1月19日付当サイト記事『百田尚樹「日本国紀」は世紀の名作かトンデモ本か』において、歴史書として空前のヒットとなっている『日本国紀』(百田尚樹/幻冬舎)について言及した。今回も引き続き同書について考察する。
あれこれ考えるに、同書は『日本書紀』の平成版みたいなタイトルを付けたから変なので、『平成古事記』とかにすればよかったのではないか。それなら妥当だ。
『日本書紀』は世界に通用することを狙ったもので、『古事記』は日本人の気持ちを率直に語ったものだ。百田氏の『日本国紀』は後者だ。そういうことを書いていたら、「いや『三国志』に対する『三国志演義』のようなものだ」と言った人がいる。確かに、そうかもしれない。
いずれにせよ、日本人は、ひとつの歴史観に拘泥せずに歴史を学ぶべきだと思うし、また、自分の学んできた歴史本がそれぞれどういう意図で書かれたものであるかをしっかり踏まえるに越したことはないと思う。
そうした観点から、インターネットメディア「アゴラ」に、書評を10回にわたって書いた。それを通読していただくとよいかと思うが、以下、その抜粋を掲げておく。
「万世一系」を称揚しながら複数回の皇統断絶を主張
『日本国紀』でもっとも奇妙なのは、天皇の「万世一系」(永久に一つの系統が続くこと)を称揚しながら、史実としては否定したことだろう。
冒頭の「序にかえて」で、「我が国、日本は神話の中の天孫の子孫が万世一系で二十一世紀の現代まで続いているとされている。こんな国は世界のどこにもない」としている。
ところが「継体天皇の代で王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく。(略)多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ」としているのである。
さらに、「応神天皇についても、仲哀天皇を破った熊襲の王でないかという可能性を強く示唆している。崇神天皇や天武天皇についてもすっきりしない記述がある」「そして、『天皇は万世一系でなければならない』という不文律があったからこそ、『日本書紀』に、このような不自然な記述をする必要があったと考えられる。(略)応神天皇の五世の孫ということが事実かどうかも疑問であるが、皇統を継ぐ者として、血統は不可欠だった。同じことは『仲哀天皇から応神天皇』の流れにも見ることができる」とある。
つまり、日本書紀の作者は、嘘とわかりながら、みんなが天皇は万世一系だと信じているので、無理に辻褄を合わせたというのである。つまり、日本は万世一系ではないが、その嘘を信じている素晴らしい国だということらしい。それでも1000年以上、そう信じてきたから素晴らしいではないかと言いたいのかもしれないが、そのあたりの説明はない。