インタビュー中の小渡さん。AARの事務所にて2018年冬。
こわたり・みちこ
1942年東京都世田谷区生まれ。4人兄弟で上に兄と2人の姉がいる。鎌倉市材木座に育つが、高校卒業と同時に世田谷に戻る。都立大学国文科で国語学を専攻し、卒業後は私立高校で国語教師として教鞭を執る。卒業の1年後に、大学のワンダーフォーゲル部の先輩と結婚。結婚1年後、長男の誕生を機に高校を退職する。その後、長女、次男も誕生。船会社に勤める夫の転勤にともない、1972年に家族5人で渡米。
アメリカ生活の中で
船会社に勤める夫の転勤で1981年から4年近くシアトルに駐在しました。
中学2年生の長男、中学1年生の長女、小学校4年生の次男と一緒でした。
ここでは複数の形態で英語を勉強しました。
コミュニティカレッジと言われる短大のような学校のいわゆる語学教室で学んだり、、日本人5~6人で先生を呼んで学習したり、個人レッスンを受けたり。
主婦として母としてアメリカ社会という異文化の中でしっかり暮らすには、コミュニケーションの手段として言葉を学ぶ必要があったのです。
学校からの通知が分からないし、その分からないところをだれに聞けばいいかが分からないの。
どういうふうに解決したらいいかしらなんていう普段気になっていることを、個人の先生に伺いたいっていうことが多かったですね。
そのために、やっぱり自分にはマンツーマンの授業が役に立つと感じました。
難民塾「太陽」の教師に
1985年の7月に帰国して日本での生活を始めました。
帰国して初めての冬に、ある民間団体が難民の若い人たちに奨学金を出したという新聞記事が目にとまりました。
日本は難民に冷たいっていう感じばかりしていたから、初めてその記事を見てね、ああ、日本でもやっているんだぁ?と思いました。
その団体がAARだったんですけど、その時は会の名前も何にも知らずに、「日本にも難民に対して手助けしている人たちがいるんだったら、自分も手伝いたい!」と思って、すぐにその団体に手紙を出したの。
「自分は国語教師だけれども、海外生活の中で言葉で困った経験があるから、日本語を教えることなど何かそのような分野でお手伝いできないだろうか」というようなことを書きました。
その後、もし、実際に日本語を教える機会が訪れる場合に備えて、外国人に対する日本語教授法の通信講座で教授法の勉強をしながら、連絡を待っていたの。
連絡はなかなか来なかったんですけど、数カ月後、突然その団体から電話をもらいました。
1986年の5月ごろ初めてAARの目黒の事務所に出向きました。
そこで初めて、柳瀬さん、吹浦さん他何人かの方に会いました。
そして、アメリカ滞在中に、マンツーマンの英語のレッスンで自分が多くのことを学ぶことができたので、今度は、日本の生活の中で苦労している難民の人たちに、日本語教育を通して手助けができれば嬉しいと、手紙に書いたことを直接お話ししました。
あとは、何を話したかあまり覚えていません。そして、その日のうちに目黒から南新宿のマンションへ行って打ち合わせをしました。
そこがAARの難民塾「太陽」(通称「太陽塾」)の現場だったのです。
初めての打ち合わせのあと、1、2回打ち合わせがあったかもしれません。
数人でたくさん意見を出し合って基本方針を決めました。
教材も机や椅子も整わないまま、6月にはもう教え始めました。
最初のレッスンは床に座って、窓のところに自分が持って行った教材を立てて勉強したの。
でも、2週目からは、みなさんの奔走のおかげでどんどん勉強の環境が整っていきましたし、学生も教師も急激に数が増えました。
ええ?運転免許取ったの?
