ルイス・キャロル (Lewis Carroll [ˈluːɪs ˈkæɹəł] , 1832年 ねん 1月 がつ 27日 にち - 1898年 ねん 1月 がつ 14日 にち )は、イギリス の数学 すうがく 者 しゃ 、論理 ろんり 学者 がくしゃ 、写真 しゃしん 家 か 、作家 さっか 、詩人 しじん である。
本名 ほんみょう はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン (Charles Lutwidge Dodgson [ˈt͡ʃɑːłz ˈlʌtwɪd͡ʒ ˈdɒdʒsən] ) で、作家 さっか として活動 かつどう する時 とき にルイス・キャロルのペンネーム を用 もち いた。このペンネームは "Charles Lutwidge" をこれに対応 たいおう するラテン語 らてんご 名 めい "Carolus Ludovicus" に直 なお し、再 ふたた び英語 えいご 名 な に戻 もど して順序 じゅんじょ を入 い れ替 か えたものである。なお、 "Dodgson" の実際 じっさい の発音 はつおん は「ドジソン」ではなく「ドッドソン」に近 ちか いという説 せつ もあるが[1] 、この記事 きじ では慣例 かんれい に従 したが い「ドジソン」と表記 ひょうき する。
作家 さっか としてのルイス・キャロルは、『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス 』の作者 さくしゃ として非常 ひじょう によく知 し られている。「かばん語 ご 」として知 し られる複数 ふくすう の語 かたり からなる造語 ぞうご など、様々 さまざま な実験 じっけん 的 てき 手法 しゅほう で注目 ちゅうもく されている。数学 すうがく 者 しゃ としては、チャールズ・ドジソン名義 めいぎ で著作 ちょさく を出 だ している。
キャロルの作品 さくひん は出版 しゅっぱん 以来 いらい 人気 にんき を博 はく し続 つづ けており、その影響 えいきょう は児童 じどう 文学 ぶんがく の域 いき に止 と まらず、ジェイムズ・ジョイス やホルヘ・ルイス・ボルヘス のような20世紀 せいき の作家 さっか らにも及 およ んでいる。
ドジソンの一族 いちぞく はアイルランド 系 けい の血 ち を含 ふく む北部 ほくぶ イギリス人 じん である。保守 ほしゅ 的 てき な英国 えいこく 国 こく 教徒 きょうと であるドジソンの先祖 せんぞ の大半 たいはん は、軍人 ぐんじん か聖職 せいしょく 者 しゃ という英国 えいこく の上層 じょうそう 中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう における2つの伝統 でんとう 的 てき 職業 しょくぎょう に従事 じゅうじ していた。ドジソンの曽 そ 祖父 そふ である同名 どうめい のチャールズ・ドジソンは主教 しゅきょう であった。また同 おな じく同名 どうめい の祖父 そふ チャールズは陸軍 りくぐん 大尉 たいい だった。この祖父 そふ は1803年 ねん に、2人 ふたり の息子 むすこ がほとんど赤 あか ん坊 ぼう の頃 ころ 、戦死 せんし した。
この息子 むすこ たちの内 うち 、父 ちち の名 な を継 つ いだ兄 あに のチャールズは聖職 せいしょく に就 つ き、ウェストミンスター学校 がっこう からオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく のクライスト・チャーチ に進 すす んだ。チャールズは数学 すうがく に対 たい して天賦 てんぷ の才能 さいのう を示 しめ し、2度 ど にわたり首席 しゅせき の成績 せいせき を収 おさ め、大 おお いに将来 しょうらい を嘱望 しょくぼう された。チャールズは1827年 ねん に従姉妹 いとこ フランシス・ジェーン・ラトウィッジと結婚 けっこん し、教区 きょうく 牧師 ぼくし となった。
1832年 ねん 1月 がつ 27日 にち 、チャールズ・ドジソン(後 ご のルイス・キャロル)は前述 ぜんじゅつ の教区 きょうく 牧師 ぼくし チャールズ・ドジソン の長男 ちょうなん としてチェシャー州 しゅう ウォーリントンダーズベリ (英語 えいご 版 ばん ) の小 ちい さな牧師 ぼくし 館 かん で生 う まれた。チャールズの上 うえ には2人 ふたり の姉 あね がいた。またチャールズの下 した には8人 にん の弟妹 ていまい がいたが、女 おんな 7人 にん 、男 おとこ 4人 にん の兄弟 きょうだい 姉妹 しまい 全員 ぜんいん が、だれひとり夭折 ようせつ せずに成人 せいじん となることができた。
父 ちち ドジソンは、結婚 けっこん したために大学 だいがく での数学 すうがく の教職 きょうしょく (当時 とうじ は独身 どくしん が条件 じょうけん であった)を断念 だんねん したが、聖職 せいしょく 者 しゃ として多 おお くの説教 せっきょう 集 しゅう の出版 しゅっぱん や、テルトゥリアヌス の翻訳 ほんやく を行 おこな い、リッポン大 だい 聖堂 せいどう (英語 えいご 版 ばん ) の大 だい 執事 しつじ に就 つ き、英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい を二分 にぶん した激 はげ しい宗教 しゅうきょう 論争 ろんそう に関 かか わるなど、聖職 せいしょく 者 しゃ として出世 しゅっせ した人物 じんぶつ である。ドジソンは高 こう 教 きょう 会派 かいは であり、アングロ・カトリック主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) 者 もの であり、神学 しんがく 者 しゃ ジョン・ヘンリー・ニューマン とトラクト運動 うんどう の賛同 さんどう 者 しゃ であった。チャールズもまた父 ちち の影響 えいきょう を受 う け敬虔 けいけん なキリスト教徒 きりすときょうと であったが、のちに儀礼 ぎれい 主義 しゅぎ を旨 むね とする英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい の指針 ししん との間 あいだ に内心 ないしん の対立 たいりつ を抱 かか え、以降 いこう 生涯 しょうがい に渡 わた って宗教 しゅうきょう 的 てき なジレンマを抱 かか え続 つづ けたとされる[2] 。
