第60回:赤裸々な言葉を遺して逝った小説家役のため、とことん自分と向き合う松雪泰子の激情!
ネリー・アルカンをご存じだろうか? 彼女は1973年にカナダのモントリオールで生まれ、高級エスコートガール(つまり娼婦)をしながら自分の内なる苦悩と葛藤を鮮烈な文章で小説へと昇華させ、36歳で自らの命を絶ってしまった。そんな彼女が生みだした言葉、そこから浮かび上がる生と死を、小説・映画・舞台という3つのメディアで感じられるのが、PARCOが企画した「Discover Nelly Arcan ネリーを探して」というプロジェクトだ。
まずは9月に小説「ピュタン~偽りのセックスにまみれながら真の愛を求め続けた彼女の告白」が出版となった。これは2006年に「キスだけはやめて」という邦題で出版されたネリーの自伝的なデビュー作を改題・改訳したもの。10月にはアンヌ・エモン脚本・監督によるカナダ映画「ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で」が公開。そして11月に、カナダの女優/演出家のマリー・ブラッサールがアルカンの作品をコラージュ・再構築した舞台「この熱き私の激情~それは誰も触れることができないほど激しく燃える。あるいは、失われた七つの歌」が、日本人キャストで幕を開ける。
アルカンの紡ぎ出した言葉の数々は、とにかく強烈。あまりの赤裸々さに、どう受け止めればいいのか戸惑うほどだ。「この熱き私の激情」でアルカンを表現する7人のうちの1人、松雪泰子も初めて「ピュタン」(売女という意味)を読んだときは、「あまりの強烈さに読み進める手が何度も止まってしまった」と語る。
「彼女のもつ言葉がすごく深くて、美しさを持ちつつも強烈。心に突き刺さってくるものだったんです。彼女が体験したこと、生い立ちからすべてが思考のおもむくまま赤裸々に語られていて、衝撃を受けました。これほど赤裸々な文章は読んだことがなくて、立ち上がれなくなるほどでした。私はまずマリー(・ブラッサール)さんの詩的な戯曲を読んだんですが、理解するのに苦労しました。でも小説でネリー・アルカンという人物を知っていけばいくほど、その言葉の持つ豊かさとか痛み、怒り、強さ、悲しみであったり理想であったり、女として生きていかなければいけないことへの失望と怒り、それに苦悩。そういうものが理解できるようになってきました。女性なら共鳴する部分がきっとあると思いますし、これはぜひ、小説を読んで映画を見てから舞台を見に来ていただきたいな。そうすることでより理解が深まって、より楽しめると思います」
映画「ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で」は、アルカンが描いた小説世界と彼女自身の実人生を交錯させることで、アルカンの半生を描写している。
「ネリーが作り出した小説の人物たちが、実在しているかのようにネリーの中で分裂した人格として出現していて、この描き方はこれでまたすごく面白いなと思いました。人間の多面性をのぞき見ている感じがして。私も時々、まったく違う時間軸を生きている自分の人生について、いろいろ妄想したり書いてみることもあるんですが……。ネリーの複雑な人生を、映画は美しく描けていたと思います」
舞台「この熱き私の激情」は、6人の女優と1人のダンサーがそれぞれアルカンの持つ違った側面を担い、各々の象徴的な部屋の中から1人の人間を表現する。幻想の部屋(幻想と肉体)、天空の部屋(宇宙、星、自然)、血の部屋(家族、亡き姉と血縁)、神秘の部屋(運命とジャンルの混乱)、影の部屋(死への憧憬)、ヘビの部屋(宗教と狂気)、失われた部屋(放浪、孤独、苦しみ)というパートに別れ、それぞれのテーマからアルカンを浮き彫りにするのだ。この中で松雪が演じるのは、影の部屋に住むアルカン。"死"に囚われた女である。松雪自身にとっては、"死"とはどんな存在?
「私は子どものころから、『私はこの人生ですべてを体験し尽くして死ぬ』って宣言していたので。それが口癖だったような子どもで、『だから私の人生は波瀾万丈なの』と言いながらブランコ漕いでたんですって(笑)。なので、私が肉体を離れるときは、『終了っ!』って言って(笑)、経験し尽くしたって満足して逝くときだろうと。だから、私の中では“死”は祝福だと思って生きています。途中で生きるのをやめることを選択した彼女には『もったいないなぁ、違う存在の示し方があったんじゃないか……』とも思います。でも、何か掛け違えて掛け違えて、もう修正できないところまで来てしまったのだろうと想像はできますが」