李 り 登輝 とうき (り とうき、1923年 ねん 〈大正 たいしょう 12年 ねん 〉1月 がつ 15日 にち - 2020年 ねん 〈民 みん 国 こく 109年 ねん 〉7月 がつ 30日 にち 、注 ちゅう 音 おと : ㄌㄧˇ ㄉㄥ ㄏㄨㄟ /拼音 : Lǐ Dēng huī )[1] は、中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )の政治 せいじ 家 か 、農業 のうぎょう 経済 けいざい 学者 がくしゃ 、宣教師 せんきょうし 。第 だい 4代 だい 中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう (7期 き 途中 とちゅう 昇格 しょうかく ・8期 き ・9期 き 、1988年 ねん - 2000年 ねん )。コーネル大学 だいがく 農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく 博士 はかせ 、拓殖大学 たくしょくだいがく 名誉 めいよ 博士 はかせ 。信仰 しんこう する宗教 しゅうきょう は台湾 たいわん 基督 きりすと 長老 ちょうろう 教会 きょうかい 。日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい に使用 しよう していた名 な は岩 いわ 里 さと 政男 まさお (いわさと まさお)。本省 ほんしょう 人 じん 初 はつ の中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう で、「台湾 たいわん 民主 みんしゅ 化 か の父 ちち 」と評価 ひょうか される[2] [3] 。日本 にっぽん においては、「22歳 さい まで日本人 にっぽんじん だった」の言葉 ことば や、日本語 にほんご が話 はな せることなどから親日 しんにち 家 いえ としても知 し られた[4] 。
蔣経国 こく を副 ふく 総統 そうとう として補佐 ほさ し、その死後 しご は後継 こうけい 者 しゃ として中華民国 ちゅうかみんこく の歴史 れきし 上 じょう 初 はじ めてとなる民選 みんせん 総統 そうとう であり、なおかつ本省 ほんしょう 人 じん 出身 しゅっしん 者 しゃ では初 はつ の総統 そうとう となった。中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう 、中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 主席 しゅせき に就任 しゅうにん し、台湾 たいわん の本土 ほんど 化 か を推進 すいしん した。
中華民国 ちゅうかみんこく が掲 かか げ続 つづ けてきた「反攻 はんこう 大陸 たいりく 」のスローガンを下 お ろし、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が中国 ちゅうごく 大陸 たいりく を有効 ゆうこう に支配 しはい していることを認 みと めると同時 どうじ に、台湾 たいわん ・澎湖 ・金 かね 門 もん ・馬 うま 祖 そ には中華民国 ちゅうかみんこく という別 べつ の国家 こっか が存在 そんざい すると主張 しゅちょう した(二 に 国論 こくろん )。国共 こっきょう 内戦 ないせん の一方 いっぽう 的 てき な終結 しゅうけつ 宣言 せんげん により[5] 、内戦 ないせん を口実 こうじつ にしてきた動員 どういん 戡乱時期 じき 臨時 りんじ 条 じょう 款 の廃止 はいし で中華民国 ちゅうかみんこく の民主 みんしゅ 化 か を実現 じつげん し、国家 こっか 統一 とういつ 綱領 こうりょう に基 もと づいて中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との統一 とういつ 交渉 こうしょう も開始 かいし しつつ、第 だい 三 さん 次 じ 台湾 たいわん 海峡 かいきょう 危機 きき では中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の軍事 ぐんじ 的 てき 圧 あつ 力 りょく に対 たい して中華民国 ちゅうかみんこく の独立 どくりつ を守 まも った。
総統 そうとう 職 しょく と国民党 こくみんとう 主席 しゅせき を退任 たいにん した後 のち は、「台湾 たいわん 」と名前 なまえ の付 つ いた初 はつ の政党 せいとう 、台湾 たいわん 団結 だんけつ 連盟 れんめい を自 みずか ら中心 ちゅうしん となって結成 けっせい し、台湾 たいわん 独立 どくりつ 運動 うんどう ・泛緑連盟 れんめい に影響 えいきょう を与 あた え続 つづ けていた。
兄 あに ・李 り 登 のぼる 欽との写真 しゃしん (1930年 ねん 頃 ごろ )
中学 ちゅうがく 時代 じだい の李 り 登輝 とうき
兄 あに ・李 り 登 のぼる 欽(左 ひだり )と李 り 登輝 とうき (右 みぎ )
台北 たいぺい 州 しゅう 淡水 たんすい 郡 ぐん 三 さん 芝 しば 庄 しょう (現在 げんざい の新北 しんきた 市 し 三 さん 芝 しば 区 く )埔坪村 むら の「源 みなもと 興 きょう 居 きょ 」で李 り 金 きむ 龍 りゅう と江 こう 錦 にしき の次男 じなん として生 う まれる。
父 ちち ・金 きむ 龍 りゅう は、警察 けいさつ 補 ほ として植民 しょくみん 地 ち 当局 とうきょく に出仕 しゅっし していた。2歳 さい 年上 としうえ の兄 あに 李 り 登 のぼる 欽(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) (日本 にっぽん 名 めい :岩 いわ 里 さと 武則 たけのり )は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で志願 しがん 兵 へい となるがフィリピン の前線 ぜんせん で行方 ゆくえ 不明 ふめい となり、大日本帝国 だいにっぽんていこく 海軍 かいぐん 二 に 等 とう 機関 きかん 兵 へい (戦死 せんし 後 ご 、「上等 じょうとう 機関 きかん 兵 へい 」)として戦死 せんし 通知 つうち されている。異母弟 いぼてい の李 り 炳男 は、貿易 ぼうえき 業 ぎょう に従事 じゅうじ した。
父方 ちちかた の李 り 一族 いちぞく は現在 げんざい の福建 ふっけん 省 しょう 永 えい 定 じょう から台湾 たいわん へ移住 いじゅう してきた客 きゃく 家 か の系譜 けいふ で、祖父 そふ の代 だい にはアヘン の販売 はんばい 権 けん を有 ゆう しており、経済 けいざい 的 てき に安定 あんてい した家庭 かてい 環境 かんきょう によって幼少 ようしょう の頃 ころ から教育 きょういく 環境 かんきょう に恵 めぐ まれていた。なお、母方 ははかた は閩南民 みん 系 けい であるうえ、一族 いちぞく も移住 いじゅう 後 ご に現地 げんち コミュニティと融合 ゆうごう していたことから、登輝 とうき 自身 じしん に客 きゃく 家 か としてのアイデンティティはあまりなかった。
公 おおやけ 学校 がっこう に入学 にゅうがく した登輝 とうき は、日本 にっぽん 名 めい 「岩 いわ 里 さと 政男 まさお 」を通称 つうしょう として父 ちち から授 さづ けられた。父 ちち の転勤 てんきん に伴 ともな い6歳 さい から12歳 さい まで汐止 しおとめ 公 こう 学校 がっこう 、南港 なんこう 公 こう 学校 がっこう 、三 さん 芝 しば 公 こう 学校 がっこう 、淡水 たんすい 公 こう 学校 がっこう と4度 ど の転校 てんこう を繰 く り返 かえ した。淡水 たんすい 公 こう 学校 がっこう 卒業 そつぎょう 後 ご は私立 しりつ 台北 たいぺい 国民 こくみん 中学 ちゅうがく (現在 げんざい の大同 だいどう 高級 こうきゅう 中学 ちゅうがく )に入学 にゅうがく したが、1年 ねん 後 ご の1938年 ねん に淡 あわ 江中 えなか 学校 がっこう へ転校 てんこう 。淡 あわ 江中 えなか 学校 がっこう では学業 がくぎょう に専念 せんねん し首席 しゅせき で卒業 そつぎょう 。卒業 そつぎょう 後 ご は台北 たいぺい 高等 こうとう 学校 がっこう に合格 ごうかく 。
当時 とうじ の「内 うち 台 だい 共学 きょうがく 」教育 きょういく により登輝 とうき は生涯 しょうがい 流暢 りゅうちょう な日本語 にほんご を話 はな し、後年 こうねん 行 おこな われた司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう との対談 たいだん においては「22歳 さい (1945年 ねん )までは日本人 にっぽんじん だった[8] 」と語 かた り、「難 むずか しいことは日本語 にほんご で考 かんが える」と公言 こうげん していた[9] 。中華民国 ちゅうかみんこく 籍 せき 取得 しゅとく 後 ご も、訪日 ほうにち 時 じ には日本語 にほんご を使用 しよう していた。
京都 きょうと 帝国 ていこく 大学 だいがく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
1942年 ねん 9月 、戦時 せんじ の在学 ざいがく 期間 きかん 短縮 たんしゅく 措置 そち により台北 たいぺい 高等 こうとう 学校 がっこう を卒業 そつぎょう 。同年 どうねん 10月 がつ 、現地 げんち の台北 たいぺい 帝国 ていこく 大学 だいがく には現地 げんち 人 じん に対 たい する入学 にゅうがく 制限 せいげん から進学 しんがく することがかなわず(一説 いっせつ には旅順 りょじゅん 工業 こうぎょう 大学 だいがく を受験 じゅけん したが合格 ごうかく しなかったとも)、本土 ほんど の京都 きょうと 帝国 ていこく 大学 だいがく 農学部 のうがくぶ 農業 のうぎょう 経済 けいざい 学科 がっか に進学 しんがく した。農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく を選択 せんたく した理由 りゆう として、本人 ほんにん によれば幼少 ようしょう 時 じ に小作 こさく 人 じん が苦 くる しんでいる不公平 ふこうへい な社会 しゃかい を目 ま の当 あ たりにした事 こと と、高校 こうこう 時代 じだい の歴史 れきし 教師 きょうし である塩見 しおみ 薫 かおる の影響 えいきょう によりマルクス主義 まるくすしゅぎ の唯物 ゆいぶつ 史観 しかん の影響 えいきょう を受 う けたこと、農業 のうぎょう 問題 もんだい は台湾 たいわん の将来 しょうらい と密接 みっせつ な関係 かんけい があると思 おも ったことを理由 りゆう として挙 あ げている[10] 。大学 だいがく 時代 じだい は自 みずか ら「農業 のうぎょう 簿記 ぼき 」を学 まな び、同時 どうじ にマルクス や河上 かわかみ 肇 はじめ などの社会 しゃかい 主義 しゅぎ 関連 かんれん の書籍 しょせき に親 した しんでいた[11] 。当時 とうじ の登輝 とうき は、台湾 たいわん よりも台湾 たいわん 人 じん に門戸 もんこ が開 ひら かれていた、満 まん 洲 しゅう で卒業 そつぎょう 後 ご に立身出世 りっしんしゅっせ を目指 めざ すことを考 かんが えていた。
旧 きゅう 日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 軍 ぐん 歴 れき [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん にほかの文科 ぶんか 系 けい 学生 がくせい と同 おな じように学徒 がくと 出陣 しゅつじん により出征 しゅっせい する[注釈 ちゅうしゃく 1] 。大阪 おおさか 師団 しだん に徴兵 ちょうへい 検査 けんさ 第 だい 一 いち 乙種 おつしゅ 合格 ごうかく (特別 とくべつ 甲種 こうしゅ 幹部 かんぶ 候補 こうほ 生 せい )で入隊 にゅうたい し、台湾 たいわん に一時 いちじ 帰 かえ って基礎 きそ 訓練 くんれん を終 お えた後 のち 日本 にっぽん に戻 もど り、その後 ご 千葉 ちば 陸軍 りくぐん 高射 こうしゃ 学校 がっこう に見習 みならい 士官 しかん として配属 はいぞく される[12] 。
その直後 ちょくご の1945年 ねん 3月 がつ 10日 とおか 、東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう に遭遇 そうぐう 。千葉 ちば の上空 じょうくう を通 とお って東京 とうきょう 方面 ほうめん に向 む かう米 べい 軍 ぐん 機 き に向 む けて高射 こうしゃ 砲 ほう を撃 う つ。爆 ばく 撃 げき で金属 きんぞく 片 へん が顔 かお をかすめたが無事 ぶじ だった。
大 だい 空襲 くうしゅう の翌日 よくじつ である3月11日 にち 、爆 ばく 撃 げき で戦死 せんし した小隊 しょうたい 長 ちょう に代 か わって被災 ひさい 地 ち で救援 きゅうえん を指揮 しき [12] 。
その後 ご 、終戦 しゅうせん を名古屋 なごや で迎 むか え、直後 ちょくご の昇進 しょうしん によりいわゆるポツダム少尉 しょうい となる。
召集 しょうしゅう された際 さい 、日本人 にっぽんじん の上官 じょうかん から「お前 まえ どこへ行 い く? 何 なん の兵 へい になるか?」と聞 き かれ、迷 まよ わず「歩兵 ほへい にしてください」と言 い い、加 くわ えて「二等兵 にとうへい にしてください」とまで要求 ようきゅう したところ、その上官 じょうかん から「どうしてそんなきついところへ行 い きたいのか」[注釈 ちゅうしゃく 2] と笑 わら われたという[13] 。
台湾 たいわん 大学 だいがく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
曽 そ 文恵 ふみえ と結婚 けっこん
1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち の日本 にっぽん の敗戦 はいせん とそれに伴 ともな う中華民国 ちゅうかみんこく による台湾 たいわん 接収 せっしゅう を受 う けて、中華民国 ちゅうかみんこく 籍 せき となる。登輝 とうき は京大 きょうだい に復学 ふくがく して学業 がくぎょう を継続 けいぞく するか悩 なや んだ後 のち 、新生 しんせい 台湾 たいわん 建設 けんせつ に貢献 こうけん すべく帰国 きこく を決意 けつい する。日本 にっぽん 軍 ぐん が台湾 たいわん から撤退 てったい した後 のち の1946年 ねん 春 はる に台湾 たいわん へ帰 かえ り、同年 どうねん 夏 なつ に台湾 たいわん 大学 だいがく 農学部 のうがくぶ 農業 のうぎょう 経済 けいざい 学科 がっか に編入 へんにゅう 学 がく した。
呉 ご 克 かつ 泰 やすし の証言 しょうげん では、登輝 とうき は、彼 かれ の要請 ようせい を受 う けて、台湾 たいわん に帰国 きこく 後 ご 間 あいだ もない1946年 ねん 9月 がつ に中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう に入党 にゅうとう 。同年 どうねん 発生 はっせい した米 べい 軍 ぐん 兵士 へいし による北京 ぺきん 大学生 だいがくせい 強姦 ごうかん 事件 じけん (沈崇事件 じけん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) )に抗議 こうぎ する反米 はんべい デモや翌 よく 1947年 ねん の国民党 こくみんとう による二 に ・二 に 八 はち 事件 じけん に反発 はんぱつ する暴動 ぼうどう などに参加 さんか した。二 に ・二 に 八 はち 事件 じけん では登輝 とうき は台湾 たいわん 人 じん および日本人 にっぽんじん としての経歴 けいれき から、この事件 じけん で粛清 しゅくせい の対象 たいしょう になる可能 かのう 性 せい が高 たか かったため、知人 ちじん の蔵 ぞう に匿 かくま われた[15] 。この頃 ころ の登輝 とうき については、複数 ふくすう の証言 しょうげん があるが、共産 きょうさん 党員 とういん としての活動 かつどう 期間 きかん は概 おおむ ね2年間 ねんかん とされる[17] 。
ただ、李 り 登輝 とうき 本人 ほんにん は、自身 じしん の著書 ちょしょ 「新 しん ・台湾 たいわん の主張 しゅちょう 」の74ページ1〜3行 ぎょう 目 め で、「なお、台湾 たいわん のいわゆる大陸 たいりく よりのメディアである『中国時報 ちゅうごくじほう 』が、過去 かこ 、李 り 登輝 とうき が共産党 きょうさんとう に二 に 回 かい 入党 にゅうとう し、二 に 回 かい 脱退 だったい したという虚報 きょほう を流 なが したことがある。共産党 きょうさんとう のような恐 おそ ろしい組織 そしき に入 はい って無事 ぶじ に出 で てこられるはずがない。全 まった くの事実無根 じじつむこん である。」と述 の べ、共産党 きょうさんとう に所属 しょぞく したという見解 けんかい を全面 ぜんめん 的 てき に否定 ひてい している。
