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戊辰戦争 - Wikipedia

戊辰戦争ぼしんせんそう

19世紀せいき日本にっぽんしん政府せいふがわきゅう幕府ばくふぐんたたか

戊辰戦争ぼしんせんそう(ぼしんせんそう、慶応けいおう4ねん / 明治めいじ元年がんねん1868ねん [2]〉- 明治めいじ2ねん1869ねん〉)は、王政おうせい復古ふっこしん政府せいふ樹立じゅりつした薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん土佐とさはんひとし中核ちゅうかくとするしん政府せいふぐんと、きゅう江戸えど幕府ばくふぐん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい蝦夷えぞ共和きょうわこく幕府ばくふ陸軍りくぐん幕府ばくふ海軍かいぐん)がたたかった日本にっぽん近代きんだいうえ最大さいだい内戦ないせん[3]名称めいしょう由来ゆらいは、慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん干支えとつちのえたつであることからきている。

戊辰戦争ぼしんせんそう

戦線せんせん変遷へんせん
戦争せんそう鳥羽とば伏見ふしみたたか甲州こうしゅう勝沼かつぬまたたか江戸えど開城かいじょう上野うえの戦争せんそう宇都うと宮城みやぎたたか北越ほくえつ戦争せんそう東北とうほく戦争せんそうはこかん戦争せんそう
年月日ねんがっぴ
慶応けいおう4ねん1がつ3にち - 明治めいじ2ねん5月18にち旧暦きゅうれき
1868ねん1がつ27にち - 1869ねん6月27にちグレゴリオれき
場所ばしょ日本の旗 日本にっぽん
結果けっかしん政府せいふぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
しん政府せいふぐん
薩摩さつまはん
長州ちょうしゅうはん
土佐とさはん
しん政府せいふぐんしょはん
きゅう幕府ばくふぐん
奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい
蝦夷えぞ共和きょうわこく
幕府ばくふ陸軍りくぐん
幕府ばくふ海軍かいぐん
きゅう幕府ばくふぐんしょはん
指導しどうしゃ指揮しきかん
明治天皇めいじてんのう
有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう
仁和寺にんなじみやよしみあきら親王しんのう
西郷さいごう隆盛たかもり
大村おおむら益次郎えきじろう
伊地知いじち正治しょうじ
板垣いたがき退助たいすけ
山田やまだあらわよし
黒田くろだ清隆きよたか
山縣やまがた有朋ありとも
徳川とくがわ慶喜よしのぶ
北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう
松平まつだいら容保かたもり
酒井さかいりょうつね
河井かわい継之助つぐのすけ
伊達だてけいくに
Mon Niwa 丹羽たんば長国ながくに
榎本えのもと武揚ぶよう
幕府ばくふ陸軍りくぐん 陸軍りくぐん総裁そうさい 蜂須賀はちすかひとしひろし松平まつだいらじょうかつ海舟かいしゅう最後さいご
幕府ばくふ海軍かいぐん 海軍かいぐん総裁そうさい 蜂須賀はちすかひとしひろし稲葉いなば正巳まさみ矢田堀やたぼりけいぞう最後さいご
戦力せんりょく
12まんにん[1] 不明ふめい
損害そんがい
戦死せんし3556にん負傷ふしょう3804にん[1] 戦死せんし4707にん負傷ふしょう1518にん[1]
戊辰戦争ぼしんせんそう
明治維新めいじいしん伏見ふしみ戦跡せんせき佐藤さとう栄作えいさくしょ
つちのえたつ戦場せんじょう

しん政府せいふぐん勝利しょうりし、国内こくない交戦こうせん団体だんたい消滅しょうめつしたことにより、欧米おうべい列強れっきょう条約じょうやくによる内戦ないせんへの局外きょくがい中立ちゅうりつ解除かいじょした[4]。これ以降いこう明治めいじしん政府せいふ日本にっぽん統治とうちする合法ごうほう政府せいふとして国際こくさいてきみとめられた[4]

以下いか日付ひづけは、ことわりのないかぎ旧暦きゅうれきしるす。

概要がいよう

編集へんしゅう

戊辰戦争ぼしんせんそう研究けんきゅうしゃによってつぎのように規定きていされている。

石井いしいはさらにこれをつぎさん段階だんかいけた。

  1. 将来しょうらい絶対ぜったい主義しゅぎてき全国ぜんこく政権せいけん」をあらそ天皇てんのう政府せいふ徳川とくがわ政府せいふとの戦争せんそう鳥羽とば伏見ふしみたたかから江戸えど開城かいじょう
  2. 中央ちゅうおう集権しゅうけんとしての面目めんぼくそなえた天皇てんのう政府せいふ地方ちほう政権せいけん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいおくれた封建ほうけん領主りょうしゅゆるやかな連合体れんごうたい)との戦争せんそう東北とうほく戦争せんそう
  3. ふうろくからはなれたきゅう幕臣ばくしん救済きゅうさい目的もくてきとする、士族しぞく反乱はんらん先駆せんくてき形態けいたいはこかん戦争せんそう

この内戦ないせんにおいて、欧米おうべいなどのしょ外国がいこく局外きょくがい中立ちゅうりつ立場たちばであったが、フランスレオン・ロッシュ公使こうしなどが個人こじんてききゅう幕府ばくふがわ支援しえん一方いっぽうちゅうにち英国えいこく公使館こうしかん通訳つうやくかんであるアーネスト・サトウ日本にっぽん政権せいけんを「将軍しょうぐん」から「諸侯しょこう連合れんごう」にうつすべきと提唱ていしょうする論文ろんぶん英国えいこくさくろん』を新聞しんぶん発表はっぴょうするなど、一部いちぶ中立ちゅうりつはんするうごきがられた。また、イギリストーマス・ブレーク・グラバープロイセンスネル兄弟きょうだいなど欧米おうべい武器ぶき商人しょうにん戦争せんそうじょうじ、しん政府せいふきゅう幕府ばくふ双方そうほう武器ぶき売却ばいきゃくした。

戊辰戦争ぼしんせんそう開始かいしまでの経緯けいいおよび個々ここ事象じしょうについては、幕末ばくまつ明治維新めいじいしん、および個々ここ語句ごく参照さんしょう

鳥羽とば伏見ふしみたたか

編集へんしゅう

開戦かいせんいた経緯けいい

編集へんしゅう

よんこう会議かいぎ崩壊ほうかい以後いご薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんとも武力ぶりょく倒幕とうばく志向しこうするようになり、朝廷ちょうていへの工作こうさく活発かっぱつさせた。慶応けいおう3ねん1867ねん10月13にち14にち討幕とうばく密勅みっちょく薩摩さつま長州ちょうしゅうくだされる。

訳文やくぶんみことのりくだす。みなもと慶喜よしのぶ徳川とくがわ慶喜よしのぶ)は、歴代れきだい長年ながねん幕府ばくふ権威けんいかさて、一族いちぞく兵力へいりょく強大きょうだいなことをたよりにして、みだりに忠実ちゅうじつ善良ぜんりょう人々ひとびと殺傷さっしょうし、天皇てんのう命令めいれい無視むししてきた。そしてついには、先帝せんてい孝明天皇こうめいてんのう)がくだした詔勅しょうちょく曲解きょっかいして恐縮きょうしゅくすることもなく、人民じんみん苦境くきょうおとしいれてかえりみることもない。この罪悪ざいあくきわまれば、いまにも日本にっぽん転覆てんぷくしてしまう(ほろんでしまう)であろう。 ちん明治天皇めいじてんのういま人民じんみん父母ちちははとなってこの賊臣ぞくしん排斥はいせきしなければ、いかにして、うえかっては先帝せんていれい謝罪しゃざいし、したかっては人民じんみんふかいうらみにむくいることが出来できるだろうか。これこそが、ちんい、いきどお理由りゆうである。本来ほんらいであれば、先帝せんていふくしてつつしむべきところだが、このい、いきどおりがむことはない。おまえたち臣下しんかは、ちん意図いとするところをよく理解りかいして、賊臣ぞくしんである慶喜よしのぶ殺害さつがいし、時勢じせい一転いってんさせるおおきな手柄てがらをあげ、人民じんみん平穏へいおんもどせ。これこそがちんねがいであるから、すこしもまよおこたることなくこのみことのり実行じっこうせよ[7]

これをけ、西国さいごく東国とうごく同時どうじ挙兵きょへいする構想こうそうられた。

しかし、10月14にち江戸えど幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ日本にっぽん統治とうちけん返上へんじょう明治天皇めいじてんのう奏上そうじょうよく15にち勅許ちょっきょされた(大政奉還たいせいほうかん)。『討幕とうばく実行じっこう延期えんき沙汰さたしょ』が10月21にち薩長さっちょうりょうはんたいくだされ、討幕とうばく密勅みっちょく延期えんきとなった。すで大政奉還たいせいほうかんがなされて幕府ばくふ政権せいけん朝廷ちょうてい返上へんじょうしたために討幕とうばく名分めいぶんたず、薩摩さつまがわ東国とうごくける挙兵きょへい中止ちゅうし命令めいれい江戸えど薩摩さつま藩邸はんていつたえざるをなかった。慶喜よしのぶ10月24にちには征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょく辞任じにん朝廷ちょうていもうる。朝廷ちょうてい上表じょうひょう勅許ちょっきょにあわせて、国是こくぜ決定けっていのための諸侯しょこう会議かいぎ召集しょうしゅうまでとの条件じょうけんづけながら緊急きんきゅう政務せいむ処理しょりつづ慶喜よしのぶ委任いにんし、将軍しょうぐんしょく暫時ざんじ従来じゅうらいどおりとした。つまり実質じっしつてきに「大政奉還たいせいほうかん」は空文くうぶん実質じっしつとして慶喜よしのぶによる政権せいけん掌握しょうあくつづくこととなった。慶喜よしのぶねらいは、おおやけ政体せいたいろんのもと徳川とくがわ宗家そうけ首班しゅはんとなるしん体制たいせいつくることにあったとわれる。

土佐とさ藩士はんしいぬい退助たいすけ板垣いたがき退助たいすけは、神武じんむはじめこくもともど王政おうせい復古ふっこすめらぎけん回復かいふくろん)をとなえ、大政奉還たいせいほうかん空文くうぶん幕府ばくふ体勢たいせい維持いじされることを懸念けねんして、後藤ごとう象二しょうじろうらの献策けんさくによるおおやけ政体せいたいろんこうから反対はんたいした。(すめらぎけん回復かいふくろんのち自由じゆう民権みんけん運動うんどう帰結きけつする)

大政たいせい返上へんじょうこと、そのなるも空名くうめいのみ。徳川とくがわ馬上もうえ天下てんかれり。しか(しか)らば馬上もうえいてこれ(これ)をふくしておうほうずるにあらずんば、いかでのう(よ)くさんひゃくねんせいめっするをんや。無名むめい王者おうじゃあずか(くみ)せざるところなれど、いま幕府ばくふ罪悪ざいあく天下てんかみつる(み)つ。此時にさいして断乎だんこ(だんこ)たる討幕とうばくけい(い)でず、(いたづら)に言論げんろんのみをもっ将軍しょうぐんしょく退しりぞかしめんとすは、迂闊うかつきわまれり[8]いぬい退助たいすけ

しかし、土佐とさはん最高さいこう指導しどうしゃである山内やまうち容堂ようどうは「退助たいすけまた暴論ぼうろんくか」とわらってわず、徳川とくがわ恩顧おんこ上士じょうしなか大政奉還たいせいほうかんろん主流しゅりゅうめると、過激かげき武力ぶりょく討幕とうばくろんとおざけられ、反対はんたい意見いけんつらぬいたことでいぬいぜん役職やくしょく剥奪はくだつされ失脚しっきゃくした[9]

さらに、予定よていされた正式せいしき諸侯しょこう会議かいぎ開催かいさい難航なんこう雄藩ゆうはん5はん薩摩さつまはん越前えちぜんはん尾張おわりはん土佐とさはんげいしゅうはん)は、ごうやして12月9にち朝廷ちょうていはたらきかけ、公家くげ岩倉いわくら具視ともみ奏上そうじょうにより明治天皇めいじてんのう王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい煥発かんぱつした。その内容ないようは、幕府ばくふ廃止はいししん体制たいせい樹立じゅりつ宣言せんげんしたもので、しん体制たいせいによる朝議ちょうぎでは、薩摩さつまはん主導しゅどうにより慶喜よしのぶたい内大臣ないだいじんしょく辞職じしょく幕府ばくふ領地りょうち朝廷ちょうていへの返納へんのう決定けっていし(かん納地のうち)、禁門きんもんへん以来いらい京都きょうとわれていた長州ちょうしゅうはん復権ふっけんみとめた。こうして、禁門きんもんへん孝明天皇こうめいてんのうがいる京都きょうと御所ごしょかって砲撃ほうげきし、朝敵ちょうてき宣告せんこくけていた長州ちょうしゅう藩主はんしゅ毛利もうりたかしおやは、明治天皇めいじてんのうにより朝敵ちょうてき認定にんてい解除かいじょされた。

