和算 わさん は中国 ちゅうごく の数学 すうがく から多大 ただい な影響 えいきょう を受 う けている。中国 ちゅうごく では『九 きゅう 章 しょう 算術 さんじゅつ 』と呼 よ ばれる数学 すうがく 書 しょ が漢 かん 代 だい には登場 とうじょう し、そのなかで面積 めんせき の計算 けいさん 法 ほう や比例 ひれい ・反比例 はんぴれい ・ピタゴラスの定理 ていり などを紹介 しょうかい している。7世紀 せいき 以降 いこう 、遣 や 隋 ずい 使 し ・遣唐使 けんとうし の派遣 はけん などにより、中国 ちゅうごく の文化 ぶんか が日本 にっぽん に次々 つぎつぎ と流入 りゅうにゅう するようになる。
中国 ちゅうごく の律令制 りつりょうせい を元 もと に作 つく られた大宝 たいほう 律令 りつりょう では、算 さん 博士 はかせ ・算 さん 師 し と呼 よ ばれる官職 かんしょく が定 さだ められていた。算 さん 博士 はかせ は算 さん 師 し の育成 いくせい にあたるとともに、『九 きゅう 章 しょう 算術 さんじゅつ 』を始 はじ めとした中国 ちゅうごく の算 さん 書 しょ の知識 ちしき が要求 ようきゅう された(算 さん 道 どう )。『万葉集 まんようしゅう 』には次 つぎ のような歌 うた がみられる。
若草 わかくさ 乃 新手 あらて 枕 まくら 乎 巻 まき 始 はじめ 而 夜 よる 哉将間 あいだ 二 に 八 はち 十 じゅう 一 いち 不 ふ 在國 ざいこく (わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくく あらなくに 巻 まき 十 じゅう 一 いち 2542番 ばん )
「くく」という読 よ みに「八 はち 十 じゅう 一 いち 」という漢字 かんじ が当 あ てられており、すでに九 きゅう 九 きゅう が日本 にっぽん で知 し られていたことがわかる。
中世 ちゅうせい から安土 あづち 桃山 ももやま 時代 じだい おいて、どのような数学 すうがく が行 おこな われたかはよく分 わ かっていない。算 さん 道 どう は官 かん 司 し 請負 うけおい 制 せい に基 もとづ いて世襲 せしゅう によって各々 おのおの の氏族 しぞく に伝 つた えられるようになり、一種 いっしゅ の秘伝 ひでん のように扱 あつか われ、閉鎖 へいさ 的 てき な学術 がくじゅつ となっていたためである。
禅 ぜん 寺 てら では儒教 じゅきょう の書物 しょもつ と並 なら んで『九 きゅう 章 しょう 算術 さんじゅつ 』が僧侶 そうりょ の教育 きょういく に用 もち いられた[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
臨済宗 りんざいしゅう の中 ちゅう 巌 いわお 円 えん 月 がつ が数学 すうがく を好 この んで自 みずか らも『觿耑算法 さんぽう 』という数学 すうがく 書 しょ を書 か いたと伝 つた えられているが、散逸 さんいつ してしまい現存 げんそん していない[1] 。しかし、中 ちゅう 巌 いわお 円 えん 月 がつ の『治 ち 暦 れき 篇 へん 』(『中正 ちゅうせい 子 こ 外篇 がいへん 』第 だい 6篇 へん )には、1太陽年 たいようねん の平均 へいきん 日数 にっすう と、太陰 たいいん 太陽暦 たいようれき のメトン周期 しゅうき における1年 ねん の平均 へいきん 月数 げっすう から、1朔 さく 望月 もちづき の平均 へいきん 日数 にっすう を求 もと める以下 いか のような繁 しげる 分数 ぶんすう 計算 けいさん が言及 げんきゅう されており、中世 ちゅうせい 日本 にっぽん の分数 ぶんすう 理解 りかい を知 し る上 じょう で貴重 きちょう である。
365
1
4
÷
12
7
19
=
(
1461
4
×
19
235
=
27759
940
=
)
29
499
940
.
