地動説ちどうせつ

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地動説ちどうせつ

地動説ちどうせつ(ちどうせつ)とは、宇宙うちゅう中心ちゅうしん太陽たいようであり、地球ちきゅうはほかの惑星わくせいとともに太陽たいようまわりを自転じてんしながら公転こうてんしているという学説がくせつのこと。宇宙うちゅう中心ちゅうしん地球ちきゅうであるとする天動説てんどうせつ地球ちきゅう中心ちゅうしんせつ)にたいする学説がくせつである。太陽たいよう中心ちゅうしんせつHeliocentrism」ともいうが、地球ちきゅううごいているかどうかと、太陽たいよう地球ちきゅうのどちらが宇宙うちゅう中心ちゅうしんであるかはことなる概念がいねんであり、地動説ちどうせつは「Heliocentrism」の訳語やくごとして不適切ふてきせつだとの指摘してきもある。聖書せいしょ解釈かいしゃく地球ちきゅううごくかどうかという問題もんだい関係かんけいしていたが、地球ちきゅう中心ちゅうしんせつがカトリックの教義きょうぎであったことはなかった[1]地動説ちどうせつ太陽たいよう中心ちゅうしんせつ確立かくりつ過程かていは、宗教しゅうきょう(キリストきょう)にたいする科学かがくしゃ勇壮ゆうそう闘争とうそうというモデルでかたられることがおおいが、これは19世紀せいき以降いこうつくられたストーリーであり、事実じじつとはことなる[1]

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい地動説ちどうせつ[編集へんしゅう]

地動説ちどうせつ下部かぶ)、天動説てんどうせつ上部じょうぶ)の 2つの比較ひかく

紀元前きげんぜん4世紀せいきアリストテレス時代じだいからコペルニクス登場とうじょうする16世紀せいきまで、地球ちきゅう宇宙うちゅう中心ちゅうしんにあり、まわりの天体てんたいうごいているという天動説てんどうせつしんじられてきた。そもそも古代こだいにおいて、実際じっさい自分じぶんて、1にち1太陽たいよう地平線ちへいせんうえのぼり、そして地平線ちへいせんくだり、太陽たいよう以外いがい天体てんたいおなじようにうごいている以上いじょう、その現象げんしょうをそのままって解釈かいしゃくするのが普通ふつうであった。

しかしながらつきかんしてはほかの天体てんたいうごきがことなること、さらに天体てんたい観測かんそく発達はったつすると惑星わくせいがほかの天体てんたいちがったうごきをとり、さらに時折ときおり天球てんきゅうじょうぎゃく方向ほうこううごくことも認識にんしきされた(逆行ぎゃっこう)。

そうしたなかコペルニクスよりも以前いぜん地球ちきゅううごいているとかんがえたものがいた。有名ゆうめいなところでは紀元前きげんぜん5 - 4世紀せいき前後ぜんこうフィロラオスで、かれ宇宙うちゅう中心ちゅうしん中心ちゅうしんがあり、地球ちきゅう太陽たいようふくめてすべての天体てんたいがそのまわりを公転こうてんするとかんがえた。

とく傑出けっしゅつしていたのは、紀元前きげんぜん3世紀せいきのイオニア時代じだい最後さいごアリスタルコスである。かれは、地球ちきゅう自転じてんしており、太陽たいよう中心ちゅうしんにあり、5つの惑星わくせいがそのまわりを公転こうてんするというせつとなえた。かれせつすぐれているのは、太陽たいよう中心ちゅうしんえ、惑星わくせい配置はいちをはっきりと完全かんぜんしめしたことである。これはたんなる「太陽たいよう中心ちゅうしんせつ」というおもいつきをえたもので、惑星わくせい逆行ぎゃっこう完璧かんぺき説明せつめいできるのである。これはほとんど「科学かがく」と水準すいじゅんたっしている。紀元前きげんぜん280ねんにこのせつとなえられて以来いらい、コペルニクスが登場とうじょうするまでの1800ねんものあいだ人類じんるいはアリスタルコスの水準すいじゅんたっすることはなかった[2]

なお、後世こうせいレオナルド・ダ・ヴィンチもまた、地動説ちどうせつかんする内容ないようを「レスターしゅ稿こう」にしるしている。

ひろ意味いみではこれらも地動説ちどうせつ太陽たいよう中心ちゅうしんせつ)にはいる。

天動説てんどうせつ優勢ゆうせい[編集へんしゅう]

2世紀せいきにはアポロニウスヒッパルコスクラウディオス・プトレマイオス天動説てんどうせつ体系たいけいした。かれらはけっして迷信めいしん宗教しゅうきょうてきかんがえから天動説てんどうせつとなえたのではなく、当時とうじられていた知見ちけんもとづき、科学かがくてき合理ごうりてき解釈かいしゃく帰結きけつとして天動説てんどうせつとなえた。これにたいし、アリスタルコスの地動説ちどうせつでは、なぜそらんでいるとり地球ちきゅう自転じてんのこされないのか、なぜまっすぐうえげたいし地球ちきゅう自転じてんのこされずにもと位置いちちてくるのか、その説明せつめいができなかったことが弱点じゃくてんとされた。また、アポロニウスの提唱ていしょうしたしたがええんしゅうてんえん概念がいねん、さらにプトレマイオスの提唱ていしょうしたエカント概念がいねんて、天動説てんどうせつ当時とうじ天体てんたい観測かんそく精度せいどにおいて、惑星わくせい逆行ぎゃっこうをほぼ完璧かんぺき説明せつめいすることができた。

とはいえ、おかしなところは存在そんざいした。たとえば

  • 5つの惑星わくせいのすべての軌道きどう計算けいさんに、かならず「1ねん」という単位たんいてくる[3]
  • 惑星わくせい順序じゅんじょ何故なぜそのじゅんであるかという根拠こんきょ提示ていじ不明瞭ふめいりょう
  • 火星かせい逆行ぎゃっこうかんしては、やや誤差ごさおお

などがげられる。しかし、これらの現象げんしょう説明せつめいし、精密せいみつ惑星わくせい位置いち予報よほうできるほかのせつはなかなかあらわれなかった。

また、ヨーロッパでは古代こだいギリシア時代じだい以降いこう科学かがく停滞ていたいし、西にしマ帝国まていこく滅亡めつぼう暗黒あんこく時代じだいむかえることになる。後述こうじゅつするようにヨーロッパにおいて科学かがくふたた隆盛りゅうせいするのはルネッサンス以降いこうである。

こうした理由りゆうで、科学かがくてき難点なんてんふくみながらも16世紀せいきまで天動説てんどうせつ支持しじされた。天体てんたい観測かんそく精度せいど向上こうじょうするにつれてプトレマイオスの体系たいけいとの乖離かいりられるようになったが、しゅうてんえんうえにさらにしゅうてんえんかさねることで、説明せつめいされた。16世紀せいきにはコペルニクス地動説ちどうせつ提唱ていしょうするも、天体てんたい観測かんそく精度せいどにおいては天動説てんどうせつまさるものではなかった。

だい航海こうかい時代じだい[編集へんしゅう]

