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竹中労・年譜

年譜ねんぷ

 この年譜ねんぷ製作せいさくにつきましては、1991ねん9がつ20日はつか川口かわぐちリリアホールでおこなわれました「竹中たけなかろうわかれの音楽おんがくかい」のパンフレットに掲載けいさいされた年譜ねんぷ一部いちぶ訂正ていせいのもと掲載けいさいしています。製作せいさくしゃである大村おおむらしげるさんのご厚意こういにより、このページでの掲載けいさい実現じつげんしました。内容ないようについては万全ばんぜんしているつもりですが、戦災せんさいによる戸籍こせき消失しょうしつという事情じじょうもあり、事情じじょうにおくわしいほうからると、おもわぬところで事実じじつちが記載きさいがあるかもしれません。そのときには、どうかこちらのほうまで連絡れんらくいただければさいわいです。

西暦せいれき
元号げんごう
年齢ねんれい
年譜ねんぷ
1930
昭和しょうわ5
さい

東京とうきょう牛込うしごめさかなまち出生しゅっしょうちち英太郎えいたろうはは八重子やえこ長男ちょうなん戦災せんさい復活ふっかつした戸籍こせきでは「30ねん5がつ30にち出生しゅっしょう」だが、旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこう在籍ざいせき簿には「28ねん3がつ30にち」とある。ははじめ「らんろう」。「父親ちちおやがアナキズムからボルシェヴィズムに転向てんこうしたゆえ」という。家庭かてい事情じじょう転居てんきょ転校てんこう4小学校しょうがっこう5ねんつぎ品川しながわ立会川たちあいがわうつさめはま小学校しょうがっこう卒業そつぎょう高輪たかなわ中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく

1941
昭和しょうわ16
11さい

平島ひらしまつね再婚さいこんした英太郎えいたろう生母せいぼ津野つの八重子やえこ手元てもとからろうる。

1942
昭和しょうわ17
12さい

立会川たちあいがわてつ工場こうじょう戦時せんじ企業きぎょう整備せいびにより閉鎖へいさされ英太郎えいたろうとともに甲府こうふ疎開そかい山梨やまなし県立けんりつ甲府こうふ中学校ちゅうがっこう転入てんにゅうがく

1944
昭和しょうわ19
14さい

学徒がくと勤労きんろう動員どういん神奈川かながわけん大船おおぶね海軍かいぐん燃料ねんりょうしょうに。

1945
昭和しょうわ20
15さい

8がつだいちょうカタルという診断しんだん担架たんかにくくりつけられ大船おおぶね海軍かいぐん病院びょういんから甲府こうふかえる。真相しんそう全身ぜんしん打撲だぼく死線しせん彷徨ほうこううほどの教師きょうし制裁せいさい。10月・甲府こうふ中学校ちゅうがっこう全学ぜんがくストライキを指揮しき戦犯せんぱん教師きょうし追放ついほうするがみずからも退学たいがく処分しょぶんになる。

1946
昭和しょうわ21
16さい

東京とうきょう外事がいじ専門せんもん学校がっこうげん東京とうきょう外語がいごだい学科がっか入学にゅうがく

1947
昭和しょうわ22
17さい

在外ざいがい同胞どうほう救出きゅうしゅつ学生がくせい同盟どうめい参加さんか、2・1ゼネスト中止ちゅうし直後ちょくご日本にっぽん共産党きょうさんとう入党にゅうとう。4月・上野うえのえき地下道ちかどう活動かつどう進駐軍しんちゅうぐん夜勤やきん労務ろうむ横浜よこはまこうのプータロー、べいぐん婦人ふじん部隊ぶたい通訳つうやく暴力団ぼうりょくだん親分おやぶんむすめ家庭かてい教師きょうしなどアルバイトにもはげむ。7月・あげ学生がくせい同盟どうめい左翼さよくてき再編さいへんのために結成けっせいした東京とうきょう学生がくせい同盟どうめい事務じむ局長きょくちょうとなり、東京とうきょう引揚しゃ連合れんごうかい文化ぶんか部長ぶちょう兼任けんにん細胞さいぼうキャップS"さんぶんオペラ"と綽名をつける。「犯罪はんざいしゃとも連帯れんたいせよとの奇矯ききょうな(?)理論りろんと襤衣をひっかけた皮肉ひにく」。右翼うよく学生がくせい反撃はんげき援助えんじょ物資ぶっし横流よこながしのデマを粉砕ふんさいするがほこりがゆるさず「さらば学生がくせい運動うんどう」。「とうはなれ(党籍とうせきはそのまま)いちのルンペン・プロレタリアート」となる。

1948
昭和しょうわ23
18さい

東京とうきょう外語がいごだい除籍じょせき山谷さんや横浜よこはまのドヤがい肉体にくたい労働ろうどう従事じゅうじ山谷さんやりあった泥棒どろぼうにん血盟けつめい、「てるやつとうからのかすめ泥棒どろぼう正義せいぎである」と"革命かくめいてき窃盗せっとうだん"を結成けっせい標的ひょうてきはサッカリン・石鹸せっけんなどの隠匿いんとく物資ぶっし。なお、敗戦はいせん直後ちょくごから同人どうじん雑誌ざっし発表はっぴょうしていたが散逸さんいつしている。

1949
昭和しょうわ24
19さい

ぞう物故ぶっこかい容疑ようぎ逮捕たいほされるが完全かんぜん黙秘もくひして釈放しゃくほうされる。そのあいだ血盟けつめいしたはずの二人ふたり現金げんきん戦利せんりひんとともに蒙塵もうじん甲府こうふかえ図書館としょかん読書どくしょ三昧ざんまい共産党きょうさんとう復帰ふっき印刷いんさつこう地方紙ちほうし記者きしゃ書店しょてんいん学習がくしゅうじゅく経営けいえいのかたわら映画えいがサークルや自立じりつ劇団げきだん主宰しゅさい

1950
昭和しょうわ25
20さい

甲府こうふ自由じゆう労働ろうどう組合くみあいじょうせん文化ぶんか部長ぶちょうとして中小ちゅうしょう企業きぎょう日雇ひやとい労働ろうどうしゃ運動うんどう専従せんじゅうしん日本にっぽん文学ぶんがく会員かいいんとなり同人どうじん未完みかん小説しょうせつ発表はっぴょうしているが掲載けいさい現存げんそんしない。

1951
昭和しょうわ26
21さい

自由じゆう労組ろうそ指揮しきして生産せいさん管理かんり県議会けんぎかい乱入らんにゅうなど労働ろうどう運動うんどう奔走ほんそう共同きょうどう工芸こうげいしゃ争議そうぎでは家宅かたく侵入しんにゅう器物きぶつ損壊そんかい共同きょうどう謀議ぼうぎ容疑ようぎちち英太郎えいたろうとともに被告ひこくとなる。

