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アステカ - Wikipedia

アステカ

北米ほくべいのメキシコ中央ちゅうおうさかえたメソアメリカ文明ぶんめい国家こっか
アステカ帝国ていこく
Ēxcān Tlahtōlōyān
1325ねん - 1521ねん ヌエバ・エスパーニャ
アステカの国旗 アステカの国章
(アステカの紋章もんしょう戦争せんそうでの紋章もんしょう
アステカの位置
アステカ帝国ていこく版図はんと
公用こうよう 古典こてんナワトル英語えいごばんナワトル
首都しゅと テノチティトラン
皇帝こうてい
1375ねん - 1395ねん アカマピチトリ
1520ねん - 1521ねんクアウテモック
面積めんせき
1520304,325km²
変遷へんせん
テノチティトラン建設けんせつ 1325ねん3月13にち
アステカさんこく同盟どうめい1428ねん3月15にち
スペインのアステカ征服せいふく1521ねん8がつ13にち
通貨つうか多様たよう
先代せんだい次代じだい
テノチティトラン テノチティトラン
:en:Tlatelolco (altepetl) en:Tlatelolco (altepetl)
:en:Tlacopan en:Tlacopan
:en:Azcapotzalco (altepetl) en:Azcapotzalco (altepetl)
:en:Colhuacan (altepetl) en:Colhuacan (altepetl)
:en:Texcoco (altepetl) en:Texcoco (altepetl)
:en:Chalco (altépetl) en:Chalco (altépetl)
ヌエバ・エスパーニャ ヌエバ・エスパーニャ

アステカAzteca古典こてんナワトル英語えいごばん: Aztēcah)は、1428ねんころから1521ねんまでのやく95年間ねんかん北米ほくべいメキシコ中央ちゅうおうさかえたメソアメリカ文明ぶんめい国家こっかメシカ古典こてんナワトル: mēxihcah メーシッカッ)、アコルワテパネカの3集団しゅうだん同盟どうめいによって支配しはいされ、ときとともにメシカがその中心ちゅうしんとなった。言語げんご古典こてんナワトルナワトル)。

名称めいしょう

編集へんしゅう

「アステカ」という名称めいしょうは19世紀せいきはじめのアレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物はくぶつ学者がくしゃけん探検たんけんである)が民族みんぞく伝説でんせつじょうであるアストラン由来ゆらいして名付なづけた造語ぞうごである。言語げんご地理ちり政治せいじ民族みんぞく土器どき種類しゅるいなどさまざまな意味いみふくむが、範囲はんいとしてもメシカのみを場合ばあいもあれば、メキシコ盆地ぼんちのすべてのひと場合ばあいもあれば、ナワトル話者わしゃすべてを場合ばあいもあれば、アステカさんこく同盟どうめい場合ばあいもあれば、マヤオアハカしゅう住民じゅうみんのぞくメソアメリカすべての人々ひとびと場合ばあいもある。より明確めいかくにするために以下いかのようなかたりもちいることがある。

建国けんこく

編集へんしゅう

歴史れきしてきには、アステカじん移動いどう定住ていじゅう12世紀せいきごろよりつづいた北部ほくぶからのチチメカじん南下なんか侵入しんにゅう最後さいごの1しょうにあたる。アステカ神話しんわによればアステカじんアストラン出発しゅっぱつし、狩猟しゅりょうなどをおこないながらメキシコ中央ちゅうおう高原こうげんをさまよっていた。やがてテスココアスカポツァルコクルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市とし国家こっか存在そんざいするメキシコ盆地ぼんち辿たどりつき、テスココ湖畔こはん定住ていじゅうした。1325(または1345)ねんいしうええたサボテンわしがとまっていることをメシカぞくは、これをまち建設けんせつするべき場所ばしょしめすものとしてテスココ小島こじま都市としテノチティトランきずいた。その一部いちぶ分裂ぶんれつしてちかくのしま姉妹しまい都市としトラテロルコ建設けんせつしたとされる[1][2]

アスカポツァルコの属国ぞっこくとして

編集へんしゅう
 
アステカの神殿しんでん(メキシコしゅう)
 
アステカのイーグル戦士せんし彫像ちょうぞう
 
アステカのジャガー戦士せんし
 
スペイン征服せいふくメキシコ盆地ぼんち
 
アステカ神話しんわ題材だいざいとしたメキシコのくにあきら

アステカはメキシコ盆地ぼんち最大さいだい勢力せいりょくであるテパネカぞく国家こっかアスカポツァルコ朝貢ちょうこうしてその庇護ひごけていたが、1375ねんアカマピチトリはアスカポツァルコ王国おうこく許可きょか国王こくおうトラトアニ)に即位そくいし、世襲せしゅう王族おうぞくとなった。当時とうじのアスカポツァルコおうテソソモクいちだい英主えいしゅであり、かれ時代じだいにアスカポツァルコはメキシコ盆地ぼんちのかなりの部分ぶぶん制圧せいあつする。アステカはアスカポツァルコの属国ぞっこくとして兵員へいいん提供ていきょうする義務ぎむがあったが、やがてアスカポツァルコの許可きょかのもと、アステカは独自どくじ出兵しゅっぺいおこなうようになり、テスココ南部なんぶにあるいくつかの集落しゅうらく領土りょうどにくわえた。こうして、アカマピチトリはアスカポツァルコの属国ぞっこくとして領土りょうど拡張かくちょうすることで国力こくりょく増加ぞうかさせた[3]

