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地部/琉球 - Kojiruien

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 琉球りゅうきゅうハ、いち沖繩おきなわ(オキナハ)トうんフ、薩摩さつま西南せいなん海中かいちゅうざいリ、東北とうほくヨリ西南せいなんわたるリ、凡ソじゅうななさと東西とうざいこうしょじゅうせましょいちさとあまり南北なんぼく凡ソじゅうしゅうまわり凡ソななじゅうよん地勢ちせい狹長きょうちょう山川やまかわたたえスベキナシ、中世ちゅうせいシテさんためス、中頭なかがみ島尻しまじり(シマシリ)、國頭くにがみト曰フ、而シテ大小だいしょうすうじゅう島嶼とうしょぞくシ、點々てんてん海中かいちゅう散布さんぷス、 琉球りゅうきゅう開國かいこく始祖しそ天孫てんそんト曰フ、相傳そうでんフルコトじゅうせい島中しまなかだいらんル、浦添うらぞえ按司みことあつしだいりつ全島ぜんとうすべブ、舜天王しゅんてんのうトナス、みことあつしみなもと爲朝ためともナリトうんフ、えい享年きょうねんちゅう將軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり薩摩さつま守護しゅご島津しまつ忠國ただくに琉球りゅうきゅうたまものヒ、其附いさおトス、ヨリさき琉球りゅうきゅうあかりどおりズ、ニ於テすめらぎあさ及ビあかりりょうぞくス、すんでニシテやや使聘ヲおさむセズ、慶長けいちょうじゅうよんねん島津しまつ家久いえひさ將軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただニ請ヒ、しょうシテこれツ、ヨリ世々せぜみつぎれいおさむス、明治維新めいじいしんのちみことのりシテはんためシ、くに西海さいかいどうぞくセシム、こうまたはんはいシテ沖繩おきなわけんおけキ、全島ぜんとう統治とうちセシム、

名稱めいしょう

下學かがくしゅう

上天じょうてん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 琉求(リウキウ)

えきりん本節ほんぶしようしゅう

乾坤けんこん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 琉球りゅうきゅう(リウキウ)〈外國がいこく

くにあさきゅうしょうろく

はち

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 琉球りゅうきゅうこくことりゃく 異朝いちょうしょを按るに、むかしながれもとめしるしたり、近代きんだいに及て琉球りゅうきゅうとはしるせり、一説いっせつながれ虬としるせしを、いま

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354琉球りゅうきゅうしるす、此國虬(ミツチ)の大海たいかいなかわだかまごとくなれば、ながれ虬とうんしと云々うんぬん、按るにながれ虬のせつ心得こころえられず、我國わがくにしょえしところは、往古おうこ鎭西八郞爲朝ちんぜいはちろうためとも大海たいかいりゅうしたがえひてもとされしくになれば、ながれもとめうん、此説もあやまれり、おっとよりさきやまとかんしょみなりゅうもとめたり、また一説いっせつに、龍宮りゅうぐううんし也、我國わがくにしょ龍宮りゅうぐううん習はせるは此國也といふ、これまた心得こころえられず、ただなんとなくいにしえよりりうきうとうんしを、のち漢字かんじりてりゅうもとめども琉球りゅうきゅうともしるせしなりべし、

やまとくんしおり

前編ぜんぺんさんじゅうはち

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 りうきう 琉球りゅうきゅう、瑠球、ながれもとめ龍宮りゅうぐうなどしょり、今中いまなかさんしょうす、慶長けいちょうじゅうきゅうねんおう來朝らいちょうす、南島なんとうこころざしに、山海さんかいけいみなみやまと也といへり、あかりに、まんれきよんじゅうねん日本にっぽんはて勁兵さんせんいちいれ其國いちとりこいち其王いちかえ、遷宗廟そうびょういちだいかすめ而去とゆ、薩州のへいとき也、安永やすながよんねんがつに、志摩しま鳥羽とばうら漂流ひょうりゅうす、じゅうさんあいだふね也、船主せんしゅ照屋てるや筑登船頭せんどう宮里みやざとと、水主みずし以下いかじゅうはちめい髮結かみゆいたるところぎんの笄ほんゆびり、また眞鍮しんちゅうとあり、

中山なかやま聘使りゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 國號こくごう 琉求〈ずいしょ〉 ながれおに(リウキ)、〈しんとうしょりゅうもとめしたおんつづまりたるなるべし、瑠求、〈もと〉瑠球、〈おくこころざしとめかたきぞく文章ぶんしょう正宗まさむねとめもとめ、〈せいれいしゅうりゅう梂、〈三善みよし清行きよゆきさとししょう大師だいしつてりゅう虬(リウキウ)、〈中山なかやまかん琉球りゅうきゅう同上どうじょうあかりひろしたけ琉球りゅうきゅうあらたむといへり、しかれきょう宇治うじ大納言だいなごん今昔こんじゃく物語ものがたりに、ひとしことぶきさんねんそう商人しょうにんりょうあきら琉球りゅうきゅう漂流ひょうりゅうことて、琉球りゅうきゅうあれば、からそうよりありしえたり、中山なかやま(チウザン)むかし琉球りゅうきゅうわかれてみっつとなり、中山なかやま山南さんなん山北やまきたといふ、かくおうあり、其後ちゅう山王さんのう南北なんぼく一統いっとうしたれば、中山なかやまむべきなれともきゅうによりていま中山なかやまといふなり、きよしよりさつふう詔書しょうしょにも、なを琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのうといふぶんあり、わき玖、〈日本にっぽんわき玖の唐音とういんウエキーなり、こん薩音にて琉球りゅうきゅうをリユキーといへば、わき玖も琉球りゅうきゅうてんおんなり、よる、〈同上どうじょうえびすよこしまひさし、〈ずいしょ〉此はずいときえびすよこしまひさしといひしにあらず、煬帝ねんしゅひろしうみいれぞくもとめとき琉球りゅうきゅういたり、なですれどもしたがえがわず、其布かぶとかえる、とき日本にっぽん使つかいて、此はえびすよこしまじんもちいしょ也といひしをききしょしたるにて、ずいとき彼方かなたにてもとよりえびすよこしまひさしといひたるにはあらず、彜邪ひさし、〈ぞくひろ簡録〉うるま

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 のしま、〈せまころも言葉ことばきこしらぬを、うるまのしまじんよといへるなり、琉球りゅうきゅうをさしていふにはあらず、さるをしたひもうんかいに、うるまは琉球りゅうきゅうなりとあり、こんひとただ一筋ひとすじ琉球りゅうきゅうことおもへり、おおやけにんきょうしゅうに、しらぎのうるまのしまじんとあれば、しんぞくせししまとみえたり、鬼島おにじま、〈もと平治へいじ物語ものがたり〉おきなはしまの下略げりゃくなり、其惹、〈土俗どぞく自稱じしょう〉おきなとは沖繩おきなわ下略げりゃくにて、其國のかたちほそながく、なわごと海中かいちゅううかべりとうんにて、沖繩おきなわとう也と先輩せんぱいいへり、惡鬼あっきおさめ、〈同上どうじょう〉於伎よる、〈同上どうじょう〉宇伎よる、〈同上どうじょうともにおきなのてん也、ウとオおんつうず、

せいれいしゅう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 ため大使たいしいちあずかふくしゅう觀察かんさつ使いちしょいちしゅ のうけい、〈◯中略ちゅうりゃくこん我國わがくにぬし、顧先祖せんぞ貽謀いち、慕こんみかど徳化とっかいち、謹差した太政官だじょうかんみぎだいべんせい三位兼行越前國大守藤原朝臣賀能等うえたかし使つかいたてまつけんじ國信くにのぶべつみつぎとうぶついちのうとう、忘https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/0000000192d8.gif 僉、おかせいれうみすんでほんいち中途ちゅうといち、〈たいら暴雨ぼうう穿ほじ、〈たいら〉戕風おりかじ、〈高波たかなみかん、〈たんふね裔裔、〈〉颽風あさおうぎ、〈〉摧かん躭羅おおかみこころいち、〈たいらきたゆうはつ、〈たいらしつきもとめもとめ(○○)とらせいいち

げんとおるしゃくしょ

さんとしかい

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 えき圓珍えんちんせいかずさんしゅう那珂なかぐんじん、〈◯中略ちゅうりゃくはつちんよう北風きたかぜにわかおこり、漂ながれもとめこく(○○○)いちはるかすうじゅうにんほこほこいちだてはまいちりょうあきら悲泣いいちん曰、わがとうとうしたためながれもとむいちところうえ噬、ためこれ如何いかいちぶたりゅうもとめしゃ海島うみしまひとこく也、

しゃどおりてん

ひゃくはちじゅうろくへんぼう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 東夷あずまえびす 琉球りゅうきゅう 煬帝大業おおわざはつうみそちなん蠻等うんまい春秋しゅんじゅうてんきよしせいいち東向こちむきまれゆう煙霧えんむいちまたいく千里せんりいちさんねんみかどれいさんはねじょうしゅひろしいれうみもとむおとずれぞくいちとくなん蠻遂あずか倶往、いんいた琉球りゅうきゅうこくいちげんそうどおりいちかすめ一人ひとりいち、并取其布かぶといち而還、とき倭國わのくに使來朝らいちょうこれ曰、此夷よこしま久國ひさくにじんしょよう也、みかどとら賁郞はたひねりょうあさ大夫たいふちょう鎭州いちりつへいやすいちこんしおぐん〉浮うみげきこれいたり琉球りゅうきゅういちはつりょうしょう南方みなかた諸國しょこくじんいちしたがえぐんゆうこん崙人いち頗解其語いちさんひとさとしこれいち琉球りゅうきゅうしたがえこばめぎゃく官軍かんぐんいちりょうげきはしこれすすむいたり其都いちしきせんみなはい、毀其宮しついちとりこ男女だんじょすうせんにんいち而還、

ざつまないた

よん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 琉球りゅうきゅうこくしょう而貧じゃくのう自立じりついち、雖中國ちゅうごくさつふういち、而亦しんふく於倭いちやまと使いたりしゃぜっあずか中國ちゅうごく使いちあい

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 也、ぶたやまとあずかせっ壤、おさむこれ甚易、中國ちゅうごくあにのうこし大國たいこくいち而授これ哉、其國けいかみ、以婦人ふじんもりふししゃいちためしかばねいいこれ女王じょおういちゆかりかみせんいち以相だいうん國王こくおういち以下いか、莫はいいちおもんみ謹田しょう必禱於神いちかみさき往採かずいちこれしかこう敢穫、しゃしょくこれりつ、禦わざわい患屢あらわれいおういち中國ちゅうごく使者ししゃいたりそく女王じょおうりつ其從さんひゃくにんいちかくいただきくさいちいれ王宮おうきゅうちゅういちきょうおくくりやいちこわゆうどく也、しょしたがえみな良家りょうけおんなかみとく其魂いち往耳、中國人ちゅうごくじんゆうだいかれ庖者いちおやかみくだいち、其聲焉、

兩朝りょうちょう平壤ぴょんやんろく

よん日本にっぽん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 てきゆうした大國たいこくめいなおしま(○○)いちものうえ、其子受あいだきんいちとげころせちち關白かんぱくため天授てんじゅいちれいさんしゅう廣造ひろぞう兵船へいせんいちこえごとさんがついれ寇大あきらいち、〈◯中略ちゅうりゃくまたひとわき琉球りゅうきゅういち、勿いちみつぎ大明だいめいいち、致こといちときゆう福建ふっけんどうやすせんしょうひねさるいちぐう琉球りゅうきゅういちいんあずかていいち商議しょうぎ本國ほんごく進貢しんこう請封使つかいいち、備將關白かんぱくじょうゆかりいちたてまつむくいちんさるふねかいめんめぐなでちょうさんいち以聞、此萬れきじゅうきゅうねんよんがつ也、

異稱いしょう日本にっぽんでん

ちゅう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 なおしまぶたゆび琉球りゅうきゅういち國王こくおうなおいちためなまりためなおしまいち

やまとくんしおり

前編ぜんぺんよんじゅう於〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 おきな〈◯中略ちゅうりゃく〉 中山なかやまつたえしんろくに、土人どじんよび其地いちおきなといふ、ぶたきゅうめい也とゆ、おきちゅうにや(○○○○○○)、

中山なかやまつたえしんろく

ろく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 琉球りゅうきゅう 琉球りゅうきゅう土人どじんきょ下郷しもごういちものさん自稱じしょう琉球りゅうきゅうこくいちよび其地いち其惹(○○○)いちぶた其舊めい也、

やまとくんしおり

前編ぜんぺんよんじゅう於〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 おきなひと〈◯中略ちゅうりゃく〉 中山なかやまつたえしんろくに、琉球りゅうきゅうじんおきなびと、日本人にっぽんじんやまとびとヽゆ、

〔麑藩名勝めいしょうこう

さん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 沖繩おきなわとう(○○○)〈そくちゅう山國やまぐに也、またつく惡鬼あっき納島のうしまいち中山なかやま方言ほうげん於喜耶、また宇喜耶いち中山なかやまつたえしんろくさく其惹いち琉球りゅうきゅうこくりゃくうん、按屋其惹、じょ葆光ろくいい其舊めいいち也、ほそこう、乃土おん此、れいこれさくしょのり仍是琉球りゅうきゅうりょうみみとぞ、按に、其惹はそく沖繩おきなわ、其土おんなわよぶことヤンのごとし、あに其惹のおん琉球りゅうきゅうならん哉、しゅう煌國こころざしりゃくふかかんがえずして、妄にじょ葆光のせつを駁、ゆう杜撰ずさんはなはだし、〉音海おとみうみまき一附録夷語音釋人物門曰、琉球りゅうきゅうじん、〈やまときゅう拿必しゅう日本人にっぽんじん、〈吐必しゅう琉球りゅうきゅう國王こくおう、〈やまときゅう拿敖こん按に、琉球りゅうきゅうじんより聞たるところりしなるべし、其故は、凡琉球りゅうきゅう本邦ほんぽうじんしょうしてやしなえとく宇といひ、自國じこくじんをさしてやまときゅう耶知宇といふ也、〈必周のしゅううたぐ誤字ごじまた敖那のしたこころざしいちだっする、敖那こころざし尊稱そんしょうなり、琉球りゅうきゅう方言ほうげん沖繩おきなわおもなり、 くにこころざしりゃくこころざしつくる、したがえべし、凡琉球りゅうきゅう國語こくご

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 〈て中山なかやまつたえしんろくり、みなわが東方とうほうおんみみいち、其繁くつをもて爰にふくしるさず、〉南島なんとうこころざし曰、しゅうまわりななじゅうよん、〈よりどころ、此間里數りすう而言、凡ろくしゃくためあいだろくじゅうあいだためまちさんじゅうろくまちためさとこうみな此、〉みなみほんはん麑府いちひゃくきゅうじゅうさとはん、〈いたりきた運天うんてん長濱ながはまいちさんひゃくはちじゅうさとあいだきりじゅうなな海港かいこうしょ村落そんらくすうひゃく、 きゅうせつうん沖繩おきなわとうしゃそく沖之島おきのしまといふことなり、日本にっぽん御歌おうたに、沖津おきつとり鳬著とうえいきゅうひしよりたり、なわこれおとてんぜしなり、こん按、なわいま那覇なはみみおきといひなわといふ、ほんりょうごう沖繩おきなわといふにたり、 一説いっせつうんやまときゅう耶とは、おきわき玖の略言りゃくげんなり、そくこれしょいいわき玖にして、而後いまの馭謨ぐんえきすくいわかおきといふなり、こん按、沖之島おきのしまてんじて沖繩おきなわといひ、沖繩おきなわ方言ほうげんおきといふ、而其やまとやつのごとき、またおきりゃくにして、國史こくしもっわき玖とうんそく南島なんとうこころざししょいい、其路しょよしと、いま屋久島やくしま南島なんとうなか此方こちらみつ迹す、當時とうじ南島なんとう地名ちめいひつじしょう、其端とうをもてかくしまこんしょうするみみ、於りゅうもとめをもておき屋久やくといひしにたり、しかきょうところしんなることをかんがえがたし、

から大和やまとじょう東征とうせいでん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 廿にじゅういちにちつちのえうま、〈◯から天寶てんぽうじゅうねんじゅういちがつだいいちだいりょうぶねどういた阿兒あご奈波とう(○○○○○)いちざい禰島西南せいなんいち

長門ながとほん平家へいけ物語ものがたり

よん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 少將しょうしょうは、にてさつまがたへと聞給ひしかば、さもやはとおもえきゅうけるに、九州きゅうしゅうのうちにはゆうざりけり、まことつね流罪るざいだにかなしかるべし、まして此島の有様ありさま傳聞でんぶんては、かくもだえこがれけるこそむざんなれ、〈◯中略ちゅうりゃく〉さつまがたとはそうめい也、きかいはじゅうしまなれば、くちとう日本にっぽんずいへり、おくななしまはいまだわがあさしたがえはずといへり、白石しらいし、あこしき、くろとう、いわうがしま、あせおさめ、あせ、やくのとうとて、ゑらぶ、おきなは(○○○○)、きかいがしまといへり、

やまとくんしおり

中編ちゅうへんさん宇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 うるまのしま 琉球りゅうきゅうをいふといへり、蠻國にさうるまあり、そでちゅうしょうなどにも、いづくともなし、

せまころも

いち

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 こはいかにかとよ、うるまのしま(○○○○○○)のひとともおぼえはべるかな、

せまころもひも

いち

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 いちこはいかに 〈引〉おぼつかなうるまのしまひとなれやわがことのはをしらずが