1952
昭和しょうわ27
22さい

上京じょうきょうふたた山谷さんやへ。朝鮮ちょうせんみんせん同士どうしとともに火炎瓶かえんびん闘争とうそう。5・30淀橋よどばし警察けいさつしょ事件じけん連累れんるい検挙けんきょされるが釈放しゃくほう山梨やまなしけん潜行せんこう、12月ふたた逮捕たいほされ甲府こうふ刑務所けいむしょ収監しゅうかんされる。

1953
昭和しょうわ28
23さい

釈放しゃくほうされた日盛ひざかりのまち美空みそらひばりのうた出会であう。甲府こうふかえ孔版こうはん印刷いんさつがつ工房こうぼう設立せつりつ。イタリア・ネオリアリズム映画えいが文体ぶんたい駆使くししたルポルタージュを同人どうじん発表はっぴょう党員とういん資格しかく剥奪はくだつのまま、中小ちゅうしょう零細れいさい企業きぎょう日雇ひやとい労働ろうどうしゃ労働ろうどう組合くみあい運動うんどう平和へいわ運動うんどう文化ぶんか運動うんどう専念せんねん

1958
昭和しょうわ33
28さい

上京じょうきょう東京とうきょう毎夕まいゆう新聞しんぶん入社にゅうしゃ文化ぶんかせきをおき、浅草あさくさ新宿しんじゅく池袋いけぶくろなどのストリップ劇場げきじょうをまわり猥雑わいざつ雰囲気ふんいきのなかに沈潜ちんせん韜晦とうかい日々ひびをおくる。

1959
昭和しょうわ34
29さい

署名しょめい風俗ふうぞくルポを「週間しゅうかんスリラー」にく。7月・東京とうきょう毎夕まいゆう新聞しんぶん退社たいしゃ独立どくりつ、ルポ・ライターを名乗なのる。11月・「女性じょせい自身じしん」デスク井上いのうえきよしにスカウトされスタッフ・ライターとなる。

1960
昭和しょうわ35
30さい

安保あんぽ闘争とうそうでは「わか日本にっぽんかい」に参加さんかするが作家さっか文化ぶんかじん夜郎自大やろうじだいさを批判ひはんして脱退だったい芸能人げいのうじん皇族こうぞく、はては本物ほんもの死者ししゃまで150へん手記しゅき創作そうさく代作だいさく

1961
昭和しょうわ36
31さい

安保あんぽ闘争とうそう私的してき総括そうかつのはて「とう」を内部ないぶから変革へんかくすべきだとふくとう。「なんというおろかな妄想もうそうだったことか」。

1962
昭和しょうわ37
32さい

6がつ中野なかの沼袋ぬまぶくろ帰山きさんそう転居てんきょ

1963
昭和しょうわ38
33さい

"予告よこく連載れんさい"シリーズ(女性じょせい自身じしん)で大川おおかわきょうぞう婚約こんやく美空みそらひばり離婚りこんなどをスクープ。森繁もりしげ久弥ひさやとのあいだに"じゅう筆禍ひっか事件じけん"がき、「やむをえず署名しょめい原稿げんこうくことになった」。

1964
昭和しょうわ39
34さい

独立どくりつ。フリーの"ルポライター"を名乗なのる。3月・船橋ふなばし高根台たかねだい団地だんち転居てんきょ。「二人ふたり自身じしん」に「団地だんちななつの大罪だいざい・(12月単行たんこうほん上梓じょうし東宝とうほう映画えいが)「処女しょじょ喪失そうしつ」(65ねん単行たんこうほん上梓じょうし日活にっかつ映画えいが)を連載れんさい。5月・団地だんち自治じち会長かいちょうになる。

1965
昭和しょうわ40
35さい

「ルポルタージュ女優じょゆうろん」(女性じょせい自身じしん)をはじめ雑誌ざっし連載れんさい6ほん。ルポライター竹中たけなかろうを「世間せけん所有しょゆう」にかえせしめた『美空みそらひばり』(弘文こうぶんどう)を上梓じょうし。11月・印税いんぜいおよび映画えいが原作げんさくりょうすべてを投入とうにゅうしてアジア・中国ちゅうごく旅行りょこう出発しゅっぱつ

1966
昭和しょうわ41
36さい

4がつ仕事場しごとば中野なかの宮前みやまえまちにかまえる。6月・ザ・ビートルズ来日らいにちから離日りにちまで102あいだのマス・ヒステリアを記録きろくした『ビートルズ・レポート』(「はなし特集とくしゅう別冊べっさつ)を音楽おんがくジャーナリスト7にん共同きょうどう責任せきにん編集へんしゅう深沢ふかざわ七郎しちろう三島みしま由紀夫ゆきおらに絶賛ぜっさんされるが営業えいぎょうてきには不発ふはつで「はなし特集とくしゅう」は休刊きゅうかんとなる。『団地だんちななつの大罪だいざい』『処女しょじょ喪失そうしつ』『美空みそらひばり』を上梓じょうしした弘文こうぶんどうから『』をろすが同社どうしゃ倒産とうさん印税いんぜい不払ふばらいで経済けいざいてき逼迫ひっぱく。8月・南部なんぶ僑一ろう東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょおもむ争議そうぎちゅう東映とうえい俳優はいゆう労働ろうどう組合くみあい支援しえん東俳とうはいろう委員いいんちょう宮崎みやざきひろし中村なかむら錦之助きんのすけ伊藤いとうつよしこれすけとはかって「東映とうえい俳優はいゆう諸君しょくんまも運動うんどうニュース」を発行はっこう

1967
昭和しょうわ42
37さい

人生じんせい相談そうだん」(日本にっぽんTVてれび)にレギュラー出演しゅつえんしたのをはじめとしてテレビ・ラジオにも進出しんしゅつ大阪おおさか労音ろうおん制作せいさくだい日本にっぽん演歌えんかとう」(バーブ佐竹さたけ主演しゅえん)を川内かわうち康範やすのり共同きょうどう演出えんしゅつ軍歌ぐんかをタブーとしていた労音ろうおん物議ぶつぎをかもす。東京とうきょう都知事とちじ候補こうほ美濃部みのべ亮吉りょうきち支援しえん映画えいが復興ふっこう会議かいぎ開催かいさいびかけ、京都きょうと府政ふせいひゃくねん記念きねん時代じだいげき復活ふっかつ展望てんぼうした「祇園祭ぎおんまつり映画えいがのため奔走ほんそう。が、原作げんさくしゃ干渉かんしょう府議会ふぎかい革新かくしんけい対立たいりつ官僚かんりょう妨害ぼうがいなどで企画きかくしゃ辞任じにん日本にっぽん共産党きょうさんとうを「ふくとう見込みこみなし」の除名じょめい。10月・東俳とうはいろう争議そうぎ全員ぜんいん復職ふくしょくをかちとって勝利しょうり解決かいけつ。12月・仕事場しごとば中野なかの弥生やよいまちうつす。「日本にっぽんせまく、はん体制たいせいしょうする人々ひとびと精神せいしんいやしくして、わが革命かくめいこころざしをのべる余地よちは、当面とうめんないことを痛感つうかん……ゆめうみそとうつし、衰弱すいじゃくした情熱じょうねつ回復かいふくをはかるべく」キューバへ。

