(Translated by https://www.hiragana.jp/)
古河宿 - Wikipedia

古河ふるかわ宿やど(こがしゅく、こがじゅく)は、江戸えど時代じだい日光にっこう街道かいどう日光にっこう道中どうちゅう)の宿場しゅくば下総しもうさこく古河ふるかわしろしたもうけられ、現在げんざい茨城いばらきけん古河ふるかわ中央ちゅうおうまち本町ほんまち横山よこやままち相当そうとうする。日光にっこう街道かいどう江戸えど日本橋にほんばしからかぞえて9番目ばんめ宿場しゅくばである。

ここでは城下町じょうかまちとしての古河ふるかわについても解説かいせつする。

概要がいよう

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい全期ぜんきつうじて、古河ふるかわはん管理かんりしていた古河ふるかわ三宿みしゅく中田なかた古河ふるかわ野木のぎ)のひとつである。天保てんぽう14ねん1843ねん)の『日光にっこうどう中宿なかしゅくむら大概たいがいちょう』によれば、本陣ほんじん脇本わきもとじんは1けんずつもうけられ、旅籠はたごが31けんだい5,ちゅう6,しょう20)あった。宿やどない家数やかずは1,105けん人口じんこうは3,865にんであった。将軍家しょうぐんけによる日光にっこうしゃさんでは、古河ふるかわじょう岩槻いわつきじょう宇都うと宮城みやぎならび、将軍しょうぐん宿やどじょうとされており、日光にっこう街道かいどうにおける主要しゅよう宿場しゅくばひとつであった。日光にっこうしゃさんのときには、従者じゅうしゃかず膨大ぼうだいになるため、通常つうじょう宿泊しゅくはく施設しせつだけではりずに、城下じょうか武家ぶけ屋敷やしき町屋まちやてられた。宿場しゅくば日光にっこう街道かいどう沿いのうてなまちいち丁目ちょうめ丁目ちょうめ横町よこちょう現在げんざい本町ほんまち中央ちゅうおうまち横山よこやままち一部いちぶ)にあったが、渡良瀬川わたらせがわひとしによる河川かせん交通こうつう発達はったつしていたことから、古河ふるかわまち日光にっこう街道かいどうから河岸かわぎしけてがった石町こくまち江戸えどまちとうにもひろがり、Tがた形成けいせいされていた。大名だいみょう宿泊しゅくはくする本陣ほんじん時期じきによりことなるが、もっともよくられているのは丁目ちょうめにあったもので、現在げんざい跡地あとちには「本陣ほんじんあと」がある。脇本わきもとじん丁目ちょうめにあった。[1] [2]

まち構成こうせい

編集へんしゅう
 
古河ふるかわ城下じょうか古河ふるかわ宿やど江戸えど時代じだい後期こうき

まちりの特徴とくちょうは、古河ふるかわしろ主要しゅよう出入口でいりぐち北側きたがわにあり、西側にしがわ渡良瀬川わたらせがわがあることから、城下町じょうかまち宿場しゅくばまちしろ北側きたがわ東側ひがしがわ集中しゅうちゅうしていることである。また、このためにしろ上級じょうきゅう武士ぶし住居じゅうきょ低地ていちにあり、町人ちょうにん下級かきゅう武士ぶし住居じゅうきょ台地だいちじょうとなっており、城下じょうかられない個性こせいてき景観けいかんをなしていた。[3] 以下いか個々ここまちどおりについて説明せつめいする。

町人ちょうにんまち

編集へんしゅう

日光にっこう街道かいどうめんしたまちを「とおりまち」とび、は「わきまち」とんだ。またまち発展はってんともない、本町ほんまちとされたとおりまち脇町わきちょうからえだまち派生はせいした。とおる12ねん(1727ねん)の文書ぶんしょによるまち全体ぜんたい構成こうせい[3] と、かくまち由来ゆらい特徴とくちょうとうしめす。

