ルイス・キャロル

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ルイス・キャロル
Lewis Carroll
誕生たんじょう チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン
Charles Lutwidge Dodgson
1832ねん1がつ27にち
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド チェシャーしゅう ダーズベリ
死没しぼつ 1898ねん1がつ14にち(1898-01-14)(65さい
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ギルフォード
職業しょくぎょう 数学すうがくしゃ論理ろんり学者がくしゃ写真しゃしん作家さっか詩人しじん
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
代表だいひょうさく不思議ふしぎくにのアリス』(1865ねん
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ルイス・キャロル(Lewis Carroll [ˈluːɪs ˈkæɹəł], 1832ねん1がつ27にち - 1898ねん1がつ14にち)は、イギリス数学すうがくしゃ論理ろんり学者がくしゃ写真しゃしん作家さっか詩人しじんである。

本名ほんみょうチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン (Charles Lutwidge Dodgson [ˈt͡ʃɑːłz ˈlʌtwɪd͡ʒ ˈdɒdʒsən]) で、作家さっかとして活動かつどうするときにルイス・キャロルのペンネームもちいた。このペンネームは "Charles Lutwidge" をこれに対応たいおうするラテン語らてんごめい "Carolus Ludovicus" になおし、ふたた英語えいごもどして順序じゅんじょえたものである。なお、 "Dodgson" の実際じっさい発音はつおんは「ドジソン」ではなく「ドッドソン」にちかいというせつもあるが[1]、この記事きじでは慣例かんれいしたがい「ドジソン」と表記ひょうきする。

作家さっかとしてのルイス・キャロルは、『不思議ふしぎくにのアリス』の作者さくしゃとして非常ひじょうによくられている。「かばん」としてられる複数ふくすうかたりからなる造語ぞうごなど、様々さまざま実験じっけんてき手法しゅほう注目ちゅうもくされている。数学すうがくしゃとしては、チャールズ・ドジソン名義めいぎ著作ちょさくしている。

キャロルの作品さくひん出版しゅっぱん以来いらい人気にんきはくつづけており、その影響えいきょう児童じどう文学ぶんがくいきまらず、ジェイムズ・ジョイスホルヘ・ルイス・ボルヘスのような20世紀せいき作家さっからにもおよんでいる。

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家系かけい[編集へんしゅう]

ドジソンの一族いちぞくアイルランドけいふく北部ほくぶイギリスじんである。保守ほしゅてき英国えいこくこく教徒きょうとであるドジソンの先祖せんぞ大半たいはんは、軍人ぐんじん聖職せいしょくしゃという英国えいこく上層じょうそう中産ちゅうさん階級かいきゅうにおける2つの伝統でんとうてき職業しょくぎょう従事じゅうじしていた。ドジソンの祖父そふである同名どうめいのチャールズ・ドジソンは主教しゅきょうであった。またおなじく同名どうめい祖父そふチャールズは陸軍りくぐん大尉たいいだった。この祖父そふ1803ねんに、2人ふたり息子むすこがほとんどあかぼうころ戦死せんしした。

この息子むすこたちのうちちちいだあにのチャールズは聖職せいしょくき、ウェストミンスター学校がっこうからオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくクライスト・チャーチすすんだ。チャールズは数学すうがくたいして天賦てんぷ才能さいのうしめし、2にわたり首席しゅせき成績せいせきおさめ、おおいに将来しょうらい嘱望しょくぼうされた。チャールズは1827ねん従姉妹いとこフランシス・ジェーン・ラトウィッジと結婚けっこんし、教区きょうく牧師ぼくしとなった。

誕生たんじょう[編集へんしゅう]

1832ねん1がつ27にち、チャールズ・ドジソン(のルイス・キャロル)は前述ぜんじゅつ教区きょうく牧師ぼくしチャールズ・ドジソン長男ちょうなんとしてチェシャーしゅうウォーリントンダーズベリ英語えいごばんちいさな牧師ぼくしかんまれた。チャールズのうえには2人ふたりあねがいた。またチャールズのしたには8にん弟妹ていまいがいたが、おんな7にんおとこ4にん兄弟きょうだい姉妹しまい全員ぜんいんが、だれひとり夭折ようせつせずに成人せいじんとなることができた。

ちちドジソンは、結婚けっこんしたために大学だいがくでの数学すうがく教職きょうしょく当時とうじ独身どくしん条件じょうけんであった)を断念だんねんしたが、聖職せいしょくしゃとしておおくの説教せっきょうしゅう出版しゅっぱんや、テルトゥリアヌス翻訳ほんやくおこない、リッポンだい聖堂せいどう英語えいごばんだい執事しつじき、英国えいこく国教こっきょうかい二分にぶんしたはげしい宗教しゅうきょう論争ろんそうかかわるなど、聖職せいしょくしゃとして出世しゅっせした人物じんぶつである。ドジソンはこうきょう会派かいはであり、アングロ・カトリック主義しゅぎ英語えいごばんものであり、神学しんがくしゃジョン・ヘンリー・ニューマントラクト運動うんどう賛同さんどうしゃであった。チャールズもまたちち影響えいきょう敬虔けいけんキリスト教徒きりすときょうとであったが、のちに儀礼ぎれい主義しゅぎむねとする英国えいこく国教こっきょうかい指針ししんとのあいだ内心ないしん対立たいりつかかえ、以降いこう生涯しょうがいわたって宗教しゅうきょうてきなジレンマをかかつづけたとされる[2]

