北米と肩を並べるほどの産業規模となった中国映画市場。注目作が公開されるたび、驚天動地の興行収入をたたき出していますが、皆さんはその実態をしっかりと把握しているでしょうか? 中国最大のSNS「微博(ウェイボー)」のフォロワー数280万人を有する映画ジャーナリスト・徐昊辰(じょ・こうしん)さんに、同市場の“リアル”、そしてアジア映画関連の話題を語ってもらいます!
初期タイトルは「8 1/2」だった!? 「七人樂隊」ジョニー・トーが明かすフェリーニへのオマージュ
特殊な地理的条件、複雑な歴史的背景を持つ香港は、非常に魅力的な町です。これまで多くのクリエイターたちが、香港ならではの文化をき上げてきました。もちろん映画に関しても、香港文化の重要な要素のひとつです。
1980~90年代、アン・ホイやツイ・ハーク、ジョニー・トーらが、多くの傑作を世に放ちました。当時の香港映画、そして映画の中に映し出されている香港の姿は、いまだに多くの人々に愛されています。
アニタ・ムイという伝説のスターを描いた「アニタ」が、今年の大阪アジアン映画祭で上映され、大盛況だったことを今なお鮮明に覚えています。最近では、ウォン・カーウァイの代表作を4Kレストア版で上映する特集「WKW 4K」が連日満席だったことに驚き、それと同時に、この反響を嬉しく思っていました。
ゼロ年代後半、中国映画市場の急成長により、多くの香港映画人が中国大陸市場に進出。その結果“純香港映画”の本数は、どんどん減っていきました。「香港映画は大丈夫なのだろうか?」。そんな声もよく聞くようになっていました。
そんな状況の中、ジョニー・トー監督をはじめ、香港の巨匠たちが動き出しました。香港、そして香港映画への“最高のラブレター”となる「七人樂隊」を発表したのです。
同作は、ジョニー・トーのプロデュースのもと、香港で活躍する7人の監督が、1950年代から未来まで、さまざまな年代の香港をつづった7作で構成されたオムニバス映画。サモ・ハン、アン・ホイ、パトリック・タム、ユエン・ウーピン、ジョニー・トー、リンゴ・ラム、ツイ・ハークがメガホンをとっています。
今回は、本作のプロデューサー兼監督として名を連ねるジョニー・トー監督にインタビューを行いました。製作背景だけでなく、タイトルの秘話についても明かしてくれました。
――この作品が生まれたこと自体、もはや“奇跡”なのではないかと思っています。企画の経緯について、教えて頂けますか?
私自身がこの映画を製作する理由について、お話しましょう。これまでずっとフィルムを用いて映画を製作してきました。ある日突然、フィルムを使わなくなり、デジタルで映画を撮ることになりました。なんと言えばいいのでしょうか……ひとつの映画の時代が終わり、新しい時代に入ったと錯覚したんです。
私は“撮影をすること”が大好きで、小さい頃からよくカメラを手にしていました。ある意味、カメラ&映像とともに、大人になったと言えるでしょう。ご存じだとは思いますが、私の映画はほとんどフィルムで撮られています。そして、私と一緒に香港映画界を盛り立てた同士たちも、香港映画をフィルムで世界へと発信しました。だからこそ“フィルムの時代”が終わるということが、非常に残念でならないと思ったんです。
そんな思いから、この映画の構想が始まりました。フィルムで映画を作る。そして、映画そのもの、あるいは香港を描く。つまり、我々香港映画人のフィルムに対するオマージュみたいなものが、この作品を通して表現することができたらいいなと思ったんです。そういう事情で製作がスタートしました。
――監督が仰る通り、本作はフィルムへのオマージュを捧げつつ、香港を描く作品となっていますね。では、なぜ各作品の時代背景を10年ごとに区切るオムニバス形式となったのでしょうか?
実は、当初のタイトルは「七人樂隊」ではなかったのです。もともとは8人の監督が手掛ける予定で、タイトルは「8 1/2」。フェデリコ・フェリーニ監督の“あの名作”と同じタイトルですね。彼の作品、そしてフェリーニ監督へのオマージュも込めて、そのタイトルで撮ろうとしていました。
香港では、実験映画として皆が思いつくのは、フェリーニ監督なんですよ。彼は香港映画に大きな影響を与えています。私は「香港映画は、フェリーニ監督によって啓蒙された」といっても過言ではないと思っています。
初期の構想としてあったのは、戦後の香港以降を理解するために、各年代の香港をどのように再現するのか…といったことです。私たちも、あまりにも古い香港というものは見たこともないですし、人づてに聞くだけですからね。しかし、戦後の香港であれば、10年ごとに分けて撮ることによって、我々の香港に対する認識や思い、感じたことを、作品の中で表現することができると思いました。
タイトルを「8 1/2」にすることで、さまざまな構成が可能になります。1950年代から始まり、60年代、70年代、80年代、2000年代、2010年代まで描くことができますし、50年ごとに描くこともできるでしょう。では、なぜ8人が7人になったのか。そこには、ひとつの原因があります。
当初、ジョン・ウー監督が、このプロジェクトに参加する予定でした。ちょうど撮影を始めようとした時、ジョン・ウー監督が体調不良になってしまったんです。本人は「やるよ」と言っていましたが、そこはやはり体調が最優先。残りの7人で製作したことで「七人樂隊」となりました。
個人的には「8 1/2」というタイトルが大好きです。フェリーニ監督に対するオマージュだけではなくて、それぞれのテーマで撮った場合、非常に良い形になると思ったのです。「1/2」の部分には、また違うものを込めることができますしね。
実は、本作の構想と同時期に、8人の若い監督に依頼し、フィルムではなく、デジタル方式で、同じテーマ、同じ10年ごとに撮ろうと考えていました。もしこれが実現していたら、すごいことになったと思います。フィルムがなくなったとはいえ、デジタルの技術が現れたことで、映画は永遠に続くものになったんです。
――ジョン・ウー監督の代わりに、他の監督に依頼することは考えていましたか?
