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ロマノフ朝 - Wikipedia

ロマノフあさ

ロシアの王朝おうちょう

ロマノフあさ(ロマノフちょう、1613ねん - 1917ねん)は、1613ねんから1917ねんまでロシア君臨くんりんしたロシアの歴史れきしうえ最後さいご王朝おうちょうである。

1892ねんなつサンクトペテルブルクのクラスノエ・セロでの軍事ぐんじ演習えんしゅう姿すがたせるロマノフ皇帝こうてい皇族こうぞく前列ぜんれつすわっている人物じんぶつ画面がめんかってひだりから クセニア大公たいこうおんなしろふくしろ帽子ぼうし女性じょせい)、メクレンブルク・シュヴェーリンこうおんなウラジーミル大公たいこうマリアくろふく日傘ひがさった女性じょせい)、そのみぎとなりエレナ大公たいこうおんな, さらにそのみぎとなりザクセン・アレテンブルクこうおんなコンスタンティン大公たいこうアレクサンドラアレクサンドル3せい皇后こうごうマリアしろふく女性じょせい)、皇帝こうていアレクサンドル3せいミハイル大公たいこうパーヴェル大公たいこう。(すぐうしろのれつ画面がめんむかってひだりから) メクレンブルクこうカール・ミヒャエルメクレンブルク・シュトレリッツこうゲオルク (パーヴェル1せい曾孫そうそん), コンスタンティン大公たいこうとそのあねギリシャ王妃おうひオルガくろふく女性じょせい)、そのみぎとなりニコライ皇太子こうたいし(のちのニコライ2せいウラジーミル大公たいこうドミートリー大公たいこう (しろ帽子ぼうし人物じんぶつ)、オルデンブルク公子こうしペーター (パーヴェル1せい玄孫げんそん)およびだい6だいロイキテンベルクこうゲオルギー (ニコライ1せい曾孫そうそん)。さい後列こうれつの3にん男性だんせいひだりから セルゲイ大公たいこうニコライ大公たいこうオルデンブルクこうアレキサンダー (ドミートリー大公たいこうかたている人物じんぶつ。ペーターこうちち、パーヴェル1せい曾孫そうそん)。 さい前列ぜんれつべたにすわっている4にん少年しょうねんアレクセイ大公たいこう (くろ海軍かいぐんふく人物じんぶつ)、そのとなりのしろ海軍かいぐんふく人物じんぶつひだりからミハイル大公たいこうアンドレイ大公たいこうボリス大公たいこう

概要がいよう

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1613ねんロマノフミハイル・ロマノフロシア・ツァーリこくのツァーリに即位そくいして成立せいりつした。その1721ねんピョートル1せいインペラトール名乗なの体制たいせいロシア帝国ていこくあらた西欧せいおう推進すいしんし、1917ねんロシア革命かくめい滅亡めつぼうした。

政体せいたいはロシア・ツァーリこくとロシア帝国ていこくかれ、首都しゅとモスクワからサンクトペテルブルクに遷っている。また王家おうけロマノフからドイツ貴族きぞくホルシュタイン=ゴットルプ男系だんけいうつっており、ピョートル3せい以降いこうホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝おうちょうぶのがただしい(後述こうじゅつ)。

このように歴史れきしがくじょうでは区分くぶんされるが、1913ねんに「ロマノフ王朝おうちょう300ねんさい英語えいごばんロシアばん」が挙行きょこうされるなど、ミハイル・ロマノフからニコライ2せいまで連綿れんめんつづいた王朝おうちょうであるという認識にんしき当時とうじ人々ひとびとっていた。

現在げんざいでもたんに「ロマノフあさ」といえば「ミハイル・ロマノフからニコライ2せいまで連綿れんめんつづいたロシアの王朝おうちょう」とすのが一般いっぱんてきである。