チャールズは吃音きつおんだった。幼年ようねんのチャールズは、兄弟きょうだい姉妹しまいとともに家庭かていない教育きょういくされていて、7さいにして『てん歴程れきてい』にとおした。チャールズが11さいときに、ちちヨークシャーしゅうクロフトに転任てんにんし、一家いっか広々ひろびろとした教区きょうくかんし、以後いご25年間ねんかんにわたり一家いっかはこの教区きょうくかん生活せいかつした。12さいときに、チャールズはリッチモンドちいさな私立しりつ学校がっこう入学にゅうがくしたのち、1845ねんラグビーこう転校てんこうしたが、すうねんにラグビーこうはなれるにあたり、チャールズは以下いか文章ぶんしょうしるしている。

地球ちきゅうじょうのいかなる報酬ほうしゅうも、わたしさん年間ねんかんをもう一度いちどかえさせることはできないでしょう……もし正直しょうじきってかまわなければ、よる煩悶はんもんらわれなければ、わたし日常にちじょう苦労くろうはよりるものとなっていたでしょう」

しかし数学すうがく講師こうしのR・B・メイヤーは「ラグビーこう赴任ふにんして以来いらいかれ年齢ねんれいかれほど有望ゆうぼう少年しょうねんたことがない」とべている[よう出典しゅってん]

学究がっきゅう生活せいかつ[編集へんしゅう]

1850ねんおわりにチャールズはラグビーこう卒業そつぎょうし、休養きゅうよう期間きかんをおいて、1851ねん1がつちち母校ぼこうであるオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくのクライスト・チャーチ・カレッジに入校にゅうこうしたが、47さいだったははフランシスがずいまくえんのう梗塞こうそくおぼしき脳炎のうえん死去しきょし、入校にゅうこうわずか2にち実家じっかもどされた。

翌年よくねん、チャールズは文学ぶんがくごうだい1試験しけん合格ごうかくし、ちち旧友きゅうゆうエドワード・ピュージー英語えいごばんから、スチューデントシップ(クライスト・チャーチにおける特別とくべつ研究けんきゅういん)に指名しめいされた。

1854ねんにクライスト・チャーチを最優秀さいゆうしゅう成績せいせき卒業そつぎょうしたのち同校どうこう数学すうがく講師こうしとなったチャールズは以降いこう26年間ねんかんにわたり仕事しごとつづけた。じつ卒業そつぎょう国教こっきょうかい司祭しさいしょく資格しかくることが入学にゅうがく条件じょうけんであったのだが、表向おもてむきには「吃音きつおん説教せっきょう支障ししょうをきたす」ことをおも理由りゆうとして、背景はいけいには上記じょうきのようなチャールズ自身じしん宗教しゅうきょうてき葛藤かっとう理由りゆうとして聖職せいしょくしゃ資格しかくることをこばつづけたのではないかと推測すいそくされている[2]

また、チャールズはオックスフォードてんかん診断しんだんされた。これは当時とうじ社会しゃかいでは非常ひじょう不名誉ふめいよなことだった。しかし、近年きんねんのシカゴ・イリノイ大学だいがくてんかん診療しんりょうしょ理事りじジョン・R・ヒューズは、チャールズのてんかんは誤診ごしんだった可能かのうせい主張しゅちょうしている[よう出典しゅってん]

マイケル・フィッツジェラルド英語えいごばんは、てんかんではなく、自閉症じへいしょうスペクトラムしょうであったとしている。

  

ルイス・キャロルと写真しゃしん[編集へんしゅう]

ルイス・キャロルによるアリス・リデル写真しゃしん(1858ねん

1856ねん3月18にちにチャールズはオックスフォードの学友がくゆうであるレジナルド・サウジー英語えいごばんとともにカメラを購入こうにゅうし、写真しゃしん撮影さつえい趣味しゅみとするようになった。キャロルは、リデル少女しょうじょたちを撮影さつえいしてまわり、リデル夫人ふじんから撮影さつえいをやめるように忠告ちゅうこく再三さいさんにわたってつづけたが、撮影さつえいつづけた。自分じぶんのカメラをリデル勝手かっていてゆく始末しまつであった。

チャールズは生涯しょうがいで300にん少女しょうじょ出会であ[2]彼女かのじょらを被写体ひしゃたいとして写真しゃしんつづけた。現存げんそんするチャールズの写真しゃしん作品さくひん完全かんぜん一覧いちらんは、ロジャー・テイラーによる『Lewis Carroll, Photographer』(2002ねんISBN 0691074437掲載けいさいされているが、テイラーの計算けいさんによれば、現存げんそんする作品さくひん半分はんぶん以上いじょう少女しょうじょ撮影さつえいしたものである。カメラを入手にゅうしゅした1856ねんのうちにチャールズは、一連いちれんのアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデル当時とうじ4さい)の撮影さつえいおこなっている[3]。ただし、後述こうじゅつするように、現存げんそんする写真しゃしんはチャールズのぜん作品さくひんさんぶんいちたない。