このことに関 かん して、共産 きょうさん 党員 とういん になるには党 とう 組織 そしき による観察 かんさつ が一 いち 年 ねん 以上 いじょう 必要 ひつよう なので、台湾 たいわん に引 ひ き揚 あ げてから二 に ・二 に 八 はち 事件 じけん が発生 はっせい するまでに共産 きょうさん 党員 とういん になるのは不可能 ふかのう だとする意見 いけん もあったが[18] 、2002年 ねん に行 おこな われたインタビューで、登輝 とうき 自身 じしん がかつて共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ であったことを認 みと めた。登輝 とうき は同 どう インタビューの中 なか で、「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 理論 りろん をよく理解 りかい しており、共産 きょうさん 主義 しゅぎ は失敗 しっぱい する運命 うんめい にあることを知 し っているので、共産 きょうさん 主義 しゅぎ には長 なが い間 あいだ 反対 はんたい していた」と述 の べた。さらに自身 じしん の国民党 こくみんとう への強 つよ い憎悪 ぞうお のために共産 きょうさん 主義 しゅぎ に傾倒 けいとう したとも述 の べている[19] 。また、当時 とうじ 毛沢東 もうたくとう が唱 とな えていた新 しん 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を研究 けんきゅう していた新 しん 民主 みんしゅ 同志 どうし 會 かい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) に所属 しょぞく して後 のち にこの組織 そしき が共産党 きょうさんとう に引 ひ き継 つ がれてから「離党 りとう 」したので「入党 にゅうとう 」ではないと疑惑 ぎわく を否定 ひてい した[20] 。
1948年 ねん に農学 のうがく 士 し の称号 しょうごう を得 え る。1949年 ねん 8月 がつ 、台湾 たいわん 大学 だいがく を卒業 そつぎょう し、同 どう 大学 だいがく 農学部 のうがくぶ の助手 じょしゅ として採用 さいよう された。同年 どうねん 2月 がつ には、淡水 たんすい の地主 じぬし の娘 むすめ であり、台北 たいぺい 第 だい 二 に 女子 じょし 中学 ちゅうがく (日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい は台北 たいぺい 第 だい 三高 さんこう 女 おんな と称 しょう し現在 げんざい は台北 たいぺい 市立 しりつ 中山 なかやま 女子 じょし 高級 こうきゅう 中学 ちゅうがく )の曽 そ 文恵 ふみえ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) と見合 みあ いにより結婚 けっこん 。なお、1949年 ねん は国共 こっきょう 内戦 ないせん での中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん の敗北 はいぼく が明 あき らかとなり蔣介石 せき 政権 せいけん が台湾 たいわん に逃 のが れてきた時期 じき にあたり、5月19日 にち には戒厳 かいげん 令 れい が台湾 たいわん 全域 ぜんいき に施行 しこう され、登輝 とうき も9月 がつ に台湾 たいわん 省 しょう 警備 けいび 総 そう 司令 しれい 部 ぶ による検挙 けんきょ を受 う けた。
アメリカ留学 りゅうがく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
1950年 ねん に長男 ちょうなん 李 り 憲 けん 文 ぶん をもうけ、1952年 ねん に中 ちゅう 美 び (米 べい )基金 ききん 奨学 しょうがく 金 きん を獲得 かくとく しアメリカ に留学 りゅうがく 、アイオワ州立 しゅうりつ 大学 だいがく で農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく を研究 けんきゅう した。1953年 ねん に修士 しゅうし 学位 がくい を獲得 かくとく して帰国 きこく 、台湾 たいわん 省 しょう 農林 のうりん 庁 ちょう 技 わざ 正 ただし (技師 ぎし )兼 けん 農業 のうぎょう 経済 けいざい 分析 ぶんせき 係長 かかりちょう に就任 しゅうにん する傍 かたわ ら、台湾 たいわん 大学 だいがく の講師 こうし として勤務 きんむ することになった。
その後 ご 1957年 ねん に中国 ちゅうごく 農業 のうぎょう 復興 ふっこう 聯合 れんごう 委員 いいん 会 かい (農 のう 復 ふく 会 かい )に就職 しゅうしょく 、研究 けんきゅう 職 しょく としての職歴 しょくれき を重 かさ ねた。同時 どうじ に台湾 たいわん 大学 だいがく 助教授 じょきょうじゅ を兼任 けんにん した。1961年 ねん にキリスト教 きりすときょう に入信 にゅうしん する。
家族 かぞく 写真 しゃしん (1964年 ねん )
1965年 ねん 、ロックフェラー財団 ざいだん 及 およ びコーネル大学 だいがく の奨学 しょうがく 金 きん を得 え てコーネル大学 だいがく に留学 りゅうがく する。同 どう 大学 だいがく では農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく を専攻 せんこう する。1968年 ねん 5月にPh.D. (農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく 専攻 せんこう )を取得 しゅとく 。その博士 はかせ 論文 ろんぶん Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 (1895年 ねん から1960年 ねん の台湾 たいわん の経済 けいざい 発展 はってん におけるセクター間 あいだ の資本 しほん の流 なが れ)は全米 ぜんべい 農業 のうぎょう 経済 けいざい 学科 がっか 賞 しょう を受賞 じゅしょう し[22] 、1971年 ねん にコーネル大学 だいがく 出版 しゅっぱん 社 しゃ から出版 しゅっぱん されている。博士 はかせ 号 ごう を受 う けて1968年 ねん 7月 がつ に台湾 たいわん に帰国 きこく 、台湾 たいわん 大学 だいがく 教授 きょうじゅ 兼 けん 農 のう 復 ふく 会 かい 技 わざ 正 ただし (技師 ぎし )に就任 しゅうにん した。
この当時 とうじ 42歳 さい で、留学生 りゅうがくせい の間 あいだ では最年長 さいねんちょう だった彼 かれ は、週末 しゅうまつ になると若 わか い学生 がくせい を自宅 じたく に招 まね き、ステーキ をふるまうことが多 おお かった。そのため、当時 とうじ のあだ名 な が「牛 うし 排 はい 李 り 」(ビーフステーキの李 り )だったというエピソードがある。このころ彼 かれ の家 いえ に招待 しょうたい されていた者 もの の中 なか に、後 のち に蔣経国 こく 暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん を起 お こす黄 き 文雄 ふみお ・鄭 てい 自 じ 才 ざい がおり、このことが後述 こうじゅつ するタイ への出国 しゅっこく 不 ふ 許可 きょか につながることになる。
政界 せいかい 進出 しんしゅつ [ 編集 へんしゅう ]
1969年 ねん 6月 がつ 、登輝 とうき は憲兵 けんぺい に連行 れんこう されて警備 けいび 総 そう 司令 しれい 部 ぶ の取調 とりしら べを受 う ける。最初 さいしょ の取調 とりしら べは17時 じ 間 あいだ にも及 およ びその後 ご 1週間 しゅうかん 拘束 こうそく された。この経験 けいけん から李 り 登輝 とうき は台湾 たいわん 人 じん を白色 はくしょく テロ の恐怖 きょうふ から救 すく うことを決心 けっしん したと後年 こうねん 述 の べている。このとき、彼 かれ の経歴 けいれき を洗 あら いざらい調 しら べた警官 けいかん に「お前 まえ みたいな奴 やつ なんか蔣経国 こく しか使 つか わない」と罵 ののし られたという[24] [25] 。1970年 ねん 、国際 こくさい 連合 れんごう 開発 かいはつ 計画 けいかく の招待 しょうたい によりタイ・バンコク で農業 のうぎょう 問題 もんだい の講演 こうえん を依頼 いらい されたが、同年 どうねん 4月 がつ に蔣介石 せき の息子 むすこ で当時 とうじ 行政 ぎょうせい 院 いん 副 ふく 院長 いんちょう の役職 やくしょく にあった蔣経国 こく の暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん が発生 はっせい し、犯人 はんにん の黄 き 文雄 ふみお とアメリカ留学 りゅうがく 時代 じだい に交流 こうりゅう があったため政府 せいふ は「観察 かんさつ 中 ちゅう 」との理由 りゆう で出国 しゅっこく を認 みと めなかった[27] 。
この時期 じき 農 のう 復 ふく 会 かい の上司 じょうし であった沈宗瀚 (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) と徐 じょ 慶 けい 鐘 かね (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 、または蒋経国 しょうけいこく 側近 そっきん の王 おう 昇 のぼる (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) ・李 り 煥(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の推挙 すいきょ により、1971年 ねん 8月 がつ (または1970年 ねん )に専門 せんもん 家 か として蔣経国 こく に農業 のうぎょう 問題 もんだい に関 かん する報告 ほうこく を行 おこな う機会 きかい を得 え て、その知遇 ちぐう を得 え ることになった。そして蔣経国 こく により国民党 こくみんとう への入党 にゅうとう を勧誘 かんゆう され、同年 どうねん 10月 がつ 、経済 けいざい 学者 がくしゃ の王 おう 作 さく 栄 さかえ の紹介 しょうかい により国民党 こくみんとう に入党 にゅうとう している[28] 。
行政 ぎょうせい 院長 いんちょう に就任 しゅうにん した蔣経国 こく は本省 ほんしょう 人 じん エリートの登用 とうよう を積極 せっきょく 的 てき に行 おこな い、登輝 とうき は無任所 むにんしょ 大臣 だいじん に当 あ たる政務 せいむ 委員 いいん として入閣 にゅうかく した。この時 とき 49歳 さい であり、当時 とうじ 最年少 さいねんしょう での入閣 にゅうかく であった。以降 いこう 6年間 ねんかん 、農業 のうぎょう 専 せん 門 もん の行政 ぎょうせい 院 いん 政務 せいむ 委員 いいん として活動 かつどう した。
共同 きょうどう で収穫 しゅうかく 作業 さぎょう をする李 り 登輝 とうき (1980年 ねん )
その後 ご 1978年 ねん 、蔣経国 こく により台北 たいぺい 市長 しちょう に任命 にんめい される。市長 しちょう としては「台北 たいぺい 芸術 げいじゅつ 祭 さい 」に力 ちから を入 い れた。また、水不足 みずぶそく 問題 もんだい の解決 かいけつ 等 とう に尽力 じんりょく し、台北 たいぺい の水瓶 みずがめ である翡翠 かわせみ ダムの建設 けんせつ を行 おこな った。さらに1981年 ねん には台湾 たいわん 省 しょう 政府 せいふ 主席 しゅせき に任命 にんめい される。省 しょう 主席 しゅせき としては「八 はち 万 まん 農業 のうぎょう 大軍 たいぐん 」を提唱 ていしょう し、農業 のうぎょう の発展 はってん と稲作 いなさく 転作 てんさく などの政策 せいさく を推進 すいしん した。この間 あいだ の登輝 とうき は、派閥 はばつ にも属 ぞく さず権力 けんりょく 闘争 とうそう とも無縁 むえん で、蒋経国 しょうけいこく を始 はじ めとする上司 じょうし や政府 せいふ 中枢 ちゅうすう の年配 ねんぱい 者 しゃ の忠実 ちゅうじつ な部下 ぶか に徹 てっ した。
1984年 ねん 、蔣経国 こく により副 ふく 総統 そうとう 候補 こうほ に指名 しめい され、第 だい 1回 かい 国民 こくみん 大会 たいかい 第 だい 7回 かい 会議 かいぎ で行 おこな われた選挙 せんきょ の結果 けっか 、第 だい 7期 き 中華民国 ちゅうかみんこく 副 ふく 総統 そうとう に就任 しゅうにん した。蔣経国 こく が登輝 とうき を副 ふく 総統 そうとう に抜擢 ばってき したことについて登輝 とうき 自身 じしん は「私 わたし は蔣経国 こく の副 ふく 総統 そうとう であるが、彼 かれ が計画 けいかく 的 てき に私 わたし を後継 こうけい 者 しゃ として選 えら んだのかどうかは、本当 ほんとう に知 し らない。しかし、私 わたし は結局 けっきょく 彼 かれ の後 のち を引 ひ き継 つ いだのであり、これこそは歴史 れきし の偶然 ぐうぜん なのである。」と語 かた っている[30] 。1982年 ねん に長男 ちょうなん の憲 けん 文 ぶん を上 うえ 咽頭 いんとう 癌 がん により32歳 さい の若 わか さで喪 うしな う不孝 ふこう に見舞 みま われているが[注釈 ちゅうしゃく 3] 、その子 こ ・坤 ひつじさる 儀 ぎ も女児 じょじ であり、李 り 家 か を継 つ ぐ男児 だんじ がいなくなったことから、蒋経国 しょうけいこく の警戒 けいかい を解 と き、側近 そっきん 中 ちゅう の側近 そっきん といわれていながらも左遷 させん された王 おう 昇 のぼる らとの明暗 めいあん を分 わ けたともいわれる。
中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう として[ 編集 へんしゅう ]
総統 そうとう に就任 しゅうにん した李 り 登輝 とうき (1988年 ねん )
継承 けいしょう 第 だい 7期 き 総統 そうとう (1988年 ねん - 1990年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1988年 ねん 1月 がつ 13日 にち 、蔣経国 こく が死去 しきょ [33] 。蔣経国 こく は臨終 りんじゅう の間際 まぎわ に登輝 とうき を呼 よ び出 だ したが、秘書 ひしょ の取次 とりつぎ ミスにより、臨終 りんじゅう には立 た ち会 あ えなかった。任期 にんき 中 ちゅう に総統 そうとう が死去 しきょ すると副 ふく 総統 そうとう が継承 けいしょう するとする中華民国 ちゅうかみんこく 憲法 けんぽう 第 だい 49条 じょう の規定 きてい により、登輝 とうき が総統 そうとう に就任 しゅうにん する[34] 。国民党 こくみんとう 主席 しゅせき 代行 だいこう に就任 しゅうにん することに対 たい しては蔣介石 せき の妻 つま ・宋 そう 美 よし 齢 よわい が躊躇 ちゅうちょ し主席 しゅせき 代行 だいこう 選出 せんしゅつ の延期 えんき を要請 ようせい したが、当時 とうじ 若手 わかて 党員 とういん だった宋 そう 楚瑜 そゆ が早期 そうき 選出 せんしゅつ を促 うなが す発言 はつげん をしたこともあり主席 しゅせき 代行 だいこう に就任 しゅうにん する。7月 がつ には第 だい 13回 かい 国民党 こくみんとう 全国 ぜんこく 代表 だいひょう 大会 たいかい で正式 せいしき に党 とう 主席 しゅせき に就任 しゅうにん した。
しかし登輝 とうき の政権 せいけん 基盤 きばん は確固 かっこ としたものではなく、李 り 煥・郝柏 かしわ 村 むら ・兪国華 こっか (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) ら党内 とうない 保守 ほしゅ 派 は がそれぞれ党 とう ・軍 ぐん ・政府 せいふ (行政 ぎょうせい 院 いん )の実権 じっけん を掌握 しょうあく していた。この後 のち 、登輝 とうき はこれらの実力 じつりょく 者 しゃ を牽制 けんせい しつつ、微妙 びみょう なバランスの中 なか で政権 せいけん 運営 うんえい を行 おこな っていった。
1989年 ねん には党 とう 秘書 ひしょ 長 ちょう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の李 り 煥と行政 ぎょうせい 院長 いんちょう の兪国華 こっか を争 あらそ わせて兪を追 お い落 お とし、その後釜 あとがま に李 り 煥を就任 しゅうにん させた。この時 とき 、後任 こうにん の秘書 ひしょ 長 ちょう に登輝 とうき の国民党 こくみんとう 主席 しゅせき 就任 しゅうにん を支持 しじ した宋 そう 楚瑜 そゆ を据 す えた。
第 だい 8期 き 総統 そうとう (1990年 ねん - 1996年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
「万 まん 年 ねん 国会 こっかい 」解消 かいしょう [ 編集 へんしゅう ]