1396ねんにアカマピチトリが死去しきょすると、そのであるウィツィリウィトル長老ちょうろうによる評議ひょうぎかいによっておう選出せんしゅつされた。ウィツィリウィトルもちち同様どうようアスカポツァルコにしたがい、その過程かてい領土りょうど拡大かくだいした。このころ、アスカポツァルコ最大さいだいのライバルはテスココ東岸とうがんアコルワひと都市としテスココとなっていた。テスココおうのイシュトリルショチトル・オメトチトリはチチメカおうしょうし、アスカポツァルコと対決たいけつする姿勢しせいった。イシュトリルショチトルのつまはアステカの有力ゆうりょくしゃであるチマルポポカむすめであり、この姻戚いんせき関係かんけい利用りようしてテスココはアステカに共闘きょうとうけたが、1417ねんにアステカのだいさんだい国王こくおう就任しゅうにんしたチマルポポカは、アスカポツァルコとの同盟どうめい堅持けんじしてテスココと敵対てきたいする方針ほうしんった[4]

1418ねん、アスカポツァルコとテスココはついに開戦かいせんし、アスカポツァルコが勝利しょうりイシュトリルショチトル殺害さつがいされ、息子むすこのネサワルコヨトルは逃亡とうぼうしてテスココはアスカポツァルコの支配しはいはいった。このたたかいでアステカはおおきな役割やくわりたし、アスカポツァルコのさい有力ゆうりょく同盟どうめい都市としのひとつとなった。

1426ねんにテソソモクが死亡しぼうすると、アスカポツァルコおうにはテソソモクの息子むすこであるマシュトラ即位そくいしたが、権力けんりょく闘争とうそう激化げきかし、その過程かていでチマルポポカも暗殺あんさつされた。かわって1427ねん王位おういについたイツコアトルはアスカポツァルコへの敵対てきたいつよめ、一触即発いっしょくそくはつ雰囲気ふんいきとなった。このときテスココの旧主きゅうしゅであるネサワルコヨトル同盟どうめいあんたずさえてテノチティトランをおとずれ、アステカに援助えんじょ要請ようせいした。このあんれられ、まずアステカぐんはテスココへ侵攻しんこうしてネサワルコヨトルを支配しはいしゃとし[5]、そのりょう都市としと、さらにみずうみ西岸せいがんにあるテパネカじん都市としトラコパンさん都市とし同盟どうめいむすんでアスカポツァルコへ侵攻しんこうし、1428ねん滅亡めつぼうさせた。こうしてアステカはテスココと共闘きょうとうしてアスカポツァルコをたおし、みずうみ西岸せいがんにあるトラコパンくわえてアステカさんこく同盟どうめい英語えいごばん結成けっせいした[3]。これがいわゆる「アステカ帝国ていこく」である。こののちアステカの勢力せいりょくがほかの都市とししてびていくものの、くにせいじょうはアステカは最後さいごまでアステカ(テノチティトラン)・テスココ・トラコパンのさん都市とし同盟どうめいだった。アスカポツァルコ崩壊ほうかいさん都市としはその領土りょうど分割ぶんかつし、テスココはみずうみ東部とうぶを、トラコパンはアスカポツァルコをふくみずうみ西部せいぶを、そしてテノチティトランはみずうみ北部ほくぶ南部なんぶ支配しはいけんた。この勢力せいりょくはその継承けいしょうされ、かく都市としはそれぞれその方向ほうこう勢力せいりょく拡大かくだいしていった。

アスカポツァルコをほろぼし覇権はけんにぎると、イツコアトルは勢力せいりょく拡大かくだいした。まず最初さいしょけたのが、ネサワルコヨトルへの軍事ぐんじ援助えんじょとテスココ南部なんぶへの出兵しゅっぺいである。テスココを奪回だっかいしたばかりのネサワルコヨトルはいまだ安定あんていした勢力せいりょく基盤きばんをきずきあげておらず、このためイツコアトルはネサワルコヨトルへの援軍えんぐんとしてテスココ湖東ことうのアコルワじん地域ちいきへの出兵しゅっぺいおこない、この地域ちいきをテスココの勢力せいりょく範囲はんいとして確定かくていさせた。アコルワじん地域ちいき制圧せいあつをもって、1431ねんにネサワルコヨトルはテスココおう正式せいしき即位そくいした。一方いっぽうテノチティトラン独自どくじうごきとしては、テスココ南部なんぶソチミルコ地域ちいき出兵しゅっぺいし、この地域ちいき完全かんぜんにアステカの支配しはいにおいた。この地域ちいきチナンパはたけひろがる非常ひじょう肥沃ひよく穀倉こくそう地帯ちたいであり、ここを制圧せいあつしたことでアステカの食糧しょくりょう事情じじょう大幅おおはば改善かいぜんされ、また同盟どうめいほか都市としたいする優位ゆういたもちから源泉げんせんともなった。この地域ちいき制圧せいあつするとすぐにイツコアトルはテノチティトランとテスココ南部なんぶのイツタパラパンとをむす土手どてどうきずき、これによってテノチティトランから帝国ていこく南部なんぶへの交通こうつう大幅おおはば改善かいぜんされたほか、淡水たんすいのテスココみずうみ南部なんぶ塩水えんすいのテスココみずうみ北部ほくぶみずまじわるのをふせぎ、南部なんぶ農業のうぎょう生産せいさん改善かいぜんをもたらした[6]

1433ねんにはさらにメキシコ盆地ぼんちみなみにあるクアナウワク(現在げんざいクエルナバカ地方ちほう同盟どうめいさん都市とし共同きょうどう出兵しゅっぺいして占領せんりょうし、これがアステカの領土りょうど拡大かくだい端緒たんしょとなった。アステカおうイツコアトル・テスココおうネサワルコヨトル・トラコパンおうトトキルワストリのさんしゃ同盟どうめい強固きょうこなものであり、とくにテスココおうのネサワルコヨトルは法治ほうちシステムや征服せいふくした領内りょうないきゅう支配しはいしゃ復位ふくいさせて間接かんせつ統治とうちするシステムの整備せいび、さらにはテスココみずうみない堤防ていぼう建設けんせつなどによってアステカの基礎きそかためるのにおおきな役割やくわりたした。