チャールズのおりの被写体ひしゃたいはクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンであった。クシーが4さいから16さいまでの期間きかんにわたり、やく50かい撮影さつえいおこなっている。1880ねんにチャールズは16さいのクシーの水着みずぎ写真しゃしん撮影さつえいする許可きょかけようとしたが、これはゆるされなかった。ほぼすべての少女しょうじょ写真しゃしんでは、被写体ひしゃたい名前なまえ写真しゃしんかく色付いろづきインクでしるされている。

チャールズの作品さくひんなかには、少女しょうじょたちに中国人ちゅうごくじんふうやギリシャじんふう物乞ものごふうなど様々さまざま衣装いしょうせて撮影さつえいされた、今日きょうでいうところのコスチューム・プレイの写真しゃしん多数たすうふくまれている[4]

少女しょうじょヌードの撮影さつえい[編集へんしゅう]

チャールズは少女しょうじょたちのヌード写真しゃしん多数たすう撮影さつえいしたとかんがえられているが、それらの写真しゃしん大半たいはんはチャールズの存命ぞんめいちゅう破棄はきされたか、モデルに手渡てわたされて散逸さんいつしたと推測すいそくされている[5]。これらのヌード写真しゃしんながあいだうしなわれていたとかんがえられていたが、6まい発見はっけんされ、そのうちの4まい公開こうかいされている。

チャールズが少女しょうじょヌードを撮影さつえいしていた理由りゆうとしては、チャールズがロマン主義しゅぎ影響えいきょうつよけており、かみもっとちか純粋じゅんすい無垢むく存在そんざいとしてはだか少女しょうじょたちをていたのではないかとの指摘してきがある[6]一方いっぽうで、かれ少女しょうじょヌードの撮影さつえいやスケッチは、しょうべるように、ながらくチャールズを小児しょうに性愛せいあいしゃであるとの推測すいそくむすけてきた。

社交しゃこうじゅつとしての写真しゃしん[編集へんしゅう]

チャールズは、写真しゃしんじゅつ上流じょうりゅう社交しゃこうサークルへのデビューに役立やくだつのにも気付きづいた。ドジソンはかれ個人こじん写真しゃしんかん所有しょゆうし、ジョン・エヴァレット・ミレーエレン・テリーダンテ・ゲイブリエル・ロセッティジュリア・マーガレット・キャメロンアルフレッド・テニスンらの肖像しょうぞう写真しゃしん撮影さつえいしている。チャールズはまた、おおくの風景ふうけい写真しゃしん骨格こっかく標本ひょうほん写真しゃしん撮影さつえいした。

写真しゃしん趣味しゅみ終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

チャールズは1880ねん唐突とうとつ写真しゃしんじゅつをやめてしまった。24ねんあいだに、チャールズはこの表現ひょうげん手法しゅほう完全かんぜん習得しゅうとくし、クライスト・チャーチの中庭なかにわにはかれ自身じしん写真しゃしんかんち、やく3000まい写真しゃしん撮影さつえいしていた。これらの写真しゃしんうち、1000まいらずが破損はそんまぬかれて現存げんそんしている。チャールズは毎日まいにちすうあいだついやして、個々ここ写真しゃしん撮影さつえいじょうきょうかんする詳細しょうさい記録きろくのこしていたが、この記録きろくうしなわれてしまった。

モダニズム到来とうらいともな時代じだいうつわりにより、1920年代ねんだいから1960年代ねんだいまで、写真しゃしんとしてのチャールズはわすられていた。現在げんざいでは、ドジソンは近代きんだい芸術げいじゅつ写真しゃしんおおきな影響えいきょうおよぼしたヴィクトリアにおけるすぐれた写真しゃしん一人ひとりなされている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

わかころのチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは、カールした茶色ちゃいろかみあおち、身長しんちょうやく5フィート11インチ(やく180センチ)のすらっとしてハンサムな夢見心地ゆめみごこち表情ひょうじょう青年せいねんだった。17さいおわりのころに、ドジソンはおも百日咳ひゃくにちぜきわずらい、みぎみみ聴力ちょうりょく障害しょうがいった。おそらくこの百日咳ひゃくにちぜきは、かれのち人生じんせいにおける慢性まんせいてきはいよわさの原因げんいんとなった。ドジソンが成人せいじんまできずった唯一ゆいいつあきらかな欠点けってんは、かれ自身じしんが「ためらい(hesitation)」と名付なづけていた吃音きつおんくせだった。この性癖せいへき幼少ようしょうにつき、生涯しょうがいにわたりドジソンのなやみのたねとなった。