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 ほなる、琉球りゅうきゅうをうるまのしまうんと也、

琉球りゅうきゅう入貢にゅうこうりゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 うるまのしま琉球りゅうきゅうにあらざるのべん きゅうほこり隨筆ずいひつ夏山なつやま雜談ざつだんとうに、うるまのくにとは琉球りゅうきゅうなりといへり、これはもとせまころもといふ册子さっしに、うるまのしまといふことのあるを、紹巴しょうはしもひもといふ註釋ちゅうしゃくに、琉球りゅうきゅうなりといへるによるとゆれども、謬りなり、うるまはしんいま朝鮮ちょうせんなり〉の屬島ぞくとうにして、琉球りゅうきゅうにはあらず、みずかべつなり、そのあかし大納言だいなごんこうにんしゅうに、しらぎのうるまのしまじんきたりて、こヽのひとのいふこともきこしらずときかせたまひて、がえりごときこえざりけるひとにと、詞書ことばがきありて、おぼつかなうるまのしまひとなれやわがうらむるをしらずがほなる、〈千載せんざいしゅうには、よんをわがことのはをにつくる、〉また本朝ほんちょううららに、しんこくhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ea45.gif りょうとうじんともえたり、これにて琉球りゅうきゅうならざることいと分明ぶんめいなり、前田まえだ夏蔭なつかげうん、うるまはhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ea45.gif りょうかんおんなりといへり、

萬國ばんこく夢物語ゆめものがたり

うえ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 琉球りゅうきゅうこくナリ、〈◯中略ちゅうりゃく日本にっぽん西南せいなん海中かいちゅうざい王城おうじょうもんりゅう宮城みやぎうんがくヲアゲタリ、古昔こせきヨリ日本にっぽんニテ龍宮りゅうぐううんハ、此國ヲカタドルナラン、

日本書紀にほんしょきどおりしょう

なな

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 古事記こじき曰、如魚鱗ぎょりんいちところみやつこ宮室きゅうしつすわえ魚鱗ぎょりんごうりゅうどうこん按此なずらえ水府すいふいち而言、口訣くけつ纂疏とうちょくため龍宮りゅうぐう(○○)いち也、 古事記こじき曰、いねごおりいのちしゃため妣國いち而入すわ海原うなばらいち也、姓氏せいしろく曰、あたらし良貴よしたか、彦波瀲武鸕鶿草葺くさぶきごうみことおとこいねめしいのちこう也、於新りょう國主こくしゅいち鑑眞がんじん和尚おしょうでん曰、あるにち南國なんごくいちある龍宮りゅうぐういち琉球りゅうきゅう神道しんとう曰、琉球りゅうきゅうおうもん牓記りゅう宮城みやぎいち

古事記こじきでん

じゅうなな

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 海神わたつみみやは、うみそこにあるくになり、後世こうせいのなまさかしきせつどもは、古傳こでんおもむきにかなはず、〈佛書ぶっしょ龍宮りゅうぐううんものあり、其説るさま、あやしきまで此段にいとよくたるしょあり、(中略ちゅうりゃく)さてまたちかだいのなまさかしきひとしんには、水中すいちゅう宮室きゅうしつなどのあるべきなしとおもひとるから、かの龍宮りゅうぐうなどのせつをもしんじず、此段のことをも、じつ海底かいていにはずとしてあるい薩摩さつまこくちかいちしまなりといひ、あるい琉球りゅうきゅうこくなりといひ、あるい對馬つしまなりなどもうんて、其証などをもとりどりにうんめれど、すべてさるるいは、みな古傳こでんそむけるれい儒者じゅしゃ私事しじなり、〉

中山なかやま聘使りゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 通信つうしん みつぎ使 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 琉球りゅうきゅう我國わがくに通信つうしんすることは、いともひさししかりけん、神代かみしろまきに、天孫てんそん彦火みことうみみやおもむきかせきゅうひ、海神わたつみ豐玉とよたま彦のおんな豐玉とよたまひめめとり、うみみやとまりましますことす、またたまひめ草葺くさぶきごうみことすめらぎうみみやよりたたきゅうふとあるを、うみみやとは當時とうじ琉球りゅうきゅうをさしてうんへりといふ諸家しょかせつあり、此はまさしくさくざれば、臆斷おくだんたるせつなれど、わたしおもふに、しんひだりもあるべしとおぼえぬ、其故は、日向ひなた大隅おおすみ以南いなん諸島しょとうおおしといへとも君臣くんしん禮節れいせつの備りたるは琉球りゅうきゅうわかべからず、こん雍熙のじゅんふうよんたっし、とお島嶼とうしょおよび、頑民すめらぎよくといへども、琉球りゅうきゅう以外いがい諸島しょとうは、こと〴〵く窮境きゅうきょう仄陋のえびす蠻にして、くんちょうあることをしらず、きょう太古たいこりては、其賤れつ魯推してはかるべし、天孫てんそんさんねんひさしきにこらえさせきゅうふべき、其上だいすめらぎたたきゅうほどの、端正たんせいそううらら女子じょしのおはすべきともおぼえず、いちあかし也、こん琉球りゅうきゅうたかしほこらおおなかに、彦火々、葺不あいみことたかしまつし、およ豐玉とよたま彦、豐玉とよたまひめたまひめをもまつことけり、また我國わがくに古語こご往々おうおうかれこくのこれるがなかに、ゆたかといひだまといふいとおおし、およかれこく事情じじょう云爲うんいふとしちかくして、和歌わかをよみものまヽおおし、此をあかしとす、文字もじ應神おうしんみかどじゅうろくねんわため、かれこくにも中古ちゅうこしゅんてん以後いごよりはじめるとえたり、しかれば天孫てんそんしょうたてまつことも、おうしん以後いごよりしょうたてまつこととはしられたれど、かれまた天孫てんそんといへば、わが天孫てんそんかれこくとまらせきゅうちゅうに、すめらぎたねのこしてかえらせきゅうひ、さて其皇たねかれ開闢かいびゃくきみとならせきゅうふもまたしるべからず、此をさんあかしとす、京都きょうと將軍しょうぐんすえ政道せいどうたゆ西國さいこく沿海えんかい無頼ぶらいわたしふね槎をし、兵器へいきを携へ、琉球りゅうきゅう臺灣たいわんやすみなみりょそう、閩廣のあいだを鋟しこうし、貲財をだつことあり、あかりに此をやまと寇とうんだいかしこる、そのこうすものに、りゅう宮城みやぎいたたからたりとなんいひしと、いまも其地にてかたでんへける、龍宮りゅうぐういきとは、泛くかいとうをいひしことなれとも日向ひなた大隈おおくまよりして、諸島しょとうつらなり、甚いたえき琉球りゅうきゅうなれば、此をよんあかしとす、琉球りゅうきゅう衣冠いかんは、あかりせいを受て其俗へんといへども、男子だんしかんざしを插は、其國固有こゆうふうなるべし、國王こくおう龍頭りゅうずかんざしもちいふといへり、いまこくぞく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360うみ宮王みやおう姿すがたを描に、りゅうかんむりいただかたちつくる、畫工がこうもとよりほんもとありてするにあらねば、しるしとするにらざれともあんに其同軌にるをつよあかしとす、此等をあわかんがえふるに、うみみや琉球りゅうきゅうたること決定けっていしてぬべし、さればわれ琉球りゅうきゅうとは、尊卑そんぴとうこと也といへども、あいとなりくちびるとやいわん、肝膽かんたんとやいわん、此よりのちつづけみつぎ使往來おうらいありつべけれど、こうふるところなし、

位置いち/疆域

中山なかやま聘使りゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 其國薩州のみなみいちせんろくひゃくふくしゅうせいひがしせんななひゃくさとにあり、北極ほっきょくじゅうろくふんさん釐、へん北極ほっきょくちゅうせんり、ひがしかたよことじゅうよん牛女うしおんなにあたる、

萬國ばんこく夢物語ゆめものがたり

うえ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 琉球りゅうきゅうこくナリ、海中かいちゅう島國しまぐに也、中華ちゅうか東南とうなん海中かいちゅうざいだい寃ヨリしょう北東ほくとう有島ありしま也、〈◯中略ちゅうりゃく北極ほっきょく廿にじゅうななもと氣候きこう暖國だんごく也、だい寃ヨリハかんシ、日本にっぽん帝都ていとヨリ凡ひゃくよんじゅう直徑ちょっけいみなみニシテ、方角ほうがく西南せいなんニテ、海路かいろろくひゃくあまりさとなりベシ、薩州ヨリ海路かいろさんひゃくさとバカリ也、國中くになかへびシ、日本にっぽんねずみノ如シ、薩州まで海中かいちゅう數多すうた小島こじまゆうみな々薩州琉球りゅうきゅうヨリコレヲりょうス、土産みやげ木綿こわた芭蕉布ばしょうふ黒砂糖くろざとう、アワモリしゅ、其外やく種類しゅるい品々しなじな也、

日本にっぽん地誌ちし提要ていよう

ななじゅう琉球りゅうきゅう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 疆域 沖繩おきなわとう薩摩さつま開聞かいもんみさき西南せいなんしょうみなみ海上かいじょう凡壹ひゃくさんひろえろくさとニアリ、東北とうほくヨリ西南せいなんわたるリ、ちょう凡貳ひろえなな東西とうざいこうしょいちじつさとせましょいちさとあまり南北なんぼく凡壹じつさと周回しゅうかいななひろえよん幅員ふくいん凡壹ひゃくろくひろえかたさと、其南とう宮古みやふる八重山やえやま(ミヤコヤヘヤマ)群島ぐんとうトナシ、これさきとうしょうス、

島嶼とうしょ

南島なんとうこころざし

うえ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 けいとう(○○○○)、〈舊作きゅうさくけいばばとういちあきら人稱にんしょういいにわとりかごいちそく此、〈にわとりかご嶼見こんさんていわか琉球りゅうきゅうこくいち、按すめらぎあかり實記じっきいち所載しょさいにわとりかご淡水たんすいいちめいひがしばんいちいい此島いち也、其名偶同、〉那覇なはこういち西行さいぎょうなな、而至此、其周まわり三里さんり座間味島ざまみじま隷焉、つくりきん小島こじま凡八、土壤どじょうせましょうみなしたゆうみんきょいちものうえ、〈座間味島ざまみじましゅうまわりさとじゅうよんまち赤島あかじまあまねまわりいちさとじゅうはちまち國人くにびとうん中國ちゅうごく人稱にんしょううまやまいちものそく此、〉此西往、さきとう南海なんかい諸島しょとう總稱そうしょうさきとういち海中かいちゅうすな礁、其國しょうはちじゅういちもの南北なんぼく東西とうざいさとはん、〈使つかい琉球りゅうきゅうろくしょいい古米こまい山水さんすいきゅう、礁多、ふねいたり此而敗者はいしゃそく此、〉ある礁東いちある礁西いちりょうみちひとしななじゅう、而至宮古島みやこじまはりあなはまいち也、 しま(○○○)しまざい那覇なはこう西北せいほくじゅうろくいちしゅうまわりいちさとろくまち側近そっきん小島こじまてん未奈みないち、其地甚狹、ひとじゅうしゃいち、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 久米島くめじま(○○○)、〈舊作きゅうさくきゅうべいとういちざい那覇なはこう及計島西しまにしいちしゅうまわりろくさとじゅうまちところぞくあいだきり、曰中城なかしろいち、曰具志ぐしかわいちみなと、其南曰兼城かねぐすくみなといち、〈みなとふかいちまち濶五じゅうあいだとまり大船おおぶねよんせきいち、〉其東曰町屋まちや入江いりえいち、〈其港あさせまふねせきなんとまり、〉なみみな那覇なはこういちよんじゅうはち國史こくししょいいたま、〈ぞく日本書紀にほんしょきいち明人あきと以稱古米こまいいちそく此、〈使つかい琉球りゅうきゅうろく、及廣輿こしとういち、〉閩人さんじゅうろくせいこうしょきょ也、ちょくきたさとゆう鳥島とりしましゃいち隷焉〈そくいい久米くめ鳥島とりしまいちもの〉 粟島あわしま(○○)、しまざいいちしまきたいち、其周まわりさとじゅうまち那覇なはこういち西北せいほくさんじゅう、 めぐみとう(○○○)、〈舊作きゅうさくおよげしまいちそく明人あきとしょたたえうつりさん嶴、〈使つかい琉球りゅうきゅうろく、及廣輿こし閩書とういち、〉五島ごしましょうせっ、而至今歸仁なきじん西北せいほく港口こうこういち、〈みなとめいしかあずかなみ入江いりえいちしま港口こうこういちやくいち、其周まわりよんさとななまち、 めぐみ平屋ひらやとう(○○○○)、〈舊作きゅうさくめぐみひら也島いちずい書作しょさく黿鼊嶼いち明人あきと以謂ねつかべやまいちあるいいかべやまいち、〈ねつかべ使つかい琉球りゅうきゅうろく及廣輿こしいちかべ閩書いち、按廣輿こしぶん黿鼊嶼熱かべやまいちものなまり、〉しゅうまわりじゅうろくまちざい今歸仁なきじんあいだせつなせいきたじゅういち、其南小島こじまめい乃保いちそく此、〈乃保とうしゅうまわりじゅうさんまちめぐみ平屋ひらやとういちまち、〉 とう(○○○○)、しまざいめぐみ平屋ひらやとう南里なんりあまりいちしゅうまわりさとじゅうはちまちところとう、其南曰具志ぐしかわいち、其北曰柳葉やなぎばいちなみみな狹小きょうしょうしたゆうきょじんいちものうえ、 とりとう(○○)しまざいめぐみ平屋ひらやとう東北とうほくじゅうあまりさといちしゅうまわりじゅうよんまち、厥土さん硫黄いおういち明人あきとしょいい硫黄山いおうさんそく此、〈使つかい琉球りゅうきゅうろく、及廣輿こし閩書とういち、〉 以上いじょうきゅうとう中山ちゅうざんこれ、 與論島よろんとう(○○○)〈舊作きゅうさく輿論よろんとういちあきら人稱にんしょう繇奴とういちざい沖繩おきなわとう東北とうほくいち、而其きたせっみずりょうとういち、〈繇奴閩書いちしゅうまわり三里さんりまちところぞくむら、曰たけいくいち、曰阿賀あがいち、其港曰阿賀あがはくいちとまりそくいいしたはくせんいちこれしょうえ也、運天うんてんみなといち東北とうほくゆきじゅうさと而至于此、〈港口こうこうあさせま大船おおふなえき出入でいりいち、〉 えいりょうとう(○○○○)、〈舊作きゅうさくめぐみ羅武ラブとういちざい與論島よろんとうきたいち、而其きたせっ徳島とくしまいちあきら人稱にんしょうとげひろしいちそく此、〈閩書いち南島なんとうめいえいりょういちもの凡二、隷大隅おおすみこくいちいいこれくちえいりょういち、隷八重山やえやまいちいいこれ奥永おくながりょういち名義めいぎひつじしょううん、〉しゅうまわりじゅうさとじゅうはちまちところぞくあいだきりさん、曰とめいち、曰大城おおしろいち、曰徳時とくどきいち、其港曰大和やまとはくいち與論島よろんとういち東北とうほくゆきじゅうさん、而至此、〈みなとふかまちじゅうあいだ、濶まちよんじゅうあいだ大船おおふなえき出入でいりいち、〉 徳島とくしま(○○)、〈舊作きゅうさくきゅうとういち國史こくししょいいかんとう、〈ぞく日本書紀にほんしょきいちざいえいりょうとうきたいち、而其東北とうほくせっ大島おおしまいちしゅうまわりじゅうななさとさんまちところぞくあいだきりさん、曰ひがし、曰西目にしめいち、曰面繩おもなわいちみなとさん其東曰秋徳あきとくこういち、〈みなとふかいちまち濶町とまり大船おおぶねさんせきいちえいりょうとういち東北とうほくゆきじゅうはち、而至此、其

