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エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳 盗まれた手紙 THE PURLOINED LETTER

ぬすまれた手紙てがみ

THE PURLOINED LETTER

エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe

佐々木ささき直次郎なおじろうやく




[#ページの左右さゆう中央ちゅうおう


Nil sapienti※(リガチャAE小文字) odiosius acumine nimio.
 (叡智えいちにとりてあまりに鋭敏えいびんすぎるほどむべきはなし)
セネカ(1)


[#あらためページ]



 パリで、一八かずや――としあきのあるかぜきすさぶばんくらくなってあいだもなく、わたし友人ゆうじんC・オーギュスト・デュパンと一緒いっしょに、かくがいフォーブールサン・ジェルマンのデュノーがいさんじゅうさん番地ばんちよんかいにあるかれちいさなうらきの図書としょしつ、つまり書斎しょさいで、黙想もくそううみあわせきかいほうせきのパイプとのじゅう快楽かいらくにふけっていた。すくなくとも一時いちじあいだというものは、我々われわれふか沈黙ちんもくをつづけていた。そしてだれかがひょっとたら、二人ふたりとも、部屋へやじゅうに濛々もうもうもうもうちこめた煙草たばこのけむりがくるくると渦巻うずまくのに、すっかりしんうばわれているようにえたかもしれない。しかし、わたし自身じしんは、そのばんはやいころ我々われわれ話題わだいになっていたある題目だいもくのことを、しんのなかでかんがえていたのだった。というのは、あのモルグがい事件じけんと、マリー・ロジェエごろしのかい事件じけんのことなのである。だから、部屋へやとびらひらいて、我々われわれ古馴染ふるなじみふるなじみのパリの警視総監けいしそうかんG――(2)はいってきたとき、わたしにはそれがなにか暗合あんごうのようにおもわれたのであった。
 我々われわれしんからかれ歓迎かんげいした。このおとこには軽蔑けいべつけいべつしたいところもあるが面白おもしろいところもあったし、それに我々われわれはここすう年間ねんかんかれわなかったからである。二人ふたりはそれまでくらいところにすわっていたので、デュパンはすぐランプをつけようとしてがったが、G――がある非常ひじょうこまっている公務こうむについて、我々われわれ相談そうだんに、というよりもわたしとも意見いけんをききにたのだというと、デュパンはそのままふたたびこしろした。
「もしなにかよくかんがえる必要ひつようのあることなら、暗闇くらやみのなかでかんがえたほうがいいでしょう」とかれ灯心とうしんをつけるのをよして、った。
「またきみ奇妙きみょうかんがえですな」と総監そうかんった。かれ自分じぶんのわからないことはなんでもみんな『奇妙きみょうな』というくせなので、まったく『奇妙きみょうなこと』だらけのなかきているのだった。
「いかにも、そのとおり」とデュパンはって、きゃく煙草たばこをすすめ、すわ心地ごこちのよい椅子いすかれほうしやった。
「ところで今度こんど面倒めんどうなことというのはなんですか?」とわたしたずねた。「殺人さつじん事件じけんなんぞはもうごめんこうむりたいものですな」
「いやいや、そんなものじゃないんだ。じつは、ことがらはいたって単純たんじゅんなので、我々われわれだけで十分じゅうぶんうまくやってゆけるとはおもうんだが、でもデュパンくんがきっとそのくわしいことをきたがるだろうとおもったんでね。なにしろとても奇妙きみょうなことなんだから」
単純たんじゅん奇妙きみょう、か」とデュパンがった。
「うむ、さよう。で、またどちらとも、そのとおりでもないので。じつは、事件じけんじつ単純たんじゅんなんだが、しかも我々われわれをまったくまよわせるので、ひどくまいっている始末しまつなんだ」
「じゃ、たぶん、ことがらがあまり単純たんじゅんなので、それがかえって、あなたかた当惑とうわくさせているんだな」とともった。
「ばかをっちゃいかん!」と、そうかんしんからわらいながらこたえた。
「きっと、そのなぞなぞはちと、はっきりしすぎるかな」と、デュパンがった。
「おやおや! そんなかんがえってあるもんかね?」
少々しょうしょうわかりきっていすぎるんだよ」
「は、は、は! ――は、は、は! ――ほ、ほ、ほ!」ときゃくはたいそう面白おもしろがって大笑おおわらいした。「おお、デュパンくん、こうわらわされちゃたすからんよ!」
「ところで、いったいどんな事件じけんおこっているんですか?」とわたしたずねた。
「じゃあ、おはなししようか」と総監そうかんは、煙草たばこのけむりをながく、しっかりと、かんがえこむようにかし、自分じぶん椅子いすすわりこんで、こたえた。「手短てみじかにはなしましょう。だがそのまえにご注意ちゅういねがいたいのは、これは絶対ぜったい秘密ひみつようする事件じけんで、もしぼく他人たにんらしたことがれたら、ぼくはおそらくいまの地位ちいうしなわねばならん、ということです」
「まあ、おはじめなさい」とわたしった。
「なんなら、およしになっても」とデュパンがった。
「では、はなしましょう。ある高貴こうきすじから内々うちうちぼく通知つうちがあって、宮廷きゅうていから、絶対ぜったい重要じゅうようなある書類しょるいぬすまれたというのです。ぬすんだ当人とうにんはちゃんとわかっているんだ。それにはうたがいはない。るところをられているんだからね。また、そのおとこがまだそれをっていることもわかっているのです」
「それが、どうしてわかっているんです?」とデュパンがたずねた。
「それは、その書類しょるい性質せいしつからと、また、それがぬすんだ人間にんげんはなれるとすぐあらわれるはずのある結果けっかがまだあらわれないことから、はっきりかんがえられるのです。――つまり、かれ最後さいごにそれを使つかうはずの、その使つかかたからきる結果けっかあらわれていないんでね」と総監そうかんこたえた。
「もうすこしはっきりねがいたい」とわたしった。
「よろしい。じゃあおもいきってうが、その文書ぶんしょはそれをっているものに、ある方面ほうめんであるしゅ勢力せいりょくあたえるのだ。そこではそういう勢力せいりょく莫大ばくだい価値かちがあるのです」そうかん外交がいこう用語ようご使つかうのがきだった。
「まだわたしにはすっかりわからんが」とデュパンがった。
「わからない? よろしい。その書類しょるいを、えないがある第三者だいさんしゃにあばくと、ある非常ひじょうたか地位ちいほう名誉めいよにかかわるのですな。そしてこの事実じじつは、書類しょるい所持しょじしゃにその高貴こうきほうたいして権力けんりょくふるわせ、そのほう名誉めいよ平和へいわとがあやうくされているのです」
「しかしその権力けんりょくなるものは」とわたしかたりをはさんだ。「ぬすまれたひとぬすんだひとっているということを、そのぬすんだ当人とうにんってのことでしょう。だれがそんなひどいことを――」
