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メディチ家 - Wikipedia

メディチ

ルネサンスのイタリア・フィレンツェにおいて銀行ぎんこう政治せいじとして台頭たいとうした一族いちぞく

メディチ(メディチけ、イタリア: Casa de' Medici)は、ルネサンスイタリアフィレンツェにおいて銀行ぎんこう政治せいじとして台頭たいとう、フィレンツェの実質じっしつてき支配しはいしゃ僭主せんしゅ)として君臨くんりんし、のちトスカーナ大公たいこうこく君主くんしゅとなった一族いちぞくである。

メディチふる紋章もんしょう
メディチだい紋章もんしょう

その財力ざいりょくボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数たすう芸術げいじゅつパトロンとして支援しえんし、ルネサンスの文化ぶんかそだてるうえおおきな役割やくわりたしたことでもられている。歴代れきだい当主とうしゅたちがあつめた美術びじゅつひんなどはウフィツィ美術館びじゅつかんなどにのこされ、また、ピッティ宮殿きゅうでんなどのメディチたたえる建造けんぞうぶつ多数たすうフィレンツェにのこされた。これらは、メディチ直系ちょっけい最後さいご女性じょせいアンナ・マリア・ルイーザ遺言ゆいごんにより、メディチ栄華えいが現代げんだいにまでつたえている。一族いちぞくマリー・ド・メディシスブルボンあさ起源きげんとなった。

メディチ歴史れきし

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メディチ起源きげん

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「メディチ」は「医師いし」という意味いみで、先祖せんぞ薬種やくしゅ問屋とんや医師いしであったのではないかとされており、13世紀せいきのフィレンツェ政府せいふ評議ひょうぎ会議かいぎいん記録きろくすでにメディチの名前なまえのこされているが、それ以前いぜん経歴けいれき一族いちぞく出自しゅつじいてはあまりあきらかにされていない。美術びじゅつ研究けんきゅう高階たかしな秀爾ひでじ著書ちょしょで、メディチ元々もともとムジェッロ英語えいごばん出身しゅっしん農民のうみんであり、耕地こうちはらってまちたと推測すいそくしている[1]。メディチの紋章もんしょう金地きんじ数個すうこあかたまはいする)の由来ゆらいについては、2つのせつがある。ひとつは、「メディチ」(Medici)の家名かめいそのものがしめすように、かれらの祖先そせん医師いし単数たんすうmedico/複数ふくすうmedici)ないし薬種やくしゅしょうであり、あかたま丸薬がんやく、あるいはだまいだすためにもちいるまるいガラスだま)をあらわしているというせつである。もうひとつは、メディチをフィレンツェ随一ずいいちだい富豪ふごうにしたとう職業しょくぎょう、すなわち銀行ぎんこうぎょう両替りょうがえしょう)にちなんで、貨幣かへい、あるいは両替りょうがえしょうばかり分銅ふんどうあらわしているというせつである[2]銀行ぎんこうぎょうはじめるまえは、薬品やくひん一種いっしゅで、欧州おうしゅう工業こうぎょうおおきな位置いちめていた毛織物けおりもの産業さんぎょうにおいて媒染ばいせんざいとして重用じゅうようされたミョウバンあきなってえていた。いずれにしろ、一族いちぞくおおいコジモのは、医師いし薬剤師やくざいし守護しゅご聖人せいじんひじりコスマス英語えいごばん由来ゆらいしている。

14世紀せいきには銀行ぎんこうとして台頭たいとうし、フィレンツェ共和きょうわこく政府せいふにもメンバーをおくりこむまでになった。1378ねん下層かそう労働ろうどうしゃ新興しんこう商人しょうにんむすんだチョンピのらんでは、メディチ一族いちぞくサルヴェストロ英語えいごばん活躍かつやくするが、反対はんたいのアルビッツィらにかえされて失敗しっぱいする。サルヴェストロのは、ながくフィレンツェ市民しみん記憶きおくのこったというが、一族いちぞく勢力せいりょくおとろえた。そうしたなかのちのメディチ一族いちぞく基礎きそつくったのはヴィエーリ・ディ・カンビオ英語えいごばん1323ねん - 1395ねん)である。ヴィエーリはローマ教皇きょうこうちょうにもつながりをって、銀行ぎんこうぎょう成功せいこうした。