吃音きつおんはキャロルを神話しんわ重要じゅうよう一部いちぶである。ドジソンが吃音きつおんこしたのは大人おとなとの交際こうさいときのみであり、子供こども相手あいてには自由じゆうにすらすらとしゃべれたというのがキャロル神話しんわひとつだが、この主張しゅちょう裏付うらづける証拠しょうこ存在そんざいしない。ドジソンと面識めんしきのあったおおくの大人おとなかれ吃音きつおん気付きづかなかった一方いっぽうで、おおくの子供こどもかれ吃音きつおん記憶きおくしている。ドジソンの吃音きつおんもんがた大人おとな世界せかいへの恐怖きょうふ由来ゆらいするものではなく、生来せいらいのものだった。ドジソン自身じしんは、かれ出会であったほとんどの人々ひとびとよりも自分じぶん吃音きつおんふかにしており、『不思議ふしぎくにのアリス』においては、発音はつおんしにくいかれのラスト・ネームをもじった「ドードー」として、自分じぶん自身じしん戯画ぎがしている。吃音きつおんへきはしばしばドジソンにきまといかれなやませてはいたが、社交しゃこう生活せいかつにおける長所ちょうしょすほどひどいものではなかった。

ドジソンはまれつきの社交しゃこうせいつよ自己じこ顕示けんじよくっており、周囲しゅうい注目ちゅうもくきつけ称賛しょうさんされることによろこびをおぼえていた。人々ひとびと社交しゃこうじょう技術ぎじゅつとして、かれ自身じしん娯楽ごらくのための歌唱かしょう朗誦ろうしょうもとめられていた時代じだいわかいドジソンは魅惑みわくてき芸人げいにんとしての技術ぎじゅつそなえていた。ドジソンは聴衆ちょうしゅうまえうたうことをおそれてはおらず、それなりの歌唱かしょうりょくっていた。ドジソンは物真似ものまね物語ものがたり達人たつじんでもあり、かれジェスチャーゲームは好評こうひょうはくしていた。

ドジソンは社会しゃかいてきにも野心やしんであり、作家さっか画家がかとしてなんらかの方法ほうほう世間せけん才能さいのうしめすことを切望せつぼうしていた。ドジソンが最終さいしゅうてき写真しゃしんじゅつ転向てんこうしたのは、画家がかとしての才能さいのう不十分ふじゅうぶんだと自覚じかくしたためとかんがえられる。あるいはドジソンの学者がくしゃとしてげた業績ぎょうせきは、かれ芸術げいじゅつ分野ぶんや達成たっせいすることをのぞんでいた成功せいこうを、わせるためのものだった可能かのうせいかんがえられる。

初期しょき創作そうさくと『不思議ふしぎくにのアリス』の成功せいこうあいだ期間きかんに、ドジソンはラファエルまえ社交しゃこうサークルに入会にゅうかいした。ドジソンは1857ねん美術びじゅつ評論ひょうろんジョン・ラスキンい、したしい友人ゆうじんとなった。ドジソンは画家がかダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ家族かぞくぐるみの親密しんみつ交際こうさいおこない、ウィリアム・ホルマン・ハントジョン・エヴァレット・ミレーアーサー・ヒューズといった画家がかたちいでもあった。ドジソンは幻想げんそう作家さっかジョージ・マクドナルドともい、ドジソンが『アリス』の原稿げんこう出版しゅっぱんしゃおく決心けっしんをしたのは、マクドナルドのむすめ熱心ねっしんすすめによるものだった。

創作そうさく[編集へんしゅう]

創作そうさく分野ぶんやにおいて、キャロルは物語ものがたり執筆しっぴつして多数たすう雑誌ざっし寄稿きこうし、それなりの成功せいこうおさめていた。1854ねんから1856ねんあいだに、キャロルの作品さくひんは『The Comic Times』と『The Train』のような国民こくみんてき雑誌ざっしや、『Whitby Gazette』や『Oxford Critic』のような、より小規模しょうきぼ雑誌ざっし掲載けいさいされた。

キャロルの作品さくひん大半たいはんはユーモラスなものであり、しばしば風刺ふうしてきだった。しかし、キャロルの目標もくひょうこころざしはるかにたかところにあった。1855ねん7がつにキャロルは、「わたしはまだ、(『Whitby Gazette』や『Oxonian Advertiser』での作品さくひんふくめ)本当ほんとう出版しゅっぱんあたいするものをいたとはおもっておりません。しかし、いつの出版しゅっぱんあたいするものをくことをあきらめてはおりません」といている。『不思議ふしぎくにのアリス』出版しゅっぱんすうねんまえから、キャロルは子供こどもけのほんによって収入しゅうにゅうるというかんがえをあたためていた。としるにつれ、このかんがえは洗練せんれんされていった。しかし、金銭きんせんてき収入しゅうにゅうけられたキャロルののないしんは、つねにこのかんがえにとどまりつづけた[よう出典しゅってん]

1856ねんに、キャロルはのち有名ゆうめいになるこの筆名ひつめいかれた最初さいしょ作品さくひん発表はっぴょうした。『The Train』発表はっぴょうされた Solitude(孤独こどく)とだいされたみじかうえに、「Lewis Carroll(ルイス・キャロル)」の名前なまえしるされた。この筆名ひつめいかれ本名ほんみょうのもじりである。「Lewis」は「Lutwidge(ラトウィッジ)」のラテン語らてんごの「Ludovicus」を、「Carroll」は「Charles(チャールズ)」のラテン語らてんごめいの「Carolus」を、それぞれ英語えいごしたものである。