チャールズは吃音 きつおん だった。幼年 ようねん 期 き のチャールズは、兄弟 きょうだい 姉妹 しまい とともに家庭 かてい 内 ない で教育 きょういく されていて、7歳 さい にして『天 てん 路 ろ 歴程 れきてい 』に目 め を通 とお した。チャールズが11歳 さい の時 とき に、父 ちち はヨークシャー州 しゅう クロフトに転任 てんにん し、一家 いっか は広々 ひろびろ とした教区 きょうく 館 かん に引 ひ っ越 こ し、以後 いご 25年間 ねんかん にわたり一家 いっか はこの教区 きょうく 館 かん で生活 せいかつ した。12歳 さい の時 とき に、チャールズはリッチモンド の小 ちい さな私立 しりつ 学校 がっこう に入学 にゅうがく した後 のち 、1845年 ねん にラグビー校 こう に転校 てんこう したが、数 すう 年 ねん 後 ご にラグビー校 こう を離 はな れるにあたり、チャールズは以下 いか の文章 ぶんしょう を記 しる している。
「地球 ちきゅう 上 じょう のいかなる報酬 ほうしゅう も、私 わたし の三 さん 年間 ねんかん をもう一度 いちど 繰 く り返 かえ させることはできないでしょう……もし正直 しょうじき に言 い って構 かま わなければ、夜 よる の煩悶 はんもん に捕 と らわれなければ、私 わたし の日常 にちじょう の苦労 くろう はより耐 た え得 え るものとなっていたでしょう」
しかし数学 すうがく 講師 こうし のR・B・メイヤーは「ラグビー校 こう に赴任 ふにん して以来 いらい 、彼 かれ の年齢 ねんれい で彼 かれ ほど有望 ゆうぼう な少年 しょうねん を見 み たことがない」と述 の べている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
学究 がっきゅう 生活 せいかつ [ 編集 へんしゅう ]
1850年 ねん の終 おわ りにチャールズはラグビー校 こう を卒業 そつぎょう し、休養 きゅうよう 期間 きかん をおいて、1851年 ねん 1月 がつ に父 ちち の母校 ぼこう であるオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく のクライスト・チャーチ・カレッジに入校 にゅうこう したが、47歳 さい だった母 はは フランシスが髄 ずい 膜 まく 炎 えん か脳 のう 梗塞 こうそく と思 おぼ しき脳炎 のうえん で死去 しきょ し、入校 にゅうこう の僅 わず か2日 にち 後 ご に実家 じっか に呼 よ び戻 もど された。
翌年 よくねん 、チャールズは文学 ぶんがく 士 し 号 ごう 第 だい 1次 じ 試験 しけん に合格 ごうかく し、父 ちち の旧友 きゅうゆう エドワード・ピュージー (英語 えいご 版 ばん ) から、スチューデントシップ(クライスト・チャーチにおける特別 とくべつ 研究 けんきゅう 員 いん )に指名 しめい された。
1854年 ねん にクライスト・チャーチを最優秀 さいゆうしゅう の成績 せいせき で卒業 そつぎょう した後 のち 、同校 どうこう の数学 すうがく 講師 こうし となったチャールズは以降 いこう 26年間 ねんかん にわたり仕事 しごと を続 つづ けた。実 じつ は卒業 そつぎょう 後 ご は国教 こっきょう 会 かい の司祭 しさい 職 しょく の資格 しかく を取 と ることが入学 にゅうがく の条件 じょうけん であったのだが、表向 おもてむ きには「吃音 きつおん が説教 せっきょう に支障 ししょう をきたす」ことを主 おも な理由 りゆう として、背景 はいけい には上記 じょうき のようなチャールズ自身 じしん の宗教 しゅうきょう 的 てき 葛藤 かっとう を理由 りゆう として聖職 せいしょく 者 しゃ の資格 しかく を取 と ることを拒 こば み続 つづ けたのではないかと推測 すいそく されている[2] 。
また、チャールズはオックスフォード でてんかん と診断 しんだん された。これは当時 とうじ の社会 しゃかい では非常 ひじょう に不名誉 ふめいよ なことだった。しかし、近年 きんねん のシカゴ・イリノイ大学 だいがく てんかん診療 しんりょう 所 しょ の理事 りじ ジョン・R・ヒューズは、チャールズのてんかんは誤診 ごしん だった可能 かのう 性 せい を主張 しゅちょう している[要 よう 出典 しゅってん ] 。
マイケル・フィッツジェラルド (英語 えいご 版 ばん ) は、てんかんではなく、自閉症 じへいしょう スペクトラム症 しょう であったとしている。
ルイス・キャロルと写真 しゃしん [ 編集 へんしゅう ]
ルイス・キャロルによるアリス・リデル の写真 しゃしん (1858年 ねん )
1856年 ねん 3月18日 にち にチャールズはオックスフォードの学友 がくゆう であるレジナルド・サウジー (英語 えいご 版 ばん ) とともにカメラを購入 こうにゅう し、写真 しゃしん 撮影 さつえい を趣味 しゅみ とするようになった。キャロルは、リデル家 か の少女 しょうじょ たちを撮影 さつえい してまわり、リデル夫人 ふじん から撮影 さつえい をやめるように忠告 ちゅうこく を再三 さいさん にわたって受 う け続 つづ けたが、撮影 さつえい し続 つづ けた。自分 じぶん のカメラをリデル家 か に勝手 かって に置 お いてゆく始末 しまつ であった。
チャールズは生涯 しょうがい で300人 にん を超 こ す少女 しょうじょ と出会 であ い[2] 、彼女 かのじょ らを被写体 ひしゃたい として写真 しゃしん を撮 と り続 つづ けた。現存 げんそん するチャールズの写真 しゃしん 作品 さくひん の完全 かんぜん な一覧 いちらん は、ロジャー・テイラーによる『Lewis Carroll, Photographer』(2002年 ねん )ISBN 0691074437 に掲載 けいさい されているが、テイラーの計算 けいさん によれば、現存 げんそん する作品 さくひん の半分 はんぶん 以上 いじょう は少女 しょうじょ を撮影 さつえい したものである。カメラを入手 にゅうしゅ した1856年 ねん のうちにチャールズは、一連 いちれん のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデル (当時 とうじ 4歳 さい )の撮影 さつえい を行 おこな っている[3] 。ただし、後述 こうじゅつ するように、現存 げんそん する写真 しゃしん はチャールズの全 ぜん 作品 さくひん の三 さん 分 ぶん の一 いち に満 み たない。
