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「SFプロトタイピング」思考で、退屈な日常やビジネスをおもしろく 樋口恭介さんインタビュー|好書好日
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「SFプロトタイピング」思考しこうで、退屈たいくつ日常にちじょうやビジネスをおもしろく 樋口ひぐち恭介きょうすけさんインタビュー

樋口ひぐち恭介きょうすけさん

 これをんでいるあなたは、毎日まいにちたのしんでますか? わたし文句もんくばかりってます。たとえばApple Musicはきょくおおすぎてなにけばいいかわからない、とか。わたしはかつて東京とうきょう渋谷しぶやのタワーレコードにあししげかよっていました。2かい日本にっぽんのインディーロック、3かい洋楽ようがく、4かいでクラブミュージック、5かいでジャズと実験じっけん音楽おんがく、7かい洋書ようしょ。フロアをなん往復おうふくもして、試聴しちょうもいっぱいして、散々さんざんなやんで1〜2まいのCDをっていました。そしてこうおもっていたのです。「ああ、ぜんフロアの音楽おんがく自由じゆうけたらいいのに」と。

 のぞんだ未来みらい実現じつげんされました。いま渋谷しぶやてんぜんフロアどころか、タワレコ全店ぜんてん、いやあらゆる時代じだい音楽おんがく手元てもとにあるスマホのなかにあります。これはひかえめにってもヤバい。にもかかわらず、わたし文句もんくっていた。想像そうぞうりょくりなかった。このことに気付きづかせてくれたのが、SF作家さっかでITコンサルタントでもある樋口ひぐち恭介きょうすけさんの著書ちょしょ未来みらい予測よそくするものではなく創造そうぞうするのものである』(筑摩書房ちくましょぼう)でした。本書ほんしょには退屈たいくつ日常にちじょう打破だはするためのノウハウがかれています。だれかがめた「たりまえ」をわすれる勇気ゆうきつ。すると素朴そぼく日常にちじょうひそたのしいきっかけがえてくる。

 今回こんかいは『未来みらい予測よそくするものではなく創造そうぞうするのものである』をベースに、樋口ひぐちさんのカルチャーてきなルーツを辿たどりながら、退屈たいくつ閉塞へいそくかん満載まんさい毎日まいにちをいかにぶちこわしていくか、そのきっかけと勇気ゆうきについてはなしうかがいました。ぶん宮崎みやざきたかしふとし

競争きょうそうからのがれるための「SFプロトタイピング」

――まず本書ほんしょ提示ていじされた「SFプロトタイピング」という手法しゅほうについておはなしいただけますか?

 SFという妄想もうそう物語ものがたりちからりて、一旦いったん現実げんじつのことはわすれてフィクション世界せかいでぶっんだことをかんがえ、ひととおりがたになったらそれを現実げんじつ還元かんげんするという一連いちれん運動うんどうのことだととらえています。一度いちどぶ」ことによって、現実げんじつ世界せかい技術ぎじゅつてき実現じつげん可能かのうなアウトプットまでをプロトタイプ(試作しさく)する段階だんかい作業さぎょうはいってからも、まえ現実げんじつ将来しょうらい理想りそうがた連続れんぞくしたものであるということがイメージしやすくなり、仕事しごと使命しめいかんきやすくなるというか、「この仕事しごと全然ぜんぜんおもしろくないんだけど、おれなんのためにこんな意味いみのわからない作業さぎょうやってるんだろう?」みたいな気持きもちになりにくくなるのがいいところかなとおもいます。

 現在げんざいのビジネスは基本きほんてきに、費用ひようたい効果こうかえるかたち評価ひょうかできるよういとなまれているのですが、それだとすでえているニーズをベースにするわけですから、てくるサービスやプロダクトも前例ぜんれい踏襲とうしゅうになりがちで、突飛とっぴなアイデアはれる見込みこみが論理ろんりてきみちびせないということでころされてしまう。さらにえば、フレームワークというのは一種いっしゅのコモディティであって、競合きょうごう他社たしゃ使つかえるものですから、それにたよって勝負しょうぶしていると市場いちばはすぐにレッドオーシャンする。つまり、現在げんざいビジネスでセオリーだとされていることだけをしていては、すぐにジリ貧じりひんしてきつくなるわけです。いわゆるイノベーションのジレンマってやつですね。