慶喜よしのぶかん納地のうち拒否きょひしたものの、表向おもてむきは「恭順きょうじゅんはい暴発ぼうはつおさえるため」としょうし、二条城にじょうじょうからだい坂城さかきうつった。しかし、実際じっさいには経済けいざいてき軍事ぐんじてき重要じゅうよう拠点きょてんである大坂おおさかさえ、その政局せいきょくにおいて幕府ばくふがわ優位ゆういとうと策略さくりゃくしたとられる。さらに12月16にち慶喜よしのぶ各国かっこく公使こうしたい王政おうせい復古ふっこ非難ひなん条約じょうやく履行りこう各国かっこくとの交際こうさいは、天皇てんのうではなくみずからの権限けんげんにあると宣言せんげんしん政府せいふないにおいても山内やまうち容堂ようどう土佐とさはん)・松平まつだいらはるだけ越前えちぜんはん)らおおやけ政体せいたいかえし、徳川とくがわがわへの一方いっぽうてき領地りょうち返上へんじょう撤回てっかいされ(しん政府せいふ財源ざいげんのため、諸侯しょこう一般いっぱん経費けいひ名目めいもくあらためられた)、年末ねんまつには慶喜よしのぶさい上洛じょうらくうえ議定ぎてい就任しゅうにんすることが確定かくていするなど、いぬいらが憂慮ゆうりょしたとおかん納地のうち事実じじつじょう骨抜ほねぬきとなりつつあった。

薩摩さつま御用ごようとう出現しゅつげん
 
薩土討幕とうばく密約みつやくねん」。密約みつやく締結ていけつぜん段階だんかいとなった京都きょうときんやすろうでの会見かいけん記念きねん東山ひがしやま祇園ぎおん)。
 
戊辰戦争ぼしんせんそうちゅう薩摩さつま藩士はんし。(着色ちゃくしょく写真しゃしんフェリーチェ・ベアト撮影さつえい

旗本はたもと御家人ごけにん中心ちゅうしんとする幕臣ばくしん佐幕さばくしょはん挑発ちょうはつするため、薩摩さつま藩士はんし西郷さいごう隆盛たかもりらは江戸えどにおいて、はじめいぬい土佐とさ藩邸はんていかくまい、のち薩土討幕とうばく密約みつやくもとづき三田みた薩摩さつま藩邸はんてい移管いかんしていた中村なかむら勇吉ゆうきち相楽さがら総三そうぞう勤王きんのう浪士ろうしいたるもちい、出流いずるさんをはじめとする関東かんとう各地かくちでの挙兵きょへい江戸えど撹乱かくらん作戦さくせん開始かいしした。毎夜まいよのように、鉄砲てっぽうまでもった無頼ぶらい徒党ととうんで江戸えど商家しょうかった。日本橋にほんばし公儀こうぎ御用達ごようたし播磨屋はりまや蔵前くらまえ札差ふださし伊勢屋いせや本郷ほんごう高崎たかさきといっただいみせ次々つぎつぎおそわれ、家人かじん近隣きんりん住民じゅうみん惨殺ざんさつされたりした。そして、かなら薩摩さつま藩邸はんていんだ。

江戸えど市民しみんはこの浪士ろうし集団しゅうだんを「薩摩さつま御用ごようとう」とんでおそれ、よる江戸えどちゅうからはひとえたという。薩摩さつま藩邸はんてい根城ねじろとしていた浪士ろうし集団しゅうだんあかほうたいは、総勢そうぜい500めいほどとされ、そのうちのおおくは、かねわれた文字通もじどおりの、人別にんべつちょうからもはずされた無頼ぶらいいたずらであり、強盗ごうとう殺戮さつりく放火ほうかなどをこのんでやるようなやからであった。

幕府ばくふ庄内しょうないはん江戸えどちゅう取締とりしまりめいじたが、とき政治せいじ状況じょうきょうをわきまえ、浪士ろうし刺激しげきしないようにした。そのため、活動かつどう益々ますます激化げきかし、江戸えどだけでなく、下野げや相模さがみ甲斐かいといった周辺しゅうへん地域ちいきまで拡大かくだいしていった[10]

12月23にちには江戸城えどじょう西にしまる焼失しょうしつ。これは薩摩さつまつうじたおく女中じょちゅう犯行はんこううわさされた。同日どうじつよる江戸えどちゅう警備けいびにあたっていた庄内しょうないはん巡邏じゅんらへい屯所とんしょへの発砲はっぽう事件じけん発生はっせい、これもどうはん関与かんよしたものとされ、ついに老中ろうじゅう稲葉いなば正邦まさくに庄内しょうないはん岩槻いわつきはん鯖江さばえはんなどから幕府ばくふぐん編成へんせいし、江戸えど薩摩さつま藩邸はんてい襲撃しゅうげきさせる。

12月25にち幕府ばくふぐん三田みた薩摩さつま藩邸はんてい包囲ほうい薩摩さつまはん下手人げしゅにんわたしを拒否きょひしたのをけて、薩摩さつま藩邸はんてい砲撃ほうげきした(江戸えど薩摩さつま藩邸はんてい焼討やきうち事件じけん)。この事件じけん一報いっぽうは、江戸えどにおいて幕府ばくふがわ薩摩さつまはん交戦こうせん状態じょうたいはいったという解釈かいしゃくとともに、大坂おおさかじょう幕府ばくふ首脳しゅのうのもとにもたらされた。

一連いちれん事件じけん大坂おおさかきゅう幕府ばくふ勢力せいりょく激高げっこうさせ、いきおいづく会津あいづはん桑名くわなはんらのしょはんへい慶喜よしのぶ制止せいしすることができなかった。

慶喜よしのぶ朝廷ちょうてい薩摩さつまはん罪状ざいじょううったえる上表じょうひょう討薩ひょう)を提出ていしゅつ奸臣かんしんたる薩摩さつまはん掃討そうとうかかげて、配下はいか幕府ばくふ歩兵ほへいたい会津あいづはん桑名くわなはん主力しゅりょくとした軍勢ぐんぜい総督そうとく大多喜おおたきはんあるじ松平まつだいらただししつ)を京都きょうと行軍こうぐんさせた。

 
江戸えど薩摩さつま藩邸はんてい焼討やきうち事件じけん週刊しゅうかんイリュストラシオン掲載けいさい
しん慶喜よしのぶつつしんで去月きょげつきゅうにち以来いらい御事おんことたいおそれさっまつこうば、一々いちいち朝廷ちょうてい真意しんいにこれく、まった松平まつだいら修理しゅうり大夫たいふ薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ茂久しげひさ奸臣かんしんども陰謀いんぼうよりだしこうは、天下てんかともところこと江戸えど長崎ながさきしゅう相州あいしゅう処々しょしょらんさまたげ、却盗におよこうも、まった同家どうけ家来けらい唱導しょうどうにより、東西とうざい饗応きょうおうし、皇国こうこくみだれこう所業しょぎょうべつとおりにて、天人てんにんどもにくところ御座ぎょざこうあいだ前文ぜんぶん奸臣かんしんども引渡ひきわた御座ぎょざこうさま御沙汰ごさたくだされ、まんいち採用さいよう相成あいならずこうはゞ、むを誅戮ちゅうりくもうすべくこう — 討薩ひょう部分ぶぶん

戦闘せんとう勃発ぼっぱつ

編集へんしゅう
 
しょうえだきょうにて激突げきとつするきゅう幕府ばくふぐんしん政府せいふぐん左側ひだりがわきゅう幕府ばくふぐんまる桑名くわなはん九曜くようもん右側みぎがわ薩摩さつまはんはた  みぎ長州ちょうしゅうはんはた  える。
 
つちのえたつ戦記せんき絵巻えまきまえへん)』における鳥羽とば伏見ふしみたたかいの様相ようそう[11]
 
戊辰戦争ぼしんせんそうしん政府せいふぐんもちいた錦旗きんきにしきはた)の模写もしゃ
 
豊後橋ぶんごばし発生はっせいした戦闘せんとう

慶応けいおう4ねん1868ねん1がつ2にち夕方ゆうがた幕府ばくふ軍艦ぐんかん2せきが、兵庫ひょうごおき停泊ていはくしていた薩摩さつまはん軍艦ぐんかん砲撃ほうげき事実じじつじょう戦争せんそう開始かいしされる。よく3にち慶喜よしのぶ大坂おおさか各国かっこく公使こうしたいし、薩摩さつまはん交戦こうせんいたったむね通告つうこくし、よる大坂おおさか薩摩さつま藩邸はんてい襲撃しゅうげきさせる。藩邸はんていにはさんまんりょうあまりの軍資金ぐんしきんかれていたが、藩士はんし税所さいしょあつし藩邸はんていはなったうえでこれを脱出だっしゅつしたため、軍資金ぐんしきん幕府ばくふわたることはなかった。同日どうじつ京都きょうと南郊なんこうがい鳥羽とばおよび伏見ふしみにおいて、薩摩さつま長州ちょうしゅうはんによって構成こうせいされたしん政府せいふぐんきゅう幕府ばくふぐん戦闘せんとう状態じょうたいとなり、鳥羽とば伏見ふしみたたか開始かいしされた。

りょうぐん兵力へいりょくは、しん政府せいふぐんやく5,000にんきゅう幕府ばくふぐんやく15,000にんわれている。しん政府せいふぐん武器ぶきではきゅう幕府ばくふぐん大差たいさなく、ぎゃくきゅう幕府ばくふぐんほう最新さいしんがた小銃しょうじゅうなどを装備そうびしていたが、初日しょにち緒戦しょせん混乱こんらんおよび指揮しき戦略せんりゃく不備ふびなどによりきゅう幕府ばくふぐん苦戦くせんした。また、しん政府せいふ危惧きぐしていたきゅう幕府ばくふぐんによる近江おうみ方面ほうめんからの京都きょうと侵攻しんこうもなかった。

よく1がつ4にちきゅう幕府ばくふぐんよどみ方向ほうこうへの後退こうたいつづき、同日どうじつ仁和寺にんなじみやよしみあきら親王しんのう征討せいとう大将軍だいしょうぐんにんじて錦旗きんきふしがたなさづけ、薩摩さつま長州ちょうしゅうはんとうかくへいしたがわせる朝命ちょうめいくだり、ここに官軍かんぐん形成けいせいされた。のち土佐とさはん錦旗きんきたまわ官軍かんぐんにんぜられた。

きゅう幕府ばくふ勢力せいりょく賊軍ぞくぐん認知にんちされるにおよび、佐幕さばくしょはんおおいに動揺どうようした。5にち藩主はんしゅである老中ろうじゅう稲葉いなば正邦まさくに留守るすまもっていたよどみはん賊軍ぞくぐんとなったきゅう幕府ばくふぐん入城にゅうじょうれず、きゅう幕府ばくふぐんよどみじょう下町したまち放火ほうかしさらに八幡やはた方向ほうこう後退こうたいした。6にちきゅう幕府ばくふぐん八幡はちまん山崎やまざきしん政府せいふぐんむかったが、山崎やまざき砲台ほうだい駐屯ちゅうとんしていたはんきゅう幕府ばくふぐんへの砲撃ほうげきはじめた。きゅう幕府ばくふぐん山崎やまざき以東いとうきょうざか地域ちいきから敗北はいぼく撤退てったいだいさかもどった。この時点じてんではいまだにそう兵力へいりょくきゅう幕府ばくふぐん上回うわまわっていたが、6にちよる慶喜よしのぶ自軍じぐんててだい坂城さかきから少数しょうすう側近そっきん海路かいろ江戸えど退却たいきゃくした。慶喜よしのぶ退却たいきゃくによりきゅう幕府ばくふぐん戦争せんそう目的もくてき喪失そうしつし、かくはんたたかいを停止ていししてへいかえした。また戦力せんりょく一部いちぶ江戸えど方面ほうめんへと撤退てったいした。

鳥羽とば伏見ふしみたたかいの影響えいきょう

編集へんしゅう
 
戊辰戦争ぼしんせんそうじゅうスナイドルじゅうスタール騎兵きへいじゅう英語えいごばんドライゼじゅう

1がつ5にち山陰さんいんどう鎮撫ちんぶ総督そうとく西園寺さいおんじ公望きんもちおよび東海道とうかいどう鎮撫ちんぶ総督そうとく橋本はしもとみのるはりはつつかわされた(西国さいこくおよ桑名くわな平定へいてい)。7にち慶喜よしのぶ追討ついとうれいされ、いできゅう幕府ばくふ朝敵ちょうてきとなった。10日とおかには藩主はんしゅ慶喜よしのぶ共犯きょうはんしゃとみなされた会津あいづはん桑名くわなはん高松たかまつはん備中びっちゅう松山まつやまはん伊予いよ松山まつやまはん大多喜おおたきはん官位かんい剥奪はくだつ京屋きょうやじき没収ぼっしゅう3月7にち姫路ひめじはん追加ついかされた[12]。また、はんへいきゅう幕府ばくふぐん参加さんかしたうたがいがたか小浜おばまはん大垣おおがきはん宮津みやづはん延岡のべおかはん鳥羽とばはんには藩主はんしゅ入京にゅうきょう禁止きんし処分しょぶんくだされ、これらのはんも「朝敵ちょうてき」とみなされた。ただし、大垣おおがきはんは1がつ10日とおか時点じてん藩主はんしゅ戸田とだども謝罪しゃざい恭順きょうじゅん誓約せいやくしていたことから、13にちしん政府せいふぐん中山道なかせんどう総督そうとく)の先鋒せんぽうつとめることを条件じょうけん朝敵ちょうてきからはず確約かくやくあたえられて4がつ15にち正式せいしき解除かいじょさらには戊辰戦争ぼしんせんそうこうによってしょうてんろくまであたえられている。なお、どうはん場合ばあいしん政府せいふ参与さんよどうはん重臣じゅうしん小原おはら忠寛ただひろ)がおり、かれのとりなしをしん政府せいふ大垣おおがきはん双方そうほうれたことがおおきい[13]

