ニコラ・ド・ラルメサン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (1684-1755) 筆 ひつ 「ゆかいな鍛冶 たんや 屋 や 」
『調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 』(ちょうしのよいかじや、英語 えいご :The Harmonious Blacksmith )は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル の『ハープシコード組曲 くみきょく 第 だい 1集 しゅう 』第 だい 5番 ばん ホ長調 ちょうちょう HWV.430 の終曲 しゅうきょく 「エア と変奏 へんそう 」に付 つ けられた通称 つうしょう 。楽曲 がっきょく は、イングランド 伝統 でんとう のディヴィジョン様式 ようしき で構成 こうせい され、エアに続 つづ いて5つのドゥーブル が連 つら なり、変奏 へんそう の度 ど ごとに旋律 せんりつ もしくは伴奏 ばんそう の音 おと 価 か が細分 さいぶん 化 か されてゆく。すなわち、右手 みぎて に16分 ふん 音符 おんぷ が連鎖 れんさ する第 だい 1変奏 へんそう 、16分 ふん 音符 おんぷ の動 うご きが左手 ひだりて に移 うつ る第 だい 2変奏 へんそう 、16分 ふん 音符 おんぷ の三 さん 連 れん 符 ふ が右手 みぎて に現 あらわ れる第 だい 3変奏 へんそう (第 だい 4変奏 へんそう は同 おな じ音 おん 型 がた が左手 ひだりて に移動 いどう )、32分 ふん 音符 おんぷ が両手 りょうて に交互 こうご に現 あらわ れる最終 さいしゅう 変奏 へんそう 、といった工合 ぐあい である。
日本 にっぽん では、「調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 」という訳語 やくご が定着 ていちゃく しているが、「調子 ちょうし の良 よ い」はHarmonious を翻訳 ほんやく したもので「音 おと が調和 ちょうわ している」の意味 いみ であり、リズミカルに調子 ちょうし がいいという意味 いみ ではない(ここでの「調子 ちょうし 」は音調 おんちょう の意味 いみ )。別 べつ 邦題 ほうだい として「愉快 ゆかい な鍛冶 たんや 屋 や 」と呼 よ ばれるが勘違 かんちが いの産物 さんぶつ であろう。
また、鍛冶屋 かじや のハンマーの音 おと はしばしばよく響 ひび くところから、軽快 けいかい にハンマーを叩 たた く「よく響 ひび く鍛冶屋 かじや 」とも解釈 かいしゃく できる。
『ハープシコード組曲 くみきょく 第 だい 1集 しゅう 』第 だい 5番 ばん ホ長調 ちょうちょう HWV.430 [ 編集 へんしゅう ]
ハープシコード組曲 くみきょく 第 だい 1集 しゅう (出版 しゅっぱん 1720年 ねん )の8曲 きょく 中 ちゅう の第 だい 5曲 きょく 。下記 かき の4楽章 がくしょう からなる。
Praeludium(前奏 ぜんそう 曲 きょく )
Allemande(アルマンド )
Courante(クーラント )
Air with 5 variations(エア と変奏 へんそう )〜通称 つうしょう 「調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 」
1720年 ねん の「8つの組曲 くみきょく 」 [ 編集 へんしゅう ]
ヘンデルは、1720年 ねん に、8曲 きょく からなる最初 さいしょ のハープシコード 組曲 くみきょく を出版 しゅっぱん し、次 つぎ のような序文 じょぶん を寄 よ せた。
以下 いか の「
レッスン 」を
出版 しゅっぱん することができたのは、それらの
不正 ふせい な
海賊 かいぞく 出版 しゅっぱん が
横行 おうこう したお
蔭 かげ である。この
曲 きょく 集 しゅう がもっと
重宝 ちょうほう して、
好 この ましい
反応 はんのう を
得 え られるように、
新 あら たな
版 はん ではいくつかの
新曲 しんきょく を
付 つ け
加 くわ えた。
今後 こんご とも
版 はん を
重 かさ ねて
参 まい りたい。
寛大 かんだい な
庇護 ひご を
与 あた えてくださる
皆 みな さんのお
役 やく に
立 た てることこそが、
非才 ひさい なる
小生 しょうせい の
務 つと めと
観 かん ぜられた
次第 しだい である。
— 1720年 ねん 版 ばん へのヘンデルの緒言 しょげん [1]
