陸軍りくぐん悪玉あくだまろん

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陸軍りくぐん悪玉あくだまろん(りくぐんあくだまろん)とは、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんだい世界せかい大戦たいせんにかけての日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の拡大かくだい国際こくさい政治せいじにおける孤立こりつ、および太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)の開戦かいせん敗戦はいせんぜん責任せきにんがあるという主張しゅちょう。これに関連かんれんして大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん歯止はどめとなり、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんについても消極しょうきょくてきであったとする見方みかた海軍かいぐん善玉ぜんだまろん(かいぐんぜんだまろん)主張しゅちょうされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

日本にっぽん敗戦はいせん直後ちょくごから、「陸軍りくぐん満州まんしゅう事変じへんささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)をこし、また昭和しょうわ軍国ぐんこく主義しゅぎ政治せいじ陸軍りくぐん軍閥ぐんばつによるものである」という主張しゅちょうがあり、ながらくふる日本にっぽんぐん日本にっぽん近代きんだいろんずるにたって人々ひとびとあいだ有名ゆうめいであった風潮ふうちょうである。

しかし、戦後せんごしばらく通説つうせつてきであった陸軍りくぐん悪玉あくだまろん海軍かいぐん善玉ぜんだまろんたいしては、1960ねん昭和しょうわ35ねん)ころから学術がくじゅつてき見直みなおしの議論ぎろん提起ていきされてきた。代表だいひょうれいとして、日本にっぽん国際こくさい政治せいじ学会がっかい太平洋戦争たいへいようせんそう原因げんいん研究けんきゅう刊行かんこうした『太平洋戦争たいへいようせんそうへのみち』では、複数ふくすう論者ろんしゃから海軍かいぐんたいべい開戦かいせん消極しょうきょくてきだったとの見方みかた異論いろんしめされている[1]1960年代ねんだいから1970年代ねんだいにかけて防衛庁ぼうえいちょうによる公刊こうかん戦史せんしとして編纂へんさんされた『戦史せんし叢書そうしょ』で開戦かいせん経緯けいい記述きじゅつ陸軍りくぐん海軍かいぐん別巻べっかんにわかれている原因げんいんについて、きゅう海軍かいぐん関係かんけいしゃ陸軍りくぐん悪玉あくだまろん海軍かいぐん善玉ぜんだまろん修正しゅうせい議論ぎろん阻止そししようとしたためではないかとも指摘してきされている[2]

はん陸軍りくぐんのスタンスを海軍かいぐん擁護ようごする傾向けいこうにある作家さっか半藤はんどう一利かずとしも、1982ねん昭和しょうわ57ねん出版しゅっぱん著書ちょしょにおいて「戦後せんご、いわゆる海軍かいぐん左派さは条約じょうやく米内よない光政みつまさ山本やまもと五十六いそろく井上いのうえ成美まさみのトリオを、海軍かいぐん関係かんけいしゃおよび海軍かいぐんシンパが特筆大書とくひつたいしょすることによって、見事みごとなほど陸軍りくぐん悪玉あくだま海軍かいぐん善玉ぜんだま昭和しょうわうえ定着ていちゃくした。それはかならずしも正確せいかくではない」と[3]、また2014ねん平成へいせい26ねん)の毎日新聞まいにちしんぶんでのインタビューでは「開明かいめいてきとされている海軍かいぐんですが、陸軍りくぐんとそんなにちがいはありません」とべている[4]

なお敗戦はいせんあいだもない1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月28にちだい89かい帝国ていこく議会ぎかい衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎにて、反軍はんぐん演説えんぜつなどでられる斎藤さいとう隆夫たかお議員ぎいんによる軍国ぐんこく主義しゅぎ責任せきにん質問しつもんへの答弁とうべんにおいて、最後さいご陸軍りくぐん大臣だいじん下村しもむらじょう大将たいしょう陸軍りくぐん代表だいひょうしてみずからそのような軍国ぐんこく主義しゅぎおちいって暴走ぼうそうした陸軍りくぐんみとめ、これを総括そうかつしている。なお、この答弁とうべんたいする議員ぎいん反応はんのうは、下村しもむら自身じしん感涙かんるいにむせぶほど好意こういてきなものであった(「この答弁とうべんちゅうには案外あんがい罵声ばせいもなく野次やじもなく、中頃なかごろからおわりにかけては満場まんじょうから度々どど拍手はくしゅこり、なかにはハンカチをしてなみだぬぐ議員ぎいん見受みうけられた」)。しかしながら、海軍かいぐん大臣だいじん米内よない光政みつまさ大将たいしょうは(斎藤さいとう質問しつもんには)海軍かいぐん大臣だいじん対象たいしょうとした答弁とうべんもとめられておらず、議事ぎじろくにもないことを理由りゆう答弁とうべんおこなわなかった。このためべい内海うちうみしょう下村しもむら陸相りくしょうとは対照たいしょうてき場内じょうない憤激ふんげきっている。[よう出典しゅってん]

普及ふきゅう背景はいけい[編集へんしゅう]

いわゆる陸軍りくぐん悪玉あくだまろん巷間こうかんわれだした背景はいけいとして、当時とうじ日本にっぽん国民こくみんゆうしていた陸軍りくぐん海軍かいぐんたいする印象いんしょうちがいを指摘してきする見解けんかいがある。