11にちにはあらためてしょ大名だいみょうたいして上京じょうきょう命令めいれいされた。これはそれまでの諸侯しょこうによる「公平こうへい衆議しゅうぎ」の開催かいさい名目めいもくにした上京じょうきょう命令めいれいとはことなり朝敵ちょうてきとされた「慶喜よしのぶ追討ついとう」を目的もくてきとしていた。これによってしん政府せいふはこれまで協力きょうりょくてきはんたいして、恭順きょうじゅんすれば所領しょりょう安堵あんどなどの寛大かんだい処分しょぶんしめ一方いっぽうで、抵抗ていこうすれば朝敵ちょうてき慶喜よしのぶおよびきゅう幕府ばくふ)の一味いちみとして討伐とうばつする方針ほうしんきつけることになった。とく西日本にしにほんでは慶喜よしのぶ討伐とうばつれい上京じょうきょう命令めいれい鎮撫ちんぶぐん派遣はけんほうつづけにけることになり、所領しょりょう安堵あんど追討ついとう回避かいひのために親藩しんぱん譜代ふだいはんふくめてつづけに恭順きょうじゅん表明ひょうめいし、鳥羽とば伏見ふしみたたかいにかかわったとして「朝敵ちょうてき」の認定にんていけたはんですら早々そうそう抵抗ていこうあきらめて赦免しゃめんもとめることとなった。1がつすえには藩主はんしゅ慶喜よしのぶとも江戸えど逃亡とうぼうした桑名くわなはんですら、重臣じゅうしん藩士はんしたちしろしん政府せいふぐんわたし、3がつには近畿きんき以西いせいしょはん完全かんぜんしん政府せいふ支配しはいはいった[14]

1がつ長州ちょうしゅうぐんだい坂城さかき接収せっしゅう大坂おおさかしん政府せいふ管理かんりはいった。同日どうじつ東山ひがしやまみち鎮撫ちんぶ総督そうとく岩倉いわくら具定ぐじょう任命にんめいされた。11にち神戸こうべ事件じけんこり条約じょうやく諸国しょこくしん政府せいふ対峙たいじする。20日はつか北陸ほくりくどう鎮撫ちんぶ総督そうとく高倉たかくらひさしはつつかわされ、21にちしん政府せいふぐん軍事ぐんじ基地きちけん役所やくしょとして奈良なら大和やまと鎮台ちんだい設置せっちした。そして諸国しょこくとの交渉こうしょう成立せいりつし、条約じょうやく諸国しょこく25にち局外きょくがい中立ちゅうりつ宣言せんげんおこない、日本にっぽん内戦ないせん状態じょうたい認定にんていされた。きゅう幕府ばくふ国際こくさいてき承認しょうにんされた政府せいふとしての地位ちいうしなった一方いっぽう朝廷ちょうていもまた公式こうしき政権せいけん做されずにあった。2がつには神戸こうべ事件じけん誘発ゆうはつされるかたちで、土佐とさ藩士はんしによるさかい事件じけんや、勤皇きんのうによるパークスえい公使こうし襲撃しゅうげき事件じけん発生はっせいした。

近畿きんきでは幕府ばくふおよびきゅう幕府ばくふ勢力せいりょく勢力せいりょくげんじ、薩長さっちょう中心ちゅうしんとするしん政府せいふがこれにってわった。またしん政府せいふ西国さいこく平定へいてい並行へいこうして東征とうせいぐん組織そしきされ、東山ひがしやまみち東海道とうかいどう北陸ほくりくどうかれ2がつ初旬しょじゅんには東進とうしん開始かいしした。

西国さいこくおよび東海とうかい北陸ほくりく状況じょうきょう

編集へんしゅう

西日本にしにほんでは、しん政府せいふぐん佐幕さばくしょはんとのあいだでは福山ふくやまはん藩主はんしゅ阿部あべ正方せいほう急逝きゅうせいにより態度たいど表明ひょうめいおくれた)をのぞきほとんど戦闘せんとうきず、しょはん次々つぎつぎしん政府せいふ降伏ごうぶく協力きょうりょくもうた。東海とうかい地方ちほうおよび北陸ほくりく地方ちほうでは尾張おわりはん勤皇きんのう誘引ゆういん使しょはん代官だいかんへおくり勤皇きんのう証書しょうしょさせ日和見ひよりみてき立場たちばから中立ちゅうりつ成功せいこうした。これらの西国さいこくはんたいし、じゅうへい砲兵ほうへい以外いがい騎士きしゆみやりへい従者じゅうしゃ禁止きんしし、しん政府せいふ中央ちゅうおう司令しれいによる軍事ぐんじ編成へんせい介入かいにゅうにより一挙いっきょ近代きんだいぐん強制きょうせいしてしょはんしたがわざるをなかった[15]

東海とうかい

編集へんしゅう

鳥羽とば伏見ふしみせん直前ちょくぜんの1がつ2にちしん政府せいふ近江おうみ方面ほうめんからきゅう幕府ばくふぐん京都きょうとはさちにされることを警戒けいかいして橋本はしもとみのるはり大津おおつ防衛ぼうえいめいじて、先発せんぱつとして大村おおむらはんへいが3にち大津おおつはいる。きゅう幕府ばくふぐん大津おおつ侵攻しんこう回避かいひしたために京都きょうとはさちにされる危険きけんせい減少げんしょうした5にちしん政府せいふあらためて橋本はしもと東海道とうかいどう鎮撫ちんぶ総督そうとくにんじた。ところが、東海道とうかいどう沿いの佐幕さばくはんとしてしん政府せいふ警戒けいかいされていた彦根ひこねはんがこの段階だんかい尊王そんのうはんろん転換てんかんさせて大津おおつ防衛ぼうえい援軍えんぐん派遣はけんしておりどうはんへの出兵しゅっぺい必要ひつようせいがなくなったことから、9にちには大津おおつにて桑名くわなはん征討せいとううつった。膳所ぜぜはん水口みずぐちはん協力きょうりょくもあって大津おおつなどみなみ近江おうみ一帯いったいしん政府せいふ掌握しょうあくかれると、本格ほんかくてき東進とうしん開始かいしされ、22にち四日市よっかいち東海道とうかいどうぐん到着とうちゃくすると桑名くわなはんたたかわずに開城かいじょうした。藩主はんしゅからわれた松平まつだいらじょうけい国許くにもとにはかえらずはこかんまで戦争せんそうつづけた。尾張おわりはんでは20日はつか藩主はんしゅちち徳川とくがわ慶勝よしかつの「朝命ちょうめいによりたまわる」とのいのちにより年寄としよりれつ渡辺わたなべざいつなふくむ3重臣じゅうしんおよび11藩士はんし処刑しょけいされるというあお松葉まつば事件じけんき、はんろん尊王そんのう一本いっぽんされた。2月になると東海道とうかいどう鎮撫ちんぶ総督そうとく東海道とうかいどう先鋒せんぽう総督そうとくけん鎮撫ちんぶ使あらためられて東進とうしん開始かいし東海道とうかいどう最大さいだい雄藩ゆうはんである尾張おわりはん東海道とうかいどうしょはん代官だいかん旗本はたもとりょう勤王きんのう誘引ゆういん使おくり、勤王きんのう証書しょうしょ提出ていしゅつさせ2がつまつまでに小田原おだわらはん以西いせいすべてのはん恭順きょうじゅん国学こくがくしゃのネットワークから遠江とおとうみ駿河するが報国ほうこくたい結成けっせいされた。おおきな混乱こんらんもなく駿府すんぷすすむがここで資金しきん不足ふそく露呈ろていする。

東山ひがしやまみち中山道なかせんどう

編集へんしゅう

1がつ9にち岩倉いわくら具定ぐじょう東山ひがしやまみち鎮撫ちんぶ総督そうとくにんじられ、21にち京都きょうと出発しゅっぱつした。なお、大垣おおがきはん鳥羽とば伏見ふしみたたかいではきゅう幕府ばくふぐんぞくしていたが、直後ちょくごしん政府せいふたいしてしんいことを表明ひょうめいして東山ひがしやまみちぐん先鋒せんぽうとなっている。東山ひがしやまみち中山道なかせんどうすじしょはん定府じょうふ大名だいみょうおおく、江戸えど居住きょじゅうそのものがきゅう幕府ばくふへの加担かたんとしての疑惑ぎわくたれたことから、沿道えんどうしょはん対応たいおう苦慮くりょした。だが、おおくのはんでは国元くにもとでは抵抗ていこうおこなわず、藩主はんしゅ鎮撫ちんぶ総督そうとく恭順きょうじゅん意思いししめしたことで一旦いったんくだされた謹慎きんしん所領しょりょう没収ぼっしゅうなどの処分しょぶん解除かいじょされている。むしろ、北関東きたかんとうはいると、しょはんへの対応たいおうよりも同地どうちにおいて発生はっせいした世直よなお一揆いっきなどのうごきへの対応たいおうせまられることになった。

北陸ほくりくどう

編集へんしゅう

北陸ほくりくどう鎮撫ちんぶ総督そうとく高倉たかくら小浜おばまはん酒井さかいただしろく先鋒せんぽうとして越前えちぜん加賀かが能登のと越中えっちゅう越後えちご日本海にほんかいがわ北上ほくじょうした。

丹波たんば山陰さんいんどう

編集へんしゅう

すでに鳥羽とば伏見ふしみ戦中せんちゅうの1がつ5にちしん政府せいふ西園寺さいおんじ公望きんもち山陰さんいんどう鎮撫ちんぶ総督そうとくにんじて薩摩さつま長州ちょうしゅうはんへいえて丹波たんば進軍しんぐんさせていた。これは佐幕さばく丹波たんば亀山かめやまはん帰順きじゅんおよびとり伏見ふしみ敗戦はいせんした場合ばあい退路たいろ確保かくほ目的もくてきとしたものだったが、園部そのべはん篠山しのやまはん田辺たなべはん福知山ふくちやまはんなどが次々つぎつぎしん政府せいふぐん降伏ごうぶく。そのまま丹後たんごはい宮津みやづはん開城かいじょうさせたのち、因幡いなばとおって出雲いずもすすみ、2がつ下旬げじゅんには佐幕さばく松江まつえはんをも降伏ごうぶくさせ、山陰やまかげ無血むけつしん政府せいふ傘下さんかしたがえた。

四国しこく状況じょうきょう

編集へんしゅう

おおやけ政体せいたいから勤皇きんのうむねとする武力ぶりょく討幕とうばくはんろん統一とういつした土佐とさ藩士はんし板垣いたがき退助たいすけ迅衝たい主力しゅりょく部隊ぶたいとして、丸亀まるがめはん多度津たどつはん協力きょうりょくして、讃岐さぬききゅう幕府ばくふかた高松たかまつはん進軍しんぐん戦意せんい喪失そうしつした高松たかまつはんがわ家老がろう2めい切腹せっぷくめいじ、正月しょうがつ20にち降伏ごうぶくおよんだ。27にちにはのこ伊予いよ松山まつやまはん開城かいじょうし、四国しこく無血むけつ開城かいじょうさせて勤皇きんのう支持しじ統一とういつされた。

ところが、よく28にちになって伊予いよ松山まつやまじょうちか三津みつづはま堅田かただ大和やまとすぎ孫七郎まごしちろうひきいる長州ちょうしゅうはんぐん上陸じょうりくした。これは征討せいとうにおける土佐とさはん長州ちょうしゅうはん合意ごういもとづく出兵しゅっぺいだった。しかし、この情報じょうほうらされていなかった土佐とさはん本国ほんごく部隊ぶたいどうはん四国しこく進出しんしゅつ目論もくろむものとかんがえてはげしく反発はんぱつして協力きょうりょく拒絶きょぜつした。しん政府せいふ内部ないぶ調整ちょうせいによって最終さいしゅうてき四国しこくかんしては土佐とさはん一任いちにんすることとなり、3月3にち長州ちょうしゅうはんぐん三津みつづはまから撤退てったいして本州ほんしゅう帰還きかんした[16]