チャールズのお気 き に入 い りの被写体 ひしゃたい はクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチン であった。クシーが4歳 さい から16歳 さい までの期間 きかん にわたり、約 やく 50回 かい の撮影 さつえい を行 おこな っている。1880年 ねん にチャールズは16歳 さい のクシーの水着 みずぎ 写真 しゃしん を撮影 さつえい する許可 きょか を取 と り付 つ けようとしたが、これは許 ゆる されなかった。ほぼすべての少女 しょうじょ 写真 しゃしん では、被写体 ひしゃたい の名前 なまえ が写真 しゃしん の角 かく に色付 いろづ きインクで記 しる されている。
チャールズの作品 さくひん の中 なか には、少女 しょうじょ たちに中国人 ちゅうごくじん 風 ふう やギリシャ人 じん 風 ふう 、物乞 ものご い風 ふう など様々 さまざま な衣装 いしょう を着 き せて撮影 さつえい された、今日 きょう でいうところのコスチューム・プレイの写真 しゃしん が多数 たすう 含 ふく まれている[4] 。
少女 しょうじょ ヌードの撮影 さつえい [ 編集 へんしゅう ]
チャールズは少女 しょうじょ たちのヌード写真 しゃしん も多数 たすう 撮影 さつえい したと考 かんが えられているが、それらの写真 しゃしん の大半 たいはん はチャールズの存命 ぞんめい 中 ちゅう に破棄 はき されたか、モデルに手渡 てわた されて散逸 さんいつ したと推測 すいそく されている[5] 。これらのヌード写真 しゃしん は長 なが い間 あいだ 失 うしな われていたと考 かんが えられていたが、6枚 まい が発見 はっけん され、その内 うち の4枚 まい が公開 こうかい されている。
チャールズが少女 しょうじょ ヌードを撮影 さつえい していた理由 りゆう としては、チャールズがロマン主義 しゅぎ の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けており、神 かみ に最 もっと も近 ちか い純粋 じゅんすい 無垢 むく な存在 そんざい として裸 はだか の少女 しょうじょ たちを見 み ていたのではないかとの指摘 してき がある[6] 。一方 いっぽう で、彼 かれ の少女 しょうじょ ヌードの撮影 さつえい やスケッチは、後 ご の章 しょう で述 の べるように、長 なが らくチャールズを小児 しょうに 性愛 せいあい 者 しゃ であるとの推測 すいそく に結 むす び付 つ けてきた。
社交 しゃこう 術 じゅつ としての写真 しゃしん [ 編集 へんしゅう ]
チャールズは、写真 しゃしん 術 じゅつ が上流 じょうりゅう の社交 しゃこう サークルへのデビューに役立 やくだ つのにも気付 きづ いた。ドジソンは彼 かれ 個人 こじん の写真 しゃしん 館 かん を所有 しょゆう し、ジョン・エヴァレット・ミレー 、エレン・テリー 、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 、ジュリア・マーガレット・キャメロン 、アルフレッド・テニスン らの肖像 しょうぞう 写真 しゃしん を撮影 さつえい している。チャールズはまた、多 おお くの風景 ふうけい 写真 しゃしん や骨格 こっかく 標本 ひょうほん 写真 しゃしん も撮影 さつえい した。
写真 しゃしん 趣味 しゅみ の終焉 しゅうえん [ 編集 へんしゅう ]
チャールズは1880年 ねん に唐突 とうとつ に写真 しゃしん 術 じゅつ をやめてしまった。24年 ねん の間 あいだ に、チャールズはこの表現 ひょうげん 手法 しゅほう を完全 かんぜん に習得 しゅうとく し、クライスト・チャーチの中庭 なかにわ には彼 かれ 自身 じしん の写真 しゃしん 館 かん を持 も ち、約 やく 3000枚 まい の写真 しゃしん を撮影 さつえい していた。これらの写真 しゃしん の内 うち 、1000枚 まい 足 た らずが破損 はそん を免 まぬか れて現存 げんそん している。チャールズは毎日 まいにち 数 すう 時 じ 間 あいだ を費 つい やして、個々 ここ の写真 しゃしん の撮影 さつえい 状 じょう 況 きょう に関 かん する詳細 しょうさい な記録 きろく を書 か き残 のこ していたが、この記録 きろく は失 うしな われてしまった。
モダニズム の到来 とうらい に伴 ともな う時代 じだい の移 うつ り変 か わりにより、1920年代 ねんだい から1960年代 ねんだい まで、写真 しゃしん 家 か としてのチャールズは忘 わす れ去 さ られていた。現在 げんざい では、ドジソンは近代 きんだい の芸術 げいじゅつ 写真 しゃしん に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼしたヴィクトリア期 き における優 すぐ れた写真 しゃしん 家 か の一人 ひとり と見 み なされている。
若 わか い頃 ころ のチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは、カールした茶色 ちゃいろ の髪 かみ と青 あお い目 め を持 も ち、身長 しんちょう 約 やく 5フィート11インチ(約 やく 180センチ)のすらっとしてハンサムな夢見心地 ゆめみごこち な表情 ひょうじょう の青年 せいねん だった。17歳 さい の終 おわ りの頃 ころ に、ドジソンは重 おも い百日咳 ひゃくにちぜき を患 わずら い、右 みぎ 耳 みみ の聴力 ちょうりょく に障害 しょうがい を負 お った。おそらくこの百日咳 ひゃくにちぜき は、彼 かれ の後 のち の人生 じんせい における慢性 まんせい 的 てき な肺 はい の弱 よわ さの原因 げんいん となった。ドジソンが成人 せいじん 期 き まで引 ひ きずった唯一 ゆいいつ の明 あき らかな欠点 けってん は、彼 かれ 自身 じしん が「ためらい(hesitation)」と名付 なづ けていた吃音 きつおん 癖 くせ だった。この性癖 せいへき は幼少 ようしょう 期 き に身 み につき、生涯 しょうがい にわたりドジソンの悩 なや みの種 たね となった。