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 西にし大和やまとなんじ也泊いち、其北曰井之川いのかわいち西北せいほくこうなみみなあさせま大船おおふなえき出入でいりいち、 大島おおしま(○○)、しまざい徳島とくしま東北とうほくじゅうはちいち琉球りゅうきゅうきたかい也、〈ぞく文獻ぶんけんどおりこうしょいい琉球りゅうきゅう北山きたやま是也これや國史こくししょいいおもね麻彌まやとうあるさく菴美いちなみみないい此、おもね麻彌まやしゃ上世じょうせい神人しんじんめい也、其東北とうほくゆうやま、乃神じんしょくだいんめいおもね麻美あさみたけしいちしままたいんとく此名いち地形ちけいややだいこうしょう以爲大島おおしまいち、其周まわりじゅうきゅうさとじゅうまちところぞくあいだきりなな、曰笠利かさりいち、曰奈瀬いち、曰古見ふるみいち、曰住用すみよういち、曰ひがし、曰西にし、曰やきないいちみなとはち、曰西古見にしこみみなといち、曰やきないみなといち、曰大和やまと馬場ばばみなといち、曰奈瀬みなといち、曰深井ふかいうらいち、曰うらいち、曰瀬名せなうらいち、曰住用すみようみなといち、〈西古見にしこみみなとこうふかじゅうあいだ、濶さんじゅうあいだとまりだい舶五ろくせきいち、此去いた徳島とくしまいちゆうりょうみちいち、其一正南せいなんゆきじゅうはちさん以抵井之川いのかわいち、其一西南せいなんぎょうじゅうはちさん以抵大和やまとはくいちやきないみなとざい其東さとみなとふかさん、濶さんじゅうまちとまり大船おおぶねひゃくせきいち其東ななそく大和やまと馬場ばばみなとみなとふかまち、濶さんまちとまり大船おおぶねろくせきいちまた其東そく奈瀬みなとこうふかじゅうまち、濶まちとまり大船おおぶねじゅうよんせきいちまた其東北里きたさとそく深井ふかいうらこうふかさんじゅうまち、濶よんまちとまり大船おおぶねさんじゅうせきいち、其東みなみはちそくうら、此嶴あさせまはくせんいち、其南よんそく瀬名せなうらまたはくせんいち、其西南せいなんよんさとはんそく住用すみようみなとこうふかさんまち、濶まちとまり大船おおぶねななはちせきいち此南而轉西北せいほくいち、抵西古見にしこみみなといちやくじゅうさん、〉深井ふかいうらいち西北せいほくぎょうさんじゅういたり七島ななしまいち、〈しま大小だいしょうじゅうあまり、錯在海中かいちゅういち總稱そうしょう七島ななしまいち、隷薩摩さつまこくいち使つかい琉球りゅうきゅうろく、及閩しょしょいいななとうしゃそく此、〉其海しおつねむかいひがし而落、乃是もとしょいい落漈すい、趨下而不囘者也、凡諸島しょとうしょうはなれ中間なかましょいい落漈しゃ往往おうおうざい焉、〈使つかい琉球りゅうきゅうろく以爲落漈いちところざいいいしたとお琉球りゅうきゅういち而非なか經過けいかしょうえもの、〉また此北ぎょうななじゅういたり大隅おおすみこくいちえいりょうとうぞくいいこれおもね麻彌まやしゅうたびいちぶた遺言ゆいごん也、ところ三島みしま、曰加計かけいち、〈しゅうまわりじゅうさと〉曰于計いち、〈しゅうまわりよんさときゅうまち〉曰與路よろいち、〈しゅうまわり三里さんりじゅうまちなみみなざい大島おおしまみなみいち、 おにさかいとう(○○○)、しまざい大島おおしま東南とうなんなないち、〈うらいち東南とうなんぎょうなないたりおにさかいとうわんはくいち、〉しゅうまわりろくさとじゅうよんまちところぞくあいだきり、曰志戸桶しとおけいち、曰ひがし、曰西目にしめいち、曰わん、曰荒本あらもといち、其港ざい西にしわんはくいち、乃是明人あきとしょたたえよしけい、〈閩書いち琉球りゅうきゅう國東くにさき北極ほっきょくかい也、〈國人くにびとうんしょう琉球りゅうきゅういちぶた此、いないち、〉 以上いじょうとう古山ふるさん北之きたの 宮古みやふるとう(○○○)、しまそく明人あきとしょいい大平山おおひらやま也、〈こう輿こしいち、按星槎勝らんうん琉球りゅうきゅうゆうだいやまいちしまえびすこころざしうん大崎山おおさきやまごくこうたかし夜半やはんとうこれもち暘谷日出にっしゅついちべにこうしょくてん山頂さんちょうためこれ倶明ある此、〉ざいけいとう西南せいなんななじゅういちしゅうまわりじゅういちところぞくあいだきりよん、曰於呂おろいち、曰下地したじいち、曰平良たいらいち、曰雁股かりまたいち、〈此島とまりふねところいちしょろくとう、曰以計まいいち、〈しゅうまわりいちさとはちまち〉曰久禮くれまついち、〈しゅうまわりいちさと〉曰えいりょういち、〈そく奥永おくながりょうとうしゅうまわりよんさとじゅうまち、〉曰下地したじいち、〈しゅうまわりさと〉曰太良たら滿みつるいち、〈しゅうまわりよんさと〉曰いち、〈しゅうまわりいちさと此西ぎょうじゅういたり八重山やえやまいち、其海しおまたつねむかいひがし而落、乃所いい落漈しゃ、〈宮古島みやこじまはりあなはまいちむかい西南せいなんいちくだりさんじゅういたり太良たら滿島みつしまいちまた西にしいたる石垣いしがきとうたいらくぼさきいちじゅうはち、〉 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1363 八重山やえやまとう(○○○○)、石垣いしがきいれひょう しま總稱そうしょう以爲八重山やえやまいち國史こくししょうしんじさとしいち、〈ぞく日本書紀にほんしょきいちほし槎勝らんしょうじゅう曼山いちぶたみないい石垣いしがきいち、乃是しんじさとしうたてみみ石垣島いしがきじま(○○○)しゅうまわりじゅうろくさとじゅうななまちところぞくといきりよん、曰かわひらたいち、曰みやりょういち、曰大濱おおはまいち、曰石垣いしがきいち、其港ざい西北せいほくいちかわひらみなといち、〈宮古島みやこじまはりあなはまいちじゅう八里半はちりはんみなとふかろくまちさんじゅうあいだ、濶いちまち大船おおぶねさんじゅうせき以收はくいち、〉ざいみなみ御崎おんざきはくいち港口こうこうあさせまとまりふねただ西南せいなんようみみどうけいとめ美島みしま黒島くろしま波照間島はてるまじまとう隷焉、〈どうけいとめ美島みしまざい御崎おんざきはく西にしいちさとじゅうはちまちいちしゅうまわりいちさとさんじゅうまち黒島くろしまざいどうけいとめ美島みしま西南せいなんさとじゅうまちいちしゅうまわりまたさとじゅうまち、其所かんとう、曰うえ離島りとういちしゅうまわりじゅうまち、曰しも離島りとういちしゅうまわりじゅうななまちなみざい黒島くろしま西南せいなんいち波照間島はてるまじましゅうまわり三里さんりじゅうまち黒島くろしまいちじゅうよんさともと、乃是琉球りゅうきゅうみなみかい也、〉 にゅうおもてとう(○○○)、ざい石垣島いしがきじま西南せいなんいち、〈石垣島いしがきじまゆうやま、曰於茂登嶽おもとだけいち、此島ざい波山なみやまみなみいちめい於茂のぼりとういち方言ほうげん深奥しんおうこれしょいいこれいちそくにゅう也、ひょうしゃ於茂登之としなまりみみ、〉しゅうまわりじゅうところぞくあいだきり、曰古見ふるみいち、曰いれひょういちまたゆう小濱おばま鳩間はとまうちはなれそとはなれとうとういち而隷焉、〈小濱おばまざいどうけいとめ西にしいち、其周まわり三里さんり小濱おばまきたゆう宇也すえとういち狹小きょうしょう而無ひとじゅうしゃいち鳩間島はとまじまざいいれひょう西北せいほくいち海上かいじょうさとはん内外ないがい離島りとうざいいれひょう西にし南海なんかいわんいち三島みしままたみな狹小きょうしょうしたゆうみんきょいちものうえ、〉以西いせいみち落漈いち、而行よんじゅうはちいちいたり與那國よなぐにいち、其地しゅうまわりさとじゅうまち、乃是琉球りゅうきゅう西にしかい也、〈與那國よなぐにまたにゅうおもてとういち焉、〉 以上いじょうとう古山ふるさんみなみ

日本國にっぽんこくぐん沿革えんかくこう

よん屬島ぞくとう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1363 琉球りゅうきゅう〈◯中略ちゅうりゃく〉 沖繩おきなわとうかんじゅうななむら 方言ほうげんよびむらためあいだきりいち、而私しょうぐん日本にっぽんうん沖繩おきなわそく阿兒あご奈波なまり、 中山なかやまつたえしんろく國人くにびといたりこんよびながれだまいち其惹いち中山なかやまうん中頭なかがみ中山ちゅうざんしゅうじゅういちぐんげんはちぐんかんひろし年間ねんかんぶんためじゅういちぐんいち島尻しまじり山南さんなんげんじゅうよんぐんかんひろし年間ねんかんぶんためじゅうぐんいち國頭くにがみ山北さんぽくげんじゅうよんぐんかんひろし年間ねんかんぶんためきゅうぐんいち、〉 けいとうかんいちむら あるさくけいりょうあいだいち 琉球りゅうきゅうりゃくうんひがし山大やまだいしょう五島ごしまぞくけいよりゆきまい以下いかけん外注がいちゅうみな琉球りゅうきゅうりゃくいち、〉 (トナキ)とうかんいちむら あるめいよせ、〉 久米くめとうかんむら ぞくさくたまいちしゅうとまい、〉 粟島あわしまかんいちむら ある粟國島あぐにじま、 やす㞾、あるおもねしゅうとあままたあんまもるひとし、〉 めぐみとうかんいちむら 椅山、ある椅世あさまた伊江島いえじま、〉 (イセナ)とうかんいちむら 琉球りゅうきゅうりゃく〉 めぐみ平屋ひらやとうかんいちむら あるまた伊平屋いへやかべさんぞくよび禹臣いち、〉 宮古みやふるとうかんろくむら みなみなな島國しまぐにじんみな太平山たいへいざんいちはじめためみやふくため迷姑いちこんあさしゅうと、〉 八重山やえやまとうかんじゅういちむら 南北なんぼくきゅうとう國人くにびとみな八重山やえやまいちいちめいきた木山きやまめい彜師按續うんいいしんじさとしいちあずか彜師いちおと相近すけちかうたぐとう中山なかやま此島いちため太平山たいへいざんいちうたぐ、〉 おにさかいとうかんむら 古作こさくいちあるあるうみかい、〉 大島おおしまかんななむら とりちちあさ自稱じしょうしょう琉球りゅうきゅういち、〉 徳之島とくのしま、〈かんさんむら ぞくさくかんいちしゅうと、〉 永樂えいらくとうかんさんむら あるえいりょうりょうたもてある惠良えら、〉 與論島よろんとうかんいちむらよしろん、〉 みぎ島津しまつしょうえ幕府ばくふいちこれせきしょ斯、而中やまかんうんひさしろう喇、〈ぞくよび平良たいらいちしゅうとあさ、〈ぞくよびらいあいだいちわけうらあいだいち一作いっさくらいあさいちめいらいしゅうといち、〉がらすかつわたる、〈ぞくよび大神おおがみいち一作いっさく宇間あじいち、〉あさ、〈ぞくよびいけあいだいちわけあいだいち、〉めん、〈ぞくよび水納みんないち一作いっさくみずめいいち、〉りょうたもて、〈ぞくよび惠良えらいちたち喇麻、〈ぞくよび多良間たらまいち一作いっさく太良たらまついち、〉七島ななしまそう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1364 しょういちこれ宮古島みやこじまいちまたあさしゅうとやまいちけい、〈ぞくよび石垣いしがきいちしゅうとわたる、〈ぞくよびいちさく西表いりおもていちがらすともえあさ、〈ぞくよび小濱おばまいち二島ふたじまやく宇波うなみあいだいち、〉おもね喇斯しゅうとぞくよび新城しんじょういちおもね喇姑斯古、〉たちやつ、〈ぞくよび武富たけとみいちわけためとみたけしいち一作いっさく武富たけとみいち、〉ともえはしごりょあさ、〈ぞくよび波照間はてるまいちしゅうとりょあさ、〈ぞくよび黒島くろしまいちわけため久里くさととういちさく黒島くろしまいち、〉ともえあいだ、〈ぞくよびばとあいだいちあさともえあさやくなみわたりあいだいち一作いっさくばとあいだいち、〉ゆかりしゅうとあま、〈ぞくよび與那國よなぐにいち以上いじょうきゅうとうそうしょういち八重山やえやまいちまた太平山たいへいざんいちしゅうとたちけい、〈ぞくよびひさだかいちなつろくさくあなたちけいいち、〉やつ、〈ぞくよび津輕つがるいちともえあさ、〈ぞくよびはま比嘉ひかいちわけため濱島はまじまいち、〉、〈ぞくよび伊計いけいいちわけため池島いけじまいち以上いじょうひがしよんとう、〉しゅうとまい、〈ぞくよび久米くめいち、〉ひがし、〈ぞくよびぜんけいりょうあいだいち西にしぞくよび西にしけいりょうあいだいち大小だいしょうよんとう以上いじょう西三島にしみしま、〉、〈ぞくよびめいいちおもねしゅうとあま、〈ぞくよび粟國あぐにいち〉猗世あさ、〈いち猗山いちぞくよび伊江いえいち、〉かべさん、〈ぞくよびいち〉硫磺とう、〈ぞくよび鳥島とつしまいち、硫磺やまいちめい黒島くろしまいちおおとりまた烏島からしまいち以上いじょう西北せいほくとう、〉しゅうと、〈ぞくよび徳島とくしまいち、〉がらすあさ、〈ぞくよび大島おおしまいちよしろん、〈ぞくよび與論よろんいちえいりょう、〈ぞくどうゆかりりょ、〈ぞくよび與路よろいち一作いっさくよしいち、〉がらすやつぞくよび冲野いちまた浮野うきの、〉けいりょあさぞくよびかきあいだいちりょいちさくみちまたつくりょあさいちかい、〈ぞくよびおにかいいち以上いじょう東北とうほくはちとう國人くにびとみながらすちちあさいち此爲噶喇ななとういちまたつくいちしん按汪揖録ななとうしゃくちとう中島なかじま諏訪瀬島すわのせじまあくせき虵島、平島ひらしま寶島たからじま也、ひと滿みつるばんおもんみ寶島たからじま較大、國人くにびとすべよび噶喇いちある曰即やまと也、〉ため(○○)琉球りゅうきゅうさんじゅうろくとう(○○○○○○)いち

中山なかやま聘使りゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1364 琉球りゅうきゅう屬島ぞくとうぜん〈◯りゃく〉 屬島ぞくとうさんじゅうろく、爰に其方きょぐ、ひがしよんとうしゅうとたちけい、〈中山なかやまひがしひゃくよんじゅうさと津堅つけん、〈中山なかやまひがしさんじゅうさとともえあさ、〈南北なんぼくとう中山ちゅうざんひがしさんじゅうさと伊計いけい、〈中山なかやまひがしさんじゅうさとせい西にし三島みしまひがし大小だいしょうとう西にし大小だいしょうよんとう、〈中山なかやませい西にしひゃくさんじゅうさとしゅうと米山よねやまうま西にしにあり、〈中山なかやまことよんひゃくはちじゅうさと西北せいほく五島ごしま、〈しゅうとまいきんし〉やす㞾山、〈ならぶ〉椅山、〈いたりちかし、しお退しりぞけばしていたるべし、〉伊平屋いへや、〈中山なかやま西北せいほくさんひゃくさと硫黄いおうさん、〈中山なかやま西北せいほくさんひゃくじゅうしゅうと米山よねやま南北なんぼくしょう峙す、〉東北とうほく八島やじまよしろん、〈中山なかやま東北とうほくひゃくさとえいりょう、〈中山なかやま東北とうほくひゃくじゅうさとしゅうと、〈中山なかやま東北とうほくろくひゃくさとゆかりりょ、〈しゅうと東北とうほくさんじゅうはちさとがらすやつ、〈しゅうと東北とうほくよんじゅうさとけいりょあさ、〈中山なかやま東北とうほくななひゃくななじゅういちさと大島おおしま、〈中山なかやまことはちひゃくさとにあり、〉かい、〈中山なかやまこときゅうひゃくさいとおさかい也、〉みなみななとう太平山たいへいざん、〈中山なかやまみなみじゅうさとざい伊計いけいあさ、〈太平山たいへいざん東南とうなんざいりょうたもて、〈太平山たいへいざん西南せいなんざいしゅうとあさ、〈太平山たいへいざんせい西にしたち喇麻、〈太平山たいへいざんせい西にしめん、〈太平山たいへいざん西南せいなんとり噶彌、〈太平山たいへいざん西北せいほく西南せいなん九島くしま八重山やえやま、〈太平山たいへいざん西南せいなんよんひゃく中山なかやまことせんよんひゃく、〉がらすともえあさ、〈とう八重山やえやま西南せいなんともえあさ、〈八重山やえやま西南せいなんゆかりしゅうと呢、〈八重山やえやま西南せいなん以上いじょうよんとう臺灣たいわんちかし、〉しゅうとわたる、〈八重山やえやま西にしたちやつ、〈八重山やえやま西にししゅうとわたるひがし、〉しゅうとりょあさ、〈八重山やえやま西にしすこきたおもね喇姑斯古、〈八重山やえやま西にしともえはしごりょあさ、〈八重山やえやまきょく西北せいほく

日本にっぽん地誌ちし提要ていよう

ななじゅうさん西にし海道かいどう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1364 しゅうみなみ諸島しょとう 大島おおしま薩摩さつま川邊かわべぐん寶島たからじまみなみしょうひがし海上かいじょう直徑ちょっけいいちひろえはち開聞かいもんみさき南南西なんなんせいななひろえはちさとニアリ、ひがし喜界きかいとうみなみ徳之島とくのしまえいりょうとう與論島よろんとうアリ、きょうとう、其間しょう點綴てんてい

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 シ、大小だいしょうそうじゅうとうささえじんこれしょう琉球りゅうきゅうしょうス、北緯ほくいひろえなな壹分いちぶ與論島よろんとう〉ヨリひろえはち三拾さじっ壹分いちぶいたりリ、西にしみちきゅうよんひろえはちふん、〈喜界島きかいじま〉ヨリいちじついちひろえふん與論島よろんとう〉ニいたりル、大島おおしま五島ごしまくびきょリ、さいひろし濶、山嶽さんがく重疊ちょうじょう湯灣嶽ゆわんだけ頗高たかし山脈さんみゃく東北とうほくおこりリ、島内とうない散布さんぷシ、北部ほくぶややえびすひろしナリ、沿岸えんがんみなと嶴參錯相もちミ、みな繫泊ニむべシ、諸島しょとう風土ふうど大抵たいてい琉球りゅうきゅうどうジク、なつ凉冬だん草木くさき繁茂はんもス、民俗みんぞくまたあつししらきナリ、大島おおしまそくいにしえあん(アマミ)ニシテ、琉球りゅうきゅうこくはじめもとタリ、天武天皇てんむてんのうじゅういちねんはじめ入朝にゅうちょう貢獻こうけんシ、爾後じご往來おうらいぜっエズ、ぶんながさんねん琉球りゅうきゅう入貢にゅうこうシ、おわりニ其屬島ぞくとうトナル、慶長けいちょうじゅうよんねん島津しまつ家久いえひさ琉球りゅうきゅうこれリ、喜界きかいとうよんとうどもニ、えい薩摩さつま所管しょかんス、王政おうせい革新かくしん鹿兒島かごしまけんニ隷シ、しょ大島おおしま名瀬なぜおけキ、以テ諸島しょとうことかんス、

