もののけ姫
劇場公開日:1997年7月12日
解説
「天空の城のラピュタ」「魔女の宅急便」などを手がけてきたスタジオジブリの宮崎駿監督が原作・脚本も務め、室町時代の日本を舞台に、荒ぶる神々と人間との争いを描いた大作アニメーション。
室町時代。北の果てのエミシ一族の村に暮らす青年アシタカは、村を襲ったタタリ神を退治した際に死の呪いを受けてしまう。呪いを絶つ方法を求め、西に向かって旅に出たアシタカは、やがて「タタラ場」と呼ばれる精錬所を目指すことになる。そしてその道中、森の中で犬神に育てられた少女サンと出会うが、人間を嫌うサンに森から去るよう警告される。やがてタタラ場へたどり着いたアシタカは、人間たちが生きていくために森を切り開いたことでサンと犬神の怒りを買っていることを知るが……。
声優は、主人公アシタカ役に「風の谷のナウシカ」でアスベルを演じた松田洋治、「もののけ姫」と呼ばれるサン役に「平成狸合戦ぽんぽこ」にも出演した石田ゆり子。そのほか、田中裕子、美輪明宏、森繁久彌、森光子、小林薫、西村雅彦らベテラン、実力派俳優が多数出演。カウンターテナーの米良美一が歌う主題歌も広く知られる。当時の日本映画歴代興行収入記録を塗り替える興収193億円という大ヒットを記録して社会現象となり、アニメーション作品として初の日本アカデミー賞最優秀作品賞の受賞をはじめ、様々な国内の映画賞を受賞した。
1997年製作/133分/日本
配給:東宝
劇場公開日:1997年7月12日
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受賞歴
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2024年4月21日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
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人生で初めて映画館で観た映画。親から聞かされた話によれば、怖くて、わからなくて、とにかく泣いていたらしい。でもきっとその原体験が僕を映画の世界へと導いてくれた気がする。だからとてもとても特別な作品だ。繰り返し鑑賞するなかである一つの解釈が生まれたので、そのことを書きたいと思う。それは、一般的な解釈であろう「人間と自然」という二項対立ではなくて、人間にも自然にも共通する「生と死」あるいは「自己と他者」という関係性の物語ではないかという問いかけである。
多くの人がきっと感じているであろう基本的な作品構造としては、「卑しい人間たち」に鉄槌をくだす「崇高な自然」という対比ののち、でもやっぱり「生きていく」ということに執着する人間の本性は覆せず、そのためにある「人間の悪」を「自然の豊かさ」が許す、という見解ではないか。
しかしきっとその見方は、ある側面では正解なのだが、実はもう少し別のことを描こうとしているのではないかと僕は思った。というのも、この「生への固執」ということは、なにも人間に限ることではなく自然においてもまた描かれているからだ。それは、人間へと復讐をとげようとする「イノシシ」や「豺」などの自然側の考え方も、実は「他者の排除」であり、「他者への不理解」がベースになっているということだった。しかし、それは責められたことではなく、生きていくために“仕方のない”考え方でもあり、また、それが“生きるということ”だと主張されているような気がしたのだ。
しかしこの「他者の排除」は、往々にして「自己の崩壊」をも招きかねない。他者の手打ちを知らない自然は、人間に焼かれ、イノシシたちは全滅する。「猪突猛進」という自己への陶酔と、人間=悪という絶対的な決め打ちのもと、悲劇的な結末を迎えてしまうのだ。そして、エボシに代表されるタタラ場もしかり。自然への不理解への結果、自分たちの破滅を招いてしまう。この表裏一体の関係が、すなわち「生への固執」は「死への道」を招きうるというその二面性こそが、シシ神が「生を与え、死をもたらす」という二面性を備えた暗示的な意味合いではなかろうか。シシ神だけが、その両面をも理解して、だからこそ自然だけに偏重するのではなく、時として人間を生き返らせることもすれば、動物を殺すことさえしてしまう。それは、全くもって「生への固執」がないからであり、ただの「理」として、絶対的に存在する「生命の法則」を奏でているに違いない。