オックスフォードにあるゴッドストウ尼僧にそういん廃墟はいきょ

同年どうねんに、あたらしい学寮がくりょうちょうであるヘンリー・リデルが、妻子さいしともなってクライスト・チャーチに転任てんにんしてきた。リデルの家族かぞくは、そのなんねんものあいだドジソンの作家さっか人生じんせい重要じゅうよう影響えいきょうをおよぼした。キャロルはリデルとくにロリーナ、アリス、イーディスの3姉妹しまいしたしく交際こうさいした。ゴッドストゥ英語えいごばんニューナム英語えいごばんでのリデルさん姉妹しまいれてのボートあそびは、一種いっしゅ習慣しゅうかんとなっていた。

1862ねん7がつ4にち、ドジソンはリデル3姉妹しまいおよび友人ゆうじんロビンソン・ダックワースとの、アイシスがわ[7]へのピクニックの途上とじょうにおいて、のちにふりかえってみるとかれにとって最初さいしょ最大さいだい商業しょうぎょうてき成功せいこうをもたらすことになる、ある物語ものがたり筋書すじがきをした。最初さいしょの『アリス』の物語ものがたりである。このとき口頭こうとうかたった物語ものがたりを、ドジソンはアリス・リデルから「わたしのためにいてください」[2]文章ぶんしょうこすようにせがまれた。下書したがきの執筆しっぴつだい2かいロンドン万国博覧会ばんこくはくらんかい見物けんぶつのための列車れっしゃないおこなわれ、1863ねん2がつ10日とおか本文ほんぶん完成かんせいした。1864ねん9月13にちげられた手書てがきの挿絵さしええ、 同年どうねん11月26にちに「親愛しんあいなるへのクリスマスプレゼントとして、なつおもおくる」との献辞けんじともに、『地下ちかくにのアリス』とだいされた肉筆にくひつほんがアリスにおくられた。のちにドジソンはその写本しゃほんをマクミランしゃしめし、ただちに好意こういてき反応はんのうた。公刊こうかんにあたり、ドジソンは『アリス』の本文ほんぶんを1まん2715から2まん6211へとした。仮題かだいの『Alice Among the Fairies(妖精ようせいくにのアリス)』と『Alice's Golden Hour(アリスの黄金おうごん時間じかん)』が却下きゃっかされたのちに、ついに『不思議ふしぎくにのアリス』は、ルイス・キャロルの筆名ひつめいにより1865ねん出版しゅっぱんされた。今回こんかい挿絵さしえジョン・テニエル手掛てがけた。「(私家版しかばんことなり)公刊こうかんされるほんにはせんもん画家がか腕前うでまえ必要ひつよう」とドジソンは判断はんだんしたようである。

不思議ふしぎくにのアリス』の即時そくじてきかつ驚異きょういてき成功せいこうにより、著者ちょしゃ人生じんせいはドジソンとしての現実げんじつ人生じんせいと、ルイス・キャロルの周囲しゅうい展開てんかいする神話しんわの2つに、事実じじつじょう二分にぶんされてしまった。キャロルは金銭きんせんてき成功せいこうし、かれ物語ものがたりによってひろられるようになったもう一人ひとり人格じんかくつくげられた。『不思議ふしぎくにのアリス』の著者ちょしゃとしてられている、少女しょうじょ浮世うきよばなれした変人へんじんのイメージである。

しもされもせぬ名声めいせいとみをきずきあげるなかで、ドジソンは1881ねんまでクライスト・チャーチの教職きょうしょくつづけ、ぬまでそこの住居じゅうきょとどまった。キャロルは1872ねんに『かがみくにのアリス』を発表はっぴょうし、1876ねんにはジョイスてき模擬もぎ英雄えいゆうスナーク』を発表はっぴょうした。このほんは、アリス以降いこう重要じゅうよう子供こども友達ともだちであるガートルード・チャタウェイにささげられている。1886ねん12月22にちには、『地下ちかくにのアリス』の複製ふくせいほんが5せん出版しゅっぱんされた 。1889ねん1893ねんには、最後さいご小説しょうせつである『シルヴィーとブルーノ』の各巻かくかん発表はっぴょうした。

キャロルは自分じぶんいた手紙てがみについて記録きろくのこしているため、膨大ぼうだいりょう手紙てがみいたことられている。キャロルは、アリスのレターセットと、パンフレット『手紙てがみさいはちきゅう心得こころえ』を出版しゅっぱんしている。

ドジソンはまたかれ自身じしん本名ほんみょうにより、多数たすう数学すうがく論文ろんぶん著書ちょしょ発表はっぴょうしている。不思議ふしぎくにのアリスが好評こうひょうはくし、ヴィクトリア女王じょおう著作ちょさくみたいと依頼いらいしたところ、『行列ぎょうれつしき初歩しょほ』という数学すうがくしょおくられてきて面食めんくらったという逸話いつわのこっている。しかし、キャロル本人ほんにんはその逸話いつわ事実無根じじつむこんであると否定ひていしている[8]

66さい誕生たんじょう間近まぢかひかえた1898ねん1がつ14にち、ドジソンはギルフォードにある姉妹しまいいえ滞在たいざいちゅうに、インフルエンザから併発へいはつした肺炎はいえん死亡しぼうした。ドジソンは死後しご、ギルフォードのマウント・セメタリーに埋葬まいそうされた。

おも作品さくひん[編集へんしゅう]

