――近代日本とは何だったのか? 本書のテーマを一言でまとめるとそうなりますが、しかしアプローチの仕方が、従来の近代日本論とはかなり違いますね。
ひとつには、第一次世界大戦の意味合いを重視したことでしょうか。従来の図式だと、日露戦争の勝利から第二次世界大戦の敗北へ、という流れで見ていく。つまり日露戦争で列強の仲間入りを果たし、大正はデモクラシーで比較的平和な時代だったけれども、昭和初年の世界大恐慌で揺さぶられ、軍部が暴走し始めて社会はファッショ化し、日米戦争に突入した挙句に滅びた。この図式が間違いとは言えません。しかし、大正年間には第一次世界大戦という、人類史上初めて「世界大戦」と呼ばれた長期総力戦が行われた。この戦争の衝撃は近代日本を語るうえであまりに軽視されてきたのではないか。むしろそこを基点にすると、時代の流れがきれいに辿れるのではないか。
――しかし当時の日本人は、実際のところ、第一次大戦をそんなに深刻に受けとめていたのでしょうか。
たしかに多くの日本人は高みの見物を決めこんでいました。戦争特需でバブル並みの好景気にも恵まれた。しかし、徳富蘇峰のように、「成金気分」に酔いしれる暢気な日本人を叱りつけた思想家もいましたし、とりわけ軍人たちは第一次世界大戦におおきな衝撃を受けていたのです。次なる戦争が起きるとすれば、それはもっと大規模な総力戦になるに違いない。兵器にせよ兵士にせよ、またそれを支える資源や経済にせよ、とにかく莫大な物量を備えていなければならない。だが、今の日本には、世界の列強に伍していけるほどの国力はない。では「持たざる国」日本が「持てる国」相手の戦争に勝つためにはどうすればよいのか……。こういった冷静な現状認識と痛切な危機意識を軍人たちは共有していた。もちろん「どうすれば」という点に関しては、考え方の相違や対立がありましたけれど。
――その共通認識と相違・対立に目配りしながら、昭和の軍人たちの著作や報告書や綱領が読み解かれ、ひいては一九四五年の敗戦へ至る「持たざる国」日本の運命が描かれていきます。
陸軍や海軍、あるいは大本営の公式見解や統一方針ではなく、むしろ個々の軍人たちの思想に焦点を絞ってみたのです。昭和の軍人たちの戦争観・戦争哲学を読み解き、近代日本に光を当てる。従来の研究にはなかった視角かと思います。でも実際、「皇道派」の小畑敏四郎や「統制派」の石原莞爾、さらには酒井鎬次や中柴末純といった軍人たちの著作を読み込んでいくと、彼らが第一次大戦の衝撃を身にしみて感じ、またそれを前提として日本の進むべき途をそれぞれ模索していたことがよく分かります。小畑は「持たざる国」の身の丈に合った戦争を考え、石原は「持たざる国」を「持てる国」にしてから「世界最終戦」に勝利するという遠大なヴィジョンを描き、酒井は「速戦即決」の電撃戦以外に日本の活路はないと思い、そして中柴は物資や物量の不足を補うために「精神主義」を賞揚した。
――詳しい経緯や背景は本書の叙述に譲るとして、この「精神主義」が、やがて日本国民にも浸透していきます。
最もファナティックな精神主義者は中柴末純でしょう。しかし「一億玉砕」を賛美し正当化しようとした彼のファナティスムでさえ、ある意味で、現実に根ざしたものでした。日本が「持たざる国」であることを重々承知していたからこそ、背伸びをするために「精神」という下駄を履かせて、持たざる物量をカバーしようとした。日本はじっさい背伸びをし過ぎて悲惨な結末を迎えたわけですが、それにしても日本人はなぜ、近代化が進展すればするほど神がかっていったのか。そのあたりのアイロニカルな事情は、第一次世界大戦の衝撃を始点にし、中柴末純の思想を終点にして見てゆくと、鮮明になるように思います。
――とはいえ、これは軍人ばかり登場する本ではありません。文学者の話がまた面白い。童話作家として知られる小川未明が第一次大戦をどう捉えていたか、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』と石原莞爾の『世界最終戦論』はどうリンクするのか。
有島武郎の岳父は青島戦役の将軍でしたしね。
――本書は小社の『波』に連載されたものに、かなりの加筆がなされて出来上がったものです。連載中に3・11がありました。なにか意識されましたか。
ここで描いたのは主に一九一四年から四五年までの日本です。戦後の話は皆無に近い。でも書き手としては3・11以降、近代と現代がリアルタイムで重なるような感覚がありました。今回私たちは日本が世界に冠たる地震大国であることを痛感させられたわけですが、原子力発電のリスクについては欧米並みかそれ以下にしか見積らずにやって来た。かつては戦争に勝つために精神力という非科学的な下駄を履いたとすれば、戦後は経済成長のために原子力の安全神話という科学的な下駄を履いてきた。リスクを軽視してまで背伸びをして生きるという、中途半端な近代先進国としてのあり方は、今も変わっていないのではないでしょうか。
(かたやま・もりひで 慶應大学法学部准教授)
波 2012年6月号より