南 みなみ アメリカ大陸 あめりかたいりく の太平洋 たいへいよう 岸 きし の資源 しげん 地帯 ちたい を巡 めぐ る戦争 せんそう であり、係争 けいそう 3カ国 かこく の主要 しゅよう 鉱石 こうせき が硝石 しょうせき であったことから「硝石 しょうせき 戦争 せんそう (しょうせき せんそう、スペイン語 ご : Guerra del Salitre )」とも呼 よ ばれる。「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」とは、スペイン語 ご の“Guerra del Pacífico”の訳 わけ にあたり(“Guerra”が「戦争 せんそう 」、“El Pacífico”が「太平洋 たいへいよう 」の意 い )、主 おも に海戦 かいせん が主体 しゅたい であったことによる。
イキケの海戦 かいせん (画 が :トーマス・ソマスケールズ )
16世紀 せいき にスペイン やポルトガル王国 おうこく などの植民 しょくみん 地 ち となっていた南米 なんべい 諸国 しょこく は、フランス革命 かくめい などの影響 えいきょう で19世紀 せいき には独立 どくりつ 運動 うんどう が起 お こり、ホセ・デ・サン=マルティン により1818年 ねん にはチリ が、1822年 ねん にはペルー が独立 どくりつ した。その後 ご サン=マルティンに代 か わって、北 きた のベネスエラ からヌエバ・グラナダ、グアヤキル 、キト と解放 かいほう 戦争 せんそう を進 すす めていたシモン・ボリバル と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ によってスペイン軍 ぐん 最後 さいご の拠点 きょてん となっていたアルト・ペルー は1825年 ねん に解放 かいほう され、南米 なんべい の解放 かいほう 戦争 せんそう が終 お わった。同年 どうねん アルト・ペルーの指導 しどう 者 しゃ は、解放 かいほう 者 しゃ シモン・ボリーバル (Simón Bolívar) にちなんで国名 こくめい をボリビア (Bolivia) と改 あらた め、独立 どくりつ した。
これらの国々 くにぐに では独立 どくりつ 後 ご も主導 しゅどう 権 けん 争 あらそ いが起 お こり、ペルーとボリビアではカウディージョ (地方 ちほう の軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ )間 あいだ の内戦 ないせん が続 つづ き、1836年 ねん にはボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス 大統領 だいとうりょう がペルーを征服 せいふく して、ペルー・ボリビア連合 れんごう が成立 せいりつ するなどの動 うご きがあったものの、チリとアルゼンチン のフアン・マヌエル・デ・ロサス の攻撃 こうげき により1839年 ねん にこの連合 れんごう が崩壊 ほうかい すると、以降 いこう は再 ふたた び内戦 ないせん と無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい が続 つづ いていた。
ペルーでは1845年 ねん にラモン・カスティージャ がこの混乱 こんらん を収 おさ め、イギリス資本 しほん の借款 しゃっかん によってグアノ が開発 かいはつ されると、その資金 しきん を背景 はいけい に1868年 ねん 頃 ごろ までは経済 けいざい 的 てき にも安定 あんてい し、公共 こうきょう 事業 じぎょう が進 すす められ、鉄道 てつどう が各地 かくち に建設 けんせつ された。1860年代 ねんだい にスペインはペルーの再 さい 侵略 しんりゃく を図 はか ったが、1866年 ねん 5月2日 にち のカヤオの戦 たたか い (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) でペルー軍 ぐん が勝利 しょうり すると、最終 さいしゅう 的 てき にスペインのアメリカ再 さい 植民 しょくみん 地 ち 化 か の試 こころ みは打 う ち砕 くだ かれた。しかし1870年代 ねんだい に入 はい ると鉄道 てつどう 建設 けんせつ は莫大 ばくだい な赤字 あかじ を生 う み、そのために対外 たいがい 債務 さいむ はますます増 ふ え、さらに内政 ないせい も混乱 こんらん を迎 むか えた。
