政いんせいおこなったが、ひかりかく天皇てんのう成人せいじん親政しんせいおこなっている。ひかりかく天皇てんのうは、息子むすこ仁孝天皇にんこうてんのう譲位じょういして院政いんせいおこなったが、これが最後さいご院政いんせいである。

皇位こうい継承けいしょう法制ほうせい院政いんせい禁止きんし[編集へんしゅう]

明治めいじ22ねん1889ねん)に制定せいていされたきゅう皇室こうしつ典範てんぱんだい10じょう天皇てんのうくずしスルトキハ皇嗣こうしそく践祚せんそ祖宗そそう神器じんぎうけたまわク」によって天皇てんのう譲位じょうい禁止きんしされ、天皇てんのう崩御ほうぎょによってのみ皇位こうい継承けいしょうがおこなわれることが規定きていされた。これにより、院政いんせい前提ぜんていとなる上皇じょうこう存在そんざい否定ひていされた。

院政いんせい否定ひていてきかんがかたは、江戸えど時代じだい朱子学しゅしがくしゃれい:新井あらい白石はくせき読史どくしあまりろん』など)にもられるが、院政いんせい当時とうじ天皇てんのう当主とうしゅようした「朝廷ちょうてい」という組織そしき維持いじされれば天皇てんのう親政しんせいでも院政いんせいでも、天皇てんのう当主とうしゅ天皇てんのう在位ざいいしているか退位たいいしているかのちがいしか認識にんしきされていなかった。ところが、皇室こうしつ典範てんぱん制定せいてい皇位こうい継承けいしょう法律ほうりつによって厳密げんみつおこなわれることを意味いみするようになり、こうした曖昧あいまい形態けいたいった「朝廷ちょうてい」というありかたそのものを否定ひていすることとなった[注釈ちゅうしゃく 9]。これによって、従来じゅうらい存在そんざいしなかった「皇位こういにあってこそ天皇てんのうとして振舞ふるまえる」「譲位じょういして皇位こういはなれた天皇てんのうはその地位ちい権限けんげんうしなわれる」という概念がいねん形成けいせいされるようになり、その日本人にっぽんじん一般いっぱんてき院政いんせいかん専門せんもん院政いんせい研究けんきゅうにも影響えいきょうあたえることとなった。

そして昭和しょうわ22ねん1947ねん)に法律ほうりつとして制定せいていされた現行げんこう皇室こうしつ典範てんぱんでも、だい4じょうで「天皇てんのうくずれじたときは、皇嗣こうしが、ただちに即位そくいする」とし、皇位こうい終身しゅうしんせいであり、皇位こうい継承けいしょう天皇てんのう崩御ほうぎょによってのみおこなわれることをさだめている。さらにだい2じょう皇位こうい継承けいしょう順序じゅんじょを、だい3じょうでその順序じゅんじょ変更へんこうについて規定きていしており、天皇てんのうみずからの意思いしによって継承けいしょうしゃ指名しめいできなくなった。また天皇てんのう象徴しょうちょうとする日本国にっぽんこく憲法けんぽう成立せいりつにより、天皇てんのう内閣ないかく承認しょうにん助言じょげんけたうえおこな国事こくじ行為こうい以外いがい政治せいじ関与かんよすることはできなくなった。

その平成へいせい28ねん2016ねん)に明仁あきひとだい125だい天皇てんのう)が、天皇てんのう生前せいぜん次期じき皇位こうい継承けいしょうしゃである皇太子こうたいしとくひとしゆずる「生前せいぜん退位たいい譲位じょうい)」の意向いこうしめした。これにより平成へいせい29ねん2017ねん)6がつ9にち天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほう成立せいりつし、どうほうもとづき、れい元年がんねん2019ねん5月1にち明仁あきひとひかりかく上皇じょうこう以来いらい202ねんぶり、かつ憲政けんせい史上しじょうはじめて「上皇じょうこう」となった。この生前せいぜん退位たいい場合ばあいは、「上皇じょうこう(ならびに上皇じょうこう陛下へいか)」が正式せいしき称号しょうごうとなっており、上皇じょうこうおこな国事こくじ行為こういおよ政治せいじ関与かんよする権限けんげんさだめられていないため、院政いんせいることはできなくなっている。

院政いんせい一覧いちらん[編集へんしゅう]