1440ねん、イツコアトルののちいでモクテスマ1せい即位そくいする。モクテスマ1せいはまずみなみ隣接りんせつする地域ちいき現在げんざいのモレロスしゅうやゲレーロしゅう北部ほくぶ)などの支配しはいかためるとともに、ネサワルコヨトルの支援しえんてテスココみずうみ南北なんぼく分断ぶんだんするつつみきずいた。このつつみによってテスココ水位すいい調節ちょうせつがうまくいくようになったほか、テスココ中部ちゅうぶのテノチティトラン周辺しゅうへん湖水こすい塩分えんぶん濃度のうどげ、農業のうぎょう用水ようすい確保かくほ可能かのうになった[7]統治とうちかたまると、モクテスマ1せい遠征えんせい頻繁ひんぱんおこない、メキシコ湾岸わんがん熱帯ねったい地方ちほう占領せんりょう従属じゅうぞくさせて勢力せいりょくひろげた(はな戦争せんそう)。また、南東なんとうミシュテカひと地方ちほうにも侵攻しんこうし、商業しょうぎょう都市としコイシュトラワカをはじめとするいくつかの地域ちいき支配しはいにおさめた。征服せいふくした土地とちたいしてみつもの要求ようきゅうしたが統治とうちはせず、自治じちゆるしていた。征服せいふく度々どど反乱はんらんこしたが、武力ぶりょく鎮圧ちんあつされた[8]1469ねんにモクテスマ1せい死去しきょしたころには、現在げんざいベラクルスしゅう大半たいはんにあたる太平洋たいへいようがん地区ちくや、プエブラしゅう南部なんぶオアハカしゅう一部いちぶまでがアステカりょうとなっていた。

1469ねん、モクテスマ1せい死去しきょともなアシャヤカトル即位そくいした。かれもまた周辺しゅうへん地域ちいきさかんに出兵しゅっぺいし、征服せいふくおこなった。1472ねんにはテスココ国王こくおうであり、長年ながねんアステカさんこく同盟どうめい重鎮じゅうちんであったネサワルコヨトルが死去しきょした。よく1473ねんには、アステカないの2大都市だいとしであり、徐々じょじょ対立たいりつふかめていたテノチティトランとトラテロルコのあいだ内戦ないせんこった。この内戦ないせん短期間たんきかんわり、テノチティトランの優位ゆうい確立かくりつされた。国内こくないさい統一とういつませると、アシャヤカトルは西にしへと侵攻しんこうし、1475ねんから1476ねんにかけてのたたかいでトルーカ征服せいふくし、さらに西にし隣接りんせつする大国たいこくタラスコ王国おうこくへと侵攻しんこうしたものの、大敗たいはいきっした[9]。1479ねんには、太陽たいよういし奉納ほうのうしている。

1481ねんにアシャヤカトルが死去しきょするとそのおとうとであるティソク即位そくいしたものの、かれ軍事ぐんじてきには無能むのうであり、1486ねん暗殺あんさつされた。

1486ねんにティソクのおとうとであるアウィツォトル即位そくいすると、ふたた軍事ぐんじてき拡張かくちょう再開さいかいした。かれだいにアステカ帝国ていこく領土りょうど太平洋たいへいよう沿岸えんがん熱帯ねったい地方ちほうまで到達とうたつした。アステカの支配しはい地域ちいき太平洋たいへいようがん沿って西にしほそびるようになったが、これは西にし大国たいこくタラスコ王国おうこくへの侵攻しんこう拠点きょてんとする目的もくてきっていた。治世ちせい末期まっきには南東なんとう方向ほうこうへも進出しんしゅつし、現在げんざいチアパスしゅう南端なんたんにあたりカカオだい生産せいさんであったソコヌスコまでを征服せいふくしたが次第しだい前線ぜんせんとおくなるにつれ兵站へいたん問題もんだい発生はっせいし、それ以上いじょうさきすすむことは出来できなかった[10]。この遠征えんせい指揮しきかんは、つぎ国王こくおうとなるモクテスマ・ショコヨツィンであった。アウィツォトルの治世ちせいには、それまでテノチティトランなどの帝国ていこく中心ちゅうしん都市としのみにかぎられていた神殿しんでん建設けんせつなどの公共こうきょう事業じぎょう積極せっきょくてきすすめられ[11]宗教しゅうきょうてき統一とういつはかられるようになった。

1502ねん、アウィツォトルが死去しきょし、モクテスマ・ショコヨツィンがモクテスマ2せいとして王位おういにつくと南方なんぽう太平洋たいへいよう沿岸えんがん遠征えんせいおこない、ヨピじんなどを服従ふくじゅうさせてあらたな領土りょうど獲得かくとくした。しかし、南端なんたんトトテペク王国おうこくスペインばん英語えいごばん抵抗ていこうつづけた[12]。モクテスマ2せい儀礼ぎれい強化きょうかなどにより貴族きぞく平民へいみんあいだ確立かくりつする政策せいさくった。また、モクテスマ2せいすぐれた指揮しきかんであり、かれ時代じだいにオアハカのだい部分ぶぶんがアステカりょうとなり、また周辺しゅうへん諸国しょこくへも積極せっきょくてき出兵しゅっぺいしていった。

1519ねんエルナン・コルテスひきいるスペインじん到来とうらいした時点じてんで、アステカの支配しはいやく20まん平方へいほうキロメートルにおよ首都しゅとテノチティトランの人口じんこうすうじゅうまんにんたっ[12]当時とうじ世界せかい最大さいだいきゅう都市としであった。中心ちゅうしんには神殿しんでん宮殿きゅうでんならもたっておおいに繁栄はんえいした[1]。このときアステカの勢力せいりょく絶頂ぜっちょうたっしており、領域りょういき本来ほんらい領土りょうどであるメキシコ盆地ぼんちをはるかにえ、現在げんざいメヒコしゅうモレロスしゅうプエブラしゅうゲレロしゅうオアハカしゅうベラクルスしゅうイダルゴしゅうだい部分ぶぶんケレタロしゅう南部なんぶチアパスしゅう海岸かいがん支配しはいにおさめ、メキシコ中部ちゅうぶをほぼ統一とういつする中央ちゅうおうアメリカ最大さいだい帝国ていこくをきずきあげていた。ただし、トラスカラしゅうにはトラスカラ王国おうこく割拠かっきょしており、アステカとはげしいたたかいを連年れんねんつづけていた。また、西部せいぶのタラスコ王国おうこくとのたたかいも膠着こうちゃくしていた。ひがしひろがるこう古典こてんマヤ文明ぶんめい諸国しょこくには進軍しんぐんすることはなかったが、商人しょうにん(ポチテカ)による交易こうえきネットワークによってむすばれていた。1519ねん状況じょうきょうはこのようなものであり、近隣きんりん諸国しょこくでアステカを打倒だとうしうる勢力せいりょく存在そんざいせず、統治とうちシステムにもほころびはられなかった。