それは考えていませんでした。というのも、ジョン・ウー監督の代わりとなる人などいないからです。彼は、非常に素晴らしい監督ですし、ある意味香港映画界の英雄ですから。ジョン・ウー監督自身も「撮りたい!撮りたい!」と言っていましたし、他の方に依頼をするという穴埋めのようなやり方は、失礼だと感じていました。だからこそ、ジョン・ウー監督がもう一回チャンレジしたいと思うタイミングが来たら、ぜひ撮ってほしいです。
――今回は、監督としてだけではなく、プロデューサーも兼任されています。具体的には、どのような仕事をしたのでしょうか?
プロデューサーとして重要なことは、まず投資する方を見つけることです。つまり社長、ボスを見つけることですよね。製作の理念、構想、テーマ、どんな性質を持った映画なのか。投資してくれる方に明確に伝え、OKが出ない限り、映画は撮れないわけです。だからこそ、この場を借りて、メディア・アジア・エンターテインメントのピーター・ラム社長に対して、心から感謝を申し上げたいと思います。この映画を理解してもらい、撮らせていただきました。
また、オムニバス映画という形式なので、多くの監督が参加しています。普段は、それぞれで活動しているわけですから、オムニバス映画を撮るとなると、チームが必要となります。例えば、人手が足りない場合、私の製作会社がサポートし、応援していました。適切な脚本家が見つからない場合にも、私が斡旋していましたね。ポストプロダクションや編集に関しては、ミルキーウェイという会社が全面的にサービスを提供してくれました。
オムニバス映画ですから、それぞれの物語をどうつないで、1本の映画にするかという作業もありますよね。ここは特に苦労することはなかったですし、楽しみにしていた部分なので、私自身も参加していました。
――では、監督として参加した作品「ぼろ儲け」について、お聞かせいただけますか? 登場人物は3人。延々とお金の話をしていて、非常に香港らしいなと感じました。また「SARS」の差別に関する要素もありますよね。撮影はコロナ以前だと思いますが、マクロの視点で見ると、“今”にも共通する部分があります。
私はラッキーだったのかもしれません。年代の担当に関しては、抽選で決めていて、私は「2000年代」を引きました。今の時代に近いですし、資料収集などは非常に楽だなと感じました。しかし、それだけでは要素が足りないので、ここ10年間の香港を代表する出来事について考えました。
香港にとっては、良いことでもあり、悪いことでもありますが、経済を支えているのは、主に金融と不動産市場だと思います。非常に不健全な発展でもありますから、さまざまなエピソードがありました。
そこで考えたのは、大きなカジノのようにたくさんの人が集まっていること。そこにいる人々は、皆貪欲、あるいは恐怖心を持っていて、あまり損したくはないと感じている。そこで、何か一つの話題があがれば、すぐに流行ってしまうわけです。例えば「この株が今上がってます」と知らされれば、皆がすぐに買ってしまう。そうすると、株価の上がりと下がりが非常に激しくなりますよね。
こういう状況に直面した時に「自分自身をコントロールできるのか?」「自分の欲望は、どこまで深いのか?」「そういったことを考える時間があるのかどうか?」など、色々な問題が出てきます。おそらくそこにいた人々は、欲望の底に落ち「もっと買おう」「もっと儲けよう」とひた走るのでしょう。このような現象は、香港以外の場所ではあまり見かけたことがないんです。つまり、人間の欲望と恐怖心が、赤裸々に表現されている。香港という場所が、明快に現れていると思い、このような物語を作りました。
2000年代となると、香港でのSARSの問題は、当然描かなければならないと思います。ですが、この10年間の香港では、かつてないほどに色々な出来事が起きました。そう考えると、実は今回私が撮った表現は、ある意味、私にとっては一番不得意なものだったのかもしれません。この作品はセリフが多く、ずっと喋っています。今までの作品では、このような表現をあまりとったことがないのです。今回の作品は、私にとって大きな“良い試練”となりました。
「七人樂隊」は、中国大陸では「愛しの母国」と比較されることが多いんです。同作は、チェン・カイコーが総監督を務め、1949年の中華人民共和国建国から70年を記念して製作されたオムニバス映画。確かに「七人樂隊」で描かれた“香港愛”は、「愛しの母国」における“中国愛”と近いものがあるのかもしれません。
余談をひとつ。実は、香港映画で使われる広東語は、中国の方言のひとつです。映画言語の表記では、広東語と中国語は分けて書かれています。以前の中国大陸では、香港映画を上映する際、基本的に広東語を中国語に吹き替えて上映を行うパターンが大半でした。
しかし、最近では、広東語のセリフを聞きたいという意見が、どんどん増えています。ビー・ガン監督(「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」)、グー・シャオガン監督(「春江水暖 しゅんこうすいだん」)といった中国の新鋭監督たちは、映画の中での方言の使用を徹底にしており「“音”としての方言は、作品に欠かせない存在」と方言の魅力を語っています。
中国大陸との共同製作が増えた香港映画界。“純香港映画”の製作は少なくなっているからこそ、「七人樂隊」のような“純香港映画”には、ローカルな魅力がより感じられるようになっています。“純香港映画”は、今年、香港市場では好調です。香港映画界が、新たな時代に入る。その時期が間もなくやってくると確信しています!