基本きほん意味いみ院政いんせい具体ぐたいれい一覧いちらん以下いかのとおりである。

平安へいあん時代じだい鎌倉かまくら時代じだい[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい[編集へんしゅう]

北朝ほくちょう[編集へんしゅう]

南朝なんちょう[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

ちゅう

  • 上皇じょうこうなかにはのち出家しゅっけして法皇ほうおうとなったものおおい。
  • 白河しらかわ上皇じょうこう鳥羽とば上皇じょうこうこう白河しらかわ上皇じょうこう後鳥羽上皇ごとばじょうこうその多数たすう上皇じょうこうおよびごく一部いちぶ皇族こうぞく)はてんきみとして君臨くんりんした。

院政いんせい隠居いんきょ制度せいど[編集へんしゅう]

皇位こうい譲渡じょうとしゃ後継こうけい君主くんしゅ後見こうけんとして実質じっしつてき政務せいむおこな政治せいじ体制たいせいは、日本にっぽん独自どくじ家督かとく制度せいど由来ゆらいしている。当主とうしゅ存命ぞんめいちゅうから隠居いんきょして、家督かとく次代じだいゆずって、いえ実権じっけん掌握しょうあくつづける、というもので、この制度せいどがいつごろからはじまったかは、かなりふるくからとされており、くわしくはわかっていない。日本人にっぽんじん思想しそう国家こっかならびにいえ概念がいねんかたまりつつあった弥生やよい時代じだい確立かくりつされた、とするせつ存在そんざいする。[よう出典しゅってん]

鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふそれぞれの征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょくにおいて、将軍しょうぐんしょく退しりぞいて大御所おおごしょとなることも、院政いんせい変形へんけいえる[よう出典しゅってん]。『武家ぶけ社会しゃかい大名だいみょう公家くげ神官しんかんしょく、さらには一般いっぱん庶民しょみん家庭かていにおいても隠居いんきょ制度せいど浸透しんとうしていた。だから、院政いんせい自体じたい隠居いんきょ制度せいど延長線えんちょうせんじょう存在そんざいしていた、と做すことも可能かのうである[よう出典しゅってん]

すんでじゅつとお明治めいじ年間ねんかん以降いこうは、皇室こうしつ典範てんぱん施行しこうともない、天皇てんのう隠退いんたいして上皇じょうこうになることは一旦いったん途絶とだえた。また、明治めいじ以降いこう西洋せいよう文化ぶんか流入りゅうにゅうともなって、家督かとく制度せいどたいする日本人にっぽんじん思考しこうにも変化へんかあらわれた影響えいきょうから、隠居いんきょ制度せいど急速きゅうそくすたれていき、日本国にっぽんこく憲法けんぽうによって法的ほうてき家督かとく制度せいどとも隠居いんきょ制度せいど廃止はいしされた。

世界せかい各国かっこく最高さいこう権力けんりょくかんする類例るいれい相違そういてん[編集へんしゅう]

日本にっぽん院政いんせいのように、名目めいもくじょう最高さいこう権力けんりょくしゃ実質じっしつてき最高さいこう権力けんりょくしゃ分離ぶんり常態じょうたいしたものは、ベトナムひねあさ類例るいれいられるものの、にはほぼ存在そんざいしない。一時いちじてき院政いんせい類似るいじする政治せいじ形態けいたい成立せいりつすることはあるものの、それが制度せいどされることはなかったといえる。

中国ちゅうごくにおいて、ちょうたけれいおうみなみそうこうむねきよしいぬいたかしみかどなどは、君主くんしゅ後継こうけいしゃゆずったのち権力けんりょくにぎっていた。しかし、それが恒久こうきゅうすることはなかった。

ヨーロッパでは、実権じっけん保持ほじしたまま後継こうけいしゃ君主くんしゅける場合ばあいには共同きょうどう統治とうちしゃ英語えいごばんえる方法ほうほうられた。複数ふくすう君主くんしゅならつこの方法ほうほうは、形式けいしきじょう世襲せしゅうせいではないマ帝国まていこくとくにしばしばもちいられた。かみきよしマ帝国まていこく選挙せんきょ王制おうせいになると、在位ざいいちゅうの「皇帝こうていけんローマおう」が嫡子ちゃくしを "共同きょうどうのローマおう" に選出せんしゅつさせる方法ほうほう採用さいようし、これによりハプスブルクによる長期ちょうき事実じじつじょう世襲せしゅうがなされた。