中山なかやまつたえしんろく

よん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 琉球りゅうきゅうさんじゅうろくとう 琉球りゅうきゅう屬島ぞくとうさんじゅうろくみずほど南北なんぼくさん千里せんり東西とうざいろくひゃく遠近えんきんたまきれつかくしまげんおもんみしゅうとまいかべあずか中山なかやまいちためきんみなそうどおりいちした其島のう中山なかやまいちものうえきゅうぼういちれいためとりちょういちまたぼうかんいち涖治これ奉行ぶぎょうかんいちまたかんなで使いちとしえきひと人稱にんしょうこれしん雲上うんじょういち、聽其獄訟いちちょう其賦ぜいいち小島こじまかく一員いちいんうまやまいん太平山たいへいざん八重山やえやま大島おおしまかくさんいんおもんみともえあさ、〈中山なかやまあいだいちおとどうあさはなげんやま也、しもこれ、〉伊計いけい、椅山、硫磺やまよんとうしつらえいん諸島しょとう文字もじいちみなたてまつ中山なかやま國書こくしょいちわがすめらぎ上聲じょうせいきょうどおぬのかくしますすむどおり中國ちゅうごくいち、購中國ちゅうごく書籍しょせきいちゆうしたのう上諭じょうゆじゅうろくじょういち、及能しゃうえ矣、〈◯下略げりゃく

ぞく日本にっぽん

いち文武ぶんぶ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 さんねんなながつからし褹、よるひさし、菴美(○○)、かん(○○)とうじんしたがえあさおさむいち而來、みつぎかたぶついち、授くらいたまものものかくゆう、其度かんとうつう中國ちゅうごくいちはじめ矣、

地勢ちせい

中山なかやま聘使りゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 其地〈◯琉球りゅうきゅう〉のかたちかくなきりゅうながれたるがごとし、いんりゅう虬といふ、東西とうざいひろすうじゅう南北なんぼくよんひゃくよんじゅう中山なかやまのみやこくびさとより、みなみ喜屋武きやん海邊うみべまでじゅうきた國頭くにがみ海邊うみべまでさんひゃくはちじゅうわが正和しょうわちゅう國分こくぶれてさんなり中山なかやま山南さんなん山北やまきたといふ、わがなが享年きょうねんちゅうまたあわせて一統いっとうし、三省みつよしわかつ、中山なかやま中頭なかがみしょうとす、くびさととまり那覇なは和志かずし南風原はえばる東風平こちひら西原にしはら浦添うらぞえ宜野灣ぎのわん中城なかしろ北谷きたや讀谷よみたんさん勝連かつれんあずか

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 じょう越來ごえく美里みさと具志川ぐしかわしょ此にぞくす、山南さんなん島尻しまじりしょうとす、大里おおさと玉城たまき豐見城とみぐすく小祿ころく兼城かねぐすく高嶺たかね佐敷さしき知念ちねん具志頭ぐしかみあさぶんひとし眞壁まかべ喜屋武きやんしょ此にぞくす、山北やまきた國頭くにがみしょうとす、金武かなたけ恩納おんな名護なご久志くしはね今歸仁なきじん本部ほんぶ大宜味おおぎみ國頭くにがみしょ此にぞくす、國王こくおうのみやこするところくびさとうんみなとうん大港おおみなと也、屬島ぞくとうさんじゅうろくあり、遠近えんきんつらなりめぐる、海上かいじょう里數りすう南北なんぼくさん千里せんり東西とうざいろくひゃくさとなり、諸島しょとうは察侍かんつかわしてしむ、此を奉行ぶぎょうといふ、大平山おおひらやま八重山やえやま大島おおしまは、しまだいなるゆへさんにんうまにん、其外はかくいちにん也、ただともえあさ伊計いけい、椅山硫黄いおうよんとうは、ゆうしょうなればかんをおかず、ちょ頭目とうもくかんをしておさめしむ、

琉球りゅうきゅう國事こくじりゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 異朝いちょうしょえし琉球りゅうきゅうこくこと 琉球りゅうきゅうは、其國大小だいしょうり、いま中山なかやまは、其大琉球りゅうきゅう(○○○)のくになり、 しょう琉球りゅうきゅう(○○○)のくには、中國ちゅうごくとおことなしとえたり、其琉だまひとに此事をとえしに、しょう琉球りゅうきゅうといふところしょうならず、いま大島おおしまもうせしにやともうす、此せつ心得こころえず、異朝いちょうしょに、しょう琉球りゅうきゅう泉州せんしゅうに彭湖といふところ煙火えんかしょうのぞむといひ、また閩中の鼓山つづみやまのぼりてのぞむべしといふ、しからば閩中にちか海上かいじょうゆうや、大島おおしまならんには、閩をことすうせんさとへだたつ、また朝鮮ちょうせんしょに、しょう琉球りゅうきゅうは、琉球りゅうきゅう東南とうなん水路すいろななはちにちほどにあり、くにきみちょうもなく、ひとみなたけたかくだいにして、衣裳いしょうといふもなし、人死ひとじにしぬれば、其親ぞくたかりて其肉をくらひ、其頭にうるしぬりていんとすといふことあり、これまた信用しんようらず、

中山なかやまつたえしんろく

よん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 琉球りゅうきゅう地圖ちず〈◯地圖ちずりゃく〉 琉球りゅうきゅうはじめめいながれいち、〈中山なかやまかんうんずい使はねじょうしゅひろしいたりいちくに、于まん濤間いちよん地形ちけいさん虬龍浮水中すいちゅういち、〉ずいしょはじめのりしょながれもとむいちそういんこれもと瑠求いちあきらひろし武中たけなかあらため琉球りゅうきゅういちくにざい閩福しゅうせいひがしいちせんななひゃくへんみなみさんいち、其地がた東西とうざいせまひろししょじゅうすう南北なんぼくちょうよんひゃくよんじゅうさと中山なかやまくびさといちみなみいたる喜屋武きやんあたりうみいち、緊行いちにちはんきたいたる國頭くにがみあたりうみいち、緊行さんにちはん明永みょうえいらく以前いぜん國分こくぶためさん、曰中さん、曰山みなみ、曰山きたせんとく并爲いちふんため三省みつよしいち中山なかやまため中頭なかがみしょういちぞくじゅうよん山南さんなんためしまくつ一作いつさくしりしょういちぞくじゅう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 山北やまきたため國頭くにがみしょういちきゅうめいあいだきり所屬しょぞくみなしょうむらあたまいちめいはは喇、くにちゅうまたゆうだけいちべんだけざい中山なかやまいち八頭やつがしらだけざい山南さんなんいちけいすわえだけ名護なごだけ恩納嶽おんなだけざい山北やまきたいちやまいちためこうけいすわえだけゆうたかしため琉球りゅうきゅうだいいちみねいちうん

西遊せいゆう雜記ざっき

よん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 薩州のより、琉球りゅうきゅうまで海上かいじょうしょいたにもあらわし、琉球りゅうきゅうこころざし抔にも其實説じっせつしからず、こん土人どじんげんしょ山川やまかわといふよりみなみほうにあたりて、凡さんひゃくさとけいなつふゆによつて船路ふなじかわゆうといへとも、其間にれんしま大小だいしょうさんじゅうあまりいずれもふねかかあるしまにて、大坂おおさか往來おうらいせる海上かいじょうよりもやすし、薩州大隅おおすみうら々に、國守こくしゅよりのゆるしの廻船かいせんありて、いちケ年かねん幾度いくどといふさだめありて渡海とかいする也、鹿兒島かごしまよりも、かく人數にんずう琉球りゅうきゅうわたりて勤番きんばんする役所やくしょことにて、べいのよくしょうずる風土ふうどにて、じゅうあまりまんせき薩州上納じょうのうす、ちかとしことにや、琉球りゅうきゅうすべて旱魃かんばつして、いねこなせず、〈暖國だんごくにていね五月ごがつじゅくごろ也、〉國民こくみん飢渇きかつせんとす、此時には、薩州こうすうせきこめわたしてすくひきゅうねんあり、すべて琉球りゅうきゅうじん日本にっぽん風俗ふうぞくを慕ひて、薩州にぞくせるといへども、中華ちゅうか福建ふっけんしょうちかく、やヽもすればふくしゅうためになやまさるヽことによつて、福建ふっけんしょう下知げじにもおうじて聘禮すること也、薩州にては、りてもらぬからだにて、是迄これまですみきたりしといふ、

氣候きこう

はなえびす通商つうしょうこう

した

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 琉球りゅうきゅう 此國、過半かはんふくしゅうしたがえヒタルこくニテ、からヨリ往來おうらいゆうこれ也、薩摩さつまヨリ往來おうらいこれしょゆうこれ也、四季しき日本にっぽんヨリだんナリ、海上かいじょう薩摩さつまヨリひゃくさと南西なんせいとうレル島國しまぐに也、

中山なかやま聘使りゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 雜事ざつじ かれこく〈◯琉球りゅうきゅう北極ほっきょくじゅうろくふんさん釐のにして、どきれいだい皇國こうこくどうからず、其地氷雪ひょうせつなく、草木くさきふゆれず、四方しほう山野さんや蒼々あおあおたり、ひゃくむし蟄せず、よん蚊帳かやをたる、甘藷さつまいもうえるにときなし、いねきゅうがつしゅくだし、五月ごがつかりおさめ、ろくがつにはに禾穗なし、いちねんさいとうす、うめきゅうがつはなさく、ひん賤のしょうみんは、芭蕉布ばしょうふたんころもいちツにてふゆわたるるといへり、

けんおけ沿革えんかく

日本國にっぽんこくぐん沿革えんかくこう

よん屬島ぞくとう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 琉球りゅうきゅう いちめい阿兒あご奈波いち、〈淡海三船おうみのみふねそう鑒眞でんふるときただ南島なんとういちよびこれ三善みよし清行きよゆきそう圓珍えんちん傳作でんさくながれいちせいれいしゅうさくとめもとむいちげんとおるしゃくしょずい書作しょさくながれもとむいちもとさく瑠求いちあるさくながれいち、〉大寶たいほう和銅わどうあいだうち來貢らいこうれいかめ元年がんねん南島なんとう奄美あまみ、〈ひとし明紀あきのりさく見島みしまいち天武てんむおさむさくおもね麻彌まやいち文武ぶんぶさく菴美いちあるうんいま天草あまくさとう、〉よるひさしかん、〈そく徳之島とくのしましんさとし、〈そく石垣いしがきたま、〈そく久米くめとう入朝にゅうちょう、授位ゆうそく是也これやあずか白石しらいしおもねこしき黒島くろしま硫黄いおうとうじゅうとういちそうしょういちおにさかいとういちみなどおり内地ないちいちいたりちょうひろしうけたまわやすさいいち往々おうおう離叛りはんじゅう二島中鬼界以南七島、みなぞくどき薩摩さつまじんおもね權守ごんもりたいらただしけいわたしこしうみいたりおにかいいち筑後ちくごまもる平家貞たいらのいえさだいちこれはてくだり文治ぶんじよんねんみなもとみぎしょう使天野あまの遠景えんけい宇都宮うつのみや信房のぶふさいちげきおにかいいちくだこれさきもと元年がんねん鎭西ちんぜい八郞はちろう源爲朝みなもとのためともはいながれ于伊まめ大島おおしまいちおかせりゃく諸島しょとういちとげいた鬼島きじまいち、懾ふくとうじんいちかすめ一人ひとりいち而還、しまじんとしおさめきぬひゃくひきいちところいい鬼島おにじままた琉球りゅうきゅう也、すんで而爲朝子あさこ島中しまなかいちだい天孫てんそんいちためおう世襲せしゅういたり于今いちうん、〈中山なかやまうんそういぬいどう元年がんねん鎭西ちんぜい爲朝ためともおおやけずいながれいたりくにせい一子かずこいち而返、其子めいみことあつしため浦添うらぞえ按司いちあつし熙年あいだ天孫てんそんじゅう紀之のりゆき裔孫、ため權臣けんしんいさむいちところほろびときみことあつしおこりへい、誅いさむいち國人くにびと推戴すいたいためきみ舜天王しゅんてんのう也、しゅんてんとう制度せいど新定しんじょうくにぞくだいかわ、〉足利あしかがとき琉球りゅうきゅうおう使つかいみつぎかたぶついち薩摩さつま島津しまつてのひら接伴せっぱんいちこうふく背叛はいはん、及あずまあきらこうときいち島津しまつ家久いえひさたてまつきょうこれいたり、請而討これ慶長けいちょうじゅうよんねんはたみなみひらた其全とういち明年みょうねん家久いえひさりつ其王なおやすしいちいれあさ于駿、及江いちまく琉球りゅうきゅういちたまもの島津しまついち世々よよため其藩ぞくいち以後いご其使以ときしたがえ島津しまついち朝貢ちょうこう

中山なかやまつたえしんろく

さん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 中山なかやまけい 中山なかやまかんうん琉球りゅうきゅう始祖しそため天孫てんそんいち、其初ゆういちなんいちじょいちせい於大おだいあらいちなり夫婦ふうふいち、曰おもね美久みくいちせい三男さんなんじょいち長男ちょうなんため天孫てんそんいち國主こくしゅはじめ也、二男じなんためしょほうはじめいち三男さんなんため百姓ひゃくしょうはじめいち長女ちょうじょきみきみいち二女じじょほうりはじめいちためくに守護神しゅごじんいちいちため天神てんじんいちいちため海神わたつみいち也、天孫てんそんじゅうだい姓氏せいしこんかんがえりゃくこれおこりおつうしいちおわり丙午ひのえうまいち、凡一まんななせんはちひゃくねんこんだんしゅんてんいちはじめ、 しゅんてん そうあつしじゅうよんねん丁未ていみしゅんてん即位そくい、 しゅんてん日本人にっぽんじんすめらぎ後裔こうえい大里おおさと按司あさおおやけ男子だんし也、あつしななねんかのえとしじゅう、屢有ちょういちながため浦添うらぞえ按司いちひとたてまつ其政いち斷獄だんごくたがえ天孫てんそんじゅうせいせいおとろえ逆臣ぎゃくしんいさむちょう執權しっけん、鴆其君いち自立じりつしゅんてんこれいさみしょ按司

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1369 推奉そくくらいしょうこうばつつみみん安國やすくにゆたか在位ざいいじゅういちねんことぶきななじゅうよしみひろし元年がんねんひのととり薨、