だい大戦たいせんまで、日本にっぽん軍隊ぐんたいえば一般いっぱんにそれは陸軍りくぐんのことをした。徴兵ちょうへいせいかれていた当時とうじ日本にっぽんでは、男子だんしまん20さい徴兵ちょうへい適齢てきれいむかえると陸軍りくぐん徴兵ちょうへい検査けんさけ、おおくは居住きょじゅう管轄かんかつする地元じもと連隊れんたい入隊にゅうたい入営にゅうえい)するというのが一般いっぱんてき兵役へいえきへのかたであった。一般いっぱん徴兵ちょうへい検査けんさ徴兵ちょうへいされる場合ばあい陸軍りくぐん入隊にゅうたいすることを意味いみし、志願しがんせい基本きほんとする海軍かいぐん場合ばあいとは、兵役へいえき義務ぎむ履行りこうのありかた性格せいかくことなる。したがって、一般いっぱん国民こくみん陸軍りくぐん距離きょりは、海軍かいぐん比較ひかくすると非常ひじょうちかく、平時へいじでは休暇きゅうか帰宅きたくすることが比較的ひかくてき容易よういであるという側面そくめんがあった。このことは、陸軍りくぐん軍人ぐんじんは、一般人いっぱんじんせっする機会きかい海軍かいぐん軍人ぐんじんよりおおいということを意味いみした。海軍かいぐん場合ばあい新兵しんぺい下士官かしかんへい管理かんりする鎮守ちんじゅ設置せっちされていた海兵かいへいだん入団にゅうだん同時どうじに、居住きょじゅうからとおはなれた場所ばしょ兵役へいえきかざるをないじょう艦隊かんたい勤務きんむ基本きほんとなる軍隊ぐんたい生活せいかつになる性格せいかくじょう鎮守ちんじゅ管轄かんかつする軍港ぐんこう所属しょぞくする艦艇かんていとう配属はいぞくされその艦上かんじょう生活せいかつするため容易ようい帰郷ききょうできず、陸軍りくぐんより隔絶かくぜつされた体制たいせい兵役へいえきくことがおおいという側面そくめんがあった。そのため、海軍かいぐんへい採用さいようされた場合ばあいは、一般いっぱん国民こくみんとの接点せってん陸軍りくぐんよりはるかにすくないという傾向けいこうにあった。こうした兵役へいえきかたちがいから、陸軍りくぐんたいするものと海軍かいぐんたいするものに一般いっぱん国民こくみんことなる感情かんじょうつようになった。

