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浦河大黒座 (港町キネマ通り)

札幌さっぽろからバスにって4あいだ北海道ほっかいどう南岸なんがん日高ひだか地方ちほうにある人口じんこう1まん4せんにんほどちいさな漁師りょうしまち浦河うらかわまちかう。主要しゅよう路線ろせんのJR日高ひだかせんは、3ねんまえ高波たかなみと2ねんまえ台風たいふうによって甚大じんだい被害ひがいこうむり、以来いらい運休うんきゅうつづけているため現在げんざいはバスにたよるしかない。出発しゅっぱつして2あいだ門別もんべつ競馬けいばじょうぎると競争きょうそう牧場ぼくじょうがいくつもえてくる。種馬たねうま産地さんちとして有名ゆうめい新冠にいかっぷもこの浦河うらかわ国道こくどう沿いにある。そう、ここはうま王国おうこくだ。海沿うみぞいにある牧場ぼくじょうくさうま姿すがたていると、舟木ふなき一夫かずお内藤ないとう洋子ようこ共演きょうえんした“そのひとむかし”をおもす。狩勝峠かりかちとうげから襟裳岬えりもみさきまで南北なんぼくはし日高ひだか山脈さんみゃくからそそがれるきよらかな清流せいりゅうゆたかな作物さくもつはぐくみ、やがてうみへとちゅうれる。日高ひだか地方ちほう漁業ぎょぎょう歴史れきしふる江戸えど時代じだいさかのぼる。浦河うらかわまち開拓かいたくまえからさけ昆布こぶ松前まさきはんふね停泊ていはくするみなとであり、戦後せんごまで漁師りょうしたちが身体しんたいやすめる場所ばしょとしてにぎわっていた。ちょうどいまはるウニの最盛さいせいで、取材しゅざいちゅうもウニどんぶりまつりなるイベントが開催かいさいされていた。浦河うらかわいたのはちた夕方ゆうがたおそく…みなと沿って東西とうざいひろがるまち整備せいびとどいており、バスをりるとほのかにただよしおかおりに、このまちきになってしまった。

メインどおりからみなとすこはいったところに、今年ことし100周年しゅうねんむかえる映画えいがかん浦河うらかわ大黒だいこく』がある。最終さいしゅうかいはじまる30ふんまえ…ひとのないロビーにはいると、受付うけつけすわっていたしな年輩ねんぱいのご婦人ふじんが「あら、映画えいがをごらんになるの?まぁまぁ、こんなおそくにありがとう」と満面まんめんみで出迎でむかえてくれた。今日きょうは、取材しゅざい最終さいしゅうかい映画えいがようとおもって…とげると、「わざわざとおいところからてくれたので、おだいはイイですから…」と、なかなかおかねってくれない。そうこうしているあいだてくれたのは、よん代目だいめ館主かんしゅである三上みかみ雅弘まさひろだ。なにとかおねがいして、せめて割引わりびき料金りょうきんだけでもはらわせてもらい、たった一人ひとり贅沢ぜいたく観賞かんしょうをさせていただいた。ちなみに、そのご婦人ふじん館主かんしゅのお母様かあさま雪子ゆきこさん。92さいとはおもえないほど元気げんきなお姿すがたで、毎日まいにち受付うけつけすわってばんをされているという。