吃音 きつおん はキャロルを取 と り巻 ま く神話 しんわ の重要 じゅうよう な一部 いちぶ である。ドジソンが吃音 きつおん を起 お こしたのは大人 おとな との交際 こうさい の時 とき のみであり、子供 こども 相手 あいて には自由 じゆう にすらすらと喋 しゃべ れたというのがキャロル神話 しんわ の一 ひと つだが、この主張 しゅちょう を裏付 うらづ ける証拠 しょうこ は存在 そんざい しない。ドジソンと面識 めんしき のあった多 おお くの大人 おとな が彼 かれ の吃音 きつおん に気付 きづ かなかった一方 いっぽう で、多 おお くの子供 こども が彼 かれ の吃音 きつおん を記憶 きおく している。ドジソンの吃音 きつおん は紋 もん 切 ぎ り型 がた の大人 おとな の世界 せかい への恐怖 きょうふ に由来 ゆらい するものではなく、生来 せいらい のものだった。ドジソン自身 じしん は、彼 かれ が出会 であ ったほとんどの人々 ひとびと よりも自分 じぶん の吃音 きつおん を深 ふか く気 き にしており、『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス』においては、発音 はつおん しにくい彼 かれ のラスト・ネームをもじった「ドードー 」として、自分 じぶん 自身 じしん を戯画 ぎが 化 か している。吃音 きつおん 癖 へき はしばしばドジソンに付 つ きまとい彼 かれ を悩 なや ませてはいたが、社交 しゃこう 生活 せいかつ における他 た の長所 ちょうしょ を打 う ち消 け すほどひどい物 もの ではなかった。
ドジソンは生 う まれつきの社交 しゃこう 性 せい と強 つよ い自己 じこ 顕示 けんじ 欲 よく を持 も っており、周囲 しゅうい の注目 ちゅうもく を引 ひ きつけ称賛 しょうさん されることに喜 よろこ びを覚 おぼ えていた。人々 ひとびと が社交 しゃこう 上 じょう の技術 ぎじゅつ として、彼 かれ ら自身 じしん の娯楽 ごらく のための歌唱 かしょう や詩 し の朗誦 ろうしょう が求 もと められていた時代 じだい 、若 わか いドジソンは魅惑 みわく 的 てき な芸人 げいにん としての技術 ぎじゅつ を身 み に備 そな えていた。ドジソンは聴衆 ちょうしゅう の前 まえ で歌 うた うことを恐 おそ れてはおらず、それなりの歌唱 かしょう 力 りょく を持 も っていた。ドジソンは物真似 ものまね と物語 ものがたり の達人 たつじん でもあり、彼 かれ のジェスチャー ゲームは好評 こうひょう を博 はく していた。
ドジソンは社会 しゃかい 的 てき にも野心 やしん 家 か であり、作家 さっか か画家 がか として何 なん らかの方法 ほうほう で世間 せけん に才能 さいのう を示 しめ すことを切望 せつぼう していた。ドジソンが最終 さいしゅう 的 てき に写真 しゃしん 術 じゅつ に転向 てんこう したのは、画家 がか としての才能 さいのう が不十分 ふじゅうぶん だと自覚 じかく したためと考 かんが えられる。あるいはドジソンの学者 がくしゃ として成 な し遂 と げた業績 ぎょうせき は、彼 かれ が芸術 げいじゅつ の分野 ぶんや で達成 たっせい することを望 のぞ んでいた成功 せいこう を、埋 う め合 あ わせるためのものだった可能 かのう 性 せい も考 かんが えられる。
初期 しょき の創作 そうさく と『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス』の成功 せいこう の間 あいだ の期間 きかん に、ドジソンはラファエル前 まえ 派 は の社交 しゃこう サークルに入会 にゅうかい した。ドジソンは1857年 ねん に美術 びじゅつ 評論 ひょうろん 家 か ジョン・ラスキン と知 し り合 あ い、親 した しい友人 ゆうじん となった。ドジソンは画家 がか ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ と家族 かぞく ぐるみの親密 しんみつ な交際 こうさい を行 おこな い、ウィリアム・ホルマン・ハント 、ジョン・エヴァレット・ミレー 、アーサー・ヒューズ といった画家 がか 達 たち の知 し り合 あ いでもあった。ドジソンは幻想 げんそう 作家 さっか のジョージ・マクドナルド とも知 し り合 あ い、ドジソンが『アリス』の原稿 げんこう を出版 しゅっぱん 社 しゃ に送 おく る決心 けっしん をしたのは、マクドナルドの娘 むすめ の熱心 ねっしん な勧 すす めによるものだった。
創作 そうさく の分野 ぶんや において、キャロルは詩 し や物語 ものがたり を執筆 しっぴつ して多数 たすう の雑誌 ざっし に寄稿 きこう し、それなりの成功 せいこう を収 おさ めていた。1854年 ねん から1856年 ねん の間 あいだ に、キャロルの作品 さくひん は『The Comic Times』誌 し と『The Train』誌 し のような国民 こくみん 的 てき 雑誌 ざっし や、『Whitby Gazette』誌 し や『Oxford Critic』誌 し のような、より小規模 しょうきぼ な雑誌 ざっし に掲載 けいさい された。
キャロルの作品 さくひん の大半 たいはん はユーモラスなものであり、しばしば風刺 ふうし 的 てき だった。しかし、キャロルの目標 もくひょう と志 こころざし は遥 はる かに高 たか い所 ところ にあった。1855年 ねん 7月 がつ にキャロルは、「私 わたし はまだ、(『Whitby Gazette』や『Oxonian Advertiser』での作品 さくひん も含 ふく め)本当 ほんとう に出版 しゅっぱん に値 あたい するものを書 か いたとは思 おも っておりません。しかし、いつの日 ひ か出版 しゅっぱん に値 あたい するものを書 か くことを諦 あきら めてはおりません」と書 か いている。『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス』出版 しゅっぱん の数 すう 年 ねん 前 まえ から、キャロルは子供 こども 向 む けの本 ほん によって収入 しゅうにゅう を得 え るという考 かんが えを暖 あたた めていた。年 とし を経 へ るにつれ、この考 かんが えは洗練 せんれん されていった。しかし、金銭 きんせん 的 てき 収入 しゅうにゅう に向 む けられたキャロルの抜 ぬ け目 め のない心 しん は、常 つね にこの考 かんが えにとどまり続 つづ けた[要 よう 出典 しゅってん ] 。
1856年 ねん に、キャロルは後 のち に有名 ゆうめい になるこの筆名 ひつめい で書 か かれた最初 さいしょ の作品 さくひん を発表 はっぴょう した。『The Train』誌 し に発表 はっぴょう された Solitude(孤独 こどく )と題 だい された短 みじか い詩 し の上 うえ に、「Lewis Carroll(ルイス・キャロル)」の名前 なまえ が記 しる された。この筆名 ひつめい は彼 かれ の本名 ほんみょう のもじりである。「Lewis」は「Lutwidge(ラトウィッジ)」のラテン語 らてんご 名 な の「Ludovicus」を、「Carroll」は「Charles(チャールズ)」のラテン語 らてんご 名 めい の「Carolus」を、それぞれ英語 えいご 化 か したものである。
