(Translated by https://www.hiragana.jp/)
林彪事件 - Wikipedia

はやしぴょう事件じけん

1971ねん中国ちゅうごく発生はっせいした共産党きょうさんとう主席しゅせき暗殺あんさつ未遂みすい、クーデター未遂みすい事件じけんおよびその亡命ぼうめい未遂みすい事件じけん

はやしぴょう事件じけん(りんぴょうじけん)は、1971ねん発生はっせいした、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくはやしぴょう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいふく主席しゅせきによる、毛沢東もうたくとう共産党きょうさんとう主席しゅせき暗殺あんさつ未遂みすいおよクーデター未遂みすい事件じけんおよびその亡命ぼうめい未遂みすい事件じけん「9・13事件じけんともばれる。

はやしぴょう事件じけん
はやしぴょう1959ねん
場所ばしょ 中華人民共和国の旗 中国ちゅうごくモンゴルの旗 モンゴル
日付ひづけ 1971ねん9月8にち-9月13にち
概要がいよう はやしぴょう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいふく主席しゅせきによる、毛沢東もうたくとう共産党きょうさんとう主席しゅせき暗殺あんさつ未遂みすいおよクーデター未遂みすい事件じけんおよびその亡命ぼうめい未遂みすい事件じけん
原因げんいん 中国共産党ちゅうごくきょうさんとう権力けんりょく闘争とうそう
攻撃こうげき手段しゅだん ばくだんによる毛沢東もうたくとう暗殺あんさつ
死亡しぼうしゃ はやしぴょうら9にん
動機どうき 文化ぶんかだい革命かくめいどきにおけるはやしぴょう毛沢東もうたくとう対立たいりつ
テンプレートを表示ひょうじ

毛沢東もうたくとう後継こうけいしゃ認定にんてい

編集へんしゅう
 
国共こっきょう内戦ないせん時代じだいはやしぴょう写真しゃしんひだり

はやしぴょうは、にちちゅう戦争せんそう国共こっきょう内戦ないせん活躍かつやくし「じゅう大元帥だいげんすい」(序列じょれつは、しゅいさお彭徳ふところにつぐだい3)にもれつされ、1949ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおう人民じんみん政府せいふ委員いいん中南なかみなみぐん司令しれいいん中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいふく主席しゅせき1958ねんはちぜん大会たいかいだい会議かいぎ当時とうじ劉少奇りゅうしょうきしゅう恩来おんらいしゅいさおちんくもふく主席しゅせき)、中共ちゅうきょう中央ちゅうおう軍事ぐんじふく主席しゅせき選出せんしゅつされた。

その文化ぶんかだい革命かくめい勃発ぼっぱつ直後ちょくご1966ねん8がつひらかれた中国共産党ちゅうごくきょうさんとうだいはち中央ちゅうおう委員いいんかいだいじゅういちかい全体ぜんたい会議かいぎだい811ちゅうぜん大会たいかい)で唯一ゆいいつ中国共産党ちゅうごくきょうさんとうふく主席しゅせきとなり、「実権じっけん走資そうし)からのだつけん」が一段落いちだんらくした1969ねん4がつおこなわれただい9かい中国共産党ちゅうごくきょうさんとう大会たいかい(「9ぜん大会たいかい」)では毛沢東もうたくとう後継こうけいしゃとして公式こうしき認定にんていされた。

はやしぴょう毛沢東もうたくとう対立たいりつ

編集へんしゅう

はやしぴょうつまぐんおよびよん大金おおかねつよしばれた部下ぶか将軍しょうぐんえいまさるほうけん邱会さくさくおおとり政治せいじきょく委員いいん選出せんしゅつされ、はやしぴょう政治せいじてき立場たちば大幅おおはば強化きょうかされた。しかし文化ぶんかだい革命かくめいさいして毛沢東もうたくとう対立たいりつした劉少奇りゅうしょうき失脚しっきゃく以後いご空席くうせきとなっていた国家こっか主席しゅせきのポスト廃止はいしあん同意どういせず、毛沢東もうたくとう野心やしんうたがわれることになる。