天動説てんどうせつ体系たいけいながらくしんじられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確めいかくしてきた。

だい航海こうかい時代じだい以前いぜん船舶せんぱく運航うんこうはもっぱら沿岸えんがん航海こうかいであり、陸地りくちえる範囲はんいかぎられ、なに目印めじるしのない遠洋えんよう航行こうこうすることができなかった。羅針盤らしんばん登場とうじょうしたことで陸地りくちはなれた航行こうこう可能かのうとなり、方位ほうい磁石じしゃく正確せいかく星図せいずがあれば遠洋えんようでも自分じぶん緯度いど正確せいかく把握はあくできるようになった。しかし当時とうじほしひょうには問題もんだいがかなりあった[4]とく惑星わくせい位置いちすう単位たんいでの誤差ごさつねにあった。

さらに、もうひとつ問題もんだいしょうじつつあった。当時とうじ使用しようされていたユリウスれきの1ねんは、観測かんそくされる1ねんよりわずかにながかったのである。この結果けっか紀元前きげんぜん45ねん制定せいてい以来いらい1000ねん以上いじょうつうちにこよみ天体てんたい運行うんこうにずれがしょうじ、たとえばこよみうえ春分しゅんぶんが3月21にちであるのにたいして、実際じっさい観測かんそくされる春分しゅんぶん10日とおかはやい3がつ11にちとなっていた。春分しゅんぶんは、キリストきょうでもっとも重要じゅうよう行事ぎょうじひとつである復活ふっかつさい日付ひづけ計算けいさんするうえで基準きじゅんとなるであり、これが10日とおかもずれているのは問題もんだいがあった。この問題もんだいロジャー・ベーコンによって提起ていきされていたが、やく300年間ねんかん放置ほうちされていた。

一般いっぱんう1ねん厳密げんみつには回帰かいきねんであり、その定義ていぎは、ぶんてんまたはいたりてんからつぎどうぶんてんまたはいたりてんまでの時間じかんである。しかし、16世紀せいき当時とうじしんじられていたプトレマイオスの体系たいけいでは、1ねんというはほかの天文学てんもんがくてきからは孤立こりつした独立どくりつりょう[3]太陽たいよう位置いちすうじゅうねんからすうひゃくねん以上いじょうかけて測定そくていする以外いがいに、1ねん決定けっていする方法ほうほうがなかった。クーンによれば、この観測かんそくには大変たいへん困難こんなんともない、改暦かいれき問題もんだいは16世紀せいき以前いぜん天文学てんもんがくしゃたちをつねなやませることになった。

コペルニクスの登場とうじょう[編集へんしゅう]

ニコラウス・コペルニクス。16世紀せいき地動説ちどうせつとなえ、ほし軌道きどう計算けいさんおこなった。

カトリック教会きょうかい司祭しさいであったニコラウス・コペルニクスは、この誤差ごさ着目ちゃくもくした。かれ地動説ちどうせつしんプラトン主義しゅぎ太陽たいよう信仰しんこうとしてとらえていたとわれ[5]、そのような宗教しゅうきょうてき理由りゆうから、かれにとって正確せいかくでない1ねんながさが使つかわれつづけることは重大じゅうだい問題もんだいだった。コペルニクスはアリスタルコス研究けんきゅうっており、太陽たいよう中心ちゅうしんき、地球ちきゅうがそのまわりを1ねんかけて公転こうてんするものとして、1恒星こうせいねんを365.25671にち、1回帰かいきねんを365.2425にち算出さんしゅつした。1ねんが2種類しゅるいあるのは、1ねん基準きじゅん太陽たいよう位置いちにとるか、ほかの恒星こうせい位置いちにとるかのちがいによる。

コペルニクスは1543ねんぼっする直前ちょくぜんかれ思索しさくをまとめた著書ちょしょ天体てんたい回転かいてんについて』を刊行かんこうした。そこでは地動説ちどうせつ測定そくてい方法ほうほう計算けいさん方法ほうほうをすべてしるした。こうしてだれでもおな方法ほうほうで1ねんながさや、かく惑星わくせい公転こうてん半径はんけい測定そくていなおせるようにした。コペルニクスが地動説ちどうせつ創始そうししゃとされるのは、このように検証けんしょうおこなったためである[6]

またこの業績ぎょうせきについて、ガリレオ・ガリレイから「太陽たいよう中心ちゅうしんせつ復活ふっかつさせた」とひょうされた[2]

コペルニクス以降いこう学説がくせつ[編集へんしゅう]

そのローマ教皇きょうこうグレゴリウス13せいによって1582ねんグレゴリオれき作成さくせいされるが、改暦かいれき理論りろんにはコペルニクスの地動説ちどうせつられなかった。プトレマイオスの天動説てんどうせつれられていない。

しかし、コペルニクスが著書ちょしょはじめてラテン語らてんご紹介しょうかいしたアラビア天文学てんもんがくつき運行うんこう理論りろん算出さんしゅつした1ねんは、改暦かいれきさい参考さんこうにされた。なお、このつき運行うんこう理論りろんは、アラビアとは独立どくりつにコペルニクスがさい発見はっけんしたというせつもある。

コペルニクスの地動説ちどうせつ[編集へんしゅう]

理論りろん[編集へんしゅう]

コペルニクスの地動説ちどうせつは、たん天動説てんどうせつ中心ちゅうしん地球ちきゅうから太陽たいよう位置いちてき変換へんかんしただけのものではない。地動説ちどうせつでは、1つの惑星わくせい軌道きどう惑星わくせい軌道きどう固定こていしている。また、地球ちきゅうふくぜん惑星わくせい公転こうてん半径はんけい公転こうてん周期しゅうきたがいに関連かんれんしあっている。かく惑星わくせい公転こうてん半径はんけいは、地球ちきゅう公転こうてん半径はんけいとの決定けっていされる。同様どうように、地球ちきゅうかく惑星わくせい距離きょり算出さんしゅつできる。これが、プトレマイオスの天動説てんどうせつとのおおきなちがいである。プトレマイオスの天動説てんどうせつでは、どんなかたちでも、惑星わくせいあいだ距離きょり測定そくていすることはできなかった。また、地動説ちどうせつではかく惑星わくせい公転こうてん半径はんけい公転こうてん周期しゅうきは、ぜん惑星わくせい相互そうご関連かんれんしているため、どこかのすこしでもわると全体ぜんたい体系たいけいがすべてくずれてしまう[7]。これも、プトレマイオスの天動説てんどうせつにはないおおきな特徴とくちょうである。この、一部分いちぶぶんでもわずかな変更へんこうみとめない体系たいけいができあがったことが、コペルニクスにこのせつ真実しんじつだと確信かくしんさせた理由りゆうだとかんがえる研究けんきゅうしゃおおい。