カスティーリャ女王じょおうベレンゲラは、フェルナンド3せい王位おういけたのち、その"後見人こうけんにん"となった。しかし女性じょせい君主くんしゅ即位そくい自体じたい恒常こうじょうてきでないこともあり、制度せいどはしなかった[注釈ちゅうしゃく 10]

一般いっぱんてきには、君主くんしゅ後継こうけいしゃゆずれば、実権じっけん手放てばなすことになる。ローマ皇帝こうていディオクレティアヌス退位たいいにより完全かんぜん引退いんたいし、アラゴンおうラミロ2せい神聖しんせいローマ皇帝こうていスペインおうねたカール5せい(カルロス1せい)は余生よせい修道院しゅうどういんおくった。アラゴン女王じょおうペトロニラみずからの息子むすこ譲位じょういした。近代きんだいオランダルクセンブルクでも、君主くんしゅ譲位じょういすれば実権じっけん手放てばなしている。

比喩ひゆ表現ひょうげん[編集へんしゅう]

現職げんしょく引退いんたいしたひとが、引退いんたい実権じっけんにぎっていること[21]。「会長かいちょう院政いんせいく」などと使つか[21]。あるひとがトップの役職やくしょくから退しりぞいたのに実権じっけんにぎつづけていることを、「院政いんせい」とたとえる。企業きぎょう運営うんえい政治せいじ世界せかいおこなわれることがある。

企業きぎょう運営うんえい

代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう役職やくしょく法規ほうき会社かいしゃ代表だいひょうすると明確めいかくさだめられている)を退任たいにんし、べつひと代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう就任しゅうにんさせたのちも、 "会長かいちょう" と存在そんざいとなり、企業きぎょう運営うんえい実権じっけんにぎつづけることを「院政いんせい」ということがある。

企業きぎょう団体だんたいでは、忠実ちゅうじつ腹心ふくしん縁者えんじゃ後継こうけいしゃとして確定かくていさせることにより、実権じっけんさらなる強化きょうかはか意味合いみあいがつよいとも[22]

政治せいじ権力けんりょく

国際こくさい政治せいじにおいても院政いんせいという言葉ことば使つかわれている。ロシア連邦れんぽうにおける2008ねんから2012ねんまでのタンデム体制たいせいは、当時とうじ大統領だいとうりょうであるドミートリー・メドヴェージェフではなく、ぜん大統領だいとうりょうであるウラジーミル・プーチン首相しゅしょう実権じっけんにぎっているとされ、「プーチンによる院政いんせい」という表現ひょうげん日本にっぽんのメディアで使用しようされた。また、江沢民こうたくみんが2002ねんから2003ねんにかけて共産党きょうさんとうそう書記しょき国家こっか主席しゅせきのポストを胡錦濤こきんとうゆずっても、ぐんトップのとう中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせきつとめていた2年間ねんかん重大じゅうだい問題もんだいについて江沢民こうたくみん裁定さいていあお合意ごうい共産党きょうさんとう指導しどうないにあったため、2002ねんから2004ねんまでは「江沢民こうたくみん院政いんせい」という表現ひょうげん日本にっぽんのメディアで使用しようされた[23]