そして、その奏で手として、今作では人間側にアシタカが描かれる。彼もまた「自然と人間の共存」という言葉をもって、「生きながらにして死ぬ」「死を意識して生きる」ことを選び取る。「祟り」という存在は、人間における、あるいは自然における「生への固執」としての表出である。「祟り」が、人間だけでなく、自然をもまた蝕むことは、上述の「人間」と「自然」の「生への固執」における平等を示しているのではないか。しかしアシタカは、「祟り」に蝕まれる自らの運命(あるいは死)を受け入れ、「くもりなき眼」で見定めようとする。その姿のみが、エボシ様に代表される人間も、ヤックルに代表される自然も、双方が惹かれていく「生きる」姿なのではないか。
しかし、最後に興味深いのは、その「生」と「死」を司るシシ神ですら、自己の死に直面し、「生に固執」してしまう。その結果として、彼が支配した理の全てを放棄して、自然も人間をも食い殺す。作品の表象的な理解としては、あの結末は人間という欲深い生き物の招いた悲劇には違いないが、一方で「生きるモノ」の宿命としての「死」を予感させる筋書きではないのだろうか。すなわち、シシ神もまた死ぬのであって、その眼前では、やはり怖いのだ。生きていたいのだ。
だからこそ、宮崎駿は「生きろ」という。この世に「生への固執」を抱かないモノなどいないのだと。それによって他者を排除し、自己を崩壊に導かぬモノなどいないのだと。それこそが、この作品のメッセージではないだろうか。だからこそ、宮崎駿は「赦し」の意味で、「生きろ」という。それは「生きていてもいいんだよ」という言葉に違いない。子供たちに、その抱えている闇を、それはアシタカですら抱えるものであり(「祟り」として)、また自然も、そしてシシ神さえも囚われてしまうものだと言っているように思ったのだ。
そして、このことは、実は「エヴァンゲリオン」と対になっているのだと思う。「人類補完計画」とは、個人としての「生への固執」を捨てることを要求していた。それはすなわち、「他者の排除」の存在し得ない世界であって、人間も自然もない、言ってしまえば、全てが「死んでいる」世界なのではないか。その格闘をエヴァではシンジ君が担う。私たち、生きとしいけるモノ全ての葛藤が、ある時にはアシタカとして、またある時はシンジ君として表出しているように思えてならなかった。
「生きる」ということは、「他者とかかわる」ことである。私たちは、人間も、そして実は自然までも、そこに恐怖を感じ、排除したいと思い、自らの存在=生に固執してしまう。その上で、「生きろ。」と宮崎は言った。この映画は、そういう物語なのではないか。
2024年5月15日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
人間と自然との共存をテーマにしており、環境保護や戦争、愛と憎しみなど、多くの深いテーマを扱っています。SDGsが主題となった現代に、正に刺さる作品。
世代ど真ん中ではないですが、現代の若者たちが観るべき映画かもしれません。
久石譲氏が手がけた壮大で感動的な音楽が、映画の雰囲気を一層引き立てています。特に、メインテーマや戦闘シーンの音楽は心震えます。
本作品は、美しいアニメーション、深いテーマ、複雑なキャラクターによって、多くの人々に愛され続ける作品です。人間と自然の関係を考えさせられる感動的な物語であり、観るたびに新たな発見があること間違いなし!
2024年4月16日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:TV地上波
宮崎駿先生、天才。
すごい世界観だなぁ~。
2024年4月11日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
事実として、興行成績において、邦画のトップになった。
どれだけの日本映画が束になって掛かっても、『もののけ姫』にはかなわなかった。それほど素晴らしい出来のアニメーションで、ジブリは年を追うごとにクオリティをアップさせ、とうとうこの領域にまで到達したのだ。
『機動戦士ガンダム』の安彦良和氏が『ナウシカ』を見た時に素直に敗北を認め、アニメ界からの撤退を決意したというエピソードの、さらにその先に、この映画がある。安彦氏はどうやら『もののけ』には納得していない様子だが、歴史漫画を描き続けてきたマンガ家として言いたいことがあるのだろう。
神と穢れについて、これほど壮大にファンタジックに、そして物語として美しくまとまった映画は、今まで見たことがない。
そして驚くことに、これ以降も、勝るとも劣らない作品群を生み出し続けていることだ。宮崎アニメに邦画がひれ伏した日だった。