樋口ひぐち恭介きょうすけ未来みらい予測よそくするものではなく創造そうぞうするものである』(筑摩書房ちくましょぼう

――そこでSFの突飛とっぴ想像そうぞうりょくんでみよう、と。

 そのとおりです。だれかに追従ついしょうして競争きょうそうするのではなく、だれかんがえないことを勝手かって一人ひとりかんがえて、競争きょうそうからのがれよう、というのが、ぼくかんがえるSFプロトタイピングの思想しそうです。もともとのSFプロトタイピングという言葉ことばはブライアン・デイビッド・ジョンソンというべいインテルしゃのフューチャリスト(未来みらい研究けんきゅういん)がつくったもので、商業しょうぎょうされてない科学かがく技術ぎじゅつ基礎きそ研究けんきゅうについて、ビジネスじょう応用おうよう可能かのうせいかんがえよう、みたいなことだったんです。でもそのときわれる「ビジネスじょう応用おうよう可能かのうせい」って、やっぱり費用ひようたい効果こうかのことであったり、想定そうていされるアプローチはニーズドリブン(需要じゅようおうじて開発かいはつすすめるかんがかた)だったりするわけで、それだと現状げんじょう打破だはにはつながらないなとおもったので、ぼくほんではSFプロトタイピングという言葉ことばだけりて、中身なかみはまるまるぼく勝手かって創造そうぞうしました(笑)。

――現実げんじつ固定こてい観念かんねんからはなれて、想像そうぞうりょく加速かそくさせて自分じぶんたのしいとおもうこと/ものをつくろう、ということですね。

フィクションとリアルは連続れんぞくしている

――本書ほんしょはビジネスパーソンにけてかれたほんですが、個人こじんてきにはカルチャーきで、しかも日常にちじょうになにがしかの閉塞へいそくかんいているひとにもんでもらいたいとおもいました。

 そうおっしゃっていただけるのはすごくうれしいです。そもそもぼくはビジネスと個人こじん欲求よっきゅうける必要ひつようなんてないとおもっていて。どうしてビジネスはビジネス、カルチャーはカルチャー、会社かいしゃ会社かいしゃ個人こじん個人こじん、みたいにけられているのか全然ぜんぜんわかっていない。

 ぼく実感じっかんではフィクションとリアルは連続れんぞくしているし、すべての活動かつどう連続れんぞくしている。ぼくはビジネスというものが人間にんげん欲望よくぼう増幅ぞうふくしたり、ぎた欲望よくぼう抑制よくせいしたりするための活動かつどうだとおもっていて、フィクションをくということもそういう活動かつどうだとおもっている。そういう認識にんしきのもとでこのほん自然しぜんまれてきたんです。このほんはビジネスしょなのかSF関連かんれんほんなのか、はたまた文芸ぶんげいしょなのか小説しょうせつなのか、よくわからないほんになっているとおもうのですが、そもそもぼくはものごとのカテゴリがよくわからず、全部ぜんぶおなじにえる。だからこういうほんになっている。ていうか、だまってるだけで本当ほんとうはみんなもそうなんじゃないですか?

――いやいや。やっぱり一般いっぱんてきにはビジネスとカルチャーって全然ぜんぜんべつのものというイメージがつよいとおもいますよ。

 でもたとえば、有名ゆうめいなところでもスタートトゥデイ(げん株式会社かぶしきがいしゃZOZO)とかはもともと前澤まえさわ友作ともさくさんがパンクスで、マイナーなパンクとかメタルのレコード収集しゅうしゅう趣味しゅみで、すうひゃくまいしからないような海外かいがいのインディーバンドのCDを趣味しゅみ延長えんちょうあつかうような、ちょう個人こじんてき輸入ゆにゅうディストリビューターだったんですよ。でもセレクトがいいからくちコミでひろまって規模きぼおおきくなって、そこからグッズとかもあつかうようになって、そのながれでふくつくったられまくって、結果けっかとして現在げんざいられるようなちょうデカいビジネスになった。

