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井伊直虎

人物じんぶつぞう

おんな城主じょうしゅ 井伊いいただしとら

いえ断絶だんぜつ危機ききがった、希代きたいの“おんな城主じょうしゅ”。
歴代れきだい当主とうしゅなか記名きめいはありませんが、がれる井伊いい歴史れきしと、
戦国せんごく時代じだいかたじょう注目ちゅうもくされる人物じんぶつです。

  • 許婚きょこんとのわかれと出家しゅっけ

    ちょくとら幼名ようみょう生年月日せいねんがっぴ不明ふめい)は、井伊いいだい22だい当主とうしゅ 直盛なおもり新野しんのひだりじょおやのりいもうととのあいだ誕生たんじょうした一人娘ひとりむすめとされています。
    直盛なおもりには嫡男ちゃくなんがなく、従弟じゅうていかめすすむ井伊いいただしおや)を一人ひとりむすめ許婚きょこんとし、井伊いい跡継あとつぎとする予定よていでした。ところが、天文てんもん13ねん(1544)、かめすすむちち井伊いいただしまん今川いまがわ謀反むほん嫌疑けんぎをかけられ殺害さつがいされ、さらに当時とうじ9さいだったかめすすむいのちねらわれたため、信濃しなの長野ながのけん下伊那しもいなぐん高森たかもりまちまつはじめてらかくすことになります。一方いっぽう許婚きょこんからはなされたちょくとらは、菩提寺ぼだいじであるりゅう潭寺にて出家しゅっけ決意けついりゅう潭寺だいせい住職じゅうしょく みなみけい和尚おしょうによって井伊いい跡継あとつぎのあかしである「次郎じろう」をかんした「次郎じろう法師ほうし」のあたえられました。

  • さからえぬ運命うんめい虎松とらまつ誕生たんじょう

    11ねん弘治こうじ元年がんねん(1555)、かめすすむ無事ぶじ井伊谷いいのやもどり、直盛なおもり養子ようしとなり「ちょくおや」とあらためます。しかし、次郎じろう法師ほうしはすでに出家しゅっけしており、ちょくおやむすばれることはありませんでした。ちょくおやふるくから井伊いい家臣かしんであった奥山おくやまむすめ結婚けっこんし、6ねん井伊いい待望たいぼう男子だんし 虎松とらまつ井伊いい直政なおまさ)が誕生たんじょうします。ところが井伊いい安泰あんたいながつづかず、虎松とらまつ誕生たんじょう直後ちょくごえいろく5ねん(1562)、今川いまがわによってちょくおや誅殺ちゅうさつされ、次郎じろう法師ほうし祖父そふにあたる井伊いいただしたいら戦中せんちゅう死去しきょ。さらに直盛なおもりぼつ井伊谷いいのや城代じょうだいつとめた中野なかの新野しんのまで戦死せんししてしまい、井伊いい男子だんしはわずか2さい虎松とらまつのみとなってしまうのです。

  • おんな城主じょうしゅ 井伊いいただしとら誕生たんじょう

    えいろく8ねん(1565)、次郎じろう法師ほうしおさな虎松とらまつまもるため、みなみけい和尚おしょう相談そうだんし『井伊いいただしとら』と名乗なのり、領主りょうしゅとなる決心けっしんかためます。“おんな城主じょうしゅ”となったちょくとら最初さいしょ直面ちょくめんしたのは、今川いまがわからされた徳政令とくせいれい※でした。すぐに徳政令とくせいれいれれば、井伊いい存続そんぞくあやういとさっしたちょくとらは、これを2年間ねんかんばすことに成功せいこうしますが、えいろく11ねん(1568)、徳政令とくせいれい実行じっこうし、ちょくとら城主じょうしゅ立場たちばうしなってしまいます。ははらすりゅう潭寺 まつだけいんせたちょくとらは、その戦況せんきょうつめることしかできなかったのです。
    領主りょうしゅ債権さいけんしゃたいし、債権さいけん放棄ほうきめいじた法令ほうれいで、鎌倉かまくら時代じだいから室町むろまち時代じだいおも農民のうみんから農地のうちまもるためにもちいられた。このとき徳政令とくせいれい井伊いいちからよわめるためにされた。

  • 家康いえやす侵攻しんこう今川いまがわ滅亡めつぼう

    ちょくとらしろいちヶ月かげつ三河みかわ徳川とくがわ家康いえやす遠江とおとうみ侵攻しんこう開始かいしし、今川いまがわりょうとなっていた井伊谷いいのやじょう引間ひきましろ堀川ほりかわしろつづけにとしていきます。ほどなく、長年ながねん井伊いい支配しはいしてきた今川いまがわ滅亡めつぼうし、井伊いいりょう運命うんめいは、徳川とくがわたい武田たけだ勢力せいりょくあらそいにゆだねられます。遠江とおとうみうつった家康いえやす武田たけだ信玄しんげんとのあいだではもとかめ3ねん(1572)さんぽうばらたたかいがこり、徳川とくがわぐんんできた武田たけだぐん大敗たいはいし、井伊いいりょうだい混乱こんらんおちいります。