銀行ぎんこうとしての成功せいこう

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ジョヴァンニ・ディ・ビッチ

メディチは、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360ねん - 1429ねん)のだい銀行ぎんこうぎょうおおきな成功せいこうおさめる。メディチ銀行ぎんこうローマヴェネツィア支店してんもうひろげ、1410ねんにはローマ教皇きょうこうちょう会計かいけいいん財務ざいむ管理かんりしゃとなり、教皇きょうこうちょう金融きんゆう業務ぎょうむ優位ゆうい立場たちばて、莫大ばくだい収益しゅうえきにすることに成功せいこうした。これは教会きょうかい大分おおいたきれ(シスマ)のつづキリスト教きりすときょうかい対立たいりつ介入かいにゅうし、バルダッサッレ・コッサなる醜聞しゅうぶんつつまれた人物じんぶつ支援しえんし、対立たいりつ教皇きょうこうヨハネス23せいとして即位そくいさせた賜物たまものであった。1422ねんローマ教皇きょうこうマルティヌス5せいはモンテ・ヴェルデの伯爵はくしゃくさづけようとしたが、ジョヴァンニは政治せいじてき配慮はいりょから辞退じたいし、いち市民しみん立場たちばとどまった。

メディチとフィレンツェの黄金おうごん時代じだい

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コジモ・デ・メディチ
 
ロレンツォ・デ・メディチ

ジョヴァンニの息子むすこコジモ(1389ねん - 1464ねん、コジモ・イル・ヴェッキオ)は政敵せいてきによって一時いちじ追放ついほうされるが、1434ねんにフィレンツェに帰還きかんし、政府せいふ実権じっけんにぎる(1434ねんからいち時期じきのぞき、1737ねんまでのメディチ支配しはい体制たいせい基礎きそ確立かくりつする)。みずからの派閥はばつつね多数たすうめるように公職こうしょく選挙せんきょ制度せいど操作そうさし、事実じじつじょう支配しはいしゃシニョリーア)としてフィレンツェ共和きょうわこく統治とうちした。家業かぎょう銀行ぎんこうぎょう隆盛りゅうせいきわめ、支店してんもうはイタリア各地かくちほかロンドンジュネーヴアヴィニョンブルッヘなどへ拡大かくだいした。メディチはイタリアだけでなくヨーロッパでも有数ゆうすうだい富豪ふごうとなった。

そのであるピエロ(1416ねん - 1469ねん)は、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風つうふうびょうみの)とばれ、病弱びょうじゃくであったが、はんメディチおさみ、メディチ黄金おうごん時代じだい維持いじさせることに成功せいこうした。一方いっぽうでパトロンとしては独自どくじ才覚さいかく発揮はっきし、アルベルティドナテッロフィリッポ・リッピベノッツォ・ゴッツォリなどが活躍かつやくした。ボッティチェリもピエロのだい輩出はいしゅつするのである。

コジモのまごロレンツォ(1449ねん - 1492ねん)はすぐれた政治せいじ外交がいこう能力のうりょくっていた。イタリア各国かっこく利害りがい調整ちょうせいする立場たちばとしておおきな影響えいきょうりょくるい、信頼しんらいていた。パッツィ陰謀いんぼうへの対処たいしょられるように反対はんたいには容赦ようしゃ弾圧だんあつくわえる一方いっぽうで、一般いっぱん市民しみんには気前きまえ振舞ふるまい、またボッティチェリミケランジェロなど多数たすう芸術げいじゅつ保護ほごするパトロンとしてもられている。ロレンツォの時代じだいはフィレンツェの最盛さいせいでもあり、「偉大いだいなるロレンツォ」(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)とばれた。しかし、銀行ぎんこう経営けいえい内実ないじつ巨額きょがく赤字あかじであり、曾祖父そうそふジョヴァンニと祖父そふがきずきあげたメディチ銀行ぎんこうイタリアばん英語えいごばん破綻はたん寸前すんぜん状態じょうたいであった。また、共和きょうわこく公金こうきんにもけていたといわれる。ロレンツォの不正ふせいは、メディチのフィレンツェの支配しはいしゃとしての意識いしき変質へんしつ物語ものがたるものとなる。