スペインのアステカ帝国ていこく征服せいふく

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いちあし

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アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)かみいやられた、しろはだをもつケツァルコアトルかみが「いちあし」のとし西暦せいれき1519ねんにあたる)にもどってくる、という伝説でんせつ存在そんざいした。帰還きかんしたケツァルコアトルが、かつてアステカにゆずわたした支配しはいけん回復かいふくするとしんじられていた[13]。「いちあし」のとしの10ねんまえには、テノチティトランの上空じょうくう突然とつぜんおおきな彗星すいせいあらわれた。また女神めがみ神殿しんでん一部いちぶちてしまった。その次々つぎつぎ不吉ふきつ出来事できごとこった。アステカじんたちは漠然ばくぜん将来しょうらい不安ふあんかんじていた[14]。そうしたおりであった「いちあし」のとしの2ねんまえ(1517ねん)からひがし沿岸えんがんあらわれるようになったスペインじんは、帰還きかんしたケツァルコアトルいちぎょうではないかとられ[15]、アステカのスペインじんへの対応たいおうまよわせることになった[16][注釈ちゅうしゃく 1]

滅亡めつぼう

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メソアメリカ付近ふきんあらわれたスペインじんは、繁栄はんえいする先住民せんじゅうみん文化ぶんかをキューバ総督そうとくディエゴ・ベラスケス報告ほうこくした。1519ねん2がつ、ベラスケス総督そうとく配下はいかであったコンキスタドールエルナン・コルテス無断むだんで16とううま大砲たいほう小銃しょうじゅう武装ぶそうした500にん部下ぶかひきいてユカタン半島はんとう沿岸えんがん出帆しゅっぱんした[19]。コルテスはタバスコ地方ちほうのマヤの先住民せんじゅうみん戦闘せんとうおこない(セントラのたたかスペインばん)、その勝利しょうり結果けっかとしておくられたおんな奴隷どれい20にんなかからマリンチェという先住民せんじゅうみん貴族きぞくむすめ通訳つうやくとしてもちいた[20]

サン・フアン・デ・ウルアとう上陸じょうりくしたコルテスは、アステカの使者ししゃからの接触せっしょくけた。アステカは財宝ざいほうおくってコルテスを撤退てったいさせようとしたが、コルテスはベラクルス建設けんせつし、アステカの勢力せいりょくにあるセンポアラまち味方みかたけた。さらにスペインじんから離脱りだつしゃないように手持てもちのふねすべしずめて退路たいろち、300にん内陸ないりくへと進軍しんぐんした[21]。コルテスは途中とちゅうまちおおくでは抵抗ていこうけなかったが、アステカと敵対てきたいしていたトラスカラ王国おうこくとは戦闘せんとうになり、勝利しょうりし、トラスカラと和睦わぼくむすんだ。10月18にちチョルーラの虐殺ぎゃくさつスペインばんきた。1000にんのトラスカラへいともにメキシコ盆地ぼんちへと進軍しんぐんした[22]

1519ねん11月18にち、コルテスぐん首都しゅとテノチティトランへ到着とうちゃくし、モクテスマ2せい抵抗ていこうせずに歓待かんたいした[23]。コルテスたちはモクテスマ2せいちち宮殿きゅうでんはいり6日間にちかんごしたが、ベラクルスのスペインじんがメシカじんによって殺害さつがいされる事件じけん発生はっせいすると、クーデターをこしてモクテスマ2せい支配しはいにおいた[24]

1520ねん5がつ、ベラスケス総督そうとくナルバエスにコルテス追討ついとうめいじ、ベラクルスぐん派遣はけんしたため、コルテスは120にん守備しゅびたいペドロ・デ・アルバラードたくして一時いちじてきにテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留ちゅうりゅうすると、コルテスは黄金おうごんもちいてへいいて兵力へいりょくやした。あめ利用りようした急襲きゅうしゅうでナルバエスをらえて勝利しょうりすると、投降とうこうしゃ編入へんにゅうした[25]

コルテスの在中ざいちゅうに、トシュカトルの大祭たいさいおこなわれたさい、アルバラードが丸腰まるごしのメシーカじん急襲きゅうしゅうするという暴挙ぼうきょた(トシュカトル大祭たいさい虐殺ぎゃくさつスペインばん英語えいごばん)。コルテスがテノチティトランにもどるとだい規模きぼ反乱はんらんこり、仲裁ちゅうさいをかってたモクテスマ2せいはアステカじんにくしみをけてころされてしまう[26](これについては、スペインじん殺害さつがいしたとの異説いせつもある)。1520ねん6月30にち、メシーカじんいかりは頂点ちょうてんたっし、コルテスぐんはげしく攻撃こうげきしたので、コルテスはいのちからがらテノチティトランから脱出だっしゅつした。この出来事できごとをスペインじんは「かなしきよる(La Noche Triste)」とぶ。おう(トラトアニ)をうしなったメシーカじんクィトラワクしんおう擁立ようりつして、コルテスぐんとの対決たいけつ姿勢しせいつよめた。7月7にちオツンバのたたかスペインばん英語えいごばん

