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イギリス国教会
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イギリス国教こっきょうかい

16世紀せいき、イギリス宗教しゅうきょう改革かいかくによって成立せいりつしたイギリス国王こくおう首長しゅちょうとする教会きょうかいとその信者しんじゃう。プロテスタントではあるがピューリタンなどくに教徒きょうととは対立たいりつし、名誉めいよ革命かくめい国家こっか宗教しゅうきょうとして確立かくりつした。

 1530年代ねんだいから70年代ねんだいにかけて、テューダー王朝おうちょうヘンリ8せいエドワード6せいエリザベス1せいによってすすめられたイギリス宗教しゅうきょう改革かいかくによって成立せいりつした、ローマ教会きょうかいから分離ぶんり独立どくりつしたイギリス独自どくじ教会きょうかい制度せいどアングリカン=チャーチ Anglican Church とわれる。 → イギリスの宗教しゅうきょう各派かくは

国教こっきょうかい内容ないよう

 ヘンリ8せいおよびエリザベス1せい制定せいていした首長しゅちょうほう国王こくおう至上しじょうほう)、エドワード6せい制定せいていした一般いっぱん祈祷きとうしょ、エリザベス1せいとき完成かんせいした統一とういつほう、および信仰しんこう箇条かじょうなどの規定きていからまとめるとつぎのような特徴とくちょうがある。
  • イギリス国王こくおう教会きょうかい首長しゅちょうとなること。(国王こくおう教会きょうかい最高さいこう統治とうちしゃとなる。)
  • 主教しゅきょうせいによる教会きょうかい組織そしき。(国王こくおうだい主教しゅきょう主教しゅきょうふく主教しゅきょう司祭しさいちょう司祭しさい
  • 教義きょうぎカルヴァン主義しゅぎちかい。(信仰しんこうみとめせつ聖書せいしょ主義しゅぎ定説ていせつなど)
  • 儀式ぎしきはカトリックのものをのこす。(聖職せいしょくふく着用ちゃくよう聖餐せいさんしきとき跪拝きはいなど)

ピューリタン革命かくめい

 イギリス国教こっきょうかい制度せいどは、エリザベス1せい統一とういつほう制定せいてい一応いちおう完成かんせいしたが、つぎジェームズ1せい絶対ぜったい王政おうせい強化きょうかをめざして国教こっきょうかいによる宗教しゅうきょう統制とうせいつよめ、カトリック信者しんじゃとプロテスタント(カルヴァンおおく、ピューリタンわれた)はきびしく弾圧だんあつされた。カトリックはイングランド北部ほくぶからスコットランドに勢力せいりょくのこしており、ピューリタンは都市とし中産ちゅうさん階級かいきゅうおおかったが弾圧だんあつされてアメリカ新大陸しんたいりく移住いじゅうするものもおおかった。
 つぎチャールズ1せい国教こっきょうかいのカンタベリーだい主教しゅきょうロードらを腹心ふくしんとして専制せんせい政治せいじおこない、一方いっぽう王妃おうひをフランスからむかえたこともあってカトリック復興ふっこう目論もくろんでいるとうたがわれ、議会ぎかい多数たすうめるジェントリそう長老ちょうろうふくむピューリタンがおおかった)との対立たいりつふかまり、1642ねんピューリタン革命かくめいはじまった。その過程かてい権力けんりょくをにぎったピューリタンのクロムウェルは、王政おうせい否定ひていするととも国教こっきょうかい否定ひていし、ピューリタン精神せいしんもとづく厳格げんかく独裁どくさい政治せいじおこなった。しかしその独裁どくさい政治せいじ民心みんしんからはなれ、その死後しごの1660ねん王政おうせい復古ふっことなった。

審査しんさほう制定せいてい

 王政おうせい復古ふっこには、チャールズ2せいがカトリックを復興ふっこうさせようとした。それにたいしてイギリス議会ぎかいは、1673ねん審査しんさほう制定せいていし、官吏かんり登用とうよう国教こっきょうかい信者しんじゃ限定げんていするとした。それはカトリック教徒きょうと排除はいじょする目的もくてきであったが、くに教徒きょうとくに教徒きょうと以外いがいのピューリタンなどのしん教徒きょうと)も排除はいじょ対象たいしょうとされたため、イギリスはくに教徒きょうとのみが官職かんしょくけることとなり、国教こっきょうかい優位ゆうい形成けいせいされた。

