角川かどかわ地名ちめい大だい辞典じてん(旧きゅう地名ちめい) 広島ひろしま県けん 広島ひろしま市し 32 北きた荘そう(中世ちゅうせい) 鎌倉かまくら期き~戦国せんごく期きに見みえる荘園しょうえん名めい。安芸あき国安くにやす北郡ほくそぎのうち。正せい応おう2年ねん正月しょうがつ23日にちの安芸あき国こく在庁ざいちょう官かん人じん田所たどころ氏しのものとされる沙弥さや某ぼう譲状ゆずりじょうで,原郷はらごう田畠たばた6町まち3反たん60歩ほのうちに「一いち所しょ畠ばたけ二に反たん 資し俊しゅん(資し俊しゅん,墨ぼく消けし)北庄きたしょう堺さかい〈藤ふじ太作たいさく〉」と見みえ,北きた荘そうと原郷はらごうが隣接りんせつしていたことがわかる(田所たどころ文書ぶんしょ)。同どう譲状ゆずりじょうの別べつの箇所かしょに「北庄きたしょう 福田ふくだ入道にゅうどう……同どう子こ二に郎ろう男おとこ」などとあり,福田ふくだを在ざい地名ちめいとすれば,荘そう域いきは安やす北郡ほくそぎの東ひがし端はしにまで及およんでいた可能かのう性せいがある。「芸げい藩はん通どおり志こころざし」明光めいこう寺てらの項こうに,同どう寺てら蔵ぞうの法華経ほけきょう八はち巻かんについて「文治ぶんじ三年丁未十二月四日未時許,於閻浮提大だい日本国にっぽんこく安芸あき国こく北庄きたしょう深ふか河かわ書写しょしゃ畢,願主がんしゅ慶明よしあき,執筆しっぴつ僧そう定てい慶けい」と見みえ,深川ふかがわが北きた荘そう内ないであったとも考かんがえられる。しかし建けん暦れき2年ねん8月がつ19日にちの佐伯さえき考こう支ささえ・大子だいご連署れんしょ譲状ゆずりじょう案あんでは,深川ふかがわは田た門もん荘内そうないにあり(毛利もうり家か文書ぶんしょ),前出ぜんしゅつの沙弥さや某ぼう譲状ゆずりじょうでも,田た門もん荘内そうないに在ざい地名ちめい矢口やこうを冠かんする者ものが見みられる。高こう陽ひ町まち域いきにおける鎌倉かまくら期きの両りょう荘そうの地域ちいき比定ひていについてはなお検討けんとうを要ようする。大だい永なが7年ねん4月がつ24日にち大内おおうち義興よしおきは,「佐東さとう郡ぐん北庄きたしょう参まいり百ひゃく貫かん地ち」を白井しらい膳ぜん胤たねへ宛あて行いった(白井しらい文書ぶんしょ)。天文てんもん21年ねん2月がつ2日にちの毛利もうり元就もとなり・隆りゅう元もと連署れんしょ知行ちぎょう注文ちゅうもんには,「北庄きたしょう之これ内ない〈廿にじゅう五ご貫かん〉乃美のみ知行ちぎょう」とあり,さらに北きた荘そうと並ならんで,安やす北郡ほくそぎでは,岩上いわかみ・諸木もろき・末光すえみつ・久村ひさむら・馬木うまき・深川ふかがわ下分しもぶん・鈴張すずはり・可部かべの地名ちめいが見みえ,佐東さとう郡ぐんでは,安やす上下じょうげ・中洲なかす・山本やまもと・原はら・うしろ山やま・つつせ・長ちょうつか・大塚おおつか・阿おもね土はに村むら・小河内おかうちが記しるされる(毛利もうり家か文書ぶんしょ)。このことから北きた荘そうは,おおむね江戸えど期きの岩上いわかみ村むら・玖村くむら・中須なかず村むら・上安うえやす村むら・下安しもやす村むら・長束ながつか村むら・東山本あがりやまもと村むら・西山本にしやまほん村むら・東原とうばら村むら・西原いりばる村むらで囲かこまれる地域ちいきと推定すいていできる。