くにあさきゅうしょうろく

はち

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1369 琉球りゅうきゅうこくことりゃく 此國のこと異朝いちょうしょしょへししょは、此國いにしえよりのことしょうならず、ずいの煬帝のときしゅひろしうんしゃをしてぞくおとずれもとめられしに、はじめて此國にいたり、其詞つうぜざりしかば、一人ひとりかえる、其後にしてふたたび其國にいたらしめて、男女だんじょひゃくにんかえる、此國の異朝いちょうしょへしはじめ也、其後からそうとき中國ちゅうごくつうぜず、大元おおもととき使つかいしてまねかれしかともきたらず、大明だいめいだいに及、だいひろしはつみつげ使をまいらす、其國さんツにわかれて、中山なかやま山南さんなん山北やまきたさんおうゆう、其後ふう爵をしょうしかば、中山なかやま山南さんなん二王におう鍍金めっきぎんしるしたまものたり、鍍金めっきとはかねをやきつくること也、此時さんおうかたみそうせんしかば、天子てんし其中にやわらげきゅうひ、山北やまきたにもしるし、并文https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ad4e.gif ひとしたまもの、〈中山なかやま山南さんなんふうぜられしは、ひろしじゅうねんこと山北やまきたふうぜられしは、どうじゅうろくねんこと也、本朝ほんちょう圓融えんゆういんながとくねんさんねん公方くぼう鹿しかえんいん殿どの、(足利あしかが義滿よしみつ)のあたれり、〉どう廿にじゅうねんちゅう山王さんのう察度〈おうめい也、せいなおうん、〉其子めい陪臣ばいしん子弟していつかわして國學こくがくいれ、此國むかしずいもととうだいおさむれどもきたらず、まねけどもいたらず、しかるに大明だいめいだいはつに、みずかきたみつげして其國の君臣くんしん子弟していをしてまなび、中國ちゅうごくずいひしが、天子てんし其忠じゅんこころざしよろこきゅう事大じだいかたならず、〈此故に外國がいこくにて此國ほど恩寵おんちょうひとしきはりき、閩人のよしだけものさんじゅうろくせいきゅうりて、としごと往來おうらいすべき便びんとなさる、察度が曾孫そうそんおうともみこころざし其位を嗣しときより、かれ國王こくおうだいままときに、必中ひっちゅうこく天子てんし使を其國につかわしてさつふうせらるゝれいはじめれり、ながかれこくれい也、〉ともえこころざしまご王思おうしたちけいたいはじめだいままして、ほど山南さんなん山北さんぽくを討亡して、其國を并せたり、〈より硫球國王こくおう中山なかやまうん也、けいやすし大明だいめいだいだいえいむね年號ねんごうにて、本朝ほんちょう花園はなぞの寶徳ほうとくころ公方くぼう東山ひがしやま義政よしまさとき也、此國よりはじめつうぜしも此時也、こうゆ、〉よりしてさんねん中國ちゅうごく進貢しんこうする事例じれいはじめれり、〈いまも此例のごとく也とうん王思おうしれんろくだいまごおうひさしだいて、日本にっぽん關白かんぱく秀吉ひでよし御事おんこと、此時高麗こうらいじんころ也、ために其國みだれるヽ、おうひさしほどなくそつて、其子おうやすしだいつぎまんれきさんじゅういちねん、其國に使つかいきゅうさつふうゆう、〈まんれき大明だいめいじゅうさんおうしんむね年號ねんごう、其さんじゅういちねんは、本朝ほんちょう陽成ようぜいいん慶長けいちょうはちねん神祖しんそ征夷大將軍せいいたいしょうぐんまかねん也、〉其使そうして曰、琉球りゅうきゅう必倭のためこまめらるべし、日本にっぽんひとせんけい利刃りじんはさみて其市に出入でいりせりとさるき、ほどなくどうさんじゅうななねんおうやすし薩州のために捉はれくだりどうよんじゅうねんおうやすし使して進貢しんこうして、歸國きこくことさるまた日本にっぽんためつう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1370こともちきゅうふ、〈まんれきさんじゅうななねんは、本朝ほんちょう慶長けいちょうじゅうよんねん也、此事がつ島津しまつかれ國王こくおうとりこにしてきたり、やめことさんねんにしてこれす、慶長けいちょうじゅうななねん本朝ほんちょうため互市ごしことを、大明だいめい福建ふっけん軍門ぐんもんもうせしゆうき、〉みぎ異朝いちょうもろしょへししょ也、よりのちことしるせしものかんがへず、此國のこと本朝ほんちょうしょへししょこれいにしえことしょう、五十五代文徳天皇仁壽三年、そう圓珍えんちんさとししょう大師だいし唐國からくにおもむきかるヽとき北風きたかぜにさそはれて琉球りゅうきゅういたりしとうんごとげんとおるしゃくしょへたり、本朝ほんちょうにして、かれこくめいきこえしはじめにて、其後聞ゆることにて、東山ひがしやま公方くぼう義政よしまさころ寶徳ほうとくさんねんなながつ琉球りゅうきゅう使つかいれり、〈是則これのりかれこくにて山南さんなん山北さんぽくを并せし、中山なかやま王思おうしれんとき也、公方くぼうよりしょおくられて其禮ニこたえへられき、其書はかり名字みょうじもちいひて、りうきうこくのよのぬしへとしるされたり、〉よりこう其國じんつねきたりて、兵庫ひょうごみなとにてしょうぶつなどしたり、太閤たいこう秀吉ひでよしだいなりて、使つかいまいらせて、天下てんかことしりきゅうごとす、ほどなく朝鮮ちょうせんことて、太閤たいこうだまひ、太閤たいこう使つかいをまいらせしは、おうなが時成ときなりべし、〈此年ごう不審ふしんしょあやまナルベシ、〉當家とうけはじめ島津しまつために討れて、ついに其屬こくのごとくになりたる也、みぎ本朝ほんちょうしょへししょ也、にはかれこく鎭西八郞爲朝ちんぜいはちろうためとも末葉まつよう也、さればいまも其國に爲朝ためとも遺跡いせきどもおおしとうん也、

日本にっぽん地誌ちし提要ていよう

ななじゅう琉球りゅうきゅう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1370 沿革えんかく 開國かいこく始祖しそ天孫てんそんトス、文武ぶんぶ天皇てんのうときヨリ本朝ほんちょうない入貢にゅうこうス、天孫てんそん相傳そうでんじゅうせい賊臣ぞくしんいさむためニ弑セラル、文治ぶんじ三年浦添按司尊敦、ぞくヲ誅シテだいりつくびさときょリ、おうしょうシ、全島ぜんとうすべブ、舜天王しゅんてんのうトナス、みことあつしみなもと爲朝ためともナリ、〈爲朝ためとも伊豆いず大島おおしまはいセラル、こう琉球りゅうきゅうニ如テ、大里おおさと按司ノいもうとおさめレテみことあつしなまム、〉ぶんおう元年がんねんまごほんくらい天孫てんそんノ裔英ゆずるル、ぶんながさんねん大島おおしまはじめメテらいぞくス、曾孫そうそん玉城たまきいたりリ、よしみれきちゅう國大こくだいらんレ、今歸仁なきじん按司山北さんぽくおうしょうシ、大里おおさと按司山南さんなんおうしょうシ、玉城たまき僅ニ中頭なかがみたもてチ、ちゅう山王さんのうしょうス、正平しょうへいよんねん玉城たまき西にしそつス、明年みょうねん國人くにびと世子せいしはいシ、浦添うらぞえ按司察度ヲたてまつジテちゅう山王さんのうトナス、文中ぶんちゅうねん、察度はじめあかりどおりジ、おわりニ其册ふうヲ受ク、山南さんなん山北さんぽく二王におうまたあきら入貢にゅうこうス、もとなかななねん宮古みやふる八重山諸島やえやましょとうはじめ中山なかやまないス、たけやすしいたりリ、おうながじゅうねんしき按司なおともえこころざしへいおこりシ、これはいシ、其父おもえ紹ヲたてまつジテ王位おういそくカシメ、じゅうさんねんなおともえこころざし山北さんぽくおう、樊安ほろびシ、〈山北やまきたよんせいきゅうじゅうねん使臣ししんシ、かたぶつ將軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちけんじズ、じゅうはちねんおもえ紹卒シ、ともえこころざしりつえいとおる元年がんねん山南さんなん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1371 おう魯毎ヲほろびシ、〈山南さんなんよんせいいちひゃくよんねんはじめ全島ぜんとう併有へいゆうス、じゅうねんなおともえこころざしそつシテ、なおちゅうりつ將軍しょうぐん義教よしのり薩摩さつま守護しゅご島津しまつ忠國ただくに琉球りゅうきゅうたまものヒ、其附いさおトナス、嗣後島津しまつト聘使來往らいおうシ、としヲ以テかたぶつ將軍しょうぐんけんじズ、ニ於テ内地ないち及明ニりょうぞくス、なおちゅうヨリつてシテ尚徳しょうとくいたりリ、くにらんル、文明ぶんめい元年がんねん尚徳しょうとくそつシ、國人くにびと世子せいしはいシ、よしほんノ裔尚えんたてまつジテおうトナス、こうろくせいなおやすしいたりリ、使つかい聘ヲおさむセズ、慶長けいちょうじゅうよんねん島津しまつ家久いえひさ將軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただニ請ヒ、しょうこれチ、なおやすしとりこニシテリ、將軍しょうぐんニ謁ス、將軍しょうぐんいのちジテなが島津しまついさおトナシ、世々せぜみつぎれいおさむセシム、明治めいじねんなおやすしこうじゅうせいなおやすししょくみつぎおさむス、みことのりシテはんおうふうジ、くに西海にしうみみちぞくス、

征討せいとう

琉球りゅうきゅう入貢にゅうこうりゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1371 薩州太守たいしゅ島津しまつ琉球りゅうきゅう征伐せいばつす 琉球りゅうきゅうこくは、嘉吉よしきち年間ねんかん足利あしかが義教よしのりいのちありてよりこのかた、世々せぜ薩州につけいさおくにたるを、天正てんしょうのころ、群雄割據ぐんゆうかっきょときにあたりて、琉球りゅうきゅう往來おうらいしゅうとえたりければ、薩州の太守たいしゅ島津しまつ家久いえひさより、もとのごとみつぎ使あるべきよしを、再三さいさん使つかいをもていひつかはしけれども、かれこくさんつかさかんしゃといふしゃ、竊に明人あきとことりて、待遇たいぐうことさらに無禮ぶれいなりしかば、やめむことをずして、慶長けいちょうじゅうよんねんはるたいいのちこうむぐんおこし、樺山かばやまけん左衞門さえもんひさだかそう大將たいしょうとし、平田ひらた太郞左衞門たろうざえもんえきむね副將ふくしょうとし、りゅうくも和尚おしょう軍師ぐんしとし、七島ななしま郡司ぐんじを按内として、そのいきおい都合つごうさんせん餘人よにんせんせんひゃくそうして、がつ廿にじゅういちにちともづなきて、琉球りゅうきゅうこく發向はっこうせしむ、樺山かばやまひさだか總勢そうぜいを引卒して、はじめ大島おおしまちょがんし、また徳島とくしまおもむきしに、しまじんこれをぼうもの凡せんにんばかりなり、このたたかひにくびることさんひゃくきゅうはみなくだひとにぞにける、よんがつ朔日さくじつ那覇なはみなといたらんと、かのところにおもむくに、港口こうこうには逆茂木さかもぎ亂杭らんぐいをかまへ、水中すいちゅうてつくさりをはり、ふねのかヽりなば、うえよりしたおろして、とるべきだてをかまへ、そのそと島々しまじまへも、用意よういおごそかにしてぞまてかけたる、これによりてみなとよりおさむりて、三日みっかあいだせめたたかひ、手負ておい討死うちじにすくなからずといへども、ついすすみてくびさとおさむり、王城おうじょうかこみて、きゅうにも

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1372 みにもんでおさむやぶらんとす、琉球りゅうきゅうおうおよさんつかさ官等かんとう、薩州ぜい強大きょうだいにして、あたるべからざるに避やすし、みなくだを乞ひけるによりて、ぐん勝利しょうりて、琉球りゅうきゅうゆるがせ平均へいきんせしよしを、そく駿府すんぷ言上ごんじょうありしかば、はなは稱美しょうびせさせたまひ、琉球りゅうきゅうながく薩州のつけいさおとぞせられける、かくてがつ廿にじゅういちにちに、ちゅう山王さんのうなおやすしおよしょ王子おうじとりこにして、薩州のぐん凱陣せり、じゅうねんはちがつ、薩州の太守たいしゅちゅう山王さんのうをともなひ、駿府すんぷきたりて登城とじょうす、ちゅう山王さんのうだんひゃくはし猩々しょうじょうがわじゅうひろ太平たいへいぬのひゃく疋、白銀はくぎんいちまんりょう大刀たちいちこし獻上けんじょうす、それより江戸えどいたりて、將軍家しょうぐんけに謁しけるに、べいいちせんひょうくだしたまふ、さてそのとし歸國きこくありて、よくじゅうろくねんちゅう山王さんのう琉球りゅうきゅうかえることをたり、これによりて十二月じゅうにがつじゅうにち琉球りゅうきゅうじん駿府すんぷ歸國きこく御禮おれいのためにまいりて、藥種やくしゅおよかたぶつくさ〴〵を貢獻こうけんす、さてちゅう山王さんのうなおやすし降服こうふくしてより、ながわがくにせいついたちほうじ、聘禮をしゅうすべきよしのちかいひをなしてけり、〈系圖けいずきゅうつてしゅう政事せいじろく南浦みなみうら文集ぶんしゅうとうによりてしるす、〉これいま入貢にゅうこうはじめなり、こののちみつぎ使かつて闕ることなし、

島津しまづ覺書おぼえがき

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1372 慶長けいちょうじゅういちねんろくがつじゅうななにち、於伏見ふしみしろいちいみな〈◯徳川とくがわ家康いえやすした家久いえひさあらため、太秦うずまさ長光ながみつこしぶつ頂戴ちょうだいつかまつこう、 琉球りゅうきゅうこくしゃ家久いえひさじゅうだい陸奧みちのくこく忠國ただくにだいに、ひろしこういん殿どの〈◯足利あしかが義教よしのり〉ゟ致拜領はいりょういちえいとおる年中ねんじゅう薩摩さつまあいしたがえこうしょに、近年きんねんだるたゆいちこう殊更ことさら權現ごんげんさまに、御禮おれいさるじょういちこれむね使つかいさつを以申づけこうとも領掌りょうしょういちこうあいだひとしゅえつ退治たいじいちこれむね山口やまぐち駿河するがまもるちょくともを以言上ごんじょうこうしょに、こうむ御免ごめんいちこう、〈◯下略げりゃく

南浦みなみうら文集ぶんしゅう

なか

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1372 てい琉球りゅうきゅう國王こくおういちしょ 貴國きこくわが薩州いちものひゃくあまりさと、其西島東にしじまひがし嶼之相近すけちかしゃ、僅不さんじゅうあまりさといち、以時時ときどきゆう聘問聘禮いち、以修其鄰このみいちもの、其例きゅう矣、就ちゅうわが宗子むねこ而立じりつのりあおすずめりゅう於其ぶねいち、以使したむらさき其衣いちもの其巾いちものにんためなか其遣使うえ、篚さん玄黄げんこういち、而結たぶさ於右髩之じょういちものそうしゅうらく於庭さいいちぶた嗣子ししいち也、こん也遣したたかし元寺もとてらちょうむべ謨里ぬし其方ぶついちうえ、以賀我家わがや久之ひさゆき而立じりついちまたよじ舊例きゅうれいいち也、わがいまよせげん於國くんいち、勿したわがこれげんいちいやうえこれ日本にっぽんろく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1373 じゅうしゅうゆう源氏げんじいち將軍しょうぐんいち、以もうこれいちはつ其號れいいち尺土しゃくどしたけんじ其方ぶついちものうえ一民かずたみした其幕いちものうえ東西とうざい諸侯しょこう、莫ゆうちょうかんれいいちわがいま麑府にんいち毎歳まいさい使さん親族しんぞくざい左右さゆういちものくだり以致其聘れいいちきょうひさしため國之くにゆき宗主そうしゅいちあにじゅつ年年ねんねんこれしょくいち乎、貴國きこくまた聘禮於我將軍しょうぐんいちものあにふくざいひとのちいち哉、さきわが此事いちつげ於三かんいちものすう矣、ゆう其聘れいいちまたしたさんつかさかんたゆ於内いちものうえ乎、こんとし聘、明年みょうねんまたたゆしゃよく危而とく乎哉、且復貴國きこく、鄰于中はないち中華ちゅうかあずか日本にっぽんいちつうしょういちものさんじゅうねん于今いち矣、わが將軍しょうぐんこれよく使つかいした家久いえひさあずか貴國きこくいち相談そうだん、而年年來ねんらいしょう舶於貴國きこくいち、而大明だいめいあずか日本にっぽんいち商賈しょうこどおりなか貨財有無うむうえわかしかのりさん翅富於吾くにいち貴國きこくまた人人ひとびと其富じゅん、而民またうた於市いち於野いちあにふく太平たいへいぞういち哉、わが將軍しょうぐんこころざしざい玆矣、家久いえひさ使小官しょうかんにんつげこれ於三かんいちさんつかさかん將軍しょうぐんわかゆうといこれのり家久いえひさこれなにいち哉、わが夙夜ねん玆、而不措者也、いにしえしゃぜんけいくにけいいえしゃ、雖大事だいじ小者こものゆうしたずいときむべいち而爲これしゃうえきょうふくしょうことだいしゃあにためさんこれ於理いち哉、其存焉與其亡焉いちきょうざいくにくんきょいち而已、ふく乞圖これ、 ◯按ズルニ、此書じょうハ、慶長けいちょうじゅういちねんきゅうがつ島津しまつ家久いえひさ琉球りゅうきゅうおうらい聘ヲ促スためしょナリ、

みなみ聘紀こう

ひと

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1373 慶長けいちょうじゅうよんねんがつおおやけ〈◯島津しまつ家久いえひさ〉及貫あかりこうまつよわいこうあいあずかまわりさく帷幄いあくちゅういちじょう律令りつりょうじゅうさんしょういち、乃使樺山かばやまけん左衞門尉さえもんのじょう久高くだかいちため大將たいしょういち、〈◯中略ちゅうりゃく總計そうけいさんせん餘人よにん、艤艦ひゃくそうしるべ七島揖師小松吉兵衞等二十四人いち、往討琉球りゅうきゅういち

南浦みなみうら文集ぶんしゅう

した

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1373琉球りゅうきゅういち并序 薩隅みなみひゃくあまりさとゆう一島いちじまいちめい琉球りゅうきゅういち使つかいした小島こじまざい四方しほういちもの并呑ためうえいち、而爲これ酋長しゅうちょういち矣、これいち、曰昔しゃ日本人にっぽんじんおうじゅうろくだい清和せいわ天王てんのうまご、其名曰ろくまごおういち本朝ほんちょうげん曩祖のうそ也、八世孫義朝公、令弟れいてい爲朝ためともおおやけため鎭西ちんぜい將軍しょうぐんいちこれにちかけ千鈞せんきん強弩きょうど扶桑ふそういち、而其威武いぶかんかき草木くさきいちとおこう於海いちせい島嶼とうしょいち、於斯時いち也、ふねずい潮流ちょうりゅういちもとむ一島いちじま於海ちゅういち、以はじめめいながれもとむいち矣、ため朝見ちょうけんしたきょあなしょ於島おじまのぼるいちものうえ、頗雖ひとかたちいち、而戴一角いっかく於右鬂上いちところいいおにかいしゃ乎、爲朝ためとも征伐せいばつこれゆう孫子まごこいちためしま主君しゅくんいちかたちくいしるいいちいえ於其じょういちいんこうおにかい