コペルニクスの地動説ちどうせつでは、惑星わくせいは、太陽たいよう中心ちゅうしんとする円軌道えんきどうじょう公転こうてんする。惑星わくせい太陽たいようからちかじゅん水星すいせい金星かなぼし地球ちきゅう火星かせい木星もくせい土星どせいじゅんである[注釈ちゅうしゃく 1]公転こうてん周期しゅうきみじか惑星わくせい太陽たいようからちかくなっている。ただし、実際じっさいには、単純たんじゅん円軌道えんきどうだけではかく惑星わくせいこまかいうごきを説明せつめいできず、コペルニクスの著書ちょしょでは、しゅうてんえん中心ちゅうしんからはずれた太陽たいようつづもちいられた[1]実際じっさいには惑星わくせい軌道きどうえんではなく楕円だえんであり、単純たんじゅんえんでは運動うんどう説明せつめいがつかなかったためだが、コペルニクスは惑星わくせい運動うんどうがいくつかの円運動えんうんどう合成ごうせい説明せつめいできるとしんじ、楕円だえん軌道きどう気付きづくことはなかった[注釈ちゅうしゃく 2]。『天体てんたい回転かいてんについて』はかれ直前ちょくぜん出版しゅっぱんされたが、コペルニクスがおそれたような批判ひはんこらなかった[1]ほんまれたが、ほとんどの読者どくしゃ説得せっとくされず、支持しじしゃはほぼいなかった[1]。コペルニクスの著書ちょしょは、どちらかというと理論りろんしょちかく、1ねんながさを算出さんしゅつすることはできても、5つの惑星わくせいうごきを完全かんぜん計算けいさんする方法ほうほうしるされていなかった。かれ理論りろんはそれまでの地球ちきゅう中心ちゅうしんせつより観測かんそくデータと適合てきごうするということも、自然しぜんがくてきてシンプルだということもなかった。うご地球ちきゅうというものが基礎きそてき自然しぜんがく常識じょうしき、おそらく聖書せいしょ衝突しょうとつしており、かれせつ真実しんじつだとかんがえることは困難こんなんだった[1]物体ぶったい宇宙うちゅうのもっともひく地点ちてんである宇宙うちゅう中心ちゅうしん自然しぜん落下らっかするとかんがえられていたが、コペルニクスのせつでは、地球ちきゅう太陽たいようほう落下らっかしない理由りゆうはわからなかった[1]。また地球ちきゅうが24あいだいち回転かいてんするなら非常ひじょう高速こうそくうごいているはずであるが、うごきをかんじることはできず、そらとりりにされることもなかった。地球ちきゅう太陽たいようまわりをまわるならほし々は視差しさしめすはずだが、視差しさ観察かんさつされなかった。視差しさがないということは、地球ちきゅううごいていないか、恒星こうせい不可解ふかかいなほどとおくにあるということをしめしていた。視差しさがなく、地球ちきゅううごいていると仮定かていするならば、恒星こうせいはもっともみじか見積みつもっても2,400おくキロメートルの彼方かなたにあることになるが、その遠大えんだい空隙くうげき読者どくしゃにとって不可解ふかかいなものであった[1]

コペルニクス地動説ちどうせつ[編集へんしゅう]

以上いじょう理由りゆうにより、コペルニクスの体系たいけい真実しんじつかんがえるひとはほとんどいなかったが、そもそも当時とうじおおくの天文学てんもんがくしゃは、太陽たいよう地球ちきゅうのどちらが宇宙うちゅう中心ちゅうしんであるかを確実かくじつ説明せつめいできるとはかんがえていなかった[1]かれらがほっしていたのは理論りろんしょではなく、ひょうにある数値すうちをあてはめて計算けいさんすれば惑星わくせい月齢げつれい計算けいさんできるより簡便かんべんほしひょうであった。当時とうじ占星術せんせいじゅつ気象きしょう予測よそく医療いりょうにおいて実用じつようてきおおきな意味いみっており、過去かこ現在げんざい未来みらい惑星わくせい位置いちぶん単位たんい計算けいさんする必要ひつようがあったためである。惑星わくせい位置いち決定けっていするためのひょう太陽たいよう中心ちゅうしん体系たいけいほう簡単かんたんであり、コペルニクスの体系たいけい便利べんり虚構きょこうとして利用りようされた[1]

コペルニクスの著書ちょしょでは計算けいさん必要ひつようがあちこちにらばってしるされており、その著書ちょしょだけで惑星わくせい位置いち予報よほうおこなうのは困難こんなんであったため、1551ねんエラスムス・ラインホルトがコペルニクスせつれた『プロイセンほしひょう』を作成さくせいした。しかし、プトレマイオスの天動説てんどうせつよりもしゅうてんえんかずおおいために計算けいさん煩雑はんざつであった。また誤差ごさもわずかにプロイセンほしひょうほうちいさいとはいえ、プトレマイオスせつたいしてわらなかった。惑星わくせい位置いち計算けいさんにはそれ以降いこう天動説てんどうせつもとづいてつくられたアルフォンソほしひょう並行へいこうして使つかわれつづけた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソほしひょうはこの時代じだいにプロイセンほしひょうってわられたと主張しゅちょうしている。

それまで惑星わくせい位置いち予報よほうはプトレマイオスせつ使用しようしなければおこなえなかった。ほかにも方法ほうほう考案こうあんされたこともあったが、プトレマイオスせつをしのぐ精度せいど予報よほうができるものは存在そんざいしなかった。しかし、コペルニクスせつもとづいて同等どうとう以上いじょう精度せいど惑星わくせい位置いち予報よほうおこなえることがかったこの時代じだいに、唯一ゆいいつ絶対ぜったいであったプトレマイオスせつ地位ちいおおきくらいだ。

ティコ・ブラーエは、恒星こうせいとししゅう視差しさ当時とうじ望遠鏡ぼうえんきょうでは観測かんそくできなかったことから、地球ちきゅうまっているとしたが、太陽たいようは5つの惑星わくせいしたがえて地球ちきゅうまわりを公転こうてんするという折衷せっちゅうあんとなえた。最初さいしょ地動説ちどうせつ賛同さんどうした職業しょくぎょう天文学てんもんがくしゃは、コペルニクスの直接ちょくせつ弟子でしレティクスをのぞけばヨハネス・ケプラーだった。[注釈ちゅうしゃく 3]1597ねん、『宇宙うちゅう神秘しんぴ』を公刊こうかん。コペルニクスせつ完全かんぜん賛同さんどうすると主張しゅちょうしてコペルニクスを擁護ようごした。これらに追随ついずいするかたちで、ガリレオ・ガリレイもまた地動説ちどうせつとなえた。

ガリレオ・ガリレイは、地動説ちどうせつ有利ゆうり証拠しょうこおおつけた。まず実験じっけんによって慣性かんせい法則ほうそく発見はっけんした。これはアポロニウス、ヒッパルコス、プトレマイオスらが地動説ちどうせつ否定ひていした根拠こんきょである、なぜそらんでいるとり地球ちきゅう自転じてんのこされないのか、なぜまっすぐうえげたいし地球ちきゅう自転じてんのこされずにもと位置いちちてくるのかを、合理ごうりてき説明せつめいするものであった。そして実際じっさい天体てんたい観測かんそくにおいて、木星もくせい衛星えいせい発見はっけんし、地球ちきゅううごくならつきのこされてしまうだろうという地動説ちどうせつへの反論はんろんふうじた。また、ガリレオは金星かなぼしけも観測かんそくした。これは、地球ちきゅう金星かなぼし距離きょり変化へんかしていることをしめすものだった。さらに太陽たいよう黒点こくてん観測かんそくし、太陽たいようもまた自転じてんしていることをしめした。ガリレオはこれらを論文ろんぶん発表はっぴょうした。これらはすべて、地動説ちどうせつ有利ゆうり証拠しょうことなった。ガリレオはしお干満かんまん地動説ちどうせつ証拠しょうこおもっていたが、のちにしお干満かんまんつき引力いんりょくによるものだとして否定ひていされた。