国民こくみんからの印象いんしょうとして、つぎようちがいがあった。

  • 一般いっぱん国民こくみん身近みぢかにする軍人ぐんじんえば圧倒的あっとうてき陸軍りくぐん軍人ぐんじんであり、反面はんめん構成こうせい人数にんずうすくない海軍かいぐん軍人ぐんじん希少きしょうであり、珍重ちんちょうされる傾向けいこうにあった。戦前せんぜん日本にっぽんかぎらず、古今ここん東西とうざい陸軍りくぐんより規模きぼちいさく専門せんもんせいたか海軍かいぐんおよび空軍くうぐん航空こうくう部隊ぶたい)は目立めだちやすく、より崇敬すうけいやすい。
    • 陸軍りくぐん国民こくみんとの距離きょりちかかったのでしにかかわらず国民こくみん軍隊ぐんたい印象いんしょうは、大抵たいてい陸軍りくぐんのものにたいするものが標準ひょうじゅんになっていた背景はいけいもある。
  • こわ存在そんざい代名詞だいめいしのようにわれた憲兵けんぺい陸軍りくぐん組織そしきで、とく戦中せんちゅう、しばしば一般人いっぱんじん専横せんおうてき態度たいどせっしたため、印象いんしょうわるかった。
  • 終戦しゅうせんまでの日本にっぽんでは高校生こうこうせい旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこう高等こうとう)・専門せんもん学校がっこうせい旧制きゅうせい専門せんもん学校がっこう)・大学生だいがくせい旧制きゅうせい大学だいがく)となれるのは、経済けいざいりょくふく大変たいへんエリートであり(大半たいはん国民こくみん尋常じんじょう小学校しょうがっこう高等こうとう小学校しょうがっこうそつわり、旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこうひとし旧制きゅうせい中等ちゅうとう教育きょういく学校がっこうへの進学しんがくりつ昭和しょうわ10年代ねんだいあたまで2わり以下いか現状げんじょうであった)、戦争せんそうのこった高学歴こうがくれきしゃ戦後せんご社会しゃかい政財界せいざいかい官界かんかい学界がっかい文壇ぶんだんなどで影響えいきょうりょく有力ゆうりょく実力じつりょくしゃとなっていった。陸海りくかいぐんとも大学だいがく在学ざいがく卒業生そつぎょうせい短期間たんきかん教育きょういく将校しょうこう士官しかん任官にんかんする制度せいど陸軍りくぐん甲種こうしゅ幹部かんぶ候補こうほせい特別とくべつ操縦そうじゅう見習みならい士官しかん特別とくべつ甲種こうしゅ幹部かんぶ候補こうほせい海軍かいぐん短期たんき現役げんえき士官しかん予備よび学生がくせいなど)が存在そんざいしていた。
    • 陸軍りくぐん高学歴こうがくれきしゃてい学歴がくれきしゃあつかいはくもわるくも平等びょうどうであり、予備よびやく将校しょうこう養成ようせいコースである甲種こうしゅ幹部かんぶ候補こうほせいでも、入営にゅうえいには一般いっぱんへいいち兵卒へいそつ)とおな立場たちばであった。基本きほんてき幹部かんぶ候補こうほせいとして正式せいしき採用さいようされるまで入営にゅうえいから最低さいてい4ヶ月かげつかなら二等兵にとうへいとして最下さいかそう兵隊へいたい生活せいかつおくらねばならず、採用さいようされても一等いっとうへいであり、さらにやく2ヶ月かげつあいだ原隊げんたい教育きょういく上等じょうとうへいとなるものの、このへい期間きかん徹底的てっていてきにしごかれることおおかった。原隊げんたい陸軍りくぐん予備よび士官しかん学校がっこう幹部かんぶ候補こうほせいたい各種かくしゅぐん学校がっこうひとしおくられた甲種こうしゅ幹部かんぶ候補こうほせいはそこで教育きょういく同時どうじ伍長ごちょう軍曹ぐんそう任官にんかんし、修了しゅうりょうにようやく見習みならい士官しかん曹長そうちょう)となった。なお、高学歴こうがくれきしゃ対象たいしょうに、採用さいよう同時どうじ見習みならい士官しかん曹長そうちょう)となり、形式けいしきじょう下士官かしかんへい見習みならい士官しかんとなる士官しかん候補こうほせいより優遇ゆうぐうされる「特別とくべつ操縦そうじゅう見習みならい士官しかん」と、へいとして入隊にゅうたいせずに採用さいよう同時どうじ伍長ごちょう任官にんかんし、ぐん学校がっこうおくられる「特別とくべつ甲種こうしゅ幹部かんぶ候補こうほせい」を、それぞれのちにもうけている[注釈ちゅうしゃく 1]とく名実めいじつどもにエリートであり中流ちゅうりゅう階級かいきゅう以上いじょう出身しゅっしんしゃおお高学歴こうがくれきしゃとって、へい期間きかんきびしい軍隊ぐんたい生活せいかつ内務ないむはんにて一般いっぱん大衆たいしゅう相部屋あいべや集団しゅうだん生活せいかつ)やしごきは屈辱くつじょくめられることおおかった。
    • 海軍かいぐん陸軍りくぐんことなり徹底的てっていてき学閥がくばつ偏重へんちょう主義しゅぎ海軍兵学校かいぐんへいがっこう出身しゅっしんしゃ頂点ちょうてんとしたエリート意識いしき海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょうの「兵科へいか将校しょうこう」を至高しこうとして、海軍かいぐん機関きかん学校がっこう卒業そつぎょうの「機関きかん将校しょうこう」はそれに程度ていどものとし、下士官かしかんからのたたげである「特務とくむ士官しかん」や上述じょうじゅつの「予備よび士官しかん」を差別さべつてきあつかう。陸軍りくぐん存在そんざいしていた柔軟じゅうなん少尉しょうい候補者こうほしゃ特別とくべつ志願しがん将校しょうこう学生がくせい制度せいど相当そうとうするものを大々的だいだいてき採用さいようしない。軍令ぐんれいうけたまわくだりれいなどの問題もんだい)が蔓延はびこっており、待遇たいぐうにおいても陸軍りくぐんとはくらものにならないほど士官しかん下士官かしかんへいあいだにはおおきなみぞをつくっていたため[注釈ちゅうしゃく 2]くもわるくも予備よび学生がくせい短期たんき現役げんえき士官しかん最初さいしょから少尉しょういじゅんずる待遇たいぐうけられること出来できた(だいさんまでは少尉しょうい候補こうほせい待遇たいぐう士官しかんによる制裁せいさいはあれど、下士官かしかんへいによるしごきは皆無かいむであり、陸軍りくぐんでいう内務ないむはん生活せいかつではない。予備よび学生がくせいだいよんよりとう水兵すいへいとして入団にゅうだんすることになるも、すで予備よび学生がくせいとして採用さいようであり、先述せんじゅつ独特どくとく身分みぶん序列じょれつ社会しゃかいかさなり、下士官かしかんへい手荒てあらなしごきは出来できなかった)。
    • また、大卒だいそつとう高学歴こうがくれきしゃであっても上記じょうき制度せいど志願しがんしなかったものは、原則げんそく通常つうじょうへいとして徴集ちょうしゅう召集しょうしゅう自動的じどうてき陸軍りくぐんおくられ軍隊ぐんたい生活せいかつおくこととなった(戦後せんご有力ゆうりょくしゃでは渡邉わたなべ恒雄つねおのように当時とうじから反軍はんぐん思想しそうっていたものがこれに該当がいとうする)。
