国語こくご音韻おんいんの変遷へんせん

　言語げんごは、すべて一定いっていの音おと（おん）に一定いっていの意味いみが結合けつごうして成立なりたつものであって、音おとが言語げんごの外形がいけいをなし、意味いみがその内容ないようを成なしているのである。かような言語げんごの外形がいけいを成なす音おとは、どんなになっているかを考かんがえて見みるに、箇々ここの単語たんごのような、意味いみを有ゆうする言語げんご単位たんいは、その音おとの形かたちは種々しゅじゅ様々さまざまであって、これによって、一ひとつ一ひとつ違ちがった意味いみを有ゆうする種々しゅじゅの単語たんごを区別くべつして示しめしているのであるが、その音おとの姿すがたを、それ自身じしんとして観察かんさつしてみると、一定いっていの音おとの単位たんいから成立なりたっているのであって、かような音おとの単位たんいが、或あるる場合ばあいにはただ一ひとつで、或あるる場合ばあいにはいくつか組合くみあいわされて、意味いみを有ゆうする箇々ここの言語げんご単位たんいの種々しゅじゅ様々さまざまな外形がいけいを形かたちづくっているのである。かような言語げんごの外形がいけいを形かたちづくる基本きほんとなる音おとの単位たんいは、国語こくごにおいては、例たとえば現代げんだい語ごの「あたま（頭あたま）」はア・タ・マの三みっつ、「かぜ（風ふう）」はカ・ゼの二ふたつ、「すこし（少しょう）」はス・コ・シの三みっつ、「ろ（櫓ろ）」や「を（尾お）」はそれぞれロ又またはオの一ひとつから成立なりたっている。
　かように、言語げんごを形かたちづくる基本きほんたる一ひとつ一ひとつの音おとの単位たんいは、単語たんごのように無数むすうにあるものではなく、或あるる一定いっていの時代じだいまたは時期じきにおける或あるる言げん語ご（例たとえば現代げんだいの東京とうきょう語ごとか、平安朝へいあんちょう盛時せいじの京都きょうと語ごなど）においては或あるる限かぎられた数かずしかないのである。すなわち、その言語げんごを用もちいる人々ひとびとは、或あるる一定いってい数すうの音おと単位たんいを、それぞれ互たがいに違ちがった音おととして言いいわけ聞ききわけるのであって、言語げんごを口くちに発はっする時ときには、それらの中なかのどれかを発音はつおんするのであり、耳みみに響ひびいて来きた音おとを言語げんごとして聞きく時ときには、それらのうちのどれかに相当そうとうするものとして聞きくのである。もっとも、感動かんどう詞しや擬声語ぎせいごの場合ばあいには、時ときとして右みぎの一定いってい数すう以外いがいの音おとを用もちいることがあるが、これは、特殊とくしゅの場合ばあいの例外れいがいであって、普通ふつうの場合ばあいは、一定いってい数すうの音おと単位たんい以外いがいは言語げんごの音おととしては用もちいることなく、外国がいこく語ごを取入とりいれる場合ばあいでも、自国じこく語ごにないものは自国じこく語ごにあるものに換かえてしまうのが常つねである（英語えいごの stick をステッキとしたなど）。
　かように或あるる言げん語ごを形かたちづくる音おと単位たんいは、それぞれ一いちをもって他ほかに代かえ難がたい独自どくじの用もちい場所ばしょを有ゆうする一いち定数ていすうのものに限かぎられ、しかも、これらは互たがいにしっかりと組合くみあいって一ひとつの組織そしき体たいまたは体系たいけいをなし、それ以外いがいのものを排除はいじょしているのである。
　以上いじょうのような音おと単位たんいは、一ひとつ一ひとつにはもはや意味いみを伴ともなわない、純然じゅんぜんたる音おととしての単位たんいであるが、実じつは音おと単位たんいとしてはまだ究極きゅうきょくに達たっしたものでなく、その多おおくは更さらに小ちいさな単位たんいから成立なりたつものである。例たとえばカはｋとａとに、サはｓとａとに、ツはｔとｓとｕとに分解ぶんかいせられるのであって、これらの小ちいさな単位たんいが一定いっていの順じゅんに並ならんで、それが一ひとつに結合けつごうして出来できたものである、このことは、これらの音おとを耳みみに聞きいた上うえからも、また、これらの音おとを発はっする時ときの発音はつおん器官きかんの運動うんどうの上うえからも認みとめられることであって、これらの音おとの性質せいしつを明あきらかにするには是非ぜひ知しらなければならないことであるが、しかし、かようなことを明あきらかに意識いしきしているのは専門せんもん学者がくしゃだけであって、その言語げんごを用もちいている一般いっぱんの人々ひとびとは、カ・サ・ツなどをおのおの一ひとつのものと考かんがえ、それが更さらに小ちいさな単位たんいから成立なりたつことは考かんがえていないのである。例たとえば、ナはｎとａから成立なりたち、そのｎは「アンナ」（anna）といふ語かたりのンと同おなじ音おんであるにもかかわらず、人々ひとびとは、ナとンとは全まったく別べつの音おとと考かんがえている。それ故こ、ｋａｓなどは音おとの単位たんいとしては究極きゅうきょく的てきな最もっとも基本きほん的てきなものであるけれども少すくなくとも我わが国語こくごにおいては、これらの単位たんいから成立なりたったア・タ・マなどの類るいを言語げんごの外形がいけいを形かたちづくる基本きほん的てきの音おと単位たんいと認みとめてよいと思おもう。（我わが国くににおいて、古ふるくからかような音おと単位たんいを意識いしきしていたことは、歌うたの形かたちがかような単位たんいの一定いってい数すうから成立なりたつ句くを基本きほんとしていること、ならびに、仮名かめいが、その一ひとつ一ひとつを写うつすようになっているによっても知しられる。）西洋せいようの言語げんご学がくではｋａｓのような最小さいしょうの音おと単位たんいを基本きほん的てきなものと認みとめてこれを音おとまたは音韻おんいんと名なづけ、カ・サのようなそれから成立なりたつ音おと単位たんいを音節おんせつと名なづけるが、右みぎの理由りゆうによって、我わが国くにでは、むしろ音節おんせつを基本きほん的てきなものとしてこれを音おとまたは音韻おんいんと名なづけ、これを組立くみたてる小しょうなる音おと単位たんいは単音たんおんと名なづけてこれと区別くべつすればよかろうと思おもう。
　そうして、或あるる言げん語ごを形かたちづくる音おと単位たんいは或あるる一定いってい数すうにかぎられ、その全体ぜんたいが組織そしきをなすということは、既すでに述のべたが、それは、実じつは音節おんせつについてであったが、音節おんせつを形かたちづくる単音たんおんについて見みてもまた同様どうようである故ゆえ、音節おんせつを基本きほん的てきのものと認みとめる場合ばあいにも、単音たんおんを基本きほん的てきのものと認みとめる場合ばあいにも、同様どうように、或あるる言げん語ごを形かたちづくる音おと単位たんい全体ぜんたいを音韻おんいん組織そしきまたは音韻おんいん体系たいけいとなづけてよいのである。
　さて右みぎに述のべたような音韻おんいん組織そしきは、国語こくごの違ちがいによって違ちがっているばかりでなく、同おなじ国語こくごに属ぞくする種々しゅじゅの言語げんご、例たとえば各地かくちの方言ほうげんの間あいだにも相違そういがあるのであって、それらの言語げんごを形かたちづくる箇々ここの音韻おんいんの数かずも必かならずしも同おなじでなく、一ひとつ一ひとつの音韻おんいんも必かならずしも一致いっちしない。例たとえば、東京とうきょう語ごはシとスとの二ふたつの音おとを区別くべつするのに、東北とうほく方言ほうげんでは、これを同おなじ一ひとつの音おととし、その発音はつおんは東京とうきょうのシにもスにも同おなじくない一種いっしゅの特別とくべつの音おとである。また東京とうきょう語ごのカに当あたるのは、九州きゅうしゅう方言ほうげんではカとクヮとの二ふたつの音韻おんいんであって、クヮの音おとは東京とうきょう語ごには存在そんざいしない。
　音韻おんいん組織そしきは同おなじ言語げんごにおいても時代じだいによって変化へんかする。前まえの時代じだいにおいて二ふたつの違ちがった音おとであったものが音おと変化へんかの結果けっか後ごの時代じだいに至いたって一ひとつの音おととなることがあり（イとヰは古ふるくは別べつの音おとであったのが、後のちには共ともにイの音おととなって区別くべつが失うしなわれた）、前代ぜんだいに一ひとつの音おとであったものが後代こうだいには二ふたつの別べつの音おとにわかれることもある（「うし」の「う」と「うま」の「う」とは古ふるくは同おなじウの音おとであったが、「うま」の場合ばあいは後のちには「ンマ」の音おとに変へんじて、ウとンと二ふたつの音おとになった）。また、或あるる音韻おんいんが後代こうだいにおいては全まったくかわった音おとになるものもある（「ち」は古ふるくはtiの音おとであったが、後のちには現代げんだいのごときチの音おとになった）。かように箇々ここの音おとの変化へんかによって、あるいは数かずを増ましあるいは数かずを減げんじ、あるいは一いちの音おとが他たの音おとになって、前代ぜんだいとはちがった音韻おんいん組織そしきが生しょうずるのである。
　既すんで述じゅつのごとく、箇々ここの語かたりのような、意味いみを有ゆうする言語げんご単位たんいの外形がいけいは、以上いじょうのような音おとまたは音韻おんいんの一ひとつで成立なりたつかまたは二ふたつ以上いじょう結合けつごうして成立なりたつものであるが、その場合ばあいに、或あるる音おとは語頭ごとう、すなわち語かたりの最初さいしょにしか用もちいられないとか、または語尾ごび、すなわち語かたりの最後さいごにしか用もちいられないとかいうようなきまりがあることがある。これを語頭ごとう音おとまたは語尾ごび音おんの法則ほうそくという。また、或あるる音おとと或あるる音おととは結合けつごうしないというようなきまりがあることがある。これを音おと結合けつごうの法則ほうそくという。また語かたりと語かたりとが結合けつごうして複合語ふくごうごを作つくりまたは連語れんごを作つくる時とき、その語かたりの音おとがもとのままでなく、多少たしょう規則きそく的てきに転化てんかすることがある。これを複合語ふくごうごまたは連語れんごにおける音おと転化てんかの法則ほうそくという。
　以上いじょうのようなきまりはすべて連れん音おん上じょうの法則ほうそくというべきであるが、これは、言語げんごの違ちがうに随したがって異ことなると共ともに、同おなじ言語げんごにあっても、時代じだいまたは時期じきの違ちがうに従したがって変遷へんせんするものである。国語こくごの音韻おんいんの変遷へんせんを考かんがえるには、単たんに一々いちいちの音おとの時代じだい的てき変化へんかばかりでなく、かような諸しょ法則ほうそくの変遷へんせんをも考かんがえなければならない。
　以下いか、国語こくご音韻おんいんの変遷へんせんの大要たいようを述のべるに当あたって、時代じだいを三さん期きにわける。奈良なら朝あさ以前いぜんを第だい一いち期きとし、平安朝へいあんちょうから室町むろまち時代じだいまでを第だい二に期きとし、江戸えど時代じだいから現代げんだいまでを第だい三さん期きとする。かように三さん期きにわけたのは、各かく期きの下限かげんをなす三みっつの時代じだい、すなわち奈良なら朝あさと室町むろまち末期まっきと現代げんだいとが、他たの時代じだいとの関係かんけいなくしてそれだけで比較的ひかくてき明あきらかにその音韻おんいん組織そしきを知しることが出来できる時代じだいであって、これを互たがいに比較ひかくすれば、その間あいだに生しょうじた音韻おんいん変化へんかの大綱たいこうを推知すいちし得えられ、しかもこれに続つづく時代じだいとの間あいだにはかなり音韻おんいん状態じょうたいの相違そういが認みとめられるので、ここで時期じきを劃かくするのを便宜べんぎと考かんがえたからである。もとよりこれは便宜べんぎから出でたものである。今後こんご、各かく時代じだい各かく時期じきの音韻おんいん状態じょうたいがもっと明確めいかくに、もっと詳細しょうさいに知しられる時ときが来きたならば、もっと多おおくの時代じだいに分わけることが出来できるであろう。


　第だい一いち期きは奈良なら朝ちょうを下限かげんとする各かく時代じだいである。当時とうじは文字もじとしては漢字かんじのみが用もちいられたので、当時とうじの音韻おんいんの状態じょうたいを知しるべき根本こんぽん資料しりょうとしては、漢字かんじをもって日本語にほんごの音おとを写うつしたものだけである。そうしてかような資料しりょうは、西紀せいき三さん世紀せいきの頃ころの『魏ぎ書しょ（ぎしょ）』をはじめとして、支ささえ那な歴代れきだいの史書ししょや、日本にっぽんの上代じょうだいの金石かねいし文あや（きんせきぶん）などの中なかにもあるけれども、それらはいずれも分量ぶんりょうが少すくなく或あるる一いち時代じだいの音韻おんいん全般ぜんぱんにわたってこれを知しることは出来できない。奈良なら朝あさにいたって、はじめてかような資料しりょうが比較的ひかくてき豊富ほうふに得えられるのであるから、第だい一いち期きの音韻おんいんを研究けんきゅうしようとするには、どうしても先まず奈良なら朝あさのものについてその時代じだいの音韻おんいん組織そしきを明あきらかにし、これを基礎きそとして、それ以前いぜんの時代じだいに溯さかのぼるのほかないのである。
