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大友工 - Wikipedia

大友おおとも たくみ(おおとも たくみ、1925ねん2がつ19にち - 2013ねん4がつ12にち)は、兵庫ひょうごけん出石いずしぐん出石いずしまちげん豊岡とよおか出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)・コーチ1960ねん登録とうろくめい大友おおとも こう(おおとも こうじ)。

大友おおとも たくみ
1956ねん
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 兵庫ひょうごけん出石いずしぐん出石いずしまちげん豊岡とよおか
生年月日せいねんがっぴ 1925ねん2がつ19にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2013-04-12) 2013ねん4がつ12にち(88さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
175 cm
71 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1949ねん
はつ出場しゅつじょう 1950ねん3がつ15にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1960ねん8がつ30にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき

経歴けいれき

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プロりまで

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にん兄弟きょうだいすえとしてまれ、父親ちちおや小学校しょうがっこう教員きょういんで、師範しはん学校がっこう時代じだい野球やきゅうテニスをしていた。大友おおとも弘道こうどうかん尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうころから野球やきゅうしたしみ、熱心ねっしん大阪おおさかタイガースファンであった[1]旧制きゅうせい大阪おおさか逓信ていしん講習こうしゅうしょ卒業そつぎょう神戸こうべ中央ちゅうおう電信でんしんきょく電信でんしん技師ぎしとして就職しゅうしょくだい大戦たいせんちゅう応召おうしょうにより電信でんしんへいとなり伍長ごちょうまで昇進しょうしんするが、内地ないち勤務きんむであったことから無事ぶじ終戦しゅうせんむかえた[2]戦後せんご故郷こきょうもどり、一時いちじ炭焼すみやをして生計せいけいてた時期じきもあった。その但馬たじま貨物かもつ(のちしん日本にっぽん運輸うんゆ)で軟式なんしき野球やきゅうをプレー[3]1948ねんあき全国ぜんこく車輛しゃりょう軟式なんしき野球やきゅう大会たいかい近畿きんき大会たいかいでベスト4まで進出しんしゅつする。その速球そっきゅう大会たいかい審判しんぱんちょうつとめていた関西かんさいのアマチュア野球やきゅうかい重鎮じゅうちんであった本田ほんだ竹蔵たけぞうまり、本田ほんだ当時とうじぐんつくろうとして選手せんしゅあつめていた読売よみうりジャイアンツ宇野うの庄治しょうじ球団きゅうだん代表だいひょう紹介しょうかいして、1949ねん5月きょじん入団にゅうだん[2]

現役げんえき時代じだい

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巨人きょじん入団にゅうだん、これまで軟式なんしきだましかにぎったことがなかったため硬式こうしきだまれるのに苦労くろうする[4]かたくておも硬式こうしきだまれるために、蒲団ふとんはいときもボールをにぎり、翌朝よくあさますとたまにぎったままということもしばしばあった[5]入団にゅうだん当時とうじはスリークオーターであったがとうほうサイドスロー変更へんこう。これは意図いとてき転向てんこうではなく、変化球へんかきゅう威力いりょくすためでもなかったというてんわっている。実際じっさいには、直球ちょっきゅう球威きゅういそうとして投球とうきゅうどきステップ出来できるだけひろげようとした結果けっか自然しぜん身体しんたいみぎかたむくようになり、サイドスローになった。本人ほんにんによれば「身体しんたいかたむけてうえからげているかんじだった」という。