リューリクあさ1598ねん1がつフョードル1せい崩御ほうぎょ断絶だんぜつした。以後いご、ロシアでは皇位こういをめぐる動乱どうらんはいり、そのなか16世紀せいきすえフョードル・ニキーチチ・ロマノフだいロマノフ台頭たいとうして動乱どうらん[1]せいし、その息子むすこであるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが1613ねん推戴すいたいされて初代しょだいツァーリ即位そくいした。ロマノフはリューリクあさ直接ちょくせつ血縁けつえん関係かんけいいが(一応いちおう女系じょけいではリューリクあさ傍流ぼうりゅうつらなる子孫しそんだが、その程度ていど血縁けつえんしゃならば、貴族きぞくにも多数たすういた)、イヴァン4せいだい1夫人ふじんアナスタシアがロマノフ出身しゅっしんであるという縁戚えんせきであった。こうして、ここに300ねんつづくロマノフあさはじまった。

ピョートル大帝たいていまで

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ミハイルとその息子むすこであるアレクセイ時代じだい対外たいがい戦争せんそう国内こくない戦争せんそうの2つになやまされながらも、帝政ていせい基盤きばんかためと西洋せいようすすめられた。アレクセイの末子まっし専制せんせい君主くんしゅとして君臨くんりんしたピョートル1せい(ピョートル大帝たいてい)の時代じだいにロシアは西洋せいよう近代きんだい急速きゅうそくすすめてヨーロッパ列強れっきょうくわわり、その勢力せいりょく拡大かくだいしてヨーロッパから沿海州えんかいしゅうまでを支配しはいし、帝政ていせい基礎きそはこの時代じだい安定あんていした。

ロマノフあさ男系だんけい断絶だんぜつ世襲せしゅう危機きき

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ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ紋章もんしょう左側ひだりがわのグリフォンの紋章もんしょうがロマノフ紋章もんしょう

1725ねんのピョートル大帝たいてい崩御ほうぎょ、ロマノフあさつね継承けいしょう問題もんだいなやまされた。大帝たいてい男子だんしはこの時点じてん早世そうせいしており、のこっていたのは大帝たいてい殺害さつがいしたアレクセイ皇太子こうたいしピョートル2せいのみであった。このピョートル2せい1730ねんのこさずに早世そうせいし、この時点じてんロマノフ男系だんけい嫡流ちゃくりゅう断絶だんぜつした。

ピョートル2せい崩御ほうぎょ傍系ぼうけいアンナ(ピョートル大帝たいていあにイヴァン5せいむすめ)がぐも、彼女かのじょにもく、1740ねんにはついめい息子むすこでわずか生後せいご2ヶ月かげつイヴァン6せいあとがせた。しかし、ピョートル大帝たいていむすめエリザヴェータによるクーデターがこり、イヴァン6せいはいされ、エリザヴェータが女帝にょていとして即位そくいした。だが、彼女かのじょにもく1762ねん崩御ほうぎょ。エリザヴェータのおいピョートル3せい(ピョートル大帝たいていむすめでエリザヴェータのあねアンナ・ペトロヴナ)があとぐが、宮廷きゅうてい革命かくめいドイツじん皇后こうごうエカチェリーナ2せい即位そくいした。

エカチェリーナ2せいからアレクサンドル1せい

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エカチェリーナ2せい積極せっきょくてき対外たいがい進出しんしゅつすすめる一方いっぽう様々さまざま行政ぎょうせい改革かいかく近代きんだいおこない、帝政ていせい全盛期ぜんせいき現出げんしゅつした。1796ねんにエカチェリーナ2せい崩御ほうぎょしたのちは、ピョートル3せいとの息子むすこパーヴェル1せいあといだ。

パーヴェル1せいはは政策せいさく否定ひていし、世襲せしゅう混乱こんらんするロマノフ収束しゅうそくするために1797ねん帝位ていい継承けいしょうほう発布はっぷし、以後いご男系だんけい長男ちょうなん皇位こうい継承けいしょうすることがさだめられた。しかし1801ねんにパーヴェル1せい部下ぶかクーデター殺害さつがいされた。

パーヴェル1せい長男ちょうなんアレクサンドル1せい祖母そぼ政策せいさく君主くんしゅけん強化きょうか近代きんだいすすめた。1812ねんにはフランスナポレオン・ボナパルト侵攻しんこうけるが、たくみなゲリラせんひろげてフランスぐん撃退げきたいし、東欧とうおう最大さいだい強国きょうこくとしての地位ちい確立かくりつした。さらにポーランドをさい分割ぶんかつし、フィンランド大公たいこうこく建国けんこくして、ウィーン会議かいぎにおいて神聖しんせい同盟どうめいこく同盟どうめい)を提唱ていしょうするなどヨーロッパにたいする影響えいきょうりょくたかめた。

