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Nil sapienti
odiosius acumine nimio.
(
叡智にとりてあまりに
鋭敏すぎるほど
忌むべきはなし)
セネカ(1)
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パリで、
一八――
年の
秋のある
風の
吹きすさぶ
晩、
暗くなって
間もなく、
私は
友人C・オーギュスト・デュパンと
一緒に、
郭外サン・ジェルマンのデュノー
街三十三番地四階にある
彼の
小さな
裏向きの
図書室、つまり
書斎で、
黙想と
海泡石のパイプとの
二重の
快楽にふけっていた。
少なくとも
一時間というものは、
我々は
深い
沈黙をつづけていた。そして
誰かがひょっと
見たら、
二人とも、
部屋じゅうに
濛々と
立ちこめた
煙草のけむりがくるくると
渦巻くのに、すっかり
心を
奪われているように
見えたかもしれない。しかし、
私自身は、その
晩の
早いころ
我々の
話題になっていたある
題目のことを、
心のなかで
考えていたのだった。というのは、あのモルグ
街の
事件と、マリー・ロジェエ
殺しの
怪事件のことなのである。だから、
部屋の
扉が
開いて、
我々の
古馴染のパリの
警視総監G――
氏(2)が
入ってきたとき、
私にはそれがなにか
暗合のように
思われたのであった。
我々は
心から
彼を
歓迎した。この
男には
軽蔑したいところもあるが
面白いところもあったし、それに
我々はここ
数年間、
彼に
会わなかったからである。
二人はそれまで
暗いところに
坐っていたので、デュパンはすぐランプをつけようとして
立ち
上がったが、G――がある
非常に
困っている
公務について、
我々に
相談に、というよりも
私の
友の
意見をききに
来たのだというと、デュパンはそのままふたたび
腰を
下ろした。
「もしなにかよく
考える
必要のあることなら、
暗闇のなかで
考えたほうがいいでしょう」と
彼は
灯心に
火をつけるのをよして、
言った。
「また
君の
奇妙な
考えですな」と
総監が
言った。
彼は
自分のわからないことはなんでもみんな『
奇妙な』という
癖なので、まったく『
奇妙なこと』だらけの
真ん
中に
生きているのだった。
「いかにも、そのとおり」とデュパンは
言って、
客に
煙草をすすめ、
坐り
心地のよい
椅子を
彼の
方へ
押しやった。
「ところで
今度の
面倒なことというのはなんですか?」と
私が
尋ねた。「
殺人事件なんぞはもうご
免こうむりたいものですな」
「いやいや、そんなものじゃないんだ。
実は、
事がらは
いたって単純なので、
我々だけで
十分うまくやってゆけるとは
思うんだが、でもデュパン
君がきっとその
詳しいことを
聞きたがるだろうと
思ったんでね。なにしろとても
奇妙なことなんだから」
「
単純で
奇妙、か」とデュパンが
言った。
「うむ、さよう。で、またどちらとも、そのとおりでもないので。
実は、
事件は
実に
単純なんだが、しかも
我々をまったく
迷わせるので、ひどく
参っている
始末なんだ」
「じゃ、たぶん、
事がらがあまり
単純なので、それがかえって、あなた
方を
当惑させているんだな」と
友が
言った。
「ばかを
言っちゃいかん!」と、
総監は
心から
笑いながら
答えた。
「きっと、その
謎はちと、はっきりしすぎるかな」と、デュパンが
言った。
「おやおや! そんな
考えってあるもんかね?」
「
少々わかりきってい
すぎるんだよ」
「は、は、は! ――は、は、は! ――ほ、ほ、ほ!」と
客はたいそう
面白がって
大笑いした。「おお、デュパン
君、こう
笑わされちゃ
助からんよ!」
「ところで、いったいどんな
事件が
起っているん
ですか?」と
私が
尋ねた。
「じゃあ、お
話ししようか」と
総監は、
煙草のけむりを
長く、しっかりと、
考えこむように
吹かし、
自分の
椅子に
坐りこんで、
答えた。「
手短かに
話しましょう。だがその
前にご
注意願いたいのは、これは
絶対秘密を
要する
事件で、もし
僕が
他人に
洩らしたことが
知れたら、
僕はおそらくいまの
地位を
失わねばならん、ということです」
「まあ、お
始めなさい」と
私が
言った。
「なんなら、およしになっても」とデュパンが
言った。
「では、
話しましょう。ある
高貴の
筋から
内々で
僕に
通知があって、
宮廷から、
絶対に
重要なある
書類が
盗まれたというのです。
盗んだ
当人はちゃんとわかっているんだ。それには
疑いはない。
取るところを
見られているんだからね。また、その
男がまだそれを
持っていることもわかっているのです」
「それが、どうしてわかっているんです?」とデュパンが
尋ねた。
「それは、その
書類の
性質からと、また、それが
盗んだ
人間の
手を
離れるとすぐ
現われるはずのある
結果がまだ
現われないことから、はっきり
考えられるのです。――つまり、
彼が
最後にそれを
使うはずの、その
使い
方から
起きる
結果が
現われていないんでね」と
総監が
答えた。
「もう
少しはっきり
願いたい」と
私が
言った。
「よろしい。じゃあ
思いきって
言うが、その
文書はそれを
持っている
者に、ある
方面である
種の
勢力を
与えるのだ。そこではそういう
勢力は
莫大な
価値があるのです」
総監は
外交用語を
使うのが
好きだった。
「まだ
私にはすっかりわからんが」とデュパンが
言った。
「わからない? よろしい。その
書類を、
名は
言えないがある
第三者にあばくと、ある
非常に
高い
地位の
方の
名誉にかかわるのですな。そしてこの
事実は、
書類の
所持者にその
高貴な
方に
対して
権力を
揮わせ、その
方の
名誉と
平和とが
危うくされているのです」
「しかしその
権力なるものは」と
私は
語をはさんだ。「
盗まれた
人が
盗んだ
人を
知っているということを、その
盗んだ
当人が
知ってのことでしょう。
誰がそんなひどいことを――」
「ところが
盗んだ
人というのは」と、G――は
言った。「
男らしいことであろうとなかろうと、どんなことでも
平気でやるあのD――
大臣ですよ。その
盗み
方は、
大胆であるとともに
巧妙でもあったのです。その
書類は――うち
明けて
申せば、
手紙なんですが――その
盗まれたお
方が、
王宮の
奥の
間にお
一人でいらしたときにお
受け
取りになられたものです。そのご
婦人がそれを
読んでおいでになるときに、もう
一人の
高貴な
方がふいに
入って
来られた。ところが、そのご
婦人は、その
手紙をとりわけその
方には
見せたくないと
思っておられたものなんですな。で、
急いでそれを
引出しのなかへ
押しこもうとされたが
駄目だったので、
仕方なしに
開いたままテーブルの
上にお
置きになりました。でも、
宛名がいちばん
上になっていて、したがって
内容のところが
隠れていたので、
手紙はべつに
注意されずにすんだというわけでした。このときにD――
大臣が
入って
来たのです。
彼の
山猫のような
眼はすぐその
手紙を
見つけ、
宛名の
筆蹟を
認め、それから
受取人の
方の
狼狽しておられるのを
見てとり、その