一方 いっぽう ボリビアでは1855年 ねん にポプリスモ 的 てき なマヌエル・イシドロ・ベルスー 政権 せいけん が崩壊 ほうかい した後 のち も、事実 じじつ 上 じょう の支配 しはい 者 しゃ としてベルスーが君臨 くんりん していたが、1864年 ねん にベルスーを暗殺 あんさつ して大統領 だいとうりょう になったマリアーノ・メルガレホ の時代 じだい に国家 こっか の混乱 こんらん は頂点 ちょうてん に至 いた った。メルガレホは奢侈 しゃし に耽 ふけ るために紙幣 しへい を乱発 らんぱつ し、さらにはアタカマの硝石 しょうせき 採掘 さいくつ 権 けん もチリに売 う ってしまった。インディオ の共有 きょうゆう 地 ち を解体 かいたい して大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ に分配 ぶんぱい し、自由 じゆう 貿易 ぼうえき を導入 どうにゅう してそれまで保護 ほご されていた手工業 しゅこうぎょう を崩壊 ほうかい させ、このような政策 せいさく に反対 はんたい したティティカカ湖 こ 周辺 しゅうへん のインディオを虐殺 ぎゃくさつ するなど人種 じんしゅ 間 あいだ の対立 たいりつ も強 つよ められた。こうして暴政 ぼうせい を行 おこな ったメルガレホは1871年 ねん に追放 ついほう されたが、その後 ご も政治 せいじ は安定 あんてい しなかった。
一方 いっぽう でラテンアメリカの中 なか ではパラグアイと共 とも に、独立 どくりつ 後 ご の自由党 じゆうとう と保守党 ほしゅとう の間 あいだ の内乱 ないらん と無政府 むせいふ 状態 じょうたい を逃 のが れていたチリは、ディエゴ・ポルターレス をはじめとする保守 ほしゅ 派 は の強力 きょうりょく な指導 しどう の下 した に1833年 ねん 憲法 けんぽう を制定 せいてい し、保守 ほしゅ 派 は の指導 しどう の下 した で国家 こっか の安定 あんてい と、強国 きょうこく 政策 せいさく を実現 じつげん した。その後 ご 南部 なんぶ のパタゴニア 先住民 せんじゅうみん 、マプーチェ族 ぞく を討伐 とうばつ して領域 りょういき を安定 あんてい させると(アラウカニア制圧 せいあつ 作戦 さくせん )、経済 けいざい 政策 せいさく として硝石 しょうせき を始 はじ めとする鉱山 こうざん 開発 かいはつ を開始 かいし した。アタカマ砂漠 さばく において硝石 しょうせき や鉄鉱 てっこう 石 せき の鉱脈 こうみゃく が発見 はっけん されると、イギリス 資本 しほん の提供 ていきょう を受 う けたチリ企業 きぎょう がボリビア国境 こっきょう 地帯 ちたい へと進出 しんしゅつ し、ボリビア領 りょう アントファガスタ県 けん 、ペルー領 りょう タラパカ 県 けん において、採掘 さいくつ 権 けん を得 え て開発 かいはつ を開始 かいし した。
そして上述 じょうじゅつ したように、メルガレホの追放 ついほう 後 ご 財政難 ざいせいなん であったボリビアと、グアノ (鳥 とり 糞 くそ 石 せき )の枯渇 こかつ と価格 かかく 暴落 ぼうらく に直面 ちょくめん していたペルーは硝石 しょうせき 採掘 さいくつ に注目 ちゅうもく 。1873年 ねん にペルー・ボリビア両国 りょうこく は対 たい チリ硝石 しょうせき 地帯 ちたい 防衛 ぼうえい のための秘密 ひみつ 同盟 どうめい を結 むす んだ(相互 そうご 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく (ペルー=ボリビア)(スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) )。1874年 ねん にボリビアとチリの間 あいだ でアントファガスタ県 けん においては、ボリビアがこれ以上 いじょう チリ・イギリス系 けい 企業 きぎょう に対 たい して輸出 ゆしゅつ 税率 ぜいりつ を上 あ げないことを決 き めた条約 じょうやく が結 むす ばれた。1875年 ねん にはペルーがタラパカのチリ系 けい 企業 きぎょう を有償 ゆうしょう 接収 せっしゅう した。