　奈良なら朝ちょう時代じだいの文献ぶんけんの中なかに、国語こくごの音おとを漢字かんじ（万葉仮名まんようがな）で写うつしたものを見みるに、同おなじ語ごはいつも同おなじ文字もじで書かいているのではなく、種々しゅじゅの違ちがった文字もじをもって写うつしている。例たとえば、「妹いもうと（いも）」という語かたりは「伊毛いも」とも「伊い母はは」とも「以母」「移うつり母はは」「異母いぼ」「伊い慕」「伊い茂しげる」「伊い暮くれ」とも書かいている。同おなじ語ごの音おとの形かたちはいつも同おなじであったと思おもわれるから（もっとも、活用かつようする語かたりにはいくつかの違ちがった形かたちがあるが、それでも、その一ひとつ一ひとつの活用かつよう形がたは、いつも同おなじ形がたである）、これを写うつした万葉仮名まんようがなは、いろいろ文字もじが違ちがっていても、皆みな同おなじ音おんを表あらわすものと認みとめられる。すなわち、当時とうじは、その音おと（読よみ方かた）が同おなじであれば、どんな文字もじをもって国語こくごの音おとを写うつしてもよかったのである。そうして、右みぎの「妹いもうと」という語かたりは、二ふたつの文字もじで書かいてあるのを見みれば、その音おとの形かたちは二ふたつの部分ぶぶんから成立なりたっているのであって、その初はつの部分ぶぶんは「伊い」「以」「移うつり」「異こと」のような種々しゅじゅの文字もじで書かかれ、後ごの部分ぶぶんは「母はは」「毛け」「慕」「茂しげる」「暮くれ」のような文字もじで書かかれているから、「伊い」「以」「移うつり」「異こと」は皆みな同おなじ音おんを表あらわす同類どうるいの仮名かめいであり、「母はは」「毛け」「慕」「茂しげる」「暮くれ」も、また同おなじ音おんを表あらわす同類どうるいの仮名かめいであって、しかも「伊い」の類るいと「母はは」の類るいとは、その間あいだに共通きょうつうの文字もじが全まったくない故ゆえ、それぞれ違ちがった音おとを表あらわしたものと認みとめられる。
　かような調査ちょうさを、あらゆる語かたりについて行おこなうと、当時とうじ用もちいられた万葉仮名まんようがなのどの文字もじはどの文字もじと同音どうおんであるかが見出みいだされ、一切いっさいの万葉仮名まんようがなをそれぞれ同音どうおんを表あらわすいくつかの類るいにわけることが出来できるようになる。かような万葉仮名まんようがなの類別るいべつこそ、当時とうじの音韻おんいんの状態じょうたいを知しるべき基礎きそとなるものであって、その類るいの一ひとつ一ひとつは、それぞれ当時とうじの人々ひとびとが互たがいに違ちがった音おととして言いいわけ聞ききわけた一ひとつ一ひとつの音おとを代表だいひょうし、その総体そうたいが当時とうじの国語こくごの音韻おんいん組織そしきを示しめすものとなるのである。
　さて、かようにして得えられた各かく類るいの万葉仮名まんようがなを後世こうせいの仮名かめいと対照たいしょうするとどうなるかというに、前まえに挙あげた「妹いもうと」の語かたりは、後世こうせいには「いも」と二ふたつの文字もじで書かかれるが、奈良なら朝あさにおいても「伊毛いも」「伊い母はは」「以母」その他た、二に字じで書かかれているのであって、最初さいしょの「伊い」「以」等とうの文字もじは仮名かめい「い」にあたり、次つぎの「毛け」「母はは」等とうの文字もじは仮名かめい「も」にあたる。その他たの諸語しょごにおいても同様どうようである。それ故こ、奈良なら朝あさにおいて同音どうおんを表あらわした「伊い」「以」「移うつり」等とうの一類いちるいは後世こうせいの仮名かめい「い」に相当そうとうし、「毛け」「母はは」「慕」等とうの一類いちるいは後世こうせいの「も」に相当そうとうするのである。もっとも、これは、書かかれた文字もじの上うえでの対応たいおうであって、必かならずしも奈良なら朝あさの「伊い」「以」の類るいの発音はつおんが、後世こうせいの「い」の発音はつおんと同おなじであるというのではなく、その発音はつおんについては別べつに考究こうきゅうすべきであるが、奈良なら朝あさにおいて「伊い」「以」の類るいの仮名かめいで写うつされた音おとが、後世こうせいにおいては「い」で書かかれる音おとになったということだけは疑うたがいない（その間あいだに音おとの変化へんかはあったか無なかったかはわからないが）。これを逆ぎゃくに言いえば、後世こうせいの「い」の仮名かめいで書かかれた音おとに当あたるものは奈良なら朝あさでは「伊い」「以」の類るいで書かかれた音おとであるということが出来できる。この場合ばあいに「い」は仮名かめいとしての「い」であって、イという音おとそのものを指さすのではない。それ故こ、「ゐ」は後世こうせいの発音はつおんではイであって、「い」と区別くべつがないけれども、仮名かめいとしては後ごまでも「い」とは別べつのものと考かんがえられているが、奈良なら朝あさにおいても、「い」にあたる「伊い」「以」の類るいがあると共ともに、また「ゐ」にあたる「韋」「偉えら」「委い」「位い」「謂いい」の類るいが別べつにあって、「伊い」「以」の類るいとは別べつの音おとを表あらわしていたのである。同様どうように、後のちには同音どうおんに発音はつおんする「え」と「ゑ」、「お」と「を」の仮名かめいも、それぞれこれに相当そうとうするものが奈良なら朝あさには別べつ類るいの仮名かめいとして存在そんざいするのであって、それらは、それぞれ異ことなった音おとを表あらわしていたと思おもわれる。
　かようにして、奈良なら朝あさには後世こうせいの仮名かめいの一ひとつ一ひとつに相当そうとうする四よん十じゅう七ななの違ちがった音おとがあったことが、その万葉仮名まんようがなの類別るいべつの上うえから知しられるのであるが、仮名かめいには以上いじょう四よん十じゅう七ななのほかになお濁音だくおんの仮名かめいがあって、清音せいおんの仮名かめいと区別くべつせられている。奈良なら朝あさの万葉仮名まんようがなにおいてはどうかというに、例たとえば、「まで（迄まで）」の「で」に当あたる部分ぶぶんには「弖」「」「田た」「低てい」「※［＃「にんべん＋弖」、132-9］」「泥どろ」「」「提ひさげ」「代だい」「天てん」「庭にわ」「底そこ」等とうを用もちい、「そで（袖そで）」の「で」の部分ぶぶんには「」「弖」「低てい」「田た」「泥どろ」「提ひさげ」等とうを用もちいているのであって、これらの文字もじを、「て」にあたる一類いちるいの文字もじ、例たとえば「てる（照あきら）」の「て」に当あたる部分ぶぶんに用もちいられた「弖」「提ひさげ」「」「底そこ」「天てん」、助詞じょし「て」に用もちいられた「天てん」「弖」「提ひさげ」「代だい」「」「帝みかど」などと比較ひかくするに、その間あいだに共通きょうつうの文字もじが甚はなはだ多おおく、到底とうてい「て」の類るいと「で」の類るいとを区別くべつすることが出来できないようであるけれども、仔細しさいに観察かんさつすると、「で」に当あたるものには「田た」「泥どろ」「」のような文字もじがあるに反はんして、「て」に当あたるものには、かような文字もじはない。このことは、あらゆる語かたりにおける「て」と「で」とに当あたる万葉仮名まんようがなについて言いい得えることである。さすれば、「て」は時ときとして「で」と読よむ場合ばあいに用もちいられると等ひとしく、「て」にあたる万葉仮名まんようがなは「で」に当あたる場合ばあいにも用もちいられることがあるが、「で」に当あたるものには、「て」に当あたる場合ばあいには用もちいられない特殊とくしゅの文字もじを用もちいる場合ばあいがあって、この点てんで両者りょうしゃの間あいだに区別くべつがあり、その表あらわす音おとにも違ちがいがあったことがわかるのである。「で」以外いがいの清音せいおんの仮名かめいと濁音だくおんの仮名かめいとの場合ばあいもまた同様どうようであるから、当時とうじは、後世こうせいの仮名かめいにおいて区別くべつせられる濁音だくおんの仮名かめい二に十じゅうに相当そうとうする音おとが清音せいおんのほかにあったこと明あきらかである。
　以上いじょう、奈良なら朝あさにおいて、後世こうせいのあらゆる清音せいおん及および濁音だくおんの仮名かめいに相当そうとうする諸しょ音おとが区別くべつせられていたことを明あきらかにしたが、なお当時とうじは、後世こうせいの仮名かめいでは区別くべつしないような音おとの区別くべつがあったのである。
　第だい一いちは、「え」の仮名かめいに相当そうとうするものであって、これにあたる万葉仮名まんようがなには、
のような文字もじを用もちいているが、奈良なら朝あさにおいては、これらは無差別むさべつに用もちいられているのではなく、「得とく（エ）」「可愛かわい（エ）」「榎えのき（エ）」「荏（エ）」などの諸語しょごの「え」には衣ころも依よ愛あい哀あい埃ほこりなど（甲かぶと）類るいに属ぞくする文字もじを用もちいて延のべ曳叡要ようなどを用もちいず、「兄あに（エ）」「枝えだ（エ）」「江こう（エ）」「笛ふえ（フエ）」「越こえ」「見みえ」「栄さかえ」「崩くずし（ク）え」等とうの「え」には延のべ曳叡要ようなど（乙おつ）類るいの文字もじを用もちいて（甲かぶと）類るいの文字もじを用もちいることなく、その間あいだの区別くべつが厳重げんじゅうである。すなわち、当時とうじは、この二に類るいは、それぞれ別べつの音おとを表あらわしていたのであるが、後世こうせいの仮名かめいにはこれを混こんじて、同おなじ「え」で表あらわすようになったものと認みとめられる。
　次つぎに「き」の仮名かめいにあたるものも、奈良なら朝あさでは、
などの文字もじを用もちいているが、当時とうじは岐支等とうの類るい（甲かぶと）と紀き記き等とうの類るい（乙おつ）との二に類るいに分わかれて、「君きみ（キミ）」「雪ゆき（ユキ）」「御酒みき（ミキ）」「杯はい（ツキ）」「沖おき（オキ）」「切きり（キ）る」「垣かき（カキ）」「崎さき（サキ）」「翁おう（オキナ）」「昨日きのう（キノフ）」「清きよし（キヨ）」「常盤ひたち（トキハ）」「明あきら（アキラメ）」「幸こう（サキハヒ）」「杜若かきつばた（カキツハタ）」「行いき」「蒔（マ）き」「分ぶんき」「吹ふき」「着ちゃく（キ）」「来き（キ）」などの「き」には「岐」「支ささえ」の類るいの文字もじを用もちい、「木き（キ）」「城しろ（キ）」「月つき（ツキ）」「槻けやき（ツキ）」「調しらべ（ツキ）」「霧きり（キリ）」「新しん羅ら（シラキ）」「尽つき」「避（ヨ）き」などの「き」には「紀き」「記き」の類るいの文字もじを用もちいて、他たの類るいのものを用もちいることは殆ほとんどなく、これも、奈良なら朝あさにおいては、それぞれ別べつの音おとを表あらわしていたと思おもわれるが、後世こうせいの仮名かめいではこれを併あわせて一様いちように「き」の仮名かめいで表あらわすようになったのである。そうして、「き」における二に類るいの別べつに相当そうとうする区別くべつは、濁音だくおん「ぎ」の仮名かめいにおいても見みられるのであって、奈良なら朝あさに用もちいられた、
は、共ともに「ぎ」にあたる文字もじであるが、それが二に類るいにわかれて、「雉（キギシ）」「我わが妹いもうと（ワギモ）」「剣けん（ツルギ）」「鴫しぎ（シギ）」「陽ひ火ひ（カギロヒ）」「漕こぎ」「凪なぎ（ナ）ぎ」「継つぎ」「仰あおぎ」などの「ぎ」には（甲かぶと）類るいに属ぞくする文字もじを用もちい、「杉すぎ（スギ）」「萩はぎ（ハギ）」「柳やなぎ（ヤナギ）」「蓬よもぎ（ヨモギ）」「過すぎ」などの「ぎ」には（乙おつ）類るいの文字もじを用もちいて、その間あいだに区別くべつがある。そうして、「肝きも（キモ）」「衣ころも（キヌ）」の「き」に（甲かぶと）類るいの文字もじを用もちいるに対たいして、「むらぎも」「ありぎぬ」の「ぎ」に（甲かぶと）類るいの文字もじを用もちい、「霧きり（キリ）」の「き」に（乙おつ）類るいの文字もじを用もちいるに対たいして、「夕ゆう霧きり（ユフギリ）」の「ぎ」に（乙おつ）類るいの文字もじを用もちいているのを見みれば、「ぎ」に当あたる二に類るいはちょうど「き」にあたる二に類るいに相当そうとうするもので、「ぎ」の（甲かぶと）は「き」の（甲かぶと）に、「ぎ」の（乙おつ）は「き」の（乙おつ）に当あたるものであることがわかるのである。
　そのほか、「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」の一ひとつ一ひとつに相当そうとうする万葉仮名まんようがなにおいても、同様どうようにおのおの二ふたつの類るいに分わかれて互たがいに混同こんどうせず、その濁音だくおんの仮名かめい「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」に当あたるものにおいてもまた同様どうようであって、これらの各かく類るいは、おのおの、違ちがった音おとを表あらわしたものと考かんがえられる。
　以上いじょう、奈良なら朝あさにおいては後世こうせいの「え」「き」「け」以下いか十じゅう三さんの仮名かめい、およびその濁音だくおんである七ななつの仮名かめいの一ひとつ一ひとつに相当そうとうする万葉仮名まんようがながおのおの二ふたつの類るいに分わかれて、語かたりによって、そのいずれの類るいを用もちいるかがきまっていて互たがいに混同こんどうしないといったのであるが、しかし、厳密げんみつに言いえば、このきまりには一ひとつの例外れいがいもないのではなく、多少たしょうの例外れいがいは存そんする。それも、一ひとつ一ひとつの仮名かめいによって、多少たしょう状態じょうたいを異ことにし、「え」「け」などはただ一いち、二にの例外れいがいに止とまるが、「そ」「と」などは比較的ひかくてき例外れいがいが多おおく、殊ことに、奈良なら朝ちょう末期まっきにおいては相当そうとうに多おおくなっている。しかし、これは全体ぜんたいの数かずから見みれば、甚はなはだ少数しょうすうであって、決けっして、二に類るいの区別くべつの存在そんざいを否定ひていするものではなく、少すくなくとも奈良なら朝あさ前期ぜんきまではそれの表あらわす音おとの区別くべつが意識いしきせられていたであろうと思おもわれる。