そのため、戦争せんそうのこ復員ふくいんした学徒がくと出身しゅっしんもと海軍かいぐん軍人ぐんじんは、その待遇たいぐうさから戦後せんごも「海軍かいぐん贔屓びいき」になりやすく、こうして戦後せんご社会しゃかいでの有力ゆうりょくしゃたちのあいだで「陸軍りくぐん悪玉あくだま海軍かいぐん善玉ぜんだま」のこえがはるかにおおきくなり、これが一般いっぱんてきなイメージとして形象けいしょうされていった。とく作家さっか阿川あがわ弘之ひろゆき富裕ふゆうそう出身しゅっしん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう海軍かいぐん兵科へいか予備よび学生がくせいだい2)がこの代表だいひょうかくであり、阿川あがわ徹底的てっていてき陸軍りくぐん嫌悪けんお過度かど海軍かいぐん賛美さんび著書ちょしょ発言はつげんかえしている。陸軍りくぐん出身しゅっしんしゃでは司馬しばりょう太郎たろうなどもこうした傾向けいこう固定こていさせるじょう代表だいひょうてき役割やくわりたした文化ぶんかじん一人ひとりである。
そのいちれいとして、阿川あがわ著書ちょしょ米内よない光政みつまさ』にて、べいない海軍かいぐん大臣だいじん)および政府せいふ妨害ぼうがい阻止そしした、(陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶのトップが主導しゅどうちゅう戦争せんそう停戦ていせん意図いとした和平わへい工作こうさくである)トラウトマン和平わへい工作こうさくについて意図いとてき一切いっさいれず、また、「陸軍りくぐんという武家ぶけにかつがれた近衛このえ首相しゅしょうは、いちがつじゅうろくにち有名ゆうめいな『国民こくみん政府せいふ相手あいてとせず』の声明せいめい発表はっぴょうした」とつづり(陸軍りくぐん全体ぜんたい和平わへいではなかったとはいえ)陸軍りくぐん責任せきにんけるかたちで事実じじつ歪曲わいきょくし、陸軍りくぐん悪玉あくだま海軍かいぐん善玉ぜんだまへと読者どくしゃ誘導ゆうどうしている。なお史実しじつべいないは、和平わへい交渉こうしょう継続けいぞくつよ主張しゅちょうだいいち近衛このえ声明せいめい発表はっぴょう断固だんこ阻止そししようとがる陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ次長じちょう多田ただ駿しゅん中将ちゅうじょうたいし、軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせい復活ふっかつ当時とうじ大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎにおいて「内閣ないかくそう辞職じしょくになるぞ!」と恫喝どうかつし、和平わへい工作こうさく頓挫とんざんだ中心ちゅうしん人物じんぶつであった。
また阿川あがわ著書ちょしょ井上いのうえ成美まさみ』などで和平わへいとして賛美さんびしている井上いのうえ成美まさみには、ささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう当時とうじ中国ちゅうごく重慶たーちんへの市街地しがいち差別さべつ爆撃ばくげきつよ提唱ていしょうしていたまけめん存在そんざいしている。重慶たーちんばくげき自体じたい当初とうしょ中国ちゅうごくぐん最高さいこう統帥とうすい機関きかんおよび政府せいふ最高さいこう政治せいじ機関きかんといった戦略せんりゃく施設しせつ爆撃ばくげき対象たいしょうとしていたが、井上いのうえらはその対象たいしょう拡大かくだいしただい規模きぼ無差別むさべつ爆撃ばくげきひゃくいちごう作戦さくせん)を起案きあん提唱ていしょうかえ実施じっしさせている。この重慶たーちん無差別むさべつばくげきナチス・ドイツによるゲルニカ爆撃ばくげきならび「枢軸すうじくこく日本にっぽん)がさきった差別さべつばくげき」として、のちの太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきのアメリカによる日本にっぽん無差別むさべつ爆撃ばくげき日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうかなど)と「相殺そうさい」され、連合れんごうこくぐんばくげき正当せいとうさせることとなる。
  • だい多数たすう一般いっぱん国民こくみん陸軍りくぐんにしろ海軍かいぐんにしろ徴集ちょうしゅう召集しょうしゅうされ入隊にゅうたいする場合ばあい、そのおおくは学歴がくれき資格しかくたない「へい」であり、陸海りくかいぐんともに古参こさんへい下士官かしかんからのしごきにつづけなければならなかった。そこでは海軍かいぐんよりも陸軍りくぐんへいすう総数そうすうとして圧倒的あっとうてきおおかったため、復員ふくいんできた国民こくみんは、海軍かいぐん従軍じゅうぐんして「海軍かいぐんぎらい」となった人数にんずうよりも、陸軍りくぐん従軍じゅうぐんして「陸軍りくぐんぎらい」になったもの当然とうぜんおおかった。また、もと下士官かしかんへい回顧かいころく戦記せんき出版しゅっぱんでき、ベストセラーになるものとく航空こうくう部隊ぶたいパイロットなどにかぎられたため、海軍かいぐんにおいても不遇ふぐうあつかいをけていた艦隊かんたい陸戦りくせん勤務きんむなどだい多数たすう一般いっぱん水兵すいへいらのこえのこりにくく、待遇たいぐうのよい士官しかんこえばかりが目立めだこと一因いちいんとなった。
  • さらには戦後せんご自衛隊じえいたい、とりわけ陸上りくじょう自衛隊じえいたいから「表面ひょうめんじょうは」きゅう陸軍りくぐんしょくはいされていること無視むしできない要素ようそである。海上かいじょう自衛隊じえいたい表立おもてだって「きゅう海軍かいぐん継承けいしょうしゃ」を自称じしょうし、制服せいふくるい各種かくしゅ号令ごうれいいたるまできゅう海軍かいぐん類似るいじしたもの使用しようし、海軍かいぐん記念きねん式典しきてん実施じっしするなどきゅう海軍かいぐん以来いらい伝統でんとう尊重そんちょうしているのにたいして、陸上りくじょう自衛隊じえいたい陸軍りくぐんあいだには軍旗ぐんき自衛隊じえいたいはた陸軍りくぐん分列ぶんれつ行進曲こうしんきょく銃剣じゅうけんじゅつベッドメイキング英語えいごばんなどで陸軍りくぐん由来ゆらい伝統でんとう文化ぶんか踏襲とうしゅうしているめんはあるものの、海自かいじほど組織そしきてきかつ積極せっきょくてき伝統でんとう継承けいしょう公言こうげんおこなっておらず、(東京とうきょうだい空襲くうしゅう同日どうじつである不幸ふこうわざわいしているが)陸軍りくぐん記念きねん式典しきてんおこな習慣しゅうかんもない。