  • 虎松とらまつ家康いえやす家臣かしん

    武田たけだ信玄しんげん死去しきょし、やがて武田たけだ勢力せいりょくよわまると、家康いえやす遠江とおとうみ領有りょうゆう安定あんていさせます。天正てんしょう3ねん(1575)、ちょくとらみなみけい和尚おしょうは、三河みかわ愛知あいちけん)の鳳来ほうらいてらあづけていた虎松とらまつびよせ、浜松はままつ居城きょじょうとしていた徳川とくがわ家康いえやすわせるよう画策かくさくします。家康いえやすは、ちょくとら頭陀寺ずだじ松下まつした源太郎げんたろうわれた15さい虎松とらまつ小姓こしょうとしてむかれ、まんせんだいというあたえ、井伊谷いいのや領地りょうちつことをゆるしました。

  • ちょくとら先見せんけんりょく井伊いい運命うんめいえた

    井伊いい断絶だんぜつ危機きき寸前すんぜんったちょくとらは、家康いえやすのもとで数々かずかず功績こうせきをあげていくまんせんだい勇姿ゆうし安堵あんどしながら、天正てんしょう10ねん(1582)8がつ26にち、その生涯しょうがいえました。よんじゅうすうねん生涯しょうがいだったとつたえられています。許婚きょこんはなされ、おもなやんだすえ出家しゅっけし、決死けっし覚悟かくごで“おんな城主じょうしゅ”の役目やくめ背負せおっていった井伊いいただしとら可憐かれん力強ちからづよたちばなはなのごとく運命うんめいかっていったその姿すがたは、いままた、浜松はままつ歴史れきし追憶ついおくへとさそってくれるのです。

ちょくとらをめぐる井伊いい家家いえいえ系図けいず

直虎をめぐる井伊家家系図(略図)

まめ知識ちしき

  • 井伊いい危機ききすくった 新野しんのひだりじょおやたん にいのさまのすけちかのり

    今川いまがわ家臣かしんであった新野しんのひだりじょおやのりは、遠江とおとうみこく新野しんの(げん御前崎おまえざき)の領主りょうしゅいもうと井伊いい直盛なおもりつまでありちょくとらははひだりすけ井伊いい目付めつけやく家老がろうとして井伊谷いいのや居住きょじゅうし、今川いまがわとのあいだをとりまとめ井伊いいささえた。えいろく5ねん(1562)、今川いまがわより2さいになった虎松とらまつ誅殺ちゅうさついのちされたさいには、虎松とらまつ助命じょめい嘆願たんがんし、井伊いい危機ききすくったといわれる。ひだりすけえいろく7ねん(1564)、引間ひきましろめで無念むねんげた。

  • はちまえ はちさき 神社じんじゃ所蔵しょぞう ちょくとら書状しょじょう

    浜松はままつ博物館はくぶつかんには、井伊いいただしとら花押かおうしるされた唯一ゆいいつ古文書こもんじょ井伊いいただしとら関口せきぐち経連けいれん書状しょじょう」(はちぜん神社じんじゃ文書ぶんしょ指定してい文化財ぶんかざい)が保管ほかんされている。当時とうじ花押かおう身分みぶんのある男性だんせいもちいるものであった。ちょくとら男性だんせいとして振舞ふるまっていたことがわかる史料しりょう

