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千住宿 - Wikipedia

千住せんじゅ宿やど

日光にっこう街道かいどう奥州おうしゅう街道かいどう宿場しゅくば

千住せんじゅ宿やど(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)は、日光にっこう街道かいどう正式せいしきには日光にっこう道中どうちゅう)および奥州おうしゅう街道かいどう正式せいしきには奥州おうしゅう道中どうちゅう)の日本橋にほんばしから1番目ばんめ宿場しゅくばまちで、江戸えどよん宿しゅくひとつである。

葛飾かつしか北斎ほくさいとみだけさんじゅうろくけい たけしゅう千住せんじゅ
千住宿の位置(日本内)
千住宿
千住せんじゅ宿やど千住せんじゅ宿やど本陣ほんじんあと
千住せんじゅ宿やど位置いち[1]

概要がいよう

編集へんしゅう

千住せんじゅ宿やどは、武蔵むさしこく足立あだちぐん豊島としまぐん荒川あらかわげん隅田川すみだがわきょくりゅう海抜かいばつ2メートル前後ぜんこう沖積ちゅうせき低地ていちうえ荒川あらかわけられた千住大橋せんじゅおおはし沿い、隅田川すみだがわりょうきし設置せっちされ、南北なんぼくびる奥州おうしゅう街道かいどう日光にっこう街道かいどう沿って形成けいせいされた宿場しゅくばまちである。日光にっこう街道かいどうおよび奥州おうしゅう街道かいどうはつ宿やどで、水戸みと街道かいどう下妻しもづま街道かいどうがここから分岐ぶんきしていた。現在げんざい東京とうきょう足立あだち千住せんじゅいち丁目ちょうめ - 丁目ちょうめ千住仲せんじゅなかまち千住橋戸せんじゅはしどまち荒川あらかわ南千住みなみせんじゅ相当そうとうする(現在げんざい状況じょうきょうは、足立あだち千住せんじゅ荒川あらかわ南千住みなみせんじゅ参照さんしょう)。

ぶんろく3ねん1594ねん隅田川すみだがわ千住大橋せんじゅおおはしけられ、街道かいどう整備せいびすすめられると、慶長けいちょう2ねん1597ねん)に奥州おうしゅう街道かいどう日光にっこう街道かいどう宿駅しゅくえき指定していされた。 千住せんじゅは、奥州おうしゅう街道かいどう日光にっこう街道かいどう荒川あらかわ千住大橋せんじゅおおはしにて交差こうさし、荒川あらかわ隅田川すみだがわ綾瀬川あやせがわ付近ふきん合流ごうりゅうしており運輸うんゆ交通こうつう便びん有効ゆうこう場所ばしょであったことから、隅田川すみだがわ千住大橋せんじゅおおはし沿いに橋戸はしど河岸かわぎしかれていた。千住河原せんじゅかわらまち設置せっちされていた千住せんじゅ青物あおもの市場いちば(やっちゃ)は御用ごよう市場いちばとなった。千住せんじゅ江戸えど物資ぶっしはこむための中継ちゅうけい地点ちてんとしても発展はってんした。千住せんじゅ宿やど岡場所おかばしょとしても発展はってんした。また、千住せんじゅ宿やど近隣きんりんには行楽こうらく出現しゅつげん浮世絵うきよえ絵画かいがえがかれている。そして、千住せんじゅ宿やどみなみまち小塚原こづかはらまちには江戸えどきた刑場けいじょうとして、小塚原こづかはら刑場けいじょうかれている。

東海道とうかいどう品川しながわ宿やど中山道なかせんどう板橋いたばし宿やど甲州こうしゅう街道かいどう内藤ないとう新宿しんじゅくならんで江戸えどよん宿しゅくばれていたが[2]明治めいじ4ねん1872ねん)にじょさと制度せいど伝馬てんませい廃止はいしともな廃止はいしされた。

沿革えんかく

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葛飾かつしか北斎ほくさい富嶽ふがくさんじゅうろくけい 隅田川すみだがわ関屋せきやさと元和がんわ2ねん(1616ねん)。石出いしで掃部かい新田にった開発かいはつによってきずかれた掃部つつみ(かもんづつみ)のうえはしっている様子ようすえがかれている。

背景はいけい

編集へんしゅう

千住せんじゅ地名ちめい由来ゆらいかずせつある。ひとつに、新井あらい兵部ひょうぶ政勝まさかつ開基かいきとなり、かちせんしゃせんおもね上人しょうにん開山かいさんとしてぶんおう元年がんねん1260ねん草創そうそうされた勝専寺しょうせんじ[3]てらでんによれば、よしみれき2ねん1327ねん)に新井あらい図書としょ政次まさじ荒川あらかわげん隅田川すみだがわす。以下いか荒川あらかわ記述きじゅつ)であみ千手観音せんじゅかんのんぞうひろ[4]、このせんんだことに由来ゆらいするという。このぞう息子むすこでありこのてら開基かいきでもある新井あらい兵部ひょうぶ政勝まさかつによってどうてらうつりやすされたとしている。また、足利あしかが義政よしまさ愛妾あいしょう千寿せんじゅ出生しゅっしょうであったからというせつや、その千葉ちばんでいた地域ちいきであったからというせつがある。

荒川あらかわ北岸ほくがん足立あだちぐん千住せんじゅむらは、ふるくから水上すいじょう交通こうつう要所ようしょとされていた。室町むろまち時代ときよ幕府ばくふかた山内やまうち扇谷おうぎや上杉うえすぎほう鎌倉かまくら公方くぼう古河ふるかわ公方くぼうあらそ戦国せんごく時代じだい遠因えんいんひとつとなったとおるとくらん1455ねん - 1483ねん)で下総しもうさ千葉ちばにより下総しもうさこくわれた武蔵むさし千葉ちば武蔵むさし石浜いしはましろから拠点きょてんうつし、この支配しはいしていたという。千住せんじゅ近隣きんりんにある中曽根なかそね神社じんじゃ本木もとぎ)は、当時とうじ千葉ちばたね淵江ふちえきょうりしたとききずかれた淵江ふちえじょうであったともわれている[5]

開発かいはつ

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足立あだちぐんから豊島としまぐんまでびる千住せんじゅ宿やど確認かくにんできる。だい日本にっぽん沿海えんかい輿地よちぜんより[6]

街道かいどう整備せいび千住大橋せんじゅおおはし架橋かきょう

街道かいどう日光にっこう街道かいどう奥州おうしゅう街道かいどう東海道とうかいどう中山道なかせんどう甲州こうしゅう街道かいどう)の整備せいびともない、千住せんじゅ宿やど日光にっこう奥州おうしゅう街道かいどうはつ宿やど指定していされた。天正てんしょう18ねん1590ねん小田原おだわら征伐せいばつ徳川とくがわ家康いえやす関東かんとううつりふうとなり江戸城えどじょう入城にゅうじょうした。街道かいどう整備せいびすすめられた。

ぶんろく3ねん1594ねん荒川あらかわ千住大橋せんじゅおおはしけられると、この地域ちいき急速きゅうそく発展はってんした[7]江戸えど幕府ばくふは、江戸城えどじょう中心ちゅうしんとしたせきはちしゅう武蔵むさし相模さがみ上総かずさ下総しもうさ安房あわ上野うえの下野げや常陸ひたち8かこく)へはいしょ街道かいどうわたりには、千住大橋せんじゅおおはしなどをのぞいて架橋かきょうゆるされなかった。千住せんじゅ宿やど開発かいはつは、交通こうつうりょう増大ぞうだいにより宿場しゅくばまちともまちいき拡大かくだいがすすめられた。荒川あらかわ千住大橋せんじゅおおはしがかけられ、千住せんじゅ江戸えど日本橋にほんばし)から2さと奥州おうしゅう水戸みとりょう街道かいどう江戸えどへの出入でいぐち関門かんもんとして急速きゅうそく発達はったつした。