中国ちゅうごく状況じょうきょう

編集へんしゅう

長州ちょうしゅうはんへい上京じょうきょう途中とちゅうの1がつ9にち備後びんご福山ふくやまはんりょう侵入しんにゅう福山ふくやまじょう砲撃ほうげきくわえ、籠城ろうじょうする福山ふくやまはんへい銃撃じゅうげきせん開始かいしするが、家老がろう三浦みうらよしけんおよび御用ごようがかり関藤せきふじ藤陰とういん長州ちょうしゅう恭順きょうじゅんしめしたことから、勤王きんのう誓詞せいし提出ていしゅつさせた。またしん政府せいふ征討せいとうれいけた備前びぜんはんが15にち備中びっちゅう松山まつやまはん派兵はへいするが、執政しっせい山田やまだかたたにしろ無血むけつ開城かいじょうした。姫路ひめじはん藩主はんしゅ酒井さかいただしあつし老中ろうじゅう)が慶喜よしのぶとも江戸えど脱走だっそうして留守るすで、ざいはん家臣かしん降伏ごうぶくしている。

九州きゅうしゅう情勢じょうせい

編集へんしゅう

1がつ14にち長崎ながさき奉行ぶぎょう河津かわづゆうくにひそかに脱走だっそうし、佐賀さがはん大村おおむらはん薩摩さつまはん福岡ふくおかはんなどのしょはんにより長崎ながさき会議かいぎしょ構成こうせいされ、治安ちあん担当たんとうした。しん政府せいふからはさわ宣嘉のぶよし派遣はけんされ、九州きゅうしゅう鎮撫ちんぶ総督そうとくけん外国がいこく事務じむ総督そうとくにんぜられて長崎ながさきはいった。日田ひた代官だいかんしょにあった西国さいごく郡代ぐんだい窪田くぼた鎮勝は17にち脱走だっそう周辺しゅうへんしょはん接収せっしゅうし、うるう4がつには日田にったけん設置せっちされた。老中ろうじゅう小笠原おがさわら長行おさゆき世子せいしとする唐津からつはん討伐とうばつ対象たいしょうとなったが、松方まつかた正義まさよしがこれをおさえ、藩主はんしゅ小笠原おがさわら長国ながくに長行おさゆきとの養子ようし関係かんけい義絶ぎぜつするとともに降伏ごうぶくねがた。天草てんぐさ幕府ばくふりょうほどなく薩摩さつま肥後ひごはんによって接収せっしゅうされている。また、これとはべつ薩摩さつまはん勤王きんのうしん政府せいふへの支持しじ表明ひょうめいする誓書せいしょ提出ていしゅつ対馬つしまはん以外いがい九州きゅうしゅうぜんはんもとめ、2がつまつまでに唐津からつはん鳥羽とば伏見ふしみたたかいで敵対てきたいしたとされた延岡のべおかはん佐幕さばくである高鍋たかなべはん府内ふないはんふくめたぜんはんがこれにおうじており、この時点じてん九州きゅうしゅうしょはんすべ勤王きんのうてんじたとえる[17]のこされた延岡のべおかはん朝敵ちょうてき認定にんてい解除かいじょ問題もんだいも4がつ藩主はんしゅ内藤ないとうまさしきょ上京じょうきょうして短期たんき謹慎きんしんのち赦免しゃめんされたことで解決かいけつされることになった。

江戸えどへの進軍しんぐん

編集へんしゅう

甲州こうしゅう勝沼かつぬまおよびしゅう梁田やなだたたか

編集へんしゅう
 
錦絵にしきえ勝沼かつぬまえき近藤こんどういさむ驍勇
 
つて『1860ねん くわこう碇泊ていはくちゅう咸臨丸かんりんまる

江戸えど到着とうちゃくした徳川とくがわ慶喜よしのぶは、1がつ15にち幕府ばくふ主戦しゅせん中心ちゅうしん人物じんぶつ小栗おぐり忠順ただまさ罷免ひめん。さらに2がつ12にち慶喜よしのぶ江戸城えどじょう上野うえの寛永寺かんえいじ謹慎きんしんし、明治天皇めいじてんのう反抗はんこうする意志いしがないことをしめした。

一方いっぽう朝敵ちょうてき宣告せんこくけた会津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもりは、本拠地ほんきょち会津あいづもどった。容保かたもりしん政府せいふ哀訴あいそ嘆願たんがんしょ提出ていしゅつ天皇てんのうへの恭順きょうじゅん姿勢しせいしめしたが、しん政府せいふ権威けんいみとめず、武装ぶそうかず、もとめられていた出頭しゅっとう謝罪しゃざいもしなかった。その一方いっぽうで、さき江戸えどでの薩摩さつまはん騒乱そうらん行為こういまったことでしん政府せいふから標的ひょうてきにされていた庄内しょうないはん藩主はんしゅ酒井さかい忠篤ただあつは、会津あいづはんかいしょう同盟どうめい結成けっせいし、薩長さっちょう同盟どうめい対抗たいこうする準備じゅんびすすめた。きゅう幕府ばくふぞくした人々ひとびとは、あるいは国許くにもと謹慎きんしんし、またあるいは慶喜よしのぶしたがい、またあるいははんしん政府せいふ立場たちばから会津あいづはんとうたよ東北とうほく地方ちほうのがれた。

しん政府せいふ有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうだい総督そうとくとした東征とうせいぐんつくり、東海道とうかいどうぐん東山ひがしやまみちぐん北陸ほくりくどうぐんの3ぐんかれ江戸えどけて進軍しんぐんした。

きゅう幕府ばくふぐん近藤こんどういさむらがひきいるきのえよう鎮撫ちんぶたいきゅう新撰しんせんぐみ)をつくり、甲府こうふじょう防衛ぼうえい拠点きょてんとしようとした。しかし東山ひがしやまどうすす信州しんしゅうにあった土佐とさ藩士はんし板垣いたがき退助たいすけ薩摩さつま藩士はんし伊地知いじち正治しょうじひきいるしん政府せいふぐんやく400にんは、板垣いたがきひきいる迅衝たい甲州こうしゅうかい、きのえよう鎮撫ちんぶたいよりさき甲府こうふじょう到着とうちゃくじょう接収せっしゅうした。きのえよう鎮撫ちんぶたい甲府盆地こうふぼんちへいすすめたが、慶応けいおう4ねん3月6にちどう3月29にち)、西郷さいごう隆盛たかもりより開戦かいせん伝令でんれいけたばかりで結束けっそくたか迅衝たい新撰しんせんぐみ撃退げきたいした。新撰しんせんぐみ局長きょくちょう近藤こんどういさむ偽名ぎめい使つかって潜伏せんぷくしたが、のちしん政府せいふ捕縛ほばくされ処刑しょけいされた。武田たけだ遺臣いしん構成こうせいされた八王子はちおうじせんにんたい慶応けいおう4ねん3月11にち(1868ねん)に八王子はちおうじにて武器ぶき降伏ごうぶく

一方いっぽう東山ひがしやまどうすすんだ東山ひがしやまみちぐん本隊ほんたいは、3月8にちたけしゅう熊谷くまがや宿やど到着とうちゃく、3月9にちちかくの梁田やなだ宿やどげん足利あしかが)で宿泊しゅくはくしていたきゅう幕府ばくふ歩兵ほへいたい脱走だっそう部隊ぶたい衝鋒たい)にたいして、朝霧あさぎりまぎれてさんぽうからの奇襲きしゅう攻撃こうげきをしかけた。幕府ばくふぐん・900にんあまり応戦おうせんし、梁田やなだ宿やど一帯いったい市街しがいせんこった。最終さいしゅうてきには幕府ばくふぐん敗北はいぼく決着けっちゃくがついた。このたたかいは梁田やなだ戦争せんそうともばれ、戊辰戦争ぼしんせんそう東日本ひがしにっぽんにおける最初さいしょたたかいとしょうされる[18]

江戸城えどじょう無血むけつ開城かいじょう

編集へんしゅう

駿府すんぷ進軍しんぐんしたしん政府せいふ3月6にちどう3月29にち)のぐん江戸城えどじょうそう攻撃こうげきを3がつ15にちとした。しかし条約じょうやく諸国しょこく戦乱せんらん貿易ぼうえき悪影響あくえいきょうとなることをおそれ、イギリス公使こうしハリー・パークスしん政府せいふ江戸えど攻撃こうげき中止ちゅうしもとめた。しん政府せいふ維持いじにはしょ外国がいこくとの良好りょうこう関係かんけい必要ひつようだった。また武力ぶりょくもちいた関東かんとう平定へいていには躊躇ちゅうちょする意見いけんがあった。江戸えどそう攻撃こうげき中止ちゅうしとする命令めいれい周知しゅうちされた。

恭順きょうじゅんとしてきゅう幕府ばくふ全権ぜんけん委任いにんされた陸軍りくぐん総裁そうさいかつ海舟かいしゅうは、幕臣ばくしん山岡やまおか鉄舟てっしゅう東征とうせいだい総督そうとくしも参謀さんぼう西郷さいごう隆盛たかもり使者ししゃとしてけて会談かいだん西郷さいごうより降伏ごうぶく条件じょうけんとして、徳川とくがわ慶喜よしのぶ備前びぜんあづけ、武器ぶき軍艦ぐんかん引渡ひきわたしをつたえられた。西郷さいごう3月13にちどう4がつ5にち)、高輪たかなわ薩摩さつま藩邸はんていはいり、同日どうじつからかち西郷さいごうあいだ江戸えど開城かいじょう交渉こうしょうおこなわれた。なお交渉こうしょうした場所ばしょ諸説しょせつあり、池上本門寺いけがみほんもんじ東屋あずまやでも記録きろくのこっている。翌日よくじつ3月14にちどう4がつ6にち)、高輪たかなわ薩摩さつま藩邸はんていかちは「慶喜よしのぶ隠居いんきょうえ水戸みとにて謹慎きんしんすること」「江戸城えどじょうわたしののち即日そくじつ田安たやすあづけること」とうきゅう幕府ばくふとしての要求ようきゅう事項じこうつたえ、西郷さいごう総督そうとくにて検討けんとうするとして15にちそう攻撃こうげき中止ちゅうしとなった。結果けっか4がつ4にち (旧暦きゅうれき)どう4がつ26にち)に勅使ちょくし先鋒せんぽう総督そうとく橋本はしもとみのるはりどうふく総督そうとく柳原やなぎはら前光さきみつ)が江戸城えどじょうはいり、「慶喜よしのぶ水戸みとにて謹慎きんしんすること」「江戸城えどじょう尾張おわりあづけること」とうとした条件じょうけん勅諚ちょくじょうとしてつたえ、4がつ11にちどう5月3にち)に江戸城えどじょう無血むけつ開城かいじょうされ、しろ尾張おわりはん武器ぶき肥後ひごはん監督かんとくかれることになった。同日どうじつ慶喜よしのぶ水戸みとけて出発しゅっぱつした。4がつ21にちどう5月13にち)には東征とうせいだい総督そうとくである有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう江戸城えどじょう入城にゅうじょうして江戸城えどじょうしん政府せいふ支配しはいはいった。

船橋ふなばしたたか

編集へんしゅう

慶応けいおう4ねん(1868ねん)4がつ11にちおこなわれた江戸城えどじょう無血むけつ開城かいじょうしたがわぬきゅう幕臣ばくしん一部いちぶやく2000にん千葉ちば方面ほうめん逃亡とうぼう船橋ふなばし大神宮だいじんぐうじんをはり、うるう4がつ3にち5月24にち)に市川いちかわ鎌ケ谷かまがや船橋ふなばし周辺しゅうへんしん政府せいふぐんやく800にん衝突しょうとつした。このたたかいは最初さいしょかずまさきゅう幕府ばくふぐん有利ゆうりだったが、戦況せんきょうしん装備そうびゆうするしん政府せいふぐんへとかたむき、しん政府せいふがわ勝利しょうりまくじた。このたたかいは、江戸城えどじょう無血むけつ開城かいじょう南関東みなみかんとう地方ちほうにおける最初さいしょ本格ほんかくてき戦闘せんとう上野うえの戦争せんそう同年どうねん5がつ15にち)であり、しん政府せいふがわにとってはきゅう幕府ばくふぐん江戸えど奪還だっかん挫折ざせつ関東かんとうしょはんしん政府せいふへの恭順きょうじゅんうごかしたてんでの意義いぎおおきい。

房総ぼうそう方面ほうめん

編集へんしゅう

そのしん政府せいふぐんきゅう幕府ばくふぐん追撃ついげきして、うるう4がつ6にち5月27にち)から翌日よくじつにかけての五井ごい戦争せんそうでも勝利しょうりおさめた。

一方いっぽう鳥羽とば伏見ふしみたたかいできゅう幕府ばくふぐん総督そうとくであった大多喜おおたき藩主はんしゅ松平まつだいらただししつ徳川とくがわ慶喜よしのぶから江戸城えどじょう登城とじょう禁止きんしされたのち本国ほんごく帰国きこくして謹慎きんしん状態じょうたいにあったが、うるう4がつ11にち大多喜おおたきしろ無血むけつ開城かいじょうした。大多喜おおたきじょう佐倉さくらはんのち三河みかわ吉田よしだはん)に接収せっしゅうされ、藩主はんしゅ松平まつだいらただししつ佐倉さくら幽閉ゆうへいされたが、藩主はんしゅ家臣かしんしん政府せいふぐん抵抗ていこうせずにしろわたしたことが考慮こうりょされ、せいしつは8がつ19にち所領しょりょう回復かいふく、10月23にちには官位かんいもともどされ、事実じじつじょう処分しょぶんめんぜられてはん存続そんぞくみとめられた[19]

