アイロニー

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アイロニーもしくはイロニーえい: irony, どく: Ironie)とは、表面ひょうめんてき居振いふいによって本質ほんしつかくすこと、無知むち状態じょうたいえんじること。この言葉ことば語源ごげんは、ギリシアのエイローネイアー εいぷしろんἰρωνεία虚偽きょぎ仮面かめん[1]、「よそおわれた無知むち[2]である。

日本語にほんごでは皮肉ひにく骨髄こつづいという仏教ぶっきょう用語ようごになぞらえ、換喩かんゆてき皮肉ひにくやくした(皮肉ひにく骨髄こつづいたいして本質ほんしつてきではない)。その一般いっぱんには反語はんご逆説ぎゃくせつなどの意味いみでももちいられる。

アイロニーは歴史れきしてき様々さまざま用法ようほうつにいたった言葉ことばであるが、おおきくは修辞しゅうじがく哲学てつがくふたつの意味いみがある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

修辞しゅうじがく[編集へんしゅう]

修辞しゅうじがくでは、アイロニーとは、本当ほんとうかんがえや意図いとちがかんがえをほのめかすことによってつたえることである。このさいには、たとえばほめころのように、誇張こちょうほうおおもちいられる。そのおおくの場合ばあいは、他人たにん嘲笑ちょうしょうすることや諷刺ふうしすることを目的もくてきとしている。また、ドラマティック・アイロニーという使つかわれかたがある。これは、観客かんきゃくっている真実しんじつ喜劇きげき登場とうじょうする人物じんぶつだけがらず、登場とうじょう人物じんぶつたちが右往左往うおうさおうする様子ようす滑稽こっけいとしてわらうというてんで、真実しんじつかくすという意味いみで「アイロニー」である。

哲学てつがく[編集へんしゅう]

哲学てつがくでは、ソクラテスが産婆さんばじゅつしょうして、自分じぶんっていることをあたかもらないりをして、若者わかもの議論ぎろんをするといういをしめした。こうしたソクラテスの挙動きょどう道化どうけりとして批判ひはんもできるだろう。しかし、のちシュレーゲルは、これが自我じが解放かいほうするための手段しゅだんになるとして注目ちゅうもくする。こうした哲学てつがくてきアイロニーは、ロマンティック・アイロニー(ロマン主義しゅぎてきアイロニー)とばれるものである。シュレーゲルのアイロニーにたいしては、のちにヘーゲルやキルケゴールなどが、哲学てつがくという真理しんり探究たんきゅうする領域りょういきにおいては相応ふさわしい手段しゅだんではないとして、批判ひはんてき態度たいどった。以下いかでは哲学てつがくてき意味いみでのアイロニーについてしめす。

ソクラテス[編集へんしゅう]

ソクラテスのアイロニーとは、かれ有名ゆうめいな「無知むち」の対話たいわにおいて、通常つうじょう意味いみではかれっている事柄ことがらっていないかのように振舞ふるまった態度たいどのことである。ソクラテスてき対話たいわにおいては、このようにあえて無知むちを「よそおう」ことで、言葉ことば通常つうじょうしたしんだ意味いみからはなれ、哲学てつがくてき探求たんきゅうへとすすことになる。

キルケゴール[編集へんしゅう]

キルケゴールは、学位がくい論文ろんぶん『アイロニーの概念がいねんについて』で、ヘーゲルのがわちながら、ロマン主義しゅぎてきアイロニーについて批判ひはんおこなった。かれはアイロニーを古典こてんてき概念がいねんとしてのそれと、当時とうじドイツ肯定こうていてき評価ひょうかされていた実存じつぞん主義しゅぎてき概念がいねんとしてのそれの2つに分類ぶんるいし、前者ぜんしゃソクラテスのアイロニー、後者こうしゃをロマン主義しゅぎてきアイロニーとんだ。このふたつのかう方向ほうこうせいことなる。ソクラテスのイロニーは真理しんり探究たんきゅうするものであるのにたいし、シュレーゲルのロマン主義しゅぎてきイロニーは審美しんび領域りょういきかぎられるというのである。 もっともソクラテスのアイロニーであっても、キルケゴールによれば、宗教しゅうきょうという真理しんりにたどりくにあたって十分じゅうぶん手立てだてではない。キルケゴールが真理しんりにたどり手段しゅだんとして注目ちゅうもくしたのは、むしろフモールユーモア)である。実存じつぞん美的びてき倫理りんりてき宗教しゅうきょうてき段階だんかいみっつにけ、宗教しゅうきょうてき段階だんかいさい上位じょういくキルケゴールにとって重要じゅうようなのは、美的びてき段階だんかいあそことではなく、素早すばや宗教しゅうきょうてき段階だんかいたっすることであった。かくしてキルケゴールは、アイロニーてき立場たちば限界げんかい指摘してきする。これによってかれ当時とうじドイツで主流しゅりゅうめていた哲学てつがく思想しそう対峙たいじし、自身じしん重視じゅうしするキリストものてき実存じつぞん優位ゆうい主張しゅちょうしていく[1]。 こうしたキルケゴールの見解けんかいほぐさぬともいえようし、またしんぜんむすびつけ、をそれらの下位かいくという意味いみで、古典こてん主義しゅぎてきであるということ出来できよう。しかしこの初期しょきキルケゴールの仕事しごとは、最終さいしゅうてきにキルケゴール自身じしんみずからの仕事しごと目録もくろくふくめなかったのだし、またヘーゲルの影響えいきょうをあまりにもつよけておりキルケゴール自身じしん独自どくじせいとぼしいと後世こうせい研究けんきゅうしゃらに看做みなされることとなる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 大屋おおや憲一けんいち細谷ほそや昌志まさしへん『キルケゴールをまなひとのために』世界せかい思想しそうしゃ、1996ねん所収しょしゅうみなもと宣子のぶこ『イロニーとフモール』
  2. ^ 川崎かわさき寿彦としひこちょ「アイロニー irony」『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん1』より(平凡社へいぼんしゃ、1988ねんISBN 4-582-02200-6

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]