1968
昭和しょうわ43
38さい

1がつ・「メモ・キューバ」(はなし特集とくしゅう連載れんさい開始かいし。テレビ出演しゅつえん激増げきぞう東映とうえい映画えいが『セックス猟奇りょうき地帯ちたい構成こうせい、シナリオ執筆しっぴつ。3 がつ・「狂気きょうき見本市みほんいち」プロデュース・「秋山あきやまひろしとく太子たいしはチンポコをして乱舞らんぶし、ゼロ次元じげんにわとりくびをちょんり、麿まろあかみずびたしの布団ふとん客席きゃくせきげ、ビタミンアートは舞台ぶたいうえ本物ほんもののクソをした」。キューバとの合同ごうどうドキュメンタリー映画えいが構想こうそうするが、結局けっきょく「たんに映画えいがつくりさえすればよい人々ひとびとだけがのこって」(大島おおしまなぎさ黒木くろき和雄かずお「キューバの恋人こいびと」となる。6月・山谷さんや詩人しじんかじ大介だいすけに「解放かいほう運動うんどうへの一味いちみ同心どうしん要請ようせい」され、山谷さんや自立じりつ合同ごうどう労組ろうそ拠点きょてんとして山谷さんや解放かいほう闘争とうそうたたかう。7月・渡辺わたなべプロの搾取さくしゅのシステムをあばいた『タレント帝国ていこく』(現代げんだい書房しょぼう上梓じょうし。9月・山谷さんやだまひめ公園こうえん岡林おかばやし信康のぶやす山谷やまたにブルース」発表はっぴょうかい企画きかく構成こうせい。10月・「だいいちかいヤマのうたまつり」(出演しゅつえん岡林おかばやし信康のぶやす高石たかいしともや・中村なかむらとうよう)企画きかく構成こうせい。『明治めいじはるあき』(しょ平之ひらの助監督じょかんとく)に特別とくべつ出演しゅつえん。11月5にち竹中たけなかろうをふくむ30めい"東京とうきょう都庁とちょう乱入らんにゅう事件じけん"で逮捕たいほされ、検察庁けんさつちょうにフィルムを押収おうしゅうされるが、作家さっか長部おさべ日出雄ひでお弁護士べんごし近藤こんどう俊昭としあき山根やまね二郎じろうらの協力きょうりょく奪還だっかん。「山谷さんや窮民きゅうみん闘争とうそう機縁きえん斉藤さいとうりゅうおおとりとの交友こうゆう復活ふっかつ岩田いわたひろし安保あんぽ共闘きょうとう太田おおたりゅう(プロレタリア軍団ぐんだん)らしん左翼さよくのイデオローグをる」。12月・プロレタリア解放かいほう同盟どうめい結成けっせい機関きかん解放かいほう戦線せんせん創刊そうかん地下ちか印刷所いんさつしょ経営けいえい

1969
昭和しょうわ44
39さい

2がつ部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい大阪府連おおさかふれんが「かれざる美空みそらひばり」(週刊しゅうかん明星みょうじょう連載れんさい)を"糾弾きゅうだん"。「ひばりの歌声うたごえ差別さべつ土壌どじょうからまれて下層かそう社会しゃかい共鳴きょうめい音波おんぱひろげたこと、あたかもそれは、世阿弥ぜあみ出雲いずものおくに賎民せんみん階級かいきゅうからこした河原者かわらもの系譜けいふをほうふつとさせる。……ひばりが下層かそう社会しゃかい出身しゅっしんであるとくことは『差別さべつ文書ぶんしょ』であるのか」。3月・全国ぜんこく学園がくえん闘争とうそうかかわり。自主じしゅ管理かんり闘争とうそうちゅう青山あおやまデザイン専門せんもん学校がっこう平岡ひらおか正明まさあき上野うえののぼるこころざしらをる。6月・山谷さんやだまひめ公園こうえん6・15集会しゅうかい私服しふく刑事けいじ乱闘らんとう。8月・「山谷さんやなつさい」(企画きかく構成こうせい)をめぐりプロレタリア解放かいほう同盟どうめい分裂ぶんれつはるからあきにかけてがまさきへ。寺島てらしまたまゆう関西かんさいのアナキスト、詩人しじん親交しんこうむすぶ。9月『山谷さんや都市とし反乱はんらん原点げんてん』(全国ぜんこく自治じち研修けんしゅう協会きょうかい上梓じょうし。「日本にっぽんきん歌集かしゅう企画きかく。「なみまくら博多はかた淡海たんかい」メンタマひんむいて、「ふてぇがって魂消たまげったねえ、こげなうたなん酔狂すいきょうでレコードにすっとじゃろうか!?」。「うみのチンボーラ」風狂ふうきょうのうたじん嘉手苅かでかりはやしあきら八重山やえやまトバラーマの名手めいしゅ山里やまざと勇吉ゆうきちの怨唱「なんにないば/おんなかげ{ホー}ぬ物言ものいうがやヨ」。この作業さぎょう以降いこう音楽おんがくによるルポルタージュ」のこころみに熱中ねっちゅうすることになる。10月・はじめて沖縄おきなわへ。布川ふかわ徹郎てつおらNDUのドキュメンタリ映画えいが『モトシンカカランヌー』に製作せいさく協力きょうりょく。11月・「メモ沖縄おきなわ」(はなし特集とくしゅう連載れんさい開始かいし

1970
昭和しょうわ45
40さい

1がつ・「エライじんる」(週間しゅうかん読売よみうり連載れんさい開始かいし。「全日本ぜんにほん歌謡かよう選手権せんしゅけん」(よみうりTVてれび)レギュラー審査しんさいんとなる。4月・光文社こうぶんしゃ労組ろうそストライキ突入とつにゅう。5月・仕事場しごとば世田谷せたがや代沢だいざわちょうこいはなしゃ」にうつす。発見はっけんかいべにのアリス凶状きょうじょうたび」プロデュース。「アングラ・ブームはり、マスコミは異端いたん認知にんちする。これはハミダシ残党ざんとう都落みやこおち、突破口とっぱこうもとめてのエキストラ・イニングス」。6月・「全日本ぜんにほん歌謡かよう選手権せんしゅけん沖縄おきなわ最終さいしゅう予選よせんきょくスタッフとトラブル。7月・「大杉おおすぎさかえ研究けんきゅうかい」「みず滸伝セミナー」「アナキズム・セミナー」主宰しゅさい。8月・ざいかん被爆ひばくしゃ取材しゅざい広島ひろしま韓国かんこくへ。9月・「エライじんる」総理そうり大臣だいじん夫人ふじん佐藤さとう寛子ひろこ干渉かんしょう中断ちゅうだん。11月・読売新聞社よみうりしんぶんしゃおよ佐藤さとう寛子ひろこ告訴こくそ上野うえの本牧亭ほんもくていで「巷談こうだん読売よみうり筆禍ひっか事件じけん」をかたる。「しんひょう」「現代げんだい」で三島みしま由紀夫ゆきおろんず。12月・ドキュメンタリー映画えいがやまとやつへ」製作せいさくのために韓国かんこくへ。10カ月かげつレギュラー審査しんさいんだった全日本ぜんにほん歌謡かよう選手権せんしゅけん優勝ゆうしょう歌手かしゅ天童てんどうよしみのため「ふうく」を作詞さくし。「おれまれたあのむらは/海山みやま千里せんりかぜく/さらばさらばとふうく」。