方の
秘密を
知ってしまったのですな。いつものように
用向きを
手早くすませると、
彼は
例の
手紙といくらか
似ている
一通の
手紙を
取り
出して、それを
開き、ちょっと
読むようなふりをして、それからその
問題の
手紙とぴったり
並べて
置きました。そしてまた、
十五分ばかり
公務について
話をする。さて
退出するときに、
彼はテーブルから
自分のものでない
手紙を
失敬して
行ったのですよ。その
手紙のほんとうの
所有者はそれを
見ておられたけれども、その
第三者の
方がすぐ
側に
立っておられるところで、もちろん、その
行為をとがめるわけにもゆかなかったんですね。
大臣は、
自分の
手紙を――
大事でもなんでもないのを――テーブルの
上に
残して、さっさと
引き
上げたんです」
「なるほど、そこで」とデュパンが
私の
方を
向いて
言った。「
君の
言っているその
権力なるものが
完全に
揮われるわけがちゃんとわかったことになるんだね。――
盗まれた
人が
盗んだ
人を
知っているということを、
盗んだ
当人が
知っている、ということが」
「そうなんだ」と
総監が
答えた。「それで、こうしてにぎられた
勢力は、この
数カ月の
間、
政治上の
目的に、はなはだ
危険な
程度にまで
利用されてきているんでね。
盗まれた
方はご
自分の
手紙を
取りもどす
必要を、
日ごとに
痛切に
感じておられる。だが、これはむろん
大っぴらにやるわけにはゆかない。とうとう
思いあまって、
事をわたしにおまかせになったのです」
「なるほど、あなた
以上に
賢明なやり
手は
望めないし、
想像もされないですからな」とデュパンは
濛々とけむりの
渦巻くなかで
言った。
「お
世辞を
言っちゃいけませんよ。しかし、まあ、そんなようなことかもしれないな」と
総監は
答えた。
「あなたのおっしゃるとおり」と
私が
言った。「その
手紙がまだ
大臣の
手にあることは
明らかですね。
権力を
与えるのは、
手紙をなにかに
使うことではなくて、それを
持っていることなんだから。
使ってしまえば
権力はなくなるわけだ」
「そのとおり」とG――は
言った。「で、その
確信のもとに、
私は
捜査をすすめたのです。まず
第一になすべきことは、
大臣の
邸をすっかり
捜索することでした。そして、そこでわたしのいちばん
困ったのは、
彼に
知られないで
捜索しなければならんということでしたよ。なによりも、
我々の
計画を
彼に
疑われるようになると、
危険が
生ずるかもしれないということを、わたしは
警告されたんですから」
「ですが」と
私は
言った。「そのような
調査は、あなた
方にはまったくお
手のものでしょう。パリの
警察はいままでにそんなことは
何度もやったことがあるんだから」
「そうですとも。だからわたしは
失望しなかったんです。それに、
大臣の
習慣もわたしには
非常に
好都合でした。
彼はよく
一晩じゅう
家をあけるのです。
召使もたくさん
使っていない。
彼らは
主人の
部屋から
離れたところに
寝ているし、
主にナポリ
人だから、
造作なく
酔わせてしまえるのです。ご
承知のとおり、わたしはパリじゅうのどんな
部屋だろうが
戸棚だろうがあけられる
鍵を
持っている。この
三カ月というものは、
一晩だってその
大部分をわたしが
自身でD――の
邸をくまなく
捜さずに
過したことはありません。わたしの
名誉にかかわることだし、それにほんとうのことを
言ってしまえば、
報酬はすばらしいんですよ。だからわたしは
捜索をやめずにつづけていたのですが、とうとう、
盗んだ
男はわたしよりももっとはしっこい
人間だということが
十分にわかって、やめてしまいました。あの
書類を
隠すことのできそうな
屋敷じゅうのどんなすみずみまでも
調べたつもりなんですがねえ」
「しかしですね」と、
私は
提言した。「その
手紙がたしかに
大臣の
手にあるとしても、
彼がそれを
自分の
屋敷以外のどこかに
隠しているかもしれん、ということはありえないでしょうか?」
「そいつはまずほとんどありえないことだね」とデュパンが
言った。「
宮廷での
現在の
特殊の
事情と、とりわけ、D――の
関係しているという
評判のあの
陰謀問題とから、その
書類をすぐ
間に
合わせることが、それを
即座に
取り
出せることが――それを
持っていることとほとんど
同じくらい
重要なことなんだからな」
「それを
取り
出せることと
言うと?」と
私は
言った。
「つまり、
やぶいてしまえることさ」と、デュパンが
言った。
「なるほど」と
私は
言った。「じゃあ、その
書類は
明らかに
屋敷内にあるわけだ。
大臣がそれを
体につけているなんてことについては、
問題にしなくてもいいんでしょうな」
「ぜんぜんないね」と
総監は
言った。「
追剥の
仕業のように
見せて
二度も
彼を
待ち
伏せして、
僕自身の
監視のもとに
厳重に
体を
捜させたんだから」
「そんな
厄介なことはしなくたってよかったろうにね」とデュパンが
言った。「D――だってまんざら
馬鹿でもないだろうと
思う。とすれば、そんな
待ち
伏せされることなんぞは
当然のこととして、
予期していたにちがいないでしょうよ」
「
まんざら馬鹿ではね」とG――は
言った。「だが、あの
男は
詩人ですぜ。
詩人なんてものは
馬鹿とほんの
一隔てだとわたしは
思っていますよ」
「いかにも」デュパンは
海泡石のパイプからゆったりと、
考えこんででもいるように、
煙草のけむりを
吹き
出してから、
言った。「もっとも
僕だってへぼ
詩を
作ったことがあるんだが」
「あなたの
捜索のことをすっかり
詳しくお
話しになってはどうでしょう」と
私が
言った。
「おお、そうですな。いや、もう、
我々は
時間をかけてゆっくり、
どこもここもみんな捜した、というわけなんです。こういった
仕事には
僕は
永年の
経験があるんで。
僕は
建物全体を
一部屋ごとにかかり、
一部屋に
満一週間の
夜を
費やしました。
初めに
各室の
家具を
調べたのです。ありとあらゆる
引出しをあけてみました。ご
承知のことと
思うが、
相当に
熟練した
警察官にとっては、
秘密の引出しなどというようなものはありえないのです。こういう
捜索にあたって『
秘密の』
引出しがその
眼につかないと
思う
者がいるなら、そりゃあ
阿呆ですよ。
それほどやさしいことなんです。どんな
戸棚でもみんな、
測られる
容積の――
空間の――ある
一定の
量がある。ところで
我々は
正確な
物差を
持っている。
一ライン
(3)の
五十分の
一だって
見おとすはずはない。
戸棚のつぎには
椅子を
調べました。クッションは、
僕が
使っているのをご
覧になったことのある、あの
細い、
長い
針で
探ってみました。テーブルからは
上板を
取りのけてみました。
「なぜそんなことを?」
「テーブルや、それに
似たような
作りの
家具の
上板は、ときどき、
物を
隠そうとする
人が
取りのけることがあるのです。そうして
脚に
穴をあけ、
品物をそのなかへ
入れて、
上板をもとのとおりにしておくんですよ。
寝台の
柱の
底や
頭も
同じぐあいに
使われます」
「しかし、そんな
穴は
叩いてみたら
音でわかりはしませんかね?」と
私は
尋ねた。
「