　かように、万葉仮名まんようがなに基もとづいて推定すいていし得えた奈良なら朝ちょう時代じだいの国語こくごの音韻おんいんはすべて八はち十じゅう七ななである。その一ひとつ一ひとつを表あらわす万葉仮名まんようがなの各かく類るいを、その類るいに属ぞくする文字もじの一ひとつ（ここでは『古事記こじき』に最もっとも多おおく用もちいられている文字もじ）によって代表だいひょうせしめ、且かつ後世こうせいの仮名かめいのこれに相当そうとうするものと対照たいしょうして示しめすと次つぎのようである。
［＃ここから２段だん組くみ］
［＃ここで段だん組くみ終おわり］
　奈良なら朝あさにおいては、以上いじょう八はち十じゅう七ななの音おとが区別くべつされ、当時とうじの言語げんごは、これらの諸しょ音おとから成立なりたっていたのであるが、それでは、これらの諸しょ音おとの奈良なら朝ちょうにおける実際じっさいの発音はつおんはどんなであったかというに、これは到底とうてい直接ちょくせつに知しることは出来できないのであって、種々しゅじゅの方面ほうめんから攻究こうきゅうした結果けっかを綜合そうごうして推定すいていするのほかない。それにはこれらの音おとを表あらわす為ために用もちいられた万葉仮名まんようがなが古代こだい支ささえ那なにおいてどう発音はつおんせられたか（勿論もちろんその万葉仮名まんようがなは、漢字かんじの字音じおんをもって国語こくごの音おとを写うつしたものに限かぎる。訓くんによって国語こくごの音おとを写うつしたものは関係かんけいがない）、これらの音おとが後こうの時代じだいにいかなる音おとになっていたか、これらの音おとに相当そうとうする音おとが現代げんだいの諸しょ方言ほうげんにおいてどんな音おととして存在そんざいするか、これらの音おとがいかなる他ほかの音おとと相あい通つうじて用もちいられたかなどを研究けんきゅうしなければならないが、今いまは、かような研究けんきゅうの手続てつづきを述のべる暇ひまがない故ゆえ、ただ結果けっかだけを述のべるに止とめる。その場合ばあいに、奈良なら朝あさの諸しょ音おとを、当時とうじの万葉仮名まんようがなによって「阿おもね」の音おと（「阿おもね」の類るいの万葉仮名まんようがなによって表あらわされた音おとの意味いみ）、「伊い」の音おとなど呼よぶのが正当せいとうであるが、上述じょうじゅつのごとく、当時とうじの諸しょ音おとは、それぞれ後世こうせいの伊呂波いろはの仮名かめいで書かきわけられる一ひとつ一ひとつの音おとに相当そうとうするものが多おおく、そうでないものでも、当時とうじの二ふたつの音おとが、後ごの一ひとつの仮名かめいに相当そうとうする故ゆえ、奈良なら朝あさの「阿おもね」の音おと、「伊い」の音おとを、「あ」の仮名かめいにあたる音おと、「い」の仮名かめいにあたる音おとということが出来できるのであって、その方ほうが理解りかいしやすかろうと思おもわれるから、そういう風ふうに呼よぶことにしたい。そうして、五十音ごじゅうおん図ずは後のちに出来できたものであるけれども、五十音ごじゅうおん図ずで同行どうこうまたは同どう段だんに属ぞくする仮名かめいに相当そうとうする奈良なら朝あさの諸しょ音おとは、その実際じっさいの発音はつおんを研究けんきゅうした結果けっか、やはり互たがいに共通きょうつうの単音たんおんをもっていたことが推定すいていせられる故ゆえ、説明せつめいの便宜上べんぎじょう、行くだりまたは段だんの名なをも用もちいることとした。
「あ」「い」「う」「え」「お」に相当そうとうする諸しょ音おとは、大体だいたい現代げんだい語ごと同おなじく、皆みな母音ぼいんであってａｉｕｅｏの音おとであったらしい。ただし、「え」に相当そうとうする当時とうじの音おとは「愛あい」の類るいと「延のべ」の類るいと二ふたつにわかれているが、そのうち、「愛あい」の類るいは母音ぼいんのｅあり、「延のべ」の類るいはこれに子音しいんの加くわわった「イェ」（ye、ｙは音声おんせい記号きごうでは〔j〕）であって、五十音ごじゅうおん図ずによれば、「愛あい」はア行ぎょうの「え」にあたり「延のべ」はヤ行ぎょうの「え」に当あたる。（このことは、これらの音おとに宛あてた万葉仮名まんようがなの支ささえ那な・朝鮮ちょうせんにおける字音じおんからも、また、ア行ゆき活用かつようの「得とく（エ）」が「愛あい」の音おとであり、ヤ行ゆき活用かつようの「見みえ」「消きえ」「聞きこえ」等とうの語尾ごび「え」が「延のべ」の音おとであることからも推測すいそく出来できる。）
　以上いじょう、「あ」「い」「う」「お」にあたる音おとおよび「え」にあたる音おとの一ひとつは母音ぼいんから成立なりたつものであるが、その他たの音おとは子音しいんの次つぎに母音ぼいんが合あわして出来できたものと認みとめられる。まず、初はつの子音しいんについて考かんがえると、カ行ぎょう、タ行ぎょう、ナ行ぎょう、マ行ぎょう、ヤ行ぎょう、ラ行ぎょう、ワ行ぎょうの仮名かめいにあたる諸しょ音おとは、それらの仮名かめいの現代げんだいの発音はつおんと同おなじく、それぞれｋ　ｔ　ｎ　ｍ　ｙ　ｒ　ｗのような子音しいんで初はつまる音おとであったろうと思おもわれる。ただし、タ行ぎょうの仮名かめいの中なか、「ち」「つ」にあたるものは、現代げんだいの東京とうきょう・京都きょうと等とうの発音はつおんとは異ことなり、「ち」は現代げんだいのようなチ（chi、chはチャチョなどの子音しいんで、分解ぶんかいすれば、タの最初さいしょの子音しいんｔとシの最初さいしょの子音しいんshとの合あわしたもの。音声おんせい記号きごうでは〔t〕）ではなくして、ti（英語えいご・独逸どいつ（ドイツ）語かたりなどの発音はつおん。仮名かめいではティ）であり、また「つ」は現代げんだい語ごのようなツ（tsu、tsはタ行ぎょうの子音しいんｔと、サソなどの子音しいんｓとの合あわしたもの）でなくしてtu（独逸どいつ語ごなどの発音はつおん。仮名かめいではトゥ）であったと考かんがえられる。またヤ行ぎょうには、前まえに述のべた「延のべ」の音おと（ye）が加くわわり、ワ行ぎょうには、現代げんだい語ごにない「ゐ」「ゑ」「を」にあたる音おと（wiwewo）があったのである。
　サ行ぎょうの仮名かめいにあたる音おとの子音しいんは、決定けっていに困難こんなんである。現代げんだい語ごにおいてはサスセソの子音しいんはｓであり、シだけはsh（シャシュ等とうの子音しいんと同おなじもの。音声おんせい記号きごうでは〔〕であるが、方言ほうげんにはセをすべてsheと発音はつおんするものもある。この音おとを写うつした種々しゅじゅの万葉仮名まんようがなの支ささえ那な古代こだい音おんもtsで初はつまるものや、chで初はつまるものや、ｓで初はつまるもの、shで初はつまるものなどあって、一定いっていしない。それ故こ、或あるる人にんはtsであったとし、或あるる人にんはchであったとし、またｓあるいはshであったと説とくものもある。極きわめて古ふるくは最初さいしょにｔ音おとがあったかとおもわれるが、奈良なら朝ちょう時代じだいにもそうであったかどうか、決定けっていしがたい。あるいはshで初はつまる音おとであったかも知しれない。
　ハ行ぎょうの子音しいんは、現代げんだいではｈであるが、方言ほうげんによってはＦであって「は」「ひ」「へ」をファフィフェと発音はつおんするところがある。更さらに西南せいなん諸島しょとうの方言ほうげんでは、ｐ音おとになっているところがある（「花はな」をパナ、舟ふねをプニなど）。ハ行ぎょうの仮名かめいにあたる音おとを写うつした万葉仮名まんようがなの古代こだい漢かん字音じおんを見みるに、皆みなｐphｆなどで初はつまる音おとであって、ｈ音おとで初はつまるものはない故ゆえ、古代こだいにおいては今日きょうの発音はつおんとは異ことなり、今日きょうの方言ほうげんに見みるようなｐまたはＦの音おとであったと考かんがえられる。音おと変化へんかとして見みれば、ｐからＦに変へんずるのが普通ふつうであって、その逆ぎゃくは考かんがえ難がたいから、ハ行ぎょうの子音しいんはｐ→Ｆと変化へんかしたものと思おもわれるが、奈良なら朝あさにおいては、どうであったかというに、平安朝へいあんちょうから室町むろまち時代じだいまでは、Ｆであったと認みとめむべき根拠こんきょがあるから、その直前ちょくぜんの奈良なら朝あさにおいても多分たぶんＦ音おとであったろうと思おもわれる。すなわちファフィフゥフェフォなど発音はつおんしたであろう。そうしてハ行ぎょうの仮名かめいは、後世こうせいでは、語かたりの中なか間あいだおよび末尾まつびにあるものは「はひふへほ」をワイウエオと発音はつおんするが（「いは」「いへ」「かほ」など）、奈良なら朝あさにおいては語かたりのいかなる位置いちにあっても、同様どうように発音はつおんしたものである。
　次つぎに濁音だくおんの仮名かめいに相当そうとうする諸しょ音おとについては、ガ行ぎょうの仮名かめいにあたる諸しょ音おとの子音しいんは多分たぶん現代げんだいの東京とうきょう・京都きょうと等とうの「がん」「ぎん」「ごく」「げんき」「ぐん」などの「が」「ぎ」「ぐ」「げ」「ご」の子音しいんと同おなじｇ音おと（音声おんせい記号きごうでは〔〕）であったろうとおもわれる。現代げんだいの東京とうきょう・京都きょうとなどの「ながさき（長崎ながさき）」「くぎ（釘くぎ）」「かご（寵ちょう）」「すげ（菅かん）」などの「が」「ぎ」「ぐ」「げ」「ご」の発音はつおんに見みられるガ行ぎょう子音しいんng（音声おんせい記号きごうでは〔〕）は、当時とうじはなかったのではあるまいかと思おもわれる。
　ザ行ぎょうの仮名かめいにあたる諸しょ音おとの子音しいんは、サ行ぎょうにあたる諸しょ音おとと同おなじ子音しいんの有声音ゆうせいおんであろうが、当時とうじの発音はつおんは、その清音せいおんと同様どうように未いまだ決定けっていし難がたい。ずっと古ふるくは最初さいしょにｄ音おとを帯おびていたかとおもわれるが、奈良なら朝あさにはあるいはshの有声音ゆうせいおんj（音声おんせい記号きごうでは〔〕）であったかも知しれない。
　ダ行ぎょうの仮名かめいにあたる諸しょ音おとは、現今げんこんのダの子音しいんと同おなじｄであった。ただし「ぢ」「づ」は、現今げんこんの発音はつおんとは異ことなり、「ぢ」はdi（英語えいご独逸どいつ語ごの発音はつおん。仮名かめいはディ）、「づ」はdu（独逸どいつ語ごの発音はつおん。仮名かめいはドゥ）であったと認みとめられる。
　バ行ぎょうの仮名かめいにあたる諸しょ音おとの子音しいんは、現代げんだいと同おなじくｂであった。
　次つぎに、子音しいんの次つぎに母音ぼいんがついて成立なりたつ諸しょ音おとにおける母音ぼいんについて見みるに、奈良なら朝ちょう時代じだいの諸しょ音おとのうち、その一いち音おとが後世こうせいの一ひとつの仮名かめいにあたるものにおいては、ア段だんの仮名かめいに相当そうとうする諸しょ音おとは、現代げんだいの仮名かめいの発音はつおんと同おなじくａの母音ぼいんで終おわり、イ段だんウ段だんエ段だんオ段だんの仮名かめいにあたる諸しょ音おとも同様どうようにそれぞれｉｕｅｏの母音ぼいんで終おわったものと考かんがえられる。次つぎに当時とうじの二ふたつの音おとが、後世こうせいの仮名かめいの一ひとつに相当そうとうするものの中なか、「え」にあたる「愛あい」の音おとと「延のべ」の音おととが、それぞれｅとyeであって、ア行ぎょうのエとヤ行ぎょうのエとの別べつに当あたるものであることは既すでに述のべた通とおりである。さすればこの二に音おとの別べつは、五十音ごじゅうおんでは行こうの違ちがいに当あたるのである。しかるにその他たのものにおいては、必かならずしもそうでない。この種たねに属ぞくするものは、これにあたる仮名かめいを五十音ごじゅうおん図ずに宛あてて見みると左ひだりの通とおり、イエオの三さん段だんにかぎられて、ア段だんとウ段だんとにはないのである。
　これらの仮名かめいが、それぞれ奈良なら朝あさの二ふたつの違ちがった音おとに相当そうとうするのであるが、その二ふたつの音おとに宛あてた万葉仮名まんようがなの漢字かんじ音おんを支ささえ那なの唐とう末まつまたは五ご代だいの頃ころに出来できた音韻おんいん表ひょうである『韻いん鏡きょう（いんきょう）』によって調査ちょうさすると、この二ふたつの音おとの違ちがいは、支ささえ那な字音じおんにおいては、転てんの違ちがいか、さもなければ等位とういの違ちがいに相当そうとうする。転てんおよび等位とういの違ちがいは最初さいしょの子音しいんの相違そういではなく、最後さいごの母音ぼいん（またはその後ごに子音しいんの附ついたもの）の相違そういか、または、初はつの子音しいんと後ごの母音ぼいんとの間あいだに入はいった母音ぼいんの相違そういに帰きするのである（例たとえばkopoの類るいとkpの類るいとの差さ、またはkiapiaとkapaとの差さなど）。奈良なら朝あさの国語こくごにおける二ふたつの音おとの相違そういを、漢字かんじ音おんにおける右みぎのような相違そういによって写うつしたとすれば、当時とうじの国語こくごにおける二に音おとの別べつは、最初さいしょの子音しいんの相違そういすなわち五十音ごじゅうおんならば行くだりの相違そういに相当そうとうするものでなく、母音ぼいんの相違そういすなわち五十音ごじゅうおんの段だんの相違そういか、さもなければ、直音ちょくおん（ちょくおん）と拗音ようおん（ようおん）との相違そういに相当そうとうするものと考かんがえられる。それでは実際じっさいどんな音おとであったかというに、諸説しょせつがあって一定いっていしないが、しかし、一ひとつの仮名かめいに相当そうとうする二に音おとの中なか、一ひとつだけはその仮名かめいの現代げんだいの発音はつおんと同おなじもので、すなわち、イ段だんの仮名かめいならばｉで終おわり、エ段だんならばｅ、オ段だんならばｏで終おわる音おとであることは一致いっちしている。他たの一ひとつについては右みぎの-i-e-oに近ちかい音おとであることは一致いっちしているが、あるいはこれに近ちかい開ひらき音おん（それよりも口くちの開ひらきを大おおきくして発はっする音おと）-I-εいぷしろん-であるとし（吉武よしたけ氏し）、あるいはこれに近ちかい中なか舌した母音ぼいん（舌したの中なかほどを高たかくして発はっする音おと）であるとし（金田かねだ一氏かずうじ）、あるいは、母音ぼいんの前まえにｗの加くわわったワ行くだり拗音ようおん-wi-we-woであるとし、あるいは、イ段だんエ段だんでは母音ぼいんの前まえにｙ（音声おんせい記号きごう〔j〕）の加くわわったヤ行ぎょう拗音ようおん-yi-yeであるとし、オ段だんでは中ちゅう舌した母音ぼいん-であるとする説せつ（有坂ありさか氏し）などある。私わたしもイ段だんは-iに対たいして-i（は中ちゅう舌した母音ぼいん）、エ段だんは-eに対たいして-iまたは-e（は英語えいごにあるような中なか舌した母音ぼいん）、オ段だんは-oに対たいして中ちゅう舌した母音ぼいんであろうかという仮定かてい説せつを立たてたが、まだ確定かくていした説せつではない。