軍部ぐんぶによる政治せいじ干渉かんしょうかんして、ぐん意向いこうにそわない組閣そかく阻止そしや、軍部ぐんぶ大臣だいじん辞職じしょくしてぐん後任こうにん指定していしないことにより内閣ないかくそう辞職じしょくむなど、軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせい利用りようして軍部ぐんぶ政治せいじ干渉かんしょうしたとして戦後せんご批判ひはんされているところ、陸軍りくぐんでは師団しだん増設ぞうせつ問題もんだい対立たいりつしただい2西園寺さいおんじ内閣ないかく倒閣とうかく軍縮ぐんしゅく断行だんこうした宇垣うがき一成いっせい組閣そかく阻止そしにちどくさんこく同盟どうめい反対はんたいろんしゃだったべい内内うちうちかく倒閣とうかくすうかいわたって実行じっこうしており、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんによる陸軍りくぐん大臣だいじん代行だいこうみとめなかった。海軍かいぐんではしん艦艇かんてい建造けんぞう計画けいかく反対はんたいした清浦きようら奎吾組閣そかく阻止そし(うなぎ内閣ないかく)のほかは、たいべい開戦かいせんした東條とうじょう内閣ないかくたいする組閣そかく阻止そしうごきがあったくらいであり、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんによる海軍かいぐん大臣だいじん代行だいこうみとめている(はらたかし総理そうり内田うちだ康哉こうさい総理そうり高橋たかはし是清これきよ総理そうり濱口はまぐち雄幸ゆうこう総理そうり)など、陸軍りくぐんして海軍かいぐんによる政治せいじ干渉かんしょう印象いんしょううすいことも背景はいけいとなっている。