「ところがぬすんだひとというのは」と、G――はった。「おとこらしいことであろうとなかろうと、どんなことでも平気へいきでやるあのD――大臣だいじんですよ。そのぬすかたは、大胆だいたんであるとともに巧妙こうみょうでもあったのです。その書類しょるいは――うちけてもうせば、手紙てがみなんですが――そのぬすまれたおかたが、王宮おうきゅうおくあいだにお一人ひとりでいらしたときにおりになられたものです。そのご婦人ふじんがそれをんでおいでになるときに、もう一人ひとり高貴こうきほうがふいにはいってきたられた。ところが、そのご婦人ふじんは、その手紙てがみをとりわけそのほうにはせたくないとおもっておられたものなんですな。で、いそいでそれを引出ひきだしのなかへしこもうとされたが駄目だめだったので、仕方しかたなしにひらいたままテーブルのうえにおきになりました。でも、宛名あてながいちばんじょうになっていて、したがって内容ないようのところがかくれていたので、手紙てがみはべつに注意ちゅういされずにすんだというわけでした。このときにD――大臣だいじんはいってたのです。かれ山猫やまねこのようなはすぐその手紙てがみつけ、宛名あてな筆蹟ひっせきひっせきみとめ、それから受取うけとりじんほうかた狼狽ろうばいしておられるのをてとり、そのほう秘密ひみつってしまったのですな。いつものように用向ようむきを手早てばやくすませると、かれれい手紙てがみといくらかているいちつう手紙てがみして、それをひらき、ちょっとむようなふりをして、それからその問題もんだい手紙てがみとぴったりならべてきました。そしてまた、じゅうふんばかり公務こうむについてはなしをする。さて退出たいしゅつするときに、かれはテーブルから自分じぶんのものでない手紙てがみ失敬しっけいしてったのですよ。その手紙てがみのほんとうの所有しょゆうしゃはそれをておられたけれども、その第三者だいさんしゃほうがすぐがわっておられるところで、もちろん、その行為こういをとがめるわけにもゆかなかったんですね。大臣だいじんは、自分じぶん手紙てがみを――大事だいじでもなんでもないのを――テーブルのうえのこして、さっさとげたんです」
「なるほど、そこで」とデュパンがわたしほういてった。「きみっているその権力けんりょくなるものが完全かんぜんふるわれるわけがちゃんとわかったことになるんだね。――ぬすまれたひとぬすんだひとっているということを、ぬすんだ当人とうにんっている、ということが」
「そうなんだ」と総監そうかんこたえた。「それで、こうしてにぎられた勢力せいりょくは、この数カ月すうかげつあいだ政治せいじじょう目的もくてきに、はなはだ危険きけん程度ていどにまで利用りようされてきているんでね。ぬすまれたほうはご自分じぶん手紙てがみりもどす必要ひつようを、ごとに痛切つうせつかんじておられる。だが、これはむろんおおっぴらにやるわけにはゆかない。とうとうおもいあまって、ことをわたしにおまかせになったのです」
「なるほど、あなた以上いじょう賢明けんめいなやりのぞめないし、想像そうぞうもされないですからな」とデュパンは濛々もうもうとけむりの渦巻うずまくなかでった。
「お世辞せじっちゃいけませんよ。しかし、まあ、そんなようなことかもしれないな」と総監そうかんこたえた。
「あなたのおっしゃるとおり」とわたしった。「その手紙てがみがまだ大臣だいじんにあることはあきらかですね。権力けんりょくあたえるのは、手紙てがみをなにかに使つかうことではなくて、それをっていることなんだから。使つかってしまえば権力けんりょくはなくなるわけだ」
「そのとおり」とG――はった。「で、その確信かくしんのもとに、わたし捜査そうさをすすめたのです。まずだいいちになすべきことは、大臣だいじんやしきをすっかり捜索そうさくすることでした。そして、そこでわたしのいちばんこまったのは、かれられないで捜索そうさくしなければならんということでしたよ。なによりも、我々われわれ計画けいかくかれうたがわれるようになると、危険きけんしょうずるかもしれないということを、わたしは警告けいこくされたんですから」
「ですが」とわたしった。「そのような調査ちょうさは、あなたかたにはまったくおのものでしょう。パリの警察けいさつはいままでにそんなことはなんもやったことがあるんだから」
「そうですとも。だからわたしは失望しつぼうしなかったんです。それに、大臣だいじん習慣しゅうかんもわたしには非常ひじょう好都合こうつごうでした。かれはよくいちばんじゅうをあけるのです。召使めしつかいもたくさん使つかっていない。かれらは主人しゅじん部屋へやからはなれたところにているし、おもにナポリじんだから、造作ぞうさなくわせてしまえるのです。ご承知しょうちのとおり、わたしはパリじゅうのどんな部屋へやだろうが戸棚とだなだろうがあけられるかぎかぎっている。このさんカ月かげつというものは、いちばんだってそのだい部分ぶぶんをわたしが自身じしんでD――のやしきをくまなくさがさずにすごしたことはありません。わたしの名誉めいよにかかわることだし、それにほんとうのことをってしまえば、報酬ほうしゅうはすばらしいんですよ。だからわたしは捜索そうさくをやめずにつづけていたのですが、とうとう、ぬすんだおとこはわたしよりももっとはしっこい人間にんげんだということが十分じゅうぶんにわかって、やめてしまいました。あの書類しょるいかくすことのできそうな屋敷やしきじゅうのどんなすみずみまでも調しらべたつもりなんですがねえ」
「しかしですね」と、わたし提言ていげんした。「その手紙てがみがたしかに大臣だいじんにあるとしても、かれがそれを自分じぶん屋敷やしき以外いがいのどこかにかくしているかもしれん、ということはありえないでしょうか?」
「そいつはまずほとんどありえないことだね」とデュパンがった。「宮廷きゅうていでの現在げんざい特殊とくしゅ事情じじょうと、とりわけ、D――の関係かんけいしているという評判ひょうばんのあの陰謀いんぼう問題もんだいとから、その書類しょるいをすぐあいだわせることが、それを即座そくざせることが――それをっていることとほとんどおなじくらい重要じゅうようなことなんだからな」
「それをせることとうと?」とわたしった。
「つまり、やぶいてしまえることさ」と、デュパンがった。
「なるほど」とわたしった。「じゃあ、その書類しょるいあきらかに屋敷やしきないにあるわけだ。大臣だいじんがそれをからだにつけているなんてことについては、問題もんだいにしなくてもいいんでしょうな」
「ぜんぜんないね」と総監そうかんった。「追剥おいはぎおいはぎ仕業しわざのようにせてかれせして、ぼく自身じしん監視かんしのもとに厳重げんじゅうからださがさせたんだから」
「そんな厄介やっかいなことはしなくたってよかったろうにね」とデュパンがった。「D――だってまんざら馬鹿ばかでもないだろうとおもう。とすれば、そんなせされることなんぞは当然とうぜんのこととして、予期よきしていたにちがいないでしょうよ」
まんざら馬鹿ばかではね」とG――はった。「だが、あのおとこ詩人しじんですぜ。詩人しじんなんてものは馬鹿ばかとほんのいちへだてだとわたしはおもっていますよ」
「いかにも」デュパンはうみあわせきのパイプからゆったりと、かんがえこんででもいるように、煙草たばこのけむりをしてから、った。「もっともぼくだってへぼつくったことがあるんだが」
「あなたの捜索そうさくのことをすっかりくわしくおはなしになってはどうでしょう」とわたしった。
「おお、そうですな。いや、もう、我々われわれ時間じかんをかけてゆっくり、どこもここもみんなさがした、というわけなんです。こういった仕事しごとにはぼく永年えいねん経験けいけんがあるんで。ぼく建物たてもの全体ぜんたいいち部屋へやごとにかかり、いち部屋へやまんいち週間しゅうかんよるついやしました。はじめに各室かくしつ家具かぐ調しらべたのです。ありとあらゆる引出ひきだしをあけてみました。ご承知しょうちのこととおもうが、相当そうとう熟練じゅくれんした警察官けいさつかんにとっては、秘密ひみつ引出ひきだしなどというようなものはありえないのです。こういう捜索そうさくにあたって『秘密ひみつの』引出ひきだしがそのにつかないとおもものがいるなら、そりゃあ阿呆あほうですよ。それほどやさしいことなんです。どんな戸棚とだなでもみんな、はかられる容積ようせきの――空間くうかんの――ある一定いっていりょうがある。ところで我々われわれ正確せいかく物差ものさしっている。いちライン(3)じゅうぶんいちだっておとすはずはない。戸棚とだなのつぎには椅子いす調しらべました。クッションは、ぼく使つかっているのをごらんになったことのある、あのほそい、ながはりさぐってみました。テーブルからは上板あげいたりのけてみました。
「なぜそんなことを?」