千住せんじゅ宿やど指定してい

千住せんじゅ宿やどは、もと千住せんじゅまち千住せんじゅいち丁目ちょうめけられて本宿もとじゅくとされ、はじめに追加ついかされた千住せんじゅ掃部宿やど千住河原せんじゅかわらまち千住橋戸せんじゅはしどまち3まち新宿しんじゅく本宿ほんしゅく新宿しんじゅく足立あだちぐん)、そして最後さいご追加ついかされた荒川あらかわ対岸たいがんにあった中村なかむらまち小塚原こづかはらまちの2まち豊島としまぐん)は南宿みなみやどり下宿げしゅく)とばれた[注釈ちゅうしゃく 1]

慶長けいちょう2ねん1597ねん)には人馬じんば継立つぎたて指定していされ千住せんじゅまちとされた。その寛永かんえい2ねん1625ねん)に街道かいどう整備せいびによって日光にっこう奥州おうしゅうりょう街道かいどうはつ宿やど指定していされ、地子じし免除めんじょわりに伝馬てんまやく歩行ほこうやく負担ふたんすることとなった[10]交通こうつうりょう増大ぞうだいにより千住せんじゅ宿やどはそのまちいきひろがり、『千住せんじゅきゅうこうろく』によると石出いしで掃部かい新田にった開発かいはつによって元和がんわ2ねん1616ねん)に掃部つつみかもんづつみきずかれ、万治まんじ元年がんねん1658ねん)に隣接りんせつする掃部宿やどかもんじゅく河原町かわらまちかわらちょう橋戸はしどまちはしどちょう開発かいはつされた[11]。その2ねんには荒川あらかわ対岸たいがん豊島としまぐんがわ万治まんじ3ねん1660ねん)に千住大橋せんじゅおおはし南側みなみがわ小塚原こづかはらまちこづかはらまち中村なかむらまちなかむらまち宿場しゅくばくわえられた[7]

繁栄はんえい

編集へんしゅう
 
葛飾かつしか北斎ほくさいとみだけさんじゅうろくけい したがえ千住せんじゅ花街はなまち眺望ちょうぼう

千住せんじゅ宿やどにぎわい

千住せんじゅ宿やどは、『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』にて、千住せんじゅ宿やど規模きぼやその商業しょうぎょうてきにぎわいや旅行りょこうしゃ往来おうらいについて記録きろくされている[8]

えきひろ東西とうざいじゅうよんまち南北なんぼくさんじゅうまちありて、宿やどなみあいだすうせんひゃくじゅうろくあいだ、その左右さゆうたびてい商家しょうかのきをならべて、旅人たびびとぜっゆることなく、もっともにぎわいはへり — 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう

江戸えど市街しがいのどもとで奥州おうしゅう街道かいどう水戸みと街道かいどう始点してんとして、日光にっこう東北とうほく方面ほうめんへの旅人たびびとにぎわったという。幕末ばくまつにはいえは2,400けんちかい。人口じんこうやく1まんにんたっする江戸えどよん宿しゅく最大さいだいきゅう宿場しゅくばまちになった。文政ぶんせい4ねん(1821ねん)の調しらべによると、江戸えど参勤さんきん大名だいみょうは、日光にっこう街道かいどう4、奥州おうしゅう街道かいどう37、水戸みと街道かいどう23、けい64の大名だいみょう千住せんじゅ宿やど往来おうらいしていた。

千住せんじゅ宿場しゅくばまち

千住せんじゅ宿場しゅくばまち構成こうせいは、千住せんじゅ丁目ちょうめと掃部宿やどのこ文政ぶんせい6ねん1823ねん)の記録きろくがある。職業しょくぎょうあきらかなものだけについてみると、ふな8けんこく八百屋やおや胡粉ごふん百姓ひゃくしょうかく2けんもちさかなおけむらさき刈屋かりやかぎ鍛冶屋かじやぼう左官さかん大工だいくこいわら湯屋ゆや木材もくざいかく1けんである。その職業しょくぎょうわからないもの23けん宿屋やどやは「岡場所おかばしょこう」にあるだけでも45けんといわれている[7]一角いっかくには接骨せっこつとして著名ちょめい名倉なくら診療しんりょうしょかまえ、患者かんじゃにぎわっていたという[12]宿場しゅくばはずれには小塚原こづかはら刑場けいじょう設置せっちされ、寛文ひろふみ7ねん1667ねん)には、刑場けいじょう付近ふきん土地とち回向えこういんあたえられ、いんてた回向えこういん刑死けいししたひと埋葬まいそう供養くようおこなった[13]

日光にっこうどう中宿なかしゅくむら大概たいがいちょう』によると、天保てんぽう14ねん1843ねん千住せんじゅ宿やどには本陣ほんじん1けん脇本わきもとじん1けん旅籠はたご55けんもうけられていた。宿やどない家数やかずは2,370けん人口じんこうは9,456にんであった[14]。その、掃部宿やどには「一里塚いちりづか[15]、「高札こうさつじょう」、千住せんじゅいち丁目ちょうめに「問屋場とんやば 貫目かんめあらためしょ」が設置せっちされた。元禄げんろく9ねん1696ねん)には不足ふそくする人馬じんば周辺しゅうへんむら々からあつめるじょさとせいさだめられた。

千住せんじゅ宿やど廃止はいし

編集へんしゅう
 
明細めいさい改正かいせい東京とうきょうしん 1886ねん明治めいじ19ねん
みぎじょう千住せんじゅ確認かくにんできる。荒川あらかわ北岸ほくがん千住せんじゅきたぐみちゅうぐみがあり、南岸なんがんみなみぐみがあり、りく前浜まえはま街道かいどう水戸みと街道かいどう)が千住せんじゅきたぐみ奥州おうしゅう街道かいどうから分岐ぶんきしている

じょさと制度せいど廃止はいし陸運りくうん会社かいしゃ成立せいりつ

明治めいじ時代じだいになると、じょさと制度せいど廃止はいしされ、わりに陸運りくうん会社かいしゃかれていった。 明治めいじ初期しょきには、交通こうつうめんかんしていえばきゅう幕府ばくふ時代じだい本陣ほんじん問屋場とんやば弊害へいがいおおかった徳川とくがわ幕府ばくふしょ街道かいどう宿場しゅくば保護ほご、および、人足ひとあしうま補充ほじゅう目的もくてきとしたじょさと制度せいどとう封建ほうけんてき交通こうつう機構きこう廃止はいしされた。明治めいじ4ねん政府せいふ従来じゅうらい伝馬てんましょ廃止はいしし、かく宿駅しゅくえき陸運りくうん会社かいしゃ設立せつりつした[16]

町村ちょうそんさい編成へんせい

明治めいじ時代じだいには、明治維新めいじいしんによる1878ねん明治めいじ11ねん地方ちほう制度せいどかんする太政官だじょうかん布告ふこくこおり町村ちょうそん編制へんせいほう」の施行しこう および1888ねん明治めいじ21ねん)「市制しせい町村ちょうそんせい」をて、千住せんじゅみなみぐみ東京とうきょうきた豊島としまぐん南千住みなみせんじゅまちほん宿やどであった千住せんじゅきたぐみ新宿しんじゅくであった千住せんじゅちゅうぐみ併合へいごうして同府どうふみなみ足立あだちぐん千住せんじゅまちとしぐん役所やくしょ同町どうちょういた。千住大橋せんじゅおおはしさかいふたた南北なんぼく分離ぶんりされ、現在げんざいでは北側きたがわ足立あだち南側みなみがわ荒川あらかわぞくしている[17]

物資ぶっし流通りゅうつう商業しょうぎょう施設しせつ

編集へんしゅう

千住せんじゅ宿やど日光にっこう街道かいどうおよび奥州おうしゅう街道かいどうはつ宿やどで、水戸みと街道かいどうはここから分岐ぶんきしていた。荒川あらかわ綾瀬川あやせがわ付近ふきん交差こうさしていたことから水運すいうんとく舟運しゅううん)の中継ちゅうけい地点ちてんとして橋戸はしど河岸かわぎし千住せんじゅ河岸かわぎし)がかれていた。また、河原町かわらまちには千住せんじゅ青物あおもの市場いちば(やっちゃ)が設置せっちされていた。このように、内陸ないりく交通こうつう分岐ぶんき地点ちてん水運すいうん交通こうつう中継ちゅうけい地点ちてん問屋とんや集中しゅうちゅうなどから、江戸えど物資ぶっしはこむための中継ちゅうけい地点ちてんとしても発展はってんした。