海軍かいぐんとの差異さい実態じったい[編集へんしゅう]

陸軍りくぐん海軍かいぐんよりも人命じんめい軽視けいしし、精神せいしんろんりかざすぜん時代じだいてき軍隊ぐんたいであるとの戦後せんごのごく一般いっぱんてき印象いんしょう反面はんめん装備そうびひん運用うんよう教育きょういくにはつぎのような差異さい存在そんざいしていた。

  • 航空機こうくうきでは海軍かいぐんれいせん一式いっしきりくおさむ要求ようきゅう性能せいのうによる極度きょくど軽量けいりょうなどでほとん防弾ぼうだん装備そうびゆうしなかった・装備そうびきわめておくれていたのにたいして、どう時期じき陸軍りくぐん航空こうくうたい一式いっしきせんはやぶさしきせん鍾馗しょうききゅうななしきじゅうばくいち〇〇しきじゅうばく「呑龍」量産りょうさん当初とうしょからぼう燃料ねんりょうタンク英語えいごばんといった防弾ぼうだん装備そうび装備そうびしていたひとし設計せっけい思想しそうちがいがあった。人員じんいん養成ようせいめんでも、海軍かいぐんのように搭乗とうじょういん特別とくべつあつかいせず、いているさいには地上ちじょう要員よういんとも機体きたい整備せいびたらせる習慣しゅうかん陸軍りくぐん飛行ひこう戦隊せんたいでは励行れいこうさせており、よんしきせん疾風しっぷうのような気難きむずかしい発動はつどう搭載とうさいする機体きたい場合ばあいには、飛行ひこう戦隊せんたいないに「整備せいび指揮しき小隊しょうたい」を設置せっちする場合ばあいもあった。操縦そうじゅうしゃ整備せいびじってじょう整備せいびにあたり、機械きかいてき知識ちしきにつけること機体きたい状態じょうたいをより正確せいかく整備せいびつたえられるようになり、より整備せいびじょうきょう実現じつげん可能かのうとなることは、今日きょう自動車じどうしゃなどでのレース競技きょうぎではなか常識じょうしきであるが、整備せいび指揮しき小隊しょうたい設置せっちされた飛行ひこう戦隊せんたいではハ45稼働かどうりつ海軍かいぐん航空こうくうたいのそれよりもおおきく向上こうじょうし、飛行ひこうだい47戦隊せんたいのように稼働かどうりつ90%以上いじょうほこ部隊ぶたい存在そんざいした。海軍かいぐんでは美濃部みのべただし少佐しょうさひきいる芙蓉ふよう部隊ぶたい陸軍りくぐん類似るいじした整備せいび体制たいせいアツタ発動はつどう稼働かどうりつ90%以上いじょうたたしたれいがあるが、芙蓉ふよう部隊ぶたい特攻とっこう拒否きょひ夜間やかん奇襲きしゅう攻撃こうげきとくした、特攻とっこう狂奔きょうほんする大戦たいせん末期まっき海軍かいぐんでは異端いたんちゅう異端いたんともえる存在そんざいであった。
  • 海上かいじょう輸送ゆそうでは海軍かいぐんからねずみ輸送ゆそうなど戦術せんじゅつ輸送ゆそうせんへの海軍かいぐん艦艇かんてい投入とうにゅう拒否きょひ事態じたいったこと原因げんいんまるゆ独自どくじ開発かいはつしているが、海軍かいぐん蛟龍こうりょう海龍かいりゅうのような特攻とっこう兵器へいきとしての運用うんよう最後さいごまで俎上そじょうのぼことかった。また、資源しげん輸送ゆそうなど戦略せんりゃく物資ぶっし輸送ゆそうかんしても、陸軍りくぐん当時とうじ連合れんごうぐん大西おおにしひろしにおける護送ごそう船団せんだん戦法せんぽう中核ちゅうかくしていた護衛ごえい空母くうぼ大量たいりょう配備はいび計画けいかくし、戦時せんじ標準ひょうじゅんせんをベースとした量産りょうさん容易よういとくTL空母くうぼがた油槽ゆそうせん提案ていあんおこなっているが、海軍かいぐん商船しょうせん改造かいぞう空母くうぼ(特設とくせつ空母くうぼ)の艦隊かんたい編入へんにゅう固執こしつしたことから低速ていそくなTLがた油槽ゆそうせん改装かいそうには難色なんしょくしめし、輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえい陸上りくじょうによるちょくじゅうふんとして、この時期じき陸軍りくぐん提案ていあんをほとんど拒絶きょぜつしていた。しかし、船団せんだん護送ごそう主導しゅどうけんにぎった海上かいじょう護衛ごえいそう司令しれい護衛ごえい戦術せんじゅつ稚拙ちせつそのもので、無計画むけいかく機雷きらいはら設置せっちにより輸送ゆそう船団せんだん航路こうろをかえって阻害そがいする結果けっかまねいたり、無線むせん封鎖ふうさ概念がいねん逆行ぎゃっこうする商船しょうせんへの定時ていじ連絡れんらく位置いち報告ほうこく強制きょうせいあるいは船団せんだんがわ陸上りくじょう基地きちちょく掩機依頼いらいするさい打電だでんかえっててき潜水せんすいかん船舶せんぱく位置いち暴露ばくろする結果けっかまねいたりした。「満載まんさい状態じょうたい艦上かんじょう攻撃こうげき発進はっしん」という連合れんごうこくですら実現じつげんおくれていた性能せいのう要件ようけんしたことで、カタパルト開発かいはつにも失敗しっぱいし、船団せんだん随行ずいこうするけい空母くうぼ特設とくせつ空母くうぼ非常ひじょう苦戦くせんいられ、船団せんだん随行ずいこうして撃沈げきちんされたくもたかいたっては、「空母くうぼ低速ていそく輸送ゆそう船団せんだん行動こうどうともにするのはもっとあやまった編成へんせいである」という趣旨しゅし戦闘せんとう詳報しょうほうのこ有様ありさまであった。レーダーやソナーの性能せいのう不足ふそくたいせん哨戒しょうかい(東海とうかい)の配備はいびおくれから、海軍かいぐん最終さいしゅうてき潜水せんすいかん監視かんし体制たいせい維持いじのために無線むせん搭載とうさいした漁船ぎょせん大量たいりょう徴発ちょうはつして特設とくせつ監視かんしていとする方針ほうしんり、漁港ぎょこうによっては所属しょぞくせん漁師りょうし大半たいはん戦没せんぼつするという悲劇ひげきまねいているが、どう時期じき陸軍りくぐんあかつき部隊ぶたい同様どうよう徴発ちょうはつおこなっていたれいがあったことから、海軍かいぐん無策むさく暴挙ぼうきょよりも陸軍りくぐん無理むり徴用ちょうようがより誇張こちょうされてつたえられているケースも散見さんけんされる。
  • 電子でんし装備そうびかんしてはレーダーについても陸軍りくぐんほう上層じょうそう理解りかいあつく、戦前せんぜんから開発かいはつ積極せっきょくてきっていた反面はんめん海軍かいぐんは「闇夜やみよ提灯ちょうちん」としてこうした電子でんし装備そうびまった軽視けいししており、ミッドウェー海戦かいせんまではほとん開発かいはつすすんでいなかった。一方いっぽう開戦かいせん当時とうじにはすで開発かいはつをほぼえていた陸軍りくぐんたい空電くうでんさがせであるちょう短波たんぱ警戒けいかいおつ(出力しゅつりょく50kw、最大さいだい300km)は、どう時期じき海軍かいぐん21ごうでんさがせ(出力しゅつりょく5kw、最大さいだい100km)よりも探知たんち距離きょりながかった。海軍かいぐん大戦たいせん後期こうき小型こがた軽量けいりょう13ごうでんさがせ(出力しゅつりょく10kw、最大さいだい100-150km)でかえしをはかったものの、ぜん艦艇かんていへの普及ふきゅうは1944ねんまでずれんだ。一方いっぽう陸軍りくぐんちょう短波たんぱ警戒けいかい おつはシステムが大掛おおがかりではあるが、1941ねんには地上ちじょう設置せっちがた、1943ねんには車両しゃりょう輸送ゆそう可能かのうなタイプの生産せいさんおこなわれており、電波でんぱ標定ひょうていによる高射こうしゃほうのレーダー誘導ゆうどう限定げんていてきではあるが1942ねんには開発かいはつ着手ちゃくしゅしており、終戦しゅうせん間際まぎわにはしきじゅうせんちめーとる高射こうしゃほう配備はいびけている。