1990年 ねん 5月 に登輝 とうき の代理 だいり 総統 そうとう の任期 にんき が切 き れるため、総統 そうとう 選挙 せんきょ が行 おこな われることになった。
党 とう の中央 ちゅうおう 常務 じょうむ 委 い により1月 がつ 31日 にち に登輝 とうき を党 とう 推薦 すいせん の総統 そうとう 候補 こうほ にすることが決定 けってい され、登輝 とうき が誰 だれ を副 ふく 総統 そうとう 候補 こうほ に指名 しめい するか注目 ちゅうもく されたが、登輝 とうき が2月 がつ に指名 しめい したのは、李 り 煥などの実力 じつりょく 者 しゃ でなく総統 そうとう 府 ふ 秘書 ひしょ 長 ちょう の李 り 元 もと 簇 むらが だった[37] 。
これに反発 はんぱつ した党内 とうない 元老 げんろう らは党 とう 推薦 すいせん 候補 こうほ を確定 かくてい する臨時 りんじ 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 全体 ぜんたい 会議 かいぎ で決定 けってい を覆 くつがえ すことを画策 かくさく し、これに李 り 煥・郝柏 かしわ 村 むら らも同調 どうちょう した。反 はん 李 り 登輝 とうき 派 は は、投票 とうひょう 方式 ほうしき を当日 とうじつ に従来 じゅうらい の「起立 きりつ 方式 ほうしき 」から「無 む 記名 きめい 投票 とうひょう 方式 ほうしき 」へ変更 へんこう したうえで造反 ぞうはん した人物 じんぶつ を特定 とくてい されずに正 せい 副 ふく 総統 そうとう 候補 こうほ の選任 せんにん 案 あん を否決 ひけつ しようとしたが、李 り 登輝 とうき 派 は がこの動 うご きを察知 さっち してマスコミにリークして牽制 けんせい 、登輝 とうき は李 り 元 もと 簇 むらが とともに党 とう の推薦 すいせん を受 う けることに成功 せいこう した[37] 。
その後 ご も反 はん 李 り 登輝 とうき 派 は は、台北 たいぺい 市長 しちょう ・台湾 たいわん 省 しょう 主席 しゅせき で登輝 とうき の前任 ぜんにん 者 しゃ でもあった本省 ほんしょう 人 じん の林 はやし 洋 ひろし 港 こう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を総裁 そうさい 候補 こうほ に、蒋経国 しょうけいこく の義弟 ぎてい である蒋緯国 こく を副 ふく 総統 そうとう 候補 こうほ に擁立 ようりつ し、国民 こくみん 大会 たいかい で争 あらそ う構 かま えを見 み せた(このときの総裁 そうさい 選挙 せんきょ は、国民 こくみん 大会 たいかい 代表 だいひょう による間接 かんせつ 選挙 せんきょ 方式 ほうしき であった)。かつて登輝 とうき を支持 しじ した趙 ちょう 少 しょう 康 やすし ら党内 とうない 改革 かいかく 派 は も「李 り 登輝 とうき 独裁 どくさい 」を批判 ひはん したが、政治 せいじ 改革 かいかく を支持 しじ する世論 せろん に支 ささ えられた登輝 とうき は票 ひょう を固 かた め、党内 とうない 元老 げんろう の調停 ちょうてい の結果 けっか 、林 はやし 洋 ひろし 港 こう ・蒋緯国 こく いずれも不 ふ 出馬 しゅつば を表明 ひょうめい した[38] 。
一連 いちれん の「2月 がつ 政争 せいそう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 」を制 せい した登輝 とうき は党内 とうない 地位 ちい を確固 かっこ たるものとし、3月21日 にち の国民 こくみん 大会 たいかい において信任 しんにん 投票 とうひょう により登輝 とうき と李 り 元 もと 簇 むら が総統 そうとう ・副 ふく 総統 そうとう にそれぞれ選出 せんしゅつ された[38] 。
同 どう 時期 じき 、台湾 たいわん では民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう が活発 かっぱつ 化 か しており、国民 こくみん 政府 せいふ 台湾 たいわん 移転 いてん 後 ご 一 いち 度 ど も改選 かいせん されることのなかった民意 みんい 代表 だいひょう 機関 きかん である国民 こくみん 大会 たいかい 代表 だいひょう 及 およ び立法 りっぽう 委員 いいん 退職 たいしょく と全面 ぜんめん 改選 かいせん を求 もと める声 こえ が強 つよ まっていた。1989年 ねん に国民 こくみん 大会 たいかい で、台湾 たいわん への撤退 てったい 前 まえ に大陸 たいりく で選出 せんしゅつ されて以来 いらい 居座 いすわ り続 つづ ける、「万 まん 年 ねん 議員 ぎいん 」の自主 じしゅ 退職 たいしょく 条例 じょうれい を可決 かけつ させていたが、1990年 ねん 3月16日 にち 、退職 たいしょく と引 ひ き換 か えに高額 こうがく の退職 たいしょく 金 きん や年金 ねんきん を要求 ようきゅう する国民 こくみん 大会 たいかい の万 まん 年 ねん 議員 ぎいん への反発 はんぱつ から、「三 さん 月 がつ 学 がく 運 うん 」が発生 はっせい した。登輝 とうき は学生 がくせい 運動 うんどう の代表 だいひょう 者 しゃ や民主進歩党 みんしゅしんぽとう (民進党 みんしんとう )の黄 き 信介 しんすけ 主席 しゅせき らと会談 かいだん し、彼 かれ らが要求 ようきゅう した国是 こくぜ 会議 かいぎ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の開催 かいさい と憲法 けんぽう 改正 かいせい への努力 どりょく を約束 やくそく した。第 だい 8代 だい 総統 そうとう に就任 しゅうにん した当日 とうじつ の5月 がつ 20日 はつか には、「早期 そうき に動員 どういん 戡乱時期 じき (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を終結 しゅうけつ させる」と言明 げんめい し、1979年 ねん の美麗 びれい 島 とう 事件 じけん で反乱 はんらん 罪 ざい に問 と われた民主 みんしゅ 活動 かつどう 家 か や弁護士 べんごし など、政治 せいじ 犯 はん への特赦 とくしゃ や公民 こうみん 権 けん 回復 かいふく を実施 じっし した[41] 。
6月 がつ に朝野 ちょうや の各党 かくとう 派 は の代表 だいひょう 者 しゃ を招 まね き「国是 こくぜ 会議 かいぎ 」が開催 かいさい され、各界 かくかい の憲政 けんせい 改革 かいかく に対 たい する意見 いけん を求 もと めた。
国是 こくぜ 会議 かいぎ の議論 ぎろん に基 もと づいて、1991年 ねん 5月1日 にち をもって動員 どういん 戡乱時期 じき 臨時 りんじ 条 じょう 款 は廃止 はいし され(戒厳 かいげん 体制 たいせい の完全 かんぜん 解除 かいじょ )、中華民国 ちゅうかみんこく 憲法 けんぽう 増 ぞう 修 おさむ 条文 じょうぶん により初 はじ めて中華民国 ちゅうかみんこく 憲法 けんぽう を改正 かいせい した。これにより国民 こくみん 大会 たいかい と立法院 りっぽういん の解散 かいさん を決定 けってい し、この2つの民意 みんい 代表 だいひょう 機関 きかん の改選 かいせん を実施 じっし することになった。これによって、「万 まん 年 ねん 議員 ぎいん 」は全員 ぜんいん 退職 たいしょく し、同年 どうねん 12月 に国民 こくみん 大会 たいかい 、翌 よく 1992年 ねん 12月に立法 りっぽう 議員 ぎいん の全面 ぜんめん 改選 かいせん が行 おこな われ「万 まん 年 ねん 国会 こっかい 」問題 もんだい は解決 かいけつ された[43] 。
総統 そうとう 直接 ちょくせつ 民選 みんせん [ 編集 へんしゅう ]
家族 かぞく 写真 しゃしん (1992年 ねん 撮影 さつえい )
二 に ・二 に 八 はち 事件 じけん 紀 き 念 ねん 碑 ひ の落成 らくせい 式典 しきてん で頭 あたま を垂 た れる李 り 登輝 とうき (1995年 ねん )
1991年 ねん 6月 がつ 、登輝 とうき は対立 たいりつ が決定的 けっていてき になった李 り 煥に代 か わって郝柏 かしわ 村 むら を行政 ぎょうせい 院長 いんちょう に指名 しめい した。郝も先 さき の総統 そうとう 選挙 せんきょ では「李 り 登輝 とうき おろし」に関 かか わっており、台湾 たいわん 世論 せろん では驚 おどろ きをもって受 う け止 と められ、民進党 みんしんとう や改革 かいかく 派 は は三軍 さんぐん に絶大 ぜつだい な影響 えいきょう 力 りょく を持 も つ実力 じつりょく 者 しゃ の指名 しめい を「軍人 ぐんじん の政治 せいじ 干渉 かんしょう 」として反発 はんぱつ した。当時 とうじ 登輝 とうき は治安 ちあん 回復 かいふく などを郝指名 めい の理由 りゆう としたが、真 しん の狙 ねら いは「国民党 こくみんとう の支配 しはい 下 か にあった軍 ぐん を国家 こっか のものにすること」にあった。実際 じっさい 、登輝 とうき はシビリアン・コントロール(文民 ぶんみん 統制 とうせい )の原則 げんそく に従 したが って郝を国軍 こくぐん から退役 たいえき させたため、郝の国軍 こくぐん に対 たい する影響 えいきょう 力 りょく が弱 よわ まり、国軍 こくぐん の主導 しゅどう 権 けん も登輝 とうき が握 にぎ ることになる[44] 。その後 ご 、登輝 とうき と事実 じじつ 上 じょう の共闘 きょうとう 関係 かんけい を結 むす んでいた民進党 みんしんとう が郝を攻撃 こうげき し、離間 りかん により李 り 煥と連携 れんけい できない郝は守旧 しゅきゅう 派 は をまとめられずに1993年 ねん に総 そう 辞職 じしょく に追 お い込 こ まれた。登輝 とうき は後任 こうにん の行政 ぎょうせい 院長 いんちょう に側近 そっきん の連戦 れんせん を据 す え、行政 ぎょうせい 院 いん の主導 しゅどう 権 けん も握 にぎ った[44] 。
権力 けんりょく を掌握 しょうあく した登輝 とうき は、より一層 いっそう の民主 みんしゅ 化 か を推進 すいしん していくことになる。1992年 ねん には「陰謀 いんぼう 犯 はん 」による内乱 ないらん 罪 ざい を規定 きてい していた刑法 けいほう 100条 じょう を立法院 りっぽういん で修正 しゅうせい させて、「台湾 たいわん 独立 どくりつ 」などの主張 しゅちょう を公 おおやけ にすることを可能 かのう にし、その後 ご 海外 かいがい にいた独立 どくりつ 活動 かつどう 家 か らも無罪 むざい にされた[25] 。
この民主 みんしゅ 化 か は「静 しず かな革命 かくめい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれ[45] 、李 り 登輝 とうき は「民主 みんしゅ 先生 せんせい (ミスター・デモクラシー)」とも呼 よ ばれた[46] 。李 り 登輝 とうき は司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう との対談 たいだん で、「夜 よる ろくろく寝 ね ることができなかった。子孫 しそん をそういう目 め に二度 にど と遭 あ わせたくない」と述 の べており、台湾 たいわん 人 じん を苦 くる しめた法律 ほうりつ 、組織 そしき を次々 つぎつぎ と廃止 はいし 、蔣介石 せき の残党 ざんとう を巧 たく みに追放 ついほう し、野党 やとう の民進党 みんしんとう を育 そだ て、民主 みんしゅ 化 か を進 すす めた[47] 。
1994年 ねん 3月31日 にち に発生 はっせい した千島湖 ちしまこ 事件 じけん について、「中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の行為 こうい は土匪 どひ と同 おな じだ。人民 じんみん はこんな政府 せいふ をもっと早 はや く唾棄 だき すべきだった」「(事件 じけん について穏便 おんびん に言 い った方 ほう がよいという意見 いけん に対 たい して)こんなときはガツンとやるに限 かぎ るんだ。そうすると中国人 ちゅうごくじん はおとなしくなる。下手 へた に出 で るとつけあがるよ。日本 にっぽん は中国 ちゅうごく に遠慮 えんりょ して、つけあがらせてばかりじゃないか」と述 の べており、土匪 どひ という激烈 げきれつ な言葉 ことば で中国 ちゅうごく を激 はげ しく批判 ひはん したことから、台湾 たいわん で波紋 はもん を呼 よ び、中国 ちゅうごく からの武力 ぶりょく 攻撃 こうげき を心配 しんぱい する声 こえ もあったが、その後 ご 、中国 ちゅうごく の李 り 鵬 ほう 首相 しゅしょう が陳謝 ちんしゃ し、哀悼 あいとう の言葉 ことば を述 の べている[47] 。
1994年 ねん 7月 がつ 、台湾 たいわん 省 しょう ・台北 たいぺい 市 し ・高 こう 雄市 ゆういち での首長 しゅちょう 選挙 せんきょ を決定 けってい し、同年 どうねん 12月 がつ に選挙 せんきょ が実施 じっし された。さらに登輝 とうき は総統 そうとう 直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ の実現 じつげん に向 む けて行動 こうどう した。しかし国民党 こくみんとう が提出 ていしゅつ した総統 そうとう 選挙 せんきょ 草案 そうあん は、有権者 ゆうけんしゃ が選出 せんしゅつ する代理人 だいりにん が総統 そうとう を選出 せんしゅつ するというアメリカ方式 ほうしき の間接 かんせつ 選挙 せんきょ を提案 ていあん するものであった。それでも登輝 とうき はフランス 方式 ほうしき の直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ を主張 しゅちょう し、1994年 ねん 7月 がつ に開催 かいさい された国民 こくみん 大会 たいかい において、第 だい 9期 き 総統 そうとう より直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ を実施 じっし することが賛成 さんせい 多数 たすう で決定 けってい された。同時 どうじ に総統 そうとう の「1期 き 4年 ねん ・連続 れんぞく 2期 き 」の制限 せいげん を付 ふ し独裁 どくさい 政権 せいけん の発生 はっせい を防止 ぼうし する規定 きてい を定 さだ めた。
第 だい 9期 き 総統 そうとう (1996年 ねん - 2000年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
ドイチェ・ヴェレ の取材 しゅざい を受 う ける李 り 登輝 とうき (1999年 ねん )
1996年 ねん 、初 はじ めての総統 そうとう 直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ が実施 じっし される。この選挙 せんきょ に際 さい して中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は台湾 たいわん の独立 どくりつ を推進 すいしん するものと反発 はんぱつ し、総統 そうとう 選挙 せんきょ に合 あ わせて「海峡 かいきょう 九 きゅう 六 ろく 一 いち 」と称 しょう される軍事 ぐんじ 演習 えんしゅう を実施 じっし 、ミサイル発射 はっしゃ 実験 じっけん をおこなった。アメリカは2隻 せき の航空 こうくう 母艦 ぼかん を台湾 たいわん 海峡 かいきょう に派遣 はけん して中国 ちゅうごく を牽制 けんせい し、両 りょう 岸 きし の緊張 きんちょう 度 ど が一気 いっき に高 たか まった(第 だい 三 さん 次 じ 台湾 たいわん 海峡 かいきょう 危機 きき )。北京 ぺきん 政府 せいふ の意図 いと に反 はん して、これらの圧力 あつりょく は却 かえ って台湾 たいわん への国際 こくさい 的 てき な同情 どうじょう と登輝 とうき への台湾 たいわん 国民 こくみん の支持 しじ を誘 さそ う結果 けっか となり、登輝 とうき は54.0%の得票 とくひょう 率 りつ で当選 とうせん して台湾 たいわん 史上 しじょう 初 はつ の民選 みんせん 総統 そうとう として第 だい 9期 き 総統 そうとう に就任 しゅうにん した。「民主 みんしゅ の大 おお いなる門 もん が、たった今 いま 、台湾 たいわん ・澎湖・金 かね 門 もん ・馬 うま 祖 そ 地区 ちく で開 ひら かれた」と声明 せいめい を読 よ み上 あ げた後 のち 、「三 さん 民主 みんしゅ 義 よし 万歳 ばんざい 、中華民国 ちゅうかみんこく 万歳 ばんざい 、台湾 たいわん 人民 じんみん 万 まん 歳 さい 」と締 し めくくって大 だい 歓声 かんせい を浴 あ びた登輝 とうき は、政治 せいじ 家 か としての絶頂 ぜっちょう 期 き を迎 むか える[48] 。