1971
昭和しょうわ46
41さい

1がつ・「漂泊ひょうはくこころざしやみがたく」みずから主宰しゅさいの「はげましてもらうかい」をきゅう飛田ひだ遊廓ゆうかくきゅう新宿しんじゅく遊廓ゆうかくないで。『エライじんる』(さんいち書房しょぼう上梓じょうし。「わたしにとって文章ぶんしょうをマスコミに発表はっぴょうする作業さぎょうとは、可能かのうかぎりの領域りょういき活字かつじ暴力ぼうりょく行使こうしすることにほかならない」。7月『やまとやつへ−ざいかん被爆ひばくしゃつげの26ねん』(NDUときょうはたらけ)の準備じゅんび過程かてい韓国かんこくじん被爆ひばくしゃ密航みっこう幇助ほうじょ等々とうとう理由りゆうでビザ発給はっきゅう拒否きょひされる。9月・連続れんぞくシンポジウム「戦争せんそう革命かくめい企画きかく構成こうせい。10月・「ポルノ・ティーチイン」(TBSTV・制作せいさくテレビマン・ユニオン)出演しゅつえん発言はつげんをすべてカットされる。「フリーキッシュ・コンサート」(光文社こうぶんしゃ労組ろうそ主催しゅさい出演しゅつえん伊藤いとう公一こういち巷談こうだんしゃ)と協力きょうりょくやくす。

1972
昭和しょうわ47
42さい

1がつ沖縄おきなわさきとうへ。以後いご4がつ〜8がつ、の沖縄おきなわゆきで「モトシンカカランヌー」「やまとやつへ」「アジアはひとつ」若松わかまつプロ「赤軍せきぐん・PFLP/世界せかい戦争せんそう宣言せんげん」とパネルディスカッションを連鎖れんさ琉球りゅうきゅう独立どくりつとう支援しえん野底のそこみなみ宮城みやぎけんしゅう大城おおしろ正男まさおらと同志どうしめいむすび、「繊細せんさいなるワタブー照屋てるやはやしすけ」と出会であう。3月・夢野ゆめの京太郎きょうたろうめいで「赤軍せきぐんリンチ事件じけん」(週間しゅうかん小説しょうせつ執筆しっぴつ。5月・「琉球りゅうきゅう幻視げんしぎょうちょうなてばば」(えろちか)連載れんさい開始かいし。6月・太田おおたりゅう平岡ひらおか正明まさあき富山とやまで「さん馬鹿ばか講演こうえんかい」。太田おおたりゅう「アイヌ解放かいほうこそ世界せかい革命かくめい第一義だいいちぎ」と平岡ひらおか竹中たけなか絶縁ぜつえん。7月・「なついもうと沖縄おきなわロケをめぐり大島おおしまなぎさ論争ろんそう。『琉球りゅうきゅう共和きょうわこくなんじはな武器ぶきとせよ』(さんいち書房しょぼう上梓じょうし。「つやほん紳士録しんしろく」(うわさ連載れんさい開始かいし(79.7『「国貞くにさだ裁判さいばん始末しまつ』としてさんいち書房しょぼうより上梓じょうし)。8月・かわぐちかいじときょうはたらけで、「博徒ばくとブーゲンビリア」(漫画まんがアクション)連載れんさい開始かいし。「なつよる物怪もっけ」(平岡ひらおか正明まさあき企画きかく構成こうせい)で「みなみ島水しますい滸伝/琉球りゅうきゅう人民じんみん共和きょうわこく誕生たんじょう口演こうえん。10月・巷談こうだんしゃ主催しゅさいだい演説えんぜつかい」(企画きかく制作せいさく伊藤いとう公一こういち)に企画きかく協力きょうりょく出演しゅつえん

1973
昭和しょうわ48
43さい

1がつひろしアジアいちはちにち幻視げんしぎょう。3月・沖縄おきなわコザ闘牛とうぎゅうじょうの「ジェームス・ブラウン沖縄おきなわでうたう!」(制作せいさく伊藤いとう公一こういち岩永いわなが文夫ふみお企画きかく協力きょうりょく夢野ゆめの京太郎きょうたろう世界せかい赤軍せきぐん』(潮出版社うしおしゅっぱんしゃ上梓じょうし。5月・「琉球りゅうきゅう情歌じょうかぎょう嘉手苅かでかりはやしあきら独演どくえんかい」。「のウチナーぐるい、おそらくは生涯しょうがいとどまることなし。もしなばほね名護なごわん薔薇ばら落日らくじつげすてよ」。巷談こうだんしゃ主催しゅさいだい演説えんぜつかい・73」で「ひろしアジア幻視げんしぎょう報告ほうこく口演こうえん。「日本にっぽん映画えいが縦断じゅうだん」(キネマ旬報きねまじゅんぽう連載れんさい開始かいし。「この連載れんさいわたしのメルクマールとしたいのだ。落日らくじつけて、昏いひがし地平ちへいながめやるような感慨かんがいをいだく。そこに、ふたたのぼるか。映画えいがはわれらの白鳥はくちょううたである」。『みず滸伝/窮民きゅうみん革命かくめいのための序説じょせつ』(平岡ひらおか正明まさあき共著きょうちょさんいち書房しょぼう上梓じょうし。8月・「琉球りゅうきゅう情歌じょうかぎょう嘉手苅かでかりはやしあきら独演どくえんかい」。9月『無頼ぶらい荊冠けいかん』(三笠みかさ書房しょぼう上梓じょうし。「批評ひひょうとはとりもなおさず行動こうどうである。実戦じっせんをともなわぬすべての論理ろんりに、わたし価値かちみとめない。風狂ふうきょうのそしりをうけながら"く"ことはそく実行じっこうである、という信念しんねんわたし一貫いっかんしてきた」。