そのおも著書ちょしょ[編集へんしゅう]

発明はつめい[編集へんしゅう]

ルイス・キャロルは当時とうじ様々さまざま技術ぎじゅつてき問題もんだいについても関心かんしんしめしていたとかんがえられる。キャロルがしん技術ぎじゅつ理解りかい使用しようできたという事実じじつは、かれのカメラの使用しようによって裏付うらづけられている。当時とうじのカメラは、現在げんざいのようなあつかいやすい装置そうちではなかった。

これらの発明はつめいうちひとつが、1891ねん9がつ24にちのキャロルの日記にっき[10]られる「ニクトグラフィ英語えいごばん (Nyctography)」とばれる筆記ひっきほうと、そのための道具どうぐニクトグラフである。この発明はつめいは、キャロルが夜間やかんおもいたアイデアでもそれをめるまではねむりにくことができなかったにもかかわらず、ベッドにもどるまでに照明しょうめい点灯てんとうなどのわずらわしい手順てじゅんきらったことからまれた。キャロルが発明はつめいしたのは格子こうしじょう正方形せいほうけいあな配列はいれつされたカードだった。このカードの左上ひだりうえあなとおしててんき、あなへとてんすすめていくことにより、かれのぞ文字もじ数字すうじのようなシンボルを表現ひょうげんすることができた。ニクトグラフィによる文章ぶんしょう現存げんそんしないことから、この方法ほうほうなが文章ぶんしょうにはもちいられなかったとおもわれる。しかし、キャロルがニクトグラフィによるみじかいメモをめておき、のち日記にっき文章ぶんしょうとしてなおした可能かのうせい充分じゅうぶんかんがえられる。

またキャロルは、ワード・ラダーばれる単語たんごパズルも考案こうあんしている。

少女しょうじょあいしゃせつ[編集へんしゅう]

少女しょうじょへのことなき関心かんしんや、おおくの「子供こども友達ともだち」の存在そんざいオスカー・ギュスターヴ・レイランダー英語えいごばんによる初期しょき児童じどう写真しゃしん蒐集しゅうしゅう少女しょうじょ俳優はいゆう制度せいど改革かいかく以前いぜんのロンドン劇場げきじょうへの愛着あいちゃく少女しょうじょのヌード写真しゃしんやセミヌード写真しゃしんあるいはスケッチといったキャロルの作品さくひんかかわる心理しんり分析ぶんせきは、キャロルが少女しょうじょあいしゃロリータ・コンプレックス)だったとの憶測おくそくこしている。

キャロルはその作品さくひん人生じんせいから少女しょうじょあいものとしてかんがえられつたえられることおおい。『ロリータ』の作者さくしゃウラジーミル・ナボコフかれ作品さくひん人生じんせい影響えいきょうけており、ナボコフはルイス・キャロルを「最初さいしょのハンバート・ハンバート(『ロリータ』の主人公しゅじんこうなか年男としおとこ)」とんでいる。

当時とうじ児童じどうのヌード写真しゃしんめずらしいものではなかったとの主張しゅちょうにより、議論ぎろんはさらに複雑ふくざつになっている。ヴィクトリアにおけるキャロル以外いがい著名ちょめい児童じどうヌード写真しゃしん撮影さつえいとしては、ジュリア・マーガレット・キャメロンフランシス・メドウ・サトクリフ英語えいごばんがいる。

「キャロル神話しんわ」と名付なづけられたキャロライン・リーチ英語えいごばんによる物議ぶつぎかもした調査ちょうさ報告ほうこくによれば、ドジソンを少女しょうじょあい関連付かんれんづけた最初さいしょ発想はっそうは、1932ねんのラングフォード・リードによる『The Life of Lewis Carroll』のなかあらわれる。リーチによれば、キャロルと少女しょうじょたち友情ゆうじょうは、彼女かのじょらが思春期ししゅんき、すなわち1870年代ねんだいのイギリスにおいては16さい前後ぜんこう年齢ねんれいたっするとともに、つねおわりをげたと最初さいしょべたのはリードだった。ただしリードの主張しゅちょうは、あくまでキャロルが肉欲にくよくによってよごされていない、純粋じゅんすい男性だんせいだったこと強調きょうちょうするためのものだった。ドジソンが思春期ししゅんき以降いこう女性じょせいには興味きょうみたなかったとする主張しゅちょうは、伝記でんき作家さっからによってがれた。ドジソンの遺族いぞくらがドジソンの日記にっき手紙てがみるい公開こうかいすることを拒否きょひしたため、これらの伝記でんき作家さっかは、その主張しゅちょう相反あいはんする資料しりょうには気付きづかないままだった。

大人おとな世界せかい拒絶きょぜつし、子供こどもらとの交際こうさい専念せんねんするドジソンぞうは、フローレンス・ベッカー・レノンによる『Victoria Through the Looking-Glass』(1945ねん)や、後世こうせいのキャロルぞうおおきな影響えいきょうあたえたアレキサンダー・テイラーの『The White Knight』(1952ねん)においても、主張しゅちょうされつづけてきた。ドジソン少女しょうじょあいしゃせつひとつとしてつたえられている、キャロルが13さいのアリス・リデルに求婚きゅうこんしたという逸話いつわは、後述こうじゅつするリーチの研究けんきゅうによれば、「キャロルは一種いっしゅのピーター・パンだった」という仮説かせつ提示ていじしたフロレンス・ベッカー・レノンの伝記でんきによりひろめられた。しかし、この逸話いつわ裏付うらづけるいち資料しりょう存在そんざいしない。