「テーブルや、それにたようなつくりの家具かぐ上板あげいたは、ときどき、ものかくそうとするひとりのけることがあるのです。そうしてあしあなをあけ、品物しなものをそのなかへれて、上板あげいたをもとのとおりにしておくんですよ。寝台しんだいはしらそこあたまおなじぐあいに使つかわれます」
「しかし、そんなあなたたいてみたらおとでわかりはしませんかね?」とわたしたずねた。
品物しなものれるときに、そのまわりに綿めん十分じゅうぶんにつめれば、けっしてわからない。そのうえに、我々われわれ場合ばあいでは、なにしろおとをたてずにやらにゃならなかったんだから」
「しかし、あなただって、ものれられそうな家具かぐどれもこれもみんなりはずすことはできなかったでしょう、――ばらばらにすることはできなかったでしょう。手紙てがみいちつうくらいなら、ほそくぐるぐるけば、おおきな編物あみものはりかたちおおきさもたいしてちがわないものにちぢめられる。そんなふうにすれば、たとえば椅子いすの桟のなかへでもしこむことができるかもしれん。あなたは椅子いすひとのこらずばらばらにしやしなかったでしょう?」
「そりゃあしませんでしたがね。だが我々われわれはもっとうまくやりましたよ、――やしきじゅうのあらゆる椅子いすの桟、それから実際じっさいあらゆる種類しゅるい家具かぐせっつぎめを、非常ひじょう強度きょうど拡大鏡かくだいきょう使つかって調しらべたんです。ちかごろしゅをつけたようなあとすこしでもあれば、すぐに我々われわれにつかないはずはない。たとえば、きりきりくずのいちつぶでも、林檎りんごりんごみたいにはっきりしたでしょうよ。にかわにかわづけがすこしでもへんだったり――せっすこしでも普通ふつう以上いじょうひらいていたり――すれば、それだけで十分じゅうぶん見破みやぶられたでしょう」
かがみはご注意ちゅういなすったでしょうね、いたとガラスとのあいだを。また寝台しんだい寝具しんぐはおさぐりになったでしょうね。それからカーテンや絨毯じゅうたんじゅうたんも」
「それはもちろん。そんなふうにして家具かぐひとのこらずすっかりやってしまうと、今度こんどいえ全面ぜんめん区画くかくして、ひとつでもおとしをしないように、それに番号ばんごうをつけました。それから屋敷やしきじゅうをかく平方へいほうインチごとに、そのすぐとなりけんふくめて、まえのように、拡大鏡かくだいきょう精密せいみつ調しらべたのです」
となりけんいえも!」とわたしさけんだ。「そりゃあさぞたいへんなお骨折ほねおりだったでしょうなあ」
「そうでしたよ。でもなにしろ報酬ほうしゅう莫大ばくだいなんでね」
いえ周囲しゅうい地面じめんふくめておやりになったんですね?」
地面じめんにはすっかり煉瓦れんがれんがいてあるんでね、それほどほねらずにすみましたよ。煉瓦れんがのあいだのこけこけ調しらべたんだが、うごかされていないことがわかったのです」
「むろんD――の書類しょるいのあいだや、図書としょしつ書物しょもつのなかもごらんになりましたね?」
「いや、ましたとも。荷物にもつつつみはかたっぱしからあけてみました。書物しょもつはみんな、ある警察官けいさつかんたちのやるように、ただってみるだけでは満足まんぞくできなかったのでね、あけてみるばかりでなく、いちさつごとにいちまいいちまいめくってみました。またほん表紙ひょうしもみんな非常ひじょう正確せいかくあつさをはかり、ひとひと拡大鏡かくだいきょうでうんと注意ちゅういぶかく調しらべました。最近さいきん装釘そうていそうていをつけたものがあれば、にとまらないなんてことは絶対ぜったいになかったはずです。製本せいほんからたばかりのろくさつほんは、はり念入ねんいりにさぐってみました」
絨毯じゅうたんしたゆかはお調しらべになりましたね?」
「たしかに。絨毯じゅうたんはみんなへずいで、床板とこいた拡大鏡かくだいきょう調しらべました」
「それから壁紙かべがみも?」
「ええ」
穴蔵あなぐらましたね?」
ました」
「それじゃあ」とわたしった。「あなたは見込みこちがいをしていらしたのでしょう。手紙てがみはあなたが想像そうぞうなさるように屋敷やしきのなかにはないんですよ」
ぼくもそうじゃなかろうかとおもう」と総監そうかんった。「で、デュパンくん、どうしたらいいでしょうね?」
屋敷やしきをもう一度いちど完全かんぜんさがすんですな」
「それはぜんぜん不要ふようだ」とG――がこたえた。「手紙てがみやしきのなかにないことは、ぼくきているのとおなじくらいたしかですよ」
「だが、ぼくにはそれ以上いじょう助言じょげんはできないのです」とデュパンはった。「あなたは、もちろん、その手紙てがみ正確せいかく説明せつめいしょっているでしょうね?」
「ええ、もちろんですとも!」――そううと、そうかん手帳てちょうして、紛失ふんしつした書類しょるいのなかの様子ようすと、ことに外観がいかんくわしくいたものを、おおきなこえみはじめた。その説明せつめいしょみおわってしまうとあいだもなく、かれかえってったが、わたしはいままで、この善良ぜんりょう紳士しんしがこれほどすっかり意気いき銷沈しょうちんしょうちんしているのをたことがなかった。
 そのいちがつほどたってから、かれはまた我々われわれたずねてきたが、そのときも我々われわれにんまえとほとんどおなじようなことをしていた。かれはパイプをり、椅子いすこしろし、なにか普通ふつうはなしはじめた。とうとう、わたしいだした。――
「ところで、G――さん、れいぬすまれた手紙てがみはどうなりました? あの大臣だいじんくなんてことはとてもできないと、とうとうたいあきらめたようですな?」
「あの畜生ちくしょう、いまいましいやつだ、――そうですよ。デュパンくんってくれたとおりに、ぼくはもう一度いちど調しらべてみました、――が、やっぱりおもったとおり、まったく無駄骨むだぼねったばかりだったよ」
報酬ほうしゅうはどれだけだといましたかね?」とデュパンがたずねた。
「うむ、たいしたものだ、非常ひじょうたくさんな報酬ほうしゅうだ、はっきりいくらとはいたくないのだが、だれでもあの手紙てがみぼくわたしてくれるひとには、ぼく小切手こぎってまんフランあげてもかまわない、ということだけはっておきましょう。じつは、あれはごとに重要じゅうようになってきているので、報酬ほうしゅう最近さいきんばいにされたんです。だが、たとえさんばいにされたところで、ぼくはいままでしたことより以上いじょうにはなにもできまい」
「ふむ、なるほど」デュパンはうみあわせきのパイプをかす合間あいまに、ゆっくりとった。「ぼくおもうんだがね――G――、あなたはこの事件じけんたいしてまだできるだけ――ほねってはいないようですな。あなたはもうちっと――やれたとぼくおもうんだがな、え?」
「どうして? ――どんなふうに?」
「なあにね、――パッ、パッ――あなたは――パッ、パッ――この事件じけんについてひと意見いけんもちいたらよかったろうにね、え? パッ、パッ、パッ。――あなたはアバニシー(4)はなしおぼえていますか?」
「いいや。アバニシーなんぞくたばってしまえだ!」
「ごもっとも! くたばってしまえでけっこう。だがね、あるとき、ある金持かねもち吝嗇りんしょくけちんぼが、そのアバニシーに医療いりょうじょう意見いけんをただでこうという工夫くふうをしたんです。そこで、どこかでったとき世間せけんばなしはじめて、もしもこういう患者かんじゃがいたなら、というふうにして、自分じぶん病症びょうしょうをその医者いしゃはなしたのですな。
『そのおとこ症候しょうこうはこうこうだということにいたしますと、さて、先生せんせいあなたならそのおとこになにをもちいろとおっしゃいますか?』とその吝嗇りんしょくがきいたんですね。
『さよう、無論むろん医者いしゃ助言じょげんもちいるんですな!』とアバニシーはったそうですよ」
「だが」と総監そうかんすこしむっとしてった。「ぼく完全かんぜんよろこんで助言じょげんもちいますし、そのおれいはらいますよ。この事件じけんでわたしをたすけてくれるひとがあればだれにでもまんフランをほんとうにあげるつもりなんです」