ガリレオ裁判さいばん[編集へんしゅう]

ジョンズ・ホプキンス大学だいがく科学かがく教授きょうじゅローレンス・M・プリンチペ英語えいごばんは、「ガリレオと教会きょうかい」は神話しんわ誤解ごかいちたエピソードであると指摘してきしている[1]知的ちてき政治せいじてき個人こじんてき問題もんだいからみあってきた事件じけんであり、いまだ完全かんぜん解明かいめいされていないが、「宗教しゅうきょうたい科学かがく」という単純たんじゅん構図こうずではなかったことがかっている[1]科学かがく宗教しゅうきょう対立たいりつという構図こうずは、19世紀せいき科学かがくしゃによってつくられたストーリーである[1]

地球ちきゅう中心ちゅうしんせつがカトリック教会きょうかい正式せいしき教義きょうぎであったことはなく、教会きょうかい地球ちきゅう中心ちゅうしんせつ太陽たいよう中心ちゅうしんせつのどちらが真実しんじつかという問題もんだい直接ちょくせつ利害りがい関係かんけいっていなかった。ガリレオの支持しじしゃ反対はんたいしゃ教会きょうかいなかそと両方りょうほう存在そんざいしており、ガリレオの最初さいしょ主要しゅよう支持しじしゃはイエズスかい天文学てんもんがくしゃたちであった[1]宗教しゅうきょう裁判所さいばんしょがガリレオにした地球ちきゅう運動うんどう撤回てっかいするようにという命令めいれいは、タイミングのわるさや政治せいじてき陰謀いんぼう教会きょうかい派閥はばつあらそい、聖書せいしょ解釈かいしゃくけん友人ゆうじんだったローマ教皇きょうこうウルバヌス8せい(マッフェオ・バルベリーニ)とのいさかいなどからこったとかんがえられている[1]聖書せいしょ解釈かいしゃくけんゆうしているのは教会きょうかいであったが、「うご地球ちきゅう」が聖書せいしょ解釈かいしゃくかかわっており、ガリレオは1610年代ねんだいにこの問題もんだいについて、自説じせつ擁護ようごするために性急せいきゅう口出くちだしをしていた[1]自分じぶん主張しゅちょうとおすために伝統でんとうてき解釈かいしゃく拒否きょひするというやりかたは、どう時代じだいプロテスタントていた[1]。ガリレオはウルバヌス8せいと、太陽たいよう中心ちゅうしんせつ地球ちきゅう運動うんどうあきらかな証拠しょうこるまで仮説かせつとしてあつかうという約束やくそくをし、『天文てんもん対話たいわ』を許可きょか[1]。しかし、ヴァチカンの許認可きょにんかかん検閲けんえつかん承認しょうにんほんると、ウルバヌス8せいは、約束やくそくした内容ないよう最終さいしゅうページでわずかにれられるのみで、しかも道化どうけやくえんじた人物じんぶつからかたられていることをった[1]さんじゅうねん戦争せんそうかんする外交がいこう交渉こうしょう政争せいそう批判ひはん疲弊ひへいしていたウルバヌス8せい侮辱ぶじょくされたとかんじて激怒げきどし、宗教しゅうきょう裁判所さいばんしょによる司法しほう取引とりひき提案ていあんこばみ(司法しほう取引とりひきみとめられれば、ガリレオは軽微けいびつみとされ自宅じたくされるはずだった)、ガリレオに地球ちきゅう運動うんどう撤回てっかいするようにめいじ、ガリレオはこれに同意どういした[1]。しかしウルバヌスのおいふく枢機卿すうききょうたちすうにんは、ガリレオの判決はんけつぶん署名しょめいすることを拒否きょひしており、教会きょうかい総意そういでなかったことがわかる[1]

その、ガリレオはトスカーナにある自分じぶん別荘べっそう軟禁なんきんされ、そこで仕事しごとつづけ、弟子でしおしえ、もっとも重要じゅうようほんしん科学かがく論議ろんぎ』をいた[1]今日きょうでは、ガリレオは異端いたんとして断罪だんざいされた、投獄とうごくされたといわれることもおおいがあやまりである[1]裁判さいばんさいにガリレオが「それでも地球ちきゅうまわっている」とつぶやいたというエピソードに証拠しょうこ存在そんざいしないが、現在げんざいいたるまで象徴しょうちょうてきかたがれている。

ガリレオ裁判さいばん以降いこう[編集へんしゅう]

ガリレオの判決はんけつ影響えいきょう正確せいかくはかることはむずかしい。ルネ・デカルトなど何人なんにんかの自然しぜん哲学てつがくものは、コペルニクスせつへの確信かくしん表明ひょうめいしようとしなくなった[1]。カトリックの聖職せいしょくしゃはコペルニクス体系たいけい公然こうぜん支持しじできなくなり、ティコ・ブラーエの体系たいけいかその変形へんけいばん採用さいようした[1]。しかし一方いっぽうで、天文学てんもんがくふく科学かがくてき探究たんきゅうは、イタリアやほかのカトリックこくでもおこなわれつづけていた[1]ヨハネス・ケプラーは、かみきよしマ帝国まていこく皇室こうしつづけ数学すうがくかん宮廷きゅうていづけ占星術せんせいじゅつ)でありながら、平然へいぜん地動説ちどうせつとなつづけ、著書ちょしょがローマ教皇きょうこうちょうから禁書きんしょ指定していされても、それを理由りゆう迫害はくがいけることはなかった。

コペルニクスのせつは、天体てんたい円運動えんうんどうをするという従来じゅうらい常識じょうしきしばられており、プトレマイオスの天動説てんどうせつ同様どうようしゅうてんえんもちいて惑星わくせい運動うんどう説明せつめいしていた。ケプラーはティコ・ブラーエの観測かんそく記録きろく丹念たんねん研究けんきゅうし、惑星わくせい軌道きどう楕円だえん仮定かていするとより単純たんじゅんかつ正確せいかく軌道きどう説明せつめいできることを発見はっけんし、それをもとに『ルドルフひょう』(ルドルフほしひょう)をつくり、1627ねん公刊こうかんした。それ以前いぜんほしひょうの30ばい精度せいどつルドルフほしひょう急速きゅうそく普及ふきゅうし、教皇きょうこうちょうなんおうと、惑星わくせい位置いち地動説ちどうせつもとにしなければ計算けいさんできない時代じだいはじまりつつあった。ルドルフひょう精度せいどまえには、いまだとししゅう視差しさ観測かんそくできないという地動説ちどうせつ欠点けってんは、些細ささい問題もんだいかんがえられた。