オックスフォードにあるゴッドストウ尼僧 にそう 院 いん の廃墟 はいきょ
同年 どうねん に、新 あたら しい学寮 がくりょう 長 ちょう であるヘンリー・リデルが、妻子 さいし を伴 ともな ってクライスト・チャーチに転任 てんにん してきた。リデルの家族 かぞく は、その後 ご 何 なん 年 ねん ものあいだドジソンの作家 さっか 人生 じんせい に重要 じゅうよう な影響 えいきょう をおよぼした。キャロルはリデル家 か 、特 とく にロリーナ、アリス 、イーディスの3姉妹 しまい と親 した しく交際 こうさい した。ゴッドストゥ (英語 えいご 版 ばん ) やニューナム (英語 えいご 版 ばん ) でのリデル三 さん 姉妹 しまい を連 つ れてのボート遊 あそ びは、一種 いっしゅ の習慣 しゅうかん となっていた。
1862年 ねん 7月 がつ 4日 にち 、ドジソンはリデル3姉妹 しまい および友人 ゆうじん ロビンソン・ダックワースとの、アイシス川 がわ [7] へのピクニックの途上 とじょう において、のちにふりかえってみると彼 かれ にとって最初 さいしょ で最大 さいだい の商業 しょうぎょう 的 てき 成功 せいこう をもたらすことになる、ある物語 ものがたり の筋書 すじが きを生 う み出 だ した。最初 さいしょ の『アリス』の物語 ものがたり である。このとき口頭 こうとう で語 かた った物語 ものがたり を、ドジソンはアリス・リデルから「私 わたし のために書 か いてください」[2] と文章 ぶんしょう に書 か き起 お こすようにせがまれた。下書 したが きの執筆 しっぴつ は第 だい 2回 かい ロンドン万国博覧会 ばんこくはくらんかい 見物 けんぶつ のための列車 れっしゃ 内 ない で行 おこな われ、1863年 ねん 2月 がつ 10日 とおか に本文 ほんぶん が完成 かんせい した。1864年 ねん 9月13日 にち に書 か き上 あ げられた手書 てが きの挿絵 さしえ を添 そ え、 同年 どうねん 11月26日 にち に「親愛 しんあい なる子 こ へのクリスマスプレゼントとして、夏 なつ の日 ひ の思 おも い出 で に贈 おく る」との献辞 けんじ と共 とも に、『地下 ちか の国 くに のアリス 』と題 だい された肉筆 にくひつ 本 ほん がアリスに贈 おく られた。後 のち にドジソンはその写本 しゃほん をマクミラン社 しゃ に示 しめ し、直 ただ ちに好意 こうい 的 てき な反応 はんのう を得 え た。公刊 こうかん にあたり、ドジソンは『アリス』の本文 ほんぶん を1万 まん 2715語 ご から2万 まん 6211語 ご へと書 か き足 た した。仮題 かだい の『Alice Among the Fairies(妖精 ようせい の国 くに のアリス)』と『Alice's Golden Hour(アリスの黄金 おうごん の時間 じかん )』が却下 きゃっか された後 のち に、ついに『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス 』は、ルイス・キャロルの筆名 ひつめい により1865年 ねん に出版 しゅっぱん された。今回 こんかい の挿絵 さしえ はジョン・テニエル が手掛 てが けた。「(私家版 しかばん と異 こと なり)公刊 こうかん される本 ほん には専 せん 門 もん の画家 がか の腕前 うでまえ が必要 ひつよう 」とドジソンは判断 はんだん したようである。
『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス』の即時 そくじ 的 てき かつ驚異 きょうい 的 てき な成功 せいこう により、著者 ちょしゃ の人生 じんせい はドジソンとしての現実 げんじつ の人生 じんせい と、ルイス・キャロルの周囲 しゅうい に展開 てんかい する神話 しんわ の2つに、事実 じじつ 上 じょう 二分 にぶん されてしまった。キャロルは金銭 きんせん 的 てき に成功 せいこう し、彼 かれ の物語 ものがたり によって広 ひろ く知 し られるようになったもう一人 ひとり の人格 じんかく が作 つく り上 あ げられた。『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス』の著者 ちょしゃ として知 し られている、少女 しょうじょ と浮世 うきよ 離 ばな れした変人 へんじん のイメージである。
押 お しも押 お されもせぬ名声 めいせい と富 とみ をき上 ずきあ げる中 なか で、ドジソンは1881年 ねん までクライスト・チャーチの教職 きょうしょく を続 つづ け、死 し ぬまでそこの住居 じゅうきょ に留 とど まった。キャロルは1872年 ねん に『鏡 かがみ の国 くに のアリス 』を発表 はっぴょう し、1876年 ねん にはジョイス的 てき な模擬 もぎ 英雄 えいゆう 詩 し 『スナーク狩 か り 』を発表 はっぴょう した。この本 ほん は、アリス以降 いこう の重要 じゅうよう な子供 こども 友達 ともだち であるガートルード・チャタウェイに捧 ささ げられている。1886年 ねん 12月22日 にち には、『地下 ちか の国 くに のアリス』の複製 ふくせい 本 ほん が5千 せん 部 ぶ 出版 しゅっぱん された 。1889年 ねん と1893年 ねん には、最後 さいご の小説 しょうせつ である『シルヴィーとブルーノ 』の各巻 かくかん を発表 はっぴょう した。
キャロルは自分 じぶん が書 か いた手紙 てがみ について記録 きろく を残 のこ しているため、膨大 ぼうだい な量 りょう の手紙 てがみ を書 か いた事 こと が知 し られている。キャロルは、アリスのレターセットと、パンフレット『手紙 てがみ を書 か く際 さい の八 はち 、九 きゅう の心得 こころえ 』を出版 しゅっぱん している。
ドジソンはまた彼 かれ 自身 じしん の本名 ほんみょう により、多数 たすう の数学 すうがく 論文 ろんぶん や著書 ちょしょ を発表 はっぴょう している。不思議 ふしぎ の国 くに のアリスが好評 こうひょう を博 はく し、ヴィクトリア女王 じょおう が他 た の著作 ちょさく も読 よ みたいと依頼 いらい したところ、『行列 ぎょうれつ 式 しき 初歩 しょほ 』という数学 すうがく 書 しょ が送 おく られてきて面食 めんく らったという逸話 いつわ が残 のこ っている。しかし、キャロル本人 ほんにん はその逸話 いつわ が事実無根 じじつむこん であると否定 ひてい している[8] 。
66歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を間近 まぢか に控 ひか えた1898年 ねん 1月 がつ 14日 にち 、ドジソンはギルフォード にある姉妹 しまい の家 いえ に滞在 たいざい 中 ちゅう に、インフルエンザから併発 へいはつ した肺炎 はいえん で死亡 しぼう した。ドジソンは死後 しご 、ギルフォードのマウント・セメタリーに埋葬 まいそう された。
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その他 た の主 おも な著書 ちょしょ [ 編集 へんしゅう ]
ルイス・キャロルは当時 とうじ の様々 さまざま な技術 ぎじゅつ 的 てき 問題 もんだい についても関心 かんしん を示 しめ していたと考 かんが えられる。キャロルが新 しん 技術 ぎじゅつ を理解 りかい し使用 しよう できたという事実 じじつ は、彼 かれ のカメラの使用 しよう によって裏付 うらづ けられている。当時 とうじ のカメラは、現在 げんざい のような扱 あつか いやすい装置 そうち ではなかった。
これらの発明 はつめい の内 うち の一 ひと つが、1891年 ねん 9月 がつ 24日 にち のキャロルの日記 にっき [10] に見 み られる「ニクトグラフィ (英語 えいご 版 ばん ) (Nyctography)」と呼 よ ばれる筆記 ひっき 法 ほう と、そのための道具 どうぐ ニクトグラフである。この発明 はつめい は、キャロルが夜間 やかん に思 おも い付 つ いたアイデアでもそれを書 か き留 と めるまでは眠 ねむ りに就 つ くことができなかったにもかかわらず、ベッドに戻 もど るまでに照明 しょうめい の点灯 てんとう などのわずらわしい手順 てじゅん を嫌 きら ったことから生 う まれた。キャロルが発明 はつめい したのは格子 こうし 状 じょう に正方形 せいほうけい の穴 あな が配列 はいれつ されたカードだった。このカードの左上 ひだりうえ の穴 あな を通 とお して点 てん を書 か き、他 た の穴 あな へと点 てん を書 か き進 すす めていくことにより、書 か き手 て は彼 かれ の望 のぞ む文字 もじ や数字 すうじ のようなシンボルを表現 ひょうげん することができた。ニクトグラフィによる文章 ぶんしょう が現存 げんそん しないことから、この方法 ほうほう は長 なが い文章 ぶんしょう には用 もち いられなかったと思 おも われる。しかし、キャロルがニクトグラフィによる短 みじか いメモを書 か き止 と めておき、後 のち に日記 にっき の文章 ぶんしょう として書 か き直 なお した可能 かのう 性 せい は充分 じゅうぶん に考 かんが えられる。
またキャロルは、ワード・ラダー と呼 よ ばれる単語 たんご パズルも考案 こうあん している。
少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
少女 しょうじょ への飽 あ く事 こと なき関心 かんしん や、多 おお くの「子供 こども 友達 ともだち 」の存在 そんざい 、オスカー・ギュスターヴ・レイランダー (英語 えいご 版 ばん ) による初期 しょき の児童 じどう 写真 しゃしん の蒐集 しゅうしゅう 、少女 しょうじょ 俳優 はいゆう 制度 せいど の改革 かいかく 以前 いぜん のロンドン劇場 げきじょう への愛着 あいちゃく 、少女 しょうじょ のヌード写真 しゃしん やセミヌード写真 しゃしん あるいはスケッチといったキャロルの作品 さくひん に関 かか わる心理 しんり 分析 ぶんせき は、キャロルが少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ (ロリータ・コンプレックス )だったとの憶測 おくそく を呼 よ び起 お こしている。
キャロルはその作品 さくひん と人生 じんせい から少女 しょうじょ 愛 あい 者 もの として考 かんが えられ伝 つた えられる事 こと が多 おお い。『ロリータ 』の作者 さくしゃ ウラジーミル・ナボコフ も彼 かれ の作品 さくひん と人生 じんせい に影響 えいきょう を受 う けており、ナボコフはルイス・キャロルを「最初 さいしょ のハンバート・ハンバート(『ロリータ』の主人公 しゅじんこう の中 なか 年男 としおとこ )」と呼 よ んでいる。
当時 とうじ は児童 じどう のヌード写真 しゃしん は珍 めずら しいものではなかったとの主張 しゅちょう により、議論 ぎろん はさらに複雑 ふくざつ になっている。ヴィクトリア期 き におけるキャロル以外 いがい の著名 ちょめい な児童 じどう ヌード写真 しゃしん 撮影 さつえい 家 か としては、ジュリア・マーガレット・キャメロン やフランシス・メドウ・サトクリフ (英語 えいご 版 ばん ) がいる。
「キャロル神話 しんわ 」と名付 なづ けられたキャロライン・リーチ (英語 えいご 版 ばん ) による物議 ぶつぎ を醸 かも した調査 ちょうさ 報告 ほうこく によれば、ドジソンを少女 しょうじょ 愛 あい と関連付 かんれんづ けた最初 さいしょ の発想 はっそう は、1932年 ねん のラングフォード・リードによる『The Life of Lewis Carroll』の中 なか で現 あらわ れる。リーチによれば、キャロルと少女 しょうじょ 達 たち の友情 ゆうじょう は、彼女 かのじょ らが思春期 ししゅんき 、すなわち1870年代 ねんだい のイギリスにおいては16歳 さい 前後 ぜんこう の年齢 ねんれい に達 たっ すると共 とも に、常 つね に終 おわ りを告 つ げたと最初 さいしょ に述 の べたのはリードだった。ただしリードの主張 しゅちょう は、あくまでキャロルが肉欲 にくよく によって汚 よご されていない、純粋 じゅんすい な男性 だんせい だった事 こと を強調 きょうちょう するためのものだった。ドジソンが思春期 ししゅんき 以降 いこう の女性 じょせい には興味 きょうみ を持 も たなかったとする主張 しゅちょう は、後 ご の伝記 でんき 作家 さっか らによって受 う け継 つ がれた。ドジソンの遺族 いぞく らがドジソンの日記 にっき や手紙 てがみ 類 るい を公開 こうかい することを拒否 きょひ したため、これらの伝記 でんき 作家 さっか は、その主張 しゅちょう と相反 あいはん する資料 しりょう には気付 きづ かないままだった。