近年きんねん日本にっぽんでは、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんだったひと総理そうり大臣だいじんめても、なお(与党よとううちにおいて)もっと強力きょうりょく影響えいきょうりょく保持ほじしている場合ばあいに「院政いんせい」とたとえられる。たとえば、竹下たけしたのぼる政権せいけん退陣たいじんしたのち宇野うの宗佑そうすけ政権せいけん海部かいふ俊樹としき政権せいけんが「竹下たけした院政いんせい[24][25]」と、安倍晋三あべしんぞう政権せいけん退陣たいじんしたのちかんよしえら政権せいけん岸田きしだ文雄ふみお政権せいけんが「安倍あべ院政いんせい」とそれぞれしょうされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 奈良なら時代じだいには聖武天皇しょうむてんのうむらさきかおりらくみや)と元正がんしょう上皇じょうこう難波なんばみや)のもとで短期間たんきかんながら宮廷きゅうてい分裂ぶんれつし、平安へいあん時代じだいには天皇てんのう内侍ないしせんてのひら尚侍しょうじ藤原ふじわらくすり平城ひらじろ上皇じょうこう復位ふくい画策かくさくしたために、嵯峨天皇さがてんのう命令めいれい系統けいとう一時いちじてき喪失そうしつする危機ききにさらされたくすりへんなどの教訓きょうくんから蔵人所くろうどどころ設置せっちなど天皇てんのう権力けんりょく強化きょうかおこなわれた影響えいきょうもある[6]。また、くすりへん教訓きょうくんとして太上天皇だじょうてんのう天皇てんのう居住きょじゅうする内裏だいりにはれない慣習かんしゅう成立せいりつし、院政いんせい成立せいりつもその原則げんそくまもられつづけた[7]
  2. ^ 本来ほんらいちちいんである一条いちじょう上皇じょうこう役目やくめであるが、上皇じょうこうすで死去しきょしている。なお、彰子あきこ道長みちながむすめ頼通よりみちあねにあたる。
  3. ^ 母后ぼこうである藤原ふじわら賢子さとこ関与かんよ可能かのうせいかんがえられるが、賢子さとこすで死去しきょしている。なお、賢子さとこ養女ようじょにあたる。
  4. ^ 摂関せっかん政治せいじ全盛期ぜんせいきである上東門院じょうとうもんいん藤原ふじわら道長みちなが頼通よりみち親子おやこ先例せんれいはんとして成立せいりつした白河天皇しらかわてんのう上皇じょうこう法皇ほうおう)と摂関せっかん大殿おおいどの藤原ふじわら先例せんれい後世こうせい摂関せっかんにおいては「吉例きちれい」としてかんがえられていたのである[8]
  5. ^ 古事ふるごとだん』によると崇徳天皇すとくてんのう白河天皇しらかわてんのう実子じっしであるとされており、両者りょうしゃ疎遠そえん関係かんけい傍証ぼうしょうとされてきたが、近年きんねん研究けんきゅうでは信憑しんぴょうせい疑問ぎもんとされている[11]
  6. ^ 当時とうじ社会しゃかいにおいて、訴訟そしょうとりわけ所領しょりょう関係かんけい紛争ふんそう解決かいけつ期待きたいされていたが、天皇てんのうわって上皇じょうこう裁許さいきょする形式けいしきられたのは、天皇てんのう直接ちょくせつ裁許さいきょすることで敗訴はいそしたがわ怨恨えんこん天皇てんのうけられるのを回避かいひする意図いとがあったともかんがえられている[12]。なお、同様どうようながれはおな時期じき将軍しょうぐん直接ちょくせつ裁許さいきょすることを回避かいひして執権しっけん裁許さいきょおこな仕組しくみ完成かんせいさせた鎌倉かまくら幕府ばくふにも見受みうけられる[13]
  7. ^ ちょくじん親王しんのう本当ほんとう父親ちちおやひかりげんいんであるとする見解けんかいがある[14]
  8. ^ 甘露かんろてらおやちょうの『おやちょうきょう』や甘露かんろ寺家じけいつたわっていた「案文あんぶん書類しょるいまき」(国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん所蔵しょぞう)より、おやちょういんとして作成さくせいした院宣いんぜん存在そんざい応仁おうにん2ねん12月25にちづけ庭田にわた中納言ちゅうなごん雅行まさゆきあて文明ぶんめい2ねん10がつ18にちづけ備前びぜんこく薬師寺やくしじあて、ともに所領しょりょう安堵あんど)が確認かくにんできる。
  9. ^ これは摂関せっかん政治せいじ武家ぶけ政治せいじ幕府ばくふ)にたいする理解りかいにも影響えいきょうあたえることとなった。本来ほんらい君臣くんしんども基本きほんとしていた朝廷ちょうてい概念がいねんからすれば、摂関せっかん政治せいじ武家ぶけ政治せいじなども朝廷ちょうていへの参画さんかく形態けいたいの1つであって、貴族きぞく武家ぶけ一時いちじてき対立たいりつはあっても根本こんぽんにおいては天皇てんのう権力けんりょく対立たいりつする存在そんざいではないとされる[19][20]