マーク・フィッシャー『資本しほん主義しゅぎリアリズム』(堀之内ほりのうち出版しゅっぱん

――前澤まえさわさんがパンクきなのはってましたが、会社かいしゃ起源きげんりませんでした……。しかもスタートトゥデイという社名しゃめいはゴリビス(GORILLA BISCUITS)のきょく由来ゆらいなんですね。

 そうなんですよ。つまり前澤まえさわさんの場合ばあい、ハードコアが大好だいすきなひとべつ人格じんかくとして、ビジネスはビジネスとってやってるわけじゃなくて、ハードコアがきなまま、日本にっぽんではいづらい海外かいがいのレアなCDがしいとか、かっこいいグッズがしいとか、そういう自分じぶん欲求よっきゅうしたがって行動こうどうした結果けっか他人たにんによってあとづけでビジネスとカテゴライズされてるだけなんですよ。

 前澤まえさわさんがやってることは、社会しゃかいてきには全然ぜんぜんちがうものにえてしまって、セルアウトだとかなんとか、なにかとディスられがちだけど、たぶん本人ほんにんなかでは一貫いっかんしていて、ただやりたいことをやりたいようにやっていただけなんだとおもいます。いや、前澤まえさわさんにったこととかないから本当ほんとうのところはらないけど(笑)。

 でもまあ、ここでいたいことはようするに、ひとには多様たよう側面そくめんがあるということで、ビジネスやってるからビジネスだけのひとだということはけっしてありえないし、カルチャーにかってるからカルチャーだけのひとだということもけっしてないということです。最近さいきんのインターネットでは、みんなでひとあらさがしばかりして、あらつかったらそのあらげて、部分ぶぶん全体ぜんたい適用てきようするかたちでそいつのすべてがクズである、みたいに結論けつろんづける風潮ふうちょうがありますが、やっぱり部分ぶぶん部分ぶぶんでしかないし、きている人間にんげんはもっと複雑ふくざつ理解りかいえたところにあるので、しろくろかなんて簡単かんたん区別くべつできないよね、みたいなことをおもいますね。すごく普通ふつうなことをってしまっていますが。

――個人こじんてきにはビジネスにおける資本しほん主義しゅぎ思想しそうとカルチャーの自由じゆうもとめる思想しそうって矛盾むじゅんするイメージがあるんです。

 全然ぜんぜん矛盾むじゅんしないとおもいますよ。ぼく解釈かいしゃくではビジネスもカルチャーも手段しゅだんでしかなくて、重要じゅうようなのは、それでなにがしたいのかということだとおもいます。どういう欲望よくぼうもとづいて、だれみながらどういうかたちとしみたいのか。もうすこんでうと、ビジネスの本質ほんしつってようするに組織そしき流通りゅうつうのことだとぼくおもってて、それってカルチャーだろうがなんだろうが、なにをするにも不可分ふかぶんじゃないですか。一人ひとりなにかをつくるのはむずかしいので、みんなであつまってなにかをつくって、つくったものを距離きょりはなれたおおくのひととどけるということ。活動かつどうとしてのビジネスというのはそういうことで、資本しほん主義しゅぎかどうかとはべつのところで、どんな社会しゃかいにおいても普遍ふへんてき発生はっせいするものだとおもいます。

 現在げんざい日本にっぽんはたまたま資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいで、そこに付随ふずいして金銭きんせんてきやりとりが発生はっせいするということになっている。ただそれだけのこと。なのになぜかビジネスというと、すぐに「かね亡者もうじゃ」だとか、あるいは「社畜しゃちく」みたいなはなしになる。おおきな組織そしきおおきな流通りゅうつうは、おおきななにかを実行じっこうするためのツールなので、普通ふつう使つかえばいいとおもうんですけどね。一人ひとりでやれるひと一人ひとりでやればいいとおもいますが。