品物を
入れるときに、そのまわりに
綿を
十分につめれば、
決してわからない。そのうえに、
我々の
場合では、なにしろ
音をたてずにやらにゃならなかったんだから」
「しかし、あなただって、
物の
入れられそうな
家具を
どれもこれもみんな取りはずすことはできなかったでしょう、――ばらばらにすることはできなかったでしょう。
手紙の
一通くらいなら、
細くぐるぐる
巻けば、
大きな
編物針と
形も
大きさも
大して
違わないものに
巻き
縮められる。そんなふうにすれば、たとえば
椅子の桟のなかへでも
差しこむことができるかもしれん。あなたは
椅子を
一つ
残らずばらばらにしやしなかったでしょう?」
「そりゃあしませんでしたがね。だが
我々はもっとうまくやりましたよ、――
邸じゅうのあらゆる
椅子の桟、それから
実際あらゆる
種類の
家具の
接目を、
非常に
強度の
拡大鏡を
使って
調べたんです。
近ごろ
手をつけたような
跡が
少しでもあれば、すぐに
我々の
眼につかないはずはない。たとえば、
錐くずの
一粒でも、
林檎みたいにはっきりしたでしょうよ。
膠づけが
少しでも
変だったり――
接目が
少しでも
普通以上に
開いていたり――すれば、それだけで
十分に
見破られたでしょう」
「
鏡はご
注意なすったでしょうね、
板とガラスとのあいだを。また
寝台や
寝具はお
探りになったでしょうね。それからカーテンや
絨毯も」
「それはもちろん。そんなふうにして
家具を
一つ
残らずすっかりやってしまうと、
今度は
家の
全面を
区画して、
一つでも
見おとしをしないように、それに
番号をつけました。それから
屋敷じゅうを
各平方インチごとに、そのすぐ
隣の
二軒も
含めて、
前のように、
拡大鏡で
精密に
調べたのです」
「
隣の
二軒の
家も!」と
私は
叫んだ。「そりゃあさぞたいへんなお
骨折りだったでしょうなあ」
「そうでしたよ。でもなにしろ
報酬が
莫大なんでね」
「
家の
周囲の
地面も
含めておやりになったんですね?」
「
地面にはすっかり
煉瓦が
敷いてあるんでね、それほど
骨を
折らずにすみましたよ。
煉瓦のあいだの
苔を
調べたんだが、
動かされていないことがわかったのです」
「むろんD――の
書類のあいだや、
図書室の
書物のなかもご
覧になりましたね?」
「いや、
見ましたとも。
荷物や
包みはかたっぱしからあけてみました。
書物はみんな、ある
警察官たちのやるように、ただ
振ってみるだけでは
満足できなかったのでね、あけてみるばかりでなく、
一冊ごとに
一枚一枚めくってみました。また
本の
表紙もみんな
非常に
正確に
厚さを
測り、
一つ
一つ
拡大鏡でうんと
注意ぶかく
調べました。
最近に
装釘に
手をつけたものがあれば、
眼にとまらないなんてことは
絶対になかったはずです。
製本屋から
来たばかりの
五、
六冊の
本は、
針で
念入りに
探ってみました」
「
絨毯の
下の
床はお
調べになりましたね?」
「たしかに。
絨毯はみんな
剥いで、
床板を
拡大鏡で
調べました」
「それから
壁紙も?」
「ええ」
「
穴蔵も
見ましたね?」
「
見ました」
「それじゃあ」と
私は
言った。「あなたは
見込み
違いをしていらしたのでしょう。
手紙はあなたが
想像なさるように
屋敷のなかには
ないんですよ」
「
僕もそうじゃなかろうかと
思う」と
総監が
言った。「で、デュパン
君、どうしたらいいでしょうね?」
「
屋敷をもう
一度完全に
捜すんですな」
「それはぜんぜん
不要だ」とG――が
答えた。「
手紙が
邸のなかにないことは、
僕が
生きているのと
同じくらい
確かですよ」
「だが、
僕にはそれ
以上の
助言はできないのです」とデュパンは
言った。「あなたは、もちろん、その
手紙の
正確な
説明書を
持っているでしょうね?」
「ええ、もちろんですとも!」――そう
言うと、
総監は
手帳を
取り
出して、
紛失した
書類のなかの
様子と、ことに
外観を
詳しく
書いたものを、
大きな
声で
読みはじめた。その
説明書を
読みおわってしまうと
間もなく、
彼は
帰って
行ったが、
私はいままで、この
善良な
紳士がこれほどすっかり
意気銷沈しているのを
見たことがなかった。
その
後一月ほどたってから、
彼はまた
我々を
訪ねてきたが、そのときも
我々二人は
前とほとんど
同じようなことをしていた。
彼はパイプを
取り、
椅子に
腰を
下ろし、なにか
普通の
話を
始めた。とうとう、
私は
言いだした。――
「ところで、G――さん、
例の
盗まれた
手紙はどうなりました? あの
大臣を
出し
抜くなんてことはとてもできないと、とうとう
諦めたようですな?」
「あの
畜生、いまいましい
奴だ、――そうですよ。デュパン
君が
言ってくれたとおりに、
僕はもう
一度調べてみました、――が、やっぱり
思ったとおり、まったく
無駄骨を
折ったばかりだったよ」
「
報酬はどれだけだと
言いましたかね?」とデュパンが
尋ねた。
「うむ、
大したものだ、
非常にたくさんな
報酬だ、はっきりいくらとは
言いたくないのだが、
誰でもあの
手紙を
僕に
渡してくれる
人には、
僕の
小切手で
五万フランあげてもかまわない、ということだけは
言っておきましょう。
実は、あれは
日ごとに
重要になってきているので、
報酬が
最近二倍にされたんです。だが、たとえ
三倍にされたところで、
僕はいままでしたことより
以上にはなにもできまい」
「ふむ、なるほど」デュパンは
海泡石のパイプを
吹かす
合間に、ゆっくりと
言った。「
僕は
思うんだがね――G――、あなたはこの
事件に
対してまだできるだけ――
骨を
折ってはいないようですな。あなたはもうちっと――やれたと
僕は
思うんだがな、え?」
「どうして? ――どんなふうに?」
「なあにね、――パッ、パッ――あなたは――パッ、パッ――この
事件について
人の
意見を
用いたらよかったろうにね、え? パッ、パッ、パッ。――あなたはアバニシー
(4)の
話を
覚えていますか?」
「いいや。アバニシーなんぞくたばってしまえだ!」
「ごもっとも! くたばってしまえでけっこう。だがね、あるとき、ある
金持の
吝嗇家が、そのアバニシーに
医療上の
意見をただで
聞こうという
工夫をしたんです。そこで、どこかで
会ったとき
世間話を
始めて、もしもこういう
患者がいたなら、というふうにして、
自分の
病症をその
医者に
話したのですな。
『その
男の
症候はこうこうだということにいたしますと、さて、
先生、
あなたならその
男になにを
用いろとおっしゃいますか?』とその
吝嗇家がきいたんですね。
『さよう、
無論、
医者の
助言を
用いるんですな!』とアバニシーは
言ったそうですよ」
「だが」と
総監は
少しむっとして
言った。「
僕は
完全に喜んで
助言を
用いますし、そのお
礼も
払いますよ。この
事件でわたしを
助けてくれる
人があれば
誰にでも
五万フランを
ほんとうにあげるつもりなんです」
「それなら」とデュパンは
引出しをあけて
小切手帳を
取り
出しながら
答えた。「それだけの
額の
小切手を
僕に
書いて
下すってもいいでしょう。それに
署名したら、あの
手紙を
渡しましょう」
私はびっくりした。
総監はまったく