太陽塾で日本語を教えた学生は本当にたくさんいて、それぞれの学生のことが記憶に残っています。
最初の年に1年ほど続けて教えた学生にグエン・トルン・ハー君がいました。
日本語の授業中、何かの拍子に、ハー君が車の免許を取ったことを知って驚きました。
産経新聞か何かだったと思うんだけど、新聞社が主催のある作文コンクールに応募して1位になり、その時もらった賞金を利用して運転免許を取ったって言うの。
本当にびっくりしました。あとで、彼の作文が載った記事を太陽塾の壁に貼った記憶があります。
日本語の授業では、中学生の教科書を使って、「それ」とか「この」とか指示詞を取り上げて、それが何を指しているかを勉強したり、一般の受験ドリルを勉強したりしました。
いつだったか、「どの大学を受けたいの?」と聞いた時があったんですけど、彼は「東京工業大学(東工大)」って答えたの。
ハー君は本当に優秀な学生だったんですけど、でも、その時は、東工大はちょっと無理なんじゃないかと思って、「地方の大学も受けてみたら?」なんて私は勧めたんです。
でも、結局、彼は一発で東工大に合格したの。
すごいなって思いました。その後、大学でIT系の勉強をしている難民と日本人の学生たちが「ベトコン」(正式名は「ベトナムコンピュータ愛好会」)っていうパソコン塾を始めた時、ハー君が会長になりました(グエン・トルン・ハー君は、東工大の大学院修了後、IBMに入社。現在は、IT関係の仕事でベトナムと日本を往復している)。
一番教わったのは形容詞を教える難しさね
1年くらいでしたがブイ・クァン・サム君も強く印象に残っています。
サム君とは、日本語能力試験1級および大学受験のための小論文などを中心に勉強していました。
日本語の授業中、サム君には本当にいろいろ学ばせてもらったの。
一番教わったのは、形容詞を教える難しさね。
大学受験のために、日本語能力試験の過去問をやっていたんだけど、その時に「空港が近くにできて( )です」っていう文の( )の部分に4択の中から形容詞を選ぶ問題があったんです。
正解は「うるさい」なんだけど、彼は「全然空港がないところに空港ができたら、うるさいじゃなくて、うれしいんじゃないか」って言うのね。
「便利だ」とかね。
また、別に「怖い」っていう形容詞が出た時も、私が地震のことを例に出したら、彼は「そんなのは怖くない。
怖いっていうのは小舟が嵐の中で大波に揉まれてガタガタいう時だ」って言ったの。
それで、そうか、人はそれまでの経験によってものの感じ方がすごく違うんだなと思いました。
それまでは擬態語とか他の言語にない表現が難しいと思っていたけれど、その時からは形容詞を教えるのがちょっと怖くなったんです。
形容詞は本当に難しかった。
他に、小論文の練習で「夢」という題で作文を書いた時は、普段静かなサム君が「書けません」と言って怒ったの。
「夢」って、夜見る夢だけじゃなくて「希望」とかそういうものだって説明したら、「僕たちみたいに未来が何も分からない人に希望を書けなんて、それは無理ですよ、先生」って。
結局彼は、将来医者になりたいっていうことを作文に書いてくれたんですけどね。
それから、また別の時に『衣替え』っていう言葉を教えたことがあったんです。
ちょうど家で衣替えをしたところで、「昨日衣替えして疲れちゃった」っていう話をして「衣替え」について説明したら、「先生の言う意味は分かるけど、僕なんかいつも同じものしか着られないから……」って言われて、ずいぶん失礼なこと言っちゃったなと思ったこともあります。
日本の教科書に載ったんだよ
グエン・ホアン・ヒュン君も記憶に残っています。
ヒュン君は1990年2月にAARが出版した奨学金給付学生の文集『わが祖国、わが故郷』に「相槌言葉とベトナム人の間」という作文を寄せました。
内容は”日本人は人の話を聞く時によく相槌を打つ。
相槌を打たないと「分かりますか?」とか「聞いていますか?」とか言われてしまう。
反対に、ベトナム語で話す場合には、相手の話は静かに聞かなければならない。
もし相槌などを打つと、「うるさい」とか「君はベトナム語の話し方を忘れたのか」と言われてしまう。
こういうことは他の人たちも経験していることなのだろうか”
という、異文化の中での体験を綴った短い作文でした。
ある日(1990年4月10日)、朝日新聞の天声人語にAARの作文集『わが祖国、わが故郷』の中から日本で懸命に生きる何人かの在日難民のことが紹介されていて、ヒュン君の記事も載っていたの。