総統 そうとう に再任 さいにん 後 ご は行政 ぎょうせい 改革 かいかく を進 すす めた。1996年 ねん 12月に「国家 こっか 発展 はってん 会議 かいぎ 」(国是 こくぜ 会議 かいぎ から改称 かいしょう )を開催 かいさい したが、この会議 かいぎ の議論 ぎろん に基 もと づいて1997年 ねん に憲法 けんぽう を改正 かいせい し、台湾 たいわん 省 しょう を凍結 とうけつ (地方 ちほう 政府 せいふ としての機能 きのう を停止 ていし )することが決定 けってい された。これによって台湾 たいわん 省 しょう 政府 せいふ は事実 じじつ 上 じょう 廃止 はいし となった。
2000年 ねん の総統 そうとう 選挙 せんきょ では自身 じしん の後継 こうけい 者 しゃ として副 ふく 総統 そうとう の連戦 れんせん を推薦 すいせん して選挙 せんきょ 支援 しえん を行 おこ なうが、この選挙 せんきょ では国民党 こくみんとう を離党 りとう した宋 そう 楚瑜 そゆ が総統 そうとう 選 せん に参加 さんか したことから、国民党 こくみんとう 票 ひょう が分裂 ぶんれつ 、最終 さいしゅう 的 てき には民進党 みんしんとう 候補 こうほ の陳 ちん 水 みず 扁 ひらた が当選 とうせん し、第 だい 10期 き 中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう に就任 しゅうにん した。これにより台湾 たいわん に平和 へいわ 的 てき な政権 せいけん 移譲 いじょう を実現 じつげん したが、野党 やとう に転落 てんらく した国民党 こくみんとう 内部 ないぶ からは登輝 とうき の党首 とうしゅ 辞任 じにん を求 もと める声 こえ が高 たか まり、2000年 ねん 3月 がつ に国民党 こくみんとう 主席 しゅせき 職 しょく を辞任 じにん した。
外交 がいこう ・両 りょう 岸 きし 関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
外交 がいこう においては、蒋経国 しょうけいこく 政権 せいけん 末期 まっき の路線 ろせん を引 ひ き継 つ ぐ形 かたち で、従来 じゅうらい の「中華民国 ちゅうかみんこく は中国 ちゅうごく 全土 ぜんど を代表 だいひょう する政府 せいふ 」という建前 たてまえ から脱却 だっきゃく し、「務 つとむ 實 じつ 外交 がいこう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれる現実 げんじつ 的 てき な外交 がいこう を展開 てんかい 。正式 せいしき な国交 こっこう がない諸国 しょこく にも積極 せっきょく 的 てき に訪問 ほうもん した[51] 。
1989年 ねん にはシンガポール を訪問 ほうもん して蒋経国 しょうけいこく の盟友 めいゆう であったリー・クアンユー 首相 しゅしょう と会見 かいけん するが、この際 さい シンガポール側 がわ が李 り 登輝 とうき を「中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう 」ではなく「台湾 たいわん から来 き た総統 そうとう 」という呼称 こしょう を用 もち いたものの、登輝 とうき は「不満 ふまん だがその呼称 こしょう を受 う け入 い れる」と表明 ひょうめい した[52] 。香港 ほんこん で行 おこな われた中台 ちゅうたい のオリンピック委員 いいん 会 かい トップによる協議 きょうぎ で台湾 たいわん のスポーツ団体 だんたい の中国語 ちゅうごくご 名称 めいしょう を「中華 ちゅうか 台北 たいぺい 」とすることで合意 ごうい した。また、1990年 ねん にGATT には「中華民国 ちゅうかみんこく 」ではなく「台湾 たいわん ・澎湖・金 かね 門 もん ・馬 うま 祖 そ 個別 こべつ 関税 かんぜい 領域 りょういき 」の呼称 こしょう で加盟 かめい し、北京 ぺきん で行 おこな われた1990年 ねん アジア競技 きょうぎ 大会 たいかい に1970年 ねん バンコク大会 たいかい 以来 いらい 20年 ねん ぶりに参加 さんか し、両 りょう 岸 きし のスポーツ直接 ちょくせつ 交流 こうりゅう が始 はじ まった。1991年 ねん にはAPEC にも「中華 ちゅうか 台北 たいぺい 」の呼称 こしょう で加盟 かめい している。
両 りょう 岸 きし 問題 もんだい では、1991年 ねん に「中国 ちゅうごく 大陸 たいりく と台湾 たいわん は均 ひと しく中国 ちゅうごく であり、一 ひと つの中国 ちゅうごく の原則 げんそく に基 もと づいて敵対 てきたい 状態 じょうたい を解除 かいじょ して統一 とういつ に向 む けて協力 きょうりょく する」と定 さだ めた国家 こっか 統一 とういつ 綱領 こうりょう を掲 かか げ、密使 みっし を通 つう じて大陸 たいりく の曽慶 そげい 紅 べに らと接触 せっしょく して窓口 まどぐち 機関 きかん の海峡 かいきょう 交流 こうりゅう 基金 ききん 会 かい を設置 せっち してシンガポールで辜汪会談 かいだん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を実現 じつげん させるなど当初 とうしょ は中台 ちゅうたい 統一 とういつ に積極 せっきょく 的 てき だった。1993年 ねん にはそれまで香港 ほんこん とマカオ を介 かい した間接 かんせつ 貿易 ぼうえき のみだった大陸 たいりく への直接 ちょくせつ 投資 とうし を解禁 かいきん した[53] 。
しかし、動員 どういん 戡乱時期 じき を終結 しゅうけつ させて以来 いらい 、北京 ぺきん 政府 せいふ は登輝 とうき のことを「隠 かく れ台 たい 独 どく 派 は 」とみなしており、登輝 とうき 自身 じしん も後述 こうじゅつ する二 に 国論 こくろん を「いつかは言 い わねばならないと機会 きかい をうかがっていた」と回想 かいそう する[54] 。リー・クアンユーとは蜜月 みつげつ 関係 かんけい にあったが、1994年 ねん 9月 がつ にリーから「台湾 たいわん は中国 ちゅうごく の一部 いちぶ で、何 なん 十 じゅう 年 ねん かかろうとも将来 しょうらい は統一 とういつ に向 む かわねばならない」と水 みず を向 む けられたのをきっかけに登輝 とうき が態度 たいど を硬化 こうか し、両者 りょうしゃ の交流 こうりゅう は途絶 とだ えた[52] 。
1995年 ねん に登輝 とうき が訪米 ほうべい を実現 じつげん して中華民国 ちゅうかみんこく のプレゼンスを国際 こくさい 社会 しゃかい にアピールすると、北京 ぺきん 政府 せいふ は露骨 ろこつ な強硬 きょうこう 姿勢 しせい をとるようになった[51] 。1996年 ねん に総統 そうとう に再選 さいせん された後 のち は登輝 とうき の武力 ぶりょく 行使 こうし 放棄 ほうき 提案 ていあん (李 り 六 ろく 条 じょう 、李 り 六 ろく 点 てん )を拒絶 きょぜつ した大陸 たいりく の江沢民 こうたくみん 政権 せいけん の「文 ぶん 攻 おさむ 武 たけ 嚇」(李 り 登輝 とうき を批判 ひはん し、武力 ぶりょく を以 もっ て威嚇 いかく する路線 ろせん [55] )によって台湾 たいわん 海峡 かいきょう ミサイル危機 きき が起 お き、登輝 とうき は「台湾 たいわん 独立 どくりつ 」を意識 いしき した発言 はつげん を強 つよ めていくことになる。1999年 ねん 7月 がつ 、ドイツ の放送 ほうそう 局 きょく ドイチェ・ヴェレ のインタビュー中 ちゅう で両 りょう 岸 きし 関係 かんけい を「特殊 とくしゅ な国 くに と国 くに の関係 かんけい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 」と表現 ひょうげん 、二 に 国論 こくろん を展開 てんかい した。この発言 はつげん には、10月1日 にち の国 くに 慶 けい 節 ぶし で「一 いち 国 こく 二 に 制度 せいど 」を前面 ぜんめん に打 う ち出 だ して台湾 たいわん との統一 とういつ 交渉 こうしょう を開始 かいし しようとする北京 ぺきん 政府 せいふ を牽制 けんせい する意図 いと があった[54] 。同年 どうねん 12月 がつ にも、アメリカの外交 がいこう 専門 せんもん 雑誌 ざっし 『フォーリン・アフェアーズ 』の論文 ろんぶん で「台湾 たいわん は主権 しゅけん 国家 こっか だ」と記述 きじゅつ し、台湾 たいわん 独立 どくりつ を強 つよ く意識 いしき する主張 しゅちょう を行 おこな った。
2013年 ねん 5月 、李 り 登輝 とうき は台湾 たいわん 人 じん のルーツ をたどれば中国 ちゅうごく 大陸 たいりく からの移民 いみん が多 おお いとしつつも、「私 わたし がはっきりさせておきたいのは、『台湾 たいわん は中国 ちゅうごく の一部 いちぶ 』とする中国 ちゅうごく の論法 ろんぽう は成 な りたないということだ。四 よん 百 ひゃく 年 ねん の歴史 れきし のなかで、台湾 たいわん は六 むっ つの異 こと なる政府 せいふ によって統治 とうち された。もし台湾 たいわん が清国 きよくに によって統治 とうち されていた時代 じだい があることを理由 りゆう に『中国 ちゅうごく (中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく )の一部 いちぶ 』とされるならば、かつて台湾 たいわん を領有 りょうゆう したオランダ やスペイン 、日本 にっぽん にもそういうい方 いかた が許 ゆる されることになる。いかに中国 ちゅうごく の論法 ろんぽう が暴論 ぼうろん であるかがわかるだろう。もっといおう。たしかに台湾 たいわん には中国 ちゅうごく からの移民 いみん 者 しゃ が多 おお いが、アメリカ国民 こくみん の多 おお くも最初 さいしょ のころはイギリス から渡 わた ってきた。しかし今日 きょう 、『アメリカはイギリスの一部 いちぶ 』などとい出 いだ す人 ひと はいない。台湾 たいわん と中国 ちゅうごく の関係 かんけい もこれと同 おな じである」と述 の べている[56] 。
李 り 登輝 とうき は12年間 ねんかん の総統 そうとう 時代 じだい に力 ちから を注 そそ いだのは、農業 のうぎょう の発展 はってん で生 う まれた過剰 かじょう 資本 しほん と過剰 かじょう 労働 ろうどう 力 りょく を使用 しよう して中小 ちゅうしょう 工業 こうぎょう を育成 いくせい するという「資源 しげん 配分 はいぶん 」であり、そのやり方 かた は日本 にっぽん の発展 はってん が偉大 いだい な教師 きょうし であり、日本 にっぽん と台湾 たいわん が歩 あゆ んできた経済 けいざい 発展 はってん の道 みち は、外国 がいこく 資本 しほん と技術 ぎじゅつ を当 あ てにした「北京 ぺきん コンセンサス(英語 えいご 版 ばん ) 」とも、規制 きせい 緩和 かんわ と国有 こくゆう 企業 きぎょう の民営 みんえい 化 か と財政 ざいせい 支出 ししゅつ の抑制 よくせい を柱 はしら にした「ワシントン・コンセンサス 」とも異 こと なる方法 ほうほう であったと回顧 かいこ している[57] 。
総統 そうとう 退任 たいにん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう の蔡英文 えいぶん と(2016年 ねん )
晩年 ばんねん の李 り 登輝 とうき (2017年 ねん )
病院 びょういん から総統 そうとう 府 ふ 前 まえ を経由 けいゆ して火葬 かそう 場 じょう に向 む かう車列 しゃれつ 。(2020年 ねん 8月 がつ 14日 にち )
墓碑 ぼひ
総統 そうとう 職 しょく を退 しりぞ いた後 のち は台湾 たいわん 独立 どくりつ の立場 たちば を明確 めいかく にした。「中華民国 ちゅうかみんこく は国際 こくさい 社会 しゃかい で既 すで に存在 そんざい しておらず、台湾 たいわん は速 すみ やかに正名 まさな を定 さだ めるべき」と主張 しゅちょう する台湾 たいわん 正名 しょうな 運動 うんどう で総 そう 召集 しょうしゅう 人 じん を務 つと め、2001年 ねん 7月 がつ には国民党 こくみんとう 内 ない の本土 ほんど 派 は と台湾 たいわん 独立 どくりつ 活動 かつどう 家 か と共 とも に「台湾 たいわん 団結 だんけつ 連盟 れんめい 」を結成 けっせい した。形式 けいしき 上 じょう では既 すで に政界 せいかい を引退 いんたい していたものの、独立 どくりつ 運動 うんどう の精神 せいしん 的 てき な指導 しどう 者 しゃ と目 め されるようになる。このため同年 どうねん 9月21日 にち に国民党 こくみんとう 中央 ちゅうおう 考 こう 核 かく 紀律 きりつ 委員 いいん 会 かい により、反 はん 党 とう 行為 こうい を理由 りゆう に党籍 とうせき 剝奪の処分 しょぶん を受 う けた。国民党 こくみんとう を離 はな れたため、その後 ご は台湾 たいわん 独 どく 立派 りっぱ と見 み られる民進党 みんしんとう と関係 かんけい を深 ふか めていく。2003年 ねん 9月には「もはや中華民国 ちゅうかみんこく は存在 そんざい しない」と発言 はつげん して台湾 たいわん 独立 どくりつ への意思 いし を鮮明 せんめい にした。2004年 ねん の総統 そうとう 選挙 せんきょ では、選挙 せんきょ 運動 うんどう 中 ちゅう の同年 どうねん 2月 がつ 28日 にち 、台湾 たいわん 島 とう の南北 なんぼく 約 やく 500km を約 やく 200万 まん 人 にん の市民 しみん が手 て をつないで「人間 にんげん の鎖 くさり 」を形成 けいせい する台湾 たいわん 独立 どくりつ デモを主催 しゅさい するなど、民進党 みんしんとう 候補 こうほ の陳 ひね 水 すい 扁 ひらた を側面 そくめん 支援 しえん した。
しかし次第 しだい に陳 ひね 水 すい 扁 ひらた を批判 ひはん するようになり、民進党 みんしんとう とも距離 きょり を置 お くようになる。2007年 ねん 1月 がつ には、メディアのインタビューを受 う けた際 さい に、“私 わたし は台湾 たいわん 独立 どくりつ とは一 いち 度 ど も言 い ったことがない”と発言 はつげん して、転向 てんこう かとメディアに騒 さわ がれる出来事 できごと もあったが、台湾 たいわん の声 こえ によれば、インタビュー本文 ほんぶん には「台湾 たいわん は既 すで に独立 どくりつ した国家 こっか だから、いまさら独立 どくりつ する必要 ひつよう はない。民進党 みんしんとう は政治 せいじ 利用 りよう に独立 どくりつ を持 も ち出 だ すのは控 ひか えるべき」と発言 はつげん したことが明記 めいき されている[58] 。
2008年 ねん の総統 そうとう 選挙 せんきょ ではなかなか民進党 みんしんとう の総統 そうとう 候補 こうほ である謝 しゃ 長 ちょう 廷 の支持 しじ 表明 ひょうめい をせず、しびれを切 き らした後援 こうえん 会 かい が勝手 かって に支持 しじ を表明 ひょうめい する事態 じたい が発生 はっせい したが、2008年 ねん 3月の選挙 せんきょ 直前 ちょくぜん に謝 しゃ を「台湾 たいわん が主権 しゅけん 国家 こっか であるとはっきり言 い える人物 じんぶつ 」として支持 しじ 表明 ひょうめい [59] 。しかし、国民党 こくみんとう 総統 そうとう 候補 こうほ 馬 うま 英 えい 九 きゅう の当選 とうせん 後 ご は産経新聞 さんけいしんぶん のインタビューに対 たい し、馬 うま に協力 きょうりょく する意向 いこう を示 しめ した[60] 。
地位 ちい によって政治 せいじ 的 てき 主張 しゅちょう が異 こと なる人物 じんぶつ のため、台湾 たいわん 国内 こくない では「台湾 たいわん 独立 どくりつ を諦 あきら めていないが、駆 か け引 ひ き上手 じょうず な現実 げんじつ 主義 しゅぎ 者 しゃ 」というイメージが強 つよ いとされる。
2011年 ねん 6月 がつ 、9期 き 目 め 在任 ざいにん 中 ちゅう の1997年 ねん から退任 たいにん する2000年 ねん までの間 あいだ に国家 こっか 安全 あんぜん 局 きょく の裏 うら 帳簿 ちょうぼ から自身 じしん の創立 そうりつ したシンクタンク「台湾 たいわん 総合 そうごう 研究 けんきゅう 院 いん 」へ、780万 まん 米 あめりか ドル(6億 おく 2700万 まん 円 えん )を運営 うんえい 資金 しきん として流 なが しまた一部 いちぶ を着服 ちゃくふく した公金 こうきん 横領 おうりょう とマネーローンダリング の罪 つみ で、中華民国 ちゅうかみんこく 最高 さいこう 検察庁 けんさつちょう に起訴 きそ された[61] [62] [63] 。2013年 ねん 11月15日 にち 、台北 たいぺい 地方 ちほう 法 ほう 院 いん で無罪 むざい 判決 はんけつ がい渡 いわた された[64] 。