  10. ^ ヨーゼフ2せい神聖しんせいローマ皇帝こうてい即位そくいははマリア・テレジア統治とうちけんっていた事例じれいについては、マリア・テレジア自身じしん終生しゅうせいオーストリア大公たいこうハンガリーおうボヘミアおう君主くんしゅ保持ほじしており、おっとフランツ1せい在世ざいせい変化へんかはない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ』「院政いんせい
  2. ^ 『デジタル大辞泉だいじせん』「院政いんせい
  3. ^ NHK高校こうこう講座こうざ 日本にっぽんだい9かい院政いんせい荘園しょうえん」2017ねん6がつ9にち放送ほうそう
  4. ^ 日本にっぽん外史がいしまきいち 源氏げんじ前記ぜんき たいら平治へいじらんこう):「このときたり、せい、(白河しらかわ上皇じょうこう藤原ふじわらけいむね藤原ふじわらおもんみかたみかど二条天皇にじょうてんのう)にすすめてせいおやらせしむ。りょうみや交々(こもごも)あく(にく)む」。
  5. ^ 日本にっぽん外史がいしまきいち 源氏げんじ前記ぜんき たいらたいら論賛ろんさん」:「りてこれれば、ひらむねのべいてもっあいもんこうするは、院政いんせいびょうろんあい伝承でんしょうするところなお寛平かんぺいかんを擢任するがごときか」(大意たいい: これらの歴史れきしてき事例じれいからさっするに、たいら一族いちぞくちからりて藤原ふじわら対向たいこうするのは、天皇てんのうにおいて代々だいだい相伝そうでんされたことであり、寛平かんぺい年間ねんかん菅原すがわら道真みちざね抜擢ばってき任用にんようしたようなものだろうか)
  6. ^ かけい、2002ねん[ようページ番号ばんごう]
  7. ^ 樋口ひぐち、2018ねん、P58-61
  8. ^ 樋口ひぐち、2011ねん[ようページ番号ばんごう]
  9. ^ 岡野おかの、2013ねん序章じょしょう 院政いんせい荘園しょうえんせい p.212(kindleばん
  10. ^ 樋口ひぐち、2018ねん、P23-24・34-35.
  11. ^ 美川みかわけい 2006
  12. ^ 近藤こんどう、2016ねん、P520
  13. ^ 近藤こんどう、2016ねん、P512
  14. ^ 岩佐いわさ美代子みよこひかりげんいんしゅうぜんしゃく風間かざま書房しょぼう、2000ねんほか
  15. ^ 岡野おかの、2013ねんだいよんしょう 足利あしかが義満よしみつの「院政いんせい」と院政いんせい終焉しゅうえん p.2007(kindleばん
  16. ^ ももさきゆう一郎いちろう室町むろまち覇者はしゃ 足利あしかが義満よしみつ朝廷ちょうてい幕府ばくふはいかに統一とういつされたか』(筑摩書房ちくましょぼう、2020ねんだいじゅうしょう 義持よしもち試行錯誤しこうさくご終着しゅうちゃくてん直義ただよしてき正義せいぎかん義満よしみつてき強権きょうけんのバランス p.4005(kindleばん
  17. ^ 井原いはら今朝男けさお室町むろまち廷臣ていしん社会しゃかいろん』(はなわ書房しょぼう、2014ねん)P166-168
  18. ^ 岡野おかの、2013ねん だいよんしょう 足利あしかが義満よしみつの「院政いんせい」と院政いんせい終焉しゅうえん p.2033(kindleばん
  19. ^ 河内かわうち 1986ねん[ようページ番号ばんごう]
  20. ^ 河内かわうち 2007ねん[ようページ番号ばんごう]
  21. ^ a b 『デジタル大辞泉だいじせん』「院政いんせい」の、2ばんめの定義ていぎ
  22. ^ “おいえ騒動そうどう”がさわぐ! NEC矢野新やのしん会長かいちょう院政いんせいのムリクリトップ人事じんじ(1) - 週刊しゅうかん実話じつわ 2010ねん3がつ11にち
  23. ^ 2年間ねんかん江沢民こうたくみん院政いんせい合意ごうい 02ねんとう大会たいかい指導しどう 共同通信きょうどうつうしん 2005ねん2がつ7にち
  24. ^ 宇野うの首相しゅしょう足元あしもとがためへ長老ちょうろうめぐり 「粉骨砕身ふんこつさいしん」と協力きょうりょく要請ようせい 派閥はばつ解消かいしょうこえたかく”. 読売新聞よみうりしんぶん (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ). (1989ねん6がつ15にち) 
  25. ^ “[90そう選挙せんきょ 話題わだいひと最前線さいぜんせん] リクルート事件じけんみそぎへ執念しゅうねん連載れんさい)”. 読売新聞よみうりしんぶん (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ). (1989ねん12月26にち) 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]