同どう23年ねん8月がつ8日にち毛利もうり氏し奉行ぶぎょう人じんが大だい呑許済ずみへ宛あてた佐東さとう郡ぐん北きた荘内そうない打だ渡わたり坪つぼ付づけには,屋山ややま・小しょうそうけ・はすか池ち・あつかはら・黒瀬くろせなどの小しょう地名ちめいが見みえる。同年どうねん8月がつ16日にちに元就もとなりは北きた荘内そうないの地ちを伊藤いとう就祐・河野こうの通知つうち・打だ明あかり源げん六ろく(譜ふ録ろく)・福井ふくい元もと宣せん(閥ばつ閲録93)・山県やまがた采女うねめ丞すすむ(同前どうぜん161)などに宛あて行いっている。このように毛利もうり氏し支配しはいが強つよまってくる同年どうねん9月がつ晦日みそか,大内おおうち氏し奉行ぶぎょう人じんは白井しらい越えつ中ちゅう守もりに対たいして,大だい永なが7年ねん大内おおうち義興よしおきの宛あて行いった「安やす北きた郡ぐん北庄きたしょう三さん百ひゃく貫かん之の地ち」についての御ご判はん申請しんせいを認みとめ,披露ひろうを遂とげた旨むねの書状しょじょうを送おくっている(白井しらい文書ぶんしょ)。天文てんもん23年ねん11月2日にち,元就もとなりは山田やまだ満みつる重じゅうに(閥ばつ閲録山田やまだ吉兵衛きちべえの項こう),同どう24年ねん3月がつ10日にち大多和おおたわ就重に(同前どうぜん123),永えい禄ろく7年ねん12月11日にち入江いりえ就昌に(同前どうぜん54)それぞれ北きた荘内そうないの地ちを遣つかわしている。山県やまがた源右衛門げんえもん覚書おぼえがきによると,天正てんしょう17年ねん2月がつ22日にち,毛利もうり輝元てるもとは広島ひろしま築城ちくじょうの適地てきち見分けんぶんのために,吉田よしだから広島ひろしまへ出向でむいた際さい,安やす北郡ほくそぎ北きた荘しょう村むら福島ふくしま大和やまと守もり(元長もとなが)の所ところへ宿泊しゅくはくしている。同どう18年ねん12月1日にち佐東さとう郡ぐん北きた荘内そうない打だ渡わたり坪つぼ付づけには,行信ゆきのぶ・なへ山やま・けいせいた・角田つのだ・よこ柳やなぎきなどの小しょう地名ちめいが見みえ(山田やまだ家か文書ぶんしょ),同年どうねん12月がつ2日にちの佐東さとう郡ぐん温井ぬくい北きた荘そう打だ渡わたり坪つぼ付づけは,温井ぬくい・中庄なかしょう司し・北きた荘そうを範囲はんいとするもので,あきをか・窪田くぼた・柳やなぎか谷たになどの小しょう地名ちめいが記しるされている(譜ふ録ろく)。室町むろまち・戦国せんごく期きの荘そう域いきは,おおむね高こう陽ひ町まち矢口やこう・小田おだと安古市町東野やすふるいちちょうひがしの・中筋なかすじに比定ひていできるが,慶長けいちょう12年ねんに太田おおた川がわの流りゅう路ろ変更へんこうがあり,新川しんかわが荘そう域いきの中央ちゅうおうを流ながれ,分断ぶんだんすることになった。その後ご,名称めいしょうは東野とうの・中筋なかすじの側がわに継承けいしょうされている。 KADOKAWA「角川かどかわ日本にっぽん地名ちめい大だい辞典じてん(旧きゅう地名ちめい編へん)」JLogosID : 7421623