{\displaystyle 365{\frac {1}{4}}\div 12{\frac {7}{19}}=\left({\frac {1461}{4}}\times {\frac {19}{235}}={\frac {27759}{940}}=\right)29{\frac {499}{940}}.}
もっとも、途中 とちゅう の分数 ぶんすう 同士 どうし の除算 じょざん に関 かん する計算 けいさん 過程 かてい がなく、計算 けいさん 結果 けっか のみが突然 とつぜん 与 あた えられるため、岡山 おかやま 茂彦 しげひこ と田村 たむら 三郎 さぶろう は、中 ちゅう 巌 いわお 自身 じしん は計算 けいさん 法 ほう を余 あま り理解 りかい せず、計算 けいさん 結果 けっか を中国 ちゅうごく の数学 すうがく 書 しょ から書 か き写 うつ した可能 かのう 性 せい もあるのではないかと指摘 してき している。
『九 きゅう 章 しょう 算術 さんじゅつ 』などは散逸 さんいつ してしまったようだが、土木 どぼく ・建築 けんちく ・財務 ざいむ ・暦 こよみ の計算 けいさん などにある程度 ていど の数学 すうがく が必要 ひつよう だったのは確 たし かである。また、易 えき の学習 がくしゅう には数学 すうがく 的 てき 知識 ちしき が必要 ひつよう であり、その中 なか には儒教 じゅきょう の経典 きょうてん 「五経 ごきょう 」の1つとしてみなされていた『周 しゅう 易 えき 』の解釈 かいしゃく も含 ふく まれていたとする指摘 してき もある[1] 。
江戸 えど 時代 じだい の古老 ころう が「太閤 たいこう 検地 けんち の頃 ころ は算木 さんぎ を使 つか った」と回想 かいそう しており、また『塵 ちり 劫 こう 記 き 』の開平 かいへい 計算 けいさん が算木 さんぎ による方法 ほうほう に近 ちか いことから、江戸 えど 時代 じだい 直前 ちょくぜん まで算木 さんぎ が優勢 ゆうせい であったと思 おも われる。そろばん の導入 どうにゅう 時期 じき は不明 ふめい であるが、毛利 もうり 重能 しげよし の『割算 わりざん 書 しょ 』(1622年 ねん (元和 がんわ 8年 ねん ))では珠算 しゅざん が解説 かいせつ されている。近年 きんねん 、和算 わさん の成立 せいりつ に、宣教師 せんきょうし が伝 つた えたヨーロッパ数学 すうがく の影響 えいきょう が有 あ るとする見解 けんかい が有 あ るが、その当否 とうひ は、今後 こんご の数学 すうがく 史 し 研究 けんきゅう の課題 かだい である。
江戸 えど 時代 じだい に日本 にっぽん の数学 すうがく は大 おお いに発展 はってん した。
『改 あらため 算 さん 塵 ちり 劫 こう 記 き 』。国立 こくりつ 科学 かがく 博物館 はくぶつかん の展示 てんじ 。
このきっかけになったのが1627年 ねん (寛永 かんえい 4年 ねん )、京都 きょうと の吉田 よしだ 光由 みつよし によって書 か かれた『塵 ちり 劫 こう 記 き 』である。明代 あきよ の算術 さんじゅつ 書 しょ 『算 さん 法統 ほうとう 宗 むね (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 』を模範 もはん としたもので、そろばんの使用 しよう 法 ほう や測量 そくりょう 法 ほう といった実用 じつよう 数学 すうがく に加 くわ え、継子 けいし 立 だ て ・ねずみ算 ざん といった数学 すうがく 遊戯 ゆうぎ が紹介 しょうかい されている。
『塵 ちり 劫 こう 記 き 』はベストセラーとなり、初等 しょとう 数学 すうがく の標準 ひょうじゅん 的 てき 教科書 きょうかしょ として江戸 えど 時代 じだい を通 つう じて用 もち いられた。また、本書 ほんしょ を模倣 もほう したり、書名 しょめい を『○○塵 ちり 劫 こう 記 き 』としたものも多 おお く出版 しゅっぱん された。
『塵 ちり 劫 こう 記 き 』は初等 しょとう 的 てき な教科書 きょうかしょ だったが、ある版 はん には巻末 かんまつ に他 た の数学 すうがく 者 しゃ への挑戦 ちょうせん として、答 こた えをつけない問題 もんだい (遺 のこ 題 だい )を出 だ した。これ以降 いこう 、先 さき に出 だ された遺 のこ 題 だい を解 と き新 あら たな遺 のこ 題 だい を出 だ すという連鎖 れんさ (遺 のこ 題 だい 継承 けいしょう )が始 はじ まり、和算 わさん で扱 あつか われる問題 もんだい は急速 きゅうそく に実用 じつよう の必要 ひつよう を超 こ え、技巧 ぎこう 化 か ・複雑 ふくざつ 化 か した。
関 せき 孝和 こうわ 著 ちょ 「括 くく 要 よう 算法 さんぽう 」の、ベルヌーイ数 すう や二 に 項 こう 係数 けいすう について書 か かれた頁 ぺーじ
遺 のこ 題 だい 継承 けいしょう が盛 さか んになるにつれ、しばしば、それまでの初等 しょとう 算術 さんじゅつ 的 てき な手法 しゅほう では手 て に負 お えない問題 もんだい が現 あらわ れるようになった。
沢口 さわぐち 一之 かずゆき はその著 ちょ 『古今 ここん 算法 さんぽう 記 き 』で、当時 とうじ 注目 ちゅうもく されていた元 もと 朝 あさ の朱 しゅ 世 よ 傑 すぐる の著 ちょ 『算 さん 学 がく 啓蒙 けいもう 』その中 なか の天元 てんげん 術 じゅつ (未知数 みちすう が1個 いっこ の代数 だいすう 方程式 ほうていしき とその数値 すうち 的 てき 解法 かいほう )を困難 こんなん な遺 のこ 題 だい の解決 かいけつ に用 もち いて、その術 じゅつ の威力 いりょく をしめした。