1974
昭和しょうわ49
44さい

1がつ巷談こうだんしゃ巷談こうだんかい」(上野うえの本牧亭ほんもくてい出演しゅつえん以後いご3年間ねんかんレギュラー出演しゅつえん。3月・新宗連しんしゅうれん若者わかものともない「アジア懺悔ざんげぎょう」に出立しゅったつ。4月・懺悔ざんげぎょう日程にってい終了しゅうりょうしたわたしはマニラ市内しない床屋とこやあたままるめ……勝手かって得度とくどしてはな和尚おしょう雲居くもい名乗なのることにした」。ねこ30ひきとともに箱根はこね宮城野みやぎの転居てんきょこごめばらからとって「はなれ騒庵」と命名めいめい羽仁はに五郎ごろう対談たいだん「アジアもえゆ」(現代げんだい、9月現代げんだい評論ひょうろんしゃより上梓じょうし)。8月・「琉球りゅうきゅうフェスティバル74」(出演しゅつえん嘉手苅かでかりはやしあきら山里やまざと勇吉ゆうきち27めい開催かいさい日比ひび谷野たにのおと観衆かんしゅうななせん、「東京とうきょう沖縄おきなわ解放かいほう実現じつげんした」(琉球新報りゅうきゅうしんぽう)。9月・『ぎゃく桃源とうげんぎょう』(やま渓谷社けいこくしゃ)、『日本にっぽん映画えいが縦断じゅうだん(1)傾向けいこう映画えいが時代じだい』(東京とうきょう白川しらかわ書院しょいん上梓じょうし。10月・さく夢野ゆめの京太郎きょうたろう/かわぐちかいじ『くろはたすい滸伝』(現代げんだい連載れんさい開始かいし。12月・マルレーネ・ディートリッヒ公演こうえんプロデュース。「ニッポンてい国文こくぶん状況じょうきょうに、ちいさなクサビをむことが、わたしはできたとおもう」。

1975
昭和しょうわ50
45さい

1がつ・「沖縄おきなわ−うた・まつり・放浪ほうろうげい取材しゅざい録音ろくおん沖縄おきなわへ。2月・「日本にっぽん映画えいが縦断じゅうだん」にキネマ旬報きねまじゅんぽう読者どくしゃしょう。3月・「琉球りゅうきゅうフェスティバル75はる嘉手苅かでかりはやしあきら独演どくえんかい企画きかく構成こうせい。4月・記録きろく映画えいが「アジア懺悔ざんげぎょう完成かんせい東京とうきょう大阪おおさか名古屋なごや自主じしゅ上映じょうえい。7月・盲目もうもく放浪ほうろう芸人げいにんさとこくだか出演しゅつえん交渉こうしょうおもむいた奄美あまみ警官けいかん乱闘らんとう。「悪魔あくま報道ほうどう」をせた毎日新聞まいにちしんぶんから謝罪しゃざいぶんる。8月・はるの「多額たがく赤字あかじ」にもかかわらず「琉球りゅうきゅうフェスティバル75なつ開催かいさい。「中止ちゅうしできなかった。なぜならそれは、"興行こうぎょう"ではなく、"運動うんどう"だったから」。『琉歌幻視げんしぎょう』(田畑たはた書店しょてん上梓じょうし。9月・『日本にっぽん映画えいが縦断じゅうだん(2)異端いたん映像えいぞう』(東京とうきょう白川しらかわ書院しょいん上梓じょうし。10月・滝沢たきざわはじめ白井しらい佳夫よしお竹中たけなかろう"ペンおに"さんにんの『浪人ろうにんがい』リメーク運動うんどうひろがる。12月・巷談こうだんしゃ主催しゅさいだい演説えんぜつかい論争ろんそうへの招待しょうたい企画きかく協力きょうりょく出演しゅつえん。7年間ねんかんにわたる「メモ沖縄おきなわ」(はなし特集とくしゅう連載れんさいおわる。沖縄おきなわとううたの集大成しゅうたいせい企図きとし、企画きかく構成こうせい解説かいせつからテープ編集へんしゅうまで独力どくりょくで「嘉手苅かでかりはやしあきら世界せかいLP34まい+SPいちまいよんひゃくすうじゅうきょく収録しゅうろく

1976
昭和しょうわ51
46さい

3月・山上やまかみ伊太郎いたろう終焉しゅうえんフィリピンへ。「アジア懺悔ざんげぎょうしゅう連続れんぞく上映じょうえいのためシンガポール、マレーシア、タイへ。6月・羅針盤らしんばん主催しゅさいだい殺陣さつじん大会たいかい」にアラカン、片岡かたおか知恵ちえぞう河津かわづ清三郎せいさぶろう、ピラニア軍団ぐんだんとともに出演しゅつえん。「言論げんろんにとって自由じゆうとは」(マスコミ評論ひょうろん連載れんさい開始かいし。7月・「引揚学生がくせい同盟どうめいのころ」(アサヒグラフ)執筆しっぴつ。9月・夢野ゆめの京太郎きょうたろう浪人ろうにんがい天明てんめい餓鬼がき草紙ぞうし執筆しっぴつ(77・5東京とうきょう白川しらかわ書院しょいんより上梓じょうし)。10月・シネ・ヴァラエティ「日本にっぽん剣豪けんごう列伝れつでんだい殺陣さつじん」(製作せいさく伊藤いとう公一こういち企画きかく脚本きゃくほん構成こうせい演出えんしゅつ夢野ゆめの京太郎きょうたろう完成かんせい。11月・竹中たけなかろうあらしひろし寿郎としお鞍馬あんば天狗てんぐのおじさんは/聞書ききがきアラカンいちだい』『日本にっぽん映画えいが縦断じゅうだん(3)山上やまかみ伊太郎いたろう世界せかい』(ともに東京とうきょう白川しらかわ書房しょぼう上梓じょうしキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ白井しらい編集へんしゅうちょう解任かいにん、「日本にっぽん映画えいが縦断じゅうだん」「浪人ろうにんがいツアー」中止ちゅうしもうれ。12月・「浪人ろうにんがいツアー」を遂行すいこう若者わかもの14めいとアジアへ。

1977
昭和しょうわ52
47さい

2がつ・『しん右翼うよく青年せいねんへのアピール』(愛国あいこく戦線せんせん執筆しっぴつ。「無党派むとうはのエネルギーを結集けっしゅう」「政治せいじてき局面きょくめん人々ひとびとの"自由じゆう連合れんごう"を」と「革新かくしん自由じゆう連合れんごう」の実現じつげん奔走ほんそう。3月・五木いつき寛之ひろゆき・マキノ雅弘まさひろに「戒厳かいげんれいよる映画えいが委託いたくされ企画きかくしょ作成さくせい。4月・「みずからの"自由じゆう言論げんろん"を回復かいふくするたたかいを決意けついした。れることによって何事なにごとかをおこなおうとするのは、おびえしゃ論理ろんりである」(さらば若者わかものたち)。6月・8ねんにわたる「週間しゅうかん読売よみうり筆禍ひっか裁判さいばん」、読売よみうりがわ謝罪しゃざいぶん公表こうひょうしない条件じょうけん)と相当そうとうりょう慰謝いしゃりょう提供ていきょうして和解わかい成立せいりつ。『自由じゆうへの証言しょうげん』(エフプロ出版しゅっぱん上梓じょうし。「伊太郎いたろう地蔵じぞう彫刻ちょうこく開眼かいがん伊太郎いたろう戦没せんぼつフィリピン・ラムフト河畔かはんで灌仏の。シネマレクィエム「山上やまかみ伊太郎いたろうここにねむる」制作せいさく。「キネマ旬報きねまじゅんぽう裁判さいばんはじまる。7月・参議院さんぎいんせんたわら萌子もえこ応援おうえん演説えんぜつ。8月・伊太郎いたろう地蔵じぞうらくきた妙心寺みょうしんじ安置あんち山上やまかみ伊太郎いたろうはじまる。「木馬亭もくばてい巷談こうだん倶楽部くらぶ発足ほっそく。「くろはたすい滸伝のうち大杉おおすぎさかえ甘粕あまかす正彦まさひこ」を口演こうえんして78・7がつまで毎月まいつき出演しゅつえん。10月・「芸能げいのうかい深層しんそうレポート」(週間しゅうかん文春ぶんしゅん連載れんさい開始かいしするも、12月・「編集へんしゅう都合つごう」で原稿げんこう寸断すんだんされ契約けいやく破棄はき(78・1『タレント残酷ざんこく物語ものがたり』としてエール出版しゅっぱんより上梓じょうし)。