1ねん制球せいきゅうりょく課題かだいがありそのとしから出来できぐんらしとなるが、すでブルペンでは当時とうじエースかくであった別所べっしょ毅彦たけひこ藤本ふじもと英雄ひでおまさるほどの速球そっきゅうげていたという[6]1950ねん春先はるさき一軍いちぐん昇格しょうかくし、3月15にち西日本にしにほんたたかえ八幡やはた桃園ももぞの)にはつ先発せんぱつするが2かい2失点しってんでノックアウトされ、その成績せいせきのこせず6がつぐんとされる。イースタン・リーグでは好調こうちょうでたちまち10しょうかさねると、9月にふたた一軍いちぐんばれる。26しょう藤本ふじもと英雄ひでお手術しゅじゅつ、22しょう別所べっしょ毅彦たけひこ怪我けがげられないなかで、大友おおともは10がつ以降いこう9試合しあい先発せんぱつまかされるなど積極せっきょくてき起用きようされて4しょうげる[7]1951ねんスライダー会得えとくしたこともあって、11しょう4はい、リーグ3防御ぼうぎょりつ2.41と3ねん巨人きょじん主戦しゅせん投手とうしゅとなる[8]1952ねんには7がつ26にち松竹しょうちくたたかえ大阪おおさか)でノーヒットノーラン達成たっせいするなど17しょう(8はい)をげ、防御ぼうぎょりつも2.25とリーグ4はいった。

1953ねんには春季しゅんきキャンプみぎひじいためたことからランニング中心ちゅうしんトレーニングおこなったところ、シュート制球せいきゅうりょく改善かいぜんし、スライダー・シュートのコンビネーションで投球とうきゅうてることができるようになり、投球とうきゅうはばひろがった[9]。シーズンでは27しょう6はい防御ぼうぎょりつ1.85で最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつ最多さいた勝利しょうり最優秀さいゆうしゅう勝率しょうりつ投手とうしゅさんかん沢村さわむらしょうベストナイン獲得かくとくし、さらには最高さいこう殊勲しゅくん選手せんしゅにもえらばれるなど個人こじんタイトルそうなめにした。また、南海なんかいとの日本にっぽんシリーズでは、10月13にちだい4せん後楽園こうらくえん)で完封かんぷうどう16にちだい7せんでは別所べっしょをリリーフして胴上どうあ投手とうしゅとなるなど2しょう最優秀さいゆうしゅう投手とうしゅしょう獲得かくとくする[10]。オフシーズンにはニューヨーク・ジャイアンツ日米にちべい野球やきゅう来日らいにちし、10月31にち試合しあいを1失点しってんき、日本人にっぽんじん投手とうしゅとしてはじめてメジャーリーグ球団きゅうだん相手あいて完投かんとう勝利しょうりげた。メジャーリーガーたちから「地面じめんからたまてない」とおどろかれ[4]レオ・ドローチャー監督かんとくからもメジャーで十分じゅうぶん通用つうようするのでれてかえりたいとわれたという[11]。ジャイアンツの遊撃手ゆうげきしゅのち阪急はんきゅう入団にゅうだんするダリル・スペンサーであったが、大友おおともは4三振さんしんうばっている[12]。3まんにん観客かんきゃくは、大友おおとも快挙かいきょ歓喜かんきした[12]1954ねんも21しょう、リーグ2防御ぼうぎょりつ1.68を記録きろくする。

1955ねん開幕かいまく67試合しあいとなる7がつ10日とおか中日ちゅうにちせん完封かんぷう勝利しょうりげてはやくも20しょう(3はい)にたっする。シーズンでは30しょう6はい勝率しょうりつ.833をげ、2度目どめ最多さいた勝利しょうり最優秀さいゆうしゅう勝率しょうりつ獲得かくとくしたが、30しょう以上いじょうかつ敗戦はいせんすういちけたであった投手とうしゅは2リーグ分裂ぶんれつ大友おおともふくめて3にんのみであり(1957ねん稲尾いなお和久かずひさ1959ねん杉浦すぎうらただし)、セ・リーグでは大友おおとものみである。また、同年どうねん6月12にち大洋たいようたたかえ後楽園こうらくえん)では当時とうじのプロ野球やきゅうタイ記録たいきろくの15だつ三振さんしん記録きろくしている[13]