また彼 かれ は同書 どうしょ に遺 のこ 題 だい として、天元 てんげん 術 じゅつ では扱 あつか えない複数 ふくすう の未知数 みちすう を設 もう ける「代数 だいすう 方程式 ほうていしき 」(いわゆる高次 こうじ 多元 たげん 連立 れんりつ 方程式 ほうていしき )を必要 ひつよう とする問題 もんだい を提出 ていしゅつ した。これに応 こた えて、江戸 えど の関 せき 孝和 こうわ や京都 きょうと の田中 たなか 由真 ゆま (たなか よしざね)らが相次 あいつ いで傍 はた 書法 しょほう ・演 えんじ 段 だん 術 じゅつ 、つまり文字 もじ 式 しき による筆算 ひっさん の計算 けいさん 法 ほう と、それによって編 あ み出 だ された高次 こうじ 多元 たげん 連立 れんりつ 方程式 ほうていしき の解決 かいけつ 法 ほう を創出 そうしゅつ した。
日本 にっぽん の数学 すうがく 史 し に一 いち 石 せき を投 とう じたのが、関 せき 孝和 こうわ である。彼 かれ は天元 てんげん 術 じゅつ ・演 えんじ 段 だん 法 ほう を発展 はってん させて「点 てん 竄術」を創始 そうし した。これは傍 はた 書法 しょほう によって問題 もんだい の条件 じょうけん を文字 もじ に写 うつ して、それによって理論 りろん を整理 せいり することで術 じゅつ (答 こた えを得 え るための計算 けいさん 法 ほう )を得 え る、いわゆる代数 だいすう 学 がく である。
これによって円 えん の算法 さんぽう や複雑 ふくざつ な条件 じょうけん を持 も つ問題 もんだい など難 むずか しい理論 りろん をあつかう算法 さんぽう が様々 さまざま に解 と けるようになった。この術 じゅつ は後代 こうだい 「千変万化 せんぺんばんか 」の術 じゅつ とも称 とな えられ、あるいはこれが日本 にっぽん 数学 すうがく の全体 ぜんたい ともいえる。すなわち、日本 にっぽん 数学 すうがく の基礎 きそ は「点 てん 竄術」によって初 はじ めて立 た ち、この術 じゅつ のおかげで数学 すうがく の問題 もんだい の難 なん 度 ど や理論 りろん 性 せい がより高度 こうど に独特 どくとく に発展 はってん していくこととなった。江戸 えど 後期 こうき の坂部 さかべ 広 ひろ 胖 ゆたか は「どんな難解 なんかい な術 じゅつ でも点 てん 竄の理 り から漏 も れることはない。」といっている。
関 せき 孝和 こうわ はまたこの他 ほか
など、多岐 たき にわたる数学 すうがく の分野 ぶんや において、研究 けんきゅう あるいは新 あら たな発明 はつめい をしている。
江戸 えど 初期 しょき には数学 すうがく の中心 ちゅうしん は京阪 けいはん 地方 ちほう だったが、この頃 ころ から江戸 えど の関 せき 孝和 こうわ の学 がく 統 すべ 、関 せき 流 りゅう が圧倒的 あっとうてき な主流 しゅりゅう 派 は になってゆく(この為 ため か、京阪 けいはん 地方 ちほう の和算 わさん 家 か の実態 じったい があまり今日 きょう に伝 つた わっていない)。このように遺 のこ 題 だい 継承 けいしょう の結果 けっか 、関 せき 孝和 こうわ のような独創 どくそう 的 てき な数学 すうがく 者 しゃ もあらわれて、日本 にっぽん の数学 すうがく は高度 こうど な代数 だいすう ・整数 せいすう 方程式 ほうていしき 論 ろん ・解析 かいせき 学 がく ・幾何 きか 学 がく が実用 じつよう の範囲 はんい を超 こ えて発達 はったつ していった。
関 せき 孝和 こうわ は、日本 にっぽん の算術 さんじゅつ の発展 はってん に大 おお いに寄与 きよ した一人 ひとり である。
和算 わさん における解析 かいせき 学 がく に関連 かんれん した研究 けんきゅう を「円 えん 理 り 」といい、関 せき 孝和 こうわ の登場 とうじょう 以降 いこう 大 おお いに発達 はったつ した。
円 えん 理 り という名 な は、円周 えんしゅう 率 りつ や円 えん 積 せき 率 りつ 、球 たま の体積 たいせき や表面積 ひょうめんせき が主 おも な問題 もんだい となったことによる。関 せき 孝和 こうわ は円 えん に接 せっ する正多角形 せいたかっけい の辺 あたり の長 なが さを用 もち い、円周 えんしゅう 率 りつ を11桁 けた まで得 え ている。
関 せき の弟子 でし である建部 たけべ 賢 けん 弘 ひろし は同様 どうよう の手法 しゅほう をリチャードソンの補外 ほがい と組 く み合 あ わせて、42桁 けた まで正 ただ しい値 ね を計算 けいさん している。彼 かれ はさらに進 すす んで、綴 つづり 術 じゅつ いわゆる無限 むげん 級数 きゅうすう とその導出 どうしゅつ 法 ほう を編 あ み出 だ し、それにより関 せき 孝和 こうわ の成 な しえなかった弧 こ 背 せ の長 なが さなど円 えん 理 り における各種 かくしゅ 計算 けいさん 法 ほう を導 みちび き出 だ し得 え た。