ところが、おなごろ木更津きさらづのがれていたきゅう幕府ばくふぐんゆうげきたいさそいをけた請西じょうざいはんおもはやしただしたかしうるう4がつ3にちみずか脱藩だっぱんしてゆうげきたい合流ごうりゅうしてしまうことになる。

宇都うと宮城みやぎたたか

編集へんしゅう

江戸城えどじょう開城かいじょうしたもののきゅう幕府ばくふかた残党ざんとう勢力せいりょく徳川とくがわ聖地せいちである日光にっこうびょうこもってへいつのり、そこでしん政府せいふぐんやく700にんたたかうつもりで大挙たいきょして江戸えど脱走だっそう下野げやこく日光にっこうさん目指めざしていた。一方いっぽうときおなじくして当時とうじ下野げやこくきていた世直よなお一揆いっき鎮圧ちんあつするために東山ひがしやまみち総督そうとく下野げやこく宇都宮うつのみや派遣はけんしていた下野げや鎮撫ちんぶ香川かがわ敬三けいぞう総督そうとく大軍たいぐんかん)は、手勢てぜい日光にっこう道中どうちゅう北上ほくじょうちゅう武蔵むさしこく粕壁かすかべ下総しもうさこく流山ながれやま新撰しんせんぐみひそんでいるうわさ有馬ありま藤太とうた派遣はけんして近藤こんどういさむ捕縛ほばくした。近藤こんどう板橋いたばしおくられたが、香川かがわはそのまま行軍こうぐんつづ宇都宮うつのみや駐屯ちゅうとんした。世直よなおしが沈静ちんせいした直後ちょくごの4がつ12にち大鳥おおとり圭介けいすけ伝習でんしゅうたい幕府ばくふ歩兵ほへいだいなな連隊れんたい回天かいてんたい新撰しんせんぐみなど総勢そうぜい2,000にん軍隊ぐんたいれて下総しもふさこく市川いちかわ日光にっこうけて出発しゅっぱつ途中とちゅう松戸まつど小金こがね宿やどから2かれ、香川かがわ駐屯ちゅうとんする宇都うづ宮城みやぎ挟撃きょうげき出立しゅったつした。これをいた宇都宮うつのみや香川かがわ敬三けいぞうは、一部いちぶ部隊ぶたいれてこれを小山こやまむかった。へいすう装備そうびまさきゅう幕府ばくふぐんはこれに勝利しょうり、4がつ19にちには宇都宮うつのみやきゅう幕府ばくふぐんしん政府せいふぐん勢力せいりょく激突げきとつした。翌日よくじつにはきゅう幕府ばくふぐん宇都うと宮城みやぎ占領せんりょうするも、宇都宮うつのみやから一時いちじ退却たいきゃく東山ひがしやまどう総督そうとくぐん援軍えんぐん合流ごうりゅう大山おおやまいわお伊地知いじち正治しょうじ統率とうそつするしん政府せいふぐんうばかえされ、もともと目指めざしていた聖地せいち日光にっこうでの決戦けっせんそなえるべく退却たいきゃくした。

上野うえの戦争せんそう

編集へんしゅう
 
110ポンド(7インチ)アームストロングほう
 
上野うえの戦争せんそう画題がだいは『本能寺ほんのうじ合戦かっせん』となっているが、実際じっさいには上野うえの戦闘せんとうえがいている。
 
赤熊しゃぐまかぶものをしてたたか土佐とさはんの迅衝たい上野うえの合戦かっせん

徳川とくがわ慶喜よしのぶ謹慎きんしんしていた上野うえの寛永寺かんえいじには、江戸えど無血むけつ開城かいじょうによって江戸えど治安ちあん統括とうかつする組織そしきとして認定にんていされていたきゅう幕府ばくふ勢力せいりょくあきらたいがあった。この存在そんざい幕府ばくふ主戦しゅせんから“裏切うらぎものばわりをされていたかつ海舟かいしゅうにとって、一定いってい成果せいかではあった。しかし実際じっさいかれらはしん政府せいふへの対抗たいこう姿勢しせいしめし、しん政府せいふぐん兵士へいしへの集団しゅうだん暴行ぼうこう殺害さつがいかえした。かちとの江戸城えどじょう会談かいだん当事とうじしゃとなった西郷さいごう隆盛たかもりは、あきらたいをどうにか懐柔かいじゅうしようとしていた幕府ばくふ恭順きょうじゅんであるがちとの関係かんけい手前てまえ対応たいおうぬるいとの批判ひはんけた。だい総督そうとく西郷さいごう司令しれいかんから解任かいにんし、長州ちょうしゅう藩士はんし大村おおむら益次郎えきじろうしん司令しれいかん任命にんめい大村おおむら海江田かいえだ信義のぶよし慎重しんちょうせいして、武力ぶりょくによる殲滅せんめつ主張しゅちょうした。しん政府せいふがわは、1868ねん5がつ1にちあきらたい江戸えどちゅう取締とりしまりにんくことを通告つうこくしん政府せいふ自身じしんあきらたい武装ぶそう解除かいじょたるむね布告ふこくした。これによりあきらたいとの衝突しょうとつ事件じけん上野うえの近辺きんぺん頻発ひんぱつした。

東北とうほく地方ちほう北海道ほっかいどうおよび新潟にいがた仙台せんだいはん藩主はんしゅ伊達だてけいくにらにより奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいされた2週間しゅうかん5月15にちどう7がつ4にち)、しん政府せいふぐんやく10000にんあきらたいやく4000にん攻撃こうげきし、上野うえの戦争せんそうはじまった。しん政府せいふぐん佐賀さがはん装備そうびしたしん兵器へいきアームストロングほう活用かつようし、あきらたいねらちにした。あきらたいはなすじゅつもなく崩壊ほうかいし、上野うえの戦争せんそうはたった1にちしん政府せいふぐん圧勝あっしょうとなった。

箱根はこね戦争せんそう

編集へんしゅう

東海道とうかいどう小田原おだわら以西いせいしょはんしん政府せいふたいして恭順きょうじゅんしたため、東征とうせいぐん通過つうか当初とうしょ戦闘せんとうきなかった。しかし、はやしただしたかしひきいる請西じょうざいはんへいおよびゆうげきたい中核ちゅうかくとするきゅう幕府ばくふがわ武装ぶそう勢力せいりょく房総半島ぼうそうはんとうから江戸えどわん横断おうだんして、うるう4がつ15にち真鶴まなづる半島はんとう上陸じょうりくした。しょはん脱走だっそうしゃとうくわわってその兵力へいりょくやく300にんたっし、小田原おだわらはん韮山にらやま代官だいかん協力きょうりょくはたらきかけた。しん政府せいふぐんりんゆうげきたいあきらたい呼応こおうして行動こうどうすることを警戒けいかいし、上野うえの戦争せんそう直後ちょくご旧暦きゅうれき5がつ18にち(1868ねん7がつ7にち)に小田原おだわらはんたいして鎮圧ちんあつ準備じゅんびめいじた。事態じたいったゆうげきたいがわ箱根はこねせき小田原おだわらはんへい中津なかつはんへい攻撃こうげきすると、小田原おだわらはん一時いちじてき佐幕さばく方針ほうしん転換てんかんしてゆうげきたい小田原おだわら城下じょうかまねれた。その旧暦きゅうれき5がつ24にちいたって小田原おだわらはんしん政府せいふがわはんろんもどり、りんゆうげきたいらは小田原おだわらはんへい追撃ついげきけつつ館山たてやまなどへ海路かいろ撤退てったいした[20]

東北とうほく戦争せんそう

編集へんしゅう
 
会津若松あいづわかまつ祭典さいてんにて列藩れっぱん同盟どうめいかかげる旗手きしゅ


文久ぶんきゅう改革かいかく京都きょうと守護しゅごしょくおよび京都きょうと所司代しょしだいとして京都きょうと治安ちあん担当たんとうしていた会津あいづはん藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもりおよび桑名くわなはん藩主はんしゅ松平まつだいらじょうけい兄弟きょうだいは、京都きょうと見廻組みまわりぐみおよび新撰しんせんぐみもちいて尊王そんのう攘夷じょうい弾圧だんあつおこない、尊王そんのう攘夷じょうい・のちのしん政府せいふ薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん)からうらみをっていた。また鳥羽とば伏見ふしみたたかいにおいて会津あいづはん桑名くわなはんきゅう幕府ばくふぐん主力しゅりょくとなり、この敗北はいぼくによって朝敵ちょうてき認定にんていされていた。

また江戸えど薩摩さつま藩邸はんてい焼討やきうち事件じけんでの討伐とうばつ担当たんとうした庄内しょうないはん藩主はんしゅ酒井さかい忠篤ただあつは、しん政府せいふによって会津あいづはんへの報復ほうふく同様どうよう報復ほうふくがなされることを予期よきし、以後いごりょうはん連携れんけいしん政府せいふ対抗たいこうすることとなった(かいしょう同盟どうめい)。

奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい成立せいりつ

編集へんしゅう

慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ17にち鳥羽とば伏見ふしみたたかいで勝利しょうりしたしん政府せいふは、東北とうほく地方ちほう大国たいこくである仙台せんだいはん藩主はんしゅ伊達だてけいくに会津あいづはん追討ついとう命令めいれいした。しかし仙台せんだいはん行動こうどうしなかった。

2がつ25にち庄内しょうないはん使者ししゃしん政府せいふ派遣はけんした。しん政府せいふ徳川とくがわ慶喜よしのぶあるいは会津あいづはんたいする追討ついとうぐんへの参加さんか要求ようきゅう旗幟きし鮮明せんめいにすることをせまったが、使者ししゃぐんへの参加さんか拒絶きょぜつした。会津あいづはん嘆願たんがんしょ天皇てんのうへの恭順きょうじゅん表明ひょうめいしたが、しん政府せいふ権威けんいみとめず謝罪しゃざいもせず武装ぶそうかなかった。これらの行動こうどう会津あいづ天皇てんのうへの“武装ぶそう恭順きょうじゅん”なのだと主張しゅちょうするせつもある。

3月22にちしん政府せいふへの敵対てきたい姿勢しせいつづけていた会津あいづはんおよび庄内しょうないはん討伐とうばつする目的もくてきで、奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくおよびしん政府せいふぐん仙台せんだい到着とうちゃくした。主要しゅよう人物じんぶつとしては総督そうとく九条くじょうみちこうふく総督そうとくさわためりょう参謀さんぼう醍醐だいご忠敬ちゅうけいしも参謀さんぼう世良せら修蔵しゅうぞう長州ちょうしゅうはん)と大山おおやまつなりょう薩摩さつまはん)がいる。3月29にち奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくは、仙台せんだいはん米沢よねざわはんをはじめとする東北とうほく地方ちほうしょはん会津あいづはんおよび庄内しょうないはんへの追討ついとうめいじた。

4がつ19にち藩主はんしゅ伊達だてけいくにひきいる仙台せんだいはん軍勢ぐんぜい会津あいづはんりょうはいり、戦闘せんとう状態じょうたいになった。一方いっぽう仙台せんだいはんは3がつ26にち会津あいづはん降伏ごうぶく勧告かんこくおこない、4がつ21にち会津あいづはん仙台せんだいはん降伏ごうぶくした。降伏ごうぶく条件じょうけんは、会津あいづはん武装ぶそう維持いじしん政府せいふりをゆるさない条件じょうけん松平まつだいら容保かたもりしろがい退去たいきょ謹慎きんしんすることおよび会津あいづはんそぎふうじ、という内容ないようだった。しかし数日すうじつ会津あいづはん仙台せんだいはん合意ごういひるがえ内容ないよう嘆願たんがんしょわたし、これを仙台せんだいはん会津あいづはん説得せっとくをあきらめた。

4がつ23にち奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくふく総督そうとくさわためりょうおよびしも参謀さんぼう大山おおやまつなりょうひきいるしん政府せいふぐんは、庄内しょうないはん攻撃こうげきするため仙台せんだいから出陣しゅつじんした。しかし庄内しょうないはんしん政府せいふぐん撃退げきたいし、うるう4がつ4にち庄内しょうないはん天童てんどうじょうとした。

4がつ19にちうるうではなくうるう4がつ1にち以前いぜん事件じけん)、関東かんとう地方ちほう大鳥おおとり圭介けいすけらのひきいるきゅう幕府ばくふぐん宇都うと宮城みやぎ一時いちじ占領せんりょうした。このほう東北とうほく地方ちほうつたわると、仙台せんだいはんでは会津あいづはん庄内しょうないはん協調きょうちょうしん政府せいふ敵対てきたいすべきという意見いけん多数たすうとなった。うるう4がつ4にち仙台せんだいはん主席しゅせき家老がろう但木ただき成行しげゆき主導しゅどう奥羽おうう14はん会議かいぎひらき、この状態じょうたいでの会津あいづはん庄内しょうないはんへの赦免しゃめん嘆願たんがんしょ提出ていしゅつした。要求ようきゅうれられない場合ばあいしん政府せいふぐん敵対てきたい排除はいじょするという声明せいめいけられていた。会津あいづはん庄内しょうないはん恭順きょうじゅん姿勢しせいせていなかったため、うるう4がつ17にちしん政府せいふ嘆願たんがんしょ却下きゃっかした。奥羽おうう14はんはこれを不服ふふくとして征討せいとうぐん解散かいさん決定けっていした。