　以上いじょう述のべた所ところによれば、奈良なら朝ちょうにおける諸しょ音おとの発音はつおんは、これに相当そうとうする仮名かめいの現代げんだいにおける発音はつおんに一致いっちするものが甚はなはだ多おおいのであって、これと異ことなるものは「ち」「つ」「ぢ」「づ」およびハ行ぎょうの仮名かめいに相当そうとうするものであり、サ行ぎょうおよびザ行ぎょうの仮名かめいにあたるものも、或あるるは現代げんだいの発音はつおんと違ちがっていたかも知しれない。当時とうじの音おとで、現代げんだい普通ふつうに用もちいられないものはヤ行ぎょうのエにあたるye、ワ行ぎょうの「ゐ」「ゑ」「を」にあたるwiwewoであり、「ぢ」「づ」と「じ」「ず」とは、現代げんだい語ごでは普通ふつう発音はつおんの区別くべつがないが、奈良なら朝あさには、おのおの別々べつべつの音おとであった。「き」「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」および「ぎ」「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」の十じゅう九きゅうの仮名かめいの一ひとつ一ひとつにあたるそれぞれ二ふたつの音おとは、一ひとつは現代げんだい語ごにおけると同おなじ音おとまたはこれに近ちかい音おとであるが（ただし「ひ」「へ」の子音しいんは現代げんだい語ごと違ちがい、「そ」「ぞ」の子音しいんも現代げんだい語ごとちがっていたかも知しれない）、他たの一ひとつは、これに近ちかいがそれとは違ちがった（現代げんだいの標準ひょうじゅん語ごには普通ふつうに用もちいられない）音おとであった。
　以上いじょうのように奈良なら朝あさにおいては、現代げんだいよりは音おとの種類しゅるいが多おおかったのであるが、しかし、それはいずれも短音たんおんに属ぞくするもので、「ソー」「モー」のような長音ちょうおんに属ぞくするものはない。またキャシュキョのような拗音ようおんに属ぞくするものは多少たしょうあったかも知しれないが、その数かずも少すくなく、また性質せいしつも違ちがっていたかも知しれない。「ン」のような音おとや、促音そくおんにあたるものもない。またパ行ぎょう音おんもなく、行くだり音おん（ngで初はつまる音おと）も多分たぶんなかったであろう。ただし、以上いじょう述のべたのは、当時とうじ、おのおの別々べつべつの音おととして意識いしきせられ、文字もじの上うえに書かきわけられているものの正式せいしきな発音はつおんであって、実際じっさいの言語げんごにおいてはそれ以外いがいの音おとが絶対ぜったいに用もちいられなかったのではない。現げんに、「蚊か」のごとき一いち音おとの語かたりが、今日きょうの近畿きんき地方ちほうの方言ほうげんにおけるごとく「カア」と長音ちょうおんに発音はつおんせられたことは奈良なら朝あさの文献ぶんけんに証拠しょうこがある。けれども、正常せいじょうな言語げんごの音おととしては、以上いじょうのごときものであったろうと思おもわれる。
　奈良なら朝ちょうにおける音韻おんいんが以上いじょうのごとく八はち十じゅう七ななあったということは、奈良なら朝ちょうにおける文献ぶんけんの万葉仮名まんようがなの用法ようほうから帰納きのうしたのであるが、奈良なら朝あさの文献ぶんけんでも、『古事記こじき』だけにおいては、「も」の仮名かめいにあたる万葉仮名まんようがなに「母はは」と「毛け」との二ふたつがあり、それを用もちいる語かたりにはそれぞれきまりがあって決けっして混同こんどうしない（「本ほん」「者しゃ」「伴ばん（トモ）」「思おもひ」などの「も」には「母はは」を用もちい、「百ひゃく（モモ）」「妹いもうと（イモ）」「鴨かも（カモ）」「下した（シモ）」などの「も」には「毛け」を用もちいる）。すなわち、『古事記こじき』においては更さらに一ひとつだけ多おおくの音おとを区別くべつしたのであって、すべて八はち十じゅう八はち音おとを区別くべつした（「母はは」と「毛け」との別べつは、「と」「そ」等とうオ段だんの仮名かめいにおける二に音おとの別べつと一致いっちするものであろう）。『古事記こじき』は、奈良なら朝あさの撰せんではあるが、天武天皇てんむてんのうの勅語ちょくごを稗田ひえた阿礼あれい（ひえだのあれ）が誦しょうしたものを太安万侶おおのやすまろ（おおのやすまろ）が筆ふで録ろくしたもので、その言語げんごは幾分いくぶん古ふるい時代じだいのものであろうから、これに八はち十じゅう八はち音おとを区別くべつしたのは、奈良なら朝あさ以前いぜんの音韻おんいん状態じょうたいを伝つたえるもので、後のちにその中なかの一いち音おとが他たと同音どうおんに変へんじて奈良なら朝あさでは八はち十じゅう七なな音おととなったものと考かんがえられる。そうして奈良なら朝あさでも末期まっきになると、「と」「の」などの仮名かめいにあたる二に音おとの別べつが次第しだいに失うしなわれたと見みえて、これに宛あてた万葉仮名まんようがなの混用こんようが多おおくなっていることは既すでに説といた通とおりである。この傾向けいこうを逆ぎゃくに見みれば、もっと古ふるい時代じだいに溯さかのぼ（さかのぼ）れば、更さらに多おおくの音おとがあったのが、時代じだいの下くだると共ともに他たの音おとと同音どうおんになって遂ついに奈良なら朝ちょうにおけるごとき八はち十じゅう七なな音おとになったのではあるまいかと思おもわれる。奈良なら朝あさ以前いぜんの万葉仮名まんようがなの資料しりょうは甚はなはだ少すくない故ゆえに、確実かくじつに実証じっしょうすることは困難こんなんであるが、そう見みれば見み得える例れいはないでもないのである。
　なお、奈良なら朝あさにおいて右みぎの八はち十じゅう七なな音おとが存在そんざいするのは、当時とうじの中央ちゅうおう地方ちほうの言語げんごであって、『万葉集まんようしゅう』中ちゅうの東歌あずまうた（あずまうた）や防人さきもり歌か（さきもりのうた）のごとき東国とうごく語ごにおいては同おなじ仮名がなにあたる二に音おとの区別くべつが混乱こんらんした例れいが少すくなくなく、その音おとの区別くべつは全まったくなかったか、少すくなくともかなり混こんじていたのであろうと思おもわれる。そのほか、中央ちゅうおうの言語げんごにないような音おともあって、音韻おんいん組織そしきに違ちがいがあったろうと考かんがえられるが、委ゆだね（くわ）しいことは知しり難がたい（東国とうごく語ごの中なかでも、勿論もちろん土地とちによって相違そういがあったであろう）。
（一いち）　語頭ごとう音おんに関かんしては、我わが国くにの上代じょうだいには、ラ行ぎょう音おとおよび濁音だくおんは語頭ごとう音おんには用もちいられないというきまりがあった。古来こらいの国語こくごにおいてラ行ぎょう音おんではじまるあらゆる語かたりについて見みるに、それはすべて漢語かんごかまたは西洋せいよう語ごから入はいったもので、本来ほんらいの日本語にほんごと考かんがえられるものは一ひとつもない。これは、本来ほんらい我わが国くににはラ行ぎょう音おんではじまる語かたりはなかったので、すなわち、ラ行ぎょう音おんは語頭ごとう音おんとしては用もちいられなかったのである。また、濁音だくおんではじまる語かたりも、漢語かんごか西洋せいよう語ごか、さもなければ、後世こうせいに語形ごけいを変へんじて濁音だくおんではじまるようになったものである（例たとえば、「何処どこ」の意味いみの「どこ」は、「いづこ」から出でた「いどこ」の「い」が脱落だつらくして出来できたもの、「誰だれ」を意味いみする「だれ」は、もと「たれ」であったのが、「どれ」などに類推るいすいして「だれ」となったもの、薔薇ばらの「ばら」は、「いばら」から転てんじて出来できたものである。）これも、濁音だくおんではじまる語かたりは本来ほんらいの日本語にほんごにはなかったので、濁音だくおんは語頭ごとう音おんには用もちいられなかったのである。しかしながら、漢字かんじは古ふるくから我わが国くにに入はいっていたのであって、我わが国くにではその字音じおんを学まなんだであろうし、殊ことに、藤原ふじわら朝ちょうの頃ころからは支ささえ那な人じんが音おと博士はかせ（おんはかせ）として支ささえ那な語ごを教おしえたのであるから、漢字かんじ音おんとしてＩ音おとや濁音だくおんではじまる音おとを学まなんだであろうが、しかし、それは外国がいこく語ごであって、有識者ゆうしきしゃは正ただしい発音はつおんをしたとしても、普通ふつうの国民こくみんは多分たぶん正ただしく発音はつおんすることが出来できなかったであろうと思おもわれ、一般いっぱんには、なお右みぎのような語頭ごとう音おんの法則ほうそくは行おこなわれたであろうと思おもわれる。
　また、アイウエオのごとき母音ぼいん一ひとつで成立なりたつ音おとは語頭ごとう以外いがいに来くることはなかった。ただし、イとウには例外れいがいがある。しかしそれは「かい（橈）」「まうく（設しつらえ）」「まうす（申さる）」のごとき二に、三さんの語かたりと、ヤ行ぎょう上じょう二に段だんの語尾ごびの場合ばあいとだけで、極きわめて少数しょうすうである。
（二に）　語尾ごび音おんについては、特別とくべつの制限せいげんはなかったようである。しかし、当時とうじの諸しょ音おとはすべて母音ぼいんで終おわる音おとであって、後世こうせいの「ん」のような子音しいんだけで成立なりたつ音おとはなかったから、語尾ごびはすべて母音ぼいんで終おわっていたのであって、子音しいんで終おわるものはなかった。支ささえ那な語ごにはｍｎngやｐｔｋのような子音しいんで終おわる音おとがあり、日本人にっぽんじんもこれを学まなんだのであるが、しかしこれは外国がいこく語ごとしての発音はつおんであって一般いっぱんに用もちいられたものではなく、普通ふつうには漢語かんごを用もちいる場合ばあいにも、その下したに母音ぼいんを加くわえてｍをmuまたはmi、ｎをniまたはnuなどのように発音はつおんしたのであろうと思おもわれる。（万葉仮名まんようがなとして用もちいた漢字かんじにおいて、ｍで終おわる「南みなみ」「瞻」「覧らん」をナム（またはナミ）、セミ、ラムに宛あて、ｋで終おわる「福ぶく」「莫」「作さく」「楽らく」を、フク、マク、サク、ラクに宛あて、ｎで終おわる「散ち」「干ひ」「郡ぐん」をサニ、カニ、クニに宛あてたなどを見みてもそう考かんがえられる）。
（三さん）　語かたりが複ふく合ごうする時ときの音おと転化てんかとしては連濁れんだくがある。下したの語かたりの最初さいしょの音おとが濁音だくおんになるのである（「妻つま問とい（ツマドヒ）」「愛妻あいさい（ハシヅマ）」「香こう妙みょう（カグハシ）」「羽はね裹（ハグクム）」「草葉くさば（クサバ）」など）。この例れいは甚はなはだ多おおいけれども、同おなじ語ごにはいつも連濁れんだくがあらわれるというのでもなく、いかなる場合ばあいに連濁れんだくが起おこるかという確たしかなきまりはまだ見出みいだされない。あるいは、もっと古ふるい時代じだいには規則正きそくただしく行おこなわれたが、奈良なら朝ちょう頃ごろにはただ慣例かんれいある語かたりだけに行おこなわれたものであったろうか。
　次つぎに、語かたりが複ふく合ごうするとき上じょうの語かたりの語尾ごび音おんの最後さいごの母音ぼいんが他たの母音ぼいんに転てんずることがある。これを転うたて韻いんということがある。これには種々しゅじゅある。
　エ段だんイ段だんあるいはオ段だんの仮名かめいにあたる音おとが二ふたつある場合ばあいには、右みぎのごとく転てんずるのはその中なかの一ひとつだけであって、他たの一ひとつは転てんじない。（例たとえば、「け」に当あたるのは「気き」の音おとと「祁」の音おとであるが、カに転てんずるのは「気き」の音おとだけで、「祁」の音おとは転てんじない。）
　しかし、右みぎのような音おとのある語かたりは常つねに複合語ふくごうごにおいて音おとが転てんずるのでもなく、全まったく転てんじない語かたりもあって、その間あいだの区別くべつはわからない。想そう（おも）うにかように転てんずるのは、ずっと古ふるい時代じだいに起おこった音おと変化へんかの結果けっかかと思おもわれるが、その径路けいろは今いま明あきらかでない。奈良なら朝あさにおいても、その結果けっかだけが襲用しゅうようされたもので多分たぶんに形式けいしき化かしたものであったろう。そうして同おなじ語ごでもこの例れいに従したがわぬ場合ばあいも多少たしょう見みえるのは、このきまりが、奈良なら朝あさにおいて既すでに守まもられなくなり始はじめていたことを示しめすものであろう。