これらのドジソンぞうは、ドジソンの子供こどもける関心かんしん無垢むくなものと解釈かいしゃくするか、小児しょうに性愛せいあいてきなものと解釈かいしゃくするかのちがいにより、べつ傾向けいこうびた。こののちおもにジャーナリズムの世界せかい俗流ぞくりゅうのフロイトふう解釈かいしゃくにより「少女しょうじょあいしゃぞうまれた。

ドジソンの少女しょうじょあいしゃせつは1995ねんのモートン・コーエンによる『Lewis Carroll, a Biography』によりさい提起ていきさせられた。コーエンは、ドジソン自身じしんかれ少女しょうじょヌード写真しゃしん審美しんびてきもの主張しゅちょうしていたが、ドジソン自身じしん自覚じかくしない少女しょうじょたいする情緒じょうちょてき愛着あいちゃくを、ドジソンはいていたとべている。

コーエンはさら撮影さつえいさいして少女しょうじょ母親ははおや同席どうせきするようもとめられていたことに着目ちゃくもくし、ドジソンが「かれ自身じしんあやまちにたいする保険ほけん」としてこれらの用心ようじんさくもちいていたのではないかと、前掲ぜんけいしょ228-229ページで疑問ぎもんていしている。コーエンは「ドジソンの少女しょうじょヌード写真しゃしんおおくの友人ゆうじんから、なんらのエロチシズムもかんじさせないと納得なっとくされていたもの」であることをみとめつつも、つづけて「世代せだいはその表層ひょうそうしたにあるものをた」とくわえている。

少女しょうじょのヌード写真しゃしんかかわるドジソンのごとについての唯一ゆいいつ記録きろくは、ドジソンとメイヒュー一家いっかについてのものである。1879ねんにドジソンはオックスフォードのがく僚であるアンドリュー・メイヒューにたいして、コーエンがうところの「いくつかの興味きょうみをそそられる手紙てがみ」をおくっている。コーエンの記述きじゅつによれば、ドジソンは大人おとな立会たちあいなしで、メイヒューの6さいと11さいと13さいさんにんむすめたちのヌード写真しゃしん撮影さつえいする許可きょかもとめようとした。メイヒューの両親りょうしんはそれ以前いぜんはドジソンによるむすめらの撮影さつえいみとめていたにもかかわらず、このもう拒絶きょぜつした。さらにコーエンはこれとどう時期じきに、ドジソンとメイヒュー一家いっかが「突然とつぜん絶縁ぜつえん状態じょうたい」におちいったことを注記ちゅうきしている。リーチはこの問題もんだいおさないもうとたちの撮影さつえいによるものではなく、ドジソンが年長ねんちょうあねからだ正面しょうめんから撮影さつえいしようとしたことによるものと主張しゅちょうしている。

キャロライン・リーチの研究けんきゅうおよび「キャロル神話しんわ[編集へんしゅう]

ドジソンの性的せいてき傾向けいこうかんするあらたな分析ぶんせきは、キャロルの伝記でんき変遷へんせんについての研究けんきゅうふくむ、キャロライン・リーチ英語えいごばんの『In the Shadow of the Dreamchild英語えいごばん』(1999ねん)のなかあらわれた。リーチは「ドジソンが少女しょうじょあいしゃであるとする主張しゅちょうは、ドジソンが成人せいじん女性じょせい興味きょうみたなかったという伝記でんき作家さっかによるあやままった見解けんかいともに、ヴィクトリア倫理りんりかんたいする理解りかいからまれたもの」と主張しゅちょうしている。リーチはこの単純たんじゅんされた架空かくうのドジソンぞうを、「キャロル神話しんわ」と命名めいめいした。

リーチのべるところによれば、いち資料しりょう参照さんしょうするかぎりでは実際じっさいのドジソンの生活せいかつ巷間こうかんれられている伝記でんきちゅうのイメージとはまったことなるものだった。現実げんじつのドジソンは大人おとな女性じょせいたいしてもつよ関心かんしんいており、既婚きこん独身どくしんおおくの女性じょせいとの交際こうさいたのしんでいた。これらの女性じょせいおおくは、成人せいじんもドジソンとの良好りょうこう関係かんけいつづけていた「子供こども友達ともだち」だった。これにより、ドジソンが14さい以上いじょう女性じょせい興味きょうみたなかったとするせつ完全かんぜん論破ろんぱされた。キャサリン・ロイド、コンスタンス・バーチ、エディス・シュート、ガートルード・トムソン英語えいごばんらの女性じょせい成人せいじんしてからドジソンと出会であい、親密しんみつ友情ゆうじょうをきずきあげている。当時とうじ大学だいがく教員きょういん教会きょうかい聖職せいしょくしゃあつかいであり、子供こどもしたしいことよりも、大人おとな女性じょせいしたしいことがスキャンダルとなった。ドジソンの遺族いぞくらが故人こじん評判ひょうばん配慮はいりょして、前述ぜんじゅつ成人せいじん女性じょせいとの交際こうさいのあらゆる記録きろく長年ながねんにわたり隠匿いんとくしたことから、ドジソンは子供こどもにしか興味きょうみたなかったというあやままったイメージがまれた。その結果けっか、ドジソンは少女しょうじょあいしゃだったという主張しゅちょうひろまった。このリーチの主張しゅちょうは、いくつかの古典こてんてきなドジソン少女しょうじょあいしゃせつ否定ひていするのに貢献こうけんした。