1956ねんも4がつ下旬げじゅんまで、5しょう1はい防御ぼうぎょりつ1.37と好調こうちょうであったが、4がつ22にち大阪おおさかせん後楽園こうらくえん)で大崎おおさき三男みつおからきうでである右手みぎて親指おやゆび死球しきゅう骨折こっせつ[14]全治ぜんち2ヶ月かげつ重傷じゅうしょう戦列せんれつはなれた。6がつ下旬げじゅんには復帰ふっきするが、親指おやゆびがらないため球威きゅういがすっかりくなってしまっていた。7月はぼししの3連敗れんぱいきっするが、8がつ以降いこう本来ほんらいちからもどし、シーズンでは12しょうげる[15]西鉄にしてつとの日本にっぽんシリーズでは、10がつ10日とおかだい1せん後楽園こうらくえん)で完封かんぷう勝利しょうりするが、どう14にちだい4せん平和へいわだい)では6かい2失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅとなり、チームも2しょう4はいやぶれた。オフシーズンにおこなわれたブルックリン・ドジャースとの日米にちべい野球やきゅうでは、10月19にちだい1せん堀内ほりうちしょうのちけて大友おおともは4かいからリリーフして4安打あんだ10三振さんしんおさえてふたたびメジャー相手あいて勝利しょうり投手とうしゅかがやいている[16]

1957ねんになると、この死球しきゅう後遺症こういしょうによって以前いぜん制球せいきゅうりょく球威きゅういうしなわれていく[17]開幕かいまくせんの3がつ31にちたい国鉄こくてつスワローズせんでは4安打あんだおさえて完封かんぷう勝利しょうりするが、みぎひざみずまり、みぎ足首あしくび捻挫ねんざするなどの故障こしょうもあって投球とうきゅうフォームをくずしてまったてなくなる。6月30にちには得意とくいとしていた広島ひろしません先発せんぱつするも、打者だしゃ3にんたいして2安打あんだ1四球しきゅうで1れずにノックアウト。防御ぼうぎょりつは5.14までがり、みずか志願しがんしてぐん降格こうかくする。7がつ中旬ちゅうじゅん一軍いちぐん復帰ふっきしてペナントレース終了しゅうりょうまでに3しょうするが、シーズンをとおして5しょう4はい防御ぼうぎょりつ3.89の成績せいせきにとどまった。1958ねんわずか2しょうわるが、西鉄にしてつとの日本にっぽんシリーズでは初戦しょせん藤田ふじたもとつかさをリリーフして勝利しょうり投手とうしゅになるなど4試合しあい登板とうばん巨人きょじん王手おうてをかけていた10月17にちだい5せん平和へいわだい)では稲尾いなおにサヨナラ本塁打ほんるいだびている。1959ねん登板とうばん機会きかいがなく、日本にっぽんシリーズまえ南海なんかいのエースであった杉浦すぎうら対策たいさくとして打撃だげき投手とうしゅつとめた[18]

同年どうねんオフに10ねん選手せんしゅ制度せいどにより、かつてのチームメイトであった千葉ちばしげる監督かんとくつとめていた近鉄きんてつバファロー移籍いせきする。1960ねん登録とうろくめい大友おおとも こう(おおとも こうじ)にあらためるが、1しょうわり同年どうねん現役げんえき引退いんたいした。

引退いんたい

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引退いんたい近鉄きんてつぐん投手とうしゅコーチ(1961ねん)をて、中日ちゅうにちぐん投手とうしゅコーチ(1965ねん - 1966ねん, 1968ねん)・一軍いちぐんバッテリーコーチ(1967ねん)・寮長りょうちょう[19]つとめる。

中日ちゅうにち退団たいだん花島電線はなしまでんせん現在げんざい茨城いばらきテクノス[20])に勤務きんむ当時とうじ自宅じたくちかくにはおう貞治さだはるんでいた。1977ねんおうハンク・アーロン本塁打ほんるいだ世界せかい記録きろく(755ほん)にせまっていたころおう自宅じたくまえにはマスコミファンしかけ、かんびんらかしていたが、大友おおとも仕事しごとかえみちかならおういえまえり、ゴミ片付かたづけてかえっていたという[21]