革命かくめい前夜ぜんや

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1913ねん盛大せいだいいわわれたロマノフ王朝おうちょう300ねんさい英語えいごばんロシアばん[1]。この4ねんにロマノフあさ滅亡めつぼうした。この式典しきてんからも当時とうじ人々ひとびとが「ロマノフとホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ」、「ロシア・ツァーリこくとロシア帝国ていこく」の区別くべつをしていないことがうかがえる。

1825ねんにアレクサンドル1せい崩御ほうぎょした。かれすべ夭折ようせつしていたため、おとうとニコライ1せいいだ。すると立憲りっけん君主くんしゅせいもとめてデカブリストのらんこる。ニコライ1せいはこれをきびしく弾圧だんあつし、以後いご皇帝こうてい極端きょくたんすぎる保守ほしゅ絶対ぜったい政治せいじおこなった。ニコライ1せい近代きんだい積極せっきょくてき対外たいがい進出しんしゅつ目指めざしたが、こころざしなかばで1855ねん崩御ほうぎょした。あといだアレクサンドル2せい近代きんだいさまたげとなっていた農奴のうどせい解放かいほう農奴のうど解放かいほうれい)して近代きんだいすすめるも、ポーランドでの反乱はんらん後継こうけいしゃ早世そうせい失意しついおちいり、最期さいごは1881ねん没落ぼつらくした貴族きぞく階級かいきゅうポーランドじん人民じんみん意志いし党員とういんイグナツィ・フリニェヴィエツキ英語えいごばんによるテロル暗殺あんさつされた。

暗殺あんさつ事件じけんあといだアレクサンドル3せいは、保守ほしゅ政治せいじはなおもつづけるも急速きゅうそく工業こうぎょう推進すいしんしてロシアの近代きんだい軌道きどうせた。

1894ねんあといだニコライ2せい臣下しんか発言はつげん意思いしをゆだねるところがあり、先代せんだいのような指導しどうりょくはなかった。にち戦争せんそうでは日本にっぽん完敗かんぱいし、この戦争せんそうちゅうこったロシアだいいち革命かくめい絶対ぜったい君主くんしゅせいから立憲りっけん君主くんしゅせい移行いこうすることを余儀よぎなくされた。

だが立憲りっけん政治せいじばかりで実態じったいともなわず、貴族きぞく地主じぬしらによる保守ほしゅ政治せいじがなおもつづいた。そのなかおこなわれたピョートル・ストルイピン反動はんどう政治せいじはロマノフあさから知識ちしきじん国民こくみん離反りはんさせ、はん体制たいせいグループが台頭たいとうする一端いったんした。1914ねんからはだいいち世界せかい大戦たいせん参加さんかし、それにより国民こくみん生活せいかつはますます困窮こんきゅうした。そして1917ねんロシア革命かくめい君主くんしゅせいそのものが打倒だとうされてロマノフあさ崩壊ほうかいした。

2007ねん世論せろん調査ちょうさでロマノフあさ復活ふっかつ賛成さんせい国民こくみんが37%、反対はんたいが7%と君主くんしゅせい支持しじおおくなってきている。それはロシアの深刻しんこく格差かくさ社会しゃかい原因げんいんであるともいわれる。

外交がいこう

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ロマノフあさでは歴代れきだい皇帝こうてい政策せいさくによって外交がいこう政策せいさく変更へんこうされた。初代しょだいのミハイルはポーランド王国おうこく紛争ふんそうこすも、当時とうじのロシアの国力こくりょく微弱びじゃくだったことからされつづけた。また、タタール侵攻しんこうけて南部なんぶ国境こっきょう守備しゅびかためた。だい2だいのアレクセイもポーランドと13ねん戦争せんそうこし、同時どうじスウェーデンとも敵対てきたいした。