千住せんじゅ青物あおもの市場いちば

編集へんしゅう

千住せんじゅ青物あおもの市場いちば問屋とんや、そして産物さんぶつ

千住せんじゅ青物あおもの市場いちばは、江戸えど物資ぶっしはこむための中継ちゅうけい地点ちてんとしても発展はってんした。『みなみ足立あだちぐん』によると、千住せんじゅ青物あおもの市場いちばこう陽成ようぜい天皇てんのう天正てんしょう年間ねんかん豊臣とよとみ秀吉ひでよし時代じだい)にはじまったという。この荒川あらかわ沿関屋せきやさとしょうしていたが、この時期じき部落ぶらくとされるものでなく人家じんか散在さんざいし、農家のうか漁夫ぎょふにより農産物のうさんぶつかわぎょ交換こうかんおこなわれたむらぎなかった。しかし、奥州おうしゅう街道かいどう水戸みと街道かいどう交通こうつう要所ようしょとなったことにより、戸数こすう増加ぞうかしたとある[18]

江戸えど時代じだい神田かんだ駒込こまごめ千住せんじゅさん市場いちば幕府ばくふの「御用ごよう市場いちば」として青物あおもの上納じょうのうしていた。『みなみ足立あだちぐん』によると、とおる20ねん1735ねん)3がつ市場いちばの、『継続けいぞく書記しょきろく』にはこう光明こうみょう天皇てんのう正保まさやす徳川とくがわ家光いえみつ時代じだい)、こう西院さいいん天皇てんのうあかりれき徳川とくがわ家綱いえつな時代じだい年間ねんかんにはすでに市場いちばとして営業えいぎょうしていた。千住大橋せんじゅおおはし架橋かきょうともない、農産物のうさんぶつかわぎょ中継ちゅうけい地点ちてんとなり、あかりれきより中御門天皇なかみかどてんのうとおる徳川とくがわ吉宗よしむね時代じだい)の時期じきには農産物のうさんぶつかわぎょなどの産物さんぶつ集合しゅうごう出荷しゅっかされており、幕末ばくまつには、武蔵むさし上総かずさ下総しもうさ常陸ひたち方面ほうめん農産物のうさんぶつあつまり繁栄はんえいした。幕府ばくふ用品ようひん調達ちょうたつしていたという[18]

千住せんじゅ青物あおもの市場いちばには問屋とんやあつまった。『みなみ足立あだちぐん』によると江戸えど時代じだいには、千住せんじゅ市場いちば毎朝まいあさ五穀ごこく前栽せんざいぶつおよびかわぎょひらかれていた。問屋とんや米穀べいこく問屋とんや中心ちゅうしんに、玄米げんまいあつかった黒米くろごめ問屋とんや前栽せんざい問屋とんやかわぎょ問屋とんやがあった。前栽せんざい問屋とんやには蓮根はすね慈姑くわい問屋とんやいもるい専門せんもんとした土物つちもの問屋とんやさいるい胡瓜きゅうり専門せんもんとした葉柄ようへい問屋とんやさん種類しゅるいあった。蓮根れんこん慈姑くわい問屋とんや土物つちもの問屋とんや農産物のうさんぶつ千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへんおよび埼玉さいたま地方ちほう中心ちゅうしんで、葉柄ようへい問屋とんや産物さんぶつ中川なかがわ沿岸えんがんより江戸川えどがわ付近ふきん主要しゅよう産地さんちであった。

幕府ばくふ御用達ごようたし納品のうひんかわぎょそと蓮根はすね慈姑くわいいもるいなどがあり、これをおさめる問屋とんや総代そうだい納品のうひんうえ御用ごようさつて、用品ようひん江戸えどきょう納屋なや調達ちょうたつした。納品のうひんとう市場いちばにて用品ようひん不足ふそくするときには、神田かんだ市場いちばなどから物品ぶっぴん調達ちょうたつ納入のうにゅうしていたという[18]。また、幕府ばくふ御用達ごようたし納品のうひん調達ちょうたつは、千住せんじゅ市場いちばまたは神田かんだ市場いちばから納品のうひんするさいには、大名だいみょう行列ぎょうれつであっても、その理由りゆうわずともこれを横切よこぎことがあったという[18]

千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん産物さんぶつには、農産物のうさんぶつかわ魚類ぎょるいなどがあった。農産物のうさんぶつは、千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん農村のうそん生産せいさん出荷しゅっかされ、千住せんじゅ青物あおもの市場いちばとおして出荷しゅっかけん拡大かくだいした。江戸えど時代じだい千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん栽培さいばいされた野菜やさいるいには、西新井にしあらいむら江北こうほくでは「せり」。小右衛門こうえもん新田しんでんでは「里芋さといも」。葛飾かつしかぐん荏原えばらぐんならんで足立あだちぐんでは「かぶ」、「千住せんじゅねぎ」のられる「ねぎ」。舎人とねりむらでは「くわい」。そのはす」、「小松菜こまつな」、「みつば」、「京菜きょうな」、「きうり」、「しろうり」、「枝豆えだまめ」、「ゆり」(食用しょくようゆり)などが栽培さいばい出荷しゅっかされたという[19]かわ魚類ぎょるいは、安政あんせいよんねん1857ねん)の『かわぎょ問屋とんや仲間なかま議定ぎていしょ』によると、江戸えどまる御用ごようかわ魚類ぎょるいでもはもうなぎ )、どじょう(どじょう)などがあったという[20]

また、千住せんじゅ梅田うめだ西新井にしあらい農村のうそんには、発祥はっしょう浅草あさくさ市街地しがいちともない、かみすき農業のうぎょう副業ふくぎょうとしていた[7]。このことは、『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』の記述きじゅつからもうかがうことができる。

のうすき浅草紙あさくさがみといへるかみきて江戸えどへひさげり — 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう
 
荒川あらかわ新河岸川しんがしがわ河岸かわぎしじょう位置いち
 
歌川うたがわ広重ひろしげさく 名所めいしょ江戸えどひゃくけいより「千住せんじゅおおはし」
荒川あらかわ千住大橋せんじゅおおはしけられ、りょうきし船着ふなつには高瀬舟たかせぶね平田ひらたふねめられ、南岸なんがんには材木ざいもくかれている

橋戸はしど河岸かわぎし

編集へんしゅう

河岸かわぎしじょう材木ざいもく、そして物資ぶっし流通りゅうつう

橋戸はしど河岸かわぎし千住せんじゅ河岸かわぎしともわれる)は、千住せんじゅ近隣きんりん交差こうさする綾瀬川あやせがわ荒川あらかわ新河岸川しんがしがわ)にかれた河岸かわぎしじょうである。江戸えど時代じだいには、河川かせん舟運しゅううん発達はったつし、河川かせんきし船着場ふなつきばかれ物資ぶっしげ・おろしがおこなわれた。千住せんじゅでは、千住大橋せんじゅおおはし近隣きんりんにて、橋戸はしど河岸かわぎしかれ[21]河川かせん舟運しゅううんにより、物資ぶっし中継ちゅうけい基地きちとして、綾瀬川あやせがわ荒川あらかわからのふね発着はっちゃくしていた。荒川あらかわでは、川越かわごえから江戸えど物資ぶっし往来おうらいをしていた新河岸川しんがしがわ舟運しゅううんがあった。

新河岸川しんがしがわ舟運しゅううんは、寛永かんえいじゅうねん1638ねん川越かわごえしろあるじ堀田ほったただしもり東照宮とうしょうぐう再建さいけん資材しざい運搬うんぱんのために荷揚にあげじょう設置せっちしたのが端緒たんしょとされ[22]橋戸はしど河岸かわぎしでは、「秩父ちちぶから荒川あらかわ水運すいうん利用りようして高瀬舟たかせぶねはこばれてきた材木ざいもくあつかいえならんだ」という[21]荒川あらかわ水運すいうん利用りようした材木ざいもく由来ゆらいとその経緯けいい材木ざいもく問屋とんや発達はったつとその活躍かつやくについては、荒川あらかわ教育きょういく委員いいんかい千住せんじゅ河岸かわぎし』の看板かんばん記載きさいからうかがうことができる。