うるう4がつ21にち薩摩さつま藩士はんし鮫島さめしまきむ兵衛ひょうえぐんかんとして出羽でわこくへの援軍えんぐん盛岡もりおかはんへいとも七北田ななきた宿やどまでると、仙台せんだいはん盛岡もりおかはん進軍しんぐんさえぎった。仙台せんだいはん目付めつけ熊谷くまがい齋宮いつきのみや鈴木すずき直記なおきは、盛岡もりおかはんへい隊長たいちょう沢田さわだひとし安寧あんねい留守居るすい遠山とおやまあやぞう明則あきのりに、鮫島さめしま薩摩さつま藩士はんしなので奥羽おううのためによろしくないものだから捕縛ほばくしてわたすようにとつたえたが、盛岡もりおかはんことわって物別ものわかれにわった。その仙台せんだいはんからつづ盛岡もりおかはんへい進軍しんぐん遅延ちえんさせるむね手紙てがみとどいたので、鮫島さめしまきむ兵衛ひょうえきゅうじょう総督そうとく相談そうだんしようと出発しゅっぱつしたところを、(せていた)仙台せんだいはん小人こどもくみの5にん殺害さつがいされ(路傍ろぼうめられ)

た。仙台せんだいはん戦端せんたんひらくのをけ、盛岡もりおかはんへい撤兵てっぺいした[21]

うるう4がつ22にち薩摩さつま藩士はんし内山うちやまみぎ衛門えもんつな、その従者じゅうしゃ太郎たろう薩摩さつま藩士はんし西田にしだじゅう太郎たろうの3にんが、弾薬だんやくなど7はねしゅうはこ途中とちゅうだい深沢ふかさわで、但木ただき土佐とさ命令めいれいけた仙台せんだい藩士はんし荒井あらい平之ひらのすすむ橋本はしもとゆたかこれしんせまかわ公平こうへいと、小人こどもぐみ松田まつだ三四郎さんしろう小田おだ五郎ごろうの5にんに(せされて)斬殺ざんさつされた。くび荒井あらい仙台せんだいまでかえり、七北田ななきた刑場けいじょうてた[21]

これと並行へいこうして仙台せんだいはん米沢よねざわはん中心ちゅうしんに、会津あいづはん庄内しょうないはん赦免しゃめん嘆願たんがんしょのための会議かいぎしん政府せいふ敵対てきたいする軍事ぐんじ同盟どうめい改変かいへんさせる工作こうさくおこなわれた。赦免しゃめん嘆願たんがんしょしん政府せいふ拒否きょひされたので天皇てんのう直接ちょくせつ建白けんぱくおこな方針ほうしん変更へんこうされた。うるう4がつ23にちあらたに11はんくわえて白石しらいし盟約めいやくしょ調印ちょういんされた。さらにのちに25はんによる奥羽おうう列藩れっぱん盟約めいやくしょ調印ちょういんした。会津あいづ庄内しょうないりょうはんへのひろしてん要望ようぼうした太政官だじょうかん建白けんぱくしょ作成さくせいされた。奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめいには、武装ぶそう中立ちゅうりつみとめられずしん政府せいふぐんとの会談かいだん決裂けつれつした長岡ながおかはんほか新発田しばたはんとう北越ほくえつ同盟どうめい加盟かめい6はん加入かにゅうし、けい31はんによって奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい成立せいりつした。なお、会津あいづ庄内しょうないりょうはん列藩れっぱん同盟どうめいには加盟かめいせずかいしょう同盟どうめいとして列藩れっぱん同盟どうめい協力きょうりょくした。

ここにきゅう幕府ばくふともしん政府せいふともことなる軍事ぐんじ同盟どうめい地方ちほう政府せいふ)が、東北とうほく地方ちほう新潟にいがたけん北海道ほっかいどうの「関東かんとう以北いほく北日本きたにっぽん」に誕生たんじょうした。この地方ちほう政府せいふ政府せいふ最高さいこう意思いし決定けってい機関きかんである「おおやけ」をもち、しょはん共通きょうつう政策せいさく目標もくひょう(戦略せんりゃく)ももっており、さら戊辰戦争ぼしんせんそう最中さいちゅう王寺おうじみや仙台せんだいで「東武とうぶ天皇てんのう」として即位そくいしたため「仙台せんだい朝廷ちょうてい」となった。

それは後醍醐天皇ごだいごてんのう(南朝なんちょう)と足利尊氏あしかがたかうじ(北朝ほくちょう)がたたかった「南北なんぼくあさ時代じだい以来いらいとなる、日本にっぽん史上しじょう重大じゅうだい出来事できごとであった。

またそれは、うなれば、米山よねやまさんこく山脈さんみゃく平潟ひらかた断崖だんがいさかいとして以北いほく地方ちほう分立ぶんりつする出来事できごとである。しかし、これは天皇てんのうへの嘆願たんがん目的もくてきかくはんゆる連合れんごうであり、[よう出典しゅってん]また、恭順きょうじゅんすすめるための会議かいぎ途中とちゅうはんしん政府せいふ目的もくてき軍事ぐんじ同盟どうめい転化てんかしたため、本来ほんらい軍事ぐんじ敵対てきたいかんがえていなかったはんなどかくはん思惑おもわくちがいがあり、統一とういつされた戦略せんりゃくいていた[22]

はなわ王寺おうじみやまぼろし仙台せんだい朝廷ちょうてい

編集へんしゅう

仙台せんだいはん仙台せんだい城下じょうか軟禁なんきんした奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくきゅうじょう総督そうとくらは、列藩れっぱん同盟どうめいにとって重要じゅうような「にしきはた」だった。ところが、九条くじょう総督そうとくらがしん政府せいふがわ佐賀さがはん小倉こくらはんによってだまられてしまうという事件じけんこる。そこで6がつ仙台せんだいはん会津あいづはんは、上野うえの戦争せんそうからのがれてきた孝明天皇こうめいてんのう義弟ぎていりん王寺おうじみやこうげん法親王ほうしんのうきた白川しらかわみや能久親王よしひさしんのう)を仙台せんだい城下じょうかむかれ、はなわ王寺おうじみやを「あらたなにしきはた」として、列藩れっぱん同盟どうめい盟主めいしゅえた。当初とうしょ軍事ぐんじてき要素ようそふく同盟どうめい総裁そうさいへの就任しゅうにん要請ようせいしたが、6月16にち盟主めいしゅのみの就任しゅうにん決着けっちゃくした。

仙台せんだいはん会津あいづはんには、はなわ王寺おうじみやを「東武とうぶ皇帝こうてい」として即位そくいさせる構想こうそうがあった。ただし、史料しりょうかぎられており、はなわ王寺おうじみや即位そくい有無うむには議論ぎろんがある。このしん朝廷ちょうていにおいては、仙台せんだい藩主はんしゅ伊達だてけいくに征夷大将軍せいいたいしょうぐんに、会津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもりせいえびすふく将軍しょうぐん就任しゅうにんする予定よていだったとされる。くわしくは北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう#「東武とうぶ天皇てんのうせつこう参照さんしょう

秋田あきた庄内しょうない戦線せんせん

編集へんしゅう

奥羽おうう鎮撫ちんぶたい集結しゅうけつ

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しん政府せいふから派遣はけんされた奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとく庄内しょうないはんつため、ふく総督そうとくさわためりょうおよびしも参謀さんぼう大山おおやまつなりょう薩摩さつまはん)がひきいるしん政府せいふぐん仙台せんだいから出陣しゅつじんさせた。しかし、だい富豪ふごうほんあいだからの献金けんきんようすすめていた庄内しょうないはんは、戦術せんじゅつ指揮しきすぐれていたためしん政府せいふぐん圧倒あっとうした。その列藩れっぱん同盟どうめい成立せいりつさいし、仙台せんだい駐屯ちゅうとんしていたしも参謀さんぼう世良せら修蔵しゅうぞう長州ちょうしゅうはん)が仙台せんだいはんによって殺害さつがいされ、総督そうとくきゅうじょうどうこう参謀さんぼう醍醐だいご忠敬ちゅうけい軟禁なんきんされた。

しん政府せいふきゅうじょう総督そうとく救出きゅうしゅつのため、佐賀さが藩士はんし前山さきやまちょうじょう前山まえやま清一郎せいいちろうひきいる佐賀さがはんへいおよび小倉こくらはんへい仙台せんだいはん派遣はけんした。うるう4がつ29にち前山さきやましん政府せいふ部隊ぶたいふね仙台せんだい到着とうちゃくすると、この部隊ぶたい薩長さっちょうりょうはんではなかったため、仙台せんだいはん軟禁なんきんしていた総督そうとく要人ようじん前山さきやま部隊ぶたいわたした。こうして仙台せんだいはんは、しん政府せいふきゅうじょう総督そうとくらをだまられてしまった。

6月18にち救出きゅうしゅつされた総督そうとくいちぎょう盛岡もりおかはん到着とうちゃくした。藩主はんしゅ南部なんぶ利剛としひさは1まんりょう献金けんきんしたが、態度たいど曖昧あいまいなままだった。つづいて7がつ1にち総督そうとくいちぎょう久保田くぼたはんはいった。久保田くぼたはん国学こくがくしゃ平田ひらた篤胤あつたね出身しゅっしんという影響えいきょうもあって、尊王そんのう勢力せいりょくたもっていた。総督そうとくいちぎょうは、庄内しょうないはん討伐とうばつのため仙台せんだいらず生存せいぞんしていたさわためりょう大山おおやまつなりょう残存ざんそん部隊ぶたい合流ごうりゅうした。さわためりょうふく総督そうとく分隊ぶんたいひき弘前ひろさきはん説得せっとくのために弘前ひろさきはんにゅうろうとしたが、弘前ひろさきはん列藩れっぱん同盟どうめいによって矢立峠やたてとうげ封鎖ふうさされており、そのためさわ部隊ぶたい久保田くぼたはんとどまっていた。結果けっかてき総督そうとくいちぎょう久保田くぼたはん集結しゅうけつすることになった。

秋田あきた戦争せんそう

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久保田くぼたはんしん政府せいふへの接近せっきんづいた仙台せんだいはんは、久保田くぼたはん使者ししゃ7めい派遣はけんした。しかしきゅうじょう総督そうとく軟禁なんきん仙台せんだいはん世良せら修蔵しゅうぞう殺害さつがいされていた大山おおやまつなりょうかつら太郎たろうらの説得せっとくもあり、久保田くぼたはん尊皇そんのう攘夷じょういは7がつ4にち仙台せんだいはん使者ししゃ盛岡もりおかはん随員ずいいん全員ぜんいん殺害さつがいした。こうして久保田くぼたはん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい離脱りだつし、東北とうほく地方ちほうにおけるしん政府せいふぐん拠点きょてんとなった。

久保田くぼたはんつづいて新庄しんじょうはん本荘ほんじょうはん亀田かめだはん矢島やじまはんしん政府せいふぐん恭順きょうじゅんした。この状況じょうきょうたいして、南方なんぽうへいけようとしていた庄内しょうないはん一部いちぶ部隊ぶたい北方ほっぽう派遣はけんし、7がつ14にち新庄しんじょう藩主はんしゅ戸沢とざわ居城きょじょう新庄しんじょうしろとした。さらに、庄内しょうないはん仙台せんだいはん軍勢ぐんぜい連戦れんせん連勝れんしょうちか状態じょうたいで、久保田くぼたりょう矢島やじまりょう本荘ほんじょうりょう制圧せいあつしていった。総督そうとくりょう放棄ほうきされた亀田かめだはんは、庄内しょうないはん和議わぎむすんで再度さいど列藩れっぱん同盟どうめいぐん参加さんかした。

また、盛岡もりおかはん列藩れっぱん同盟どうめいしん政府せいふがわのどちらの陣営じんえいぞくすかでなが議論ぎろんさだまらなかったが、家老がろう楢山ならやま佐渡さど帰国きこくすると列藩れっぱん同盟どうめいくみすることを決定けっていした。8月9にち盛岡もりおかはん久保田くぼたはんみ、大館おおだてじょう攻略こうりゃくした。

しかし、佐賀さがはん中心ちゅうしんとする援軍えんぐん到着とうちゃくにより久保田くぼたぐんいきおいをかえし、9月7にちには盛岡もりおかぐんはんさかいまでもどした。庄内しょうないはんも、9月12にち上山かみのやまはん降伏ごうぶくしたことで南方なんぽう不安ふあんしたため、17にち退却たいきゃく以後いごりょう防衛ぼうえいてっした。9月22にち会津あいづはん降伏ごうぶくして東北とうほく戦争せんそう勝敗しょうはいがほぼけっすると、同日どうじつ盛岡もりおかはん降伏ごうぶくした。24にち最後さいごまで領内りょうないしん政府せいふぐん侵入しんにゅうゆるさなかった庄内しょうないはんも、亀田かめだはんとともに降伏ごうぶくした。