むきだしの資本しほん主義しゅぎから自分じぶんまも

――そうか。いわゆる「会社かいしゃいん」のマインドセットって、批評ひひょうのマーク・フィッシャーがあばいた「資本しほん主義しゅぎリアリズム」のことなんですね。「資本しほん主義しゅぎへの貢献こうけんだけが人生じんせい成功せいこうとして許容きょようされる」というおもみ。樋口ひぐちさんは評論ひょうろんしゅう『すべてめいもなき未来みらい』で、『資本しほん主義しゅぎリアリズム』にれながら、かく個人こじんりしなければならないような現在げんざい資本しほん主義しゅぎのありかた批判ひはんし、べつ可能かのうせい模索もさくすることを提案ていあんしていますね。

 そうです。いまなかは、あらゆることに可能かのうで、自分じぶんなにかをりしながらきている。ぼく文章ぶんしょういて商売しょうばいにしているわけですし。そういうふう資本しほん主義しゅぎにどっぷりかりながら資本しほん主義しゅぎたいする根本こんぽんてきなオルタナティブを提唱ていしょうしたり、個々人ここじんのやりたいことだけをめようなんて提唱ていしょうするのは、もしかしたら幻想げんそうにすぎないかもしれない。だけど、その幻想げんそうをどのレベルでるのかが大事だいじだとおもいます。

 資本しほん主義しゅぎはつらい、でも「資本しほん主義しゅぎ打倒だとう! 共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめいまんさい!」みたいなノリにだれもがなれるわけでもない。資本しほん主義しゅぎ資本しほん主義しゅぎとして否定ひていてきめながらも、そのなかきていかなければならない。ではどうすればよいか。そこで自分じぶんだけの場所ばしょ、むきだしの資本しほん主義しゅぎから自分じぶんまもるための活動かつどうやそのモデルケースみたいなものがあると、いろんなひときやすくなるがする、とぼくかんがえます。「一時いちじてき資本しほん主義しゅぎ外側そとがわを、資本しほん主義しゅぎ内側うちがわつくるイメージ」というか。それを事業じぎょうとしてやれると、すくわれるひとがたくさんてくるんじゃないかなと。

 それが、ぼくがSFプロトタイピングの活動かつどうはじめたうちはつてき動機どうきです。だから、ぼくうSFプロトタイピングは、「この企画きかくをやったのはおれだぜ」って会社かいしゃでドヤドヤやって競争きょうそう原理げんりなかでうまく出世しゅっせしていくみたいなガツガツしたものじゃなくて、会社かいしゃ所属しょぞくしながらも、ひとときでも競争きょうそうがどうのとか出世しゅっせがどうのという資本しほん主義しゅぎのつらさのようなものからのがれられる幻想げんそういだかせてくれるアジールのようながあるといいよね、という提案ていあんでもあるんですよ。

樋口ひぐち恭介きょうすけ『すべてめいもなき未来みらい』(晶文社しょうぶんしゃ

――ただ「資本しほん主義しゅぎへの貢献こうけんだけが人生じんせい成功せいこうとして許容きょようされる」というおもみはなかなか深刻しんこくで、かつ貢献こうけん過程かていまれた社会しゃかいとの軋轢あつれき――フィッシャーもわずらっていたメンタルヘルスは自己じこ責任せきにんぼく自身じしんもまだ会社かいしゃいんだった10ねんまえうつびょうになって、樋口ひぐちさんの『すべてめいもなき未来みらい』で『資本しほん主義しゅぎリアリズム』の論評ろんぴょうむまで、社会しゃかい自分じぶんあいだにあるモヤモヤした違和感いわかん正体しょうたいすらわかりませんでした。樋口ひぐちさんはこの社会しゃかい俯瞰ふかんしたとき絶望ぜつぼうかんさいなまれることはないのですか?