1878年 ねん 12月、秘密 ひみつ 同盟 どうめい を後 うし ろ盾 たて にしたボリビアのイラリオン・ダサ 大統領 だいとうりょう はチリ系 けい 企業 きぎょう に輸出 ゆしゅつ 税 ぜい を課税 かぜい した。チリがこれを1874年 ねん 協定 きょうてい 違反 いはん だとして拒否 きょひ すると、ボリビアは硝石 しょうせき を禁輸 きんゆ し、チリ企業 きぎょう を接収 せっしゅう した。1879年 ねん 2月 がつ 、硝石 しょうせき 企業 きぎょう の保護 ほご のため、チリが5000人 にん の兵力 へいりょく を派遣 はけん してアントファガスタ を軍事 ぐんじ 占領 せんりょう し、ボリビアの太平洋 たいへいよう 地域 ちいき を制圧 せいあつ した。ボリビアのダサ大統領 だいとうりょう はペルーに援軍 えんぐん を要請 ようせい しようとしたため、4月 がつ 5日 にち にチリはペルー・ボリビア両国 りょうこく 間 あいだ の秘密 ひみつ 条約 じょうやく 破棄 はき を迫 せま って両国 りょうこく に宣戦 せんせん 布告 ふこく した。
アンガモスの海戦 かいせん (画 が :トーマス・ソマスケールズ )
アリカの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん )
陸軍 りくぐん 兵力 へいりょく ではボリビア・ペルー側 がわ に有利 ゆうり であったが、海岸 かいがん 線 せん の長 なが いチリではイギリスの指導 しどう で海軍 かいぐん 整備 せいび をしているのに対 たい し、ボリビア海軍 かいぐん は長 なが く続 つづ いた混乱 こんらん のため未 み 整備 せいび で、ペルー海軍 かいぐん のみでチリ海軍 かいぐん と戦 たたか うこととなった。
チリは2隻 せき の艦隊 かんたい をバルパライソ からペルー沖 おき へ派遣 はけん し、タラパカ州 しゅう イキケ を海上 かいじょう 封鎖 ふうさ する。5月にはペルー海軍 かいぐん の集結 しゅうけつ していたカヤオの奇襲 きしゅう を試 こころ みるが、カヤオのペルー艦隊 かんたい (ミゲル・グラウ 提督 ていとく )はアリカ州 しゅう へ向 む かう兵員 へいいん 輸送 ゆそう の護衛 ごえい 任務 にんむ で出航 しゅっこう しており、戦闘 せんとう は回避 かいひ される。2隻 せき のペルー艦隊 かんたい は輸送 ゆそう 任務 にんむ を終 お えるとイキケの封鎖 ふうさ を破 やぶ るために南下 なんか し、5月21日 にち には湾口 わんこう でイキケの海戦 かいせん (Combate Naval de Iquique) が行 おこな われる。海戦 かいせん はペルー側 がわ の装甲 そうこう 艦 かん 「ワスカル 」による衝角 攻撃 こうげき でチリ艦 かん 1隻 せき を撃沈 げきちん するが、ペルー側 がわ も主力 しゅりょく 艦 かん 1隻 せき を座礁 ざしょう で失 うしな う結果 けっか となる。この結果 けっか 、制海権 せいかいけん はチリ側 がわ に有利 ゆうり となり、ペルー海軍 かいぐん の行動 こうどう はグラウ提督 ていとく 座乗 ざじょう の「ワスカル」による輸送 ゆそう 船 せん への砲撃 ほうげき や港湾 こうわん 施設 しせつ 襲撃 しゅうげき などのゲリラ戦 せん に終始 しゅうし する。
10月8日 にち 、アントファガスタ沖 おき で行 おこな われたアンガモスの海戦 かいせん でグラウ提督 ていとく らが戦死 せんし し、「ワスカル」は拿捕 だほ 、制海権 せいかいけん は完全 かんぜん にチリ側 がわ に握 にぎ られる。
途中 とちゅう でチリ南部 なんぶ のマプーチェ人 じん が、チリ政府 せいふ に対 たい して最後 さいご の反乱 はんらん を起 お こす事件 じけん があったがこれは鎮圧 ちんあつ された。
1880年 ねん 6月 がつ にはペルー領 りょう のアリカとタクナ がチリ軍 ぐん に占領 せんりょう され、10月にはチリ軍 ぐん は南部 なんぶ のピスコ へ上陸 じょうりく し、イカを占領 せんりょう した。ペルー軍 ぐん 将兵 しょうへい やインディオは各地 かくち で玉砕 ぎょくさい 戦 せん を続 つづ けたが、チリ軍 ぐん はペルー首都 しゅと リマ へ進攻 しんこう 。翌 よく 1881年 ねん 1月 がつ には攻撃 こうげき が開始 かいし され、同月 どうげつ には25,000人 にん のチリ軍 ぐん が市内 しない へと進撃 しんげき する。
ペルー政府 せいふ はアンデス山脈 あんですさんみゃく に逃 に げ込 こ み抵抗 ていこう を続 つづ けるが、新 あら たに大統領 だいとうりょう となったミゲル・デ・イグレシアス (Miguel de Iglesias) は降伏 ごうぶく した。