創業そうぎょう大正たいしょう7ねん12月…浦河うらかわまちがまだ浦河うらかわむらだったころさかのぼる。大工だいくをしていたまさひろし曾祖父そうそふ辰蔵たつぞう設立せつりつした木造もくぞうかいての367にん収容しゅうよう出来でき映画えいがかんで、ばんひがしつま三郎さぶろう主演しゅえんのチャンバラ映画えいが影法師かげぼうし”をこけら落ではじまった。「曾祖父そうそふ富山とやま人間にんげんで、この土地とちものではありませんでした。しばらくして親戚しんせき富山とやまからんだらしいですから、はやくから成功せいこうしたのでしょうね」元々もともと職人しょくにんなどおおくのひとあつまれる空間くうかんがあったことから、そこで浪花節なにわぶし寄席よせ一座いちざ興行こうぎょうをやっていたのが前身ぜんしん常設じょうせつかんというかたちではなく、地域ちいきでやるもよおもの会場かいじょうとして使つかわれていた空間くうかんだった。あつかっていた材木ざいもく台風たいふうすべかわながしてしまったこともあり、としったら出来できなくなる大工だいくよりも、からだ使つかわないで出来でき映画えいがかんをやろう…とおもったのがはじまりだ。「100ねんまえというのは、日本にっぽん童謡どうよう甲子園こうしえん大会たいかい日本にっぽんでベートーベンの合唱がっしょうおこなわれた時期じきだったようです。だいいち大戦たいせんわってホッとした時代じだい…そんな時代じだいながれが、この最果さいはてのまちにもやってたのでしょうね」とまさひろし分析ぶんせきする。


当時とうじ全席ぜんせきたたみ枡席ますせきで、下足げそくばん上履うわばきをあづけて入場にゅうじょうした「ふゆちいさい火鉢ひばちして、座布団ざぶとんるおねえさんもいたそうですよ。映写えいしゃ技師ぎしかならにんいて、ボイラーは石炭せきたんきだったので、ずっとひときっきりでした。ほかにも看板かんばんしつがあって、看板かんばん絵師えしが4にん…よくつかれて廊下ろうかてましたよ(笑)」運営うんえいつね家族かぞくぐるみ。まさひろし祖母そぼ・ヨネさんは清掃せいそうにはきびしく、丁寧ていねい雑巾ぞうきんけをしなければ、容赦ようしゃなくやりなおしをさせて、子供こどもたちは分担ぶんたんえるまで学校がっこうけなかった。やがて時代じだい太平洋戦争たいへいようせんそう突入とつにゅう映画えいがかんにもキナくさ雰囲気ふんいきただよはじめた。場内じょうないにあった臨観せきいまでいう特別とくべつせきには、つね公安こうあん風紀ふうき取締とりしまり名目めいもくすわっており、住民じゅうみんたのしんでいないかひからせていた。支配人しはいにんだったまさひろしちち政義まさよしはそんな状況じょうきょう苦々にがにがしくおもっていたそうだ。「ちちはそういうことだいきらいで…もう映画えいがかんはやりたくないとおもっていたそうです。結局けっきょく、そんなちち戦争せんそうってしまいましたけどね」戦局せんきょくきびしくなると映画えいが上映じょうえいおこなわれなくなり、政義まさよし復員ふくいんすると映画えいがかんには、大量たいりょういもまれていた。それからあいだもない昭和しょうわ22ねん辰蔵たつぞうくなるとヨネさんが代目だいめとなった。

戦後せんご大映だいえい松竹しょうちく東映とうえい専門せんもんかんとして再開さいかいすると、娯楽ごらくえていたひとたちがせて、佐田さた啓二けいじ主演しゅえんの“かねおか”はだいヒットを記録きろくした。当時とうじ浦河うらかわにあった“大衆たいしゅうかん”と人気にんき二分にぶんしており、日高ひだかせん乗客じょうきゃくほとんどが映画えいがかん目指めざしていたという。「映画えいがかんがないところには巡業じゅんぎょう上映じょうえいをしていました。汽車きしゃ映写機えいしゃきとフィルムをんで翌日よくじつかえったそうです」そんなかんじで入場にゅうじょうりょうもいちいちかぞえられず、紙幣しへいはこなかみ、あっという満杯まんぱいになったそうだ。昭和しょうわ28ねんには“日本にっぽん悲劇ひげき”をこけらとしに改装かいそうたたみじき場内じょうないを220せき座席ざせきにした。翌年よくねんにヨネさんがくなり、政義まさよしさん代目だいめぐと“大衆たいしゅうかん”をり『セントラル劇場げきじょう』と改名かいめいかん体制たいせい芝居しばい浪曲ろうきょく講談こうだんなどもおこなった。まさ最盛さいせい当時とうじ雪子ゆきこさんはいそがしくてあいだかったという。「あさの10から翌朝よくあさまででしたからね。通常つうじょう上映じょうえいよる9わると、今度こんどはナイトショー。そのときにはおきゃくさんのながれつ出来できてたんですから。その深夜しんや興行こうぎょうあさ4時半じはんまで上映じょうえいしていたので、子供こども学校がっこうおくすともうひる興行こうぎょうでした」