1521ねん4がつ28にちトラスカラぐんなおし、さらなる先住民せんじゅうみん同盟どうめいしゃ集結しゅうけつさせたコルテスはテテスコ湖畔こはんに13せきのベルガンティンせん用意よういし、すうまん同盟どうめいぐんとともにテノチティトランを包囲ほういした(テノチティトラン包囲ほういせんスペインばん英語えいごばん)。1521ねん8がつ13にち、コルテスは病死びょうししたクィトラワク国王こくおうわって即位そくいしていたクアウテモクおうらえアステカをほろぼした[27]

植民しょくみん時代じだい人口じんこう減少げんしょう

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そのスペインはアステカ帝国ていこく住民じゅうみんから金銀きんぎん財宝ざいほう略奪りゃくだつ徹底的てっていてき首都しゅと・テノチティトランを破壊はかいしつくして、遺構いこううえ植民しょくみんヌエバ・エスパーニャ首都しゅとメキシコシティ)を建設けんせつした。おおくの人々ひとびときゅう大陸たいりくからつたわった疫病えきびょう感染かんせんして、そのため地域ちいき人口じんこう激減げきげんした(ただし、当時とうじ検視けんし記録きろく医療いりょう記録きろくからみて、もともと現地げんちにあった出血しゅっけつねつのような疫病えきびょうであるともわれている)。

その犠牲ぎせいしゃ征服せいふくまえ人口じんこうはおよそ1100まんにんであったと推測すいそくされるが、1600ねん人口じんこう調査ちょうさでは、先住民せんじゅうみん人口じんこうは100まん程度ていどになっていた。スペインじん暴虐ぼうぎゃくかぎりをくしたうえに、疫病えきびょうにより免疫めんえきのない先住民せんじゅうみん短期間たんきかんのうちに激減げきげんした[28]

社会しゃかい構造こうぞう

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くにせい

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アステカはくにせいじょうメシカぞくテノチティトランアコルワぞくテスココテパネカぞくトラコパンさん都市とし同盟どうめいであり、それは1428ねん同盟どうめい締結ていけつから1521ねん帝国ていこく滅亡めつぼうにいたるまでまったわらなかった。同盟どうめいないでテノチティトランに勢力せいりょくったのはテスココで、学問がくもん文化ぶんか中心ちゅうしんとなっていた。とくにテスココおうネサワルコヨトル政治せいじ文化ぶんかめん様々さまざま貢献こうけんをなした名君めいくんであり、そのであるネサワルピリも名君めいくんとしてられ、この2だいにおいてはテスココはアステカに対抗たいこうしうるちからった存在そんざいであった。トラコパンはこのさん都市としちゅうではもっと勢力せいりょくよわ格下かくしたあつかいとなっていた[29]。しかし、徐々じょじょにテノチティトランおよびトラテロルコ中心ちゅうしんとするメシカ(アステカ)が勢力せいりょく拡大かくだいしていき、さん都市とし同盟どうめい代表だいひょうするようになっていった。アステカ帝国ていこく歴代れきだい君主くんしゅとはすなわちメシカぞくトラトアニす。かなりの独立どくりつせいっていたテスココも、ネサワルピリの死後しご急速きゅうそくにアステカの支配しはいけんつよまっていった。

さん都市としはそれぞれ都市としぞくする属国ぞっこくっており、そこからみつぎおさめっていた。かく属国ぞっこくおう以前いぜんからその土地とち支配しはいしていたおうであることもあったし、宗主そうしゅこくから任命にんめいされた支配しはいしゃであることもあった。かく都市としはそれぞれ領域りょういきひろげていったが、アステカ帝国ていこく特徴とくちょうとしては、帝国ていこくない多数たすう独立どくりつ勢力せいりょくかかえていたことである。トラスカラ王国おうこくなどのこういった独立どくりつ勢力せいりょくは、アステカとはげしい戦闘せんとうひろげ、周辺しゅうへん地域ちいきがすべてアステカの支配しはいちても抵抗ていこうつづけていた。これらの独立どくりつ勢力せいりょくはやがてスペインじん侵入しんにゅうにスペインと同盟どうめいむすび、兵力へいりょく物資ぶっし供給きょうきゅうならびに根拠地こんきょちとして、アステカ滅亡めつぼうおおきな役割やくわりたした。また、周辺しゅうへんしょ地域ちいきへの支配しはいきびしく、しばしば反乱はんらんき、それにたいするさい征服せいふくもよくあることであった。こうした支配しはい地域ちいき反感はんかんは、スペインじん侵入しんにゅうにそれら地域ちいき離反りはんというかたちあらわれ、帝国ていこく急速きゅうそく瓦解がかい一因いちいんとなった。

階級かいきゅう社会しゃかい

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アステカでは多神教たしんきょうもとづいた神権しんけん政治せいじおこなわれ、おう(トラトアニ)は王家おうけなかからえらばれた。おうであるトラトアニはもともと外務がいむをつかさどるちょうであり、内務ないむをつかさどるちょうであるシワコアトルとはたいになる存在そんざいであった。シワコアトルの地位ちいにはアステカ帝国ていこく成立せいりつにはイツコアトルのおとうとであるトラカエレルいており、つよ権限けんげんをいまだ保持ほじしていたが、トラカエレルの死後しごにその地位ちい急速きゅうそく低落ていらくし、スペインじん到来とうらいしたころにはトラトアニは完全かんぜん絶対ぜったい君主くんしゅとなっていた。貴族きぞく階層かいそうには、世襲せしゅう貴族きぞくくわえ、戦争せんそうなどで功績こうせきをあげて平民へいみんからげられた貴族きぞく存在そんざいした。だい多数たすう平民へいみんはマセワルであった。さらに商人しょうにん(ポチテカ)は、平民へいみんではあるが特別とくべつほう神殿しんでん特権とっけん集団しゅうだん形成けいせいしていた。最下さいかきゅう戦争せんそう捕虜ほりょ負債ふさいなどのために身売みうりした奴隷どれい(トラコトリ)が存在そんざいした。奴隷どれい自由じゆう身分みぶん解放かいほうされることもあったが個人こじん所有しょゆうぶつとして相続そうぞく対象たいしょうとされた[1]