りょうきし渡世とせいこう書物しょもつ』では、これら千住せんじゅ材木ざいもくしょう農業のうぎょう合間あいま利用りようして材木ざいもくあつかうようになったことにはじまり、それが材木ざいもく問屋とんや発達はったつするにいたった経過けいかなどがうかがえる ・・・(中略ちゅうりゃく)・・・材木ざいもく問屋とんやは、千住大橋せんじゅおおはしたもと熊野くまの神社じんじゃ門前もんぜんおおく、江戸えどへの物資ぶっし集散しゅうさん拠点きょてんとなるにいたった — 荒川あらかわ教育きょういく委員いいんかい千住せんじゅ河岸かわぎし』の看板かんばん

材木ざいもく材木ざいもく問屋とんやは、千住せんじゅ周辺しゅうへんとく千住大橋せんじゅおおはし隅田川すみだがわでの状況じょうきょうは、江戸えど絵画かいがでも表現ひょうげんされている。歌川うたがわ広重ひろしげの『名所めいしょ江戸えどひゃくけい』「千住せんじゅおおはし」でも、千住大橋せんじゅおおはしのそばに船着ふなつ材木ざいもくかれている状況じょうきょうえがかれている。また、斎藤さいとうがつの『江戸えど名所めいしょ図会ずえ隅田川すみだがわ上流じょうりゅう千住せんじゅがわ千住大橋せんじゅおおはし」では、船着ふなつ材木ざいもく材木ざいもく問屋とんや表現ひょうげんされていることから、千住せんじゅ河岸かわぎしじょう物資ぶっし集積しゅうせきであり、江戸えどちゅう物資ぶっしはこばれる中継ちゅうけい地点ちてんであったことがうかがわれる[23]

(『江戸えど名所めいしょ図会ずえ』の隅田川すみだがわ上流じょうりゅう千住せんじゅがわ千住大橋せんじゅおおはし」の)画面がめん手前てまえ町並まちなみ小塚原こづかはらまち対岸たいがんには河原町かわらまちつづく。小塚原こづかはらまちはしのすぐさいには船荷ふなにじょうがあり、上流じょうりゅうから川船かわぶねからたるじょうよんだる)のものが水揚みずあげされている。対岸たいがんではいかだをばらした材木ざいもくなんほんもつけられ、周囲しゅういには材木ざいもく問屋とんやらしい町屋まちや集中しゅうちゅうしている。にはたきぎのような材木ざいもくげられている。 — 鈴木すずき(2007)、138ぺーじ

材木ざいもく材木ざいもく問屋とんやがある千住せんじゅなどでは、近世きんせい中期ちゅうき以降いこう材木ざいもく流通りゅうつう成長せいちょうがあった。江戸えど時代じだい材木ざいもく流通りゅうつうは、深川ふかがわ材木ざいもく取引とりひき中心ちゅうしんとなっていた。しかし、近世きんせい中期ちゅうき以降いこう成立せいりつしたいかだ宿やど山方やまがた荷主にぬしとの直接ちょくせつ取引とりひきにより、千住せんじゅなどの江戸えど周辺しゅうへん市場いちばいちじるしい成長せいちょうられ、深川ふかがわ中心ちゅうしんとする江戸えど材木ざいもく問屋とんや衰退すいたいすすんだという[24]

物資ぶっし流通りゅうつうは、荒川あらかわ新河岸川しんがしがわ綾瀬川あやせがわ利用りようした河川かせん舟運しゅううんさかんであった。運搬うんぱんされたおも物資ぶっしは、川越かわごし河岸かわぎし船積ふなづ荷物にもつによると、江戸えどよりのぼってくるのぼが、あさ綿めんおよ織物おりもの染物そめものかんする原材料げんざいりょう荒物あらもの小間物こまものるい日常にちじょうひん砂糖さとうさけしおぎょるい食料しょくりょうひん肥料ひりょう干鰯ほしかぬか木灰きばい油粕あぶらかす)・しおいしなどがおおかった。江戸えどへのくだが、べいむぎ雑穀ざっこくたわらぶつ材木ざいもく戸障子としょうじ木炭もくたん石灰せっかい醤油じょうゆあぶらなどがあった。そのなか材木ざいもく産地さんち青梅おうめ飯能はんのう名栗なぐり越生こしお方面ほうめん中心ちゅうしんであり、石灰せっかい産地さんち青梅おうめ飯能はんのう周辺しゅうへん中心ちゅうしんであったという[25]

近代きんだい以降いこう

編集へんしゅう

明治めいじ時代じだいになると、千住せんじゅ水利すいり好条件こうじょうけんかし発展はってんした。舟便ふなびんのよいことが近在きんざい農村のうそんひろられるようになり、また、千住せんじゅ青物あおもの市場いちば(やっちゃ)は江戸えど時代じだいから継続けいぞくしておこなわれ、昭和しょうわ20年代ねんだいまで青物あおものかわぎょ朝市あさいち毎朝まいあさのようにひらかれていた[19]。 また、1879ねん明治めいじ12ねん官営かんえい千住せんじゅ製絨せいじゅうしょ南千住みなみせんじゅがわ創設そうせつされた[26]1897ねんには日本にっぽん鉄道てつどうにより常磐線じょうばんせん貨物かもつ支線しせん隅田川すみだがわえき貨物かもつえき)(げん東日本旅客鉄道ひがしにほんりょかくてつどう日本にっぽん貨物かもつ鉄道てつどう所属しょぞく)が設置せっちされた[27]。そして、1905ねん明治めいじ38ねん)には、東京とうきょう電燈でんとう株式会社かぶしきがいしゃにより千住せんじゅ火力かりょく発電はつでんしょかれた(初代しょだい1905ねん明治めいじ38ねん)-1917ねん大正たいしょう6ねん)(きた豊島としまぐん南千住みなみせんじゅまち)、2代目だいめ1926ねん大正たいしょう15ねん)-1964ねん昭和しょうわ39ねん)(みなみ足立あだちぐん千住せんじゅまち))[19][28]

岡場所おかばしょ遊郭ゆうかく

編集へんしゅう

近世きんせい

編集へんしゅう

千住せんじゅ宿やど江戸えどよん宿しゅくであったことから、品川しながわ宿やど板橋いたばし宿やど内藤ないとう新宿しんじゅくならび、宿屋やどや旅籠はたご)には幕府ばくふ公認こうにん飯盛めしもりおんな私娼ししょう)がかれ、江戸えど周辺しゅうへん遊郭ゆうかくひとつとして発展はってんした。

岡場所おかばしょとは、江戸えど時代じだい唯一ゆいいつ幕府ばくふ公認こうにん遊廓ゆうかくである吉原よしはらたいして、それ以外いがい公認こうにん遊郭ゆうかく総称そうしょうである。江戸えどでは私娼ししょうくことは御法度ごはっとであったが、実際じっさいには千住せんじゅ宿やど品川しながわ宿やど板橋いたばし宿やど内藤ないとう新宿しんじゅくといった江戸えどよん宿しゅくには、じゅん公認こうにん飯盛めしもりおんなめし売女ばいためしうり)がかれていた[29]。これらの岡場所おかばしょのルーツとなるものに、代表だいひょうてきなものが湯女ゆなというものがいたという[30]江戸えど時代じだい岡場所おかばしょ最盛さいせいとなるのは、たかられき天明てんめい年間ねんかん1751ねん1788ねん)という[29]江戸えどよん宿しゅく岡場所おかばしょは、明和めいわ元年がんねん1764ねん)に、品川しながわ宿やど千住せんじゅ宿やど板橋いたばし宿やど飯盛めしもりおんな制限せいげん大幅おおはば緩和かんわされたことが『品川しながわ宿やどしょくうれぞうじん御免ごめんいちけん書留かきとめ』から確認かくにんすることができる[31]。その明和めいわ9ねん1772ねん)にはいえきとされていた内藤ないとう新宿しんじゅく再興さいこうされ、大幅おおはば飯盛めしもりおんな許可きょかされた[29][32]