雷に
打たれたようだった。
彼はちょっとのあいだ、ものも
言わず、
身動きもせず、
口をぽかんとあけ、
眼の
玉がとび
出るようにして、
信じられないというふうに
私の
友を
眺めていた。それから、どうやら
我に
返ったらしく、ペンをつかんで、なんども
止めたりぼんやり
眺めたりしたのち、やっと
五万フランの
小切手を
書いて
署名し、テーブル
越しにデュパンに
渡した。デュパンはそれを
念入りに
調べて
紙入れにしまい、それから
写字台の
引出しの
錠をあけ、そこから
一通の
手紙を
出して、
総監にやった。
総監は
狂気せんばかりにそれをしっかりつかみ、
震える
手で
開いて、その
内容を
大急ぎでちらりと
見、それから
扉の
方へよろめきよると、とうとう
無作法にも、さっきデュパンが
小切手を
書いてくれと
言ったときからひと
言も
口をきかずに、
部屋から、そして
家から
跳び
出して
行ったのであった。
彼が
行ってしまうと、デュパンは
説明をしはじめた。
「パリの
警察はね」と
彼が
言った。「その
道ではなかなかの
手腕があるんだよ。
彼らは
根気がいいし、
工夫力もあるし、
狡猾でもあるし、
職務上主として
必要なように
見える
知識には
十分によく
通じてもいる。だから、G――がD――
邸の
家宅捜索をした
方法を
我々に
詳しく
話してくれたとき、
僕は、
彼の
労力の
及ぶところまでは――
彼が
申し
分のない
調査をしたということを、
完全に
信じたんだ」
「
彼の
労力の
及ぶところまではだって?」と
私は
言った。
「そうさ」とデュパンが
言った。「
執られた
手段は、その
種の
最上のものであったばかりではなく、
完全無欠なところまで
実行されたのさ。
手紙が
彼らの
捜索範囲内に
置いてあったなら、あの
連中はきっと
見つけたろう」
私はただ
笑った、――が
彼はまったく
真面目で
言っているようであった。
「そんなわけで」と
彼はつづけて
言った。「
手段はその
種のものでは
上等だったし、りっぱに
実行もされた。ただ
欠点というのは、その
事件とそれから
相手とに
当てはまっていないということだったんだよ。
総監は
非常に
巧妙な
方法というのはプロクルステス
(5)の
寝台のようなものだと
思って、
自分の
計画を
無理にそれに
適合させようとするんだね。
彼はいつも、
自分の
手にしている
事件に
対してあまり
深謀すぎたり
浅慮すぎたりしてしくじるのだ。
小学校の
子供だって
彼よりももっとうまく
推理するのがたくさんいる。
僕は
八歳ばかりの
子供を
知っていたが、この
子は『
丁か
半か』という
勝負でい
当てるのがうまくて、みんなに
褒められていた。この
勝負は
簡単なもので、
弾石でやるのだ。
一人がこの
石を
手にいくつか
持っていて、
相手にその
数が
丁か
半かときく。もし
当てたら、
当てたほうが
一つ
取るし、
違ったら、
一つ
取られるのだ。いま
言ったその
子供は
学校じゅうの
弾石をみんな
取ってしまったものだよ。むろん、
彼は
当てる
法則といったようなものを
持っていたのだ。というのは、ただ
相手のはしっこさを
観察して、その
程度をはかるということなんだ。たとえば、まったくの
馬鹿が
相手になっていて、
握った
手を
上げて、『
丁か
半か?』ときく。その
生徒は『
半』と
答えて、
負ける。が
二度目には
勝つ。というわけは、
彼はこう
考えるのだ、『この
馬鹿は
初めに
丁を
持って
勝ったんだから、こいつの
利口さの
程度ではちょうど、
二度目には
半を
持つくらいのところだろう。だから
半と
言ってやろう』とね。――そこで
半と
言って
勝つのだ。それから、
相手がこれとはもう
少し
上の
馬鹿だと、
彼はこういうふうに
考える。『こいつは
初めに
僕が
半と
言ったので
二度目にはすぐ、
前の
馬鹿のように、
簡単に
丁から
半へ
変えようとするだろう。が
考えなおしてこれはあまり
簡単な
変え
方だと
思いつき、
結局やはり
前のように
丁を
持つことに
決めるだろう。だから
丁と
言ってやろう』とね。――で、『
丁』と
言って、
勝つんだ。そこで、
仲間の
者たちに『
運が
強い』と
言われていたその
生徒のこの
推理の
方法だね、――これは
最後まで
分析すると、
何かね?」
「それはただ
推理者の
知力を
相手の
知力と
合致させることにすぎんね」と
私は
言った。
「そうなんだ」とデュパンが
言った。「で、
僕はこの
子供に、
彼の
成功の
基であるその
完全な合致をどんな
手段でやるのかと
尋ねたら、こう
答えた。『
僕は、
誰かがどれくらい
賢いか、どれくらい
間抜けか、どれくらい
善い
人か、どれくらい
悪い
人か、またその
時のその
人の
考えがどんなものか、というようなことを
知りたいと
思うときには、
自分の
顔の
表情をできるだけ
正確にその
人の
表情と
同じようにします。それから、その
表情と
釣り
合うように、または
一致するようにして、
自分の
心や
胸に
起ってくる
考えや
気持を
知ろうとして
待っているんです』というのさ。この
生徒のこの
答えは、ロシュフコー
(6)や、ラ・ブリュイエール
(7)や、マキアヴェリ
(8)や、カンパネラ
(9)のものとされている、あの、あらゆる
贋の
深遠さよりも
深いものだよ」
「で、その
推理者の
知力を
相手の
知力と
合致させることはだね」と
私は
言った。「もし
君の
言うことを
僕が
誤解していないなら、
相手の
知力をはかる
正確さのいかんによるね」
「
実際上の
価値としては、そういうことになるね」とデュパンは
答えた。「で、
総監やその
部下たちが、あんなにちょいちょい
失敗するのは、
第一に、その
合致が
欠けているためで、
第二には、
相手の
知力のはかり
方が
悪いため、というよりも、むしろはからないためなんだ。
彼らはただ
自分たち
自身の
工夫力だけしか
考えない。そしてなんでも
隠されたものを
捜すのに、
自分たちの
隠しそうな
方法だけしか
気がつかない。
彼ら
自身の
工夫力が
普通一般人の
工夫力の
忠実な
代表であるという
点までは――これは
正しい。が、
特殊の
悪人の
狡知と、
彼ら
自身の
知恵の
質が
異なっている
場合には、もちろん
彼らはしくじってしまう。これは
相手の
狡知が
彼らより
以上のときにはいつもそうだし、その
以下の
場合にもたいていそうなんだ。
彼らは
調査をするとき
決して
方針を
変えるということをしない。せいぜい、なにか
非常な
出来事――なにかすばらしい
報酬など――で
励まされると、
自分たちの
方針は
変えないで、ただもとの
やり方を
拡張し、また
大げさにする。たとえばこのD――の
場合に、
行動の
方針を
変えるためにどんなことがされたか? あんなふうに
穴をあけたり、
探針で
探ったり、
叩いて
音を
試したり、
拡大鏡でこと
細かに
調べたり、
建物の
表面を
平方インチに
区画して
番号をつけたりすること――そんなことはみんな、
総監が
長いあいだの
在職中に
見慣れてきた、
人間の
工夫力に
関する
一連の
考えを
基礎にしている
探索方針の
一つ、あるいはいくつかを、
大げさに
応用したものにすぎんじゃないか?
