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大友持直 - Wikipedia

大友おおとも じき(おおとも もちなお)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう豊後ぶんごこく大友おおともの12だい当主とうしゅ

 
大友おおともじき
時代じだい 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ ぶんやす2ねん1がつ4にち1445ねん2がつ10日とおか[1]?)
別名べつめい 八郎はちろう通称つうしょう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ豊後ぶんご守護しゅご
氏族しぞく 大友おおとも
父母ちちはは ちち大友おおとも親世ちかよはは戸次とつぎ直光なおみつむすめ[2]
兄弟きょうだい もちじきおやとうおやたかししんじき親雄ちかお
詫摩たくまちかしつね
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

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だい10代当主とうしゅ大友おおとも親世ちかよとしてまれる。生年せいねんについては確定かくていしていないが、元服げんぷくとき室町むろまち幕府ばくふだい4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもち在職ざいしょく1394ねん-1422ねん)よりへんいみな(「もち」の)をたま[3]もちじき名乗なのっていることから、(元服げんぷくする年齢ねんれいかんがえれば)おおよそ1380年代ねんだい-1400年代ねんだいあいだのこととおもわれる。

だい11だい当主とうしゅとなっていた従兄弟いとこおやちょから家督かとく引継ひきつぎ、当主とうしゅとなった。ちち親世ちかよ正室せいしつ叔父おじにあたる大内おおうち盛見もりみ対立たいりつし、しょう連合れんごうして合戦かっせんしこれをったが、盛見もりみ九州きゅうしゅうにおける幕府ばくふりょう管理かんりつとめていたことから6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり義持よしもちおとうと)のいかりをい、もちじき守護しゅごしょく剥奪はくだつされ一族いちぞく大友おおともちかしつなあたえられ、さらに大内おおうち持世もちよによるちょく追討ついとうぐん九州きゅうしゅう派遣はけんされる事態じたいとなり、大友おおとももち直方ちょくほうもちじきちかしちょ大友おおともちかししげる)と幕府ばくふかたおやつな大友おおともちかしたかしなど)に分裂ぶんれつした。えいとおる7ねん1435ねん)からの姫岳ひめだけ合戦かっせんにおいて、もちじき伊予いよこく守護しゅご河野こうのとおるひさはいさせるなど強硬きょうこう抵抗ていこうしたが、結局けっきょく敗北はいぼくし、以後いご消息しょうそく不明ふめいとなった。没年ぼつねんについては諸説しょせつありはっきりしない。なお、しんつね(ちかつね)は詫摩たくま大友おおともちかししゅうおとうとのうしゅう血統けっとう)に養子ようしりしてそのあといでいる。

名前なまえについて

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いみなの「もちじき」の「もち」のは、前述ぜんじゅつとおり、将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちからたまわったものである[3]一方いっぽうの「じき」のについては、大友おおとも大友おおとものうじき由来ゆらいする大友おおともつうひとつとかんがえられる。一部いちぶでは、外祖父がいそふにあたる戸次とつぎ直光なおみつから直接ちょくせつ1けたとしている[2]。しかし、後者こうしゃせつなかさらに、直光なおみつが「なおみつ」ではなく、「ただみつ」とませるせつがある。これは、ちちたよときとも一時期いちじき南朝なんちょうかたいていたことがある直光なおみつが、おなじく九州きゅうしゅうみなみ朝方あさがたとして活動かつどうしていた足利あしかがじきふゆ足利尊氏あしかがたかうじ庶子しょし)・菊池きくちたけしひかり両者りょうしゃから1をもらってその名乗なのった[4]とし、これにしたがえば、直冬ただふゆの「ただし」(たかしおとうと直冬ただふゆ養父ようふ直義ただよしの1由来ゆらい)が「ただ」とむので、直光なおみつは「ただみつ」で、そのまごであるもちじきは「もちただ」とといった内容ないようである[2]ただし、直光なおみつ大友おおとものうじき子孫しそんであり、祖父そふさだただしおよびその兄弟きょうだいたちも「ただし」の使用しようしている(戸次とつぎ#系譜けいふ参照さんしょう)ことから、確定かくていできる史料しりょうがないかぎりは「ただし」がちょくふゆへんいみなとするせつただしいとみなすことはむずかしい[4]

へんいみなけた人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ しんてい寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか2』
  2. ^ a b c [1]
  3. ^ a b 足利あしかが将軍しょうぐんからのへんいみな授与じゅよ祖父そふとそのあにやすし足利尊氏あしかがたかうじより1たまわって以来いらいのことである。
  4. ^ a b 系図けいず纂要』には戸次とつぎよりゆきよりゆきしゅうはじめ、足利あしかが直冬ただふゆ加冠かかんにより「ただし」のあたえられてちょくひかり名乗なのっていた(のちにみことぞくしてよりゆきしゅう改名かいめいした)むね記述きじゅつがある。