また、はやしぴょう毛沢東もうたくとうには対外たいがい政策せいさくでの意見いけんちがいがあり、これが反目はんもくにつながったともわれる。1969ねん3がつきたちん宝島たからじま事件じけん契機けいきに、毛沢東もうたくとうソビエト連邦れんぽう脅威きょういをますます実感じっかんするようになった。そのため「正面しょうめん作戦さくせんをとるのは上策じょうさくではない」として、かつては「べいみかど(アメリカ帝国ていこく主義しゅぎ)」とののし敵視てきししていたアメリカ接近せっきんこころみる。一方いっぽうはやしぴょうは「あくまでもてきはアメリカである」と主張しゅちょうしたという。しかしはやしぴょうグループの一員いちいんほうけんは、死後しご香港ほんこん刊行かんこうされた回想かいそうろくで「はやしぴょうグループは外交がいこう政策せいさくにはとく意見いけんはなく、はやしぴょうらがアメリカ接近せっきん反対はんたいしたというのは事実じじつではない」とべている。

なお、はやしぴょう事件じけん翌年よくねん1972ねん2がつにアメリカのリチャード・ニクソン大統領だいとうりょう北京ぺきん訪問ほうもんして毛沢東もうたくとう会談かいだんし、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく事実じじつじょう中国ちゅうごく政府せいふ」としてみとめた[注釈ちゅうしゃく 1]ニクソン大統領だいとうりょう中国ちゅうごく訪問ほうもん参照さんしょう)。

また、はやしぴょう息子むすこである林立りんりつはてすで空軍くうぐんナンバなんばつーになっていた)への世襲せしゅう画策かくさくしており、はそれをきらったというせつもある[注釈ちゅうしゃく 2]

その1970ねん中共ちゅうきょう中央ちゅうおうきゅうちゅう全会ぜんかいなどではやしぴょうとその一派いっぱは、毛沢東もうたくとう国家こっか主席しゅせき就任しゅうにんや「毛沢東もうたくとう天才てんさいろん」を主張しゅちょうして毛沢東もうたくとう懐柔かいじゅうしようとこころみたが、野心やしんうたがつづけた毛沢東もうたくとう批判ひはんされることになる。

毛沢東もうたくとう暗殺あんさつ計画けいかく

編集へんしゅう

さらに、はやしぴょうらのうごきを警戒けいかいした毛沢東もうたくとうが、はやしぴょうとその側近そっきんたい粛清しゅくせいしたことから、1971ねん3月27にちには、はやしぴょう息子むすこ空軍くうぐん作戦さくせんふく部長ぶちょうだった林立りんりつはて中心ちゅうしんとなり、地方ちほう視察しさつちゅう毛沢東もうたくとう爆殺ばくさつし、同時どうじにその権力けんりょく掌握しょうあくのためのクーデターを実行じっこうし、広州こうしゅうしん政権せいけん樹立じゅりつすることなどを画策かくさくした計画けいかくしょなないち工程こうてい紀要きよう」(「なないち/Wǔqīyī」=「武装ぶそうおこりよし/zhuāng Qǐyī」、いわゆる「クーデター」)を作成さくせいすることになる。

なお、林立りんりつはてらは「なないち工程こうてい紀要きよう」のなかで、「毛沢東もうたくとうしんマルクス・レーニン主義しゅぎものではなく、あなはじめみちおこなうものであり、マルクス・レーニン主義しゅぎころもりて、はた始皇帝しこうていほうおこなう、中国ちゅうごく史上しじょう最大さいだい封建ほうけんてき暴君ぼうくんである」、「中国ちゅうごく人民じんみん相互そうご軋轢あつれきによるファシズム独裁どくさい国家こっかえてしまった」という記述きじゅつしるしている。