台湾 たいわん 第 だい 四 よん 原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ について、2013年 ねん 4月 がつ に李 り 登輝 とうき ははっきりと核 かく 四 よん の住民 じゅうみん 投票 とうひょう に行 い くことはないと表明 ひょうめい し、「もし原子力 げんしりょく 発電 はつでん を維持 いじ できなければ、台湾 たいわん の未来 みらい はどこへ行 い くのか? 風力 ふうりょく や太陽 たいよう エネルギー でエネルギー源 げん を置 お き換 か えようとするのならば、これらの代替 だいたい エネルギーは「コントロールする術 じゅつ が無 む く」、不安定 ふあんてい 過 す ぎて台湾 たいわん の電力 でんりょく 需給 じゅきゅう に応 こた えられない」、「原子力 げんしりょく 発電 はつでん 方式 ほうしき は改変 かいへん すべきであり」と語 かた り、人民 じんみん の台湾 たいわん 電力 でんりょく および政府 せいふ に対 たい する信頼 しんらい の欠如 けつじょ に至 いた っては、「台湾 たいわん 電力 でんりょく は民間 みんかん に開放 かいほう すべきで、例 たと えば6社 しゃ の民営 みんえい 電力 でんりょく 会社 かいしゃ に分割 ぶんかつ して小規模 しょうきぼ で進 すす めれば、このように大 おお きな問題 もんだい は発生 はっせい することはあり得 え ない」と主張 しゅちょう した[65] 。
2012年 ねん 4月 がつ から、「生命 せいめい 之 の 旅 たび 」と称 しょう して台湾 たいわん 各地 かくち を視察 しさつ する旅 たび に出 で ている。どんな姿 すがた であれ、最後 さいご は玉山 たまやま (旧称 きゅうしょう ・新高山 しんたかやま )で終 お わりたいという胸 むね の内 うち を周囲 しゅうい に語 かた っている。
2013年 ねん 12月、台湾 たいわん で同性 どうせい 婚 こん を容認 ようにん する多元 たげん 成家 なるいえ 法案 ほうあん に対 たい し、「私 わたし はキリスト教徒 きりすときょうと だ。聖書 せいしょ に何 なん と書 か かれているか見 み てみるべきだ」と発言 はつげん し、反対 はんたい の立場 たちば を表明 ひょうめい した[66] 。2016年 ねん 12月には「我々 われわれ の社会 しゃかい は自由 じゆう があるだろう。男女 だんじょ は自由 じゆう だし、どう自由 じゆう にしても構 かま わないが、家庭 かてい が必要 ひつよう なら子供 こども を産 う むのも必要 ひつよう だという関係 かんけい だ。家族 かぞく の継続 けいぞく は十分 じゅうぶん に維持 いじ されなければならず、宗教 しゅうきょう 上 じょう 私 わたし の立場 たちば ではどうしても同意 どうい しない」と語 かた った[67] 。
2016年 ねん 7月 がつ 30日 にち 、石垣島 いしがきじま を訪問 ほうもん し、台湾 たいわん 農業 のうぎょう 者 しゃ 入植 にゅうしょく 顕 あらわ 頌碑などを参観 さんかん し、日 にち 台 たい 交流 こうりゅう について講演 こうえん した[68] [69] 。訪問 ほうもん の際 さい に食 た べた石垣 いしがき 牛 うし の美味 おい しさに感動 かんどう し、台湾 たいわん 和牛 わぎゅう の産業 さんぎょう 化 か を研究 けんきゅう し始 はじ め、陽明 ようめい 山 さん 擎天崗で戦前 せんぜん 移入 いにゅう された但馬 たじま 牛 うし (見島 みしま 牛 うし とも)の末裔 まつえい の牛 うし を購入 こうにゅう し、若 わか い頃 ころ 働 はたら いていた花 はな 蓮 はちす の牧場 ぼくじょう 施設 しせつ を借 か り育成 いくせい 事業 じぎょう を開始 かいし [70] [71] 。初 はじ めて繁殖 はんしょく に成功 せいこう した仔 こ 牛 うし を「源 みなもと 興 きょう 牛 うし 」と名付 なづ けた[72] 。
2020年 ねん 2月 がつ 、自宅 じたく で牛乳 ぎゅうにゅう が気管 きかん に入 はい ったことで誤 あやま 嚥 えん 性 せい 肺炎 はいえん となり入院 にゅういん 。7月に入 はい って体調 たいちょう が急激 きゅうげき に悪化 あっか 。同月 どうげつ 29日 にち には蔡英文 えいぶん 総統 そうとう 、頼 よりゆき 清徳 きよのり 副 ふく 総統 そうとう 、蘇 そ 貞 さだ 昌 あきら 行政 ぎょうせい 院長 いんちょう らが見舞 みま いに訪 おとず れた[73] 。翌 よく 30日 にち 19時 じ 24分 ふん 頃 ごろ 、入院 にゅういん 先 さき の台北 たいぺい 栄 さかえ 民 みん 総 そう 医院 いいん で死去 しきょ [74] [75] 。97歳 さい だった。
2020年 ねん 10月 がつ 7日 にち に、告別 こくべつ 追悼 ついとう 礼拝 れいはい を新北 しんきた 市 し 淡水 たんすい の真理 しんり 大学 だいがく 大 だい 礼拝 れいはい 堂 どう で行 おこな い、その後 ご 、国軍 こくぐん 管轄 かんかつ 施設 しせつ である国軍 こくぐん 示 しめせ 範 はん 公 こう 墓 はか (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 内 うち の「特 とく 勲 くん 区 く 」に遺骨 いこつ を埋葬 まいそう された[76] 。
司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう や小林 こばやし よしのり との対談 たいだん でも時間 じかん を忘 わす れるほど熱心 ねっしん に語 かた る雄弁 ゆうべん 家 か である。新婚 しんこん 時代 じだい 、新妻 にいづま に対 たい しても遠慮 えんりょ なく農業 のうぎょう 政策 せいさく を語 かた り続 つづ けたため、農業 のうぎょう には無知 むち だった夫人 ふじん も話 はなし を合 あ わせるために農業 のうぎょう を勉強 べんきょう したという。
李 り 登輝 とうき は中国 ちゅうごく の政治 せいじ 家 か を全面 ぜんめん 否定 ひてい するわけではなく、胡錦濤 こきんとう やその後続 こうぞく 世代 せだい の習近平 ひらた 、李 り 克 かつ 強 きょう を「地方 ちほう で鍛 きた えられた優秀 ゆうしゅう な政治 せいじ 家 か 」と高 たか く評価 ひょうか し、日本 にっぽん の政治 せいじ 家 か を「東京 とうきょう や法律 ほうりつ でしかものを考 かんが えられない人 ひと ばかり」と批判 ひはん していた[77] 。
中学 ちゅうがく ・高校 こうこう 時代 じだい に鈴木 すずき 大拙 だいせつ ・阿部 あべ 次郎 じろう ・倉田 くらた 百三 ひゃくぞう ・夏目 なつめ 漱石 そうせき らの日本 にっぽん の思想家 しそうか や文学 ぶんがく 者 しゃ の本 ほん に触 ふ れ、日本 にっぽん の思想 しそう から影響 えいきょう を受 う ける。また、日本 にっぽん の古典 こてん にも通 つう じており、『古事記 こじき 』・『源氏物語 げんじものがたり 』・『枕草子 まくらのそうし 』・『平家 ひらか 物語 ものがたり 』などを読 よ む[78] 。宗教 しゅうきょう に関 かん しては、キリスト教 きょう 長老 ちょうろう 派 は を信奉 しんぽう した[79] 。また、台湾 たいわん 総督 そうとく 府民 ふみん 政 せい 長官 ちょうかん を務 つと めた後藤 ごとう 新平 しんぺい を「台湾 たいわん 発展 はってん の立役者 たてやくしゃ 」として高 たか く評価 ひょうか していた[80] 。
ちなみに、若手 わかて 育成 いくせい のために開 ひら いた「李 り 登輝 とうき 学校 がっこう 」の卒業生 そつぎょうせい らが、李 り 登輝 とうき が漫画 まんが 『魁 さきがけ !!男 おとこ 塾 じゅく 』の登場 とうじょう 人物 じんぶつ の江田島 えたじま 平八 へいはち [81] に似 に ているということで、PR向 む けに江田島 えたじま 平八 へいはち のコスプレを行 おこな ったことがある[82] 。これについて、主 おも に国民党 こくみんとう 議員 ぎいん から「日本 にっぽん びいきだ」、「植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 肯定 こうてい 」などとの批判 ひはん が起 お きた。
熱心 ねっしん なキリスト教徒 きりすときょうと で、総統 そうとう 退任 たいにん 後 ご は「山地 さんち に入 はい りキリスト教 きょう の布教 ふきょう をしたい」と語 かた っていたが、さらなる民主 みんしゅ 化 か のため「台湾 たいわん 団結 だんけつ 同盟 どうめい 」を自 みずか ら主導 しゅどう して創立 そうりつ した。また、『旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 』の「出 で エジプト記 き 」についてよく話 はな していた。[83]
台湾 たいわん の同 どう 世代 せだい に顕著 けんちょ なことだが、かつて政府 せいふ の要職 ようしょく を経験 けいけん していながら一番 いちばん 得意 とくい とされる言語 げんご は日本語 にほんご といわれる。それについで台湾 たいわん 語 ご 、英語 えいご となり、一番 いちばん 苦手 にがて なのは北京 ぺきん 語 ご で、非常 ひじょう に台湾 たいわん 訛 なま りが強 つよ い。北京 ぺきん 語 ご で質問 しつもん されると、それを日本語 にほんご に訳 やく して意味 いみ を理解 りかい し、日本語 にほんご で回答 かいとう を考 かんが えてから北京 ぺきん 語 ご に訳 やく すという、日本人 にっぽんじん と同様 どうよう のプロセスで返答 へんとう していたことから、外 そと 省 しょう 人 じん の記者 きしゃ たちからは「李 り 登輝 とうき の北京 ぺきん 語 ご は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか」と言 い われていた[31] 。この不得手 ふえて さを逆手 さかて にとって、宋 そう 美 よし 齢 よわい の側近 そっきん に「宋 そう 美 よし 齢 よわい の北京 ぺきん 語 ご は浙江 せっこう 訛 なま りが強 つよ いため、今後 こんご 用件 ようけん は文書 ぶんしょ で送付 そうふ するように」と要請 ようせい 、発言 はつげん を記録 きろく 化 か し宋 そう 美 よし 齢 よわい の権力 けんりょく を失墜 しっつい させた。
上記 じょうき のように、日本 にっぽん 文学 ぶんがく を多 おお く読 よ み、岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ の蔵書 ぞうしょ 数 すう を誇 ほこ ったり、日本 にっぽん のオピニオン雑誌 ざっし 『中央公論 ちゅうおうこうろん 』『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』を愛読 あいどく するなど、情報処理 じょうほうしょり や思考 しこう の面 めん で多 おお く日本語 にほんご が介在 かいざい したとされる。そのため、記者 きしゃ 会見 かいけん など公 おおやけ の場 ば でも特定 とくてい の単語 たんご を日本 にっぽん で使用 しよう される呼称 こしょう をそのまま現地 げんち 語 ご で発音 はつおん することがあり、台湾 たいわん では「波 なみ 斯(ペルシア)湾 わん 戦争 せんそう 」と表記 ひょうき される湾岸 わんがん 戦争 せんそう を「湾岸 わんがん 戦争 せんそう 」のまま中国 ちゅうごく 語 ご 読 よ みしていた例 れい も確認 かくにん されている。文恵 ふみえ 夫人 ふじん を日本語 にほんご 読 よ みで「フミエ」と呼 よ ぶこともある。
なお、娘 むすめ たちの学習 がくしゅう は自由 じゆう 意志 いし に委 ゆだ ねており、2人 ふたり とも本格 ほんかく 的 てき な日本語 にほんご 教育 きょういく を受 う けず英 えい 米 べい に進学 しんがく した[31] 。
否定 ひてい 的 てき な評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
康 かん 定 じょう 級 きゅう フリゲート の購入 こうにゅう や党 とう の資金 しきん を使 つか った投資 とうし プロジェクトからのキックバックなど、金銭 きんせん をめぐる疑惑 ぎわく が少 すく なからずあった。自身 じしん の影響 えいきょう 力 りょく を維持 いじ するため党内 とうない に金 かね をばら撒 ま いたり、選挙 せんきょ で優位 ゆうい に立 た つため暴力団 ぼうりょくだん を頼 たよ ったりした事 こと もあったとされる[86] 。これらの裏金 うらがね は国外 こくがい への工作 こうさく にも使用 しよう され、国交 こっこう 維持 いじ を目的 もくてき として南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく に巨額 きょがく な資金 しきん 提供 ていきょう が行 おこな われたほか、日本 にっぽん の橋本 はしもと 龍太郎 りゅうたろう 、アメリカのカート・キャンベル やポール・ウォルフォウィッツ などがロビー活動 かつどう の対象 たいしょう として挙 あ げられている。
2000年 ねん の総統 そうとう 選挙 せんきょ では、ともに改革 かいかく に取 と り組 く み党内 とうない で辣腕 らつわん を振 ふ るった宋 そう 楚瑜 そゆ を排 はい し、与 くみ し易 やす い連戦 れんせん の擁立 ようりつ に固執 こしつ した。宋 そう 楚瑜 そゆ は無所属 むしょぞく で立候補 りっこうほ して連戦 れんせん と票 ひょう を食 く い合 あ い、民進党 みんしんとう の陳 ひね 水 すい 扁 ひらた を利 り することとなった。結果 けっか 政権 せいけん 交代 こうたい となり、後 のち に登輝 とうき 自身 じしん も党 とう 主席 しゅせき 辞任 じにん を余儀 よぎ なくされた。その後 ご の登輝 とうき は国民党 こくみんとう 批判 ひはん を公然 こうぜん と行 おこな い、その変節 へんせつ ぶりと政治 せいじ 関与 かんよ の継続 けいぞく は批判 ひはん の的 まと となった[87] 。
皇 すめらぎ 民 みん 化 か 教育 きょういく を受 う け旧 きゅう 日本 にっぽん 軍 ぐん に従軍 じゅうぐん した経験 けいけん 、靖国神社 やすくにじんじゃ を参拝 さんぱい するなど台湾 たいわん 人 じん でありながらも日本人 にっぽんじん としてのアイデンティティを持 も った彼 かれ は同 おな じ台湾 たいわん の人間 にんげん からも批判 ひはん される。また本省 ほんしょう 人 じん アイデンティティに傾倒 けいとう し他 ほか のエスニックグループから反感 はんかん を買 か った[87] 。
台湾 たいわん 原住民 げんじゅうみん タイヤル族 ぞく の立法院 りっぽういん 議員 ぎいん である高 こう 金 かね 素 もと 梅 うめ は「帝国 ていこく 国民 こくみん として生 い きた人 ひと はアイデンティティ、歴史 れきし 、文化 ぶんか の深刻 しんこく な矛盾 むじゅん を抱 かか えている。死 し ぬまで気 き づかない人 ひと 、それを誇 ほこ りに思 おも う人 ひと 、植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい に向 む き合 あ う人 ひと がいる。原住民 げんじゅうみん は向 む き合 あ い文化 ぶんか の復興 ふっこう をしているが李 り 登輝 とうき は皇国 こうこく 史観 しかん のままである。韓国 かんこく の大統領 だいとうりょう であった盧 の 泰愚 てう は朝鮮 ちょうせん 人 じん 軍人 ぐんじん の名簿 めいぼ を探 さが し彼 かれ らが軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ の礼賛 らいさん に使用 しよう されている事 こと を明 あき らかにした。李 り 登輝 とうき は日本 にっぽん 保守 ほしゅ の駒 こま であり台湾 たいわん にとっての悲劇 ひげき だ。」と反軍 はんぐん 国 こく 主義 しゅぎ の立場 たちば で彼 かれ を批判 ひはん した[88] 。
日本 にっぽん との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
親日 しんにち の政治 せいじ 家 か ・言論 げんろん 人 じん として知 し られる。産経新聞 さんけいしんぶん 連載 れんさい 「李 り 登輝 とうき 秘録 ひろく 」の取材 しゅざい で、同紙 どうし 記者 きしゃ が台北 たいぺい 郊外 こうがい の李 り 登輝 とうき 宅 たく を訪 おとず れたとき、李 り 登輝 とうき は右手 みぎて を首 くび まで水平 すいへい に持 も ち上 あ げ、「僕 ぼく はここまで、22歳 さい まで日本人 にっぽんじん だったんだ」と発言 はつげん している[89] 。 日本 にっぽん の親 おや 台 だい 派 は からは、その親日 しんにち ぶりが高 たか く評価 ひょうか されている。先述 せんじゅつ (文学 ぶんがく ・思想 しそう )のように、日本 にっぽん の漫画 まんが の登場 とうじょう 人物 じんぶつ 江田島 えたじま 平八 へいはち のコスプレ をするなど、日本 にっぽん のエンターテインメントにも関心 かんしん を寄 よ せている。