「それなら」とデュパンは引出ひきだしをあけて小切手こぎってちょうしながらこたえた。「それだけのがく小切手こぎってぼくいてくだすってもいいでしょう。それに署名しょめいしたら、あの手紙てがみわたしましょう」
 わたしはびっくりした。そうかんはまったくかみなりたれたようだった。かれはちょっとのあいだ、ものもわず、身動みうごきもせず、くちをぽかんとあけ、たまがとびるようにして、しんじられないというふうにわたしともながめていた。それから、どうやらかえったらしく、ペンをつかんで、なんどもめたりぼんやりながめたりしたのち、やっとまんフランの小切手こぎっていて署名しょめいし、テーブルしにデュパンにわたした。デュパンはそれを念入ねんいりに調しらべて紙入かみいれにしまい、それから写字しゃじだいエスクリトワール引出ひきだしのじょうをあけ、そこからいちつう手紙てがみして、そうかんにやった。そうかん狂気きょうきせんばかりにそれをしっかりつかみ、ふるえるひらいて、その内容ないよう大急おおいそぎでちらりと、それからとびらほうへよろめきよると、とうとう無作法ぶさほうにも、さっきデュパンが小切手こぎっていてくれとったときからひとことくちをきかずに、部屋へやから、そしていえからしてったのであった。
 かれおこなってしまうと、デュパンは説明せつめいをしはじめた。
「パリの警察けいさつはね」とかれった。「そのみちではなかなかの手腕しゅわんがあるんだよ。かれらは根気こんきがいいし、工夫くふうりょくもあるし、狡猾こうかつこうかつでもあるし、職務しょくむじょうしゅとして必要ひつようなようにえる知識ちしきには十分じゅうぶんによくつうじてもいる。だから、G――がD――やしき家宅かたく捜索そうさくをした方法ほうほう我々われわれくわしくはなしてくれたとき、ぼくは、かれ労力ろうりょくおよぶところまでは――かれもうぶんのない調査ちょうさをしたということを、完全かんぜんしんじたんだ」
かれ労力ろうりょくおよぶところまではだって?」とわたしった。
「そうさ」とデュパンがった。「られた手段しゅだんは、そのたね最上さいじょうのものであったばかりではなく、完全かんぜん無欠むけつなところまで実行じっこうされたのさ。手紙てがみかれらの捜索そうさく範囲はんいないいてあったなら、あの連中れんちゅうはきっとつけたろう」
 わたしはただわらった、――がかれはまったく真面目まじめっているようであった。
「そんなわけで」とかれはつづけてった。「手段しゅだんはそのたねのものでは上等じょうとうだったし、りっぱに実行じっこうもされた。ただ欠点けってんというのは、その事件じけんとそれから相手あいてとにてはまっていないということだったんだよ。そうかん非常ひじょう巧妙こうみょう方法ほうほうというのはプロクルステス(5)寝台しんだいのようなものだとおもって、自分じぶん計画けいかく無理むりにそれに適合てきごうさせようとするんだね。かれはいつも、自分じぶんにしている事件じけんたいしてあまり深謀しんぼうすぎたり浅慮せんりょすぎたりしてしくじるのだ。小学校しょうがっこう子供こどもだってかれよりももっとうまく推理すいりするのがたくさんいる。ぼくはちさいばかりの子供こどもっていたが、このは『ひのとはんか』という勝負しょうぶでいいあてるのがうまくて、みんなにめられていた。この勝負しょうぶ簡単かんたんなもので、たませきはじきいしでやるのだ。一人ひとりがこのいしにいくつかっていて、相手あいてにそのかずひのとはんかときく。もしてたら、てたほうがひとるし、ちがったら、ひとられるのだ。いまったその子供こども学校がっこうじゅうのたませきをみんなってしまったものだよ。むろん、かれてる法則ほうそくといったようなものをっていたのだ。というのは、ただ相手あいてのはしっこさを観察かんさつして、その程度ていどをはかるということなんだ。たとえば、まったくの馬鹿ばか相手あいてになっていて、にぎったげて、『ひのとはんか?』ときく。その生徒せいとは『はん』とこたえて、ける。が度目どめにはつ。というわけは、かれはこうかんがえるのだ、『この馬鹿ばかはじめにひのとってったんだから、こいつの利口りこうさの程度ていどではちょうど、度目どめにははんつくらいのところだろう。だからはんってやろう』とね。――そこではんってつのだ。それから、相手あいてがこれとはもうすこうえ馬鹿ばかだと、かれはこういうふうにかんがえる。『こいつははじめにぼくはんったので度目どめにはすぐ、まえ馬鹿ばかのように、簡単かんたんひのとからはんえようとするだろう。がかんがえなおしてこれはあまり簡単かんたんかただとおもいつき、結局けっきょくやはりまえのようにひのとつことにめるだろう。だからひのとってやろう』とね。――で、『ひのと』とって、つんだ。そこで、仲間なかまものたちに『うんつよい』とわれていたその生徒せいとのこの推理すいり方法ほうほうだね、――これは最後さいごまで分析ぶんせきすると、なにかね?」
「それはただ推理すいりしゃ知力ちりょく相手あいて知力ちりょく合致がっちさせることにすぎんね」とわたしった。
「そうなんだ」とデュパンがった。「で、ぼくはこの子供こどもに、かれ成功せいこうもとであるその完全かんぜん合致がっちをどんな手段しゅだんでやるのかとたずねたら、こうこたえた。『ぼくは、だれかがどれくらいかしこいか、どれくらい間抜まぬけか、どれくらいじんか、どれくらいわるじんか、またそのときのそのひとかんがえがどんなものか、というようなことをりたいとおもうときには、自分じぶんかお表情ひょうじょうをできるだけ正確せいかくにそのひと表情ひょうじょうおなじようにします。それから、その表情ひょうじょううように、または一致いっちするようにして、自分じぶんしんむねってくるかんがえや気持きもちろうとしてっているんです』というのさ。この生徒せいとのこのこたえは、ロシュフコー(6)や、ラ・ブリュイエール(7)や、マキアヴェリ(8)や、カンパネラ(9)のものとされている、あの、あらゆるにせにせ深遠しんえんさよりもふかいものだよ」
「で、その推理すいりしゃ知力ちりょく相手あいて知力ちりょく合致がっちさせることはだね」とわたしった。「もしきみうことをぼく誤解ごかいしていないなら、相手あいて知力ちりょくをはかる正確せいかくさのいかんによるね」
実際じっさいじょう価値かちとしては、そういうことになるね」とデュパンはこたえた。「で、そうかんやその部下ぶかたちが、あんなにちょいちょい失敗しっぱいするのは、だいいちに、その合致がっちけているためで、だいには、相手あいて知力ちりょくのはかりかたわるいため、というよりも、むしろはからないためなんだ。かれらはただ自分じぶんたち自身じしん工夫くふうりょくだけしかかんがえない。そしてなんでもかくされたものをさがすのに、自分じぶんたちかくしそうな方法ほうほうだけしかがつかない。かれ自身じしん工夫くふうりょく普通ふつう一般人いっぱんじん工夫くふうりょく忠実ちゅうじつ代表だいひょうであるというてんまでは――これはただしい。が、特殊とくしゅ悪人あくにん狡知こうちこうちと、かれ自身じしん知恵ちえしつことなっている場合ばあいには、もちろんかれらはしくじってしまう。これは相手あいて狡知こうちかれらより以上いじょうのときにはいつもそうだし、その以下いか場合ばあいにもたいていそうなんだ。かれらは調査ちょうさをするときけっして方針ほうしんえるということをしない。せいぜい、なにか非常ひじょう出来事できごと――なにかすばらしい報酬ほうしゅうなど――ではげまされると、自分じぶんたちの方針ほうしんえないで、ただもとのやりかた拡張かくちょうし、またおおげさにする。