1978
昭和しょうわ53
48さい

4がつ・ジャバドもり社長しゃちょうと「戒厳かいげんれいよる映画えいがについて懇談こんだん。7月・「あさくさ博覧はくらんかい田谷たや力三りきぞうコンサート」(木馬亭もくばてい企画きかく構成こうせい。「にゃんにゃん共和きょうわこく」(ねこ手帳てちょう連載れんさい開始かいし。8月・若者わかものとともに沖縄おきなわ奄美あまみへセミナーツアー「琉球りゅうきゅう幻視げんしぎょう78」出発しゅっぱつ

1979
昭和しょうわ54
49さい

1がつ・「最後さいご芸能げいのうかいレポート」『スキャンダル紅白こうはく歌合戦うたがっせん』(みき書房しょぼう上梓じょうし箱根はこねやまくだり、「戒厳かいげんれいよる映画えいがのため(かぶ)白夜はくやプロダクションを設立せつりつ、ゼネラル・プロデューサーに就任しゅうにん。シノプスおよびイメエジ・シナリオ執筆しっぴつ。スーパー16じゅうろくミリ撮影さつえいシステム導入どうにゅう計画けいかく。7月・(かぶ)マリンフーズと調印ちょういん竹中たけなかろうやまりるかい。「あかばな心中しんちゅうの」(企画きかく脚本きゃくほん監督かんとく夢野ゆめの京太郎きょうたろう制作せいさく発表はっぴょう沖縄おきなわさきとう実景じっけいロケにむかう。8月・ゆめ工房こうぼう目黒めぐろ下目黒しもめぐろ移転いてん。「運動うんどうとは実務じつむであり、段取だんどりである。そして、佇間とは隊伍たいごであり、隊伍たいごとは、すなわち規律きりつであります。やまりて半年はんとしあまり"戦闘せんとう体制たいせい"をようやくととのえることができました」。9月・コロンビアへ。12月・(かぶ)マリンフーズ倒産とうさん。マスコミの対応たいおう資金しきん調達ちょうたつわれる。

1980
昭和しょうわ55
50さい

1がつ友人ゆうじん山根やまね二郎じろう弁護士べんごし業務ぎょうむ停止ていし処分しょぶんとした日弁連にちべんれん会長かいちょう江尻えじり平八郎へいはちろうへの「公開こうかい質問しつもんじょう」を公開こうかい現代げんだい)。2月・「あかばな心中しんちゅうの脚本きゃくほん執筆しっぴつ近藤こんどう俊昭としあき大島おおしまなぎさ野坂のさかあきら如とともに山根やまね弁護士べんごし処分しょぶん反対はんたい運動うんどう発意はつい。4月・「公開こうかい質問しつもんじょう」に賛同さんどう署名しょめいしたひゃくよんじゅういちめいをもって"せんにん委員いいんかい"設立せつりつ。5月・日弁連にちべんれんシンポジウムに対抗たいこうして「ぎゃくシンポジウム」開催かいさい。6月・「戒厳かいげんれいよる完成かんせい試写ししゃ、「わがくに最初さいしょのスーパー16、映画えいがとして鑑賞かんしょうえうる画像がぞう劇場げきじょうのスクリーンにむすぶことができたことだけを、せめてもひとほこりたい」。香港ほんこんでの"桃園ももぞのちかい"をたし、「おにはな和尚おしょう魯智ふか」の刺青しせい全身ぜんしんる。は凡天太郎たろう。7月「戒厳かいげんれいよる封切ふうきり、いちがつらずで打切うちきり。10月・香港ほんこんでの映画えいが製作せいさく企画きかく脚本きゃくほん夢野ゆめの京太郎きょうたろう監督かんとく内藤ないとうまこと上海しゃんはい飆{シャンハイヒョウ})をスポンサーの都合つごう断念だんねんあらしひろし寿郎としお死去しきょ。11月・『ほうさばく』(こうさくしゃ上梓じょうし

1981
昭和しょうわ56
51さい

3月・情報じょうほう香港ほんこんコンフィデンシャル」創刊そうかんのため香港ほんこん調整ちょうせいたる。4月・香港ほんこん・マカオ・中国ちゅうごく取材しゅざい。5月・植松うえまつ安太郎やすたろうぼっす。7月・『ルポライター事始ことはじめ』(日本にっぽんジャーナリスト専門せんもん学院がくいん上梓じょうし太田おおたりゅう加々美かがみ光行みつゆきらと「現代げんだい研究けんきゅうかい」を結成けっせい。8月・『右翼うよくとの対話たいわ』(現代げんだい評論ひょうろんしゃ上梓じょうし。9月・仕事場しごとば横浜よこはま小雀こすずめまちうつす。10月「大圏たいけん刺青しせい」(極東きょくとう三浦みうら連合れんごう機関きかんかぎりなき前進ぜんしん」)、「越境えっきょうしゃたち/17にん紅衛兵こうえいへい」(月刊げっかんプレイボーイ)執筆しっぴつ。「キネマ旬報きねまじゅんぽう裁判さいばん」(マスコミ評論ひょうろん連載れんさい開始かいし。「文革ぶんかくなずらえげきみんらんであった/緑林りょくりん革命かくめいと"白蓮びゃくれんきょう"・うえ」(現代げんだい研究けんきゅうかい討議とうぎ資料しりょう執筆しっぴつ。12月・鶴田つるた浩二こうじ羽仁はに五郎ごろうびかけで「竹中たけなかろう鼓舞こぶするかい」。おわって「はだはな和尚おしょうかい