李 り 登輝 とうき は、日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい に台湾 たいわん 人 じん が学 まな んで純粋 じゅんすい 培養 ばいよう されたのは、「勇気 ゆうき 」「誠実 せいじつ 」「勤勉 きんべん 」「奉公 ほうこう 」「自己 じこ 犠牲 ぎせい 」「責任 せきにん 感 かん 」「遵法 じゅんぽう 」「清潔 せいけつ 」といった「日本 にっぽん 精神 せいしん 」であり、国共 こっきょう 内戦 ないせん 後 ご に中国 ちゅうごく 大陸 たいりく から来 き た国民党 こくみんとう は、自分 じぶん たちが持 も ち合 あ わせていない価値 かち 観 かん だったので、「日本 にっぽん 精神 せいしん 」を台湾 たいわん 人 じん の持 も ち合 あ わせている気質 きしつ だと定義 ていぎ して、これらの言葉 ことば が広 ひろ まり、台湾 たいわん に浸透 しんとう した「日本 にっぽん 精神 せいしん 」があったからこそ、台湾 たいわん は中国 ちゅうごく 文化 ぶんか に吞み込 こ まれずに近代 きんだい 社会 しゃかい を確立 かくりつ できたのであり、台湾 たいわん 人 じん の親日 しんにち の背景 はいけい にはこうした歴史 れきし 的 てき 経緯 けいい があると述 の べている[90] 。また李 り 登輝 とうき は、日 にち 台 だい は現在 げんざい のところ正式 せいしき な外交 がいこう 関係 かんけい がないため、経済 けいざい ・文化 ぶんか 交流 こうりゅう を強化 きょうか すれば良 よ いという意見 いけん が多 おお く、経済 けいざい ・文化 ぶんか 交流 こうりゅう を促進 そくしん して、日本人 にっぽんじん と台湾 たいわん 人 じん の心 しん の絆 きずな を深 ふか めることは重要 じゅうよう であるが、日本人 にっぽんじん が中華 ちゅうか 意識 いしき に囚 とら われて台湾 たいわん を軽視 けいし した場合 ばあい 、日本 にっぽん は地政学 ちせいがく 的 てき 危機 きき に陥 おちい ってしまい、まさしく日 にち 台 だい は生命 せいめい (運命 うんめい )共同 きょうどう 体 たい なのであり、このことを日本人 にっぽんじん は常 つね に意識 いしき して欲 ほ しいとしている[56] 。
台湾 たいわん における教育 きょういく 改革 かいかく にも心 しん を砕 くだ き、「(国民党 こくみんとう 政権 せいけん の)反日 はんにち 教育 きょういく をやめさせ、台湾 たいわん の子供 こども たちに正 まさ しく日本 にっぽん と日本人 にっぽんじん を理解 りかい させなければ」と考 かんが え、1996年 ねん には新 あら たな中学 ちゅうがく の教科書 きょうかしょ 「認識 にんしき 台湾 たいわん 」を作 つく らせた。それ以前 いぜん の教育 きょういく では大中 おおなか 華 はな 主義 しゅぎ の歴史 れきし 観 かん で台湾 たいわん の歴史 れきし や地理 ちり は教 おし えず、また日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい は一律 いちりつ に否定 ひてい していたが、李 り 登輝 とうき は戦前 せんぜん に普及 ふきゅう した教育 きょういく の制度 せいど やインフラ建設 けんせつ など日本 にっぽん の功績 こうせき を認 みと める記述 きじゅつ を取 と り入 い れ、その結果 けっか 、若 わか い世代 せだい が日本 にっぽん に親 した しみを感 かん じる傾向 けいこう が強 つよ まったという[89] 。
靖国神社 やすくにじんじゃ 問題 もんだい では2007年 ねん 5月 がつ 末 まつ から6月 がつ 初旬 しょじゅん にかけて訪日 ほうにち した際 さい 、日本外国特派員協会 にほんがいこくとくはいんきょうかい で開 ひら かれた記者 きしゃ 会見 かいけん で「“靖国 やすくに 問題 もんだい ”とは中国 ちゅうごく とコリアがつくったおとぎ話 ばなし 」と発言 はつげん した。
台湾 たいわん も領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう する尖閣諸島 せんかくしょとう を「沖縄 おきなわ 県 けん に属 ぞく する日本 にっぽん 固有 こゆう の領土 りょうど 」であるとし[91] 、2008年 ねん 9月24日 にち には訪問 ほうもん 先 さき の沖縄 おきなわ で再 ふたた び日本 にっぽん 領土 りょうど だと発言 はつげん した[92] 。また、「おネエちゃんがきれいだからといって、私 わたし の妻 つま だと言 い う人間 にんげん がどこにいるのだ」「尖閣諸島 せんかくしょとう 周辺 しゅうへん はよい漁場 ぎょじょう で、沖縄 おきなわ の漁民 ぎょみん はかつて、同 どう 漁場 ぎょじょう でとった魚 さかな を台北 たいぺい に売 う りにきた。沖縄 おきなわ 県 けん 当局 とうきょく は、日本 にっぽん が統治 とうち していた台湾 たいわん の台北 たいぺい 州 しゅう に尖閣諸島 せんかくしょとう 周辺 しゅうへん の管理 かんり を委託 いたく していただけ」「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、沖縄 おきなわ の行政 ぎょうせい 権 けん はアメリカが掌握 しょうあく し、その後 ご 、日本 にっぽん に返還 へんかん された」「日本 にっぽん の自衛隊 じえいたい が、この海域 かいいき の防衛 ぼうえい に責任 せきにん を持 も つことになったが、台湾 たいわん の漁民 ぎょみん は(尖閣諸島 せんかくしょとう 周辺 しゅうへん で)操業 そうぎょう することが習慣 しゅうかん になっていたことから問題 もんだい が発生 はっせい した」「1972年 ねん になってから『尖閣諸島 せんかくしょとう は中華民国 ちゅうかみんこく 領 りょう 』と主張 しゅちょう したことで、問題 もんだい が発生 はっせい した」「台湾 たいわん が他人 たにん の場所 ばしょ に行 い って、魚 さかな がとれただけでも上出来 じょうでき だった。それを自分 じぶん の『戸籍 こせき 』に入 い れようとは、あまりにも幼稚 ようち 」と、台湾 たいわん が尖閣諸島 せんかくしょとう の領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう していることを皮肉 ひにく ったという。李 り 登輝 とうき の発言 はつげん に対 たい して中国 ちゅうごく のインターネットユーザーは、李 り 登輝 とうき の発言 はつげん の記事 きじ を掲載 けいさい したサイト「環 たまき 球 だま 網 もう 」にて、李 り 登輝 とうき を「日本 にっぽん の犬 いぬ 」「売国奴 ばいこくど 」「まだ死 し んでいないのか」「特殊 とくしゅ 工作 こうさく 員 いん を送 おく り、一族 いちぞく 皆殺 みなごろ しにして、子孫 しそん を根絶 ねだ やしにしろ」などといった、李 り 登輝 とうき に対 たい する罵詈 ばり 雑言 ぞうごん が飛 と び交 か っているという[93] 。『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』のインタビューで李 り 登輝 とうき は「前 まえ にも言 い ったように、尖閣諸島 せんかくしょとう は日本 にっぽん の領土 りょうど だ。日本 にっぽん は道理 どうり に合 あ わないことを言 い う中国 ちゅうごく に譲歩 じょうほ する必要 ひつよう はない」と語 かた ったことについて、李 り 登輝 とうき の発言 はつげん に対 たい して台湾 たいわん 当局 とうきょく 関係 かんけい 者 しゃ が即座 そくざ に反駁 はんばく し、台湾 たいわん 総統 そうとう 府 ふ の羅 ら 智 さとし 強 きょう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 報道 ほうどう 官 かん は「李 り 登輝 とうき 氏 し の尖閣諸島 せんかくしょとう は日本 にっぽん 領 りょう という発言 はつげん は歴史 れきし 事実 じじつ に反 はん し、しかも国家 こっか 主権 しゅけん を侵害 しんがい している」、国民党 こくみんとう の邱毅 は「李 り 登輝 とうき 氏 し の政権 せいけん はとっくの昔 むかし に終 お わったのだ。いつまでも発言 はつげん するな!」と強 つよ く批判 ひはん した。2013年 ねん 5月 、日本 にっぽん 政府 せいふ による尖閣諸島 せんかくしょとう 国有 こくゆう 化 か について、「(中国 ちゅうごく は)周辺 しゅうへん 国 こく への内政 ないせい や領土 りょうど 干渉 かんしょう を繰 く り返 かえ すことによって、自分 じぶん たちの力 ちから を誇示 こじ しているのである。こうした中国 ちゅうごく の動 うご きを説明 せつめい するのに、私 わたし は『成金 なりきん 』という言葉 ことば をよく使 つか う。経済 けいざい 力 りょく を背景 はいけい に、ベトナム から西 にし 沙 すな 諸島 しょとう を奪 うば い、南沙 なんさ 諸島 しょとう でフィリピン が領有 りょうゆう していた地域 ちいき に手 て を出 だ し、そして日本 にっぽん 領土 りょうど である尖閣諸島 せんかくしょとう の領海 りょうかい 、領空 りょうくう 侵犯 しんぱん を繰 く り返 かえ す中国 ちゅうごく は、札束 さつたば の力 ちから で威張 いば り散 ち らす浅 あさ ましい『成金 なりきん 』の姿 すがた そのものである。(中略 ちゅうりゃく )野田 のだ 前 ぜん 首相 しゅしょう の時代 じだい に尖閣諸島 せんかくしょとう は国有 こくゆう 化 か されたが、あのような手続 てつづ きを行 おこな ったところで、どれほどの効果 こうか があるのか。国 くに が買 か わないなら都 と で買 か う、と表明 ひょうめい した石原 いしはら 慎太郎 しんたろう 前 ぜん 都知事 とちじ にしても、彼 かれ の個人 こじん 的 てき な意気 いき を示 しめ すだけの話 はなし であったように思 おも う。もともと尖閣諸島 せんかくしょとう は日本 にっぽん 国民 こくみん の領土 りょうど なのだから、日本 にっぽん 政府 せいふ は手続 てつづ き論 ろん に終始 しゅうし せず、中国 ちゅうごく が手 て を出 だ してくるなら戦 たたか う、ぐらいの覚悟 かくご を示 しめ す必要 ひつよう がある」と述 の べている[94] 。また李 り 登輝 とうき は、中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん は、陸軍 りくぐん には覇権 はけん を拡張 かくちょう する道 みち がないため、海軍 かいぐん の強化 きょうか に努 つと めており、尖閣諸島 せんかくしょとう 周辺 しゅうへん の領海 りょうかい ・領空 りょうくう 侵犯 しんぱん を繰 く り返 かえ して日本 にっぽん に揺 ゆ さぶりをかけるが、軍事 ぐんじ 侵攻 しんこう する可能 かのう 性 せい は低 ひく く、それは日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく であるアメリカ軍 ぐん を恐 おそ れているからであり、従 したが って中国 ちゅうごく は尖閣諸島 せんかくしょとう の「共同 きょうどう 管理 かんり 」を突破口 とっぱこう にして、太平洋 たいへいよう に進出 しんしゅつ することを狙 ねら っており、中国 ちゅうごく による尖閣諸島 せんかくしょとう の「共同 きょうどう 管理 かんり 」の申 もう し出 で は断固 だんこ 拒絶 きょぜつ すべきであると述 の べている[94] 。
2010年 ねん 、下野 げや していた自民党 じみんとう の一 いち 代議士 だいぎし だった菅 かん 義 よし 偉 えら と浪人 ろうにん 中 ちゅう の坂井 さかい 学 まなぶ を台湾 たいわん に招待 しょうたい し会談 かいだん を行 おこな った際 さい に「自民 じみん が政権 せいけん に復帰 ふっき した暁 あかつき には日本 にっぽん と米国 べいこく の安定 あんてい した関係 かんけい を保 たも ちながらアジアの平和 へいわ 外交 がいこう に貢献 こうけん してほしい」と促 うなが したとされる。自民党 じみんとう 幹部 かんぶ は当時 とうじ を振 ふ り返 かえ り「野党 やとう とはいえそこそこの数 かず の議員 ぎいん はいた。その中 なか で菅 かん さんを選 えら び、浪人 ろうにん 中 ちゅう の坂井 さかい さんまで招待 しょうたい 者 しゃ に含 ふく めた慧眼 けいがん (けいがん)は驚 おどろ きだ」としたたかな外交 がいこう を評価 ひょうか した[95] 。
2010年 ねん に10月 に訪台 ほうたい した安倍晋三 あべしんぞう の訪問 ほうもん を受 う け、当時 とうじ 在野 ざいや であった安倍 あべ に対 たい し「もう一度 いちど 、首相 しゅしょう になりなさい 。いま、あなたのほかにリーダーはいない」と助言 じょげん したとされる[96] 。李 り 登輝 とうき は安倍晋三 あべしんぞう を高 たか く評価 ひょうか しており、安倍 あべ が2013年 ねん 3月13日 にち にFacebook に東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい における台湾 たいわん の支援 しえん に言及 げんきゅう して、「大切 たいせつ な日本 にっぽん の友人 ゆうじん 」と表現 ひょうげん したことを「多 おお くの台湾 たいわん 人 じん が感動 かんどう した」「歴代 れきだい の日本 にっぽん の政治 せいじ 指導 しどう 者 しゃ がみせた『中国 ちゅうごく さまさま』の意識 いしき にとらわれることなく、激変 げきへん する国際 こくさい 社会 しゃかい への対応 たいおう を学 まな んでいるようにみえる」と評 ひょう している[97] 。
2013年 ねん 4月 がつ 10日 とおか に日本 にっぽん が調印 ちょういん した日 にち 台 たい 漁業 ぎょぎょう 協定 きょうてい について、「過去 かこ に日本 にっぽん は台湾 たいわん に対 たい して行 い き過 す ぎていたが、東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい 後 のち に台湾 たいわん は多 おお くのお金 かね を寄付 きふ したので、日本 にっぽん 側 がわ は後 のち に反省 はんせい した。過去 かこ に日本 にっぽん はずっと台湾 たいわん と漁業 ぎょぎょう 協議 きょうぎ を署名 しょめい しようとしなかったが、現在 げんざい は作法 さほう を改善 かいぜん した。例 たと えば、ワールド・ベースボール・クラシック の時 とき に台湾 たいわん 代表 だいひょう チームは日本 にっぽん に試合 しあい に行 い ったが、日本 にっぽん の民衆 みんしゅう も台湾 たいわん チームのために応援 おうえん した」[98] と語 かた った。
李 り 登輝 とうき は、921大 だい 地震 じしん に際 さい して真 ま っ先 さき に駆 か けつけたのは日本 にっぽん の救助 きゅうじょ 隊 たい であり、また曽野 その 綾子 あやこ が会長 かいちょう を務 つと めていた日本 にっぽん 財団 ざいだん が3億 おく 円 えん を寄付 きふ し、その授与 じゅよ 式 しき で李 り 登輝 とうき は曽野 その 綾子 あやこ に対 たい して、将来 しょうらい 日本 にっぽん で何 なに か起 お これば、真 ま っ先 さき に駆 か けつけるのは台湾 たいわん の救助 きゅうじょ 隊 たい であると約束 やくそく した[90] 。その後 ご 、東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい が発生 はっせい し、日本 にっぽん 台湾 たいわん 交流 こうりゅう 協会 きょうかい を通 つう じて救助 きゅうじょ 隊 たい の派遣 はけん を申 もう し出 で たが、話 はなし がまとまらず、山梨 やまなし 県 けん 甲府 こうふ 市 し のNPO と話 はなし をつけて、救助 きゅうじょ 隊 たい を自力 じりき で被災 ひさい 地 ち に向 む かわせたが、中国 ちゅうごく や韓国 かんこく の救助 きゅうじょ 隊 たい は到着 とうちゃく しており、到着 とうちゃく 後 ご も「台湾 たいわん からの救助 きゅうじょ 隊 たい を迎 むか え入 い れる準備 じゅんび ができない」と外務省 がいむしょう に言 い われる始末 しまつ であり、「なぜ、当時 とうじ の日本 にっぽん 政府 せいふ は台湾 たいわん の救助 きゅうじょ 隊 たい を受 う け入 い れることを躊躇 ちゅうちょ したのか。『台湾 たいわん は中国 ちゅうごく の一部 いちぶ 』とする中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の意向 いこう を気 き にしたとされる。日本 にっぽん の台湾 たいわん に対 たい する気持 きも ちはその程度 ていど のものだったのかと残念 ざんねん に思 おも った。日本 にっぽん に何 なに かあれば、台湾 たいわん の救助 きゅうじょ 隊 たい がいちばんに駆 か けつけるという曽野 その 氏 し との約束 やくそく を果 は たせなかったことは、私 わたし にとって生涯 しょうがい の痛恨 つうこん 事 ごと である」と吐露 とろ している[90] 。