軍国ぐんこく主義しゅぎ

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アステカは軍国ぐんこく主義しゅぎ色彩しきさいつよ国家こっかであった。この性格せいかく終末しゅうまつ古典こてん以降いこうのメソアメリカのしょ国家こっか特徴とくちょうてきであり、アステカはテオティワカン衰退すいたい終末しゅうまつ古典こてんからこう古典こてんなかでとりわけ強大きょうだい国家こっかであった。ジャガーの戦士せんしわし戦士せんし中核ちゅうかくとする強力きょうりょく軍隊ぐんたい征服せいふく戦争せんそうをくりがえしょ国民こくみんおそれられ、服属ふくぞくする国家こっかから朝貢ちょうこうける見返みかえりに自治じちあたえて人民じんみん間接かんせつ統治とうちした。諸国しょこくたびする商人しょうにんとき偵察ていさつ部隊ぶたいとしての役割やくわりたし、敵情てきじょう視察しさつ反乱はんらん情報じょうほう収集しゅうしゅう従事じゅうじした。武器ぶきとしては鉄器てっき存在そんざいせず、青銅器せいどうき武器ぶきには使用しようされず、黒曜石こくようせきによる石器せっき中心ちゅうしんであり、黒曜石こくようせき木剣ぼっけんはさんだマカナや、木製もくせいさき黒曜石こくようせきけたいしやりであるホルカンカやテポストピリー、手持てもちの投槍なげやりであるアトラトルなどがおも武器ぶきであった。

道路どうろもう整備せいび経済けいざい発達はったつ

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アステカのカレンダー

アステカは軍隊ぐんたい迅速じんそく移動いどう可能かのうにするため道路どうろもう整備せいびしていた。この道路どうろもうつうじてしょ地域ちいき産物さんぶつがアステカにあつまりその繁栄はんえいささえた。テノチティトランの中心ちゅうしんでは毎日まいにち市場いちばひらかれたという。基本きほんてき商業しょうぎょう活動かつどう物々交換ぶつぶつこうかんであったが、カカオまめ貨幣かへいとして流通りゅうつうし、カカオまめ3つぶ七面鳥しちめんちょうたまご1個いっこ、カカオまめ30つぶ小型こがたウサギ1ひき、カカオまめ500〜700つぶ奴隷どれい1にん交換こうかんできた。トウモロコシやいもるい豆類まめるいなどの農産物のうさんぶつプルケさけタバコなどの嗜好しこうひんせんもん職人しょくにんによって製作せいさくされたしつたかすえ製品せいひんやさまざまな用品ようひんが、市場いちば売買ばいばいされていた。こうした地域ちいき根付ねついた商業しょうぎょうのほか、長距離ちょうきょり交易こうえきおこなわれていた。長距離ちょうきょり交易こうえきポチテカによっておこなわれており、ケツァールはねヒスイ、カカオといった熱帯ねったいさん高級こうきゅうひんおもあつかっていた。こうした商品しょうひんおも産地さんち東方とうほうのマヤ文明ぶんめいしょ都市としやその近隣きんりん地方ちほうであった。また、支配しはいしょ地域ちいきからのみつぎおさめもこの道路どうろもう利用りようしておこなわれており、まれる大量たいりょうみつぎ納品のうひんはアステカ経済けいざいおおきな一部分いちぶぶんをなしていた。

食料しょくりょう

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アステカの食糧しょくりょう生産せいさん基盤きばんは、たか生産せいさんせいほこチナンパ農業のうぎょうである。アステカの覇権はけん以前いぜんはテノチティトランの島内とうないにチナンパが造成ぞうせいされていたものの、テノチティトラン・トラテロルコ両市りょうし食糧しょくりょうをまかなうにはとてもりず、食糧しょくりょう安定あんてい供給きょうきゅう急務きゅうむとなっていた。アステカが覇権はけんにぎると勢力せいりょく圏内けんない積極せっきょくてきにチナンパの造成ぞうせいはじめ、とくにテスココ南部なんぶにはだい規模きぼなチナンパ地帯ちたい造成ぞうせいされて穀倉こくそう地帯ちたいとなっていた。このほか、テスココ支配しはいのアコルワじん地域ちいきでは段々畑だんだんばたけ造成ぞうせいされるなど、食糧しょくりょう供給きょうきゅう農業のうぎょう開発かいはつにアステカの歴代れきだい君主くんしゅしんくだいた。

アステカの中心ちゅうしん作物さくもつトウモロコシであり、これはしゅこくであり経済けいざい基盤きばんともなっていた。トウモロコシはかゆタマル団子だんご)、トルティーヤにしてべられていた。このほか、アステカでおも栽培さいばいされていた作物さくもつにはトウガラシインゲンマメトマトアマランサスカボチャサツマイモクズイモピーナッツなどがあった。飲料いんりょうとしてはリュウゼツランから醸造じょうぞうされるプルケさけ重要じゅうようであったが、よりかくたか飲料いんりょうとしてはカカオからつくられるショコラトルが珍重ちんちょうされていた。ショコラトルは価値かちたかく、原料げんりょうのカカオまめ貨幣かへいとして流通りゅうつうするほどだった。また、香料こうりょうとしてはバニラ珍重ちんちょうされていた。

アステカ文明ぶんめいは、さきおこったオルメカテオティワカンマヤトルテカ文明ぶんめい継承けいしょうし、土木どぼく建築けんちくせいすえ工芸こうげいすぐれていた。鉄器てっき存在そんざいせず、青銅器せいどうき利用りようはあったものの装飾そうしょくひん利用りようおもなものであり、にち用品ようひん武器ぶきなどは黒曜石こくようせきなどのいしつくられたものが大半たいはんであった。