　次つぎに、複ふく合ごうする下もとの語かたりの語頭ごとう音おんが母音ぼいん一ひとつから成なる音おと（アイウエオ）である時とき、その音おとが上うえの語かたりの語尾ごび音おんと合あわして一いち音おととなることがある（荒磯あらいそ（アライソ）―ありそ、尾お（ヲ）の上うえ（ウヘ）―をのへ、我わが（ワ）が家いえ（イヘ）―わぎへ、漕こぎ出で（イ）で―こぎで）。これは、語頭ごとうの母音ぼいんと語尾ごび音おんの終おわりの母音ぼいんと二ふたつの母音ぼいんが並ならんであらわれる場合ばあいにその内うちの一ひとつが脱落だつらくしたので、古代こだい語ごにおいて母音ぼいんがつづいてあらわれるのを避さける傾向けいこうがあったことを示しめすものである。「にあり」「てあり」「といふ」が、「なり」「たり」「とふ」となるのも同様どうようの現象げんしょうである。「我わが（わ）は思おもえ（も）ふ」「我わが（われ）はや餓かつえ（ゑ）ぬ」など連語れんごにおいても、これと同種どうしゅの現象げんしょうがある。かようなことは当時とうじは比較的ひかくてき自由じゆうに行おこなわれたらしい。


　平安朝へいあんちょうの初はつから、室町むろまち時代じだい（安やす士し桃山ももやま時代じだいをも含ふくませて）の終おわりにいたる約やく八はち百ひゃく年ねんの間あいだである。この間あいだの音韻おんいんの状態じょうたいを明あきらかにすべき根本こんぽん資料しりょうとしては、平安朝へいあんちょう初期しょきには万葉仮名まんようがなで書かかれたものがかなりあるが、各かく時代じだいを通つうじては主しゅとして平仮名ひらがなで書かかれたものであって、この期きの諸しょ音韻おんいんは、大抵たいていは平仮名ひらがな・片仮名かたかなで代表だいひょうさせることが出来できる。そうして、平安朝へいあんちょう初期しょきに作つくられその盛時せいじまで世よに行おこなわれた「あめつち」の頌文（しょうぶん）（四よん十じゅう八はち字じ）およびその後ごこれに代かわって用もちいられた「いろは」歌うた（四よん十じゅう七なな字じ）が、不完全ふかんぜんながらもその当時とうじの音韻おんいん組織そしきを代表だいひょうするものであった。しかるに、この仮名かめいは初はつのうちは相当そうとう正ただしく音韻おんいんを表あらわしたであろうが、院政いんせい・鎌倉かまくら時代じだいから室町むろまち時代じだいと次第しだいに音韻おんいんが変化へんかして行いった間あいだに、仮名かめいと音韻おんいんとの間あいだに不一致ふいっちを来き（きた）し、仮名かめいが必かならずしも正まさしく音韻おんいんを代表だいひょうしない場合ばあいが生しょうじた。ところが、幸こうに外国がいこく人じんが、外国がいこくの文字もじで表音ひょうおん的てきに当時とうじの日本語にほんごを写うつしたものがあって、その闕陥（けっかん）を補おぎなうことが出来できる。支ささえ那な人じんが漢字かんじで日本語にほんごを書かいたものと西洋せいよう人じんがロろーマ字まじで日本語にほんごを写うつしたものとが、その重おも（おも）なものであるが、支ささえ那な人じんのものは鎌倉かまくら時代じだいのものも多少たしょうあるが、室町むろまち時代じだいのものはかなり多おおい。しかし漢字かんじの性質せいしつ上じょう、その時代じだいの発音はつおんを知しるにかなりの困難こんなんを伴ともなう。西洋せいよう人じんのは、室町むろまち末期まっきに日本にっぽんに来きた宣教師せんきょうしの作つくったもので、日本語にほんごについて十じゅう分ぶんの観察かんさつをして当時とうじの標準ひょうじゅん的てき音韻おんいんを葡萄ぶどう牙きば（ポルトガル）式しきのロろーマ字まじ綴つづりで写うつしたものであるから、信憑しんぴょう（しんぴょう）するに足たり、且かつ各かく音おとの性質せいしつも大概たいがい明あきらかであって、当時とうじの音韻おんいん状態じょうたいを知しるべき絶好ぜっこうの資料しりょうである。
　第だい二に期きの終おわりなる室町むろまち末期まっきの京都きょうと語ごを中心ちゅうしんとした国語こくごの音韻おんいん組織そしきは、大体だいたい右みぎの資料しりょうによって推定すいていせられるので、これを第だい一いち期きの終おわりなる奈良なら朝あさの音韻おんいんと比較ひかくして得えた差異さいは、大抵たいてい第だい二に期きにおいて生しょうじた音おと変化へんかの結果けっかと認みとめてよかろうから、その変化へんかがいつ、いかにして生しょうじたかを考察こうさつすれば、第だい二に期きにおける音韻おんいん変遷へんせんの大体だいたいを知しり得えるであろう。
（一いち）　奈良なら朝ちょう時代じだいの諸しょ音おとの中なか、二に音おとが後こうの仮名かめい一ひとつに相当そうとうするものは、「え」の仮名かめいにあたるものを除のぞくほかは、すべて、平安朝へいあんちょう初期しょきにおいては、その一ひとつが他たの一ひとつと同音どうおんになり、その間あいだの区別くべつがなくなってしまった。そうしてその音おとは、これにあたる仮名かめいの後世こうせいの発音はつおんと同おなじ音おんに帰かえしたらしい（ただしその中なか、「ひ」「へ」にあたるものはフィフェとなった）。かようにして、「き」「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」「ぎ」「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」の一ひとつ一ひとつに相当そうとうする二に音おとが、それぞれ一いち音おとを減げんじて、これらの仮名かめいがそれぞれ一いち音おとを代表だいひょうするようになった。この傾向けいこうは奈良なら朝ちょう末期まっきから既すでにあらわれていたが、平安朝へいあんちょうにいたって完全かんぜんに変化へんかしたのである。
（二に）「え」にあたる二ふたつの音おと、（すなわちア行ぎょうのエとヤ行ぎょうのエ）の区別くべつは、平安朝へいあんちょうに入はいってからも初はつの数すう十じゅう年ねんはなお保たもたれて仮名かめいでも書かきわけられていたが、村上むらかみ天皇てんのうの頃ころになると全まったく失うしなわれたようである。伊呂波歌いろはうた以前いぜんに、伊呂波いろはのように用もちいられた「あめつち」の頌文は四よん十じゅう八はち字じより成なり、伊呂波いろはより「え」の一いち字じが多おおく、「え」が二に回かいあらわれているが、これは右みぎのア行ぎょうのエとヤ行ぎょうのエとを代表だいひょうするものと認みとめられ、その四よん十じゅう八はち字じは（一いち）に述のべたような音おと変化へんかを経へて、まだ「え」の二に音おとの別べつが存そんした平安朝へいあんちょう初期しょきの音韻おんいんを代表だいひょうするものである（ただし、濁音だくおんはそのほかにあるが、清音せいおんの文字もじで兼かねさせたのであろう）。伊呂波歌いろはうたはこの二に音おとが一いち音おとに帰かえした後のちの音韻おんいんを代表だいひょうするものである。さて、「え」の二に音おとすなわちｅとyeとが同音どうおんとなって、どんな音おとになったか。普通ふつう常識じょうしき的てきにｅ音おとになったと考かんがえられているようであるが、必かならずしもそうとはいえない。古代こだいの国語こくごでは、母音ぼいん一ひとつで成立なりたつ音おとが語頭ごとう以外いがいに来くることは殆ほとんどないのであって、ただ「い」（ｉ）と「う」（ｕ）の場合ばあいに極きわめて少数しょうすうの例外れいがいがあるに過すぎない。「え」の二に音おとのうちのｅもまた語頭ごとうにのみ用もちいられた。これは、つまり古代こだい国語こくごでは、一語いちご中ちゅうに、母音ぼいんと母音ぼいんとが直接ちょくせつに結合けつごうすることをきらったのである。yeは語頭ごとうにも語頭ごとう以外いがいにも用もちいられたのである故ゆえ、ｅとyeとがすべての場合ばあいに同音どうおんに帰かえしたとすれば、ｅよりもむしろyeになったとする方ほうが自然しぜんである。何なんとなれば、ｅになったとすれば、語頭ごとう以外いがいのｅはその前まえの音おとの終おわり母音ぼいんと直接ちょくせつに結合けつごうして、古代こだい国語こくごの発音はつおん上じょうの習慣しゅうかんに合あわないからである。しかし、またもとのｅとyeとの区別くべつが失うしなわれて、新あらたに語頭ごとうにはｅを用もちい、語頭ごとう以外いがいにはyeを用もちいるというきまりが出来できたかも知しれない。そんな場合ばあいにも、このｅとyeとを同おなじ文字もじで書かいたことは、東京とうきょう語ごにおける語頭ごとうのガ行ぎょう音おんと語頭ごとう以外いがいの鼻音びおんのガ行ぎょう音おんとを文字もじに書かきわけないのによっても理解りかいすることが出来できる。かようなわけで、ｅとyeとがすべてｅになったとする説せつは極きわめて疑うたがわしい。
（三さん）　次ついで語頭ごとう以外いがいの「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」の音おとが「わ」「ゐ」「う」「ゑ」「を」と混同こんどうするようになった。これは「は」等とうの音おとの初はつの子音しいんＦが唇くちびるの合あわせ方かたが少すくなくなり同時どうじに有ゆう声こえ化かしてｗ音おとに近ちかづき遂ついにこれと同音どうおんとなったもので（「ふ」はwuとなったのであるが、wuの音おとはなかったためｕになった）、かような傾向けいこうは既すでに奈良なら朝ちょうから少すこしずつ見みえ、平安朝へいあんちょう初期しょきにおいても「うるはし」（麗うらら）の「は」が、殆ほとんど常つねに「わ」と書かかれている例れいを見みるが、それが一般いっぱん的てきになったのは、平安朝へいあんちょうの盛時せいじを過すぎた頃ころらしい。
（四よん）　右みぎに引続ひきつづいて、「ゐ」「ゑ」「を」の音おと（「ひ」「へ」「ほ」から転てんじたものも）が、「い」「え」「お」と同音どうおんになった。これは（三さん）の音おと変化へんかよりも多少たしょう後ごであって、それが一般いっぱん的てきになったのは、あるいは院政いんせい時代じだいであろうかとおもわれる。
　以上いじょう述のべて来きたような音おと変化へんかによって、
となって、その結果けっか、伊呂波いろは四よん十じゅう七なな字じの中なか、「ゐ」「ゑ」「を」が「い」「え」「お」と同音どうおんとなり、すべて四よん十じゅう四よん音おとを区別くべつすることとなったのである。これは、現代げんだいの標準ひょうじゅん語ごにおけると同様どうようである。しかるに現代げんだいの標準ひょうじゅん語ごにおいて「い」「え」「お」は「ゐ」「ゑ」「を」と共ともにｉｅｏの音おとであるが、室町むろまち末期まっきの西洋せいよう人じんの羅ら馬うま（ローマ）字じ綴つづりによれば、「い」はｉであるが、「え」はye「お」はwoの音おとであったらしい。殊ことに「え」は、現代げんだいの九州きゅうしゅうおよび東北とうほくの方言ほうげんでは現代げんだい標準ひょうじゅん語ごのエにあたるものをすべてyeと発音はつおんするところがあるのを見みれば、室町むろまち末期まっきの西洋せいよう人じんがyeで写うつしたのも当時とうじの事実じじつを伝つたえているのであろうと思おもわれる。さすれば、平安朝へいあんちょうのｅもyeもweもFeから変へんじたweも、室町むろまち末まつにはすべてyeに帰かえしたと考かんがえなければならない。最初さいしょｅとyeが同音どうおんに帰かえした時とき、すべてyeになったか、あるいは語頭ごとうｅ語頭ごとう以外いがいyeになったろうと考かんがえたが、その後ごweが、これと同音どうおんになったのは、ｗが脱落だつらくしたためで、wiがｕとなったと全まったく同おなじく、唇くちびるのはたらきがなくなったのが原因げんいんで、かような音おと変化へんかはＦがｗに変へんじたのが唇くちびるの働はたらきが弱よわくなり唇くちびるの合あわせ方かたが少すくなくなったのと同一どういつの方向ほうこうをたどるもので、それが極端きょくたんになって遂ついに唇くちびるを全まったく働はたらかせなくなったのであるが、その結果けっかとして、weはｅとなるべきであるが、ｅという音おとは全まったくなかったためyeとなったか、またはｅはあっても語頭ごとうだけにしかなかったため、語頭ごとうではｅ、語頭ごとう以外いがいではyeとなったのであろう。そうして、室町むろまち時代じだいにおいてはこれにあたるものはすべてyeになっているのは、たとい、もとは語頭ごとうの場合ばあいだけｅであったとしても、語かたり中ちゅうには常つねにyeであり、しかも、その方ほうがしばしば用もちいられるために、後のちには語頭ごとうにもyeと発音はつおんするようになったのであろうと思おもわれる。
　次つぎに平安朝へいあんちょうにおけるｏとwoとが一ひとつに帰かえして、それが、室町むろまち末まつの西洋せいよう人じんがuoと記しるした音おと（その発音はつおんはwo）にあたるのは、どうかというに、これも古代こだい国語こくごでは、ｏ一ひとつで成立なりたつ音おとは決けっして語頭ごとう以外いがいに来くることなく、これに反はんしてwoは語頭ごとうにもそれ以外いがいにも用もちいられたが、woの用もちいられた頻度ひんどは比較ひかく的てきに少すくないけれども、「ほ」（Fo）から変へんじたwoが語頭ごとう以外いがいに甚はなはだ多おおくあらわれたから、woは甚はなはだ優勢ゆうせいとなり、語頭ごとうのｏもこれに化かせられてすべてwoとなったか、さもなければ、もとの音おとはどんなであっても、すべて語頭ごとうにはｏ、語頭ごとう以外いがいにはwoとなったであろう。かようにしてｏは語頭ごとうに用もちいられたとしても、語頭ごとう以外いがいにはwoが常つねに用もちいられ、且かつそれがしばしば用もちいられたため、後のちには語頭ごとうのｏもこれに化かせられてwoとなったのであろうと思おもわれる。
　かように、種々しゅじゅの音おとが同音どうおんに帰かえした結果けっか、同音どうおんの仮名かめいが多おおく出来でき、鎌倉かまくら時代じだいに入はいってその仮名かめいの使つかいわけすなわち仮名遣かなづかい（かなづかい）が問題もんだいとなるにいたったのである。