 ぼく希望きぼう絶望ぜつぼうってあんまりよくわからないんですよ。もちろんムカつくことはしょちゅうありますよ。いや気持きもちになったりもする。でもそういう感情かんじょうはエネルギーだと解釈かいしゃくしてます。不快ふかいになってもアドレナリンがたくさんたら、それはそれで依存いぞんせいがあるわけで、こころよとのちがいがよくわからなくなったりする。

 刺激しげきけて自分じぶん心境しんきょう変化へんかすると、プラスの方向ほうこうかマイナスの方向ほうこうかとかはあまりよくとらえられないまま、ただなにかをしたくなってきて、「お、いまエネルギーてんな」って解釈かいしゃくしてしまう(笑)。ぼくはけっこう、そういう衝動しょうどうもとづいて活動かつどうしたり、そういう気分きぶん作品さくひん投影とうえいしてうてるわけです。「うわー、絶望ぜつぼうだ!」みたいになってるときも、だから基本きほんてきには元気げんきなんじゃないかなとおもいます。

――もともとあかるい性格せいかくなんですか?

 どうなんだろう? 遺伝子いでんしてき問題もんだいかな? 家族かぞくみんなあかるいんですよ。ぼく実家じっかがクソ貧乏びんぼうで、ちいさいころ借金しゃっきんちょうあったみたいで、大学だいがくはいるまで牛肉ぎゅうにくとかったことないレベルだったんですよ。でもなんとかなるっしょってみんなおもってて、ぼくもそうおもってて、実際じっさいなんとかなった。そういうバックグラウンドはあるかもしれないですね。

最低さいてい最高さいこうに、パンクとは解釈かいしゃく革命かくめい

――樋口ひぐちさんは音楽おんがくきとしても有名ゆうめいですが、パンクからはどのような影響えいきょうけましたか?

 パンクからはちょう影響えいきょうけてます。ぼくまれたいえ貧乏びんぼうだったから、子供こどもころはろくな人生じんせいおくらないとおもってたんですよ。でも中学ちゅうがくねんとき、ニルヴァーナのベストアルバムと出会であったんです。テレビでCMがながれてきて、めっちゃかっこよくて、なにこれとなって、すぐアルバムってきてめちゃくちゃハマって。それからカート・コバーンについて調しらべていくうちにパンクのこともだんだんわかってきて。

 パンクってつまりは解釈かいしゃく革命かくめいなんですよ。最低さいていなものを最高さいこうだと反転はんてんてき解釈かいしゃくする。その解釈かいしゃくうことで、社会しゃかい既成きせい価値かちかん混乱こんらんさせる。パンクではかねがないほうがかっこいいし、ボロボロのふくてるほうがイケてるんです。ぼくはもともと変人へんじんあつかいされることがおおかったんですけど、パンクをってからは「変人へんじんですけどなにか?」みたいな気持きもちになれるようになった。だからパンクにはとても感謝かんしゃしています。

――そのはなしまえると、樋口ひぐちさんの著作ちょさく構造こうぞう素子そし』『すべてめいもなき未来みらい』『未来みらい予測よそくするものではなく創造そうぞうするのものである』、編集へんしゅうされた『異常いじょう論文ろんぶん』には、一貫いっかんして既存きそん価値かちかんさい解釈かいしゃくしてあらが精神せいしんかんじます。東京とうきょうオリンピックの開会かいかいしきにまつわる諸々もろもろ象徴しょうちょうてきですが、最近さいきん日本にっぽんがあまりにも保守ほしゅてきで、つくしゅも「こうやっときゃきゃくよろこぶっしょ」みたいなきにく、無難ぶなん思考しこう蔓延まんえんしているがしてて。

 無難ぶなんかんがかたなかなにかを評価ひょうかする観点かんてんがめちゃくちゃ構造こうぞうされてて、そこからせなくなってるかんじはしますね。ただぼく自身じしんは「このほんくんだ!」というつよ意志いしいたものはあんまなくて。「こういうのあったら面白おもしろいよね。ウケるよね」ってノリから作品さくひん結果けっかてきまれてるかんじはしてます。「こういうのけばれるかも」とおもってエンタメっぽい小説しょうせつはじめることもあるんですけど、大体だいたいすぐにきちゃうんですよ(笑)。ぼく自身じしん面白おもしろいとおも要素ようそれたくなる。

 それはなかてきにはへんなものかもしれないけど、ぼくはそういうものがき。その結果けっかなかてきには無視むしされるかもしれないけど、そもそも制作せいさくってたのしいとおもってないとつづけられないので、それはそれで仕方しかたない。