名誉めいよ革命かくめい体制たいせい

 つぎジェームズ2せいもカトリック復興ふっこう画策かくさくしたため議会ぎかい国王こくおう追放ついほうし、オランダからメアリ2せいとウィリアム3せいむかえるという名誉めいよ革命かくめい実行じっこうされた。これによって実質じっしつてきには議会ぎかい主権しゅけん確立かくりつし、形式けいしきてき立憲りっけん君主くんしゅせいとともに国王こくおう首長しゅちょうとする国教こっきょうかいがイギリスの国家こっか宗教しゅうきょうとなる「名誉めいよ革命かくめい体制たいせい」が成立せいりつした。
 名誉めいよ革命かくめいでは「権利けんり章典しょうてん」の制定せいていされた1689ねんに、寛容かんようほう制定せいていされ、くに教徒きょうと信仰しんこう自由じゆうみとめらピューリタン革命かくめい以来いらい国教こっきょうかいくに教徒きょうと和解わかいがもたらされた。ただし、審査しんさほうつづいていたのでくに教徒きょうと公職こうしょくけないことはわらなかった。また、カトリックにたいする排除はいじょはなおつづいていた。
 なお審査しんさほう廃止はいしされるのは、ようやく19世紀せいき自由じゆう主義しゅぎつよまりによった1828ねんであった。さらにカトリック教徒きょうと信仰しんこう自由じゆうカトリック教徒きょうと解放かいほうほうたなければならなかった。

国教こっきょうかいこう教会きょうかいてい教会きょうかい

 国教こっきょうかい(アングリカン=チャーチ)は名誉めいよ革命かくめいでイギリスの国家こっか宗教しゅうきょうとしての地位ちい確立かくりつしたが、同時どうじにその内部ないぶに「こうきょう会派かいは」と「ていきょう会派かいは」という分裂ぶんれつ対立たいりつしょうじていた。
こう教会きょうかい(ハイ=チャーチ) 教会きょうかい聖職せいしょくしゃ典礼てんれい権威けんいたかたもとうとし、国教こっきょうかいからピューリタンてき要素ようそ排除はいじょすることに熱心ねっしんであった。かれらの一部いちぶ名誉めいよ革命かくめい議会ぎかい王政おうせい否定ひていして臣従しんじゅう拒否きょひ宣言せんげんし、ジェームズ2せい息子むすこをジェームズ3せいとして復権ふっけんさせることを支持しじしていた。(ジェームズ2せい息子むすこはフランスのルイ14せいによって保護ほごされ、ジェームズ3せいしょうしていた。かれ支持しじするイギリス国内こくない勢力せいりょくジャコバイトといった。)
てい教会きょうかい(ロー=チャーチ) 伝統でんとう典礼てんれいよりも聖書せいしょそくした信仰しんこうおもんじ、ピューリタンたちくに教徒きょうととの協力きょうりょく興隆こうりゅう排除はいじょしなかった。つまり、1689ねん寛容かんようほう精神せいしん忠実ちゅうじつに、くに教徒きょうとどもに「名誉めいよ革命かくめい体制たいせい」をになっていく主体しゅたいだった。ただしこの両派りょうはともにプロテスタント国教こっきょうかいなかふたつの傾向けいこうであって、そのちがいは分明ぶんめいで、中間なかま存在そんざいした。近藤こんどう和彦かずひこみんのモラル』2014 ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ p.94>

現代げんだいのイギリス国教こっきょうかい

 1983ねんがつ、イギリス国教こっきょうかい全国ぜんこく主教しゅきょう会議かいぎは、「かく先制せんせい使用しようこくしゃ)を罪人ざいにんなす」という決定けってい圧倒的あっとうてき多数たすうおこなった。同年どうねんがつ、イギリスでは10まんにん規模きぼ反核はんかく集会しゅうかいがグリナムコモンで開催かいさいされており、かく武装ぶそう運動うんどうがっていた。べいソがレーガン・ブレジネフ時代じだいしん冷戦れいせんといわれたかく危機ききなかで、国教こっきょうかい宗教しゅうきょうしゃとしての発言はつげんをしたことで注目ちゅうもくされた。
しるし すり
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近藤こんどう和彦かずひこみんのモラル』
2014 ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ

初版しょはんは1993ねん、「歴史れきしのフロンティア」(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)のいちさつ。「ホーガースと18世紀せいきのイギリス」が副題ふくだいで、画家がかホーガースのえがをもとに産業さんぎょう革命かくめいのイギリス社会しゃかい分析ぶんせきしたよしみちょ