暗殺あんさつ計画けいかく失敗しっぱい

編集へんしゅう

そのの1971ねん8がつから9がつにかけて南方なんぽう視察しさつちゅう毛沢東もうたくとうが、視察しさつさきはやしぴょうらを「極右きょくう」として猛烈もうれつ批判ひはんしたことをに、身辺しんぺん危機ききかんじたはやしぴょうとその側近そっきんらは、9月5にち毛沢東もうたくとうった専用せんよう列車れっしゃ爆破ばくはする暗殺あんさつ計画けいかく実行じっこう決意けついし、8にち実行じっこううつした。

これにあわはやしぴょう林立りんりつはてつまぐん側近そっきんらは毛沢東もうたくとう暗殺あんさつ計画けいかく成功せいこうのクーデターの準備じゅんびのために河北かほくしょう北戴河ぺいたいほううつった。なお、毛沢東もうたくとう暗殺あんさつ計画けいかく成功せいこうあかつきには北戴河ぺいたいほうから北京ぺきんもどり、ふく主席しゅせきはやしぴょう毛沢東もうたくとうとう主席しゅせき後継こうけいしゃとなるつもりであった。また、計画けいかく失敗しっぱいさい広州こうしゅうはやしぴょう首班しゅはんとするしん政権せいけん樹立じゅりつ、もしくは当時とうじ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく対立たいりつ関係かんけいにあったソビエト連邦れんぽう亡命ぼうめいする計画けいかくであった。

しかし事前じぜん暗殺あんさつ計画けいかく情報じょうほう毛沢東もうたくとうらにれたために、毛沢東もうたくとうらは専用せんよう列車れっしゃ当初とうしょ杭州こうしゅうから直接ちょくせつ北上ほくじょうさせ上海しゃんはい下車げしゃするルートから、紹興しょうこう迂回うかいさせたうえで、上海しゃんはい下車げしゃせず12にち北京ぺきんへともどるルートをったために爆破ばくはいたらず、最終さいしゅうてき暗殺あんさつ計画けいかく失敗しっぱいした。

なお、「暗殺あんさつ計画けいかく情報じょうほう毛沢東もうたくとうれたのは、はやしぴょうむすめ林立りんりつ中国語ちゅうごくごばん毛沢東もうたくとう側近そっきんしゅう恩来おんらい総理そうり密告みっこくしたため」とのせつがあり、現在げんざいはこのせつ定説ていせつとなっている。「当初とうしょはやしぴょう毛沢東もうたくとう暗殺あんさつまでかんがえていなかったが、最終さいしゅう段階だんかいになって息子むすこ林立りんりつはてにクーデターと暗殺あんさつ計画けいかくけられ、急遽きゅうきょ実行じっこう了承りょうしょうした」というせつもある。また暗殺あんさつ計画けいかく林立りんりつはてぐんらが立案りつあんしたもので、はやしぴょう関与かんよしていなかったというせつもある。はやしぴょう側近そっきんぐん最高さいこう幹部かんぶはやしぴょう事件じけん政治せいじ責任せきにんわれたえいまさるほうけんさくおおとり邱会さくらは、事件じけんかれらにとっても寝耳ねみみみずだったと回想かいそうしている。邱会さくは、もしはやしぴょう実際じっさいにクーデターをくわだてていたならかなら自分じぶんたちに相談そうだんがあったはずだ、「はやしぴょうだい軍事ぐんじであり、実戦じっせん経験けいけん豊富ほうふであることをわすれてはならない。はやしぴょうがもしクーデターを実行じっこうしたならかなら成功せいこうしていただろう」[1]、とべて、はやしぴょう関与かんよ否定ひていてき見方みかたしめしている。

また、西側にしがわ研究けんきゅうでもはやしぴょうがクーデターに積極せっきょくてきかかわった可能かのうせいひくいとかんがえられている[注釈ちゅうしゃく 3]

