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海軍大学校 - Wikipedia

海軍かいぐんだい学校がっこう

大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんにおける、参謀さんぼう将校しょうこう養成ようせい機関きかん

海軍かいぐんだい学校がっこう(かいぐんだいがっこう、きゅう字体じたいうみ󠄀ぐんだい學校がっこう󠄁)は、日本にっぽん海軍かいぐん上級じょうきゅう将校しょうこう教育きょういく機関きかんである。略語りゃくごとしてうみだいとも呼称こしょうされる。日本にっぽん陸軍りくぐんでは陸軍りくぐんだい学校がっこう現在げんざい海上かいじょう自衛隊じえいたいでは、海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこう相当そうとうする。

海軍かいぐんだい学校がっこう

概要がいよう

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開設かいせつ移転いてん

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1888ねん明治めいじ21ねん7がつ14にちみことのりれいだい55ごうにより海軍かいぐんだい学校がっこう官制かんせい制定せいてい同年どうねん8がつ28にち東京とうきょう築地つきじきゅう海軍兵学校かいぐんへいがっこう生徒せいとかん開校かいこう[1]初代しょだい校長こうちょう海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくなが井上いのうえりょうかおる兼任けんにんした。同年どうねん11月26にち授業じゅぎょう開始かいし[2]

1923ねん大正たいしょう12ねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい罹災りさいし、同年どうねん12がつまつ応急おうきゅうかり校舍こうしゃだい部分ぶぶん竣工しゅんこう1932ねん昭和しょうわ7ねん8がつ27にち東京とうきょう上大崎かみおおさきもと陸軍りくぐん衛生えいせい材料ざいりょうしょうあと移転いてん同年どうねん9月1にちしん校舍こうしゃにて授業じゅぎょう開始かいし[3]あたらしいうみだい庁舎ちょうしゃばれた校舎こうしゃ中心ちゅうしんへい演習えんしゅう科学かがく実験じっけんじょうなどをそなえただい規模きぼ施設しせつであった。坂本さかもとしゅんあつしは、12ねんちょうきにわた海軍かいぐんだい学校がっこう教育きょういくたずさわったため、「うみだいちち」とばれた。

入校にゅうこう選抜せんばつ

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海軍かいぐん兵科へいか高級こうきゅう幹部かんぶ養成ようせいする「甲種こうしゅ学生がくせい」の課程かてい海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業生そつぎょうせい海軍かいぐん士官しかん兵科へいか将校しょうこう)に任官にんかん、10ねん程度ていど実務じつむ経験けいけんなかから選抜せんばつされた。受験じゅけん資格しかくへい学校がっこうでの教育きょういくけた中堅ちゅうけん将校しょうこうである大尉たいい少佐しょうさであることが基本きほんであった。入校にゅうこうしゃ海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょう席次せきじたかいものがおおかったが、席次せきじひくくても本人ほんにん努力どりょく次第しだい入校にゅうこうすることができた。 募集ぼしゅう人員じんいんは10〜20めい前後ぜんこうで、満州まんしゅう事変じへんはじまると30めいにまでやされた。そのささえ事変じへんはじまると学生がくせい採用さいようしない年度ねんどてくるようになる。

甲種こうしゅ学生がくせい」のほかには「機関きかん科学かがくせい」、「選科せんか学生がくせいとう課程かていがあった。

昇進しょうしんとの関連かんれん

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海軍かいぐんだい学校がっこう卒業そつぎょうすることは、海軍かいぐん官僚かんりょう組織そしき出世しゅっせするための重要じゅうよう条件じょうけんひとつではあったが、陸軍りくぐんの「天保銭てんぽうせんぐみ」(陸軍りくぐんだい学校がっこう卒業生そつぎょうせい通称つうしょう)のようにだい学校がっこう卒業そつぎょうぐん中枢ちゅうすうポストに昇進しょうしんするために必須ひっすちかいものとされていたわけではなく、だい学校がっこうにおける成績せいせき陸軍りくぐんほどには重視じゅうしされていなかった。海軍かいぐん人事じんじにおいては海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょう席次せきじハンモックナンバー)が重視じゅうしされており、だい学校がっこう卒業そつぎょうせず、艦隊かんたい勤務きんむなど実施じっし部隊ぶたいおお経験けいけんしたたたげの士官しかん高位こういのぼりかんたしたれいすくなくない。反対はんたい陸軍りくぐんでは陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょう席次せきじ重視じゅうしされず、士官しかん学校がっこうでの成績せいせきわるくとも卒業そつぎょう本人ほんにん努力どりょくだい学校がっこうへの入校にゅうこう高位こういのぼりかんたすことが可能かのうであった。