樋口ひぐち恭介きょうすけ異常いじょう論文ろんぶん』(早川書房はやかわしょぼう

――それってまさにパンクの真髄しんずいであるDIYスピリットですね。きなものがないなら自分じぶんつくるっていう。

 そういう意味いみなら、ぼく現代げんだいのアンダーグラウンドなインディーの音楽おんがくシーンにもかなり影響えいきょうけてますね。自分じぶんたちの活動かつどう言語げんごするための概念がいねん創造そうぞうしちゃうというか。あたらしい概念がいねんつくって、うていくことがたりまえにあるんですが、そういうところにパンクてきなDIYスピリットをかんじます。

 たとえば、ノイズミュージックのなかにはハーシュノイズってサブジャンルというか概念がいねんがあって、そのなかでも「おれらはノイズの本質ほんしつめてやってる!」ってそう勝手かって自分じぶんたちの音楽おんがくをハーシュノイズ・ウォールってしたりしてる。さらにポスト・ハーシュノイズってばれるジャンルがまれたり。サブジャンルのサブジャンル。

 そういうものは名乗なのっただけまれるので、たくさんまれるし、流行はやらずにすぐにえるものもおおいんだけど、まれてすぐえるのがめっちゃ面白おもしろいとおもう。まれてえて、またまれる、という運動うんどう活発かっぱつなシーンを形成けいせいするとおもいます。ぼく創造そうぞうしたSFプロトタイピングの概念がいねんも、最近さいきんた『異常いじょう論文ろんぶん』みたいな概念がいねんも、その感覚かんかくからまれたものなんです。

――近年きんねんなにかと結果けっかばかりがもとめられて、ぼくらもそこに思考しこうからめとられがちだけど、そうじゃない価値かちかんもあるとおもうんですよ。樋口ひぐちさんはさきほど「資本しほん主義しゅぎからのがれた幻想げんそういだかせてくれるアジールとしてのビジネス」とおっしゃっていましたが、結果けっかとか関係かんけいなくうちはつせいからまれるものこそ、こんなか必要ひつようだとおもうんです。

 そうですね。『異常いじょう論文ろんぶん』もよく「内輪うちわがってるだけだろ」って批判ひはんされるんですよ。それは本当ほんとうにそのとおり。でも、内輪うちわっていうのはわるいところばかりでもないとおもってて、むしろぼく内輪うちわにこそ希望きぼうてるんです。

 イアン・マッケイの有名ゆうめい言葉ことばに、「本当ほんとうにラディカルで素晴すばらしい音楽おんがくは、つね少数しょうすう人々ひとびとだけが目撃もくげきできる」「あたらしいアイディア、あたらしいアプローチというものは2000にんまえではこらない。そういうのは20にん~25にん目撃もくげきするものなんだ」っていうのがあるんですが、ぼくはその言葉ことばつよ共感きょうかんします。とがったカルチャーって基本きほんてきには内輪うちわなかでのもんもんとしたなぞのパワーによってまれてくる。それで、だれにもめられなくなったところでメジャーなところにてきて、バーン!ってきゅうまれたようにえるんですよ。

 こんなことってるとまたおこられるかもしれませんけど、ぶっちゃけカルチャーって内輪うちわがってナンボなんですよ。それはよくわからないなぞのものだし、そとからたらキモいものかもしれないけど、うちはつせいなにかをはじめるとか、あたらしいシーンをつくるってそういうことだから。アンダーグラウンドの音楽おんがくのシーンにではきゃくが1にんとか2にんとかしかいないライブなんてザラにある。演者えんじゃしかいないライブだってある。それは一見いっけんダサいようにえるかもしれないけど、同時どうじにたぶんそれが大事だいじなんですよ。なんのとくにもならないし、だれにもウケてないかもしれない。それでもやりたいからやる。その熱量ねつりょうなかでこそまったくあたらしいものがまれ、えていくものもあればのこるものもあり、あたらしい歴史れきしがつくられていくのだとおもいます。

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