1979ねん7がつには山田やまだきよし団長だんちょうした大橋おおはしいさお二宮にのみや忠士ただしともに「日本にっぽんプロ野球やきゅうコーチだん団員だんいんとして中国ちゅうごく野球やきゅう指導しどうおこな[22]1987ねんにはよしとも商事しょうじ設立せつりつし、東京とうきょうドームキャラクターグッズ販売はんばいぎょういとなんだ[23]

晩年ばんねんつまくしたため、東京とうきょう都内とない一人暮ひとりぐらしをする。つまくしたのがきっかけで台所だいどころ仕事しごとおぼえ、朝食ちょうしょく昼食ちゅうしょく自分じぶん支度したくをしてませ、よる近所きんじょスナックごしていた[24]大相撲おおずもう中継ちゅうけいきであったが、プロ野球やきゅう中継ちゅうけいはほとんどなかった。馴染なじみの常連じょうれんたちと、のんびり雑談ざつだんをしながらむのが日課にっかであったが、くびわずらった影響えいきょうからあるくのが不自由ふじゆうになっており、2ほんつえ手放てばなせなかった[24]。そのためあしこしおとろえないようにと毎日まいにちつえをついていえなかあるいていた。あるきやすいようにふすまはずして部屋へや部屋へやをつなげ、あし調子ちょうし相談そうだんしながら、あるけるだけあるいた[24]おおで6000あまりにもなり、チラシうらメモちょうにして、毎日まいにち歩数ほすう時間じかん食事しょくじ内容ないよう体調たいちょうなどを克明こくめい記録きろくしていたという[24]

2013ねん4がつ12にち急性きゅうせい白血病はっけつびょうのため死去しきょ[25]。88さいぼつ

プレースタイル

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  • 小柄こがら体格たいかくサイドスローでありながら、当時とうじ球界きゅうかい代表だいひょうする速球そっきゅう投手とうしゅであった。日本にっぽんプロ野球やきゅう史上しじょう直球ちょっきゅうのみで打者だしゃ牛耳ぎゅうじることの出来できたサイドスロー・アンダースロー投手とうしゅは10にんといないが、大友おおともはその一人ひとりであった。当時とうじ球速きゅうそくでは金田かねだ正一しょういち大友おおとも双璧そうへきをなしていたが、金田かねだも「大友おおともさんのたま一番いちばんはやい」と一目いちもくいていたという[26]。その投球とうきゅう威力いりょくは、当時とうじせい捕手ほしゅであった広田ひろたじゅんそこなったさいに、キャッチャーミットめた左手ひだりてゆび骨折こっせつさせてしまうほどであった[27]。そのつよし速球そっきゅうのほかに、なが中指なかゆび利用りようしたみぎ打者だしゃ外角がいかくするどがりかつがるスライダー内角ないかくねじれるようにえぐシュート[3]武器ぶきとした。
  • 全盛期ぜんせいきには、投球とうきゅうさい身体しんたいたお角度かくどで、スリークォーター・サイドスロー・アンダースローとけたという[4]
  • サイドスローでありながらひだり打者だしゃ苦手にがてとしなかったことも特徴とくちょうで、ひだり打者だしゃふところをスライダーでき、バットのっこにてさせることで、内野ないやゴロやポップフライにった。大友おおともは、サイドスローであってもコントロールがければひだり打者だしゃにはたれない、とかたっていた[28]
  • 敗戦はいせんすうすくなく、別所べっしょ中尾なかおせきこころざし安原やすはらいたるけいなどがいた当時とうじ巨人きょじん投手とうしゅじんなかではもっと安定あんていたか投手とうしゅであった。
  • チーム創成そうせい広島ひろしまカープ滅法めっぽう相性あいしょうがよく、18連勝れんしょうのち1はいはさんでさらに12連勝れんしょう、7年間ねんかんで41しょう3はい防御ぼうぎょりつ0.93の記録きろくのこっている[28]