明和めいわ元年がんねんいちななろくよん)、宿場しゅくば旅籠はたご衰退すいたいし、旅人たびびと減少げんしょうしたことを理由りゆうに、飯盛めしもりおんなかずいちけんにつきにんという制限せいげん廃止はいしし、品川しながわ宿やどにはひゃくにん板橋いたばし千住せんじゅ宿やどにはひゃくじゅうにん飯盛めしもりおんなくことを許可きょかしている。さらに、明和めいわきゅうねんいちななななよんがつには、とおるさんねんいちなないちはち)に岡場所おかばしょとして繁栄はんえいしたためにはいえきとなった内藤ないとう新宿しんじゅく再興さいこうされ、板橋いたばし千住せんじゅ宿やど同様どうように、飯盛めしもりおんなひゃくじゅうにんゆるされている。 — 平田ひらた秀勝ひでかつ(1997)、104(7)-101(10)ぺーじ

千住せんじゅ宿やど宿屋やどやは「岡場所おかばしょこう」にあるだけでも45けんといわれている。これらの家族かぞく使用人しようにん問屋とんややくなどのほかに、旅籠はたご1けん原則げんそくてきには2人ふたりまでゆるされためし売女ばいたなどおおくのひと集中しゅうちゅうし、経済けいざい中心地ちゅうしんち形成けいせいしていた。 当時とうじ新河岸川しんがしがわ舟運しゅううんには船頭せんどううたった「千住せんじゅたかし[33] があった。「千住せんじゅたかし」とは、千住せんじゅ宿やどにあった遊郭ゆうかくからはやったもので、二人ふたり船頭せんどういのれてくちからまかせにうたったものであり[25]、そのなかには、「千住せんじゅ女郎じょろうしゅはいかりかつなのぼくだりのふねとめる」という一節いっせつがあった。

近代きんだい以降いこう

編集へんしゅう

明治めいじ時代じだいになると、岡場所おかばしょ遊郭ゆうかくとなった。1871ねん明治めいじ4ねん7がつ17にち千住せんじゅ黴毒ばいどくいん(ばいどくいん)が開設かいせつされ、宿やど娼妓しょうぎ梅毒ばいどく検査けんさおこなわれている。『経済けいざい統計とうけい』(内務省ないむしょう明治めいじ23ねん2がつ)によれば、1883ねん明治めいじ16ねん)の千住せんじゅ宿やどうれ娼妓しょうぎすう374にんかい客数きゃくすう43,000にん1888ねん明治めいじ21ねん)にはそれぞれ466にん、65,000にんとの記録きろくがある。いずれもくるわよん宿しゅくにおいては内藤ないとう新宿しんじゅく板橋いたばし宿やど上回うわまわっていた。

刑罰けいばつ施設しせつ

編集へんしゅう
 
小塚原こづかはら刑場けいじょうくび切地きれじぞう

江戸えど北端ほくたん刑場けいじょう千住せんじゅ宿やど小塚原こづかはらまちかれ、また小塚原こづかはらには回向えこういん設置せっちされ死者ししゃ埋葬まいそう供養くようおこなわれた。また、小塚原こづかはら刑場けいじょうでは江戸えどでは、小塚原こづかはら刑場けいじょう小伝馬こでんままちろう屋敷やしきでのみおこなわれていなかった腑分ふわけがあったことから、杉田すぎた玄白げんぱくなどによる『ターヘル・アナトミア』の日本語にほんごやくさい小塚原こづかはら刑場けいじょう見学けんがくされ、『解体かいたい新書しんしょ』の刊行かんこうおこなわれた。

小塚原こづかはら刑場けいじょう

編集へんしゅう

慶安けいあん4ねん1651ねん千住せんじゅ宿やど小塚原こづかはらまちげん荒川あらかわ南千住みなみせんじゅ)には、「小塚原こづかはら刑場けいじょう」が位置いちづけられた。小塚原こづかはら仕置しおきじょうでは磔刑たっけい火刑かけい梟首きょうしゅ獄門ごくもん)が執行しっこうされた[34]小塚原こづかはら刑場けいじょうでは腑分ふわおこなわれた。江戸えど刑場けいじょうには小塚原こづかはら刑場けいじょうほかに、東海道とうかいどう沿いにあった鈴ヶ森すずがもり刑場けいじょう東京とうきょう品川しながわ南大井みなみおおい)、大和田おおわだ刑場けいじょう(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があった。鈴ヶ森すずがもり刑場けいじょう大和田おおわだ刑場けいじょう腑分ふわけをした記録きろくはなく、また町奉行まちぶぎょうによる小塚原こづかはら腑分ふわけについてもとめることができる文書ぶんしょはないが、腑分ふわけがおこなわれたのは小伝馬こでんままちろう屋敷やしき日本橋にほんばし小伝馬こでんままち)と小塚原こづかはら刑場けいじょうであったといわれている[35]

腑分ふわけ小塚原こづかはら仕置しおきじょうおこなうようにさだめた町奉行まちぶぎょう発給はっきゅう文書ぶんしょ見出みいだされていない。しかしてら埋葬まいそうそろった仕置しおきじょうは、腑分ふわけおこな場所ばしょとしてもっとてきしていたであろう。 — 石出いしでたけし、「江戸えど腑分ふわけ小塚原こづかはら仕置しおきじょう」、『千葉ちば医学いがく雑誌ざっし』84、千葉ちば学会がっかい、2008ねん

寛文ひろふみ9ねん1699ねん)には、下谷しもたに浅草あさくさかく宗派しゅうは寺院じいんないにあった三昧ざんまい火葬かそうてら)19のてら小塚原こづかはら移転いてんし、19世紀せいき初頭しょとうに、江戸えどまちきた一大いちだい火葬かそう埋葬まいそうセンターとなった[13]

明治めいじ初期しょき西欧せいおう対等たいとう人権じんけん基準きじゅんもうける必要ひつようせまられたしん政府せいふ廃止はいししたが、創設そうせつから廃止はいしまでのあいだ合計ごうけいで20まんにん以上いじょう罪人ざいにんがここでけい執行しっこうされたという[36]

回向えこういん

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かん記念きねん

回向えこういんは、あかりれき3ねん1657ねん)1がつあかりれき大火たいか振袖ふりそで火事かじ犠牲ぎせいしゃほうむるために幕府ばくふ建立こんりゅうしたてらであった。万治まんじ年間ねんかん1658ねん1661ねん町奉行まちぶぎょうにより、牢死ろうししゃ行旅こうりょじん埋葬まいそうめいぜられた。寛文ひろふみ2ねん(1662ねん町奉行まちぶぎょうから小塚原こづかはらまち仕置しおきじょう寺地てらちあたえられて、別院べついん常行つねゆきどう)を建立こんりゅう埋葬まいそうされたもの供養くようした[13]ひろし元年がんねん1741ねん)にはたかさ3mほどのくび切地きれじぞうてられた。文政ぶんせい5ねん1822ねん)、南部なんぶはんしん相馬そうま大作だいさく下斗米しもとめ秀之ひでゆきすすむ)がここで処刑しょけいされて以後いご国事犯こくじはん刑死けいししゃ死体したいをここにめることになり橋本はしもとひだりない吉田よしだ松陰しょういんよりゆき三樹みき三郎さぶろうひとし安政あんせい大獄たいごく処刑しょけいされた志士ししたちもここに埋葬まいそうされている[34]

解体かいたい新書しんしょ

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解体かいたい新書しんしょ』とは、杉田すぎた玄白げんぱく前野まえの良沢りょうたくにより刊行かんこうされたヨハン・アダム・クルムスの『解剖かいぼうひょう』の日本語にほんごやくである。明和めいわ8ねん3がつ4にち(1771ねん4がつ18にち)で小塚原こづかはら刑場けいじょうおこなわれた腑分ふわけがあり、杉田すぎた玄白げんぱく前野まえの良沢りょうたくさそ見学けんがくをおこなったことにより、西洋せいよう医学いがく導入どうにゅうのきっかけとなる『解体かいたい新書しんしょ』の翻訳ほんやくおこなわれた。 両者りょうしゃは、クルムスの解剖かいぼうしょ持参じさんし、小塚原こづかはら刑場けいじょうおこなわれた腑分ふわけを見学けんがく臓器ぞうき解剖かいぼう非常ひじょうによくていることから、ドイツじんヨハン・アダム・クルムスの『解剖かいぼうひょう』(ターヘル・アナトミア)のらん訳本やくほん日本語にほんごやくおこなわれることとなった。 安永やすなが3ねん1774ねん杉田すぎた玄白げんぱくによって『解体かいたい新書しんしょ』(本文ほんぶん4かん付図ふず1かん)が発行はっこうされた[37]