大人 おとな の世界 せかい を拒絶 きょぜつ し、子供 こども らとの交際 こうさい に専念 せんねん するドジソン像 ぞう は、フローレンス・ベッカー・レノンによる『Victoria Through the Looking-Glass』(1945年 ねん )や、後世 こうせい のキャロル像 ぞう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたアレキサンダー・テイラーの『The White Knight』(1952年 ねん )においても、主張 しゅちょう され続 つづ けてきた。ドジソン少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ 説 せつ の一 ひと つとして伝 つた えられている、キャロルが13歳 さい のアリス・リデルに求婚 きゅうこん したという逸話 いつわ は、後述 こうじゅつ するリーチの研究 けんきゅう によれば、「キャロルは一種 いっしゅ のピーター・パンだった」という仮説 かせつ を提示 ていじ したフロレンス・ベッカー・レノンの伝記 でんき により広 ひろ められた。しかし、この逸話 いつわ を裏付 うらづ ける一 いち 次 じ 資料 しりょう は存在 そんざい しない。
これらのドジソン像 ぞう は、ドジソンの子供 こども に向 む ける関心 かんしん が無垢 むく なものと解釈 かいしゃく するか、小児 しょうに 性愛 せいあい 的 てき なものと解釈 かいしゃく するかの違 ちが いにより、別 べつ の傾向 けいこう を帯 お びた。この後 のち 、主 おも にジャーナリズムの世界 せかい で俗流 ぞくりゅう のフロイト風 ふう 解釈 かいしゃく により「少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ 」像 ぞう が生 う まれた。
ドジソンの少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ 説 せつ は1995年 ねん のモートン・コーエンによる『Lewis Carroll, a Biography』により再 さい 提起 ていき させられた。コーエンは、ドジソン自身 じしん は彼 かれ の少女 しょうじょ ヌード写真 しゃしん を審美 しんび 的 てき な物 もの と主張 しゅちょう していたが、ドジソン自身 じしん も自覚 じかく しない少女 しょうじょ に対 たい する情緒 じょうちょ 的 てき な愛着 あいちゃく を、ドジソンは抱 だ いていたと述 の べている。
コーエンは更 さら に撮影 さつえい に際 さい して少女 しょうじょ の母親 ははおや が同席 どうせき するよう求 もと められていたことに着目 ちゃくもく し、ドジソンが「彼 かれ 自身 じしん の過 あやま ちに対 たい する保険 ほけん 」としてこれらの用心 ようじん 策 さく を用 もち いていたのではないかと、前掲 ぜんけい 書 しょ 228-229ページで疑問 ぎもん を呈 てい している。コーエンは「ドジソンの少女 しょうじょ ヌード写真 しゃしん は多 おお くの友人 ゆうじん から、なんらのエロチシズムも感 かん じさせないと納得 なっとく されていたもの」であることを認 みと めつつも、続 つづ けて「後 ご の世代 せだい はその表層 ひょうそう の下 した にあるものを見 み た」と付 つ け加 くわ えている。
少女 しょうじょ のヌード写真 しゃしん に関 かか わるドジソンの揉 も め事 ごと についての唯一 ゆいいつ の記録 きろく は、ドジソンとメイヒュー一家 いっか についてのものである。1879年 ねん にドジソンはオックスフォードの学 がく 僚であるアンドリュー・メイヒューに対 たい して、コーエンが言 い うところの「いくつかの興味 きょうみ をそそられる手紙 てがみ 」を書 か き送 おく っている。コーエンの記述 きじゅつ によれば、ドジソンは他 た の大人 おとな の立会 たちあ いなしで、メイヒュー家 か の6歳 さい と11歳 さい と13歳 さい の三 さん 人 にん の娘 むすめ たちのヌード写真 しゃしん を撮影 さつえい する許可 きょか を求 もと めようとした。メイヒューの両親 りょうしん はそれ以前 いぜん はドジソンによる娘 むすめ らの撮影 さつえい を認 みと めていたにもかかわらず、この申 もう し出 で を拒絶 きょぜつ した。更 さら にコーエンはこれと同 どう 時期 じき に、ドジソンとメイヒュー一家 いっか が「突然 とつぜん の絶縁 ぜつえん 状態 じょうたい 」に陥 おちい ったことを注記 ちゅうき している。リーチはこの問題 もんだい は幼 おさな い妹 いもうと たちの撮影 さつえい によるものではなく、ドジソンが年長 ねんちょう の姉 あね の体 からだ を正面 しょうめん から撮影 さつえい しようとしたことによるものと主張 しゅちょう している。
キャロライン・リーチの研究 けんきゅう および「キャロル神話 しんわ 」 [ 編集 へんしゅう ]
ドジソンの性的 せいてき 傾向 けいこう に関 かん する新 あら たな分析 ぶんせき は、キャロルの伝記 でんき の変遷 へんせん についての研究 けんきゅう を含 ふく む、キャロライン・リーチ (英語 えいご 版 ばん ) の『In the Shadow of the Dreamchild (英語 えいご 版 ばん ) 』(1999年 ねん )の中 なか で現 あらわ れた。リーチは「ドジソンが少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ であるとする主張 しゅちょう は、ドジソンが成人 せいじん 女性 じょせい に興味 きょうみ を持 も たなかったという伝記 でんき 作家 さっか による誤 あやま まった見解 けんかい と共 とも に、ヴィクトリア期 き の倫理 りんり 観 かん に対 たい する無 む 理解 りかい から生 う まれたもの」と主張 しゅちょう している。リーチはこの単純 たんじゅん 化 か された架空 かくう のドジソン像 ぞう を、「キャロル神話 しんわ 」と命名 めいめい した。