（五ご）「うめ（梅うめ）」「うま（馬うま）」「うまる（生せい）」「うばら（薔薇ばら）」のようなマ音おんの前まえの「う」は、第だい一いち期きにおいてはｕ音おとであったと思おもわれるが、平安朝へいあんちょうに入はいってから、次つぎのマ行ぎょう音おとまたはバ行ぎょう音おんの子音しいん（ｍｂ）に化かせられてｍ音おとになった（仮名かめいでは「む」と書かかれた）。このｍ音おとは、音おとの性質せいしつから言いえば、現代げんだいの「ん」音おとと同一どういつのものである。後のちには「うもれ（埋うめ）」「うば（嫗おうな）」「うばふ（奪だつ）」「うべ（宜むべ）」などの「う」もこれと同様どうようの音おとになった。
（六ろく）　平安朝へいあんちょうにおいて、音便おんびんといわれる音おと変化へんかが起おこった。これは主しゅとしてイ段だんウ段だんに属ぞくする種々しゅじゅの音おとがイ・ウ・ンまたは促音そくおんになったものをいうのであるが、その変化へんかは語かたり中ちゅうおよび語尾ごびの音おとに起おこったもので、語頭ごとう音おんにはかような変化へんかはない。音おとによって多少たしょう発生はっせい年代ねんだいを異ことにしたもののようで、キ→イ（「築ちく墻（ツキガキ）」がツイガキ、「少しょうキ人じん」がチヒサイヒト、「先さき（サキ）立たち」がサイダチとなった類るい）ギ→イ（「序じょ（ツギテ）」がツイデ、「花はなヤギ給きゅうへる」が「ハナヤイタマヘル」など）、ミ→ム（「かみさし」がカムザシ、「涙なみだ（ナミダ）」がナンダ、「摘つまみたる」がツンダルの類るい。このムはｍまたはこれに近ちかい音おとと認みとめられる）、リ→ン（「盛もりなり」がサカナリ、「成なりぬ」がナムヌなど。「サカナリ」はサカンナリである。ンの仮名かめいを書かかなかったのである）、チ→促音そくおん（「発はつ（タ）ちて」がタテ、「有ゆう（タモ）ちて」がタモテとなる。ただし促音そくおんは書かきあらわしてない）。ニ→ン（「死しにし子こ」がシジ子こ、「如何いかに」がイカンなど）などは平安朝へいあんちょう初期しょきからあり、ミ→ウ（「首くび（カミヘ）」がカウベ、「髪際かみぎわ」がカウギハ）ム→ウ（「竜胆りんどう（リウタム）」がリウダウ、「林檎りんご（リムゴ）」がリウゴウ）、ヒ→ウ（「弟おとうと（オトヒト）」がオトウト、「夫おっと（ヲヒト）」がヲウト、「喚よばひて」がヨバウテ、「酔えひて」がヱウテなど）ク→ウ（「格子こうし（カクシ）」がカウシ、「口惜くちおしく」がクチヲシウなど）はこれについで古ふるく、シ→イ（「落おとしつ」がオトイツ、「おぼしめして」がオボシメイテなど）ル→ン（「あるめり」「ざるなり」「あるべきかな」が、アンメリ、ザンナリ、アンベイカナとなる類るい）ビ→ウ（「商人しょうにん（アキビト）」がアキウド、「呼よびて」がヨウデなど）なども平安朝へいあんちょう中期ちゅうきには見みえ、ビ→ム（「喚（ヨ）びて」がヨムデ、「商人しょうにん（アキビト）」がアキムド）、リ→促音そくおん（「因よりて」がヨテ、「欲よくりす」がホス、「有ありし」がアシ。促音そくおんは記号きごうがない故ゆえ、書かきあらわされていない）、ヒ→促音そくおん（「冀（ネガ）ひて」がネガテ、「掩ひて」がオホテ）、グ→ウ（「藁沓わらぐつ（ワラグツ）」がワラウヅ）などは院政いんせい時代じだいからあらわれている。その他た「まゐで」がマウデとなり（ヰ→ウ）、「とり出で」がトウデ（リ→ウ）となった類るいもある。かように変化へんかした形かたちは鎌倉かまくら時代じだい以後いご口語こうごには盛もりに用もちいられたのであって、それがため、室町むろまち時代じだいには動詞どうしの連用形れんようけいが助詞じょし「て」助動詞じょどうし「たり」「つ」などにつづく場合ばあいには口語こうごでは常つねに変化へんかした形かたちのみを用もちいるようになり、また、助動詞じょどうし「む」「らむ」も「う」「ろう」の形かたちになった。
　音便おんびんによって生しょうじた音おとは右みぎのごとくイ・ウ・ン及および促音そくおんであるが、そのうちイ及およびウは、これまでも普通ふつうの国語こくごの音おととして存在そんざいしたものである。ただし、ミ・ム及およびビから変へんじて出来できたウは、文字もじでは「う」と書かかれているが、純粋じゅんすいのウでなく、鼻音びおんを帯おびたウの音おとで、今いまのデンワ（電話でんわ）のン音おとと同種どうしゅのものであったろうと思おもわれる。さすれば一種いっしゅのン音おとと見みるべきもので、音おととしては音便おんびんによって出来できた他ほかの「ん」と同種どうしゅのものであろう（ンはｍｎngまたは鼻はな母音ぼいん一ひとつで成立なりたつ音おとである）。ただ、「う」と書かかれたものの大だい部分ぶぶんは、後のちに鼻音びおんを脱却だっきゃくして純粋じゅんすいのウ音おんになったが、そうでないものは、後ごまでもン音おんとして残のこっただけの相違そういであろう。とにかく、かようなン音おとは、国語こくごの音韻おんいんとしてはこれまでなかったのが、音便おんびんによって発生はっせいして、平安朝へいあんちょう頃ごろから新あたらしく国語こくごに用もちいられるようになったのである。また促音そくおんも同様どうように音便おんびんによって生しょうじて国語こくごの音韻おんいんに加くわわった。
（七なな）　支ささえ那なにおける漢字かんじの正ただしい発音はつおんとしてはｍｎngのような鼻音びおんやｐｔｋで終おわるものいわゆる入声にっしょう音おん（にっしょうおん）があった。しかしこれは漢字かんじの正式せいしきの読よみ方かたとして我わが国くにに伝つたわったのであって、古ふるくから日本語にほんごに入はいった漢語かんごにおいては、もっと日本にっぽん化かした音おとになっていたであろうが、しかし正ただしい漢文かんぶんを学まなぶものには、この支ささえ那なの正ただしい読方よみかたが平安朝へいあんちょうに入はいっても伝つたわっていた。しかるにその後ご支ささえ那なとの公おおやけの交通こうつうが絶たえて、漢語かんごの知識ちしきが不確ふたしかになると共ともに、発音はつおんも少すこしずつ変化へんかして、院政いんせい時代じだいから鎌倉かまくら時代じだいになると、次第しだいにそのｍとｎとの区別くべつがなくなって「ン」音おとに帰かえし（「覧らん」「三さん」「点てん」などの語尾ごびｍが「賛さん」「天てん」などの語尾ごびｎと同おなじくｎ音おとになった）、またngはウまたはイの音おとになり（「上うえ（ジャウ）」「東ひがし（トウ）」「康かん（カウ）」などの語尾ごびウ、「平ひらた（ヘイ）」「青あお（セイ）」などの語尾ごびイは、もとngである）、入声にっしょうの語尾ごびのｐはフ、ｋはクまたはキになり、ｔは呉音ごおんではチになったが、漢音かんおんではｔの発音はつおんを保存ほぞんしたようである（仮名かめいではツと書かかれているが実際じっさいはｔと発音はつおんしたらしい）。そうして平安朝へいあんちょう以後いご、漢語かんごが次第しだいに多おおく国語こくご中ちゅうに用もちいられたので、以上いじょうのような漢語かんごの発音はつおんが国語こくごの中なかに入はいり、ために、語尾ごびにおける「ん」音おと（ｎと発音はつおんした。しかし後のちには多少たしょう変化へんかしたかも知しれない）や、語尾ごびにおける促音そくおんともいうべき入声にっしょうのｔ音おとが国語こくごの音おとに加くわわるにいたった。
（八はち）　漢語かんごには、国語こくごにないキャキュキョのごとき拗音ようおんが、ア行ゆきヤ行ゆきワ行ゆき以外いがいの五十音ごじゅうおんの各行かくこう（清濁せいだくとも）にわたってあり、クヮ（kwa）ク※［＃小書こがき片仮名かたかなヰ、163-1］（kwi「帰かえり」「貴たか」などの音おと）ク※［＃小書こがき片仮名かたかなヱ、163-1］（kwe「花はな」「化か」などの音おと）およびグヮグ※［＃小書こがき片仮名かたかなヰ、163-2］グ※［＃小書こがき片仮名かたかなヱ、163-2］などの拗音ようおんがあったが、これらは第だい一いち期きまではまだ外国がいこく式しきの音おとと考かんがえられたであろうが、平安朝へいあんちょう以後いご、漢語かんごが多おおく平生へいぜい（へいぜい）に用もちいられるに従したがって国語こくごの音おとに加くわわるようになった。ただし、ク※［＃小書こがき片仮名かたかなヰ、163-4］ク※［＃小書こがき片仮名かたかなヱ、163-4］グ※［＃小書こがき片仮名かたかなヰ、163-4］グ※［＃小書こがき片仮名かたかなヱ、163-4］は鎌倉かまくら時代じだい以後いご、漸次ぜんじキ・ケ・ギ・ゲに変へんじて消失しょうしつした。
（九きゅう）　パピプペポの音おとは、奈良なら朝あさにおいては多分たぶん正常せいじょうな音韻おんいんとしては存在そんざいしなかったであろう、しかるに、漢語かんごにおいては、入にゅう声音こわねまたはンにつづくハ行ぎょう音おんはパピプペポの音おとであったものと思おもわれる（「一遍いっぺん（イッペン）」「匹夫ひっぷ（ヒップ）」「法被はっぴ（ハッピ）」「近辺きんぺん（キンペン）」など）。かような漢語かんごが平安朝へいあんちょう以後いご、国語こくご中ちゅうに用もちいられるようになりまた一方いっぽう純粋じゅんすいの国語こくごでも、「あはれ」「もはら」を強つよめていった「あつぱれ」「もつぱら」などの形かたちが平生へいぜいに用もちいられるようになって、パ行ぎょう音おんが国語こくごの音韻おんいんの中なかに入はいった。
（十じゅう）　「ち」「ぢ」「つ」「づ」の音おとは奈良なら朝あさにおいてはtidituduであったが、室町むろまち末まつにおいてはchi（〔ti〕）dji（〔di〕）tsudzuになった（すなわち「ち」「つ」は現今げんこんの音おとと同音どうおん、「ぢ」「づ」は正まさしく今いまのチツの濁音だくおん、すなわち有声音ゆうせいおんにあたる）。その変化へんかの起おこった時代じだいは、まだ的確てきかくにはわからないが、鎌倉かまくら時代じだいに入はいった支ささえ那な語ご、すなわち宋音そうおんの語かたりにおいて「知ち客きゃく（シカ）」の「知ち」また「帽子ぼうし（モウス）」の「子こ」のごとき、支ささえ那なのti（現代げんだいのチの音おととほぼ同おなじ）またはts（現代げんだいのツの音おとに似にた音おと）のような音おとがチ・ツとならずしてシ・スとなっているのは、当時とうじチ・ツが今いまのような音おとでなくして、tituのような音おとであったためとおもわれるから、鎌倉かまくら時代じだいには大体だいたいもとの音おとを保たもっていたので吉野よしの時代じだい以後いごに変へんじたものかと思おもわれる。
（十じゅう一いち）　前まえに述のべたように、我わが国くに古代こだいには、母音ぼいん一ひとつで成立なりたつ音おとは語頭ごとう以外いがいに来くることはほとんどなく、ただ、イ音おんウ音おんの場合ばあいに少数しょうすうの例外れいがいがあるに過すぎなかった。しかるに第だい二に期きに入はいってからは、前述ぜんじゅつのごとき種々しゅじゅの音おと変化へんかの結果けっか、語かたりの中なか間あいだまたは末尾まつびの音おとでｉまたはｕ音おとになったものがあり、また、漢語かんごにおいては、もとより語尾ごびにｉまたはｕが来くるものが少すくなくなかったが、平安朝へいあんちょう以後いご漢語かんごが多おおく国語こくご中ちゅうに用もちいられると共ともにかような音おとも頻しき（しきり）に用もちいられ、自然しぜんイやウが他た音おとの下したに来くるものが甚はなはだ多おおくなった。ところがかようなイ音おんは、その後ご変化へんかなく、「礼れい」「敬たかし」のごときも正まさしくレイ・ケイの音おとを室町むろまち末期まっきまでも保たもったが、ウ音おんは、時ときを経へると共ともにその直前ちょくぜんの音おとの影響えいきょうを受うけこれと合体がったいして、一ひとつの長音ちょうおんになるものが出来できたのである。まず、（一いち）ウ音おんが、その前まえのオ段だん音おんの母音ぼいんｏと合体がったいしての音おととなり、その前まえの子音しいんと共ともにオ段だんの長音ちょうおんとなった。すなわちou→、例たとえば、「曾」ソウ→ソー、「登とう」トウ→トー、「竜りゅう」リョウ→リョー。また（二に）ウ音おんがその前まえのエ段だん音おんの母音ぼいんｅと合体がったいしてyの音おととなり、その前まえの子音しいんと共ともにオ段だんのヤ行ぎょう長音ちょうおんまたは長ちょう拗音ようおんとなった。すなわちeu→yまたは-y、例たとえば「用よう」ヨウ→ヨー、「笑わらい」セウ→ショー、「妙みょう」メウ→ミョー、「料りょう」レウ→リョー。その結果けっかとして（一いち）に述のべたショウ、ミョウ、リョウの類るいから出でた拗こじれ長音ちょうおんと全まったく同音どうおんになった。以上いじょう二に種しゅの変化へんかは大体だいたい鎌倉かまくら時代じだいには完成かんせいし、室町むろまち時代じだいには既すでに長音ちょうおんに化かしていたもののようである。（三さん）ウ音おんが直前ちょくぜんのア段だん音おんの母音ぼいんａに同化どうかせられてｏとなり、更さらにこれがａと合体がったいしてｏの長音ちょうおんとなったが、これは（一いち）（二に）から出来できたｏの長音ちょうおんよりは開口かいこうの度たびが多おおく、これと明あきらかに区別くべつされた。この開ひらけ音おんのｏの長音ちょうおんをで表あらわすとすれば、au→ao→と変へんじたのである（開ひらき音おんのｏは英語えいごのallにおけるような音おとで、音声おんせい記号きごうでは〔〕。例たとえば、「行くだり」カウ→カォー、「様さま」ヤウ→ヤォー、「設もうけ」マウケ→マォーケ、「明あきら」ミヤウ→ミヤォー、「性せい」シヤウ→シヤォー。この種たねのものが一ひとつの長音ちょうおんに帰かえしてしまった時代じだいはまだ明あきらかでないが、室町むろまち末期まっきには完全かんぜんに一ひとつの音おとになっていた。そうして当時とうじはこれを開ひらけ音おんとし（一いち）（二に）の種類しゅるいのものを合ごう音おんとして、おのおの別べつの音おととして取扱とりあつかったのである（室町むろまち時代じだいの末すえには多少たしょう両者りょうしゃの発音はつおんを混同こんどうするものがあったかも知しれないが）。（四よん）ウ音おんが直前ちょくぜんのイ段だん音おんの母音ぼいんｉと合体がったいしてウ段だんのヤ行ぎょう長音ちょうおんまたは長ちょう拗音ようおんとなった。すなわちiu→yまたは-y。例たとえば「中なか」チウ→チュー、「いう」イウ→ユー、「嬉うれしう」ウレシウ→ウレシュー。この変化へんかはいつ起おこったかわからないが、室町むろまち末まつには、既すでに変化へんかしていたのである。