アレクセイの末子まっし・ピョートル大帝たいてい積極せっきょくてき対外たいがい進出しんしゅつおこない、西欧せいおう列強れっきょう友好ゆうこう関係かんけいきず一方いっぽうだい北方ほっぽう戦争せんそうでスウェーデンをやぶってエストニアリヴォニアなどおおくの領土りょうど獲得かくとくした。一方いっぽうでロシア東部とうぶにも進出しんしゅつしてカムチャッカ半島はんとう千島ちしまなどに領土りょうど拡大かくだいした。ピョートル大帝たいてい死後しご、ピョートル3せいまで歴代れきだい皇帝こうてい西欧せいおう列強れっきょう戦争せんそうフランス王国おうこくとの戦争せんそうオーストリア継承けいしょう戦争せんそう7ねん戦争せんそう)にまれあるいは介入かいにゅうした。

エカチェリーナ2せい時代じだいプロイセンなど西欧せいおう新興しんこう列強れっきょうこく友好ゆうこう関係かんけいむすび、南下なんか政策せいさくすすめてオスマン帝国ていこく交戦こうせんした。しかしははみかど政策せいさく反対はんたいするパーヴェル1せい南下なんか政策せいさく中止ちゅうしし、イギリスフランス敵対てきたいした。このイギリス敵対てきたいがパーヴェルの暗殺あんさつロシアばんまねいた。

アレクサンドル1せいはナポレオンの遠征えんせいぐん撃退げきたいし、欧州おうしゅう中心ちゅうしんたる大国たいこくとして確固かっこたる地位ちいきずいた。ニコライ1せい祖母そぼ・エカチェリーナ女帝にょてい南下なんか政策せいさく復活ふっかつさせてオスマン帝国ていこく交戦こうせんクリミア戦争せんそう)したが、えいふつがオスマン帝国ていこく味方みかたしたため敗北はいぼくした。ただし、アレクサンドル2せい時代じだい戦争せんそうでオスマン帝国ていこく勝利しょうりして西にしアジアに勢力せいりょく拡大かくだいした。

だが、クリミア戦争せんそう敗北はいぼくのロシアはひがしアジアへの勢力せいりょく拡張かくちょう積極せっきょくてきになり、アロー戦争せんそうではえいふつ味方みかたしてきよしアイグン条約じょうやく締結ていけつしてアムールがわ一帯いったいなどだい規模きぼ領土りょうど獲得かくとくした。日本にっぽんとも江戸えど幕府ばくふにち和親わしん条約じょうやく締結ていけつして国交こっこうむすんだ。

アレクサンドル3せい工業こうぎょうなど国内こくない政策せいさく重点じゅうてんき、さんみかど協商きょうしょう破棄はきしてえいふつむすんだ。一方いっぽうしんとも1893ねん条約じょうやくむすび、領土りょうど一部いちぶ獲得かくとくした。だが、ニコライ2せい時代じだいにちしん戦争せんそうにち戦争せんそうにより日本にっぽん進出しんしゅつつよまるとロシアのひがしアジア南下なんか政策せいさく頓挫とんざし、バルカン半島ばるかんはんとうなど東欧とうおう進出しんしゅつ積極せっきょくてきになり、だいいち世界せかい大戦たいせんまれる一因いちいんした。

官制かんせい経済けいざい

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ロシア皇帝こうてい権力けんりょく絶大ぜつだいなものとおもわれがちだが、絶大ぜつだいなものとなったのはエカチェリーナ2せい時代じだいであり、それまで皇位こうい継承けいしょう貴族きぞくぐんによる宮廷きゅうてい革命かくめいによって左右さゆうされた。またエカチェリーナ2せいまでの歴代れきだい皇帝こうていによるロシア経済けいざい発展はってん宮廷きゅうてい文化ぶんか成熟せいじゅく近代きんだい皇帝こうてい威信いしんたかめる一因いちいんとなった。

ロシアの近代きんだいはピョートル大帝たいてい時代じだい推進すいしんされたが、これはあまりに急進きゅうしんてき国内こくないでも皇太子こうたいし貴族きぞく反対はんたいするなどした。あまりに急進きゅうしんすぎて広大こうだい領土りょうどりょうするロシアでは人材じんざい育成いくせいいつかず、経済けいざい停滞ていたいまねいた。