2014年 ねん 、小学館 しょうがくかん 発行 はっこう の『サピオ 』2014年 ねん 2月 がつ 号 ごう で、「中国 ちゅうごく という国 くに は南京 なんきん 大 だい 虐殺 ぎゃくさつ のようなホラ話 ばなし を世界 せかい に広 ひろ め」、「韓国 かんこく や中国 ちゅうごく は、自国 じこく の宣伝 せんでん 工作 こうさく の一環 いっかん として捏造 ねつぞう した「歴史 れきし 」を利用 りよう する。その最 さい たる例 れい が『慰安 いあん 婦 ふ 』だ」と主張 しゅちょう [99] 。2015年 ねん 、『Voice 』で「台湾 たいわん の慰安 いあん 婦 ふ の問題 もんだい は決着 けっちゃく 済 ず み」と述 の べ、総統 そうとう 府 ふ スポークスマン陳 ちん 以信(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) に「無知 むち ではなく冷血 れいけつ 」、「もし李 り 登輝 とうき が本当 ほんとう に慰安 いあん 婦 ふ 問題 もんだい がすでに決着 けっちゃく 済 ずみ であると考 かんが えているならば、自 みずか ら映画 えいが 館 かん に行 い って映画 えいが 『蘆 あし 葦 あし の歌 うた (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 』を見 み ていただきたい」と痛烈 つうれつ に批判 ひはん された[100] 。
2015年 ねん 8月 がつ には『Voice』2015年 ねん 9月 がつ 号 ごう へ寄稿 きこう した中 なか で「70年 ねん 前 まえ まで日本 にっぽん と台湾 たいわん は『同 おな じ国 こく 』だった…台湾 たいわん が日本 にっぽん と戦 たたか った(抗日 こうにち )という事実 じじつ もない」、「当時 とうじ われわれ兄弟 きょうだい は、紛 まぎ れもなく『日本人 にっぽんじん 』として、祖国 そこく のために戦 たたか った」と発言 はつげん し[101] (日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の台湾 たいわん を指 さ す)、国民党 こくみんとう の憤激 ふんげき を買 か った。その一方 いっぽう で、同年 どうねん 9月 がつ 13日 にち に台湾 たいわん の学生 がくせい 団体 だんたい 主催 しゅさい の講演 こうえん 会 かい に出席 しゅっせき した時 とき は、日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい を「(当時 とうじ の)日本 にっぽん は外来 がいらい 政権 せいけん 」、「(台湾 たいわん の人 ひと が)日本人 にっぽんじん の奴隷 どれい になったのは悲 かな しい」などと語 かた っている[102] [103] 。
西田 にしだ 幾多郎 きたろう の哲学 てつがく に心酔 しんすい しており、政治 せいじ 家 か として出処 しゅっしょ 進退 しんたい が問 と われる場面 ばめん で西田 にしだ 哲学 てつがく を拠 よ り所 どころ にしていたと語 かた っている。また、新渡戸 にとべ 稲造 いなぞう の『武士 ぶし 道 どう 』や夏目 なつめ 漱石 そうせき の「則 のり 天 てん 去 さ 私 わたし 」の思想 しそう にも大 おお きな影響 えいきょう を受 う けていた[104] 。
2020年 ねん 7月 がつ に登輝 とうき の死 し を報 ほう じた中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 系 けい のタブロイド紙 し 環 たまき 球 だま 時報 じほう は、「日本 にっぽん は台湾 たいわん の経済 けいざい 発展 はってん の基礎 きそ を築 きず くのに多大 ただい な貢献 こうけん をしたが、今 いま では私 わたし の日本 にっぽん の友人 ゆうじん の多 おお くが、台湾 たいわん に貢献 こうけん した日本人 にっぽんじん のことを知 し らないのではないかと心配 しんぱい している」などの一連 いちれん の発言 はつげん に触 ふ れて、「日本人 にっぽんじん 自身 じしん でさえ信 しん じられないほどの、上記 じょうき のような馬鹿 ばか げた、卑劣 ひれつ な、そしてどこか哀 あわ れな言葉 ことば は、ゴキブリ が暖 だん を取 と るために抱 だ き合 あ っているに過 す ぎない」などと誹謗 ひぼう した[105] 。
登輝 とうき は「ところで台湾 たいわん をのぞいて、日本 にっぽん には真 しん の友人 ゆうじん がいるのかね」と言 い っており、「日本 にっぽん の真 しん の友人 ゆうじん は台湾 たいわん だけ」であり、アメリカでも中国 ちゅうごく でもない、台湾 たいわん を見 み ろと、アメリカと中国 ちゅうごく に頭 あたま が上 あ がらない日本 にっぽん をシニカルに見 み ていたという評価 ひょうか もある[47] 。
「一 ひと つの中国 ちゅうごく 」を国是 こくぜ とする中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は、李 り 登輝 とうき を「台湾 たいわん 独立 どくりつ 勢力 せいりょく の象徴 しょうちょう 的 てき 人物 じんぶつ 」として危険 きけん 視 し し、李 り 登輝 とうき の訪日 ほうにち 希望 きぼう には査証 さしょう を発給 はっきゅう しないよう要求 ようきゅう していた。ただし、李 り 登輝 とうき は政界 せいかい 入 い り直後 ちょくご に日本 にっぽん の政治 せいじ 家 か と会談 かいだん し、副 ふく 総統 そうとう 時代 じだい にも査証 さしょう 発給 はっきゅう の問題 もんだい なしに訪日 ほうにち を実現 じつげん した。2000年 ねん の総統 そうとう 退任 たいにん 以は、計 けい 9回 かい にわたり来日 らいにち 。
2001年 ねん
2001年 ねん 4月 がつ 、持病 じびょう の心臓 しんぞう 病 びょう 治療 ちりょう の目的 もくてき で岡山 おかやま 県 けん の倉敷 くらしき 市 し を訪問 ほうもん した。日本 にっぽん 政府 せいふ は人道的 じんどうてき な措置 そち として査証 さしょう 発給 はっきゅう 。この騒動 そうどう を主 おも な契機 けいき として同年 どうねん 12月 がつ に日本 にっぽん 李 り 登輝 とうき 友 とも の会 かい が設立 せつりつ される。李 り 登輝 とうき もインターネット を通 つう じて講演 こうえん を行 おこな った。李 り 登輝 とうき が心臓 しんぞう 病 びょう の治療 ちりょう のために訪日 ほうにち しようとした際 さい 、中国 ちゅうごく を怒 おこ らせることを恐 おそ れた河野 こうの 洋平 ようへい 外相 がいしょう や外務省 がいむしょう の反対 はんたい により、なかなかビザ が下 お りなかった[106] 。これについて、「義 ぎ を見 み てせざるは勇 いさみ なきなり」という武士 ぶし 道 どう の精神 せいしん を表 あらわ す言葉 ことば があり、武士 ぶし 道 どう は日本人 にっぽんじん にとって最高 さいこう の道徳 どうとく のはずであるが、このとき日本 にっぽん という国 くに はほんとうにおかしくなっていると感 かん じたと吐露 とろ している[106] 。その一方 いっぽう で、東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい で日本 にっぽん 国民 こくみん がみせた節度 せつど ある行動 こうどう や献身 けんしん 的 てき な自己 じこ 犠牲 ぎせい は、まさに武士 ぶし 道 どう の精神 せいしん そのものであり、武士 ぶし 道 どう という言葉 ことば 自体 じたい はいまの日本 にっぽん ではあまり使 つか われなくなっていたとしても、その精神 せいしん はけっして失 うしな われておらず、それを世界 せかい の人々 ひとびと が称賛 しょうさん したと述 の べている[106] 。
2002年 ねん (中止 ちゅうし )
2002年 ねん 10月、慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく の学術 がくじゅつ サークル「経済 けいざい 新人 しんじん 会 かい 」が同 どう 大学 だいがく の学園 がくえん 祭 さい 「三田 みた 祭 さい 」において講演 こうえん を依頼 いらい したため、その依頼 いらい を受 う けて訪日 ほうにち する意向 いこう が伝 つた えられた。当初 とうしょ 、講演 こうえん は問題 もんだい なく実現 じつげん するかにみられたが、11月7日 にち に学園 がくえん 祭 さい の実行 じっこう 委員 いいん 会 かい が講演 こうえん を却下 きゃっか した。その後 ご 、会場 かいじょう を別 べつ にして講演 こうえん が行 おこな われる予定 よてい だったが、日本 にっぽん 政府 せいふ が李 り 登輝 とうき への査証 さしょう の発給 はっきゅう を拒否 きょひ 。訪日 ほうにち と講演 こうえん は実現 じつげん しなかった[107] 。講演 こうえん 予定 よてい だった内容 ないよう は、11月19日 にち 付 つ け産経新聞 さんけいしんぶん 朝刊 ちょうかん で「日本人 にっぽんじん の精神 せいしん 」と題 だい して全文 ぜんぶん が掲載 けいさい された。
2004年 ねん
2004年 ねん 12月から翌年 よくねん 1月 がつ にかけて、家族 かぞく ら(妻 つま ・文恵 ふみえ 、長男 ちょうなん の妻 つま 、孫娘 まごむすめ ・坤 ひつじさる 儀 ぎ )を伴 ともな い、観光 かんこう 旅行 りょこう として訪日 ほうにち した。その際 さい 「私人 しじん に対 たい する査証 さしょう を断 ことわ る理由 りゆう はない」として、査証 さしょう が発給 はっきゅう された。ただし、政治 せいじ 的 てき 行動 こうどう をしないなどの条件 じょうけん を日本 にっぽん 政府 せいふ は求 もと めたとされる。李 り 登輝 とうき は、名古屋 なごや 市 し 、八田 はった 與一 よいち や西田 にしだ 幾多郎 きたろう の出身 しゅっしん 地 ち である金沢 かなざわ 市 し 、京都 きょうと 市 し を訪 おとず れた。京都 きょうと では、京都 きょうと 帝国 ていこく 大学 だいがく 時代 じだい の恩師 おんし である柏 かしわ 祐 ゆう 賢 けん と再会 さいかい を果 は たしたほか、京都大学 きょうとだいがく 農学部 のうがくぶ を訪問 ほうもん したが、本部 ほんぶ キャンパスの敷地 しきち へ入 はい ることは認 みと められず、入口 いりくち から眺 なが めるに終 お わった。これは、京都 きょうと 大学 だいがく 側 がわ が大学 だいがく の自治 じち を盾 たて に警察官 けいさつかん の入構 にゅうこう を拒否 きょひ したため、李 り 登輝 とうき が警備 けいび 上 じょう の理由 りゆう から訪問 ほうもん を断念 だんねん したという[108] 。
2007年 ねん
2007年 ねん 5月 がつ から6月 がつ にかけて、かねて念願 ねんがん だった奥 おく の細道 ほそみち を訪 たず ねる目的 もくてき で訪日 ほうにち し、東京 とうきょう ・仙台 せんだい ・山形 やまがた ・盛岡 もりおか ・秋田 あきた などを訪問 ほうもん した。6月7日 にち には、日本 にっぽん 兵 へい として戦死 せんし した兄 あに や、3万 まん 人 にん 余 あま りの台湾 たいわん 人 じん 日本 にっぽん 兵 へい 戦死 せんし 者 しゃ のうち26,000人 にん が奉 たてまつ られている靖国神社 やすくにじんじゃ を参拝 さんぱい した[109] 。その際 さい に登輝 とうき は同 どう 神社 じんじゃ に対 たい し「兄 あに の霊 れい を守 まも ってくれることに感謝 かんしゃ している」と述 の べた[109] 。日本 にっぽん 三景 さんけい の一 ひと つである松島 まつしま では「松島 まつしま や 光 ひかり と影 かげ の 眩 まぶし しかり」と自作 じさく の句 く を詠 よ み、後 のち に句碑 くひ が建立 こんりゅう された。この時 とき 、芭蕉 ばしょう が松島 まつしま で句作 くさく をしていないことにふれ、「私 わたし は詠 よ んだ」と発言 はつげん した。
日本 にっぽん 政府 せいふ は2005年 ねん 3月 がつ 以降 いこう 、観光 かんこう 目的 もくてき の台湾 たいわん 居住 きょじゅう 者 しゃ の日本 にっぽん 入国 にゅうこく 査証 さしょう の免除 めんじょ を行 おこな っているため、今回 こんかい の訪問 ほうもん では査証 さしょう 発給 はっきゅう 問題 もんだい は発生 はっせい しなかった。また訪日 ほうにち や靖国 やすくに 参拝 さんぱい などに対 たい する中国 ちゅうごく 側 がわ の反 はん 応 おう も、日 にち 中 ちゅう 関係 かんけい に配慮 はいりょ してか今回 こんかい は比較的 ひかくてき 抑制 よくせい 的 てき であった。産経新聞 さんけいしんぶん の報道 ほうどう によれば、ハイリゲンダム・サミット で当初 とうしょ 、中国 ちゅうごく 側 がわ は登輝 とうき の訪日 ほうにち に激 はげ しく反発 はんぱつ したものの、日本 にっぽん 側 がわ が強 つよ い態度 たいど に出 で たところ矛 ほこ を収 おさ め、何事 なにごと もなかったかのように予定 よてい 通 どお り日 び 中 ちゅう 首脳 しゅのう 会談 かいだん が行 おこな われた。朝日新聞 あさひしんぶん がこれについて「李 り 登輝 とうき の影響 えいきょう 力 りょく が低下 ていか 」という旨 むね の記事 きじ を載 の せたが、登輝 とうき と敵対 てきたい する国民党 こくみんとう 幹部 かんぶ のインタビューのみを根拠 こんきょ としていたことで批判 ひはん を浴 あ びた。
6月9日 にち 、成田空港 なりたくうこう から離日 りにち の際 さい に台湾 たいわん 独立 どくりつ 反対 はんたい 派 は の在日 ざいにち 中国人 ちゅうごくじん の男 おとこ に、中身 なかみ が入 はい ったペットボトル を2本 ほん 投 な げつけられた。男 おとこ は空港 くうこう 警察官 けいさつかん に現行 げんこう 犯 はん で取 と り押 お さえられ、夫妻 ふさい にけがはなかった。
2008年 ねん
2008年 ねん 9月22日 にち 、沖縄 おきなわ で講演 こうえん を行 おこな う目的 もくてき で訪日 ほうにち した。翌 よく 9月23日 にち には「学問 がくもん のすゝめ と日本 にっぽん 文化 ぶんか の特徴 とくちょう 」について講演 こうえん した。講演 こうえん では、日本 にっぽん は物質 ぶっしつ 的 てき な面 めん での豊 ゆた かさばかり重視 じゅうし するのではなく、日本 にっぽん 文化 ぶんか の伝統 でんとう の精神 せいしん 的 てき 側面 そくめん である高 たか い道徳心 どうとくしん を重視 じゅうし し、福沢 ふくさわ 諭吉 ゆきち が『学問 がくもん のすゝめ』の中 なか で説 と いた道徳 どうとく 観 かん を再 さい 構築 こうちく すべきだと主張 しゅちょう した[110] [111] 。その中 なか で「今 いま の日本 にっぽん と台湾 たいわん はともに指導 しどう 者 しゃ のいない状況 じょうきょう だ」と発言 はつげん し、暗 あん に馬 うま 英 えい 九 きゅう 政権 せいけん を批判 ひはん した[112] 。
2009年 ねん
2009年 ねん 9月、東京 とうきょう 青年 せいねん 会議 かいぎ 所 しょ と、塩川正十郎 しおかわまさじゅうろう が理事 りじ 長 ちょう 、江口 えぐち 克彦 かつひこ が副 ふく 理事 りじ 長 ちょう を務 つと める武士 ぶし 道 どう 協会 きょうかい の共催 きょうさい による講演 こうえん のため訪日 ほうにち 。会場 かいじょう の日比谷公会堂 ひびやこうかいどう には、中條 ちゅうじょう 高徳 たかのり 、櫻井 さくらい よしこ 、江口 えぐち 克彦 かつひこ 、小林 こばやし よしのりなどの著名 ちょめい 人 じん が多数 たすう 訪 おとず れた。このほか高知 こうち 県 けん なども訪 おとず れ、坂本 さかもと 龍馬 りょうま ゆかりの場所 ばしょ (坂本 さかもと 龍馬 りょうま 記念 きねん 館 かん ・坂本 さかもと 龍馬 りょうま 像 ぞう など)を見学 けんがく した[113] 。
2014年 ねん
大阪 おおさか 府 ふ 、東京 とうきょう 都 と 、北海道 ほっかいどう
2015年 ねん
中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう 経験 けいけん 者 しゃ として初 はじ めて国会 こっかい 施設 しせつ で講演 こうえん 。福島 ふくしま 県 けん と宮城 みやぎ 県 けん も訪問 ほうもん 。
2016年 ねん
石垣島 いしがきじま
2018年 ねん
沖縄 おきなわ
訪台 ほうたい した日本 にっぽん の学生 がくせい との交流 こうりゅう [ 編集 へんしゅう ]
2009年 ねん 12月18日 にち に、台北 たいぺい 市内 しない で、訪台 ほうたい 中 ちゅう の日本 にっぽん の高校生 こうこうせい 約 やく 100人 にん を相手 あいて に『日本 にっぽん と台湾 たいわん の歴史 れきし と今後 こんご の関係 かんけい 』をテーマに講演 こうえん した。李 り は講演 こうえん で「あなたたちの偉大 いだい な祖先 そせん の功績 こうせき を知 し り、誇 ほこ りに思 おも ってほしい」「公 おおやけ に尽 つ くし、忠誠 ちゅうせい を尽 つ くした偉大 いだい な祖先 そせん が作 つく り上 あ げてきた『日本 にっぽん 精神 せいしん 』を学 まな び、あなたたちも大切 たいせつ にしてほしい」と述 の べた[114] 。