たとえばこのD――の場合ばあいに、行動こうどう方針ほうしんえるためにどんなことがされたか? あんなふうにあなをあけたり、さがせはりさぐったり、たたいておとためしたり、拡大鏡かくだいきょうでことこまかに調しらべたり、建物たてもの表面ひょうめん平方へいほうインチに区画くかくして番号ばんごうをつけたりすること――そんなことはみんな、そうかんながいあいだの在職ざいしょくちゅう見慣みなれてきた、人間にんげん工夫くふうりょくかんする一連いちれんかんがえを基礎きそにしている探索たんさく方針ほうしんひとつ、あるいはいくつかを、おおげさに応用おうようしたものにすぎんじゃないか? かれは、あらゆる人間にんげん手紙てがみかくすのに、――かならずしも椅子いすあしきりあなをあけないにしても――すくなくとも、椅子いすあしきりあな手紙てがみかくそうとするのとおなじようなかんがえからおもいついた、どこかたやすく人目ひとめにつかぬあなすみっこに――かくすものだ、とめこんでいるじゃないか? が、そういうねんはいったすみっこにかくすことは、ただ普通ふつう場合ばあいにだけもちいられるもので、ただ平凡へいぼん知力ちりょくものもちいるだけじゃないか。なぜかとえば、ものをかく場合ばあいにはみな、そのかく品物しなものをそういう念入ねんいりの方法ほうほう処置しょちするということは――まずだいいちかんがえられることだし、推量すいりょうされることなんだからね。だから、それの発見はっけんは、ちっとも探索たんさくしゃ明敏めいびんさいかんによるのではなくて、ぜんぜんたんなる注意ちゅういと、忍耐にんたいと、決意けついとによるのだ。そして事件じけん重大じゅうだい場合ばあいには――あるいは、警察官けいさつかんにはどうせおなじことだが、つまり報酬ほうしゅうおおいときには――そういう特性とくせいけっしてけるはずはない。というわけだから、もしあのぬすまれた手紙てがみそうかん調査ちょうさ範囲はんいないのどこかにかくしてあったなら――言葉ことばをかえてえば、それの隠匿いんとく方針ほうしんそうかん方針ほうしんのなかにあるものだったなら――それの発見はっけんはぜんぜんうたがいの余地よちはなかったろう、とぼくおうとしたことはきみにはもうわかったろう。それなのに、あの先生せんせいはすっかりけむりけむかれてしまった。そしてかれ失敗しっぱい遠因えんいんは、あの大臣だいじん馬鹿ばかである、なぜならかれ詩人しじんとしての名声めいせいているから、と推定すいていしたことにあるのだ。すべての馬鹿ばか詩人しじんであると、こうそうかん自分じぶんおもっている。そしてかれはそこから、すべての詩人しじん馬鹿ばかである、と推論すいろんして、ただなかだち周延しゅうえんノーン・ディストリブーティオー・メディイー10誤謬ごびゅうおちいったのさ」
「だが詩人しじんというのはほんとうかね?」とわたしたずねた。「兄弟きょうだいにんあるということはいているし、二人ふたりとも文名ぶんめいはある。だが、たしかあの大臣だいじんのほうは微分びぶんがくについてかなり博学はくがく著述ちょじゅつがあったとおもうよ。あのおとこ数学すうがくしゃであって、詩人しじんじゃあないよ」
「いや、ちがうよ。ぼくはあのおとこをよくっている。かれはその両方りょうほうなんだ。詩人しじんけん数学すうがくしゃなればこそ、かれはよく推理すいりするのだ。たんなる数学すうがくしゃにすぎなかったら、かれ推理すいりなんぞはちっともできなくて、そうかんおもうままになったろう」
「こりゃあおどろくね」とわたしった。「そういう意見いけん世間せけん通説つうせつとまるで矛盾むじゅんしているからね。くんなに世紀せいきものあいだじゅうふん理解りかいされてきたかんがえを無視むししようとするんじゃあるまいな。数学すうがくてき推理すいりこそ、ながいあいだとくすぐれた推理すいりなされてるんだからねえ」
「『あらゆる公衆こうしゅう一般いっぱん観念かんねん、あらゆる世間せけん一般いっぱん承認しょうにんされたる慣例かんれいおろかなるものとおもわばまちがいなし。なんとなれば、そは衆愚しゅうぐよろこばしむるものなればなりイリヤ・ア・パリエ・ク・トゥティデェ・ピュブリク・トゥト・コンヴァンシオン・ルシュ・エ・テュヌ・ソティーズ・カアル・エラ・コンヴニュ・オ・プリュ・グラン・ノンブル』さ」とデュパンはシャンフォオル11言葉ことば引用いんようしてごたえた。「いかにも数学すうがくしゃは、きみのいまったその世間せけん一般いっぱん誤謬ごびゅうをひろめるのに全力ぜんりょくつくしてきたが、それは真理しんりとしてひろまっていたとしても、やっぱりりっぱな誤謬ごびゅうだよ。たとえば、かれらはこんなことをもちいてはもったいないような技巧ぎこうをもって、『分析ぶんせき』という言葉ことば代数だいすうがく適用てきようさせてしまった。このごまかしの元祖がんそはフランスじんだよ。だが、もし言葉ことばというものがすこしでも重要じゅうようなものであるなら――つまり、言葉ことばというものがことがらに適用てきようされることによってなんらかの価値かちむものであるならだね――『分析ぶんせき』が『代数だいすうがく』を意味いみしないことは、ラテン語らてんご“ambitus”‘ambition’意味いみせず12“religio”‘religion’意味いみせず13、あるいはまた“homines honesti”‘honorable men’意味いみしない14くらいの程度ていどなんだ」
きみはいまパリの代数だいすう学者がくしゃたちを相手あいて喧嘩けんかけんかしてるんだね。だが、まあはなしをつづけたまえ」
ぼくは、絶対ぜったいてき論理ろんりてき形式けいしき以外いがいの、あらゆる特殊とくしゅ形式けいしきでなされる推理すいり効力こうりょくに、したがってまたその価値かちに、反対はんたいする。とりわけ、数学すうがくてき研究けんきゅうによってされた推理すいりに、反対はんたいする。数学すうがく形式けいしき数量すうりょうとの科学かがくであって、数学すうがくてき推論すいろん形式けいしき数量すうりょうとの観察かんさつ適用てきようされた論理ろんりにすぎない。純粋じゅんすい代数だいすうがくわれているものの真理しんりでさえ、それが絶対ぜったいてきの、普遍ふへんてきの、真理しんりであると想像そうぞうするところに、おおきな誤謬ごびゅうがあるんだよ。そしてこの誤謬ごびゅうじつにひどいものなので、それがひろ一般いっぱんしんぜられているのにはぼくもびっくりするね。数学すうがく公理こうり普遍ふへんてき真理しんり公理こうりではないのだ。関係かんけい――形式けいしき数量すうりょうとの関係かんけい――についてしんであることも、たとえば倫理りんりがくなどにかんしては、しばしば非常ひじょうにまちがったものであることがある。倫理りんりがくでは、部分ぶぶん総和そうわ全体ぜんたいひとしいということはたいがいしんではない化学かがくにおいてもやはりその公理こうり駄目だめだ。動機どうき考究こうきゅうにしたってもそうだよ。なぜかとえば、あるあたえられた価値かちふたつの動機どうきは、それをわせても、かならずしもその個々ここひとしい価値かちにはならないからね。このほかにも、まだ関係かんけい範囲はんいないでだけ真理しんりであるにすぎない数学すうがくてき真理しんりがたくさんある。しかし数学すうがくしゃ習慣しゅうかんじょうかれ限定げんていされた真理まりから、まるでそれが絶対ぜったいてきになににでも適用てきようされるものであるかのように、ろんずるのだ。――そして世間せけん実際じっさいそうだと想像そうぞうしているんだがね。ブライアント15が、あのたいへん該博がいはくな『神話しんわがく』のなかで、『だれも異教徒いきょうと寓話ぐうわぐうわしんじはしないが、それでいて、我々われわれはいつもうっかり、それらの寓話ぐうわ実在じつざいするものとおもって、それらから推論すいろんをする』とっているのは、それに誤謬ごびゅうみなもとっているのさ。ところが、かの代数だいすう学者がくしゃたちは異教徒いきょうとそのものなんで、かれらはその『異教徒いきょうと寓話ぐうわ』をしんじているのだ。そして、かれらがその推論すいろんをするのは、ついうっかりしてわすれてやるよりも、わけのわからぬあたまわるさからやるんだからな。ようするにだね、ただの数学すうがくしゃとう以外いがいのことで信用しんようできるひと、あるいは x2+px が絶対ぜったいてきにかつ無条件むじょうけんにqにひとしいということをひそかに自分じぶん信条しんじょうとしていないひとには、ぼくはいままでおにかかったことがないよ。まあ、ためしに、そういう紳士しんしかた一人ひとりに、x2+px がかならずしもqにひとしくない場合ばあいもありうるとおもう、とってやってごらんなさい。そしてきみおうとしていることを相手あいてにわからせたら、できるだけさっさとそのおとこのとどかないところへげたまえ、きっとかれきみをはりたおそうとするだろうからね」