エカチェリーナ2せい以来いらい歴代れきだい皇帝こうてい農奴のうどせい国内こくない経済けいざい近代きんだい停滞ていたいまねいていたことを見抜みぬいており、農奴のうど解放かいほうしようとした。しかし皇帝こうていけん貴族きぞく支持しじがあって成立せいりつしており、農奴のうど解放かいほうすることで貴族きぞく反発はんぱつけることをおそれて廃止はいし女帝にょていのひまごであるアレクサンドル2せい時代じだいまでたざるをなかった。

そのアレクサンドル2せい農奴のうど解放かいほう不完全ふかんぜんなもので、広大こうだい領土りょうどつロシアでは改革かいかくいつかず、これがロシア革命かくめい一因いちいんした。

歴代れきだいツァーリ

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ロマノフあさ系図けいず
  1. ミハイル(1613ねん - 1645ねん) - フョードル1せい義理ぎり従弟じゅうてい
  2. アレクセイ(1645ねん - 1676ねん) - ミハイルの
  3. フョードル3せい(1676ねん - 1682ねん) - アレクセイの
  4. イヴァン5せい(1682ねん - 1689ねん) - フョードル3せいおとうと
  5. ピョートル1せい(1682ねん - 1725ねん) - 1721ねんインペラートル皇帝こうてい)」に戴冠たいかん - イヴァン5せいおとうと
  6. エカチェリーナ1せい(1725ねん - 1727ねん) - ピョートル1せい皇后こうごう
  7. ピョートル2せい(1727ねん - 1730ねん) - ピョートル1せいまご
  8. アンナ(1730ねん - 1740ねん) - イヴァン5せい
  9. イヴァン6せい(1740ねん - 1741ねん) - ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン、アンナのめい
  10. エリザヴェータ(1741ねん - 1762ねん) - ピョートル1せいとエカチェリーナ1せいむすめ
  11. ピョートル3せい(1762ねん1がつ5にち - 6月28にち)- ホルシュタイン=ゴットルプ、エリザヴェータのおい
  12. エカチェリーナ2せい(1762ねん - 1796ねん) - ピョートル3せい皇后こうごうアンハルト=ツェルプスト
  13. パーヴェル1せい(1796ねん - 1801ねん) - ピョートル3せいとエカチェリーナ2せい
  14. アレクサンドル1せい(1801ねん - 1825ねん) - パーヴェル1せい長男ちょうなん
  15. ニコライ1せい(1825ねん - 1855ねん) - パーヴェル1せいの3なん
  16. アレクサンドル2せい(1855ねん - 1881ねん) - ニコライ1せい長男ちょうなん
  17. アレクサンドル3せい(1881ねん - 1894ねん) - アレクサンドル2せい次男じなん
  18. ニコライ2せい(1894ねん - 1917ねん) - アレクサンドル3せい長男ちょうなん
  • ミハイル(1918ねん3がつ2にち - 1918ねん3がつ3にち) - ニコライ2せいおとうと(ニコライ2せい退位たいい皇位こういゆずられたが1にち退位たいいした)

ロシア革命かくめい以後いごのロマノフ当主とうしゅ

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げん当主とうしゅゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフは、アレクサンドル3せいおとうとウラジーミル大公たいこう家系かけいである。

  1. ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公たいこう(1847ねん - 1909ねん
    アレクサンドル2せい三男さんなん。ロシア革命かくめい以前いぜんぼっしており、帝位ていい請求せいきゅうしたことはない。
  2. キリル・ウラジーミロヴィチ・ロマノフ(1876ねん - 1938ねん
    ウラジーミルの息子むすこ1924ねん9月13にちにロシア皇帝こうてい継承けいしょう宣言せんげん以下いかキリルの息子むすこむすめ名目めいもくじょう皇位こうい継承けいしょうされている。
  3. ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ(1917ねん - 1992ねん
    キリルの息子むすこ
  4. マリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953ねん - )
    ウラジーミルのむすめおっとはミハイル・パヴロヴィチ(ドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せい曾孫そうそんフランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン
  5. ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981ねん - )
    マリアとフランツのあいだ息子むすこ。ロシア皇帝こうてい継承けいしょうけんだい1であるとともに、ドイツ皇帝こうていおよびプロイセン王位おうい継承けいしょうけんだい8である。

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ 土肥どい(2009),pp.116-117.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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