彼は、
あらゆる人間は
手紙を
隠すのに、――
必ずしも
椅子の
脚に
錐で
穴をあけないにしても――
少なくとも、
椅子の
脚の
錐穴に
手紙を
隠そうとするのと
同じような
考えから
思いついた、
どこかたやすく
人目につかぬ
穴か
隅っこに――
隠すものだ、と
決めこんでいるじゃないか? が、そういう
念の
入った
隅っこに
隠すことは、ただ
普通の
場合にだけ
用いられるもので、ただ
平凡な
知力の
者が
用いるだけじゃないか。なぜかと
言えば、ものを
隠す
場合にはみな、その
隠す
品物をそういう
念入りの
方法で
処置するということは――まず
第一に
考えられることだし、
推量されることなんだからね。だから、それの
発見は、ちっとも
探索者の
明敏さいかんによるのではなくて、ぜんぜん
単なる
注意と、
忍耐と、
決意とによるのだ。そして
事件が
重大な
場合には――あるいは、
警察官の
眼にはどうせ
同じことだが、つまり
報酬が
多いときには――そういう
特性は
決して欠けるはずはない。というわけだから、もしあの
盗まれた
手紙が
総監の
調査の
範囲内のどこかに
隠してあったなら――
言葉をかえて
言えば、それの
隠匿の
方針が
総監の
方針のなかにあるものだったなら――それの
発見はぜんぜん
疑いの
余地はなかったろう、と
僕の
言おうとしたことは
君にはもうわかったろう。それなのに、あの
先生はすっかり
煙に
巻かれてしまった。そして
彼の
失敗の
遠因は、あの
大臣は
馬鹿である、なぜなら
彼は
詩人としての
名声を
得ているから、と
推定したことにあるのだ。すべての
馬鹿は
詩人であると、こう
総監は
自分で
思っている。そして
彼はそこから、すべての
詩人は
馬鹿である、と
推論して、ただ
媒辞不周延(10)の
誤謬に
陥ったのさ」
「だが
詩人というのはほんとうかね?」と
私は
尋ねた。「
兄弟が
二人あるということは
聞いているし、
二人とも
文名はある。だが、たしかあの
大臣のほうは
微分学についてかなり
博学な
著述があったと
思うよ。あの
男は
数学者であって、
詩人じゃあないよ」
「いや、
違うよ。
僕はあの
男をよく
知っている。
彼はその
両方なんだ。
詩人兼数学者なればこそ、
彼はよく
推理するのだ。
単なる
数学者にすぎなかったら、
彼は
推理なんぞはちっともできなくて、
総監の
思うままになったろう」
「こりゃあ
驚くね」と
私は
言った。「そういう
意見は
世間の
通説とまるで
矛盾しているからね。
君は
何世紀ものあいだ
十分理解されてきた
考えを
無視しようとするんじゃあるまいな。
数学的な
推理こそ、
長いあいだ
特に
優れた
推理と
見なされてるんだからねえ」
「『
あらゆる公衆一般の観念、あらゆる世間一般に承認されたる慣例は愚かなるものと思わばまちがいなし。なんとなれば、そは衆愚を喜ばしむるものなればなり』さ」とデュパンはシャンフォオル
(11)の
言葉を
引用して
答えた。「いかにも
数学者は、
君のいま
言ったその
世間一般の
誤謬をひろめるのに
全力を
尽してきたが、それは
真理としてひろまっていたとしても、やっぱりりっぱな
誤謬だよ。たとえば、
彼らはこんなことを
用いてはもったいないような
技巧をもって、『
分析』という
言葉を
代数学に
適用させてしまった。このごまかしの
元祖はフランス
人だよ。だが、もし
言葉というものが
少しでも
重要なものであるなら――つまり、
言葉というものが
事がらに
適用されることによってなんらかの
価値を
生むものであるならだね――『
分析』が『
代数学』を
意味しないことは、
ラテン語で
“ambitus”が
‘ambition’を
意味せず
(12)、
“religio”が
‘religion’を
意味せず
(13)、あるいはまた
“homines honesti”が
‘honorable men’を
意味しない
(14)くらいの
程度なんだ」
「
君はいまパリの
代数学者たちを
相手に
喧嘩してるんだね。だが、まあ
話をつづけたまえ」
「
僕は、
絶対的に
論理的な
形式以外の、あらゆる
特殊の
形式でなされる
推理の
効力に、したがってまたその
価値に、
反対する。とりわけ、
数学的の
研究によって
引き
出された
推理に、
反対する。
数学は
形式と
数量との
科学であって、
数学的の
推論は
形式と
数量との
観察に
適用された
論理にすぎない。
純粋代数学と
言われているものの
真理でさえ、それが
絶対的の、
普遍的の、
真理であると
想像するところに、
大きな
誤謬があるんだよ。そしてこの
誤謬は
実にひどいものなので、それが
広く
一般に
信ぜられているのには
僕もびっくりするね。
数学の
公理は
普遍的な
真理の
公理では
ないのだ。
関係――
形式と
数量との
関係――について
真であることも、たとえば
倫理学などに
関しては、しばしば
非常にまちがったものであることがある。
倫理学では、
部分の
総和は
全体に
等しいということはたいがい
真では
ない。
化学においてもやはりその
公理は
駄目だ。
動機の
考究にしたってもそうだよ。なぜかと
言えば、ある
与えられた
価値を
持つ
二つの
動機は、それを
合わせても、
必ずしもその
個々の
和に
等しい
価値にはならないからね。このほかにも、まだ
関係の
範囲内でだけ
真理であるにすぎない
数学的真理がたくさんある。しかし
数学者は
習慣上、
彼の
限定された真理から、まるでそれが
絶対的になににでも
適用されるものであるかのように、
論ずるのだ。――そして
世間も
実際そうだと
想像しているんだがね。ブライアント
(15)が、あのたいへん
該博な『
神話学』のなかで、『だれも
異教徒の
寓話を
信じはしないが、それでいて、
我々はいつもうっかり、それらの
寓話を
実在するものと
思って、それらから
推論をする』と
言っているのは、それに
似た
誤謬の
源を
言っているのさ。ところが、かの
代数学者たちは
異教徒そのものなんで、
彼らはその『
異教徒の
寓話』を
信じて
いるのだ。そして、
彼らがその
推論をするのは、ついうっかりして
忘れてやるよりも、わけのわからぬ
頭の
悪さからやるんだからな。
要するにだね、ただの
数学者で
等根以外のことで
信用できる
人、あるいは x
2+px が
絶対的にかつ
無条件にqに
等しいということをひそかに
自分の
信条としていない
人には、
僕はいままでお
目にかかったことがないよ。まあ、ためしに、そういう
紳士方の
一人に、x
2+px が
必ずしもqに
等しく
ない場合もありうると
思う、と
言ってやってご
覧なさい。そして
君の