  • とおりまち: 下記かき4ヵまち宿泊しゅくはく施設しせつである旅籠はたご茶屋ちゃや集中しゅうちゅうしていた。
    • 横町よこちょう(よこまち): 江戸えど時代じだい初期しょきは、丁目ちょうめから街道かいどう北上ほくじょう左折させつしたさき丁目ちょうめきょくを「横町よこちょう」とび、さらに右折うせつして本成寺ほんじょうじいたまちどおりを「野木のぎまち」とんでいたが、のちに野木のぎまち横町よこちょうばれるようになった。本来ほんらいの「横町よこちょう」は街道かいどうすじ一旦いったんよこにずれるまちであろう。寛永かんえい(1624ねん - 1645ねん)の絵図えずでは「野木のぎまち[4]とされたまちどおりが、慶応けいおう年間ねんかん(1865ねん - 1868ねん)には「横町よこちょう」になっている。明治めいじ横山よこやままち改称かいしょう[5]されている。[3] [6]
    • いち丁目ちょうめ丁目ちょうめ(いっちょうめ・にちょうめ): まち中心ちゅうしんいち丁目ちょうめ丁目ちょうめけたもの。とく丁目ちょうめおおきな商家しょうかおおく、江戸えど時代じだい後期こうきには城下じょうか最大さいだい豪商ごうしょうだった八百屋やおや丸山まるやま左衛門さえもんもここにあった。丸山まるやま当初とうしょ商売しょうばいだった八百屋やおや屋号やごうとしたが、次第しだいひろげ、きゅう藩主はんしゅ堀田ほったただしなかてんふうさき山形やまがたはん特産とくさんひんである紅花べにばなあつかうことでざいをなした。本陣ほんじん高札こうさつじょう丁目ちょうめにあった。[3] [6]
    • うてなまち(だいまち): 原町はらまち出来できまえ城下じょうかだいであったことに由来ゆらい[3] [6]
    • 原町はらまち(はらまち): もとは「原村はらむら」だったが、城主じょうしゅ土井どい利勝としかつのころまちになり、城下じょうか拡張かくちょうともな編入へんにゅうされた。[6]
  • 脇町わきちょう街道かいどう東側ひがしがわ
    • 鍛冶かじまち(かじまち): しろ出入でいりの鍛冶たんや職人しょくにんた。江戸えど時代じだい初期しょき奥平おくだいら忠昌ただまさ城主じょうしゅころ野木のぎ神社じんじゃ周辺しゅうへん鍛冶たんや21移転いてんあつまりじゅうさせた。古河ふるかわ冬季とうき西風せいふうつよくなるため、あつか鍛冶たんやは、火災かさい対策たいさくとしてひがしはずれの風下かざしも配置はいちされた。のちの江戸えど時代じだい中期ちゅうきには職人しょくにん転出てんしゅつし、商家しょうかならつようになる。[3] [6] ここにあった商家しょうかのうち、今城いましろ商店しょうてん(みらいぞう)については後述こうじゅつ。そのとなりには「竹駒たけこま稲荷いなり神社じんじゃ」(後述こうじゅつ)がある。
    • 新町しんまち北新ほくしんまち南新みなみしんまち)(きたしんまち・みなみしんまち): 家数やかずえたため、街道かいどう東側ひがしがわあたらしいまちどおりが自然しぜん形成けいせいされたもの。たかられき年間ねんかん(1751ねん - 1763ねん)に北新ほくしんまち南新みなみしんまち分離ぶんりしたとかんがえられる。[3]