アステカはだい規模きぼ土木どぼく工事こうじさかんにった国家こっかであり、神殿しんでん建設けんせつ水利すいり工事こうじなどでたか技術ぎじゅつりょくっていた。とく水利すいり工事こうじみずうみかこまれているテノチティトランをとするアステカにとっては非常ひじょう重要じゅうよう技術ぎじゅつであり、上記じょうきのイツコアトルによるイツタパラパンどう建設けんせつやモクテスマ1せいによるテスココみずうみちゅう堤防ていぼう建設けんせつなどのみずうみ治水ちすい積極せっきょくてきおこなわれた。このほか、塩水えんすいみずうみなかにあり生活せいかつ用水ようすい不足ふそくしがちなテノチティトランにみず供給きょうきゅうするため、モクテスマ1せい1466ねんにチャプルテペク水道すいどうきょう建設けんせつし、西にしチャプルテペクいずみからみずうみえて市内しないみず供給きょうきゅうした。

アステカは、精密せいみつ天体てんたい観測かんそくによって現代げんだいけをらない精巧せいこうこよみっていた。アステカのこよみは2つあり、うらないじゅつ使つかう260にちれきトナルポワリ)と、国家こっか行事ぎょうじ運営うんえいするための太陽暦たいようれきである365にちれきシウポワリ)のふたつのこよみ体系たいけいっていた。このふたつのこよみかさなりうのは52ねんに1であり、そのためアステカにおいては52ねんを1つの周期しゅうきとしてあつかっていた。

アステカはそれまでのメソアメリカしょ文明ぶんめいかみ々を継承けいしょうれ、複雑ふくざつ信仰しんこう体系たいけい構築こうちくした。アステカ神話しんわにおいてはアステカの民族みんぞくしんであるウィツィロポチトリをはじめ、ケツァルコアトルテスカトリポカあめしんトラロックなど様々さまざまかみがあがめられ、崇敬すうけいけていた。アステカ神話しんわにおいては世界せかい創造そうぞう破壊はかい過去かこ4かいきており、現在げんざい世界せかいは5番目ばんめのものであるとかんがえられていた。1479ねんにアステカおうアシャヤカトルによって奉納ほうのうされたとされ、現代げんだいではもっと高名こうみょうなアステカの遺物いぶつのひとつとなっている太陽たいよういしには、この世界せかいかんこよみきざまれている。

人身御供ひとみごくう

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生贄いけにえ儀式ぎしき石器せっきのナイフでむねき、心臓しんぞう

アステカ社会しゃかいかたじょう特筆とくひつすべきことは人身御供ひとみごくう神事しんじである。人身御供ひとみごくう世界せかい各地かくち普遍ふへんてき存在そんざいした儀式ぎしきであるが、アステカのそれはくらべて特異とくいであった。メソアメリカでは太陽たいよう消滅しょうめつするという終末しゅうまつ信仰しんこう普及ふきゅうしていて、人間にんげん新鮮しんせん心臓しんぞうかみたてまつげることで太陽たいよう消滅しょうめつさきばしすることが可能かのうになるとしんじられていた。そのため人々ひとびと日常にちじょうてき人身御供ひとみごくうおこな生贄いけにえになったもの心臓しんぞうかみささげた。また人々ひとびとかみ々に雨乞あまご豊穣ほうじょう祈願きがんするさいにも、人身御供ひとみごくう神事しんじおこなった。アステカはおおくの生贄いけにえ必要ひつようとしたので、生贄いけにえ確保かくほするために戦争せんそうすることもあった(はな戦争せんそう)。

ウィツィロポチトリささげられた生贄いけにえは、祭壇さいだんえられたいしのテーブルのうえ仰向あおむけにされ、神官しんかんたちが四肢ししおさえて黒曜石こくようせきのナイフできたまま胸部きょうぶき、づかみでうごいている心臓しんぞう摘出てきしゅつした。シペ・トテックささげられた生贄いけにえは、神官しんかんたちがきたまま生贄いけにえ生皮なまかわり、すう週間しゅうかんそれをまつわっておどくるった。人身御供ひとみごくう神事しんじ目的もくてきおうじて様々さまざま形態けいたいがあり、生贄いけにえ火中かちゅうほうむこともあった。

現代げんだいじんかられば残酷ざんこくきわまりない儀式ぎしきであったが、生贄いけにえにされることは本人ほんにんにとって名誉めいよなことでもあった[よう出典しゅってん]通常つうじょう戦争せんそう捕虜ほりょられた奴隷どれいなかから、高潔こうけつ健康けんこうもの生贄いけにええらばれ、人身御供ひとみごくう神事しんじまで丁重ていちょうあつかわれた[よう出典しゅってん]神事しんじによっては貴人きじん若者わかものさらにはおさな小児しょうに生贄いけにえにされることもあった。

歴代れきだい君主くんしゅ

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  1. 1375ねん: アカマピチトリ
  2. 1395ねん: ウィツィリウィトル
  3. 1417ねん: チマルポポカ
  4. 1427ねん: イツコアトル
  5. 1440ねん: モテウクソマ・イルウィカミナモクテスマ1せい
  6. 1469ねん: アシャヤカトル
  7. 1481ねん: ティソク
  8. 1486ねん: アウィツォトル
  9. 1502ねん: モテウクソマ・ショコヨトル(モクテスマ2せい
  10. 1520ねん: クィトラワク
  11. 1521ねん: クアウテモック