人物じんぶつ

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  • 筋骨きんこつ隆々りゅうりゅう力持ちからもちで、金太郎きんたろうあるいはキングコングのイメージから、ぐん時代じだいにつけられたニックネームの「キンさん」ときょじんOBのあいだではばれていた[29]
  • 評論ひょうろん三宅みやけ大輔だいすけは、真面目まじめで、勤勉きんべんで、熱心ねっしんで、不言ふげん実行じっこうで、そして慢心まんしんしないという、野球やきゅう選手せんしゅとしてもっとのぞましい性格せいかくひょうした[30]
  • いつも笑顔えがおやさしい性格せいかくで、エースでありながらおごったところがなく、選手せんしゅとの距離きょりかった[6]晩年ばんねん不調ふちょうになるとみずか志願しがんしてぐんったが、もとエースであったことにかかわらず、多摩川たまがわ若手わかて選手せんしゅ相手あいて打撃だげき投手とうしゅノッカーつとめていたという[18]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1950 巨人きょじん 15 11 5 0 0 4 4 -- -- .500 356 85.0 71 3 39 -- 0 44 1 0 41 35 3.71 1.29
1951 29 14 3 0 0 11 4 -- -- .733 556 137.2 114 11 43 -- 3 51 1 3 44 37 2.41 1.14
1952 40 24 9 4 2 17 8 -- -- .680 827 207.1 158 10 51 -- 4 120 2 1 78 52 2.25 1.01
1953 43 29 22 3 4 27 6 -- -- .818 1076 281.1 199 13 63 -- 1 173 1 1 65 58 1.85 0.93
1954 48 30 17 5 4 21 15 -- -- .583 1081 278.2 202 13 62 -- 9 199 0 0 63 52 1.68 0.95
1955 42 34 25 7 3 30 6 -- -- .833 1164 303.2 213 15 54 1 9 206 0 0 73 59 1.75 0.88
1956 29 16 6 2 1 12 7 -- -- .632 585 155.0 100 8 32 1 1 84 1 0 33 28 1.63 0.85
1957 21 10 3 2 2 5 4 -- -- .556 327 81.0 78 10 13 1 3 46 0 0 39 35 3.89 1.12
1958 12 2 0 0 0 2 1 -- -- .667 160 41.2 28 0 7 1 0 11 1 0 10 9 1.93 0.84
1960 近鉄きんてつ 15 0 0 0 0 1 2 -- -- .333 86 20.1 20 3 4 0 1 14 0 0 9 9 3.98 1.18
通算つうさん:10ねん 294 170 90 23 16 130 57 -- -- .695 6218 1591.2 1183 86 368 4 31 948 7 5 455 374 2.11 0.97
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

表彰ひょうしょう

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はつ記録きろく
その記録きろく
  • たい同一どういつチーム最多さいた連勝れんしょう:18、1952ねん10がつ8にちから1954ねん9がつ15にちたい広島ひろしまカープせん当時とうじのNPB記録きろく(1956ねん稲尾いなお和久かずひさが22連勝れんしょう更新こうしん)、現在げんざいのセ・リーグ記録きろく[33]
  • 1試合しあい最多さいただつ三振さんしん:15、1955ねん6がつ12にちたい大洋たいようホエールズせん当時とうじのNPBタイ記録たいきろく(1958ねん土橋どばし正幸まさゆきが16更新こうしん[34]
  • 最多さいた連続れんぞくだつ三振さんしん:7、1954ねん9がつ15にちたい広島ひろしまカープせん当時とうじのNPBタイ記録たいきろく(1967ねん梶本かじもと隆夫たかおが9更新こうしん[35]