言おうとしていることを
相手にわからせたら、できるだけさっさとその
男の
手のとどかないところへ
逃げたまえ、きっと
彼は
君をはり
倒そうとするだろうからね」
彼の
最後の
言葉を
聞いて
私がただ
笑っていると、
彼は
話をつづけた。「
僕の
言おうとするのは、もしあの
大臣が
数学者であるだけだったら、
総監はこの
小切手を
僕にくれる
必要がなかったろう、ということなんだ。しかし
僕は
彼が
数学者でありかつ
詩人であることを
知っていたので、
僕の
物差を、
彼の
周囲の
事情を
考えて、
彼の
才能に
適合させたのだ。
僕はまた
廷臣としての、また
大胆な
陰謀家としての
彼をも
知っていた。そういう
人間が
警察の
普通のやり
方を
知らないはずはないと
僕は
考えた。
彼は
自分が
待ち
伏せされることを
予想しないはずがなかったろう。――そして
事実は
彼がそれを
予想したことを
示している。
彼は
自分の
屋敷が
秘密に
調べられることを
予知したにちがいない、と
僕は
思った。
彼がちょいちょい
夜家をあけることを、
総監は
自分の
成功を
助けるものだと
思って
大いに
喜んだが、
僕はただそれを、
警察に
十分に
捜索させる
機会を
与え、そうしてそれだけ
早く
彼らに、G――が
事実とうとう
到達したあの
確信――
手紙が
屋敷の
内にないのだという
確信を――
与えようとする
策略だと
考えた。それからまた、
僕がさっきちょっと
骨を
折って
君に
詳しく
話した、あの
隠された
品物を
捜す
場合にとる、
警察の
一本調子な
方針についてのあらゆる
考えだね、――ああいう
考えはみんな
必ず
大臣の
心に
浮んだろう、と
僕は
感じた。そういうことを
考えると、
彼はどうしても
否応なしに
普通の
隅っこの
隠し
場所などはいっさい
眼もくれなかったにちがいない、
あの男が、
自分の
邸のいちばん
入り
組んだ、
引っこんだ
隅っこでも、
総監の
眼や、
探針や、
錐や、
拡大鏡にとっては、ごく
普通の
戸棚同様にあけっ
放しのものであることを
知らないほど、
愚鈍であるはずがない、と
僕は
考えた。
結局、
僕は、
彼がたとえ
熟慮の
末に
選んだのではなくとも、
当然の
成行きとして、
単純な
手段をとったにちがいない、ということを
悟ったのだよ。
君は、
我々が
最初に
総監と
会ったとき、この
事件がそんなに
彼を
悩ませるのは、それが
きわめてわかりきっているためかもしれんと
僕が
言ったら、
総監がやけに
笑いこけたことを、たぶん
覚えているだろう」
「うん、たいへんなご
機嫌だったことをよく
覚えているよ。あんまり
笑うので、ひきつけやしないかと
僕はほんとうに
思ったものだ」と
私は
言った。
「
物質界には」とデュパンは
語をつづけた。「
非物質界と
非常によく
類似したことがたくさんある。だから、
隠喩やあるいは
直喩が
叙述を
修飾するとともに、
議論を
強めることができるという
修辞上の
独断が、いくらか
真理らしく
見えるのだ。たとえば
惰性力の
法則は
物理学でも
形而上学でも
同一であるらしい。
物理学で、
大きい
物体を
動かすのは
小さい
物体を
動かすよりも
困難で、それに
伴う
運動量はその
困難に
比例するものであるが、これは
形而上学で、
能力の
大きい
知能は
劣等な
知能よりもその
動作において
力があり、
堅実であり、
重大な
結果を
生ずるけれども、またそれよりも
動かしにくく、
動きだしても
最初の
数歩のうちはそれよりも
厄介で、ためらっているのと
同様なのだ。もう
一つ
例を
挙げよう。
往来の
商店の
看板のなかでどんなのがいちばん
注意をひくかということを、
君はいつか
気をつけたことがあるかい?」
「そんなことは
考えてみたこともないね」と
私は
言った。
「
地図の
上でやる
字捜しの
遊びがある」と
彼はまた
話しつづけた。「
一方の
者がまず――
町の
名でも、
河の
名でも、
州の
名でも、
国の
名でも――つまり、いろんな
色のついたごちゃごちゃした
地図の
表面にあるどんな
名でも
言って――
相手に
捜させるんだ。この
遊びの
初心者はたいがい、いちばん
細かい
字で
書いてある
名を
言って
相手を
困らせようとする。けれども
玄人は、
大きな
字で
地図の
端から
端までひろがっているような
名を
選ぶのだ。そういう
文字は、あまり
大きすぎる
字で
書いてある
往来の
看板や
貼札と
同じように、あまり
明瞭すぎるためにかえって
人眼につかない。そしてこの
物理的の
見落しは、
知能が、あまりひどく、あまり
明白にわかりきっていすぎる
事がらを
気づかずに
過すという
精神的の
不注意と、ちょうど
類似しているものなんだ。しかし、こういうことはあの
総監の
理解力のいくぶん
上か、あるいは
下のことであるらしいね。
彼は、
大臣があの
手紙を
誰にも
気づかれないようにするいちばんよい
方法として、それをみんなのすぐ
鼻先に
置きそうだとか、あるいは
置いたかもしれないなどということは、
一度だって
考えたこともありゃしないのさ。
だが
僕は、D――の
大胆な、
思いきった、
明敏な
工夫力と、
彼がその
書類を
有効に
使おうと
思うなら
常にそれを
手近に置かなければならないという
事実と、それが
総監のいつもの
捜索の
範囲内には
隠されていないという、その
決定的な
証言とを
考えれば
考えるほど、――
大臣がその
手紙を
隠すのに、ぜんぜんそれを
隠そうとはしないという
遠大な、
賢明な
方策をとったのだということがわかってきたのだ。
てっきりそうにちがいないと
思いながら、
僕は
緑色の
眼鏡を
用意して、ある
晴れた
朝、ひょっこり
大臣の
邸を
訪問した。D――は
在宅していて、
例のとおり
欠伸をしたり、ぶらぶらしたり、のらくらしたりして、
退屈でたまらないというふりをしていた。
彼はおそらく
現代での、もっともほんとうに
精力的な
人間だろう、――が、それは
誰も
見ていないときだけのことなんだ。
彼にひけを
取らないようにと、
僕は
自分の
眼が
弱くて
困るといい、
眼鏡をかけなければならないことをこぼして、
表面は
主人の
話にだけ
余念なくき
入っているようなふりをしながら、その
眼鏡の
下から
部屋じゅうを
念入りにすっかり
見まわした。
僕は、
彼の
近くにある
大きな
書机にとくに
注意を
向けた。その
上には、
一つ
二つの
楽器や
何冊かの
本とともに、いろいろな
手紙とその
他の
書類とが
乱雑にのせてあった。しかし、
長いあいだ、よほど
気をつけて
調べたが、ここにはなにも
特別の
