「東海道ウォーキング」は2020年12月末日をもって終了しました
◆旧東海道の125里の距離を体験できる『東海道ウォーキング』
東海道五十三次は、
江戸時代に
整備された
五街道の
一つ「
東海道」にある53
ヶ所の
宿場を
指します。
東海道の
総延長は、
江戸日本橋から
京都三条大橋まで
約125
里(
約500km)あり、その
道のりを
昔の
旅人は、
朝4
時頃に
宿を
発ち、
夕方6
時頃まで
歩き、12~15
日間で
歩ききったと
言います。
一日あたり
約10
里(39キロメートル)
歩いた
昔の
旅人は、
現代人と
比べてとても
健脚だったようです。
皆さんも、
一日に
歩いた
距離を「
東海道ウォーキング」に
記録して、
東海道五十三次の125
里の
距離にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
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◆『東海道ウォーキング』の使い方
- アカウントの作成
- 初めての方はまずブログパーツの〔新規〕ボタンを押して、アカウントを作成します。
- ブログパーツの設置
- 次に設置タグをコピーし、ご自分のブログやHPに貼って表示が確認できれば設置完了です。
- データの送信
- データの記録は設置したブログパーツから行います。まず〔記帳〕ボタンを押して、IDが自動入力されていることを確認したら、パスワード・歩行日時・歩行距離などを入力して〔データを送信〕ボタンを押します。
- 毎日の作業
- その日に歩いた距離を毎日〔記帳〕することで、仮想の東海道の旅をします。
- データの削除
- データを最初からやり直したいときは、〔削除〕ボタンを押し、パスワードを入力して〔データを削除〕ボタンを押します。アカウントは削除されないので、引き続き同じパスワードでデータの入力ができます。
◆テスト用アカウント
下のアカウントは左のブログパーツのアカウントです。テスト用としてお使いください。 (※コメントは24字以内でお願いします。)
◇テスト用ID : b-1245922469115177173136 (※IDは自動入力されます。)
◇テスト用パスワード : tokaido53
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◆東海道五十三次について
東海道は、
古くから
都と
東国を
結ぶ
街道として
発達し、
大和朝廷の
律令制度のもとでは、
中央政府と
地方行政組織(
五畿七
道)を
結ぶの
駅伝制(
交通・
情報伝達制度)の
確立とともに
整備されてきました。
箱根駅伝で
有名な「
駅伝」も、この「
駅伝制」から
命名されました。
ちなみに、
最初の
駅伝競争は、1917
年4
月27
日に
行われた
讀賣新聞社主催による「
東海道五十三次駅伝競走」とされています。
京都の
三条大橋を
午後2
時にスタートし、
東京の
上野不忍池までの23
区間を
約508kmを
走り
抜いて、ゴールしたのは
翌々日の
午前11
時34
分であったといいます。
この
駅伝競走を
記念した
碑が
三条大橋と
上野不忍池の
近くに
設置されています。
話は
戻って、
時代をさらに
進めます。
鎌倉時代に
入り、
東海道は
鎌倉と
京都を
結ぶ
最も
重要な
幹線道路となっていました。
当時の
街道沿いには、すでに
宿屋を
中心とした
宿と
呼ばれる
集落が
現れていたと
言われています。
平安時代末期になると
律令制の
弛緩に
伴い「
駅伝制」も
次第に
衰退して、
戦国時代には
馬の
徴発により
崩壊していましたが、
江戸時代に
入ると、
天下を
掌握した
徳川家康により
中山道・
甲州道中・
日光道中・
奥州道中とともに
五街道の
一つとして
一里塚が
設けられ
宿場が
整えられて「
伝馬制」がさらに
整備されました。
これらは、
江戸の
品川宿を
第一宿とし、
京都の
大津宿まで
五十三の
宿場がもうけられたことから、これらが
俗に「
東海道五十三次」と
呼ばれています。
東海道の
両側には
一里(
約4km)ごとに
土を
盛り
上げ、えのき
等の
樹木を
植え(
一里塚)
旅人の
目印にしていました。
◆1930年代の東海道
右の
写真は1930
年に、
横浜から
約48キロ
離れた
場所でニューヨーク
州の
教育局員が
撮影したものです。
東海道は、その
昔、
多くの
旅人が
歩いて
往来することで
発展してきましたが、1880
年代に
東京・
神戸間の
鉄道が
初めて
完成すると、
次第に
衰退していきました。
日本では1900
年代初めには
自動車生産が
始まりましたが、1930
年代頃はまだまだ
少なく、
道路事情も
写真のように
極めて
悪い
状況でした。
日本で
自動車が
本格的に
普及し
始めたのは
第二次大戦後になってからのことです。
写真:キエルト・ドゥイツコレクション
(c)2009 Pump Park Photography. All Rights Reserved.
◆坂本龍馬ゆかりの宿場町
◆若き日の龍馬が過ごした町「品川宿」
日本橋を
出発して
最初の
宿、
「品川宿」は
江戸の
玄関口としてとても
栄えていました。また、
立会川沿いには
土佐藩の
下屋敷があり、
山内容堂(
豊信)や
坂本龍馬が
生活していた
場所としても
知られています。
1853
年(
嘉永6
年)6
月3
日東インド
艦隊司令長官マシュー・ペリーは、4
隻の
黒船を
率いて、
突如浦賀港に
現れました。ちょうどその
時、
剣術修行のため
江戸の
千葉道場に
入門していた
若干19
歳の
坂本龍馬は、
黒船を
目撃していたとも
言われています。
その
後、ペリーは
一度帰国しましたが、
翌1854
年1
月には7
隻の
戦艦に
大砲128
門を
搭載した
艦隊を
率いて
再びやってきました。
土佐藩は
幕府の
了承を
得て
沿岸警備のため、
下屋敷内の
立会川河口に「
浜川砲台」を
築きます。
若かりしころの
坂本龍馬も
土佐藩から
沿岸警備の
命令を
受け、
当地に
着任していたと
伝えられています。
現在、「
浜川砲台跡」は、
品川区東大井の
京急本線「
立会川」
駅近くにあり、
立会川商店街の
児童公園の
片隅に
坂本龍馬の
立像があります。
◆龍馬の妻「おりょう」と「神奈川宿」
日本橋から
品川・
川崎についで
三番目の
宿場「神奈川宿」、
幕末には
横浜が
開港されたことによって
神奈川宿には
多くの
外国人が
滞在していたと
言います。
東海道五十三次「
神奈川台之景」の
中に、すこしわかりにくいですが、ちょうど
坂をのぼったあたりに「さくらや」という
腰掛茶屋が
実名で
看板も
描かれています。この「さくらや」は、のちに「
下田家」となり、それを
晝間弥兵衛が
買い
取って1863
年に「
田中家」と
名を
改め、
旅籠料理屋になりました。
この「
田中家」は
坂本龍馬の
妻だったおりょうが、
龍馬の
死後、
仲居として
働いていたことで
知られています。おりょうは
龍馬の
暗殺時に
別の
場所にいたため
難を
逃れ、その
後、
龍馬の
姉の
坂本乙女の
元に
身を
寄せて
暮らしますが、そりが
合わずやがて
放浪の
旅に
出ます。
そして、おりょうが
辿り
着いたのがこの「
田中家」でした。
おりょうはこの
田中屋で
二年ほど
働きました。それはそれは
大変な
人気であったそうです。
また、「
田中家」は
高杉晋作、
高橋是清、
大村益次郎、ハリスも
訪れたことでも
知られています。


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