なぜ「調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 」という通称 つうしょう が付 つ いたのか、また誰 だれ がそう呼 よ び始 はじ めたのかに関 かん しては、数々 かずかず の説明 せつめい がなされてきた。この呼 よ び名 な は、ヘンデルが付 つ けたのではないし、この変奏曲 へんそうきょく が単独 たんどく で有名 ゆうめい になる19世紀 せいき 初頭 しょとう までは、記録 きろく にも現 あらわ れない(死後 しご もイングランド ではヘンデルの作品 さくひん がずっと有名 ゆうめい だったとしても、この曲 きょく だけはとびぬけて有名 ゆうめい だったということは特筆 とくひつ すべきであろう)。
ウィリアム・パウエルの人騒 ひとさわ がせな記念 きねん 碑 ひ
ヘンデルが、1717年 ねん から1718年 ねん までキャノンズのシャンドス公爵 こうしゃく に仕 つか えていた頃 ころ 、鍛冶屋 かじや の軒下 のきした で雨宿 あまやど り をしていたところ、ハンマー が金 きむ 床 ゆか を撃 う つ音 おと に霊感 れいかん を受 う け、旋律 せんりつ を思 おも い付 つ いて書 か き留 と めたとする逸話 いつわ がある。第 だい 1変奏 へんそう において規則 きそく 的 てき に反復 はんぷく される保 ほ 続 ぞく 音 おと (右手 みぎて のロ音 おん )が、鍛冶 たんや 職人 しょくにん の鉄 てつ 鎚 づち の音 おと を連想 れんそう させうるからである。この話 はなし の変形 へんけい に、ヘンデルは鍛冶 たんや 屋 や が口 くち ずさんだ旋律 せんりつ を耳 みみ にして、その後 ご 「エア(旋律 せんりつ 主題 しゅだい )」にしたというものがある。この説明 せつめい は、旋律 せんりつ を借用 しゃくよう するというヘンデルにはよくある手法 しゅほう と見事 みごと に合致 がっち する。
だが、どちらの話 はなし も真実 しんじつ ではない。この手 て の伝説 でんせつ は、ヘンデルの死後 しご 75年 ねん を経 へ て現 あらわ れた、リチャード・クラーク(Richard Clark)の著書 ちょしょ 『ヘンデルの回想 かいそう (Reminiscences of Handel )』(1836年 ねん )が出所 しゅっしょ なのである。当時 とうじ ヘンリ・ワイルド(Henry Wylde)とクラークは、ウィットチャーチ 近隣 きんりん の鍛冶 たんや 屋 や の工房 こうぼう で古 ふる びた金 きむ 床 ゆか を見 み つけると、ウィリアム・パウエルこそが件 けん の「鍛冶屋 かじや 」であるとのデマ をでっち上 あ げた。だが、実 み のところパウエルは、教会 きょうかい の牧師 ぼくし だったのだ。ワイルドとクラークは、寄付 きふ を募 つの ってパウエルの木製 もくせい の記念 きねん 碑 ひ さえ建 た てた。1868年 ねん には、今度 こんど はウィットチャーチの住民 じゅうみん が壮大 そうだい な墓碑 ぼひ を建 た てた。これは今 いま も存在 そんざい しており、碑文 ひぶん には次 つぎ のようにある。
調子 ちょうし の
良 よ い
鍛冶 たんや 屋 や ことウィリアム・パウエルを
偲 しの んで。
1780年 ねん 2月 がつ 27日 にち 埋葬 まいそう 、78
歳 さい 。
不滅 ふめつ のヘンデルが
当 とう 教会 きょうかい のオルガニストであった
頃 ころ 、(パウエルは)
牧師 ぼくし だった。
ヘンデルは、セント・ローレンス教会 きょうかい のオルガン奏者 そうしゃ だったためしはなく、1720年 ねん にチェンバロ組曲 くみきょく を作曲 さっきょく した頃 ころ は、まだキャノンズにはおらず、チェシャー州 しゅう のアドリントン・ホールにいたのである。
真 しん 説 せつ 「調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 」[ 編集 へんしゅう ]
サマセット州 しゅう バス 出身 しゅっしん のウィリアム・リンタンは、『エアと変奏 へんそう 』を出版 しゅっぱん しているが、かつては鍛冶 たんや 職人 しょくにん の見習 みなら い だった。つまり、「調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 」という通 とお り名 な は、リンタンにちなんでいるのである。以下 いか の記事 きじ からすると、おそらく「調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 」と名 な づけて出版 しゅっぱん したのもリンタンだったらしい。