フィレンツェ追放ついほう君主くんしゅ

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ジョヴァンニ・デ・メディチ(教皇きょうこうレオ10せい
 
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ
 
ジュリオ・デ・メディチ(教皇きょうこうクレメンス7せい
 
アレッサンドロ・デ・メディチ

ロレンツォが43さい病死びょうしし、長男ちょうなんピエロ家督かとくぐが、1494ねんシャルル8せいひきいるフランスぐん侵攻しんこうたいする対処たいしょあやまり(だいいちイタリア戦争せんそう)、市民しみんいかりをった。メディチはフィレンツェを追放ついほうされ、メディチ銀行ぎんこうイタリアばん英語えいごばん破綻はたんした。この失態しったいからピエロは、ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧ぐまいなピエロ)というあだばれることになった。そのピエロはチェーザレ・ボルジアぐんとも行動こうどうしていたが、1503ねん溺死できしした。このため、ピエロ・ロ・スフォルトゥナート(不運ふうんなピエロ)ともばれる。

ピエロのにより、メディチ当主とうしゅおとうとのジョヴァンニ枢機卿すうききょう(ロレンツォの次男じなん)に継承けいしょうされた。1512ねん、ジョヴァンニを筆頭ひっとうにしたメディチは、ハプスブルク援助えんじょスペインぐんともにフィレンツェに復帰ふっきし、その支配しはいさい確立かくりつした。1513ねん、ジョヴァンニは教皇きょうこうレオ10せいとして即位そくいし(在位ざいい:1513ねん - 1521ねん)、メディチはフィレンツェとローマ教皇きょうこうりょう支配しはいする門閥もんばつとなった。レオ10せい芸術げいじゅつ愛好あいこうし、ローマを中心ちゅうしんルネサンス文化ぶんか最盛さいせいをもたらしたが、多額たがく浪費ろうひつづけて教皇きょうこうちょう財政ざいせい逼迫ひっぱくまねき、サン・ピエトロだい聖堂せいどう建設けんせつのためとしておおがかりな贖宥じょう(いわゆる免罪めんざい)の販売はんばいみとめたことで、1517ねんマルティン・ルターによる宗教しゅうきょう改革かいかく運動うんどうのきっかけをつくった。1516ねんにレオ10せいウルビーノこうフランチェスコ・マリーア1せい・デッラ・ローヴェレ破門はもんしたことからウルビーノ戦争せんそう勃発ぼっぱつしたが、レオ10せい抜擢ばってきしたジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレくろ隊長たいちょうジョヴァンニ)に鎮圧ちんあつされた。

レオ10せい1521ねん死去しきょするが、2ねん従弟じゅうていのジュリオ枢機卿すうききょう教皇きょうこうクレメンス7せい在位ざいい:1523ねん - 1534ねん)として即位そくいする。クレメンス7せい当時とうじ複雑ふくざつ政治せいじ状況じょうきょうなか、フランスと同盟どうめいむすんだことで、1527ねん神聖しんせいローマ皇帝こうていけんスペインおうカール5せい報復ほうふくけ、ローマ略奪りゃくだつだい惨事さんじまねく。同時どうじにメディチ再度さいどフィレンツェを追放ついほうされるが、1530ねんにはクレメンス7せい皇帝こうていカール5せい和解わかいしたため、メディチはフィレンツェに帰還きかん復権ふっけんする。1532ねん、クレメンス7せい息子むすこ庶子しょしアレッサンドロがフィレンツェこうとなり、メディチはついに正式せいしき君主くんしゅとなった。

1533ねんにクレメンス7せいは、フランスおうフランソワ1せい縁組えんぐみをまとめ、カトリーヌ・ド・メディシスアンリ2せい結婚けっこんした。カトリーヌは10にんんだものの、ユグノー戦争せんそうすえにヴァロワあさ断絶だんぜつアンリ4せいがメディチマリー・ド・メディシスブルボンあさ血統けっとうをつくった。ルイ13せいルイ14せいルイ (グラン・ドーファン)ルイ16せいの4にんハプスブルク政略せいりゃく結婚けっこんしている。