1982
昭和しょうわ57
52さい

6がつ・『ビートルズ・レポート』復刊ふっかん白夜書房びゃくやしょぼう)「ビートルズもまた乳液にゅうえきのような地平ちへいの涯てに、柔和にゅうわ調しらべをかなでる伝説でんせつらくしんでしかないとしたら、かれらの退すさげきかたるこのレポートは、ついに理解りかいそとでしかあるまい」。8月・ゆめ一族いちぞく・琉歌ぎょうセミナー。金城きんじょうあつしまつぼつ。「いま、しまうたはその自由じゆう呂律ろれつうしない、しきヤマトナイズの風潮ふうちょううらほろろうとしています。ねがいわくば貴方あなたれい天井てんじょうからこのうつくしきしまの、うつくしきうたをはげまして、永遠えいえん生命せいめい守護しゅごされんことを」。映画えいが俗物ぞくぶつ図鑑ずかん』に出演しゅつえん。9月・『芸能げいのう論理ろんり』(幸洋ゆきひろ出版しゅっぱん上梓じょうし。12月・東北とうほく北海道ほっかいどう取材しゅざいぎょう

1983
昭和しょうわ58
53さい

2がつ・『仮面かめんぐ/ぶんたたかえへの招待しょうたい』(幸洋ゆきひろ出版しゅっぱん上梓じょうし。4月・「聞書ききがき庶民しょみんれつでん牧口まきぐち常三郎つねさぶろう世界せかい」(しお連載れんさい開始かいし。5月・太田おおたりゅう対談たいだん大杉おおすぎさかえきかえらせる」(どう時代じだい批評ひひょう)6がつ羽仁はに五郎ごろうぼつ。「吉本よしもと隆明たかあき異論いろん拝啓はいけいオジウエ/なに威張いばっておるのかね?」(思想しそう執筆しっぴつ。『左右さゆうる/ぞくぶんたたかえへの招待しょうたい』(幸洋ゆきひろ出版しゅっぱん上梓じょうし。8月「さん粋人すいじん・テレビだん」(しん雑誌ざっしX)連載れんさい開始かいし。9月・「春色しゅんしょくごよみ」(ミュージックマガジン)連載れんさい開始かいし。10月・野村のむらあきかい丸山まるやまみのる対談たいだん「いま科学かがくから空想くうそうへの時代じだいだ」(レコンキスタ)。「アラブ映画えいがさい審査しんさ委員いいん要請ようせいされ、シリア、レバノンへ。11月『聞書ききがき庶民しょみんれつでん(1)/牧口まきぐち常三郎つねさぶろうとその時代じだいゆきえんえて・ふゆまき』(潮出版社うしおしゅっぱんしゃ上梓じょうし

1984
昭和しょうわ59
54さい

2がつ・「パレスチナたび日記にっき」(しん雑誌ざっしX)連載れんさい開始かいし。3月・流山寺ながれやまでらさち高取たかとりすぐる鈴木すずき義昭よしあき座談ざだんかい「プロレス84」(ヘイ・パディ)。4月・「パレスチナ革命かくめいへの予断よだん偏見へんけんゆめくるうとひとえ」(どう時代じだい批評ひひょう執筆しっぴつ平沢ひらさわ貞通さだみちすくかい主催しゅさい平沢ひらさわ貞通さだみち釈放しゃくほう要求ようきゅう集会しゅうかい」で記念きねん公演こうえん。5月・中東ちゅうとう取材しゅざい、リビアとの回路かいろをつなぐ。11月・「江青こうせい奪還だっかん作戦さくせんまぼろし紅衛兵こうえいへい」(小説しょうせつCLUB)執筆しっぴつ。「わがさけ自伝じでん」(中州なかす通信つうしん連載れんさい開始かいし

1985
昭和しょうわ60
55さい

1がつ朝倉あさくら喬司たかし対談たいだん犯罪はんざいすい滸伝85」(ヘイ・パディ)。「ふうかい講座こうざにっぽんひゃくねん」(運営うんえいいん竹中たけなかろう加々美かがみ光行みつゆき玉川たまがわ信明のぶあき玉城たまきもと西垣内にしがいちけんゆう発足ほっそく。4月・『聞書ききがき庶民しょみんれつでん(2)/牧口まきぐち常三郎つねさぶろうとその時代じだいはる修羅しゅらはるまき』(潮出版社うしおしゅっぱんしゃ上梓じょうし。5月・『大杉おおすぎさかえ』(現代書館げんだいしょかん)『人間にんげんむ/かいじん21面相めんそう』(幸洋ゆきひろ出版しゅっぱん上梓じょうし。6月・中東ちゅうとう取材しゅざいぎょう視界しかい変調へんちょうきたす。医師いし診断しんだんは「ひだり網膜剥離もうまくはくり肝不全かんふぜん高血圧こうけつあつ糖尿とうにょうびょうただちに人間にんげんドック収納しゅうのう」。8月・「琉歌セミナー85」演習えんしゅうぎょう。「庶民しょみんれつでん取材しゅざいのため九州きゅうしゅうへ。9月・「目白めじろ愁人の独占どくせんインタビューなど回路かいろあれど美意識びいしきにかなわず。"小説しょうせつき"に転向てんこうして税務署ぜいむしょ奉仕ほうしするのは老残ろうざんのテーマ。体力たいりょくつづくかぎりルポルタージュ・ライターの初志しょしつらぬきたき存念ぞんねん」と借金しゃっきんのおねがい。中東ちゅうとう取材しゅざい出発しゅっぱつ。『鞍馬あんば天狗てんぐのおじさんは/聞書ききがきアラカンいちだい』(徳間とくま文庫ぶんこ上梓じょうし

1986
昭和しょうわ61
56さい

1がつ・『にっぽん情歌じょうかぎょう』(ミュージックマガジンしゃ上梓じょうし中東ちゅうとうベカー高原こうげんへ。3月・中東ちゅうとう取材しゅざい。『聞書ききがき庶民しょみんれつでん(3)/牧口まきぐち常三郎つねさぶろうとその時代じだい衆生しゅじょうむ・なつまき』(潮出版社うしおしゅっぱんしゃ上梓じょうし。7月・「小説しょうせつちゅう東水ひがしみず滸伝/天使てんし爆破ばくは」(問題もんだい小説しょうせつ執筆しっぴつ。11月・「庶民しょみんれつでん」(しお連載れんさいおわる。12月・「重信しげのぶ房子ふさこ半生はんせいわたしはじゃりんチエだった」(サンデさんで毎日まいにち連載れんさい開始かいし

1987
昭和しょうわ62
57さい

1がつ・「マタバ/環太平洋かんたいへいよう国際こくさい革命かくめいフォーラム」準備じゅんび委員いいんかいのためリビアへ。「87ヨコハマ中華ちゅうかがい竹中たけなかろうたべある」(毎日まいにちグラフ)。2月・フィリピン革命かくめいいち周年しゅうねん取材しゅざい東南とうなんアジアへ。4月・リビアでひらかれた「マタバ」の議長ぎちょうとして基調きちょう報告ほうこく帰国きこく途中とちゅうっただいえい帝国ていこくでは査証さしょう拒否きょひ強制きょうせい退去たいきょ。『聞書ききがき庶民しょみんれつでん(4)/牧口まきぐち常三郎つねさぶろうとその時代じだい襤褸らんるまきあきまき』(潮出版社うしおしゅっぱんしゃ上梓じょうし。6月・東南とうなんアジア、フィリピンへ。8月・三井みつい記念きねん病院びょういん入院にゅういん。「胃癌いがん肝硬変かんこうへん重度じゅうど糖尿とうにょうびょう食道しょくどう静脈じょうみゃくこぶ発見はっけんされ余命よめい3ねんながくて5ねん」。9月『美空みそらひばり』(朝日あさひ文庫ぶんこ上梓じょうし。10月・「キネマ旬報きねまじゅんぽう裁判さいばん和解わかい。12月・「みどりしょシンポジウム」予備よび会議かいぎのためリビアへ。