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ アステカ王国おうこくがわずかな勢力せいりょくのスペインじんほろぼされた理由りゆうが、しろはだのケツァルコアトルしんが「いちあし」のとし帰還きかんするという伝説でんせつがあったためアステカじんたち白人はくじんのスペインじんおそれて抵抗ていこうできなかったというためだったという通説つうせつについては、異論いろんとなえる研究けんきゅうしゃもいる。大井おおい邦明くにあきによれば、ケツァルコアトルが白人はくじん外観がいかんであったというのはスペインじんきした文書ぶんしょにのみられるという。白人はくじん先住民せんじゅうみん支配しはい正当せいとうすべくのちからはなしつくった可能かのうせいがあるという[13]。また、スーザン・ジレスピーフロリダ大学だいがく)によれば、アステカがわ年代ねんだい制作せいさくしゃが、わずかな勢力せいりょく王国おうこくほろぼされたことの理由りゆうけとしてのちからはなしつくった可能かのうせいがあるという[13]実際じっさい理由りゆうとしては、アステカがそれまで経験けいけんしてきた戦争せんそう生贄いけにえささげる捕虜ほりょ確保かくほ目的もくてきでありてきりにしてきたのにたいし、スペインじんたちたたかかたてき無力むりょく目的もくてきであり殺害さつがいいとわなかったこと[16]。また、スペインの軍勢ぐんぜいちからせつけるべくチョルーラだい規模きぼ殺戮さつりくおこなうなどしたが、アステカの人々ひとびとにとっては集団しゅうだん同士どうしたたかいでの勝敗しょうはいはそれぞれの集団しゅうだん信仰しんこうするかみちから優劣ゆうれつあらわしていたこと[17]。そしてまた、スペインじんたちじゅううま武装ぶそうしており、アステカの軍勢ぐんぜい未知みち武器ぶきおそれをなしてたびたび敗走はいそうしたこと[16]。スペインじんがアステカに不満ふまんっていた周辺しゅうへん民族みんぞく味方みかたにつけたこと[17]、などがげられる。これらのほか、モクテソマおう自身じしんが、不吉ふきつ出来事できごと自身じしん権力けんりょくうしなうことなどに不安ふあんつのらせ[18][16]希望きぼううしなって首都しゅとはなれようとするなど[18]厭世えんせいてき気持きもちにらわれていたことがアステカの軍勢ぐんぜい士気しきをもとしていただろうという指摘してきもある[16]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 増田ますだ (1999a) 49-51ページ
  2. ^ グリュジンスキ 23-26ページ
  3. ^ a b グリュジンスキ 26-33ページ
  4. ^ タウンゼント 95ページ
  5. ^ タウンゼント 98ページ
  6. ^ 井上いのうえ (2007) 75-76ページ
  7. ^ 井上いのうえ (2007) 76ページ
  8. ^ グリュジンスキ 35-49ページ
  9. ^ タウンゼント 140ページ
  10. ^ グリュジンスキ 53-61ページ
  11. ^ タウンゼント 146ページ
  12. ^ a b グリュジンスキ 65-67ページ
  13. ^ a b c 土方ひじかた 158ページ
  14. ^ グリュジンスキ 78-79ページ
  15. ^ グリュジンスキ 80ページ
  16. ^ a b c d e 土方ひじかた 159ページ
  17. ^ a b 井上いのうえ (2014) 209ページ
  18. ^ a b グリュジンスキ 79ページ
  19. ^ 増田ますだ (2002) 38-43ページ
  20. ^ 増田ますだ (2002) 43-45ページ
  21. ^ 増田ますだ (2002) 46-50ページ
  22. ^ 増田ますだ (2002) 51-57ページ
  23. ^ 増田ますだ (1999b) 66-67ページ
  24. ^ 増田ますだ (2002) 62-66ページ
  25. ^ 増田ますだ (2002) 73-79ページ
  26. ^ 増田ますだ (2002) 80-87ページ
  27. ^ グリュジンスキ 91-93ページ
  28. ^ 立石たていしへん [ようページ番号ばんごう]
  29. ^ タウンゼント 104ページ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえ (2014):井上いのうえ幸孝ゆきたか ちょ「34 スペイン征服せいふく (1)」、井上いのうえ幸孝ゆきたか編著へんちょ へん『メソアメリカをるための58しょう明石書店あかししょてん〈エリア・スタディーズ 130〉、2014ねん5がつISBN 978-4-7503-4009-8 
  • グリュジンスキ, セルジュ『アステカ王国おうこく 文明ぶんめい再生さいせい斎藤さいとうあきらやくつくもとしゃさい発見はっけん双書そうしょ 19〉、1992ねん9がつISBN 978-4-422-21069-8 
  • タウンゼント, リチャード『〈図説ずせつ〉アステカ文明ぶんめい増田ますだ義郎よしお監修かんしゅう武井たけい摩利まりやくはじめもとしゃ、2004ねん8がつISBN 978-4-422-20227-3 
  • 立石たていしひろしだかほか へん『スペインの歴史れきし昭和堂しょうわどう、1998ねん10がつISBN 978-4-8122-9818-3 
  • 土方ひじかた美雄よしお『メキシコ/マヤ&アステカ 写真しゃしんでわかるなぞへのたびつじまる純一じゅんいち構成こうせい写真しゃしん雷鳥らいちょうしゃ、2001ねん8がつISBN 978-4-8441-3325-4 
  • 増田ますだ義郎よしお山田やまだ睦男むつお へん『ラテン・アメリカ 1』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん世界せかい各国かっこく 25〉、1999ねん8がつISBN 978-4-634-41550-8 
    • 増田ますだ (1999a):増田ますだ義郎よしおだい1しょう さきコロンブス文化ぶんか」34-53ページ
    • 増田ますだ (1999b):増田ますだ義郎よしおだい2しょう ヨーロッパじん侵入しんにゅう」54-75ページ
  • 増田ますだ (2002):増田ますだ義郎よしお『アステカとインカ 黄金おうごん帝国ていこく滅亡めつぼう小学館しょうがくかん、2002ねん4がつISBN 978-4-09-626063-0 
  • Alfredo López Austin (2001). “Aztec”. The Oxford Encyclopedia of Mesoamerican Cultures. 1. Oxford University Press. pp. 68-73. ISBN 0195108159 

関連かんれん書籍しょせき

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  • 山瀬やませとおる『アステカ文明ぶんめい 発展はってん崩壊ほうかい : 1168-1620』(だい3はん太陽たいよう書房しょぼう、2002ねん4がつISBN 978-4-901351-18-8 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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