白河しらかわ戦線せんせん

編集へんしゅう
 
白河しらかわ小峰こみねじょう

北越ほくえつ戦争せんそう

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北越ほくえつ戦争せんそうえがいた浮世絵うきよえ画題がだいは『越後えちごこく上杉うえすぎ景勝かげかつ家督かとくそう合戦かっせん』であるが、とき政府せいふ配慮はいりょして上杉うえすぎ景勝かげかつ景虎かげとら家督かとくあらそい(御館みたてらん)に見立みたててえがいたもの。新潟にいがた県立けんりつ図書館としょかんぞう[23]
 
北越ほくえつ戦争せんそうにおける薩摩さつまはん戦死せんししゃはか新潟にいがたけん上越じょうえつ金谷かなやさん

越後えちごには慶応けいおう4ねん(1868ねん)3がつ9にち開港かいこうされた新潟港にいがたこうがあった。戊辰戦争ぼしんせんそう勃発ぼっぱつともなしん政府せいふ開港かいこう延期えんき要請ようせいしたが、イタリアとプロイセンはしん政府せいふ要請ようせい無視むしし、両国りょうこく商人しょうにん新潟港にいがたこう列藩れっぱん同盟どうめい武器ぶき売却ばいきゃくはじめた。このため新潟港にいがたこう列藩れっぱん同盟どうめいにとって武器ぶき供給きょうきゅうげんとなった。5月2にちしん政府せいふぐん岩村いわむら精一郎せいいちろう恭順きょうじゅん工作こうさく仲介ちゅうかいした尾張おわりはん紹介しょうかいで、長岡ながおかはん河井かわい継之助つぐのすけ会談かいだんした。河井かわいしん政府せいふはんわせていた各種かくしゅ支援しえんれを拒否きょひし、獨立どくりつとくぎょう姿勢しせい会津あいづ説得せっとく猶予ゆうよ嘆願たんがんしたが、岩村いわむらはこれをしん政府せいふ権威けんい否定ひていおよび会津あいづへの時間じかんかせぎとして即時そくじ却下きゃっかした。これにより長岡ながおかはんおよび北越ほくえつしょはんけい6はん列藩れっぱん同盟どうめい参加さんかしたため、しん政府せいふぐん同盟どうめいぐんあいだ戦端せんたんひらかれた。

長岡ながおかはん河井かわいにより兵制へいせい改革かいかくすすめられ武装ぶそう更新こうしんされていた。同盟どうめいぐん河井かわい指揮しき善戦ぜんせんしたが、5月19にち長岡ながおかじょう落城らくじょう。7月25にち同盟どうめいぐん長岡ながおかじょう奪還だっかんしん政府せいふぐん敗走はいそうさせたが(八丁はっちょうおきたたか)、このさい指揮しきっていた河井かわい負傷ふしょうした(のち死亡しぼう)。しん政府せいふぐんはすかさず長岡ながおかじょうさい奪取だっしゅし、4にちの29にち長岡ながおかはんへい撤退てったいした。さらに新発田しばたはん寝返ねがえり、しん政府せいふぐん軍艦ぐんかん上陸じょうりくし、米沢よねざわはんへい会津あいづはんへいまも新潟にいがた陥落かんらくしたため、8がつには越後えちご全域ぜんいきしん政府せいふぐん支配しはいはいった。これによって奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい洋式ようしき武器ぶき供給きょうきゅうげんうしな深刻しんこく事態じたいまれた。同盟どうめいぐん残存ざんそん部隊ぶたいおおくは会津あいづへと敗走はいそうした。

平潟ひらかた戦線せんせん

編集へんしゅう

平潟ひらかた戦線せんせんにおける列藩れっぱん同盟どうめいぐん主力しゅりょく仙台せんだいはんだった。6月16にちから20日はつかにかけてしん政府せいふぐんやく750にん海路かいろ常陸ひたちこく茨城いばらきけん平潟ひらかたこう上陸じょうりくした。列藩れっぱん同盟どうめいぐん上陸じょうりく阻止そし失敗しっぱいした。

当時とうじ榎本えのもと武揚ぶようきゅう幕府ばくふ艦隊かんたい健在けんざいだったが、しん政府せいふぐん軍艦ぐんかんもちいた上陸じょうりく作戦さくせん傍観ぼうかんした。その順次じゅんじ上陸じょうりく作戦さくせん実行じっこうされ、しん政府せいふぐん兵力へいりょくやく1,500にんとなった。

6月24にち東山ひがしやまみち先鋒せんぽう総督そうとく参謀さんぼう板垣いたがき退助たいすけ土佐とさはん)がひきいるしん政府せいふぐん迅衝たい白河しらかわから平潟ひらかたとの中間ちゅうかんにあった棚倉たなぐらしろ接収せっしゅうした。さらに7がつ14にち、迅衝たい海岸かいがんちか磐城いわき平城ひらじろ占領せんりょう平城ひらじろたたかい)。16にちには断金だんきんたいちょうよしせいぬき一郎いちろう尽力じんりょくによって、三春みはるはんが迅衝たいすすんで降伏ごうぶく無血むけつ開城かいじょうし、さん春城しゅんじょうしん政府せいふぐん病院びょういんとしての一翼いちよくをになった。22にち仙台せんだい追討ついとう総督そうとく四条しじょうたかし増援ぞうえんひきいて平潟ひらかた到着とうちゃく、29にち二本松にほんまつじょう三春みはるじょうから北上ほくじょうしたしん政府せいふぐん占領せんりょうした(二本松にほんまつたたか二本松にほんまつ少年しょうねんたい)。8月7にち相馬そうま中村なかむらはんしん政府せいふぐん降伏ごうぶく四条しじょうたかし謌と参謀さんぼう河田かわたけいあずかおよび木梨きなし精一郎せいいちろうらは相馬そうまはんへいくわえて単独たんどく仙台せんだい方面ほうめん侵攻しんこう、11にちはんさかい宇多うだぐん駒ヶ嶺こまがみねむら占拠せんきょ、ここで仙台せんだいはん戦闘せんとうひろげた。

白河しらかわ周辺しゅうへん大軍たいぐん駐屯ちゅうとんさせ南下なんかうかがっていた列藩れっぱん同盟どうめいぐんは、よりきたはまどおりおよび中通なかどおりがしん政府せいふぐん支配しはいはいったことに狼狽ろうばいし、会津あいづ領内りょうない通過つうかして国許くにもとへと退却たいきゃくした。また仙台せんだいはん列藩れっぱん同盟どうめい盟主めいしゅでありながら恭順きょうじゅんいきおいをしていて、はんりょうがいへの進軍しんぐん中止ちゅうしされた。

このときしん政府せいふぐん仙台せんだいはんさきそう攻撃こうげきするか会津あいづはんさきそう攻撃こうげきするかで意見いけん対立たいりつし、しん政府せいふぐんそう司令しれいかん大村おおむら益次郎えきじろう長州ちょうしゅうはん)は仙台せんだいはんさき攻撃こうげきするべきだと主張しゅちょうし、現地げんち司令しれいかん伊地知いじち正治しょうじ薩摩さつまはん)と板垣いたがき退助たいすけ土佐とさはん)は会津あいづはんさき攻撃こうげきするべきだと主張しゅちょうした。その結果けっか伊地知いじち板垣いたがき会津あいづ進攻しんこうさくがとおり、ここに「会津あいづ戦争せんそう」がおこなわれることとなった。

東北とうほく戦争せんそう終結しゅうけつ

編集へんしゅう
 
損傷そんしょうした若松わかまつじょう降伏ごうぶく撮影さつえい

8がつ15にち板垣いたがき退助たいすけ米沢よねざわはん降伏ごうぶく勧告かんこくする使者ししゃとして、土佐とさ藩士はんし澤本さわもと盛弥もりや派遣はけんした。 8月21にち二本松にほんまつ周辺しゅうへんまで北上ほくじょうしていたしん政府せいふぐんは、同盟どうめいぐん防備ぼうびうすかった母成峠ぼなりとうげから会津盆地あいづぼんち侵攻しんこうし、母成峠ぼなりとうげたたかおこなわれた。当地とうちには大鳥おおとり圭介けいすけきゅう幕府ばくふぐん防衛ぼうえいしていたが兵力へいりょくちいさく、敏速びんそく突破とっぱされ若松わかまつへの進撃しんげきゆるした。当時とうじ会津あいづぐん主力しゅりょく関東かんとうちか領内りょうない南部なんぶ日光にっこうこう会津あいづ西にし街道かいどう)やりょうがい遠方えんぽうにあり、若松わかまつ接近せっきんしているしん政府せいふぐんへのそなえがおとっていた。またこれらのぐん侵攻しんこうしてきたしん政府せいふぐん側面そくめんから牽制けんせいすることもなく若松わかまつへの帰還きかん優先ゆうせんした。こうして会津あいづはんへいきゅう幕府ばくふかた残党ざんとう勢力せいりょく若松わかまつじょう篭城ろうじょうした。この篭城ろうじょうせんのさなか、白虎隊びゃっこたい悲劇ひげきなどが発生はっせいした。

9月4にち米沢よねざわはんしん政府せいふ降伏ごうぶくし、米沢よねざわ藩主はんしゅ上杉うえすぎ斉憲なりのり仙台せんだいはん降伏ごうぶく勧告かんこくおこなった。その結果けっかもあり10日とおか仙台せんだいはんしん政府せいふ降伏ごうぶく[注釈ちゅうしゃく 1]、22にち会津あいづはんしん政府せいふ降伏ごうぶくした。会津あいづはん降伏ごうぶくすると庄内しょうないはん久保田くぼたりょうないから一斉いっせい退却たいきゃくし、24にちしん政府せいふ降伏ごうぶくした。

奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいしょはん降伏ごうぶくうしなった水戸みとはんしょなまとう中心ちゅうしんとするきゅう幕府ばくふかた残党ざんとう水戸みとじょう侵攻しんこうするが、10月1-2にち弘道こうどうかん戦争せんそう敗退はいたいした。きゅう幕府ばくふかた残党ざんとうみなみ敗走はいそうし、10がつ6にち下総しもうさこく匝瑳そうさぐん松山まつやまむら付近ふきん松山まつやま戦争せんそう壊滅かいめつした。

はこかん戦争せんそう

編集へんしゅう
 
蝦夷えぞかうきゅう幕府ばくふぐん
 
ひがしかん(きのえてつかん)
 
五稜郭ごりょうかく本陣ほんじん明治めいじ元年がんねんふゆ撮影さつえい
しん政府せいふぐんはこかんせまると、この本陣ほんじん鐘楼しゅろうかんほう射撃しゃげき標的ひょうてきとなり、きゅう幕府ばくふぐんではあわてて鐘楼しゅろうこわした。

戦後せんご処理しょり

編集へんしゅう

函館はこだて戦争せんそう最中さいちゅうである明治めいじ元年がんねん(1868ねん)11月、横浜よこはま欧米おうべい列強れっきょう局外きょくがい中立ちゅうりつ解除かいじょもとめる交渉こうしょうおこなわれ、ふだとして水戸みとはんおもとなっていた徳川とくがわ昭武あきたけ徳川とくがわ榎本えのもとぐん討伐とうばつめいじ(のちし)、その出兵しゅっぺいれい受諾じゅだくしょうつしを各国かっこく代表だいひょう配布はいふして榎本えのもとぐん脱走だっそうへいぎないことをしめした[25]やく2かげつにわたる列強れっきょう諸国しょこくあいだ議論ぎろんて、12月28にち条約じょうやく各国かっこくにより局外きょくがい中立ちゅうりつ解除かいじょ布告ふこくされ、しん政府せいふ唯一ゆいいつ合法ごうほう政権せいけんとして国際こくさいてきみとめられた[26]

これに先立さきだ慶応けいおう4ねん5月24にちしん政府せいふ徳川とくがわ慶喜よしのぶたい一等いっとうげんじ、田安たやす亀之助かめのすけ徳川とくがわ宗家そうけ相続そうぞくさせ、駿府すんぷ70まんせき下賜かしすることを発表はっぴょうした。

しょはんへのおも戦功せんこうしょうてんおよび処分しょぶん以下いかとおり。

戦功せんこうしょうてん永世えいせいろく
処分しょぶんされたはん
所領しょりょう安堵あんどとなったはん

明治めいじ2ねん1869ねん)5がつかく藩主はんしゅわる「反逆はんぎゃく首謀しゅぼうしゃ」として、仙台せんだいはん首席しゅせき家老がろう但木ただき成行しげゆき仙台せんだいはん江戸詰えどづ家老がろうさかしゅう会津あいづはん家老がろう萱野かやのちょうおさむ東京とうきょうで、盛岡もりおかはん家老がろう楢山ならやま佐渡さど盛岡もりおかで、刎首けいしょされた[注釈ちゅうしゃく 2]つづいて仙台せんだいはん家老がろう玉虫たまむしひだり太夫たゆう若生わこうぶんじゅうろう切腹せっぷくさせられた。しかし、仙台せんだい藩主はんしゅせんのイデオローグである思想家しそうか大槻おおつき磐渓ばんけいまぬかれた。仙台せんだいはん伊達だては、34まんせきげんふうという全国ぜんこくしょ大名だいみょうなかもっと過酷かこく処分しょぶんけた。仙台せんだいはんは秩禄がって困窮こんきゅうした家臣かしんだんすくうために、北海道ほっかいどうへの入植にゅうしょくおこなった。仙台せんだいはんしん政府せいふともに、道庁どうちょう所在地しょざいちである札幌さっぽろ開拓かいたくしたほか、単独たんどく伊達だてなどを開拓かいたくした。こうして仙台せんだいはんは、北海道ほっかいどう開拓かいたく歴史れきしじょう多大ただい功績こうせきのこした。