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1374 容貌ようぼういちゆいたぶさ於右鬂上いちいたりこん風俗ふうぞくことちゅうあらためながれもとめいちしたがえたま、而爲琉球りゅうきゅういち矣、耉之げんひつじいないち酋長しゅうちょうおもねだれいちむかしあさ於大おだいあきら皇帝こうていいち皇帝こうていたまものこれ衣冠いかんいち、且錫爵位しゃくいいちしか來世らいせしょうちゅう山王さんのういちおうしょうまたいたりこんぜっ矣、すうじゅうせいさきためわが薩隅三州太守島津氏附庸之國いちとし貢獻こうけん於我しゅういちらいずいわが號令ごうれいいちものゆうとし於玆いち矣、これさいつちのえさるゆう太守たいしゅ家久いえひさこういのちいち使つかい於彼こくいちくにもとゆうさんつかさかんいち國之くにゆき公卿くぎょうもり其職いちときゆうしたいち聚歛しんめいよこしまいちものうえいちかんいち、以汚公卿くぎょう衣冠いかんいちよこしまわが使つかいいち也、以いろ可否かひ、以頤指いし揮、使またところうんそら而歸矣、於とくやめ而使すうせんへいぎょう以討いちこれ嗚呼ああ琉球りゅうきゅうにちうす西山にしやまいちれん其極矣、なに其不ねんつとくわいち乎哉、桑門そうもん也、雖あずか國家こっか存亡そんぼうこといち兵戈へいかはたいち、而恐さんかれはいざいおくみせきあいだいち也、さんざいつたなあずかかたりいち、漫賦俳諧はいかいたいじゅうしょういちくびあきら先述せんじゅつ天與てんよじんよしいちけんしゅくさん大洋たいよう波平なみひら、而兵せんやす泰山たいざんやすいち矣、つぎあきらおおせさんしょしょう威武いぶどうゆら乾坤けんこんいち、其次さんしょうじゅつしたよくとみ我國わがくにいちきょいちよこしまいち好行よしゆきしょうめぐみいちくだわが義兵ぎへいいちこれうえ也、且欲したわがしょはたまたせい其部いちゆうなか其戒こころうえ也、其次しょうおとずれした知己ちきざいかれこくいちものうえ、且復我先われさきゆうけい叔春あしおきないちむかしたい先師せんし典籍てんせき若干じゃっかんいちよせあと於彼こくいち終焉しゅうえん、此時こわさん典籍てんせきわかしつ却兵いち而賦これ、其次そししたみこ覡謂神祇じんぎたくげん於我いち、惑みんためはかりごといちものうえ矣、すえしょうかれこく風俗ふうぞく而多いつわりくだ於我いちこう必患ゆうしたとく忠孝ちゅうこう於我君父くんぷいち、且復兄弟きょうだい妻子さいし離散りさん、赴なか遐遠くにうえ、而言これしょ以呈これ於伊ぜいへい部員ぶいん外郞ういろういち、以供一笑いっしょういちうん、 琉球りゅうきゅう小島こじまいち彈丸だんがん天與てんよじん討不なん四海しかい波平なみひら天水てんすいわたるしょぐん大鑑たいかん泰山たいざんやす、 よくおにかたいちあげしろいちしょぐん威武いぶどう乾坤けんこんいち樺山かばやまみぎはた平田ひらたひだり、添得伊川いがわばん衞門えもん、 いちとうはためつ琉球りゅうきゅううんためきょよこしまいち紀綱きこう紊、ことわざひつじじつ耶虚、那覇なはほん河邊かべぐん、〈那覇なは琉球りゅうきゅうこくぐん也〉 琉球りゅうきゅう祗合いち和談わだんいちしん君民くんみんさらあまそうよこしまやせ城主じょうしゅ一身いっしんてい降參こうさん、 我國わがくに武威ぶいだれ敢侵、幾多いくたけんはた智謀ちぼうふかほうげんはち蠆有其毒いち、須學ねこぞうつましんいち、 報恩ほうおん主席しゅせきわが知音ちいんほし聯珠れんじゅ旦暮たんぼぎんはるそう西にしらいいち庵主あんしゅ無心むしんくもまた其心いち、 てんふんちかいさくはたあないちもと金滿きんまんいち羸、けい叔春あしむかしゆう先師せんし書籍しょせきたいこれぎょう、 奇術きじゅつひと巫女ふじょりゅう巧言令色こうげんれいしょくためはかりごと、蚖虵わか義兵ぎへいいたりいちはしてきひろこえちぢみあたま、 而偏いつわりそう敢翻こころきずけいち受降、またさん蟷螂かまきりちょうひじいちひとげんしょう黠大くに、 たまぞく薩陽いち

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375 ずい號令ごうれいいちゆるがせうんほろびちちつま、必棹扁舟へんしゅういちだいとういち

當代とうだい

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375 慶長けいちょうじゅうよんねんよんがつ薩摩さつま島津しまつひゃくそうしゅう兵船へいせんいち琉球りゅうきゅうれい渡海とかいいちかれとういちせんいちのり内裏だいりせめくずれおうなまれい歸朝きちょういちかれ島中しまなかれい撿地いちゆび知行ちぎょうこれややひろえまんせきあまりゆうこれ云々うんぬん

慶長けいちょう見聞けんぶんろくあん

した

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375 慶長けいちょうじゅうよんねんなながつななにち島津しまつ家久いえひさしょいち討取うちといちこれ琉球りゅうきゅう國家こっかひさしたこれ

いち一言ひとこと

じゅうはち

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375 琉球りゅうきゅう國事こくじ おっと琉球りゅうきゅうこくしゃ往古おうこ嘉吉よしきち年中ねんじゅういちぞく我國わがくにいち矣、雖しかきゅうぶんまわしいち進貢しんこういち薩摩さつまいち再三さいさん使つかい以誘これ肯聽いちつげあい國家こっかかんこういち、請これぶた琑々小島こじまあしくず也、而戎狄是膺、荊徐懲、詩經しきょうところ戒、慶長けいちょうじゅうよんおのれとりはる、以樺山かばやまけん左衞門尉さえもんのじょう久高くだかいちため大將たいしょういち、〈◯中略ちゅうりゃく都合つごう其勢さんせん餘人よにんせい兵船へいせんいちひゃくそういち、而がつ廿にじゅういちにちはつふねやめしる大島おおしまいちまたおもむき徳島とくしまいちしまろうおう防戰ぼうせんしゃ殆千有餘ゆうよじん、其中斬首ざんしゅしゃさんひゃく餘人よにん也、殘黨ざんとうにちぞく于旗いち而悉焉、同年どうねんよんがつはついちにちよくいたいちかれそつためかくれはかりごといちしつらえ鐵鎖てっさ於津こういち以備焉、したがえいち上陸じょうりく、交鋒しょうせんさんにちころせはた歩卒ほそつすうひゃくにんいちとげいれもんいちかこえ其城いち而欲おさむこれとき國王こくおう三司官及諸士卒共請かず、於、而已唱凱歌がいかいち矣、輙以とししょつげ于薩いちのり使つかいかんこういち言上ごんじょうおおやけかん其戰こういち、及以くろしるしいちたまものかれとう太守たいしゅ陸奧むつまもる家久いえひさいち、 いた于琉だまいちえつ兵船へいせんいちかれとう數多すうた討捕殊更ことさら國王こくおう降參こうさんいち、三司官以下近日著岸趣、まこと以希ゆう次第しだいこう委細いさい本多ほんだたすく渡守わたしもりさる也、 なながつにち 秀忠ひでただはん 島津しまつ修理しゅうり入道にゅうどう殿どの いた琉球りゅうきゅういちえつ人數にんずういちけい日數にっすうやから討捕、其上國王こくおう降參こうさん近日きんじついた其國いちためちょがんいちこれむねさい無雙むそう仕合しあいこうなお本多ほんだたすく渡守わたしもりさるこう也、 なながつにち 秀忠ひでただはん 羽柴はしば兵庫ひょうご入道にゅうどうどのへ 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1376 いた琉球りゅうきゅういちゆび兵船へいせんいちうつり時日じじついちいちせんいちかれとう數多すうた討捕あま國王こくおう降參こうさん、并三かん以下いかいた于其いち不日ふじつため渡海とかいいちこれ注進ちゅうしんまこと以無比類ひるいいちはたらけきょうこうなお本多ほんだたすく渡守わたしもりさるこう謹言きんげん、 なながつにち 秀忠ひでただはん 薩摩さつま少將しょうしょう殿どのへ 琉球りゅうきゅう早速さっそくぞく平均へいきんいちこれよし注進ちゅうしんこう手柄てがらだん思召おぼしめしいちそくかれこくしんこうじょうわたる仕置しおきとう申付もうしつけいちこう也、 なながつにち 家康いえやすくろしるし 薩摩さつま少將しょうしょうどのへ

南浦みなみうら文集ぶんしゅう

なか

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1376 あずか大明だいめい福建ふっけん軍門ぐんもんいちしょ 琉球りゅうきゅう國王こくおうなおやすしうえしょ大明だいめいこく福建ふっけん軍門ぐんもんろう大人おとな閣下かっかいちきょうしんしょうくに日本にっぽん薩摩さつましゅういちもの、僅さんひゃくあまりさと、以さんひゃく年來ねんらい、以ときけんじ腆方ぶついちおさむ其鄰このみいちころゆう不肖ふしょういちおっとなる其貢いち薩摩さつましゅうすすむへい於小くにいちしょうくにあら墟者、まことてんところいのち、而我またつとくわいち也、不幸ふこう而爲其俘しゅういちざい薩摩さつましゅういちものさんねん矣、しゅうくん家久いえひさこうそとこのみたけいさむいち内懷うちぶところ慈憫いちまちわがしたまちきゃくいちこれれいうえ禮遇れいぐうあつしゃさんねんいちしん送還そうかんわが於小くにいち、於われみんうた於市いち、抃於野いちもの、玆非こう歟、しゅうくんよせげん於我いち、其之げん曰、おっと邦國ほうこくざい四方しほういち也、ゆう金玉きんぎょくいちものあるあし乎錦繡いちゆうあわまいいちものあるあし乎器さらいちわかゆう而不あし而無聚、みんようあし、而其貨亦くさおもんみすわ而待くさ如通其有いちかくとく其所いち矣、日本にっぽん金玉きんぎょくさらいち、其土よろし質素しっそ、而不於中はなぶんしつあきらあきらいち使つかいさんわがさんはかりごと於兩こくいちいち以使さん日本にっぽん商船しょうせんもと以容これ大明だいめい邊地へんちいち以使さん大明だいめい商船しょうせんわがしょうくにいち、交相貿易ぼうえきさん以使さん一遣使年年通其貨有無うむいちもの、匪さん翅富兩國りょうこく人民じんみんいち大明だいめいまたしたためやまといちいむなか兵衞ひょうえうえ矣、三者さんしゃわかもとこれれいさん日本にっぽん西海さいかいどうきゅうこくすうまんこれぐんすすむ寇於大明だいめいいち大明だいめいすうじゅうしゅう日本にっぽんいちもの、必有きんゆういち矣、みな日本にっぽん大樹たいじゅ將軍しょうぐん、而州くんしょ以欲いちつう兩國りょうこくこころざしいちもの也、ふく冀軍もんろう大人おとな、於斯三しゃいちもといち於此いちわがしょうくにだい大明だいめい徳化とっかいち、且遂日本にっぽん夙志いちまた天朝てんちょうとおもりしょうひとしこころ也、わかしかのり永守ながもりはんしょくいちせい貳心ふたごころいち、遐方嚮ねんぼつ忘也、ふくこうぞしんひなまこといちおおせいのりみこといち不宣ふせん

通信つうしんらい

琉球りゅうきゅう入貢にゅうこうりゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1377 琉球りゅうきゅう使れる 琉球りゅうきゅうは、わき玖とともに、推古天皇すいこてんのう以前いぜんより入貢にゅうこうしけんが、はやく朝貢ちょうこうおこたりてきたらざりしなるべし、かくてそのくに往來おうらいなければ、たま〳〵記載きさいえたるも、みなかか聞臆のみにて、たしかなることなきは、そのゆゑなりとおもはる、そのくにもまたはるかの島國しまぐににて、いづれのくにつけいさおにもあらず、通信つうしんもせざりしが、あかりひろしたけ年間ねんかん琉球りゅうきゅうは察度おうときにあたりて、さつふうじとて唐土とうどよりちゅう山王さんのうふうぜられて、かれこくへも往來おうらいして、制度せいど文物ぶんぶつすべてかのくににならひてぞありける、あかりせんとくななねんに、せんむねないかん柴山しばやまといふしんめいじて、勅書ちょくしょを齎らしめ琉球りゅうきゅうにつかはし、ちゅう山王さんのうよりひとをして、わがくに通信つうしんせしむ、このせんとくななねんは、わがくにえいとおるよんねんにあたれり、これによりてかんがえふるに、上古じょうこよりはやく往來おうらいえて、こうあかりせんむねのためにわがくに使つかいせしは、はるかにとして、ふたたわがくに琉球りゅうきゅう使れるはじめなるべし、これよりこうも、あかり正統せいとう元年がんねんえいむね琉球りゅうきゅうみつぎ使けんをしてかいみことのりを齎らし、日本にっぽん國王こくおうみなもと義教よしのりさとすといひ、〈これえいとおるはちねんのことなり〉よしみやすしさんねん琉球りゅうきゅうちょう吏金りょうに、これよりさきせい大夫たいふていなわといふものをして、日本にっぽん國王こくおううたてさとす、〈これだいながよんねんのことなり、中山なかやまつたえしんろく琉球りゅうきゅうこくこころざしりゃくえたり、〉といへることあれば、あかりよりわがくにしょおくるに、琉球りゅうきゅう使めいぜしこともありしとぞおもはるヽなり、

琉球りゅうきゅう入貢にゅうこうりゃく

わきまえあやま

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1377 えい享年きょうねんあいだ琉球りゅうきゅう使るのわきまえ 室町むろまちおさむりゃくうんえいとおるじゅういちねんなながつとし琉球りゅうきゅうこく入貢にゅうこう、〈琉球りゅうきゅう入貢にゅうこうはじめ〉また琉球りゅうきゅうごとりゃくに、こう花園はなぞのいん寶徳ほうとくさんねんなながつ琉球りゅうきゅうじんきたりて、義政よしまさ將軍しょうぐんぜにせんかんかたぶつけんじず、これよりしてその國人くにびと兵庫ひょうごうらきたりて交易こうえきすといふ、しからばかれこく使つかい本朝ほんちょうることは、なおかねぶくときをもて、そのはじめとすべきかといへり、これらのせつみなあやまりなり、あんずるに中山なかやまつたえしんろくうんせんとくななねんせんむね以外いがいくに朝貢ちょうこうどく日本にっぽんひつじいたりいのちうちかん柴山しばやまいちみことのりいたりくにれいしたおうひと日本にっぽんいちさとしうえこれえたり、これじつわがえいとおるよんねんにあたれり、かヽればしょにいふところ、このときよりおくれたればそのはじめにあらざるをしるべし、

かんとみ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 寶徳ほうとく元年がんねんはちがつ廿にじゅうにち近日きんじつ琉球りゅうきゅうこく商人しょうにんきょうちょれいすすむ上藥うわぐすりしゅ料足りょうそくいちせんかんぶんいち云々うんぬん、 さんねんはちがつじゅうさんにちあるせつうん琉球りゅうきゅうとうせん、〈商人しょうにん去月きょげつまつちょ兵庫ひょうごいちこれしょ守護しゅご細川ほそかわきょうちょうはやひとかれしょうぶつえらべわたり料足りょうそくいちこれあいだ先々さきざき年々ねんねん料足りょうそく進物しんもつ、及四せんかんかえしべんいちまたうれぶつ抑留よくりゅうためしまじんなんいちこれよしさるあいだ公方くぼういちした奉行ぶぎょうさんにんいち、〈布施ふせ下野げやもり飯尾いいお與三よぞう左衞門さえもんどうろくろう、〉糺明きゅうめいいちこれしょとく押取ものきょうちょういちかえしこれ奉行ぶぎょうひつじ上洛じょうらくいち云々うんぬんきょうちょうしゃぜん管領かんりょう也、希代きたい所行しょぎょう哉、如何いか

齋藤さいとうちかしもと日記にっき

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 文正ふみまさ元年がんねんなながつ廿にじゅうはちにち同日どうじつ琉球りゅうきゅう人參にんじんらく、〈とう御代みよろく度目どめごうちょうふみ(チヤウス)いち、於寢殿しんでん庭前ていぜんいちさんにんかかいち、〈三拜さんぱいさるりょうにわしきせき

實隆さねたかおおやけ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 えいただしろくねんよんがつ廿にじゅうはちにち阿野あのしょうおおやけ來臨らいりん琉球りゅうきゅう國書こくしょじょうれいとうだん、 廿にじゅうきゅうにち阿野あのしょうおおやけ來臨らいりん琉球りゅうきゅう國書こくしょじょう事大じだいりゃくため疏、また將軍しょうぐんしょため假名かめいいち、其故しゃ最初さいしょ通事つうじ女房にょうぼう也、仍任其例いち此云々、