嫌疑をひくようなものがなかった。
部屋をぐるぐる
見まわしているうちに、とうとう
僕の
眼は、
暖炉前飾の
真ん
中辺のすぐ
下のところにある
真鍮の
小さなツマミから、よごれた
青いリボンでぶら
下げてある、
安ものの、
見かけばかりの
ボー
ル紙製の
名刺差しにとまった。この
名刺差しには
三つ
四つの
仕切りがあって、
五、
六枚の
名刺と、
一通だけの
手紙とが
入っていた。
手紙のほうはひどくよごれて
皺くちゃになっていた。それは
真ん
中から
二つに
裂きかけてあった。――ちょうど、つまらぬものだから
初めはすっかり
裂いてしまうつもりだったが、ふと
思いかえしてよしたといったようにね。
ひどく目立ったD――の
花押のある、
大きな
黒い
封印があって、
細かな
女の
筆蹟でD――
大臣へ
宛てたものだった。それは
名刺差しの
上の
方の
仕切りに、
無頓着に、またいかにもぞんざいらしく、
突っこんであった。
この
手紙をちらりと
見るや
否や、
僕はすぐにこれが
自分の
捜しているものだと
決めてしまった。なるほど、
見たところでは、これは
総監があの
詳しい
説明書を
読んでくれたものとは
根本的に
違っている。このほうは
封印が
大きくて、
黒く、D――の
花押があるし、あのほうは
封印が
小さくて、
赤く、S――
公爵家の
紋章がある。この
宛名は、
大臣に
宛てたもので、
細かく
女文字で
書いてあるし、あのほうの
表書は、さる
王族に
宛てたもので、とても
太い、しっかりした
字で
書いてある。ただ
大きさだけが
符号しているのだ。ではあるが、こういう
相違があまり
極端に
根本的であること。それのよごれていることや、
紙のきたなくなって
裂けていることがD――の
真の几帳面な
習慣と
矛盾しているし、また、その
書類をつまらないもののように、
見る
者をだまそうとする
計画だなと
思いつかせること。――それと、
置場所だが、
書類がどの
訪問客にもまる
見えのあまりに
人眼につくところにあったこと。したがって
僕が
前に
到達したあの
結論ときちんと
一致しているということ。こういったことはたしかに、
疑うつもりで
来た
者には
非常に
嫌疑を
濃くするものだったんだね。
僕はできるだけ
訪問を
長びかせて、きっと
大臣の
興味をひき、
彼がやっきとなるにちがいない
話題を
持ち
出して、
彼とさかんに
議論をつづけながら、
少しも
手紙から
注意を
放さなかった。そうして
調べているあいだに、その
外観や、
名刺差しのなかの
入れぐあいなどを
僕は
暗記した。そしてとうとう
一つの
発見をしたが、それは
僕がいだきそうなどんな
小さな
疑いでも
消してしまうものだった。
手紙の
縁をよく
見ていると、それが
必要以上に
こすれていることがわかったのだ。それは、
堅い
紙がいったん
折り
曲げられて
紙折り
箆で
押えられ、そのもと
折られた
同じ
折目のところから
反対に
折り
返されたときにできる
折れ
ぐあいなんだよ。これを
発見すれば
十分だった。
僕には、その
手紙が
手袋みたいに
裏返しにされ、ふたたび
宛名が
書かれ、
封印がしなおされたことは
明らかだった。
僕は
大臣にさよならを
言って、
金製の
嗅煙草入れをテーブルの
上に
置いたまま、すぐ
帰ってきた。
翌朝、
僕はその
嗅煙草入れを
取りに
行って、
前日の
話をまた
熱心に
始めた。しかし、そうしているうちに
邸の
窓のすぐ
下のところで、ピストルの
音のような
大きな
音が
聞え、つづいて
恐ろしい
悲鳴と、
群集の
叫び
声とが
聞えてきた。D――は
窓の
方へ
駆けより、それを
押し
開いて、
外を
眺めた。そのあいだに、
僕はあの
名刺差しのところへ
歩みより、
手紙を
取って、
自分のポケットのなかへ
入れ、そしてあとには、(
外側だけは)
同じようにしたにせ
手紙を、かわりに
入れておいた。それは
僕が
家で
念入りに
用意してきていたものなんだ、――パンでこさえた
封印で
造作もなくD――の
花押をまねてね。
往来の
騒ぎは、
銃を
持った
男の
気違いじみた
挙動から
起ったものだった。
彼は
女子供の
大勢いる
真ん
中でそいつを
発射したのだ。しかし
弾がこめてないことがわかり、
狂人か
酔っ
払いだと
思われて、
行くままにされた。その
男が
行ってしまうと、D――は
窓ぎわから
戻ってきたが、
僕は
自分の
目的のものを
手に
入れるとすぐ
彼のあとを
追ってそこへ
行っていたのだ。それから
間もなく
僕は
彼と
別れてきた。そのにせ
狂人は
僕が
雇った
男さ」
「しかし
君がその
手紙のかわりを
置いてきたのはどんな
目的だったのかね?」と
私は
尋ねた。「
最初に
訪ねて
行ったとき、
公然とそいつを
取り
返して
帰ったほうがよくはなかったかね?」
「D――は」デュパンが
答えた。「
向う
見ずな
男だ。また
剛胆な
男だ。それに
彼の
邸には、
彼のために
身命をささげた
従者たちもいる。
君の
言うような
無鉄砲なまねをやろうものなら、
僕は
生きて
大臣のところから
出ることができなかったかもしれん。パリの
人たちはそれきり
僕の
噂を
聞かなくなったかもしれないぜ。しかし、そういう
事がらとは
別に、
僕には
一つの
目的があったのさ。
僕の
政治上の
贔屓は
君もご
承知のとおりだ。この
事件では、
僕は
例の
貴婦人の
一党員として
行動するのだ。
十八カ月のあいだ、
大臣は
彼女を
自分の
権力にしたがわせてきた。
今度は
彼女のほうが
彼をその
権力にしたがわせるんだ。――なぜかと
言うと、
彼は
手紙が
自分の
手にないことに
気がつかないので、
相変らずあるようなつもりで
無理なことをやるだろうからね。こうして
必ず
彼はたちまち
政治的破滅に
陥ってしまうだろう。
彼の
没落は
急激でもあるし、また
見苦しくもあるだろうよ。あの facilis descensus Averni「
地獄に
降るは
易し
(16)」ということを
話すのはたいへんけっこうだが、なにに
登るのでも、カタラアニ
(17)が
歌の
歌い
方について
言ったように、
下るよりも
上るほうがずっとやさしいのだ。
現在の
場合では、
僕は
降ってゆく
者にはなんの
同情も――
少なくともなんの
憐憫も――
持っていない。あの
男はかの monstrum horrendum
(18) だ。
破廉恥な
天才だ。だが、
僕は、あの
男が
総監のいわゆる『さるお
方』なる
婦人に
裏をかかれて、
僕が
名刺差しのなかへ
入れてきた
手紙をあけてみなければならなくなったとき、
彼がどう
思うかということを、はっきり
知りたくてたまらないね」
「どうして?