　以上いじょうの（二に）および（四よん）の音おと変化へんかの結果けっか、もと直音ちょくおん（ちょくおん）であったものが新あらたに拗音ようおん（ようおん）となり、拗音ようおんを有ゆうする語かたりが多おおくなった。
（十じゅう二に）　サ行ぎょう音おんザ行ぎょう音おんは室町むろまち末期まっきの標準ひょうじゅん的てき発音はつおんでは、sashisusheso、zajizujezoであって、現今げんこんの東京とうきょう語ごと大体だいたい同おなじであるが「セ」「ゼ」の音おとだけが違ちがっている。しかし、これは、近畿きんきから九州きゅうしゅうまで日本にっぽん西部せいぶの音おとであって、関東かんとうではその当時とうじも今日きょうの東京とうきょう語ごと同おなじく「セ」「ゼ」をsezeと発音はつおんした。サ行ぎょうザ行ぎょうの音おとは、室町むろまち以前いぜんにおける的確てきかくな音おとがまだわからないからして、どんな変遷へんせんを経へて来きたかは、言いうことが出来できない。

　以上いじょう、第だい二に期きにおける国語こくごの音韻おんいんの変遷へんせんの重おも（おも）なるものについて述のべたが、これによれば国語こくごの音韻おんいんは、奈良なら朝あさにおいて八はち十じゅう七なな音おとを区別くべつしたが、平安朝へいあんちょうにおいてはその中なかのかなり多おおくのものが他たと同音どうおんに帰かえして二に十じゅう三さん音おとを失うしない、六ろく十じゅう四よん音おとになったが、一方いっぽう、音便おんびんその他たの音おと変化へんかと漢語かんごの国語こくご化かとによって、ン音おんや促音そくおんやパ行ぎょう音おんや多おおくの拗音ようおんが加くわわり、また鎌倉かまくら室町むろまち時代じだいにおける音おと変化へんかの結果けっか、多おおくの長音ちょうおんが出来できた。「ち」「つ」「ぢ」「づ」の音おとは変化へんかしたけれども、まだ「ぢ」「づ」と「じ」「ず」とは混同こんどうするに至いたらず、ｏの長音ちょうおんになったものも、なお開ひらき合あい（かいごう）の別べつは保たもたれていたのである。
　以上いじょうは京都きょうと地方ちほうを中心ちゅうしんとした中央ちゅうおう語ごの変遷へんせんの重おもなものである。他たの方言ほうげんについては不明ふめいであるが、室町むろまち末期まっきにおける西洋せいよう人じんの簡略かんりゃくな記述きじゅつによっても、当時とうじの方言ほうげんに種々しゅじゅの違ちがった音おとがありまた違ちがった音おと変化へんかが行おこなわれたことがわかるのである。
（一いち）　第だい一いち期きにおいては語頭ごとう音おんとして用もちいられなかったラ行ぎょう音おとおよび濁音だくおんは、多おおくの漢語かんごの国語こくご化かまたは音おと変化へんかの結果けっか、語頭ごとうにも用もちいられるようになった。
　ハ行ぎょう音おんはこの期きを通つうじてその子音しいんはＦであったが、そのうち語頭ごとう以外いがいのものはワ行ぎょう音おんと同音どうおんに帰かえしたため、語頭ごとうにのみ用もちいられることとなった。
　母音ぼいん一ひとつで成立なりたつ音おとの中なか、語頭ごとう以外いがいに用もちいられないものはアだけとなった。
　パ行ぎょう音おんは語頭ごとうには用もちいられない（パット、ポッポト、ポンポンのような擬声語ぎせいごは別べつである）。ただし、室町むろまち末期まっきに国語こくごに入はいった西洋せいよう語ご（主しゅとして吉利支丹きりしたん（キリシタン）宗門しゅうもんの名目めいもく）にはパ行ぎょうを語頭ごとうにも用もちいたらしい。
　ｍ音おとが語頭ごとうに立たつものが出来できた（「馬うま（ウマ）」「梅うめ（ウメ）」など）。このｍ音おとはンと同種どうしゅのものであるが、ン音おんはこの場合ばあい以外いがいには語頭ごとうに立たつことはない。
（二に）　語尾ごび音おんにはン音おんや入声にっしょう（にっしょう）のｔ音おとも用もちいられることとなった。「万まん（マン）」「鈴すず（リン）」「筆ふで」Fit「鉄てつ」tetなど。
（三さん）　語かたりの複ふく合あいの際さいに起おこる連濁れんだくおよび転てん韻いんは行おこなわれたが、従来じゅうらい例れいのある語かたりにのみ限かぎられたようである。
　また語かたりと語かたりとの間あいだの母音ぼいんの脱落だつらくによる音おとの合体がったいは、平安朝へいあんちょうにも助詞じょしと動詞どうし「あり」との間あいだに起たって、「ぞあり」から「ざり」、「こそあれ」から「こされ」、「もあり」から「まり」などの形かたちを生しょうじ、更さらに後のちには、「にこそあるなれ」「にこそあんめれ」から「ごさんなれ」「ごさんめれ」などを生しょうじたが、第だい一いち期きのように自由じゆうには行おこなわれなかった。
　或あるる語かたりが「ん」で終おわる語かたりの次つぎに来きて複ふく合ごうする時とき、その語かたりの頭あたま音おんが、
　漢語かんごにおいて、上うえの語かたりの終おわりが入声にっしょうである時ときは、
　以上いじょうは漢語かんごの、支ささえ那なにおける発音はつおんに基もとづいたものであって、勿論もちろん多少たしょう日本にっぽん化かしているのであろうが、多分たぶん平安朝へいあんちょう以来いらい用もちい来き（きた）ったものであろう。中なかに、ンあるいは入声にっしょうｔの次つぎのア行ぎょうヤ行ぎょうワ行くだり音おんがナ行ぎょう音おん（またはマ行ぎょう音おん）あるいはタ行ぎょう音おんに変へんずるのは、上うえのｎ（またはｍ）あるいはｔ音おとが長ながくなってそれが次つぎの音おとと合体がったいしたためであって、かような音おと転化てんかを連声れんじょう（れんじょう）という。かような現象げんしょうは、漢語かんごにのみ見みられたのであるが、後のちには、助詞じょし「は」および「を」がン音おとまたは入声にっしょうのｔで終おわる語かたりに接せっする場合ばあいにも起おこることとなって、その場合ばあいには「は」「を」は「ナ」「ノ」「タ」「ト」と発音はつおんすることが一般いっぱんに行おこなわれたようである。（「門もんは」「門もんを」は「モンナ」「モンノ」となり、「実じつは」「実みを」は「ジッタ」「ジット」となった）


　第だい三さん期きは江戸えど初期しょきから今日きょうに至いたる三さん百ひゃく三さん四よん十じゅう年間ねんかんである。その下限かげんなる現代げんだい語ごの音韻おんいんは現げんに我々われわれが用もちいているもので、直接ちょくせつにこれを観察かんさつして知しることが出来できる。過去かこのものは、仮名かめいで書かかれた文献ぶんけんが主要しゅようなる資料しりょうであるが、そのほかに朝鮮ちょうせん人じんが諺文おんもん（オンモン）で写うつしたものもあり、西洋せいよう人じんの日本語にほんご学がく書しょや日本人にっぽんじんの西洋せいよう語学ごがく書しょなどには羅ら馬うま（ローマ）字じで日本語にほんごを写うつしたものがある。また、仮名遣かなづかい（かなづかい）や音曲おんぎょく（おんぎょく）関係かんけい書しょや、韻いん学がく書しょなどにも有力ゆうりょくな資料しりょうがある。
　第だい二に期きの下限かげんである室町むろまち末期まっきの音韻おんいんを現代げんだい語ごの音韻おんいんと比較ひかくして、第だい三さん期きの中なかにいかなる変遷へんせんがあったかを知しることが出来できるわけであるが、現代げんだいの標準ひょうじゅん語ごは東京とうきょう語ご式しきのものであるに対たいして、第だい一いち期き第だい二に期きを通つうじて変遷へんせんの跡あとをたどり得えべきものは大和やまと（やまと）あるいは京都きょうとの言語げんごを中心ちゅうしんとした中央ちゅうおう語ごであって、その後身こうしんたる現代げんだいの言語げんごは、東京とうきょう語ごではなく京都きょうと語ごないし近畿きんきの方言ほうげんであるから、これと比較ひかくして変遷へんせんを考かんがえなければならない。
（一いち）「ぢ」「づ」は室町むろまち末期まっきまではdjidzuの音おとであり、「じ」「ず」はjizuの音おとであって両者りょうしゃの間あいだに区別くべつがあった。もっとも、室町むろまち時代じだいでも、京都きょうとでは、この両りょう種たねの音おとが近ちかくなってこれを混同こんどうするものもあったのであるが、これを区別くべつするのが標準ひょうじゅん的てき発音はつおんであるとせられたのである（日本にっぽん西部せいぶの方言ほうげんでは区別くべつしていた）。しかるに江戸えど初期しょきにおいてはこれを全まったく混同こんどうするにいたった。それは「ぢ」「づ」の最初さいしょのｄが弱よわくなって遂ついに「じ」「ず」と同音どうおんに帰かえしたのである（それ故こ、江戸えど初期しょきから「ぢ」「づ」「じ」「ず」の仮名遣かなづかいが説とかれている）。ただし、右みぎの諸しょ音おとの区別くべつは今日きょうでも九州きゅうしゅう土佐とさの諸しょ方言ほうげんには残のこっている。
（二に）　ア段だん音おんとウ音おんとが合体がったいして出来できたｏの長音ちょうおんは開ひらけ音おんであり、エ段だん音おとまたはオ段だん音おんとウ音おんとの合体がったいして出来できたｏの長音ちょうおんは合ごう音おんであって、その間あいだに区別くべつがあったことは既すでに述のべた通とおりである。室町むろまち末期まっきまでは大体だいたいその区別くべつが保たもたれていたが、既すでに室町むろまち時代じだいから両者りょうしゃを混同こんどうした例れいも多少たしょうあって、その音おとが近似きんじしていたことを思おもわせるが、江戸えど時代じだいに入はいると早はやくもこの両者りょうしゃの別べつがなくなって、同音どうおんに帰かえしたのである。開ひらき音おんのが開口かいこうの度たびを減げんじてと同音どうおんになったのである（かようにして、江戸えど初期しょきから、開ひらき合あいの仮名遣かなづかいが問題もんだいとなるにいたった）。この両りょう種たねの音おとは、現代げんだいの新潟にいがた県けんの或あるる地方ちほうの方言ほうげんには残のこっている。
（三さん）　ハ行ぎょう音おんは、第だい二に期きの末すえまでは、ファフィフゥフェフォのようにＦではじまる音おとであったが、江戸えど時代じだいに入はいって次第しだいに変化へんかを生しょうじ、唇くちびるの合あわせ方かたが段々だんだんと弱よわくなり、遂ついには全まったく唇くちびるを動うごかさずして、これと類似るいじした喉のど音おんｈをもってこれに代かえるようになった。京都きょうと方言ほうげんでは享とおる保ほ・宝たから暦れき頃ごろには大体だいたいｈ音おとになっていたようであるが、元禄げんろくまたはそれ以前いぜんに既すでにｈ音おとであったのではないかと思おもわれるふしもある。しかし、第だい二に期きにおけるごときハ行ぎょう音おんは、遠とお僻へきの地ちの方言ほうげんには今日きょうでもまだ存そんしている。
（四よん）「敬けい（けい）」「帝みかど（てい）」「命いのち（めい）」のようにエ段だん音おんの次つぎにイ音おんが来きたものは、文字通もじどおりケイテイメイと発音はつおんしていたのであるが、江戸えど後半こうはんの京都きょうと方言ほうげんでは、エ段だんの母音ぼいんｅとｕとが合体がったいしてｅの長音ちょうおんとなり、エ段だん長音ちょうおんが発生はっせいした。
（五ご）　クヮ（kwa）グヮ（gwa）は、カ・ガと混同こんどうする傾向けいこうが古ふるくからあり、江戸えど初期しょきの京都きょうとでも下層かそう階級かいきゅうのものはカ・ガと発音はつおんしたものがあったが、しかし標準ひょうじゅん的てきの音おととしては永ながく保たもたれた。しかるに江戸えど末期まっきになっては、京都きょうとでも一般いっぱんにカ・ガの音おとに変へんじた。これはｗ音おとを発はっする時ときの唇くちびるの運動うんどうがなくなったからである。クヮ・グヮの音おとは今日きょうでも方言ほうげんには残のこっているものがある。
（六ろく）　ガ行ぎょう音おんは、室町むろまち時代じだいにおいては、多分たぶん、どんな位置いちにおいてもすべてｇではじまる音おとであったろうが、今日きょうの京都きょうと語ご（および東京とうきょう語ご）においては、語頭ごとう以外いがいには鼻音びおんngで初はつまる音おとすなわちの音おとになっている。室町むろまち時代じだいにおいては、ガ行ぎょう音おんが語頭ごとう以外いがいの位置いちにある時ときは、今日きょうの土佐とさ方言ほうげんにおけるごとく、その前まえの母音ぼいんを鼻音びおん化かしたのであるから、その鼻はな母音ぼいんの影響えいきょうを受うけてｇ音おとがng音おとになったものであろう。かような音おと変化へんかはいつ頃ごろ行おこなわれたか明あきらかでないが、現代げんだいの諸しょ方言ほうげんにおいて、ガ行ぎょう音おんがかように変化へんかしたものと、もとの形かたちを残のこしているものとがあって、その方言ほうげんの分布ぶんぷが、クヮ音おんとそれから変化へんかしたカ音おんとの分布ぶんぷと一致いっちする所ところが多おおいのと、新旧しんきゅう両りょう形かたちの分布ぶんぷがかなり錯乱さくらんしているのとによって見みれば、この音おと変化へんかは比較的ひかくてき新あたらしいものであろうと思おもわれる。