うみだい卒業そつぎょうしないで大将たいしょうまで昇進しょうしんした人物じんぶつとして加藤かとう寛治かんじ井出いで謙治けんじ安保あぼきよししゅ野村のむら吉三郎きちさぶろう中将ちゅうじょう栗田くりた健男たけお木村きむら昌福まさとみ田中たなかよりゆきさん大西おおにしたき治郎じろう左近さこんまことなおただし醍醐だいご忠重ただしげ多田ただ武雄たけお西村にしむら祥治しょうじ松永まつながさだなどすくなからず存在そんざいし、しかも艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん軍令ぐんれい次長じちょう海軍かいぐん次官じかんとう要職ようしょくについている。少将しょうしょうクラスになると大田おおたみのる柴崎しばざきめぐみ城島じょうしま高次こうじ千田せんだ貞敏さだとしふじ存知ぞんち菊池きくちあささん野村のむら留吉とめきち平出ひらで英夫ひでおなど多数たすうのぼる(いずれも戦死せんし昇進しょうしんふくまず)。

イギリスとの関係かんけい

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日本にっぽん海軍かいぐん近代きんだい西洋せいようのためにイギリス援助えんじょあおぎ、イギリス海軍かいぐん軍事ぐんじ顧問こもん派遣はけんしてうみだいのカリキュラムの開発かいはつ支援しえんした。うみだい初期しょき軍事ぐんじ顧問こもんなかでもとく著名ちょめいなのが、1887ねんから1893ねんまで同校どうこう講義こうぎおこなったジョン・イングルスである。イングルスは西洋せいよう戦闘せんとうじゅつ紹介しょうかいしただけでなく、数学すうがく物理ぶつりがく蒸気じょうき軍艦ぐんかん運航うんこう必要ひつよう技術ぎじゅつなどの講義こうぎおこない、指揮しきかん重要じゅうようせい強調きょうちょうした[4]

だい世界せかい大戦たいせん末期まっき1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ以降いこう機能きのううしない、敗戦はいせん海軍かいぐんだい学校がっこう廃止はいしされ、建物たてもの国立こくりつ予防よぼう衛生えいせい研究所けんきゅうじょ使用しようした。建物たてもの研究所けんきゅうじょ移転いてんのこっていたが、1999ねん平成へいせい11ねんこわされた。

きゅう蔵書ぞうしょ

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海軍かいぐんだい学校がっこうきゅう蔵書ぞうしょのうちやく8000さつが、広島ひろしまけんくれ海上保安大学校かいじょうほあんだいがっこう図書館としょかんに「きゅう海軍かいぐんだい学校がっこう図書としょ」として保存ほぞんされている。

歴代れきだい校長こうちょう

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おも卒業生そつぎょうせい

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 海軍兵学校かいぐんへいがっこう築地つきじから江田島えたじま移転いてんした。
  2. ^ 実松さねまつゆずる海軍かいぐん大学だいがく教育きょういく 戦略せんりゃく戦術せんじゅつ道場どうじょう功罪こうざいだいしょう あゝ海軍かいぐんだい学校がっこう うみだいろくじゅうねんあゆみ p76~p77
  3. ^ 実松さねまつゆずる海軍かいぐん大学だいがく教育きょういく 戦略せんりゃく戦術せんじゅつ道場どうじょう功罪こうざいだいしょう あゝ海軍かいぐんだい学校がっこう うみだいろくじゅうねんあゆみ p87~p89
  4. ^ Evans, David C.; Peattie, Mark R. (1997). Kaigun: Strategy, Tactics, and Technology in the Imperial Japanese Navy, 1887-1941. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-192-7  p. 13

外部がいぶリンク

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