衆道しゅどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
衆道しゅどう物語ものがたり」1661.

衆道しゅどう(しゅどう)とは日本にっぽんにおける女人にょにん禁制きんせいまたきわめて女人にょにん禁制きんせいちか環境かんきょう発生はっせいした、身分みぶん立場たちばがある男性だんせい同士どうし男色なんしょくをいう。「わか衆道しゅどう」(わかしゅどう)のりゃくであり、別名べつめいに「わかみち」(じゃくどう/にゃくどう)、「わかいろ」(じゃくしょく)がある。

身分みぶんがあるため、現代げんだい価値かちかんだと、男性だんせいばかりの職場しょくばにおける上司じょうしによるセクシャルハラスメントパワーハラスメント年少ねんしょうしゃがわ年齢ねんれい次第しだい未成年みせいねん淫行いんこうちかいとも指摘してきされる。ただし、年少ねんしょうしゃなかにも出世しゅっせするために利用りようするものもいた。身分みぶん同性愛どうせいあい男性だんせいしゃ同士どうし(真性しんせい同性愛どうせいあい)とことなり、機会きかいてき同性愛どうせいあいめんつよかったので異性愛者いせいあいしゃとして女性じょせいとの性的せいてき接触せっしょく容易ようい時代じだいになると衰退すいたいした[1][2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

女人にょにん禁制きんせい影響えいきょう[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい女人にょにん禁制きんせいにいることのおお僧侶そうりょ公家くげあいだで「主従しゅうじゅう関係かんけい」や「売買ばいばい関係かんけい」を利用りようした性欲せいよく処理しょり目的もくてき男色なんしょくが、中世ちゅうせい室町むろまち時代ときよ以降いこう戦地せんち寝所ねどこでの護衛ごえいなど女性じょせい周囲しゅういにいない環境かんきょうにいた一部いちぶ武士ぶしあいだ部下ぶか小姓こしょうたいしてもされるようになった。ぎゃく男色なんしょくこの上司じょうし主君しゅくんへの「出世しゅっせ手段しゅだん」にも利用りようするものもいた[1][2][3]衆道しゅどう言葉ことばがいつから男色なんしょく意味いみ使つかわれるようになったかは不明ふめいだが、うけたまわおうねん(1653ねん)の江戸えど幕府ばくふの「廛商估并文武ぶんぶせきよせめいしゃれいじょう遊女ゆうじょ并隠賣女ばいた)」に確認かくにんできる[4]。「衆道しゅどう」の原義げんぎ主君しゅくん忠義ちゅうぎたしていのちささげてぬことというものであったが、現在げんざい確認かくにんされているもので幕府ばくふ公式こうしきれいじょう衆道しゅどう男色なんしょく意味いみ使つかわれたのはこれが最初さいしょとみられ、江戸えど時代じだいから武士ぶし男色なんしょく衆道しゅどうばれるようになったと推定すいていされている。1716ねんごろかれた『葉隠はがくれ』には、ねんしゃ[5]若衆わかしゅ[6]という義兄弟ぎきょうだいてき男色なんしょく心得こころえかれ、「たがいにおも相手あいて一生いっしょうにただひとりだけ」「相手あいてなんえるなどは言語道断ごんごどうだん」「そのためには5ねんってみて、よく相手あいて人間にんげんせい見極みきわめるべき」としている。また、相手あいて人間にんげんとして信用しんようできないような浮気うわきしゃだったら、価値かちがないので断固だんことしてわかれるべきだとき、怒鳴どなりつけてもまとわりついてくるようであれば、「り捨つべし」といのちがけのものが最高さいこうとしている[7]

衆道しゅどう愛玩あいがん対象たいしょうとの性愛せいあいたしなむものの心得こころえ色道しきどうひとつとして位置いちづけられるが、遊里ゆうりでの性愛せいあい色道しきどうくらべ、より倫理りんりてき色彩しきさいつよ[8]

江戸えど時代じだいには遊女ゆうじょがいたものの、高価こうかなためやす男娼だんしょうます男性だんせい女性じょせいすくない都市としにはいた[9]機会きかいてき同性愛どうせいあい性格せいかくつよ衆道しゅどうには、女人にょにん禁制きんせい寺社じしゃにおける稚児ちごへのペドフィリア小姓こしょうなど、身分みぶん年齢ねんれいといった明確めいかく上下じょうげ関係かんけい背景はいけいにあるため、現代げんだいでは上司じょうし部下ぶか地位ちい権力けんりょく背景はいけい性的せいてき行為こういおこなパワハラセクハラにあたるケースもおおく、現代げんだい成人せいじん同士どうし合意ごういあいもとづく純粋じゅんすい同性愛どうせいあいしゃ同士どうし同性愛どうせいあい(真性しんせい同性愛どうせいあい)と混同こんどうすることに否定ひていてき意見いけんがある[1][2][10]