背番号せばんごう

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  • 39(1949ねん - 1950ねん
  • 20(1951ねん - 1959ねん、1961ねん
  • 14(1960ねん
  • 64(1965ねん - 1968ねん

登録とうろくめい

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  • 大友おおとも たくみ(おおとも たくみ、1949ねん - 1959ねん、1961ねん - 1968ねん
  • 大友おおとも こう(おおとも こうじ、1960ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』80ぺーじ
  2. ^ a b 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』82ぺーじ
  3. ^ a b 魔球まきゅう伝説でんせつ』222ぺーじ
  4. ^ a b c 『ジャイアンツ栄光えいこうの70ねん』46ぺーじ
  5. ^ 魔球まきゅう伝説でんせつ-プロ野球やきゅう不滅ふめつのヒーローたち』222ぺーじ
  6. ^ a b 巨人軍きょじんぐんおとこたち』136ぺーじ
  7. ^ a b 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』94ぺーじ
  8. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』96ぺーじ
  9. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』106ぺーじ
  10. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』114ぺーじ
  11. ^ 巨人軍きょじんぐんおとこたち』138ぺーじ
  12. ^ a b 大友おおともたくみ 死去しきょ野球やきゅう : 野球やきゅう記録きろくはなしたい
  13. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』129ぺーじ
  14. ^ 魔球まきゅう伝説でんせつ』225ぺーじ
  15. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』132ぺーじ
  16. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』133ぺーじ
  17. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』134ぺーじ
  18. ^ a b 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』138ぺーじ
  19. ^ 「もう一人ひとり星野ほしの星野ほしの秀孝ひでたかさんがかたられざる現役げんえき時代じだい - 中日新聞ちゅうにちしんぶんWeb
  20. ^ (株)かぶしきがいしゃ茨城いばらきテクノス | 日立金属ひたちきんぞく株式会社かぶしきがいしゃ
  21. ^ 魔球まきゅう伝説でんせつ』225ぺーじ
  22. ^ にちちゅう国交こっこう正常せいじょうによるにちちゅうあいだ野球やきゅう交流こうりゅうがその中国ちゅうごく野球やきゅう活動かつどうおよぼした影響えいきょう―1945ねんから1960ねんまでと1972ねんから1989ねんまでのりょう期間きかん野球やきゅう活動かつどう比較ひかく
  23. ^ 『プロ野球やきゅう人名じんめい事典じてん』91ぺーじ
  24. ^ a b c d コラム:87さい意志いし(2012/3/19) スポーツせん一夜いちや時事じじドットコム
  25. ^ もと巨人きょじん投手とうしゅ大友おおともたくみさん死去しきょ=88さい、55ねんに30しょう. スポーツナビ (Yahoo!). (2013ねん4がつ13にち). オリジナルの2013ねん4がつ13にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2013-0418-1025-45/sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/baseball/headlines/article/20130413-00000000-jij 2013ねん4がつ13にち閲覧えつらん 
  26. ^ 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』125ぺーじ
  27. ^ 魔球まきゅう伝説でんせつ』220ぺーじ
  28. ^ a b 『プロ野球やきゅう 燃焼ねんしょう瞬間しゅんかん』109ぺーじ
  29. ^ 魔球まきゅう伝説でんせつ』223ぺーじ
  30. ^ 三宅みやけ大輔だいすけ快刀かいとう乱麻らんま 大友おおとものピッチング」『ベースボールマガジン』昭和しょうわ30ねん8がつごう
  31. ^ 魔球まきゅう伝説でんせつ』224ぺーじ
  32. ^ スポーツニッポン関西かんさいばん2014ねん8がつ2にちづけ3めん
  33. ^ 『プロ野球やきゅう記録きろく大鑑たいかん』838ぺーじ
  34. ^ 『プロ野球やきゅう記録きろく大鑑たいかん』680ぺーじ
  35. ^ 『プロ野球やきゅう記録きろく大鑑たいかん』684ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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