逃亡とうぼう

編集へんしゅう
 
ホーカー・シドレー トライデント1Eかた同型どうけい

9月12にち夕方ゆうがたに、毛沢東もうたくとう暗殺あんさつ失敗しっぱいしたことをったはやしぴょう側近そっきんらは、中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん所有しょゆうするイギリスせいホーカー・シドレー トライデント1Eかた(シリアルナンバー256、パキスタン国際こくさい航空こうくう1965ねん導入どうにゅうして運用うんよう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく譲渡じょうと塗装とそうちゅう国民こくみんこうのものをぐん仕様しようにしたものであった)を北京ぺきん郊外こうがい基地きちから、はやしぴょうらが河北かほくしょう北戴河ぺいたいほう山海さんかいせきにある中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん空軍くうぐん基地きち移動いどうさせた。

そのはやしぴょうらはトライデント大連たいれんけてばすと通告つうこくしたが、暗殺あんさつ計画けいかくとそののソビエト連邦れんぽうへの亡命ぼうめい計画けいかくったしゅう恩来おんらいから、同機どうき離陸りりく阻止そし命令めいれいけた現地げんち山海さんかいせき8341部隊ぶたいはやしぴょうらのった自動車じどうしゃ発見はっけんし、空港くうこうかうのを阻止そしすべく銃撃じゅうげきしたものの失敗しっぱいした。

トライデント墜落ついらく

編集へんしゅう

よく13にち未明みめいはやしぴょう林立りんりつはてぐん、パイロット、整備せいびけい9めいせたトライデント山海さんかいせき空軍くうぐん基地きち強行きょうこう離陸りりくし、ソビエト連邦れんぽうけて逃亡とうぼうしたものの、モンゴル人民じんみん共和きょうわこくヘンテイけんのベルフの10キロ南方なんぽう付近ふきん不時ふじ着陸ちゃくりくおこなおうとして失敗しっぱいし、9にん全員ぜんいん墜落ついらくした。

翌日よくじつモンゴル政府せいふ領空りょうくう侵犯しんぱん墜落ついらく確認かくにんし、もとぶんえきちゅうモンゴル特命とくめい全権ぜんけん大使たいしたいしてトライデント領空りょうくう侵犯しんぱんについて抗議こうぎした。そのもとぶんえきらは墜落ついらく現場げんば確認かくにんしたが、はやしぴょうらの遺体いたいについて中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく当局とうきょく返還へんかん要求ようきゅうせず、現地げんちでの埋葬まいそう同意どういした。また、事件じけん翌日よくじつにモンゴルの友好国ゆうこうこくであるソ連それんKGB現地げんちおもむき、モンゴル国内こくない墜落ついらくしたトライデントなかから9たい焼死体しょうしたい回収かいしゅう、そのなかの1たいはやしぴょう断定だんていした。にちちゅう戦争せんそう当時とうじはやしぴょう頭部とうぶ戦傷せんしょう治療ちりょうのため、ソ連それん首都しゅとのモスクワにおもむいたが、その当時とうじカルテ保存ほぞんされていた。その焼死体しょうしたい頭蓋骨ずがいこつ部分ぶぶんみとめられたきずとカルテの記載きさい一致いっち、これがになったという。

ブラックボックスは、ソ連それん解析かいせき依頼いらいされた。なお、トライデントの墜落ついらく理由りゆうとして、燃料ねんりょうれによる墜落ついらくせつと、機内きないでの発砲はっぽうによる墜落ついらくせつソ連それんによる対空たいくうミサイルでの撃墜げきついせつほか[2]がある。当時とうじのモンゴルとソ連それん合同ごうどう調査ちょうさによる報告ほうこくしょでは、「墜落ついらく長時間ちょうじかんにわたり広範囲こうはんい火災かさい発生はっせいしており、飛行ひこう継続けいぞく可能かのう燃料ねんりょうがあった証拠しょうこ」として燃料ねんりょうれによる墜落ついらくせつ否定ひていし、あわせて墜落ついらく機内きない調査ちょうさにより撃墜げきついせつ否定ひていしている。また、現場げんばから8ちょうじゅうつかっており、そのうち1ちょうには銃弾じゅうだん1はつそうてんされていたため、機内きない緊迫きんぱくした状況じょうきょうだったことを示唆しさした。だが、機内きない遺体いたいには銃弾じゅうだんがなかったことから、機内きないでの銃撃じゅうげきせつには否定ひていてき見解けんかいしめしている。報告ほうこくしょでは墜落ついらく直接ちょくせつ原因げんいんを「操縦そうじゅうミス」としている。