    • 八幡やはたまち(やわたまち): 八幡宮はちまんぐうがあることに由来ゆらい[6] 天保てんぽう2ねん(1831ねん開業かいぎょう青木あおき酒造しゅぞうがある[7]
  • 脇町わきちょう街道かいどう西側にしがわ
    • 石町こくまち(こくちょう): 米穀べいこくしょうのきつらねていた。「こく」が「いし」にてんじたもの。明治めいじ中期ちゅうきには14けん米穀べいこく問屋とんやのこっていた。[3] [6]江戸えど時代じだいからの金物かなものしょうはちひゃくふじ昭和しょうわ37ねん/1962ねん閉業へいぎょう)もここにあり、近代きんだいには関東かんとうはもとより東北とうほく北海道ほっかいどうにまで農具のうぐ出荷しゅっかしていた。[8]
    • 江戸えどまち(えどまち): おおきな商家しょうかつらなり、城下じょうかもっとにぎわうまちどおりだったため、江戸えどおもわせるとされた。[3] [6] ここにあった商家しょうかのうち「作家さっか永井ながい路子みちこ旧宅きゅうたく」については後述こうじゅつ
    • 大工だいくまち(だいくちょう): しろ出入でいりの大工だいく職人しょくにんた。江戸えど時代じだい中期ちゅうきには職人しょくにん転出てんしゅつし、商家しょうかならつようになった。[3] [6] このうち「坂長さかちょう」については後述こうじゅつ
  • 脇町わきちょうかわ沿
  • えだまち
    • 紺屋こんやまち(こんやまち): 横町よこちょうえだまちしろ出入でいりの紺屋こんや職人しょくにんた。大正たいしょうまで「だい紺屋こんや」とばれた日野ひのがあり、きゅう古河ふるかわ市役所しやくしょ現在げんざい古河ふるかわテクノビジネス専門せんもん学校がっこう)の敷地しきちはそのいぬいじょうだった。[3] [6]
    • 天神てんじんまち(てんじんちょう): 横町よこちょうえだまち(のち武家ぶけ編入へんにゅう)。ぶくいんにあった天満てんまみや由来ゆらい[6] なおぶくいん明治めいじ初期しょき廃寺はいじ
    • 田町たまち(たまち): 江戸えどまちえだまち低地ていち田圃たんぼがあったことに由来ゆらいするとかんがえられている。[3] [6]
    • 青物あおものまち: いち丁目ちょうめえだまち青物あおもの卸売おろしうりしょう八百屋やおや四郎しろう兵衛ひょうえがあった。[3]
    • 七軒しちけんまち(しちけんちょう): 新町しんまちえだまちいえななけんあったことに由来ゆらいするとかんがえられている。明治めいじ以降いこう家数やかずえた。[3] [6]
    • さかなまち(さかなまち): いち丁目ちょうめえだまち[3]
    • もとさかなまちほんさかなまち)(もとさかなまち): 丁目ちょうめえだまち[3]
    • 四谷よつや嵯峨さが: 石町こくまちえだまち[3]

武家ぶけまち屋敷やしきまち

編集へんしゅう

以下いか屋敷やしきまちともばれた武家ぶけまちについて、説明せつめいする。

  • うまやまち(うまやちょう): はん馬屋うまやがあった。[6]
  • 白壁しらかべまち(しらかべちょう): 明確めいかく記録きろくはないが、江戸えど時代じだい初期しょき白壁しらかべ目立めだおおきな屋敷やしきがあったことに由来ゆらいするとかんがえられる。[6]
  • 仲之なかのまち(なかのちょう): うまやまち白壁しらかべまちとのあいだの「なかどおり」とされた。[6]
  • 鳥見とりみまち(とりみちょう): はん鳥見とりみやく居住きょじゅうしていた。[6]
  • 杉並すぎなみまち(すぎなみちょう): 江戸えど時代じだい初期しょき城主じょうしゅ奥平おくだいら忠昌ただまさにより城下町じょうかまち拡張かくちょうされるまえには、ここは町外まちはずれに位置いちし、すぎ並木なみきがあったことに由来ゆらい[6]
  • 代官だいかんまち(だいかんちょう): 城主じょうしゅ奥平おくだいら忠昌ただまさころ代官だいかんやく屋敷やしきがあった。[6]
  • 三神みかみまち(さんじんちょう): 町内ちょうない付近ふきんしゃほこらが3つあったことに由来ゆらい[6] 三神みかみまち稲荷いなり神社じんじゃ大工だいくまち恵比須えびす神社じんじゃ蛭子えびす神社じんじゃ)、および、かつては古河ふるかわしろ諏訪すわ曲輪くるわ場所ばしょ現在げんざい古河ふるかわ歴史れきし博物館はくぶつかんとその周辺しゅうへん)にあった諏訪すわ八幡やはた神社じんじゃしているとかんがえられる。[10]
  • 片町かたまち(かたまち): とおりの南側みなみがわほりで、北側きたがわのみ屋敷やしきがあったことから片側かたがわまちとされた。[6]
  • 六軒ろっけんまち(ろくけんちょう)・四軒しけんまち(よんけんちょう): 片町かたまちわせて「大通おおどおり」とばれ、城内きうち屋敷やしき重臣じゅうしんつぎ高禄こうろくだった家臣かしんんでいた。[3]

祭礼さいれいどう

編集へんしゅう
  • 祭礼さいれいどうとよばれる日光にっこう街道かいどうのバイパスどう市街地しがいち東側ひがしがわもうけられ、原町はらまちこう横町よこちょうこうむすんでいた。すずめ神社じんじゃ例祭れいさいさいには、丁目ちょうめ高札こうさつじょう付近ふきんにお仮屋かりやち、出社しゅっしゃした神体しんたいのまわりに町民ちょうみんあつまっていたため、旅行りょこうしゃ迂回うかいさせて町民ちょうみんとのトラブルを防止ぼうしした。藩主はんしゅ土井どい利勝としかつころ完成かんせいしたとかんがえられている。明治めいじ12ねん(1879ねん)、米国べいこくもと大統領だいとうりょうグラント日光にっこうおとずれたさいには、お仮屋かりや街道かいどうからはなれたところに移動いどうして、いちぎょう通過つうかさせているので、このころから廃止はいしされたとかんがえられる。[11] [12]

名所めいしょ旧跡きゅうせきとう

編集へんしゅう
  • 御茶屋おちゃやこう: 大名だいみょうとう休憩きゅうけいしょがあった場所ばしょ日光にっこうしゃさんでは、将軍しょうぐんはこの御茶屋おちゃやこう日光にっこう街道かいどうから西にしはいり、三神みかみまちどおりおよび出城でしろ諏訪すわ曲輪くるわ北側きたがわ中道ちゅうどうて、御成門おなりもんから城内きうちはいった。[13] 現在げんざい石碑せきひかれている。
  • 日光にっこう街道かいどう道標どうひょう: 文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)に古河ふるかわ宿やど有志ゆうしによりてられた。正面しょうめんには「ひだり日光にっこうどう」とられている。常夜灯じょうやとう形式けいしき道標どうひょうである。古河ふるかわ指定してい有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい[2] 近年きんねんは100mほど西にしはなれた場所ばしょ移設いせつされていたが、鍛冶かじまち道路どうろ拡幅かくふく工事こうじにあわせて、2014ねんあきもと位置いちさい設置せっちされた[14]
  • 本陣ほんじんあと高札こうさつじょうあと: 丁目ちょうめ本陣ほんじん吉沢よしざわ幸之助こうのすけ[15]あと石碑せきひかれている。ここはおおきな商家しょうかつらなる石町こくまち江戸えどまち、さらにはしろへの入口いりくちにもあたり、城下じょうかなかでももっとにぎわうつじになっていた。[16] また、街道かいどうはさんだ反対はんたいがわには高札こうさつじょうがあった。ここにも石碑せきひかれている。[2] [17]
  • 脇本わきもとじん: 丁目ちょうめにあったきゅう脇本わきもとじんは、江戸えど時代じだい末期まっき建設けんせつされ、最近さいきんまで「太田おおた旅館りょかん」として営業えいぎょうしていたが、平成へいせい11ねん1999ねん)に後継こうけいしゃ不在ふざいのため閉業へいぎょうし、平成へいせい17ねん建物たてもの解体かいたいされた。脇本わきもとじんであった時期じきには入母屋いりもや式台しきだい玄関げんかんもうけられていた。[18]
  • ひだり筑波つくば: 北端ほくたん出口でぐち横町よこちょうこうにあった。日光にっこうどうちゅう江戸えどから日光にっこうけて北進ほくしんするとき、通常つうじょう筑波山つくばさん右手みぎてえる。しかし横町よこちょうこうには、本成寺ほんじょうじきたとなりせんぞういんまえ直進ちょくしんをさえぎるるいもうけられており、通行人つうこうにんはここで一旦いったん右折うせつしたため、筑波つくばさん左手ひだりてえたという。現在げんざいるいのぞかれ、みち直進ちょくしんしている。[19]
  • 作家さっか永井ながい路子みちこ旧宅きゅうたく江戸えどまちにあった商家しょうか永井ながい路子みちこ幼少ようしょうごした旧宅きゅうたくである。永井ながい江戸えど時代じだいからのふる商家しょうかで、土蔵どぞうつくり・2かいてのみせぞうのこされており、自由じゆう見学けんがくできる。19世紀せいき初頭しょとう初代しょだい永井ながい八郎はちろう葉茶屋はぢゃや永井ながい」を開業かいぎょうし、のちにはすえ漆器しっき砂糖さとうあつかい、質屋しちやいとなんだという。[20] [21]
  • 坂長さかちょう大工だいくまちにあり、さかなまちどおりとの交差点こうさてん位置いちする商家しょうか。「坂長さかちょう」は 元禄げんろく11ねん(1698ねん以前いぜん両替りょうがえしょうとして開業かいぎょうし、そのさけ問屋とんや転業てんぎょう現在げんざいふる建物たてものかして改装かいそうされ、土産物みやげものてん、オランダ料理りょうりのカフェ・レストラン、ギャラリーとうふくあい施設しせつとなっている。[22] [23] みせぞうそでぞうは、古河ふるかわしろうち文庫ぶんこぞういぬいぞう移築いちくしたとものとつたえられており、くに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざいである。[24] [25]
  • みらいぞう今城いましろ商店しょうてん): 鍛冶かじまちにあった商家しょうか今城いましろ商店しょうてん」はひろし年間ねんかん(1844 - 1847ねん)に開業かいぎょうし、綿めんタバコヨシズ販売はんばいしお元売もとうりなどをおこなってきた[26]現在げんざいふる建物たてものかして改装かいそうされ、和風わふうレストラン・喫茶店きっさてんとうふくあい店舗てんぽ「みらいぞう」となっている[27]。なお、みらいぞう周辺しゅうへん現在げんざい整備せいびちゅうであり、近接きんせつする酒井さかいぞう富岡とみおかぞう広場ひろば歩道ほどうとが一体化いったいかした空間くうかんまれる予定よていになっている。[28]
  • 鷹見たかみ泉石せんせき祈念きねんかん: 古河ふるかわじょう諏訪すわ曲輪くるわ南側みなみがわ隣接りんせつする武家ぶけ屋敷やしき現在げんざい古河ふるかわ歴史れきし博物館はくぶつかん施設しせつとして、一般いっぱん公開こうかいされている。

じょさとむら

編集へんしゅう

かく宿場しゅくばまちでは、参勤交代さんきんこうたい公用こうようひとぶつはこぶために人馬じんば常備じょうびする必要ひつようがあったが、これをたすけるために近隣きんりんむら々がじょうじょさと指定していされた。古河ふるかわ宿やど場合ばあいは、げん古河ふるかわ市内しない長谷ながたにこまさき牧野地まきのじ大堤おおつつみ関戸せきと稲宮いなみや下辺見しもへいみ上辺見かみへいみ大和田おおわだ磯辺いそべ西にしうしだにひがしうしだに駒羽根こまはね女沼おなぬま小堤こづつみ下大野しもおおの上大野かみおおの、および、げん加須かぞうち伊賀袋いがふくろ柳生やぎゅう麦倉むぎくら向古河むこうこが柏戸かしわど小野袋おのふくろの23カ村かそんである。[35]

交通こうつう

編集へんしゅう

となり宿場しゅくば

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう

文学ぶんがく

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 古河ふるかわ 通史つうしへん』 309 – 314 ぺーじ古河ふるかわさん宿しゅく
  2. ^ a b c 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 446 – 456 ぺーじみちたび宿やど
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 151ぺーじ - 167ぺーじ(マチの構成こうせい展開てんかい
  4. ^ 古河ふるかわ 通史つうしへん』 300ぺーじ - 301ぺーじ目抜めぬきのとお
  5. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 172ぺーじ市街地しがいち発展はってん
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 古河ふるかわ通史つうし下巻げかん)』 17-31ぺーじきゅう古河ふるかわ町名ちょうめい由来ゆらいこう) 初出しょしゅつ篠原しのはら静男しずお市内しない町名ちょうめい由来ゆらい」『古河ふるかわ史料しりょうしゅう だいしゅう』、古河ふるかわ郷土きょうど研究けんきゅうかい昭和しょうわ40ねん(1965ねん
  7. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 405-408ぺーじさけぎょう
  8. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』、425-428ぺーじ農具のうぐ鍛冶たんや
  9. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 290ぺーじ近世きんせい悪戸あくど新田しんでん
  10. ^ たとえば、古河ふるかわ公式こうしきホームページ 出城でしろ通信つうしん出城でしろ界隈かいわい」(2013ねん12がつ以降いこうにリンクれ)
  11. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 448ぺーじ祭礼さいれいどう
  12. ^ 高橋たかはしさんたかし「「祭礼さいれいどう」をあるたずねて―祭礼さいれいどう保存ほぞん継承けいしょうについて―」『古河ふるかわ郷土きょうど研究けんきゅう会報かいほうだい37ごう』 35-42ぺーじ平成へいせい11ねん(1999ねん
  13. ^ たとえば、『歴史れきし散歩さんぽ』、16ぺーじ将軍しょうぐん日光にっこうしゃさん古河ふるかわ城主じょうしゅ土井どいとし)など
  14. ^ 古河ふるかわ観光かんこう協会きょうかいオフィシャルサイトこがナビ・日光にっこう街道かいどう古河ふるかわ宿やど道標どうひょう
  15. ^ 千賀せんがさとし古河ふるかわはんのおもかげ』 1955ねん(『古河ふるかわ資料しりょう別巻べっかん』 157ぺーじ
  16. ^ 古河ふるかわ観光かんこう協会きょうかいオフィシャルサイトこがナビ・本陣ほんじんあと
  17. ^ 古河ふるかわ観光かんこう協会きょうかいオフィシャルサイトこがナビ・日光にっこう街道かいどうだか札場さつばあと
  18. ^ 東海大学とうかいだいがく羽生はぶ研究けんきゅうしつ 「解体かいたいされたきゅう脇本わきもとじん太田おおた旅館りょかん」」『古河ふるかわ歴史れきし博物館はくぶつかん紀要きよう 泉石せんせきだい8ごう、2008ねん
  19. ^ 古河ふるかわ史蹟しせき古河ふるかわはんのおもかげ』 43ぺーじ
  20. ^ 古河ふるかわ公式こうしきサイト・施設しせつ案内あんない作家さっか永井ながい路子みちこ旧宅きゅうたく旧宅きゅうたく保存ほぞん感謝かんしゃして(2013ねん12がつ以降いこうにリンクれ)
  21. ^ 古河ふるかわ公式こうしきサイト・施設しせつ案内あんない作家さっか永井ながい路子みちこ旧宅きゅうたく施設しせつ概要がいよう(2013ねん12がつ以降いこうにリンクれ)
  22. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 550-551ぺーじ(マチの住居じゅうきょ各論かくろん
  23. ^ 古河ふるかわ公式こうしきホームページ・施設しせつ案内あんない古河ふるかわのおやすしょ 坂長さかちょう(さかちょう)
  24. ^ 古河ふるかわ公式こうしきホームページ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい紹介しょうかい 坂長さかちょう本店ほんてんてんぞうきゅう古河ふるかわじょう文庫ぶんこぞう)(くに登録とうろく文化財ぶんかざい
  25. ^ 古河ふるかわ公式こうしきホームページ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい紹介しょうかい 坂長さかちょう本店ほんてんそでぞうきゅう古河ふるかわじょういぬいぞう)(くに登録とうろく文化財ぶんかざい
  26. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』556-558ぺーじ(マチの住居じゅうきょ各論かくろん
  27. ^ 古河ふるかわ鍛冶たんやまちみらいぞうホームページ
  28. ^ たとえば、国土こくど交通省こうつうしょうによる調査ちょうさ補助ほじょ事業じぎょう資料しりょうPPP/PFIの具体ぐたいてき案件あんけん形成けいせいとう推進すいしん平成へいせい24年度ねんど・2.先導せんどうてき官民かんみん連携れんけい支援しえん事業じぎょう地方ちほう公共こうきょう団体だんたいとうによる調査ちょうさ実施じっしへの補助ほじょ)・古河ふるかわ鍛治かじまち「まちなかぞう道路どうろ空間くうかん創造そうぞうてき運営うんえい管理かんり事業じぎょう調査ちょうさ」がくわしい
  29. ^ a b c d e f g h i j k 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん、821-837ぺーじ古河ふるかわ市域しいき寺院じいん
  30. ^ a b 古河ふるかわ観光かんこう協会きょうかいオフィシャルサイトこがナビ・7000あるける 古河ふるかわ七福神しちふくじんめぐり
  31. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 712 ぺーじ恵比須えびす神社じんじゃ
  32. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 725 ぺーじ竹駒たけこま稲荷いなり神社じんじゃ
  33. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 722ぺーじ北新ほくしんまち八幡やはた神社じんじゃ
  34. ^ 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 720-722ぺーじ八幡やはたまち八幡やはた神社じんじゃ
  35. ^ 古河ふるかわ 通史つうしへん』 314 – 318 ぺーじ人馬じんば継立つぎたての負担ふたん
  36. ^ 古河ふるかわ公式こうしきホームページ 古河ふるかわ文学ぶんがくかん 文学ぶんがくかん通信つうしん(2003.4)

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 古河ふるかわへんさん委員いいんかい へん古河ふるかわ 資料しりょう別巻べっかん古河ふるかわ、1973ねん
  • 古河ふるかわへんさん委員いいんかい へん古河ふるかわ 通史つうしへん古河ふるかわ、1988ねん
  • 古河ふるかわへんさん委員いいんかい へん古河ふるかわ 民俗みんぞくへん古河ふるかわ、1983ねん
  • 古河ふるかわ歴史れきし博物館はくぶつかん へん歴史れきし散歩さんぽ』、古河ふるかわ、1996ねん
  • 千賀せんがさとし古河ふるかわ史蹟しせき古河ふるかわはんのおもかげ』 茨城いばらきけん古河ふるかわ社会しゃかい教育きょういく委員いいんかい昭和しょうわ30ねん(1955ねん
  • 鑓水やりみずかしわみどり古河ふるかわ通史つうし下巻げかん)』 かしわみどりかい平成へいせい4ねん(1992ねん