八木はちぼく宇田うだアンテナの「さい発見はっけん」という不名誉ふめいよ事実じじつこそあるものの、陸軍りくぐんはこれらのレーダーを活用かつようした早期そうき警戒けいかい要撃ようげき体制たいせい整備せいびにより、大戦たいせん後半こうはんいたっても旧式きゅうしき一式いっしきせんはやぶさ中心ちゅうしんとした部隊ぶたい連合れんごうぐん互角ごかくかそれ以上いじょうキルレシオ維持いじつづけた(ちょう短波たんぱ警戒けいかいおつ#陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい早期そうき警戒けいかい)。海軍かいぐんが「れいせん強化きょうかにはまったやくにたない」とひょうしたみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうちについても一式いっしきせん中心ちゅうしん積極せっきょくてき採用さいようおこない、航空こうくう優勢ゆうせい維持いじ要因よういんひとつともなった。
  • また、陸軍りくぐんソナー水中すいちゅう聴音ちょうおんについても戦前せんぜんより海軍かいぐん潜水せんすいかんよりもはるかに深深ふかぶかまで潜航せんこう可能かのう西村にしむらしき潜水せんすいていもちいての研究けんきゅうすすめており、1930年代ねんだい中期ちゅうき段階だんかい海軍かいぐんですら輸入ゆにゅうやコピー製造せいぞうたよっていたアクティブソナー「すごう」の独自どくじ開発かいはつ成功せいこう日米にちべい開戦かいせん時点じてんでは日本にっぽん周辺しゅうへん海底かいてい地形ちけいほとんどを把握はあくし、朝鮮ちょうせん海峡かいきょう宗谷海峡そうやかいきょうなどの要地ようち要地ようちがたごうもちいた音響おんきょう探知たんちせんことソ連それん潜水せんすいかん活動かつどう日本海にほんかいにほぼふうめられる水準すいじゅんたっしていた。前述ぜんじゅつのまるゆの開発かいはつくるまぎれのおもいつき程度ていど代物しろものではなく、こうした海底かいてい地形ちけい調査ちょうさ深深しんしんにおける音響おんきょう探査たんさ技術ぎじゅつ地道じみち研究けんきゅう結果けっか当時とうじ技術ぎじゅつ水準すいじゅんでは潜水艦せんすいかん同士どうし水中すいちゅう遭遇そうぐうせんはまずこりないという技術ぎじゅつてき裏付うらづけをもとに「昼間ひるま海底かいてい鎮座ちんざし、夜間やかん洋上ようじょう航行こうこうおこなう」潜水せんすい輸送ゆそうたい構想こうそう具現ぐげんいたったものであった[6]一方いっぽう海軍かいぐん戦前せんぜんにペンしきのアクティブソナー九三式水中探信儀戦中せんちゅうブラウン管ぶらうんかん表示ひょうじ方式ほうしき三式水中探信儀制式せいしきおこなったものの、海軍かいぐん潜水艦せんすいかん搭乗とうじょういんおおくはレーダーにたいする認識にんしき同様どうように、みずか音波おんぱ行為こういきらってほとん使用しようされず、ソナー運用うんよう方針ほうしんをパッシブからアクティブへ全面ぜんめん転換てんかんした1944ねん後半こうはんにはすで運用うんようできる艦艇かんていほとん喪失そうしつし、メーカーの倉庫そうこ在庫ざいこやまきずかれたという[7]。また、海軍かいぐん戦前せんぜんよりアクティブソナーの機材きざいとしての導入どうにゅう自体じたいおこなっていたものの、その活用かつよう必要ひつよう音響おんきょう伝搬でんぱん技術ぎじゅつ研究けんきゅうまった軽視けいしされており、1943ねん10がつになってようやく海洋かいようちゅう音波おんぱ伝搬でんぱん研究けんきゅう開始かいしする有様ありさまであった[8]
    • しかし、一般いっぱんてきにはこうした陸軍りくぐん船舶せんぱく司令しれいおよ陸軍りくぐん船舶せんぱくへいの「のこため」の数々かずかず提案ていあんみ、装備そうびひん先進せんしんせいなどはほとんられておらず、今日きょういたるまで海軍かいぐん昔日せきじつ栄光えいこうはやされるうらで「陸軍りくぐん海軍かいぐんなかわるかったゆえに、航空こうくう母艦ぼかん(実際じっさいには後世こうせいヘリ空母くうぼ強襲きょうしゅう揚陸ようりくかん分類ぶんるいされるものである)や潜水艦せんすいかんみずか運用うんようすることとなった。」という珍奇ちんきせいをもってかたられるのみで、いま公平こうへい視座しざからの正当せいとう評価ひょうかおこなわれることまれである。なお、今日きょう軍事ぐんじいては陸軍りくぐん海兵かいへいたい独自どくじロジスティクス戦略せんりゃく独自どくじ水上すいじょう戦隊せんたい運用うんようすることたんへい重火器じゅうかき頭数とうすうかぞげるのではなく、その陸上りくじょうぐん独自どくじ海上かいじょう輸送ゆそう能力のうりょく加味かみした戦力せんりょく評価ひょうかおこなわなければ、そのくに陸上りくじょう兵力へいりょく真価しんか(≒自国じこくたいする脅威きょうい度合どあい)もはかれないということなか常識じょうしきとなっており、軍事ぐんじアナリスト小川おがわ和久かずひさ度々たびたびそうした主旨しゅし解説かいせつ評論ひょうろんおこなっている。
  • 陸戦りくせんにおいても栗林くりばやしただしどうのように海軍かいぐん陸戦りくせんたいひょうして「防御ぼうぎょ思想しそうがまるでなく、防衛ぼうえいにとって有害ゆうがい施設しせつ構築こうちくすらおこなっている」「装備そうび物量ぶつりょうども陸軍りくぐんよりもはるかに優良ゆうりょうでありながら、戦闘せんとうではまるでやくにたない」ときわめて手厳てきびしくひょうしているれいがありながらも、戦後せんご防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょなどが編纂へんさんした『硫黄いおうとう戦史せんし』では、栗林くりばやしのこうした海軍かいぐんたいする酷評こくひょうのみが不自然ふしぜん削除さくじょされているなどの実例じつれいがある[9]
  • 初年しょねんへい教育きょういくにおいては、陸軍りくぐんでは(表向おもてむきにはだが)体罰たいばつ禁止きんしされていた。一応いちおう、ビンタなどの私刑しけい日常にちじょうてきおこなわれていたが、怪我けがをさせるといはずの私的してき制裁せいさい存在そんざい否定ひていできなくなるため、セミやウグイスの真似まねをさせたりして精神せいしんてき苦痛くつうあたえたりするなど、様々さまざまな「しごき」があった。一方いっぽう海軍かいぐんでは陸軍りくぐんことなり「しごき」や肉体にくたいてき制裁せいさい公然こうぜんみとめられていた。日本にっぽん海軍かいぐんいてとく有名ゆうめいな「しごき」は海軍かいぐん精神せいしん注入ちゅうにゅうぼう軍人ぐんじん精神せいしん注入ちゅうにゅうぼうだい東亜とうあ戦争せんそうぼうとうばれるかたかしふとしぼうにはとめさく(とめなわ)とばれるふと係留けいりゅうようロープやラッタルの手摺てすり通称つうしょう真剣しんけんぼう)が使つかわれることさえあった)やをかまえた下士官かしかん古兵ふるつわものが、教育きょういくしたかべをつかせた新兵しんぺいしりたた行為こうい所謂いわゆるケツバット当時とうじ海軍かいぐんではバッタばれていた)が有名ゆうめいである。たたかれがったしりのせいで、そのよるはまともに仰向あおむけでこと出来できずに奥歯おくばこたえながらよるかす新兵しんぺいおおかった。なかにはたたちからつよすぎて肛門こうもんけた新兵しんぺいはたきどころがわる背骨せぼねたり死亡しぼうした(=ころされた)新兵しんぺいさえいた。

これらがぜになって、ぐん解体かいたいされたのち戦後せんごでは戦時せんじちゅうきゅう陸海りくかいぐん行動こうどうのスタンスのちがいが海軍かいぐん好意こういてきに、陸軍りくぐん批判ひはん矢面やおもてたせる論調ろんちょう展開てんかいされた。しかし、それらは、かならずしも陸軍りくぐん海軍かいぐんっていた組織そしきじょう問題もんだいてん正確せいかく反映はんえいしたものとはえず、多分たぶんこうけの理屈りくつ糊塗ことされた戦後せんご人間にんげんたちのもつ印象いんしょうろんちかいものもふくまれている。(ただし、陸軍りくぐん人命じんめい重視じゅうししていたわけではない。)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 。また、少尉しょうい任官にんかんしても甲種こうしゅ幹部かんぶ候補こうほせい特別とくべつ操縦そうじゅう見習みならい士官しかん出身しゅっしん予備よびやく将校しょうこうは、士官しかん候補こうほせい陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう出身しゅっしん現役げんえき将校しょうこうよりも教育きょういく期間きかんみじかしつおとるとされていたため、部隊ぶたいにおいて部下ぶかである古参こさんへい下士官かしかんからめられてしまう傾向けいこうがあった。
  2. ^ よんとう水兵すいへいとして入団にゅうだんし、下士官かしかんたたげの特務とくむ士官しかんとして終戦しゅうせんむかえた坂井さかい三郎さぶろうは、著書ちょしょれいせん真実しんじつとうへい学校がっこう出身しゅっしん士官しかん態度たいど士官しかん下士官かしかん待遇たいぐう差別さべつについてとく批判ひはんおこなっている。
出典しゅってん
  1. ^ 日本にっぽん国際こくさい政治せいじ学会がっかい太平洋戦争たいへいようせんそう原因げんいん研究けんきゅう太平洋戦争たいへいようせんそうへのみちぜん7かん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1962-1963ねん
  2. ^ 庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう戦史せんし叢書そうしょ”における陸海りくかいぐん並立へいりつかんするいち考察こうさつ―“開戦かいせん経緯けいい”を中心ちゅうしんとして」『戦史せんし研究けんきゅう年報ねんぽう』12ごう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ、2009ねん、18ぺーじ
  3. ^ 指揮しきかん参謀さんぼう - コンビの研究けんきゅう』〈文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉1992ねん 
  4. ^ 戦没せんぼつしゃ230まんにん:兵士へいしを「こまあつかい 愚劣ぐれつ軍事ぐんじ指導しどうしゃたち 半藤はんどう一利かずとしさんインタビュー”. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2014ねん8がつ15にち). http://mainichi.jp/feature/news/20140815mog00m040002000c.html 
  5. ^ 戦史せんし叢書そうしょ87かん 陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき開発かいはつ生産せいさん補給ほきゅう 458ぺーじ
  6. ^ 水中すいちゅう音響おんきょう伝播でんぱ調査ちょうさ - 西村にしむらしきまめ潜水せんすいていホームページ(Googleインターネットアーカイブ)
  7. ^ レーダおよびソナーの開発かいはつ
  8. ^ 新保しんぼいさむ「"沼津ぬまづ技研ぎけん"の回想かいそう」『うみ オキシーテック ニュースレター 13ごう』オキシーテック、1995ねん、10-11ぺーじ
  9. ^ 栗林くりばやしただしどう総括そうかつ電報でんぽう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]