リーチの述 の べるところによれば、一 いち 次 じ 資料 しりょう を参照 さんしょう する限 かぎ りでは実際 じっさい のドジソンの生活 せいかつ は巷間 こうかん に受 う け入 い れられている伝記 でんき 中 ちゅう のイメージとは全 まった く異 こと なるものだった。現実 げんじつ のドジソンは大人 おとな の女性 じょせい に対 たい しても強 つよ い関心 かんしん を抱 だ いており、既婚 きこん や独身 どくしん の多 おお くの女性 じょせい との交際 こうさい を楽 たの しんでいた。これらの女性 じょせい の多 おお くは、成人 せいじん 後 ご もドジソンとの良好 りょうこう な関係 かんけい を続 つづ けていた「子供 こども 友達 ともだち 」だった。これにより、ドジソンが14歳 さい 以上 いじょう の女性 じょせい に興味 きょうみ を持 も たなかったとする説 せつ は完全 かんぜん に論破 ろんぱ された。キャサリン・ロイド、コンスタンス・バーチ、エディス・シュート、ガートルード・トムソン (英語 えいご 版 ばん ) らの女性 じょせい は成人 せいじん してからドジソンと出会 であ い、親密 しんみつ な友情 ゆうじょう をき上 ずきあ げている。当時 とうじ の大学 だいがく 教員 きょういん は教会 きょうかい の聖職 せいしょく 者 しゃ の扱 あつか いであり、子供 こども と親 した しいことよりも、大人 おとな の女性 じょせい と親 した しいことがスキャンダルとなった。ドジソンの遺族 いぞく らが故人 こじん の評判 ひょうばん に配慮 はいりょ して、前述 ぜんじゅつ の成人 せいじん 女性 じょせい との交際 こうさい のあらゆる記録 きろく を長年 ながねん にわたり隠匿 いんとく したことから、ドジソンは子供 こども にしか興味 きょうみ を持 も たなかったという誤 あやま まったイメージが生 う まれた。その結果 けっか 、ドジソンは少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ だったという主張 しゅちょう が広 ひろ まった。このリーチの主張 しゅちょう は、いくつかの古典 こてん 的 てき なドジソン少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ 説 せつ を否定 ひてい するのに貢献 こうけん した。
リーチの主張 しゅちょう は以下 いか の通 とお りである。ドジソンの社会 しゃかい 的 てき な不名誉 ふめいよ は、子供 こども のヌードモデルの使用 しよう よりも、むしろ年長 ねんちょう のモデルに対 たい する水着 みずぎ や慎 つつし みに欠 か ける衣装 いしょう の着用 ちゃくよう の要望 ようぼう により引 ひ き起 お こされたものである。これらの露出 ろしゅつ 度 ど の高 たか い衣装 いしょう を着用 ちゃくよう した年長 ねんちょう のモデルの写真 しゃしん がすべて破棄 はき されたために、少女 しょうじょ の写真 しゃしん だけが批評 ひひょう の対象 たいしょう として残 のこ された、という。
『Victorian Studies (英語 えいご 版 ばん ) 』(Vol.43, No.4)での批評 ひひょう において、ドナルド・ラッキンは、「一 いち 個 こ の学術 がくじゅつ 的 てき 研究 けんきゅう として、キャロライン・リーチの『In the Shadow of the Dreamchild』を真剣 しんけん に受 う け止 と めることは困難 こんなん である」と評 ひょう している。In the Shadow of the Dreamchildにおいてキャロライン・リーチの唱 とな えた説 せつ は、大 おお きく二 ふた つに分 わ かれる。一 ひと つは、キャロルの少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ 像 ぞう を否定 ひてい するもので、もう一 ひと つはリデル学 がく 寮長 りょうちょう 夫人 ふじん とキャロルが一種 いっしゅ の愛人 あいじん 関係 かんけい にあったというものである。後者 こうしゃ の愛人 あいじん 説 せつ は反論 はんろん も多 おお く、まともな学説 がくせつ として受 う け入 い れられている状態 じょうたい とは言 い い難 がた い。しかし前者 ぜんしゃ の小児 しょうに 性愛 せいあい 者 しゃ でなかったという前提 ぜんてい そのものは、エドワード・ウェイクリングやダグラス・R・ニッケルなどの多 おお くの研究 けんきゅう 家 か に支持 しじ されている。2003年 ねん 10月 がつ にレンヌで行 おこな われた、第 だい 2回 かい 国際 こくさい ルイス・キャロル会議 かいぎ では、キャロルの「少女 しょうじょ 愛 あい 者 しゃ 」像 ぞう は、はっきり「神話 しんわ である」と扱 あつか われている[11] 。
^ ルイス・キャロルの本名 ほんみょう は?
^ a b c d 楠本 くすもと 君恵 きみえ 「『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス』: 150年 ねん 色褪 いろあ せない本 ほん その現状 げんじょう と魅力 みりょく 」『経済 けいざい 志 こころざし 林 りん 』第 だい 84巻 かん 第 だい 3号 ごう 、2017年 ねん 、67-97頁 ぺーじ 。
^ 飯沢 いいざわ 耕 こう 太郎 たろう 『写真 しゃしん 的 てき 思考 しこう 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、2009年 ねん 、105-106ページ
^ 飯沢 いいざわ 前掲 ぜんけい 書 しょ 、108ページ
^ 飯沢 いいざわ 前掲 ぜんけい 書 しょ 、109ページ
^ 飯沢 いいざわ 前掲 ぜんけい 書 しょ 、112-113ページ
^ テムズ川 がわ の別名 べつめい 。オックスフォードでは、この川 かわ のラテン名 めい 「Thamesis」を略 りゃく して「Isis」と呼 よ ぶ。
^ a b ステファニー・ラヴェット・ストッフル『「不思議 ふしぎ の国 くに のアリス」の誕生 たんじょう 』94-95頁 ぺーじ 高橋 たかはし 宏 ひろし 訳 わけ 、創 つく 元 もと 社 しゃ 〈「知 ち の再 さい 発見 はっけん 」双書 そうしょ 73〉、1998年 ねん 。ISBN 4-422-21133-1
^ 上記 じょうき 『「不思議 ふしぎ の国 くに のアリス」の誕生 たんじょう 』95、128、130、131頁 ぺーじ
^ 日記 にっき の抜粋 ばっすい が1953年 ねん に2巻 かん 本 ほん で刊行 かんこう された。日記 にっき の原本 げんぽん 9冊 さつ は現在 げんざい 大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん に所蔵 しょぞう されており、1993年 ねん -2007年 ねん に刊行 かんこう されている(Lewis Carroll's diaries : the private journals of Charles Lutwidge Dodgson)。
^ 第 だい 2回 かい 国際 こくさい ルイス・キャロル会議 かいぎ のプログラム
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