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ロベルト1世 (ナポリ王) - Wikipedia

ロベルト1せいRoberto I, 1277ねん - 1343ねん1がつ20日はつか)は、アンジューナポリおう在位ざいい1309ねん - 1343ねん)。カルロ2せい三男さんなんははハンガリーおうイシュトヴァーン5せいむすめマーリア。ロベルト賢明けんめいおう(Roberto il Saggio)とばれる。教皇きょうこうとう(グエルフィ)のリーダーとなされていた[1]

ロベルト1せい
Roberto I
ナポリ国王こくおう
在位ざいい 1309ねん - 1343ねん

出生しゅっしょう 1277ねん
シチリア王国おうこくサンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレ
死去しきょ 1343ねん1がつ20日はつか
ナポリ王国の旗 ナポリ王国おうこくナポリ
埋葬まいそう ナポリ王国の旗 ナポリ王国おうこくナポリ、サンタ・キアラ聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ ヨランダ・ダラゴナ
  サンチャ・デ・マヨルカ
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい アンジュー=シチリア
王朝おうちょう ナポリ・アンジューあさ
父親ちちおや カルロ2せい
母親ははおや マリア・ドゥンゲリア
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略歴りゃくれき

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ナポリおう

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1309ねんちちおうカルロ2せいによって即位そくいした。このとき早世そうせいしたあにカルロ・マルテッロ息子むすこカルロ・ロベルトも有力ゆうりょく王位おうい継承けいしょうけんしゃであったが、カルロ・ロベルトはハンガリーおうカーロイ1せいとして即位そくい)となるのにいそがしく、ナポリ王位おういには興味きょうみしめさなかったため、ロベルトがロベルト1せいとしてナポリ王位おうい継承けいしょうした。なお、ジャック・ドゥーズ(のちの教皇きょうこうヨハネス22せい)はロベルト1せい秘書ひしょつとめていた時期じきがある[1]

アカイア公国こうこくをめぐる活動かつどう

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アカイア公国こうこく支配しはいけんはロベルトのおとうとターラントこうフィリッポ1せい保有ほゆうしていたが、1313ねん以降いこうは、イザベル・ド・ヴィルアルドゥアンむすめマオー・ド・エノーおっとルイ・ド・ブルゴーニュロベール2せい息子むすこ)とともに獲得かくとくしていた。ロベルトは、ルイが1316ねん死去しきょしたことを好機こうきとして、よく1317ねん、マオーをイタリア連行れんこうし、自分じぶんべつおとうとグラヴィーナはくジョヴァンニとの再婚さいこん要求ようきゅうした。しかしマオーはこれにおうじず、しかも貴族きぞくユーグ・ド・ラ・パリッスとひそかに結婚けっこんしていた。

ロベルトはこれに激怒げきどし、マオーからアカイアおおやけ剥奪はくだつして投獄とうごくすると、みずからアカイアこうかねした。当時とうじ神聖しんせいローマ皇帝こうていハインリヒ7せいがイタリア政策せいさくによってイタリア半島はんとう遠征えんせいしていたが、ロベルトはこの対応たいおう忙殺ぼうさつされたため、1322ねん、ユーグを大逆だいぎゃくざい処刑しょけいして後顧こうこうれいをち、そののちジョヴァンニにアカイアおおやけゆずった。

人物じんぶつ

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人物じんぶつぞう

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政治せいじでもあったフィレンツェ出身しゅっしん文人ぶんじんダンテ・アリギエーリは、グエルフィの指導しどうしゃされていたロベルト1せいについて、「口先くちさきだけの王様おうさま」とだんじている[1]

1297ねんアラゴンおうペドロ3せいむすめヨランダ(1273ねん - 1302ねん)と結婚けっこんし、2なんをもうけた。

1304ねんマヨルカおうジャウメ2せいむすめでヨランダの従妹じゅうまいにあたるサンチャ(1285ねんごろ - 1345ねん)と再婚さいこんしたが、子供こどもまれなかった。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • P.G.マックスウェル・スチュアート ちょ月森つきもりひだりとも菅沼すがぬまひろしやく高橋たかはし正男まさお監修かんしゅうへん『ローマ教皇きょうこう歴代れきだいつくもとしゃ、1999ねん12月。ISBN 4-422-21513-2 
先代せんだい
カルロ2せい
ナポリおう
プロヴァンスはく
1309ねん - 1343ねん
次代じだい
ジョヴァンナ1せい
先代せんだい
マオー・ド・エノー
ルイ・ド・ブルゴーニュきょう
アカイアこう
1318ねん - 1322ねん
次代じだい
ジョヴァンニ・ディ・グラヴィナ