島津しまづ覺書おぼえがき

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 慶長けいちょうじゅうねんがつじゅうろくにち家久いえひさちゅう山王さんのうひきいて、鹿兒島かごしまはっし、はちがつろくにち駿府すんぷさんあらわす、道中どうちゅう御馳走ごちそう朝鮮ちょうせんじん來朝らいちょうおなじかるべきむね宿やど々にけん而爲おおせづけいちこれよしにて、ことそと結構けっこう御座ぎょざこうどうはちにち家久いえひさちゅう山王さんのうを召列登城とじょうす、なおやすし緞子どんすひゃくはし羅紗らしゃじゅうひろ太平たいへいぬのひゃく疋、蕉布ひゃくかん白銀はくぎんいちまんりょう御太刀みたち一腰ひとこし獻上けんじょうす、家久いえひさ御太刀みたちだい其外品々しなじな獻上けんじょうつかまつこうしょに、御代みよはつに、早速さっそく異國いこくしたがえへ、其王をりつひて來朝らいちょうせしむるごと家久いえひさ比類ひるいいちはたらよし上意じょういにて御感ぎょかんこうむこうどうじゅうはちにち饗應きょうおうした酒宴しゅえんうえ常陸ひたちかい殿御とのごつる殿どのまいきゅうひ、貞宗さだむねこしぶつ大小だいしょう家久いえひさしたどうじゅうきゅうにちひましたよくじゅうにち駿府すんぷて、廿にじゅうにち江戸えどに致まいりちょいちこう廿にじゅうろくにち上使じょうししもこうまた廿にじゅうななにち上使じょうしを以、べい千俵せんびょう拜領はいりょういちこうどう廿にじゅうはちにち家久いえひさなおやすしに召列登城とじょういたしこうなおやすし緞子どんすひゃくかんとらがわじゅうまい太平たいへいぬのひゃく疋、蕉布ひゃくかん白銀はくぎんいちまんりょう長光ながみつ御太刀みたち獻上けんじょういちこれこう若君わかぎみさまに、御太刀みたち一腰ひとこし緞子どんす五拾ごじっまき太平たいへいぬのひゃく疋、蕉布五拾ごじっまきじょうこう家久いえひさ御太刀みたちだい其外品々しなじな獻上けんじょういたし、きゅうがつさんにち登城とじょういたし饗應きょうおうゆうどうななにちに於數寄屋すきやいち御茶おちゃしたどうじゅうにちまた登城とじょうつかまつこうどうひろえろくにち登城とじょういち饗應きょうおううえ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1379 貞宗さだむねこしぶつ并御拜領はいりょういちこう、且又櫻田さくらだ屋敷やしきしたじかひまきゅうる、どう廿にじゅう江戸えどはっこうかねおおせわたりいちこうにより、ちゅう山王さんのう東海道とうかいどうやめのぼり、家久いえひさ木曾きそとおこくつかまつこう、其年上意じょういにてちゅう山王さんのう歸國きこくいたさせさるこう

琉球りゅうきゅう入貢にゅうこうりゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1379 慶長けいちょう以後いご入貢にゅうこう 寛永かんえいじゅういちねんうるうなながつきゅうにちちゅう山王さんのうなおゆたかけい使佐敷さしき王子おうじおんしゃ使金武かなたけ王子おうじとうをしてかたぶつみつげす、〈げんひろし日記にっき〉このとし將軍家しょうぐんけ上洛じょうらくありて、京都きょうとにましますをもて、じょうしろ登城とじょうす、このゆゑに使つかい江戸えどきたらず、 正保しょうほう元年がんねんろくがつ廿にじゅうにちちゅう山王さんのうなおけんけい使金武かなたけ按司、おんしゃ使國頭くにがみ按司とうをしてかたぶつみつげす、なながつさんにち下野げやこく日光にっこうさん御宮おみやはいす、〈てのひらろく〉 慶安けいあんねんきゅうがつちゅう山王さんのうなおしつおんしゃ使具志川ぐしかわ按司とうをしてかたぶつみつげす、〈琉球りゅうきゅうごとりゃく〉また日光にっこうさん御宮おみやはいす、 うけたまわおうねんきゅうがつじゅうにちちゅう山王さんのうなおしつけい使國頭くにがみ按司とうをしてかたぶつみつげす〈羅山らざん文集ぶんしゅう和漢わかんあいうん近世きんせい武家ぶけへんねんりゃく、〉また日光にっこうさん御宮おみやはいす、 寛文ひろふみじゅういちねんなながつ廿にじゅうはちにちちゅう山王さんのうなおさだおんしゃ使金武かなたけ王子おうじとうをしてかたぶつみつげす、〈まんてん日記にっき〉また日光にっこうさん御宮おみやはいす、〈琉球りゅうきゅうごとりゃく歴代れきだい備考びこう、〉 天和てんわねんよんがつじゅういちにちちゅう山王さんのうなおさだけい使名護なご按司、恩納おんな親方おやかたとうをしてかたぶつみつげす、〈まんてん日記にっき甘露かんろくさむら、〉 寶永ほうえいななねんじゅういちがつじゅうはちにち中山なかやまおうしょうえきけい使美里みさと王子おうじ富盛ともり親方おやかたおんしゃ使豐見城とみぐすく王子おうじ與座よざ親方おやかたとうをしてかたぶつみつげす、〈琉球りゅうきゅう聘使ごと〉またひがし叡山えいざん御宮おみやはいす、中山なかやま使つかい日光にっこうさんいたらずして、ひがし叡山えいざんること、このときはじめとす、 正徳しょうとくよんねん十二月じゅうにがつにちちゅう山王さんのうなおけいけい使與那城よなぐすく王子おうじおんしゃ使金武かなたけ王子おうじとうをしてかたぶつみつげす、〈ぶんくさむら〉 とおるさんねんじゅういちがつじゅうさんにちちゅう山王さんのうなおけいけい使越來ごえく王子おうじ西平にしだいら親方おやかたとうをしてかたぶつみつげす、〈とおる日記にっき〉 寛延かんえい元年がんねんじゅうがつじゅうにちちゅう山王さんのうなおけいけい使具志川ぐしかわ王子おうじ與那原よなばる親方おやかたとうをしてかたぶつみつげす、〈歴史れきし要略ようりゃく〉 たかられきねん十二月じゅうにがつじゅうにちちゅう山王さんのうなおきよしおんしゃ使今歸仁なきじん王子おうじとうをしてかたぶつみつげす、〈歴史れきし要略ようりゃく〉 明和めいわ元年がんねんじゅういちがつちゅう山王さんのうなおきよしけい使讀谷よみたんさん王子おうじとうをしてかたぶつみつげす、〈さんこく通覽つうらん速水はやみ私記しき、〉 寛政かんせいねん十二月じゅうにがつにちちゅう山王さんのうなおきよしけい使宜野灣ぎのわん王子おうじとうをしてかたぶつみつげす、〈琲球だん〉 寛政かんせいはちねん十二月じゅうにがつ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 ろくにちちゅう山王さんのうなおなりおんしゃ使だいむべおう子安こやすむら親方おやかたとうをしてかたぶつみつげず、〈てのひらろく〉 文化ぶんかさんねんじゅういちがつ廿にじゅうさんにちちゅう山王さんのうなお灝、おんしゃ使讀谷よみたんさん王子おうじ小祿ころく親方おやかたとうをしてかたぶつみつげす、

都城みやこのじょう/あいだきり

南島なんとうこころざし

うえ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 沖繩おきなわとう(○○○)そくちゅう山國やまぐに也、其地南北なんぼくちょう東西とうざいせま、而周まわりななじゅうよん、〈よりどころ此間里數りすういち而言、凡ろくしゃくためあいだろくじゅうあいだためまちさんじゅうろくまちためさとこうみな此、〉國頭くにがみきょきたためくび島尻しまじり(シマシリ)きょみなみためおうざい西南せいなんいちくびさといちぶたみどりうらら山地さんちいまさくくびさといちかたおんうたて也、〈みどりうらら山見やまみほし槎勝らんいちしろかたいち東西とうざいうみかくさともといたり北岸ほくがんいちじゅうきゅう其南がんいち、凡諸島地しまじさん谿崎嶇、罕ゆうひろし曠之いち、其人はま山海さんかいいち而居、各自かくじゆう分界ぶんかいいちいいこれあいだきりいちあいだきりしゃなおげんこおりけんいち也、おう府領ふりょうあいだきりじゅうなないち、曰國頭くにがみいち、曰名護なごいち、曰はねいち、曰今歸仁なきじんいち、〈舊作きゅうさくあさいち〉曰金武かなたけいち、〈舊作きゅうさくおに具足ぐそくいち〉曰越來ごえくいち、〈舊作きゅうさくよくいち〉曰讀谷よみたんさんいち、曰具志ぐしかわいち、曰勝連かつれんいち、〈舊作きゅうさくどおりれんいち〉曰北谷きたやいち、曰中城なかしろいち、〈舊作きゅうさくちゅう具足ぐそくいち〉曰西原にしはらいち、曰浦添うらぞえいち、〈舊作きゅうさくうらはたいち已上いじょうざい都城みやこのじょう東北とうほくいち〉曰和志かずしいち、曰豐見城とみぐすくいち、曰兼城かねぐすくいち、曰喜屋武きやんいち、曰摩文仁まぶにいち、曰眞賀まがいち、〈已上いじょうざいみやこ城西じょうせいいち〉曰南風原はえばるいち、曰しま添大さといち、曰佐敷さしきいち、曰知念ちねんいち、曰玉城たまきいち、〈舊作きゅうさくたまいち具足ぐそくいち〉曰具志頭ぐしかみいち、曰東風平こちひらいち、曰島尻しまじり大里おおさといち、〈舊作きゅうさく島尻しまじりいち已上いじょうざい都城みやこのじょうみなみいち、〉海港かいこうしょ、其在東北とうほくいち運天うんてんみなといちみなとしゃ水上すいじょうじんしょかい、而此あいだうみ舶所とまり也、〈運天うんてんみなと舊作きゅうさくうんはくいちざい今歸仁なきじんあいだきりいちみなとしゃ此間げん水門すいもんいち也、みなとふかいちさとじゅうななまち、濶まち大船おおぶねろくじゅうせき以栖はくいち東北とうほくゆきいたり與論島よろんとういちじゅう、〉ざい西南せいなんいち那覇なはこういち都城みやこのじょういちさとあまり、此間及海がいもろしゅう船所ふなどころ輻湊ふくそういち也、〈那覇なはこう舊作きゅうさく那覇なはいちみなとふかじゅうまち、濶いちまちじゅうあいだこらえとまり大船おおぶねさんじゅうせきいち長崎ながさきいちさんひゃく朝鮮ちょうせんいちよんひゃくとうすなひがし南海なんかいかくいちよんひゃくはちじゅううんとうすないにしえいち即今そっこん台灣たいわん也、〉港口こうこうよん邑、きょみんしげるもりおけ那覇なはこうかんよんいんいちぶん焉迎おんてい天使てんしかんまた此、むかいせっ中國ちゅうごく使じんいちこれしょ也、

むらすう/石高いしたか

おんさかえろく

うえ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 慶長けいちょうじゅうよんねん じゅうまんさんせんななひゃくせきなながつななにちごうななじゅうまんきゅうせんひゃくせき〉 琉球りゅうきゅうこくじゅうとう 島津しまつ陸奧むつもり家久いえひさ

みなみ聘紀こう

ひと

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 これさい、〈◯じゅうよんねんおおやけ〈◯家久いえひさまた上井かみい次郞じろうひだりまもるじょうさとけん、及阿ぼうとういち琉球りゅうきゅういちのぞきせい經界けいかいいちさとけんとうすんでいたりあずか本田ほんだ親政しんせいとういち乃丈りょう沖繩おきなわとういち、 じゅうねんさんがつさとけんしょせいたけかんせきなり、凡ななさついいこれ撿地ちょういちさとけん花押かおういちところいい琉球りゅうきゅうさき竿ざおうん此也、按沖繩おきなわとう平家へいけしょじゅうとういち、而今曰ほん琉球りゅうきゅういちもの此也、しゅうまわり佰拾さと肆合さんしゃくつまみ國頭くにがみけん奧崎おくさきいちいたり喜屋武きゃんけん具志ぐし川崎かわさきいちちょうさんひろえ肆里うるしあいいちしゃく玖撮、讀谷よみたんさんけん美崎みさきいちいたり勝連かつれんけん平敷屋へしきやいち、闊伍さとうるしあい玖勺つまみ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 おんけん仲泊なかどまりむらいちいたり美里みさとけん石川いしかわはまいち、闊僅うるしあい肆勺いちつまみぶんためさんやまいち、而中やまぞく中頭なかがみかたいち山北やまきた國頭くにがみかたいち山南さんなんくにしりかたいち、其國頭くにがみゆうけんきゅうむらひゃくいち中頭なかがみゆうけんじゅういちむらひゃくろくじゅうさんいちくにしりゆうけんじゅうむらひゃくじゅうろくいち總計そうけいさんじゅうけんよんひゃくじゅうむらうんさとけんしょたけりょういちこん其詳いちおういちとういちうん

琉球りゅうきゅうこくさとちょう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 琉球りゅうきゅうこく〈◯中略ちゅうりゃく〉 總合そうごうだかひろえまんさん千七百拾壹石八斗壹升三合四勺八才 むらすうひゃくなな拾六じゅうろく うちろくまんはちせんひゃくろくひろえよんせきしょうななごう  田方たがた 五万三千百貳石壹斗五升五合三勺八才 はたけかた 千三百四拾五石壹斗三升壹合壹勺 くわやく 寛文ひろふみはちねんさるじゅうがつ 

ぐんめい一覽いちらん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 琉球りゅうきゅうこく じつ五島ごしま ななひろえいちケ村かそん こうひろえまんさん千七百拾壹石八斗壹升三合四勺八才 うち 宮古みやこ(ミヤコ)とう ろくケ村かそん こういち万貳千四百五拾八石七斗九升貳合四勺貳才 八重やえ(ヤエ)山島やましま じついちケ村かそん こうろく千六百三拾七石三斗貳升壹合六才 沖縄おきなわとう ひろえななケ村かそん こうろくまんせんひゃくきゅうひろえきゅうせき けい(ケラマ)とう こうひゃくさんせき しま こうよんひろえせきいち 久米くめとう ケ村かそん こうさんせんろくひゃくななひろえななせきなな 粟島あわしまだかななひゃくひろえななせきよん めぐみとう こうさんせんろくひゃくよんひろえさんせき (イセナ)とう こうななひゃく拾石じっこく めぐみ平屋ひらや(ヱヘヤ)とう こうひゃくよんひろえいちせきろく おにかい(キカイ)とう ケ村かそん こうろくせんきゅうひゃくさんひろえせきよん だい(オホ)とう ななケ村かそん こういちまんよんひゃくひろえせき 徳之のりゆき(トクノ)とう さんケ村かそん こういちまんきゅうせきなな えいりょう(ヱラブ)とう さんケ村かそん こうよんせんひゃくひろえはちせき 與論島よろんとう こうせんひゃくななひろえせきろく 以上いじょう

白石しらいしひつ

した

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 いち琉球りゅうきゅうこく地形ちけい皆島みなしま御座ぎょざこうつね舟行しゅうこうを以あなたこなた往來おうらいつかまつよし御座ぎょざこう狹長きょうちょうこう而、ややよこはばさんさとけいこれしょゆうこれよし御座ぎょざこう島津しまつこう附屬ふぞくつかまつこうこく知行ちぎょうだかひろえまんせき(○○○○○○○)軍役ぐんえき御座ぎょざこうただし此知ぎょう多少たしょう、其圖世間せけんこう〉慥ニ露顯ろけんつかまつこうゆう小國しょうこく御座ぎょざこう、〈◯中略ちゅうりゃく〉 十一月じゅういちがつ廿にじゅういちにち 小瀬こせふくあん

物産ぶっさん

南島なんとうこころざし

した

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 物産ぶっさん 大明だいめいかいてんうん琉球りゅうきゅう貢物みつぎものうまかたな金銀きんぎんしゅうみきむ銀粉ぎんぷんくしげ瑪瑙めのう象牙ぞうげにしからうみともえかいおうぎどろ金扇きんせんなまべにどうすずせいじゅくなつぬの牛皮ぎゅうひくだこうれんちょうかおりだんかおり黄熟おうじゅく烏木からすぎ胡椒こしょう、琉黄、すりがたなせきわか其馬、及螺からうみともえなつぬの牛皮ぎゅうひ鳥木とりき、琉黄、すりがたなせきいちのり其國しょさん而已、其餘そくしょしたあずか此間及諸こくいち交易こうえきうえ也、こくそくいね、秫、きびむぎまめ、蔬則ふりなすはじかみひるねぎにらぞくみなゆう焉、またゆうしげるいもいち以代こく而食いち、此間ぞく琉球りゅうきゅういもいちそく此、うみさい啖亦はてそくりゅう茘、蕉子、甘蔗かんしゃ石榴ざくろたちばなかきただしうめあんずもも季之としゆきるいいち近時きんじゆううめうつり此間いちものゆいちょはな而不ゆいくさすなわちさんふつわらい風蘭ふうらんつき桔、名護なごきくぐりきくもり花澤はなざわふじひとしひんしょうきんげい烟草たばこいちほそ而長、そく赤木あかぎ、其性けん緻、むらさき紅色こうしょく而有はくさとしいちぶた櫚木るい本朝ほんちょうしきしょいい南島なんとうしょ赤木あかぎそく此、〈ぞくいち黒木くろきそくかいてんしょいい烏木からすぎ也、蘇鐵そてつそく琉球りゅうきゅうろくしょいいおおとり蕉、其野生やせいそくした栽在えんにわいちものうえにれ、〈ぞく加津かつまつとめいち木犀もくせい、〈ぞくいく伊八いはちいちなにまゆみ福木ふくのき、〈曰そこいち、曰也良いち、曰すえいちなみみな其俗しょたたえしょう、〉ずいしょしょいいたたかえろうじゅ使つかい琉球りゅうきゅうろく以謂土産みやげいち其樹いち即今そっこん國人くにびとまたいいしょう、〈ずいしょ曰、たたかえろうじゅたちばな而葉みつじょう纖如かみしか下垂かすいまたうん、纖鬪ろうかわ以爲ころも、〉禽鳥そくあやばとくろうずらうずらまたゆう異色いしょくしゃいち、〈俗名ぞくみょうさん宇津うつりょうぶたいいさん其毛ぶんゆうさんしょくいち也、〉蝙蝠かわほりさん八重山やえやまいちもの、其形極大きょくだい、〈俗名ぞくみょう八重山やえやま蝙蝠かわほりいち〉其餘ゆうがらす麻雀まーじゃん雉、けりぞくいちただしつる及鶬にわとりいち、而鴻かり秋月しゅうげつこうたかはやぶさ小雀こがらみなみ來者らいしゃ、畜獸そくがらすうしそく水牛すいぎゅういぬいのこおうしか鹿しかぞく皆無かいむゆうしゃいち、而無とらひょうさいぞういちまたさん異色いしょくいちむし豸則蛇蝎だかつぞく最多さいた毒蛇どくへびいち、凡ななしゅ蝎、またのうひと、其有したざい于壁あいだいちこえ噪如すずめしゃうえはるなつ交有あかそつみなみらいいちまたおお鱗介りんかいいちすなわちかい白魚しらうおいちまた海馬かいばいち馬首うまくびぎょかわあつ而青、其肉如鹿しかひとつねこれうまさめりゅうえびるいまたみなゆうこれとげたてがみ其色べに、而味またけいくじらぎょごとぼつしゅう嶼之あいだいち、而莫敢捕しゃいち蛟龍こうりょう海中かいちゅういちおこり、而能致風雨ふうういちぞくいいこれふうまちいち也、にしはまぐりぞくおおひんいちかいそくかいてんしょいいうみともえにしからだいしゃさん以代がまこしきいち