2010年 ねん 3月24日 にち 、「第 だい 7回 かい 日 び 台 だい 文化 ぶんか 交流 こうりゅう 青少年 せいしょうねん スカラシップ」の日本 にっぽん 側 がわ 研修 けんしゅう 団 だん の表敬 ひょうけい 訪問 ほうもん を受 う けた。李 り は学生 がくせい に対 たい し「日本人 にっぽんじん は教育 きょういく と政治 せいじ の影響 えいきょう で否定 ひてい 的 てき な価値 かち 観 かん を持 も たされ、心理 しんり 的 てき な鎖国 さこく に陥 おちい っている。日本 にっぽん の気高 けだか い形而上学 けいじじょうがく 的 てき ・道徳 どうとく 的 てき 価値 かち 観 かん と品格 ひんかく を大切 たいせつ にし、自 みずか らの歴史 れきし を肯定 こうてい しなさい」と述 の べた。また、日本 にっぽん の台湾 たいわん 統治 とうち にも触 ふ れ「日本 にっぽん は植民 しょくみん 地 ち の形 かたち ではあったが台湾 たいわん 近代 きんだい 化 か に大 おお きな貢献 こうけん をした」と述 の べた[115] 。
日本 にっぽん 政府 せいふ 特使 とくし として訪台 ほうたい し、蔡英文 えいぶん 総統 そうとう と会談 かいだん した森 もり 喜朗 よしろう 元 もと 首相 しゅしょう (左側 ひだりがわ 。2020年 ねん 8月 がつ 9日 にち )
李 り 登輝 とうき 元 もと 総統 そうとう の死去 しきょ を受 う けて、日本 にっぽん では、2020年 ねん 8月 がつ 3日 にち に東京 とうきょう 都 と 港 みなと 区 く 白金台 しろかねだい の台北 たいぺい 駐日 ちゅうにち 経済 けいざい 文化 ぶんか 代表 だいひょう 処 しょ に弔問 ちょうもん 記帳 きちょう 台 だい が設 もう けられた[116] 。記帳 きちょう 台 だい は東京 とうきょう のほか、大阪 おおさか の弁 べん 事 ごと 処 しょ や那覇 なは 分 ぶん 処 しょ ・横浜 よこはま 分 ぶん 処 しょ ・札幌 さっぽろ 分 ぶん 処 しょ にも設置 せっち された。
主 おも な弔問 ちょうもん 者 しゃ
2020年 ねん 8月 がつ 9日 にち 、安倍晋三 あべしんぞう 首相 しゅしょう の意向 いこう にて弔問 ちょうもん 団 だん の団長 だんちょう となった森 もり 喜朗 よしろう らが追悼 ついとう 場 じょう が設置 せっち された迎賓館 げいひんかん 「台北 たいぺい 賓 まろうど 館 かん 」を訪 おとず れ、弔意 ちょうい を表明 ひょうめい 。この台湾 たいわん への弔問 ちょうもん 団 だん は日本 にっぽん 台湾 たいわん 交流 こうりゅう 協会 きょうかい と超党派 ちょうとうは 議員 ぎいん 連盟 れんめい である日 にち 華 はな 議員 ぎいん 懇談 こんだん 会 かい が派遣 はけん 。李 り 登輝 とうき の死去 しきょ 後 ご 、海外 かいがい から派遣 はけん された最初 さいしょ の弔問 ちょうもん 団 だん となった[117] [118] 。
主 おも な弔問 ちょうもん 団 だん メンバー
1923年 ねん 1月 がつ 15日 にち 、当時 とうじ の台北 たいぺい 県 けん 三芝郷埔坪村に生 う まれた。父 ちち の李 り 金 きむ 龍 りゅう は警察官 けいさつかん 。母 はは は江 こう 錦 にしき 。一 ひと つ上 じょう の兄 あに は李 り 登 のぼる 欽。
1929年 ねん - 淡水 たんすい 公 こう 学校 がっこう 入学 にゅうがく 。
1935年 ねん - 淡水 たんすい 公 こう 学校 がっこう 尋常 じんじょう 科 か 卒業 そつぎょう 。
1936年 ねん - 淡水 たんすい 中学校 ちゅうがっこう 入学 にゅうがく 。
1940年 ねん - 台北 たいぺい 高等 こうとう 学校 がっこう 入学 にゅうがく 。
1943年 ねん - 京都 きょうと 帝国 ていこく 大学 だいがく 農学部 のうがくぶ 農林 のうりん 経済 けいざい 学科 がっか に入学 にゅうがく 。のち、学徒 がくと 出陣 しゅつじん 。終戦 しゅうせん 時 じ の階級 かいきゅう は陸軍 りくぐん 少尉 しょうい 。
1945年 ねん - 2月 がつ 15日 にち 、兄 あに の李 り 登 のぼる 欽がルソン島 とう マニラ市 し のマニラ湾 まにらわん において戦死 せんし 。享年 きょうねん 24。大日本帝国 だいにっぽんていこく 軍人 ぐんじん として靖國神社 やすくにじんじゃ に祀 まつ られる。
1946年 ねん - 台湾 たいわん に帰 かえ って台湾 たいわん 大学 だいがく に編入 へんにゅう し学業 がくぎょう を継続 けいぞく した。
1947年 ねん - 二 に ・二 に 八 はち 事件 じけん が発生 はっせい するが、難 なん を逃 のが れる。
1949年 ねん - 2月 がつ 、曽 そ 文恵 ふみえ と結婚 けっこん 。8月、台湾 たいわん 大学 だいがく で農業 のうぎょう 経済 けいざい 学士 がくし の学位 がくい を取得 しゅとく し卒業 そつぎょう し、同 どう 大学 だいがく 助手 じょしゅ に。
1951年 ねん - 中米 ちゅうべい 基金 ききん 奨学 しょうがく 金 きん を受 う けアメリカのアイオワ州立 しゅうりつ 大学 だいがく で農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく を研究 けんきゅう する。
1953年 ねん - アイオワ州立 しゅうりつ 大学 だいがく より農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく の修士 しゅうし 号 ごう を取得 しゅとく 。帰国 きこく 後 ご 、台湾 たいわん 大学 だいがく の講師 こうし に。
1954年 ねん - 台湾 たいわん 省 しょう 農林 のうりん 庁 ちょう 技師 ぎし および農業 のうぎょう 経済 けいざい 分析 ぶんせき 係長 かかりちょう を兼務 けんむ 。
1961年 ねん - キリスト教 きりすときょう に入信 にゅうしん 。
1968年 ねん - アメリカのコーネル大学 だいがく より農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく の博士 はかせ 号 ごう を取得 しゅとく して帰国 きこく 。
1970年 ねん - 国連 こくれん よりタイ のバンコク での講演 こうえん 依頼 いらい をうけるが、要注意 ようちゅうい 人物 じんぶつ のため出国 しゅっこく できず。
1971年 ねん - 国民党 こくみんとう 入党 にゅうとう 。
1972年 ねん - 行政 ぎょうせい 院 いん 政務 せいむ 委員 いいん に就任 しゅうにん 。
1978年 ねん - 台北 たいぺい 市長 しちょう に就任 しゅうにん (当初 とうしょ 行政 ぎょうせい 院 いん 政務 せいむ 委員 いいん 兼務 けんむ )。
1981年 ねん - 台湾 たいわん 省 しょう 政府 せいふ 主席 しゅせき に就任 しゅうにん 。
1984年 ねん - 副 ふく 総統 そうとう に就任 しゅうにん 。
1988年 ねん - 1月 がつ 13日 にち 、蔣経国 こく 総統 そうとう の死去 しきょ により総統 そうとう を継承 けいしょう 。
1995年 ねん - 総統 そうとう 就任 しゅうにん 後 ご 初 はつ 渡米 とべい し、母校 ぼこう コーネル大学 だいがく で講演 こうえん 。
1996年 ねん - 中華民国 ちゅうかみんこく 史上 しじょう 初 はつ の総統 そうとう 直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ を実施 じっし し勝利 しょうり 。
1999年 ねん - 7月 がつ 、ドイツ の放送 ほうそう 局 きょく によるインタビューに答 こた え、「中国 ちゅうごく と台湾 たいわん の関係 かんけい は特殊 とくしゅ な国 くに と国 くに との関係 かんけい 」であると定義 ていぎ し、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう から強 つよ い反発 はんぱつ を受 う ける。10月、『台湾 たいわん の主張 しゅちょう 』で山本 やまもと 七 なな 平 たいら 賞 しょう を受賞 じゅしょう 。
2000年 ねん - 3月、総統 そうとう 選挙 せんきょ で国民党 こくみんとう の連戦 れんせん 候補 こうほ が惨敗 ざんぱい した責任 せきにん を取 と り、同 どう 党 とう 主席 しゅせき を辞任 じにん 。12月、拓殖大学 たくしょくだいがく により名誉 めいよ 博士 はかせ の称号 しょうごう を贈 おく られた。
2001年 ねん - 4月 がつ 、心臓 しんぞう 病 びょう 治療 ちりょう のため訪日 ほうにち 。岡山 おかやま 県 けん 倉敷 くらしき 市 し などを訪 おとず れた。7月、台湾 たいわん 団結 だんけつ 連盟 れんめい を立 た ち上 あ げ、精神 せいしん 的 てき 指導 しどう 者 しゃ となる。9月、これが反 はん 党 とう 行為 こうい とみなされ、国民党 こくみんとう を除名 じょめい 。
2002年 ねん - 10月、慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく の学術 がくじゅつ サークル「経済 けいざい 新人 しんじん 会 かい 」が同 どう 大学 だいがく の学園 がくえん 祭 さい 「三田 みた 祭 さい 」での講演 こうえん を依頼 いらい したため訪日 ほうにち する意向 いこう が伝 つた えられる。11月、日本 にっぽん 政府 せいふ が李 り 登輝 とうき のビザの発給 はっきゅう を拒否 きょひ したため、訪日 ほうにち と講演 こうえん が中止 ちゅうし になる。
2003年 ねん - 12月12日 にち 、中央大学 ちゅうおうだいがく の学生 がくせい 主催 しゅさい のインターネット講演 こうえん 会 かい で日本人 にっぽんじん 向 む けの講演 こうえん を行 おこな った。
2004年 ねん - 12月27日 にち 、3年 ねん 8カ月 かげつ ぶりに訪日 ほうにち 。
2007年 ねん - 5月30日 にち 、約 やく 2年 ねん 半 はん ぶりに訪日 ほうにち 。6月1日 にち 、第 だい 1回 かい 「後藤 ごとう 新平 しんぺい 賞 しょう 」受賞 じゅしょう (後藤 ごとう 新平 しんぺい の会 かい 主催 しゅさい )。
2008年 ねん - 9月22日 にち 、1年 ねん 4カ月 かげつ ぶりに訪日 ほうにち 。11月23日 にち 、中 なか 正紀 まさき 念 ねん 堂 どう で行 おこな われた拓殖大学 たくしょくだいがく 学友 がくゆう 会 かい 主催 しゅさい のアジア・ヨーロッパ学友 がくゆう 大会 たいかい で講演 こうえん を行 おこな った。
2009年 ねん - 9月4日 にち 、1年 ねん ぶりに訪日 ほうにち 。
2011年 ねん - 6月30日 にち 、公金 こうきん 横領 おうりょう と資金 しきん 洗浄 せんじょう の罪 つみ で起訴 きそ される[61] [62] [63] 。
2013年 ねん - 11月15日 にち 、台北 たいぺい 地方裁判所 ちほうさいばんしょ で無罪 むざい 判決 はんけつ [119] 。
2015年 ねん - 10月27日 にち 、台湾 たいわん で結成 けっせい された新党 しんとう 「時代 じだい 力量 りきりょう 」の党員 とういん らと面会 めんかい し助言 じょげん を与 あた えた[120] 。
2020年 ねん - 2月 がつ 、自宅 じたく で牛乳 ぎゅうにゅう を誤 あやま 嚥 えん し、入院 にゅういん 。
2020年 ねん - 7月 がつ 30日 にち 、死去 しきょ 。97歳 さい 。病院 びょういん が発表 はっぴょう 。
『愛 あい と信仰 しんこう わが心 しん の内 うち なるメッセージ』早稲田 わせだ 出版 しゅっぱん 、1989年 ねん
『台湾 たいわん がめざす未来 みらい 中華民国 ちゅうかみんこく 総統 そうとう から世界 せかい へのメッセージ』陳 ちん 鵬 ほう 仁 じん 訳 やく 、柏書房 かしわしょぼう 、1995年 ねん
加瀬 かせ 英明 ひであき と共著 きょうちょ 『これからのアジア』 光文社 こうぶんしゃ 〈カッパ・ブックス 〉、1996年 ねん
『台湾 たいわん の主張 しゅちょう 』PHP研究所 けんきゅうじょ 、1999年 ねん 。 /新編 しんぺん 〈PHP文庫 ぶんこ 〉、2021年 ねん 。
『台湾 たいわん 大 だい 地震 じしん 救 すくい 災 わざわい 日記 にっき 』 PHP研究所 けんきゅうじょ 、2000年 ねん
中嶋 なかじま 嶺 みね 雄 つよし と共著 きょうちょ 『アジアの知略 ちりゃく 日本 にっぽん は歴史 れきし と未来 みらい に自信 じしん を持 も て』光文社 こうぶんしゃ 〈カッパ・ブックス〉、2000年 ねん
小林 こばやし よしのり と共著 きょうちょ 『李 り 登輝 とうき 学校 がっこう の教 おし え』小学館 しょうがくかん 、2001年 ねん 。 /〈小学館 しょうがくかん 文庫 ぶんこ 〉、2003年 ねん
『「武士 ぶし 道 どう 」解題 かいだい ノーブレス・オブリージュ とは』 小学館 しょうがくかん 、2003年 ねん 。 /〈小学館 しょうがくかん 文庫 ぶんこ 〉、2006年 ねん
『李 り 登輝 とうき 実録 じつろく 台湾 たいわん 民主 みんしゅ 化 か への蔣経国 こく との対話 たいわ 』中嶋 なかじま 嶺 みね 雄 つよし 監 かん 訳 やく 、産経新聞 さんけいしんぶん 出版 しゅっぱん 、2006年 ねん
『最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ の条件 じょうけん 』PHP研究所 けんきゅうじょ 、2008年 ねん 。 /新版 しんぱん 、2013年 ねん 。 /改題 かいだい 『指導 しどう 者 しゃ とは何 なに か』〈PHP文庫 ぶんこ 〉、2015年 ねん
『日 にち 台 だい の「心 しん と心 しん の絆 きずな 」 素晴 すば らしき日本人 にっぽんじん へ』宝島社 たからじましゃ 、2012年 ねん
『李 り 登輝 とうき より日本 にっぽん へ 贈 おく る言葉 ことば 』ウェッジ、2014年 ねん
『新 しん ・台湾 たいわん の主張 しゅちょう 』PHP研究所 けんきゅうじょ 〈PHP新書 しんしょ 〉、2015年 ねん
浜田 はまだ 宏一 こういち と共著 きょうちょ 『日 にち 台 たい IoT同盟 どうめい 第 だい 四 よん 次 じ 産業 さんぎょう 革命 かくめい は東 ひがし アジアで爆発 ばくはつ する』講談社 こうだんしゃ 、2016年 ねん
『熱誠 ねっせい 憂国 ゆうこく 日本人 にっぽんじん へ伝 つた えたいこと』毎日新聞 まいにちしんぶん 出版 しゅっぱん 、2016年 ねん
『主 おも のための証 あかし 李 り 登輝 とうき の信仰 しんこう 告白 こくはく 』陳 ちん 銘 めい 俊 しゅん ・陳 ちん 忠正 ただまさ 訳 やく 、海鳥 うみどり 社 しゃ 、2020年 ねん 。日記 にっき
『愛 あい する日本人 にっぽんじん へ 日本 にっぽん と台湾 たいわん の梯 はしご となった巨人 きょじん の遺言 ゆいごん 』門田 かどた 隆 たかし 将 しょう (監修 かんしゅう )、宝島社 たからじましゃ 、2020年 ねん
^ 農業 のうぎょう 経済 けいざい 学 がく を専攻 せんこう する学生 がくせい は、農学部 のうがくぶ 所属 しょぞく ではあったが、文系 ぶんけい として扱 あつか われた。
^ 登輝 とうき は、陸軍 りくぐん 士官 しかん 課程 かてい と高射 こうしゃ 砲 ほう 課程 かてい を修了 しゅうりょう し、配属 はいぞく 先 さき が決 き まっていた為 ため 、この申 もう し出 で は事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう であった。
^ 憲 けん 文 ぶん は、新聞 しんぶん 記者 きしゃ として活動 かつどう する傍 かたわ ら、日本 にっぽん への旅行 りょこう で見 み つけた原田 はらだ 鋼 こう の『権力 けんりょく 複 ふく 合 あい 態 たい の理論 りろん : 少数 しょうすう 者 しゃ 支配 しはい と多数 たすう 者 しゃ 支配 しはい 』を翻訳 ほんやく するなど、かなり日本語 にほんご を身 み につけていた。当時 とうじ 、闘病 とうびょう 中 ちゅう の息子 むすこ のそばに少 すこ しでもいてやりたいながらも省 はぶけ 主席 しゅせき としての任務 にんむ も全 まっと うしなければならない李 り 登輝 とうき に対 たい し、一部 いちぶ の議員 ぎいん が嫌 いや がらせのためにいつまでも質問 しつもん をやめないこともあったとされる。李 り 登輝 とうき は、息子 むすこ の亡骸 なきがら をストレッチャーに乗 の せると「冷 つめ たいだろうから」と、自 みずか ら抱 だ いて運 はこ んだという[31] 。
河崎 かわさき 眞澄 ますみ 『李 り 登輝 とうき 秘録 ひろく 』産経新聞 さんけいしんぶん 出版 しゅっぱん 、2020年 ねん
早川 はやかわ 友久 ともひさ 『李 り 登輝 とうき いま本当 ほんとう に伝 つた えたいこと』ビジネス社 しゃ 、2020年 ねん
早川 はやかわ 友久 ともひさ 『総統 そうとう とわたし 「アジアの哲人 てつじん 」李 り 登輝 とうき の一番 いちばん 近 ちか くにいた日本人 にっぽんじん 秘書 ひしょ の8年間 ねんかん 』ウェッジ、2020年 ねん
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