しかし、ケプラーもガリレオも、とりがなぜのこされないのか、地球ちきゅうがなぜまらないでうごつづけているのか、という疑問ぎもんにはいまだ正確せいかくこたえがせないままでいた。ガリレオは慣性かんせい法則ほうそく発見はっけんするも、その現象げんしょうがなぜきるかの原因げんいん説明せつめいにはいたらなかった。これを完成かんせいさせるのは、アイザック・ニュートン登場とうじょう必要ひつようがあった。ニュートンが慣性かんせい定式ていしきすること、万有引力ばんゆういんりょく法則ほうそく発見はっけんすること、科学かがくにおいて原因げんいんについては仮説かせつてる必要ひつようはないとするあたらしい方法ほうほうろん提示ていじすることで、地動説ちどうせつはすべての疑問ぎもんこたえ、かつ、惑星わくせい位置いち計算けいさんによってもそのただしさを証明しょうめいできる学説がくせつとなった。

また、ガリレオやケプラーの地動説ちどうせつは、宇宙うちゅう中心ちゅうしん太陽たいようとするものであった。ニュートンの万有引力ばんゆういんりょく法則ほうそくは、惑星わくせい太陽たいよう中心ちゅうしん公転こうてんするのは、たん太陽たいよう惑星わくせいくらべて質量しつりょうがきわめておおきいからにすぎないことをしめし、太陽たいよう宇宙うちゅう中心ちゅうしんであるという根拠こんきょ存在そんざいしなかった。ニュートン以降いこう太陽たいよう宇宙うちゅう中心ちゅうしんとするかんがえにしばられていた研究けんきゅうしゃおおく、たとえばウィリアム・ハーシェル銀河系ぎんがけい円盤えんばんじょう構造こうぞうであることを発見はっけんしながら、太陽たいようがその中心ちゅうしんにあるとかんがえたが、次第しだい太陽たいようすうおおくの恒星こうせいのひとつにすぎないという認識にんしきひろまっていった。とししゅう視差しさがいまだ観測かんそくできないことは、恒星こうせい惑星わくせいよりもはるかに遠方えんぽうにあることを意味いみし、それでもなお地球ちきゅうまでひかりとどくことは、恒星こうせい太陽たいよう匹敵ひってきあるいは凌駕りょうがする規模きぼ天体てんたいであることを意味いみしていたからである。

ただし、地動説ちどうせつ証明しょうめい確固かっこたるものとするには、ジェームズ・ブラッドリー光行みつゆき発見はっけんフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベッセルによるとししゅう視差しさ観測かんそく成功せいこう必要ひつようとなる。

1992ねん、ローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せいはガリレオ裁判さいばんあやまりをみとめ、公式こうしき謝罪しゃざいした[8]。2008ねんにはマ法王まほうおうベネディクト16せいが「かれ研究けんきゅう信仰しんこうはんしていなかった」と地動説ちどうせつ公式こうしきみとめる発言はつげんおこなっている[9]

2014ねんアメリカ科学かがく振興しんこう協会きょうかいは、アメリカじんやく4にん1人ひとりは、いまだ地球ちきゅう太陽たいようまわりを公転こうてんしていることをらないという結果けっか公表こうひょうしている[10]

太陽たいよう中心ちゅうしんせつとキリストきょう[編集へんしゅう]

地動説ちどうせつについて言及げんきゅうするさいに、かならずといっていいほど、地動説ちどうせつキリスト教きりすときょう宗教しゅうきょうによって迫害はくがいされたという主張しゅちょうがされる。ローレンス・M・プリンチペは、「科学かがくしゃ」と「宗教しゅうきょう」の勇壮ゆうそうたたかいという19世紀せいき後半こうはん考案こうあんされ普及ふきゅうした闘争とうそうモデルは、現在げんざい(2011ねん)においては、科学かがく史家しかみな否定ひていしているとべている[1]。このモデルでは、歴史れきしてき状況じょうきょうただしく理解りかいすることはできないと指摘してきし、ヨーロッパ近世きんせい初期しょき自然しぜん哲学てつがくものは、自然しぜんることはかみ理解りかいすることであるとかんがえており、信仰しんこう科学かがくてき探究たんきゅう矛盾むじゅんはなかったと主張しゅちょうする[1]参考さんこうまでにプリンチペの視点してんから両論りょうろん併記へいきする。

迫害はくがいされたとされる根拠こんきょ(プリンチペは、おおくは逸話いつわであり史実しじつとはことなると主張しゅちょうする)[編集へんしゅう]

  • ニコラウス・コペルニクスは、体系たいけい斬新ざんしんさに批判ひはんることをおそれ、25ねん以上いじょう推敲すいこうつづ発表はっぴょうをためらった。発表はっぴょう直前ちょくぜんであった。
  • 天体てんたい回転かいてんについて』は、出版しゅっぱんまかされたルター牧師ぼくしアンドレアス・オジアンダーによって、コペルニクスの主張しゅちょうよわめるために「純粋じゅんすい数学すうがくてき仮定かていである」という記名きめい序文じょぶん無断むだんでつけられて刊行かんこうされた。
  • 発表はっぴょうも、地動説ちどうせつ賛同さんどうする天文学てんもんがくしゃなかった。天文学てんもんがくしゃたちがこのような行動こうどうをとったのは、迫害はくがいおそれたためである(実際じっさい事情じじょうについては#コペルニクスの地動説ちどうせつ参照さんしょうのこと)。
  • マルティン・ルターは、コペルニクスせつについて「この馬鹿者ばかもの天地てんちをひっくりかえそうとしている」とべ、地動説ちどうせつ否定ひていした。結果けっかプロテスタントでも地動説ちどうせつアイザック・ニュートン登場とうじょうまで迫害はくがい対象たいしょうとなる。
  • それまで有限ゆうげんかんがえられていた宇宙うちゅう無限むげんであると主張しゅちょうし、コペルニクスの地動説ちどうせつ擁護ようごしたジョルダーノ・ブルーノは、異端いたん審問しんもんにかけられ1600ねん火刑かけいしょされた。
  • ガリレオ・ガリレイ地動説ちどうせつとなえたために迫害はくがいされた(実際じっさい事情じじょうについては#ガリレオ裁判さいばん参照さんしょうのこと)。
  • 1616ねんローマ教皇きょうこうちょう地動説ちどうせつきんじた(史実しじつとはことなる[1])。
  • 1633ねんときローマ教皇きょうこうウルバヌス8せいは、みずかガリレオ・ガリレイたいするだい2かい宗教しゅうきょう裁判さいばん異端いたん判決はんけつくだした(異端いたんとして断罪だんざいされたというのは民間みんかん伝承でんしょうであり、実際じっさい異端いたんとして断罪だんざいされたわけでも投獄とうごくされたわけでもなく、このろん根拠こんきょ史実しじつとはことなる[1])。
  • 天体てんたい回転かいてんについて』は、1616ねんに1835ねんまでローマ教皇きょうこうちょうから禁書きんしょにされた[11]

太陽たいよう中心ちゅうしんせつが、批判ひはんされた理由りゆうであった」とするもの[編集へんしゅう]