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 うん

はなえびす通商つうしょうこう

した

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 琉球りゅうきゅう 土産みやげ 木綿きわた 芭蕉布ばしょうふ 黒砂糖くろざとう アハモリしゅ 藥種やくしゅ みぎそとしょくゆうこれトイヘドモ、みなふくしゅうヨリらいぶつ也、

中山なかやま聘使りゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 雜事ざつじ 其産ぶつは、五穀ごこく甘蔗かんしゃはじめとして、異種いしゅきょくおおしといへども、僅に此小の悉すしょにあらず、こんりゃく皇國こうこく及西きよしけんじみつぎかたぶつきょぐ、 きむ銀粉ぎんぷんくしげ沈金ちんきん漆器しっき螺鈿らでん漆器しっき文房具ぶんぼうぐ、〈玉石ぎょくせき金銀きんぎん〉縐紗、〈紅白こうはくからむしぬの、〈精粗せいそしな芭蕉布ばしょうふ、〈なまじゅく綦多ひん綿めん線香せんこう、〈しな長髮ちょうはつ、瓷瓶、おうぎきのえ盔、腰刀こしがたな、袞刀、鎗、へいくらうつきん硫黄いおうしろすずべにどう、励石、うま泡盛あわもり

琉球りゅうきゅうこく聘使

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 寶永ほうえいななねんかのえとらじゅういちがつ、薩侯げんよしたかりつ琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう聘使いちいり、〈◯中略ちゅうりゃくじょうけんじ禮物れいもつ 太刀たちいちふく 駿馬しゅんめいちひき ことぶきたいさんじゅう套 こうもち奩 龍涎香りゅうぜんこう奩 あぜ芭蕉布ばしょうふじゅうはし しま芭蕉布ばしょうふじゅうはし あわ(ウス)いろ芭蕉布ばしょうふじゅうはし 縐紗じゅうかん 太平たいへいぬのひゃくひき 久米島くめじまぬのひゃくひき 青貝あおがいだいたく うずたかかざりすずりへいいちつい 羅紗らしゃじゅうひき 青貝あおがいめしかごいちつい 泡盛あわもりしゅじゅうつぼ

中山なかやまつたえしんろく

ろく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 物産ぶっさん〈◯中略ちゅうりゃく〉 こくそくろくこく咸備、〈◯中略ちゅうりゃくことさんゆうばんいもいち在處ありかみなゆうこれすきたねすな土中どちゅういち蔓生まんせいひと以爲かてこうなみ粒食りゅうしょくいちいえしゅ芭蕉ばしょうすうじゅうほんいち、縷絲織いとおりため蕉布いち男女だんじょふゆなつみなころもこれひき蠶桑こぐわいち、〈◯中略ちゅうりゃく〉 てつじゅそくおおとり蕉、いちめいうみ椶櫚しゅろ蕉葉勁挺たい、䙰褷如おおとりうついちにち中心ちゅうしん一線いっせん虚明きょめいかげよん凋、處々しょしょうえこれ、〈◯中略ちゅうりゃく〉 やま中國ちゅうごくいち特大とくだいゆうなりちょう丈餘じょうよしゃいち紅花べにばなよんかず朶攅せいゆう千葉ちばしゃいちじゅうだい甚艷、まさみつるちゅううんやま扶桑ふそうどうだし日本にっぽんいちはじめいれ中國ちゅうごくいち、◯中略ちゅうりゃく〉 名護なごらんたん而厚、あずかかつらよういちどうだい僅如ゆびさんよんがつひらくはなあずからんこといちはちきゅう朶攅ひらけこうこしまさるらん名護嶽なごだけ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 いわおせきあいだいちかりみずいちあるよせ椏上いちある棕皮いちこれかかこれまたゆう風蘭ふうらんいちらん較長、こう山奈やまな茴香ういきょういち、蔑たけためぼんかか挂風まえいちごくえきしげるいちぞくみなひさしらんごうため孔子こうしはないち、 ぐりらんいちめい芷蘭、おおとりいちはなちんたまいちらんまたゆうまつらんたけらんささげらんいち、〈じょう珊瑚樹さんごじゅいち緑色みどりいろはなしたがえ椏間いちらん較小、◯中略ちゅうりゃく〉 ぎょそぎくろまん魚肉ぎょにくいちいぬいこれため腊、長五ちょうごろくすん梭形、久高くだかしゃりょうしょくほう温水おんすいいちあらい一過いっかつつみ蕉葉ちゅういちいれりゃく煨、さい洗淨せんじょう、以利刃りじんいちきりこれさん四切よつぎりみなれいだんだいろくななはじめだんまい一片いっぺんいちかたちらんはないちづけきよしひしおいちさらくち

風俗ふうぞく

くにあさきゅうしょうろく

じゅう

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 琉球りゅうきゅうこくことりゃく 東山ひがしやま殿どのころより、かれこくには我國わがくにかり名字みょうじもちいひしとへ、また其國のひとども我國わがくに倭歌やまとうたのうするものすくなからず、 琉球りゅうきゅうじん和歌わかいくらもへたり、のうよめるものゆう、 山川やまかわとうひとも、みな我國わがくになるもおおく、こと我國わがくにかみ々をまつれるあと、いくらもきこえたり、さればかれこく始祖しそ我國わがくにひとたりし一定いってい也、ただし爲朝ためとものちさる如何いかべき、すべてかれこくことどもしょうならぬことどもおおし、おうわたし曰、琉球りゅうきゅうは其人ひん柔和にゅうわにして、めいかみあぶらぬり容貌ようぼうわがあさひとよりもうららく、さい弱國じゃっこく風俗ふうぞく也、伎藝ぎげいたしなくににて、なかにも棊局のじゅつくす、まえ我國わがくにこうらい聘のごとに、かれこくの棋手にちょうずるもの、其使にともなえて、我國わがくにの棋家に便たよりて、殿中でんちゅうおい相對あいたいしてたんす、其勝れつこころみたるうえにて、我國わがくに妙手みょうしゅよりあるいさきんをあらわし、また二子ふたごあらわするの許状ゆるしじょうを授く、〈ところいいさきふたおけこと也〉おっと棋局のゆうは、其先中華ちゅうかはじまりて、伎藝ぎげいに於るさいひさし、しかるに中華ちゅうかには此術おとろえて、こん万國ばんこくなかわがあさほどしらげきはく、琉球りゅうきゅうこれ、其佗にこと聞、ゆえ琉球りゅうきゅうより中華ちゅうかへ聘問のおりがらは、きわむ中華ちゅうか國手こくしゅむかえて琉球りゅうきゅう許可きょかるとかや、にて此術の我國わがくによりりょうれつたることおもえふべし、其外琉球りゅうきゅうことしるせし、てい西にし物語ものがたりうん小册しょうさつわがひつちゅうましましを、粤にしょんとさがせこれきょう紛失ふんしつせり、

中山なかやま聘使りゃく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 和歌わか 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 國人くにびと和歌わかをよくするもの往々おうおうあり、皇國こうこくじゅんとお裔の島嶼とうしょとどけるをるべし、いんてしるす、 元祿げんろくちゅうきよし北京ぺきんにまいりて、くににかへりなんとせしときよみはべる、 池城いけのじょう親方おやかた たれもいまぞまことのからにしききたのみやこをたちいづるそで しのぶこい 眞壁まかべ親方おやかたけんひろし こヽろのみかよはぬときはなけれどもよそにかヽるほどぞくるしき〈◯下略げりゃく

はなえびす通商つうしょうこう

した

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 琉球りゅうきゅう 人物じんぶつ朝鮮ちょうせんテ、中華ちゅうかつう薩摩さつまくにヨリ諸事しょじアヅカリ聞ク、此國ノふね漂流ひょうりゅうときハ、其所ヨリ長崎ながさき送屆おくりとどけテ、長崎ながさきヨリ薩摩さつまわたりシテ歸國きこくス、

白石しらいしひつばなし

した

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 琉球りゅうきゅうこく地形ちけいみなとう御座ぎょざこう、〈◯中略ちゅうりゃくにん家居かきょ日本にっぽんどうこと御座ぎょざこう王城おうじょう様子ようすは、明朝みょうちょうひと琉球りゅうきゅうこう使つかいまいりこうじんしょおけこうどおり殿しんがりかくさんかいさく御座ぎょざこう而、うえかいかみまつりこうしょなかかい王者おうじゃ居所きょしょしたかいしん庶之居所きょしょこう而、中華ちゅうかよりふうさつを請候は、かり高樓こうろうつくり、使者ししゃすわしつらえさるこうよし御座ぎょざこうただしこれひょうこうぶんまわししきまでときばかりに御座ぎょざこう常住じょうじゅう日本にっぽん家作かさくどうこと住居じゅうきょよし御座ぎょざこう、 十一月じゅういちがつ廿にじゅういちにち 小瀬こせふくあん

西遊せいゆう雜記ざっき

よん

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 琉球りゅうきゅうかん一見いっけんせしに、門番もんばんありてうちにゅうこときんぜり、凡百ぼんぴゃくじんばかりは鹿兒島かごしまわたて、琉球りゅうきゅう産物さんぶつ賣買ばいばいして、また交易こうえきすることにて、なに日本にっぽん言葉ことばななはちふんもつかふとうんり、田舍いなかよりもきょうのぼりてしょげいを習ふさまに、琉球りゅうきゅうじん鹿兒島かごしまわたりてがくぶんをし、しょげいを習ふ、和歌わかもよみ、手跡しゅせき見事みごとなり琉球りゅうきゅうじんあり、てんまど有髮うはつにて、小童こわっぱ髮結かみゆいひしやふに、いずれもまるわげにして、筓をさする也、ころも日本にっぽんげん居士こじころもごとし、ぶんまわししきさいそうふしは、色々いろいろかんむりふくゆうべし、みぎ平生へいぜいかたちり也、ざつまないた琉球りゅうきゅうあつし也としるせしはむべ也、

中山なかやまつたえしんろく

ろく

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1386 風俗ふうぞく 正月しょうがつじゅうろくにちおとこ倶拜はかまたゆういたまいおどけいち、〈◯中略ちゅうりゃく〉 さんがつさんにち上巳じょうし家作かさくもぐさいちあい餉遺、官民かんみんみな海濱かいひんみそぎいんまたはいぶししょう往來おうらい、〈◯中略ちゅうりゃく〉 五月ごがつにちきおいわたりりゅうふねさん、〈とまりはじめいち久米くめはじめ、〉いちにちいたり五日いつかいちすみきびがましゅどう中國ちゅうごくまたはいぶし、〈◯中略ちゅうりゃく〉 なながつじゅうにちぼん祭祀さいしさきあずかじゅうさんにちよるいち家々いえいえれつ炬二於大おだい門外もんがいいち、以迎祖神そしんいちじゅうにちぼん後送こうそうしん、 はちがつはいつき〈◯中略ちゅうりゃく〉 白露しらつゆためはちがつぶし先後せんごさんにちいち男女だんじょみなことことまもり天孫てんそんいち、此數日すうじつない、如有角口すみぐちひとししょ事故じこいち、必犯へびきずいち國中くになかへびきゅうがつきずひとりつ斃、 同日どうじつふけ糯米もちごめいちあか小豆あずきいちためめししょう餉、〈◯中略ちゅうりゃく〉 毎月まいつきさくのぞむ家々いえいえ婦女ふじょびんいちいたり砲臺ほうだいいち、汲しん潮水しおみずいちかえりけんじかまどしんいちあるけんじてんぜん石神いしがみいち、〈◯中略ちゅうりゃく〉 凡許すなおみないしためかみ、凡神だけくさむらほこらこれしょみなゆう巨石きょせきすうしょいちはなれりつしつらえ香爐こうろ炷香しょく於前いち燒酒やけざけしつらえ牲菓いちむくいすなおみないしけんじきょうしつらえ神像しんぞういち也、 つうこく平民へいみんみな火葬かそうかん宦有りょくいえさきようなまそういち、踰どき舁出、仍用火葬かそういち、〈ぜん使つかいろくうん、以中元ちゅうげん前後ぜんごいちよくかばね于溪すいいちさんよんねん、以みずいれあな、潑かばね腐肉ふにくいちおさむほねいれぞういし坎中いちとしさい掃啓、〉 かんせいえんがんいちこうさんしゃくもと温水おんすいあらいひざぶたこごめあし趺殮、〈◯中略ちゅうりゃく〉 くにちゅうおもんみさんしゅじんみなかみそういちためかんいちめい五官ごかんただしいちいちためした王宮おうきゅうちゃやくいちものうえめいそういちまた御茶おちゃいちろくにんまたゆうしたつかさ灌園いちろくにんうえみなぜん剃髮ていはつ、戴黒色こくしょく六稜幔頂寛簷帽いちめいへんぼういちころもちょたんかけいちりょういちだいころもいちりゃくたんさんしゃくもと黒色こくしょくしゅじんみな趨役ときくしかみおそれ時事じじいちみな使したがえみちしょういちうん、〈◯中略ちゅうりゃく〉 字母じぼ 琉球りゅうきゅう字母じぼよんじゅうゆうなな魯花いちしゅん天爲てんいおうときいちはじめせいあるうんそく日本にっぽん字母じぼあるうん中國人ちゅうごくじん省筆しょうひつえきあかつきしゃきょうこれためきり音色ねいろいちほん也、古今ここんしげる而音簡、こん中國ちゅうごくきりおん字母じぼきゅうゆうさんじゅうろくいちやや簡爲じゅうはちいちのど齶齒くちびるちょう翕輕おもやましじょ清濁せいだくあいだいちずいきょいちいんいちみなゆうじゅうはちははいち天下てんか古今ここんゆうおと包括ほうかつつき矣、こんじつりゃく此意いちゆうおついちしたさくさんいちうえものきのえゆうおつさんしたさくいちいちうえものきのえある反切はんせついちあるれんしょいち、如春色しゅんしょくいち、琉人よびはるためはな魯二おんいちのりごうしょハロいちそくためはるいち也、いろため魯二おんいちのりあいしょイロいちそくためいろいち也、わか

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 ゆう音無おとなしのりあいしょいち反切はんせつぎょうこれ、如さんむらめいはくあずかとまりふねはくいちなみ讀作いちのりいちさんおと矣、むらめい喜屋武きゃん、讀作腔字いちのりまたさんいちおと矣、國語こくごるい此、國人くにびとげんまたろくいち讀作いちいちもの甚多とく中國ちゅうごくしょいち多用たようかぎいちつくり、逐たおせ讀、實字じつじきょうえ虚字きょじたおせぎゃく讀、かたりごとまたしかほん國文こくぶんうつりちゅうまたまいりよう中國ちゅうごくいちいち上下じょうげみな國字こくじ也、よんじゅうななすえゆういちいちさくてんいちおと媽、此另いち、以聯ぞくしょおといちため記者きしゃきょうよんじゅうはちうん、 もとすえそうただしうん琉球りゅうきゅうこくしょくみつぎ中華ちゅうかいちところ上表じょうひょうようため簡、こうはちすんもとあつさんふん、濶ふんかざり髹、ぼたんすずぬきかわ、而横行おうこうこく於其じょういち、其字體じたいしょまたうん日本國にっぽんこくちゅうゆう國字こくじいち字母じぼよんじゅうゆうななのうどおり識之いち便びんかい音義おんぎいち、其聯輳成しょ、髴髣蒙ほういち、以かれちゅう字體じたいいちうつし中國ちゅうごく詩文しぶんいち、雖讀、而筆ぜい縱横じゅうおうりゅうへびどうげんゆう顚素のこいちこん琉球りゅうきゅう國表くにおもて疏文、みなよう中國ちゅうごくしょいちすえしょうん横行おうこう刻字こくじしょある其未つう中國ちゅうごくいち以前いぜん字體じたい此、こんかんがえただしこん琉球りゅうきゅうこく字母じぼまたよんじゅうゆうなな、其以國書こくしょいちうつし中國ちゅうごく詩文しぶんいち筆勢ひっせいはてあずか顚素いちことぶた其國そうみなゆうまなぶ日本にっぽんいちきょういち其本こく子弟していいちしょひろしろくしょうんみな草書そうしょ隷字いち今見いまみ果然かぜん、其爲日本にっぽん國書こくしょいちうたぐ


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Last-modified: 2022-07-23 (土) 17:18:54