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和算 - Wikipedia

和算わさん(わさん)は、中国ちゅうごく伝統でんとう数学すうがく系譜けいふ日本にっぽん算術さんじゅつ体系たいけい。『和算わさん』というかたりは、明治めいじに、当時とうじ流入りゅうにゅうした『洋算ようざん』(西洋せいよう数学すうがく)と対比たいひするためにつくられ、おも江戸えど時代じだい数学すうがくすが、西洋せいよう数学すうがく導入どうにゅう以前いぜん数学すうがく全体ぜんたいすこともある。とくせき孝和こうわ以降いこう高度こうど発展はってんした。

和算わさん歴史れきし

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江戸えど時代じだいよりまえ

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和算わさん中国ちゅうごく数学すうがくから多大ただい影響えいきょうけている。中国ちゅうごくでは『きゅうしょう算術さんじゅつ』とばれる数学すうがくしょかんだいには登場とうじょうし、そのなかで面積めんせき計算けいさんほう比例ひれい反比例はんぴれいピタゴラスの定理ていりなどを紹介しょうかいしている。7世紀せいき以降いこうずい使遣唐使けんとうし派遣はけんなどにより、中国ちゅうごく文化ぶんか日本にっぽん次々つぎつぎ流入りゅうにゅうするようになる。

中国ちゅうごく律令制りつりょうせいもとつくられた大宝たいほう律令りつりょうでは、さん博士はかせさんばれる官職かんしょくさだめられていた。さん博士はかせさん育成いくせいにあたるとともに、『きゅうしょう算術さんじゅつ』をはじめとした中国ちゅうごくさんしょ知識ちしき要求ようきゅうされた(さんどう)。『万葉集まんようしゅう』にはつぎのようなうたがみられる。

若草わかくさ新手あらてまくらまきはじめよる哉将あいだ はちじゅういち在國ざいこく (わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに まきじゅういち 2542ばん

「くく」というみに「はちじゅういち」という漢字かんじてられており、すでにきゅうきゅう日本にっぽんられていたことがわかる。

中世ちゅうせいから安土あづち桃山ももやま時代じだいおいて、どのような数学すうがくおこなわれたかはよくかっていない。さんどうかん請負うけおいせいもとづいて世襲せしゅうによって各々おのおの氏族しぞくつたえられるようになり、一種いっしゅ秘伝ひでんのようにあつかわれ、閉鎖へいさてき学術がくじゅつとなっていたためである。

ぜんてらでは儒教じゅきょう書物しょもつならんで『きゅうしょう算術さんじゅつ』が僧侶そうりょ教育きょういくもちいられた[注釈ちゅうしゃく 1]

臨済宗りんざいしゅうちゅういわおえんがつ数学すうがくこのんでみずからも『觿耑算法さんぽう』という数学すうがくしょいたとつたえられているが、散逸さんいつしてしまい現存げんそんしていない[1]。しかし、ちゅういわおえんがつの『れきへん』(『中正ちゅうせい外篇がいへんだい6へん)には、1太陽年たいようねん平均へいきん日数にっすうと、太陰たいいん太陽暦たいようれきメトン周期しゅうきにおける1ねん平均へいきん月数げっすうから、1さく望月もちづき平均へいきん日数にっすうもとめる以下いかのようなしげる分数ぶんすう計算けいさん言及げんきゅうされており、中世ちゅうせい日本にっぽん分数ぶんすう理解りかいじょう貴重きちょうである[2]

 

もっとも、途中とちゅう分数ぶんすう同士どうし除算じょざんかんする計算けいさん過程かていがなく、計算けいさん結果けっかのみが突然とつぜんあたえられるため、岡山おかやま茂彦しげひこ田村たむら三郎さぶろうは、ちゅういわお自身じしん計算けいさんほうあま理解りかいせず、計算けいさん結果けっか中国ちゅうごく数学すうがくしょからうつした可能かのうせいもあるのではないかと指摘してきしている[2]

きゅうしょう算術さんじゅつ』などは散逸さんいつしてしまったようだが、土木どぼく建築けんちく財務ざいむこよみ計算けいさんなどにある程度ていど数学すうがく必要ひつようだったのはたしかである。また、えき学習がくしゅうには数学すうがくてき知識ちしき必要ひつようであり、そのなかには儒教じゅきょう経典きょうてん五経ごきょう」の1つとしてみなされていた『しゅうえき』の解釈かいしゃくふくまれていたとする指摘してきもある[1]

江戸えど時代じだい古老ころうが「太閤たいこう検地けんちころ算木さんぎ使つかった」と回想かいそうしており、また『ちりこう』の開平かいへい計算けいさん算木さんぎによる方法ほうほうちかいことから、江戸えど時代じだい直前ちょくぜんまで算木さんぎ優勢ゆうせいであったとおもわれる。そろばん導入どうにゅう時期じき不明ふめいであるが、毛利もうり重能しげよしの『割算わりざんしょ』(1622ねん元和がんわ8ねん))では珠算しゅざん解説かいせつされている。近年きんねん和算わさん成立せいりつに、宣教師せんきょうしつたえたヨーロッパ数学すうがく影響えいきょうるとする見解けんかいるが[3]、その当否とうひは、今後こんご数学すうがく研究けんきゅう課題かだいである。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだい日本にっぽん数学すうがくおおいに発展はってんした。

初期しょき和算わさん

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あらためさんちりこう』。国立こくりつ科学かがく博物館はくぶつかん展示てんじ

このきっかけになったのが1627ねん寛永かんえい4ねん)、京都きょうと吉田よしだ光由みつよしによってかれた『ちりこう』である。明代あきよ算術さんじゅつしょさん法統ほうとうむね中国語ちゅうごくごばん』を模範もはんとしたもので、そろばんの使用しようほう測量そくりょうほうといった実用じつよう数学すうがくくわえ、継子けいしねずみざんといった数学すうがく遊戯ゆうぎ紹介しょうかいされている。