そのあとAARのニュースレター『ボランティア情報』で、ヒュン君の作文が日本の小学校5年生の道徳の国際理解を学ぶ単元の教科書で採用されたことを知りました。
それで、近所の書店でいろいろ調べもらって出版元が分かったので、そこまで行って、残っていた2、3冊の道徳の教科書をもらってきたのね。
もうヒュン君がアメリカへ行っちゃった後だったから、1冊送ってあげようと思って。副読本とはいえ、「日本の道徳の教科書に載ったんだよ?」って知らせたくてね。
太陽塾での日々は、とにかく難民の彼らが困っていることを何か一つでも困らないようにしてあげたいという一念で、手作りの教材を作ったり日本語教授法の勉強をしたりして努力しました。
学生たちとの勉強は楽しかったけれど、ただ楽しいっていうのとは少し違いましたね。
彼らから人生のいろんなことを教わりましたから。
彼らは若いけれど、国を出て、たまたま日本に来て、そして太陽塾に辿り着くまでに何年もかかっている場合が多いし、太陽塾の後も、自分の人生を整えるのにどんなに時間がかかったことか!それぞれの人生に費やす長い時間を感じる日々でした。
彼らの苦労が偲ばれます。
別のところでの日本語教師体験
お茶の水女子大学国文科出身の人たちが立ち上げた「にほんごの会」で非常勤講師をしました。
学校のあるクラスで年齢を表す助数詞を教えていた時に、例題として「あなたの妹さんは何歳ですか」と聞いたの。
そうしたら、カナダから来た一人の学生がすごく怒って、「失礼だ」って。
でも、「何歳」という表現を覚えるための例文だからと思ったけど、「そういう個人の情報を聞くような質問を作ること自体おかしい」って言われたの。
一方はAARでインドシナ難民への日本語教育、もう一方は日本語学校で留学生への日本語教育に携わる中で、とても違う経験をしました。
カルチャーセンターなどで言語や日本語教育に関する講座を受講して勉強したり、NHKの文化センターで日本語教師養成講座を受講したりもしました。
そこではそれまでのテキストと違う、もっと現実の生活に即した語彙や内容が学べる教材を作ろうということで、講座の生徒たちみんなで教科書作りも体験したんです。
教師の仕事から清掃の仕事に
家族の事情があって太陽塾は1993年で辞めたのです。
でもどうしても日本語を教えたくて、近所にある日本語学校で非常勤講師として日本語を教え始めました。
その学校で教えていくうちに資格の必要性を感じて、日本語教師のための検定試験・日本語教育能力検定試験を受験したのですが、不合格で。
日本語学校が財政難だったこともあり2年目の契約にいたりませんでした。
当時は家族のためにも資金が必要で、日本語教師の仕事を継続することを断念。代わりに、ある清掃会社から派遣されて近所のスーパーとアスレチックジムで毎日午前中に清掃の仕事を始めました。
太陽塾に通っていたほとんどの学生は、昼間働いて夜太陽塾に通っていました。
言葉が不自由なこともあって、彼らの仕事は肉体労働が多かった。
当時も、昼間働いて夜勉強に来るのは大変だろうなと想像はついていたのね。
でも、自分が実際に清掃っていう肉体労働をするようになって初めて、こんなに大変なのかと思ったの。
肉体労働と頭脳労働とは頭の使うところが違うのね。
それに、体が疲れると頭も疲れて。
初めて、太陽塾に来ていた学生たちは偉かったんだなって実感しました。
それまでは想像でしか考えてなかったことがよく分かったの。
32年目の偶然
2018年の8月カトリック町田教会のミサの時に、偶然ベトナムの老婦人と隣り合わせたの。
そして、少しお話ししたら、その方の息子さんが1980年代に10代でベトナム、サイゴンからボートピープルとして脱出して日本に辿り着いたこと、それから、日本の支援を受けて成長したことなどが分かって、びっくりしました。
この一家がベトナムを脱出するまでの体験や日本での生活については教会の会報でも詳しく紹介されたの。
そんな時、AARからのこのインタビューのオファーがきたんです。
とても不思議な偶然でした。
その偶然の出会いが、インタビューを受けようという気持ちを後押ししてくれた気がします。
この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事のき手は森戸規子。