井伊いいただしとら直政なおまさ 歴史れきし年表ねんぴょう

  • 井伊いい歴史れきし
  • 日本にっぽん歴史れきし
室町むろまち時代ときよ 1543ねん天文てんもん12) 種子島たねがしま鉄砲てっぽう伝来でんらい
1544ねん天文てんもん13) 井伊いい当主とうしゅちょくむねおとうとちょくまん直義ただよしが、家老がろう小野おの和泉いずみ守道もちだかのざんげんにより、駿府すんぷ今川いまがわ義元よしもと誅殺ちゅうさつされる。ちょくまんかめすすむ(9さい)もいのちねらわれ、信州しんしゅうかくす。
1549ねん天文てんもん18) キリスト教きりすときょう伝来でんらい 松平まつだいらたけせんだい徳川とくがわ家康いえやす)、駿府すんぷ人質ひとじちとしてはいる。
1555ねん弘治こうじもと 信州しんしゅうよりかめすすむ(20さい帰国きこく井伊いい直盛なおもり養子ようしとなり井伊いいただしおや名乗なのる。
1560ねんえいろく3) おけ狭間はざまたたかい。井伊いい直盛なおもり今川いまがわ義元よしもとしたが出陣しゅつじんおけ狭間はざまにて織田おだ信長のぶながたたか義元よしもととも討死うちじにちょくおや(25さい)が井伊いい当主とうしゅぐ。
松平まつだいら元康もとやす徳川とくがわ家康いえやす)は今川いまがわ敗戦はいせん混乱こんらんじょうじて岡崎おかざきじょう入城にゅうじょうし、今川いまがわ決別けつべつ
1561ねんえいろく4) 虎松とらまつ井伊いい直政なおまさ誕生たんじょう
1562ねんえいろく5) 井伊いいただしおや(27さい)、家老がろう小野おの但馬たじままもるのざんげんにより今川いまがわ氏真うじざねしをけ、駿府すんぷもうひらきに道中どうちゅう今川いまがわ家臣かしんめられ討死うちじに
1563ねんえいろく6) 今川いまがわ氏真うじざねいのちで、井伊いいただしおや祖父そふ井伊いいただしへい出陣しゅつじんするも急死きゅうし
1564ねんえいろく7) 井伊いい城代じょうだい中野なかの信濃しなのまもるちょくよし新野しんのひだりじょ戦死せんし
1565ねんえいろく8) 井伊いい直盛なおもりむすめ次郎じろう法師ほうし、「ちょくとら」と名乗なの地頭じとうしょくにつき、虎松とらまつ(4さい)の後見人こうけんにんとなる。
1568ねんえいろく11) 今川いまがわ氏真うじざね井伊いいりょうした徳政令とくせいれい実行じっこうする。これによりちょくとら地頭じとうしょく廃止はいしされ、家老がろう小野おの但馬たじままもる井伊いいりょう支配しはい直後ちょくご徳川とくがわ家康いえやす遠江とおとうみ侵入しんにゅうし、井伊谷いいのやじょう接収せっしゅうする。虎松とらまつ三河みかわ鳳来ほうらいてらのがれる。
1569ねんえいろく12) 今川いまがわ滅亡めつぼう
1570ねんもとかめもと 徳川とくがわ家康いえやす居城きょじょう浜松はままつじょううつす。
1572ねんもとかめ3) 三方みかたばらたたかいで徳川とくがわ家康いえやす武田たけだ信玄しんげん大敗たいはいする。
1573ねんもとかめ4) 足利あしかが幕府ばくふ崩壊ほうかい井伊谷いいのや武田たけだぐんによりはらわれる。武田たけだ信玄しんげん病死びょうし
戦国せんごく時代じだい 1574ねん天正てんしょう2) 虎松とらまつ(14さい)、ちち井伊いいただしおや13回忌かいき法要ほうようのため鳳来ほうらいてらより井伊谷いいのや帰還きかん
1575ねん天正てんしょう3) 虎松とらまつ(15さい)、徳川とくがわ家康いえやす士官しかんみとめられ、まん千代ちよあらためる。長篠ながしのたたかい。
1576ねん天正てんしょう4) まんせんだい夜中よなか徳川とくがわ家康いえやす寝所ねどこしのはいったてき手柄てがら
1578ねん天正てんしょう6) まんせんだいせん手柄てがらをあげ、いちまんせき加増かぞう
1579ねん天正てんしょう7) 家康いえやす正室せいしつ築山殿ちくやまどの佐鳴湖さなるこほとり殺害さつがい嫡男ちゃくなん松平まつだいら信康のぶやす二俣ふたまたじょう自害じがい
1582ねん天正てんしょう10) 本能寺ほんのうじへんで、織田おだ信長のぶなが明智あけち光秀みつひでたれる。
まんせんだい信長のぶながまねきでさかいにいた徳川とくがわ家康いえやすまもって決死けっし伊賀越いがごええ。無事ぶじ岡崎おかざき帰着きちゃくし、家康いえやすより孔雀くじゃく陣羽織じんばおりたまわる。
まんせんだい出世しゅっせ見守みまもりながら、ちょくとら逝去せいきょ
まんせんだい元服げんぷく井伊いい直政なおまさ名乗なのる。
1584ねん天正てんしょう12) 小牧こまき長久手ながくてたたかい。直政なおまさ武功ぶこうろくまんせき加増かぞうしょ大名だいみょうから「井伊いいあかおに」とおそれられる。
1585ねん天正てんしょう13) 秀吉ひでよし関白かんぱくとなる。
1590ねん天正てんしょう18) 小田原おだわらじん北条ほうじょう氏政うじまさ北条ほうじょう氏直うじなお父子ふし降伏ごうぶくさせ、名実めいじつともに秀吉ひでよし天下てんか統一とういつたされた。
直政なおまさ家康いえやす関東かんとううつりふうともない、上野うえのこく(こうずけのくに)12まんせきあたえられ、箕輪みのわ(みのわ)しろ城主じょうしゅとなる。このとき徳川とくがわ家臣かしんだんなか最高さいこうろくだかる。
1598ねん慶長けいちょう3) 豊臣とよとみ秀吉ひでよし死没しぼつ
1600ねん慶長けいちょう5) 関ヶ原せきがはらたたか
1601ねん慶長けいちょう6) 直政なおまさ佐和山さわやま城主じょうしゅとなる。
1602ねん慶長けいちょう7) 直政なおまさ関ヶ原せきがはらたたかいのきずがもとで死没しぼつ
1603ねん慶長けいちょう8) 徳川とくがわ家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなり江戸えど幕府ばくふをひらく。
1607ねん慶長けいちょう12) 井伊いいただしつぎ彦根城ひこねじょう完成かんせいさせる。

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