行楽こうらく

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千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん行楽こうらくは、江戸えど時代じだい中頃なかごろ誕生たんじょうした江戸えど周辺しゅうへん行楽こうらくひとつである。 千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん行楽こうらくとされたものには、西新井にしあらい大師だいし大鷲おおわし神社じんじゃ(おおとりじんじゃ)、牛田うしだ薬師やくし西光さいこういん・さいこういん)、せいおうてら(しょうおうじ)などの寺社じしゃ関屋せきやさと(せきやのさと)[38]かねふち(かねがふち)、綾瀬川あやせがわなど自然しぜんうつくしい場所ばしょ千住大橋せんじゅおおはしなど千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん交通こうつうようたる場所ばしょであったことからおおくのひとびとがおとずれた。千住せんじゅ周辺しゅうへん名所めいしょは、自然しぜん発生はっせいてき名所めいしょとなったものというよりも、ひとびとのによってつくられ、名所めいしょとなっていった場所ばしょおおいことが特徴とくちょうであったといわれている[39]千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん行楽こうらくは、江戸えど絵画かいが浮世絵うきよえでもえがかれている。

浮世絵うきよえ絵画かいが

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江戸えど時代じだい成立せいりつした絵画かいがである浮世絵うきよえ江戸えど絵画かいがすうおおくの風景ふうけいがのこされている。千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん風景ふうけいは、千住大橋せんじゅおおはし隅田川すみだがわ題材だいざいにしたものがおおい。その千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん行楽こうらく題材だいざいとした数々かずかず浮世絵うきよえ絵画かいが確認かくにんされており、有名ゆうめいなものに「とみだけさんじゅうろくけい」(天保てんぽうねん-よんねん(1831ねん-1835ねん発表はっぴょう[40]、「名所めいしょ江戸えどひゃくけい」、「隅田川すみだがわ八景はっけい」、「江戸えど名所めいしょ図会ずえ」(天保てんぽう5ねん-7ねん(1834ねん-1836ねん)などがある。

葛飾かつしか北斎ほくさいとみだけさんじゅうろくけい

とみだけさんじゅうろくけい』の千住せんじゅ周辺しゅうへんは「たけしゅう千住せんじゅ」、「隅田川すみだがわ関屋せきやさと」、「したがえ千住せんじゅ花街はなまち眺望ちょうぼう」がある。

たけしゅう千住せんじゅ』では、農夫のうふうまこうには、おおきなせきわく(せきわく)がえがかれている。このせきわく元宿もとじゅく圦(もとじゅくいり)にもうけられたもと宿やどせきであることから、現在げんざいの、足立あだち千住桜木せんじゅさくらぎ1丁目ちょうめと2丁目ちょうめさかい帝京科学大学ていきょうかがくだいがく入口いりくち交差点こうさてん付近ふきん景色けしきえがいたものという[41]。『隅田川すみだがわ関屋せきやさと』では、人馬じんばはしみちがあり、これは石出いしで掃部かい新田にった開発かいはつによって元和がんわ2ねん(1616ねん)にきずかれた掃部つつみ(かもんづつみ)である。現在げんざいではすみつつみどおりとよばれているみちである。中央ちゅうおうには千住仲せんじゅなかまち氷川神社ひかわじんじゃえがかれているという。現在げんざい足立あだち千住仲せんじゅなかまちから千住関屋せんじゅせきやまち付近ふきん相当そうとうする[42]。『したがえ千住せんじゅ花街はなまち眺望ちょうぼう』は小塚原こづかはらまち中村なかむらまち相当そうとうするという[41]

斎藤さいとうがつ岑『江戸えど名所めいしょ図会ずえ[43]

江戸えど名所めいしょ図会ずえ』は、江戸えど時代じだい代表だいひょうする地誌ちしで、江戸えど名所めいしょ集大成しゅうたいせいといわれ、天保てんぽうねん(1834)にさんかん天保てんぽうななねん(1836)のけ、7かん20さつ刊行かんこうされた。千住せんじゅ周辺しゅうへんは、だいろくかんだいななかん収録しゅうろくされている[44][45]だいろくかんには、 「ろく阿弥陀あみだまわり(ろくあみだめぐり)」、「ひかりちゃ銚(ひかりちゃがま)」、「西新井にしあらい大師堂だいしどう」、「千住せんじゅがわ」などがあり、だいななかんには 「新宿しんじゅく渡口とぐち(にいじゅくわたしば)」、「関屋せきや天満てんまみや」などが収録しゅうろくされている。

歌川うたがわ広重ひろしげ名所めいしょ江戸えどひゃくけい[46]

  • 名所めいしょ江戸えどひゃくけい 千住せんじゅおおはし』
  • 名所めいしょ江戸えどひゃくけい 綾瀬川あやせがわかねふち

歌川うたがわ広重ひろしげだい江戸えど名勝めいしょう図会ずえ

  • 江戸えど名勝めいしょう図会ずえ 関屋せきやさと

文化ぶんかじん

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千住せんじゅ宿やどは、奥州おうしゅう街道かいどう日光にっこう街道かいどうはつ宿やどであることから旅人たびびと宿やどをとった。江戸えどよん宿しゅくひとつであり江戸えど在住ざいじゅう文化ぶんかじんとの交流こうりゅうがあるでもあった。そして、千住せんじゅ宿やどにはおおくの文化ぶんかじん往来おうらいがあった。

 
蕪村ぶそん おくのほそみち

松尾まつお芭蕉ばしょう

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松尾まつお芭蕉ばしょうの『おくのほそみち』は、元禄げんろく文化ぶんか活躍かつやくした俳人はいじんによる紀行きこうぶんである。松尾まつお芭蕉ばしょうの『おくのほそみち』は、元祿げんろくねん1689ねん深川ふかがわ芭蕉ばしょうあん出発しゅっぱつし、門人もんじん見送みおくられ、彼等かれら千住せんじゅわかれるときに「はるとりうおなみだ」をみ、それを「てのはじめ」として、そこからたびはじまったという[47][48]

下谷しもたに三幅対さんぶくつい

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下谷しもたに三幅対さんぶくついとは、江戸えど時代じだい後期こうき下谷しもたに江戸えど府中ふちゅう在住ざいじゅう酒井さかい抱一ほういつたにぶんあきら亀田かめだ鵬斎ほうさいの3にんす。さんにんおおくのひとたちと交流こうりゅうがあり、千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへんでも建部たけべちょう山崎やまざきこいかくれとの交流こうりゅうがあった。千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん活躍かつやくした文化ぶんかじんには江戸えど琳派である酒井さかい抱一ほういつ弟子でしりした中野なかの其豊村越むらこし其栄村越むらこしむかいさかえ画家がかたにぶんあきら門下もんかには船津ふなつ文淵ぶんえん河内かわうち半蔵はんぞうがいた。亀田かめだ鵬斎ほうさい千住せんじゅ周辺しゅうへんにゆかりのある人物じんぶつだった[49]