 かれ最後さいご言葉ことばいてわたしがただわらっていると、かれはなしをつづけた。「ぼくおうとするのは、もしあの大臣だいじん数学すうがくしゃであるだけだったら、そうかんはこの小切手こぎってぼくにくれる必要ひつようがなかったろう、ということなんだ。しかしぼくかれ数学すうがくしゃでありかつ詩人しじんであることをっていたので、ぼく物差ものさしを、かれ周囲しゅうい事情じじょうかんがえて、かれ才能さいのう適合てきごうさせたのだ。ぼくはまた廷臣ていしんとしての、また大胆だいたん陰謀いんぼうアントリガンとしてのかれをもっていた。そういう人間にんげん警察けいさつ普通ふつうのやりかたらないはずはないとぼくかんがえた。かれ自分じぶんせされることを予想よそうしないはずがなかったろう。――そして事実じじつかれがそれを予想よそうしたことをしめしている。かれ自分じぶん屋敷やしき秘密ひみつ調しらべられることを予知よちしたにちがいない、とぼくおもった。かれがちょいちょいよるをあけることを、そうかん自分じぶん成功せいこうたすけるものだとおもっておおいによろこんだが、ぼくはただそれを、警察けいさつ十分じゅうぶん捜索そうさくさせる機会きかいあたえ、そうしてそれだけはやかれらに、G――が事実じじつとうとう到達とうたつしたあの確信かくしん――手紙てがみ屋敷やしきうちにないのだという確信かくしんを――あたえようとする策略さくりゃくリュウズだとかんがえた。それからまた、ぼくがさっきちょっとほねってきみくわしくはなした、あのかくされた品物しなものさが場合ばあいにとる、警察けいさつ一本いっぽん調子ちょうし方針ほうしんについてのあらゆるかんがえだね、――ああいうかんがえはみんなかなら大臣だいじんしんうかんだろう、とぼくかんじた。そういうことをかんがえると、かれはどうしても否応いやおうなしに普通ふつうすみっこかく場所ばしょなどはいっさいもくれなかったにちがいない、あのおとこが、自分じぶんやしきのいちばんんだ、っこんだすみっこでも、そうかんや、さがせはりや、きりや、拡大鏡かくだいきょうにとっては、ごく普通ふつう戸棚とだな同様どうようにあけっぱなしのものであることをらないほど、愚鈍ぐどんであるはずがない、とぼくかんがえた。結局けっきょくぼくは、かれがたとえ熟慮じゅくりょすええらんだのではなくとも、当然とうぜん成行なりゆきとして、単純たんじゅん手段しゅだんをとったにちがいない、ということをさとったのだよ。くんは、我々われわれ最初さいしょそうかんったとき、この事件じけんがそんなにかれなやませるのは、それがきわめてわかりきっているためかもしれんとぼくったら、そうかんがやけにわらいこけたことを、たぶんおぼえているだろう」
「うん、たいへんなご機嫌きげんだったことをよくおぼえているよ。あんまりわらうので、ひきつけやしないかとぼくはほんとうにおもったものだ」とわたしった。
物質ぶっしつかいには」とデュパンはかたりをつづけた。「物質ぶっしつかい非常ひじょうによく類似るいじしたことがたくさんある。だから、隠喩いんゆいんゆやあるいは直喩ちょくゆ叙述じょじゅつ修飾しゅうしょくするとともに、議論ぎろんつよめることができるという修辞しゅうじじょう独断どくだんが、いくらか真理しんりらしくえるのだ。たとえば惰性だせいりょくウィース・イネルティアエ法則ほうそく物理ぶつりがくでも形而上けいじじょうけいじじょうがくでも同一どういつであるらしい。物理ぶつりがくで、おおきい物体ぶったいうごかすのはちいさい物体ぶったいうごかすよりも困難こんなんで、それにともな運動うんどうりょうモーメントゥムはその困難こんなん比例ひれいするものであるが、これは形而上学けいじじょうがくで、能力のうりょくおおきい知能ちのう劣等れっとう知能ちのうよりもその動作どうさにおいてちからがあり、堅実けんじつであり、重大じゅうだい結果けっかしょうずるけれども、またそれよりもうごかしにくく、うごきだしても最初さいしょすうのうちはそれよりも厄介やっかいで、ためらっているのと同様どうようなのだ。もうひとれいげよう。往来おうらい商店しょうてん看板かんばんのなかでどんなのがいちばん注意ちゅういをひくかということを、きみはいつかをつけたことがあるかい?」
「そんなことはかんがえてみたこともないね」とわたしった。
地図ちずうえでやるさがしのあそびがある」とかれはまたはなしつづけた。「一方いっぽうものがまず――まちでも、かわでも、しゅうでも、くにでも――つまり、いろんないろのついたごちゃごちゃした地図ちず表面ひょうめんにあるどんなでもって――相手あいてさがさせるんだ。このあそびの初心者しょしんしゃはたいがい、いちばんこまかいいてあるって相手あいてこまらせようとする。けれども玄人くろうとくろうとは、おおきな地図ちずはしからはしまでひろがっているようなえらぶのだ。そういう文字もじは、あまりおおきすぎるいてある往来おうらい看板かんばんさつびらおなじように、あまり明瞭めいりょうすぎるためにかえってひとにつかない。そしてこの物理ぶつりてき見落みおとしは、知能ちのうが、あまりひどく、あまり明白めいはくにわかりきっていすぎることがらをづかずにすごすという精神せいしんてき不注意ふちゅういと、ちょうど類似るいじしているものなんだ。しかし、こういうことはあの総監そうかん理解りかいりょくのいくぶんじょうか、あるいはしたのことであるらしいね。かれは、大臣だいじんがあの手紙てがみだれにもづかれないようにするいちばんよい方法ほうほうとして、それをみんなのすぐ鼻先はなさききそうだとか、あるいはいたかもしれないなどということは、いちだってかんがえたこともありゃしないのさ。
 だがぼくは、D――の大胆だいたんな、おもいきった、明敏めいびん工夫くふうりょくと、かれがその書類しょるい有効ゆうこう使つかおうとおもうならつねにそれを手近てぢかかなければならないという事実じじつと、それがそうかんのいつもの捜索そうさく範囲はんいないにはかくされていないという、その決定的けっていてき証言しょうげんとをかんがえればかんがえるほど、――大臣だいじんがその手紙てがみかくすのに、ぜんぜんそれをかくそうとはしないという遠大えんだいな、賢明けんめい方策ほうさくをとったのだということがわかってきたのだ。
 てっきりそうにちがいないとおもいながら、ぼく緑色みどりいろ眼鏡めがね用意よういして、あるれたあさ、ひょっこり大臣だいじんやしき訪問ほうもんした。D――は在宅ざいたくしていて、れいのとおり欠伸あくびあくびをしたり、ぶらぶらしたり、のらくらしたりして、退屈たいくつアンニュイでたまらないというふりをしていた。かれはおそらく現代げんだいでの、もっともほんとうに精力せいりょくてき人間にんげんだろう、――が、それはだれていないときだけのことなんだ。
 かれにひけをらないようにと、ぼく自分じぶんよわくてこまるといい、眼鏡めがねをかけなければならないことをこぼして、表面ひょうめん主人しゅじんはなしにだけ余念よねんなくききいっているようなふりをしながら、その眼鏡めがねしたから部屋へやじゅうを念入ねんいりにすっかりまわした。
 ぼくは、かれちかくにあるおおきな書机しょづくえライティング・テーブルにとくに注意ちゅういけた。そのうえには、ひとふたつの楽器がっきなんさつかのほんとともに、いろいろな手紙てがみとその書類しょるいとが乱雑らんざつにのせてあった。しかし、ながいあいだ、よほどをつけて調しらべたが、ここにはなにも特別とくべつ嫌疑けんぎをひくようなものがなかった。