なお、はやしぴょうらの逃亡とうぼう通報つうほうけた毛沢東もうたくとうは「てんようしたむすめようよめじんゆずる吧(そらあめらすのも、寡婦かふ再婚さいこんするのも、められるものではないので、きにまかせよ)」とい、はやしぴょうらのったトライデント撃墜げきつい指令しれいさなかったといわれる[3]

中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふは、事件じけんはやしぴょう反乱はんらん失脚しっきゃく中国共産党ちゅうごくきょうさんとうない人民じんみん解放かいほうぐんない一部いちぶのレベル以上いじょう人間にんげんのみに伝達でんたつしたものの、はやしぴょう逃亡とうぼう墜落ついらくなど、事件じけんについての詳細しょうさい事後じご報道ほうどう一切いっさいおこなわなかった。このよう事件じけん概要がいよう軍政ぐんせい府内ふない一部いちぶ伝達でんたつされなかったうえに、文化ぶんかだい革命かくめいちゅう西側にしがわのみならず東側ひがしがわ主要しゅようメディアすら中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくから追放ついほうされていたために、事件じけん概要がいようしょ外国がいこく伝播でんぱするまでに時間じかんがかかった。しかし、事件じけんもなくはやしぴょう逃亡とうぼう墜落ついらくについての臆測おくそく記事きじが、西側にしがわメディアでもほうじられるようになった。

事件じけんにはモンゴルの通信つうしんしゃが、「領空りょうくう侵犯しんぱんした航空機こうくうき領土りょうどない墜落ついらくした」という事実じじつ報道ほうどうのみをつたえたほかは、正式せいしき報道ほうどうはほぼ皆無かいむであったが、新華社しんかしゃ事件じけんからやく10ヶ月かげつ1972ねん7がつ28にち事件じけん概要がいようみじかほうじた。そのはやしぴょう1973ねん党籍とうせき剥奪はくだつされ、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうにより「批林批孔運動うんどう」がこされる。1980ねんには中国共産党ちゅうごくきょうさんとうは「はやしぴょうはん革命かくめい集団しゅうだん主犯しゅはん」と断定だんていし、はげしく批判ひはんした。

事件じけん報道ほうどう

編集へんしゅう

報道ほうどう管制かんせい

編集へんしゅう

このはやしぴょう事件じけんは、上記じょうきのように事件じけんからしばらくのあいだは、その概要がいようだけが人民じんみん解放かいほうぐん中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふない一部いちぶ人間にんげんにのみつたえられたことや、ほとんどの西側にしがわ諸国しょこくのマスコミを国外こくがい追放ついほうんだ文化ぶんかだい革命かくめいっただなかこったことから、西側にしがわだけでなく東側ひがしがわ諸国しょこくふくほとんどのマスコミ機関きかんは、事件じけん詳細しょうさいだけでなく、事件じけんそのものの発生はっせいすら正確せいかくほうじることが出来できなかった。

臆測おくそく報道ほうどう

編集へんしゅう

事件じけん発生はっせいやく2週間しゅうかん9月26にちに、10月1にちおこなわれる予定よていであったくにけいぶしパレードが突然とつぜん中止ちゅうしされることが発表はっぴょうされ、あわせて人民日報じんみんにっぽう紙上しじょうにもはやしぴょうあらわれなくなったので、「毛沢東もうたくとう重病じゅうびょうせつ」や、「なに重大じゅうだい政変せいへんがあったのではないか」との観測かんそく世界中せかいじゅうひろまった。