1988
昭和しょうわ63
58さい

1がつ・リビアで開催かいさいされた「みどりしょシンポジウム」に出席しゅっせき。2月・「はな和尚おしょう毒手どくしゅ一喝いっかつ」(だい法輪ほうりん連載れんさい開始かいし。4月・竹中たけなか英太郎えいたろうぼつ。6月・胃痙攣いけいれん呼吸こきゅう困難こんなんきもせい脳症のうしょう併発へいはつ三井みつい記念きねん病院びょういん緊急きんきゅう入院にゅういん腹膜炎ふくまくえん併発へいはつ入院にゅういんいちカ月かげつ。9月・鎌倉かまくら高野たかのうつる。10月・沖縄おきなわへ。11月・「宮崎みやざきつとむ連続れんぞく幼女ようじょ殺人さつじん事件じけんの"真相しんそう"をつ」(うわさ真相しんそう執筆しっぴつ

1989
平成へいせい1
59さい

3月・「竹中たけなか英太郎えいたろう回顧かいこてん」(甲府こうふ企画きかく構成こうせい。4月・「テレビ観想かんそう」(ダカーポ)連載れんさい開始かいし。「竹中たけなか英太郎えいたろう回顧かいこてん」(〜7がつ東京とうきょう構成こうせい。6月・美空みそらひばりぼつ。「さようなら美空みそらひばり」(毎日新聞まいにちしんぶんマスコミに追悼ついとうぶん・コメントを発表はっぴょう。7月・「竹中たけなか英太郎えいたろうについて」(NHK熊本くまもと出演しゅつえん三井みつい記念きねん病院びょういん検査けんさ入院にゅういん。11月・「大城おおしろ美佐子みさこうたうかい出席しゅっせきのため沖縄おきなわへ。12月・三井みつい記念きねん病院びょういん入院にゅういん沖縄おきなわ取材しゅざい

1990
平成へいせい2
60さい

1月「夢見ゆめみ胎児たいじ夢野ゆめの久作きゅうさく竹中たけなか英太郎えいたろう」(NHK教育きょういくTVてれび制作せいさく協力きょうりょく出演しゅつえん。「現代げんだいかお」(NTV)出演しゅつえん。「ゆめよなぜおどる/夢野ゆめの久作きゅうさく竹中たけなか英太郎えいたろう」(NHK教育きょういくTVてれび出演しゅつえん。2月・三井みつい記念きねん病院びょういん入院にゅういん。「竹中たけなか英太郎えいたろう回顧かいこてん」(熊本くまもと)で講演こうえん。「平成へいせい名物めいぶつイカてん」(TBSTV)にゲスト審査しんさいん。3月・「別冊べっさつイカてん」(TBSTV)で「たま」と対談たいだん。4月・「竹中たけなかろうのページ」(うわさ真相しんそう連載れんさい開始かいし三井みつい記念きねん病院びょういん入院にゅういん。5月・「たま」演奏えんそう旅行りょこう同伴どうはん取材しゅざい。「ミッドナイトジャーナル」(NHKTVてれび)で「たま」をかたる。6月・三井みつい記念きねん病院びょういん入院にゅういん。「わらっていいとも」(フジTVてれび出演しゅつえん。7月・「ニュース・バトル」(ぜん27かいTVてれび朝日あさひ最終さいしゅうかい出演しゅつえん。8月『ひゃく怪我けがちょうにゅうル/竹中たけなか英太郎えいたろう』(さんいち書房しょぼう上梓じょうし。10月・「コザ独立どくりつこく大統領だいとうりょう照屋てるやりんすけより「鎌倉かまくら大使たいし拝命はいめい旧制きゅうせい甲府こうふ中学ちゅうがく同窓会どうそうかい甲府こうふへ。三井みつい記念きねん病院びょういん入院にゅういん。11月・「BSヤングバトル」(NHK衛星えいせいTVてれび)に「竹中たけなかろうえらぶベストバンド20+2」構成こうせい出演しゅつえん。『「たま」のほん』(小学館しょうがくかん上梓じょうし。12月・「イカてんVSばーさすヤングバトル」(NHKTVてれび特番とくばん出演しゅつえん。『「たま」のほん出版しゅっぱん記念きねんパーティ。三井みつい記念きねん病院びょういん入院にゅういん

1991
平成へいせい3
61さい

1がつ・「うた白書はくしょ91/南島なんとう歌謡かようろん取材しゅざいのため沖縄おきなわ奄美あまみへ。2月・「沖縄おきなわ魅惑みわくのサウンド」(NHK衛星えいせいTVてれび)のため沖縄おきなわへ。「テレビ観想かんそう」(ダカーポ)連載れんさい終了しゅうりょう。「たまと世紀せいきまつ」(NHKラジオ)をかたる。3月・「実践じっせんルポライター入門にゅうもん」(ダカーポ)連載れんさい開始かいし三井みつい記念きねん病院びょういん緊急きんきゅう入院にゅういん。『ひゃく怪我けがちょうにゅうル/竹中たけなか英太郎えいたろう推理すいり作家さっか協会きょうかいしょう受賞じゅしょう。4月・遺言ゆいごんしょ作成さくせい。「通夜つや葬儀そうぎ一切いっさい無用むようがおせるな」。「しまうた特集とくしゅう」(エスクァイア)取材しゅざい沖縄おきなわへ。「ダカーポ」「うわさ真相しんそう連載れんさい休止きゅうし那覇なは食道しょくどう静脈じょうみゃくこぶより出血しゅっけつ三井みつい記念きねん病院びょういんさい入院にゅういん。「BSヤングバトル」(NHK衛星えいせいTVてれび)にVTR出演しゅつえん。5月・19にち午後ごご958ふん肝臓かんぞうがんのため死去しきょ。6月・絶筆ぜっぴつ実践じっせんルポライター入門にゅうもんだい5かい」が「ダカーポ」に掲載けいさいされる。「特集とくしゅう南島なんとう音楽おんがく紀行きこう掲載けいさいの「エスクァイア」発売はつばい。『無頼ぶらい墓碑銘ぼひめい』(KKベストセラーズ)上梓じょうし。9月・「竹中たけなかろうわかれの音楽おんがくかい」(川口かわぐちリリアホール)開催かいさい


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