武士ぶし男色なんしょく江戸えど時代じだいよりまえ[編集へんしゅう]

武家ぶけ社会しゃかい男色なんしょくは、それまでの公家くげ美少年びしょうねん趣味しゅみとはことなり、女人にょにん禁制きんせい戦場せんじょう武将ぶしょうつかえる「お小姓こしょう」としてれてった部下ぶかしたことなどがはじまりだとされる。戦地せんちでは女性じょせいはいないため、そのわりに美少年びしょうねん小姓こしょう性欲せいよく発散はっさん相手あいてとするものがいた[11]

岩田いわた準一じゅんいちの『本朝ほんちょう男色なんしょくこう 男色なんしょく文献ぶんけん書志しょし』によると、武家ぶけ社会しゃかい男色なんしょくは、戦国せんごく時代じだいよりまえから存在そんざいしており、貴族きぞく政治せいじから武家ぶけ社会しゃかいてんじる鎌倉かまくら時代ときよにその習俗しゅうぞくはあったという。そして「最初さいしょには僧侶そうりょ特有とくゆう風俗ふうぞくらしくおもわれていたものが、ついには武士ぶしによってほとんどうばわれてしまったごとき奇観きかんていする」とべている。

白倉しらくらたかしの『江戸えど男色なんしょく』によれば、将軍しょうぐん小姓こしょう制度せいど確立かくりつしたのは室町むろまち幕府ばくふころである。のうらく創始そうししゃとなった世阿弥ぜあみなども足利あしかが義満よしみつちょうわらわ一人ひとりであり、将軍しょうぐん寵愛ちょうあいされ庇護ひごけるなど、男色なんしょく相手あいてをすることは出世しゅっせ庇護ひごのための手段しゅだんでもあった。

氏家うじいえ幹人みきひとは『武士ぶしどうとエロス』で「戦術せんじゅつとしての男色なんしょく」をげている。『新編しんぺん会津あいづ風土記ふどきまきななじゅうよんつたえる「土人どじん口碑こうひ」で、文明ぶんめい11ねん(1479ねん)にあしめい男色なんしょくちぎりを戦略せんりゃくてき利用りようしててきかた情報じょうほう入手にゅうしゅし、高田たかだしろ攻撃こうげき仕掛しかけたという。このように武家ぶけ社会しゃかい男色なんしょくは「出世しゅっせ手段しゅだん」や「戦術せんじゅつ」、あるいは軍団ぐんだん団結だんけつ強化きょうか役割やくわりもあった[4]

江戸えど時代じだい衆道しゅどう平和へいわ女性じょせい増加ぞうかによる衰退すいたい[編集へんしゅう]

袋井ふくろい宿やどえがいた春画しゅんが(1840年代ねんだい

戦国せんごく時代じだい末期まっき安土あづち桃山ももやま時代じだい)から江戸えど中期ちゅうきまでをあつかった『葉隠はがくれ』(1716ねん)によると、江戸えど時代じだい武家ぶけでこれまでの主従しゅうじゅう関係かんけいくわえ「同輩どうはい関係かんけい」の男色なんしょくられるようになっていった。従前じゅうぜん君臣くんしんてき上下じょうげ関係かんけいはないが、ねんしゃ年長ねんちょうしゃ)と若衆わかしゅ年少ねんしょうしゃ)という兄弟分きょうだいぶん区別くべつがあり、若衆わかしゅおおくは美貌びぼう少年しょうねんだった[4]。また前節ぜんせつれたように武士ぶし男色なんしょくが「衆道しゅどう」といわれるようになったのも江戸えどからだとされる。

周囲しゅうい女性じょせいすう増加ぞうか平和へいわによる衰退すいたい[編集へんしゅう]