リーチの主張しゅちょう以下いかとおりである。ドジソンの社会しゃかいてき不名誉ふめいよは、子供こどものヌードモデルの使用しようよりも、むしろ年長ねんちょうのモデルにたいする水着みずぎつつしみにける衣装いしょう着用ちゃくよう要望ようぼうによりこされたものである。これらの露出ろしゅつたか衣装いしょう着用ちゃくようした年長ねんちょうのモデルの写真しゃしんがすべて破棄はきされたために、少女しょうじょ写真しゃしんだけが批評ひひょう対象たいしょうとしてのこされた、という。

Victorian Studies英語えいごばん』(Vol.43, No.4)での批評ひひょうにおいて、ドナルド・ラッキンは、「いち学術がくじゅつてき研究けんきゅうとして、キャロライン・リーチの『In the Shadow of the Dreamchild』を真剣しんけんめることは困難こんなんである」とひょうしている。In the Shadow of the Dreamchildにおいてキャロライン・リーチのとなえたせつは、おおきくふたつにかれる。ひとつは、キャロルの少女しょうじょあいしゃぞう否定ひていするもので、もうひとつはリデルがく寮長りょうちょう夫人ふじんとキャロルが一種いっしゅ愛人あいじん関係かんけいにあったというものである。後者こうしゃ愛人あいじんせつ反論はんろんおおく、まともな学説がくせつとしてれられている状態じょうたいとはがたい。しかし前者ぜんしゃ小児しょうに性愛せいあいしゃでなかったという前提ぜんていそのものは、エドワード・ウェイクリングやダグラス・R・ニッケルなどのおおくの研究けんきゅう支持しじされている。2003ねん10がつにレンヌでおこなわれた、だい2かい国際こくさいルイス・キャロル会議かいぎでは、キャロルの「少女しょうじょあいしゃぞうは、はっきり「神話しんわである」とあつかわれている[11]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ルイス・キャロルの本名ほんみょうは?
  2. ^ a b c d 楠本くすもと君恵きみえ「『不思議ふしぎくにのアリス』: 150ねん色褪いろあせないほん その現状げんじょう魅力みりょく」『経済けいざいこころざしりんだい84かんだい3ごう、2017ねん、67-97ぺーじ 
  3. ^ 飯沢いいざわこう太郎たろう写真しゃしんてき思考しこう河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2009ねん、105-106ページ
  4. ^ 飯沢いいざわ前掲ぜんけいしょ、108ページ
  5. ^ 飯沢いいざわ前掲ぜんけいしょ、109ページ
  6. ^ 飯沢いいざわ前掲ぜんけいしょ、112-113ページ
  7. ^ テムズがわ別名べつめい。オックスフォードでは、このかわのラテンめい「Thamesis」をりゃくして「Isis」とぶ。
  8. ^ a b ステファニー・ラヴェット・ストッフル『「不思議ふしぎくにのアリス」の誕生たんじょう』94-95ぺーじ 高橋たかはしひろしわけつくもとしゃ〈「さい発見はっけん双書そうしょ73〉、1998ねんISBN 4-422-21133-1
  9. ^ 上記じょうき『「不思議ふしぎくにのアリス」の誕生たんじょう』95、128、130、131ぺーじ
  10. ^ 日記にっき抜粋ばっすいが1953ねんに2かんほん刊行かんこうされた。日記にっき原本げんぽん9さつ現在げんざいだいえい博物館はくぶつかん所蔵しょぞうされており、1993ねん-2007ねん刊行かんこうされている(Lewis Carroll's diaries : the private journals of Charles Lutwidge Dodgson)。
  11. ^ だい2かい国際こくさいルイス・キャロル会議かいぎのプログラム

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

写真しゃしん関連かんれん[編集へんしゅう]

  • 写真しゃしんしゅう『ルイス・キャロル』渡辺わたなべしげるじんやくはじめもとしゃ「ポケットフォト」、2012ねんISBN 4-422-70092-8
  • 高橋たかはし康也こうや『ヴィクトリアあさのアリスたち ルイス・キャロル写真しゃしんしゅう新書しんしょかん新版しんぱん2003ねんISBN 4-403-01042-3
  • ジョン・パドニー『アリスのいる風景ふうけい 写真しゃしんでみるキャロルでん石毛いしげ雅章まさあきやく東京とうきょう図書としょ、1989ねん
  • ヘルムット・ガーンズハイム『写真しゃしんルイス・キャロル』人見ひとみ憲司けんじ金沢かなざわ淳子じゅんこやくあおゆみしゃ写真しゃしん叢書そうしょ、1998ねん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]