目先の
利益には
繋がらなくても、
日本文化を
学び、
内面を
豊かにするために
古典を
読みたい…。そうは
思ってもなかなか
読めない
原因は、
古文に「スピード
感」が
足りないからだ、とQuizKnockの
河村拓哉さんは
指摘する。そんな
河村さんが
町田康の
話題作『
口訳 古事記』(
講談社)を
読んだら、
現代小説よりずっとスピーディでドライブ
感あふれる
物語が
展開していたという。
古びて
乾いた
日本最古の
神話が、
町田康の「
口訳」=
今の
話し
言葉で「サクサク
読めて
面白い
物語」としてビビッドに
蘇った。
古典の文章が読めない理由
古典という科目がある。不要論が出るくらいには社会で役に立つ実感が少ない。
これに対して、古文は利益を出すためのものではないという反論がある。日本文化を学ぶ、個人の内面を豊かにする、そういったものだ、という擁護である。私も大筋これに同意している。
すると今度は別の問題が生じる。ちゃんと量を読まないと意味が無いということだ。赤点を回避できる点数を取る、そんな勉強で文化を習得されたらたまらない。勉強を通じて内面に変革を期待するならば、どうしても一定の量は読みたい。
では現状、しっかりと量を読めているか。大学受験で古文と別れる、専門的に古典をやらないほとんどの人の到達点は、やっぱり大学受験の問題文に出てくる古文だと思うけど、これは文章としては短い。文法も単語も違うから、文章を読むのが大変だからだ。早く読めないのだ。現代文だったらもっと多く読める。
古文に足りないのは、とりあえずスピード感だ。
ドライブ感あふれる「口訳」
『口訳 古事記』の文章は疾走感に溢れている。並の現代文よりずっとドライブしている。リズム感に優れているのだ。著者の町田康はパンクロッカーとしても知られている。
下に引くのは、「海幸彦(うみさちびこ)と山幸彦(やまさちびこ)」として昔話扱いになっている、「天津日高日子穂々手見命(あまつひたかひこほほでみのみこと)」の部分の冒頭である。
その火照命(ほでりのみこと)は海の獲物を獲ることを事として、だから海幸彦と呼ばれ、火遠理命(ほおりのみこと)は山の獲物を狩ることを専らとして、だから山幸彦と呼ばれた。
じゃあ、それでいいじゃないか。
てなものであるが、或る日のこと、ふと、たまには海の物も獲ってみたい、と思った火遠理命は兄の火照命に、
「たまにはやー、替え事せえへん」
と言った。
(『口訳 古事記』p169)
お話の導入部分、キャラの紹介だから説明の文章がどうしても必要で、普通に書くともたつきやすいところだ。ところが、二柱の説明の直後に来る言葉は「じゃあ、それでいいじゃないか」。お話がいきなり終わってしまうようなすっぽ抜け感。この軽妙な感じを、しっかり読むべき説明の直後にひょいと足すのはバランス感覚のなせる業である。そしてそれを受けるのは、「てなものであるが」という言葉だ。「てなもの」という俗語の軽さと、「であるが」という固い言葉を繋いだ絶妙な言葉選びである。
リズムには色々ある。音としてのリズムはもちろん、内容の軽重のリズム、単語の硬軟のリズム。本書がリズム感に優れているというのは、これらを上手にまとめているということだ。このリズムが疾走感を作っていく。
本はけっこう厚いが、だから時間をかけずにどんどん読める。もちろん一文一文をじっくり読んでもいい。けれど、せっかく単行本の形でまとめて読めるので、初読のドライブ感を味わうために私は早く読んだ。2周目はもう少しゆっくり読みます。
古典の「ハードル」を下げる
早く読めることの利点はもう一つある。物語について行きやすいことだ。
古事記が読みづらいとされてきたことの一端に、神々の名前がごちゃついていることがあるだろう。あるだろうというか私はそう思っている。神様の名前、つまり固有名詞に対する感覚は、さすがに古事記の当時と我々で違う。つまり、神様の名前は覚えるのがしんどい。天津日高日子穂々手見命(あまつひたかひこほほでのみこと)、パッと覚えられた人はいないと思う。
そんな困り事も解決してくれるのが「口訳」のすごいところだ。口訳であって翻案ではないから、神様の名前は原文の通りである。けれども、疾走感のある文体や多く補われたセリフが、人間関係(神様関係?)の理解を助ける。肩肘張って単語を理解しよ、となるより、ざっと読んで面白いことの方が大事だと思い出す。
本書を読む前の私は、古事記関連の話では一つ一つの固有名に意識を向けてしまっていた。大層な本だから大事そうだし、日本神話だから神の名前を覚えた方がいい気がするし。
けれども考え直すと、大事なのは人の名前でなくて人間関係だ。物語を読むのに大事なのは登場人物の名前の暗記ではないはずである。しかし古事記というネームバリューのせいで、そう割り切ることは実は難しい。口訳という手の取りやすさは、不必要なハードルを下げ、私に根本的なことを思い出させてくれたのだ。
「古事記」本来のアナーキーさ
サクサク読めると、ようやくストーリー、古事記本来のアナーキーさが語れる。
下に引くのは先ほど出てきた山幸彦が海幸彦の釣り鉤を無くしたシーンの会話だ。
「なくしたんです」
「なにを? ふんどし?」
「違う」
「ほななに?」
「釣り鉤」
「え?」
「釣り鉤」
「マジ?」
「マジ」
「あ、そうなんや」
「あれ? 意外にあっさりしてるなあ。許してくれんのかなあ」
「そんな訳ないやん。ひとつ聞いていい?」
「半笑いで聞いてくんのが怖いなあ。いいよ、なに?」
「ムチャクチャ残虐に殺すのとムチャクチャ残酷に殺すのとどっちがいい?」「どっちも嫌や」
(『口訳 古事記』p172)
このバイオレンス。掛け合いの面白さを紹介したかったからセリフ部分を引用したけど、古事記の登場人物はちゃんと殺すときに殺す。そもそも古事記の内容はかなり物騒、血みどろなのだ。それが現代にまで受け継がれる中で、言葉が古びた結果乾いて見えていただけである。
物騒な、あるいは猥雑なものほど耳目を集める。スサノオノミコトが乱暴だという話を聞いたことのある人は多いと思う。しかし、注目されたものは断片的に伝わってしまう。話だけ聞いたことがあるという状態になってしまう。
そんな中で町田康の文章は、物語を物語としてちゃんと読ませる。乾いてひび割れた神話に口語という現代の血液を注ぎ入れる。だからこそアナーキーでバイオレンスたりうる。これは裏返して読みやすいということだ。乱暴さは箇条書きでなく、しっかりと感情のもとに現れる。
『口訳 古事記』は、文化の中の物語を、ビビッドな色彩の下に蘇らせたのだ。
『口訳 古事記』町田康(
講談社)
アナーキーな
神々と
英雄たちが
関西弁で
繰り
広げる〈
世界の
始まり〉の
物語。
最古の
日本神話が、
町田康の
画期的な「
口訳」で
生まれ
変わる!
「
爆笑しながらどんどん
読める!」と
話題沸騰、
続々重版中!
イザナキとイザナミによる「
国生み」、アマテラスの
天の
岩屋ひきこもりと、
追放された
乱暴者スサノオのヤマタノオロチ
退治、
因幡の
白うさぎとオオクニヌシ、
父に
疎まれた
英雄ヤマトタケルの
冒険と
死……。
奔放なる
愛と
野望、
裏切りと
謀略にみちた
日本最古のドラマが、
破天荒な
超絶文体で
現代に
降臨する。