千住せんじゅさけ合戦かっせん

千住せんじゅさけ合戦かっせんとは、文化ぶんか12ねん1815ねん)10がつ21にち千住せんじゅ宿やど飛脚ひきゃく問屋とんや中屋ちゅうやろく衛門えもんろくじゅういわいとしてもよおされた。現在げんざい千住せんじゅいち丁目ちょうめにあった飛脚ひきゃく宿やどであり、会場かいじょう中屋なかやとした。審査しんさいんとして、下谷しもたに三福みふくたいである江戸えど琳派酒井さかい抱一ほういつ絵師えしたにぶんあきら儒学じゅがくしゃ書家しょか亀田かめだ鵬斎ほうさいほか絵師えしたに文一ぶんいち戯作げさくしゃ大田おおた南畝なんぽなど、著名ちょめいじんまねかれた[50][51]さけ合戦かっせんときには、看板かんばんに「もとあくきゃく下戸げこ理窟りくつにゅう菴門」とかかげられた。このさけ合戦かっせんきおいいんかいであり、厳島いつくしまはい(5ごう)、鎌倉かまくらはい(7ごう)、江島えじまはい(1しょう)、万寿まんす無量むりょうはい(1しょう5ごう)、みどりもうひさしはい(2しょう5ごう)、丹頂鶴たんちょうづるはい(3しょう)などの大杯たいはいもちいた。亀田かめだ鵬斎ほうさい序文じょぶん(『こうたたかえいんじょ』)によれば、参加さんかしゃは100めい左右さゆうかれた二人ふたり相対そうたいするようにくらべがおこなわれた、1人ひとりずつ左右さゆうからはいをあけ、記録きろくがかりがこれを記録きろくした[50]

千住せんじゅさけ合戦かっせんかんする記録きろく多数たすうあり、『こうたたかえいんまき』:『こうたたかえいんじょ亀田かめだ鵬斎ほうさい、『こう水鳥みずとり[52][53] たに文一ぶんいち大田おおた南畝なんぽ、『ようしょ漫筆まんぴつさん[53][54] 小山田おやまだ与清ともきよ高田たかだ與清ともきよ)、『さけ合戦かっせん番付ばんづけ』、『千住せんじゅしゅ合戦かっせん』(木版もくはん[53]、そして『街談文々集要がいだんぶんぶんしゅうよう』(万延まんえん元年がんねん(1860ねんじょ[51][55] 石塚いしづかしげる兵衛ひょうえごう豊芥子ほうかいし)などがある。

建部たけべちょう

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建部たけべちょうは、江戸えど時代じだいちゅう後期こうき俳人はいじん絵師えしで、千住河原せんじゅかわらまち在住ざいじゅうした。「千住せんじゅ宿やど」の掃部宿やど河原町かわらまち橋戸はしどまち住人じゅうにん中心ちゅうしん構成こうせいされた俳諧はいかい集団しゅうだん千住せんじゅれん」をひきい、俳諧はいかい活動かつどうおこなった。夏目なつめ成美まさみ(なつめせいび)・鈴木すずき道彦みちひこ(すずきみちひこ)・小林こばやし一茶いっさ(こばやしいっさ)をはじめ、義兄ぎけい亀田かめだ鵬斎ほうさい酒井さかい抱一ほういつ大田おおた南畝なんぽとの交流こうりゅうがあった。 建部たけべちょう主要しゅよう作品さくひんには「蛍狩ほたるがり」、「江戸えどじゅうヶ月かげつ 吉原よしはら」、「江戸えどじゅうヶ月かげつ 向島むこうじま」、「江戸えどじゅうヶ月かげつ 浅草あさくさ」、「ぼんおどり」、「芭蕉ばしょうぞう」、「俳画はいが 冨士ふじまい」、「西行さいぎょうあん」などがある[56]

小林こばやし一茶いっさ

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小林こばやし一茶いっさは、江戸えど時代じだいちゅう後期こうき江戸えど時代じだい代表だいひょうする俳諧はいかい一人ひとりである。千住せんじゅ宿やど在住ざいじゅう建部たけべちょうとの交流こうりゅうがあった[57]炎天えんてんてら足立あだちろくがつ)に小林こばやし一茶いっさにゆかりあるとつたえられている俳句はいくがある。

  • 「やせかえるまけるな一茶いっさにあり」(文化ぶんかじゅうさんねんよんがつ
  • せみなくや六月ろくがつむら炎天えんてんてら」(文化ぶんかじゅうさんねんきゅうがつ

安藤あんどう昌益しょうえき

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安藤あんどう昌益しょうえきは、江戸えど時代じだい中期ちゅうきに、現在げんざい青森あおもりけん八戸はちのへみ、町医者まちいしゃをしながら、るいない独創どくそうてき思想しそうんだ思想家しそうかわれる[58]主要しゅよう著作ちょさくぶつに『自然しぜん営道』があった。 1899ねん明治めいじ32ねん江戸えど時代じだい思想家しそうか安藤あんどう昌益しょうえき著書ちょしょ自然しぜん営道』が狩野かの亨吉こうきちにより発見はっけんされた。『自然しぜん営道』はもともと足立あだち千住せんじゅ穀物こくもつ問屋とんや藁屋わらや」の橋本はしもと律蔵りつぞう1824ねん-1882ねん)がきゅうぞうしていたものであった。それが古書こしょてんられ、そこで狩野かのるところとなったという[59]

災害さいがい

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江戸えど時代じだい江戸えどでは頻繁ひんぱん火事かじ発生はっせいした。そのなかで、江戸えどから千住せんじゅ宿やどにまでおよんだ火事かじもあった。吉原よしはら健一郎けんいちろう作成さくせいの「江戸えど災害さいがい年表ねんぴょう[60] によると、 とおる6ねん(1721ねん) 1がつから3がつのあいだに江戸えどでは比較的ひかくてきおおきい火事かじが6あったとわれている。そのなかで、千住せんじゅ宿やどまで被害ひがいおよんだ火事かじは、5番目ばんめ3がつ3にち火事かじかみぬま三河そうごまちより出火しゅっかし、 つよ南西なんせいふうのために延焼えんしょうし、下谷しもたに浅草あさくさ千住せんじゅなどの70まちあまり被害ひがいおよんだという [61]

安政あんせい江戸えど地震じしん

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安政あんせい2ねん1855ねん)11月11にち9ごろ安政あんせい江戸えど地震じしんこり、関東かんとういちえん被害ひがいをもたらした[62]千住せんじゅ宿やどもその被害ひがいにあっており、地震じしんによる焼失しょうしつ面積めんせき千住せんじゅ周辺しゅうへんでは19,215m2におよんでいたという[63]千住せんじゅ宿やど安政あんせい江戸えど地震じしん被害ひがいは、成田山新勝寺なりたさんしんしょうじの『江戸えど開帳かいちょうしょようとめ』にて、家屋かおく全壊ぜんかいあるいは半壊はんかいがあったことが記録きろくされている。

じゅういちにち(1856ねん3がつ17にち千住せんじゅ宿やど勝専寺しょうせんじ世話人せわにん 鰹節かつおぶし下川しもかわ小左衛門こざえもん みぎこれしゃやめえつ先例せんれいこれどおり本尊ほんぞんさま宿やど申出もうしでそと本陣ほんじん是迄これまで下川しもかわ八郎はちろう兵衛ひょうえかたしょうつとむこうとくども去年きょねんちゅう地震じしんニ而及大破たいはこうづけ此度しゃ千住壱丁目鞍屋長右衛門方ニ而本じん致候おもむき申出もうしでみぎどうてら世話人せわにん連名れんめいしょ持参じさんひだりこれどおり後略こうりゃく — 成田山新勝寺なりたさんしんしょうじ江戸えど開帳かいちょうしょようとめ

また、『佐野さの文書ぶんしょ』(足立あだち区立くりつ郷土きょうど博物館はくぶつかんぞう)にも、千住せんじゅ宿やど周辺しゅうへん被害ひがいおおきさが記録きろくされている。