  • キリスト教きりすときょう聖職せいしょくしゃは、大地だいちうごくことが可能かのうだと主張しゅちょうするのはかみ偉大いだいさを証明しょうめいできるため問題もんだいがないが、大地だいちうごいていると主張しゅちょうするのは、かみ偉大いだいさを否定ひていすることになるとかんがえたとされる。
  • 1539ねんにマルティン・ルターが、最初さいしょ宗教しゅうきょうてき問題もんだいとして地動説ちどうせつ批判ひはんした。ルターは旧約きゅうやく聖書せいしょヨシュア[12]でのイスラエルじんとアモリじんたたかったときにかみ太陽たいよううごきをめたという奇跡きせき記述きじゅつ矛盾むじゅんすると指摘してきした[よう出典しゅってん]
  • ガリレオ裁判さいばん最高さいこう責任せきにんしゃだったロベルト・ベラルミーノ枢機卿すうききょうは、大地だいち可動かどうせい立証りっしょうできるとしんじるが、大地だいち運動うんどう証明しょうめいできるかは疑問ぎもんおもうとべた。
  • アリストテレスながれをスコラがく学者がくしゃは、天動説てんどうせつとなえたアリストテレス理論りろん否定ひていされるのを問題もんだいしたとされる。
  • カトリック教会きょうかいが、ガリレオの『天体てんたい対話たいわ』のなかで、地動説ちどうせつとなえる貴族きぞくまけされるアリストテレス学者がくしゃローマ教皇きょうこうウルバヌス8せいをあてこすったものだとかんがえたとされる。

反論はんろん[編集へんしゅう]

上記じょうきのような「科学かがくしゃ」と「宗教しゅうきょう」の闘争とうそうというモデルはプリンチペにより否定ひていされている[1]上記じょうきのようなせつたいしては、以下いかのような反論はんろんがなされた。

  • コペルニクスが自説じせつ発表はっぴょうをためらったのは、まんいちあやまりであった場合ばあい自分じぶんカトリック教会きょうかい名誉めいよ権威けんい失墜しっついするのをおそれた[よう出典しゅってん]ためである。
  • コペルニクスの地動説ちどうせつは、写本しゃほんかたち1514ねんごろから流布るふしており、もしそれを迫害はくがい禁止きんしするのなら、刊行かんこう以前いぜん発禁はっきん焚書ふんしょになるはずである[独自どくじ研究けんきゅう?]
  • 自説じせつ発表はっぴょうをためらうコペルニクスに発表はっぴょうてたのは著名ちょめい聖職せいしょくしゃたちであり、教皇きょうこう私設しせつ秘書ひしょ教皇きょうこうクレメンス7せい枢機卿すうききょうたちのたのしみためにコペルニクス体系たいけい講義こうぎおこなっている[1]
  • コペルニクスは、死期しきちかづくまえ自説じせつ解説かいせつほんプロテスタントであった弟子でしレティクス刊行かんこうしているが、両者りょうしゃともに迫害はくがいけていない。
  • 天体てんたい回転かいてんについて』には、ローマ教皇きょうこうへの献辞けんじがある。当時とうじ献辞けんじくには相手あいて許可きょか必要ひつようだったはず[よう出典しゅってん]であり、このことからも当時とうじカトリック教会きょうかい地動説ちどうせつ迫害はくがいしなかったのはあきらかである[独自どくじ研究けんきゅう?]
  • グレゴリオれきへの改暦かいれきさいして、ローマ教皇きょうこうグレゴリオ13せい直々じきじき設置せっちした改暦かいれき委員いいんかいは、改暦かいれき必要ひつような1ねんながさの算出さんしゅつに、コペルニクスの『天体てんたい回転かいてんについて』の数値すうち使用しようした(もちろん、ほかの学者がくしゃ数値すうち使用しようした)。
  • プロテスタントであったマルティン・ルターが批判ひはんしたのは、カトリック教会きょうかいそのものである。ルターが地動説ちどうせつ批判ひはんした理由りゆうは、たん地動説ちどうせつとなえたコペルニクスがカトリック教会きょうかい司祭しさいだったためである。またルターはそうじて人文じんぶん主義しゅぎなどの古典こてん自然しぜんがく研究けんきゅうには批判ひはんてきであった。
  • 天体てんたい回転かいてんについて』(1543ねん公刊こうかん)の印刷いんさつ担当たんとうしゃはプロテスタントである。プロテスタントは前述ぜんじゅつのルターのれいかるとおり、地動説ちどうせつには当初とうしょから批判ひはんてきであった。これが影響えいきょうして無断むだん前文ぜんぶんされたとかんがえられる。
  • 地動説ちどうせつにすぐに賛同さんどうする天文学てんもんがくしゃがあまりなかったのは、コペルニクスの精度せいどわるく、天動説てんどうせつ計算けいさんしたときとくらべ、惑星わくせい位置いちがあまり正確せいかく算出さんしゅつできなかったためである。その証拠しょうこに、ヨハネス・ケプラーがもっと精度せいどのよい『ルドルフほしひょう』をすと、またたぜんヨーロッパの天文学てんもんがくしゃがこれを使つかいはじめた。
  • ジョルダーノ・ブルーノ火炙ひあぶりになったのは、太陽たいよう中心ちゅうしんだとったからではなく、同時どうじにカトリック教会きょうかいはげしく批判ひはんしたためである。また、ブルーノは天文学てんもんがくおしえた形跡けいせきはあるが、天文学てんもんがくしゃではない(天体てんたい計算けいさんなどをおこなっていない)。ブルーノのせつなか天文学てんもんがくかんする部分ぶぶんで、教会きょうかいをもっともおこらせた部分ぶぶんは、太陽たいようはその恒星こうせいおな種類しゅるいほしで、特別とくべつほしではない、また宇宙うちゅうには特定とくてい中心ちゅうしんはなく、その意味いみ地球ちきゅう特別とくべつほしでないとべた部分ぶぶんである。もちろんブルーノのこのせつまさしく、当時とうじおなじようにかんがえていた天文学てんもんがくしゃもいたとかんがえられているが、そう主張しゅちょうするもの当時とうじはまだいなかった。
  • ガリレオ裁判さいばんは、地動説ちどうせつさばいたものではなく、当時とうじ出世しゅっせしはじめていたガリレオの出世しゅっせみちざすために政敵せいてき仕組しくんだわなであり、地動説ちどうせつはそのための理由りゆう使つかわれただけである。その証拠しょうこに、地動説ちどうせつとなえて異端いたんとされた人物じんぶつは、ガリレオ以後いごだれもいない。またガリレオ以前いぜんにもいない(ブルーノの有罪ゆうざい容疑ようぎにははっきり地動説ちどうせつとはいてない)。この時代じだいローマ教皇きょうこうちょう地動説ちどうせつきんじたのは事実じじつであるが、これはガリレオを有罪ゆうざいにするために、さき理由りゆうをつける必要ひつようがあったためである[よう出典しゅってん]
  • 天体てんたい回転かいてんについて』は、1616ねんガリレオ裁判さいばんはじまる直前ちょくぜんに、禁書きんしょリストにげられたが、じゅうヶ所かしょ修正しゅうせいおこなうまでという条件じょうけんきである[11]。1620ねんには削除さくじょすべきとされた箇所かしょもうけられた[13]
  • カトリック教会きょうかい太陽たいよう教皇きょうこう象徴しょうちょうだとかんがえていたため、太陽たいよう中心ちゅうしんにあるというかんがえについては問題もんだいしなかったとされる[よう出典しゅってん]教皇きょうこうちょう1620ねんにコペルニクスの『天体てんたい回転かいてんについて』にたいして訂正ていせいもとめたときには、宇宙うちゅう中心ちゅうしんかんする記述きじゅつより地球ちきゅう運動うんどうかんする記述きじゅつ問題もんだいされたとわれている[だれによって?]