トスカーナ大公たいこうこく

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フランチェスコ1せい・デ・メディチ
 
ジャン・ガストーネ・デ・メディチ大公たいこう

フィレンツェこうアレッサンドロが1537ねん暗殺あんさつされてコジモ・イル・ヴェッキオ以来いらい家系かけい断絶だんぜつしたのち傍系ぼうけいコジモ1せいおおやけ継承けいしょうし、1569ねんにはトスカーナ大公たいこうとなった。コジモ1せい専制せんせい君主くんしゅとしてトスカーナ大公たいこうこく支配しはいし、またフィレンツェを豪華ごうか宮殿きゅうでんやモニュメントでかざて、現在げんざいられるようなフィレンツェの景観けいかんつくした。コジモ1せい死後しご子孫しそん代々だいだいトスカーナ大公たいこう継承けいしょうしたが、だい航海こうかい時代じだい宗教しゅうきょう改革かいかく影響えいきょうでイタリア自体じたい西欧せいおうでの地位ちい低下ていかした。

フランチェスコ1せい在位ざいい:1574ねん - 1587ねん)は、むすめマリー・ド・メディシスフランス国王こくおうアンリ4せいの2番目ばんめ王妃おうひえることに成功せいこうし、マリーは息子むすこルイ13せいんだ。幼年ようねんのルイ13せい即位そくいするとマリーは、アンリ4せいむすんだたいハプスブルク政略せいりゃく結婚けっこん政治せいじ方針ほうしんをことごとく破棄はきし、リシュリュー支援しえんしゃとして登用とうようしようとした。成人せいじんしたルイ13せいは、マリーをブロワじょう幽閉ゆうへいしたが、1618ねんさんじゅうねん戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、1619ねんにマリーは脱出だっしゅつして反乱はんらんしたが鎮圧ちんあつされた。講和こうわ条約じょうやくヴェストファーレン条約じょうやくむすばれ、ヴェストファーレン体制たいせいにおける列強れっきょうにメディチ名前なまえはもはやなかった。さんじゅうねん戦争せんそうからイングランドへ帰国きこくしたチャールズ1せい増税ぞうぜいおこなってイングランド内戦ないせん誘発ゆうはつし、オリヴァー・クロムウェル台頭たいとうする。フランス・スペイン戦争せんそう継続けいぞくされ、フランスとクロムウェルの派遣はけんしたイングランド共和きょうわこく連合れんごうぐん砂丘さきゅうたたか勝利しょうりし、1659ねんピレネー条約じょうやく締結ていけつした。マリーの2人ふたりまごルイ14せいマリー・テレーズ・ドートリッシュ結婚けっこんし、スペインは50まんエスクード持参じさんきんとしてフランスに支払しはらった[よう出典しゅってん]。こうしてスペインは没落ぼつらくし、フランスの覇権はけんはじまった。

一方いっぽう、トスカーナ大公たいこうこくは、フェルディナンド1せい在位ざいい1587ねん - 1609ねん)を最後さいごにしてイタリアのいち小国しょうこくになった。教皇きょうこうレオ11せい1605ねん即位そくいしたが、1ねんもたたずに急死きゅうし以降いこうメディチ教皇きょうこう任命にんめいされなかった。

1737ねんだい7だいトスカーナ大公たいこうジャン・ガストーネ後継こうけいしゃのこさずに死亡しぼうした。トスカーナ大公たいこうは、ロレーヌのフランツ・シュテファン(神聖しんせいローマ皇帝こうていフランツ1せい)が継承けいしょうした。こうして、西にしヨーロッパにそのせたメディチ断絶だんぜつした。なお、メディチ本家ほんけがフィレンツェをおさめる以前いぜんかれた家系かけいメディチ・ディ・オッタイアーノイタリアばんが、女系じょけいでも本家ほんけきんえん関係かんけいにあったことからトスカーナ大公たいこうもとめて運動うんどうしたが、かなわなかった。この家系かけいは、現在げんざい血脈けちみゃくたもっている。

著名ちょめいなメディチ人物じんぶつ

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教皇きょうこう3にん、フィレンツェこう2にん、トスカーナ大公たいこう7にん、フランス母后ぼこう2にんとう輩出はいしゅつしている。

フィクションへの反映はんえい

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アレクサンドル・デュマ・ペール小説しょうせつモンテ・クリストはく』のなかてくる「スパダ」は、メディチではないかと推測すいそくされる。モンテ・クリストはく作中さくちゅう財産ざいさんはスパダかく財宝ざいほうであるが、スパダがイタリアの豪商ごうしょうであること、枢機卿すうききょう輩出はいしゅつしていること、断絶だんぜつしていることなどが一致いっちする。なお、『モンテ・クリストはく』がかれたのは1844ねんから、冒頭ぼうとう部分ぶぶん1815ねんからはじまる。