乍恐以書づけ訴奉さるじょうこうだい地震じしんニ而潰出来できさるじょう — 佐野さの文書ぶんしょ

りゃく年表ねんぴょう

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時代じだい 世紀せいき 元号げんごう 西暦せいれき 千住せんじゅ宿やどかんする出来事できごと
安土あづち桃山ももやま 16世紀せいき 天正てんしょう18ねん 1590ねん  徳川とくがわ家康いえやす江戸えど入城にゅうじょう
ぶんろく3ねん 1594ねん  千住大橋せんじゅおおはし架橋かきょうおよび奥州おうしゅう街道かいどう日光にっこう街道かいどう整備せいび
慶長けいちょう2ねん 1597ねん  千住せんじゅまち人馬じんば継立つぎたてとして指定してい
江戸えど 17世紀せいき 元和がんわ2ねん 1616ねん  石出いしで掃部かいにより新田にった開発かいはつ、掃部つつみ開発かいはつ
寛永かんえい2ねん 1625ねん  奥州おうしゅう街道かいどう日光にっこう街道かいどうはつ宿やど指定してい
慶安けいあん4ねん 1651ねん  小塚原こづかはら刑場けいじょう小塚原こづかはらまち設置せっち
万治まんじ元年がんねん 1658ねん  掃部宿やど河原町かわらまち橋戸はしど宿やど開発かいはつ
まん3ねん 1660ねん  中村なかむらまち小塚原こづかはらまち千住せんじゅ宿やどへの加入かにゅう
寛文ひろふみ2ねん 1662ねん  回向えこういん町奉行まちぶぎょうより小塚原こづかはらまち仕置しおきじょう寺地てらちあたえられ別院べついん建立こんりゅう
元禄げんろく2ねん 1689ねん  松尾まつお芭蕉ばしょう出発しゅっぱつ(『おくのほそみち』)
元禄げんろく9ねん 1696ねん  じょさとせいさだめられる
寛文ひろふみ9ねん 1699ねん  下谷しもたに浅草あさくさ三昧ざんまい19のてら小塚原こづかはら移転いてん
18世紀せいき とおる20ねん 1735ねん  (このころには)千住せんじゅ青物あおもの市場いちば御用ごよう市場いちばとして営業えいぎょう
明和めいわ元年がんねん 1764ねん  千住せんじゅ宿やどに150にん飯盛めしもりおんなくことの許可きょか
19世紀せいき 文化ぶんか12ねん 1815ねん  千住せんじゅさけ合戦かっせん
天保てんぽう2-4ねん 1831ねん-1835ねん  葛飾かつしか北斎ほくさいとみだけさんじゅうろくけい』の発表はっぴょう
天保てんぽう5-7ねん 1834ねん-1836ねん  斎藤さいとうがつ江戸えど名所めいしょ図会ずえ』 の発表はっぴょう
天保てんぽう14ねん 1843ねん  宿場しゅくばまち調査ちょうさ(『日光にっこうどう中宿なかしゅくむら大概たいがいちょう』)。
安政あんせい2ねん 1855ねん  安政あんせい江戸えど地震じしん
明治めいじ 明治めいじ4ねん 1871ねん  伝馬てんましょ廃止はいし
明治めいじ11ねん 1878ねん  太政官だじょうかん布告ふこくこおり町村ちょうそん編制へんせいほう」の施行しこう

名所めいしょ旧跡きゅうせき接続せつぞく道路どうろとう

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水戸みと街道かいどう

交通こうつう

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となり宿やど
  • 日光にっこう街道かいどう奥州おうしゅう街道かいどう
日本橋にほんばし- 千住せんじゅ宿やど - 草加そうか宿やど
  • 水戸みと街道かいどう佐倉さくら街道かいどう成田なりた街道かいどう
日本橋にほんばし- 千住せんじゅ宿やど - 新宿しんじゅく
  • 赤山あかやま街道かいどう
日本橋にほんばし- 千住せんじゅ宿やど - 舎人とねり宿やど
  • 下妻しもづま街道かいどう
日本橋にほんばし- 千住せんじゅ宿やど - 大原おおはら宿やど

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 千住せんじゅまち及ヒ掃部宿やど豊島としまぐん小塚原こづかはらまち中村なかむらまちごうセテいち宿しゅくトシスヘテ千住せんじゅ宿やどごうセリ」[8]。『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』は河原町かわらまち橋戸はしどまちを掃部宿やど小名しょうみょうとして記述きじゅつしている[9]

出典しゅってん

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  1. ^ だい日本にっぽん沿海えんかい輿地よちぜんだい90 武蔵むさし下総しもうさ相模さがみ武蔵むさし利根とね川口かわぐち東京とうきょうしょうふつ下総しもうさ相模さがみ鶴間つるまむらあた
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参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

古文書こもんじょいち資料しりょう

編集へんしゅう
  • 松尾まつお芭蕉ばしょう『おくのほそみち』1702ねん 
  • 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』。 
  • 千住せんじゅきゅうこうろく』。 
  • 日光にっこうどう中宿なかしゅくむら大概たいがいちょう』。 
  • 奥州おうしゅう道中どうちゅう 増補ぞうほ行程こうてい』1751ねん 
  • 日光にっこうどう中分なかぶんあいだのべ絵図えず』1806ねん 
  • 千住せんじゅ宿やどなみ』(はたけ文書ぶんしょ)。 
  • 佐野さの文書ぶんしょ』。 
  • 石塚いしづか豊芥子ほうかいし岡場おかば遊郭ゆうかくこう」『未刊みかん隨筆ずいひつひゃくしゅ だい1』三田村鳶魚みたむらえんぎょ校訂こうてい臨川りんせん書店しょてん、1969ねん 
  • 与謝よさ蕪村ぶそんおく細道ほそみちまき』、いっおきな美術館びじゅつかん 
  • 江戸えど開帳かいちょうしょようとめ』、成田山新勝寺なりたさんしんしょうじ 
  • 足立あだち文化ぶんか遺産いさん調査ちょうさ記者きしゃ会見かいけん』、足立あだち、2016ねん、1-8ぺーじ 
  • 足立あだち区立くりつ郷土きょうど博物館はくぶつかん千住せんじゅしゅ合戦かっせんから〇〇ねんデザインアイデア合戦かっせんとパネルてん」『足立あだち史談しだんだい572かんだい3ごう足立あだち教育きょういく委員いいんかい足立あだち史談しだん編集へんしゅうきょく、2008ねん、337-363ぺーじ 
  • 石川いしかわ章一しょういち羊毛ようもう工業こうぎょうひゃくねん記念きねんして」『繊維せんい学会がっかい』Vol.35No.9、繊維せんい学会がっかい、1979ねん 
  • 石出いしでたけし江戸えど腑分ふわけ」」『千葉ちば医学いがく雑誌ざっしだい74かん千葉ちば学会がっかい、1998ねん 
  • 石出いしでたけし江戸えど腑分ふわけ小塚原こづかはら仕置しおきじょう」『千葉ちば医学いがく雑誌ざっしだい84ごう千葉ちば学会がっかい、2008ねん、-。 
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  • 酒井さかいシヅ「解体かいたい新書しんしょ」『CLINICIAN』No.437、エーザイ株式会社かぶしきがいしゃ、1995ねん 
  • 佐々木ささきひろし江北こうほく地区ちく農業のうぎょう変質へんしつ近郊きんこう農業のうぎょうから市街地しがいち農業のうぎょうへー」『立正大学りっしょうだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ年報ねんぽうだい7ごう立正大学りっしょうだいがく、1969ねん 
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  • 田中たなか久和ひさかず葛飾かつしか北斎ほくさいひつ富嶽ふがくさんじゅうろくけい』にかんするいち試論しろん」『美術びじゅつ研究けんきゅうだい21かん大阪教育大学おおさかきょういくだいがく美術びじゅつ教育きょういく講座こうざ芸術げいじゅつ講座こうざ、2009ねん 
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  • 吉原よしはら健一郎けんいちろう江戸えど災害さいがい年表ねんぴょう」、西山にしやま松之助まつのすけへん江戸えどまちじん研究けんきゅうだい5かん所収しょしゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1977ねん、5-169ぺーじ
  • ロム・インターナショナル(へん)『道路どうろ地図ちず びっくり!博学はくがく知識ちしき河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ〈KAWADEゆめ文庫ぶんこ〉、2005ねん2がつ1にちISBN 4-309-49566-4 
  • 渡辺わたなべひろし小林こばやし一茶いっさ俳諧はいかいサークルの教育きょういくてき意味いみについて」『慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく大学院だいがくいん社会しゃかいがく研究けんきゅう紀要きよう社会しゃかいがく心理しんりがく教育きょういくがくだい28ごう慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく大学院だいがくいん社会しゃかいがく研究けんきゅう、1988ねん、123-133ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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