当時とうじなんと3にちわりというハイペース。まちひとたちは、公開こうかいした途端とたんてしまうため、はやちがうのをやってくれ!…と、えず新作しんさくもとめていた。「本当ほんとうみなさん映画えいがたのしんでいましたね。黒澤くろさわあきらの“天国てんごく地獄じごく”のときは、みなさんしゅあせにぎって夢中むちゅういきをのんでいた…そういう時代じだいです」当時とうじ浦河うらかわ新作しんさくのフィルムがまわってるのは半年はんとしからいちねん。それでも、まちひとたちは映画えいがわると、つぎたのしみに帰路きろについていた。そんな、ギュウギュウのお客様きゃくさま館内かんない廊下ろうかとおれなかった…という時代じだいもテレビが登場とうじょうするまでの一瞬いっしゅんだったとまさひろしう。「もうテレビも着々ちゃくちゃく準備じゅんびされていて、昭和しょうわ30年代ねんだいすぐに放送ほうそうはじまっていましたからね。じつ時代じだいなんて10ねんかったんですよ。でも小学生しょうがくせいぼくは、学校がっこうからかえったら場内じょうないはいってニュース映画えいが毎週まいしゅうテレビのようにていました。ガラガラの場内じょうないのスクリーンに安保あんぽデモの様子ようすうつっていてね…ぼく映画えいがかんなか社会しゃかいまなんだんです」

昭和しょうわ30年代ねんだいなかばをぎると最盛さいせいいきおいにかげりをはじめた。『セントラル劇場げきじょう』を閉館へいかんして、しばらくはしん東宝とうほう大蔵おおくら映画えいが上映じょうえいするようになった。それでも最初さいしょころは、しん東宝とうほうの“明治天皇めいじてんのうにち戦争せんそう”がだいヒットしたり、大蔵おおくら映画えいがもエログロ怪談かいだんものに人気にんきあつめていた。「夏場なつばのナイトショーで怪談かいだんやドラキュラ映画えいがさん本立ほんだてをやると、これがまたよくはいるんですよ。ねこ映画えいがなんて子供こどもしんこわかったなぁ。よるには映画えいがだけじゃなく巡業じゅんぎょうおどさんによるストリップショーの実演じつえんもやってました」当時とうじ浦河うらかわまちもイカりょうさかんで、映画えいがかんよこはし浜町はまちょうには100けん以上いじょうもののきつらねてにぎやかだったそうだ。普段ふだんひる一般いっぱんけの映画えいが上映じょうえいしているが、うみ時化しけるとおきられない漁師りょうしたちが映画えいがかんるため、天気てんきくずれると急遽きゅうきょ、お色気いろけものにえていた…というのは港町みなとちょう映画館えいがかんならではのエピソードではないか。「そのときが、はなやかりし映画えいがかん最後さいごじゃないかな?あさ映写機えいしゃきまわしたらのちはずっとけっぱなし。おきゃくさんはきなときて、きなだけいる。タバコも自由じゆう場内じょうないっていたからね。そのとき場内じょうないひろかったので、不思議ふしぎとそんなに迷惑めいわくかんじなかったな。休憩きゅうけい時間じかんいから掃除そうじなんて映画えいがやっている最中さいちゅうにしてましたよ(笑)」