ただし、ローマに実際じっさいにスパダ存在そんざいしており、17世紀せいき枢機卿すうききょうしていること、資産しさんおおく、その絵画かいがコレクションと邸宅ていたく現在げんざいもスパーダ美術館びじゅつかん(ローマのカンポ・デ・フィオーリ付近ふきん)としてのこっていることをかんがえると、あえて『モンテ・クリストはく』のなかてくる「スパダ」をメディチ推測すいそくすることには疑問ぎもんもある。

2016ねんから2019ねんにかけて、イタリア放送ほうそう協会きょうかい制作せいさくでテレビドラマ『メディチ』が制作せいさく放送ほうそうされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 高階たかしな 1996, p. 7.
  2. ^ 家名かめい本来ほんらい意味いみかんがえれば、医師いし薬種やくしゅしょう出身しゅっしんで、丸薬がんやく意匠いしょうしたとるのが自然しぜんであるが、13世紀せいき以降いこう医師いし薬種やくしゅしょう組合くみあい史料しりょうにメディチの一族いちぞく登録とうろくしていた形跡けいせきはない。しかし、一方いっぽう貨幣かへいないしばかり分銅ふんどう意匠いしょうしたとかんがえることは、銀行ぎんこう組合くみあい両替りょうがえしょう組合くみあい)の紋章もんしょう比較ひかくすると疑問ぎもんしょうずる。なぜなら、銀行ぎんこう組合くみあいしょうえんばんのモティーフはあきらかに貨幣かへい意匠いしょうしたものだが、そこではしょうえんばんはコインじょう平板へいばん形状けいじょうしめしているのにたいし、メディチの紋章もんしょうでは、当初とうしょからヴォリユームゆたかな半球はんきゅうじょうたま(パツラ)がならべられているからだ。(森田もりた義之よしゆき『メディチ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょより)

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高階たかしな秀爾ひでじ『フィレンツェ: 初期しょきルネサンス美術びじゅつ運命うんめい中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1996ねん初版しょはん1966ねんISBN 9784121001184NCID BN01898705 脚注きゃくちゅう引用いんよう
  • 森田もりた義之よしゆき『メディチ』(講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、1999ねん)。※脚注きゃくちゅう引用いんよう
  • 図説ずせつ メディチ 古都ことフィレンツェと栄光えいこうの「王朝おうちょう」』(中嶋なかじまひろしろう解説かいせつ河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ ふくろうのほん、2000ねん
  • 藤沢ふじさわ道郎みちお『メディチはなぜさかえたか』(講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、2001ねん
  • 中田なかた耕治こうじ『メディチひとびと ルネサンスの栄光えいこう頽廃たいはい』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2002ねん
  • 根占ねじめけんじいち『ロレンツォ・デ・メディチ』(みなみまどしゃ、1997ねん
  • クリスチャン・ベック『メジチ世紀せいき西本にしもと晃二こうじわけ白水しろみずしゃ 文庫ぶんこクセジュ、1980ねん
  • クリストファー・ヒバート『メディチ盛衰せいすい遠藤えんどう利国としくにやくうえした東洋とうよう書林しょりん、2000ねん
    ※『メディチ その勃興ぼっこう没落ぼつらく』(リブロポート、1984ねん)を改訂かいてい
  • クリストファー・ヒバート『フィレンツェ』 横山よこやまいさおなんじやくうえしたはら書房しょぼう、1999ねん
  • ロラン・ル・モレ『ジョルジョ・ヴァザーリ メディチ演出えんしゅつしゃ平川ひらかわゆうひろし平川ひらかわ恵子けいこやく白水しろみずしゃ、2003ねん
  • セルジョ・ベルテッリ『ルネサンス宮廷きゅうてい大全たいぜん川野かわの美也子みやこやく東洋とうよう書林しょりん、2006ねん
  • つじ邦生くにおはる戴冠たいかん』 - メディチ題材だいざいにした大作たいさく歴史れきし小説しょうせつ
    初版しょはん新潮社しんちょうしゃ うえした、1977ねん中公ちゅうこう文庫ぶんこ ぜん4かん、2008ねん
  • クラリッサ・ハイマン『オレンジの歴史れきし大間知おおまち知子ともこやくはら書房しょぼう、2016ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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