リチャード・クラークの
出版 しゅっぱん 物 ぶつ から
数 すう ヵ月 かげつ 後 ご に、
筆者 ひっしゃ はバス
在 ざい の
故 こ J.W.ウィンザーと
出逢 であ った。
彼 かれ はヘンデルの
盛 さか んな
崇拝 すうはい 者 しゃ で、すべての
出版 しゅっぱん 作品 さくひん を
知 し り
尽 つ くしていた。ウィンザー
曰 いわ く、
エッジウェア の
鍛冶 たんや 屋 や の
話 はなし はただの
法螺 ほら で、くだんの
題名 だいめい (「
調子 ちょうし の
良 よ い
鍛冶屋 かじや 」)でヘンデルのレッスンを
出版 しゅっぱん した
最初 さいしょ の
出版 しゅっぱん 人 じん は、リンタンという
名 な のバスの
楽譜 がくふ 商 しょう なのだった。ウィンザーは
個人 こじん 的 てき にリンタンの
店 みせ で
楽譜 がくふ を
買 か っており、リンタンに
斯様 かよう に
名 な づけた
理由 りゆう を
問 と い
質 ただ したところ、リンタンはそれは
自分 じぶん の綽名なのだと
答 こた えたという。つまりリンタンは、
音楽 おんがく 界 かい に
転向 てんこう したとはいえ、
元 もと は
鍛冶 たんや 職人 しょくにん として
育 そだ てられたし、またしばしばその
曲 きょく を
弾 ひ くように
求 もと められてもいたからだと。リンタンはこの
楽章 がくしょう を
切 き り
離 はな して
出版 しゅっぱん した。
部数 ぶすう を
伸 の ばして
儲 もう けを
上 あ げるためだった。
— ウィリアム・チャペル (1809年 ねん ~1888年 ねん )による解説 かいせつ 、『グローヴ音楽 おんがく 事典 じてん 』初版 しょはん (1889年 ねん )
チャペルは音楽 おんがく 史 し の権威 けんい であり、この逸話 いつわ もおそらく真実 しんじつ なのかもしれないが、リンタン出版 しゅっぱん の『エアと変奏 へんそう 』の出版 しゅっぱん 譜 ふ は大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん には現存 げんそん していない。同 どう 博物館 はくぶつかん の学芸 がくげい 員 いん でヘンデルの名高 なだか い研究 けんきゅう 家 か であったW.C.スミスは、1940年 ねん 現在 げんざい で、「調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 」と題 だい された出版 しゅっぱん 譜 ふ を持 も っていたが、それは British Harmonic Institution 社 しゃ が刊行 かんこう したもので、連弾 れんだん 用 よう に編曲 へんきょく された、「1819年 ねん 」の透 す かし入 い りの楽譜 がくふ であったという。
曲 きょく の起源 きげん についてだが、リチャード・ジョーンズ(Richard Jones, 1680年 ねん 頃 ころ ~1740年 ねん 頃 ころ )が短調 たんちょう ながらもほとんど同一 どういつ の旋律 せんりつ でブレー を残 のこ している。だが、ジョーンズよりヘンデルが先 さき だったのか、もしくはその逆 ぎゃく だったのかは分 わ かっていない。ヘンデル自身 じしん の歌劇 かげき 『アルミーラ 』(1704年 ねん 完成 かんせい )に、『調子 ちょうし の良 よ い鍛冶屋 かじや 』の旋律 せんりつ 主題 しゅだい に良 よ く似 に た一節 いっせつ が含 ふく まれているので、ヘンデルは自分 じぶん の旧作 きゅうさく を使 つか った可能 かのう 性 せい が高 たか い。ベートーヴェン はこれと同 おな じ旋律 せんりつ によって、オルガン のための2声 こえ フーガ を作曲 さっきょく している。
関連 かんれん 楽曲 がっきょく [ 編集 へんしゅう ]
イグナーツ・モシェレス は、この曲 きょく によるヘ長調 ちょうちょう の「変奏曲 へんそうきょく 」作品 さくひん 29を作曲 さっきょく している。イーゴリ・マルケヴィチ は、同様 どうよう に「ヘンデルの主題 しゅだい による変奏曲 へんそうきょく 、フーガとアンヴォワ 」[1] を作曲 さっきょく しており、これは彼 かれ の最後 さいご の作品 さくひん である。
^ Hogwood, Christopher (1988). Handel . Thames & Hudson Ltd. ISBN 978-0500274989