そんな状況じょうきょうけっしてながくはつづかなかった。昭和しょうわ50ねん、しばらくまちはなれていたまさひろしひさしぶりにもどると、たくさんのひとはたらいていた映画えいがかんだれもいなくなっていたことおどろきをかくせなかった。「ポルノ映画えいが下火したびになって、土日どにちだけしか上映じょうえいしていなかったのです。ぼくがここを手伝てつだおうとおもったのは、まだ50だいだったちちがものすごくんで60さいのようにえたから。おきゃくさんがいなくても仕事しごとりょうわらないですからね…それをちち一人ひとりでやっていたのです」最後さいご映写えいしゃ技師ぎしともぎりじょうめて家族かぞくだけとなった映画えいがかんで、まさひろしなにでもやった。ボイラーきもやって、メンテナンスのときがまなかはいって石炭せきたんすすくちなかまでくろになった。「友人ゆうじんはそんなぼくなにをやっているの?って(笑)」そんな『大黒だいこく』を応援おうえんしようと、昭和しょうわ61ねん地元じもと映画えいがファンが浦河うらかわ映画えいがサークルを設立せつりつ平成へいせい5ねんにはここを舞台ぶたいとした恩地おんち日出男ひでお監督かんとく佐藤さとう浩市こういち名取なとり裕子ゆうこ主演しゅえん映画えいが結婚けっこん”がつくられた。そして…このとしからはじまった国道こくどう拡幅かくふく工事こうじによって映画えいがかんもセットバックすることとなり、その補助ほじょきんによってさん代目だいめ浦河うらかわ大黒だいこく』としてまれわる。それまで木造もくぞうモルタルだった外観がいかんから、三角さんかく屋根やねおおきなまど印象いんしょうてき北欧ほくおう港町みなとちょうにある建物たてもののようなイメージにえられたのだ。


勿論もちろん館内かんない設計せっけいにもこだわった。なつかしいとびらじゅう構造こうぞうとなっており、そのこうにはあたたかみある風合ふうあいの場内じょうないひろがる。スクリーンまえ舞台ぶたいと、りょうそでにポスターをるスペースは、創業そうぎょうのイメージを踏襲とうしゅうした。なら使つかったすわ心地ごこち椅子いすは、有名ゆうめい旭川あさひかわ家具かぐのデザイナーによる特注とくちゅうひん採用さいようめんがスライドするからこし負担ふたんからない。さら補助ほじょせきはフィンランドのアリンコチェアで統一とういつしている。映写えいしゃしつ位置いち映写機えいしゃきからスクリーンまでっすぐ設計せっけいされており、業界ぎょうかい関係かんけいしゃからは、どこからでもやすい試写ししゃしつのようだ…とたか評価ひょうかている。天気てんきやわらかな自然しぜんこうまどからむロビーで、れたてのコーヒー(100えん)をみながら時間じかんごす。うみのそばだからだろうか?空気くうきがキラキラして、みみをすませばそとから海鳥うみどりこえこえてくる…最高さいこうのBGMだ。

「そんなちち平成へいせい16ねん7がつくなりました」前日ぜんじつ廣木ひろき隆一りゅういち監督かんとくの“ヴァイブレータ”をていたという政義まさよし映画えいがかん存続そんぞく心血しんけつそそぎ、昭和しょうわ47ねんからはじめたクリーニングてん収益しゅうえき屋台骨やたいぼねささえた。ロビーにかっている「映画えいがない人生じんせいより、人生じんせいほうゆたかです」という政義まさよし言葉ことばこそが、このちいさな映画えいがかんみなもとだった。100周年しゅうねん目前もくぜんまちひとたちががるなかまさひろしいたって冷静れいせいだ。「100周年しゅうねんだからと特別とくべつことをするよりも、今日きょう明日あした大黒だいこくでありつづけるのが大事だいじてつつくひとてつつくる、くるまつくひとくるまつくる。ウチは映画えいがかんなので映画えいがおくつづける…それは今年ことしおなじなんです」むしろ最終さいしゅうかい一人ひとり観客かんきゃくてくれるのがなによりもうれしいとまさひろしつづける。「だって観客かんきゃくがいないと、その作品さくひん上映じょうえいされることわるのですから…」無理むりせず自然体しぜんたい存続そんぞくすること一番いちばんかんがえながら、『浦河うらかわ大黒だいこく』は、まちひとたちにてもらいたい映画えいが今日きょうけている。よる、もしロビーにあかりがついていら、ちょっとみちしてはどうだろうか?(取材しゅざい:2018ねん5がつ


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