ちりこう』はベストセラーとなり、初等しょとう数学すうがく標準ひょうじゅんてき教科書きょうかしょとして江戸えど時代じだいつうじてもちいられた。また、本書ほんしょ模倣もほうしたり、書名しょめいを『○○ちりこう』としたものもおお出版しゅっぱんされた。

ちりこう』は初等しょとうてき教科書きょうかしょだったが、あるはんには巻末かんまつ数学すうがくしゃへの挑戦ちょうせんとして、こたえをつけない問題もんだいのこだい)をした。これ以降いこうさきされたのこだいあらたなのこだいすという連鎖れんさのこだい継承けいしょう)がはじまり、和算わさんあつかわれる問題もんだい急速きゅうそく実用じつよう必要ひつようえ、技巧ぎこう複雑ふくざつした。

和算わさん中興ちゅうこう

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せき孝和こうわちょくくよう算法さんぽう」の、ベルヌーイすうこう係数けいすうについてかれたぺーじ

のこだい継承けいしょうさかんになるにつれ、しばしば、それまでの初等しょとう算術さんじゅつてき手法しゅほうではえない問題もんだいあらわれるようになった。

沢口さわぐち一之かずゆきはそのちょ古今ここん算法さんぽう』で、当時とうじ注目ちゅうもくされていたもとあさしゅすぐるちょさんがく啓蒙けいもう』そのなか天元てんげんじゅつ未知数みちすう1個いっこ代数だいすう方程式ほうていしきとその数値すうちてき解法かいほう)を困難こんなんのこだい解決かいけつもちいて、そのじゅつ威力いりょくをしめした。

またかれ同書どうしょのこだいとして、天元てんげんじゅつではあつかえない複数ふくすう未知数みちすうもうける「代数だいすう方程式ほうていしき」(いわゆる高次こうじ多元たげん連立れんりつ方程式ほうていしき)を必要ひつようとする問題もんだい提出ていしゅつした。これにこたえて、江戸えどせき孝和こうわ京都きょうと田中たなか由真ゆま(たなか よしざね)らが相次あいついではた書法しょほうえんじだんじゅつ、つまり文字もじしきによる筆算ひっさん計算けいさんほうと、それによってされた高次こうじ多元たげん連立れんりつ方程式ほうていしき解決かいけつほう創出そうしゅつした。

日本にっぽん数学すうがくいちせきとうじたのが、せき孝和こうわである。かれ天元てんげんじゅつえんじだんほう発展はってんさせて「てん竄術」を創始そうしした。これははた書法しょほうによって問題もんだい条件じょうけん文字もじうつして、それによって理論りろん整理せいりすることでじゅつこたえをるための計算けいさんほう)をる、いわゆる代数だいすうがくである。

これによってえん算法さんぽう複雑ふくざつ条件じょうけん問題もんだいなどむずかしい理論りろんをあつかう算法さんぽう様々さまざまけるようになった。このじゅつ後代こうだい千変万化せんぺんばんか」のじゅつともとなえられ、あるいはこれが日本にっぽん数学すうがく全体ぜんたいともいえる。すなわち、日本にっぽん数学すうがく基礎きそは「てん竄術」によってはじめてち、このじゅつのおかげで数学すうがく問題もんだいなん理論りろんせいがより高度こうど独特どくとく発展はってんしていくこととなった。江戸えど後期こうき坂部さかべひろゆたかは「どんな難解なんかいじゅつでもてん竄のかられることはない。」といっている。

せき孝和こうわはまたこのほか

など、多岐たきにわたる数学すうがく分野ぶんやにおいて、研究けんきゅうあるいはあらたな発明はつめいをしている。

江戸えど初期しょきには数学すうがく中心ちゅうしん京阪けいはん地方ちほうだったが、このころから江戸えどせき孝和こうわがくすべせきりゅう圧倒的あっとうてき主流しゅりゅうになってゆく(このためか、京阪けいはん地方ちほう和算わさん実態じったいがあまり今日きょうつたわっていない)。このようにのこだい継承けいしょう結果けっかせき孝和こうわのような独創どくそうてき数学すうがくしゃもあらわれて、日本にっぽん数学すうがく高度こうど代数だいすう整数せいすう方程式ほうていしきろん解析かいせきがく幾何きかがく実用じつよう範囲はんいえて発達はったつしていった。

せきりゅう勃興ぼっこう

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せき孝和こうわは、日本にっぽん算術さんじゅつ発展はってんおおいに寄与きよした一人ひとりである。

和算わさんにおける解析かいせきがく関連かんれんした研究けんきゅうを「えん」といい、せき孝和こうわ登場とうじょう以降いこうおおいに発達はったつした。

えんというは、円周えんしゅうりつえんせきりつたま体積たいせき表面積ひょうめんせきおも問題もんだいとなったことによる。せき孝和こうわえんせっする正多角形せいたかっけいあたりながさをもちい、円周えんしゅうりつを11けたまでている。

せき弟子でしである建部たけべけんひろし同様どうよう手法しゅほうリチャードソンの補外ほがいわせて、42けたまでただしい計算けいさんしている。かれはさらにすすんで、つづりじゅついわゆる無限むげん級数きゅうすうとその導出どうしゅつほうし、それによりせき孝和こうわしえなかったながさなどえんにおける各種かくしゅ計算けいさんほうみちびた。

建部たけべけんひろしは、そのちょつづりじゅつさんけい』では(arcsin x)2べき級数きゅうすう展開てんかい世界せかいはじめて計算けいさんしている。また、同年どうねん大阪おおさか鎌田かまたしゅんきよしもarcsin(x), sin(x)のべき級数きゅうすう展開てんかいもとめた。

建部たけべけんひろし弟子でし中根なかねもとけい天文学てんもんがく洋学ようがくによる知識ちしき必要ひつようせいいて、当時とうじキリスト教きりすときょう排除はいじょにおいてなされた洋書ようしょ輸入ゆにゅう禁制きんせいゆるめることを、その主人しゅじんである将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね進言しんげんしたといわれ、ついに実行じっこうされるにいたった。それによって、西洋せいよう天文てんもんれきさんいたきよしあさうめぶんかなえの『こよみさん全書ぜんしょ』や『数理すうりせい蘊』などのしょつたわり、暦学れきがくしゃさん学者がくしゃにとまった。これらのしょにより、西洋せいよう数学すうがくしょ結果けっかがもたらされ、対数たいすう三角さんかくほうなどあらたな分野ぶんや興味きょうみひらかれるようになった。

せき孝和こうわ以後いごあら木村きむらすぐるがそのつてぎ、さらにその弟子でし松永まつながりょうがその流派りゅうはを「せきりゅう」とたたえるようになって、以降いこうかんりゅう算法さんぽうは、流派りゅうはいておおいに発達はったつし、数学すうがくかいにその権威けんいほこった。

松永まつながりょうせき孝和こうわ建部たけべけんひろ研究けんきゅうし拡め、親友しんゆう久留島くるしまよしふとし影響えいきょうけながら、

などを確立かくりつさせた。

久留島くるしまよしふとしは、せきりゅう門下もんかではなかったが、その天才てんさいによって独学どくがく算術さんじゅつたっし、のちかんりゅう中根なかねもとけい才能さいのう見出みいだされてからはせきりゅう数学すうがく研究けんきゅうした。きょくすうじゅつ平方へいほうれいやくじゅつかず平方根へいほうこん近似きんじ分数ぶんすうもとめる方法ほうほう)、えん方陣ほうじんしん研究けんきゅうなど様々さまざま独創どくそうあるいは工夫くふうした。また枝葉えだは結果けっかではあるがオイラー関数かんすうラプラス展開てんかいなど西洋せいよう同様どうようのものを先駆さきがけてしている。

中根なかね久留島くるしま松永まつながさんまなんだ山路やまじしゅじゅうは、それらのつて一身いっしんあつめ、かくいえごうをまとめて流派りゅうはたるせきりゅう樹立じゅりつした。弟子でし教育きょういくすぐれて、優秀ゆうしゅう数学すうがくしゃ輩出はいしゅつした。

その弟子でし有馬ありまよりゆき久留米くるめ藩主はんしゅでありながら数学すうがくすぐ数々かずかず研究けんきゅうのこしている。また、せきりゅう秘術ひじゅつ流派りゅうはないされてにひろめられないことをなげき、『じつ璣算ほう』においててん竄術やえんしょ公式こうしきなど、それまでかんりゅう重要じゅうよう機密きみつであった高等こうとう算法さんぽう数々かずかず問題もんだい結果けっか刊行かんこうして公表こうひょうした。

おなじく山路やまじ弟子でし安島あじま直円なおのぶは、えん伝授でんじゅけるに先立さきだってえんしん発明はつめいをなし、山路やまじはなはおどろかせた。そのしん発明はつめいとは、いまでいう積分せきぶんほう思想しそうを以ってえんかたち長方形ちょうほうけいあつまりとかんがえ、えんあるいはなどの曲線きょくせん面積めんせきもとめるじゅつ計算けいさんほう)をみちび方法ほうほうである。

またその方法ほうほうもちいて、円柱えんちゅう円柱えんちゅうつらぬいた十字じゅうじかたちや、円柱えんちゅうからたま穿うがったかたち体積たいせきもとめるというような問題もんだいはじめてした。この解法かいほう安島あじまつづりじゅつかさねてもちいるつづりじゅつじゅう積分せきぶん)をもちいる。積分せきぶん思想しそうつづりじゅつと、ここにおいて安島あじませき孝和こうわ以降いこうえんだい革新かくしんをもたらしたのであった。

さらに安島あじま直円なおのぶは、つづりじゅつにおいてあるかずすうじょう公式こうしきたり、独自どくじ対数たいすうひょう作成さくせいほうしたり、えん角形かくがたせっがた問題もんだい諸々もろもろ結果けっかるなど数々かずかず研究けんきゅうのこした。

世間せけん数学すうがくかいでは、このころすでにのこだい継承けいしょう風習ふうしゅうすたれてきていたが、一方いっぽう神社じんじゃ仏閣ぶっかく数学すうがく問題もんだいせたがくかかげる、さんがく奉納ほうのう風習ふうしゅうさかんとなり、数学すうがく問題もんだい競争きょうそうおとろえることがなかった。

安島あじま直円なおのぶ親友しんゆうでありおなじく山路やまじ弟子でし藤田ふじたさだていともく)は教育きょういくにすぐれ、問題もんだいしゅうしらげよう算法さんぽう』をあらわしてとどろかせた。

このころ世間せけん算術さんじゅつは、のこだい継承けいしょうさんがく奉納ほうのうなどによって流行りゅうこうがきわまりながらも、一般いっぱんでおこなわれる算術さんじゅつは、実用じつようとおはなれた問題もんだい甲斐かいのない無闇むやみめずらしかったりむずかしいだけの問題もんだいなど、その内容ないようあらさが目立めだつようになってきた。

それを批判ひはんしたのがこのちょしらげよう算法さんぽう』で、その凡例はんれいしるされた「いま算数さんすうようようあり、無用むようようあり、無用むよう無用むようあり。」という一言ひとことがそれをいいあてている。それぞれ、実用じつようてき有益ゆうえきなもの、実用じつようてきでないが有益ゆうえきなもの、なんえきにもならないものをっているが、このしょは「無用むよう無用むよう」を排除はいじょするために良問りょうもんのみをあつめたとし、これがひとたび刊行かんこうされるや、良質りょうしつ教科書きょうかしょとして、数学すうがくしゃあいだ一世いっせい風靡ふうびした。

藤田ふじたさだ研究けんきゅうに「へんしょうじゅつ」がある。これは、ふた以上いじょうかいかいのことをしょうという)をもつ方程式ほうていしきにおいて、こたえとはならないほうかい意義いぎあたえ、そのかいこたえとなるような問題もんだい条件じょうけん図形ずけいなどをしめして、問題もんだい変化へんかさぐ研究けんきゅうである。

東北とうほく会田あいだ安明やすあきは、藤田ふじたさだもんにゅうろうとしたが、自身じしんかかげたさんがく藤田ふじたから批判ひはんされたのをきっかけにいいをこして対立たいりつし、ついに独自どくじ一派いっぱさい上流じょうりゅう』(郷土きょうど山形やまがた最上川もがみがわにちなむ。音読おんよみでサイジョウリュウ。おも東北とうほく地方ちほうさかえた。)をげ、せきりゅう対抗たいこうした。

しかもわかころ会田あいだ安明やすあきは、せきりゅう算法さんぽうてん竄術をらずして、独自どくじ天生あもうほうというてん竄術と同等どうとうじゅつ発明はつめいしていた。また生涯しょうがいひゃくさつもの伝書でんしょ流派りゅうはよう教科書きょうかしょ)や論文ろんぶんしており、その遺稿いこうにはるべきものがすくなくない。

江戸えど後期こうきから明治維新めいじいしん

編集へんしゅう

江戸えど時代じだいわりにかうころには、和算わさんはますます高度こうどし、あらたな展開てんかいせ、にな拡大かくだいした。安島あじま直円なおのぶ門下もんかから、教育きょういくすぐれた日下くさかまことると、そのもんからもとてもおおくの秀才しゅうさい輩出はいしゅつされた。

和田わだやすしは、安島あじま積分せきぶん思想しそうえんにとどまらず、角形かくがた立体りったいなど様々さまざま図形ずけいへと多岐たきにおよばせて、「豁術」(積分せきぶんほう)を創出そうしゅつし、また、このじゅつのための便利べんりとして「えんひょう」(積分せきぶん公式こうしきしゅう)を作成さくせいした。ここにおいて和田わだえんだいさん革命かくめいをもたらした。「きょくすうじゅつ」(極大きょくだい極小きょくしょうろん)の研究けんきゅうでは、せき孝和こうわ創出そうしゅつ以来いらい、あかされていなかったてきつきほう理論りろんかして、従来じゅうらい方法ほうほう簡便かんべんにしさらにその応用おうようもより複雑ふくざつ幅広はばひろいものへとひろげたのであった(これはいまでいえば微分びぶんほうによるしるべ関数かんすう導出どうしゅつひとしい)。また、新奇しんき問題もんだいとして、えんかくなどの図形ずけい図形ずけいうえでころがったときの軌跡きせきについてろんじはじめ、これを皮切かわきりに以後いごこの問題もんだいさかんにおこなわれた。

和田わだはたちまちさんたちのあいだひろまり、すで数学すうがくげているはずの有力ゆうりょくしゃたちが、そのごうさずかるために入門にゅうもんしにくるほどであった。

おなじく日下くさかまこと門下もんか内田うちだかんじゅういちのころすでにその才能さいのうをあらわし、わずかじゅうはちにしてせきりゅうそうみつるいだ秀才しゅうさいであった。洋学ようがく高野たかの長英ちょうえいまなび、天文てんもん測量そくりょう地理ちりにもすぐれて「瑪得瑪弟じゅく」(マテマテカじゅく)というじゅくひらいておしおおくの門下生もんかせいかかえた。

天文てんもん関係かんけいでは明治めいじ大学だいがく出仕しゅっし天文てんもんれきどう御用ごようがかりほしがくきょく御用ごようがかりとして、太陽暦たいようれきへの改暦かいれき事業じぎょうにもつとめた。その各地かくちとどろき、当時とうじさんたちに影響えいきょうおよぼすことがおおかった。

長谷川はせがわひろしもまた日下くさかまこと門弟もんていであったが、長谷川はせがわとして独立どくりつ一派いっぱきずき(一説いっせつには、わけあってせきりゅうから破門はもんされたともう)、こと教育きょういく方面ほうめんによく従事じゅうじした。そのちょ算法さんぽう新書しんしょ』は、そろばんの初歩しょほから天元てんげんてん竄、つづりじゅつ、さらには和田わだえんまでをもしみなくせて当時とうじ算法さんぽう網羅もうら丁寧ていねいかいした入門にゅうもんしょであった。その様々さまざま算術さんじゅつ入門にゅうもんしょあらわして子弟していみちびき、その代目だいめ長谷川はせがわひろしにおいても図形ずけい公式こうしきしゅうや豁術のかいしょなどさまざまに数学すうがく教育きょういく活動かつどうおこなわれた。

また、長谷川はせがわひろしあらたに「きょくがたじゅつ」と「変形へんけいじゅつ」というものを発明はつめいしている。

きょくがたじゅつ」は、あつかいづらいかず図形ずけいあつかいやすいもの(きょくがたという。たとえば長方形ちょうほうけい菱形ひしがたなら正方形せいほうけいに、三角形さんかっけいなら正三角形せいさんかっけい直角ちょっかく二等辺三角形にとうへんさんかっけいに、おおきさがひとしくないものはひとしいものに)にえて、問題もんだいきやすくするというじゅつであり、「変形へんけいじゅつ」は図形ずけいかたちばしたりまわしたりすることでかたちえて問題もんだいきやすくするじゅつである。

これらによって、図形ずけい問題もんだい解法かいほうおおいに簡略かんりゃくされるかにえたが、ごくかたちじゅつにてはある問題もんだいにおいてはまさしくけずにあやまったこたえがみちびかれると事態じたいこった。いくらかこれに数学すうがくしゃたちから批判ひはんこえがあがったものの、ついに修正しゅうせい改良かいりょうされることをなかった。他方たほう内田うちだかん門人もんじん法道寺ほうどうじぜんもまたかたちえてくという同様どうようかんがえにより、せっえん問題もんだいなどにおいてえん直線ちょくせんえてく、べつ方法ほうほうしている(反転はんてんほう相当そうとうする)。

せき時代じだいにおいては数学すうがくになは、とく都市としの、幕臣ばくしんさむらいなど身分みぶんたかものほとんどであったが、江戸えど後期こうきになるとしょ地方ちほうから、商家しょうか農家のうかなどからも数学すうがくたっしたものおおくあらわれて、ひく身分みぶんとお地方ちほうひとでも高度こうど数学すうがくをたしなむものえた。萩原はぎはら信芳のぶよし剣持けんもちあきらぎょうなどがそれである。この要因よういんのひとつとして、遊歴ゆうれきさんがある。日本にっぽん各地かくちあるきまわり、先々さきざき数学すうがく教授きょうじゅおこなった数学すうがくしゃであり、おも山口やまぐちかず剣持けんもちあきらぎょうがいる。また通信つうしん教育きょういくもよくおこなわれていて、これらは地方ちほう数学すうがくをひろめることにおおきなこうがあった。

明治めいじ時代じだい以後いご

編集へんしゅう

明治めいじ時代じだいはいると、西洋せいよう数学すうがく本格ほんかくてき導入どうにゅうはじまり、和算わさん衰退すいたいかう。便利べんりさにいても厳密げんみつさにおいても、またあつか問題もんだいひろさにいても、西洋せいよう数学すうがく和算わさんよりも圧倒的あっとうてきすぐれていた。しかし、和算わさんひろふか浸透しんとうしていたこともあって、この交替こうたい意外いがいにも時間じかんがかかる。

西洋せいよう数学すうがく導入どうにゅうは、まず応用おうよう方面ほうめんからはじまる。海軍かいぐんでは西洋せいよう技術ぎじゅつ習得しゅうとくのために洋算ようざんおしまれ、また、内田うちだかん福田ふくださとしのきといった和洋わようつうじるさん測量そくりょう天文てんもんなどの技術ぎじゅつとともに門弟もんていおしえていた。初期しょきの「洋算ようざん」には技術ぎじゅつしゃなど数学すうがく専門せんもんとはえないものおおく、和算わさんへの批判ひはんは「応用おうようやくにたない」というものが主流しゅりゅうであった。

西洋せいよう数学すうがく台頭たいとう、その象徴しょうちょうてき出来事できごと1872ねん明治めいじ5ねん)の学制がくせい発布はっぷさいとき政府せいふが「和算わさん廃止はいしし、洋算ようざんもっぱもちいふるべし。」と決断けつだんしたことである。しかし、初等しょとう教育きょういくにおける筆算ひっさんさえまともにおしえられる教師きょうし不足ふそくしていたために翌年よくねんむをなく珠算しゅざんのみ復活ふっかつした。

和算わさんおとろえることと洋算ようざんるわないことにうれいてやなぎならえつ神田かんだ孝平たかひら1877ねん明治めいじ10ねん)、日本にっぽんすう学会がっかい前身ぜんしん東京とうきょう数学すうがく会社かいしゃ設立せつりつし、和算わさん洋算ようざんわず有力ゆうりょくさんをあつめて「数学すうがく」の振興しんこうちからをそそいだ。まだ和算わさん有力ゆうりょく時期じきであって、これには洋算ようざん和算わさん多数たすう参加さんかしているが、むしろ和算わさんほう数学すうがくりょくすぐれたものおおかったという。そして、このころになってもいまだ、あらたな和算わさんしょ出版しゅっぱんされている。

しかし、和算わさんから西洋せいよう数学すうがくへというながれは明確めいかくで、1884ねん明治めいじ17ねん)に東京とうきょう数学すうがく会社かいしゃ日本にっぽん数学すうがく物理ぶつり学会がっかい改組かいそされたころには、西洋せいよう数学すうがく和算わさん圧倒あっとうするようになる。

本格ほんかくてき西洋せいよう数学すうがく浸透しんとうまでのあいだ和算わさんまた和算わさん)は応用おうようめんにおいても近代きんだいささえた。

1873ねん明治めいじ6ねん)の太陽暦たいようれき採用さいよう主役しゅやくつとめたのはせきりゅう有力ゆうりょく和算わさん内田うちだかんであった。福田ふくださとしのきやその子息しそくである福田ふくだなかば、また川北かわきたちょうのように測量そくりょう活躍かつやくしたものもあった。

幕末ばくまつ明治めいじはじめの技術ぎじゅつ官僚かんりょう小野おの友五郎ともごろう和算わさんであり、咸臨丸かんりんまる航路こうろ計算けいさんには和算わさんもちいたという。また、大工だいくのための作図さくず技術ぎじゅつである規矩きくじゅつ幕末ばくまつより和算わさん応用おうようによって理論りろんてき整備せいびされたが、明治めいじ以降いこうつづ研究けんきゅうすすみ、しかも1887ねん明治めいじ20ねんごろのものでも和算わさん影響えいきょう濃厚のうこうである。その銀行ぎんこう商業しょうぎょう運輸うんゆ保険ほけん製糸せいし、などさまざまな実業じつぎょう現場げんばでも珠算しゅざんもちいられた。江戸えどつづいて明治めいじ以降いこう初等しょとう教育きょういく和算わさん活躍かつやくつづけ、現在げんざい算数さんすう鶴亀算つるかめざんなどはその名残なごりだという。

和算わさん研究けんきゅう

編集へんしゅう

和算わさん存亡そんぼう危機ききたされるようになると、和算わさんわすれさられるのをおそれて和算わさん研究けんきゅうこった。遠藤えんどう利貞としさだは、1877ねん明治めいじ10ねん)に東京とうきょう数学すうがく会社かいしゃ設立せつりつされたとしより和算わさん研究けんきゅうはじめ、20ねんかけて1896ねん明治めいじ29ねん)、『だい日本にっぽん数学すうがく』を出版しゅっぱんする。これをけて菊池きくち大麓だいろく和算わさん取調とりしらべしょもうけ、荻原おぎわらただしすけ岡本おかもとのりろく三上みかみ義夫よしおぜんふたりは元々もともと和算わさんである)などがこれにつとめた。1911ねん明治めいじ44ねん)に東北大学とうほくだいがく設置せっちされるとはやし鶴一つるいちもまた和算わさんしょ収集しゅうしゅう研究けんきゅうおこない、没後ぼつご和算わさん研究けんきゅう集録しゅうろく』としてまとめられた。

藤原ふじわら松三郎まつさぶろうもまた、はやし鶴一つるいちぼつけて晩年ばんねん和算わさん研究けんきゅうつとめた。1940ねん昭和しょうわ15ねん)には、紀元きげん2600ねん記念きねん事業じぎょう明治めいじぜん日本にっぽん科学かがく』の企画きかくなかで『明治めいじぜん日本にっぽん数学すうがく』の編纂へんさん藤原ふじわら松三郎まつさぶろうによっておこなわれ、藤原ふじわら没後ぼつご、ようやく1954ねん昭和しょうわ29ねん)にこれが出版しゅっぱんされた。

藤原ふじわら松三郎まつさぶろうちょ日本にっぽん数学すうがくよう』によると、最後さいご和算わさんおよび和算わさんしょとみられるのは東北とうほく熊谷くまがい藤吉とうきちとそのちょ和算わさんひらき式法しきほう』であるという。このしょ藤原ふじわら松三郎まつさぶろう序文じょぶんにない、1946ねん昭和しょうわ21ねん和算わさん最後さいごかざった。

現代げんだいでも和算わさん研究けんきゅう灯火ともしびえず、たとえば一関いちのせき博物館はくぶつかんでは毎年まいとし和算わさん問題もんだいして解法かいほうつのっている[4]


算木さんぎとそろばん

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算木さんぎもちいたかず表記ひょうき

和算わさんもちいられる道具どうぐとして算木さんぎとそろばんがげられる。いずれも『さん法統ほうとうむね』に使用しようほう紹介しょうかいされている。また、『ちりこう』にはそろばんの使用しようほう絵入えいりで丁寧ていねい解説かいせつされている。

そろばんは会計かいけいとうひろもちいられたのにたいし、算木さんぎもっぱ和算わさんによって、天元てんげんじゅつ中国ちゅうごく代数だいすう方程式ほうていしき理論りろん)などの計算けいさんもちいられた。

籌算算木さんぎ計算けいさん)では算盤そろばん(さんばん)とばれるばんかずあらわ算木さんぎもちいる。算盤そろばんでは碁盤ごばんじょう升目ますめかれたぬのいたであり、よこいちじゅうひゃくせんまんといった桁数けたすうあらわし、たてしょうこたえ)、定数ていすうこう)、ほう (x)、れん (x2)、すみ (x3)、さんじょう (x4)…と代数だいすう方程式ほうていしきかいおよびかく係数けいすうあらわし(ただし流派りゅうはによってはれん以下いかはつれん(x2)、つぎれん(x3)、さんかど(x4)…とし、すみ最大さいだい次数じすうとする)、かく升目ますめかれた算木さんぎならえることで代数だいすう方程式ほうていしきいていく。

この算木さんぎによる計算けいさんによれば、理論りろんじょう一元いちげん方程式ほうていしきならなんでもけるものであるが、場所ばしょをとったり、計算けいさん途中とちゅう算木さんぎ一本いっぽんでもくずしたらすべて台無だいなしになる、次数じすうおおきくなるほど計算けいさん煩雑はんざつになるなどして、あつかいづらさがあった。 よって、なか後期こうきごろには、算木さんぎ運用うんようわずらわしさをきらって、方程式ほうていしきをも算木さんぎではなくそろばんで計算けいさんしようとする研究けんきゅうさかんになった。いちじるしいものは川井かわい久徳ひさのり著書ちょしょひらきしき新法しんぽう』がある。かれは、従来じゅうらいそれぞれ独立どくりつしていたかく次数じすう方程式ほうていしきのそろばん解法かいほう(いわゆるかい公式こうしき)の一括いっかつこころみて、なん一元いちげん方程式ほうていしきでもことごとく、そろばんによってすみやかに一貫いっかん方法ほうほうした。

ふるくは加減乗除かげんじょうじょのような算数さんすう算木さんぎ算盤そろばんによっておこなわれていたが、そろばんがあらわれてからは、算木さんぎ算盤そろばん数学すうがく方程式ほうていしきかいもとめることのみにあつかわれるようになった。そろばんについては、和算わさんすたれて電卓でんたくコンピュータ登場とうじょうした現在げんざいでも、計算けいさん器具きぐとしての主流しゅりゅうからははずれつつも、教育きょういく分野ぶんやなどでのさい評価ひょうかもあって、日本にっぽん伝統でんとう文化ぶんか和算わさん名残なごりとして使つかわれつづけている。

さんがく

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奈良なら円満寺えんまんじのこさんがく

さんがく(さんがく)とはがく絵馬えま数学すうがく問題もんだい解法かいほうしるして、神社じんじゃ仏閣ぶっかく奉納ほうのうしたものである。平面へいめん図形ずけいかんする問題もんだいさんがくおおい。数学すうがくしゃのみならず、一般いっぱん数学すうがく愛好あいこう数多かずおお奉納ほうのうしている。

さんがく数学すうがく問題もんだいけたことを神仏しんぶつ感謝かんしゃし、益々ますます勉学べんがくはげむことを祈願きがんして奉納ほうのうされたとわれる。やがて、ひとあつまる神社じんじゃ仏閣ぶっかく数学すうがく発表はっぴょうとして、難問なんもん問題もんだいだけをいて解答かいとうけずに奉納ほうのうするものあらわれ、その問題もんだい解答かいとうさんがくにしてまた奉納ほうのうするといったこともおこなわれた。さんがく奉納ほうのう習慣しゅうかん世界せかいれいず、日本にっぽん独自どくじ文化ぶんかである。

さんがくしるされたといは、ほとんどがユークリッド幾何きかがくかんする図形ずけい問題もんだいであり、どう時期じき西洋せいようにもおとらないといのこっている[5]

1997ねん平成へいせい9ねん)におこなわれた調査ちょうさ結果けっかによると、日本にっぽん全国ぜんこくに975めんさんがく現存げんそんしている(『例題れいだい日本にっぽん数学すうがくさんがく森北もりきた出版しゅっぱん)。これら現存げんそんするさんがくもっとふるいものは栃木とちぎけん佐野さのにある星宮ほしみや神社じんじゃにあり、1657ねんあかりれき3ねん)にかかげられたとされる。あたらしいものでは、昭和しょうわとしづけのものがいくつか現存げんそんしている。明治めいじ以降いこう洋算ようざんすすなか和算わさんをたしなみつづけた人々ひとびとがいたが、この風習ふうしゅうはそういった和算わさんにより昭和しょうわ初期しょきまでつづけられた。

さんがくあつかった小説しょうせつとして遠藤えんどう寛子ひろこ算法さんぽう少女しょうじょ』がある。

近年きんねんさんがく価値かち見直みなおうごきが各地かくちられ、一部いちぶではさんがく神社じんじゃ仏閣ぶっかく奉納ほうのうするひとびともえている。これは直接ちょくせつ和算わさん伝統でんとういだものではないことがおおいが、いずれにしても日本人にっぽんじん数学すうがくきをあらわす文化ぶんか事象じしょうとして興味深きょうみぶかい。

和算わさん発展はってんかかわった人物じんぶつ

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  • 毛利もうり重能しげよし
  • 吉田よしだ光由みつよし
  • 今村いまむらともしょう - 『たてろく(じゅがいろく)』(1639ねん寛永かんえい16ねん))。測量そくりょうもとめせき関係かんけいする公式こうしきしゅう漢文かんぶん専門せんもんけにかれた。ゆみがたつる関係かんけいかんする近似きんじ公式こうしきられる。
  • 沢口さわぐち一之かずゆき
  • 田中たなか由真ゆま - 京都きょうと和算わさん筆算ひっさんによる変数へんすう代数だいすうちいさなサイズの行列ぎょうれつしき終結しゅうけつしきせき孝和こうわ独立どくりつ方陣ほうじん数学すうがく遊戯ゆうぎ研究けんきゅう。『算法さんぽう明解めいかい』(1679ねんのべたから7ねん))『さんがくまがえかい』(1690ねん元禄げんろく3ねんごろ
  • 井関いせきともたつ - 大阪おおさか和算わさん行列ぎょうれつしき終結しゅうけつしき理論りろんせき独立どくりつ。『算法さんぽう発揮はっき1690ねん元禄げんろく3ねん
  • 鎌田かまたしゅんきよし - 大阪おおさか和算わさんえん内接ないせつおよ外接がいせつ多角たかくがたしゅう計算けいさんから、円周えんしゅうりつ上限じょうげん下限かげん評価ひょうか。さらに、arcsin, sin などの無限むげん級数きゅうすう展開てんかいを『宅間たくまりゅうえん』(1722ねんとおる7ねん))で発表はっぴょう。これは建部たけべならんで日本にっぽんはつ無限むげん級数きゅうすう展開てんかい。『えん秘術ひじゅつ』。
  • せき孝和こうわ
  • あら木村きむらすぐる - せきりゅう初伝しょでんせき孝和こうわ死後しご、その遺稿いこう整理せいりし『くくよう算法さんぽう』を編集へんしゅうした。数学すうがくじょう目立めだった業績ぎょうせきはなく、『くくよう算法さんぽう』に誤字ごじおおいのも荒木あらき実力じつりょく不足ふそくゆえ、とも。
  • 建部たけべけんひろし
  • 礒村いそむら吉徳よしのり - 寛文ひろふみ元年がんねん(1662ねん)「算法さんぽう闕疑しょう」を刊行かんこう珠算しゅざんでなしうるさんがく集大成しゅうたいせいした。天和てんわさんねん(1683ねん)ごろ円周えんしゅうりつを3.1416までもとめていたことられる。
  • 中根なかねもとけい - 和算わさん。『りつげん発揮はっき』(1692ねん元禄げんろく5ねん))において1オクターブ12じょうひらじゅう平均へいきんりつつく方法ほうほう発表はっぴょうした。また、暦学れきがくくわしく、建部たけべとともに吉宗よしむね西洋せいよう暦法れきほう導入どうにゅうかんやく西洋せいよう天文学てんもんがくしょ輸入ゆにゅう必要ひつようせいうったえた。数学すうがくのみならず、しょがく造詣ぞうけいふかかった。京都きょうと出身しゅっしんで、数学すうがくはじ田中たなか由真ゆままなんだが、のち建部たけべ門下もんかはいっている。
  • 久留島くるしまよしふとし(? - 1757ねんたかられき7ねん)) - 詰将棋つめしょうぎ作者さくしゃとしても有名ゆうめい
  • 松永まつながりょう - 無限むげん級数きゅうすうとく和算わさん最初さいしょじゅう級数きゅうすう建部たけべによって本格ほんかくてき開始かいしされたえん研究けんきゅう本格ほんかくした。その著作ちょさくおお友人ゆうじん久留島くるしま業績ぎょうせき紹介しょうかいせきりゅうでん
  • 山路やまじしゅじゅう - せきりゅうさんでんせきりゅう制度せいどととのえ、弟子でし養成ようせい
  • 安島あじま直円なおのぶ - せきりゅうよんでんえん革新かくしんをおこした。ほかにも対数たいすう研究けんきゅうへんしょうじゅつ発明はつめいなど独創どくそうおおい。
  • 会田あいだ安明やすあき - せきりゅう藤田ふじたさだとの論争ろんそう有名ゆうめいさい上流じょうりゅうをたて、おも東北とうほく勢力せいりょくた。
  • 藤田ふじたさだ1734ねんとおる19ねん) - 1807ねん文化ぶんか4ねん)) - すぐれた教育きょういくしゃ和算わさん普及ふきゅうおおいに貢献こうけん不要ふよう複雑ふくざつ問題もんだいけ、系統けいとうてき一般いっぱんてき解法かいほうおもんじた。『しらげよう算法さんぽう』(1781ねん天明てんめい元年がんねん))。会田あいだ安明やすあきとの論戦ろんせんでも有名ゆうめいせきりゅうよんでん
  • 和田わだやすし1787ねん天明てんめい7ねん) - 1840ねん天保てんぽう11ねん)) - えんひょう様々さまざま関数かんすうの [0,1] 区間くかんてい積分せきぶん結果けっかひょうにしたもの)完成かんせいしゃとして名高なだかい。また、安島あじまじゅう級数きゅうすう理論りろん一般いっぱん。これらにより、複雑ふくざつもとめせき問題もんだいがたやすくかれるようになった。微分びぶんのフェルマーの方法ほうほう発表はっぴょうし、きょく問題もんだい応用おうようしている。播州ばんしゅう三日月みかづきはんから増上寺ぞうじょうじ寺侍てらざむらいとなったが、素行そこう不良ふりょうのゆえに追放ついほうされ、数学すうがく書道しょどう教授きょうじゅえき生計せいけいてる。浪費ろうひがはなはだしく、死後しご妻子さいし路頭ろとうまよったという。しかし、その独創どくそうせいいちじるしく、当時とうじ和算わさん大家たいかおおくが和田わだえんひょうるために入門にゅうもんしている。
  • 武田たけだしんもと
  • ほうしるべてらぜん1820ねん文政ぶんせい3ねん) - 1868ねん明治めいじ元年がんねん)) - 幕末ばくまつ活躍かつやく当時とうじたがいにせっする多数たすうえん半径はんけい関係かんけいもとめる問題もんだいひろあつかわれた。これを簡単かんたんするため、さんへんほう導入どうにゅうし、えんひとつを直線ちょくせん変換へんかんすることで計算けいさん簡略かんりゃくした。これは現在げんざい反転はんてん相当そうとうする。そのほか、図形ずけい重心じゅうしん問題もんだいサイクロイド関係かんけいした問題もんだいあつかう。
  • 内田うちだかん
  • 有馬ありまよりゆき - 筑後ちくご久留くるべいはんおも
  • かがみ光照みつてる

和算わさん題材だいざいとした作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 川本かわもとまこと禅僧ぜんそう数学すうがく知識ちしき経済けいざい活動かつどう中島なかじま圭一けいいち へんじゅうよん世紀せいき歴史れきしがく あらたな時代じだいへの起点きてん』(高志こうし書院しょいん、2016ねんISBN 978-4-86215-159-9
  2. ^ a b 岡山おかやま & 田村たむら 2003, pp. 110–111.
  3. ^ 堀口ほりぐち 2008, p. 67.
  4. ^ 和算わさん挑戦ちょうせん - 一関いちのせき博物館はくぶつかん
  5. ^ トニー・ロスマン英語えいごばん; 深川ふかがわ英俊ひでとし (1998ねん7がつごう). さんがく江戸えど時代じだい幾何きかがく. 日経にっけいサイエンス. http://www.nikkei-science.com/page/magazine/9807/sangaku.html 2020ねん3がつ15にち閲覧えつらん 

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 川本かわもとまこと京都きょうと医師いしである吉田よしだそうかつらさく彦周りょう門人もんじんで、京都きょうと豪商ごうしょう土木どぼくすみくらりょうおよび『ちりこう』の著者ちょしゃ吉田よしだ光由みつよしがその子孫しそんであったと指摘してきし、角倉すみくらおよ同族どうぞく吉田よしだ数学すうがく知識ちしきぜんてら由来ゆらいであった可能かのうせい指摘してきする(川本かわもとまこと禅僧ぜんそう数学すうがく知識ちしき経済けいざい活動かつどう中島なかじま圭一けいいち へんじゅうよん世紀せいき歴史れきしがく あらたな時代じだいへの起点きてん』(高志こうし書院しょいん、2016ねんISBN 978-4-86215-159-9)。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 土倉つちくらたもつ編著へんちょ):「しん解説かいせつ和算わさん公式こうしきしゅう 算法さんぽうすけじゅつ」、朝倉書店あさくらしょてんISBN 978-4-254-11144-6(2014ねん11月20にち)。

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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