古代こだい中国ちゅうごくの「地動説ちどうせつ[編集へんしゅう]

古代こだい中国ちゅうごくにおいても、独特どくとくな「地動説ちどうせつ」が存在そんざいした。『れつ』の「杞憂きゆう」の故事こじ原文げんぶんには「われらがいる天地てんちも、無限むげん宇宙うちゅう空間くうかんのなかでれば、ちっぽけなものにすぎない」(おっと天地てんち空中くうちゅういちほそぶつ)とあり、当時とうじすでに宇宙うちゅうてきスケールのなかでは「天地てんち」でさえ微小びしょう存在そんざいだという認識にんしきがあったことがわかる(ただし、古代こだい中国人ちゅうごくじんは「天地てんち」がじつは「地球ちきゅう」であることをらなかった)。かんだい流行りゅうこうした「ぬきしょ」でも、素朴そぼく地動説ちどうせつ散見さんけんされる。たとえば『春秋しゅんじゅう』にこじつけたぬきしょには「てんひだり旋し、みぎどうす(てんひだり旋、みぎどう)」、「うごけばのり天象てんしょう(あら)わる(どうそく天象てんしょう)」とある。『尚書しょうしょ』(しょけい)のぬきしょせる「よん遊説ゆうぜい」は、大地だいち毎年まいとし東西とうざい南北なんぼくおよび上下じょうげうごいているというかい地動説ちどうせつであるが、「大地だいちつね移動いどうしているのだが、人間にんげん感知かんちできない(原文げんぶんつねどうとめひと不知ふち」)。それはちょうど、まどじた大船おおぶねっているひとには、ふねうごいていることが知覚ちかくできないようなものだ」とあわせていているてん注目ちゅうもくされる。とうやなぎはじめもとも、こうした中国ちゅうごく独特どくとく地動説ちどうせつをふまえて漢詩かんしんでいる(「てんたい」)[14]上述じょうじゅつのとおり、西洋せいようの Heliocentrism(太陽たいよう中心ちゅうしんせつ現代げんだい中国語ちゅうごくごでは「にちしんせつ」)の訳語やくごとして「地動説ちどうせつ」は不適切ふてきせつであるとする意見いけんもある。古代こだい中国ちゅうごくの「地動説ちどうせつ」は、Heliocentrism とは異質いしつ宇宙うちゅうかんではあるものの、「みぎどう」「どうそく天象てんしょう」「つねどうとめ」など明確めいかくに「どう」をく、文字通もじどおりの地動説ちどうせつであった。

中世ちゅうせいイスラム世界せかい地動説ちどうせつ[編集へんしゅう]

ウマル・ハイヤーム時代じだいのイスラムの天文学てんもんがくしゃは、すでに「太陽たいよう中心ちゅうしんせつ地動説ちどうせつ)」をっていたが、それを公言こうげんすることはイスラム教いすらむきょう正統せいとう主義しゅぎから攻撃こうげきされる危険きけんがあったためだまっていたと推測すいそくするせつがある[15]。その根拠こんきょのひとつは、ウマル・ハイヤームのよんぎょうルバイヤート)のなかつぎいちしゅである[16]

まわるこのにわれらまどいて
おもえらく そは廻転かいてん提灯ぢょうちんごとしと
太陽たいようにして世界せかい提灯ちょうちんほね
われらそのうち影絵かげえごと右往左往うおうさおう

このほか、コペルニクスの地動説ちどうせつも、じつはイスラム世界せかい天文学てんもんがくにその原型げんけいがあったと推測すいそくする学説がくせつすらある[17]

一方いっぽうアブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973ねん - 1048ねん)は、その著書ちょしょ『マスウード宝典ほうてん』にて地動説ちどうせつ記載きさいしている。また、(地動説ちどうせつかどうかは不明ふめいだが)アッバースあさマアムーン時代じだいに、アル=フワーリズミーがユーフラテスがわきた、シンジャール平原へいげんやパルミラ付近ふきん地球ちきゅう球体きゅうたいであるとの前提ぜんてい経緯けいいおよび子午線しごせんちょう測量そくりょうおこなっている(その測量そくりょう結果けっかからすると、地球ちきゅうしゅうちょうは3まん9,000キロメートル、直径ちょっけいは1まん500キロメートルとなる)。

地動説ちどうせつ日本にっぽん[編集へんしゅう]

慶長けいちょう11ねん1606ねん)にイエズスかい修道しゅうどうイルマン・ハビアンはやし羅山らざん地球ちきゅう論争ろんそうおこなっている。ファビアンは地動説ちどうせつ地球ちきゅう球体きゅうたいせつ主張しゅちょう論陣ろんじんった。このときはやし羅山らざん地動説ちどうせつ地球ちきゅう球体きゅうたいせつ断固だんことしてれず、天動説てんどうせつ地球ちきゅう方形ほうけいせつ主張しゅちょう羅山らざん勝利しょうりするということになった[18]

徳川とくがわ吉宗よしむね時代じだいキリスト教きりすときょう以外いがいかんやく洋書ようしょ輸入ゆにゅう許可きょかしたあと、徳川とくがわ家治いえはる時代じだいになって、通詞つうじ本木もとぎりょうひさしが『かずらん地球ちきゅう図説ずせつ』と『天地てんちきゅう用法ようほう』のなか日本にっぽん最初さいしょコペルニクス地動説ちどうせつ紹介しょうかいした。本木もとぎりょうなが弟子でし志筑しづき忠雄ただおが『暦象れきしょう新書しんしょ』のなかケプラー法則ほうそくニュートン力学りきがく紹介しょうかいした。画家がか司馬しば江漢こうかんが『かずらんてんせつ』で地動説ちどうせつなどの西洋せいよう天文学てんもんがく紹介しょうかいし、『かずらん天球てんきゅう』という星図せいずつくった。旗本はたもと片山かたやままつひとしえんしか)は司馬しば江漢こうかんから地動説ちどうせつのことをおしえられ、『天文てんもんりゃく名目めいもく』など地動説ちどうせつ紹介しょうかいするしょあらわしている。医者いしゃ麻田あさだ剛立ごうりゅう1763ねんに、世界せかいはじめてケプラーの楕円だえん軌道きどう地動説ちどうせつもちいての日食にっしょく日時にちじ予測よそくをした。幕府ばくふ西洋せいよう天文学てんもんがくもとづいた暦法れきほう改暦かいれきするように高橋たかはし至時よしときあいだ重富しげとみらにめいじ、1797ねんつき太陽たいよう運行うんこう楕円だえん軌道きどう採用さいようした寛政かんせいれき完成かんせいさせた。渋川しぶかわけいたすくらが、西洋せいよう天文学てんもんがく成果せいかれて天保てんぽうれき完成かんせいさせ、1844ねん寛政かんせいれきから改暦かいれきされ、明治めいじ時代じだい太陽暦たいようれき導入どうにゅうされるまで使つかわれた。