君はなにか
変ったものでもそのなかへ
入れてきたのかい?」
「なあに、――なかを
白紙のままにしておくのはあんまりよくないだろうと
思ったのさ、――そいつあ
礼を
失するだろうからな。D――は
以前ウィンナで
僕にひどい
仕打ちをしたことがある。それに
対して
僕はごく
機嫌よく、この
怨みは
忘れないぞと
言ってやった。だから、
彼も
自分に
一杯食わせた
人間が
誰だか
知りたく
思うに
決っているだろうから、
手がかりを
与えないのはかわいそうだと
僕は
考えたんだ。
彼は
僕の
筆蹟をよく
知っている。で、
僕はただ
白紙の
真ん
中にこう
書いておいたよ、――
‘―― Un dessein si funeste, S'il n'est digne d'Atre, est digne de Thyeste.’
「――かかる痛ましき企みは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ(19)」
とね。これはクレビヨン
(20)の『アトレ』のなかにある
文句なんだ」
(1)Lucius Ann
us Seneca(
前四ごろ―
六五)――
有名なローマの
哲学者。
(2)この警視総監G――氏は前の『モルグ街の殺人事件』にも『マリー・ロジェエの怪事件』にもちょっと出ているが、ボードレールは、ポーは“M. Gisquet”のことを考えていたにちがいないと言っている。「ジスケエ氏」というのは Henri Joseph Gispuet(一七九二―一八六六)のことで、この作の書かれる十年ほど前まで、パリの警視総監をしていた男である。もっとも、似ているのは頭文字と、警視総監であったということだけである。
(3)一インチの十二分の一。
(4)John Abernethy(一七六四―一八三一)――イギリスの医者。解剖学者であり生理学者であったがとくに、その奇矯な人格をもって知られていた。
(5)Procrustes ――古代ギリシャの伝説のアッティカの強盗で、人を捕えたたびごとに鉄の寝床に寝かせ、その身長が寝台より長いときはその余った部分を斬り縮め、短かければ引き延ばして同じ長さにして殺したとい伝えられている。
(6)Fran
ois la Rochefoucauld(
一六一三―
八〇)――
“Maximes”の
筆者としてよく
知られているフランスの
著作家。
(7)Jean de la Bruy
re(
一六四五―
九六)――フランスの
著作家。ハリスン
版やその
他にはこの
名が La Bougive となっているが、イングラム
版、ステッドマン・ウッドベリー
版、ボードレール
本には La Bruy
re となっている。
(8)Niccolo Machiavelli(一四六九―一五二七)――イタリアの政治家、著作家。
(9)Tommaso Campanella(一五六八―一六三九)――イタリアの僧侶、哲学者。
(10)non distributio medii ――論理学上の術語で、三段論法において、媒辞が両方の前提ともに不周延である誤謬をいう。「すべての馬鹿は詩人である(大前提)。彼は詩人である(小前提)。ゆえに彼は馬鹿である(結論)」というこの総監の三段論法において、「馬鹿」は大名辞であり、「彼」は小名辞であり、「詩人」は媒辞(中名辞)である。媒辞は、大前提と小前提との関係を媒介するものであるから、少なくとも一度は周延(拡充)されていなければならない。すなわちその概念の全体の範囲にわたっての主張でなければならない。しかしこの論法においては「詩人」という媒辞はどちらの前提でも周延されていない。すなわち、単にその一部分のみについて主張されたにすぎない。ゆえにこの結論は誤っている。こういう誤りを、論理学では媒辞(中名辞)不周延(不拡充)の誤謬という。
(11)Nicholas Chamfort(一七四一―九四)――フランスの文人。箴言、警句の筆者として知られていた。
(12)ラテン語の“ambitus”は「投票を依頼するために走りまわること」、「官職を得るため奔走すること」の意味であって、それから出た英語の“ambition”(野心)とは少し意味が違う。
(13)ラテン語の“religio”は「注意深いこと」、「律義」、「几帳面」というような意味で、それから出た“religion”(宗教)を意味しない。
(14)“homines honesti”は「有名な人々」の意味で、“honorable men”(立派な人々)を意味しない。
(15)Jacob Bryant(一七一五―一八〇四)――イギリスの考古学者“A New System or an Analysis of Ancient Mythology”の著がある。
(
16)「
地獄に
降るは
易し」。――ヴェルギリウスの
“neis”第六巻一二六行。
(17)Angelica Catalani(一七八〇?―一八四九)――イタリアの有名なソプラノの歌手。
(
18)「
恐ろしき
怪物」。――ヴェルギリウスの
“neis”第三巻六五八行。
(
19)「――かかる
痛ましき
企みは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ」――クレビヨンの
悲劇“Atre et Thyeste”第五幕第四場。(アトレとティエストとの
兄弟の
話はギリシャの
残忍な
伝説であって、ティエストはアトレの
妻を
誘惑し、アトレはその
復讐のためにいつわって
和解の
宴を
張り、ティエストを
招き、ティエストの
三人の
子を
殺してその
肉を
父に
食わせたという)
(
20)Prosper Jolyot de Cr
billon(
一六七四―
一七六二)――フランスの
悲劇詩人。
“Atre et Thyeste”はその
一七〇
七年の
作である。