 部屋へやをぐるぐるまわしているうちに、とうとうぼくは、暖炉だんろぜんかざりマントルピースなかのすぐのところにある真鍮しんちゅうしんちゅうちいさなツマミから、よごれたあおいリボンでぶらげてある、やすものの、かけばかりのル紙るがみせい名刺めいししにとまった。この名刺めいししにはみっよっつの仕切しきりがあって、ろくまい名刺めいしと、いちつうだけの手紙てがみとがはいっていた。手紙てがみのほうはひどくよごれてしわしわくちゃになっていた。それはなかからふたつにきかけてあった。――ちょうど、つまらぬものだからはじめはすっかりいてしまうつもりだったが、ふとおもいかえしてよしたといったようにね。ひどく目立めだったD――の花押かおうかきはんのある、おおきなくろ封印ふういんがあって、こまかなおんな筆蹟ひっせきでD――大臣だいじんてたものだった。それは名刺めいししのうえほう仕切しきりに、頓着とんじゃくむとんじゃくに、またいかにもぞんざいらしく、っこんであった。
 この手紙てがみをちらりとるやいなや、ぼくはすぐにこれが自分じぶんさがしているものだとめてしまった。なるほど、たところでは、これはそうかんがあのくわしい説明せつめいしょんでくれたものとは根本こんぽんてきちがっている。このほうは封印ふういんおおきくて、くろく、D――の花押かおうがあるし、あのほうは封印ふういんちいさくて、あかく、S――公爵こうしゃく紋章もんしょうがある。この宛名あてなは、大臣だいじんてたもので、こまかく女文字おんなもじいてあるし、あのほうの表書おもてがきは、さる王族おうぞくてたもので、とてもふとい、しっかりしたいてある。ただおおきさだけが符号ふごうしているのだ。ではあるが、こういう相違そういがあまり極端きょくたん根本こんぽんてきであること。それのよごれていることや、かみのきたなくなってけていることがD――のしん几帳面きちょうめんきちょうめん習慣しゅうかん矛盾むじゅんしているし、また、その書類しょるいをつまらないもののように、ものをだまそうとする計画けいかくだなとおもいつかせること。――それと、置場おきばしょだが、書類しょるいがどの訪問ほうもんきゃくにもまるえのあまりにひとにつくところにあったこと。したがってぼくまえ到達とうたつしたあの結論けつろんときちんと一致いっちしているということ。こういったことはたしかに、うたがうつもりでものには非常ひじょう嫌疑けんぎくするものだったんだね。
 ぼくはできるだけ訪問ほうもんながびかせて、きっと大臣だいじん興味きょうみをひき、かれがやっきとなるにちがいない話題わだいして、かれとさかんに議論ぎろんをつづけながら、すこしも手紙てがみから注意ちゅういはなさなかった。そうして調しらべているあいだに、その外観がいかんや、名刺めいししのなかのれぐあいなどをぼく暗記あんきした。そしてとうとうひとつの発見はっけんをしたが、それはぼくがいだきそうなどんなちいさなうたがいでもしてしまうものだった。手紙てがみえんをよくていると、それが必要ひつよう以上いじょうこすれていることがわかったのだ。それは、かたかみがいったんげられてかみへらへらおさえられ、そのもとられたおな折目おりめのところから反対はんたいかえされたときにできるぐあいなんだよ。これを発見はっけんすれば十分じゅうぶんだった。ぼくには、その手紙てがみ手袋てぶくろみたいに裏返うらがえしにされ、ふたたび宛名あてなかれ、封印ふういんがしなおされたことはあきらかだった。ぼく大臣だいじんにさよならをって、金製きんせい嗅煙草かぎたばこかぎたばこれをテーブルのうえいたまま、すぐかえってきた。
 翌朝よくあさぼくはその嗅煙草かぎたばこれをりにって、前日ぜんじつはなしをまた熱心ねっしんはじめた。しかし、そうしているうちにやしきまどのすぐのところで、ピストルのおとのようなおおきなおときこえ、つづいておそろしい悲鳴ひめいと、群集ぐんしゅうさけごえとがきこえてきた。D――はまどほうけより、それをひらいて、そとながめた。そのあいだに、ぼくはあの名刺めいししのところへあゆみより、手紙てがみって、自分じぶんのポケットのなかへれ、そしてあとには、(外側そとがわだけは)おなじようにしたにせ手紙てがみを、かわりにれておいた。それはぼくいえうち念入ねんいりに用意よういしてきていたものなんだ、――パンでこさえた封印ふういん造作ぞうさくもなくD――の花押かおうをまねてね。
 往来おうらいさわぎは、じゅうったおとこ気違きちがいじみた挙動きょどうからおこったものだった。かれおんな子供こども大勢おおぜいいるなかでそいつを発射はっしゃしたのだ。しかしたまたまがこめてないことがわかり、狂人きょうじんぱらいだとおもわれて、くままにされた。そのおとこおこなってしまうと、D――はまどぎわからもどってきたが、ぼく自分じぶん目的もくてきのものをれるとすぐかれのあとをってそこへっていたのだ。それからもなくぼくかれわかれてきた。そのにせ狂人きょうじんぼくやとったおとこさ」
「しかしきみがその手紙てがみのかわりをいてきたのはどんな目的もくてきだったのかね?」とわたしたずねた。「最初さいしょたずねてったとき、公然こうぜんとそいつをかえしてかえったほうがよくはなかったかね?」
「D――は」デュパンがこたえた。「むこずなおとこだ。また剛胆ごうたんおとこだ。それにかれやしきには、かれのために身命しんめいをささげた従者じゅうしゃたちもいる。きみうような無鉄砲むてっぽうなまねをやろうものなら、ぼくきて大臣だいじんのところからることができなかったかもしれん。パリのひとたちはそれきりぼくうわさうわさかなくなったかもしれないぜ。しかし、そういうことがらとはべつに、ぼくにはひとつの目的もくてきがあったのさ。ぼく政治せいじじょう贔屓ひいきひいききみもご承知しょうちのとおりだ。この事件じけんでは、ぼくれい貴婦人きふじんいち党員とういんとして行動こうどうするのだ。じゅうはちカ月かげつのあいだ、大臣だいじん彼女かのじょ自分じぶん権力けんりょくにしたがわせてきた。今度こんど彼女かのじょのほうがかれをその権力けんりょくにしたがわせるんだ。――なぜかとうと、かれ手紙てがみ自分じぶんにないことにがつかないので、相変あいかわらずあるようなつもりで無理むりなことをやるだろうからね。こうしてかならかれはたちまち政治せいじてき破滅はめつおちいってしまうだろう。かれ没落ぼつらく急激きゅうげきでもあるし、また見苦みぐるしくもあるだろうよ。あの facilis descensus Averni「地獄じごくるはやす16」ということをはなすのはたいへんけっこうだが、なににのぼるのでも、カタラアニ17うたうたかたについてったように、くだるよりものぼるほうがずっとやさしいのだ。現在げんざい場合ばあいでは、ぼくってゆくものにはなんの同情どうじょうも――すくなくともなんの憐憫れんびんれんびんも――っていない。あのおとこはかの monstrum horrendum18 だ。破廉恥はれんち天才てんさいだ。だが、ぼくは、あのおとこそうかんのいわゆる『さるおかた』なる婦人ふじんうらをかかれて、ぼく名刺めいししのなかへれてきた手紙てがみをあけてみなければならなくなったとき、かれがどうおもうかということを、はっきりりたくてたまらないね」
「どうして? きみはなにかかわったものでもそのなかへれてきたのかい?」
「なあに、――なかを白紙はくしのままにしておくのはあんまりよくないだろうとおもったのさ、――そいつあれいしっするだろうからな。D――は以前いぜんウィンナでぼくにひどい仕打しうちをしたことがある。それにたいしてぼくはごく機嫌きげんよく、このうらみはわすれないぞとってやった。だから、かれ自分じぶんいちはいわせた人間にんげんだれだかりたくおもうにきまっているだろうから、がかりをあたえないのはかわいそうだとぼくかんがえたんだ。かれぼく筆蹟ひっせきをよくっている。で、ぼくはただ白紙はくしなかにこういておいたよ、――

‘―― Un dessein si funeste, S'il n'est digne d'Atr※(アキュートアクセント付きE小文字)e, est digne de Thyeste.’