仏教ぶっきょうさかいでは、江戸前えどまえゆうろくの『てんけいあるとい』で天動説てんどうせつ紹介しょうかいされて須弥山しゅみせん宇宙うちゅうかんらいで以来いらい文雄ふみおひろしさびらが須弥山しゅみせん宇宙うちゅうかん擁護ようごおこなっていた。地動説ちどうせつ紹介しょうかい、この擁護ようご精密せいみつさをかたち展開てんかいされてゆき、えんどおり三角さんかく関数かんすうひょう作成さくせいしたり[19]数学すうがくしゃうめぶんかなえ言及げんきゅうしながら、仏教ぶっきょうてき宇宙うちゅうかん・梵暦擁護ようごしょふつこく暦象れきしょうへん』をあらわした。ここで西洋せいようこよみもインド起源きげんであることも主張しゅちょうした[20]

地動説ちどうせつのもたらしたもの[編集へんしゅう]

地動説ちどうせつたんなる惑星わくせい軌道きどう計算けいさんじょう問題もんだいのみならず、哲学てつがくしゃ科学かがくしゃらにおおきな影響えいきょうあたえた。地動説ちどうせつまれた時代じだい科学かがく革命かくめい時代じだいともいうのは、それほどまでに科学かがく全体ぜんたいあたえた、そして、科学かがく人間にんげん生活せいかつ影響えいきょうあたはじめた時代じだいであることをも反映はんえいしている。

常識じょうしきをひっくりかえす(証明しょうめいされている)新説しんせつ” を「コペルニクスてき転回てんかい」などとぶのは、その名残なごりである。また革命かくめい(Revolution)なる言葉ことばも、もとはこの科学かがく革命かくめい言葉ことばであり、のちに政治せいじ用語ようごにも転用てんようされたのである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ この時代じだい天王星てんのうせい海王星かいおうせい小惑星しょうわくせいはまだ発見はっけんされていない。
  2. ^ なお、コペルニクスの使つかった精度せいどわるく、どちらにしても楕円だえん軌道きどう発見はっけんすることは困難こんなんだった。
  3. ^ ケプラーは1599ねんにブラーエのもとおとず共同きょうどう研究けんきゅうしゃとなった。助手じょしゅという記述きじゅつもあるが、ケプラー自身じしん共同きょうどう研究けんきゅうしゃとしてむかえられた、と主張しゅちょうしており、また、ブラーエ自身じしんがケプラーにおくってのこっている書簡しょかんにも、助手じょしゅとしてむかえるという文言もんごんはない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ローレンス・M・プリンチペ ちょ科学かがく革命かくめい菅谷すがやあきら山田やまだ俊弘としひろ やく丸善まるぜん出版しゅっぱん、2014ねん
  2. ^ a b カール・セーガンしる 木村きむらしげるやく『コスモス 』 P.49 史上しじょうはつ地動説ちどうせつ ISBN 4-02-260270-8
  3. ^ a b アルマゲスト
  4. ^ 高橋たかはしやく天球てんきゅう回転かいてんろんだれまなかったコペルニクス』
  5. ^ 「コペルニクス」 - ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん、Britannica Japan。
  6. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん
  7. ^ トーマス・クーン ちょ 『コペルニクス革命かくめい常石つねいし敬一けいいち やく講談社こうだんしゃ、1989ねん
  8. ^ ローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せいがガリレオに謝罪しゃざい」『時事じじドットコム』、1992ねん10がつ31にち2021ねん2がつ14にち閲覧えつらん
  9. ^ マ法王まほうおう地動説ちどうせつはじめてみとめる/ベネディクト16せい」『四国しこく新聞しんぶん』、2008ねん12月22にち2021ねん2がつ14にち閲覧えつらん
  10. ^ 米国べいこくじんのおよそ4にん1人ひとりは「地球ちきゅう公転こうてんらず、調査ちょうさ結果けっか. AFP (フランス通信つうしんしゃ). (2014ねん2がつ15にち). https://www.afpbb.com/articles/-/3008555 2014ねん5がつ17にち閲覧えつらん 
  11. ^ a b オーウェン・ギンガリッチ ちょだれまなかったコペルニクス』早川書房はやかわしょぼう ISBN 4-15-208673-4
  12. ^ 10しょう:12せつ‐14せつ
  13. ^ ヤン・アダムチェフスキ「ニコラウス・コペルニクス」日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい
  14. ^ 加藤かとうとおるちょ怪力かいりきらんしん』pp.274-280
  15. ^ ちん舜臣しゅんしんちょ『オマル・ハイヤーム ルバイヤート』(2004ねん,集英社しゅうえいしゃ)pp.126-127
  16. ^ ちん舜臣しゅんしんわけ
  17. ^ ハワード・R・ターナーちょ, 久保くぼ儀明ぎみょうやく図説ずせつ 科学かがくむイスラム文化ぶんか』pp.138-140, ISBN 4791758641
  18. ^ 板倉いたくらきよしせん 1993a, p. 26.
  19. ^ 肥塚こいづか尚文なおふみ (1979). 西洋せいよう数学すうがく関連かんれんした外来がいらいしょ伝来でんらい(2)”. 和算わさん 26. http://www.wasan.jp/kinkikaisi/wasan026.pdf 2020ねん12月14にち閲覧えつらん. 
  20. ^ 宮嶋みやじま和彦かずひこ (2017ねん). “仏教ぶっきょう天文学てんもんがくと『ふつこく暦象れきしょうへん訳注やくちゅう作成さくせい(大阪おおさか市立しりつ科学かがくかん研究けんきゅう報告ほうこく 27, 75 - 84)” (PDF). 大阪おおさか市立しりつ科学かがくかん. 2022ねん5がつ23にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ローレンス・M・プリンチペ ちょ科学かがく革命かくめい菅谷すがやあきら山田やまだ俊弘としひろ やく丸善まるぜん出版しゅっぱん、2014ねん
  • 渡辺わたなべ正雄まさお科学かがくしゃとキリストきょう ガリレイから現代げんだいまで』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃブルーバックス〉
  • D・C・リンドバーグ&R・L・ナンバーズ ちょ&へんかみ自然しぜん 歴史れきしにおける科学かがくとキリストきょうみすず書房しょぼう
  • 板倉いたくらきよしせん大地だいち球形きゅうけいせつ発見はっけん」『科学かがくはどのようにしてつくられてきたか』、仮説かせつしゃ、1993a、13-28ぺーじISBN 4-7735-0106-5 全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:94036447