建部 たけべ 賢 けん 弘 ひろし は、その著 ちょ 『綴 つづり 術 じゅつ 算 さん 経 けい 』では(arcsin x )2 の冪 べき 級数 きゅうすう 展開 てんかい を世界 せかい で初 はじ めて計算 けいさん している。また、同年 どうねん に大阪 おおさか の鎌田 かまた 俊 しゅん 清 きよし もarcsin(x), sin(x)の冪 べき 級数 きゅうすう 展開 てんかい を求 もと めた。
建部 たけべ 賢 けん 弘 ひろし の弟子 でし 中根 なかね 元 もと 圭 けい は天文学 てんもんがく の洋学 ようがく による知識 ちしき の必要 ひつよう 性 せい を説 と いて、当時 とうじ キリスト教 きりすときょう 排除 はいじょ においてなされた洋書 ようしょ の輸入 ゆにゅう 禁制 きんせい を緩 ゆる めることを、その主人 しゅじん である将軍 しょうぐん 徳川 とくがわ 吉宗 よしむね に進言 しんげん したといわれ、ついに実行 じっこう されるに至 いた った。それによって、西洋 せいよう の天文 てんもん 暦 れき 算 さん を解 と いた清 きよし 朝 あさ の梅 うめ 文 ぶん 鼎 かなえ の『暦 こよみ 算 さん 全書 ぜんしょ 』や『数理 すうり 精 せい 蘊』などの書 しょ が伝 つた わり、暦学 れきがく 者 しゃ や算 さん 学者 がくしゃ の目 め にとまった。これらの書 しょ により、西洋 せいよう 数学 すうがく の諸 しょ 結果 けっか がもたらされ、対数 たいすう や三角 さんかく 法 ほう などあらたな分野 ぶんや に興味 きょうみ が開 ひら かれるようになった。
関 せき 孝和 こうわ 以後 いご は荒 あら 木村 きむら 英 すぐる がその伝 つて を継 つ ぎ、さらにその弟子 でし 松永 まつなが 良 りょう 弼 がその流派 りゅうは を「関 せき 流 りゅう 」と称 たた えるようになって、以降 いこう 関 かん 流 りゅう の算法 さんぽう は、他 た 流派 りゅうは を抜 ぬ いて大 おお いに発達 はったつ し、数学 すうがく 界 かい にその権威 けんい を誇 ほこ った。
松永 まつなが 良 りょう 弼 は関 せき 孝和 こうわ や建部 たけべ 賢 けん 弘 ひろ の研究 けんきゅう を推 お し拡め、親友 しんゆう 久留島 くるしま 義 よし 太 ふとし の影響 えいきょう を受 う けながら、
などを確立 かくりつ させた。
久留島 くるしま 義 よし 太 ふとし は、関 せき 流 りゅう の門下 もんか ではなかったが、その天才 てんさい によって独学 どくがく で算術 さんじゅつ に達 たっ し、のち関 かん 流 りゅう の中根 なかね 元 もと 圭 けい に才能 さいのう を見出 みいだ されてからは関 せき 流 りゅう の数学 すうがく を研究 けんきゅう した。極 きょく 数 すう 術 じゅつ 、平方 へいほう 零 れい 約 やく 術 じゅつ (数 かず の平方根 へいほうこん の近似 きんじ 分数 ぶんすう を求 もと める方法 ほうほう )、円 えん 理 り や方陣 ほうじん の新 しん 研究 けんきゅう など様々 さまざま な独創 どくそう あるいは工夫 くふう を編 あ み出 だ した。また枝葉 えだは の結果 けっか ではあるがオイラー関数 かんすう やラプラス展開 てんかい など西洋 せいよう と同様 どうよう のものを先駆 さきが けて出 だ している。
中根 なかね ・久留島 くるしま ・松永 まつなが の三 さん 士 し に学 まな んだ山路 やまじ 主 しゅ 住 じゅう は、それらの伝 つて を一身 いっしん に集 あつ め、各 かく 家 いえ の業 ごう をまとめて流派 りゅうは たる関 せき 流 りゅう を樹立 じゅりつ した。弟子 でし の教育 きょういく に優 すぐ れて、優秀 ゆうしゅう な数学 すうがく 者 しゃ を輩出 はいしゅつ した。
その弟子 でし の有馬 ありま 頼 よりゆき 徸 は久留米 くるめ の藩主 はんしゅ でありながら数学 すうがく に優 すぐ れ数々 かずかず の研究 けんきゅう を遺 のこ している。また、関 せき 流 りゅう の秘術 ひじゅつ が流派 りゅうは 内 ない に秘 ひ されて世 よ にひろめられないことを嘆 なげ き、『拾 じつ 璣算法 ほう 』において点 てん 竄術や円 えん 理 り の諸 しょ 公式 こうしき など、それまで関 かん 流 りゅう の重要 じゅうよう 機密 きみつ であった高等 こうとう な算法 さんぽう の数々 かずかず の問題 もんだい と結果 けっか を刊行 かんこう して世 よ に公表 こうひょう した。
同 おな じく山路 やまじ の弟子 でし の安島 あじま 直円 なおのぶ は、円 えん 理 り の伝授 でんじゅ を受 う けるに先立 さきだ って円 えん 理 り の新 しん 発明 はつめい をなし、師 し の山路 やまじ を甚 はなは だ驚 おどろ かせた。その新 しん 発明 はつめい とは、今 いま でいう積分 せきぶん 法 ほう の思想 しそう を以って円 えん の形 かたち を長方形 ちょうほうけい の集 あつ まりと考 かんが え、円 えん あるいは弧 こ 背 せ などの曲線 きょくせん の面積 めんせき を求 もと める術 じゅつ (計算 けいさん 法 ほう )を導 みちび き出 だ す方法 ほうほう である。
またその方法 ほうほう を用 もち いて、円柱 えんちゅう に円柱 えんちゅう を貫 つらぬ いた十字 じゅうじ の形 かたち や、円柱 えんちゅう から球 たま を穿 うが ち去 さ った形 かたち の体積 たいせき を求 もと めるというような問題 もんだい を初 はじ めて解 と き成 な した。この解法 かいほう に安島 あじま は綴 つづり 術 じゅつ を重 かさ ねて用 もち いる二 に 次 じ 綴 つづり 術 じゅつ (二 に 重 じゅう 積分 せきぶん )を用 もち いる。積分 せきぶん 思想 しそう と二 に 次 じ 綴 つづり 術 じゅつ と、ここにおいて安島 あじま は関 せき 孝和 こうわ 以降 いこう 、円 えん 理 り に第 だい 二 に の革新 かくしん をもたらしたのであった。
さらに安島 あじま 直円 なおのぶ は、綴 つづり 術 じゅつ においてある数 かず の数 すう 乗 じょう 根 ね を得 え る公式 こうしき を得 え たり、独自 どくじ に対数 たいすう 表 ひょう の作成 さくせい 法 ほう を編 あ み出 だ したり、円 えん や角形 かくがた の接 せっ 形 がた 問題 もんだい に諸々 もろもろ の結果 けっか を得 え るなど数々 かずかず の研究 けんきゅう を遺 のこ した。
世間 せけん の数学 すうがく 界 かい では、このころすでに遺 のこ 題 だい 継承 けいしょう の風習 ふうしゅう は廃 すた れてきていたが、一方 いっぽう 、神社 じんじゃ や仏閣 ぶっかく に数学 すうがく の問題 もんだい を載 の せた額 がく を掲 かか げる、算 さん 額 がく 奉納 ほうのう の風習 ふうしゅう が盛 さか んとなり、数学 すうがく 問題 もんだい の競争 きょうそう は衰 おとろ えることがなかった。
安島 あじま 直円 なおのぶ の親友 しんゆう であり同 おな じく山路 やまじ の弟子 でし の藤田 ふじた 貞 さだ 資 し (定 てい 資 し とも書 か く)は教育 きょういく にすぐれ、問題 もんだい 集 しゅう 『精 しらげ 要 よう 算法 さんぽう 』を著 あらわ して世 よ に名 な を轟 とどろ かせた。
このころ世間 せけん の算術 さんじゅつ は、遺 のこ 題 だい 継承 けいしょう 、算 さん 額 がく 奉納 ほうのう などによって流行 りゅうこう がきわまりながらも、一般 いっぱん でおこなわれる算術 さんじゅつ は、実用 じつよう を遠 とお く離 はな れた問題 もんだい や解 と く甲斐 かい のない無闇 むやみ に珍 めずら しかったり難 むずか しいだけの問題 もんだい など、その内容 ないよう の粗 あら さが目立 めだ つようになってきた。
それを批判 ひはん したのがこの著 ちょ 『精 しらげ 要 よう 算法 さんぽう 』で、その凡例 はんれい に記 しる された「今 いま の算数 さんすう に用 よう の用 よう あり、無用 むよう の用 よう あり、無用 むよう の無用 むよう あり。 」という一言 ひとこと がそれをい当 いあ てている。それぞれ、実用 じつよう 的 てき で有益 ゆうえき なもの、実用 じつよう 的 てき でないが有益 ゆうえき なもの、何 なん の益 えき にもならないものを言 い っているが、この書 しょ は「無用 むよう の無用 むよう 」を排除 はいじょ するために良問 りょうもん のみを集 あつ めたとし、これがひとたび刊行 かんこう されるや、良質 りょうしつ な教科書 きょうかしょ として、数学 すうがく 者 しゃ の間 あいだ で一世 いっせい を風靡 ふうび した。
藤田 ふじた 貞 さだ 資 し の研究 けんきゅう に「変 へん 商 しょう 術 じゅつ 」がある。これは、二 ふた つ以上 いじょう の解 かい (解 かい のことを商 しょう という)をもつ方程式 ほうていしき において、答 こた えとはならない方 ほう の解 かい に意義 いぎ を与 あた え、その解 かい が答 こた えとなるような問題 もんだい 条件 じょうけん や図形 ずけい などを示 しめ して、問題 もんだい の変化 へんか を探 さぐ る研究 けんきゅう である。
東北 とうほく の会田 あいだ 安明 やすあき は、藤田 ふじた 貞 さだ 資 し の門 もん に入 にゅう ろうとしたが、自身 じしん が掲 かか げた算 さん 額 がく を藤田 ふじた から批判 ひはん されたのをきっかけにいいを起 お こして対立 たいりつ し、ついに独自 どくじ の一派 いっぱ 『最 さい 上流 じょうりゅう 』(郷土 きょうど 山形 やまがた の最上川 もがみがわ にちなむ。音読 おんよ みでサイジョウリュウ。主 おも に東北 とうほく 地方 ちほう で栄 さか えた。)を立 た ち上 あ げ、関 せき 流 りゅう に対抗 たいこう した。
しかも若 わか い頃 ころ の会田 あいだ 安明 やすあき は、関 せき 流 りゅう の算法 さんぽう や点 てん 竄術を知 し らずして、独自 どくじ に天生 あもう 法 ほう という点 てん 竄術と同等 どうとう の術 じゅつ を発明 はつめい していた。また生涯 しょうがい で二 に 百 ひゃく 冊 さつ もの伝書 でんしょ (流派 りゅうは 用 よう の教科書 きょうかしょ )や論文 ろんぶん を成 な しており、その遺稿 いこう には見 み るべきものが少 すく なくない。
江戸 えど 時代 じだい も終 お わりに向 む かう頃 ころ には、和算 わさん はますます高度 こうど 化 か し、新 あら たな展開 てんかい を見 み せ、担 にな い手 て も拡大 かくだい した。安島 あじま 直円 なおのぶ の門下 もんか から、教育 きょういく に優 すぐ れた日下 くさか 誠 まこと が出 で ると、その門 もん からもとても多 おお くの秀才 しゅうさい が輩出 はいしゅつ された。
和田 わだ 寧 やすし は、安島 あじま の積分 せきぶん 思想 しそう を円 えん にとどまらず、角形 かくがた や立体 りったい など様々 さまざま な図形 ずけい へと多岐 たき におよばせて、「豁術」(積分 せきぶん 法 ほう )を創出 そうしゅつ し、また、この術 じゅつ のための便利 べんり として「円 えん 理 り 表 ひょう 」(積分 せきぶん の公式 こうしき 集 しゅう )を作成 さくせい した。ここにおいて和田 わだ は円 えん 理 り に第 だい 三 さん の革命 かくめい をもたらした。「極 きょく 数 すう 術 じゅつ 」(極大 きょくだい 極小 きょくしょう 論 ろん )の研究 けんきゅう では、関 せき 孝和 こうわ の創出 そうしゅつ 以来 いらい 、あかされていなかった適 てき 尽 つき 法 ほう の理論 りろん を解 と き明 あ かして、従来 じゅうらい の方法 ほうほう を簡便 かんべん にしさらにその応用 おうよう もより複雑 ふくざつ で幅広 はばひろ いものへと拡 ひろ げたのであった(これは今 いま でいえば微分 びぶん 法 ほう による導 しるべ 関数 かんすう の導出 どうしゅつ に等 ひと しい)。また、新奇 しんき な問題 もんだい として、円 えん や角 かく などの図形 ずけい が他 た の図形 ずけい の上 うえ でころがったときの軌跡 きせき について論 ろん じはじめ、これを皮切 かわき りに以後 いご この問題 もんだい は盛 さか んに行 おこ なわれた。
和田 わだ の名 な はたちまち算 さん 家 か たちの間 あいだ に広 ひろ まり、既 すで に数学 すうがく で名 な を挙 あ げているはずの有力 ゆうりょく 者 しゃ たちが、その業 ごう を授 さず かるために入門 にゅうもん しにくるほどであった。
同 おな じく日下 くさか 誠 まこと の門下 もんか の内田 うちだ 五 ご 観 かん は十 じゅう 一 いち のころすでにその才能 さいのう をあらわし、わずか十 じゅう 八 はち にして関 せき 流 りゅう の宗 そう 統 みつる を継 つ いだ秀才 しゅうさい であった。洋学 ようがく を高野 たかの 長英 ちょうえい に学 まな び、天文 てんもん や測量 そくりょう 、地理 ちり にも優 すぐ れて「瑪得瑪弟加 か 塾 じゅく 」(マテマテカ塾 じゅく )という塾 じゅく を開 ひら いて教 おし え多 おお くの門下生 もんかせい を抱 かか えた。
天文 てんもん 関係 かんけい では明治 めいじ 期 き に大学 だいがく 出仕 しゅっし 天文 てんもん 暦 れき 道 どう 御用 ごよう 係 がかり や星 ほし 学 がく 局 きょく 御用 ごよう 係 がかり として、太陽暦 たいようれき への改暦 かいれき 事業 じぎょう にも務 つと めた。その名 な は各地 かくち に轟 とどろ き、当時 とうじ の算 さん 家 か たちに影響 えいきょう およぼすことが多 おお かった。
長谷川 はせがわ 寛 ひろし もまた日下 くさか 誠 まこと の門弟 もんてい であったが、長谷川 はせがわ 派 は として独立 どくりつ の一派 いっぱ を築 きず き(一説 いっせつ には、わけあって関 せき 流 りゅう から破門 はもん されたとも言 い う)、殊 こと に教育 きょういく の方面 ほうめん によく従事 じゅうじ した。その著 ちょ 『算法 さんぽう 新書 しんしょ 』は、そろばんの初歩 しょほ から天元 てんげん 、点 てん 竄、綴 つづり 術 じゅつ 、さらには和田 わだ の円 えん 理 り までをも惜 お しみなく載 の せて当時 とうじ の算法 さんぽう を網羅 もうら し丁寧 ていねい に解 かい 義 ぎ した入門 にゅうもん 書 しょ であった。その他 た 様々 さまざま な算術 さんじゅつ の入門 にゅうもん 書 しょ を著 あらわ して子弟 してい を導 みちび き、その二 に 代目 だいめ 長谷川 はせがわ 弘 ひろし においても図形 ずけい の公式 こうしき 集 しゅう や豁術の解 かい 義 ぎ 書 しょ などさまざまに数学 すうがく の教育 きょういく 活動 かつどう が行 おこ なわれた。
また、長谷川 はせがわ 寛 ひろし は新 あら たに「極 きょく 形 がた 術 じゅつ 」と「変形 へんけい 術 じゅつ 」というものを発明 はつめい している。
「極 きょく 形 がた 術 じゅつ 」は、扱 あつか いづらい数 かず や図形 ずけい を扱 あつか いやすいもの(極 きょく 形 がた という。たとえば長方形 ちょうほうけい や菱形 ひしがた なら正方形 せいほうけい に、三角形 さんかっけい なら正三角形 せいさんかっけい や直角 ちょっかく 二等辺三角形 にとうへんさんかっけい に、大 おお きさが等 ひと しくないものは等 ひと しいものに)に置 お き換 か えて、問題 もんだい を解 と きやすくするという術 じゅつ であり、「変形 へんけい 術 じゅつ 」は図形 ずけい の形 かたち を引 ひ き伸 の ばしたり回 まわ したりすることで形 かたち を変 か えて問題 もんだい を解 と きやすくする術 じゅつ である。
これらによって、図形 ずけい 問題 もんだい の解法 かいほう は大 おお いに簡略 かんりゃく 化 か されるかに見 み えたが、極 ごく 形 かたち 術 じゅつ にてはある問題 もんだい においては正 まさ しく解 と けずに誤 あやま った答 こた えが導 みちび かれると言 い う事態 じたい が起 お こった。いくらかこれに他 た の数学 すうがく 者 しゃ たちから批判 ひはん の声 こえ があがったものの、ついに修正 しゅうせい 改良 かいりょう されることを得 え なかった。他方 たほう 、内田 うちだ 五 ご 観 かん の門人 もんじん 法道寺 ほうどうじ 善 ぜん もまた形 かたち を変 か えて解 と くという同様 どうよう の考 かんが えにより、接 せっ 円 えん の問題 もんだい などにおいて円 えん を直線 ちょくせん に変 か えて解 と く、別 べつ の方法 ほうほう を編 あ み出 だ している(反転 はんてん 法 ほう に相当 そうとう する)。
関 せき の時代 じだい においては数学 すうがく の担 にな い手 て は、特 とく に都市 とし 部 ぶ の、幕臣 ばくしん や侍 さむらい など身分 みぶん の高 たか い者 もの が殆 ほとん どであったが、江戸 えど 後期 こうき になると諸 しょ 地方 ちほう から、商家 しょうか や農家 のうか などからも数学 すうがく に達 たっ した者 もの が多 おお くあらわれて、低 ひく い身分 みぶん や遠 とお い地方 ちほう の人 ひと でも高度 こうど な数学 すうがく をたしなむ者 もの が増 ふ えた。萩原 はぎはら 信芳 のぶよし や剣持 けんもち 章 あきら 行 ぎょう などがそれである。この要因 よういん のひとつとして、遊歴 ゆうれき 算 さん 家 か がある。日本 にっぽん の各地 かくち を歩 ある きまわり、行 い く先々 さきざき で数学 すうがく の教授 きょうじゅ を行 おこな った数学 すうがく 者 しゃ であり、主 おも に山口 やまぐち 和 かず や剣持 けんもち 章 あきら 行 ぎょう がいる。また通信 つうしん 教育 きょういく もよく行 おこな われていて、これらは地方 ちほう に数学 すうがく をひろめることに大 おお きな功 こう があった。
明治 めいじ 時代 じだい に入 はい ると、西洋 せいよう 数学 すうがく が本格 ほんかく 的 てき に導入 どうにゅう が始 はじ まり、和算 わさん は衰退 すいたい に向 む かう。便利 べんり さに於 お いても厳密 げんみつ さにおいても、また扱 あつか う問題 もんだい の広 ひろ さに於 お いても、西洋 せいよう 数学 すうがく は和算 わさん よりも圧倒的 あっとうてき に優 すぐ れていた。しかし、和算 わさん が広 ひろ く深 ふか く浸透 しんとう していたこともあって、この交替 こうたい は意外 いがい にも時間 じかん がかかる。
西洋 せいよう 数学 すうがく の導入 どうにゅう は、まず応用 おうよう 方面 ほうめん から始 はじ まる。海軍 かいぐん では西洋 せいよう 技術 ぎじゅつ の習得 しゅうとく のために洋算 ようざん が教 おし え込 こ まれ、また、内田 うちだ 五 ご 観 かん や福田 ふくだ 理 さとし 軒 のき といった和洋 わよう に通 つう じる算 さん 家 か が測量 そくりょう や天文 てんもん などの技術 ぎじゅつ とともに門弟 もんてい に教 おし えていた。初期 しょき の「洋算 ようざん 家 か 」には技術 ぎじゅつ 者 しゃ など数学 すうがく の専門 せんもん 家 か とは言 い えない者 もの も多 おお く、和算 わさん への批判 ひはん は「応用 おうよう に役 やく にたない」というものが主流 しゅりゅう であった。
西洋 せいよう 数学 すうがく の台頭 たいとう 、その象徴 しょうちょう 的 てき 出来事 できごと は1872年 ねん (明治 めいじ 5年 ねん )の学制 がくせい 発布 はっぷ の際 さい 、時 とき の政府 せいふ が「和算 わさん を廃止 はいし し、洋算 ようざん を専 もっぱ ら用 もちい ふるべし。」と決断 けつだん したことである。しかし、初等 しょとう 教育 きょういく における筆算 ひっさん さえまともに教 おし えられる教師 きょうし が不足 ふそく していたために翌年 よくねん 、止 や むを得 え なく珠算 しゅざん のみ復活 ふっかつ した。
和算 わさん が衰 おとろ えることと洋算 ようざん が振 ふ るわないことに憂 うれ いて柳 やなぎ 楢 なら 悦 えつ と神田 かんだ 孝平 たかひら は1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )、日本 にっぽん 数 すう 学会 がっかい の前身 ぜんしん 、東京 とうきょう 数学 すうがく 会社 かいしゃ を設立 せつりつ し、和算 わさん 家 か 洋算 ようざん 家 か 問 と わず有力 ゆうりょく な算 さん 家 か をあつめて「数学 すうがく 」の振興 しんこう に力 ちから をそそいだ。まだ和算 わさん が有力 ゆうりょく な時期 じき であって、これには洋算 ようざん 家 か も和算 わさん 家 か も多数 たすう 参加 さんか しているが、むしろ和算 わさん 家 か の方 ほう が数学 すうがく 力 りょく は優 すぐ れた者 もの が多 おお かったという。そして、この頃 ころ になっても未 いま だ、新 あら たな和算 わさん 書 しょ が出版 しゅっぱん されている。
しかし、和算 わさん から西洋 せいよう 数学 すうがく へという流 なが れは明確 めいかく で、1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )に東京 とうきょう 数学 すうがく 会社 かいしゃ が日本 にっぽん 数学 すうがく 物理 ぶつり 学会 がっかい に改組 かいそ された頃 ころ には、西洋 せいよう 数学 すうがく が和算 わさん を圧倒 あっとう するようになる。
本格 ほんかく 的 てき な西洋 せいよう 数学 すうがく 浸透 しんとう までの間 あいだ 、和算 わさん (又 また は和算 わさん 家 か )は応用 おうよう 面 めん においても近代 きんだい 化 か を支 ささ えた。
1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )の太陽暦 たいようれき 採用 さいよう の主役 しゅやく を務 つと めたのは関 せき 流 りゅう の有力 ゆうりょく な和算 わさん 家 か 、内田 うちだ 五 ご 観 かん であった。福田 ふくだ 理 さとし 軒 のき やその子息 しそく である福田 ふくだ 半 なかば 、また川北 かわきた 朝 ちょう 鄰 のように測量 そくりょう で活躍 かつやく したものもあった。
幕末 ばくまつ ・明治 めいじ 初 はじ めの技術 ぎじゅつ 官僚 かんりょう 小野 おの 友五郎 ともごろう も和算 わさん 家 か であり、咸臨丸 かんりんまる の航路 こうろ の計算 けいさん には和算 わさん を用 もち いたという。また、大工 だいく のための作図 さくず 技術 ぎじゅつ である規矩 きく 術 じゅつ は幕末 ばくまつ 期 き より和算 わさん の応用 おうよう によって理論 りろん 的 てき に整備 せいび されたが、明治 めいじ 以降 いこう も引 ひ き続 つづ き研究 けんきゅう が進 すす み、しかも1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )頃 ごろ のものでも和算 わさん の影響 えいきょう が濃厚 のうこう である。その他 た 、銀行 ぎんこう 、商業 しょうぎょう 、運輸 うんゆ 、保険 ほけん 、製糸 せいし 、などさまざまな実業 じつぎょう の現場 げんば でも珠算 しゅざん は用 もち いられた。江戸 えど 期 き に続 つづ いて明治 めいじ 以降 いこう も初等 しょとう 教育 きょういく で和算 わさん 家 か は活躍 かつやく し続 つづ け、現在 げんざい の算数 さんすう の鶴亀算 つるかめざん などはその名残 なご りだという。
和算 わさん が存亡 そんぼう の危機 きき に立 た たされるようになると、和算 わさん が忘 わす れさられるのを恐 おそ れて和算 わさん 史 し 研究 けんきゅう が起 お こった。遠藤 えんどう 利貞 としさだ は、1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )に東京 とうきょう 数学 すうがく 会社 かいしゃ が設立 せつりつ された年 とし より和算 わさん 史 し 研究 けんきゅう を始 はじ め、20年 ねん かけて1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )、『大 だい 日本 にっぽん 数学 すうがく 史 し 』を出版 しゅっぱん する。これを受 う けて菊池 きくち 大麓 だいろく は和算 わさん 取調 とりしらべ 所 しょ を設 もう け、荻原 おぎわら 禎 ただし 助 すけ 、岡本 おかもと 則 のり 録 ろく 、三上 みかみ 義夫 よしお (前 ぜん ふたりは元々 もともと 和算 わさん 家 か である)などがこれに努 つと めた。1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )に東北大学 とうほくだいがく が設置 せっち されると林 はやし 鶴一 つるいち もまた和算 わさん 書 しょ の収集 しゅうしゅう 研究 けんきゅう を行 おこな い、没後 ぼつご 『和算 わさん 研究 けんきゅう 集録 しゅうろく 』としてまとめられた。
藤原 ふじわら 松三郎 まつさぶろう もまた、林 はやし 鶴一 つるいち の没 ぼつ を受 う けて晩年 ばんねん 和算 わさん 史 し 研究 けんきゅう に努 つと めた。1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )には、紀元 きげん 2600年 ねん 記念 きねん 事業 じぎょう 『明治 めいじ 前 ぜん 日本 にっぽん 科学 かがく 史 し 』の企画 きかく の中 なか で『明治 めいじ 前 ぜん 日本 にっぽん 数学 すうがく 史 し 』の編纂 へんさん が藤原 ふじわら 松三郎 まつさぶろう の手 て によって行 おこな われ、藤原 ふじわら の没後 ぼつご 、ようやく1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )にこれが出版 しゅっぱん された。
藤原 ふじわら 松三郎 まつさぶろう 著 ちょ 『日本 にっぽん 数学 すうがく 史 し 要 よう 』によると、最後 さいご の和算 わさん 家 か および和算 わさん 書 しょ とみられるのは東北 とうほく の熊谷 くまがい 藤吉 とうきち とその著 ちょ 『和算 わさん 開 ひらき 式法 しきほう 』であるという。この書 しょ は藤原 ふじわら 松三郎 まつさぶろう が序文 じょぶん を担 にな い、1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )和算 わさん の最後 さいご を飾 かざ った。
現代 げんだい でも和算 わさん 研究 けんきゅう の灯火 ともしび は消 き えず、例 たと えば一関 いちのせき 市 し 博物館 はくぶつかん では毎年 まいとし 、和算 わさん の問題 もんだい を出 だ して解法 かいほう を募 つの っている[4] 。