（七なな）　エ音おんオ音おんは、室町むろまち末期まっきにはyewoの音おとであったろうと推定すいていしたが、京都きょうと語ごでは今日きょうではｅｏとなっている。これは江戸えど時代じだいにおいて変化へんかしたのであろうが、その年代ねんだいはまだわからない（エ音おんは九州きゅうしゅう・東北とうほく等とうの方言ほうげんでは明治めいじ以後いごもyeの音おととして残のこっている）。
（八はち）　「セ」「ゼ」は室町むろまち時代じだいにはshejeの音おとであった。これが現代げんだいの京都きょうと語ごでは、セ・ゼになっている。この変化へんかもいつ頃ごろ起おこったかわからないが、あるいは江戸えど時代じだい後半こうはんでなかろうかと思おもう。（方言ほうげんには、今いまなおshe音おとを保たもっているものがある。関東かんとう方言ほうげんでは室町むろまち時代じだいからsezeであって、今日きょうの東京とうきょう語ごもそうである。）
（九きゅう）　入声にっしょう（にっしょう）のｔもすべてツ（tsu）の音おとになった（「仏ふつ」「鉄てつ」「説せつ」など）。この変化へんかの年代ねんだいもまだ明あきらかでない。

　以上いじょう述のべた所ところによれば、国語こくごの音韻おんいんは、江戸えど時代じだいにおいて、ヂとジ、ヅとズ、オ段だん長音ちょうおんの開ひらき音おんと合ごう音おんが、それぞれその区別くべつを失うしない、クヮ・グヮはカ・ガとなり、入声にっしょうのｔはツ音おんとなって、その数かずを減げんじ、ハ行ぎょう音おん、およびエ・オ・セの諸しょ音おとは変化へんかしたが、なお、それぞれ一いち音おととしての位置いちを保たもち、イはエ段だん音おんと合体がったいしてエの長音ちょうおんを生しょうじ、語かたり中ちゅう語尾ごびのガ行ぎょう音おんは、語頭ごとうのものとわかれて、新あらたに鼻音びおんのガ行ぎょう音おんを生しょうじた。かようにして全体ぜんたいとしては音韻おんいんはその数かずをましたのである。そうして、江戸えど末期まっき以来いらい西洋せいよう諸国しょこくの言語げんごに接せっして、その語かたりを国語こくごの中なかに用もちいるにいたったが、音韻おんいんとしては、「チェ」「ツェ」「フィ」「ti」「di」などが、時ときとして用もちいられる傾向けいこうが見みえる。
　なお、以上いじょうの音韻おんいんの変遷へんせんは、京都きょうと語ごを中心ちゅうしんとして述のべたのであるが、他たの方言ほうげんでは、その変遷へんせんの時代じだいを異ことにしたものがあるばかりでなく、その変化へんかの種類しゅるいを異ことにして、例たとえばア列れつ音おんが次つぎに来くるイ音おんと合体がったいして、種々しゅじゅの開ひらき音おんのエ（普通ふつうのエよりも多おおく口くちを開ひらいて発はっするエ類似るいじの音おと）の長音ちょうおんになり、またイ音おんがエ音おんと同音どうおんになり、スとシが共ともに一ひとつの新あたらしい音おとになるというような類るいが少すくなくない。
　殊ことに、関東かんとうにおいてはオ段だん長音ちょうおんの開ひらき合あいの別べつの失うしなわれ、またクヮ・グヮのカ・ガに変へんじた年代ねんだいが京都きょうと語ごよりも早はやかったことは証あかしがあり、江戸えどにおいては、享とおる保ほの頃ころに、明あきらかに鼻音びおんのガ行ぎょう音おんがあり、また、ヒ音おんがシ音おんに近ちかかったのである。
（一いち）　ハ行ぎょう音おんが変化へんかして、現今げんこんのような音おと（ｈではじまる音おと）になった後のちも、語頭ごとうにのみ用もちいられることはかわらない（ただし、複合語ふくごうごなどの場合ばあいには多少たしょうの例外れいがいがある）。
　パ行ぎょう音おんが語頭ごとうにも用もちいられるようになった。第だい二に期きにおいては本来ほんらいの国語こくごでは擬声語ぎせいごのほかはパ行ぎょう音おんが語頭ごとうに来くることはなかったが、しかし、西洋せいようと交通こうつうの開あけた結果けっか、西洋せいよう語ごが国語こくご中ちゅうに用もちいられたため、多少たしょうパ行ぎょう音おんではじまる語かたりが出来できたが、この期きにおいてことに明治めいじ以後いご、多おおくの西洋せいよう語ごを国語こくご中ちゅうに用もちいるようになって、パ行ぎょう音おんを語頭ごとうに用もちいることが多おおくなったのである。
　ガ行ぎょう音おんが語頭ごとう以外いがいにおいて鼻音びおんのガ行ぎょう音おんに変化へんかしたため、ガ行ぎょう音おんは語頭ごとうにしか来こないことになった。
（二に）　入声にっしょうの音おとがツ音おんに変へんじた結果けっか、ｔが語尾ごびに来くることはなくなった。
（三さん）　ンの場合ばあいの連声れんじょう（れんじょう）は追おい々行おこなわれなくなって、ただ、「親王しんのう」「因縁いんねん」「輪廻りんね」のようなきまった語かたりのみに名残なごりをとどめるに過すぎない。しかし、これは江戸えど時代じだい前半ぜんはんは相当そうとうに行おこなわれたので、ことに助詞じょし「を」の場合ばあいには享とおる保ほ頃ごろまでもノと発音はつおんしたようである。
　入声にっしょうｔ（後ごにはツ）の場合ばあいの連声れんじょうは、この期きには早はやくから一般いっぱん的てきには行おこなわれなくなっていたらしい。ただし少数しょうすうの特別とくべつの語かたりの読よみ方かたとして今いままでも痕跡こんせきを存そんしている（「新発意しんぼち（シンボチ）」「闕腋（ケッテキ）」など）。
　漢語かんごにおけるンおよび入声にっしょうに続つづく音おとの転化てんかの法則ほうそくは、この期きにおいて入声にっしょうｔがツと変へんじた後のちでも、第だい二に期きと同様どうようのきまりが行おこなわれて今日きょうに及およんでいる。


　以上いじょう、日本にっぽんの中央ちゅうおうの言語げんごを中心ちゅうしんとして、今日きょうに至いたるまで千せん二に、三さん百ひゃく年ねんの間あいだに国語こくご音韻おんいんの上うえに起おこった変遷へんせんの重おも（おも）なるものについて略述りゃくじゅつしたのであるが、これらの変遷へんせんを通つうじて見みられる重おもなる傾向けいこうについて見みれば、
（一いち）　奈良なら朝あさの音韻おんいんを今日きょうのと比較ひかくして見みるに、変化へんかした所ところも相当そうとうに多おおいが、しかし今日きょうまで大体だいたい変化へんかしないと見みられる音おともかなり多おおいのであって、概がいしていえば、その間あいだの変化へんかはさほど甚はなはだしくはない。
（二に）　従来じゅうらい、古代こだいにおいては多おおくの音韻おんいんがあり、後のちにいたってその数かずを減げんじたという風ふうに考かんがえられていたが、それは「い」「ろ」「は」等とうの一ひとつ一ひとつの仮名かめいであらわされる音韻おんいんだけのことであって、新あらたに国語こくごの音おととして加くわわりまたは後のちに変化へんかして生しょうじた拗音ようおんや長音ちょうおんのような、二ふたつまたは三みっつの仮名かめいで表あらわされる音おとをも考慮こうりょに入いれると、音韻おんいんの総数そうすうは、大体だいたいにおいて後代こうだいの方ほうが多おおくなったといわなければならない。
（三さん）　音韻おんいん変化へんかの真しんの原因げんいんを明あきらかにすることは困難こんなんであるが、我わが国語こくご音韻おんいんの変遷へんせんには、母音ぼいんの連れん音おん上じょうの性質せいしつに由来ゆらいするものが多おおいように思おもわれる。我わが国くにでは、古ふるくから母音ぼいん一ひとつで成立なりたつ音おとは語頭ごとうには立たつが語かたり中ちゅうまたは語尾ごびには立たたないのを原則げんそくとする。これは、連続れんぞくした音おとの中なかで、母音ぼいんと母音ぼいんとが直接ちょくせつに接せっすることを嫌きらったのである。それ故こ、古ふるくは複合語ふくごうごにおいてのみならず、連語れんごにおいてさえ、母音ぼいんの直前ちょくぜんに他たの母音ぼいんが来くる場合ばあいには、その一方いっぽうを省はぶいてしまう傾向けいこうがあったのである。その後ご国語こくごの音おと変化へんかによって一いち語ご中ちゅうの二ふたつの母音ぼいんが続つづくものが出来でき、または母音ぼいんが二ふたつ続つづいた外国がいこく語ご（漢語かんご）が国語こくご中ちゅうに用もちいられるようになると、遂ついにはその二ふたつの母音ぼいんが合体がったいして一ひとつの長音ちょうおんになったなども、同おなじ傾向けいこうのあらわれである。我わが国くにで拗音ようおんになった漢字かんじ音おんは、支ささえ那なでは多おおくは母音ぼいんが続つづいたもの（例たとえばkia　kua　mia　io）であるが、これが我わが国くにに入はいって遂ついに拗音ようおん（kya　kwa　mya　ryoなど）になったのも、やはり同種どうしゅの変化へんかと見みることが出来できようと思おもう。そうして今日きょうのように、どんな母音ぼいんでも自由じゆうに語かたり中ちゅう語尾ごびに来くることが出来できるようになったのは第だい三さん期き江戸えど時代じだい以後いごらしい。かように見み来きたれば、右みぎのような母音ぼいんの連れん音おん上じょうの性質せいしつは、かなり根強ねづよかったもので、それがために、従来じゅうらいなかったような多おおくの新あたらしい音おとが出来できたのである。
（四よん）　唇音しんおん退化たいかの傾向けいこうは国語こくご音韻おんいん変遷へんせん上じょうの著いちじるしい現象げんしょうである。ハ行ぎょう音おんの変遷へんせんにおいて見みられるｐからＦへ、Ｆからｈへの変化へんかは、唇くちびるの合あわせ方かたが次第しだいに弱よわく少すくなくなって遂ついに全まったくなくなったのであり、語かたり中ちゅう語尾ごびのハ行ぎょう音おんがワ行ぎょう音おんと同音どうおんとなったのは唇くちびるの合あわせ方かたが少すくなくなったのであり、ヰヱ音おんがイエ音おんになり、また近世きんせいに、クヮグヮ音おんがカガ音おんになったのも、「お」「を」が多分たぶんwoからｏになったろうと思おもわれるのも、みな唇くちびるの運動うんどうが減退げんたいしてなくなったに基もとづく。かように非常ひじょうに古ふるい時代じだいから近世きんせいまでも、同おなじ方向ほうこうの音おと変化へんかが行おこなわれたのである。
（五ご）　外国がいこく語ごの国語こくごへの輸入ゆにゅうが音韻おんいんに及およぼした影響えいきょうとしては、漢語かんごの国語こくご化かによって、拗音ようおんや促音そくおんやパ行ぎょう音おんや入声にっしょうのｔやン音おんのような、当時とうじの国語こくごには絶無ぜつむではなかったにしても、正常せいじょうの音おととしては認みとめられなかった音おとが加くわわり、またラ行ぎょう音おんや濁音だくおんが語頭ごとうに立たつようになった。また西洋せいよう語ごを輸入ゆにゅうしたために、パ行ぎょう音おんが語頭ごとうにも、その他たの位置いちにも自由じゆうに用もちいられるようになった。
　音便おんびんと漢語かんごとの関係かんけいは、容易よういに断定だんていを下くだし難がたいが、多少たしょうとも漢語かんごの音おとの影響えいきょうを受うけたことはあろうと思おもう。
（六ろく）　従来じゅうらいの我わが国くにの学者がくしゃは日本にっぽんの古代こだいの音韻おんいんを単純たんじゅんなものと考かんがえるものが多おおく、五十音ごじゅうおんを神代かみよ以来いらいのものであると説といた者ものさえある。しかるに我々われわれが、その時ときの音韻おんいん組織そしきを大体だいたい推定すいていし得える最古さいこの時代じだいである奈良なら朝あさにおいては、八はち十じゅう七ななまたは八はち十じゅう八はちの音おとを区別くべつしたのであって、その中なかから濁音だくおんを除のぞいても、なお六ろく十じゅうないし六ろく十じゅう一いちの音おとがあったのである。それらの音おとの内部ないぶ構造こうぞうは、まだ明あきらかでないものもあるが、これらの音おとを構成こうせいしている母音ぼいんは、五十音ごじゅうおんにおけるがごとく五ご種しゅだけでなく、もっと多おおかったか、さもなければ、各かく音おとは一ひとつの母音ぼいんかまたは一ひとつの子音しいんと一ひとつの母音ぼいんで成立なりたつものばかりでなく、なお、少すくなくとも二ふたつの子音しいんと一ひとつの母音ぼいんまたは一ひとつの子音しいんと二ふたつの母音ぼいんから成立なりたつものがあったと考かんがえるほかないのであって、音おとを構成こうせいする単音たんおんの種類しゅるいまたは音おとの構造こうぞうが、これまで考かんがえられていたよりも、もっと多様たよう複雑ふくざつになるのである。これらの音おとが平安朝へいあんちょうにおいては濁音だくおん二に十じゅうを除のぞいて四よん十じゅう八はち音おとから四よん十じゅう七なな音おと、更さらに四よん十じゅう四よん音おとと次第しだいに減少げんしょうし、音おとの構造こうぞうも、大体だいたい五ご種しゅの母音ぼいんと九きゅう種しゅの子音しいんを基礎きそとして、母音ぼいん一ひとつか、または子音しいん一ひとつと母音ぼいん一ひとつから構成こうせいせられるようになって、前代ぜんだいよりも単純たんじゅん化かしたのである。この傾向けいこうから察さっすると、逆ぎゃくにずっと古ふるい時代じだいに溯さかのぼれば、音おとの種類しゅるいももっと多おおく、音おとを構成こうせいする単音たんおんの種類しゅるいや、音おとの構造こうぞうも、なお一層いっそう多様たよう複雑ふくざつであったのではあるまいか、すなわち、我々われわれの知しり得える最古さいこの時代じだいの音韻おんいん組織そしきは、それよりずっと古ふるい時代じだいの種々しゅじゅの音韻おんいんが、永ながい年月としつきの間あいだに次第しだいに統一とういつせられ単純たんじゅん化かせられた結果けっかではあるまいかと考かんがえられるのである。