さらに10がつ1にちには、「モンゴル領内りょうない国籍こくせき不明ふめい墜落ついらくした」というモンゴル国営こくえい通信つうしんしゃでん各社かくしゃ一斉いっせいほうじ、それと同時どうじはやしぴょう失脚しっきゃくうわさ世界せかいてきひろまる。10月は日本にっぽん主要しゅよう各紙かくしとも、北京ぺきん訪問ほうもんちゅうルーマニア高官こうかん乾杯かんぱいはやしぴょう名前なまえ省略しょうりゃくしたこと(10月12にちAFPでん)をつたえたり、「はやしぴょう重病じゅうびょうせつ」(10月9にちニューヨーク・タイムズ)をつたえるかとおもえば、『中国ちゅうごくほう』という雑誌ざっしはやしぴょう写真しゃしん掲載けいさいされていること(10がつ27にちロイターでん)をつたえたりとブレがあるが、11月ごろからは失脚しっきゃく可能かのうせいつたえる報道ほうどう主流しゅりゅうとなる。たとえば産経新聞さんけいしんぶん11月2にち外報がいほうトップで、「ナゾふかめる”はやしぴょう失脚しっきゃく”の原因げんいん」という記事きじ掲載けいさいしている。

またこのころには、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくないにネットワークをっている中華民国ちゅうかみんこく諜報ちょうほう機関きかん経由けいゆで、香港ほんこんにいる西側にしがわ諸国しょこく諜報ちょうほう関係かんけいしゃやマスコミ関係かんけいしゃ事件じけん概要がいようはやしぴょう死亡しぼうつたえられていた[4]

はやしぴょう事件じけん題材だいざいとした作品さくひん

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ べいちゅう正式せいしき国交こっこうむすぶのは文革ぶんかく終了しゅうりょうの1979ねんである。
  2. ^ 長男ちょうなんであるもうきしすぐる朝鮮ちょうせん戦争せんそう戦死せんしし、次男じなんであるもうきしあお精神せいしん疾患しっかんわずらっていた
  3. ^ はやしぴょう陸軍りくぐんのスペシャリストであるが、「なないち工程こうてい紀要きよう」ではクーデターの支援しえん部隊ぶたい林立りんりつはて所属しょぞくしていた空軍くうぐんかたよっている。また、ここのつのセクションのうち軍事ぐんじ戦略せんりゃくについてかれたセクションはふたつだけであり(ななつは文化ぶんかだい革命かくめい毛沢東もうたくとうへの批判ひはん)、軍隊ぐんたいかんする知識ちしき大軍たいぐん動員どういんするノウハウも欠如けつじょしており、すぐれた軍略ぐんりゃくであったはやしぴょう関与かんよがうかがえない。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 邱会さく『邱会さくかい憶録』したp787(中国ちゅうごく香港ほんこんしん世紀せいき出版しゅっぱん、2011ねん
  2. ^ 人間にんげんしゅう恩来おんらい”. webcache.googleusercontent.com. 福岡ふくおかけん弁護士べんごしかい (2007ねん12月21にち). 2023ねん9がつ2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  3. ^ なつつよし毛沢東もうたくとうじょうゆい(コンプレックス)」と「北京ぺきんじょうゆい(コンプレックス)」--当代とうだい中国ちゅうごく政治せいじ文化ぶんか根底こんてい基本きほんせん中軸ちゅうじくせん(なか)」(PDF)『たていのちかん国際こくさい研究けんきゅうだい23かんだい3ごう立命館大学りつめいかんだいがく国際こくさい関係かんけい学会がっかい、2011ねん3がつ、439-464ぺーじ  該当がいとう記述きじゅつは449ぺーじにある。
  4. ^ 佐々淳行さっさあつゆき香港ほんこん領事りょうじ佐々淳行さっさあつゆき 香港ほんこんマカオ暴動ぼうどう、サイゴン・テト攻勢こうせい文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 2006ねん

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう