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土橋正幸 - Wikipedia

土橋どばし正幸まさゆき

日本にっぽんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ指導しどうしゃ野球やきゅう解説かいせつしゃ

土橋どばし 正幸まさゆき(どばし まさゆき、1935ねん12月5にち - 2013ねん8がつ24にち)は、東京とうきょう台東たいとう出身しゅっしん[1]プロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)・コーチ監督かんとく解説かいせつしゃ

土橋どばし 正幸まさゆき
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 東京とうきょう東京とうきょう浅草あさくさげん東京とうきょう台東たいとう
生年月日せいねんがっぴ (1935-12-05) 1935ねん12月5にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2013-08-24) 2013ねん8がつ24にち(77さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
178 cm
78 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1955ねん
はつ出場しゅつじょう 1956ねん6月6にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1967ねん10月9にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき
  • 東映とうえいフライヤーズ
    にちつぶせホームフライヤーズ (1969 - 1973)
  • ヤクルトスワローズ (1984 - 1986)
  • 日本にっぽんハムファイターズ (1992)

軟式なんしき野球やきゅうから硬式こうしき野球やきゅう転向てんこうした異色いしょく経歴けいれきながら、昭和しょうわ30年代ねんだい(1950年代ねんだい後半こうはん~1960年代ねんだい前半ぜんはん)に東映とうえい主力しゅりょく投手とうしゅとして活躍かつやく現役げんえき引退いんたい東映とうえいにちたく日本にほんハム、ヤクルトでコーチ・監督かんとく歴任れきにんした。江戸えどふう頑固がんこ親父おやじてき独特どくとくのキャラクターで、野球やきゅう解説かいせつしゃとしても人気にんきはくした。

経歴けいれき

編集へんしゅう

少年しょうねん時代じだい

編集へんしゅう

浅草あさくさ雷門かみなりもんまれで、実家じっか鮮魚せんぎょてんだった[1]戦時せんじちゅう千葉ちば幕張まくはり疎開そかいしていたが戦後せんご東京とうきょうもどった中学生ちゅうがくせいとき水泳すいえい所属しょぞくするかたわ野球やきゅう出会であ[1]くさ野球やきゅうチームの雷門かみなりもんサンダースに所属しょぞくしていた[1]

都立とりつ日本橋にほんばし高校こうこう卒業そつぎょう家業かぎょう魚屋さかなやはたらかたわ浅草あさくさにあったストリップ劇場げきじょう「フランス」(現在げんざいは「浅草あさくさフランス演芸えんげいじょう東洋館とうようかん」に改称かいしょう)が保有ほゆうしていた軟式なんしき野球やきゅうチームに所属しょぞくしていた[2]当初とうしょ捕手ほしゅであったが、のちに投手とうしゅ転向てんこう[3]作家さっか井上いのうえひさしともバッテリーんでいた。当時とうじのフランスは、鶴田つるた浩二こうじひきいる鶴田つるたヤンガースとったチームで[3]読売新聞よみうりしんぶん主催しゅさいする23軟式なんしき野球やきゅう大会たいかい出場しゅつじょうすると、台東たいとう予選よせん優勝ゆうしょう[1]後楽園こうらくえん球場きゅうじょうおこなわれた本選ほんせんでは、だいいちせん前年度ぜんねんど優勝ゆうしょうチームの府中ふちゅう刑務所けいむしょやぶった[1]

1954ねんあき東映とうえいフライヤーズ入団にゅうだんテストをける友人ゆうじんいてったところ、土橋どばし合格ごうかく入団にゅうだんすることになった。土橋どばしは、家業かぎょう魚屋さかなや使つかうような長靴ながぐつでテストにのぞんだが、普通ふつうは30きゅうほどげるところを10きゅうほどげたところでOKがたという[4]

プロ野球やきゅう時代じだい

編集へんしゅう

契約けいやくきんはなく、月給げっきゅうは5,000えんだった。合宿がっしゅくしょの1にち食費しょくひが200えんつき6,000えんかれたため、1958ねんまで4年間ねんかん実家じっかから毎月まいつき1まんえん援助えんじょけていた[5][6]東映とうえい入団にゅうだんたいして母親ははおやもう反対はんたいしていたが、土橋どばしは「3年間ねんかん駄目だめだったらかえってくる」と約束やくそく。のち、入団にゅうだん3ねんの1957ねんはつ勝利しょうりげ、ぎりぎりのところ約束やくそくまもっている[7]

ぐん時代じだい練習れんしゅうは、午前ごぜん10から練習れんしゅうはじめてやく1あいだ投球とうきゅう練習れんしゅうやく150きゅう)、つぎにフリーバッティングの投手とうしゅつとめ、それからぐんせん登板とうばん。さらに、土橋どばしがモノになると見込みこんだ投手とうしゅコーチの今西いまにし錬太郎れんたろうによって、居残いのこ特訓とっくんとしてやく2あいだ投球とうきゅう練習れんしゅうされるなど、1にち練習れんしゅう時間じかんは7,8あいだおよびほとんどげてばかりいた。しかし、この過酷かこく練習れんしゅうのおかげで、一軍いちぐん昇格しょうかくしたころにはつぶっていても外角がいかくひくめ・内角ないかくひくめにおもうままにげられるようになっていたという[8]

入団にゅうだん3ねん1957ねん8がつ1にち近鉄きんてつせん完封かんぷうでプロはつ勝利しょうりかざると[1]終幕しゅうまくまでに5しょうげて頭角とうかくあらわす。よく1958ねんには21しょう(16はい防御ぼうぎょりつ2.12(リーグ6)と東映とうえいのエースとなる。同年どうねん5月31にちには当時とうじさん連覇れんぱちゅう流線型りゅうせんけい打線だせんばれた強力きょうりょく打線だせんようする西鉄にしてつ相手あいてに、1かい2登場とうじょうしたよんばん大下おおしたひろしからさんばん中西なかにしふとしまで9連続れんぞくだつ三振さんしんのNPBタイ記録たいきろく当時とうじ[ちゅう 1][10]。9にん中西なかにし三振さんしん仕留しとめ、10にん大下おおしたむかえたところで、捕手ほしゅ安藤あんどう順三じゅんぞうが「大下おおしたさん、もうひとつおねがいしますよ」としん記録きろくねがったが、大下おおしたは「ダメだダメだ」とって、てにくバッティングでセカンドゴロをち、しん記録きろくにならなかったという[11]。この試合しあいでは、沢村さわむら栄治えいじの15だつ三振さんしん上回うわまわる1試合しあい16だつ三振さんしん日本にっぽん記録きろく当時とうじ)を樹立じゅりつしている。1959ねんにはオールスターまえまでにはやくも20しょう到達とうたつ後半こうはんせんはペースダウンするが、杉浦すぎうらただし(38しょう)、稲尾いなお和久かずひさ(30しょう)にぐ、27しょうげ、防御ぼうぎょりつ2.36(リーグ5)を記録きろくした。

1960ねんは、開幕かいまくまえ調整ちょうせいがうまくいかなった影響えいきょうで12しょう23はいおおきくしたものの、東映とうえいで2けたったのも200投球とうきゅうかい以上いじょうげたのも土橋どばしだけだった[1]土橋どばし球団きゅうだんから「12しょう23はいだから年俸ねんぽうは10%ダウンだってう。冗談じょうだんじゃない。おれ一人ひとり頑張がんばってんのに、なにが10%だ!」[1]。それで契約けいやくしないでいると、当時とうじ巨人きょじんのコーチであった川上かわかみ哲治てつじ選手せんしゅ藤田ふじたもとつかさから「巨人きょじんねぇか?」とさそわれたという[1]土橋どばしによると「いろんな条件じょうけんめんってくれてね。年俸ねんぽう東映とうえいばいだってう。それはわたしだってプロだもの、しんうごきますよ。川上かわかみ今日きょうはオヤジ(水原みずはらしげる)は用事ようじられないとってたけど、じつはもうその時点じてんで、監督かんとく川上かわかみわるのはまってたとおもうな」とかたっている[1]としけて土橋どばし東映とうえい契約けいやくしないでいたところ、同年どうねんから東映とうえい監督かんとく就任しゅうにんした水原みずはらが「巨人きょじんはなしことわった。おれ東映とうえい契約けいやくのおかねまでくちせる立場たちばになった。だから減俸げんぽうしない」とわれ東映とうえい残留ざんりゅうすることになった[1]

土橋どばし水原みずはらについて、「水原みずはらもないなみだもない監督かんとくだった。でも、監督かんとくはそれぐらいじゃないとダメ、優勝ゆうしょうできないね。わたし結婚けっこんして、仲人なこうど水原みずはらだったけど、シーズンちゅう水原みずはら会話かいわもなかったし、いちめられたことがない」とかたっている[1]。「きょじんであれだけ実績じっせきのこしたひとが、東映とうえいてまたいちからチームを把握はあくしていったのだからすごい」ともかたっていた[12]東映とうえいが「あばれんぼうチーム」とばれたことについては「だって山本やまもと張本ちょうほんしろらがいただろう。がそうだったんだよ」とわらばしていた[12]

1961ねんには30しょう(16はい防御ぼうぎょりつ1.90とキャリアハイの成績せいせきのこしたが、同年どうねん稲尾いなお和久かずひさが42しょう防御ぼうぎょりつ1.69を記録きろくしたため、土橋どばしはいずれも2わるなどタイトルかんしては不運ふうんだった。1962ねんは17しょう14はい防御ぼうぎょりつ2.38(4)とぼしびなかったが東映とうえいのリーグはつ優勝ゆうしょう貢献こうけん一方いっぽうで、3のサヨナラ本塁打ほんるいだによる敗戦はいせん記録きろくしている[ちゅう 2][13]阪神はんしんタイガースとの日本にっぽんシリーズではぜん7せんのうち6試合しあい登板とうばんし、2しょう1はい防御ぼうぎょりつ1.71と活躍かつやく。バッテリーをんだたねしげる雅之まさゆきとともにMVPにえらばれるが、2人ふたり同時どうじ受賞じゅしょうはNPB史上しじょう唯一ゆいいつとなっている。水原みずはらからつよ信頼しんらいけていた土橋どばしだい1,2せん連続れんぞく先発せんぱつするも、いずれもまれ連敗れんぱい水原みずはらはこれに衝撃しょうげきけたが、「ヤツはそんなやわなピッチャーではない」と、土橋どばしへの依存いぞんわらず、以降いこうはリリーフにまわってフル回転かいてんする[14]だい3せんで5かい零封れいふうしてけにむと、だい5せんでも4かい零封れいふうこのみリリーフせサヨナラち。甲子園こうしえん球場きゅうじょう舞台ぶたいうつしただい6せんでも阪神はんしんげをかわして3かい1/3を失点しってんおさえてると、だい7せんでもリリーフで登板とうばん延長えんちょう12かい1マイク・ソロムコ三振さんしんさらにルーキーの藤井ふじい栄治えいじ一塁いちるいゴロ仕留しとめ、土橋どばしはこの試合しあい勝利しょうり投手とうしゅおよびシリーズ胴上どうあ投手とうしゅとなっている。

1963ねん1964ねん連続れんぞくで20しょう到達とうたつし、7ねん連続れんぞく2けた勝利しょうりげた。しかし1965ねんかたつうもあって4しょう[15]わると、1966ねん復活ふっかつして6がつ26にちに6しょうげるも、7がつ14にち近鉄きんてつせん激痛げきつう見舞みまわれ[15]みぎわきばらすじだんきれ全治ぜんち3カ月かげつ診断しんだんされ、以降いこうシーズン終了しゅうりょうまで登板とうばんなし[15]1967ねんになるとみぎ手首てくびつう両足りょうあしアキレス腱あきれすけんつうもあって勝利しょうりわり、同年どうねんかぎりで引退いんたいした[15]通算つうさん162しょう球団きゅうだん最多さいた記録きろく

もと同僚どうりょうで、悪役あくやく俳優はいゆう八名やな信夫しのぶとはなかかった[12]

現役げんえき引退いんたい

編集へんしゅう

引退いんたいは、東映とうえいぐん投手とうしゅコーチ(1969ねん)、一軍いちぐん投手とうしゅコーチ(1970ねん - 1971ねん)をつとめる。

東映とうえいコーチ時代じだいには、高橋たかはし善正よしまさら5にん選手せんしゅ門限もんげんやぶ土橋どばし説教せっきょうされたことがあったが、その選手せんしゅ一人ひとりである松本まつもと俊一しゅんいちが「ぼくらをなぐってください」といいだす。これをいた高橋たかはしは「おいおい。やめろよ」とおもったが、土橋どばし無言むごん松本まつもとなぐり、松本まつもとは4メートルもんでその1かげつむちちにくるしむことになり、高橋たかはし吉田よしだまことなぐられた[16]張本ちょうほんくん大杉おおすぎ勝男かつお当時とうじ東映とうえいにいた武闘ぶとう選手せんしゅからもおそれられており、高橋たかはし高校こうこう後輩こうはいでもある江本えもと孟紀たけのりに「土橋どばしさんに5、6にんぶっばされている。5メートルぐらいぶっんだやつはいくらでもいる。」と忠告ちゅうこくしている[17]一方いっぽうで、江本えもとは「最近さいきんはやたら科学かがくてきなトレーニングがれられているがおれ土橋どばしさんのおにのような特訓とっくん[ちゅう 3]成長せいちょうさせてもらったとおもっている。それに土橋どばしさんはこわひとだけではなくきびしさのなか愛情あいじょうかんじられ、不思議ふしぎ反発はんぱつ感情かんじょうまれなかった。これぞ人徳にんとくだろう。今日きょう野球やきゅうかいに、土橋どばしさんのような豪快ごうかいやさしさをそなえたじんがいなくなったことを本当ほんとうさびしくかんじる。すくなくともげられるピッチャー江本えもとそだててくれたのは東映とうえいであり、土橋どばしさんだ」とひょうしている[18]

1973ねん前期ぜんきは5わり、田宮たみや謙次郎けんじろう監督かんとく更迭こうてつけて同年どうねん後期こうきから監督かんとく昇格しょうかくし、ヘッドけん打撃だげきコーチには選手せんしゅ兼任けんにん張本ちょうほん就任しゅうにん後期こうき成績せいせきは6ねんぶりの3であったが、球団きゅうだん日本にほんハムへ身売みうりし、大社たいしゃ義規よしのりオーナーとおな香川かがわけん出身しゅっしん三原みはらおさむ球団きゅうだん社長しゃちょう三原みはらむすめ婿むこにあたる中西なかにしふとし監督かんとく就任しゅうにんし、土橋どばし解任かいにんされ張本ちょうほんいち選手せんしゅもどった[19]。なお、このことについて、土橋どばしは「にちつぶせ後期こうきから監督かんとくになったときは、やりたくなかったのに説得せっとくされてだった。なのに球団きゅうだん身売みうりでサヨナラだからやってられねえよ」とかたっている[15]

退団たいだんフジテレビニッポン放送にっぽんほうそう解説かいせつしゃ1974ねん - 1983ねん)をつとめ、このあいだ1981ねんオフには契約けいやくを1ねんのこして退団たいだんした山内やまうち一弘かずひろ後任こうにん監督かんとくとしてロッテオリオンズから就任しゅうにん要請ようせいけるが、ことわっている[20]。 

また、おなころヤクルトスワローズ投手とうしゅじん崩壊ほうかいにより2ねん連続れんぞく最下位さいかい1982ねん - 1983ねん)となり、とくに「投手とうしゅじんなおし」が緊急きんきゅう課題かだいになっていたため、きびしい指導しどうられる土橋どばし白羽しらはち、一軍いちぐん投手とうしゅコーチとして1984ねんより就任しゅうにん[21]。しかし4がつ27にちたけうえ四郎しろう監督かんとく開幕かいまくから18試合しあい消化しょうかした時点じてんで、「8連敗れんぱいふくむ4しょう13はい1けという不成績ふせいせき責任せきにんをとる」と休養きゅうよう[21]よく28にちから代理だいり監督かんとくとなった中西なかにしふとしヘッドコーチがおなじく18試合しあいたたかえた時点じてんで、「1けをはさむ8連敗れんぱい」を記録きろくし「健康けんこうじょう理由りゆう」で姿すがたした[21]。そのため5月22にちからは土橋どばし代理だいり監督かんとく代行だいこう(のちに代理だいり監督かんとく)として指揮しきった[22]。この時点じてんで9しょう25はい3ふん、5横浜よこはま大洋たいようホエールズに4ゲーム最下位さいかいだった[21]

土橋どばしは4がつ20日はつか、「闘争とうそうしんのない選手せんしゅ使つかわない」と表明ひょうめい[21]松岡まつおかひろし井本いもとたかし井原いはらまき一朗いちろうの3ベテラン投手とうしゅにファームきをめいじ、6月15にちから代行だいこうから正式せいしき監督かんとく昇格しょうかくすると[21]一度いちど一軍いちぐんベンチにげていた松岡まつおか度目どめのファームきをめいじるなど、チームの体質たいしつ改善かいぜん躍起やっきとなった[21]。6月になってプロり5ねん大川おおかわあきらはつ先発せんぱつめいじたり(はつ勝利しょうり)、一度いちど引退いんたい打撃だげき投手とうしゅになっていた有沢ありさわけん現役げんえき復帰ふっきめいじたり、あらゆるさく模索もさくっていた土橋どばしは、開幕かいまく以来いらいおさえがおおかった尾花おばな高夫たかおふたた先発せんぱつまわして投手とうしゅじんはしらにし、8がつには5しょう2はい2セーブ、9月は5しょう0はい1セーブと成果せいかげその指導しどう見事みごとみのった[21]。ほか、ルーキーの高野たかのひかりは10しょう12はい2セーブ、梶間かじま健一けんいちは12しょう11はい2セーブをマークした[21]。チームも8がつには15しょう10はい成績せいせきげ(1982ねん4がつからずっとつづいていた連続れんぞく月間げっかんしは18カ月かげつでストップ)[21]後半こうはんせんは26しょう23はい2ふんかえす。最終さいしゅう成績せいせきは5で3ねん連続れんぞく最下位さいかいまぬかれた。なお本塁打ほんるいだ177ほん失点しってん653、防御ぼうぎょりつ4.76はいずれもリーグ最低さいてい数字すうじだった[21]打線だせん若松わかまつつとむ打率だりつ.325でリーグ2)、ボビー・マルカーノ打率だりつ.300、15)はよくったものの、チーム個人こじん最多さいた本塁打ほんるいだ八重樫やえがし幸雄ゆきおの18ほんで、チーム本塁打ほんるいだ101ほんは、リーグ最多さいた中日ちゅうにちドラゴンズよりも90ほんすくなかった[21]。チーム盗塁とうるいすうも49で、リーグ盗塁とうるいおう高木たかぎゆたか大洋たいよう)の56盗塁とうるいよりもすくなかった[21]

1985ねん神谷かみや定男さだお作戦さくせんコーチで招聘しょうへい若松わかまつ杉浦すぎうらとおる八重樫やえがしと3わり打者だしゃまれ[23]、プロ16ねんはじめて3わりえた八重樫やえがし杉浦すぎうらとともにベストナイン選出せんしゅつされた[23]弱体じゃくたいした投手とうしゅじん実績じっせきのある尾花おばな梶間かじまたのみで、2人ふたり先発せんぱつおさえにフル回転かいてんさせたが、ローテーションの頭数とうすうりない。急遽きゅうきょアンディ・ビーン入団にゅうだんさせ6がつはいってからげさせたが、わずか8試合しあい登板とうばん、2しょう2はい防御ぼうぎょりつ7.25)の記録きろくのこしたままかたいため、9月には帰国きこく解雇かいこ)してしまった[23]。8月9にちたい巨人きょじんせんでは入団にゅうだん3ねん荒木あらき大輔だいすけがプロはつ完封かんぷう[23]。このとしはチーム防御ぼうぎょりつ4.75、チーム打率だりつ.264もリーグ最低さいていで、順位じゅんい最下位さいかいわった[23]前年ぜんねんまでたよりにしていたマルカーノが95試合しあい先発せんぱつ出場しゅつじょうは80試合しあい)しか出場しゅつじょうできず、打率だりつ.299だったが、ホームラン、打点だてんとも前年ぜんねんより下回したまわり、おとろえをせていたものの12本塁打ほんるいだ、51打点だてん記録きろく[23]クリス・スミスはわずか16試合しあい出場しゅつじょうでホームラン0、3打点だてん打率だりつ.158で解雇かいこ[23]投手とうしゅじん荒木あらきと、かれ同期どうきでもある阿井あい英二郎えいじろう台頭たいとう[23]野手やしゅでは新人しんじん広澤ひろさわ克実かつみ我慢がまんしてせい一塁いちるいしゅとして起用きようつづけ、主力しゅりょく打者だしゃそだてた[24]広澤ひろさわは「野村のむら監督かんとくつよいヤクルトをつくっていったこと間違まちがいない。ただ、わすれてはならないのは、そのまえ土橋どばし監督かんとくがいて関根せきね監督かんとくがいたということ」「いまおもえば土橋どばし監督かんとくはいろいろと苦労くろうされていたとおもいます。78ねんにリーグ優勝ゆうしょうしたとき戦力せんりょくがベテランの時期じきにさしかかっていることでしたし、起用きようしてもらっているぼくもなかなか結果けっかおうじることができていませんでしたね。」とかたっている[25]。また入団にゅうだん2ねん池山いけやまたかしひろしは65試合しあい出場しゅつじょう、85打数だすう12安打あんだ二塁打にるいだ3、本塁打ほんるいだ0、打点だてん1、三振さんしん29、打率だりつ.141だった[23]入団にゅうだん5ねん岩下いわした正明まさあき規定きてい打席だせきすうにはたっしなかったが112試合しあい出場しゅつじょうで269打数だすう85安打あんだ、5本塁打ほんるいだ、34打点だてん打率だりつ.316。若松わかまつ杉浦すぎうらならんで外野がいや一角いっかくめる活躍かつやくだった[23]

1986ねん前年ぜんねん大洋たいよう打率だりつ3わり、31本塁打ほんるいだ、110打点だてんをマークしたレオン・リーマーク・ブロハード入団にゅうだん打線だせん充実じゅうじつしたとのぜん評判ひょうばんであった[26]開幕かいまく巨人きょじんとの3連戦れんせんすべとし、つづ本拠地ほんきょち神宮球場じんぐうきゅうじょうでの阪神はんしんタイガースせんに2しょう1はいしたが、ロードにて5連敗れんぱい、4がつ7しょう14はい、5月5しょう13はい2け、6月6しょう11はい1け。5月15にち椎間板ついかんばんヘルニアで梶間かじま登録とうろく抹消まっしょう、6がつ10日とおか大洋たいようせんで4ばん杉浦すぎうらみぎひざ半月はんつきばん損傷そんしょうでダウン、「このシーズンの復帰ふっき無理むり」とわれた[26]阿井あいは43試合しあい登板とうばんして9しょう6はい1セーブで活躍かつやく、ルーキーの伊東いとう昭光あきみつが4しょう11はいおなじルーキーの矢野やの和哉かずやはこのとし優勝ゆうしょうした広島東洋ひろしまとうようカープから2しょう前半ぜんはんせんでは苦闘くとうしていた荒木あらきもよくえ、8しょうまでぼしばし、ファン投票とうひょうはつのオールスター出場しゅつじょうたした[26]。レオンは130試合しあいぜん試合しあい出場しゅつじょう、リーグ4打率だりつ.319、チームトップの34本塁打ほんるいだ、97打点だてん[26]。ブロハートは打率だりつ.258、21本塁打ほんるいだ、64打点だてんこんひとつだったが、優勝ゆうしょう広島ひろしまあらそっていた巨人きょじんとの最終さいしゅうせん槙原まきはらひろしおのれから逆転ぎゃくてんの2ランをはなちファンの溜飲りゅういんげた[26]若松わかまつ入団にゅうだん以来いらい最低さいてい打率だりつ.275にわり、池山いけやまは65試合しあい出場しゅつじょう打率だりつ.245、6本塁打ほんるいだ[26]打撃だげきコーチ兼任けんにんであった若松わかまつ入団にゅうだん3ねん栗山くりやま英樹ひできのスイッチヒッターへの転向てんこう土橋どばし進言しんげんしたところ、「『おまえにそう(スイッチにいていると)えるのならやってみろ』と了解りょうかい[12]栗山くりやま規定きてい打席だせきすうにはたっしなかったが打率だりつ3わりをマークして注目ちゅうもくされた(107試合しあい出場しゅつじょう打率だりつ.301、4本塁打ほんるいだ[26]若松わかまつは「栗山くりやまはその、センターに定着ていちゃくしてまれわった」とかたっている[12]。シーズンがわってみれば2ねん連続れんぞく最下位さいかい[26]優勝ゆうしょうした広島ひろしまには12しょう14はい善戦ぜんせんしながら、2巨人きょじん、3阪神はんしんにはともに9しょう16はい1け、5中日ちゅうにちには8しょう16はい2けとおおきくし、49しょう77はい4け、勝率しょうりつ.389だった[26]土橋どばし荒木あらき勝利しょうり最終さいしゅうせんたい中日ちゅうにちせん)をかざったよく10がつ17にち辞表じひょう提出ていしゅつした[26]

退任たいにんはフジテレビ・ニッポン放送にっぽんほうそう解説かいせつしゃ1987ねん - 1991ねん)を再度さいどつとめる。

1992ねんには古巣ふるす日本にほんハムの監督かんとくく。ヘッドコーチに高木たかぎ公男きみお投手とうしゅコーチに新美にいみさとし招聘しょうへい[27]広島ひろしまとの交換こうかんトレードで津野つのひろし放出ほうしゅつ獲得かくとくした金石かねいし昭人あきとが14しょうげ、おさえの白井しらいやすしかちが9しょう10セーブ、野手やしゅマット・ウィンタースが35本塁打ほんるいだ新人しんじん片岡かたおか篤史あつし打率だりつ.290と健闘けんとうするも[28]借金しゃっきん18の5低迷ていめい[29]契約けいやくを1ねんのこしてこのとしかぎりで解任かいにんされた[30]当時とうじおおくのひとたちがかしているように、土橋どばし起用きようほう練習れんしゅう方法ほうほうなど様々さまざまめんにおいて選手せんしゅたちから反発はんぱつい、その責任せきにんわれるかたちで1年間ねんかん契約けいやくのこして、わずか1シーズンかぎりで解任かいにんへとまれてしまった。当時とうじ球団きゅうだん常務じょうむ取締役とりしまりやく大沢おおさわ啓二けいじによると、選手せんしゅ代表だいひょう、トレーナーやマネージャー、広報こうほう通訳つうやく、いろんな裏方うらかたがみんなそろって「もう、ダメなんです。土橋どばし監督かんとく選手せんしゅたちの関係かんけい修復しゅうふく不可能ふかのうなぐらいこじれちゃってるんです。」とっており、これをいてやむなく土橋どばし解任かいにんしたという[30]当時とうじ日本にほんハムの選手せんしゅからは、以下いかのようにコメントされている。

  • 土橋どばしさんは、本当ほんとうはいいじんなんですが、その表現ひょうげん下手へたというか、選手せんしゅとの距離きょりがあった監督かんとくさんでした。当時とうじのおとなしい選手せんしゅたちにはわなかった。てなかったわけではないのにオールスターがわったらいきなりスタメンはずされ、プロ野球やきゅう選手せんしゅですから結果けっかないじゃあ使つかわないなら納得なっとくするしかありませんが、このとき以外いがいでも納得なっとくできないことがおおかったんでメンタルてきにだいぶやられました。実際じっさいぼくだけじゃなく、わか連中れんちゅうからもかなり不満ふまんていましたね。監督かんとく選手せんしゅかれればいいというわけではありませんが、監督かんとく動向どうこうは、選手せんしゅみんながよくています。球界きゅうかいだい先輩せんぱい失礼しつれいかもしれませんが、ぼく自身じしん監督かんとくになったときの反面はんめん教師きょうしにもなりました。(大島おおしま康徳やすのり[31]
  • 投手とうしゅじん代表だいひょうして、先発せんぱつ投手とうしゅ登板とうばん翌日よくじつをオフにしてほしいとおねがいし、土橋どばしは「7かい2失点しってん以内いないおさえたら」という条件じょうけんきでいち了解りょうかいした。しかし、西崎にしざきが8かい2失点しってんおさえた試合しあいのあとに確認かくにんしにいったら「なにってんだ!今日きょう試合しあいけたじゃないか!」とおこられた。約束やくそくちがうと、土橋どばし喧嘩けんかのようになってしまった。(西崎にしざき幸広ゆきひろ[32]
  • 土橋どばしさんのおもはキャンプではしらされたキツさ。攻守こうしゅ交代こうたい練習れんしゅうというのがあって、ベンチからかく守備しゅび位置いち全力ぜんりょく疾走しっそうして、またもどるのをかえすんですよ。あの練習れんしゅうにはどういう意図いとがあったんでしょうね。いま野球やきゅうだとこの練習れんしゅう科学かがくてきにこういう意味いみがあると合理ごうりてき説明せつめいがあるのですが、おもいつきでしたよね。昭和しょうわ野球やきゅうですよ(田中たなか幸雄ゆきお[33][34]

なお、日本にほんハム監督かんとく時代じだいには、土橋どばし退場たいじょう処分しょぶんけている(平和へいわだい野球やきゅうじょうでの試合しあい自軍じぐん攻撃こうげき一塁いちるいでの判定はんていめぐって、塁審るいしん両手りょうていたことによる)。

後任こうにん監督かんとく招聘しょうへい難航なんこう[ちゅう 4]大沢おおさわみずか就任しゅうにんした。

また、ヤクルト・日本にほんハムをつうじて監督かんとく時代じだい本拠地ほんきょち対戦たいせん相手あいて胴上どうあげをせつけられることおおかった(ヤクルト時代じだいの1985ねん阪神はんしん・1986ねん広島ひろしま日本にほんハム時代じだいは1992ねん西武せいぶ)。テリー伊藤いとう自身じしん著書ちょしょなかで「怒鳴どなれば格好かっこうがつく無法むほうまつな『顔面がんめん突撃とつげき監督かんとく」とひょうしている[35]

そのは、みたびフジテレビ・ニッポン放送ほうそう解説かいせつしゃとしてCS中心ちゅうしん評論ひょうろん活動かつどうおこない、フジテレビONE放送ほうそうちゅうの『プロ野球やきゅうニュース』にも出演しゅつえん一方いっぽうで、プロ野球やきゅうマスターズリーグ東京とうきょうドリームス監督かんとくつとめたほか、1990年代ねんだい前半ぜんはんから2012ねんまで沢村さわむらしょう選考せんこう委員いいん、2007ねんからは選考せんこう委員いいんちょう就任しゅうにんしている。

2012ねん9月にすじ萎縮いしゅくせいがわさく硬化こうかしょう診断しんだんけ、自宅じたく療養りょうようつづけていた最中さいちゅう2013ねん8がつ24にち東京とうきょう都内とない病院びょういんにて死去しきょした[36][37]。77さいぼつ

土橋どばし死後しごの8がつ27にち東京とうきょうヤクルトスワローズ北海道ほっかいどう日本にっぽんハムファイターズでは試合しあいまえ黙祷もくとうささげ、選手せんしゅ一同いちどうかた喪章もしょうをつけてプレーをした。同日どうじつヤクルトたい中日ちゅうにちドラゴンズせんおこなわれた神宮球場じんぐうきゅうじょうには半旗はんきかかげられた。[38][ちゅう 5]同日どうじつフジテレビONE放送ほうそうされた「プロ野球やきゅうニュース」においては、冒頭ぼうとう内容ないよう大幅おおはば変更へんこうして土橋どばし親交しんこうふかかった解説かいせつしゃ選手せんしゅ指導しどうしゃ関根せきねじゅんさん大矢おおや明彦あきひこ平松ひらまつ政次まさじ谷沢たにさわ健一けんいち司会しかい金村かなむら義明よしあき遠藤えんどう玲子れいこ)をむかえて土橋どばし追悼ついとうコーナーがおこなわれた。

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

編集へんしゅう

江戸えどとうほう」とばれる余計よけいきをしない投球とうきゅうスタイルで、はやいテンポでストライクをどんどんんだ。データじょうでも四球しきゅう試合しあい46は歴代れきだい4[1]あずか四球しきゅうりつ1.21は通算つうさん2000イニング以上いじょう投球とうきゅうしゃでは歴代れきだい1と、めったに四球しきゅうさない投手とうしゅだった[39]

当時とうじのパ・リーグの覇者はしゃであった西鉄にしてつライオンズ主力しゅりょく選手せんしゅから、以下いかのような評価ひょうかがある。

人物じんぶつ

編集へんしゅう

1954ねんあき東映とうえい入団にゅうだんテストのさい監督かんとくであった井野川いのかわ利春としはるは、1955ねんから審判しんぱん転向てんこうし、土橋どばし登板とうばんする試合しあい球審きゅうしんつとめることもあった。若手わかて時代じだい土橋どばし井野川いのかわによる投球とうきゅう判定はんてい不服ふふく態度たいどせると、試合しあい直後ちょくご土橋どばし井野川いのかわめられて審判しんぱんしつれてかれ、コンクリートゆかうえ正座せいざさせられて、「おまえをテストでったのはだれだとおもっているんだ。そのオレにケチをけるとは何事なにごとだ」「新前しんまえのくせに生意気なまいきだ」「いま半人前はんにんまえのくせに」「オレのジャッジはただしいのだ」とう長々ながなが理不尽りふじん説教せっきょうらったが、土橋どばしは「ハイ、わかりました。すみません」とひたすらかえしていたという。このけんについて土橋どばしは「だって下手へたなんだよ本当ほんとうに。まあしかし、監督かんとくだったっんだからハイハイっていてたよ」とコメントしている[40]

ヤクルト監督かんとく時代じだいには、土橋どばしのその江戸えどふう頑固がんこ親父おやじてき雰囲気ふんいきがその当時とうじ下町したまちてき球団きゅうだんイメージとっていたためか、チーム成績せいせきかんばしくなかったにもかかわらず人気にんきがあった。フジテレビの「ちんプレーこうプレー」でもべつ土橋どばし本人ほんにん特別とくべつなにかをしているわけではないのに「おれ土橋どばしだ」てきなコーナーがあった[41]

江戸えど土橋どばしは、「ひ」を「し」と発音はつおんする。「プロ野球やきゅうニュース」の解説かいせつをしていたとき土橋どばし広島ひろしま(カープ)を「しろしま」と発音はつおんした[41]。それをアナウンサーに指摘してきされるとおこってしまい、土橋どばし以後いご「カープ」としかばなくなった。

プロ野球やきゅうニュース解説かいせつしゃ谷沢たにさわ健一けんいちとは、犬猿けんえんなかとされた[41]。「プロ野球やきゅうニュース」の軟式なんしき野球やきゅう試合しあいで、アキレス腱あきれすけんった土橋どばしたいして、谷沢たにさわが「って階段かいだんからちてった」とおちょくったのがそのはじまりである[41]。その番組ばんぐみちゅうでも色々いろいろやりとりがあり[41]、2006ねんシーズンオフの企画きかくでは、トークない土橋どばし茶々ちゃちゃれた谷沢たにさわたいし、本番ほんばんちゅうにもかかわらず土橋どばし激昂げっこうした[41]一方いっぽうで、2008ねんにも共演きょうえんしている。そのも、2011ねん12月24にち放送ほうそうの「プロ野球やきゅうニュース 2011 そうまとめスペシャル」には、隣席りんせき出演しゅつえんし、谷沢たにさわが「土橋どばしさんにっこめるのはぼくだけ。」との趣旨しゅし発言はつげんをしていたことから、仲直なかなおりしていたとられる。2012ねんのオールスターの「プロ野球やきゅうニュース」では、土橋どばしが「谷沢たにさわさんとも勝負しょうぶしたかったね。」とかたっている。

フジテレビけい殿様とのさまのフェロモン」にゲスト出演しゅつえんしたさいに、土橋どばしナインティナインをだますという内容ないよう進行しんこうし、とく理由りゆうくナインティナインの岡村おかむら隆史たかし顔面がんめんパイをぶつけた[ちゅう 6]。だまされたがわ岡村おかむらは「土橋どばし!」とすうかいてにしたところ、収録しゅうろくのエレベーターないで「おつかれさまでした」と挨拶あいさつした岡村おかむらいかりをあらわにし(岡村おかむらいわく「てめえ、このやろう。だれ土橋どばしってってんだよ!」とすご剣幕けんまく怒鳴どなってきたという)、放送ほうそう終了しゅうりょう番組ばんぐみスタッフが土橋どばしとその関係かんけいしゃ謝罪しゃざいするまでに発展はってんした。これにかんして、野球やきゅううと岡村おかむらは、当初とうしょナインティナインのオールナイトニッポン」で「てしたのは、おわらいだから」「土橋どばし野球やきゅうがうまかったのか?」と相方あいかた矢部やべ浩之ひろゆき同調どうちょううながしていた。しかし、2009ねん書籍しょせき『ナインティナインのオールナイトニッほん Vol.1』の付属ふぞくCDでナインティナインはこの当時とうじ回想かいそうし、岡村おかむらは「あれは完全かんぜんに、わたしっていること間違まちがっている」とこのいちけんについて反省はんせいし、謝罪しゃざいしている[42]

だい麻雀まーじゃんきでもあり、西崎にしざき幸広ゆきひろは「にちハムの監督かんとく時代じだい遠征えんせい試合しあいホテルにもどると土橋どばしがすぐにすずめそうかってしまうため、コーチじんこういかけ、結局けっきょくすずめそう試合しあいのミーティングをおこなうのがつねだった」と証言しょうげんしている[43]。1996ねんに、フジテレビ「THEわれめDEポン」を題材だいざいとしたゲーム「芸能人げいのうじん対局たいきょくTHEわれめDEポン」が発売はつばいされたさいには、対局たいきょく相手あいて一人ひとりとしてゲームない登場とうじょうした。

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1956 東映とうえい 4 2 0 0 0 0 1 -- -- .000 29 6.1 9 1 2 0 1 3 0 0 8 8 10.29 1.74
1957 26 6 3 1 0 5 2 -- -- .714 386 97.1 79 2 21 0 4 74 1 0 31 27 2.48 1.03
1958 54 28 18 6 4 21 16 -- -- .568 1202 309.2 239 18 53 6 6 222 3 0 97 73 2.12 0.94
1959 63 34 21 1 10 27 16 -- -- .628 1336 339.0 293 23 43 6 4 217 2 0 101 89 2.36 0.99
1960 44 32 17 1 6 12 23 -- -- .343 1076 263.1 258 19 39 4 7 193 1 0 113 92 3.14 1.13
1961 63 37 25 9 10 30 16 -- -- .652 1538 393.0 313 23 45 5 6 298 2 0 111 83 1.90 0.91
1962 48 30 14 4 7 17 14 -- -- .548 1084 272.0 256 12 24 3 2 140 0 0 89 72 2.38 1.03
1963 53 32 15 1 5 20 16 -- -- .556 1210 301.0 279 31 36 2 13 169 1 0 128 102 3.05 1.05
1964 48 35 12 3 0 20 15 -- -- .571 1102 270.1 250 20 46 1 8 132 1 1 113 99 3.30 1.09
1965 24 17 3 0 0 4 10 -- -- .286 551 129.0 148 9 20 3 2 67 1 0 68 59 4.12 1.30
1966 19 15 6 2 4 6 6 -- -- .500 472 122.1 97 11 9 0 1 43 0 0 33 31 2.29 0.87
1967 9 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 62 15.0 16 3 1 0 0 4 0 0 9 9 5.40 1.13
通算つうさん:12ねん 455 268 134 28 46 162 135 -- -- .545 10048 2518.1 2237 172 339 30 54 1562 12 1 901 744 2.66 1.02
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

年度ねんどべつ監督かんとく成績せいせき

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とし

たま

だん
じゅん

くらい
ためし

ごう
かち

はい

せん


ぶん
かち

りつ



ほん
るい


りつ
ぼう

りつ
とし

よわい
1973ねん にちつぶせ 5 130 55 69 6 .444 5・3 133 .254 3.97 38さい
1984ねん ヤクルト 5 130 51 71 8 .418 25 101 .264 4.76 49さい
1985ねん 6 130 46 74 10 .383 26.5 143 .264 4.75 50さい
1986ねん 6 130 49 77 4 .389 27.5 119 .252 4.27 51さい
1992ねん 日本にほんハム 5 130 54 73 3 .425 26 99 .259 4.20 57さい
通算つうさん:5ねん 549 221 303 25 .422 Bクラス3かい
  • ※1 1973ねんから1996ねんまでは130試合しあいせい
  • ※2 1973ねんから1982ねんまではぜん後期こうきせいのため、ゲームらん前期ぜんき順位じゅんい後期こうき順位じゅんいじゅん表示ひょうじ
  • ※3 1973ねん田宮たみや謙次郎けんじろう監督かんとく退任たいにんともない、後期こうき開幕かいまく(7がつ27にち)から監督かんとく就任しゅうにん(65試合しあい30しょう32はい3ふん)
  • ※4 1984ねんたけうえ四郎しろう監督かんとく休養きゅうよう中西なかにしふとし監督かんとく代行だいこう休養きゅうようした5月22にちから監督かんとく代行だいこう。6月15にち監督かんとく就任しゅうにん(94試合しあい42しょう47はい5ふん)
  • ※5 通算つうさん成績せいせきは、実際じっさい指揮しきした試合しあい

表彰ひょうしょう

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  • 連続れんぞくだつ三振さんしん:9、1958ねん5がつ31にちたい西鉄にしてつライオンズせん駒沢こまざわ球場きゅうじょう) ※NPB歴代れきだい2タイ記録たいきろく
  • 連続れんぞくイニング四球しきゅう:56かい、1961ねん7がつ29にち - 8がつ23にち。51かい2/3、1959ねん6がつ28にち - 7がつ16にち
  • 通算つうさんあずか四球しきゅうりつ:1.21(投球とうきゅうかい2518.1/あずか四球しきゅう339) ※NPB記録きろく(2000投球とうきゅうかい以上いじょう
  • 日本にっぽんシリーズ1シリーズ登板とうばんすう:6、1962ねん ※NPBタイ記録たいきろく
  • オールスターゲーム出場しゅつじょう:7かい(1958ねん - 1964ねん

背番号せばんごう

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  • 51 (1955ねん
  • 48 (1956ねん - 1957ねん
  • 21 (1958ねん - 1967ねん
  • 61 (1969ねん - 1970ねん
  • 73 (1971ねん - 1973ねん
  • 74 (1984ねん - 1985ねん
  • 81 (1986ねん
  • 72 (1992ねん

関連かんれん情報じょうほう

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出演しゅつえん番組ばんぐみ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 前年ぜんねん記録きろくした梶本かじもと隆夫たかおタイ記録たいきろく2022ねん4がつ10日とおか佐々木ささきあきらのぞみ更新こうしんするまで、60ねん以上いじょうものあいだ日本にっぽん記録きろくであった[9]
  2. ^ 前年ぜんねんまでの日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろくは2であったが、このとし近鉄きんてつバファローのルーキー・徳久とくひさ利明としあき土橋どばし成績せいせき上回うわまわる5記録きろくしている。
  3. ^ 毎日まいにち練習れんしゅうメニューが江本えもといわ半端はんぱなものではなく、うさぎび100かい、レフトとライトのボールあいだ全力ぜんりょくで10ほんダッシュ、腹筋ふっきん背筋せすじを500かいずつでここまでがウォーミングアップでフリーバッティングに登板とうばんやく40分間ふんかん試合しあいではベンチりした。
  4. ^ 大沢おおさわは、おう貞治さだはる上田うえだ利治としはる候補こうほかんがえていたがおう自身じしん活動かつどうスケジュール(おも世界せかい少年しょうねん野球やきゅう推進すいしん財団ざいだん関連かんれん)の都合つごう辞退じたいし、上田うえだ好意こういてきだった大社たいしゃ義規よしのりオーナー(日本にほんハムの前身ぜんしんは、上田うえだ出身しゅっしんだった徳島とくしまけん起業きぎょうした。)以外いがい球団きゅうだん上層じょうそうから「関西かんさい出身しゅっしん上田うえだでは人気にんきない」と了解りょうかいられなかったという。その幹部かんぶかたち大社たいしゃみずからの要請ようせいにより、上田うえだ大沢おおさわ後任こうにんとして監督かんとくつとめている。
  5. ^ 8がつ26にち試合しあいがなかったため
  6. ^ 土橋どばしがパイをげる直前ちょくぜん岡村おかむらかかえてとしたとわれるが、これは別人べつじんである。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 野球やきゅう小僧こぞう 6がつごう 2012』白夜書房びゃくやしょぼう白夜書房びゃくやしょぼう、2012ねん、P186-P195
  2. ^ くさ野球やきゅう出身しゅっしん土橋どばし正幸まさゆき、シーズン30しょう!これで優勝ゆうしょうだ!?
  3. ^ a b c 『プロ野球やきゅう三国志さんごくし』116ぺーじ
  4. ^ 週刊しゅうかんベースボール 2020ねん6がつ8にちごう 連載れんさい張本ちょうほんくんかつ!!』50-51ぺーじ
  5. ^ プロの給料きゅうりょう5000えん軟式なんしき野球やきゅう5試合しあいやれば5000えん、60ねんまえのプロ野球やきゅう待遇たいぐうはひどすぎた。合宿がっしゅくのごはんもおかわりダメ
  6. ^ ごうだま列伝れつでん-プロ野球やきゅう不滅ふめつのヒーローたち』159ぺーじ
  7. ^ ベースボールマガジン別冊べっさつなつさいごう 1954-1972東映とうえいフライヤーズあばれんぼう伝説でんせつ スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ.2020ねん.p16-17
  8. ^ ごうだま列伝れつでん-プロ野球やきゅう不滅ふめつのヒーローたち』160ぺーじ
  9. ^ 佐々木ささきあきらまれ連続れんぞく13だつ三振さんしん、64ねんぶり記録きろく更新こうしんろくかいまで「完全かんぜん試合しあい」も継続けいぞくちゅう. 読売新聞よみうりしんぶんオンライン. (2022ねん4がつ10日とおか). https://full-count.jp/2022/04/10/post1204754/ 2022ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん 
  10. ^ ごうだま列伝れつでん-プロ野球やきゅう不滅ふめつのヒーローたち』161ぺーじ
  11. ^ 『プロ野球やきゅう三国志さんごくし』117ぺーじ
  12. ^ a b c d e 難病なんびょうたたかった江戸えどエース・土橋どばし正幸まさゆきさん ゆかりの人々ひとびとからあふれるおもばなし”. 産経さんけいニュース. 2013ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  13. ^ 宇佐美うさみ徹也てつや日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろく大鑑たいかん講談社こうだんしゃ、430ぺーじ
  14. ^ 『プロ野球やきゅう三国志さんごくし』118ぺーじ
  15. ^ a b c d e f 週刊しゅうかんプロ野球やきゅうデータファイル』2012ねん53ごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、P19-P20
  16. ^ 日刊にっかんゲンダイ2015ねん7がつ29にちごう高橋たかはし善正よしまさ「プロ野球やきゅうサムライはんだか」だい7かい
  17. ^ 江本えもと孟紀たけのり野球やきゅうバカはなず』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2018ねん、P91
  18. ^ 野球やきゅうバカはなず』P102-107
  19. ^ 恩讐おんしゅう彼方かなたに――張本ちょうほんいさお日本にほんハムのユニホームではじめての始球しきゅうしき スポーツニッポン
  20. ^ とらばん疾風しっぷうろく(39)】仰天ぎょうてんロッテ山本やまもと監督かんとく決定けってい 産経新聞さんけいしんぶん、2018ねん10がつ10日とおか
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m 徳永とくなが喜男よしお『ヤクルトスワローズ球団きゅうだん』、スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、pp.307-310
  22. ^ 監督かんとく代行だいこう代行だいこう/メモ
  23. ^ a b c d e f g h i j 『ヤクルトスワローズ球団きゅうだん』、スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、pp.312-315
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  28. ^ ファイターズ50ねん、77ぺーじ
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  33. ^ まぼろしえた宮沢みやざわりえ監督かんとく田中たなか幸雄ゆきお連載れんさい#11】 東京とうきょうスポーツ
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  35. ^ 知恵ちえもり文庫ぶんこ「おわらいプロ野球やきゅう殿堂でんどう ダメ監督かんとく列伝れつでん」テリー伊藤いとう光文社こうぶんしゃ、2004ねん11月ISBN 9784334783259
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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