『更級日記』の概要は?成立時期、作者、ジャンルなど
平安時代の中頃に書かれたもので、日本の女流日記文学の代表作のひとつです。作者は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)という女性。彼女の少女時代からはじまる約40年間の回想録となっています。
菅原孝標女は、「学問の神様」で有名な菅原道真の子孫です。伯母の藤原道綱母は、これまた平安時代の名著『蜻蛉日記』の作者でした。一族そろって優秀な家系なんですね。
そう聞くと、『更級日記』にも堅いイメージを持ってしまう方もいるかもしれません。しかし本作の内容は、菅原孝標女が自らの生涯を振り返っているもので、学問を目的に書かれたものではありません。
むしろ大好きな『源氏物語』に夢中になる姿や、世間知らずな姿までもが赤裸々に書かれているので、彼女の飾り気の無い人柄に親近感を覚える方も多いのではないでしょうか。
この記事では、『更級日記』の冒頭、内容のあらすじ、菅原孝標女のオタク女子っぷりなどを紹介していきます。
『更級日記』の冒頭は?原文と現代語訳
『更級日記』は、東国・上総国(現在の千葉県)の国府だった菅原孝標が任期を終え、家族で京(現在の京都府)に帰ってくるところから始まります。
【原文】
「あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出たる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなるひるま、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、『京にとく上げたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ』と、身を捨てて額をつき祈り申すほどに、 十三になる年、上らむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所にうつる。
年ごろ遊び馴れつる所を、あらはにこほちちらして、立ち騒ぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。」(『更級日記』から引用)
【意訳】
東の果ての常陸国(現在の茨城県)よりさらに奥まった上総国で生まれ育った私は、田舎臭い娘だった。そんな私は、ふと、世の中に物語というものがあるのを知って、それを読みたいと思っていた。暇な時に姉や義母が、光源氏の物語を断片的に語ってくれた。私はその物語を最初から最後まで聞きたいのだけど、姉も義母もしっかりとは覚えていない。
それがもどかしくて、私は等身大の薬師如来像を作らせると、『早く京に上らせてください。京で物語を読ませてください』と毎日必死に祈った。私が13歳になったとき、父の上総国での任期が終わって、京に上ることになった。
引っ越しのために、長年親しんだ家を解体し、人々は忙しく働いていた。日が沈む頃、深く立ち込めている霧の中、車に乗ろうとして家を振り返ってみると、薬師如来像が立っておられた。薬師如来像を捨てなければならない悲しさで人知れず泣いた。
これが『更級日記』の冒頭です。13歳の少女は、念願の京に行けることになっても、嬉しさより薬師如来像との別れを悲しみ、涙しました。菅原孝標女の心優しい人柄が表れていますね。
ちなみにこの意訳は、内容のわかりやすさや文字数の少なさを重視したもので、古文のテストなどで100点が取れる回答とは限らないので、特に学生の方は注意してください。
『更級日記』のあらすじ
『更級日記』のおおまかな内容としては、以下の流れになります。
- 菅原孝標女13歳、京へ上る。
- 乳母が流行り病で亡くなり悲しみに暮れる。
- しばらく物語への好奇心を失うが、14歳のときに親戚から『源氏物語』全巻をもらう。
- 元気を取り戻し、物語の世界にのめり込む。
- あまりに物語に夢中になり、仏教への信仰が疎かになる。
- 20代まで現実より物語の世界を優先するハマりっぷりだった。
- 30代になると宮仕えへの就職、親に勧められた男性との結婚、出産など現実が忙しくなる。
- 40歳手前には、物語からすっかり目が覚めて現実世界での幸せを願うようになる。
- 51歳のとき夫が亡くなってしまう。子供はすでに自立しており、菅原孝標女は孤独となる。
- 物語にのめり込んでいた若い頃を後悔する。振り返ってみれば何もない日々だった。
- もっと仏教を勉強していればよかった……せめてこれからはまじめに仏教と向き合おうと決意する。
物語に熱中した青春時代を後悔してしまうなんて、なんだかちょっと寂しい気もしますね。