会津あいづはん庄内しょうないはんについては対照たいしょうてき結果けっかとなった。会津あいづはんみなみ3まんせきてんふうとなった。明治めいじ2ねん8がつ当時とうじ若松わかまつけんだい参事さんじだった岡谷おかや繁実しげみによる猪苗代いなわしろでの会津あいづはん5まんせき再興さいこう提言ていげんけ、明治めいじ政府せいふ明治めいじ2ねん9がつ11にち会津あいづ松平まつへいを3まんせき存続そんぞくさせることをゆるし、11月3にち封地ほうち陸奥みちのく決定けっていした。みなみ元々もともと盛岡もりおかはん時代じだいよりべい農家のうか以外いがいかねぜにでの納税のうぜいみとめられている土地とちで、実際じっさい年貢ねんぐとしておさめられたべいは7,310せきだった。収容しゅうよう能力のうりょくえて移住いじゅうしたきゅう藩士はんし家族かぞくかつええとさむさで病死びょうししゃ続出ぞくしゅつし、日本にっぽん全国ぜんこく日本にっぽん国外こくがいものもいた。

下北半島しもきたはんとう郷土きょうど史家しか笹沢ささざわ魯羊は、うたて封地ほうちかんしてしん政府せいふみなみ猪苗代いなわしろ選択肢せんたくししめし、会津あいづはんない議論ぎろんすえ広沢ひろさわあんつとむ主張しゅちょう採択さいたくしてみなみ選択せんたくしたと記述きじゅつ[28]、それがおおくの書籍しょせき引用いんようされている。一方いっぽう野口のぐち信一しんいちは、猪苗代いなわしろせつもと史料しりょう存在そんざいみとめられず、議論ぎろんきゅう盛岡もりおかはんりょうへの移住いじゅうそのものにたいする議論ぎろんであると主張しゅちょうしている[29]

庄内しょうないはんたいする処分しょぶん西郷さいごう隆盛たかもりらによって寛大かんだいおこなわれた。ぜん庄内しょうない藩主はんしゅ酒井さかい忠篤ただあつらは西郷さいごう遺訓いくんみなみしまおう遺訓いくん』を編纂へんさんし、西南せいなん戦争せんそうでは西郷さいごうぐんもと庄内しょうない藩士はんし参加さんかしている。

奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいからしん政府せいふ恭順きょうじゅんした久保田くぼたはん弘前ひろさきはん三春みはるはんなどはこうねぎらわれ、明治めいじ2ねん1869ねん)には一応いちおうしょうてんろくあたえられた。しかし、いずれもしん政府せいふがわからは同格どうかくなされず、戦費せんぴ戦災せんさい見合みあうほどの恩恵おんけいられなかった。この仕置しおきを不満ふまんとしたものかず非常ひじょうおおく、のちきゅう久保田くぼたはんりょうでははん政府せいふ運動うんどうが、きゅう三春みはるはんりょうでは自由じゆう民権みんけん運動うんどう活発かっぱつした。

はこかん戦争せんそう終結しゅうけつすると首謀しゅぼうしゃ榎本えのもと武揚ぶよう大鳥おおとり圭介けいすけ松平まつだいら太郎たろうらは東京とうきょうたつくち投獄とうごくされたが、黒田くろだ清隆きよたからによる助命じょめい運動うんどうにより、明治めいじ5ねん1872ねん)1がつ赦免しゃめんされた。その榎本えのもと武揚ぶようらは明治めいじしん政府せいふ要請ようせいされて政府せいふ要職ようしょくいた。

  • 薩摩さつまはんへい死者ししゃは7パーセントはんへいは3 - 5パーセント、さい新鋭しんえいスペンサーじゅう装備そうびしていた佐賀さがはん武雄たけおへいは0.6パーセントとされる[30]

編成へんせい

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しん政府せいふぐん

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そう兵力へいりょく やく8,000めい

きゅう幕府ばくふぐん

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戊辰戦争ぼしんせんそうをテーマにした作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、仙台せんだい藩主はんしゅ伊達だてけいくにすでに、8がつ26にちしん政府せいふへの謝罪しゃざい降伏ごうぶく手配てはい指示しじし、8がつ29にちには熊本くまもとはん陣中じんちゅう仙台せんだい藩士はんし2にん派遣はけんして仙台せんだいはん降伏ごうぶく交渉こうしょうはじめさせている[24]
  2. ^ 萱野かやのちょうおさむについて明治めいじしん政府せいふちょうほう掲要』の旧暦きゅうれき6がつ19にちこうは「りく羽越うえつとうしょはん反逆はんぎゃく首謀しゅぼうしん菅野かんのちょうおさむ以下いかじゅういちめいしょす。すでするものは其後をつ」としている[27]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 井上いのうえきよし日本にっぽん歴史れきし20 明治維新めいじいしん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ昭和しょうわ41、p.131-132.
  2. ^ “19世紀せいき後半こうはん黒船くろふね地震じしん台風たいふう疫病えきびょうなどの災禍さいかをくぐりけ、明治維新めいじいしんかう(ぶくかず伸夫のぶお)”. Yahoo!ニュース. (2020ねん8がつ24にち). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020ねん12月3にち閲覧えつらん 
  3. ^ 石井いしい 1968, だい一部いちぶ天皇てんのう政府せいふ徳川とくがわ政府せいふとの戦争せんそう」.
  4. ^ a b 原口はらぐち 1963, p. 239.
  5. ^ 原口はらぐち 1963, p. 267.
  6. ^ 石井いしい 1968, p. 46.
  7. ^ みことのりみなもと慶喜よしのぶせきるい、恃闔ぞくつよ、妄賊がい忠良ただよしかず棄絶 王命おうめいとげ矯 先帝せんていみことのり而不懼、擠万民於溝壑而不顧、罪悪ざいあくしょいたり 神州しんしゅうはたかたぶけくつがえ焉 ちんいまためみん父母ちちははぞく而不討、なに以、うえしゃ 先帝せんていれいしたほう萬民ばんみんふか讐哉。此、ちんいきどお所在しょざい諒闇りょうあん而不顧者、まん不可ふかやめ也。なんじむべからだ ちんしん、殄戮賊臣ぞくしん慶喜よしのぶ、以速そう回天かいてん偉勲いくん、而、措生れい于山だけやす。此 ちんねがい敢或たゆ
  8. ^ 明治めいじ功臣こうしんろく明治めいじ功臣こうしんろく刊行かんこうかい編輯へんしゅうきょく大正たいしょう4ねん(1915ねん)
  9. ^ 板垣いたがき退助たいすけくんつちのえたつ戦略せんりゃく上田うえだ仙吉せんきちへん明治めいじ15年刊ねんかん一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編さいへん復刻ふっこく
  10. ^ 原田はらだ伊織いおり明治維新めいじいしんというあやまち・完結かんけつへん講談社こうだんしゃ2018ねん
  11. ^ 新選しんせんぐみ戊辰戦争ぼしんせんそうどころ紹介しょうかいしん展示てんじ 新選しんせんぐみ資料しりょう中心ちゅうしん鳥羽とっぱ伏見ふしみたたかいや戊辰戦争ぼしんせんそう実像じつぞうせまる! つちのえたつ戦記せんき絵巻えまきまえへん 霊山りょうぜん歴史れきしかん、2023ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  12. ^ 水谷みずたに憲二けんじ 2011, p. 178.
  13. ^ 水谷みずたに憲二けんじ 2011, p. 220-224.
  14. ^ 水谷みずたに憲二けんじ 2011, p. 8-12, 22-24, 55.
  15. ^ 保谷ほや 2007, p. 115-127.
  16. ^ 水谷みずたに憲二けんじ 2011, p. 391-394.
  17. ^ 水谷みずたに憲二けんじ 2011, p. 399-403.
  18. ^ 梁田やなだ戦争せんそうをご存知ぞんじですか(足利あしかが公式こうしきサイト)
  19. ^ 水谷みずたに憲二けんじ 2011, p. 194-197.
  20. ^ 神奈川かながわけん企画きかく調査ちょうさけん編集へんしゅうしつへん)『神奈川かながわけん 通史つうしへん4 近代きんだい現代げんだい(1)』神奈川かながわけん弘済会こうさいかい、1980ねん、73-80ぺーじ 
  21. ^ a b 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション『復古ふっこ だいじゅうさつ』417ぺーじ418ぺーじ 復古ふっこがい 奥羽おうう戦記せんき だいろく編著へんちょしゃ太政官だじょうかん豊原とよはら資清すけきよ 出版しゅっぱんしゃ内外ないがい書籍しょせき 発行はっこう昭和しょうわ5ねん(1930ねん)5がつ8にち)(2018ねん10がつ16にち閲覧えつらん。)
  22. ^ 石井いしいたかし戊辰戦争ぼしんせんそうろん』2008ねん
  23. ^ 新潟にいがた県立けんりつ図書館としょかん越後えちご佐渡さどデジタルライブラリー」『越後えちごこく上杉うえすぎ景勝かげかつ家督かとくそう合戦かっせん
  24. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション『復古ふっこ だい13さつ』459ぺーじ463ぺーじ 復古ふっこがい 平潟ひらかたくち戦記せんき だいさん 明治めいじ元年がんねん8がつ29にち廿にじゅうきゅうにち伊達だてけいくに使つかい肥後ひごはんノ營ニシ、じょうひねシ、帰順きじゅんことヲ請フ。」 (編著へんちょしゃ太政官だじょうかん長松ながまつみき藤川ふじかわ三渓さんけい 出版しゅっぱんしゃ内外ないがい書籍しょせき 発行はっこう昭和しょうわ5ねん(1930ねん6月27にち)(2018ねん10がつ17にち閲覧えつらん。)
  25. ^ 保谷ほや 2007, p. 274.
  26. ^ 保谷ほや 2007, pp. 274–275.
  27. ^ ちょうほう掲要 1868.
  28. ^ 田名部たなぶまち』(1935ねん
  29. ^ 野口のぐち信一しんいち 2010, p. 240-246.
  30. ^ 磯田いそだみち素顔すがお西郷さいごう隆盛たかもり新潮しんちょう新書しんしょ 2018ねん ISBN 978-4-10-610760-3 176ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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資料しりょう史料しりょう

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研究けんきゅう

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  • 原口はらぐちきよし戊辰戦争ぼしんせんそうはなわ書房しょぼう、1963ねん 
  • 石井いしいたかし維新いしんの內乱』至誠しせいどう、1968ねん 
  • 大山おおやまかしわつちのえたつやく戦史せんし 上下じょうげ時事通信社じじつうしんしゃ、1968ねん 
  • 菊地きくちあきらへん戊辰戦争ぼしんせんそうぜん』〈うえした〉、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1998ねん4がつISBN 4404025726, ISBN 4404025734
  • 佐々木ささきかつ戊辰戦争ぼしんせんそう敗者はいしゃ明治維新めいじいしん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1977ねんISBN 4121004558 
  • 保谷ほやとおる戊辰戦争ぼしんせんそう吉川弘文館よしかわこうぶんかん戦争せんそう日本にっぽん 18〉、2007ねんISBN 978-4642063289 
  • 野口のぐち武彦たけひこ幕府ばくふ歩兵ほへいたい幕末ばくまつけぬけた兵士へいし集団しゅうだん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2002ねん11月。ISBN 4121016734 
  • 会津あいづ戦争せんそう-痛憤つうふん 白虎隊びゃっこたい河井かわい継之助つぐのすけ学研がっけんプラス歴史れきしぐんぞうシリーズ 39〉、1994ねん9がつISBN 9784056005868
  • 野口のぐち信一しんいち会津あいづえりすぐりの歴史れきし資料しりょうから真実しんじつ歴史れきし歴史れきし春秋しゅんじゅうしゃ、2010ねんISBN 978-4897577531 
  • 水谷みずたに憲二けんじ戊辰戦争ぼしんせんそうと「朝敵ちょうてきはん-敗者はいしゃ維新いしん-』八木はちぼく書店しょてん、2011ねんISBN 978-4840620444 
  • 相田あいだ泰三たいぞう保科ほしな正之まさゆきおおやけでん保科ほしな正之まさゆきおおやけさんひゃくねんさい奉賛ほうさんかい、1972ねん 著者ちょしゃ福島ふくしまけん文化ぶんか功労こうろうしゃ
  • 小桧山こびやま六郎ろくろうへん会津あいづ白虎隊びゃっこたいのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2002ねんISBN 4-404-02946-2 

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