「――かかるいたましきたくらみは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ19

とね。これはクレビヨン20の『アトレ』のなかにある文句もんくなんだ」


(1)Lucius Ann※(リガチャAE小文字)us Seneca(ぜんよんごろ―ろく)――有名ゆうめいなローマの哲学てつがくしゃ
(2)この警視総監けいしそうかんG――まえの『モルグがい殺人さつじん事件じけん』にも『マリー・ロジェエのかい事件じけん』にもちょっとているが、ボードレールは、ポーは“M. Gisquet”のことをかんがえていたにちがいないとっている。「ジスケエ」というのは Henri Joseph Gispuet(いちななきゅういちはちろくろく)のことで、このさくかれるじゅうねんほどまえまで、パリの警視総監けいしそうかんをしていたおとこである。もっとも、ているのは頭文字かしらもじと、警視総監けいしそうかんであったということだけである。
(3)いちインチのじゅうぶんいち
(4)John Abernethy(いちななろくよんいちはちさんいち)――イギリスの医者いしゃ解剖かいぼう学者がくしゃであり生理学せいりがくしゃであったがとくに、その奇矯ききょう人格じんかくをもってられていた。
(5)Procrustes ――古代こだいギリシャの伝説でんせつのアッティカの強盗ごうとうで、ひととらえたたびごとにてつ寝床ねどこかせ、その身長しんちょう寝台しんだいよりながいときはそのあまった部分ぶぶんちぢめ、みじかかければばしておなながさにしてころしたといいつたえられている。
(6)Fran※(セディラ付きC小文字)ois la Rochefoucauld(いちろくいちさんはち〇)――“Maximes”筆者ひっしゃとしてよくられているフランスの著作ちょさく
(7)Jean de la Bruy※(グレーブアクセント付きE小文字)re(いちろくよんきゅうろく)――フランスの著作ちょさく。ハリスンばんやそのにはこのが La Bougive となっているが、イングラムばん、ステッドマン・ウッドベリーばん、ボードレールほんには La Bruy※(グレーブアクセント付きE小文字)re となっている。
(8)Niccolo Machiavelli(いちよんろくきゅういちなな)――イタリアの政治せいじ著作ちょさく
(9)Tommaso Campanella(いちろくはちいちろくさんきゅう)――イタリアの僧侶そうりょ哲学てつがくしゃ
10)non distributio medii ――論理ろんりがくじょう術語じゅつごで、三段論法さんだんろんぽうにおいて、なかだちばいじ両方りょうほう前提ぜんていともに周延しゅうえんである誤謬ごびゅうごびゅうをいう。「すべての馬鹿ばか詩人しじんである(大前提だいぜんてい)。かれ詩人しじんである(小前提しょうぜんてい)。ゆえにかれ馬鹿ばかである(結論けつろん)」というこの総監そうかん三段論法さんだんろんぽうにおいて、「馬鹿ばか」は大名だいみょうであり、「かれ」は小名しょうみょうであり、「詩人しじん」はなかだち中名なかのみょう)である。なかだちは、大前提だいぜんてい小前提しょうぜんていとの関係かんけい媒介ばいかいするものであるから、すくなくともいち周延しゅうえん拡充かくじゅう)されていなければならない。すなわちその概念がいねん全体ぜんたい範囲はんいにわたっての主張しゅちょうでなければならない。しかしこの論法ろんぽうにおいては「詩人しじん」というなかだちはどちらの前提ぜんていでも周延しゅうえんされていない。すなわち、たんにその一部分いちぶぶんのみについて主張しゅちょうされたにすぎない。ゆえにこの結論けつろんあやまっている。こういうあやまりを、論理ろんりがくではなかだち中名なかのみょう周延しゅうえん拡充かくじゅう)の誤謬ごびゅうという。
11)Nicholas Chamfort(いちななよんいちきゅうよん)――フランスの文人ぶんじん箴言しんげんしんげん警句けいく筆者ひっしゃとしてられていた。
12ラテン語らてんご“ambitus”は「投票とうひょう依頼いらいするためにはしりまわること」、「官職かんしょくるため奔走ほんそうすること」の意味いみであって、それから英語えいご“ambition”野心やしん)とはすこ意味いみちがう。
13ラテン語らてんご“religio”は「注意ちゅういふかいこと」、「律義りちぎ」、「几帳面きちょうめん」というような意味いみで、それから“religion”宗教しゅうきょう)を意味いみしない。
14“homines honesti”は「有名ゆうめい人々ひとびと」の意味いみで、“honorable men”立派りっぱ人々ひとびと)を意味いみしない。
15)Jacob Bryant(いちなないちいちはちよん)――イギリスの考古こうこ学者がくしゃ“A New System or an Analysis of Ancient Mythology”ちょがある。
16)「地獄じごくるはやすし」。――ヴェルギリウスの※(リガチャAE)neis”だいろくかんいちろくぎょう
17)Angelica Catalani(いちななはち〇?―いちはちよんきゅう)――イタリアの有名ゆうめいなソプラノの歌手かしゅ
18)「おそろしき怪物かいぶつ」。――ヴェルギリウスの※(リガチャAE)neis”だいさんかんろくはちぎょう
19)「――かかるいたましきたくらみは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ」――クレビヨンの悲劇ひげき“Atr※(アキュートアクセント付きE小文字)e et Thyeste”だいまくだいよんじょう。(アトレとティエストとの兄弟きょうだいはなしはギリシャの残忍ざんにん伝説でんせつであって、ティエストはアトレのつま誘惑ゆうわくし、アトレはその復讐ふくしゅうふくしゅうのためにいつわって和解わかいうたげり、ティエストをまねき、ティエストのさんにんころしてそのにくちちわせたという)
20)Prosper Jolyot de Cr※(アキュートアクセント付きE小文字)billon(いちろくななよんいちななろく)――フランスの悲劇ひげき詩人しじん“Atr※(アキュートアクセント付きE小文字)e et Thyeste”はそのいちななななねんさくである。





底本ていほん:「モルグがい殺人さつじん事件じけん新潮しんちょう文庫ぶんこ新潮社しんちょうしゃ
   1951(昭和しょうわ26)ねん8がつ15にち発行はっこう
   1977(昭和しょうわ52)ねん5がつ10日とおか40さつ改版かいはん
   1986(昭和しょうわ61)ねん10がつ15にち59さつ
入力にゅうりょく鈴木すずき厚司あつし
校正こうせい小酒井こさかい博士はかせ
2004ねん5がつ15にち作成さくせい
2014ねん3がつ29にち修正しゅうせい
青空あおぞら文庫ぶんこ作成さくせいファイル:
このファイルは、インターネットの図書館としょかん青空あおぞら文庫ぶんこ(http://www.aozora.gr.jp/)つくられました。入力にゅうりょく校正こうせい制作せいさくにあたったのは、ボランティアのみなさんです。




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