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《『食客論』紹介エッセイ》批評における「わたし」とはだれなのか(星野 太) | 群像 | 講談社(1/2)

《『食客しょっきゃくろん紹介しょうかいエッセイ》批評ひひょうにおける「わたし」とはだれなのか

ほん名刺めいし

ロラン・バルトやフーリエ、石原いしはら吉郎よしろうらのテクストにひそむ「食客しょっきゃく」という形象けいしょうつうじて、「わたしたち」のせいのありかた評論ひょうろんしゅう食客しょっきゃくろん』(星野ほしのふとしちょ)。

はじめての連載れんさい評論ひょうろんしゅうである本書ほんしょいた経験けいけんかえりながら「文芸ぶんげい批評ひひょう」というジャンルについていていただきました。

(「群像ぐんぞう」2023ねん6がつごうほん名刺めいし」より転載てんさい

星野太著『食客論』星野ほしのふとしちょ食客しょっきゃくろん

文芸ぶんげい批評ひひょうというジャンル 

 これはどういうジャンルのほんなんですか。

 つい先日せんじつ上梓じょうししたばかりの『食客しょっきゃくろん』について、時々ときどきそのようないをげられることがある。それにたいしてわたしは大体だいたい文芸ぶんげい批評ひひょうです、とこたえることにしている。「文芸ぶんげい連載れんさいされた「批評ひひょう」なので、文芸ぶんげい批評ひひょう─なかばトートロジーのようなこの回答かいとうが、しかし本書ほんしょについては不思議ふしぎとしっくりくるようにおもわれるのだ。

 これまでさんざん指摘してきされてきたことだが、日本にっぽんにおける文芸ぶんげい批評ひひょうというジャンルはきわめて特殊とくしゅである。たとえば小林こばやし秀雄ひでお吉本よしもと隆明たかあき谷行たにいきじんいたものをかんがえてみればあきらかであるように、それはかならずしも、どう時代じだい文学ぶんがく作品さくひんをめぐるひょう論文ろんぶんのことを意味いみしない。かといってそれは、具体ぐたいてき作品さくひんへの言及げんきゅういた、たんなる抽象ちゅうしょうてき思弁しべんでもない。基本きほんてきにはそのどちらでもないが、とき場合ばあいによってはそのいずれでもありうるところに、日本にっぽんにおける文芸ぶんげい批評ひひょうふところひろさがある。すくなくともわかかりしころ自分じぶんに、日本にっぽん文芸ぶんげい批評ひひょうはそのようにえていた。

 本誌ほんしで『食客しょっきゃくろん』のもとになった連載れんさいはじめたときも、当然とうぜんそのことがあたまにあった。古今ここん具体ぐたいてき作品さくひん観念かんねんてき思索しさくが、ジャーナリズムとアカデミズムが、歴史れきし叙述じょじゅつ思考しこう実験じっけんがシームレスにつながる、そんな自由じゆう空間くうかんおもうままにえがしてみたい。そのようにおもった。

 本書ほんしょでは、「われわれ」と「わたしたち」という一人称いちにんしょう複数ふくすうがた人称にんしょう代名詞だいめいしくわえ、「わたし」という単数たんすうがた代名詞だいめいしもちいた。ぜんしゃ使つかけは厳密げんみつである。本書ほんしょで「われわれ」とくとき、そこに含意がんいされているのは─たとえば学術がくじゅつ論文ろんぶんにあるような─匿名とくめいてきな「人間にんげん一般いっぱん」である。他方たほう本書ほんしょで「わたしたち」とくとき、そこにはより具体ぐたいてきな「わたしたち」、つまり生身なまみ肉体にくたいをもった人間にんげんたちが想定そうていされている。英語えいごうところの「one」と「we」の差異さいをこのふたつの単語たんごしのばせた、とえばよりわかりやすいだろうか。

 問題もんだいは「わたし」である。この「わたし」とは、いったいだれのことなのか。常識じょうしきてきかんがえるなら、それはこの文章ぶんしょういているわたしのことである。とはいえ、問題もんだいはそれほど単純たんじゅんではない。本書ほんしょにおいてときおりかおをのぞかせる「わたし」というのは、いまこの文章ぶんしょういているわたしとはかならずしも同一どういつ人間にんげんではないからだ。

 本書ほんしょの「わたし」は、しばしば唐突とうとつに、ふだんはしんうちめている「きづらさ」のようなものを告白こくはくする。他人たにんきることが得意とくいでないだとか、他人たにん食事しょくじをすることが得意とくいでないだとか、そういう陰険いんけんなことをしばしばくちにする。だが、それは厳密げんみつうと、著者ちょしゃであるわたしの現在げんざい実感じっかんとはことなるものだ。ここにつらねた「わたし」の言葉ことばは、わかかったころきづらさがいまになってようやく表出ひょうしゅつされたもので、短絡たんらくてきにそれを著者ちょしゃ告白こくはくられるのもすっきりしない。いずれにせよ、文芸ぶんげい批評ひひょうにおける「わたし」の言葉ことばが、単純たんじゅん著者ちょしゃ言葉ことば代弁だいべんするものであるとは、わたしはおもわない。

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