江戸えどまち女性じょせいよりも圧倒的あっとうてき男性だんせいおおく、おとこあまりだった。結婚けっこんしようにも女性じょせいがいなかったため、独身どくしん男性だんせいあふれていた[12]江戸えど初期しょきにほぼすべてのはんにおいて衆道しゅどうきびしくまるようになった。とく姫路ひめじはんあるじ池田いけだ光政みつまさ(1609ねん-1682ねん)は家中いえじゅうでの衆道しゅどうきびしくきんじ、違反いはんした家臣かしん追放ついほうしょしている[13]江戸えど時代じだい中頃なかごろになると、主君しゅくんへの忠誠ちゅうせいよりも男色なんしょく相手あいてとの関係かんけい大切たいせつにしたり、美少年びしょうねんをめぐる刃傷にんじょう事件じけんなどのいさかいが一部いちぶ発生はっせいしたため、次第しだい問題もんだいされるようになり、元禄げんろくわり江戸えど時代じだい後半こうはんになると衆道しゅどう消滅しょうめつしていった[14]1721ねんとおる6ねん)の江戸えど武家ぶけのぞいた町人ちょうにん人口じんこうやく50まんにん男性だんせい32まんにんたいして、女性じょせい18まんにんと2ばいちか圧倒的あっとうてき男性だんせい人口じんこうおおかった[12]安永やすなが4ねん1775ねん)には、米沢よねざわはん上杉うえすぎ治憲はるのり男色なんしょく衆道しゅどうしょうし、厳重げんじゅうまりをめいじている。江戸えど天下てんか太平たいへい戦場せんじょうることがなくなると、このような戦地せんち部下ぶか小姓こしょう性欲せいよく処理しょりする機会きかいてき同性愛どうせいあいめんがある衆道しゅどうはしなくなっていった。のちに手軽てがる娼婦しょうふ売春ばいしゅん都市とし女性じょせい人口じんこう自体じたい増加ぞうかにより、戦場せんじょうにおける武士ぶし女性じょせいすくない都市としけん男性だんせい男色なんしょくをする必要ひつようがなくなると急激きゅうげき衰退すいたいしていった[15]

用語ようご[編集へんしゅう]

  • ねん此(ねんごろ) - 男色なんしょくちぎりをむすぶ。
  • ねんしゃ(ねんじゃ) - 衆道しゅどう関係かんけいにおける年長ねんちょうしゃあにぶん
  • 若衆わかしゅ(わかしゅ/わかしゅう) - 衆道しゅどうにおける年少ねんしょうしゃ

脚註きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 歴史れきし民俗みんぞくがく資料しりょう叢書そうしょ: 解說かいせつへん - p79
  2. ^ a b c 現代げんだいのエスプリ だい238~241 ごう p41, 1987
  3. ^ 同性愛どうせいあい異性いせいあい」p158,風間かざまたかし, 河口かわぐち和也かずや
  4. ^ a b c 「『葉隠はがくれ』における武士ぶし衆道しゅどう忠義ちゅうぎ―『いのちてる』ことを中心ちゅうしんに―」(よりゆき鈺菁)より。
  5. ^ 兄貴あにきぶん
  6. ^ 12さいから20歳歳さいさいまでの男子だんし
  7. ^ 葉隠はがくれ』p115,山本やまもとつねあさ奈良本ならもと辰也たつや,中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  8. ^ 長島ながしま淳子じゅんこ江戸えど異性いせいそうしゃたち:セクシュアルマイノリティの理解りかいのために』つとむまこと出版しゅっぱん 2017 ISBN 9784585221982 pp.90-94.
  9. ^ 芝居しばい小屋こや提供ていきょうする陰間かげまは12あいだりでかね1りょう相場そうばとされ、遊女ゆうじょ代金だいきんよりも割高わりだかであり、男娼だんしょう一概いちがいやすわけではない。
  10. ^ 同性愛どうせいあい異性いせいあい」p232,風間かざまたかし, 河口かわぐち和也かずや
  11. ^ 江戸えど時代じだい制度せいど研究けんきゅう松平まつだいら太郎たろう,p160,柏書房かしわしょぼう
  12. ^ a b [1]じつ江戸えども「ちょうソロ社会しゃかい」! シェア、アイドルも存在そんざい江戸えど時代じだいまなぶべきこと〈週刊しゅうかん朝日あさひ〉2018ねん1がつ15にち
  13. ^ 「「あくた寇讎」の基礎きそてき研究けんきゅう所収しょしゅう「『あくた寇讎』における男色なんしょく女色じょしょく少年しょうねんあい」P6。
  14. ^ 「オトコノコノためのボーイフレンド」(1986ねん発行はっこう少年しょうねんしゃ発売はつばいゆきいんしゃ)P132「日本にっぽん男色なんしょく」より。
  15. ^ 同性愛どうせいあい異性いせいあい」p216,風間かざまたかし, 河口かわぐち和也かずや

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]