陸軍 悪玉 論
概要 [編集 ]
しかし、
なお
普及 の背景 [編集 ]
いわゆる
一般 国民 が身近 で目 にする軍人 と言 えば圧倒的 に陸軍 の軍人 であり、反面 、構成 人数 が少 ない海軍 の軍人 は希少 であり、珍重 される傾向 にあった。戦前 日本 に限 らず、古今 東西 陸軍 より規模 が小 さく専門 性 が高 い海軍 および空軍 (航空 部隊 )は目立 ちやすく、より崇敬 を受 け易 い。陸軍 は国民 との距離 が近 かったので良 し悪 しにかかわらず国民 の持 つ軍隊 の印象 は、大抵 陸軍 のものに対 するものが標準 になっていた背景 もある。
怖 い存在 の代名詞 のように言 われた憲兵 が陸軍 の組織 で、特 に戦中 、しばしば一般人 に専横 的 な態度 で接 したため、印象 も悪 かった。終戦 までの日本 では高校生 (旧制 高等 学校 高等 科 )・専門 学校 生 (旧制 専門 学校 )・大学生 (旧制 大学 )となれるのは、経済 力 を含 め大変 なエリートであり(大半 の国民 は尋常 小学校 ・高等 小学校 卒 で終 わり、旧制 中学校 等 旧制 中等 教育 学校 への進学 率 は昭和 10年代 頭 で2割 以下 が現状 であった)、戦争 を生 き残 った高学歴 者 は戦後 社会 の政財界 、官界 、学界 、文壇 などで影響 力 を持 つ有力 ・実力 者 となっていった。陸海 軍 共 に大学 在学 、卒業生 を短期間 の教育 で将校 ・士官 へ任官 する制度 (陸軍 の甲種 幹部 候補 生 ・特別 操縦 見習 士官 ・特別 甲種 幹部 候補 生 、海軍 の短期 現役 士官 ・予備 学生 など)が存在 していた。陸軍 は高学歴 者 も低 学歴 者 も扱 いは良 くも悪 くも平等 であり、予備 役 将校 養成 コースである甲種 幹部 候補 生 でも、入営 時 には一般 兵 (一 兵卒 )と同 じ立場 であった。基本 的 に幹部 候補 生 として正式 に採用 されるまで入営 から最低 4ヶ月 は必 ず二等兵 として最下 層 の兵隊 生活 を送 らねばならず、採用 されても一等 兵 であり、さらに約 2ヶ月 間 の原隊 教育 を経 て上等 兵 となるものの、この兵 の期間 に徹底的 にしごかれる事 が多 かった。原隊 を去 り陸軍 予備 士官 学校 や幹部 候補 生 隊 、各種 軍 学校 等 に送 られた甲種 幹部 候補 生 はそこで教育 を受 け同時 に伍長 ・軍曹 に任官 し、修了 後 にようやく見習 士官 (曹長 )となった。なお、高学歴 者 を対象 に、採用 と同時 に見習 士官 (曹長 )となり、形式 上 は下士官 兵 を経 て見習 士官 となる士官 候補 生 より優遇 される「特別 操縦 見習 士官 」と、兵 として入隊 せずに採用 と同時 に伍長 に任官 し、軍 学校 へ送 られる「特別 甲種 幹部 候補 生 」を、それぞれのちに設 けている[注釈 1]。特 に名実 共 にエリートであり中流 階級 以上 の出身 者 が多 い高学歴 者 とって、兵 期間 の厳 しい軍隊 生活 (内務 班 にて一般 大衆 と相部屋 の集団 生活 )やしごきは屈辱 と受 け止 められる事 が多 かった。海軍 は陸軍 と異 なり徹底的 な学閥 偏重 主義 、海軍兵学校 出身 者 を頂点 としたエリート意識 (海軍兵学校 卒業 の「兵科 将校 」を至高 として、海軍 機関 学校 卒業 の「機関 将校 」はそれに次 ぐ程度 の者 とし、下士官 からの叩 き上 げである「特務 士官 」や上述 の「予備 士官 」を差別 的 に扱 う。陸軍 に存在 していた柔軟 な少尉 候補者 や特別 志願 将校 学生 の制度 に相当 するものを大々的 に採用 しない。軍令 承 行 令 などの問題 )が蔓延 っており、待遇 においても陸軍 とは比 べ物 にならない程 に士官 と下士官 兵 の間 には大 きな溝 をつくっていたため[注釈 2]、良 くも悪 くも予備 学生 や短期 現役 士官 は最初 から少尉 に準 ずる待遇 を受 けられる事 が出来 た(第 三 期 までは少尉 候補 生 待遇 で士官 による制裁 はあれど、下士官 兵 によるしごきは皆無 であり、陸軍 でいう内務 班 生活 ではない。予備 学生 は第 四 期 より二 等 水兵 として入団 する事 になるも、既 に予備 学生 として採用 後 であり、先述 の独特 の身分 序列 社会 も重 なり、下士官 兵 は手荒 なしごきは出来 なかった)。- また、
大卒 等 の高学歴 者 であっても上記 の制度 に志願 しなかった者 は、原則 通常 の兵 として徴集 ・召集 を経 て自動的 に陸軍 に送 られ軍隊 生活 を送 る事 となった(戦後 の有力 者 では渡邉 恒雄 のように当時 から反軍 思想 を持 っていた者 がこれに該当 する)。
- そのため、
戦争 を生 き残 り復員 した学徒 出身 の元 海軍 軍人 は、その待遇 の良 さから戦後 も「海軍 贔屓 」になり易 く、こうして戦後 社会 での有力 者 たちの間 で「陸軍 悪玉 ・海軍 善玉 」の声 がはるかに大 きくなり、これが一般 的 なイメージとして形象 化 されていった。特 に作家 阿川 弘之 (富裕 層 出身 、東京 帝国 大学 卒業 、海軍 兵科 予備 学生 第 2期 )がこの代表 格 であり、阿川 は徹底的 な陸軍 嫌悪 ・過度 な海軍 賛美 を著書 や発言 で繰 り返 している。陸軍 出身 者 では司馬 遼 太郎 などもこうした傾向 を固定 化 させる上 で代表 的 な役割 を果 たした文化 人 の一人 である。- その
一 例 として、阿川 は著書 『米内 光政 』にて、米 内 (海軍 大臣 )および政府 が妨害 ・阻止 した、(陸軍 参謀 本部 のトップが主導 し日 中 戦争 停戦 を意図 した和平 工作 である)トラウトマン和平 工作 について意図 的 に一切 触 れず、また、「陸軍 という武家 にかつがれた近衛 首相 は、一 月 十 六 日 、有名 な『国民 政府 を相手 とせず』の声明 を発表 した」と綴 り(陸軍 全体 が和平 派 ではなかったとはいえ)陸軍 に責任 を擦 り付 けるかたちで事実 を歪曲 し、陸軍 悪玉 ・海軍 善玉 へと読者 を誘導 している。なお史実 の米 内 は、和平 交渉 継続 を強 く主張 し第 一 次 近衛 声明 の発表 を断固 阻止 しようと食 い下 がる陸軍 参謀 本部 次長 多田 駿 中将 に対 し、軍部 大臣 現役 武官 制 復活 当時 の大本営 政府 連絡 会議 の場 において「内閣 総 辞職 になるぞ!」と恫喝 し、和平 工作 を頓挫 に追 い込 んだ中心 人物 であった。 - また
阿川 が著書 『井上 成美 』などで和平 派 として賛美 している井上 成美 には、支 那 方面 艦隊 参謀 長 当時 に中国 ・重慶 への市街地 無 差別 爆撃 を強 く提唱 していた負 の面 も存在 している。重慶 爆 撃 自体 は当初 は中国 軍 の最高 統帥 機関 および政府 の最高 政治 機関 といった戦略 施設 を爆撃 対象 としていたが、井上 らはその対象 を拡大 した大 規模 無差別 爆撃 (百 一 号 作戦 )を起案 ・提唱 し繰 り返 し実施 させている。この重慶 無差別 爆 撃 はナチス・ドイツによるゲルニカ爆撃 と並 び「枢軸 国 (日本 )が先 に行 った無 差別 爆 撃 」として、のちの太平洋戦争 末期 のアメリカによる日本 無差別 爆撃 (日本 本土 空襲 や日本 への原子 爆 弾 投下 など)と「相殺 」され、連合 国 軍 の爆 撃 を正当 化 させることとなる。
- その
大 多数 の一般 国民 が陸軍 にしろ海軍 にしろ徴集 ・召集 され入隊 する場合 、その多 くは学歴 や資格 を持 たない「兵 」であり、陸海 軍 ともに古参 兵 や下士官 からのしごきに耐 え続 けなければならなかった。そこでは海軍 よりも陸軍 の兵 数 が総数 として圧倒的 に多 かったため、復員 できた国民 は、海軍 に従軍 して「海軍 嫌 い」となった人数 よりも、陸軍 に従軍 して「陸軍 嫌 い」になった者 が当然 多 かった。また、元 下士官 兵 で回顧 録 や戦記 を出版 でき、ベストセラーになる者 は特 に航空 部隊 のパイロットなどに限 られたため、海軍 においても不遇 な扱 いを受 けていた艦隊 や陸戦 勤務 など大 多数 の一般 水兵 らの声 は残 りにくく、待遇 のよい士官 の声 ばかりが目立 つ事 も一因 となった。更 には戦後 の自衛隊 、とりわけ陸上 自衛隊 から「表面 上 は」旧 陸軍 色 が排 されている事 も無視 できない要素 である。海上 自衛隊 が表立 って「旧 海軍 の継承 者 」を自称 し、制服 類 や各種 号令 に至 るまで旧 海軍 に類似 した物 を使用 し、海軍 記念 日 に式典 を実施 するなど旧 海軍 以来 の伝統 を尊重 しているのに対 して、陸上 自衛隊 と陸軍 の間 には軍旗 と自衛隊 旗 、『陸軍 分列 行進曲 』、銃剣 術 やベッドメイキングなどで陸軍 由来 の伝統 や文化 を踏襲 している面 はあるものの、海自 程 の組織 的 かつ積極 的 な伝統 継承 の公言 は行 っておらず、(東京 大 空襲 と同日 である不幸 も災 いしているが)陸軍 記念 日 に式典 を行 う習慣 もない。
海軍 との差異 の実態 [編集 ]
航空機 では海軍 の零 戦 や一式 陸 攻 が要求 性能 による極度 の軽量 化 などで殆 ど防弾 装備 を有 しなかった・装備 が極 めて遅 れていたのに対 して、同 時期 の陸軍 航空 隊 の一式 戦 「隼 」・二 式 戦 「鍾馗 」や九 七 式 重 爆 ・一 〇〇式 重 爆 「呑龍」は量産 当初 から防 漏 燃料 タンクといった防弾 装備 を装備 していた等 の設計 思想 の違 いがあった。人員 養成 の面 でも、海軍 のように搭乗 員 を特別 扱 いせず、手 が空 いている際 には地上 要員 と共 に機体 の整備 に当 たらせる習慣 を陸軍 飛行 戦隊 では励行 させており、四 式 戦 「疾風 」のような気難 しい発動 機 を搭載 する機体 の場合 には、飛行 戦隊 内 に「整備 指揮 小隊 」を設置 する場合 もあった。操縦 者 が整備 士 に混 じって乗 機 の整備 にあたり、機械 的 知識 を身 につける事 で機体 の状態 をより正確 に整備 士 に伝 えられるようになり、より良 い整備 状 況 の実現 が可能 となる事 は、今日 の自動車 などでのレース競技 では半 ば常識 であるが、整備 指揮 小隊 が設置 された飛行 戦隊 ではハ45の稼働 率 は海軍 航空 隊 のそれよりも大 きく向上 し、飛行 第 47戦隊 のように稼働 率 90%以上 を誇 る部隊 も存在 した。海軍 では美濃部 正 少佐 率 いる芙蓉 部隊 が陸軍 に類似 した整備 体制 でアツタ発動 機 の稼働 率 90%以上 を叩 き出 した例 があるが、芙蓉 部隊 は特攻 を拒否 し夜間 奇襲 攻撃 に特 化 した、特攻 に狂奔 する大戦 末期 の海軍 では異端 中 の異端 とも言 える存在 であった。
海上 輸送 では海軍 から鼠 輸送 など戦術 輸送 戦 への海軍 艦艇 の投入 拒否 の事態 に遭 った事 が原因 でまるゆを独自 開発 しているが、海軍 の蛟龍 や海龍 のような特攻 兵器 としての運用 は最後 まで俎上 に登 る事 は無 かった。また、資源 輸送 など戦略 物資 輸送 に関 しても、陸軍 は当時 の連合 軍 の大西 洋 における護送 船団 戦法 の中核 を成 していた護衛 空母 の大量 配備 を計画 し、戦時 標準 船 をベースとした量産 が容易 な特 TL空母 型 油槽 船 の提案 を行 っているが、海軍 は商船 改造 空母 (特設 空母 )の艦隊 編入 に固執 した事 から低速 なTL型 油槽 船 の改装 には難色 を示 し、輸送 船団 の護衛 は陸上 機 による直 掩で十 分 として、この時期 の陸軍 の提案 をほとんど拒絶 していた。しかし、船団 護送 の主導 権 を握 った海上 護衛 総 司令 部 の護衛 戦術 は稚拙 そのもので、無計画 な機雷 原 の設置 により輸送 船団 の航路 をかえって阻害 する結果 を招 いたり、無線 封鎖 の概念 と逆行 する商船 への定時 連絡 や位置 報告 の強制 、或 いは船団 側 が陸上 基地 に直 掩機を依頼 する際 の打電 が却 って敵 潜水 艦 に船舶 の位置 を暴露 する結果 を招 いたりした。「満載 状態 の艦上 攻撃 機 の発進 」という連合 国 ですら実現 が遅 れていた性能 要件 を課 した事 で、カタパルトの開発 にも失敗 し、船団 に随行 する軽 空母 や特設 空母 は非常 な苦戦 を強 いられ、ヒ船団 に随行 して撃沈 された雲 鷹 に至 っては、「空母 が低速 な輸送 船団 と行動 を共 にするのは最 も誤 った編成 である」という趣旨 の戦闘 詳報 を残 す有様 であった。レーダーやソナーの性能 不足 や対 潜 哨戒 機 (東海 )の配備 の遅 れから、海軍 は最終 的 に潜水 艦 の監視 体制 の維持 のために無線 機 を搭載 した漁船 を大量 に徴発 して特設 監視 艇 とする方針 を採 り、漁港 によっては所属 船 や漁師 の大半 を戦没 するという悲劇 を招 いているが、同 時期 に陸軍 の暁 部隊 も同様 の徴発 を行 っていた例 があった事 から、海軍 の無策 や暴挙 よりも陸軍 の無理 な徴用 がより誇張 されて伝 えられているケースも散見 される。
海軍 は各種 の特攻 を主導 し、桜花 や震 洋 、伏 龍 といった特攻 兵器 の開発 に執心 した黒島 亀 人 や大田 正一 のような人物 が居 た一方 、陸軍 は特攻 作戦 自体 には消極 的 であったとも言 われており、最 末期 の桜 弾 やタ号 に至 る以前 に開発 された剣 やマルレなどは、生還 の見込 みが全 くない直接 の体当 たりではなく、手動 で投 弾 し帰投 を図 る事 が原則 の設計 が成 されていた。海軍 は人間 を誘導 装置 とし、発進 したが最後 100%生還 の見込 みの無 い非 人道的 な人間 ミサイル桜花 や人間 魚雷 回天 を組織 的 に開発 ・実戦 投入 していた一方 で、陸軍 は陸軍 技術 研究所 の技師 達 が「搭乗 員 が100%戦死 する体当 たり攻撃 は技術 者 の怠慢 を意味 する不名誉 な事 」として親子 飛行機 構想 を提案 したことを契機 に[5]、遠隔 操作 ・無線 誘導 の対 艦 ミサイル(イ号 一 型 甲 無線 誘導 弾 ・イ号 一 型 乙 無線 誘導 弾 )、自動 追尾 の対 艦 誘導 爆 弾 (ケ号 自動 吸着 弾 ・イ号 一 型 丙 自動 追尾 誘導 弾 )、熱線 自動 追尾 の無人 航 走 自爆 艇 (ケ号 装置 付 連絡 艇 )といった機械 を誘導 装置 とする先進 的 な無人 誘導 兵器 の数々 を組織 的 に開発 、イ号 一 型 乙 無線 誘導 弾 に至 っては実用 化 の域 に達 し量産 途中 であった史実 も存在 する。
電子 装備 に関 してはレーダーについても陸軍 の方 が上層 部 の理解 が篤 く、戦前 から開発 を積極 的 に行 っていた反面 、海軍 は「闇夜 の提灯 」としてこうした電子 装備 を全 く軽視 しており、ミッドウェー海戦 までは殆 ど開発 が進 んでいなかった。一方 、開戦 当時 には既 に開発 をほぼ終 えていた陸軍 の対 空電 探 である超 短波 警戒 機 乙 (出力 50kw、最大 300km)は、同 時期 の海軍 の21号 電 探 (出力 5kw、最大 100km)よりも探知 距離 が長 かった。海軍 は大戦 後期 に小型 軽量 な13号 電 探 (出力 10kw、最大 100-150km)で巻 き返 しを図 ったものの、全 艦艇 への普及 は1944年 までずれ込 んだ。一方 、陸軍 の超 短波 警戒 機 乙 はシステムが大掛 かりではあるが、1941年 には地上 設置 型 、1943年 には車両 輸送 可能 なタイプの生産 が行 われており、電波 標定 機 による高射 砲 のレーダー誘導 も限定 的 ではあるが1942年 には開発 に着手 しており、終戦 間際 には五 式 十 五 糎 高射 砲 の配備 に漕 ぎ着 けている。八木 ・宇田 アンテナの「再 発見 」という不名誉 な事実 こそあるものの、陸軍 はこれらのレーダーを活用 した早期 警戒 ・要撃 体制 の整備 により、大戦 後半 に至 っても旧式 の一式 戦 「隼 」を中心 とした部隊 で連合 軍 と互角 かそれ以上 のキルレシオを維持 し続 けた(超 短波 警戒 機 乙 #陸軍 航空 部隊 の早期 警戒 )。海軍 が「零 戦 の強化 には全 く役 にたない」と評 した水 メタノール噴射 装置 についても一式 戦 を中心 に積極 的 な採用 を行 い、航空 優勢 維持 の要因 の一 つともなった。
- また、
陸軍 はソナーや水中 聴音 機 についても戦前 より海軍 の潜水 艦 よりも遙 かに深深 度 まで潜航 可能 な西村 式 潜水 艇 を用 いての研究 を進 めており、1930年代 中期 の段階 で海軍 ですら輸入 やコピー製造 に頼 っていたアクティブソナー「す号 機 」の独自 開発 に成功 、日米 開戦 時点 では日本 周辺 の海底 地形 の殆 どを把握 し、朝鮮 海峡 や宗谷海峡 などの要地 に要地 型 す号 機 を用 いた音響 探知 線 を張 る事 でソ連 潜水 艦 の活動 を日本海 にほぼ封 じ込 められる水準 に達 していた。前述 のまるゆの開発 も苦 し紛 れの思 いつき程度 の代物 ではなく、こうした海底 地形 の調査 や深深 度 における音響 探査 技術 の地道 な研究 の結果 、当時 の技術 水準 では潜水艦 同士 の水中 遭遇 戦 はまず起 こり得 ないという技術 的 な裏付 けを元 に「昼間 は海底 に鎮座 し、夜間 に洋上 航行 を行 う」潜水 輸送 隊 構想 の具現 化 に至 ったものであった[6]。一方 、海軍 は戦前 にペン書 き式 のアクティブソナー九三式水中探信儀、戦中 にブラウン管 表示 方式 の三式水中探信儀の制式 化 を行 ったものの、海軍 の潜水艦 搭乗 員 の多 くはレーダーに対 する認識 同様 に、自 ら音波 を出 す行為 を嫌 って殆 ど使用 されず、ソナー運用 方針 をパッシブからアクティブへ全面 転換 した1944年 後半 には既 に運用 できる艦艇 は殆 ど喪失 し、メーカーの倉庫 に在庫 の山 が築 かれたという[7]。また、海軍 は戦前 よりアクティブソナーの機材 としての導入 自体 は行 っていたものの、その活用 に必要 な音響 伝搬 技術 の研究 は全 く軽視 されており、1943年 10月 になってようやく海洋 中 の音波 伝搬 の研究 を開始 する有様 であった[8]。- しかし、
一般 的 にはこうした陸軍 船舶 司令 部 及 び陸軍 船舶 兵 の「生 き残 る為 」の数々 の提案 や取 り組 み、装備 品 の先進 性 などは殆 ど知 られておらず、今日 に至 るまで海軍 の昔日 の栄光 が持 て囃 される裏 で「陸軍 は海軍 と仲 が悪 かった故 に、航空 母艦 (実際 には後世 のヘリ空母 や強襲 揚陸 艦 に分類 されるものである)や潜水艦 を自 ら運用 する事 となった。」という珍奇 性 をもって語 られるのみで、未 だ公平 な視座 からの正当 な評価 が行 われる事 は稀 である。なお、今日 の軍事 に於 いては陸軍 や海兵 隊 が独自 のロジスティクス戦略 を立 て独自 の水上 戦隊 を運用 する事 、単 に兵 や重火器 の頭数 を数 え上 げるのではなく、その陸上 軍 独自 の海上 輸送 能力 も加味 した戦力 評価 を行 わなければ、その国 の陸上 兵力 の真価 (≒自国 に対 する脅威 の度合 い)も推 し量 れないという事 は半 ば常識 となっており、軍事 アナリストの小川 和久 も度々 そうした主旨 の解説 や評論 を行 っている。
- しかし、
陸戦 においても栗林 忠 道 のように海軍 陸戦 隊 を評 して「防御 の思想 がまるでなく、防衛 にとって有害 な施設 構築 すら行 っている」「装備 ・物量 共 に陸軍 よりも遙 かに優良 でありながら、戦闘 ではまるで役 にたない」と極 めて手厳 しく評 している例 がありながらも、戦後 防衛 研究所 などが編纂 した『硫黄 島 戦史 』では、栗林 のこうした海軍 に対 する酷評 のみが不自然 に削除 されているなどの実例 がある[9]。初年 兵 教育 においては、陸軍 では(表向 きにはだが)体罰 が禁止 されていた。一応 、ビンタなどの私刑 は日常 的 に行 われていたが、怪我 をさせると無 いはずの私的 制裁 の存在 が否定 できなくなるため、セミやウグイスの真似 をさせたりして精神 的 な苦痛 を与 えたりするなど、様々 な「しごき」があった。一方 、海軍 では陸軍 と異 なり「しごき」や肉体 的 制裁 が公然 と認 められていた。日本 海軍 に於 いて特 に有名 な「しごき」は海軍 精神 注入 棒 (軍人 精神 注入 棒 、大 東亜 戦争 勝 ち抜 き棒 )等 と呼 ばれる硬 い樫 の木 の太 棒 (他 には止 索 (とめなわ)と呼 ばれる太 い係留 用 ロープやラッタルの手摺 (通称 、真剣 棒 )が使 われる事 さえあった)やを構 えた下士官 や古兵 が、教育 の名 の下 に壁 に手 をつかせた新兵 の尻 を叩 く行為 (所謂 ケツバット、当時 の海軍 ではバッタと呼 ばれていた)が有名 である。叩 かれ腫 れ上 がった尻 のせいで、その夜 はまともに仰向 けで寝 る事 が出来 ずに奥歯 を噛 み堪 えながら夜 を明 かす新兵 が多 かった。中 には叩 く力 が強 すぎて肛門 が裂 けた新兵 、叩 きどころが悪 く背骨 に当 たり死亡 した(=殺 された)新兵 さえいた。
これらが
脚注 [編集 ]
注釈
- ^ 。また、
少尉 に任官 しても甲種 幹部 候補 生 や特別 操縦 見習 士官 出身 の予備 役 将校 は、士官 候補 生 (陸軍 士官 学校 ・陸軍 航空 士官 学校 )出身 の現役 将校 よりも教育 期間 は短 く質 が劣 るとされていたため、部隊 において部下 である古参 の兵 や下士官 から舐 められてしまう傾向 があった。 - ^
四 等 水兵 として入団 し、下士官 を経 た叩 き上 げの特務 士官 として終戦 を迎 えた坂井 三郎 は、著書 『零 戦 の真実 』等 で兵 学校 出身 士官 の態度 や士官 と下士官 の待遇 差別 について特 に批判 を行 っている。
出典
- ^
日本 国際 政治 学会 太平洋戦争 原因 研究 部 『太平洋戦争 への道 』全 7巻 、朝日新聞社 、1962-1963年 。 - ^
庄司 潤一郎 「“戦史 叢書 ”における陸海 軍 並立 に関 する一 考察 ―“開戦 経緯 ”を中心 として」『戦史 研究 年報 』12号 、防衛 研究所 、2009年 、18頁 。 - ^ 『
指揮 官 と参謀 - コンビの研究 』〈文春 文庫 〉1992年 。 - ^ “
戦没 者 230万 人 :兵士 を「駒 」扱 い愚劣 な軍事 指導 者 たち半藤 一利 さんインタビュー”.毎日新聞 . (2014年 8月 15日 ) - ^
戦史 叢書 87巻 陸軍 航空 兵器 の開発 ・生産 ・補給 458頁 - ^
水中 音響 伝播 の調査 -西村 式 豆 潜水 艇 ホームページ(Googleインターネットアーカイブ) - ^ レーダおよびソナーの
開発 - ^
新保 勇 「"沼津 技研 "の回想 」『海 オキシーテック ニュースレター 13号 』オキシーテック、1995年 、10-11頁 - ^
栗林 忠 道 の総括 電報